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味な話の素
No.152 2015年12月号(4770-4800)                Since 2003/04/29
今年は375本、本欄をご愛読いただきまして、ありがとうございました。
まだまだ「止まる気配」はございません。来年も引き続き、よろしくお願いいたします。
とうとう天上まで 2015/12/31 Thu 4800
 何とかかんとか言いながら2,000段まで来て、家内に連絡すると1,200段までたどり着いたとの回答です。「あまり無理をしてはいけない」などと思いやりあふれる声かけをしたのですが、私としては2,000段まできて、「何となく止まらない感じだなあ」と思いはじめました。すでに半分以上はクリアしたのです。仕事でも粘着的でしつこいところがあるのですが、どうもそんな虫が私のお腹の中で踊り出したようでした。
 そんなわけで、もう進むしかありません。そこで家内に連絡すると、おやおや「圏外」になっていました。もう連絡無しで天上に向かう決意をしました。そして家を出るときは予想もしなかった、「佐俣の湯のついで」の3,333段目に到達したのです。いやー、大いなる快挙です。しかも、音信不通だった携帯が通じ、何と家内も止まらずに登ってきているのでした。私の場合、ちょうど2時間かかりました。年配の人が1時間半と言っている声が聞こえましたから、ちょっとばかり時間を要したのですが、とにかく水なしで座ることもなく「ついでに大成功」したわけです。
 前回は完成前でしたから、初めて私の記憶に3,333段の記録を刻んだことになります。娘はもちろんですが、家内もここまでやってきたのですから感動的な体験となりました。
 とにかく1,000段のつもりでスタートしたのですから夢のようです。しばらく天上の快感を味わってから降りはじめました。これがなんとも大変なんですね。膝が笑うと言いますが、トントンとは降りていけません。下界に到着するまで1時間30分もかかってしまいました。
 
えっ、2,000段? 2015/12/30 Wed 4799 22日の続き
 じつは「石段物語」が連続し過ぎたので、ちょっとお休みしていました。そこで、1,000段から後の話をもう少し…。
 さて、家内を置いて先行する娘の後ろ姿を見ながら、さらにボチボチと歩を進めていきます。すぐに1,100段がやってきて、1,500段くらいまではトライしようという気持ちが生まれます。そんな状況で家内と連絡を取ると、「そんなところまで行ったのなら、私ももう少しは」という反応です。そして私はとうとう1,500段まできました。
 このころでしょうか、「せっかくだから、2,000段まではトライするか」という気持ちが出てきました。さらに「出来ることなら制覇したい」という野心が芽生えましたが、「さすがにそれは無理だ」と冷静な声も聞こえてきます。「そもそも水も携帯せずに熱中症にでもなったらどうするかい」「日ごろから危機管理だのなんだと偉そうに叫んでる本人がアウトになったらシャレにならんぞ」「常識的な行動が出来ないアホな年寄りだと笑われるぞ」。
 たしかにそうなんですよね。とくに私は夏になると喉の渇きを感じる神経が弱っていることを実感しています。授業を2コマ続けても水を飲まないことがあるわけです。つまりは渇きを感じないのです。これが命取りになるほど危ないんですってね。こりゃあどう考えてもまずいわけです。山の遭難なども、たいていは準備不足の無謀な行動が原因になっていますよね。それで人様にご迷惑をかけては申し訳ないではありませんか。
 とまあ、頭ではそう思うのですが、とにかくきつさやつらさを感じないんです。そして、ついつい足が上に向かって動いていきます。そしてとうとう2,000段まできてしまいました。
 
日吉駅の衝撃 2015/12/29 Tue 4798
 慶應の宿泊施設に泊まった翌朝、熊本へ帰るときのお話。まずは歩いて数分の東横線日吉駅に向かう。その日はかなり強い雨が降っていた。しかし、都会は素晴らしい。大学のビルの前、つまりは玄関のドアから10mほどで駅に繋がるエスカレーターがある。普通の雨ならちょいと走れば少し濡れるだけだが、この日は傘を差す気になるほどの降りだった。
 長いエスカレーターに乗って駅へ降りて行った。すぐに改札口が見える。ゆっくりとそこに向かっていく。と、その瞬間である。突如として右側からものすごい靴音とともに群衆が突進してきた。彼らは全員が改札口にICカードを当てたにちがいないが、ケチャップが細い口から連続して飛び出てくるように、私の目の前で、「右側」から「左側」の改札機へと怒涛にように流れ込んでいく。別会社の電車に乗り換えるのである。このときもICカードで通過しているはずだが、それを認識できないほどのスピードである。少なくとも私の目には見えない。こんな書き方では、その場にいない人には臨場感もなければ、イメージも湧かないだろう。それは十分に承知しているのだが、これが実感である。
 これで驚くのだから、私が「田舎もん」ということである。しかし、これほど壮絶な光景を目の当たりにすると、「田舎もん」でよかったと安堵する。あんなに走るのなら、一本でも早い電車にすればいいのにと思う。しかし、ゆったりと駅の階段を降りながら、それもまた「田舎もん」の発想なんだろうと笑っている自分がいた。
 
日吉の慶應 2015/12/28 Mon 4797
 慶応義塾大学はいくつかのキャンパスに別れている。私が知っているのは東京の三田と神奈川県の日吉のキャンパスである。三田の方は学会で出かけたことがある。もうかなり昔のことになる。神奈川県の日吉キャンパスにはご縁があって、8年前から出かけている。2008年に大学院のシステムデザインマネジメント学科が開設されたときから2コマの授業をしている。グループダイナミックスの紹介からはじめて、メインは「リーダーシップ・トレーニング」である。時間が許せば、リーダーシップとの関わりで「組織安全」にも触れる。
 東急東横線日吉駅から徒歩1分のところに、協生館と呼ばれる7階建てのビルがある。日本で最初に開設された2年制MBAコースの経営管理研究科も同じビルに入っている。私が動く範囲内に限定されるが、1階にはコンビニと薬局もある。ここまでは、いまどきの大学なら「ありか」と思う。しかし、これに加えてパブも入っていて、それがしっかり賑わっている。このほか、グラウンドや大きな室内プールもある。私のような純九州人には、さすが慶応という感じがする。上の階まで行けば、富士山も見えるという絶好の地である。受講者にはビジネス界でよく知られた会社の方もいらっしゃったりする。これまた、さすが慶応なのである。最上の7階には宿泊施設があって、私はできたばかりのときに泊まった。私が「第1号」かどうかはわからないが、少なくとも「3番目以内」には入っているのではないか。「それがどうしたの」と言われれば、ただそれだけのことである。それでも楽しいんです、はい…。
 
ひらめき… 2015/12/27 Sun 4796
 私は集団力学研究所が行う調査データを処理するプログラムづくりを一手に引き受けていた。われながら、それは会心の自信作だったと言っていい。そんな私のプログラムで分析した結果、ある企業のデータで、1項目だけが厳しい結果だった。そのほかの得点と比べると違和感はあった。しかし、それが厳然たる「結果」なのである。私の役割は「事実」を正確に伝えることであった。その仕事を無事に終えて福岡から帰ったのである。しかし「何とも言えない違和感」が私の脳裏に貼り付いていたのだと思われる。
 研究室に帰ってお茶を飲もうとした瞬間だった、頭の中を「逆スケール」ということばが走った。いや、正しくは「『走った』と思った」としか言えない。プログラムの該当部分を探し当てたとき、「その直感」が完璧に当たっていた。何のことはない、質問の回答項目が「逆スケール」、つまりは「プラスの反応」であるほど「得点が低くなる」選択肢になっていたのである。その会社は該当する項目でも「望ましい傾向」を示していたのだ。
 これは「大チョンボ」である。そのまま研究所に電話した。もちろん、すぐにでも「訂正と謝罪」をしなければならない。もう時間などかまっている状況ではなかった。その後の行動は書くまでもないだろう。その日のうちに福岡へ出直して事情を説明し、謝罪した。この間の判断と行動は、われながら迅速、かつ断固としたものだった。それは当然のことであり、取り立てて自慢することでもない。
 ここでは、その結果だけ記しておきたい。人事部長は「ああ、そうだったんですね。それで安心できました」と懐深く受け止めてくださった。ありがたいことに、そのことで人事部長の私たちに対する信頼感が深まったように思われた。それから後、私はその組織の調査とトレーニングには、いつもお声をかけていただいた。若き日の思い出である
ある日の報告会 2015/12/26 Sat 4795
 「全体としてはとてもいい結果ですね。ただ、経営層に対する信頼感はかなり厳しいと言わざるを得ません。その原因について分析されることをお勧めします」。「そうですね。このあたりについては検討したいと思います。それにしてもみんな満足度が高いのに、上層部に対する評価がこんなに低いのですね…」。
 いま、福岡市にある企業の調査結果の報告が行われている。それを伝えているのは私である。ただし、この日は30年ほども前になるだろうか、とにかく昔のことだ。三隅二不二先生が所長を務めておられた集団力学研究所が組織を対象にしてリーダーシップをはじめとして、組織の健康度に関する調査を行っていた。私はその研究プロジェクトの一員として参加してデータを分析した。その結果を持って当該企業の人事部長に報告する役割を担っていたのである。
 ともあれ、報告会は無事に終わり、私は熊本に帰った。しかし、1項目だけが飛び抜けて低い数値になったのには違和感があった。人事部長をはじめとした関係者たちも困惑したように見えた。ただ、データーがそう言っているのだから、それはそれで受け止めなければならない。その後の対応は先方の仕事である…。
 その当時、私はさまざまな調査データを集計するプログラムをBASICでつくっていた。ようやく漢字が使えるようになったころで、PCを動かすプログラム言語は機械語を除いてBASICしかなかった。私はこれで大きなものになると数百行に達するプログラムをつくっていたのである。その点では、いまでも「よくやったなあ」と自分をほめたくなる。
 
父と母の物語 2015/12/25 Fri 4794
 青島(チンタオ)駅前の蘭山寮に移り住んだ。この蘭山寮では部屋を二度変わった。二度目の窓が外側にある部屋にいるときに、私は結婚して□□を迎えた。この部屋が□□と住む最初の部屋となった。このとき□□はまだ18歳だった。いまの娘より5つ若かった。
 この蘭山寮の窓から出勤する私を見送った□□の姿をいまも思い浮かべる。あの〇〇郡の田舎から見ず知らずの人の中に、すっかり生活の違った青島で殺風景な暮らしにさせ、□□は戸惑ったことだろう。
 当時はまったく無口で憂うつな顔をして、食欲もなかった。その後同じ寮にいた鹿児島の人で〇〇という人が□□と親しくしてくださって、皿などの焼き物をいただいたりした。
 私が出勤するとき、いつも門まで出たり、窓に立ったりして、見送ってくれる習慣はこのときからはじまった。
 蘭山寮の二階の窓から出勤する私を見送ってくれた□□は、それから29年後の昭和48年7月31日に小倉北方のアパートの5階の窓から私の出勤を見送ってくれるまで、その習慣を破ったことはない。

 これは、1975年5月26日に父が書いた日記である。□□は私の母である。父は、結婚した自分たちが中国の青島にいたころの思い出を綴っているのだ。この日記を書いた1年7ヶ月ほど前、父の妻は手術ミスで亡くなっていた。母は7月31日に入院した。このページが濡れた痕跡はない。しかし、これを読んだとき、私は目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。その父と母の「見えなくなるまでバイバイする」習慣は、私の孫の世代に引き継がれて今日に至っている…。
 
化血研とTQC活動 2015/12/24 Thu 4793
 「化血研」では、新たな問題が出てきました。2007年と今年の10月の4回に亘って、定められた手続きを取らずに「ボツリヌス毒素」を運搬したというのです。それは熊本県内にある事業所の間だったようです。この事実は、化血研自身が明らかにしています。これまで度重なる問題を指摘されたことから、自主的に問題情報を出した方がいいとの判断があったのでしょう。「ボツリヌス菌」の「毒素」は、0.1ミリグラムで大人2人分の致死量に達するのだそうです。そして、0.5kgもあればで全人類を滅ぼすことができるという、脅威の毒物なのです。
 「ボツリヌス菌」といえば、1984年6月に起きた熊本の「辛子レンコン事件」があります。お土産に買った真空パックの「辛子レンコン」を食べた人から9名の死者が出てしまいました。そのとき多くの人たちが「ボツリヌス菌」の名前を知ったのです。
 この件では、おそらく運搬距離が短くて「まあ、大丈夫だろう」という意識が働いていたのだと思います。報道では、担当者が運搬量の確認を怠っていたとされています。そうなると、トップの判断ではなく、現場で責任を負っている人たちの間にも、「法令を遵守する」気持ちが低かった可能性が垣間見えます。とにかく困ったことです。
 ところで、私は2004年7月に化血研で講演をしました。そのときのタイトルは「対人関係づくりと職場の活性化」でした。その日は「第23回化血研TQC活動発表会」で、その際の記念講演を引き受けたのでした。〝TQC〟とは〝Total Quality Control〟の頭文字で「全社的品質管理」ということです。私自身は、そうした活動を進めるに当たって「対人関係が大事」という話をしたのです。
 報道によれば、それよりもかなり以前から「不正」が行われていたということです。その日はトップの方も話を聴いていただいたのですが、私の講演をどんな気持ちでお聴きになっていたのでしょうか。
化血研問題 2015/12/23 Wed 4792
  「開発の過程で重大な欠陥が見つかったが企業利益を優先して販売し,問題が発生するまで何も対策をとらない」。ある問題が起きた組織の方が挙げられた「倫理的行動とは何か」に対する回答です。いま、私が住んでいる熊本で最優良企業と評価された化血研(一般財団法人化学及血清療法研究所)が揺れています。もちろん、今回の問題は「開発の過程で重大な欠陥が見つかった」のではなく、決められた通りだとスムーズに製品がつくれないので、「何かを加えた」ということのようです。ある意味では「欠陥が見つかった」以上に悪質だと言えるかもしれません。その動機が「企業利益を優先して販売」することにあったのかどうかは、これからの調査で明らかにされるのでしょう。どんな理由があるにしても、どこかで「利益優先」に繋がっていることになるはずです。ときには「個人の利益を優先した」というたケースもあります。
 いずれの場合も、「問題が発生する、あるいは明らかにされるまで対策をとらない」ということです。たとえ違法であっても「それでうまくいっている」とまともな線に戻そうという力が働かなくなってしまいます。それも組織の上層部が中心的な役割を演じるとなれば、はずれた軌道を修正することはきわめてむずかしくなります。そして、とうとう最後まで行ってしまうのです。つまりはトップの倫理観がしっかりしていないと、組織はひたすら取り返しの付かない状況へと突っ走るのです。上層部の行動が一生懸命にものをつくりサービスを提供している真面目な人たちの生活を奪うことは赦されるはずがありません。
 
1,000段まで 2015/12/22 Tue 4791
  あの日の実況中継に戻りましょう。とにかく目標は1,000段と決めました。それでも、時刻は12時近くですから、お昼ご飯が遅くなることは間違いありません。それに、ふと気づくとペットボトルも買っていませんでした。まことに不用意なことです。まあ、とにかく1,000段までですから何とかなるでしょう。そんな気分で「エッチラ、オッチラ」、家内と話しながらゆっくり登って行きます。その年の秋には前期高齢者の仲間入りすることになっていました。しかも、日頃は運動らしい運動などまったくしていません。3段登っては「ふっ〟と一息」、そんな悠長なペースです。とにかく1,000段でいいのですから。
 そのうち500段まできましたが、とくに動悸はしません。もちろん、左胸に手を当てると普段よりは「ドッキ、ドッキ」としています。これは階段を上っているのですから当然の反応です。そうこうしながら、やがて目標にしていた1,000段まではたどり着きました。スタート時に、年配の方が「1,000段を30分で行ってきた」と話しているのが聞こえました。時計を見ると40分かかっていました。スローペースながら、日本一の石段の1,000段をゲットしたのです。
 家内が「私はもういいな。もう少し先に行くのなら登っておいで。ここで待ってるから」と言います。私の心の耳には、「もう少しは大丈夫そうだな」という声が聞こえました。「ゆっくり」のおかげで疲労感がなかったからです。もちろん、あとどのくらい進めるかは分かりません。ただ、これまでの40分を考えると、単純計算でも全行程なら2時間はかかりますから、「それはあり得ない」ことでした。
未完成の石段 2015/12/21 Mon 4790
 さて、いよいよ「日本一」が自慢の階段のスタート地点までやってきました。眼前には、急な傾斜の石段が立ちふさがっています。ふと時計を視ると11時40分でした。もうすぐお昼という時間です。久しぶりに石段を「見に」来ただけのことです。時間は関係ありません。「今日は1,000段まででも行ければいいね」。まずはこんな会話を家内と交わしました。そこでボチボチの石段登りがはじまりました。このときは娘も一緒でしたが、少しずつ先に上の方に登っていきます。お互いに見えなくなっても携帯で連絡すればいいわけです。
 ところで、昨日、この階段登りが初体験ではなかったことは書きました。それは子どもたちが小学生のころで、私だって40代の「バリバリ(?)」でした。その当時すでに「日本一」と言っていた石段にチャレンジしたわけです。ただし、そのときは、子どもたちとしっかりで登っていったのですが、一番上でも3,333段まで完成していませんでした。少しばかり見上げたところに石段にする石材が積んでありました。さらにその上に社が見えたことを憶えています。ここで話が前後しますが、この日は家に帰ってからアルバムを探したことは言うまでもありません。その日は1987年8月29日でした。夏休み最後の土曜日のことでした。アルバムの写真の説明に「3,143段が終点」だったと書かれていました。まだ未完成だったことだけはしっかり記憶していたのですが、3,333段にはまだ200段ほど不足していたのです。
 
日本一の石段 2015/12/20 Sun 4789
 熊本県美里町にある釈迦院の石段 3,333段に対して、あの東京スカイツリーは 2,523段です。タワーの場合はほぼ直線的に登っていくので比較は出来ませんが、とにかく「日本一」ですから、熊本県人としては自慢できます。私は、もともと福岡の人間です。福岡市には中学2年生から鹿児島女子短期大学に採用されるまで住んでいました。父の転勤で、佐賀県の伊万里中学校から福岡市の香椎中学校に転校したのが1962年7月の夏休み、2年生でした。それから高校、大学から大学院を経て助手になり、初めて給料をもらったときも福岡の住人を続けていました。結婚したのも長男が生まれたのも福岡です。
 その後、1978年4月に鹿児島へ引っ越しました。福岡在住は5,700日ほどになります。いわゆる青春時代はすべて福岡ですから、私の人格形成に決定的な影響をおよぼしたわけです。福岡はいつまでも忘れることができない故郷でもあるのです。
 しかし、生活期間では、熊本がはるかに永くなってきました。今日の時点で、13,229日になって、優に博多の2倍を超えています。そんなわけで、いまや私は「熊本県人」なんですね。もっとも、本欄で触れたことがありますが、「肥後弁」と言いましょうか、「熊本弁」はまったく使えません。年齢が30歳を超えると、大脳の音感的領域はあたらしい環境に順応しにくくなるのでしょう。
 
温泉ついでの石段? 2015/12/19 Sat 4788
 わが家は〝すぐ乗る〟タイプの人間に充ち満ちあふれています。佐俣の湯に行く前に〝ついでに 3,333段の石段に寄ってみよう〟という家内の提案は何の反対意見もなく受け入れられたのでした。じつは、まだ石段が完成していない、おそらく3,000段までだったころ、親子でトップまで登ったことがありました。そのときは、いかにも「工事中」といった光景がそこにありました。
 その日は、わが家を10時40分にスタートしていました。連休期間中にもかかわらず、道路は空いていました。こんなときに高速道路なんて使ったら大変なことになります。おかげで50分もすれば、第一の目的地である「佐俣の湯」に行く前に「釈迦院の石段」下に到着しました。さすがに連休です、駐車場はしっかり満杯状態になっています。これを見て「おやおや」と思った瞬間でした。少し前方にある「満車」の看板が置かれた民間駐車場へ「明らかに帰る」と思われる二人連れが入っていくのが見えました。それに呼応するように、駐車場の女性が看板を動かしながら手招きをしました。まことに幸運だったと言うほかありません。もともと「佐俣の湯」の「ついで」ですから、駐車が出来ないのであれば、そのまま温泉に方向を変える可能性はきわめて高かったのです。とにかく「せわしない」が売りの私です。「人が3人並んでいる」「あと3分待たなければならない」など、「悪魔のナンバー3」の声を聞くと、すぐに別の行動を起こすわけです。ともあれ首尾よく駐車できて、3,333段のスタート地点にやってきました。
 
もう一つの提案 2015/12/18 Fri 4787
 タレントの火野正平氏が自転車で全国を回る「にっぽん縦断 こころ旅」は九州にやってきました。今回は鹿児島から沖縄まで行くようです。この番組で彼等が熊本県美里町の「 」を訪れたことがあります。この地の「大売り」は「ハートのシルエット」です。文字では説明しにくいのですが、橋が影になり、その下を通して入る日差しの部分がハート型になるわけです。これではイメージすら湧かないと思いますので、ご関心がある方はネットでご鑑賞ください。いずれにしても、それだけと言えばそれだけではあります。しかも、太陽の影から出来上がっているので、ハートになる時間帯も限られていていつ行ってもOKとはいきません。
 それはともあれ、2年ほど前のゴールデンウィークのことです。わが家で「明日は佐俣の湯にいくぞーっ」と話がまとまりました。そして当日の朝を迎えました。おかげで天気も上々で、「佐俣の湯」に向かって車を走らせました。その少し前に「二俣橋」があるのです。そこで「ハート」の見学になったのですが、そのタイミングでありませんでした。それから「佐俣の湯」までは数分の距離です。
 このとき、家内が一つの提案を追加しました。さて唐突きわまりないのですが、ここで問題です。とくに熊本県外にお住まいの方々へのクイズといたしましょう。「日本で一番階段が多い石段はどこにあるでしょうか」。この流れから答えはミエミエですね。正解は熊本県に決まってます。山形県にある出羽三山の羽黒山神社が 2,446段だそうですが、熊本県の釈迦院は 3,333段あって、これが「日本一」なんです。あの細川護煕さんが熊本県知事だったころ、何でもかんでも「日本一を目指そう」という運動を展開していました。そうした中で、1998年に釈迦院の石段が羽黒山神社を一気に抜いて日本一になったのでした。
生徒からのメッセージ(10) 2015/12/17 Thu 4786
 このシリーズも10回目になります。今回は26人目の生徒からです。
 これまでお読みになっていない方へ:ある中学校の教員たちが校長の指揮の下、生徒たちの前で合唱しました。その際の生徒たちのコメントを不定期に連載しています。

 26)とてもかわいらしかったです。
  校長を「かわいらしかった」と表現したのは、この生徒が初めてではない。このごろの若者言葉では、「ヤバい」は「おいしい」など、肯定的なケースでも使うらしい。そんなこんなで、「かわいらしい」も「違った意味」があるのかもしれない。もちろん、その当たりの事情について、前期高齢者は何の上方も持っていない。
 27)先生方の合唱はとても楽しかったです。校長先生らしい指揮で会場を盛り上げてくださいました。もう一度先生の指揮を見たいです。
  「校長先生らしい」の意味は判然としない。しかし、その場を「盛り上げる」というのだから、ある種の態度かアクションを取ったのではないかと推測される。この生徒にとって、それは「もう一度見たい」ほどのパフォーマンスだったのだろうか。どうやら、けっこう「調子に乗る」校長のようである。
 28)職員コーラスのときの指揮は、とってもノリノリでしたね。見ていて、良い気分になりました。これからも、そのノリノリ気分で、学校を支えていってください。
  「ノリノリ」は「盛り上げる」と同列のパフォーマンスを想像させる。そして、「その気分で学校を支えて」とのメッセージまで飛び出した。こんなエールを送られた校長はさぞかし喜んだことだろう。
 
石垣までの幸運 2015/12/16 Wed 4785
 強風の中を飛び立った飛行機ですが、離陸して数分もすると雲の上に出て、そこは真っ青な空です。台風は時速20kmといった自転車並の速度も珍しくありません。これに対して飛行機は離陸時でも200km/hを超えるのですから、飛び立ってしまえば、「逃げ切り」は楽勝です。
 ところで、熊本に帰ると私たちを見たお隣の方が驚かれました。「えーっ、沖縄から帰れなかったんじゃないの!」。この方、お昼に沖縄へ台風が接近しているニュースを見ていたそうです。そこに、息子と私が空港の出発掲示板を見ている様子が映ったといいます。そして、「飛行機が軒並み欠航」と伝えていたのに、目の前に私たちが現れたのでびっくり仰天したということでした。
 さてこの話、2013年に私が南の島へ出かけたところからはじまりました。そのうち那覇までは家族旅行でも行ったのですが、宮古島と石垣島は生まれて初めての訪問地でした。ここは天気予報で「宮古・八重山地方」という呼称で馴染みがあるのですが、私としては実際に出かけることは「あり得ない」と思っていました。それがどうして実現したかと言いますと、沖縄県で養護教諭をされている先生方の研究会にお呼びいただいたのです。同じ県でも領域が広いので、先生方が一ヶ所に出かけてこられるよりも、講師が異動する方が経済的にも効率がいいのです。そんなわけで、私にとっても「またとない」機会をいただいて、宮古島、石垣島に行くことができたのでした。それも「幸運」にも、先方のご希望の日に私のスケジュールがしっかり空いていたのです。ありがたや、ありがたや…。
 
ザ・ラスト便? 2015/12/15 Tue 4784
 沖縄への家族旅行は近づく台風を気にしながら最終日を迎えました。その日はすでに強い風が吹き始めたなかを、レンタカーで「ひめゆりの塔」まで走りました。それから那覇空港に着いたのです。現在の空港は大きくて立派な風格を備えていますが、当時は2階建ての平べったい感じのビルでした。さて出発時刻が近づくほどに強風の度合いが高まってきます。いまや懐かしのジャンボがボーディングブリッジに止まっているのですが、その巨体が揺れています。出発便を示す掲示板は、上から順にすべての便がすぐにでも運航停止になりそうな気配で充ち満ちています。
 そんな状況ですから、台風が近づくなかで、熊本へ帰る便が飛ばない可能性がいよいよ高まってきます。わが家が乗る便の出発時刻はドンドン近づいて来るのですが、掲示板を見ると、何となく東京や大阪などの遠方行きが優先されている感じです。やがて、私の推測が決定的になります。それは、時刻表では熊本便よりも遅く出発するはずの福岡行きが登場を開始するというアナウンスを聞いたときでした。機材のやりくりや様々な手続きがあるので、たとえば本来は熊本便だったものを急遽福岡便に振り替えるなんてことはしないとは思うのですが…。まあ、私の被害妄想的邪推は措くとして、福岡便は「無事に」飛んでいってしまいました。
 さて、その後の物語です。じつは、それから熊本便も出発し、台風からの「逃げ切り」に成功したのです。あの状況から察すると、熊本便がラストだったのではないかと思います。そうなると「最高の運の良さ」を喜ぶべきでしょう。
 
北も南も… 2015/12/14 Mon 4783
 暖冬とはいいながら、このところ寒さがやってきた。もう12月も半分近くである。つい先だっては、北海道で70cmの雪が降ったという。さすがに北国である。こんなとき、南はどんな感じなのだろうか。私は2013年の11月に超南の島に出かけた。行き先は沖縄本島、石垣島、宮古島だった。地理的に「日本最南端」にある島は、東京都の「沖ノ鳥島」である。しかし、人が住んでいるのは沖縄県の「波照間島」となる。それはそうとして、超アバウトが売りの私だから、これっぽっちも厳密さにはこだわらない。何と言っても石垣島である。私としては「きちんと最南端」に行ったのだ。
 その一方で、2010年には宗谷岬まで出かけていた。こちらもアバウトながら「私の最北端」ということにしている。そんなわけで、石垣島に行ったときは「これで日本の北から南まで踏破した」と大満足しながら島を巡った。もっとも、沖縄本島と呼ばれる那覇にはけっこう出かけている。そもそも、わが家で最初の本格的な家族旅行が沖縄だった。そう書いて「ひょっとしたらディズニーランドだったかもしれないなあ」と思い当たった。それは時間があるときに日記で探すことにしよう。さてそのときは、レンタカーで那覇から北の「今帰仁城跡」から南の糸満市にある「ひめゆりの塔」にも行った。滞在期間の大半はリゾートホテルに宿泊した。そんな楽しい数日を過ごしたのはよかったが、熊本に帰るちょっと前に台風が発生した。最初に新聞で見たときはまだ遙か遠く赤道上にいたのだが、猛スピードで近づいてくる。もう帰る日なんぞは相当ヤバい距離まで接近してきたのである。宿泊していた那覇のホテルに相談すると、飛行機が欠航した場合はもう1泊を確保すると言ってくれた。あとは台風の気分次第である。
 
見えない踏み台 2015/12/13 Sun 4782
 灼熱の太陽の下で鉄の板にアセチレンガスをあてて溶接をし、マスクをしながら塗料を吹き付ける…。そんな過酷な仕事をしている人たちの中に、自分と同じくらいの若者がいた。そのとき私は「この世の中には『人を食べさせている人間』と『人から食べさせてもらっている人間』がいる」ことを確信しました。それは体感でもありました。こうした人たちの「おかげ」で自分が生きている。そう思ったのです。私は組織論で、〝Top -down〟と〝Bottom-up〟という用語が使われていることを知ったとき、「何とひどい言い方だ」と、ある種の憤りを感じました。現実にモノをつくり、サービスを生み出している第一線の人たちを〝Bottom〟などとは、思い違いも甚だしい。そんな気持ちでした。これに対抗して、私は〝Ground-up〟なる用語の使用を提案しているのですが、この話題はまたべつの機会に譲ることにします。
 ともあれ、その状況は前期高齢者となったいまでも継続しています。私はずっと「食べさせてもらう側」に居つづけてきましたし、一生を通じてそうなることでしょう。どんなに偉そうなことを言っても、結局は「食べさせる側」にはなれなかったのです。どう考えても「こちら側」の方が楽で、経済的にも恵まれていると思います。何のことはない、やっぱり「得な側」にいる。それが私の限界です。そんな私にできるのは、「食べさせている方々」に感謝することしかありません。私はすばらしい人生を送らせてもらっています。それは間違いなく「人を踏み台」にしているからに違いありません。もちろん、私も「意識的に」踏み台にしている人がいるわけではありません。しかし、自分の恵まれた人生を考えれば、「知らないうち」に多くの方々を「踏み台」にしてきたし、いまも「踏み台」にしているはずなのです。そんな私にできることは「感謝する」ことしかありません。
 
造船所での調査 2015/12/12 Sat 4781
 大学での授業も含めて、私が機会があると話をしていることです。それは自分が若いころから長年にわたって持ってきた〝信念〟です。それは、世の中で一番偉いのはモノを作っている人だということです。それは今から40年以上も前の体験がきっかけになっています。
 私は三隅二不二先生をトップにした、造船所の「安全運動プロジェクト」に、参加させていただきました。ただし、「参加」と言っても、最年少の学生で、純粋に修行する立場でした。それでも、現場で調査をする際にはピカピカの作業服に長靴、もちろんヘルメットも新品レベルのものでした。そして、「虎の威を借りる狐」のように、「大学からの調査員」ということになっていました。
 そんな出で立ちで船造りの現場を見せていただきました。それはそれはすさまじいところでした。灼熱の太陽の下、焼け付いた巨大な鉄の板を溶接している人がいます。その上に卵を落とせば、瞬時にして目玉焼きができあがるという話も聴きました。それを実際に見たことはありませんが、その通りに違いないと確信していました。また、塗装するパートでもペンキにまみれて仕事をしている方々がいました。これらは、いまでは自動化されていると思いますが、当時の私はそうした状況を目の当たりにしたのです。
 私の仕事は、休憩時間に現場の詰め所に集まった方々を対象に調査することでした。作業中はマスクやカバーなどを付けていた方々ですから、その顔はわかりません。しかし、調査会場ではそれらを取った一人ひとりの顔が見えます。そして、それが私には大きな衝撃を与えました。もちろん20代前半だった私よりも年配の方がたくさんいらっしゃいました。しかし、明らかに自分と同じ年齢層の若者も目に前に座っているのでした。
 
弱点の認識から… 2015/12/11 Fri 4780
 いじめは人間関係の中で起きる。子どもたちの場合は学級や部活で様々ないじめが発生している。そもそも人間が一人ひとり違っているのだから、それだけでいじめが起きる条件を備えている。とにかく「同じでない=何らかの差がある」ということだ。人間はその「差」に「価値」を付ける。それは「いい」か「悪いか」、「大きい」か「小さい」か、「高い」か「低い」か、「速い」か「遅い」か…。およそ「形容詞」の対語を考えてみると、そのすべてが「価値」づけられるだろう。
 私たちは、そんな「価値付け」の中に生きている。基本的人権の大事さが強調される。「平等」や「公平」の追求が叫ばれる。それは、現実が「そうなっていない」ことの現れでもある。しかも、おそらくは「意思」を持たないだろうDNAは、自らの生存をかけてあらゆるDNAと一緒になろうとする。その組み合わせが無限に広がって、絶え間なく新しいものが生まれていく。そのみんなが「互いに違っている」のである。
 われわれには「違い」がある。そしてそれが「差別」や「いじめ」を生み出すのである。したがって、少なくとも「差別やいじめ」の「種」を根絶することは不可能なのだ。その「種」を根絶するには「人類が絶滅する」しかない。「人類」がいなくなれば、「人類間のいじめ」はなくなる。このように、「差別やいじめ」は人間存在の根源にある宿命的な力によっている。だからこそ、そうした自分たちの「弱点」を認識した上で、「差別やいじめ」に対応していかなければならない。それは〝Never Ending Challenge〟なのである。
脳裏の万華鏡 2015/12/10 Thu 4779
 「万華鏡」。その目に映る文字、耳に響く音感。何とすばらしい呼称であることよ。
 小学生のとき、万華鏡なるものを図画工作の時間に作った。それはいまでも少しばかり苦い思い出を伴っている。そのとき私は万華鏡をうまく作れなかった。それを時間内に仕上げられなかったのではない。しっかりした記憶はないが、たとえばある部分を誤って切り落としてしまったために完成できなくなった。
 このあとに起きた出来事は、それが現実なのか、それとも私の妄想なのか判然としない…。
 私はわが家に向かって走っていた。それは、作成に失敗した万華鏡を改めて買って作り直そうと思ったからだった。これが現実だったとすれば、図画工作で使う教材を学校で売っていたことになる。それを授業時間でなくても買えたわけだ。あるいは、学校近くに必ずあった文房具屋さんで手に入れるつもりだったかもしれない…。
 こうした「前提」を考えると、幻覚が私の脳裏にこびりついている可能性も否定できない。そもそも学校からわが家に走って帰ること自身がむずかしい。そのとき、自宅と学校はけっこうな距離があったから。学校のどの時間を使えば自宅まで往復できるだろうか。たとえお昼休みを使ったとしても、それは無理な話だと思う。ただ、私にとって「万華鏡の失敗」だけは「事実」としてこれから先も頭から消え去ることはない…。
 それでも、いやそんな「記憶」があるからなおさら、「万華鏡」は私を魅了する。その向こうに見える鮮やかな「華」たちの形が「同じ」になることは永遠にない。まさに「一期一会」の出会いの世界が目の前で展開していく。それを「万」という小さな単位で表現するなんて、「万華鏡」さんに失礼の極みではないか。
 
他者からの評価と行動改善 2015/12/09 Wed 4778
 私は熊本市の教育委員会が実施している「教職10年経験者研修」のお手伝いしています。この制度のスタート時からなので、もう13年になります。この研修では教師が子どもから評価をされる方式を導入しました。まずは教師が子どもたちから「自分に対する期待」を聞きます。それを教師が行動で応えていくことになります。さらに、その行動を子どもたちが評価するのです。これを5月から翌年の2月まで4日間の中で実施します。研修をその場で終わりにしないで、子どもの評価データを分析する。こうした研修と現場の往復がないと、その意味はないのです。
 私は「研修会場には魔法のドアノブがある」と冗談を言います。研修終了時は瞬間的にやる気が高まる。しかし、会場の出口で「魔法のドアノブ」に触ったとたんに学んだことを全部吸い取られてしまう。これでは研修効果など期待できません。子どもたちからデータをもらうことで、目標を実践する「力」が働くのです。
 この研修では、自分が期待されている行動を分析し、「行動目標」を立てるまでが「Plan」に当たります。そして、それを学校で実践する過程が「Do」になります。さらに、その行動が子どもたちに認知されていることを確認する。ここが「Check」であり、それをもとに次の「Action 」に繋げていくのです。ともあれ自分の行動を他者から評定してもらうことは、行動の改善に欠かせません。
 
思い出と共に… 2015/12/08 Tue 4777
 さて、喪中欠礼のハガキの中に、4歳ほど年下になる後輩からのものがあった。お父様が96歳でお亡くなりになったという。やはり天寿を全うされたと言っていいだろう。このお父様には家内と私に共通の思い出がある。お会いしたのは一度だけなのだが、とにかく鮮烈な体験が今でも記憶に残っているのだ。
 私は若いころから写真が好きだった。そこで友人の結婚式では「写真係」を引き受けて、撮った写真をアルバムにしてプレゼントしていた。後輩は5月に京都で式を挙げることになって、このときも「写真係」を依頼された。若々しく、「絵になる」カップルで、自己評価ながら「アルバム」も上出来だった。もちろんご本人たちに喜んでもらった。
 それから2ヶ月ほど経った。後輩から、アルバムのお礼にご両親が食事に呼びたいと言われていると聴いた。私としてはありがたいご招待なので喜んでお受けした。その日は7月9日の土曜で、会場は前年の1976年にオープンしたばかりの「博多全日空ホテル」だった。当時、福岡でトップクラスのホテルである。家内と私の二人、そしてお腹の中には長男がいたので、三人半で出かけた。私は助手で、ようやく給料をもらいはじめたころである。ご両親と後輩夫婦、それに二人の弟さんとの8人での会食だった。
 ホテルのレストランでディナーをごちそうになった。そのなかで、「丸っこい、小さな塊」のような肉料理が出てきた。ボーナスのとき、精一杯に気張って食べている「面積の広い」肉に比べると、ひどく「小さ」かった。しかし、それを口に持っていくと、とろけるように柔らかいのである。ずいぶんと時間が経ってから、それが「フィレ肉」という最高級のものであることを知った。それからというもの、家内と「世の中は、何でもかんでもデカけりゃあいいというわけではない」という信念を共有することになった。
 たった一度の出会いでしたが、ただしくは結婚式でお会いしたので二度ですが、いつまでも心の残る体験をさせていただきました。心からご冥福をお祈りいたします。
 
喪中欠礼 2015/12/07 Mon 4776
 今年も師走を迎え、先月からは喪中欠礼のハガキが届いている。その多くは、友人のご両親が亡くなられたというものである。私と似たような年齢の方が少なくないから、そのご両親のお年も、かなりの高齢である。現時点でいただいたはがきは12枚だが、そのうち6枚は享年90歳以上で、101歳の方もいらっしゃった。また4枚が80歳を超えておられた。それぞれの思いをお持ちだろうが、まずは天寿を全うされたと推測している。その一方で、53歳で奥様を亡くされた方もいらっしゃる。私が熊本に来てからずっと存じ上げていた。また、「えっ」と驚いた知らせもある。そのハガキは差出人のお名前を見た瞬間にはどなたかわからなかった。そこで文面を読むと、後輩が亡くなっていた。名前に記憶がなかったのは差出人が奥様だったからだ。彼は私が院生だったころ、同じグループ・ダイナミックスの講座で、一緒に企業調査や研修に出かけた。また、彼の卒論は私がサポートした。卒業後は大手電気メーカに就職し、年賀状だけのお付き合いが続いていた。ご本人も定年を迎えられ、悠々自適の生活だろうと思っていた。その彼が亡くなられたという。
 私自身が前期高齢者になったのだ。これからは、自分と同じような年齢の方々が亡くなられたとの情報が増えるだろう。それは人ごとではない。私が「お先に失礼します」となる確率も、ドンドン高まっていく。それもまた人の世の定めというものである。
 私の母は、いまであれば明らかな「手術ミス」が原因で亡くなった。享年47歳だった。一人で残された、何もできない父は、それから一生懸命に生きた。そして、母が逝って18年と4ヶ月後に75歳になって8日後に逝った。その年の平均寿命が75歳だったので、私は自分に「人並みだ」と言い聞かせた。しかし、「平均」は魔物であり、実態を反映しないことが多い。この世の中は「平均寿命」よりもさらに長生きする人の数の方が多いのである。何事によらず、「平均値」に騙されてはいけない。
組織問題の2大要因 2015/12/06 Sun 4775
 倫理的行動に関して、「解らないことや悩んでいることを相談し解決していく」という意見がありました。これは直接的に「倫理」に言及したものではありません。しかし、ここでは「相談」という重要なキーワードが含まれています。そうです「わからないこと」「悩んでいること」があれば、それを「相談する」ことが問題解決最良の方法です。それが直ちに「解決」に結びつかなくてもです。とにかく「問題」や「情報」を「一人のものにしておかない」ことが大事です。もちろん、それが実現するためには「相談できる」相手がいないと困ります。また職場に「相談しやすい雰囲気」がなければ意味がありません。それは組織のトップの姿勢、つまりは率先垂範が決定的な役割を果たします。そして、その意思を受けた各層の責任者のリーダーシップも欠かせません。わたしは、「世界中の事故や不祥事の原因はただ二つ、それは『言いたかったけれど言えなかった』か『言ったけれど聴いてもらえなかった』のどちらかだ」と絶叫しています。
 そこで、「言いたいけれど言えない」のはどうしてなのか。その原因を追求していくこと、そしてその原因を明らかにして、それらを取り除くことが重要になってきます。こうした「原因」として思い当たることはけっこうあります。ただし、私たち人間はそれを「取り除く」ことがきわめてむずかしいのです。
 たとえば「言いたいことを言う」と「仲間たちから嫌がられる」「のけ者にされる」などは「定番」と言うべきでしょうか。それを「受け止める度量」をどう持てるか、そこでリーダーの力が試されるのです。もちろん「言いたいことを言う」といっても、そこには「言い方」というものがあります。私たちのコミュニケーションでは「言い方」次第で問題になったり、すんなりまとまったりもするのです。あるいは「同じこと」でも「他の人」が言うとうまくいくのに、「ある人」が言うともめるといった事態も起きるわけです。いやはや、ややこしい。
今月の写真 2015/12/05 Sat 4774
 まず左側の写真は「一面の雪」と思われる方もいらっしゃるでしょう。じつは飛行機から見た「冬の雲」なのです。私は雲が大好きです。その理由は分かりませんが、季節によって違った種類の形が生まれる。それは時々刻々と生まれては消えていく。また形を変える。これがなかなかおもしろい。いまではそんな時間がもてなくなりましたが、公園の芝生の上に寝っ転がって空を見る。目の前に真っ青な大スクリーンが広がり、そこで雲の華麗な演技がはじまるのです。それは1996年のことですから、すでに20年近く前になります。私はオーストラリアのパースで半年ほど過ごしました。そのときは時間がゆったりと流れていました。休みの日になると大きな公園に出かけて空を見ることが大いなる楽しみでした。ともあれ、今月の「雲」はびっしりと詰まって、それこそ「寒そうな」感じが出ていました。この手の雲はじっと居座って、時々刻々と変化するわけではありませんね
 もう1枚は、年末の定番であるイルミネーションです。これは熊本空港近くにある再春館製薬所がこの時期に繰り広げる大規模なイルミネーションの一つです。再春館製薬所と言えば、化粧品とは無縁の私でも、「ドモホルンリンクル」という江守徹の声が聞こえるCMは知っています。このCMですが、関東や北海道に出かけた際にも見ることがあります。まさに全国区なんです。おそらく熊本を本拠地としている会社としてはもっとも知名度の高いところでしょう。ともあれ、一面のイルミネーションが広がる中をドライブスルーで通り抜けるわけです。日によって車両番号を偶数と奇数に制限するほどの大盛況なんです。ただし、この催しは今年で終了というCMが流れていました。
「緩査」法人 2015/12/04 Fri 4773
 日本の上場企業の「監査」のほとんどが上位4法人で独占されているらしい。その中に、東芝やオリンパスに関わった「新日本監査法人」が含まれている。今回の問題を報道した読売新聞には「中央青山監査法人がカネボウの粉飾決算に絡んで業務停止処分を受け、顧客や所属会計士の流出で07年に解散に追い込まれたケースもあつた」と書かれていた。しかしネットで検索したところ、「中央青山監査法人」はビッグ4に入っている。その後に復活したのだろうか。
 同じ日(11発19日)の読売新聞には「ヤナセ元専務横領容疑」との記事もある。輸入車の販売大手である「ヤナセ」の元専務が業務上横領容疑で逮捕された。社員らでつくる「ヤナセ共済会」の会長だった元専務が2012年5月~13年11頃にかけて、同会の預金から数回にわたって計約3000万円を自分の口座に送金して着服したという。本人は「遊興費に充てた」と容疑を認めているというが、「昨年までの約12年間に総額約2億1700万円を着服した疑いがある」とのことだ。人様の組織のことではあるが、金額が2億円超えに達するまで「発覚」しない理由がわからない。
 少なくとも「共済会」なのだから「監査」はいたに違いない。それがまったく機能していなかったことになる。会計担当者から説明を受けて、「はい、はい」とはんこを押していたのだろう。おそらく「元専務」だから、部下や関係者も「ちょっとおかしい、いや相当程度におかしい」と思っても、それが言えなかった可能性も大いにある。これでは「監査」が「緩査」になってしまっている。「緩(カン)」は「ゆるい」と読むが、「手を抜く」と言う意味がある。なんとも皮肉な「監査」であることよ…。
 
監査法人 2015/12/03 Thu 4772
 監査法人:5人以上の公認会計士が集まって設立する法人。大企業の会計監査を主な業務とする。昭和41年(1966)の公認会計士法改正により制度化された(デジタル大辞泉)。
 監査:特定の経済主体における経済活動とその結果について、それに関与しない者が、その正確性、適正性あるいは妥当性などを判断し、その者(監査人)の責任において意見を表明すること(日本大百科全書ニッポニカ 一部抜粋)
 会社の会計についてはまったくの素人だが、とにかく「第三者」が組織の経済活動の適正さを審査するものだろう。それをもっぱらにする「新日本監査法人」が金融庁から「改善命令」という処分を受けた。この法人は不適切な会計処理をしていた東芝を担当していた。金融庁の立ち入り検査では、「『内部手続きの形骸化や不審点への追及不足』といった問題が判明した」らしい(読売新聞)。その背景には「東芝など特定の大口顧客の担当者を長期間固定し、良好な関係の維持を幹部登用への暗黙の条件とする人事慣行があり、この点も東芝への甘い対応につながったと問題視している(同)」という。
いやはや「組織の不祥事」が起きる典型的なことばが並び過ぎである。「形骸化」「追及不足」「長期間固定」「関係維持」「幹部登用の条件」「人事慣行」。これが外部から監査する組織の状況だとすれば、「ブラックジョーク」にすら聞こえる。しかも、この監査法人は「巨額の損失隠し発覚した光学機器大手オリンパスでも監査を担当、12年に金融庁から業銘改善命令を受けていた(同)」のだそうな。東芝の不適切会計は2009年3月期からだというから、「オリンパス問題」と「併走」していたことになる。もはや嘆息のみで適切なことばが脳内に浮かばない。
機長のアナウンス 2015/12/02 Wed 4771
 人生、「はじめて」というのは、いつになっても「新鮮」で、「感動」を伴うものです。いま、私はANAで飛んでいるのですが、ほんの先ほど機長から飛行状況と到着時間について、機内放送が流れました。その声が「女性」でした。私は飛行機の搭乗回数が1,100回にもなるのを自慢しているのですが、女性機長の声を聴いたのは「はじめて」でした。この間、おそらく45年くらいです。世の中も女性がドンドン進出しており、女性パイロットが生まれたことは知っていましたが、自分の搭乗機では初お目見えだったわけです。いま、まさに飛んでいるときで、実況中継風に書いてみただけですから、この記事そのものはこれでおしまいです。
 ただし、「はじめて」という話題ですから、ついでに「思い出」も掲載しておきましょう。それはこれまで「一度だけ」体験したことです。皆さんは飛行機の乗り降りは、前方に向かって左側のドアを使われると思います。そもそも「そちら側しか」開いていませんから当然のことです。ところが、私は「たった一回だけ」ですが「右側」から降りたことがあるのです。それがいつどこでだったかは記憶にありません。とにかく「右側」であったことだけ、しっかり憶えているのです。飛行機にも「いろいろな」ドアがあってもおかしくありません。前方の両サイドから出入りすることができても驚くことではありません。ただ、例外なく「乗り降りは左」と決まっているかのような感じがします。そのとき、「どうして右側」だったのか説明はありませんでした。私も「もの凄く」は不思議に思わない程度のフライト体験のころだったのです。いまなら、好奇心満々の前期高齢者ですから、何としてもその理由を聞いたに違いないのですが…。
 さあて、DHCーQ400のプロペラ機は空港に近づいてきたようです。しっかり揺れはじめましたよ。そして着陸、飛行機から降りてバスに乗ったのですが、操縦席の右側に女性が座っていました。副操縦士さんだったのですね。
敵の敵? 2015/12/01 Tue 4770
 「敵の敵は味方」などという。ロシアとトルコも「IS」を共通の敵にしているようだ。その点では「味方」だったのだろうが、先日の撃墜事件で関係がこじれている。やはり「IS」を「敵」にしていることから「有志連合」とロシアも「味方」のような状況が生まれている。昨年のウクライナ併合問題はとりあえず棚上げということか。ところで、「アメリカ国防」のホームページには、この連合は63の国と地域が含まれ、わが国もその中に入っている。もちろんというか、ロシアの名前はない。そして、台湾はリストアップされるが、中国は入っていない。
 つい先だっての大阪府知事・市長選挙でも「おおさか維新の会」を敵だとする政党がは「味方」の様相を呈していた。共産党も含めて自民党を応援したらしい。まさに「自共共闘(?)」である。もっとも、自民党としては「共闘」意識はなかったようではある。敗因の一つとして「共産党も押した」ことを挙げる自民党関係者もいるようだ。学生団体「シールズ」も、「反『おおさか維新の会』」の立場から、結果的に自民党候補者を応援することになったという。この団体は自民党政府が強行した安保法案に反対して成立した。地元紙には、団体の関係者も複雑な気持ちでいることを伝えていた。
 これと似たような現象は国政でも出現しつつあるかのようだ。地方選で共産党に及ばなかった民主党の岡田代表が「共産党と組むことを考える」といったニュアンスの発言をして党内でも議論を呼んでいた。これには批判も多く、その後の発言は後退した感があるが、まるで「敵の敵は味方」という理屈だけで動いているように見える。これでは「結党の理念はどうでもいいのか」と言われても仕方ないだろう。こんな状況を目の当たりにして、「離合集散」の四文字熟語が「やれ、やれ、このごろは忙しいなあ」とまんざらでもない顔をして笑っていましたよ。