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 吉田道雄 YOSHIDA, Michio

味な話の素
Since 03/04/29
  No144.  2015年4月号 4521-4551
「キャバレー」「クラブ」「キャバクラ」「アルサロ」…  2015/04/30 Thu 4551 
 正確な表現は措くとして、「シャンパンシャワー」とか「シャンパンタワー」なる「遊び」があるのだそうな。しかも院生は、それが「ホストクラブ」と「ドン縁」いや「ドンベリ」なるものと深い関係があることを教えてくれた。そうした遊びが「ホストクラブ」で行われているという。それを聞いた瞬間に、解説をしてくれた院生に「あなたは行ったことがあるの」と反射的に尋ねていた私がいた。院生は女性だったからだ。もちろん「行ったことはありません」という当然の回答が得られた。
 さて、太古の昔から、男が酒を飲むときに女性を侍らせるといった光景は珍しいものではない。私が子どものころから大人になってからも「キャバレー」というお店が大繁盛していた。なにせ、担任の先生がキャバレー好きだと子どもたちの間で噂になったくらいである。さらに「クラブ」という部活と勘違いするようなものもあった。こちらはキャバレーよりも「上等」らしかった。いずれにしても、女性が男性の相手をするというところは同じだったのではないか。そのうち、「キャバクラ」なるものが登場した。これはどう見ても「キャバレー」と「クラブ」を合成したのだと思うが、正確な定義は知らない。ただし、「キャバクラ」からは高級感が消えて、「誰でも行ける感」が漂っている。とりわけバブルの時代に頻繁に聞いたような気がする。
 そう言えば、個性派俳優の藤田まことがテレビのお笑い系でデビューしたころ、「十三の『アルサロ』のねえちゃん」といったセリフを盛んに発していた。その言い回しから察するに、「高級」とは対極にあるお店のように感じられた。なお、「十三(じゅうそう)」は大阪の下町である。私としては事実を確認しないままに、これは「アルバイトサロン」の略記だったのだろうと、今日まで思い込んでいる。ただし、どうして「アルバイト」などが含まれているのかは知らない。もちろん、いますぐにネットで調べれば、こうした一連の言葉の語源もわかることだろう。ただ、私にそこまでする気がないということである。
[なお、今日では「不適切」だと思われる用語を使いましたが、そのニュアンスを正確にお伝えするために、当時のままの表現にさせていただきました。はい]
「シャワー何とか」か「何とかシャワー」か…  2015/04/29 Wed 4550  
 若者用語については何のことかわからないことが少なくない。そんなとき、私の情報源は学生たちである。ほとんどのことが解説付きで即座にわかる。これは毎週授業をしている者の役得である。さて、またとんでもない事件が起きた。若い女性が生き埋め状態で殺されたという。そのむごさは言うまでもない。その細かい経緯はまだ明らかになっていないが、マスコミ情報のなかで、被害者がインターネットで交わしたという内容が気になった。まずは「『シャワー何とか』が100万とか50万かかる」といった会話の意味である。そもそも「シャワー何とか」がわからなかった。しかし、授業で大学院生に聴くと、瞬間的に明快な回答が得られた。それは「シャワー何とか」ではなく、「シャンパンタワー」というものだったようだ。ただし、私としては「シャワー」という言葉が耳に残っているから、放送ではそんな表現だったかもしれない。あるいは「シャンパンシャワー」の可能性もある。ともあれ、「シャンパンタワー」とは、シャンパンを入れるグラスをピラミッドのように重ねて、頂点のグラスにシャンパンを注ぎ続けていくものだそうな。当然のことながら、一番上のグラスから溢れたシャンパンは次から次へと下の方に流れ出していく。かくして、すべてのグラスにシャンパンが入ることになって完成となる。つまりは、酒に絡んだ遊びなのである。
 この話、途中まで聴いたときに「あっ、そうだったんだ」と思いついた。それは、経済の議論でこれがたとえ話に使われていたことである。つまり、まずはトップにいる裕福な人たちが大いに潤うわけだ。そうなると、その人たちのグラスから溢れたものが、いわばおこぼれとして下へ下へと流れていく。かくして、すべての人たちが経済的な恩恵を享受するという物語である。そのときも「シャワー」という用語が使われていたかもしれない。これは個々人のレベルだけではない。企業組織の場合も、まずは大企業が利益を上げることを優先する。やがては中小企業にもそのプラス効果がもたらされるという考え方である。これが経済学の議論としてはどんな評価を得ているのかはわからない。ただ、素人経済学者としては、トップの裕福な層がグラスを溢れさせているかどうかである。ゲットしたシャンペンをグラスに注がずに自宅の倉庫にため込んでいては、この効果はゼロである。その根拠はよくわからないが、大企業の「内部留保300兆円」なんて言われるのは、同じようなものだろう。
大物発言の威力  2015/04/28 Tue 4549 
 ハーバード大学のハイフェッツ教授の「30年前に『リーダーシップ』を教えていたのは私と陸軍士官学校だけだった」という情報から「多くの学び」を得た。私が信じる限り、この発言は歴史的な事実として正しくない。少し内容まで立ち入って、「リーダーシップは資質ではなく、学ぶことができる」という主張にしても、すでに30年前にはそのことを指摘していた者はいた。こうした「事実」を前提にすると、まずは「学び」の①「ハーバードの教授が研究の状況を知らなかった」。しかし、教授がリーダーシップ研究の権威であることを考えると、その可能性はきわめて低い。いや、ほとんどあり得ない。そうだとすれば、②「それまでにも同じ立場の研究があったことを知っていたけれど、『私と陸軍士官学校だけだった』と言ってみた。これは「まったくないこと」でもない。教授は超一流の「リーダーシップ」研究者であり、実践家なのだ。これくらいのことを言っても、「うわあ、すごいっ。さすがにハーバードのトップ教授だあ」とみんなが敬服する。これが権威というものが持つパワーなのである。私のような「フツーの、あるいはそれも怪しい自称(?)研究者」が同じことを言えば、「なあんだ、しっかり勉強していないんだあ」「自分がはじめて新見解を提起したような言い方をする。これだから小物は困ったもんだ」「こんないい加減なことを言う奴はつるし上げて恥をかかせないといけないぞ」…。まあ、こうした非難が囂々、さらに超顰蹙の嵐が吹き荒ぶにちがいない…。
 いずれにしても、学ぶことが多く、かつ楽しい「白熱教室」だった。さて、私と言えば、20代のスタートから「リーダーシップ・トレーニング」を学び、それをライフワークにする幸運に恵まれた。それからすでに45年以上が経過している。リーダーシップが資質だとすれば、それをトレーニングによって改善することなどできないことになる。ハイフェッツ教授が言うように、「リーダーシップは学ぶことができる」という前提があるから、「トレーニング」が存在しうるのである。これは恩師である三隅先生の時代から、つまりは少なくとも半世紀前から採用されている「リーダーシップ観」なのだ。
「首尾よく」と「正しく」  2015/04/27 Mon 4548  Management is doing things right…
 Peter Drucker(1909–2005)は20世紀後半の日本で、最も知られたアメリカ人の一人だろう。そもそもはオーストリア生まれだが、アメリカの経営コンサルタントとしてその名を馳せた。私が大学生のときに出た「断絶の時代(The Age of Discontinuity )」は日本でも大ベストセラーになった。とくに理由はないが、〝Discontinuity〟の響きがじつによかった。私もとりあえずは、「ドラッカー選集(15冊)」は読んだ。いまから振り替えれば常識的な内容もあるが、それは「コロンブスの卵」なのである。彼がナチズムをはじめ、官民を問わず、その時々の権威に対して批判的な視点を持ち続けたことが印象的だった。
 そのDrucker の言である。〝Management is doing things right; leadership is doing the right things.〟。「組織のマネジメントに求められるのは、ものごとを『首尾よく』実行すること。そして、リーダーシップは『正しいこと』をすること」。マネジメントは「経営」と訳されることが多いが、日本語的には「利潤」のイメージが伴ってうまくない。しかし、本当のマネジメントは、組織の構成員を含めた内外の要因を踏まえながら、全体を首尾よく機能させていくことである。
 これに対して「リーダーシップ」は「うまく」対応するのではなく、まさに「正しいこと」をしなさいというわけだ。それを「正義(the right)」と言えば理想論になってしまうが、とにかく「小手先」でその場しのぎを図ってはいけない。いわば、「わが信じる道」を進めということだろう。ただし、そこで「わが(我が)」にこだわりすぎて、リーダー個人の「我」だけが前面に出ては元も子もない。
 
ハイフェッツさん、「ほんまでっかぁ!?」  2015/04/26 Sun 4547 
 ハイフェッツ教授の「白熱教室」第2回は「リーダーシップは素質ではない!」だった。私は予告のタイトルを見ただけで興奮した。心のなかで、「そうだ、そうだ」と叫んだのである。そして、その内容は「期待通り(?)」だった。ここで第2回目のポイントを押さえることにしよう。タイトル通り、教授はリーダーシップが素質ではなく、「学ぶことができるものだ」と強調する。そして、「私が教壇に立った30年前は、ほとんどの人がリーダーシップは『学べない』ものだと言っていた」と語りかける。さらに、「当時、私以外に『リーダーシップ』について教えていたのは、アメリカ国内では一つだけだった。ウエストポイントの陸軍士官学校だ」と続けたのである。ここで「えーっ、ホンマかいな」と声を挙げたくなった。いまから30年前と言えば1980年代半ばになる。そのころにアメリカで「リーダーシップ」ついて教えていたのがハーバードのハイフェッツ氏と陸軍士官学校の2ヶ所だとは「はじめて」知った。というよりも驚天動地の発言である。
 私が大学に入学したのは1967年だが、わが恩師の三隅二不二先生を先頭に、「リーダーシップ」の研究が進んでいた。あのPMリーダーシップ論もすでに現実の組織における研究がスタートしていた。私がはじめてPM調査で出かけたのは、西日本相互銀行(当時)飯塚支店だった。もちろん、ハイフェッツ氏が日本の状況を知らなくても仕方がない。しかし、リーダーシップに関しては、たとえばフィードラーという研究者が「条件即応理論(contingency model)」と呼ばれるモデルを提唱している。そこでは、「リーダーシップの効果は、仕事の性質やリーダーと部下の関係の在り方などが重要な役割を果たす」ことが強調されている。つまりは、それまでの「特性」よりも「状況」に焦点を当てることを主張したもので、すでに1967年には書籍として出版されている。この理論は多くの議論を呼ぶのだが、この一つを取っても、私が「30年前にアメリカで『リーダーシップ』を教えていたのは2ヶ所だけだった」という話に「ホンマかいな」と反応するのは当然なのである。
ハイフェッツさん、握手しましょう!  2015/04/25 Sat 4546 
 ハーバード大学ケネディ行政大学院ハイフェッツ(Ronald Heifetz)教授の「白熱教室:リーダーシップ」は6回シリーズだったが、とくに2回目が印象深かった。その内容と関連するので、教授に関するNHKの情報をフォローしておこう。まずは「独創性に富んだリーダーシップの教育手法、画期的なリーダーシップ実践理論は、世界的な名声を有する」としている。私はハイフェッツ教授のことを知らなかったから、「勉強不足」を指摘されても仕方がない。あるいは「行政」や「NGO」方面に強そうだから、私の貧弱なレーダーでは補足できなかったのかもしれない。ただし、これは言い訳ですね。ともあれ、「ハーバードでは、社会や組織のなかでどのようにして適応能力を構築するかをテーマに研究」を進め、「30年続くリーダーシップと権威に関する授業は、常に卒業生からケネディスクールでもっとも影響力のある授業に選ばれている」という。とにかくすごい人なのだ。
 さて、その2回目のタイトルは「リーダーシップは素質ではない!」である。初回が終わって次回の予告を見たとき、私の期待はいやが上にも高まった。われわれもそうした立場から研究と実践を続けてきたからである。やはりNHKのHPによれは、「リーダーには生まれ持っての素質があると一般的に思われている。それはまったくの間違いだとハイフェッツ教授は言う」のだから、ますます「自分たちと同じだ」という気持ちになる。さらに「いい話」が続く。「人を特別な人、リーダーとして見るのではなく、発揮されるリーダーシップの実践そのものを見る必要がある」「人気の有る無し、大きな力を持っているか、カリスマ性を持っているか、それらは単なるツールに過ぎない」「リーダーシップとは、大きな権限を得ることではない、頼りにされる人物になることでもない」。ここまでくれば、ほとんど握手状態である。
 
平和の感覚  2015/04/24 Fri 4545 
 中学校で「朝からワクワクしている」といった趣旨の話をしたところ、一年生の男子生徒が感想文に「先生のように『能天気』になりたい」という感想文をもらって感激したことがある。それは私に対する最高の褒め言葉だと思ったからである。しかし、それが国になれば、「能天気」という評価をもらって喜ぶわけにはいかないだろう。水曜日にドローンと呼ばれる無人飛行機が首相官邸の屋上に落ちていたのが見つかった。それがいつからそこにあるのかがわからないようだ。その理由は簡単で、この1ヶ月間は誰も屋上に上がっていなかったからである。今回も新人の研修のために屋上まで行ったことからそれを発見したという。最上階は総理大臣の執務室もあるらしい。もちろん普通の家であれば余程のことがない限り、定期的に屋上まで点検することはないだろう。しかし、ここは首相官邸である。入り口をもちろんだが、塀の周りも「蟻が侵入する隙間もない」ほどの厳重な警戒をしていると思う。だからこそ、「上から」の侵入は「国家の危機管理」的視点から考慮されてもよかったはずだ。
 じつは、私はニュースで「ドローン」という言葉を聞いたとき何のことかわからなかった。しかし、映像を見て空撮などで活用されているあれなんだと理解した。このごろはホワイトハウスなどにも意図不明の飛行物体が飛来したり、墜落したりしている。私のような素人が、こうしたニュースを「アメリカも大変だなあ」と思うだけで終わっても仕方ないところがある。しかし、国の危機管理を専門にする立場の人間たちは、それでは済まないのである。こうした無人飛行機に関しては、ほとんど制限がないのは日本くらいのものらしい。そこであわてて法制化の話が出てくることになる。
 海外では空港だけでなく、たとえばパリのエッフェル塔付近ですら、自動小銃を持った警官がパトロールしている。もちろん、こんなことは見習わない方がいいに決まっている。それだけ「平和」なのだヵら。しかし、このままでは対応できない状況が生まれつつある。
免震ゴム問題  2015/04/23 Thu 4544 
 もう10年近くにもなるが、「耐震データ偽造事件」と呼ばれるとんでもない激震が日本国中を襲った。あえて匿名にするが、1級建築士のAが構造計算書のデータを改ざんして耐震強度をごまかしていたのである。問題をチェックすべき機関もこれを見逃し、建築会社もそのまま建てたということで、その責任も問題になった。ともあれ、その結果として、マンションの住民は退去を余儀なくされ、ホテルも営業停止に追い込まれた。外見的にはまだ新しいビルが取り壊されるなど、目を疑うような事態にまで至った。その罪の大きさは表現できる域を超えている。しかし、その発端はAという個人にあった。もちろん、「だからしかたがない」といったレベルの話ではない。さらに、そうした個人の不正を見逃すシステムにまで言及すれば「個人の問題」で済むわけはない。そのあたりまで拡げると別の議論も必要になるが、個人の問題だとしても「悪い」に決まっている。
 そうした過去の事件を再現するように、さらに組織的な大不祥事が明らかになった。今回も「地震対応」に関わる事件である。それが東洋ゴム工業のデータ改ざんである。正確には子会社の東洋ゴム化工品株式会社が起こしたものだ。製品の一部が国の性能評価基準に適合しておらず、認定を不正に取得していたとされる。ときおり「開いた口が塞がらない」ニュースが報道されるが、これはその桁が三つか四つ違っている。そもそもこんなことがあるものか。その影響はA事件とは比較にならないほど大きい。そのなかには大きな病院まで含まれているからだ。ずっと大昔であれば、そうしたとんでもないことが行われていても、表面化しなかったケースもあった可能性は否定できない。しかし、いまやまともな組織では「コンプライアンス」なる言葉が常識化し、そこで不祥事が起きれば、その存続を脅かすような時代である。そんな状況の中で、これほどひどいことが起きてしまうのだから、やはり信じられないという単純な表現しか思い浮かばない。私はいくつかの組織で、階下に免震のゴムが設置されているのを見せてもらったことがある。この上にビルが建っているのだと聞いて驚き、それを実現した技術に感動した。このときは東洋ゴム工業系のものではなかったが…。
 ともあれ、どうしてこんなことが起きたのか。これに関わった個々人の特性と責任を追求するだけでなく、組織要因を明らかにしていかねばならない。
「白熱教室」:リーダーシップ  2015/04/22 Wed 4543 
 「『リーダーシップ』をタイトルにしたNHKの『白熱教室』で放送されるよ」。私の妹がそんな情報をくれた。そこでチェックしてみるとハーバード大学ケネディスクールのロナルド・ハイフェッツ教授の講義の再放送であることがわかった。そう言えば「リーダーシップ」に関する放送があったことを思い出した。ただし、当時はあれやこれやとバタバタしていて、まったく見ていなかった。いや、ほんの数秒程度だけチャンネルを切り替えたかもしれないが、その程度だった。しかし、今回は別件の電話のついでとはいえ、医務とからのお勧めである。そこで今度は本気になって録画を撮ることにした。放送は金曜日の夜遅くで、翌日の土曜日に視聴した。全体で6回の講義はそれなりに興味深かった。ここで「それなりに」という評価は、かのハーバードの、おそらく超一流教授の講義に対するものとしては、「失礼千万」「不遜きわまりない」態度として大顰蹙を買うことだろう。ただ、ここで誤解のないように強調しておかないといけないことがある。それは、評価する際の基準は「わが国の研究水準」であって、「私の個人的研究のレベル」ではないことだ。
 さて、具体的な内容のお話しに移る前に、ハイフェッツ教授について、NHKのHPに掲載されている情報をピックアップしておこう。ハイフェッツ教授の所属はハーバード大学ケネディ行政大学院(ケネディスクール)で、1951年生まれというから今年64歳である。経歴のなかにハーバード大学メディカルスクール含まれており、キャリアのスタートは医師だったと、講義のなかでも語っていた。そして、ハーバード・ケネディスクール・パブリックリーダーシップセンターの創設者というから、まさに、リーダーシップに関するプロ中のプロである。そして、「現在も米国内外のビジ ネス界、政府およびNGOのリーダーに対して精力的にコンサルティングを行っている」とまとめられている。
 
家族テープ(1)  2015/04/21 Tue 4542 
 「光陰矢のごとし」。これまで生きてきた日本人が一生のうちに何度となく繰り返したことわざです。私が熊本大学を退職する際に「記念講演会」を開催していただいたのは3月21日でした。あれからもう1年以上が経過したことになります。おかげさまで、「前期高齢者3年生」にまで達し、今年度も「熊本大学シニア(老人)教授」を継続させていただいたおります。かくして「光陰矢のごとし」を体感するのです。
 ところで、退職前の昨年3月16日に「注意散漫物語」なるものをスタートさせていました。私の子どものころからの思い出を、これまた私の特性である「注意散漫」ぶりを絡めながら振り返ろうというものでした。その3月だけで7回目に達しています。そして、4月3日の8回目に「家族アンケート」なるものが登場します。これは、私が定年を控えて「身辺整理」を進めていた際に、「お宝(?)テープ」を発見したことからはじまったものです。それは、私が高校1年生のときに録音した家族の肉声テープでした。そして、口火を切ったのは、当時中学3年生だった妹でした。そこで、その発言をネタにしながら「注意散漫物語」なるものを9回ほど続けていました。ご想像の通り、これをまた復帰させようという魂胆です。ただ、前回は最終的には私の「注意散漫さ」に繋げることにしていたはずです。しかし、時間が経過しすぎですから、「シリーズ物」はやめて、「家族テープ」と改題して、ときおり書いていくことにいたしましょう。
 さて、テープのなかで妹はチャンネル争いについて言及しています。発言では「ある人」がよりによってゴールデンアワーに「教育テレビ」を見る強力な「趣味」があったため大きな問題が発生していると訴えているのです。前後の文脈から(?)、「ある人」が誰であるかは明らかです。この人はとにかく「教養」なるものが大好き、というよりもそれに「飢え」ているのかと疑うところがありました。私は、その理由が、若いころに進学したかったにも拘わらず、家庭の事情でそれを断念したためだと思っています。
リーダーは「ちょっとだけ」がいい  2015/04/20 Mon 4541 A good leader takes a little more than his share of the blame…
 Arnold H. Glasow (1905-1998)は、アメリカのビジネスマンでユーモリストとされている。その生年と没年の年を見ると、完璧に「20世紀を生きた人」である。彼が発した「ことば」は、〝Wall Street Journal〟をはじめとしたジャーナリズムにはしばしば登場するらしい。ただし、Wikipediaで検索してみたが、これには掲載されていなかった。
 それはともあれ、〝A good leader takes a little more than his share of the blame, a little less than his share of the credit.〟は名言だ。「優れたリーダーは、みんなでした仕事に対する批判は、自分が『少しだけ』余分に引き受ける。そして、手柄については、自分も『少しだけ』貢献したと主張する」。かなりの意訳だが、「これぞリーダーの鑑だ」と嬉しくなった。
 私はある校長の行動が忘れられないでいる。たくさんの来賓を招いた研究発表会の昼食時だった。その場で、市内のすべての学校を紹介した公的な記念誌を渡された。その際に、「じつは、先生のところは校正ミスがあったんですよ」と一言付け加えられた。その周りには、来賓をはじめとした部外者と部下である教員たちがいた。
 「おやおや、そりゃあ参ったなあ。そこは、私がちゃんと見てなかったんやなあ。いやはや申し訳ない…」。この校長の一言ですべてが終わったのである。それが部下の教員が犯したミスであることは、その場にいた全員が知っていた。もっともこのケースでは「少しだけ」でなく、「すべて」を引き受けたのではあるが。
 それにしても、アメリカの「ビジネスマン」に多大な影響を与えたと思われるGlasow氏もまた、きわめて「義理人情」的こころの持ち主だったと確信する。こうした行動や態度が「人を育てる」ことは、洋の東西を問わないのである。あちらの国にだって、「浪花節」は十二分に通じるんです。えっ、「『浪花節』って何ですか」ですって!?
 
中学生の憧れ  2015/04/19 Sun 4540 
 昨日の「早朝夕刊」で中学生のときに観ていた「ルート66」というテレビ番組のことを取り上げました。そうなると、私の頭に連鎖的に浮かんでくるものがあります。それは「看護婦物語」というタイトルとジナベシューンという出演者の名前です。その名の通り、アメリカの大病院で働く看護婦長を主役にいろいろなエピソードが展開していきます。その中に、若い看護婦が登場します。いまになって情報を探してみると、「看護実習生」という位置づけだったようです。ともあれ、それを演じていたのがジナ・ベシューン(Zina Bethune 1945–2012)だったのです。原題も〝The Nurses〟でした。この番組はNHKで土曜日の11時ころから放映されていたと思います。
 そのなかに登場するジナ・ベシューンがじつに魅力的で、中学生の私は夢中になったのでした。そして、「ルート66」の愛川欽也と同じように、ジナ・ベシューンの声が山東昭子だったことも耳に焼き付いているのです。私は「ファンレター」を英語で書いて出そうかと思ったほどでした。当時は「ペンパル」とか「ペンフレンド」などと呼ばれる、海外の知らない者同士手紙の交換をすることが流行っていたのです。いま思えば、なんともおおらかで安全な時代でした。じつは、テレビで見る限り彼女は遠くにいるいうな美しさではなく、本当に身近に感じられる風貌をしていました。いわば私にとって「テレビの中の初恋の人」と言えるかもしれません。
 大学院生たちとの会話で、何かのきっかけでその話題を出したこともあって、Zina Bethune を検索してみました。本当に驚きました。すでに2012年に亡くなっていたのです。それも車にはねられた動物を助けようとして別の車にひき逃げされたというのです。もう何とも言えない気持ちになりました。私より3つ上ですから、中学生だった私には憧れの対象になったのも頷けます。
 時間は経過してしまいましたが、思春期の思い出とともにご冥福をお祈りします。
 
早朝(?)夕刊①  2015/04/18 Sat 4539 
 タレントの愛川欽也が亡くなりました。私にはこの名前を聞くと反射的に思い出すことがあります。それは「ルート66」というテレビ番組です。これはアメリカの二人の若者が五大湖沿いにあるシカゴから西海岸ロサンジェルスの先にあるサンタモニカまで、すごいスポーツカーで突っ走る物語です。その道筋が「ルート66」という名のハイウエーだったのです。番組は、その途上にある町々でいろいろなエピソードが起きるという仕掛けでした。鳥肌が立つようなビートのきいたテーマソングとともに、目を閉じれば、いまでも二人のカッコいい姿が浮かんできます。若者の名前はバズとトッド、演じるのはマーティン・ミルナーとジョージ・マハリスでした。
 これがNHKで放映されたのは1961年からだそうで、私が中学1年生のときです。そのころになって、ようやくわが家にも白黒テレビがやってきた。そんな時代です。そして、バズの声優が愛川欽也だったのです。その声はバズのかっこよさと重なって、私の耳に心地よく残っています。その後、相当の時間が経過してテレビで愛川欽也を見ることになります。とてもネアカで善人そのものという感じでしたが、バズとはかなりの距離がありました。しかし、その「距離感」がまた何とも言えず、今日まで「愛川欽也=ルート66」という、私にとって失われることのない記憶の鎖を形成したのです。何分にも「夕刊」ですから、長くなるものどうかと思います。
 愛川欽也さんのご冥福をお祈りします。「テッドは永遠なり…」。
 
観光客と子どもの問題  2015/04/18 Sat 4538 
 外国からの観光客が増えているという「めでたそうな話」から、突如としてコンビニの周りでたむろする中学生たちの話に飛びます。これは中学生だけでなく、高校生や小学生にも当てはまるとは思うのですが、私個人の主観では中学生が多そうに思えるだけのことです。
 ともあれ、彼等が何をしているかです。もちろんコンビニで食べ物を買って、外でダベっていることもあるでしょう。しかし、もう一つ可能性が高いのは、「無料のWiFI=無線LAN」を利用してスマートフォンを使っていることです。いまどのくらいのコンビニ、あるいはその駐車場あたりで「無線LAN」が利用できるのか知りません。しかし、すでにかなりのところがOKになっていると推測します。その結果として「問題」が起きる可能性が高まるわけです。
 いまや、ネットを通した子どもたちの「いじめ」が加速度的に問題になっています。個々の事例については情報を持っていませんが、ネットが原因で命を奪われたり、自ら命を絶ったという報道を目にすることがあります。私は「熊本県いじめ防止対策審議会」のメンバーとして、この3月に教育長へ「ネット世代の子どもたちに対応したいじめの防止等の取り組みの在り方について」と題する答申をしました。とにかく子どもたちの間でネットが大きな問題を引き起こしているのです。
 こうした状況が、当初の「外国人観光客」の話題に繋がるのです。わが国は「観光立国」を目指そうと、国がかりで積極的な展開を図ろうとしています。そのための一つの重要な環境整が、「無料のWiFi」を全国的に拡大するものです。「いつでも、どこでも海外からのお客様がアクセスできる」。それを国が促進しようというわけです。こうしたなかで、子どもたちに「『無線LAN』を使っちゃいけない」などと大声で繰り返し叫んでもおそらく何の効果もないでしょう。ましてや「学校で禁止してくれ」なんて言われても、学校は困り果てるだけです。誰もこの流れを止めることはできません。さて、どうしますか、みなさん。
 
外国人との相互理解  2015/04/17 Fri 4537
 外国からの観光客が1,500万人に達したという。外交上の摩擦とは無縁のように、中国からも多くの人々がやってきた。民間人の交流が深まれば、相互理解も進む。私にも中国と韓国に友人がいる。昨年度の授業には韓国からの留学生が熱心に出席してくれた。その合間に、お国の入試や徴兵制、さらには船の事故や大韓航空の「ピーナツ事件」などの受け止め方を聞いたりした。
 新年度も大学院の授業には、名前から推測すると3人ほど留学生が受講している。最初の授業が終わったあとで、中国からの学生が挨拶にきてくれた。ハルピンの出身だという。こうした学生がいると、日本のことを理解してもらおうと、さらに気分が乗ってくる。いいことだと思う。学生に書いてもらうミニレポートには「私は外国人で、百分之百意味が分かっていないが、納得しました」とあった。ここで「百分之百」が「100%」であることは間違いない。こうした表現に出会うことも楽しい。
 さらに、「先生の講義はすばらしいです」とも書いてくれていた。たった1回の授業評価だから、図に乗ってはいけない。しかし、こうしてほめてもらうと天にも舞い上がる気持ちになる。ますますヤル気が高まってくるではないか。同時に、前期高齢者になってもこうした機会を与えられていることの幸せを実感する。「ありがたや、ありがたや」である。まだ新学期が始まったばかり。「なあんだ、最初だけかあ」なんて言われないように、しっかり準備もいたしましょう。
 さて、留学生の話は置くとして、いまやわが国は観光立国を目指している。昨年の統計だと思うが、観光客が使った金額は2兆円に達したという。次の目標は2,000万人に設定されている。多くの外国人が日本にやってきて、お互いの理解が進むのは素晴らしいことである。
カナカナ見聞録(8)  2015/04/16 Thu 4536 Continued from 3/31
 お久しぶりに「カナカナ」です。今回はラジオの講演会からのネタです。東京にある大学の学長さんのお話を聞きました。しっかりしたキャリアをお持ちの女性です。話の内容は、とくに男性の「ワーク・ライフ・バランス」に関するものでした。放送時間は1時間ですが、実質的には55分くらいで、けっこう満足はしたのですが、そのなかで「カナ」を頻発されるわけです。ほんの5分くらい経過したとき、あまりにも気になったので「カウントしてみよう」という気持ちがグーンと盛り上がってきました。放送を録音をしていたものですから、最初に戻って「カナ」を数えはじめたのです。まあ、何とも粘着質と言いますか、「そこまでやるか」とあきれる方も多いに違いありません。しかし、とにかくしっかりカウントしていったわけです。
 それからは、とにかく欣喜雀躍、「カナ」が出るたびに飛び上がって叫びそうになりました。ドンドンと「正」の字ができていくではありませんか。最終的には「正」が8個と「一」で、41回と相成りましたです。はい。そのほかにも「『か』と思う」という、かなりスレスレのものも何回かありましたが、「公正」を期すために、これらはカウントの対象から外しています。全体を55分とすれば、「1分とちょっと」おきに「カナ」が聞こえてきた計算です。とにかく大物の実力者でいらっしゃるのですから、もう少し「言い切って」しまってもよろしいのではない「カナ」と思ったことでした。
 ところで、「公正」を使ったついでに「井上康生」さんを思い出しました。昨年の夏に行われた柔道の世界選手権で日本男子が優勝しました。そのときの男子監督が康生さんでした。選手たちから胴上げされた後でのインタビューで「(みんなが)頑張ってくれたんじゃないカナと思う」と答えていました。いやあ、井上さん、ここで「カナ」はいけません。「しっかり頑張ってくれました」と言い切らなくっちゃあ!
 
今月の写真③  2015/04/15 Wed 4535 Continued from 4/09
 今月の「今月の写真」は、ちょっと長引いています。最初の1枚目は、あの湘南海岸にある「茅ヶ崎サザンC」であることをお伝えしました。このモニュメントについて書き始めると、「今月の写真」の終わりが見えなくなりますので、「やせ我慢」して先にに進みます。
 真ん中の2枚目は「華厳滝」です。そうなんです、夫婦で栃木県まで出かけてきました。東武鉄道で日光まで行き、さらに中禅寺湖まで足を伸ばしました。
 そこで写真の3枚目まで行ってしまいますが、これは夕刻の中禅寺湖です。ホテルのPRにも「隠れ家風」とあるのですが、木立の向こうに見える中禅寺湖と夕日がすばらしく、「時間よ止まれ」と言いながらシャッターを切りました。温泉も乳白色で、露天風呂の天上にはお月さんと星が輝いていましたよ。それにしても、まだ雪が残っているのにはいささか驚きました。ただし、中禅寺湖自身が標高1300m近くにあると聞けば、「そりゃあそうじゃ」と納得できます。気候的には北海道と同じくらいで、桜も5月になってからということでした。ところで、「華厳滝」は中禅寺湖の間近にありました。湖が水源ということで、これまたすばらしいコンビネーションだと感動しました。
 そして、日光といえば東照宮でしょう。もちろん出かけましたが、表紙に4枚も写真を載せるのはどうかと思ってカットしました。じつは目玉の一つである陽明門は現在修復中で、その写真が撮れなかったことも表紙写真にならなかった理由の一つです。それでも、見所はたくさんあって、十分に満足したことを付け加えておかなければなりません。
理性的提案?  2015/04/14 Tue 4534 
 「人生、イエスしか言わない」などと妄言に近いことを言い続けてきた。そんな私だから、昨年の3月まで「熊本県明るい選挙推進協議会」会長を2期8年に亘って務めさせていただいた。そうした経緯もあって、退任後も選挙は必ず投票している。もっとも、わざわざ「明推協」のことなど持ちださなくても、選挙で棄権しないのは当然のことなのではあるが…。
 それにしても投票率がいかにも低い、低すぎる。ニュースによれば41都道府県のうち、「過去最低」が38にも達したという。また、総定数の21.9%が「無投票当選」なんだそうな。こうした現状を前にして、私としては、「妄言・暴言」かつ「完璧に実現不可能」、しかしながら「最高度に理性的な(?)提案」を試みたい。
 ①無投票の地区が出た場合は、定数を少なくとも1名「削減」する。あるいは、定数を倍率「1.5倍」になるまで調整するなどはいかがだろうか。もちろん、この定数は一時的なものとするくらいは譲ってもよろしい 。ともあれ、この方式によって議員に必要な経費も減るから「財政的」にも貢献する。
 次は投票率に関するものである。
 ②国が各自治体に配分する予算額を投票率によって重みづける。ストレートに掛け算するのは厳しいかもしれない。そこで予算の50%は確保して、その半額に投票率をかける。たとえば50億円の予算であれば、投票率60%の場合、「25億円×.6=15億円」になる。その結果生まれた財源は「赤字国債」の返済に充てる。それを「わずかな金」と笑う勿れ。何事も「小さなこと」からはじまるのである。まあもっといい使い道を探すにしても、これまた「財政上」大いに助かることになる。
 これ以上に「めでたし、めでたし」はないのではないカナあ…。
 
自分を好きになりましょう  2015/04/13 Mon 4533 The more you like yourself,…
 私が小学生から中学生のころ、ヒーロー力道山が大活躍する「プロレス」が金曜日の夜8時から放送されていた。その視聴率は驚異的で、とりわけ1963年5月24日の「デストロイヤー対力道山戦」は64.0%(ビデオリサーチ)に達した。これは今日まで歴代第4位を誇っている。スポンサーは三菱電機だった。タイトルを「三菱ダイヤモンドアワー」として、プロレスは隔週に放送されていた。ここでペアになっていたのが「ディズニーアワー」である。いま想えば、殺伐さが漂い、ときには流血にまで至る「プロレス」と、明るくて楽しさにあふれる「ディズニー作品」は、なんとも対照的ではある。ともあれ、Walt Disney(1901-1966)こそは、今日でもテーマパークのトップを走るディズニーランドの生みの親である。そのディスニーは私が高校生のときに「突如として」亡くなってしまった。これには大いに驚いた記憶がある。いまチェックしてみると享年65歳だったとのことで、早逝と言えるだろう。
 そのディズニーのことばが、〝The more you like yourself, the less you are like anyone else, which makes you unique.〟である。「自分を好きになればなるほど、他の人と違ってくる。それが自分のすばらしさ(個性)ということだ」。みんなが同じでないこと、それぞれが「唯一の存在」であること。これがすべての出発点だ。アンケート調査で、日本人は「自分が好きだ」と答える割合が極端に低いという結果が報道されたりする。何とも「自虐的」とも言える反応傾向である。そもそもこの世に生まれてきたこと自身が「奇跡」ではないか。もっともっと「自分を好きになって」、問題があるのなら、それを「克服する」ことを楽しみましょうよ。
 
Q&A ミニカリスマと人格③  2015/04/12 Sun 4532 
 講演では、リーダーは「ミニカリスマ」として、「・失敗を体験し、それを部下に語る ・いつもチェレンジ精神を維持し続け、失敗してもそれを克服する」といったことが期待されていることをお伝えしたのでした。しかし、「そうした行動」そのものが、「性格」によって影響されるのではないかという疑問をもたれる方はいらっしゃることでしょう。これに対する私の回答はいくつかあります。まずは①組織をリードしていただく方には、「わが性格」と付き合いながらも、「求められている行動」を実現するようにチャレンジし続けるということです。また②… と、2番目を書こうとして、ふと一昨日の本欄が目に入りました。その瞬間に、ご質問は、「性格」ではなく、日常的な意味での「人格」を強調されているのではないかと考えている自分を発見しました。私は「『味な話の素』に書いたことは、後で書き換えない」ことを大原則にしています。その例外は明らかな誤字・脱字が見つかったときだけです。
 そんなわけで、今日の物語は突如として急ブレーキが掛かり、「『ミニカリスマ』になるには『人格』が求められるのではないか」とのご質問だと受け止めることにしました。つまりは、昨日の「解釈」が間違っていたということです。
 さて、その場合に私がお出しする回答は次のようになるでしょう。①まずは、そもそも「人格」は、無数の人との関わりや体験を積み重ねるうちに形成されるものだと思われます。生まれたときから「人格者」ということはありませんね。②そうなると、周りからの影響を受けながら、自分でも、率先してさまざまな行動を取っていくことが成長に繋がることでしょう。③そうした行動には失敗も含まれるでしょうが、それをきちんと克服していく「努力」をし続けることが期待されると思います。ここで、「それができない『性格』だったら、『ミニカリスマ』になれないでしょう」と言われるかもしれません。これに対しては、「組織のリーダーであれば、やはり『努力』だけはし続けましょう。たとえ『成果』が見えないような気がしても…」とお答えしましょうか。④そして、こうした「行動=努力」の継続が、自分自身の行動や態度形成に影響するはずです。⑤そして、その結果として、気がつけば「ミニカリスマ」のライセンスを取得している。つまりは、周りからも「リーダー」として確たる評価を得ているわけです。そのときには、「人格者」としての風格も備わっているのではないでしょうか。⑥こうなると、さらに「チャレンジ」という形で「
 本コラムの「性格上(?)」、このくらいのボリュームで「おしまい」とさせていただきます。また、機会があればと思います。ともあれ、ご質問をいただきまして、ありがとうございました。
」 
Q&A ミニカリスマと人格②  2015/04/11 Sat 4531 
 ご質問にも書かれていますが、まずは「人格」ということばの定義が問題になります。心理学では〝personarity〟を「人格」と訳しています。これと似たことばに「性格」があります。こちらは〝character〟の訳語になります。心理学の場合、「性格」は個々人がもっている行動傾向の集まったものとされています。私自身はあいまいだなあとは思っているのですが、「気質」なども「性格」に含まれます。日常場面では、「性格が悪い」というように価値的な判断もします。一方の「人格」は「性格」よりも広い概念だと考えられます。それは「性格」だけでなく、成長の過程にも影響を受けながら形成されるもので、個々人の「生き方」までも含まれる感があります。一般的には、人生経験も基礎にした、「総集編」的な意味合いがあります。その証拠に。子どもは「あの子は『性格』がいい」とは言いますが、「あの子は『人格者』だ」といった表現はしませんね。そんなわけで、「性格が悪い」と同じように、「あの人は『人格者』だ」と言うときは、個人の価値を高く評価しているわけです。ともあれ、日常でも心理学でも使われている「性格」と「人格」ですが、ピリッとした定義づけとなると、今ひとつのところがあります。
 さて、私は講義や講演で、「リーダーシップは行動である」ことを強調しています。そして、これは私の推測ですが、ご質問をいただいた方は「性格」に近い意味で「人格」を使われたのではないかと思います。そこで私としては、「リーダーとして『ミニカリスマ』を目指すことの重要性はわかった。しかし、その際には『行動』だけでなく、『性格』も影響をおよぼすのではないか」というお尋ねだと受け止めることにしました。
Q&A ミニカリスマと人格①  2015/04/10 Fri 4530 
 いつもは多くても2回ほどで終わる「今月の写真物語」ですが、今回は思いもよらず(?)、連載っぽくなりそうです。そこで、そこで小休止しておきます。何分にも講演後にいただいたご質問には、できるだけ早くお答えしなければなりません。すでにそれなりの時間が経過していますので、その続きにしたいと思ったのです。
 第3番目のご質問は、「ミニカリスマと言えども、リーダーにはやはり人格が求められるのではないでしょうか?(人格の定義にもよりますが)」というものでした。ここで「ミニカリスマ」という用語が登場します。私が講演でお話ししたので、ご質問された方は、それがどんなものであるのかをご存じなわけです。ただ、ここでいきなり「ミニカリスマ」を目にされる方もいらっしゃるので、どうしてもご説明しないわけにはいきません。ただし、ここでは最低限の情報だけにしたいと思います。じつは、本コラムで最初に「ミニカリスマ」に言及したのは、2009年10月5日と6日でした。それから1年近く経過した2010年9月14日から20日に亘って、「ミニカリスマ」の「特集(?)」を組んでいます。ご関心をお持ちになった方がいらっしゃいましたら、このページの左上にある〝Back Numbers〟ボタンをクリックして、そこまでジャンプしていただければ幸いでございます。
 ともあれ、そのポイントは、リーダーは「カリスマ」のように、「一般人が近づけない神様の生まれ変わり」ではいけないということです。そして、私は、「リーダーは『ちょっとだけすごい人』で、『過去に失敗をしていて、いまでも失敗できる人』であるべきだ」と強調するわけです。それと同時に、「リーダーシップは行動であり、個々人の特性ではない」とも言っているのです。その際に「個人の特性を無視するのではなく、それをベースにしながら、期待されている行動を実践することが求められている」ともお伝えしています。ご質問の趣旨は、そうしたことは受け止めた上で、「それでも『人格』が必要なのではないか」ということだと思います。
今月の写真②  2015/04/09 Thu 4529 
 さて、私の母方の叔父夫婦と感動の対面をしたのですが、さらに父方の叔母にも会いに出かけました。叔父と叔母はずっと北九州市に住んでいましたが、23年ほど前に叔父が亡くなりました。その後も叔母は一人で元気に生活をしていました。一般論ですが、夫は妻に先立たれると意気消沈し、追っかけるようにしてあの世に逝ってしまうケースもあるようです。それに対して女性の方は、いはば一種の開放感と言いますか、とにかく自由に生き生きと、それもお仲間たちを作りながら長生きして、天寿を全うする。そんな話をよく聞きます。叔父はよくできた人物で、日常生活でもこまめなところがり、またうらやましくなるほどの達筆でした。そんな夫を亡くしたのですから、叔母さんのショックは大きかったと思います。しかし、それでも幸いにも元気で20年以上が経過したのでした。私もときおり電話をしますと、「ああ、道雄ちゃん、元気にしてる?」なんて質問が返ってくるのでした。すでに66歳の私ですが、いつまで経っても「道雄ちゃん」でした。しかし、その叔母も90歳が近くなり、やはり一人で生活するのには無理が生じはじめました。そんなことから、昨年、従弟夫婦が住んでいる関東地方に引っ越したのです。そこで、わが夫婦としてはこの叔母にも会おうという話になったわけです。もちろん、叔母は目が合った瞬間に声を挙げて私たちを迎えてくれました。話をした時間はほんの少しでしたが、ここでも充実したひとときを過ごすことができたのです。それはそうと、まだ、「今月の写真」に達しないことに、ひどく後ろめたさを感じています。
 さて、その次なのですが、家内が中学生のころから知っているお友達に会う計画も立てていました。その方のお住まいが神奈川県は湘南の「茅ヶ崎」というわけです。そうです。ようやく「写真」との繋がりを推測された方がいらっしゃることでしょう。それは「茅ヶ崎サザンC」と名づけられたモニュメントです。茅ヶ崎と言えば、サザンオールスターズはもちろん、私たちの世代では加山雄三がぴったり結びつくスポットです。
 
今月の写真①  2015/04/08 Wed 4528 
 今月も3枚になりました。そのうちの2枚は、「どこかわかった」という方もいらっしゃると想います。さて、今月は個々の写真を説明する前に、けっこうな前置き物語が入ります。
 私たちは今年で結婚40周年を迎えました。ほかのことも同じですが「あっという間」に40年が飛び去っていきました。そこで「記念小旅行」の第一弾として関東方面に出かけることにしたのです。まずは、私の母の弟、つまりはおじさん夫婦宅を訪れました。とにかく関東という遠方に住んでいますので、なかなか会うことができません。東京まではけっこう出かけている私ですが、仕事の前日はギリギリに行って泊まる。そして、仕事が終われば最終便で帰るといった具合です。ましてや家内ともなれば、関東方面に行く機会はまずありません。
 いまから23年ほど前に、私の父が福岡の病院に入院しました。その際に、叔父夫婦が見舞いに来てくれました。家内はそのときに二人に会っただけでした。叔父は85歳になることもあり、「とにかく会いに行こう」と決めたのです。お宅では昼食を摂りながら楽しい時間を過ごしました。おいとまする際に、家内が握手しようと手を出しすと、叔母は感極まって涙ぐみました。家内と会ったのは2回目だったのに、想うところがあったのでしょう。その光景を見ただけで「来てよかった」という気持ちになりました。これからもしっかり長生きしていただきたいものです。お互いの関係はどんなものであれ、人と人が出会うのは、それだけですばらしいことなのですね。
 おやおや、今日は「写真」の1枚も説明できませんでした。
「授業」の質問  2015/04/07 Tue 4527 
 NHKの「白熱教室」は好評のようだ。そもそもは、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授のものがスタートだったと思う。いやしくも大学で授業を生業にしている(いた?)者としては、大いに興味を引く番組だった。というよりも、「参考にすべき」番組だったのかもしれない。ただ、事実を言えば、「チラリと見ただけ」だった。おそらく視聴時間は20分くらいだったろうか。サンデル氏の場合、基本的には問題を提起し、それに対する学生の意見や質問を基にして、適切だと思われる回答を出す。その流れの中で、氏が伝えたいことを発信していく。
 私は子どものころから落ち着きがないと言われていた。そうした行動傾向は大人になっても修復されず、授業中もウロウロする。それも黒板のあたりを左右に動くのではなく、学生のいる方に向かって前後に動くのである。もちろん、ただ前後左右に動き回るのではない。学生に対して問いかけをするのである。その点では、サンデル教授は大講義室の演壇を左右に動くだけだから。私の方がダイナミックなのである!
 ところで、きわめて一般論であるが、日本の学生は自発的に質問をすることが少ない。もう17年も前になるが、オーストラリアに半年ほど滞在したことがある。そのときの体験だが、アチラの学生は積極的に手を挙げる。こうした傾向はハーバードでの授業を撮した「白熱教室」からも推測できる。もっとも、サンデル氏が来日した際に行った授業では、日本人の学生も質問したり、意見を言ったりしていた。これは、相当程度に「その気」のある学生たちが集まっていたからなのだろう。しかし、それは驚くにはあたらない。全国学生連携機構(JASCA)という一般社団法人がある。この団体は、「『1人1人が夢や志を持ち、想いや愛情の循環する社会』を創るために設立された」とされている(HP)。私は、そこが主催する九州地区の合宿で話をしたことがある。そのときは、1時間程度の話に対して、学生たちが競うように手を挙げて質問をしてきた。つまりは「日本人」だから「手を挙げない」のではないのだ。
 
まずは「聴き上手」から  2015/04/06 Mon 4526 I like to listen. I have learned a great…
 Ernest Hemingway(1899-1961)は、アメリカの小説家・詩人として知られている。代表作「老人と海」で1954年にノーベル文学賞を受賞した。「武器よさらば」も映画化された。高校生のころだったか、原題の〝A Farewell to Arms〟を見て、〝goodbye〟よりも「カッコいいなあ」と思った。ノーベル賞に輝いたのはよかったが、何とその年に航空機事故に二回も遭遇してしまう。いずれも奇跡的に生還したが、この事故で授賞式には出られなかった。そして、その後遺症が精神的に影響を与えたようだが、1961年にライフルで自ら命を絶った。その当時、私は中学生だったが、それなりのショックを受けたことを憶えている。もちろん彼の作品を読んだこともなかったが、ひげを蓄えた、優しく活豪放磊落そうな風貌に親しみを感じていたからだった。
 そのヘミングウエーの言、〝I like to listen. I have learned a great deal from listening carefully. Most people never listen.〟はじつに穏やかである。「私は『聴くこと」が好きだ。私は人の話を注意深く『聴くこと』で、たくさんのことを学んだ。しかし、ほとんどの者は人の話を『聴こう』としない」。自分の力で相手を変えようとする。そのために、ついついしゃべりまくる。そして、先方が話をするのを遮ったりもする。まさに「言った方が勝ち」の世界だ。しかし、人は「聴くこと」で相手を変えることも可能なのではないか。また、それによって「自分が変わる」こともできるに違いない。「話し上手は聴き上手」なのである。「しゃべりまくり」の性癖がある私としては大いなる教訓をいただいた。ありがたや、ありがたや。
子どもだってわかるのに…  2015/04/05 Sun 4525
 大の大人がどうしてこんなことをするのだろう。中国地方某市の医師会が作家の了承を得ないまま講演会を計画した。ご本人が知らないのだから、講演会当日に会場へ来ないのは当然である。そこには180人ばかりの聴衆が集まったという。これに対して主催者側は「何らかの理由で本人が到着しない」と説明したらしい。もちろん、「それが理由で」講演会は中止になった。その「事件」が起きたのは、昨年11月のことだったが、このとんでもない事実が表に出たのは4月になってからである。まさに、「空いた口がふさがらない」とはこんなときのために用意されたようなものだ。
 「到着しなかった」作家自身も「すべて無断で計画され、信じがたい。医師会は私に濡れ衣をきせて放置していた」と語っている。彼は医師出身の作家ということで、医師会として講演を依頼しようとしたのだろう。そこまではいいが、そのあとの対応は子ども以下である。勝手に推測すれば、窓口を引き受けたか、引き受けさせられた人間が失念していたのではないか。そうだとすれば、それ自身がとんでもないことではある。まあしかし、世の中には信じられないこともあり得るから、百万歩くらいは譲って、「とんでもないミスだった」としよう。それならそれで、「ちゃんと謝る」のが常識であることくらい子どもにだってわかる。それだけではない。その「事実」を少なくとも会場に来た180人は知っているのである。そんな状況下で「本人が来ない」などと「嘘」をつくことが、これまた幼児レベルである。いやそんなことを言えば、子どもが怒るかもしれない。そして、その嘘がバレないと思う神経も、これまた信じがたい。とにかく「想像力」が欠如しているとしかと言いようがない。やれ、やれ、世の中には信じられないことが多すぎると思いませんか。
 
Q&A 異文化とのコミュニケーション④  2015/04/04 Sat 4524
 刻々と薄れていく意識のなかで、ハリーはクリスたちの「本当の目的」を知りたいと尋ねたのです。これに対してクリスはしっかりした声で「本音」を伝えます。

 
クリス :もちろん狙いはでかい。

 このセリフを聞いた瞬間に、どのくらいの方が「えっ」と声を挙げるでしょうか。そして、次の瞬間に「すべてがわかる」方がどのくらいいらっしゃるでしょうか。私自身は、まず瞬間的に「おっ」と心のなかで叫びました。そして、ほとんど同時に、心のなかで「にんまり」笑っている自分がいました。そうです、これはクリスがハリーの人生のはなむけとして与えた最後の「思いやりのことば」なのです。「ハリーよ、お前さんの推測通り、俺たちは金目当てでこの仕事をしているんだ」というわけです。「そもそも、お前が『正義』のために命を投げ出すなんて、そんなかっこうわるいことをしてはいけないのさ。そうだろう」。こんなクリスの「心のなかのセリフ」が私の脳内を駆け巡りました。いかがでしょうか、これはもう完璧に「義理人情」の世界なのです。そのあとのやりとりも予想通りにものになります。

 
ハリー :そいつはいったい何だ?
 クリス :黄金だ。ごっそりある。
 ハリー :そいつは凄え。どのくらいだ?
 クリス :50万ドル。
 ハリー :分け前は?
 クリス :7万ずつだ。
 ハリー :凄え…

 
 ハリーはこれで息を引き取り、天国(?)へ行きます。「俺の取り分はお前たちで適当に分けてくれ…」という声まで聞こえてくるではありませんか。
 黒澤明監督のオリジナル「七人の侍」とリメーク版西部劇「荒野の七人」を比較すれば、後者の方がはるかに「義理人情」的だというのが私の評価です。
 さてさて、講演に対するご質問の回答が西部劇にまで到達しましたが、文化や価値観が異なる集団に対しては、「違いよりも類似点を探す」気持ちで向き合うことが大事だという提案です。
 蛇足ながら「荒野の七人」の原題は〝The Magnificent Seven〟です。私なりに「孤高の七人」とでも訳しておきましょうか。
 
Q&A 異文化とのコミュニケーション③  2015/04/03 Fri 4523
 私に言わせれば「義理人情」に動かされて仲間たちのところに戻ってきたハリーでしたが、あっという間に敵の標的となって撃たれてしまいます。そんなことなら、はじめから参戦していればよかったのに…。それはともあれ、馬上から転落したハリーに、リーダーのクリスが「大丈夫か」と駆け寄って抱きかかえます。このときハリーがどのくらいの傷を負ったのかわかりません。しかし、とにかく意識が消えゆく断末魔の状態でクリスに問いかけるのです。これは私的には、映画でよく見られる典型的な「義理人情シーン」です。時代劇の刀で切られたのであれば、あの世に逝くまでに少しは時間があるかと思います。しかし、銃撃の場合はもっと深刻な影響があるような気がするのですが、とにかくこうした場面では「最後のセリフ」が必要なのです。そして、その中に「感動」が準備されています。
 こうしたストーリーの流れそのものが、まことに「義理人情」的ではございませんか。もちろん、私が鑑賞した映画の数も製作された国も限定されています。そこで、こうしたシーンを入れるのが世界中の映画に共通しているかどうかはわかりません。しかし、映画の終わり近くに設定されるこの種のシーンを挿入するのは「洋の東西を問わない」のではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 しかも、このときクリスとハリーとの間で交わされる一言一句が「義理人情」の極みなのです。ここではビデオの字幕を追ってみましょう。
 まずは消えゆく意識のなかで、ハリーがクリスに問いかけます。

 
ハリー :本当のことを言ってくれ。ここに来たのは金のためじゃないだろう?何が目的か教えろよ。

 人生を「賞金稼ぎ」にかけてきたハリーが、「金以外の目的」で行動する人間がいることに気づいたのです。それは、村人を手弁当で助けることだけに集中しているほかの6人の生き様を目の当たりにしたからでしょう。一体全体、彼等を動かせているものは何なのか。この世との別れ際にそれだけは知っておきたい。ハリーはそんな思いになっていたに違いありません。
 
Q&A 異文化とのコミュニケーション②  2015/04/02 Thu 4522
 海外におけるリーダーシップの研究でも、「仕事(課題)重視」と「人間(配慮)重視」の両方が求められるといった結果はおおむね共通しています。ところで、最近は西部劇映画はほとんど作られないようです。一方、邦画の時代劇はけっこうな秀作があります。それはともあれ、私は西部劇が「義理人情」の精神に満ちあふれているといつも思っています。その典型は「荒野の七人」でしょう。この映画は黒澤明監督の「七人の侍」のリメーク版であることをご存じの方もいらっしゃると思います。原作は毎年、収穫の時期に山賊に襲われる村人たちが、侍たちに退治してもらうという物語です。もちろん、まともな侍には頼む術もなく、戦いに敗れて仕官の道を失った落ち武者たちが村人たちを救うことになります。黒澤作品では、七人の侍の中には人格高潔で、武道に優れた達人もいれば、ちょっとおっちょこちょいの人間もいたりします。ただし、全員が善人です。
これに対して「西部劇版」には、ハリーというアクの強い殺し屋が入っています。村人を助けるガンマンたちのリーダーであるクリスと顔見知りだった彼は、「また儲け話だろう。俺にも分け前をくれ」とグループに割り込んできます。クリスは「今度ばかりは手弁当なんだ」と説明するのですが、ハリーは「金儲けに違いない」と思い込んでいるわけです。しかし、時間の経過とともに「金儲じゃない」ことに気づくのです。そんな流れのなかで、いよいよ山賊と決戦に入る直前になって、「俺は降りた」とい言って立ち去ってしまいます。当初からその態度を不愉快に思っていた他のメンバーたちは「お前なんかいないほうがいい」といった反応をします。そしてついに、ハリー抜きで決戦がはじまります。 ところが、ところがです。何を思ったのかハリーが「俺もやるぜ」とばかり戦いの場に舞い戻ってくるのです。いかがでしょうか、もうこれだけでも「義理人情」の世界だとは思いませんか。まったくの「無報酬」で村人たちを助けようとする6人の存在そのものが、金儲けの合理主義で行動していないことは明らかです。つまりは「損得勘定抜き」の「義理人情」の世界の人たちなのです。しかし、それ以上に「義理人情」ぶりを発揮したのは、ハリーではありませんか。それまで「金儲け」に生きてきたことを自認する彼が、一旦は仲間から外れたのに、「金抜き」の戦いにまた戻ってくるのです。これほど「義理人情メンタリティ」を感じさせるものはないでしょう。
Q&A 異文化とのコミュニケーション①  2015/04/01 Wed 4521
 講演後にいただいたご質問の第二番目です。「海外を相手にしている立場として、お話しいただいた内容は普遍的であると思いますが、先生のご経験でコメントがあれば教えていただきたいと思います」。海外の組織と関わりを持たれるお仕事をされている方だと思われます。講演ではけっこういろいろなことをお話しましたので、「どの部分」についてのご質問なのかわかりづらいところがあります。そこで、外国人とのコミュニケーションを頭に置きながら、私の考えをご提示しようと思います。
 まずは基本的なところで言いますと、「違いを見つけるよりも、同じ部分を探す」です。これは外国人との関係に限定されるものではありません。われわれは、自分たちと異なる文化や価値観をもっている人や集団に対して「違い」の方が気になります。しかし、相手も同じ人間なのですから、あちこちに「同じあるいは似た部分」があるのです。私は子どものころから「日本語には敬語や尊敬語、さらには丁寧語があるが、英語にはそれらがない」などと聴いていました。しかし、そんなことはありません。英語人だって日ごろから相手を尊敬したり、丁寧に表現したりで対人関係をつくっています。もちろん、できるだけ相手を傷つけないようにと気を使うことも日本人と同じです。何でもかんでも自分の考えをストレートに言うなんてことはありません。〝Not to change the subject〟なんて言いながら話題を変えたりもします。日本人が「言いたくはないけれど」と言いながら、言いたいことをいうようなものではありませんか。