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 Back Numbers  8月号(先月)

味な話の素No.172 2017年09月号(5492-5525)  Since 2003/04/29
箸にも棒にも… 2017/09/30 Sat 5524 
 イギリスのメイ首相が解散して大敗を喫した。このとき私は衆議院の解散が遠のいたと思った。ところがここに来てあっという間に解散である。民進党の混乱で政権側が「今なら勝てる」と読んだからというのは素人にもわかる。この時期に選挙をすれば与党で衆議院の2/3以上の維持ができないことは目に見えている。その上、議員定数が減るから、自党の現職からけっこうな数が落選する可能性も高い。それでも解散なのは、とにかく「過半数」を確保して「政権を維持したい」からだろう。権力の魅力というか、力とはそのようなものである。
 ところで、民進党の前原代表が自党の候補者について「箸にも棒にも引っかからない者がいる」と発言していた。これを聴いて私は自分の耳を疑った。自分の仲間たちを「泡沫候補だ」と宣言しているのである。おそらく、客観的に見て当選にほど遠い人たちがいるのだろう。しかし、「同士」「部下」を公的な場で「箸にも棒にも…」とは、これはもう失言であるう。組織のトップとして前原氏の資質を疑ってしまう。
 ところで、「解散が首相の専権事項」だとは憲法のどこにも書かれていないらしいですね。
名言感動 2017/09/29 Fri 5523 
 仲代達矢84歳。「役や芝居を自分のものとするために一生懸命稽古をして、そのせりふをまるで今、発想したかのように言えるようになればとてもいいんだろうと思う」(熊本日日新聞9月27日夕刊)。「戦争を理解してもらう材料に」という気持ちで舞台公演「肝っ玉おっかあと子供たち」を練習中だという。
 人は流れる時間の中で「発想しながら」語る。演劇のせりふは台本に書かれており、それを役者が頭の中で記憶している。だから、その一言一句が「今、発想した」ものではない。それを観客に「今、大脳の中で生まれた」ように感じさせる。それがプロの演技ということなのだ。舞台が現実のものではないことは誰もが知っている。そうした場所で「リアリティ」を追求するということだろうか。
 映画やテレビでもリアリティのない話し方をする場面があるとうんざりする。まったく現実味がないだけでなく、まことに嘘くさい。今回は能登半島での公演だが、来年1月には熊本でも上演されるという。「時間がとれたらいってみるかなあ…」。プロの演劇などこれまで一度たりとも見たことのない私の独り言である。
組織の特性 2017/09/28 Thu 5522 
 一人ひとりの胆の中ではみんな反対に思っているのに、誰も正面切っては反対することはせずに、誰も賛成していないことが、嫌嫌ながら行われているとしたら、一体それは誰がそんな力をもって、人々に行わせているのであろうか。
 組織は人間がつくったものである。ところが組織は一旦でき上がると、人間ではどうにもならぬ力を持つようになる。組織は組織を生み、組織の力は組織の力を生んでいき、まるで生きもののように、人間をこえて動きはじめるのである。組織のために組織ができ、組織というものは異常な細胞分裂物質のようにふくれ上がろうとする。そして結局は組織は自ら破滅に陥ることになるものだ。
 組織の方はそれで自業自得だからそれで良いというものだが、組織に生活をかけている人間はたまったものではない。企業の場合は、倒産という危険や業績という目度があって、組織の独走をある程度牽制することができるが、官庁の場合は、倒産という心配もなければ、競争という厳しい業績の追求はない。そこでいよいよ組織が人の心をはなれて独走し、自己発展してふくれ上がっていく傾向がある。
 こういうところでは、組織の寄生虫のようなものがはびこり、組織はまるで寄生虫を養うためにけなげにも発展を続けているようなことになる。寄生虫にとってはまことに居ごこちのよいところである。こういう組織を再び人間のための組織にとりもどすためにはどうしたら良いのであろうか。

 これは父が1969年6月26日に書いた日記である。このとき52歳。
世界の高齢化 2017/09/27 Wed 5521 
 韓国では65歳以上の人口が15歳未満を上回ったという。わが国も2013年に65歳以上の高齢者が全人口の25%に達し、昨年は27.3%まで増えた。これまでは人口の少ない町村部では高齢者が目立っていた。しかし、このごろは都市部の街中でも、若い人が少ないように感じる。韓国は今年の出生数が40万人を割り込む見込みだという。わが国でも昨年度はついに100万人の大台を切ってしまったばかりである。彼の国の人口は5145万人で、わが国のほぼ1/2だから、まだ高齢者の割合は日本よりも低い。中国も「一人っ子政策」を止めたようだが、その影響はこれから大きく出てくるだろう。
 いずれにしても、多くの国で少子化と高齢化が進むことは確実で、これに伴って様々な問題が生じることになる。人類が挑戦すべき新たな危機として「高齢化」が前面に出てくることは疑いない。
 ところで、世の中には元気な高齢者も増えてきた。そんなとき、「90歳になっても元気ですね」などという。しかし、それは現象の捉え方を間違っているのではないか。「90歳なのに元気」ではなく、「元気だから90歳まで生きている」ということだろう。
 
何でも食べる 2017/09/26 Tue 5520 
 私たちの体は様々な栄養素を求めている。そして、今やネットで必要な栄養素の取り方について情報があふれている。ワイドショーでも毎日のように健康に繋がる食品が紹介される。それでも完璧な栄養は補給できないということで、サプリメントのネット販売もにぎやかなことである。私自身は、これまでサプリメントと名づけられるものは口にしたことがない。それでもおかげでしっかり健康である。とにかく好き嫌いはないから、出されたものは「すべて」食べる。
 青森に行ったときは「天然ほや」が丸ごと出された。私にとっては初体験だった。それは見かけからしてすごい顔(?)をしていた。地元の方からは「大丈夫ですか」と聴かれた。もちろん私はちゃんと口に入れた。人間の味覚は文章で表現できないことが多い。このときの「天然ほや」も正確には伝えられないが、いずれにしてもおもしろい味として楽しんだ。
 ところで、私の昼食は結婚してからずっと家内がつくる弁当である。これが出張となれば外食するのだが、どこに行っても「塩分」がすごい。とにかく「塩っ辛い」のである。食事の世界でも「刺激的」な味が求められているようだ。
 
決まりを守らない心情 2017/09/25 Mon 5519 continued from 9/18
 世の中で起きる事故や不祥事の原因が「基本=きまりを守らない」ことにあると断定したくなります。しかし、本当に「悪魔」がいて、規則を守っていても「完全に想定できなかった」ものなどほとんどないと思います。そもそも規則を守るのは常識であり、それを守るのは当然とされているわけです。それにも拘わらず、それが「建前」だけになっている実態はいくらでもあります。
 私はわずかな距離ですが車で通勤しています。その間、対向車と行き交うことになりますが、携帯電話をしながら運転している人を「見ない日」はありません。信号にしても、黄色の信号までならいざ知らず、明らかに赤になった後でも、「数台」の車が進入します。これも毎日のことです。これだけ「決まりを守らない日常」を送っていれば、「バレなきゃいいもん」という心情が普通になっていくでしょう。しかも「バレた」ときは「運が悪かった」のであり、「決まりを守らなかった自分が悪かった」などといった発想はしなくなります。
 そんなことで、「決まりを守る」ことによるコストよりも、その場しのぎで乗り切る方が仕事をスムーズに進めることができると考えてしまいがちになるのです。
 
高さんからの手紙(27) 2017/09/24 Sun 5518 continued from 9/17
 アメリカは占領した日本人の教育啓発のために16㎜映写機を持ち込んで、「アメリカ文化」のすばらしさを見せつける映画を全国各地で映して回った。当初、映写機は貸与されていたが最終的には日本が譲り受けた。それはきわめて高価な代物だった。
 その点、スライドのメカニズムは静止画のフィルムを拡大して投影する単純なものだった。そうしたことから、学校や団体などで使われていた。私も小学生のころ「おもちゃの幻灯機」を買ってもらった。光源は60ワットの白熱球で薄い鉄製の本体は触れるとやけどをするほど熱くなった。その幻灯機で投映するセルロイド製のロールフィルムもあった。また、透過性の高いセロハン用紙をフィルム状にカットして「自作物語」も創った。当時は雨戸なるものがあり、これを閉めると昼間でも真っ暗になった。そして壁にシーツなどの白い布きれを押しピンで留めてスクリーンにした。また、白い紙の周囲を黒く塗って映画館のスクリーンを模倣したこともある。
 こうした遊びの中で、レンズを動かしてピントを合わることや光源からの距離とスクリーンに映る明るさの逆比例関係などを体感していたのである。
 
「雑感」の末尾 2017/09/23 Sat 5517 continued from yesterday
 青年期の「雑感」はドンドン深みにはまっていく。文章に飛躍があり、言いたいことがさらにわからなくなる。おそらく、「人は一生を通じて考え続けるべし」が結論だったのだろう。しかし、ここまで「引用してしまった」からには文末まで目を通すしかない。本欄にアクセスしてくださった皆さまにはご迷惑な話だが最後まで掲載させていただきます。

 「何の為に生きるのか」と悩み苦しんでいる人には、その解答への道は遠いように思える。いや、これでは誤解を招くおそれがあるから言ゝ換えよう。「人間は何の為に生きるのか」が理解できた人は「人間は何の為に生きるのか」を考えていないのである。それは、あたかも健康な人は自分が健康であることに気付かないように。怠惰な人間は言うかもしれない。「俺は今『自分は何の為に生きるのか』と言ったことを考えていない。だから、俺は『人間は何の為に生きるのか』を知っているというのか」と。怠惰な人間に「自分は何の為に生きるのか」という問題への解答が出来るはずもない。怠惰な人間こそ最も深くこの問題を考え、悩んでいるのではないか。そして。その疑問から逃れようとして、ますます深く落ち込んでしまっているのではないか。井戸は深い。しかし、その深い井戸にも太陽が顔を出すことがある。我々は太陽へ向かって努力しなければならない。その努力こそ、人生の真の意義を求める過程であり、それ自体目的である。明るさへ近づけ。太陽へ近づけ。あまりに明るすぎて、自分の影がわからぬ程近づけ。但し、やけどをせぬほどに。

 最後まで「突っ張り」と「背伸び」にあふれる青年の「雑感」である。
 
「突っ張り」と「背伸び」 2017/09/22 Fri 5516 continued from yesterday
 人は「人間は何の為に生きるのか」を一度は考えるのではないか。私もそれを「雑感」というタイトルで書いたわけだ。大上段に振りかざしたスタートには、そのころ読んでいた「哲学」に関連した書籍の影響が透けて見える。精一杯に突っ張り、背伸びしている。「条件」を「條件」と表記し、「よる」を「由る」としているなど、ほとんど「ものマネ」である。さて、これがどう続くか。

 しかし私はこれらの名言・名句を発した哲人・偉人が、果たしてその名言・名句に現れているような断片的なものとしてしか「人間は何の為に生きるのか」の解答を思い付くことができなかったかのかという疑問を持つのである。それができなかったには、余りに彼等は偉大過ぎる。しかしまたそれを完全にやってのけるには、余りにも彼等は人間的であった。彼等は「人間は何の為に生きるのか」という問題に完全な解決を与えたに違いないのだ。しかも、彼等はそれに気が付くことなく、その生涯を終えたのであろう。

 うーん、言いたいことがわかるようなわからないような文が並んでいる。私は当時もこの問題に「完全な解決」なんてあり得ないと考えていたのだが…。
 
ある青年の「雑感」 2017/09/21 Thu 5515 continued from yesterday
 茶インクの原稿用紙に書いた「雑感」は青年らしく「突っ張っている」という勢いはある。ただし、途中から「何を言いたのか」がわからなくなる。そんなレベルではあるが、20歳ころに自分が書いたことだけはたしかである。皆さまにはどうでもいい内容だが、私としては本コラムに挙げておこうと考えた。冒頭の一節である。

 「人間は何の為に生きるのか」という疑問は若者であれば必ずや抱くはずである。そしてこれは現代のみならず、人間が人間として考える能力を持って以来の、つまり人類の歴史に常に付随してきた疑問である。しかしどんな哲人もこの問題を考えたはずなのに、これに対する決定的な解答を我々に与えてくれてはいないように思える。その理由は、この疑問に対する解答が必ずしも決定的なものである必要がないうえに、決定的なものを要求することが不可能なことに由るのであろう。そして我々がその條件を心に含んだ後には、我々は断片的な、満足すべき充分な解答は無数とも言えるほどえられているのを知るだろう。「人生の喜びについて」「生涯について」「我々は何をなすべきか」「希望について」等々がそれである。
「身辺整理」と「原稿用紙」 2017/09/20 Wed 5514 continued from yesterday
 この5年ほどは、「古稀」を間近に控えた「前期高齢者」として、「身辺整理」を続けている。私個人のアルバムは相当程度廃棄した。これはとっておきたいと思う写真はピックアップしてデジタル化している。そもそもアルバムは見返す時間もないのに溜まる一方である。仮に見直したとしても「0.5秒ほどの感動」はあるが、その後は数年のお蔵入りとなる。この年になると「数年」が「永遠」に変わる可能性が大である。この現象は「デジタル化」しても変わらず起きる。しかもアルバムは大きさを統一していないものが多く部屋の中で巨大な空間を要求する。
 そんな中で懐かしい色をした400字詰めの原稿用紙が見付かった。「雑感」と題したものだが、下段に「コクヨ A4 20✕20」の印字がある、茶色の罫線が入った原稿用紙である。それは原稿用紙4枚のホッチキス止めで、1枚目は「雑感」とタイトルが記されている。原稿には日付がないが、大学の1年か2年次に書いたと推測される。本文は2枚目からはじまり、その冒頭は「人間は何の為に生きるのか」である。若者らしく、かなり突っ張った感じが伝わってくる。
 
団塊世代の「古稀」 2017/09/19 Tue 5513 
 私は「団塊の世代」のど真ん中にいる。そもそもこの呼び方は元通産官僚で作家・経済評論家として活動した堺屋太一氏が書いた同名の小説にある。その出版は1976年(昭和51年)だが、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)の3年間に生まれた「人口の塊」を指す。
 その数は、1947年で267万8792人、1948年が268万1624人、そして1949年には269万6638人である。これを合わせると806万人に達する。因みに昨2016年の出生数は98万1000人で、ついに100万の大台を切った(厚生労働省「人口動態統計の年間推計)。
 それから70年ほどの時間が経過した。私は1948年生まれで、来年はついに70代に突入することになる。いわゆる数え年的には今年が「古稀」にあたる。中国は唐時代の詩人杜甫の詞にある「古来稀なり」が由来であるから、昔は70歳まで生きるのは「稀なこと」だったのである。
 そう言えば、私はすでに子どもたちから「還暦」のお祝いをしてもらった。こちらは干支(十干十二支)が一回りして生まれた年の干支に還ることから名付けられた。私は「戊子(つちのえね)」である。そんな私だから定年前から「身辺整理」を続けている。
決められたことを確実に 2017/09/18 Mon 5512 continued from 9/11
 「倫理的な行動」として「工事開始以降の事故調査、環境監視など決められたことを確実に実施する」というものがありました。これは大規模工事を進める組織のメンバーから出されたものです。この回答者の職場では、工事開始後に事故が起きることが想定され、また環境とも関わりが深い仕事が行われているようです。
 ともあれそれが大きなプロジェクトであればあるほど、工事がスタートした後になってから様々な問題が発生する可能性が高いと思われます。また想定していなかった事態も起きるでしょう。とにかく大規模なのですから、そうしたことはある意味で当然なのです。ここで蒸気機関車を例に挙げると機関車に申し訳ないですが、自重があるものほど動き出しすと簡単には止まりません。そのためには大変なエネルギーを必要とします。しかし、そのことが問題の存在を知りながら何の手も打たずに放置する理由にはなりません。たとえ適切な対応に時間と経費がかかるとしても、「決められたこと」はあくまで厳守しなければなりません。組織で発生する「問題」の多くが「決められたこと」を守らないために起きているのです。
 そもそも日常の仕事の中で問題が起きないようにしておくことが期待されるのですが、人間のすることですからなかなか思い通りにいきません。
高さんからの手紙(26) 2017/09/17 Sun 5511 continued from 9/10
 九州生産性本部の「リッカートセミナー」は成功裏に終わった。これについて高さんの手紙にはきわめて興味深い情報が含まれている。

 このセミナーは色々と思い出があります。まずリッカート先生から講演に使用するということでスライドが送ってきたのですが、これが10センチ四方位のガラス製で映写するプロジェクターがなかったのです。ようやく福岡アメリカンセンターにあるということが分かり伊藤さんが協力して下さいました。

 スライド映写機はこの当時の視聴覚機器として使われはじめたころではないか。ただし、原板が10㎝四方というと飛び抜けてでかい。しかもガラス製ということである。そうなると、いわゆるスライドプロジェクターの原型となる「幻灯機」なるものだったのではないか。光を原板に透過させてレンズで拡大しスクリーンに映すものである。それが35㎜のフィルムに変わってから「スライドプロジェクター」として大いに普及した。その後、明るい場所でも使えるOHPが生まれた。その原板はA4ほどもあったからスクリーン近くで投影が可能で使い勝手がよかった。私はOHPを長いこと使い続けていたが、パワーポイントが登場してからお役御免となった。
theorist と thinker 2017/09/16 Sat 5510 
 theorist:theoretician (芸術・科学などの)理論家。thinker 思想[思索]家。いずれも「ジーニアス英和」によるものである。この二つを見ると、科学には〝theorist〟が、そして哲学には〝thinker〟が似合うような気がする。
 それでは「心理学」はどうなのだろうか。心理学は「人間についての『科学』だから〝theorist〟ではないか」と考える人が少なくないだろう。これに対して私はといえば〝thinker〟の方が当たっていると思う。
 そもそも「心理学」は「哲学」から生まれた。そのうち自然現象を対象にした「科学」がめざましい発展を遂げたわけだ。そこで「心理学」も「科学」を目指すに至った。こうした流れの中で、ドイツの哲学者ヴントが「心理学実験室」を開設したのである。それは1879年だが、まさに自然科学と同じように「実験」が導入され、心理学が「科学」となったわけだ。
 これに対して、私はずっと以前から「心理学は『哲学』を母とし、『科学』を父と勘違いした」と言ってきた。その理由については本コラムでも折に触れて書いてきた。そんなことで、私から見れば「心理学」の専門家は〝thinker〟の方が似合っている。
「わからない」「無答」の多さ 2017/09/15 Fri 5509 continued from yesterday
 NPOの調査で、「環境や状況によっては非民主的な形態が存在しても構わない」「どんな政治形態でも構わない」と回答した日本人が2割強になったという。また記事に付いている帯グラフでは細かい数値は不明だが、「わからない」と「無答」が35%を超えているように見える。
 この部分がきわめて興味深い。まず最も少ないのはインドネシアで10%を切っている。それに次いで韓国もやはり10%以下のようだ。マレーシアとインドも20%に達していないことは明らかである。つまり日本では「わからない」と「無答」が「圧倒的に(?)」多いのである。昔から日本人は自分の意見や意思をはっきり表明しないなどと言われてきた。それが集団の中で生きる「智恵(?)」であり、全体の流れを見ながら行動する傾向を生み出しているのだろうか。
 選挙の時期になると「支持政党なし」や「まだ決めていない」が多いことが報道される。こうした点は海外との比較も面白そうだ。ともあれ、今回の記事も質問内容や結果を詳細にチェックする余裕はないが、調査方法や回答者の年齢、性別を考慮すれば、異なる印象の「データ」になるかもしれない。
 
民主主義への疑問? 2017/09/14 Thu 5508 continued from yesterday
 「言論NPO」の調査によれば、「民主主は望ましい政治形態か」との質問に、日本では「望ましい」が40%台だが、「環境や状況によっては非民主的な形態が存在しても構わない」「どんな政治形態でも構わない」との回答が2割強になった(熊本日日新聞9月6日夕刊)。
 その一方で、「わからない」と「無答」が、掲載された帯グラフから推測すると35%を超えているようだ。調査は日本、ィンドネシア、インド、マレーシア、韓国の5力国で実施された。その結果、インドでは「構わない」が44.9%だった。また政党や議会、メディアへの信頼度は低くなる傾向がみられたという。政治やマスメディアの現状が「民主的形態」に対する評価に影響を与えている可能性は否定できない。
 さらに「民主主義体制を支える機関」に対する信頼度が最も高かったのは「自衛隊」の74.5%だったという。インドの場合は「軍」に対する回答が71.4%に達したという。この質問では「自衛隊」のほかにリストアップされていた項目はわからない。
 ここで見出しだけを見て、日本でも「非民主的体制」を求める意見が「19%もある」と受け止めるか、「まだそんなものか」と考えるか、それこそ「どのくらいの割合になる」のだろうか。
お昼の夕刊(じつはフライング):データの読み方 2017/09/13 Wed(2) 5507 
 われわれの眼に触れるデータは洪水のようにあふれている。それを読み解く際には注意が必要だ。そもそも調査は、「回答者の選び方」や「問い方」は当然として、多くの情報が明らかにならなければ「本当のこと」はわからない。その中でも「無答」の数はきわめて重要である。しかし、研究論文を除けばこれが明らかにされることはほとんどない。
 たとえば、「賛成が80%を超えた」と見出しが躍っても、無答者が500人いたらどうだろう。それは「どちらとも言えない」でカバーでいるというかもしれない。しかし、「どちらとも言えない」は、建前としては「質問の意味を理解し、それについて考えた上」で「どちらと言えない」と「判断」しているのである。しかし、「無答」にはそうした「判断」をしていないものが含まれる。また、「質問の意味がわからない」という「判断」以前の状態にあるものもいる可能性がある。さらに、「そんな質問には答えたくない」と意識的に「無答」を選ぶケースもあるにちがいない。そうした「無答者」が半数にもなるようなケースで、「賛成が80%」などと言われても、その妥当性は何とも危ういのである。


 ※ ずいぶん前に本コラムの「楽屋話」で触れたことがありますが、いつも「1日分のストック」を作っています。それをうっかりアップしていました。先ほどご愛読者からご指摘がございました。ありがたいことです。とりあえず「お昼の夕刊」として取り繕うことにしました。いまから「明日の分」を準備します。 
父のおすすめ 2017/09/13 Wed 5506 
 昨日はヒデの誕生日であった。これで四十三歳になった。私より九つ若い。嫁さんは若い方がよい。九つ違う嫁さんは、自分にくらべるとたしかに若い。嫁さんが若いということは強味でも在り魅力でもある。俺は年とってじじいなっても家内はまだ若いのだと思うと何となく心づよいものがある。九つ下の嫁をもらうことは私の理想であったが、結婚して二十五年たった今もこれはよかったと思う。道雄もできることなら九つ下の嫁さんをもらうことをすすめたい。(1969年6月26日)。

 母が亡くなる4年前の日記である。幸福感にあふれている。それにしても、私にも9歳違いの相手がいいと思っていたとは初耳である。私は「父のおすすめ」とは違って、いわゆる「幼なじみ」を配偶者とした。私が小学1年生のときわが家族は公営の住宅に住んでいたが、それは家内の自宅の裏にあった。したがって家内は父の記憶に残っている子どもであった。そして、47歳で亡くなってしまった私の母が誰よりもよく知っていた。「母を知っている人がいい」。そんな想いが私の気持ちを動かした。一緒になってから40年を越えたが、幸い、いい人生を送っている。
 
dodoとアホウドリ 2017/09/12 Tue 5505 
 dodo(ドードー)という名の鳥がいた。マダガスカル沖のモーリシャス島に生息していたが、1681年の目撃を最後に絶滅したとされる。空を飛べずによたよたと歩き警戒心が薄く、人間が持ち込んだ犬やブタにも食われた。その名前は大航海時代にこの鳥を発見したポルトガル人が「のろま」という意味で付けた。
 天然記念物のアホウドリも人間の乱獲で絶滅の危機にさらされた。その羽毛が商品になったのである。アホウドリは人間が近づいても動きが緩慢ですぐに捕まえることができた。そんなところから「アホウ」という名前が付けられたという。
 人間の生きものに対する傲慢さは今も昔も、そして洋の東西を問わない。そもそも自分たちを「進化」した結果だと考えていること自身、自惚れも甚だしいというべきである。人類が様々な環境に「適応」してきたことはたしかなのだろう。それなら、「適化」を使えばいい。これだと許容限度内にあるとは言える。自分たちの目から見て弱いと思ったものに侮辱的な呼び名を付けて喜んでいるのでは、「適化」と表現することの「適切性」すら疑われる。そうした発想が人の間の「差別」も生み出してきたのである。
 
都合の悪いことを言わせない「力」 2017/09/11 Mon 5504 continued from 9/06
 集団において「自分たちに都合の悪いことを言わない」現象は「パワー」も関わりをもっています。それは直訳的に言えば「力」や「勢力」の問題です。また、組織内の「地位」とも関係があります。つまりは、「上の方が『言わない』と判断する」、さらに「『言わない』よう指示する」状況です。
 こうしたとき、「指示された側」はどうすべきでしょうか。「自分たちに都合が悪いことを言わない」という選択は「社会正義」の観点から明らかに誤っています。したがって、「言わないように」との指示に対してそれが誤っていることを指摘することは正しいのです。しかし、そうした行動は組織の利益を損なうものと評価される可能性があります。しかし、冷静に長期的に見れば、それが組織の存続を危うくすると判断すべきなのです。
 ところが、人間は目の前にある危機を何とかしたい気持ちが勝って、「誤った対応」が「組織の利益」に繋がると考えてしまいがちです。こんな状況で、「指示される弱い立場」の者がその圧力に抗うことはきわめて困難です。
 
夕刊(15:40):永山則夫 2017/09/10(2) Sun 5503
 永山則夫(1949-1997) 1968年から69年にかけてピストルで4人の命を奪った。東京、京都、函館、名古屋と広域に亘った。彼は警察が予想した犯人像とはまったく異なっていたが、半ば自首に近い形で捕まった。裁判は最高裁までいったが、最終的に死刑が確定し48歳のときに執行された。この際に最高裁が出した死刑判断の根拠が長い間「死刑」を決定する際の基準とされていた。
 堀川惠子「永山則夫」(講談社文庫)は486頁のものだが、私はそれを一気に読んだ。永山の精神鑑定をした医師が保管していた100時間を越える面接時の録音テープをフォローしたものである。これを元に、彼の出生から事件を起こすまでの状況が詳細に分析されている。お時間があればご一読をお勧めしたい。
  
高さんからの手紙(25) 2017/09/10 Sun 5502 continued from 9/03
 リッカート教授の来日を実現したのは三隅先生の働きかけだった。私が身の回りにあった資料を確認したところ、このセミナーが開催されたのは1966年である。三隅先生は42歳ということになる。三隅先生はその前にアメリカに出かけていて、ミシガン大学のリッカート教授とも会っていたと思われる。また、帰国後にリッカート教授が書いた「経営の行動科学」を翻訳したこともあり、その関係は良好だったはずである。
 それにしても民間人の海外旅行が解禁されて間もない時代で、海外から人を招待することも常識的な環境にはなかった。それにも拘わらず、「屋台での話題」そのままに、リッカート教授と連絡を取ったところは、いかにも三隅先生らしいと思う。もっとも、誘われたリッカート教授にしても、日本に招待してくれるのであれば、「日程が許せば行ってみたい」という気持ちになっただろう。自分の研究を話すだけで日本の観光もできるのだから「おいしい提案」だったはずだ。
 このとき、東京の生産性本部は驚いただろう。これが関係者たちに「大物三隅」を印象づけたに違いない。
 
雷のメカニズム 2017/09/09 Sat 5501 
 熊本空港の上空に雷雲が発生したことがあった。そのときは飛行機が着陸するのを控えて上空で待機したようだった。その結果、折り返し便に遅れが出るのだが、これはやむを得ない。人間は自然の力には逆らわない方がいい。それにしても地球の環境変動は人間の予想をはるかに超えているのではないか。最近では「これまで体験したことがない」という冠が付いた警報が乱発される。
 雷が発生するメカニズムはよく知らないが、地上が暑くなるなどして上昇気流が生じる。その勢いが激しいと上空で空気が猛烈な勢いで摩擦を繰り返す。そこで静電気が発生し、限度を超えると地上に向かって放電する。これが素人レベルの雷理解である。
 人間の組織でも、あまりにも急激な変動は摩擦を産み出す。それが成長のエネルギーになればめでたしめでたしである。しかし、負の力となって放電された日には、真面目に働いている一般の者はたまったものではない。組織のトップ層で上昇気流による摩擦が起きれば、落雷どころか組織の崩壊にも繋がる。それが多くの働く人々を路頭に迷わすことになる。組織のトップはこうした責任を自覚することが求められている。
 
子どもが得をする教育 2017/09/08 Fri 5500 
 この4月から熊本大学に教職大学院が開設されました。教員は教育に関する専門的研究を進めてきた「研究者教員」8名と教育の場で優れた実践をしてきた「実務家教員」7名の15名から構成されています。私はシニア教授として教員のメンバーに加えていただきました。
 学生定員は15名ですが、初年度は13名を迎え入れました。学生の構成にも特徴があります。熊本県と政令指定都市である熊本市から現職の教員がそれぞれ3名派遣されています。これに、学部から修士(マスター)課程に入学した、「ストレートマスター」の7名の13名になります。授業はこうした異なる背景をもった教員と学生の相互作用によって刺激的なものになっています。
 そんな中で、ある現職教員が「子どもが得する」という視点から教育実践を考えているという意見が出されました。その発言に、私は「それはいい、HPに書こう」と反応しました。これに対して「それって私の著作権ですよね」と言われて教室に笑いが起きました。その前の授業で、私が作成したトレーニングの道具を「無断で使うプロがいて困ったものだ。著作権の侵害だ」という話をしていたからです。ともあれ、「子どもが得する」との視点は教師にとって大事なポイントですね。
 
鳥栖のシュウマイ 2017/09/07 Thu 5499 
 わが夫婦の新婚旅行は長崎だった。そのとき私は大学院博士課程の学生だった。家内は行橋で銀行に勤めていたが、退職して福岡にやってきた。当時、私の収入は奨学金と集団力学研究所で非常勤の仕事をして得た報酬だけだった。そのため、しばらくは家内の失業手当が強力なバックアップになった。そのうち家内は、自宅近くにあった銀行の支店から誘われてパートで働くことになった。その収入を加えて何とか生活を維持することができた。そんな経済事情だったから、新婚旅行は近場の長崎にしたのである。
 結婚式の後、博多駅に友人たちが見送りに来てくれた。このごろは駅のホームで一団が新婚さんに「万歳」を叫ぶ光景はあまり見ないが、当時はそれが定番だった。こうして祝福された特急電車は博多駅を発車した。とりあえず初めての「グリーン車」である。そして、もうすぐ鳥栖というところで私は家内に「シュウマイいらない?」と聴いた。その答えは「いらない」だった。新婚旅行がはじまったばかりである。いくら「鳥栖のシュウマイ」がうまいと言っても、別の機会に提案すべきでだった。この話題、いまでも夫婦の会話に出てくる。
 
「理屈」と「膏薬」は… 2017/09/06 Wed 5498 continued from 8/28
 この世に存在するものには「光と陰」があります。動物をはじめ、おそらくは植物や微生物にも「自己防衛」の反応があるはずです。それは生きていくために欠かせない「能力」なのです。そして、それが「嘘」と言う形をとることもあり得ます。前回は動物の「擬態」をその代表的な例として挙げましたが、もちろんこれは「嘘」ではありません。
 さて、そうなると「いい嘘」と「悪い嘘」といった主張をする人が出てくるかもしれません。いわゆる「嘘も方便」というわけです。私たちの人間関係を考えると、「嘘」がそうした側面を持っていることを完全に否定することはできません。そうは言っても、組織の健全な存続と成長を考える際に、そんな発想は受け入れられません。そこには、「嘘」が「どこまで許されるのか」という「基準」がきわめて曖昧になるという大問題があるのです。
 そもそも内輪の「基準」は「自分たちの都合のいいもの」になることは容易に推測できます。私たちは、とにかく理屈をつけるのが超得意な動物なのです。あるとき「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」という人がいて、「面白いことを言うなあ」と爆笑しました。
朝出し夕刊(7:12am):正念場 2017/09/05(2) Tue 5497 
 民進党の前原新代表が党の役員人事を進めている。報道されている候補者の名前を見ると「新鮮だ」と言いにくい。ここが民進党の苦しいところで、まさに正念場にある。
 マスコミ情報では、今回の代表選で国会議員の8票が無効票で棄権もあったという。離党候補者ではないかとの憶測がある。また、党員・サポーターの投票率39.86%も厳しい。前回の衆議院選挙では投票率が52.66%だったが、これは史上最低記録である。参議院議員選挙の最低は1995年の44.52%だから、党員とサポーターの投票率の低さが際立っている。
 
今月の写真:阿蘇のすすき 2017/09/05 Tue 5496 continued from yesterday
 さて、写真の2枚目は「阿蘇のススキ」です。これも秋の阿蘇の欠かせない景色です。夕日を受けたススキが風に靡く草原を車で駆け抜けるとき、自然と鳥肌が立つのを覚えます。言葉では表現できない情緒的な感情が生まれ、ときには目頭が熱くなるのです。たしかに「ススキ」は朝日を受けて銀色に輝くこともあるのですが、私には「夕暮れ」の方がしっくりきます。
 そして、前期高齢者としては、かの有名な「船頭小唄」を口ずさんでしまうです。「おれは河原の枯すすき 同じお前も枯れすすき どうせふたりはこの世では 花の咲かない枯れすすき…」。何とも暗い歌詞なのですが、これは1921年に野口雨情が「枯れすすき」として作詞したものです。それに曲を付けたのが中山晋平です。二人とも、私たちが小学生の音楽で登場したことを覚えています。
 その翌年に「新作小唄」という詩集に入れられたのですが、そのとき「船頭小唄」と改題されたといいます。現在は森繁久弥の「枯れすすき」が知られていますが、これは1957年の映画「雨情物語」の主題歌として歌われたものです。じつに「厭世的」なのですが、私はこの手の詩も嫌いではありません。
 
昼出し夕刊(12:30pm):ABCD包囲網 2017/09/04(2) Mon 5495 
 彼の国に対する「石油の禁輸」が話題になっている。これを聴いて「ABCD包囲網」をい出す人は多いだろう。アメリカ合衆国(America)、英国(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)が軍事的に膨張する日本に対して行った経済制裁である。その最終段階で「石油の禁輸」に至る。これが1916年の真珠湾攻撃に繋がったとの見方がある。それが、わが国の存亡に関わる重大かつ深刻な問題とされ、生存をかけた「正義の戦争」として正当化されたのではないか。あれから70数年後、またぞろ「石油禁輸」が亡霊のようにわれわれの目の前に現れた。
今月の写真:阿蘇の雲 2017/09/04 Mon 5495 
 やはり地球は太陽の周りを回っているのですね。朝晩の風は秋を思わせるようになりました。あまりにも急激な変化のために心も体も対応にお困りの方がいらっしゃるのではないでしょうか。
 さて、そんな中で今月は9月の阿蘇がテーマです。まずは素晴らしい早朝の雲です。私は自宅でも出先でも、さらに飛行機からも「雲」を見ることが大好きです。雲の表情は時々刻々と変わります。もちろん季節によっても様々な顔を見せます。力強く迫力あふれる雲もありますが、優しく流れるような姿にも心が和みます。また朝日や夕日で色づけされた雲の美しさに感動します。
 私は1996年4月から9月まで、オーストラリアのパースで過ごしました。もう20年以上も前のことになります。この半年間、私の人生でもっともゆとりのある時間を楽しむことができました。休みの日には市街地に近い湖に面した公園の芝生に寝っ転がって真っ青な空を眺めます。そこに浮かんでいる白い雲がほんの少しの間にその姿を変えていきます。それがゆったりと動いていくのを見ても心がやすらぐのです。このときから、私には「雲ウォッチング」が「趣味」に加わったのでした。
 
高さんからの手紙(24) 2017/09/03 Sun 5494 continued from 8/27
 屋台での話から始まったリッカート教授を呼ぶという、当時としては驚きのセミナーは旅費等の資金についてもサポートが得られることになった。そのスポンサーであるアジア生産性機構の主催で、リッカート教授の講演会は東京の日本生産性本部でも1回行われたという。さて、高さんの手紙は次のように続く。

 実際のセミナーは昭和41年(1966年)の九州生産性本部10周年記念行事として「経営に於ける組織と人間の革新」というテーマで開催されました。当時東中洲にあった日活ホテルでオープニングセミナーが行われ、その後5日間富士ビルの生産性本部のセミナー室で開催、最終日には九電の電気ホールで一般公開の特別講演が行われたと思います。全国の企業から参加者があり電気ホールは満席でした。

 そして、括弧書きで(結局リッカートセミナ一は儲かったのです)と追記されている。つまりは「大成功」となったわけだ。この当時、九州福岡の地でアメリカの著名な人物を招いてセミナーを開催することだけでも画期的だったに違いない。それが三隅先生を交えた天神の屋台での話から生まれたというのも、まことにいい話である。
 
私人と公人 2017/09/02 Sat 5493
 このごろはニュースの賞味期限も短くなった。世の中には情報があふれ、そのすべてを記憶することができない以上、致し方ないところもある。そう言えば、首相夫人は「私人か公人か」という議論もあった。公人だとの批判に、攻められる側は法的な規定がないという理由でそれを否定していた。これは「形式」を優先する立場である。ただ、夫人が外出するときは護衛が付いていくというから、かなり特別である。大企業のトップでも護衛がいるケースは多くないだろう。
 我々の生活の中では「形式的」よりも「実質的」な影響力の方がものを言うことが多い。私が海外の学会に出張するときは、できるだけ家内も一緒にいくことにしていた。その際は家内に関わる費用のすべてが私費だったことは言うまでもない。一方、首相が海外に出かける場合に夫人の経費がポケットマネーで支払われているとは思えない。そもそもファーストレディとしての大事な公的仕事がある。それが訪問先の国民に好印象を与えるなど重要な役割を果たすのである。こうした議論をきっかけに、首相夫人も「公人」と規定してそれに値する対応をしてはどうか。
 
コミュニティ・スクール 2017/09/01 Fri 5492
 文部科学省によれば、全国のコミュニティ・スクールが3600校になったということです。これで政府の教育振興基本計画の「2017年度までに全国の小学校の1割にコミュニティ・スクールを約3000校にを拡大する」という目標が達成されたことになります。
 そもそも「コミュニティ・スクール」は「学校運営協議会制度」と呼ばれるもので、文部科学省のホームページには「学校と保護者や地域の皆さんがともに知恵を出し合い、学校運営に意見を反映させることで、一緒に協働しながら子供たちの豊かな成長を支え『地域とともにある学校づくり』を進める法律(地教行法第47条の6)に基づいた仕組みです」と紹介されています。
 こうしたなかで、熊本県では「熊本版コミュニティ・スクール」という独自の方式も含めて地域社会との連携を重視した学校づくりを展開しています。この「熊本版」とは、「『コミュニティ・スクール』に指定されていない学校が主体的に、保護者と地域の方々が参加する協議会(名称は各学校で工夫を!)を設置し、各学校の教育課題等を共有し、その解決や改善に向けて、共に話し合い、協力し、一体となって組織的かつ継続的に教育に当たる仕組(熊本県教育委員会)」というものです。