不出馬宣言 2016/07/31 Sun 5050
民進党の岡田代表が9月の党代表選挙に出ないと表明した。参議院選挙で野党が連合し一定の成果があったからだという。また、前回の「どん底状態」から脱却するきっかけができたからだともいう。たしかに一人区の場合、「前回」の「圧倒的敗北」と比べれば、「数字」としては「一定の成果」はあった。それほど前回はひどかったということでもある。しかし、全体としては改選数45に対して当選が32だった。これに対して「公明党」「共産党」「大阪維新の会」は議席数を伸ばした。また、最大の目標としていた「改憲勢力の2/3を阻止する」目標は達成できなかった。
これらを考えると、「前回よりも良くなった」などとは言っておれない感じがする。そして、今日投票が行われる都知事選でも、他の野党と一緒に支持している候補者は厳しい状況にあるようだ。そうなると、結果が出た後では、責任をさらに厳しく追及される。これはきついから、その前の日に「不出馬宣言」をしていた方が良さそうだ…。
まあ、こんなことを言えば、「ゲスの勘繰りだ」と一蹴されるでしょう。まことに個人的な印象で申し訳ないのですが、岡田さんはテレビでは「暗い」感じがするんです。もちろん、「軽薄な笑い」は不要です。それに真剣に政策を議論するときに笑ってはいけません。しかし、日常的には「明るく元気な笑顔」がほしいところです。これは余計なお世話でした。失礼しました。 |
統計学者の「酒と葉巻」 2016/07/30 Sat 5049
統計のプロである鈴木義一郎著「1を調べて10を知る科学」のカバーには、氏のプロフィールが記載されている。「寓話をまじえた軽妙な筆致で、偶然に対する錯覚や統計の誤用をただすべく『例解統計入門』『統計学で楽しむ』『先をよむ統計学』『わり算だけの統計学』など多数の啓蒙書を執筆」とある。私もこのうち3冊は読んで、そのおもしろさには触れている。これに続けてプロフィールは「平均寿命より先に死ぬ人は半数いると達観、葉巻に酒は欠かすことがない」ときて、さらに「〝自然"に生きている統計学者である」で終わる。
統計学者として「ギャンブル」をどう考えておられたかは別にして、少なくとも「酒と葉巻」がお好きなことはハッキリしている。じつにほほえましい方なのである。ただ、私としてはここで「おやおや」と思って苦笑いした。それは、「酒と葉巻」を止めない理由として「平均寿命より先に死ぬ人は半数いると達観」されているという点である。
「平均値」なるものは、相当程度に魔物的な性格を持っている。われわれは「平均値」は分布の真ん中の値で、「それ以上」と「それ以下」が「同数」になると考える傾向がある。正確に言えば「そう思い込んでいる」人が少なくない。この点こそ「平均値」が与える悪魔的誤解なのである。平均値が「真ん中」にあるのは、データが富士山のように左右に同じ幅で広がっているときだけである。データに偏りがあれば、平均値は「真ん中」の値ではなくなる。
|
「書籍カラッポ大作戦」の現状 2016/07/29 Fri 5048
「書棚ほとんどカラッポ大作戦」と言っても、本を闇雲に廃棄するのではのない。ただ、すでに読んだものは原則として「サヨナラ」する。その中には「また読むかもしれない」という気持ちになるものもある。しかし、「本当にまた読むか」と心のなかで問い直すとほとんどが「うーん、どうかなあ」との答えが返ってくる。世の中では、読みたい本が絶え間なく出版されている。「温故知新」の良さは十分に認めるが、私は「新しもの好き」なのである。ただし、一見すると古びてしまった本でも懐かしさが湧いてきて、ちょっとだけ開いてみたくなるものもある。そして、ついには「読んでしまう」ことも少なくない。
そんな本の中に「1を調べて10を知る科学 標本調査入門」がある。著者は出版時に文部省統計数理研究所教授で統計教育・情報セン夕—長だった鈴木義一郎氏である。講談社のブルーバックスで、1992年1月20日第1刷発行となっている。私たちは人間集団で起きる事象を対象にして仕事を続けている。そうしたなかで、「統計」は欠かせない重要な道具である。そんなことから、統計については専門書から入門書まで、書店でおもしろそうなものを見つけると買って読んでいた。鈴木さんはカバーに載せられた顔写真からはかなり堅物的な印象を受ける。しかし、ほかの入門書でも楽しい語り口で書いているから、じつは「おもしろい人」なのだと思われる。1937年の生まれだということで、そろそろ80歳をお迎えになるなずだ。
|
書棚カラッポ作戦 2016/07/28 Thu 5047
定年の際に書籍の半分以上を処分した。ただ棄てるのはもったいないので、一部は熊本大学附属病院の図書室にお送りした。新しい建物の中に図書室ができたが、書籍数が少ないとのことだった。そこで選別せずに学内便でどんどん送り出した。書籍の内容は鮮度によっては「こんなものいらない」と言われるものもたくさんあったと思う。先方にとってはまったく迷惑な話である。その後、病院の図書室を覗く機会があったが、見覚えのある本が書棚に並んでいた。もちろん、図書室にふさわしいものだけを選ばれているようだった。この期間は2年間ぐらいはあった。
それから今度は大学から新しいシステムの案内があった。それは不要な書籍を提供すると、その代金を学生の支援に回すというものだった。その趣旨はすばらしく、これにも乗ることにした。ただし、そこそこの分量と質の本を提供してもまさに二束三文、100円とか200円のスケールである。しかし、私としては本たちが紙くずとしてゴミ焼き場に連れて行かれるよりは遙かに気持ちが落ち着く。そんなわけで、現在はこのシステムに対応している。もっとも、定年時までに相当程度のものを整理していたから、量はグーンと減った。ただし、新刊書でも2/3は「読んだら即システムへ」ということにしている。
そんな中で4月の大地震に遭遇した。これで、改めて「発想」が転換する。自宅、研究室を問わず、書棚に対して「ほとんどカラッポ大作戦」を試みることにしたのである。
|
もう一つの地震体験(2) 2016/07/27 Wed 5046 6月5日の続き
知り合いから「地震体験」を語るメールが届きました。そこでご本人の許可を得て6月の本欄で取り上げました。それからかなりの時間が経過しましたが、その続きをお伝えします。前回は車に乗っていて「前震」にあったときのことでした。メールはそれに「本震体験」が続いていました。文章の繋ぎなどのみ、私が手を加えましたが、ほぼそのまま転載しましょう。
本震は子供たちを守るので精一杯でしたが、 夜明けがこんなに待ち遠しいのはいつぶりだろうと思うくらい、夜が長く余震が激しかったのが鮮明に記憶に残っています。ただ幸いにも、家の中も比較的被害は少なく、片づけも楽な方でしたので、ボランティアに行ったりしておりました。そのときにお会いした中国の方に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
私たちは中国の方も含めた25名くらいのグループで、ある地区へのボランティアの案内チラシを配布する仕事にいきました。中国の方は本来は旅行で大阪から熊本に来る予定だったのですが、地震があったため、スーツケース片手にマスクと軍手を購入して参加されていました。そして、力仕事もできるとボディーランゲージを交え伝えてくれましたが、その日はチラシ配布だけで終りました。翌日はお会いしませんでしたが、「積極的にボランティアに参加して下さっているのだろうな」と心の中で思っておりました。
私は中国の方にちょっとした偏見をもっておりましたが、実際は違うということを、地震のおかげで知ることができました。「どこにでも、ありがたいと思える方がいるんだなあ」と純粋に感じました。厚かましいくらいに長文になり申し訳ありません。地震の時に感じたあれやこれやを先生にお伝えしたかったので。大変失礼いたしました。
今日は、ほとんどがメールの引用になりました。相互理解は「生のふれあい」が何より必要です。これ以上余計な付け加えはせずにおきましょう。 |
早出し夕刊(am7:50 ) いまごろ気づく? 2016/07/26(2) Tue 5045
ある大きな町で首長選挙が展開中です。今朝のニュースによれば、ラストの1週間を迎えて、各陣営が対策を見直しているそうです。その一人については、ある党の関係者は選挙カーの上に乗らない方がいいという話が出たようです。かえって逆効果だという判断です。これを観て笑ってしまいました。先週でしたか、あの元職の人が候補者と一緒にいるのを見て、「うわー、逆効果だあ」と思ったからです。あれでは、せっかくその人に投票しようとした人でさえ、「やあめた」と心変わりをするに違いありません。その反対に、「あの人が支持しているのなら」と投票意欲を高める人は圧倒的に、そう圧倒的に少ないでしょう。これを日本語では「逆効果」というのです。それにしても、ニュースの内容が本当なら、「いまごろ気づく」なんて、ご本人だけでなく周囲の人たちも、まったくの「ドン・カン」としか言いようがありませんね。 |
「情報五感」を磨く 2016/07/26 Tue 5044
ノセック氏の問題発言(?)は続く。「研究していることすべてが発表に至るわけではない。新規性があり、肯定的で整然とした結果が査読を通過する可能性が高く…」。ここで「新規性」とは、科学的研究に限らず、何かを世に問う場合に求められる基本的要件である。次に「肯定的で整然とした結果」が必要なのだ。つまりは、主張したいことを裏付けるデータが揃っていて、誰もが「なあるほど」と頷けるようなものでないとまずいということだろう。
その上で、「これは、自説にそぐわない否定的な結果や研究を除外するという、発表の偏向につながる恐れがある」とノセック氏は語る。そうそう、まさにその点が重大かつ深刻な問題なのだ。自分に都合のいいデータだけを取り込んで、それを否定するものは外してしまう。この「偏向」を誘惑する「心の悪魔」が研究者の周りにはワンサカいるのである。彼等は24時間、「心の隙間」に取り込もうと手ぐすねを引いている。
そして、ノセック氏の表現を借りれば、「これが大規模に行われると、発表される文献が実態より見栄えの良いものになる可能性がある」となる。ここで「実態より見栄えの良いものになる可能性」どころか、それが「虚偽」になってしまう危うさが生まれるのである。
世の中の情報は、まずは「発信する側」の倫理観が重要だが、それを「受信する側」の「情報五感」も磨いておかないとまずいということである。どんな情報も鵜呑みは禁物、自分の力でしっかり確かめましょう。
|
早朝夕刊(am5:40):新聞博物館 2016/07/25(2) Mon 5043
先週末(23日)、家族で熊本日日新聞の「新聞博物館」に行ってきました。熊本地震の写真を展示しているのです。とにかく予想もしなかった大地震でした。その被害の実態を写した写真と、海外を含めた地震を伝える新聞が展示されていました。じつは、5年前の東北大地震の際にも同じような展示があり、そのときも家族で出かけました。甚大な被害を伝える写真や新聞を前に衝撃を受けたことを思い出します。そして、今回は自分たちが「当事者」になったのです。博物館では、いろいろな思いとともに1時間を過ごしました。常設展示の部分は地震後の状態がそのまま保存されていました。小さな活字はバラバラに飛び散り、印刷関連の大きな機械が倒れたり、ズレたりしていました。資料の展示ケースも移動したままで、通路もふさがり、見て回ることもできませんでした。 |
「歪曲」の誘惑 2016/07/25 Mon 5042
ブライアン・ノセック(Brian Nosek)氏の「問題発言(?)」は続く。「科学者らは自身の研究成果を主要学術誌に定期的に発表する必要に迫られており、このプロセスが実態の歪曲につながる可能性がある」。これは「問題発言」ではなく、「現実」の「危うさ」について警告していると言うべきだろう。わが国でも大学をはじめ、研究を仕事にする職に応募する際は「研究業績」が問われる。それは当然で、組織としては、採用する分野でしっかり研究している者でないと困るのである。そのときの判断基準として代表的なものが「研究論文=業績」である。そこで、採用される可能性を高めるためには、「主要(?)学術誌」に「定期的」に発表する「必要に迫られ」ることになる。
これは採用される際だけでなく、個々の研究者が自分が仕事をしていることをアピールするためにも必要なのだ。大学であれば、国公私立を問わず、研究者は税金や授業料、また寄付なども含めた原資によって生活している。したがって、しっかり仕事をしてそれらにバックすることが求められる。大学の場合は授業も仕事になるが、研究面でも業績を上げなければならない。今日では、われわれの時代と違って任期制による採用も増えている。そうなるとなおさら「業績」を出し続けていくことが求められる。
ノセック氏の言う、研究者が「成果を主要学術誌に発表する必要に迫られ」る事態が起きているのである。それが「歪曲につながる可能性がある」というわけだ。有能な科学者の命まで失うことになる理研事件も、こうした状況の中で引き起こされた。
|
「自分の都合」に合わせる 2016/07/24 Sun 5041
「心理学研究の6割以上が再現不可能」と公表したブライアン・ノセック(Brian Nosek)氏は、さらに、発表者の権威で研究の内容を評価してはいけないと述べた後で、「科学的主張の信頼性は、その主張の根拠となる証拠の再現性に部分的に依存している」と語ったという。「部分的」という表現が微妙だが、とにかく「他の人も『同じことをしたらその通りだった』」という事実があって、はじめてその主張が「信頼」されるわけだ。これも当然のことを言っているだけである。
さらに、ネットの記事は「問題が生じる恐れがあるのは、科学者らが『有意』と考えられるもののみを含めるために自説に都合の良いデータだけを選び出す場合や、研究規模が非常に小さいために偽陰性や偽陽性が発生する場合などだ」と続けている。人間の性と言うべきか、「自分に有利な情報」だけを使って、「自分の正当性」を主張する。これは多くの人が思い当たることだろう。ただ、そうだからといって「仕方がない」などと居直るわけにはいかない。とりわけ、「科学的研究」は世の中全体が「真理を探究すること」を期待している。ここで「真理」とは個人の価値観を超えるものであり、それによって自分の立場が不利になる場合であっても、しっかり受け止めることが求められるのである。ことばは適切でないが、「やせ我慢」してでも、「結果はかくかくしかじかでした」と公表しなければならない。それが「危うい」というのでは事態は深刻なのだ。
ところで、「偽陰性」「偽陽性」ということばですが、「本来は『陽性』なのに『陰性』」「本来は『陰性』にもかかわらず『陽性』」と判定されることです。
|
「誰が」ではなく「何を」 2016/07/23 Sat 5040 7月16日の続き
サイエンス誌で「心理学研究の6割以上が再現不可能」との結果を公表した論文の共同執筆者である米バージニア大学のブライアン・ノセック(Brian
Nosek)氏は「科学者らが常に自らに問いかける必要があることを示している」と話したようだ。そして、記者会見で「科学的な主張が信用できるものとなる根拠は、それを生み出した人の地位や権威ではない。科学的主張の信頼性は、その主張の根拠となる証拠の再現性に部分的に依存している」と述べたという。
私は「うーん」と唸る。どう考えても「当たり前」のことしか言っていない。むしろ、部外者が「この部分だけ」読めば、「科学者(心理学者)って、そんなことも認識しないで仕事をしてきたの」と疑われるに違いない。いや嗤われるかもしれない。今やあらゆる組織にとって「問題発生を未然に防ぐ文化の醸成」が欠かせない。そのために、「自ら『これでいいのか』と問いかける」ことは基本中の基本、常識なのである。つまりは「科学者」だけが満たすべき要件などではあり得ない。
さらに、「誰が言っている」かではなく、「何が言われているか」が大事なのである。昨年の理研問題でも、「大発見」の発表ではトップレベルの研究者が後ろ盾になっていた。だから結果は信頼できると思われ、科学誌にも掲載された気配が窺われた。自然科学の領域ですら「誰が言ったか」「誰が書いたか」が影響力を持っているということである。わざわざ「それを生み出した人の地位や権威ではない」と言わざるを得ないとはやるせない。 |
憲法違反を避けるには… 2016/07/22 Fri 5039
アメリカ合衆国憲法は「上下両院」の議員数に付いてを明確な方針を決めている。したがって、わが国のように「一票の格差」が「違憲であるかどうか」は議論にならない。アメリカの州で最大の人口を抱えるのはカリフォルニア州で推計38,041,430人、最少はワイオミング州の576,412人である(2010年
国勢調査)。有権者数はわからないが、カリフォルニア州はワイオミング州の65.9倍である。それでも上院議員は両州とも「2名」なのである。下院議員も1人は保証されている。
一方、わが国では東京都が13,513,734人で最少は鳥取県の573,648人である(2015年国勢調査速報値)。東京都は鳥取県の23.6倍になる。それでもわが国では人口比を基本に最高裁が「憲法違反」と判断している。素人が判決を読む限り、その根拠は憲法第14条の「平等権」にあるようだ。また、憲法第43条「国会議員は全国民の代表者」という規定に反するという意見もある。
アメリカは当初から「人口の重み」を尊重しながら、「一票の重み」だけでなく、「個々の州の重み」にも配慮していたのである。それは「少数意見」を尊重することであり、国の在り方に対する基本的理念が表明されている。これに対してわが国では憲法が「徹底した多数決原理」を採用しているのである。世の中では「憲法改正」について賛否の立場から議論が展開されている。今後は個別の条文を検討するという動きが出てくる可能性がある。仮にそうした流れになったときは、「選挙」の条項を忘れないでいただきたい。このままだと、地域間の人口格差が拡大することは目に見えている。そうなると、「憲法違反」を避けるためには、「南九州一区」「四国一区」「東北一区」といった状況すら生まれかねない。そんな発想でいいのだろうか。
|
アメリカ合衆国憲法と議員数 2016/07/21 Thu 5038
アメリカ合衆国憲法は第1章[立法部]からはじまり、まず第1 条で「この憲法によって付与されるすべての立法権は、上院と下院で構成される合衆国連邦議会に属する」と決めている。
そして、第2条で「下院」について規定する。その中の第3項に「下院議員と直接税は、連邦に加わる各州の人口に比例して各州間に配分される」とある。下院議員の数は「各州の人口」によるのであるから、「一票の格差」問題は生じないと思われる。しかも、「下院議員の定数は、人口3万人に対し1人の割合を超えてはなら
ない」と制限を加える。その後で「但し、各々の州は少なくとも1人の下院議員を選出するものとする」とも決めている。議員定数を原則として人口で決めるが、「各々の州は少なくとも1人は選出する」というのである。さらに、「実際の人口の算定は、合衆国連邦議会の最初の集会から3
年以内に、それ以後は10 年ごとに、議会が法律 で定める方法に従って行うものとする」と人口の算定時期まで「憲法」に明記されている。
上院については第3条に規定があり、その第1項で「合衆国上院は、各州から2名ずつ選出される上院議員でこれを組織する」と決めている。これがアメリカ合衆国憲法の国会議員定数に関わる条文である。上院は「人口の多少」に関係なく、「各州から各2名」である。下院についても「各々の州は少なくとも1人」の下院議員がいることになる。こうしてアメリカ合衆国では「定数是正」の問題は起きる余地がない。 |
一票の格差 2016/07/20 Wed 5037
今回の参議院議員選挙では「合区」ができた。最高裁から憲法違反、あるいはその疑いがあると言われ続けてきた「一票の格差」を是正するために、「人口の少ない地域」を「合体させ」、そこから「一人の議員を選出する」ことにした。今回は「鳥取県と島根県」「徳島県と高知県」の2区がそれに該当した。この4県は昨年の国勢調査の速報で人口が、47都道府県の44位徳島、45位高知、46位島根、47位鳥取となっている。その順位がお互いに「隣り合っている」のは偶然の皮肉というべきだろうか。
民主主義では多数決を最終的意思決定の手段だとされている。人類の長い歴史の中で「それ以外の智恵」を見つけ出せないままのようだから、とりあえずは承認するしかない。ただ、その民主主義は単なる「数値」だけを基準にするのではなく、「考え続けること」も大事にしなければならない。そもそも「民」一人ひとりが「同じ」でないことは自明の理である。その「違った」人間が「一つの意思決定」をするのである。その意味で、「決定」はいつも「暫定」であり続けるべきだ。
ともあれ、「地方創生」の時代に「地方の歴史と文化」を「合体」させることがいいのかどうか。同じ県でも山のこっちと向こうは風土だけでなく、人の気質まで違うと言われるところもある。もっとも「廃藩置県」まで遡れば、その区分けが「合理的」であったかどうか、私にはわからない。それに何と言っても最高裁が「憲法違反だ」と言っているのだから、こうでもするしか仕方がないのか。
|
これでおしまい… 2016/07/19 Tue 5036 7月15日の続き
西日本華道連盟とは、その後も「自慢話のネタ」が続く。もう期日は忘れたが、事務局から電話があった。「連盟の記念行事で『宮様』からお話をしていただくことになっていました。ところが急に体調を崩されてそれができなくなってしまったのです。そこで、もしよろしければ先生に講演をお願いしたいのですが…」。生来の厚かましさは自認しているが、これには驚いた。何と「宮様」の代役のお誘いなのである。何とも恐れ多いことではないか。そう思いながらも、私の耳には「ありがたや、ありがたや」という声が聞こえた。ただし、提示された日はすでに予定が入っていて、「『宮様』代行」はまぼろしに終わった。
西日本華道連盟の関連で、その他にも2回ほどお話をした。おかげさまで、連盟は私の人生に「思い出」を創ってくださった。そもそも永六輔さん逝去の話からここまで来てしまったので、「自慢話(?)」を追加する気になった。永六輔・中村八大・坂本九の「六八九コンビ」はNHKの「夢で会いましょう」で世の中に知られた。その番組のレギュラーに大坂弁を話す声量抜群の女性歌手がいた。坂本スミ子さんである。坂本さんは熊本のお医者さんと結婚されて、かなり以前から熊本在住である。正式な名称は忘れてしまったが、全国の校長先生の組織があって、その大会が熊本で開催された。私はそのときのシンポジウムでコーディネータを依頼された。坂本さんはシンポジストのメンバーの一人だったのである。坂本さんにはそのご縁で熊本大学の学生に対する講演をお願いした…。
永六輔さんの話からはじまって「思えば遠くへ来たもんだ」。 |
プロの居直り… 2016/07/18 Mon 5035
ジャーナリストの江川紹子氏が、朝日新聞の誤報に対する競合各社の「猛烈な非難」に対して、「間違いを訂正したら潰されるなら、メディアはますます間違いを訂正しにくくなってしまうのでは」と指摘した。私はこの2014年9月27日付の「視界良好」を読んでいたが、「おやおや」と思った記憶がある。ここで「潰される」の部分を措くと、「メディアはますます間違いを訂正しにくくなってしまう」なんて、およそジャーナリストの発言だとは思えない。もっとも、この発言を「潰されるなら」を抜きにして論評することが問題ではある。
しかし、ここで取り上げられた「誤報」については、朝日新聞社の訂正と謝罪が信じられないほど遅れたわけだ。そのことで「潰される」と思われるほどの猛烈な批判になった過程を考慮する必要がある。事実は「遅れた」と言うよりも「容易に認めず」、最終的には追い込まれて「認めざるを得なくなった」のではないか。「過ちは直ちに謝る」のでないと、その価値は失われる。
ところで、江川氏は「PCなりすまし事件」で逮捕された容疑者について「冤罪だ」と訴えて強力にサポートしていた。しかし、最終的には本人の犯行であることが明らかになった。この件について江川氏は「自分が見誤った原因」をしっかり検証しているのだろうか。人間は「誤ること」が問題なのではない。「誤った事実を認めること」、そして「その原因をしっかり分析をすること」を「しないこと」が問題なのである。 |
こころのゆとり 2016/07/17 Sun 5034 7月8日の続き
熊本日日新聞の訂正記事についてのコラムは大いに評価した。これに関連して対して熊本日日新聞にはもう一つ興味深いコラムがあった。たまたまスクラップしていたもので、2014年10月7日付けで編集本部飯村直亮氏の署名がある「デスク日記」である。「謝ったら負け」とのタイトルで「誤報」について書かれている。そのころ世間の注目を浴びていた朝日新聞による「慰安婦の強制連行」と「原発事故調査委員会の聞き取リ調書」に関する「誤報報道」が取り上げられている。このとき、朝日新聞社の訂正と謝罪が遅れたことから、「同業他紙や週刊誌などによる猛烈な非難」が湧き上がったことは記憶にある。
ここで飯村氏はこの状況についてジャーナリストの江川紹子氏が書いたコラム「視界良好」を引用している。それは2014年9月27日付のもので、「猛烈な非難」に対して警鐘を鳴らしたものである。江川氏は「間違いを訂正したら潰されるなら、メディアはますます間違いを訂正しにくくなってしまうのでは」と指摘しているのである。
この部分を引用した上で、「ちょっとしたいさかいが、簡単に傷害や殺人にまで至ってしまう余裕のない世の中。『謝ったら負け』ではなく、『負けるが勝ち』という心のゆとリを持ちたいと願う今日このごろだ」と締めくくられている。この最後の一文については、私も大賛成である。世の中のみんなが、「心のゆとり」を持つことの大事さをしっかり感じる。ただ、それはそうなのだけれど…。 |
リアリティ=現実感の欠如 2016/07/16 Sat 5033 7月9日の続き
サイエンス誌編集主任ギルバート・チン氏は「心理学の研究の6割以上が再現不可能」との結果に対して、「いささか落胆」しながら、「原著論文の実験結果の多くに関して、それほど信頼を置かないようにするべきということだ」と結論している。数値を見れば、それ以外に言いようがないのであるが、「そんなこと言っていいの」と余計な心配をする。これをストレートに読めば、「心理学実験の結果」は「信じない方がいい」と言っているだけなのだから。それなら、そんなことのために労力と資金を使うことは問題でしょう。なんとも正直な発言ではある。
私なんぞは、心理学者の風上にも風下にも置けない要注意人物だと自認している。そんなことで、超若いころは実験なるものを試みたことがあるが、かなり早い時期から実験とはお別れした。
今回は心理学実験の「再現可能性」が話題になっている。しかし、私としてはそれ以前に「リアリティ」の問題が大きいと思っている。「現実感」のない状況下で微妙な要因について実験が行われることが少なくない。たとえば〝NIMBY〟という用語がある。これは〝Not
In My Backyard〟を略語化したものである。ゴミ焼却場や産業廃棄物の処分場など、みんなの生活に欠かせない施設であることは誰もが承知している。ただし「『わが家の庭』につくるのはダメよ」となる。これが〝NIMBY〟である。そうした心のメカニズムを明らかにするために、学生を使ったりする。それも教室で、ワープロ化した「困った事例」を読んで「意思決定」を行うといったものがある。細かいことは抜きにして、その「リアリティ」のないことはなはだしい。少なくとも私にはそう見えるのである。
|
もう一つのジョイント 2016/07/15 Fri 5032 7月13日の続き
永六輔さんと「ジョイント講演(?)」をしてから2年後の2002年9月1日、西日本華道連盟から今度は宮崎で開催する大会の講演依頼があった。このときも「午前・午後」のジョイントだったと思う。今回の「ジョイント(?)」相手は何と落語家の三遊亭歌之介師匠だった。私はやはり来賓として宮崎県立劇場の最前列で「落語」を聴いた。師匠は鹿児島の出身だということで「鹿児島弁丸出し」の話芸が会場を沸かせた。ときおり下ネタが含まれていて、関係者の一人が「歌之介さんの話はこんなとことろがありますのでね」と、どちらかと言えばしかめ顔で語った。しかし、「生」では、そんな部分も取り入れながら人間の生き様を題材にする。それが、江戸の大衆芸である落語の特徴でもある。
ところで、「歌之介さんが会場に着かれたときに、先生の話に笑いが起きていたので、少し気にされているようでしたよ」と、これまた関係者の方が教えてくださった。私としては、「プロが焦る(?)なんて、すごいじゃない」と心のなかでちょっと笑った。もちろん、真打ちの「芸」の向こうを張るなんて夢にも思っていない。そもそも役割が違うのである。
永六輔さんが亡くなったことを知って、ついつい大昔の思い出が蘇ってきました。しかも、その内容たるや、「なあんだ、自慢したいんだあ」と言われるようなものになってしまいました。前期高齢者ともなると、こうした昔の自慢話をしたくなるんですね。これから先も「また、はじまった」と思われることが繰り返されるに違いありません。そんなときは読み飛ばしてくださいませ。 |
超身近な「世界一」 2016/07/14 Thu 5031
先月、スイスに「世界最長のトンネル」が開通した。その名は「ゴッタルドベーストンネル」あるいは「ゴッタルド基底トンネル」である。全長は57kmで、これまで最長だった青函トンネルの53.9kmを抜いた。先だって東京に出かけたとき、電車の中で「東京スカイツリー」のPRを見た。現存する電波塔としては世界一高いタワーとしてギネス世界記録の認定を受けている。しかし、もっと高いビルがある。ドバイにある「ブルジュ・ハリーファ」で、こちらは828メートルだから、スカイツリーの634mよりも遙かに高い。そんなこんなで、人間は「うちが世界一」だの「日本一」だのと競うのが好きなようだ。
しかし、自分たちの近くに「唯一」で、しかも「過去になかった」だけでなく、「未来永劫」に存在しないものがある。それは「絶対的唯一」のものである。私としては、「こちらの方を忘れないで」と叫びたい。それは「自分」である。自分こそ、過去にも未来にも「他には絶対に存在しない」ものではないか。「世界一」どころではない。疑いなく「宇宙唯一」なのである。こんなすごい「自分」に気づかないなんて、もったいないったらありゃあしない。とくに「自分が聞いている自分の声」って、まさしく「絶対唯一」ものものだ。この「声」を聞ける人間はこの宇宙が存在する前から、そして宇宙がなくなっても、とにかく「自分」しかいないのである。みなさん、こんな価値ある「自分」を大事にしましょう。そして、もちろん「他の人の『自分』」も…。 |
永さんと「ジョイント」? 2016/07/13 Wed 5030
ところで、私は永六輔さんとジョイントで講演をしたことがある。その日は、午前と午後に講演があり、午前中に私が、そしてお昼から永さんが話したのだから、「ジョイント」と言えるかどうかは微妙なところではある。それは2000年8月27日のことである。西日本華道連盟から講演のお誘いがあったので、「自称
Yes man」の私は当然のようにお引き受けしていた。同会が九州各地で大会を開催されていて、その際の記念講演を依頼されたのである。大会では2本の講演を設定するのが恒例らしく、もう1本が永六輔さんだった。熊本県立劇場が会場で、私は来賓として午後は最前列で永さんの話を聴いた。私の講演の一部を聴かれていたようで、話の中にちょっとだけ引用された。このあたりが気配りということだろう。もう16年も前のことだから講演内容は記憶に残っていない。ただ、テレビでもよく観ていた機関銃のような早口で、いろいろな話題が出て楽しんだことは言うまでもない。
その年の7月に義父が亡くなっていた。義母は一人で外出することはほとんどなかったが、このときは「講演会で話をするからいらっしゃい」と熊本に呼んでいた。義母が私の講演を聴いたのは、後にも先にもこのときしかない。「永さんの話もおもしろかったけど、道雄さんの話の方がもっとおもしろかった」。これが絶対的身びいきをする母の評価だった。「もう一回、道雄さんの話を聴きたい」。そう言い続けていた母も、その5年後には逝った。 |
訂正:いつも本コラムをご愛読いただいたいる方から下記のメールが届きました。
おはようございます。毎朝、「味な話の素」を楽しんでいる□□です。既に先生に伝わっていると思いますが、「味な話の素」で、日にちと曜日にズレが生じています。これは、7月9日が2回あるためです。いつ修復されるか、「楽しみ?」にしております。
ありがとうございます。私は気づかず、まだ「伝わってもおりません」でした。さっそく「本日分」を2本とさせていただきます。これからもよろしくお願いします。
|
永六輔氏の訃報 2016/07/12(2) Tue 5029
永六輔さんが亡くなった。私たちよりも年上の世代で、永さんを知らない人はいないだろう。この人が作詞した「上を向いて歩こう」は、日本の流行歌として初めてメリカのヒットチャートでトップになった。作曲は中村八大で、歌ったのは坂本九だった。全員の名前に「数字」が入っていて、「六八九」トリオなどと呼ばれていた。それは1963年のことだから、太平洋戦争が終わってまだ20年が経過していなかった。歌詞はアメリカ人にとって意味不明の日本語である。そんなことから、曲名は何と〝SUKIYAKI〟だった。彼の国の人間が「日本」と聞けば、〝Fujiyama〟〝Sakura〟〝Geisha
girl〟くらいしかイメージできない、そんな時代だった。東京オリンピックの前年である。その曲名を付けたエピソードも伝えられているが、英語の原題は〝I
LOOK UP WHEN I WALK〟である。中学生でもわかる直訳である。
この歌を坂本九がNHKの「夢で会いましょう」で繰り返し歌っていた。この番組は「バラエティショー」の走りで、様々なキャラクターが登場する最高のエンターテインメントだった。黒柳徹子も、そしてあの渥美清もレギュラーだった。毎週土曜日の22時からの放送で、早寝早起きが習慣だった中学生の私もこの番組だけは例外で、欠かさず観ていた。放送されたのは、1961年4月から1966年4月となっている。こんなことを書いているだけで、私の目の前には14インチの白黒テレビのブラウン管が蘇る。
昨日、ネットで永六輔さんが亡くなったことを知って、まずは私の歴史と重ねた思い出が浮かんだ。 |
勝敗の評価 2016/07/12 Tue 5028
NHKの教育テレビを除いて、すべての地上局が「開票速報」をする。そのため、「どこが最も正確な予想をしたか」はわからない。それを比較するほど暇でもないからである。ただ、たまたまチャンネル(?)を回していたとき(?)、どこかの局で「一人区の野党統一候補は惨敗」と言っているのを、その瞬間だけ聞いた。実際の結果を見ると自民党の21勝11敗である。これに対して「野党共闘が一定の成果を上げたと言えそうだ」という評価もある(時事通信)。
この「一定」と「言えそうだ」は、報道でよく使われる、なかなか意味深長な「専門用語(?)」である。まずは「一定」だが、その判定基準はまことに曖昧である。「共闘した効果があった」とも読めるし、「共闘しないよりはましだった」程度にも思える。また、「言えそうだ」もおもしろい。それは書いた者の「主観的、推測的予測」である。そこでは「断定」を避けている。これもなかなか便利な用法で、「そうでなかった」場合でも「あくまで予測で、断定したわけではない」ということになる。放送の場合は、ビデオはあるものの一瞬ごとに時間が流れていく。野党共闘の「11勝21敗」が「惨敗だった」のか、あるいは「その時点」では勝敗予測がもっとひどかったのか、今となってはわからない。
ところで、「予測」には「出口調査」の結果も効いているようだ。午後8時の時点で、それなりに当たるところをみると、みんなけっこう正直に答えるのだろう。私の友人には「出口で聞かれたら絶対に嘘を言う」という者がいる。ただし、彼はまだその機会がないそうで、そのことを残念がっている。私は一度だけ出口で聞かれたことがある。そのときは「答えません」と断った。「絶対嘘を言う」と、そのチャンスを窺っている友人よりははるかに良心的ですよね。 |
開票速報 2016/07/11 Mon 5027
私たち世代がそうなのか、それとも私がそうだったのか、子どものころから選挙の開票速報がおもしろくてたまらなかった。北海道から九州まで、選挙区ごとに候補者とその獲得票数が表示される。これが南まで来ると再び北海道に戻る。コンピュータなどない時代だから、北に回っても票数はほとんど変わっていない。しかし、それでもなぜかおもしろかった。私が子どものころは沖縄は含まれていなかった。沖縄の施政権がアメリカから返還されたのは1972年である。私はすでに大学を卒業していた。
当初は、数値を書いた札を一桁ずつフックに引っかけていた記憶がある。その後に、空港などでパタパタと数値が回転する表示版に変わった。「かっこいいなあ」と思ったと同時に、さらに「おもしろさ」が増大した。。ただし、この表示方式がはじまったのは1958年の第28回衆議院議員総選挙からだという(Wikipedia)。そうなると、私はそれ以前から開票速報を楽しんでいたことになる。しかし、それはちょっと早すぎる。そもそもわが家にテレビなる超高価な贅沢品はなかった。私としては、それが登場したとしても、一部に限られていたと思う。私には「はじめから回転表示器」でなかったという確信がある。
そして時代は進み、開票速報はデジタル化して今日に至っている。そのうえ、午後8時の投票締め切りとともに、「当確ラッシュ」で、おおよその結果が出てしまう。その結果、昔のような開票速報の「楽しみ」は完璧に失われた。 |
天気と投票行動 2016/07/10 Sun 5026
わが家の窓からかなり強い雨が降っているのが見える。全国の天気は九州と沖縄、そして北海道に「雨マーク」が出ている。その他では高知が降雨確率40%で「雲マーク」のみだで、あとは「雲と晴れマーク」が同居している。
今日は参議院議員選挙の投票日である。予報で見る限り「雨」の所は少ないから、「天気が悪いから投票に行くのはやめとこう」という気持ちになる人は少ないと思われる。もっとも、「晴れマーク」が付いた仙台や新潟で30度を切っているが、大阪と名古屋は最高気温が34度である。今日も暑い一日になると予想される。この「暑いから」という理由で投票に行かない人たちがどのくらいいるだろうか。
総務省によれば、8日までに「期日前投票」した人数が1,319万7,000人ほどだった。この数値は前回の参議院議員選挙よりもおよそ25万人多く、過去最高だという。これは全有権者の12.38%で、最後の9日の分を加えれば、数値はさらに伸びる。それによっては、衆議院議員選挙を含めて最高になる可能性もある。投票率が上がることは望ましい。
これは推測に過ぎないが、「期日前投票」に出かける人たちは支持する「特定の候補者や政党」がある確率が高い。その結果、「有利になる政党」が出てくることは、一般的に知られている。英国の「国民投票」も当日の全国的な天気はわからないが、「EU離脱」は「お天気のせいだ」との声もあるらしい。私は「いつもの通り(?)」ですでに投票は済ませている。 |
〝Freshmen Psychology〟 2016/07/09 Sat 5025 7月3日の続き
さて、「心理学の研究の6割以上が再現不可能」という結果について、心理学者ギルバート・チン氏は「いささか落胆」しながらも、「各学説の妥当性や虚偽性に直接言及するものではないこと」も強調している。他の人が確認できないからと言って、その考え方が間違っているとか、嘘のデータをでっち上げていると直ちに判断するわけにもいかないというわけだ。ここで「直接言及するものではない」というところが微妙な言い回しである。それはそうだが、心理学でも条件を統制した「厳密な実験」を行って、その結果を世に問うわけだ。そして、少なくとも「再現可能性」は実験の基本的要件として前提にされている。だからこそ、「再現できない」ことは大きな問題なのである。
もっとも私と言えば、けっこうシラけていて、こうした結果を見ても「そらあそうだよなあ」と思う。心理学でも古くは「知覚」や「学習」などで行われていた古典的な「実験」は、まだ「実験的」な雰囲気をもっていた。しかし、人間そのものが関わる「実験」になると、私の感覚ではきわめて「リアリティ」に欠くものが多い。私が若いころ、アメリカの心理学研究が〝freshmen
psychology〟などと言われていた。授業の受講者に実験の被験者になってもらう。そのかわり、単位認定の際にも考慮するというわけだ。もちろん、心理学を受講する学生にとって、実験参加は大事な学習である。その点で、被験者になることは大いに意味がある。しかし、そうした「特別な人間」だけを被験者にして実験して、それを「すべての人間」に適用できるかのような研究に仕上げるのは問題ですよね。
|
過ちと訂正 2016/07/08 Fri 5024
熊本日日新聞のコラム子が、平均すれば2日に一個の間違いがあることを自ら発信したことに敬意を表したい。
さらにコラムは続く。「『過ちては改むるに憚ることなかれ』。間違いを犯したら体面にとらわれず、すぐに改めるべきだといぅ意味です。『過ちて改めざるこれを過ちという』。心に刻みたいことわざです」。
まったく同感である。私としては、これに「謝らない誤りを犯してはいけない」というマイフレーズを付け加えることをお勧めしたい。コラムは「内部の不正を見て見ぬふりをし、屋台骨が揺らいでいる大手企業のニユ—スが相次いでいます。新聞社も同じです。読者の信頼をなくしては報道機関としての役割を果たせません。正確な報道を行う努力はもちろんですが、間違ったら訂正し、正直におわびすることを肝に銘じます」と締める。
引用部分が多くなったが、すべてのマスコミがこの態度と行動を基礎の基礎としていただきたい。それにしても時代が変わった。その昔は、とくに大きな新聞社は明らかなエラーがあってもそれをなかなか認めなかった。訂正記事が出る場合でも、読者が気づかないほど小さな囲みだったりした。大企業が公正取引委員会から不当表示で排除命令を受ければ一面トップの大見出しになる。ところが、かつては新聞の景品付きの販売促進で同じことがあっても記事にしないケースも珍しくなかった。世の中には「他人に厳しく自分に甘い」人間がいる。しかし「真実を伝える」ことを最高の価値にしている組織が「自分には甘い」と言われるようではまずいに決まっている。
|
「内実」の公表 2016/07/07 Thu 5023
今年の2月1日だったが、熊本日日新聞の記事に目が止まった。同紙編集局長丸野真司氏の「読者の皆さんへ」と題する署名記事である。丸野氏は、読者とコーヒーを飲みながら新聞を話題にする会合を持っているという。その際に、ある男性から「『最近は間違いが少なくなリましたね』と言われて冷や汗が出」たらしい。同紙の編集局では「訂正白書」という訂正記事をまとめた文書を配付していて、昨年12月は訂正が22件あり、過去1年間で最多だったという。
その内容は、「氏名や電話番号の書き間違い、見出しの誤りが15件。残りは、おくやみや人事など発表元の訂正」である。そして、「恥ずかしながら毎月平均15件の訂正を出して」のだそうな。記事によれば、「どの新聞社も間違いの多さに頭を悩ませているようで、編集局長の集まりでも議題に」なるらしい。ペナルティを科している者もあるというが、丸野氏はその効果に懐疑的だ。
実際に訂正するかどうかで悩んだケースとして、「阿蘇中岳噴火の記事で、午前と午後を1ヵ所間違えて掲載。文中に何度も出てくるうえ、文脈で分かるだろうと判断し、訂正を見送」った。ところが翌日には、読者から何本も電話があったという。私の感覚では、これは悩む問題ではなく、文句なしに訂正すべきレベルだと思う。小さなミスにもしっかりし対応をする。それが基本である。そもそも、「ミス」の軽重は送る側ではなく、影響を受ける側の立場から評価することが求められる。そんな時代なのである。
それはそうとして、こうした記事が掲載されたことは大いに評価できる。どんな組織でも、「誤りの内実」など「言いたくない」はずである。 |
2つの「本震」? 2016/07/06 Wed 5022
先日、久しぶりに青空が一杯になって晴れた。しかし「梅雨明け」はまだまだ先のようだ。いつのころからか、気象庁は「梅雨明け宣言」をしなくなった。宣言した後に大雨が降ったり洪水になったりすることがあって、世の中から批判されたからである。それだけ天気の予想はむずかしいということだ。その事情は地震でも同様である。大きな地震が2回続けて起きたら、前のものを「前震だった」と言い、後者を「本震」とした。素人にとっては、まるで「後出しジャンケン」である。そして、「前震」で安心して自宅に帰り、「本震」に遭遇して亡くなった方もいる。もちろん、その責任は気象庁にないのだが、気持ちとしては落ち着かないものがあったのではないか。こうしたときに不適切な表現ではあるが、「気象庁は、地震について自信を失っている」かのようだ。「今後一週間は十分に気をつけていただきたい」というアドバイスが「何週間」もつづいた。
ところで、地質学の専門家には、今回の地震は「2つの『本震』と考えるべき」との見解もある。それは二つの断層が連鎖して起きたものなのだという。一般人にはその方がわかりやすいし、実感とも一致する。しかし、この点は専門家の判断に委ねるしかないが、その専門家の見解が異なっているわけだ。ともあれ、これから大いに議論していただきたい。その際に、「言ってしまったから、何としても譲らない」という態度だけは取らないでほしい。とにかく「事実は一つ」なのだから。
|
今月の写真 2016/07/05 Tue 5021
今月は早めに写真をご紹介しておきます。まずは「元気な熊本城」です。こちらは当分の間、「連載する」ことに決めています。このごろは日の出が早くなってきました。部屋のカーテンを開けると熊本城の「天守閣」と「本丸御殿」が見えます。ただし、新しいビルが建ったために、勇姿の「1/3」ほどに「縮小」されてしまいました。それでも天守閣が「毎日、目の前にある」のですから贅沢をいうつもりはありません。
さて、もう1枚のお城も多くの皆さまがご存じだと思います。新しくなった「姫路城」です。家内と私は春休みを利用して姫路城に行ってきました。こちらは「白鷺城」と呼ばれる、白を基調にしたお城です。全体として黒が支配する熊本城とは好対照です。前者は「お殿様」が、後者は「戦国武将」が主人公になる映画の舞台に向いていますね。
姫路城は「平成の大修理」が行われて、それまで以上に白さが目立つようになりました。そんなことから、「白すぎ城」と言う人もいるようです。それも時間の経過とともに黒ずんでいくので、「白すぎ城」を観るならいまのうちなのです。ところで、姫路城は法隆寺と並んで、わが国の世界遺産第1号としての風格を誇っています。また、それ以前から国宝でしたから、その重みは格別のものがあります。私は高校の修学旅行で姫路城に行きましたが、それ以後は新幹線で遠くに眺めるだけでした。それからほぼ半世紀ぶりの再会、いい時間を過ごしました。
|
「言うこと」「言わないこと」の責任 2016/07/04 Mon 5020
〝You are not only responsible for what you say, but also for what you do
not say.〟「われわれは、自分の『言うこと』だけでなく、『言わないこと』にも責任を持たなければならない」。あの宗教改革者マルチン・ルター(Martin Luther)の言である。ルター1483年にドイツのアウスレーベンで生まれ、1546年に同地で亡くなった。享年62歳である。いわゆるプロテスタントの元祖として知られる。
日本ではその名はルーテル教会やルーテル学院大学などに刻まれている。私は「ルター=ルーテルなんだ」と知ったときは、妙に嬉しい気分になったことを記憶している。さて、そのルターの「『言うこと』だけでなく、『言わないこと』にも責任がある」は鋭い指摘である。社会に影響を与える人々、とりわけ政治家の失言がしばしば問題にされる。これは「言ってしまった」ことに対する責任が問われているのである。しかし、「沈黙」もまた「発言」の亜種だというべきだろう。世の中には「言わないといけないことを言わない」ケースがあっちこっちで起きる。「言わないでいて」、後になって文句をつけるても遅いのである。あるいは「自分は何も言っていない」と逃げてもいけない。もっとも、力を持たないものにとっては「沈黙」しか選択できないこともある。それが「抵抗の証」となったりもする。ともあれ、「言いたいことが言えない」状況から事故や不祥事が生まれる。こうなると「言わない方が悪い」だけでなく、「言えない環境をつくっている」責任も問われる。そこには、リーダーシップが大いに関わってくる。 |
〝Science〟の検証 2016/07/03 Sun 5019 6月19日の続き
さて、「心理学の研究結果、6割以上が再現不可能 検証調査」の中身だが、それはアメリカの科学誌「サイエンス」に掲載された。それによれば、「科学者270人からなる研究チーム」が「2008年に米国の主要査読学術誌3誌に発表された心理学と社会科学の研究論文100件について、その結果の再現を試みた」という。つまりは「追試」を行ったわけだ。その結果、「元の研究論文と同じ結果が得られたのは、全体の39%にすぎなかった」らしい。
対象になった論文は、「人々の社会生活や他者との交流から、知覚、意識、記憶などに関する研究まで」と幅広い。いずれも「心理学」で研究されている領域である。こうした結果に対して、本人も心理学者であるサイエンス誌の編集主任ギルバート・チン氏は「今回のいささか落胆させられる結果については、各学説の妥当性や虚偽性に直接言及するものではないことに留意する必要がある」とコメントしているという。
じつは、この記事の要約は〝Science〟のホームページに掲載されており、その「本物」を読むことができる(下記URL)。そこには、さらに細かいデータと議論がなされているので、時間がおありの方はお立ち寄りいただくのはいかがだろうか。そこからは「見出し」が与える印象とは異なることも伝わってくる。ただ、「心理学ってそんなものよね」と、かなり冷静に、あるいは冷ややかに(?)受け止めている私がいる。
http://science.sciencemag.org/content/349/6251/aac4716 |
「真実」の影響 2016/07/02 Sat 5018
クリント・イーストウッド監督の2部作は観たが、その細かい内容は忘れてしまった。ただ先行した「父親たちの星条旗」(Flags of Our Fathers)は、そのタイトルが象徴しているように「摺鉢山の山頂に星条旗を立てた」兵隊の物語でもあった。それに関わった6人の兵士のうち、John
Bradley、 Rene Gagnon、Ira Hayesの3人が登場した。最初のJohn Bradleyは衛生兵で、あとの二人は海兵隊員である。写真に写った中で、John
Bradleyだけが海兵隊員でなかった。そのことがどんな意味を持つのか知らないが、それを強調している資料もある。ところで、6月23日、アメリカの海兵隊はJohn
Bradleyが「あの写真」の中にはいなかったことを公表した(熊本日日新聞6月24日)。
それは海軍衛生兵のジョン.ブラッドリー氏ではなく、海兵隊一等兵のハロルド・シュルツ氏だったという。シュルツ氏は1995年に亡くなっているが、一度だけ家族に「私は星条旗を立てた1人だった」と明かしたことがあった。写真に写った6人のうち3人は硫黄島で戦死し、残った3人が国威発揚のためにアメリカ国内を回ってその貴重な体験談を話したらしい。また、この写真をもとにして、ワシントン近郊には海兵隊戦争記念碑があるという。それぞれの人間が、それぞれの胸の内に「事実」を仕舞って、そのまま旅立ったことになる。いま生きている彼等の関係者は、やはりそれぞれの思いでいることだろう。それにしても「事実」が判明することは、多くの人々に甚大な影響を与える。そのときどに「事実」が伝えられることの重要さを感じる。
最後になったが、John Bradley氏は「最初の小さな旗」を立てた際にその場にいたことは確証されているようだ。 |
ピュリツァー賞の写真 2016/07/01 Fri 5017
硫黄島は太平洋戦争の激戦地として知られる。その戦闘はクリント・イーストウッド監督の2部作「父親たちの星条旗」(Flags of Our Fathers)と「硫黄島からの手紙」(Letters
from Iwo Jima)で克明に再現されている。後者の主人公栗林忠道陸軍中将を渡辺謙演じた。この2本は硫黄島の戦いをアメリカと日本の視点から構成したもので、私はとてもいい作品だと評価した。もちろん映画であるから「創作」が含まれるのは当然である。しかし、「相対する視点」でものを捉える姿勢は、あらゆる人間行動の分析と理解に欠かせない。これは私自身が最も大事にすべきだと考えていることである。
ところで、「硫黄島」の死闘の末に勝利したアメリカ兵が「摺鉢山の山頂に星条旗を立てる写真」はよく知られている。私が初めて観たのは子どものころだった。それが当時のアメリカ人の心を捉えたことは容易に想像できる。事実、この写真は高く評価され、撮影した写真家トーマス・E・フランクリンはピューリッツァー賞(写真部門)を受賞している。
ただし、この写真は「本当の最初のものではない」という。まずは、戦闘が終わりに近づいた1945年2月23日の午前10時15分に「70cm×135cm」の星条旗が立てられた。それから戦闘が完全に終了した後の12時15分になって、今度は「140cm×245cm」の旗を掲げ直したのである。最初の旗と比べると面積にして4倍になる。これを「やらせ」と観るかどうか、その評価は人それぞれである。ただ、世の中は「写真に限らず」そんなものであることを知っていて悪くない。
|
|