HOME    4月号
 Back Numbers
味な話の素No.181 2018年5月号(5776-5833) Since 2003/04/29

「姑⇒嫁」「嫁⇒姑」? 2018/05/31 Thu 5833 continued from 05/22
 このところ、世の中にRisik Management 系の話題が充ち満ちていることから、「嫁姑問題」の影が薄くなっていました。そこで、「逆質問」の続きと参りましょう。「⑥新聞(等))の投書は『嫁』『姑』のいずれが多いか」です。また、それは「嫁姑問題」を抱えている「母集団」を代表しているのかという疑問です。
 私自身、少なくとも歴史的には「意地悪」は「姑側」のイメージと強く結びついています。その傾向は現在でも変わらないのでしょうか。また、その昔は「嫁」の方が強い事例は取るに足りないほど少なかったのでしょうか。家父長制の世界ですから、おそらくは「そうだったんだろうなあ」と思います。しかし、それはいわゆる状況証拠に基づく推測というべきです。
 また、新聞等で「すべての投書」が取り上げられるわけではありません。そこには編集者の選択基準が反映されているはずです。たとえば「姑⇒嫁」対「嫁⇒姑」の割合が2:1だとしても、投書欄にその割合で登場することはないでしょう。さらに、投書者の文章表現が「おもしろい」とか「めったにないケース」といった理由で相談の対象になることもあるでしょう。
 
「ことば」と「乖離」 2018/05/30 Wed 5832 continued from 05/28
 日本大学の学長が「今日では若者と言葉が通じない傾向がある」といった発言をした。だから、「言った側と」と「聞いた側」に、瞬間的に流行った(?)「乖離」が生じたと言いたいのだろう。
 学長の専門は知らないが、「ことば」は人それぞれで「受け止め方が違う」のは今さら強調することでもない。教学のトップである教師なのだから、その程度のことは常識としてもっていなければならない。まともな指導者であれば、そうした「ことばの危うさ」を認識し、「乖離」が生じないよう努めるべきなのだ。ましてや、曖昧な表現で「意図的」に「乖離」を生じさせるなど、リーダーがしてはいけないのである。また「乖離」が生じたと認識した瞬間に具体的な行動を執るのが当然だった。
 それにしても、今回のケースでは、大学組織としての危機管理が機能していない。この問題は大学が責任を負うべき部活動で起きたのである。それにも拘わらず、「アメフト部」だけの問題にしている。それも監督が諸悪の根源となれば、総入れ替えで一件落着となる。組織としての責任が問われているのだが、その点の対応が意識的なのか無意識的なのか避けられている。
 
早朝夕刊(5:21am):「昔は…」の繰り言 2018/05/29(2) Tue 5831
 年をとると「昔」の部分が多くなった分、「昔は…」という枕詞を多用しがちになる。そのほとんどが今と比較しながら大いに「嘆いて」みせるわけだ。その記憶がどのくらい正しいのか知らないが、私なんぞは「今の方がずっといい」と信じて生きている。
 某大学アメフト部の監督のように、「自分たちが若いころだって徹底的に鍛えられたんだ」などと言って、自らのパワハラ的行為を正当化するのはいただけない。体罰でもこの発想が使われがちであることを危惧する。権力とプレッシャーだけで人を動かそうとするのは、それ以外に影響を与える力をもたないことを自ら宣言しているに等しい。ヤレヤレですね。
 
常識を忘れない 2018/05/29 Tue 5830 continued from 05/07
 「問題を感じた際に、一般社会の常識を忘れず、第三者的に物事を判断する」。倫理的行動に関する回答の一つです。ここには「一般社会の常識」と「第三者」というキーワードが含まれています。
 まずは「常識」です。さまざまな組織や団体の問題が明るみに出るたびに、「ああ、またか」とため息をつきたくなります。そして「こんな当然のことがどうしてできないのだろう」という疑問が浮かびます。そこには「一般社会の常識」からは考えられないことをしているという思いがあります。私たち「常識人」はそうした受け止め方をします。
 ただ、ここでさらに大事なのは「それほど常識的な行動」をとることができなかった原因を明らかにすることです。この世の中には、個人の性向として「常識」に基づいた行動をとらない人もいます。それも無意識的ではなく、意識的に「非常識」あるいは「反常識」と思われるケースあり得ます。しかし、一般的には「問題を感じた」ら「できれば常識的な行動の方を選択したい」という思う人の方が多いのではないでしょうか。そうした心情を科学的に説明するのは措くとして、その方が気持ちが落ち着きます。
公的場における笑み2018/05/28 Mon 5829
 日本大学の学長が記者会見のなかで、「今日では若者と言葉が通じない傾向がある」といった趣旨の発言をしていた。それに続けて「皆さんの職場ではどうですか」と軽い笑みを浮かべて問いかけた。そこからは「そんなに責めるけど、あなたたちでも同じでしょ」という心情が窺える。ちょっとばかり余裕も感じられた。
 一方的に攻められっぱなしの状況では、こちらも一矢くらいは報いたくなる。そんな気持ちは理解できないこともない。会見をすべて見るだけの時間の持ち合わせはなかったが、聴く側はもう少し論理的かつ事実についての問いかけをすべきだと思う場面がけっこうあった。
 それはそうと、ああした場では、ちょっとした「笑い顔」もできるだけ抑えた方がいい。世の中には強面といわれる人がいる。見るからに怖そうな風貌をしている人たちのことである。その一方で、なんとも「軟弱」そうに写る人もいる。われわれは「見かけ」によって、その人物の「性向」まで推測、あるいは邪推する。初対面の相手だと、それなりのイメージを創り、それに対応した行動をとる方が安全だからである。ただし、「人は見かけによらない」ことも多い。
 
高さんからの手紙(63)2018/05/27 Sun 5828 continued from 05/20
 財団法人の経理を担当した「三角さん」について、「高さんの手紙」には次のような記述がある。

 昨年(2010年)、彼女が太宰府の博物館見学に来たので「あの時経理とかよくできたものだなあ」と話したら、「自分で費用を出して夜間に簿記の専門学校に勉強に行った」とのことでした。知っていれば授業料くらいは負担したのにと申し訳ない気持ちでした。研究所の基礎造りに彼女の果たした功績は極めて大きいと思います。

 この「博物館」とは「九州国立博物館」のことである。ここでは、展示の解説や来館者の対応などをするボランティアが活動している。高さんのお住まいは太宰府で、博物館の開設のころからボランティアとして仕事をされていたのである。このボランティア、博物館の様々な展示にも参加できるとのことで、「一度やったらやめられない」魅力あふれるものだったと聴いている。そんな特典もあることから、任期が設けられていつまでも続けるわけにはいかないようだ。
 三角さんが研究所の経理のために自分で専門学校へ通ったことは、私も相当な時間が経過した後で知った。こうしたところが、いかにも三角さんらしいのである。
 
My Twitter 心根の露呈 8:09am 2018/05/26(3)Sat 5827
 
日本大学の学長が会見時の冒頭で語った。「謝っても謝りきれないような…」「お詫びしたいと思います」。ここで「ような」はいけません。ストレートに「謝っても謝りきれない」であるべきですね。また、「したい」も余計です。ここも「お詫びいたします」ですよ。「ような」も「したい」も、「本当はしたくない」という心根が透けて見えます。 
早朝夕刊(5:44am):歴史に残る「モデルケース」 2018/05/26(2) Sat 5826
 日本大学の学長が記者会見をした。ようやくである。それにしても、問題発生からすでに20日近くが経過している。それも、反則をしたとされる学生が一人で記者会見し、それを見て監督とコーチ二人が出て来ざるを得なくなった。そうした流れの中で、とうとう学長が出てきたわけだ。
 私は5日の本コラムで、こうした場合、最終的には「謝罪に追い込まれる」ケースが多いことに触れた。今回の日大の対応は、危機管理における「してはいけない失敗事例」として歴史に残る「モデル」になることは疑いない。ここまで来ると、アメフト部以外の学生の保護者たちまでが声を挙げる可能性すらあるのではないか。
 
驚愕の「落ち穂拾い」 2018/05/26 Sat 5825 continued from yesterday
 昨日は、オルセー美術館で「落ち穂拾い」を前にしたとき、「私の心に驚きと衝撃が混じり合った気体のようなものが発生し」、「それを…文章にして正確に表現することなど完全に諦めるほかはない」などと何とも思わせぶり記述をしてしまった。まさに誇大な表現だった。
 そのときの事実だけを記するなら、「『落ち穂拾い』の前に立っている人がほとんどいなかった」のである。私としては、子どものころから件の絵を「超有名」な作品だと信じていた。したがって、その前は人だかりで騒然としていることを予想していたわけだ。それが少なくともそのときは、「誰も足を止める者がいない」といった状況だった。その一方で、同じオルセーの中で「ゴッホ」の作品が並んでいるところがあったが、そちら大いににぎわっていたのである。
 ミレーの作品は「種蒔く人」が岩波書店のマークとして使われていて、学生時代から馴染みがあった。教科書などで必ず目にしていた作品だったが、あちらとこちらとでは評価が違うんだなあと思った。私には、ミレーの絵は働く農民たちを扱ったものが紹介されている気がする。種蒔きの時期はわからないが、秋の色や夕暮れの風景が日本人にとってもわかりやすく、そんなところが好まれるのかもしれない。
 
「落ち穂拾い」 2018/05/25 Fri 5824
 
わが国では、ミレーの「落穂拾い」(1857年)を教科書をはじめとして目にする機会が多い。私は2012年7月にパリに出かけたが、その際に「オルセー美術館」へ行った。すでに「ルーブル博物館」で「モナリザ」や「ミロのビーナス」はもちろん、「ナポレオンの戴冠式」に「民衆を導く自由の女神」などなど、とにかく教科書で見た超一級品を目の前で鑑賞できて大満足していた。
 しかし、もう一つ、どうしても見たいものがあった。それはミレーの「落ち穂拾い」であるが、これは「ルーブル」ではなく「オルセー」が所蔵していた。そうなると、「これを見ないわけにはいかない」という心境になるのは自然の流れである。
 そんなわけで、予定の仕事を終えてから「オルセー」に向かった。入館するなり、「落ち穂拾い」を意識して興奮を抑えながら会場を回っている自分がいた。そのうち、いよいよお目当ての「落ち穂拾い」が近づいてきた。そしてついに「その前」に立ったその瞬間であった。私の心に驚きと衝撃が混じり合った気体のようなものが発生したのである。それをいまここで、文章にして正確に表現することなど完全に諦めるほかはない。
 
何度目かの「カナカナ」 2018/05/24 Thu 5823
 
本コラムで「かなかな症候群」を最初に取り上げたのは2005年7月28日だと思われる。私なりに検索したが、それ以前まで遡ることができていない。私は、何かというと「かな」を連発する風潮に大いに反撥している。「かな」などと曖昧な言い回しをしてはならないという主張である。
 「かな」は終助詞「か」と終助詞「な」が組み合わさった「連語」で、「文末にあって、名詞および名詞的な語、動詞・形容詞の連体形などに付く」(デジタル大辞泉接)。テレビを見ていると「耳障りだあ」と絶叫したくなるほど「かな」が「飛び交う」のである。そこで「ああ、まただあ」「まただあ」と連呼しまくることになる。
 先日のアメフト事件にかかわって、スポーツ庁の鈴木大地長官がインタビューに答えていた。「指導者と選手のコミュニケーションのあり方とか、こういったところをスポーツ界全体で考えていかなくてはいけないのかなと、このように思っています」。やれやれここでも「かな」なんですわ。わが国のスポーツ行政のトップなんです。ここは「考えていかなくてはいけない(と思う)」と責任者らしく断定しなければいけませんよ。
My Twitter まるで他人事 2:50pm 2018/05/23(2)Wed 5822
 
学生は大学にとって欠くことのできない構成員である。つまりは身内なのだ。また大学が提供するのはサービスであり、その対象である学生なしには存続できない。これに対して日大は「厳しい状況にありながら、敢えて会見を行われた気持ちを察するに、心痛む思いです」とのコメントを出した。まるで「組織外の人間」への「同情」メッセージである。 
「そんなこと聴いていない…」2018/05/23 Wed 5821 continued from 05/15
 〝Feel-unsafe〟を妨げる「心の声」の第③は「そんなこと聴いていない…」である。
 これにもいろいろなケースが考えられるが、「聴いていない」にも拘わらず、それを確認せず「いつも」の通りで行ってしまう。仕事の段取りが急に変わる。それが上からの指示らしいと推測するが、誰も前もって聴いていない。それは受ける側から見れば「伝えられてない」のである。仕事の内容によるとしても、そのままいつものように仕事を進めるとトラブルに繋がる可能性が生まれる。
 そもそも、「伝えられていない」こと自身が、上役やその上の責任者に対する不信感を引き起こす。それが仕事をする人々の間に、「うちはいつもそうだ」「上の方は何の説明もしない」といった思いが強まればことは深刻になる。そして、「そんなことは聴いていない」が、「時間が無い」「確認するのは面倒だ」などの理由で確認なしで先に進む。その結果、取り返しの付かない事態に至ってしまうのである。
 重大事態が発生してから、「どうして『いつもと違う』と言わなかったのか」などと嘆いても後の祭りである。自分たちでそうした「職場の常識」をつくっていたのである。
 
My Twitter 想定していた? 5:57am 2018/05/22(2) Tue 5820
 アメフト問題は被害者である関学の学生側が被害届を出した。その結果、警察が関わる傷害事件として扱われることになる。一方、日大の学生も記者会見するという。それはそうだろう。このままでは、監督の真意から離れたとんでもない犯則行為を犯した救いがたい愚か者になってしまう。大学はここまでに至る可能性を想定していなかったかに見える。
「嫁姑問題」の方向性 2018/05/22 Tue 5819 continued from 05/14
 私の講演を聴いてくださった方から届いた「嫁姑問題」に対する私の「逆質問」の続き。
 ⑤「嫁姑問題」で「上位に立つ」のは「嫁」か「姑」か?その割合はどのくらいか?
 質問には新聞で「嫁姑問題」がよく取り上げられると記されていたが、その具体的な内容やその方向性は明らかでなかった。一般的、かつ「歴史的(?)」には、「姑」が「嫁」をいびるケースの方が多そうな気がするが、実態はどうなのだろうか。また、そこには時代的な傾向や要因が見出されるのだろうか。
 さらに、この問題は「姑の息子」、つまりは「嫁の配偶者」が如何なる行動を執るかが重要になってくる。いわゆるマザコンだと「姑の側」に立って嫁を責めることになるだろう。もちろん、「妻コン」だってあるかもしれない。その場合は、「姑」が厳しくなる。こうした状況で「永世中立」を維持するのは至難の業になる。さらに「マザコン+妻コン」かつ「気弱」だと、状況はいよいよ深刻化する。つまりは「優柔不断」で「どっちつかず」、内輪の問題が気懸かりで仕事が手につかない。あるいは、家に帰るのがストレスとなって「帰宅拒否」が引き起こされる?
My Twitter 呼び違い 5:57am 2018/05/21(3) Mon 5818
 日大の監督が大阪まで大学や選手の家族に謝罪に行ったあとの発言が問題になっている。関西学院大学を「かんさい学院大学」と繰り返し誤って呼んだという。「関西(かんさい)大学」とは違うのである。もちろん、すべての一般人が認識していることではないかもしれないが、謝罪する相手の名前を正しく表現するのは「危機管理」の基本ではないか。
 
早朝夕刊(5:37am):すばらしき影絵 2018/05/21(2) Mon 5817
 県立美術館で開催されている影絵作家藤城清治氏の展覧会に出かけてきた。藤代氏の作品は本などで見てはいたが、本物の素晴らしさに感動しながら回った。地震で崩れ落ちた熊本城の石垣の石や青空を泳ぐ90匹を超える鯉のぼりの鱗一個ずつ貼り込んでいったという。その徹底ぶりには驚くほかはない。その色合いの美しさと幻想的な雰囲気に飲み込まれる。世の中にはもの凄い人たちがいるのだといつも思う。
 そんなわけで、会場の入り口から出口までじっくり味わったら、2時間近くが過ぎていた。私と二回り違いの94歳だが製作意欲は衰えていないようだ。私も「第3の定年」を75歳まで延長しようかなあ。
湯川秀樹氏の字 2018/05/21 Mon 5816
 湯川秀樹氏の日記が公開された。アメリカの水爆実験で第五福竜丸が被爆したのが1954年3月1日だが、日記は3月16日付けのものである。「第五福竜丸帰港、火傷の傷害を受けた乗組員を診断 水爆症と推定」という記述があるという。
 その内容は措くとして、掲載された写真を見ると相当に個性的な文字である。湯川氏は第一級の物理学者であるが、またすばらしい文筆家でもある。私は高校生のころから、「自然科学者は随筆も書けるが、文系人間は文章はそれなりにつくれても、自然科学についてはチンプンカンプンだ。その点で文系的(だと思い込んでいた)自分は半人前だなあ」と思っていた。そして、その思いは今でも変わらない。
 やれやれ、「個性的な文字」から脇道にそれてしまった。「個性的」というのは婉曲的な表現で、じつは非常に読みにくい筆跡である。それを世間では「字が上手じゃない」とも言う。こんなことを言う人間がいると知ったら、湯川さんの方が「やれやれ」とため息をつくだろうか。そのあたりは天国に行かないと確認できないが、「有名人」は私的な日記に書いた文字まで評価されるのだからけっこう大変だ。
 
早朝夕刊(6:56am):予測通りのパターン 2018/05/20(2) Sun 5815
 日大アメフトの監督が辞任を表明した。今回の事態についてすべての責任があることを認めた。ただ、それは日大広報部が出したとされる見解と「乖離」がある。
 ともあれ、本欄でもすでに触れたように、「初期対応ミス」から「謝罪」と「辞任」に「追い込まれる」という「危機管理」の典型的なケースになった。同大の「危機管理学部」は機能していないかに見える。辞意表明と言っても、駐車場あたりでの口頭によるものだが、「弁解しない」との発言もあった。個人的に「弁解=言い訳」しないのはいいとして、問題が発生した原因についての「説明」をパスしては組織人として責任を果たしたとは言えない。
 
高さんからの手紙(62)2018/05/20 Sun 5814 continued from 05/13
 「高さんの手紙」では、集団力学研究所が財団法人になりたてのころの経過も興味深い。

 正式に「財団法人 集団力学研究所」が福岡県から認可され発足したのは昭和53年(1978)年6月10日です。それまでは任意団体でしたが、財団法人への移行となれば、格段に専門的な対応が求められます。経理はもちろん、監査もさらに厳密に要請されます。こうした状況で、経理については三角さんの非常な努力がありました。三隅先生も小生も経理についての知識をもっていません。そこを三角さんにしっかり対応してもらいました。

 三隅先生は研究所の事業については、様々な構想やアイディアを出し、国内外から大物研究者を招聘したシンポジウムなども実現された。九州生産性本部創設10周年のセミナーに、あのリッカート(Rensis Likert)教授を呼ばれたことはすでに見たとおりである。また〝 "Japan as Number One(1979)"の著者として知られるエズラ・ヴォーゲル(Ezra Feivel Vogel)氏も、まさに旧来の友人といった雰囲気で研究所のセミナーに招聘された。そんな三隅先生だが、当然の如く経理についての専門知識をもっておられなかったわけだ。
 
早朝夕刊(5:49am):反論役割者 2018/05/19(2) Sat 5813
 英語の〝object〟は名詞で「物、物体」「目的、目標」などの意味がある。また「反対する」「抗議する」「異議を唱える」といった動詞でもある。これに「…する人」を意味する接尾語〝or〟を付けて〝objector〟にすると、「反論役割者」といった訳になる。
 力をもつ人間の周りには本人が「意図しない」としても、〝Yes persons〟が周りを囲むものだ。組織のリーダーなら、そうした人間集団の「構造的脆弱性」を「意識しつづける」ことが求められる。その上で、あえて「反論」する「役割」を担う強力な〝objector〟を身近に引き寄せる力をもつ必要がある。もちろん、それは「信頼できる協力者」である。
 
教職大学院ニュースレター 2018/05/19 Sat 5812
 教職大学院で楽しい時間を過ごさせていただいている。昨年度末にニュースレターに寄稿したので、そのままご紹介したい。
 「理論と実践の『創続的往還』を求めて ―四つ星の組織力で五つ星「教職大学院」を目指す―」
 教職大学院がスタートして早くも1年が過ぎようとしている。研究者・実務家教員と現職・ストレートマスターの院生たち四者が目標を共有し影響し合いながら、全員が「成長した」ことを実感している。熊本大学の教職大学院は全国でも最後発組に属しており、先行する大学院に学びながら、熊本大学ならではの個性を追求していくことが求められている。
 その成果は、2月17日開催の「第1回教育実践フォーラム」で明らかになった。現職の院生は学習中の様々な理論と現任校での実践を統合するチャレンジを活き活きと語った。またストレートマスターは学びと実践体験について不安を感じていることも交えながら発表した。そうした心情を吐露できること自身が成長の証である。教員と院生が一体となって「不安」を「教育のプロ」になるためのエネルギーに転換するのが「教職大学院」なのだ。
 今後も理論と実践の絶えることのない「創続的往還」を追求していきたい。教員と院生の相互作用で四つ星を達成した。その「組織力」で教職大学院を五つ星にアップしよう。
 
早朝夕刊(6:48am):ブラック・カリスマ 2018/05/18(2) Fri 5811
 広義の「危機管理」には重大事態が起こらないようにすることも含まれる。日大危機管理学部のホームページにも「リスクリテラシー」という用語が使われている。マスコミ情報には「監督は絶対的な権力者で、誰も意見が言えなかった」という情報もある。まさに「言いたいことが言えない」関係の典型である。私はこれに「言っても聴いてもらえない」を併せて、組織における重大事態発生の「二大元凶」だと指摘してきた。
 今回「雲隠れ」している監督は大学組織内でもトップの地位にあり、「言うこと」すらできない状況だったのではないか。こうした「ブラック・カリスマ」が組織の安全を脅かすのである。
 
「危機管理学部(!?)」 2018/05/18 Fri 5810
 日本大学には「危機管理学部」があることを初めて知った。
 同大のホームページには、「卒業の認定に関する方針(ディプロマ・ポリシー)」として、「自主創造の理念の下、豊かな教養と確かな知性の上に、法学と危機管理学とを融合させた学識を構築する教育課程を通じて、危機管理の重責を全うしようとする使命感と、その実践に不可欠な、自ら学び、考え、道をひらくための以下の能力等を身につけ、所定の単位を修得した者に、『学士(法学)』を授与する」と謳う。
 文中に「、」が多すぎるのは個人の好みだが、今回の「事件」に対する「危機管理対応」には何らの貢献もしていないようだ。さらに、「法学と危機管理に関する高度な学識と技能(リーガルマインド、リスクリテラシー)を運用する能力」「国際的教養人としての感性とグローバルに行動できるコミュニケーション能力」「問題を探究し、状況を的確に把握・分析して、合理的な判断につなげられる知性」などと並べられると苦笑するほかはない。
 これまで日本大学が選択した対応は、まさに「こんなことをしていると収拾がつかなくなる」という最高の反面教師的事例ではないか。
 
早出し夕刊(8:26am):否定する当事者たち 2018/05/17(2) Thu 5809
 日大は関学からの「抗議文」に「回答書」を提出したようだ。その中で「監督の責任」が触れられていないといった情報が流されている。それは本当なのだろうか。
 昨今は、当事者が問題を否定していたにも拘わらず、外部の調査で批判的な指摘を受けて謝罪に「追い込まれる」ケースに充ち満ちている。適切な対応を先延ばしすればするほど事態はどんどん悪い方に展開する。日大が「回答」を作成する際にも法律のプロが関わっていると思うが、この先、どうなることやら。ともあれ、これは「スポーツ」の問題とは言えない。
 
トップの怪しさ 2018/05/17 Thu 5808 continued from 05/07
 「自分が企業人(経営者)となり,目標達成のために努力すること」を倫理的行動として挙げた方がいました。これは、「誰もが経営者=トップに求められる責任感をもたないといけない」「組織の目標を達成するために努力すべきだ」ということでしょう。「どうせ最終責任は上の方がとるのだから」といった気持ちでいい加減な仕事をすることがないように戒めたものだと考えます。
 その発想は疑いなく正しいですね。組織における地位の如何を問わず、すべての構成員がそうした気持ちで仕事をすれば倫理的な問題を起こすこともないでしょう。
 その上で、やや辛口のことを言わせてもらえば、このごろは、大企業で「そうした自覚」に乏しいのではないかと言いたくなる事態が頻発しています。それも「トップ」が怪しいとなればこれは大問題です。むしろ「トップのいい加減さ」が、しっかりサービスを提供しものを創っている多くの真面目な構成員を路頭に迷わせる事態を引き起こしているのではないか。そんな暗澹たる気持ちにさせてしまうことが繰り返されている現実を直視すべきでしょう。
 
遅出し夕刊(7:28pm):全面否定! 2018/05/16(3) Wed 5807
 本当のことはわからないが、日大の広報担当がスポーツ紙の記者に、問題のプレーを監督が指示することは「あり得ない」と「全面的に否定した」という。
 そうなると、識者たちが異口同音にアメフト歴史上最悪と断定する行為をした学生があり得ないほど愚か者だったことになる。それが真実なのか。それとも、監督がごく普通に激励しただけなのに、あの学生がいま世の中で大いに流行っている「信じられないほどの忖度」をしたというのだろうか。
 そもそも、こうした問題は組織内で調査してもほとんど意味がない。第三者から構成される委員会が関わらなければ、信頼性が担保できないことは誰にだってわかる。
 
早出し夕刊(6:17am):恥ずべき暴行 2018/05/16(2) Wed 5806
 アメリカンフットボールもラグビーも「そんな球技がある」くらいの知識だ。その程度の素人でも日大の「暴行」のひどさには開いた口が塞がらない。しかも、気を抜いた相手の背中からタックルするなど、まともな人間がするとは想像すら出来ない最悪の卑怯者行為である。
 あまりのひどさに、ビデオを見ている自分の方が恥ずかしくなってくる。あんなのをスポーツなんて言わせない。子どもの教育にも悪いに決まってる。真偽のほどはわからないが、何と監督の指示だったという情報すらあるようだ。その日から監督自身は「雲隠れ」と揶揄されている。実際に関わっていたとすれば、まともに出てこられないだろう。
「ヴィ」の連想 2018/05/16 Wed 5805 continued from 05/12
 白樫先生がメールで〝Lewin〟を「レヴィン」と表記されているのを見て、「そう、『レヴィン』なんだよなあ」と想った。それを受けて、〝w〟や〝v〟に〝f〟について考えた。その瞬間に「ヴィ」と表記する具体的なものについても想いがめぐった。
 まずはトヨタに「ヴィッツ」という車があるのが頭に浮かんだ。これは〝Vitz〟と表記されている。因みに、この名前は「英語の『Vivid(鮮やかな)』とドイツ語で『才気、機知』という意味の『Wit』を掛け合わせた造語」(由来島.jp)だという。
 その次に思い浮かんだのは森鴎外の「ヴィタ・セクスアリス」という「書名」だった。青年期のころの私にとって、その「タイトル」は興味をそそるものだった。私が中学生から高校のころは夏目漱石や芥川龍之介、森鴎外などが書いた、いわゆる古典的(?)名作を読んだ。もちろん現代作家のものにも手を出した。その中には大江健三郎や開高健、さらには石原慎太郎などの作品もある。高校に入ってから、こうした作家たちのデビュー作もそこそこかじった。川端康成の小説もけっこう手に取った。しかし「ヴィタ・セクスアリス」は読むことがなかった。
早出し夕刊(8:42am):「三位一体」 2018/05/15(2) Tue 5804
  「こころ」と「ことば」と「行動」の「3K」は人間にとって大事な「三位一体」。「こころ」から「ことば」が生まれ、それが「行動」を喚起する。また、「行動」が先に出て、それが「ことば」を呼び込み、その結果として「こころ」も変化する。あるいは、まずは「ことば」を発することで、それに「行動」がついてきて、さらに「こころ」が影響を受ける。もちろん、「こころ」が「行動」を従わせ、それに合わせるように「ことば」が引き出されることもある。
 それがどれからスタートするにしても、「3K」は人生にとって「三位一体」「密接不可分」である。この三者を大事にしながら生きていきたい。
 
 
いつもと違う 2018/05/15 Tue 5803 continued from 05/09
 〝Feel-unsafe〟を抑える「心の声」の②は「いつもと違う…」である。手続きにしても作業にしても、さらにはその工程で出会う製品の状態、人の行動などなど、とにかく「いつもと違う」と感じた。しかし、そのとき「機械を止めることが出来ない(と思ったり、確信したり)」、「仕事の邪魔になる(と思ったり、確信したり)」、「相手が不快に感じる(と思ったり、確信したり)」で、「いつもと違うこと」に対して(何もなかったかのように)「いつもと同じアクション」を執ってしまうことで問題が起きる。
 トヨタの生産工程が現在どうなっているのか知らない。もう大昔と言うべきだが、トヨタの組み立て工程では、不具合が起きると作業場に張り巡らされた「ひもスイッチ」を引いてラインを止めることになっていた。これはトヨタの「改善=KAIZEN」における強力な武器として知られていた。いつもの行程で「いつもと違う(異常)こと」が発生した(と思われる)ときは、誰もが仕事の流れを止めることを可能にしていたのだ。これを記述してしまえば単純だが、「それができること」を保証する文化がなければ「絵に描いた餅」になる。
My Twitter 条件付き 5:43am 2018/05/14(2)Mon 5802
  何でも「世界一」を取り上げるのが「ギネスブック」である。いまどのくらいの「件数」が登録されているのか知らない。当然のことながら掲載されているのは「認知されたもの」に限られる。〝本当に〟世界一「強い人」「速く走る人」、はたまた「髪の毛の長い人」がどこの誰であるのかはわからない。人間の評価はすべて「条件付き」ですよね。
 
不安解消 2018/05/14 Mon 5801 continued from 05/08
  質問子が指摘する「『嫁姑問題』を新聞の相談欄でよく(?)見る」というのは、ご本人の気のせいではなく、絶対数が多いのかもしれない。そこで次のような疑問を提示してみた。
 ④「相談」で取り上げられることが多いと認識した読者が「投稿意欲」を高め、「欲求不満解消」を試みる可能性はないのか?
 これはいつもの、確たる根拠に基づかない「邪推」だが、「よく載る」ことが「事実」であれば、「よく載ること」を相談したくなるのは当然である。質問子には勢いで「欲求不満解消」と書いてしまったのだが、これは問題表現だと認識した。そうではなく、ここは「不安解消」とすべきだった。このところ「上から目線」で「問題発言」を繰り返す人が目立っているが、「ことば」には気をつけなければいけない。
 心理学には「親和動機」と呼ぶものがある。不安になると人を求めようとする力である。ケネディ大統領が暗殺されたとき、多くの国民が親しい人たち同士で集まったり、電話で話したりしたという。お互いに不安を共有化することで、「自分だけではない」という安心感が生まれる。それが「不安解消」へのエネルギーになればいい。
 
高さんからの手紙(61)2018/05/13(2) Sun 5800 continued from 05/06
  集団力学研究所が創立10周年を迎えた記念に「財団法人化」する話が地元福岡の七社会のサポートを得ながら進んでいった。このあたりの状況を「高さんの手紙が」伝えている。

 財団法人の認可は福岡県でしたが、規約作りなどで20回くらい県庁の総務課に通ったような気がします。若手の方々が認可に向けて積極的に支援して下さいました。正式に財団法人集団力学研究所が認可され発足したのは翌年の昭和53年(1978年)6月10日です。正式の財団法人ということになると、監査などはそれまでの任意団体以上に厳密に要請されることになりました。こうした状況に対応するにあたって三角さんの非常な努力がありました。三隅先生も小生も経済のことはわからないものだから、三角さんに頼り切りでした。

 それから相当の期間が経過した今世紀になって、私自身が研究所長を勤めることになった。そのときの私は研究所の事業などを考えたり、アイディアを出したりすることはできた。ところが「経理」はまるで素人ときているから、事務局長や専門知識をもっている方々の力に頼ったことは言うまでもない。ところで、ここでも三角さんが登場した。
 
関ヶ原の汚名 2018/05/13 Sun 5799
 せき が はらの たたかい -たたかひ 【関ヶ原の戦い】1600年9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。豊臣秀吉の死後,天下の実権を握った家康は三成と対立し,それぞれ諸大名を糾合して戦ったが,小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し,三成らは処刑され,豊臣秀頼は摂津・河内・和泉六〇万石の一大名に転落した。この結果,徳川氏の覇権が確立。俗に「天下分け目の戦い」という(広辞苑)。
 あるとき「関ヶ原の戦い」について調べたいことがあったのだが、これを読んで私は思わず「うーん」と唸ってしまった。私は歴史が好きではあるが、「事実」を確認できる力はもちろん無いが、「小早川秀秋」さんにとっては不名誉この上ない記述ではないか。彼がこの事実を知ったら、「辞書にこんなこと書かんといてくれーっ」と絶叫するに違いない。そして私は、とりわけ政治家の皆さんには、後々の辞書にこんな風に書かれるようなことをしないよう気をつけましょうと言いたくなった。ところで、幸いと云うべきか小早川さんには子孫がいないようだ。それを知って、人ごとながらも「ほっ」とした自分がいた。
My Twitter 人と見かけ 1:08pm 2018/05/12(2) Sat 5798
  「人は見かけによらない」という。考えてみれば「見かけ」とは「こんなに見える人はこんな性向をもった人だ」という「自分(たち)」の「勝手な」あるいは「都合のいい」「思い込み」ではないか。「○○人はずるい」「九州の男は酒飲みが多い」…。こうした客観的裏付けに基づかない「判断(というよりも)邪推」の蓄積が偏見を生みだしていく。
「バ」と「ヴァ」 2018/05/12 Sat 5797 continued from 05/05
 さて、先週の土曜日に言及した白樫先生からのメールは2016年8月13日のものである。それは「レヴィン(アメリカ人は「ルーウィン」と呼びます)は1933年ナチスから逃れてアメリカに渡りました」からはじまった。すでにこの一行からして、本コラムの数回分は必要になりそうな予感がする。
 われわれの業界では、グループ・ダイナミックスの創始者であるKurt Lewinを「クルト・レビン」と表記することが圧倒的に多い。私はドイツ語の知識は皆無だが、これは「ドイツ音」なのだろう。
 ところで、わが国では「v」や「w」が入ると「ヴ」と表記するすることがあった。それにしたがえば「クルト・レヴィン」となる。英語では「Ba」と「Va」は発音が異なる。そこで、「バ」と「ヴァ」を区別したのである。中学1年生のころ、「前歯で下唇を軽く噛む」と「ヴ」という音が出ると習った。これが有声音の〝v〟である。そのままの状態で空気だけを吹き出すと無声音の〝f〟、つまりは「フ」となる。この〝f〟については、たとえば〝file〟や〝film〟を「ファイル」「フィルム」などと表記する。こうした細かいこだわりもまた楽しい。
 My Twitter 毎日が蘇り9:21am 2018/05/11(2) Fri 5796
  夜はすぐに寝付く。「眠り」には「気が付かない」ままに入る。「気が付いて」いるうちは「眠っていない」のである。これは、あの世に逝くための体験ツアーだと思う。本番の場合は、その状態がずっと続いていくことになる。まだツアーのときは、翌朝になると「蘇る」わけだ。そう、「毎日が蘇り」なのだから、今日もしっかり生きていきましょう。
 
「結果的に問題はない」… 2018/05/11 Fri 5795
 日産の検査で問題が発生したとき、ある新聞に「日産は生産台数の割に検査者の人数が少ない。その点、スバルは違う」といった趣旨の記事が掲載された。スバル派を自認してきた私としては「さすが、スバルなのだ」とにんまりしたことを記憶している。ところが、それから数日後だったか、「スバルもだあ」となって仰天し、かつ「なんでや」と絶叫した。そして、スバルが国土交通省に検査不正があったことを報告することになる。
 新車を出荷する前の燃費と排ガスの検査でデータを改ざんしていたのである。それも、工場で検査員を統括する班長が書き換えを指示したというのだから完璧に「組織的」だった。まったくヤレヤレである。それについてトップが謝罪したことは当然だが、記事の一部がこれまた気になる。「『本来の測定値を前提にしても基準を満たしている』と品質への影響は否定した」というのである。いつものパターンである。「結果としては問題はない」というコメントは耳にたこができるほど聴いてきた。つまりは「そもそも基準が高いのだ」「問題がなければいいじゃないの」という発想である。これが安全を危うくするのである。
「邪推」の打ち止め 2018/05/10 Thu 5794 continued from 05/02
 大阪大学の「入試ミス」について「邪推」を重ねてきた。それも、このあたりで打ち止めとしたい。
 ともあれ「伝えられた事実」によれば、大学がミスを認めたのは、予備校講師のY氏がメールを出した8月から5ヶ月ほど経過した翌年の1月6日だった。このときになって、Y氏にも追加合格を決めた経緯と再発防止を誓う内容のせんもんてメールが届いたという。組織において問題が生じた場合、その原因を特定するために時間がかかることがある。それを理由に事実認定が遅れることも、ことと次第によってはありうるだろう。しかし、このケースでは「ミス」そのものの認定に、それほど時間がかかるとは思えない。今回のミスは「客観的事実」のように思われるからである。それに、何よりもミスによって不利益を被る人たちが確実に存在していることがわかっているのである。ほぼ1年が過ぎて「追加合格」を伝えられた者の心境たるや想像すら出来ない。
 前期が終了した時点で、「それまでの授業について補講する」くらいの覚悟で対応していれば、30名の学生が後期から通常の授業を受けて、何の問題もなく2年生になっていたかもしれないのである。


  ※ 素人にはわからない専門的議論が行われている興味深いサイトがあります。http://scienceandtechnology.jp/archives/16233
早朝夕刊(6:23am):失敗を自慢話に 2018/05/09(2) Wed 5793
 人生、生きていれば失敗はつきものです。その軽重は様々ですが、私は「失敗は必ず自慢話になる」と確信しています。失敗は「時間という樽」の中に寝かせておきましょう。それがいつのころかウィスキーのように、「香り豊かでまろやか、そして味わい深い」ものになるのです。そして、それは「生きるエネルギ」「リーダーシップ発揮の力」に生まれ変わります。
 だから、失敗をしたらちゃんとメモをしてしっかり蓄えておくことです。前期高齢者の私などは「失敗にまつわる自慢話」が多すぎて整理ができないほどです。このごろは、「これだけ失敗話の抽斗がある」ことを「自慢話」のネタにしています、ハイ。
 
〝Feel-unsafe〟の抑制因 2018/05/09 Wed 5792 continued from 05/04
  安全に関わる問題を起こした方々から、そのことについて話を伺うチャンスはきわめて少ない。それは組織としても個人としても抵抗がある。また内容次第では守秘義務にも関わるから当然である。そうした状況下できわめて稀ながらインタビューが許されることもある。そんな中で、〝Feel-unsafeのこころ〟を揺るがす「自問自答のフレーズ」が繰り返されることに気づいた。何分にもケース数はきわめて少ないから、そのまま一般化することはむずかしいが、「よくある危険な独り言、あるいは数人言」と受け止めていただくといい。
 ①「こんなの初めて…」と思ったにも拘わらず、とくに確認もせずに「いつものようにやってしまった」。このときは「まあ、いいっか」という軽い気持ちが働いたり、「わざわざ聴くのは面倒だ」と思ったりしたという。それが個人の性格による場合もあるが、上役や同僚との関係の在り方が絡んでいることもある。「一々聴くなよ、それくらいのことも自分で判断できないのか」。頭の中でそんな声が聞こえ、その顔が浮かぶ。こうなると、〝Feel-unsafe〟機能は働いても、それが現実の行動に結びつかないのである。
 
早朝夕刊(4:47am):接頭辞の〝com〟 2018/05/08(2) Tue 5791
 コミュニケーション(communication)の語源はラテン語のコミュニス(communis)、すなわち共通したもの、あるいは共有物(common コモン)を指す。これはコミュニケーションの本質が「共」にあることを理解する上で重要である。また、共同体は〝community〟となる。今日では、社会や学校など、自分たちが生きている〝community〟において生の〝communication〟が失われたり、その「力」が低下している。
 ところで、日本人は〝common sense〟を「常識」と訳すことが多い。しかし、本来は「健全な判断力」といった意味であり、「そんなこと誰でも知っているよ」という文脈では使われないそうだ。
 
「相談欄」の「嫁姑」回数 2018/05/08 Tue 5790 continued from 05/03
  さて、「嫁姑質問」に対する「逆質問」の続き。③「人生相談」では「嫁姑問題」は編集者が読者の目を引くと考えやすいのではないか?
 新聞にしても放送にしても、読者や視聴者の興味を引く可能性が高い話題を取り上げる。こうした組織の目的はできるだけ多くの人の耳目に触れる情報を提供することだから、それは当然である。とくに「嫁姑」問題を抱えている人にとって、自分以外にも同じ「問題」で困っている人がいる「事実」を知ることがある種の安堵感をもたらすのではないか。しかも、その訴えに「そうだ、そうだ、自分もそうだ」という部分が多ければ多いほど、その効果は大きくなる。私自身は、はるか大昔にたまたま相談欄に目が合って、「嫁姑問題」を取り上げたものを読んだことがあるような気がする。まことに幸いながら、わが家ではそうした問題を抱えていなかったものだから、おそらく微笑みながらそれを読んだのではないか。そこに記された回答は記憶していない。
 ともあれ、新聞の「人生相談欄」で「嫁姑」問題の掲載回数が実際に多いのか、それとも同じ問題で悩んでいる人の「認知回数」が多いのか、どちらなのだろうか。
 
My Twitter システムを疑う 6:10pm 2018/05/07(2) Mon 5789
 「このごろの若い者はみんな同じ間違いをする」。これは「若者」に限りません。あることを「みんな」が「同じ」ように間違うのであれば、それは「個人」ではなくシステムの問題だと考えるべきでしょう。とくに「自分たちはそんなことをしなかった」という優越感を伴っているときは要注意、とにかく「何とかしよう」と頭を使う方がメンタル的にもプラスですよね。
 
目先の成果主義 2018/05/07 Mon 5788 continued from 04/30
 倫理的行動として「目先あるいは近い範囲の利益を追求せず,長期的にお客様の立場で行動すること」と書いた方がいました。
 ある時期に「成果主義」の4文字が流行語のようになったことがあります。マスコミでこれを見ない日はないといった状況でした。しかし、最近はその機会が少なくなった気がします。それは、この発想が流行らなくなったのではなく、世間で「当然の前提」と受け止められるようになったからでしょうか。
 その一方で、このごろは「ブラック企業」なる言葉が頻繁に登場しています。こうしたところでは、「成果主義」が歪められて強調されているのではないかと推測します。
 私は何でもかんでも「成果が大事だ」と叫ぶのはどうかと思ってきました。そもそも真の「成果」とは短期に得られる一時的なものに限定すべきではないはずです。人生を考えても、「終わるとき」にしか評価できないでしょう。もっとも、「組織は『終わる』ことを前提にしてやっているんじゃないんだよ。そんな悠長なことを言わんといてくれ、素人さん」と叱られるかもしれませんが…。
 
今月の表紙(2) 2018/05/06(2) Sun 5787
 熊本市は市電が走っている。運賃は170円均一である。AとBの2系統があり、ターミナルはA系統が「田﨑駅橋」、B系統が「上熊本駅前」である。A/Bが「辛島町」で合流して「健軍町」という共通のターミナルに向かう。写真は「上熊本駅前」である。この電停は1913年に建てられたJR旧上熊本駅の一部が移築されて、屋根で覆われている。
 
高さんからの手紙(60)2018/05/06 Sun 5786 continued from 04/29
  集団力学研究所が天神に移転したとき、私は九大の助手をしていた。引越には大学の集団力学講座の院生や学部学生たちが手伝った。
 ところで、前回の高さんからの手紙に「三角さん」という名前が登場した。フルネームは「三角恵美子」だが、この「三角さん」については別に機会を設けて紹介する。三隅先生と集団力学研究所にとってなくてはならない人材だからである。
 さらに手紙には、研究所の財団法人化に当たって西日本相互銀行の大村武彦社長が貢献されたことが記されていた。私は学部学生のときから研究所に出入りしていたが、いつのころからか研究員の名刺を持っようになっていた。そんなこともあって、研究所の役員会には事務スタッフのような立場で出席していた。
 まだ研究所が川端にあったころ、役員会が博多駅前にある福岡朝日ビルの高層階で行われたことがある。ビルの一室を借りて会合を開くだけで「格好いいなあ」と感動する時代である。そのときの会長が大村氏だった。その年代層としては長身な方だったが、議事進行における温厚な語り口が印象に残っている。組織と人材を動かす経営者とはこういう人なのだろうと思った。
今月の表紙(1) 2018/05/05(2) Sat 5785
 京都にある仁和寺の観音堂は2012年12月から半解体修理中である。完成は今年の12月ということだ。文化財の修理では、その部材を可能な限り再利用することになっている。写真は屋根の部分である。都道府県の教育委員会議に出席した際に現場を見ることができた。重要文化財は教育庁の管轄であることから、またとない機会に巡り会えたのである。
 
白樫先生の情報 2018/05/05 Sat 5784
  私が大学院の学生だったとき、白樫三四郎先生が西南学院大学にいらっしゃった。私の学会誌デビュー論文「成功-失敗条件およびリーダーのLPC得点が集団過程におよぼす効果(実験社会心理学研究, 1973)」は、先生にご指導いただいてまとめた。
 先生は私より一回り上の「ネズミ」であり、三隅先生が「もう一回り上」であることは、かなり前になるが、本コラムで触れたことがある。すでに公的な立場からは退いておられ、「サンデー毎日」の日々を送っておられるとのことだが、私の「味な話の素」もフォローしてくださっている。そして、取り上げた話題に関する貴重な情報をいただくことが少なくない。
 あるとき、グループ・ダイナミックスの創始者である「レビン」のことを書いたら、さっそく「第一級の情報」を頂戴した。そこで本欄で是非ともご紹介したいと思い、その旨を先生にお伝えした。ただし、「いつものように」その進度はボチボチで、全体をご紹介し終えるのはいつのことかわからない。その点についても先生にご了承いただいている。そもそも、それは2年ほど前のことだから、スタートそのものが遅きに失しているのである。
早朝夕刊(5:36am):成長のない合理化 2018/05/04(2) Fri 5783
 わが国は現金による支払いが多く、新しい決済サービスで遅れをとっているらしい。中国ではモバイル決済が大いに発達しているという。こうした状況に対して「中国では偽札が多くて現金の信頼が低いからだ」と解説してくれた人がいた。つまりは「彼の国のレベルが低いからだ」と言いたげである。
 しかし、われわれにそんな「合理化」をしている余裕があるのだろうか。仮にスタートが「そんな理由だった」としても、システムが構築されれば、結局はそれにしたがわざるを得なくなる。成長のない合理化はマイナス思考だ。
 
Fail-safeの機能停止 2018/05/04 Fri 5782
  私が「組織安全学」なるものの必要性を提案したのは2000年のことである(組織と人間の安全 -「組織安全学」を求めて- 電気評論、85巻8号)。それから20年近くが過ぎようとしているが、組織で頻発する問題を目の当たりにして、その必要性を強く感じている。
 とにかく社会全体で〝Fail-safe system〟が機能していない。わが国の組織が「安全装置」なしで飛んでいる。さらに「目的地」すら見失ってはいるのではないか。そもそも何が「安全装置」なのかについての議論も必要だが、とにかく危うい状況にどうしたものかと気が重くなる。
 私は〝Fail-safe & Feel-unsafe〟というフレーズで、ハード面で〝Fail-safe〟が確立されていても、人間の側が〝Feel-unsafe〟(「これって危ないのではないか」と認識する)」の感受性に欠ければ安全は確保できないと言い続けてきた。そのことは本コラム2004年1月6日に書いた。まだ通番で263だから大昔の話になる。その後、安全に関わる問題を起こしてしまった組織の方々から話を聴いているうちに、〝Feel-unsafe〟を抑圧する重要な「ことば=疑問」が繰り返されることに気づいた。
 
早朝夕刊(5:36am):蘇る記憶 2018/05/03(2) Thu 5781
 品格を疑いたくなるヤジが飛び交う。そんな国会の中継は子どもに見せられないと本コラムで嘆いたことがある。その国会で、話題のY氏が某学園の関係者と面会していたことを認めるという。これまで「記憶の限りでは会っていない」と云っていた人だが、ここにきて「記憶が蘇った」のだろうか。ともあれ、「ひょっとして会っていないのかもしれない」と考えた者は、この世の中に一人もいなかっただろう。子どもから「どうして思い出したの」などと聴かれたら、大人としてはどんな説明をしたらいいのか。
 そんなわけで、Y氏が登場する国会中継やニュースから子どもたちを遠ざけておくことをお勧めしたい。
 
「不幸せ物語」と「幸せ物語」 2018/05/03 Thu 5780 continued from 05/01
  ②「嫁と姑の仲が悪いケース」の方が「仲が良いケース」と比較して「有意」に多いのか?
 世の中では「目立つこと」「おもしろそうなこと」に焦点が当てられる。私が子どものころ、「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになる」と聴いて「なあるほど」と心から納得したことがある。それは疑いなく小学生のときで、発信源は担任の樋渡茂雄先生だったと思う。
 これは発生件数の多寡が要因になっているが、さらに「おもしろさ」も効いている。「嫁と姑の仲がいい」という話は「仲が悪い」というネタと比べると「おもしろさ」に欠ける。「どうしたらそんなにうまくいくのか」という点で話題になるかもしれないが、「けっこうなことですね」でおしまいになりやすい。また、「うちはそんなんじゃない」と否定されるのが落ちである。人は他人の「幸せ物語」よりも「不幸せ物語」の方が好きなのかもしれない。「自分もそうだ」と妙に安心したり、「うちの方がまだましか」と歪んだ優越感(?)に浸ったりする。当事者たちの深刻さは理解しながらも、その方が気持ちが楽になるし、そもそもエネルギーがいらない。
 
早朝夕刊(5:49am):アイヒマンを追った男 2018/05/02(2) Tue 5779
 「アイヒマンを追え! -ナチスから畏れられた男-」。これは2015年のドイツ映画である。ナチス戦犯の告発に執念を燃やした西ドイツの検事長フリッツ・バウアーの物語。彼は戦時中にAuschwitzにユダヤ人を送り込んだ戦犯アドルフ・アイヒマンがアルゼンチンに潜伏していることを突き止める。そして、その情報をイスラエルの諜報機関に渡した。それは国家反逆罪に問われかねない危険な行為だった。最終的にアイヒマンはイスラエルで裁判に掛けられ死刑が執行された。
 私は2012年7月にアウシュビッツに行った。
 
反応無しから記者会見まで 2018/05/02 Wed 5778 continued from 04/26
 大阪大学に入試のミスを指摘したメールに対して「ゼロ回答」だったことから、Y氏はあらためて詳細に問題点についてメールを書いた。その冒頭には「問題の性質から鑑みて、ご教示いただいたような解答を想定されているとは思っていました。しかし、この解答には理論的な誤りがあるように思います。以下に、その理由を説明しますので、参考にしていただけると幸いです」。
 素人に内容は理解できないが、「理論的な誤り」とまで表現するメールである。その指摘が「誤り」であれば、その事実を丁寧に伝えるべきだろう。もし、それが「言いがかり」同然であれば、そのまま放置することがあり得るかもしれない。その一方で、「それなりの正しさ」あるいは、「一応の理屈」を有していたら、それに応じた回答をしなければならない。大学の入試はきわめて公益性の高い情報だからである。さらに万に一つでも「指摘が正しい」もので、明らかな「ミス」が認められるのであれば、迅速な対応をとるのは当然である。
 ところが、このメールに対する回答はないままに時間が過ぎていく。大学が正式にミスを認める記者会見を行ったのは翌年の1月6日だった。
 
 My Twitter 5:24am 2018/05/01(2) Tue 5777 continued from 04/30
 マイナス思考は、肉体的精神的に不健康な影響をあたえるのではないかとの反論もあるだろうが、じつは最悪の事態を想像し、こころゆくまで落ちこんだりくよくよしたりひがんだりしたほうが健康になれる、との先行研究も存在する(松崎有理 架空論文投稿計画 光文社)。つまりは「マイナス思考」を徹底することが「プラス思考」への「道」とゆうこと?
 
「嫁と姑」問題の客観的多さ 2018/05/01 Tue 5776 continued from 04/26
  「嫁と姑問題」に関する質問の「回答」をJRで移動中に考えた。これがけっこう頭に浮かんでくるから楽しい。あれやこれやと入力しているうちに10個に達してしまった。これからそれらをボチボチ紹介していこう。
 まずは、①「嫁と姑の仲が悪い」のは本当に「事実」なのか?たとえば、「兄弟姉妹の仲」「夫婦の仲」「友人同士の仲」「上司と部下の仲」などなどと比較して「嫁と姑の仲が悪いケース」が「有意」に多いのか?
 私には妹がいるが、幸いにも兄としては「仲がいい」と思い込んでいる。中学生のころは妹に命令して、本人にとってはけっこう距離のある店までものを買いに行かせたりした。そうした暴君的な過去を背負ってはいるが、人生全体としてはうまくいっている。しかし、世の中には兄弟げんかどころか命を奪う事件も起きる。友人間の仲違いだってめずらしくない。また「上司と部下」がうまくいかない事例なら聞き飽きるほどある。
 これらがなければ、子ども向けのおとぎ話から小説、歌舞伎に演劇、オペラにテレビドラマに至るまで、その存在すら考えられない。そもそも「人と人との間」に問題が起きるのは当然なのである。