味な話の素  Since 2003/04/29 
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 2014年8月号 No 136 4259-4292
マニュアル問題(68)  2014/08/31 Sun 4292
 職場で望ましいリーダーシップが発揮されていても「ヒヤリハット」は多い場合も少ない場合もあることを指摘しました。その一方で、リーダーに問題がある場合はどうでしょうか。まずはリーダーシップのまずさから、部下たちの仕事ぶりも危ういものになりがちです。そうなると、「ヒヤリハット」件数は多くなります。そもそも仕事に対する意欲だって低い可能性が高いのですから。しかし同時に、そうした職場で働く人たちはリスクに対する感受性が低いことも考えられます。安全に関してもかなりいい加減な指導をしているといったこともあり得るわけです。つまりは、「ヒヤリハット事象」があっても、それに気づかないのです。その結果、「ヒヤリハット」の認知件数は少なくなるのです。とにかく「気づかない」のですから。
 こうしたことから、「リーダーシップの善し悪し」とは関係なく、数値として出てくる「ヒヤリハット認知件数」は、「多かったり、少なかったりする」可能性があるのです。一見すると無関係に見えるリーダーシップは「ヒヤリハット」の「認知件数」に大きな影響を及ぼしていると考えるべきでしょう。
 これは仕事で感じる「プレッシャー」にも適用できると思われます。「ヒヤリハット」と同じように、リーダーシップと、安全に仕事をしないといけないという「プレッシャー」の間に関係が見いだせなかったことがあります。この場合も、リーダーシップに問題があると、「プレッシャー」を感じて萎縮してしまう。これに対して、望ましいリーダーシップが発揮されていると、「安全をしっかり守らなければならない」という前向きの緊張感で「プレッシャー」を感じる。そんなことがあるのです。
 
家族アンケート9:注意散漫物語  2014/08/30 Sat 4291
 私が高校1年生のときに「家族アンケート」と題した音声記録を録っていました。そのテープが出てきたので、さっそく電子情報として保存したわけです。それを「注意散漫物語」と題して連載中です。そうは言いながら、この前は第8回目でしたが、4月3日に書いたのでした。もう4ヶ月も経っているのですが、とりあえず続きです。
 「総理大臣の池田勇人氏のことをどう思うか」。これも準備した16個の質問に含まれていました。池田氏は国会で「貧乏人は麦飯を食え」と発言して問題になったという話を聞いていました。その発言も前後の脈絡を踏まえれば、メガトン休の失言とまではいかないようですが、とにかく問題になっていたことは、子どもの私ですら知っていました。また、池田氏の「私はウソは申しません」という発言も記憶に残っています。これは失言ではありませんが、政治家が真顔でこんなことを言うと、滑稽ですらあったわけです。いまなら流行語大賞になったでしょうか。
 ともあれ、「アンケート」は、1964年8月28日午後7時15分からスタートします。最初の回答者は妹です。もちろん、16の質問すべてに回答しています。ここでは、その詳細はフォローしませんが、抱腹絶倒の連続です。そのとき妹は12歳で中学1年生の夏休み中になります。まずは自分の希望として、いきなりお家がほしいと言います。その理由は単純で、当時は六畳と四畳半の二部屋しかない狭い住宅に住んでいたからです。そこは福岡市の香椎にあった公務員宿舎で住宅の番号は27号だったことを憶えています。平屋で2軒長屋だったのですが、それでも宿舎に入れただけでもすごいことだったのです。そんなことで、父や母だけでなく、子どもの私たちも心から喜んでいました。
 
スマートフォン依存症  2014/08/29 Fri 4290
 私は、授業でも「いま、ここで」の精神を大切にしています。前期の終盤のことです。授業中に下を向いている学生がいました。どう見ても「スマートフォン」を使っているわけです。そこで、私はその学生のところに近づいていきました。そして、「メールしてるの」と問いかけました。学生としては、教員が自分のところまで来るとは思わなかったようです。ともあれ、ばつの悪そうな顔をしました。そしてメールを止めてスマートフォンを机の上に置いたのです。ここがポイントでしたね。別の授業で学生たちに聴いたのですが、大多数が「そんなときはカバンやバッグに入れる」と答えました。私もそれが「正解」だと思うのですが、そのときは机の上に置いたのです。
 その後がおもしろかったですね。みんなの前でスマートフォンを使っていたことを指摘されたのですから、それからは前を向いて授業を受けていました。ところが、この学生、やや時間が経過してからでしたが、手がスマートフォンに向かうのです。それで何かをすると言うよりも、私の目には知らず知らずのうちに手が動いているように見えたわけです。いやあ、これは重症だなあと思いました。いまや、スマートフォン依存症なるものがあるといいますが、この学生なんぞは、その典型でしょうか。注意されて、知識としては「やってはいけない」とわかっているはずです。しかし、それでも手が出てしまうというのであれば、はっきり依存症と言うしかないでしょう。私は車で通勤していますが、東京などで電車に乗ると、右も左も前も後ろも、さらに「上(?)」までもスマートフォンなんですね。老若男女のうち、さすがに「老」は目に付きませんが、とにかく依存症あるいはその予備軍がワンサカいるわけです。
 
センシティビティ・トレーニング  2014/08/28 Thu 4289
 私がライフワークにしている「リーダーシップ・トレーニング」のルーツは、「センシティビティ・トレーニング」と呼ばれるものです。これは「グループ・ダイナミックス」の創始者であるクルト・レビンたちが開発したものです。日本語では「感受性訓練」と訳されています。ただし、「ルーツ」とは言いますが、私が「リーダーシップ・トレーニング」として実践しているのは、オリジナルを批判的に発展させたものです。まことに不遜ながら、最初に「センシティビティ・トレーニング」に出会ったとき、私は「こりゃあ日本人には向いてないなあ」と直感したのです。その理由や、それから後の経緯は別の機会に譲ります。いつものように、話が止まらなくなってしまうからです。
 今日のところは、「センシティビティ・トレーニング」では、「いま、ここで」が重要なキーワードになっていることだけを強調しておけば十分なのです。原語は〝Here and Now〟ですから、直訳すれば「ここで、いま」となります。このあたりは、それぞれの文化による語感の違いなのでしょう。日本語では「いま、ここで」の方が「そうだなあ」という気がします。これに似たようなものに「視聴覚教育」がありあります。これも英語では〝Audio Visual Education〟と言いますから、「視覚」と「聴覚」が反対になっています。ともあれ、「センシティビティ・トレーニング」は、その名のとおり、「対人感受性」の向上を目的にしています。そして、その際に「あのとき、あそこで、ああだった、こうだった」と言うのではなく、「いま、ここで起きていること、感じていること」に焦点を当て、相互の心情や行動について分析し、それを人間理解の促進、行動の変容に繋げていこうとします。
 
マニュアル問題(67)  2014/08/27 Wed 4288
 事故やミスが起きたときは混乱していて、「想定外」だったと思えたものが、分析を進めると、「想定できた」可能性が高かったことが明らかになることがあります。そして、その要因として、組織や集団が大きな影響力をもっていたこともわかってきます。そのなかでも、リーダーシップはとりわけ重要な役割を果たしていることが多いわけです。リーダーシップの影響は様々な形をとって現れます。そのために、得られたデータを一面的に観るだけでは、ことの本質を見逃すことになります。
 これはこのコラムでも触れたことがあるのですが、職場で報告される「ヒヤリハット認知件数」と監督者の「リーダーシップ」との間に、関係が見いだされなかったことがあります。私たちはこの両者に関係があると考えていましたから、その結果は、まさに「想定外」だったのです。しかしさらに分析を進めると、興味深い事実が明らかになったのです。
 まずは、「職場で望ましいリーダーシップが発揮されている」とどうなるかです。第一に、そうしたリーダーのものとでは、部下たちが安全に関してしっかり期待される仕事をしています。その結果、「ヒヤリハット」の件数は少なくなるわけです。しかし、また別の望ましいリーダーのもとでは、リスクに対する部下たちの感受性が高いわけです。そうした職場では、多くの部下たちが小さな「ヒヤリハット」にも気づくのです。つまりは、望ましいリーダーシップが発揮されている場合でも、状況によって「ヒヤリハット」の報告件数が「多い場合」もあれば、「少ない場合」もあるのです。とくに、部下たちが「何でも言える」と感じている職場では、ちょっとした「ヒヤリハット」体験でも、ちゃんと報告しようという気持ちになるのです。
マニュアル問題(66)  2014/08/26 Tue 4287 Continued from 4/15
 お久しぶりにマニュアル問題シリーズです。最後のNo.65を書いてから、もう4ヶ月も経ってしまいました。しかし、このテーマは私のライフワークの一環のつもりでいます。ですから、自分の頭が回転する限り、いつまでも続けていくことにしているわけです。それはいいのですが、すでに取り上げたものだって繰り返し話題にする可能性も超大なんです。そこはもう、このごろよく使う手ですが、「前期高齢者」を「免罪符」にさせていただきましょう。
 さて、そもそも人間が何らかの「行動」をするときは、いつでも、それに伴う「エラー」や「ミス」が起きる可能性があるのは当然です。自分の職場で考えられるミスや事故をリストアップしてみましょう。「あれもある、これもある、いやこんなことだって可能性はゼロじゃない…」。こうしたものが多ければ多いほど、「自分たちはこの上なく重要な仕事をしているんだ」と自信をもっていいのです。何もしていないところではトラブルの起こりようがないのですから。現実に問題が起きてしまうと、「想定外」ということばが飛び交ったりします。しかし、それが事故やトラブルを未然に防止できなかった免罪符として使われてはいけません。それが本当に「想定できなかった」のかを真剣に分析すべきでしょう。
 そして、仮に「想定外」だったとしても、そのこと自身を深刻に受け止めて、その原因をしっかり明らかにしなければなりません。もちろん、真の意味で「すべて」を「もれなく」カバーすることはできません。人間の知識や、それを活用する能力には限界があるのです。しかし、そうは言いながら、目の前で起きた事故をしっかり分析していけば、実際は「想定すべき」だったと思われるケースもけっこう多いと思います。
我を忘れて…  2014/08/25 Mon 4286
 さて、朝食の話題から「ありがたや教」に脱線してしまった。とにかく、「嫌仕事薬」の話を続けているつもりだ。朝食が一区切り付いたら、私はまたぞろ仕事に手を出してしまう。とくにパワーポイントづくりがおもしろくて止められない。その昔は、OHP全盛の時代があった。その時代にはOHPのシートをセッセとつくった。その枚数もかなりのものになって、ロッカーの2段ほどを占拠していた。カラーコピー機が使えるようになったときは嬉しくて絶叫しそうになった。それまでのモノクロをカラー化するのに没頭した。
 それがいまではパワーポイントに主役の座を完璧に奪われた。これも時代の流れである。私は「パワーポイント大好き人間」になった。大学の講義はもちろんだが、同じ趣旨の講演や研修を依頼されたときも、「何かちょっと新しく」と考える。それは些細な修正だったりもするのだが、大変化をもたらすようなこともある。この過程がまた楽しく、時間を忘れてしまう。私は生来の自慢話好きだが、パワーポイントは独学で身につけたというのも、かなりの自慢話である。
 そんなこんなで、とにかく忙しい。もちろん、休日には趣味の映画を観にシネコンにも行くし、買い物にも出かける。その点ででもまた忙しいわけだ。夜になっても、仕事のネタが尽きることはない。これも健康だからこそできるのである。そこで、またまた「ありがたや節」が出てくることになる。このごろは、日記にも「いつになったら、自分がアウトになるんだろうか」と書いたりしている。とにかく仕事がおもしろすぎて困惑しているのだ。そんなわけで、「抗酒剤」や「禁煙治療薬」のような「嫌仕事薬」が開発されないかと思ってしまったのだ。「ありがたや、ありがたや」。
「ありがたや教」  2014/08/24 Sun 4285
 とくに休日の朝食はゆっくり摂っているつもりだ。そもそも私は、味噌汁と納豆の和食派でいた。ただ、このごろはコーヒーのドリップに嵌まってしまった。そうなると、ついついパンになるのだが、これまたOKなのである。私みたいな人間を「軽佻浮薄派」と言うのだろう。何のことはない、「どっちでもいい」のだ。ただし、「どっちでもいい」と同時に、「どっちも大満足」できる自分がいる。この点が堪らなくありがたい。そこで、またぞろ小学6年生のころの流行歌「ありがたや節」を口ずさみたくなるのである。そんなことで、私の日記には「ありがたや。ありがたや」が繰り返し現れる。ここで「ありがたや、ありがたや」と繰り返すところがかなり重要なのである。
 そして、授業の中でも、けっこう「ありがたや、ありがたや」と唱えることになる。その意味で、私は「ありがたや教」の宣教師ということになろうか。前期が終わった日には、大学院生たちとカラオケに行って、16曲も歌って顰蹙を買った。しかし、ともあれ私としては1回あたりの曲数記録を更新した。それまでは、昨年末の14曲だった。このときも、同じ院生たちと一緒だったが、カラオケで忘年会をしたのである。ありがたいことに、出かける前から、初めて参加する学生に「『ありがたや節』を楽しみにしていますよ」と言われてしまった。いやあ、「ありがたや教」がしっかりと浸透している証である。「ありがたや、ありがたや」。それにしても、1960年~70年代の歌ばかりを16曲も聴かされては、院生たちも迷惑千万に違いない。しかし、そんな態度はおくびにも出さずにマイクを回してくれる。いやいや実態としては、私がマイクを強奪しているのだろう。それでも、「ありがたや、ありがたや」。
 
夕刊③:「パークランド」  2014/08/23 Sat 4284
 映画「パークランド」を観に行った。このタイトルだけではだれもわからないと思うが、サブタイトルは「ケネディ暗殺」である。「パークランド」はケネディが銃撃されてから運ばれた病院の名前だ。その日は、日本時間で1963年11月23日「勤労感謝の日」だった。この日に関わることを書き始めれば際限がない。ここでは映画の評だけにとどめるが、「5段階の5」である。ケネディ大統領夫妻がテキサス州のダラスに着き、狙撃された日から4日間を追ったものだ。まるで実況中継を見ているような迫力があった。その決定的瞬間を8mmで撮影していた男性や、手術を担当した若手の医師、さらには犯人とされるオズワルドの母や兄が、あたかも本人のような雰囲気で登場する。そのとき私は中学3年生だったが、脳裏に焼き付いた生々しい記憶が蘇ってきた。素人ながら、文句なしに「5」をつける映画は、最近ではほとんどなかった。
  
嫌仕事薬?  2014/08/23 Sat 4283
 「シアナマイド」や「ノックビン」という薬がある。また、「チャンピックス」というものもある。前者は「抗酒剤」で、後者は「禁煙治療薬」である。幸いにして、私にはどちらもご縁がないが、「アルコール依存症」の治療には「抗酒剤」も効果があるのだろう。さらに禁煙にも薬が開発されているのだ。私としては、ついでに「嫌仕事薬」もできないものかと思っている。若いころから「仕事がおもしろくてたまらない病」に罹ったままで、まだ治らない。休日も4時台から起き出してPCに向かう。この点では、若者を中心にした「スマートフォン依存症」を笑っていられない。
 まずは「味な話の素」を書く。それが終わると、筆ペンで3~4通の封筒に裏書きをするときもある。これはトレーニングなどで「3ヶ月後の手紙」なるものを出してもらったときに生まれる仕事だ。参加者たちが、最終日の気持ちを書き留めて、それを封筒に入れて提出する。それらを預かっておいて、その時期が来たら返送する。封筒の表には本人の宛名が書かれている。これをそのまま返すだけでは味気ない。そこで、意味不明の漢字2文字と私の名前を筆ペンで書き添える。意味不明の2文字とは、たとえば「心輝」「信飛」「驚力」などの漢字を組み合わせたものだ。それなりに私の「気持ち」を「読んでほしい」と伝えている。習字は小学校3年生のころに習い、高校のときには「書道」を選択したが、基本的には我流である。それでも筆を持つと気持ちが落ち着くから不思議だ。この「手紙」への署名はいつもあるわけではない。しかし、これが手元にあると楽しい。休みの日は出勤しないから、家内から朝ご飯の声がかかるまでは仕事をし続ける。仕事の区切りが付かずにいると、家内から「まだなの」と改めて声をかけられることもある。
鰻屋あちこち…  2014/08/22 Fri 4282
 鰻については、県教委の方と水前寺の「長濱屋」に行ったことがある。それはもう20年以上も前にことだと思うが、この店のことはいつも気になっていた。また、わが家からすぐのところに「柳川屋」がある。福岡で行っていたお店と名前が一緒ということで、2回ほど出かけた。また、富合町とは違う場所にある数カ所の「徳永」にも何回か出かけた。ところで、恩師の三隅二不二先生は鰻好きだった。熊本に来られたときには「徳永」にお連れした。熊本では人吉のうなぎ屋さんも知られている。ただし、こちらは未開拓のままだ。人吉には、教員免許状更新講習で毎年出かけている。しかし、夕刻まで仕事があって、到着は夜遅くというパターンを繰り返している。そんなわけで、人吉の鰻にはまだ出会ったことがないのだ。人吉といえば、「人吉旅館」がある。ここの女将は韓国から嫁いできた人で、私もかなり前にご縁があった。彼女は、私の授業「視聴覚教育」を受講したことがある。講義の最終日に「ぜひいらっしゃってください」と言われた。その後、一度だけ予約までしていたのだが、キャンセルせざるを得ない事態になった。あれから20年近くになるのではないか。いつも「次に人吉に行ったときには」と思いながら、まだ実現していない。来年こそは、旅館もうなぎ屋も何とかしたいものだ。そうでないと、前期高齢者はいつアウトになるかわからない。ところで、丑の日の代わりに、遅まきながら「長濱屋」に行った。前回は「鰻丼」だったが、今回は福岡の原点である「せいろ蒸し」にした。こちらは「蒸して」あるから、鰻が柔らかい。これに対して「鰻丼」や「鰻重」は肉感があって、歯ごたえが楽しい。私としては甲乙つけがたいところだ。いまや日本鰻が絶滅危惧種という。これから鰻はどうなるか心配だ。
  
鰻の記憶  2014/08/21 Thu 4281
 土用の丑の日は自宅で鰻を食べた。翌日は教員免許状更新講習があるため、天草に出かける必要があったからだ。こんな書き方をすると、丑の日にはいつも鰻屋さんに出かけているように思われてしまうだろう。もちろん、そんなことはない。そもそも3人以上並んでいるとあきらめる私が、はじめから客が殺到することが予想される日に鰻やさんに行く可能性は皆無に近い。
 ところで、私の記憶では、子どものころにも鰻が食卓に上がったことはある。おそらく土用の丑の日かその前後に母が用意してくれたのだろう。ただし、その当時、鰻が大好物だったかどうかは憶えていない。結婚したときは福岡にいた。自宅の近くに「柳川屋」という鰻屋さんがあった。お祝い事などで私の父と家内の両親がやってきたときは、大体が鰻のせいろ蒸しだった。このころ、つまりは20代も半ばを過ぎたころには、鰻がかなり好きなものになっていた。しかも、いつもそれなりの値段がするので、ちょっと贅沢をしたという満足感を味わった。
 熊本にやってきたとき、小川町にいる家内の叔母が、鰻の「徳永」に連れていってくれた。これが抜群にうまくて、しばらくは「徳永」に出かけていた。その後、間もなくして、放送教育に関する仕事をした。そのときに富合町で保育園を経営しておられた大橋伊都子さんとご一緒に、子どもたちの教育に放送を活用する研究をした。いつの日だったか、保育園の近くに「徳永」があることが話題になった。大橋さんは勉強熱心な方で、年に数回は私の仕事場にお見えになった。その度に、お土産として「徳永」の鰻をいただいた。大橋さんは今年の1月10日に92歳でお亡くなりになった。その報に接したとき、おおらかで穏やかな笑顔とともに、鰻のことを思い出した。心からご冥福をお祈りしている。
 
あっぱれ、熊本空港  2014/08/20 Wed 4280
 熊本でもご存じの方は多くないかもしれませんが、熊本空港は全国でも屈指のいい空港なのです。国が管理する27空港の中で着陸料収入は堂々の第6位というのです。国土交通省が7月末に発表した2012年度の数値なので、1年ほど遅いのではないかと思うのですが、きっちりと黒字を確保したということです。第三セクターが経営するターミナルビルや駐車場などでも営業利益を上げたというのですから優等生です。
 このほかの黒字空港は、北海道の千歳と石川県の小松が連続だそうです。小松空港は金沢にとって欠かせない空港で、私もけっこう使っています。ただ、来年には北陸新幹線が開通することから、私が知っている方々のお話だと、「東京は新幹線にシフト」する可能性が高いと言います。また、この年に黒字に転換した空港として、広島、松山、長崎、宮崎がリストアップされています。ただし、「関連事業との合算」という条件付きですから、着陸料という本業のみで黒字というのはなかなかむずかしいことのようです。
 九州新幹線が全通してから福岡空港が驚異的に近くなりました。タクシーなどをうまく利用すると、私の仕事場から1時間20分程度で福岡空港に着いてしまいます。そんなこともあって、たとえば名古屋までであれば、福岡空港からというケースが増えてきました。その点では、熊本空港に対する私の微々たる貢献度がさらに縮小してしまいました。もちろん、根っからの飛行機好きですから、新大阪まで新幹線で行ったことはありません。そのすべてが飛行機なんです。とくに新幹線を意識してか、全日空は大阪便を増やしました。それにはボンバルディア社のプロペラ機が使用されています。このプロペラ機、離着陸時にタイヤが見えるので滑走路から離れたり着地したりする瞬間が楽しめます。
旧友との再開  2014/08/19 Tue 4279
 久しぶりに大学時代の友人2人と会って食事をした。お互いに前期高齢者になっているが、その割には、若いころの雰囲気が漂っていた。少なくとも「お互いに変わらんなあ」くらいの挨拶にはなった。
 一人は裁判官を務めてから、定年で退職した。その後は、法科大学院の教授として、まだ現役を続行中である。彼は熊本地裁にいたことがあり、その際に、司法修習生に対する講演を依頼された。そのとき初めて裁判所に行った。事務局側から扉を開けて法廷に入った。これはなかなか体験できないことだろうと、また自慢のネタが増えたことを喜んだ。
 もう一人は弁護士だから定年はない。その昔、ランドクルーザーで私のところに来たことがあった。そのことを言うと、、さすがにランドクルーザーは卒業したという。死亡事故に当たって損害賠償額を算定する仕事がある。その際に、余命がどのくらいかを公式の資料をもとに確認してきた。これまでは「他人事」だったのだが、その評を見ると、「自分自身の余命が現実味を帯びてくるようになった」と笑っていた。このごろは弁護士が大量生産されて、若い人たちは苦戦しているという。ほんの一時期は金融機関の過払い対応で、成金になった弁護士もいたらしい。いまでもテレビや電車内では過払いみ焦点を当てたCMが目につく。しかし、そのブームは去ったのだという。弁護士稼業も最高裁判所の判例などで大きく影響を受けるのである。
 そのうち、話題は3人に共通する人物たちに移っていった。「誰々が、どこどこで、かくかくしている」という話である。その一人ひとりの顔が目に浮かんできて、つい笑顔がこぼれる。もちろん、そのなかには20代の風貌しか記憶にない者たちもいる。「お互い、これが最後になるかもしれんなあ…」と、しっかり笑いながら別れた。
 
素晴らしき若者たち  2014/08/18 Mon 4278
 鹿児島で病院の研修をした。経験豊かな方から若い方まで、じつに反応がよくて私も楽しく仕事をすることができた。まことに恐縮ながら、研修や講演では、まずは自分が楽しもうと思っている。これは大学の授業でも同じことだ。私は教師を対象に話をするときも、「子どもたちから、『先生、ずるいよ。先生が一番楽しんでるんじゃないの』と文句を言われましょう」と強調している。そんなわけで、鹿児島でも十二分に満足した。
 このときはさらに、これまでにないおもしろい体験もした。「あなたは、職場で自分がどんなことを期待されていると思いますか。いま思いつくモノを15個くらい挙げてください」。私はいきなりそんな質問を最前列に座っていた女性スタッフに投げかけた。私は事前に彼女が参加者の中で一人だけ平成生まれと聞いていた。「えーっ、そんなこと急に聞かれても答えられません」。じつは、こんな声が返ってくることが圧倒的に多いのだ。「そうですよね、だから『みんな』で考えていきましょう」。私の方もこう答えて次のステップに進んでいくことにしている。ところが、この日はちょっと様相が違った。当のスタッフが一生懸命に「15個」を挙げようと奮闘しはじめたのである。何と素晴らしい精神であることよ。私としては3個ほど出てきたところで、あらかじめ予定したスケジュールに入っていった。それにしても「何とか15個を」という気持ちが見えて気持ちがよかった。
 さらに、研修後の講演では、最前列に座った女性がいたので、「どうして一番前なの」と聞いたみた。「私は新人で、いつも前に行きなさいと言われますのでここに座りました」。これまた素直で素晴らしい答えだった。こうした若者たちの態度に嬉しくなった。それと同時にそれを生み出す職場環境の良さを想った。
 
夕刊②:「リアリティ」の確認  2014/08/17 Sun 4277
 怪獣映画の「リアリティ」について追加しておきたい。「ウルトラマン」のように人間の形をしたものが画面に登場すると、周りのビルや構造物が「ミニチュア」に見えるのである。飛んでいる飛行物体ですら、まるでおもちゃじゃないかと思ってしまうのだ。これが「ゴジラ」になると様相が変わってくる。何と言っても「ビルよりも大きい」のだから、「ゴジラ」は途方もなくデカイ生物体に「なる」のである。その昔、大映映画で「大魔神」という特撮物があった。これは、穏やかな石像が巨大な怒れる像となって悪人たちを懲らしめるというストーリーである。横浜とマリナーズで活躍した佐々木主浩投手が、この「大魔神」の顔に似ていたことから、彼も「大魔神」と呼ばれた。ともあれ、「大魔神」は人間の形をしているが、それなりに「リアリティ」があった。その理由は、まず第一に、「大魔神」は、もともとが穏やかな表情の石像であり、日常的な関係を持つ人間ではなかった。その第二は、戦国の世が時代背景にあり、「昔々の物語」として、すんなり受け止めることができた。そして、もう一つ。その動きは、さすがに石像といった印象で、大きくかつゆっくりとしていて、キックなどはしなかったことである。
 
「リアリティ」喪失  2014/08/17 Sun 4276
 私は怪獣映画に「リアリティ」を求める。怪獣映画の元祖は、アメリカで1933年に公開された「キングコング」である。エンパイヤステートビルのトップによじ登って、そこから転落したところで終わる。南方の島にいたコングを見世物にしようと企んだ男がニューヨークに運んでくる。そこまではよかったが、怒ったコングが暴れ回るのだ。この映画は、パラパラ漫画のような「コマ送り」で撮っている。したがって、ややぎこちなさい動き方をする。しかし、私の目には「ゴジラ」の着ぐるみよりは本物に見えた。
 そうだとしても、「ゴジラ」は私にとって恐ろしく、かつ見たくてたまらない怪獣だった。特撮の円谷英二監督は、子どもの雑誌にも登場した。そんなことから、私は円谷監督に憧れ、大人になったらあんな仕事をしたいなあと思った。ただし、「ゴジラ」も「シェー」をしたり、何と「正義の味方面」までするようになったことから、私は急速に興味を失っていった。とにかく「リアリティ」に欠けるのである。
 その後、円谷氏はテレビに進出して、あの永久不滅のヒーロー「ウルトラマン」を生み出すことになる。ただし、「ウルトラマン」は私の「リアリティ基準」に合格しなかった。何といっても、人間の形をした者がやたらと大きくなるのは「リアリティ」に欠けることこの上ない。ましてや、「キック」などしては、単なる「着ぐるみ」が芝居をしているとしか見えなかった。しかも、回数を重ねるごとに奇抜な怪獣が現れてくるから、それがまた「リアリティ神経」を逆なでするのだった。この世の中にそんなに多種類の怪獣がいるなんてあり得ないではないか。そもそも、怪獣同士が戦うなど、もうそれだけで怪獣の安売りである。じつは、最新作「GODZILLA」の「3」評価もそのことが関係している。
 
怪獣映画の「リアリティ」  2014/08/16 Sat 4275
 怪獣映画には「リアリティ」が欠かせない。その点で、初期の「ゴジラ」は最高得点をつけていい。これに加えて「ラドン」も「ゴジラ」に匹敵する。最初に人間を襲うドデカイ虫が登場するのだが、これがラドンのエサだと言うから、そのアイディアに度肝を抜かれた。「リアリティ」に「アイディア」が加われば、最高得点を獲得するのは当然だった。
 この点、「モスラ」は東京タワーでの孵化などは「アイディア満点」だったが、何分にもザ・ピーナツ扮する「少美人」が「『モスラ』-やっ、『モスラ-』やっ」と歌いながらコントロールするというのは、それだけで「リアリティ」に欠けていた。制作者側としては、ゴジラやラドンのような凶暴な怪獣ではなく、優しさを付加して、女性の客を動員しようと考えたらしい。まあ、その意図は当たったのだろうが、何分にも「リアリティ」重視派には今ひとつの評価しか与えられなかった。
 ところで、アメリカ製の「GODZILLA」は2作目である。前回は姿形もかなり「デフォルメ」されていて、まるで「リアリティ」がなかった。CGのやり過ぎといった感もあった。そして今回の新作となった。さすがにお盆だけあって、「わが家のシネコン」がいつになく混雑していた。それは「GODZILLA」のスクリーンも同じで、とにかく「わがシネコン」はじまって以来の混み具合だった。
 さて、その評価なのだが、残念ながら「5段階の3」といったところである。これからご覧になる方もいらっしゃるだろうから、細かいところまで書くわけにはいかない。しかし、新作は私がこだわる「リアリティ」に欠けていたといわざるを得ない。せっかく日本も舞台にして、渡辺謙が準主役で出演したのだから、できれば「5」に届いてほしかった。なかなか期待通りにはいかないものだ。
 
私の怪獣評  2014/08/15 Fri 4274
 「GODZILLA」を観に行った。いま日本で「ゴジラ」の第1作目を劇場で見た者がどのくらいいるだろうか。公開されたのは1954年11月、いまから60年前である。自慢話が好きな私だが、その記念すべき第1作目を見たときの記憶はいまも鮮烈に残っている。それは山の向こうから巨大な頭を現した。父の実家の門司に、戸ノ上山という標高518mの山がある。伯父は健脚で、この山に毎日のように登っていた。私たちも盆暮れに出かけたときには、けっこう登った。その山のイメージがゴジラが最初に出てくる山とそっくりだった。少なくとも、子どもの私にはそう思えた。だから、ゴジラには「リアリティ」があった。その後もゴジラ映画は楽しみにしていたが、途中で彼は堕落してしまった。自分で勝手に「リアリティ」を失ったのだ。これが私のゴジラ評である。
 怪獣の双璧と言うべきものに「ラドン」がいる。これは体長50m、翼長120mの巨大怪鳥だ。これが炭鉱地帯で孵化して、西海橋を破壊し、福岡市の中州・天神のビルや電車を吹き飛ばす。そして、最後は阿蘇に散る。九州が舞台という親近感と、ゴジラから2年後の公開で私がさらに成長していたこともあって、その「リアリティ」に恐怖を感じた。
 その後の1961年に、今度は「モスラ」という巨大な蛾が現れた。幼虫が東京タワーに繭を張って成虫になるというアイディアが素晴らしかった。ただし、当初は国会議事堂の予定だったが、安保闘争の記憶も生々しい時期であり、政治色が出るのを避けたという。しかし、私には国会議事堂よりも東京タワーの方がはるかによかったと思う。その180mもある繭から、体長135m、翼長250mの成虫が出てくる光景は見事なものだった。ただし、小さな双子の姉妹に操られるという点で、最初から「リアリティ」を感じなかった。
蜂のメリットは?  2014/08/14 Thu 4273
 蜂蜜が好きだ。朝食後にヨーグルトにスプーン1杯の蜂蜜をかけて楽しむ。出張先でご当地の蜂蜜を発見すると、つい手が出てしまう。大きめのビン入りだとけっこう重い。またホテルの朝食バイキングでも蜂蜜が置いてあると嬉しくなる。ヨーロッパではパンが主食だということもあるのか、どこにでもある。とくに、ある国では蜂の巣ごと置かれていたことがあって、かなり驚いた。しかし、これが超美味だった。
 ところで、蜂蜜を味わうたびに気がかりなことがある。人間は世界中で蜂蜜を楽しんでいるが、蜜を横取りされる蜂たちにはどんなメリットがあるのだろうか。人間が自分たちが楽しむ目的のためにだけ、彼等の成果物を100%搾取しているのか。そうだとすれば、人間の利己的な欲求が前面に出ている。そして、そんな人間に奉仕をさせられる蜂たちにはまことに申し訳ないではないか。それでは、蜂蜜をしっかり楽しんでいる私としては居心地が悪い。そこで、少しでも自己弁護をしたくなる。私としては、蜂たちにとっても安全な生活が保証されている点でメリットを感じているのではないかと推測するわけだ。何といっても自然の中で生きていくことはむずかしいのだ。そこで「安全」が保証されることは、生き物にとって絶対的なメリットだろう。とまあ、そのくらいのことがなければ、蜂たちも蜜を分捕られることに納得できないだろう。タダで搾取するというのでは、非人間的かつ動物虐待に値する暴挙である。さてさて、ほんとうのところはどうなんだろうか。もっとも、仮に100%搾取の事実が明らかになったとしても、私は蜂蜜を楽しむのを止めない。もちろん、ミツバチたちへの感謝の気持ちを忘れることはないけれど…。
 
鹿児島物語  2014/08/13 Wed 4272
 つい先だって、認定第5号の故郷である鹿児島に出かけた。新幹線が登場して以来、鹿児島は「隣町」になった感がある。本数は少ないが、熊本・鹿児島間をノンストップで走る「みずほ」に乗れば、43分で鹿児島中央駅に到着する。私が福岡から鹿児島に引っ越した1978年には、博多・西鹿児島は在来線で5時間ほどかかっていた。それが今では1時間10分台なのだから、新幹線の威力に感動する。九州にお住まいであれば、ご存じの方が多いと思うが、新幹線に鹿児島中央駅は、昔の西鹿児島駅である。鹿児島駅もあるが、もともと「西駅」の方が乗降客が多かった。
 新幹線は、阿久根市がある海岸沿いを避けて山をトンネルでくり抜いた。その結果、かなり直線的になって、距離も鹿児島線より短くなった。ただ、そうした影響で阿久根市などはシャッター街化が加速しているようだ。国全体で人口減の流れにストップがかからない状況で、疲弊していく地域が増えることはあっても経ることはない。ここで100年を見通したアイディアが出なければ、この国の将来は危ういとしか言いようがない。しかし、そうした期待がなかなか持てない状況が続いている。むしろ事態は悪い方向に突っ走っているように見える。私は10年以上前に、「カムチャツカ半島のひょうたん島物語」を発表した。歴史上、最も短い短編だと確信しているものである。それは、いまに日本がカムチャツカ半島にぶら下がった「ひょうたん島」としてしか存在し得なくなるという予言物語なのだ。それからけっこうな時間が経過したが、その予言がさらに真実味を帯びてきた…。
 やれやれ、新幹線の話題から阿久根の厳しい状況に移ったことで、いつものように脇道に逸れつつある。今日は鹿児島物語でいくつもりだった。
 
そして、故郷認定第6号:熊本市  2014/08/12 Tue 4271
 鹿児島から熊本に移って、まもなく36年になろうとしている。福岡県の吉井町で生まれ、八幡市を故郷第1号と認定してから、行橋市、伊万里市、福岡市と数え、鹿児島で第5号に達した。そして、熊本は正真正銘の故郷第6号になるだろう。
 この地では18年ほど公務員アパートで生活した。それから50歳になる年に現在の住まいに移った。太陽が西から昇っても、庭いじりなどするような私ではない。そんなことから、街中のマンションなるものの住人になったのである。当初は見晴らしがよく、何と熊本城の天守閣まで見えていた。それが次第にビルやマンションが建ちはじめて、だんだん視界が閉ざされてきた。自分が住んでいる建物だって、他の方々に同じようなことをしたのだから、これこそは自然の流れである。それでもいまのところ、本丸御殿の一部と天守閣の隅っこが見えるから十二分に満足している。鹿児島市から熊本市に引っ越して間もなく31歳になった。すでに前期高齢者、熊本の35年を超える住処はもうあり得ない。
 それにしても、「第二の故郷」という言い方がある。これには「主要な故郷」が一つあって、その他に「あえてもう一つ挙げれば」といったニュアンスがある。その点では、「故郷」が6つもあるなどと言えば、「故郷」の意味を理解していないと言われるかもしれない。しかし、私にとっては、そのすべてが「故郷」なのだから仕方がない。この際、自分が住んだ期間の長短はまったく関係がない。とにかく、すべての生活が思い出に充ち満ちているのである。「ふるさとは遠きにありて思うもの」と言うが、私としては、すべての地が、「いつも楽しく思うところ」であり続けている。ともあれ、ここいらで私の「故郷認定紀行」はおしまいにしておこう。
故郷認定第5号:鹿児島市  2014/08/11 Mon 4270
 私は中学2年生から20代の終わりに至るまで、福岡の住人だった。父はその後も長崎、武雄、門司港、小倉へと転勤していった。私の方は、30歳になる年に鹿児島市の住民になった。九大で助手を2年間して、その次の職場が鹿児島女子短期大学だった。南九州は中学3年生のときに修学旅行で回った。その際は、鹿児島と宮崎が主要な行き先だった。
 そんなことで、南九州の住民になったのは初めてだった。その鹿児島に住んだのははわずか1年半だけである。鹿児島に移ったのが1978年3月で、翌79年10月1日から熊本市の住人になった。私と家内はしばらく鹿児島に腰を落ち着けるつもりでいた。選挙の投票所になった小学校の体育館に出かけたとき、二人で息子がこの学校に通うことになるんだと話した。ところが、それから間もなく熊本大学の採用に応募しないかと声をかけられた。そして、年度途中の10月に熊本に引っ越したのである。それから後は35年間も熊本で生活することになった。
 鹿児島では送別会を開いていただいた。私はお礼の挨拶でこんな話をした。「鹿児島でお世話になったのはわずか1年半でした。住んだ期間が永ければ『思い出がたくさんあります』ということになるでしょう。それが1年半だと、そんなことは言えないような気がします。しかし、私はそうは思いません。むしろ短い期間だからこそ、『体験したことのすべて』を、『その一つひとつ』をしっかりと記憶にとどめているのです…」。あれから35年の時間が経過したけれど、私はその発言が正しかったことを実感し続けている。鹿児島での557日間は、生き生きとした思い出に充ち満ちているのである。
 こうして、期間の長短には関わりなく、鹿児島市は私の認定故郷第5号の資格を十二分に備えている。
故郷認定第4号:福岡市  2014/08/10 Sun 4269
 伊万里中学校2年生の7月に父が福岡へ転勤となった。そこでわが家も夏休みになってから福岡に引っ越した。父は福岡の雑餉隈あたりに借家を見つけていたようだった。ところが香椎の公務員宿舎に空きがあったらしく、そこに入居した。平屋の2軒長屋で、6畳と4畳半の二間に台所と風呂が付いていた。ここで親子4人が生活したのだ。今日の住環境から見れば信じられないほど狭い。しかし、それでも両親はありがたがっていた。これが1962年の住宅事情だったのだ。
 それから1978年3月まで福岡市の住人だった。この間に、中学生から高校生となり、さらには大学、大学院へと進学し、27歳にして助手になり職業生活のスタートを切った。その前の年には結婚した。まだ大学院生だったので、奨学金と集団力学研究所のアルバイトしか収入がなかった。これに一時的に家内の失業保険が、そのあとは家内のパートも生活に欠かせなかった。何事も最初が肝心だ。家庭をもったときに家内に依存したことが今でも効いている。わが同業者たちには、非常勤講師などの収入を別通帳にしているケースもある。これに対してわが家は通帳1本の「明朗会計」である。私はそこからお小遣いを手にするのである。ただし、私が必要とするのであれば、引き出し額は「無制限(?)」だ。そうは言っても、現実には「常識的」な額しか使わない。そして、福岡での生活を終える4か月前には長男が生まれ、私は人の親になった。
 こうして、福岡では思春期から青春時代を過ごし、さらに成人になって、家庭をもち、子どもも生まれた。また、私のライフワークになるリーダーシップ・トレーニングも福岡で修行を積んだ。かくして、福岡市での16年間は私の「故郷第4号」として認定するに十分なのである。
 
故郷認定第3号:伊万里市  2014/08/09 Sat 4268 Continued from 8/03
 小学校入学前に住んだ八幡市から北九州の南に位置する行橋市へ移った。そこで小学校4年生の一学期まで過ごしてから、今度は佐賀県の伊万里市に引っ越した。伊万里市には中学2年生までいた。私は伊万里小学校の卒業証書をもっている。
 この4年間の思い出も多い。わが家の前に伊万里湾に繋がる川があった。水をなめると塩辛かったから、そこはもう海だと言ってよかった。その川を浮き輪だけで渡ったことがある。当時、私は泳ぐことができなかったから、1個の浮き輪に命を預けたのである。川の流れもけっこう速かった記憶がある。そんな状況だから、海まで流されていてもおかしくなかった。今から考えると無謀なことをしたと、ぞっとする。このことを両親に話したかどうか、はっきりとした記憶はない。しかし、伊万里と言えばすぐに思い出す大きな体験である。また家の近くで亀の卵を手にして、しっかり育てたことも懐かしい思い出である。ほとんどエサをやらなくても生きていた。そうそう、鶏も育てたし、スズメもヒナから大きくした。母が盲腸で入院したときは、私がぜんざいを作って病院にもって行った。まだ白黒テレビが家にない時代で、「お金持ち」のところに上がり込んで見せてもらったりもした。そのころの思い出の番組の一つが「怪傑ハリマオ」である。また、少し後には「七色仮面」や「ナショナルキッド」なるものも現れた。先日は大学院の学生たちとカラオケに行った。トータル4時間コースで16曲を歌った。その中に「怪傑ハリマオ」「七色仮面」、そして「月光仮面」が入っていたことは言うまでもない。
 ともあれ、青春を迎える前、いわゆる思春期の時期を4年に亘って過ごしたのだから、伊万里市は第3番目の故郷と認定することになる。
夕刊①:「理研」と「利権」  2014/08/08 Fri 4267
 世の中の情報は主としてマスコミからのものに限定される。その点で、情報を受け止める側の冷静さと慎重さが求められる。つい先日も、大新聞社が歴史的な記事についての誤報を明らかにしたという。
 そんなわけで、このところの理化学研究所の報道も、私的で勝手な憶測は控えたほうがいい。しかし、その上で、トップの野依良治氏について思うところがある。それは、あるいは邪推かもしれないが…。ノーベル賞受賞者で、理化学研究所の理事長となれば、研究者として最高の栄誉を与えられたことになる。そして、その華麗な経歴が歴史に残ることは疑いない。ところが、ここにきて、その栄誉が暗闇に転落してしまうことになった。当初はSTAP細胞発表で、檜舞台の上に立つという最高潮の段階にまで達した。それだけに、これまでの落差は天国と地獄のごとく大きい。ところで、野依氏は正確な情報をどのくらい得ていたのだろうか。もしも現状を「知らされないまま」ここに至ったのであれば、まことにお気の毒としか言いようがない。ただ、それでも立場としての責任は逃れられない。それがトップというものだ。
 ところで、理研が自己防衛に走ったのではないかとの指摘もある。自ら命を絶った中心人物が、研究だけでなく企業誘致等での実力もずば抜けていただけに、対応が後手後手に回ったということらしい。研究も資金が必要であり、そのお意味でお金を取ってくる力も大いに評価される。ただ、こうした情報に接すると、「理研」が「利権」に振り回されていたのではないかと邪推してしまう。
 
高野誠鮮氏の挑戦  2014/08/08 Fri 4266 Continued from 8/05
 「コスモアイル羽咋」に「張りぼて」ではなく、「本物」を集めた高野誠鮮氏は、名刺の写真にある「神子原棚田」でできた米をローマ法王に献上したが、それまでの経緯もなかなかのものだった。その発端は、「神子原(みこはら)」という地名だった。なにせ「神の子の原」でできたお米である。それは「キリスト」に繋がるではないかと考えた。そこで、この「神子原米」をローマ法王に献上しようと考えたという。そのために、アメリカ大使館にアプローチするなど、あらゆる手段を駆使してチャレンジした。これが功を奏して、ついにはローマ法王に棚田のお米を贈ることができたのだった。
 そうなるとお米の評判は一気に挙がる。それでもドーンを生産量を増やすことなどしない。全国からの問い合わせにも、「品切れになったのだけれど、東京のデパートになら残っているかもしれない」などと応えたという。その結果、老舗のデパートから、「神子原米」を置かせてくれとの依頼が来たわけだ。こうして、棚田のお米は一国ブランドになったという。
 「コスモアイル羽咋」に展示しているロシアの衛星ボストーク号の帰還用カプセルにしても、とにかく本物だから、NASAからも視察がやってきたらしい。そうした経緯もあって、ここは「NASA特別協力施設」なのだそうだ。私が仕事でお付き合いしている方が子どものころからの高野氏の友人だったことからで、そのご縁で私もお話を聞くことができた。とにかくおもしろい方で、「UFO」にしても「棚田米」にしても、その経緯を生き生きと語られた。高野氏の信念は「成功するまで、失敗し続ける」である。これがまた素晴らしい。世の中には、頭の中で「やっても仕方がない」と言う「思考停止型」人間がやたらと多い。
 
これでもOK?  2014/08/07 Thu 4265
 「博士号」の取り消しは「不正の方法(が)…判明した場合」だから、「不正」が実証されなければ、「取り消し」はしないという結論である。日本は法治国家である。どんなことであっても「法律」で規定されていないことで人を裁くことができない。それと同じ論理構成で、「内容が杜撰だろうと、4,000語(英語)を超える盗用が確認されても」、とにかく「不正」が確認されなければOKという判断なのである。つまりは、「盗用」を「不正」とは判断しなかったわけだ。「盗用」は文字通り「他人の業績を盗む行為」であり、研究者にとっては、まさに犯罪行為である。
 そもそも論文は形式の問題だけで評価できるものではない。それどころか、内容の適否こそが最も重視されるべきなのだ。そもそも草稿などは、論文として成立しているとは言えない。しかも、それが「草稿」であったことを正直に申告しないという不誠実さも、研究者としての資質に疑問を感じる。これではわが国の学位が信頼を失ってしまう。
 法律の専門家の中には、法律が人類の出現よりも先にあったと信じているような方もいらっしゃる。私みたいな者が批判すると、「だから素人はやってられない」と高見から宣うわけだ。そんな発想だから、裁判員制度が導入されたとき、「専門家たち」は一応は「これまでの裁判では見られなかった視点からの質問がなされる」と驚いて見せたのである。しかも、その質問たるや「フツー」の人間が「アタリマエ」に思いつくような内容のものばかりで、素人の方が、あきれたものだ。
 論文審査の際にまともな対応をしていれば、今回のようなことは起きなかった可能性がある。これが「コピーやペーストなんて常識なのよ」といった気持ちをもたせてしまったのではないか。
 
「再生」がもたらした「死」  2014/08/06 Wed 4264
 STAP細胞は、とうとう最悪の結果を引き起こしてしまった。その特徴が「再生」にあるとすれば、それが「命を奪った」のである。まことに悲惨な皮肉な事態である。これで、今回の問題がどうして起きたのか、その核心に迫ることができなくなってしまった。STAP細胞が発表されたときは大きな注目を浴びた。とりわけ女性がリーダーシップを発揮して進められた研究だっただけに、そのインパクトも強烈だった。しかし、その後は時間の経過とともに、状況は素人目にもどんどん悪くなっていった。
 そもそもSTAP細胞以前に、本人の学位論文から問題が指摘された。これに対して「草稿を誤って提出した」というのである。そんなことなどあり得ない。理屈の上ではあり得ても、とにかく「あってはいけない」のである。ここで仮に「一億歩」も譲って、「誤っていた」としても、それならどうして訂正しなかったのか。しかも、一発勝負じゃあるまいし、「論文審査中」にも、それに気づかなかったというのだろうか。そうだとすれば、そのことだけで研究者としての能力も資格もないのである。とんでもない話だ。そんな杜撰さが明らかになって、大学としては調査委員会をつくって、その経緯を検証した。その結果も、また驚愕に値するものだった。とにかく「論文も審査もずさん」とする一方で、「博士号の取り消しには該当しない」というのである。しかし、委員長が弁護士だとわかって、そうした結論に達した理由がわかった気がした。一般人の常識とはきわめて異なる、法律家のいつもの形式的で技術的な論理構成で無罪放免としたに違いない。なにせ、早稲田大学の「学位取り消し規定」には、「不正の方法により学位を授与されたと判明した場合」とされているからである。
UFOとスーパー公務員  2014/08/05 Tue 4263
 そもそも、石川県羽咋市は「UFO神話の町」として知られているという。「コスモアイル羽咋」のホームページによれば、それは「昔話」の中の「そうちぼん伝説」に起源を発している。「そうちぼん」は楽器のシンバルのような形をした仏具らしい。それが、羽咋市にある山の中腹を「夜な夜な怪火を発して飛んでいた」という。さらに、山の周辺では「ナベが空から降ってきて人をさらった」という「神隠し伝説」も残っている。さらに、正覚院というお寺に伝わる巻物「気多古縁起」には空を飛ぶ物体が登場するのだそうな。これらは「UFOが飛来した証拠」ではないかというわけだ。そこで、羽咋市が「UFO神話の町」になったという。
 ところで、「コスモアイル羽咋」を語る際に欠かせない人物がいる。高野誠鮮氏である。名刺には「羽咋市教育委員会 文化財室長 歴史民俗資料館長」とある。また「神子原棚田」の写真も付いている。名刺からはいわゆる公務員であることがわかる。ところが、高野氏は「UFO張り」に空を飛ばんばかりの「スーパー公務員」なのである。そもそもは日蓮宗の僧侶だが、いわゆる限界集落を蘇らせた人物として知られているのだ。さらに、「ローマ法王に米を食べさせた男」でもある。私はご本人に会ってお話する機会があった。とにかくこの上なくおもしろい方である。とにかく、公務員としては「型破り」の発想と行動力で、まさに「スーパー公務員」の面目躍如なのである。そもそも高野氏は「UFO神話の町」に宇宙博物館を創ろうと考えた。ただ、全国にあるこの手の施設はほとんどが張りぼてばかり。そこで「本物」を揃えようと考えて、ロシアなどに「買付」に回ったという。その成果があって、「本物」が並ぶ博物館ができあがった。
 
今月の写真  2014/08/04 Mon 4262
 今月は「神話」に関わりの深い2枚を並べてみた。まずは左の写真だが、見た目にはどう考えても「神話」とは無縁のイメージがするだろう。丸いドーム様の建物の右側にはロケットまで立っている。さらに、右側の写真にしても、「どこが『神話』かいな」と疑いたくなるに違いない。何のことはない、どこかの「ぜんざい屋」さんを写しただけのことではないか…。まあ、一見すればそんな感じなのだが、これが本当に神話と深いご縁があるのだからおもしろい。最初の写真は、石川県の羽咋市にある「コスモアイル羽咋」である。ずいぶん前にも羽咋市については取り上げたことがあるが、これを「はくい市」と読む。近隣の人たちは例外にして、九州あたりに住んでいてご当地に行ったことがない者で「羽咋市」を正確に読める人は皆無に等しいのではないか。
 この博物館が半端じゃないのである。旧ソ連の「ボストーク」のカプセルの本物をはじめ、実際の実験に使われた実物がワンサカと置いてあるのだ。写真の右側に立っているロケットは、アメリカ初の有人宇宙飛行の「マーキュリー計画」で打ち上げロケットとして使用されたのだという。もちろん本物である。これを使用して弾道飛行が行われたのだ。
 もう1枚はどう見ても単なる「ぜんざい屋」さんだが、これが島根県にある出雲大社の参道にあるから、「神話」とご縁が深いのである。ここは何と「日本ぜんざい学会壱号店」なのだ。「ぜんざい」の起源が出雲にあることは、やはりこのコラムで紹介したことがある。一般的には、10月を旧暦で「神無月」と言うが、出雲では「神在月」となる。何と言っても、全国の神様が出雲に集まるからである。その際に、「神在餅(じんざいもち)」なるものが振る舞われたのだ。
 
故郷認定第2号:行橋市  2014/08/03 Sun 4261
 八幡市から父の転勤で行橋市に引っ越した。北九州市の南にある市である。ここで小学校に入学した。その後、佐賀県の伊万里に移る4年生の1学期までいた。担任の先生はしっかり記憶しているし、小学校で生活していたイメージもはっきりある。とくに、先生が「青い鳥」を読んでくれたことも懐かしい思い出である。運動会のときに校歌を歌い、強い日差しの中で、目に透明のマークが残像のようにちらついたことも記憶している。運動場で走り回って、水道水をがぶ飲みもした。いつだったか、日食もあって、墨をつけたガラスで太陽を覗いた、また台風の中でもレインコートに身を包んで登校した。そのとき、「強風にめげず、吉田君は学校に向かうのでした」などと、映画のヒーローになりきったようなナレーションを頭の中で語っていた。これは想像力豊かな、あるいは妄想力といったほうが正しいのか、とにかくそんな子どもだった。
 インフルエンザの予防注射を中学校の体育館で受けた際には気分が悪くなってしまった。その4年生を小柄な母がおんぶして病院に連れて行ってくれた。青ざめている自分を意識しながらも、母の背中に負われていたときの記憶は鮮烈に残っている。とにかく「母は強し」なのである。その母は、今なら明らかな手術ミスによって、47歳であの世に逝ってしまった。自分自身が孫を持つ体験をして、せめて孫の顔までは見てほしかったなあと思う。父の方は75歳まで生きたから、妹の子どもも含めて4人の孫と付き合うことができた。
 さてさて行橋のことだが、このほかにも挙げていけば切りがないほどの思い出がある。そんなわけで、行橋市も私の「故郷」として認定するのに疑問の余地はない。これで、八幡市に続く、故郷第2号が決まった。
 
「E」の変身:素人経済学者15  2014/08/02 Sat 4260
 大手「I」のバックアップを得た「E」は、「F」に対して優位に立つことになる。これが素人経済学者である私の予測だった。ところが、案外と早い時期にこの予測を修正すべきだと確信した。それは「E」自身の路線に変化が見られはじめたからである。「E」が「I」の経営する「Y」のようになっていったからだ。店内のレイアウトはもちろん、品物のレベルも「Y」風に変わっていった。これでは、「やや高だけれど、品がいい」点を評価していた「E」サポート族たちはしらけてしまう。何のことはない、「F」が苦境に立つどころか、むしろ安堵する結果になったわけだ。もちろん素人経済学者だから、本当の品質など客観的に評価できているわけではない。しかし、事実として、私たちが「E」には行かなくなった。そして、絶対的な距離としては「E」より遠くにある「F」に足が向くのである。さらに、「E」もついにはグリーンの看板の上にピンクの「Y」の文字が躍ることになった。また、「I」は、比較的魅力のあった地元の「A」までも飲み込むという情報もある。ここもピンクの看板に取って代わられるのだろうか。素人経済学者は考える。吸収するのはいいとして、そこが持っていた特徴や魅力を維持しながら発展させるわけにはいかないのだろうか。何が何でも同化しているように見えてしまう。いずれにしても、こうして流通界の戦争は続いていくのだろう。かつて、この業界のトップランナーだった「D」は、日本国中のスーパーを総なめにしていった。一時は「D」の看板を見ない町はないほどの勢いがあった。その「D」も今では厳しい状況のなかで喘いでいる。「I」にはそんな心配はまったくないのだろうか。
 
「F]の登場:素人経済学者14  2014/08/01 Fri 4259
 日本国中のデパートが厳しい状況にさらされている。東京あたりでは「超高級品」を売りにして元気のいいところもあるらしい。しかし、全体としてはデパートも生き残り戦略を立てなければならないはずである。熊本の地場デパートが「F」に力を入れているのもその一環に違いない。そんなことから、素人経済学者にとっては。後発の「F」が、「ちょっと高め」路線で専攻していた「E」を追撃しているように見えた。そして、鹿児島中央駅への拡大がうまくいかなかったことなどもあって、「E」が厳しくなった。そして、それに変わって「F」が前面に出てきた。そんな分析である。
 ところが、追い込まれた「E」は、だれでも知っている、あの「I」に取り込まれたのである。とにかく「I」のパワーは強力で、地場の「ニコニコ堂」なども飲み込んで、いまでは熊本も「ピンク」の看板が目立ってきた。そして、「I」が「E」を経営することになった瞬間から、今度は「F」の対応が注目された。それまでは「E」も「F」も地場資本の戦いだった。そして、老舗デパート系の「F」の方が力も大きかったはずだ。だからこそ、「E」が危うくなったとも言える。しかし、ここで状況が大きく変わることになる。今度は巨大なる「I」が経営する「E」との戦いである。
 こうなると、さしもの老舗デパートといえども、「F」の方が厳しくなるのではないか。何分にも相手は全国区の巨大資本である。ここは、もう一つの巨象である「A」と戦っている。そこで素人経済学者は考えた。「せっかく『E』を超えたのに、今度は形勢が逆転して『F』が追われる立場になる。しかも、相手は巨大な『I』だから、厳しい戦いを強いられるに違いない」。