味な話の素  Since 2003/04/29 
Back Number  Home
 2014年6月号 No 134 4187-4216
ネット予約の特典  2014/06/30 Mon 4216 Continued form 6/25
 さて、「私のシネコン」物語だが、大抵はあらかじめネットで予約していく。これで座席は自分が好きなところが取れる。そしてチケットを購入するために並ばなくてもいい。さらに会員カードのポイントが有利になるという特典がある。チケット売り場で買うと150ポイントに対して、ネットだと180ポイントが付くのだ。私が通っているシネコンでは900点で映画が1回鑑賞できる。そのため、150点だと6回の鑑賞が必要だが、180点なら5回で達成できる。これはかなり大きなメリットである。シネコンに着いたら、チケット売り場とは別のところに設置されている販売機に、予約番号とあらかじめ決められたデータを入力すればスムーズに入場券が手に入る。
 そして、以前はチケット売り場とは別にあったカウンターへ行ってチケットを提示すると、カードにポイントをつけてくれていた。ところが、入場客が少ないせいかどうか、その理由はわからないが、そのカウンターがなくなった。そこに一人を置いておくコストがかかったからだろう。ただし、その代わりだと推測しているが、入場口でチケットを見せると、そこでポイント処理をしてくれるようになった。それならそれで客としては何の文句もない。
 ところが「はじめて昼間に出かけた」日のことである。そのつもりで入り口でチケットとカードを提示したところ、「チケット売り場に行ってほしい」と言われた。その理由が聞こえにくかったので確認すると、「ここの機器が故障しているから」とのこと。まあ、そう言われれば仕方がないから、チケット売り場に行かざるを得なくなった。そのときはチケットを買うために3組5人くらいが並んでいた。私はその後ろに並んだのだけれど、「機械の故障」のことが気になった。
 
 
「デザート 」文化:家計メモ20  2014/06/29 Sun 4215
 さて、私の「家計メモ」も終わりに近づいてきた。昨日の「衛生費」の後は「果物 30円×30日」「小遣い 3,000円」となり、ラストは「書籍 2,000円」である。
 「果物」を毎夕食後に食べるのは吉田家の習慣だった。リンゴありブドウありなどと挙げていけば切りがない。とにかくわが国は季節に応じてじつに多くの果物が揃っている。それを「デザート」と称して、ほぼ毎日食べていた。じつは、この点は「世間の常識」でもないようだ。もちろん、「デザート」と言っても、別にもの凄いものを食べるのではない。ごくごく普通の果物をちょっと楽しむのである。私の父はアルコールがアウトで、ビールをコップ1杯でも口にしたら最後、救急車ものだった。そんなことでわが家には「晩酌」といった用語はなかった。だから家族全員が同じくらいの時間で夕食が終わり、そこで〆の「デザート」を楽しむのはごく自然な流れだった。
 じつは、家内の実家でも父親が晩酌をする習慣がなく、やはり「夕食後はデザート」がいつものことだったという。そんなわけで、わが家は今日でもめでたく「デザート文化」を楽しんでいるわけだ。ついでながら、私のランチは家内が創る弁当である。それにも果物が付いている。市販の弁当にもみかんを切ったものが入ったりしているが、そんな感じである。もちろん、自慢げに言えば、市販ものとは違って、別の小さな容器が用意されていて、はるかに「果物然」としている。そんなわけで、私の「家計メモ」にも「果物」の項目が独立して挙がっているのである。当時としてはリンゴやみかん、イチゴなども買ったことだろう。さらにバナナは定番だった。
 
プロの「天パー」解説:家計メモ19  2014/06/28 Sat 4214
 私の「家計メモ」には、「夕食」に続いて、「衛生費 1,000円」が入っている。この用語は久しぶりに目にした。正直なところ、そこに何が入っていたのか、しっかりした記憶はない。おそらく石けんや歯ブラシに歯磨き、洗濯用の洗剤などを指しているのだと思う。ひげそりの剃刀、シェービングクリーム、さらには整髪料もここに分類されていただろう。そうそう理髪代だって含まれていたはずだ。そこまで入るとなると、一月1,000円で足りたのだろうかと思う。ただ考えるまでもなく、理髪代を除けば、どれを取っても1ヶ月で消費してしまうものはない。むしろ、理髪代がかなりのウエイトを占めていただろう。
 高校生のころは寮の近くで室見電停前にあった床屋さんに通っていた。当初は丸坊主で過ごしていたが、高校3年の後半から長髪にした。とにかく「天然パーマ」だから、こめかみの上あたりの髪の毛がねじれて反っくり返る。まさにキューピーさん様になるのだ。とくに雨の多い季節には、ねじれも強烈さを増す。その「思春期の悩み」を床屋のおじさんに「告白」したことがある。「この毛、じつに癖が悪くて困ってるんですよね」。これに対しておじさんが笑って語りかけてきた。「おいおい、吉田君、何を言ってるのよ。このごろは時代が変わったもので、あんたみたいな若い男たちがわざわざパーマをかけにきてるのよ。これをすると時間もかかるし、けっこう高いわけよ。まあ、うちとしては儲かるからいいけどね。それを思えば、吉田君、あんたの髪の毛は、もう見事にパーマがかかってるじゃないかい。それもちょうどいい按配だよなあ。これがタダなんだから喜びなさいよ」。なんとも素晴らしいプロの解説だった。欠点も視点を変えれば長所に転じるのだ。
 
琴姫七変化:家計メモ18  2014/06/27 Fri 4213
 「かおるちゃんのお店」で120円の予算をオーバーした分は、「レトルト」などでバランスを取っていたのだろうか。そのころの思い出の定番は「大塚のボンカレー」だった。その箱にはにこやかに微笑みながら、「ボンカレー」を白飯にかける松山容子がいた。松山容子と言えば「琴姫七変化」である。と言っても、減少し続けるわが日本の総人口のうち10%ほどの高齢者くらいしか知らないだろう。お姫様ながら剣の達人、若武者姿に、鳥追いにと、様々に姿を変えながら、世の中に正義をもたらす。そんなテレビシリーズだった。その「ボンカレー」は1968年に大塚食品から発売されている。この商品、家庭向けとしては世界初のレトルト食品なのである。
 そうそう、「チキンラーメン」だって世界におけるインスタントラーメンの第1号だが、こちらは1958年の発売だから、さらに年季が入っている。当時の価格は35円だったが、国鉄の初乗りが10円とい時代だから、お店のラーメンよりも高かった。
 それにしても、「レトルト」が頭に浮かんだ瞬間に「ボンカレー」や「松山容子」、さらには「琴姫七変化」が思い出されるのには感動する。何かと記憶の問題を感じることの多いこのごろだが、「まだ大丈夫かもなあ」などと妙に安心している自分がある。こうした人や物の名前はどのようにして大脳の中に仕舞っているのか。そして、それがどうしてキーワードによって連鎖的に思い起こされるのか、人間は自分の体の中で起きるメカニズムについてしっかり説明できていない。ところで、松山容子さんは現在76歳だとのこと。それでも大塚食品からキャラクターのギャラが支払われているという。写真は20代のままであるが、なんとも、ほほえましく楽しい話だと思う。
 
かおるちゃんのお店:家計メモ17  2014/06/26 Thu 4212 Continued from 6/23
 さて、「家計メモ」の続きだが、夕食は「120円×30日」となっている。これは昼食と同じ予算額である。日本人の場合、夕食にコストをかけるのが一般的である。それが昼食とまったく同じなのである。これにはリーゾナブルな理由があった。わが寮で夕食を提供してくれたからである。それも、必要なときだけ表に「〇」をつけておけば、その回数の分だけ夕食代を支払えばよかった。もう記憶から消えてしまったが、「土日」は「休食」だったと思う。そのときは自分でつくったり外食にした。自分でといっても、炊事場など使えない。そこで、電気コンロを使って鍋でお湯を沸かし、インスタントラーメンの一丁挙がりといった感じになった。ときには炊飯器で米を炊いて、レトルトのカレーというのも、けっこう楽しめた。
 外食も、近くの食堂に出かけてすませることが多かった。その中に、「かおるちゃん」という可愛い娘がいる食堂があった。彼女は、わが寮の住人たちのアイドルで、おそらく高校生だった思う。夜になると手伝いで店にいることがあり、皆がその時間帯を狙って夕食を食べにいった。そうそう、このお店の「久留米ラーメン」はピカイチだった。九州は豚骨ラーメンで知られている。とくに博多や熊本が有名だが、そのルーツは久留米だというのが定説だ。それはともあれ、「かおるちゃん」のお店のラーメンはきわめて美味だった。このほか、私の定番メニューには「焼きうどん」や「焼きちゃんぽん」それに「野菜炒め」などがあった。母がいつも「野菜を忘れないように」と言っていた。また、冬にはおでんが欠かせなくなる。何を食べても、おでんを一つか二つ付けるのである。これだから「かおるちゃんのお店」の一食は120円ではすまなかっただろう。
昼間の映画鑑賞  2014/06/25 Wed 4211
 私は「映画好き」を自認しているのだが、昨年から今年の前半にかけて、いろいろと事情があり、そのペースが落ちていた。それも少し前に一段落したことから、シネコン通いを復活しようと思っていた。そして、つい先だってのこと、平日の午後に家内と映画を観に出かけた。とにもかくにも、3月には熊本大学を無事に退職した。その後は「シニア教授」を仰せつかり、引き続いて熊本大学にお世話になっている。ただし、これは基本的に週3日の契約だから、2日間はフリーになる。そんなわけで、私としては、27歳で就職してからはじめて「昼間の映画鑑賞」となった。映画は「ポンペイ」。あのベスビオス火山の大噴火で消滅したイタリアの町の物語である。
 観客を数えるとわが夫婦を入れて12人だった。おそらく年金世代ばかりだろうと思っていたが、比較的若い人もいた。世の中には土日に仕事があったり、交代制で平日に映画を鑑賞する人たちがいても当然である。そんなことは考えればすぐにわかるのだが、人間というものは自己中心的な見方をするものである。自分が土日などの休日にしか映画館に行かなかったから、誰もがそうに違いないと思い込む。そこで、平日は時間が潤沢にある高齢者ばかりしかいないはずだと決めつける。私もそうした先入観に囚われていたのである。
 ところで、この映画館、このごろ本欄にもってこいのネタを提供してくれる。まずは今回のことだが、あらかじめネットで入場券を購入していった。そのメリットは二つある。まずは、チケット売り場で並ぶ必要がないことだ。とにかく自分より前に3人いたら並ぶのを止めたくなるわがまま人間としては、これはまことにありがたい。もう一つは、カードを持っているとポイントが有利になる。
 
ことばと品性  2014/06/24 Tue 4210
 週のスタートは1限目の授業からはじまる。その皮切りに「都議会のヤジ」を話題にした。もう随分と前になるが、本欄に「子どもに見せてはいけない番組」として「国会中継」を挙げたことがある。発言者に対して大きなヤジを飛ばす。それも「品性」を疑うものが多い。いや、そもそも「品のいいヤジ」なんてあるわけがない。これに笑って同調する者たちもいるから、さらに始末が悪い。こんな人たちが法律を作るというのだから、あきれて笑いたくなる。いや、泣きたくなってしまう。そんなことから、「生中継」など子どもには見せられないのである。
 そして、都議会の「ヤジ」である。これは「品」ではなく、「人間のレベル」の問題である。人のことを貶めて、自分が満足する。しかも、集団の中、匿名性が高い状況でそうした行為をする。何とも哀れむべき人間であることよ…。とまあ、そんなことを2時間目の演習でも話したわけである。とうとう声紋まで確認するかというところまでいったようだった。それでも演習では、「本人は出てこれないんだろうなあ」という話になった。ところが、帰宅してからニュースを見ると、御年51歳の議員が「ご出頭」なさったようだ。しかも、マスコミからインタビューされた際には「第三者風」を装っていらっしゃったのである。しかし、あまりにも騒ぎが大きくなって、つい「私だった」と白状したということのようだ。ああ、かっこうわるい。しかもきわどい内容の発言は「自分でない」と否定しているらしい。それなら、「もう一人」にも出てきてもらいたい。「口は災いの元」と言うが、ことばは「こころ」を表現する道具であり、その人間の「人格」が表れる。もちろん、それに同調して笑う人間の品性も相当に怪しい。
 
鼻高々の父:家計メモ16  2014/06/23 Mon 4209
 「親孝行、したいときには親はなし」と言う。私も母については47歳で亡くなってしまったから、この格言はぴったりと当てはまる。しかし、それにしても、あまりにも早すぎたから、「親不孝すらする暇がなかった」と言っても、それほどうぬぼれていると笑われることもないだろうと思う。これに対して父は当時のいわゆる「平均寿命」である75歳になってすぐに亡くなった。それでも4人の孫とお付き合いすることが出来た。父の葬儀では、中学生だった私の長男が涙を流した。これを見て私自身が感動したが、周りからも同じような声をかけられた。多感な時期とはいえ、それだけおじいちゃんとの関わりが強かった証拠である。しかも、父は対人関係力が飛び抜けて低かった。そして身内の孫に対しても、うまく立ち回るのが苦手だった。自他共に認めるコミュニケーション下手だったのだ。
 そんなことから、職場でもリーダーシップを十分に発揮できなかったはずである。もちろん、私が父の仕事ぶりや職場での対人関係をこの目で見たことはない。しかし、わが家で聴く父の話や、同僚の奥さんから母に流れてくる情報、さらには父が遺した日記などを読むと、「対人関係下手」であったことは疑いない。葬儀に参列したある人が「私が死んだとき、孫は泣いてくれないだろうなあ」と、ぽつりと言った。父のことがいかにもうらやましそうだった。そのとき棺の中にいる父を見ると、あの世に逝ったあとでも相変わらず「恥ずかしそう」な表情をしていた。ただ、何十年も見続けてきた父の顔だったのに、「こんなに鼻が高かったかなあ」とかすかに驚いた。そのとき家内も「おじいちゃんの鼻はこんなに高かったかしら」とつぶやいた。きっと「鼻高々」なのだろうと思った。
 
岩田屋のビフテキ:家計メモ15  2014/06/22 Sun 4208
 生協食堂のモニターは、毎日3食を生協で食べ続けることを求められた。しかし、その代わりに1ヶ月間の食事代がすべて「タダ」というのだから、貧乏学生にとっては、それこそ「おいしい仕事」だった。私もこの話を人から聞いて、1度だけチャレンジしたことがある。とにかく食べるだけだから楽そうだが、朝から晩まで生協に行って完食するという責任がある。そんなことで、朝寝坊の学生にはとても考えられない仕事だった。一方、これに味を占めて、リピーターが出てきそうでもある。たしかな記憶はないが、それを避けるためにモニターは1回限りといったルールがあったような気がする。
 さて、私は高校2年生から寮生活に入ったが、両親から、といっても実際には母から、仕送りに1,000円ほどの上乗せがあった。現金書留に「これでビフテキを食べなさい」といった手紙が入っていた。当時、岩田屋デパートの食堂のビフテキが500円だった。これと同じころ、大学生協の定食が70円だったという。単純な割り算をすれば、500円は70円の7倍以上になる。現在の学食が370円から400円だから、当時の500円は2,500円から3,000円くらいになる。ともあれ、隔週の日曜日になると室見から市内電車で天神の岩田屋に出かけて、高校生が一人で大きなビフテキを食べたのである。これも母の愛情の表現だったと思う。その母は、予想しなかった医療ミスのために、47歳で旅立ってしまった。来週には誕生日がやって来る。元気であれば満88歳になったはずである。数えならすでに米寿を迎えて、ひ孫も見ながらゆったりと余生を送っていることだろう。いまや私自身が高齢者だが、この年になっても、「あのときのビフテキがおいしかったよ」と感謝したい気持ちがあふれてくる。
 
朝食から昼食まで:家計メモ14  2014/06/21 Sat 4207
 「家計メモ」によれば、「朝食 50円×30日」だから、一月で1,500円の予算である。この当時の朝はパンを食べていた。とりあえずは電気釜も買ってはいたが、朝となれば「ご飯だけ」というわけにいかない。そうかと言って、みそ汁などの副食は準備しがたい。ということで、食パンをトースターで焼いて、マーガリンやジャムを塗って朝ご飯にしていたわけだ。おそらく野菜まで気が回っていなかったと思う。ともあれ、それが一食あたりに直すと50円程度だったということである。そう言えば、いつのころか「ゆで卵器」なるものも購入していた。これがまた優れもので、水を入れ、卵をセットして大きな蓋を被せてスイッチを押すと10分後くらいに熱々のゆで卵ができあがる。けっこうひび割れがあったり、そこから白身が漏れ出したりもして、「もう少しうまくいかないのかなあ」と思ったこともある。
 さて、「昼食」は「120円×30日」としている。おそらく生協の昼定食がこの価格だったのだろう。私が大学に入学したとき、定食は80円だった。また、毎月29日は「ニクの日」という語呂合わせで、スペシャルなトンカツ定食が100円になった。トンカツと言っても、いつもの定食仕様のときには「神業」としか表現できないものだった。つまりは「紙」のような厚さだったのである。それが、この日ばかりは、それなりの肉厚になっていたから感動した。この企画はそれなりに受けていたのではないか。生協の「モニター制度」というものもあった。これはたしか1ヶ月間だったと思うが、「朝昼晩」のすべてを試食するのである。その評価基準については明確な記憶はないが、まずは秤でご飯やみそ汁の重さを計り、さらに「おいしさ」なども評価していたのではないか。
ようやく「支出」まで:家計メモ13  2014/06/20 Fri 4206
 さて、「九銀」のメモ用紙には、私の1か月の「支出」が書かれていた。その内容は以下のようなものである。「寮費 2,000 定期 700 朝食 50円×30日 昼食 120円×30日 夕食 120円×30日 衛生費 1,000円 果物 30円×30日 小遣い 3,000円 書籍 2,000円」。まずは「寮費」だが、これはすでに記したように、父親の職場が提供する「子弟寮」で、きわめて安かった。当時、「下宿は1畳が1,000円」と言われていた。私の部屋は6畳だったから、それだけでも6,000円はしたわけだ。しかも、この寮費には電気代も含まれていた。次は「定期」である。私は西鉄の市内電車を使って大学に通っていた。寮があった「室見」から、大学の「九大中門」までの定期券が700円ということである。このコース、けっこう時間がかかったが、いまなら「ゴールド定期券」とでも言いたくなるような優れものだった。とにかくどこでも乗り降り自由なのである。その経路には、主なものだけでも「西新」「平和台」「大名」「天神」「県庁前」「中州」「川端」「呉服町」「千代町」などがあった。とにかく福岡市のど真ん中を走る繁華街コースである。福岡市の市電はかなりの距離を走っていたが、どこまで乗っても一律運賃だった。これに学割扱いだから700円で、ほとんど「乗り放題」だったのである。わが家が福岡に引っ越したとき私は中学2年生だった。このとき電車は大人が「片道13円」で、往復券を買うと「25円」だった記憶がある。それから値上がりしていって、「25円」や「35円」だったことはしっかり憶えている。そして、「35円」が市内電車として最後の運賃だったのではないか。それから、福岡では路面電車が廃止され、地下鉄の工事が始まることになる。
 
シリーズ復帰:家計メモ12  2014/06/19 Thu 4205 Continued from 6/13
 三菱重工業長崎造船所での「全員参画による安全運動」のプロジェクトは、私に決定的な影響を与えた。とりわけ、「リーダーシップ・トレーニング」がおもしろくて仕方がなかった。そもそも、グループ・ダイナミックスの創始者であるレビンたちが開発した「センシティビティ・トレーニング」と呼ばれるものがあった。これは、そのまま「感受性訓練」と翻訳されていたが、わが国でも「対人関係」や「リーダーシップ」の改善にいかせるとして研究や実践がすすんでいた。そうしたなかで、三隅先生をトップにして展開していた「リーダーシップPM論」をもとにした「トレーニング」の研究開発が行われていた。すでに久留米にあるブリヂストン・タイヤの職長を対象にしたトレーニングなどでも「リーダーシップ・トレーニング」の形が出来つつあった。それを事故防止と繋げてさらに促進したのが長崎造船所におけるプロジェクトだった。
 ところで、気がつくと基本タイトルの「家計メモ」からは遠く離れすぎてしまった。このまま「リーダーシップ・トレーニング」の話をしていると、どこまでも行きそうな気配である。そこで、とりあえず、大学4年生から大学院に進学したころの、24,000円の「家計メモ」を続けよう。そもそも、このシリーズは、「身辺整理」をしているときに1枚のメモが出てきたことがきっかけになっている。ホテルなどにもボールペンと併せて置かれているメモ用紙である。それは「九銀」のものだった。「九銀」は「九州相互銀行」の略称で佐世保に本店があった。その後の統合再編で、「九州銀行」となった。さらに「親和銀行」と合併したことから「九銀」の行名はなくなった。私は集団力学研究所の仕事として調査やトレーニングに関わった。
 
体内年齢万歳  2014/06/18 Wed 4204
 「体重制限」向けの「食事指導」のはずだったのが、「高血圧対応」になっていたのは楽しかった。いずれにしても、私は2008年の4月から「減量作戦」を開始した。じつは、体重に関わる要因には心当たりがあった。私はいくつかの依存症を抱えていたのである。その最大のものが「アーモンドチョコボール」だった。たとえば東京に出かける際に熊本空港で1箱買う。それを待ち時間から、空の上でも食べ続けるのである。そして、「間もなく羽田に到着します」というアナウンスが流れてくる。そこでチョコボールの箱を揺すると、その中から声が聞こえてくるではないか。「全部、食べてーっ」。これは幻聴などでは断じてない。そこであらゆることに〝Yesしか言わない〟をモットーにしている私だから、その声にも応えなければならない。と言うことで、羽田に着いたときには580㎉が体内に蓄積されているのだった。これに加えてお昼時であれば、上の方に昇って脂っこいものを食べたりもしていた。早い話が「外で食い過ぎ」だったのである。
 これらをカットし、さらに出先で食べる弁当なども「半分」を目安に「減量作戦」を展開していった。そして、これが「おもしろい」ように体重減に繋がったのである。それもコンスタントに毎月1㎏ずつのペースだったから、「これはちょっと出来すぎじゃないの」と自分でも数値を疑ったりした。しかし、その成果があって、スタートから1年後の2009年3月には20%の減量に成功した。それからもう5年を過ぎたが、そのままの体型を維持している。人間ドックの結果も良好で、とりわけ血圧、血糖値はばっちりである。そんな状況で「ごますり体重計くん」が「体内年齢50歳」と言ってくれるものだから、無邪気に喜んでいる。
 ou
食事指導はまずいなあ  2014/06/17 Tue 4203
 私は「ごますり体重計」ですっかり気分をよくしている。何と言っても「体内年齢」が「50歳」というのだから、これは嬉しくなるしかない。その大きな理由はダイエットにあるのだと確信するのである。今から6年前の2008年3月、私はドックで体重がオーバー気味だとの判定を受けた。お医者さんから食事指導を受けてはどうかとのアドバイスもあった。私自身は何でもかんでも新しい物好きである。したがって、食事指導もおもしろいと思った。ところが、「その際は奥さんもご一緒に」というお勧めがあった。それを聴いた瞬間、これはまずいと密かに絶叫した。そのとき結婚してからすでに35年を超えていたが、昼食はずっと家内の弁当だった。もちろん健康第一を基本にしたものだ。自宅の朝食、夕食も私のことをしっかり考えてくれている。
 じつは、体重オーバーの原因は出張したときの食事であり、さらに「アーモンドチョコボール依存症」も関与していることは明らかだった。つまりは私の食行動が問題だったのである。それにも拘わらず、「奥さんもご一緒に『食事指導』を」となると、家内が努力していなかったことになってしまう。とにかくこれはまずいのである。とは言いながら、お医者さんからのお勧めということもあって、このときは二人で栄養指導を受けることにした。家内にはかなり申し訳ないという気持ちがあった。ところで、このときも私らしいおもしろい体験をした。栄養士さんの話しが体重とは関係ないような雰囲気なのである。そこで確認すると、どこで間違ったのか、「高血圧」の患者さん向けのメニューが準備されていた。そこで皆で笑って試食はして帰った。
 
ごますり体重計  2014/06/16 Mon 4202
 文部科学省の共済組合から定年の記念品リストが届いた。いろいなものがあったが、わが家としては体重計を選んだ。すでに使っていたものが、そろそろ買い換え時でグッドタイミングだった。しばらく経ってその体重計がやってきた。これがじつに優れものなのである。まずは体重計といいながら、とにかくいろんな数値が出る。その名のとおり、「体重」は言うまでもないとして、「BMI」「体脂肪」「筋肉量」「骨量」「内臓脂肪」「基礎代謝量」「水分」まで数値が出てくるのである。どうして個々の量が裸足で立っただけで計れるのか、まことに不思議なものである。もちろん「誤差」はあるはずだが、それでも製品として売っているのだから、「いい加減」なはずもない。いかにも日本人好みの感がする。
 これに加えて「体内年齢」なるものまで出てくるから笑ってしまう。そして、わが家の体重計が判定するところでは、私はなんと「50歳」だというのである。いやあ、これは気分がいい。なんと実年齢よりも15歳も若いというお話しなのだから、嬉しさに体重計を撫でたくなる。本来が天の邪鬼の私だから、「『体内年齢』なっていっても、どうせ『10年刻み』で、ちょっとでもデータが悪くなると、いきなり『60歳』にでもなるんだろう」などと疑っていた。ところが、家内の結果を見ると「1歳刻み」で出るようだ。それがわかった途端に、これまた体重計が余計に可愛いくなった。何のことはない、体重計にゴマをすられて喜んでいるだけなのだけれど、それも楽しいではござんせんか。この体重計はあらかじめ登録しておくと、黙って載っただけで私であることを判定してくれる。そして、あとは自動的に上に挙げた計測値を出すのである。そこがいかにも日本製らしい。
 
組織とトップ  2014/06/15 Sun 4201
 理研についてこの上なく厳しい報告書が出された。マスコミの報道で見る限り、そのトップである野依良治理事長については、名指しの批判はなかったようだ。しかし、野依氏自身は穏やかな気持ちではいられないことだろう。私などのようなものが、「その心中を察します」などと言っても、何の慰みにもならない。ただ、今回の問題についてだけでなく、組織としての研究所が抱える問題について、野依氏にはほとんど情報が上がっていなかったのではないか。そうでなければ、あの偉大なる研究者が、報告書で批判されるような事態を放置しておくはずがないと思う。ある一部門とは言え、組織の解体にまで要求されるのは、自力で改革する能力を否定されたことになる。ご本人が知っていたかどうかは別にして、トップとしての責任を問われるのは致し方ない。それがトップというものである。
 あの話題の人の採用に当たっては正規の手続きを省略していたという。これに対して責任者の一人は、「おもしろい研究」を展開できる可能性のある人物として、例外的に採用したと語っている。あまりにも形式にこだわって、素晴らしい人材を得られないことは大いにあり得る。エジソンだって、アインシュタインだって、普通人から見れば、まともな基準からは外れていたところもあったようだ。ただ、それならそれで、採用の際に一般的な手続きを取らない理由をしっかり明記しておくことが必要だ。それが多くの者に納得できればそれでいい。今回の場合、そのあたりはどうなっていたのだろうか。それにしても、その後が大事である。その事実を確実に押さえていけば、「どこかおかしい」ことがわかったのではないか。それとも、優秀な専門家が「騙される」ほど巧妙であったのか。
 
「理研」の危機  2014/06/14 Sat 4200
 わが国が「誇るべき」だと信じていた、世界でも最先端を走る頭脳集団である「理化学研究所」が危機に瀕している。研究所の改革委員会がまとめた報告書はきわめて厳しい内容のものになった。しかし、われわれのような門外漢も含めて、これを「厳しすぎる」と受け止めた者は少ないのではないか。いやむしろ「当然だ」という意見の方が、はるかに多いと思う。素人が見ていても、今回の出来事はあまりにもひどすぎた。これは日本の科学研究全体に対する評価にまで影響をおよぼしかねない深刻な事態である。あるいは醜態だといってもいい。
 すでに本欄でも書いたが、自然科学の研究では、客観性が最大の要件であり、実験等は、ほぼ同一の再試ができる点が命である。そんなことは子どもでもわかる。それなのに、どうして「再現できない」ことを堂々と発表してしまったのか。もちろん、現時点では「再現性」について否定されたわけではない。しかし、それはかなり怪しそうだ。世界的に知られた研究者だという上司も、想像以上に想像力に欠けていたようだ。何と言っても「ウソはばれる」に決まっている。もちろん、それが意識的な「ウソ」だと決めつけることはできない。しかし、それなら「騙された」ことになるのだろうか。もしそうであれば、それはそれで「ウソを見破る」専門性に欠けていたことになる。これもその道の研究者としては致命的と言えるほどの問題である。改革委員会が提言するように、専門家の前で、本人自身に「再現実験」をしてもらうべきである。それは可能な限り早いほうがいい。
 それにしても、ノーベル化学賞に輝く野依良治理事長の姿が痛々しく見える。これは邪推に過ぎないが、今回の問題に関しては何も知らされていなかったのではないか。
 
9回目のFlight:家計メモ11  2014/06/13 Fri 4199
 Flight7、8回目の記録を記した後、1974年1月31日の日記は次のように終わっている。「そして今日が9回目のフライトということだ。飛行機はいまや私たちの足になってきたのである。明日から『日立造船』のトレーニング。今回は三隅先生、高さん石田さんと私の4人と大がかりなものである」。
 ここでは3人のお名前を日記のままに書いた。三隅先生は恩師だが、高(禎助)さんも大事な方である。私が〝リーダーシップ・トレーニング〟の研究と実践をライフワークにするにあたって決定的な影響を与えてくださった。本欄でも、そのお名前はときおり挙げさせていただいている。そして石田(梅男)さんは私の大先輩である。その当時は集団力学研究所の主任研究員でいらっしゃった。この日は「日立造船」のトレーニングに出かけたことを書いている。このとき、「日立造船堺工場」において事故防止を図ろうというプロジェクトが開始されたのである。
 三隅先生が西鉄バスの事故防止を目的にして行った研究は大きな成果を収めた。これはグループ・ダイナミックスを事故防止に応用した世界初のアクション・リサーチ(実践研究)である。これをスタートとして、その後、様々な領域で「事故防止」の試みが積み重ねられていく。そして、1970年前後に、三菱重工業長崎造船所において「全員参画による安全運動」が展開されることになる。このプロジェクトのスケールと得られた成果の大きさは歴史に残るものである。このとき造船所の現場に入り込んでリーダーシップを発揮されたのが高さんだった。そして、私自身も大学生から院生の時代に、この一大プロジェクトに参加することができたのである。これもいろいろな巡り合わせの結果であるが、とにかく幸運だったと思う。
  
Flight記録:家計メモ10  2014/06/12 Thu 4198
 青春時代の思い出を残して退寮したのが1月26日だった。ふとその日の日記の見開きページの「全日空」という文字が眼に入った。その日付は退寮から3日後の1月31日になっている。この日は「5時20分の全日空で大阪へとやってきた。私にとって9回目のFlightである」から書き始めている。そして、それまで乗った飛行機をメモしていく。
 「1回目は『千代田生命』の採用試験で、東京行きボーイング737(JAL)。2回目は学会の帰りに大阪から福岡へボーイング727(ANA)に乗った。3回目と4回目は去年(1973年)の10月学会で東京を往復した。このときはともにDC-8(JAL)だった」。とにかく機材名までしっかり記録している。いずれもいまは見ることのできない懐かしの名機ばかりである。その学会とは「日本グループ・ダイナミックス学会」で、10月2日から早稲田大学で開催された。手帳によると、10月1日福岡14時40分発のJAL364便である。翌日の2日に発表して3日には10時25分のJAL357便で帰っている。往路復路とも、眼下に北九州が見えた。そのとき母親は小倉の病院に入院していたが、予想もしなかった手術ミスのために、きわめて深刻な状況を迎えていた。事実、10月の末には47歳で逝ってしまうのである。そうした状況の中で、私は母が入院している病院を目を凝らせて探した。そのとき、はっきり見つけたのか、よくわからなかったのか、その記憶ははっきりしない…。
 日記のFlight記録はまだ続く。「5、6回目は『ヤマハ発動機』の研修で大阪までDC-8(JAL)で、帰りはボーイング727(ANA)だった。さらに、同じ『ヤマハ発動機』で、往きも帰りもボーイング727だったが、往路はJALで復路はANAである。これが、7回目と8回目になる」。
 
退寮の日:家計メモ9  2014/06/11 Wed 4197
 1974年1月27日(日)に「子弟寮」を出る前日の日記。「寮8年4か月、最後の夜を迎えた。永い寮生活であった。高校2年生の9月以来、所謂青春の大部分をこの寮で過ごしてきたのである。いずれにしても、いつかは出なければならない寮ではあったが、それが今日、こんな理由で去ることになろうとは夢にも思っていなかった。あまりにも思い出が多くて、文章も意外に書けない。いますっかり片付いた部屋の中で、この日記に向かっている。サラバ室見寮よ、わが心の友よ」。
 そして、翌27日に退寮したのだった。その日の日記。「昭和40年9月12日以来、ずっと空かずの間であった子弟寮の3号室からすべての荷物が持ち去られた。何もなくなった部屋で男は何を考えただろうか。いや、案外とその男が予期していたような感動などまったく起きてこなかったのかもしれない。何か周りの状況が流れていってこうなったという必然を感じただけだったのかもしれない。そして、そうしたとき、男はさっぱりとした気持ちで3号室を、この寮を飛び出していったのではなかろうか。それはその男にとって一つの壁であった、センチメンタリズムとの決別であったのかもしれない。人間とは何かそんなものなのだといった無感動が、その男の血の中に感動的に流れていた」。
 若いころに見られる「突っ張り」文章である。高校生だった16歳から大学生になり、さらに大学院に進学して、このときは25歳になっていた。まさに多感な時期を「子弟寮」で過ごしてきた。そこを去るとき、ことばで表せない感動がこみ上げてくるのかと信じていた。ところが、「引っ越し」という作業が淡々と進んでいくうちに、けっこう冷静な自分がいた。その「無感動さ」が意外で「感動」したのである。
 
滞在3,059日:家計メモ8  2014/06/10 Tue 4196
 私は「子弟寮」で青春時代を過ごすことになった。入寮したのが高校2年生の9月で、それから26歳のころまで「寮生」だったのである。さて。その「子弟寮」だが、寮費は2,000円だった。これは、当時の相場と比べれば破格に安かった。私は6畳に一人でいたが、一般的には「一畳 1,000円」と言われていた。もっとも、時間が経過するとともに「子弟寮」の入居希望者が増えてきた。そこで、もともとあった「一部屋2人」の原則が実施されはじめた。寮は木造2階建てだったが、11部屋から12部屋あったと思うが、だんだんと詰まってきたわけだ。その結果、二人部屋が複数できはじめたが、後から入居する者が先に二人部屋になるという原則があった。そんなわけで、私は高校生のときから入居していたから、最終的には退寮するまで一人部屋に居つづけた。
 私が入寮したときは4番目の住人だった。しかし、そのうち「先輩格」が卒業等で退寮していったため、いつのまにか最古参になっていたのである。そして、大学院に進学しても寮から出ることはなかった。私は一ヶ所に止まるのが好きだったし、その傾向はいまも続いている。これで何も起きなければ、大学院の修了と合わせて「子弟寮」も卒業するはずだった。わが日記をチェックしたところ、「入寮」が1965年9月12日(日)で、「退寮」したのが、1974年1月27日(日)ことがわかった。この間、3,059日、年齢にして16歳から25歳までの青春時代を「子弟寮」で過ごしたのである。こうして、退去するまで「古狸」としての地位を維持し続けた。退寮した1974年は記念すべき10年目を迎えていたことになる。ところが、その前年に予期しなかったことが起きたのである。母が47歳で亡くなってしまったのだ。
 
「子」はどっちかい:家計メモ7  2014/06/09 Mon 4195
 さて、「弟」は「男女」を含んだ意味があることがわかった。これと関連して、われわれは「子女」ということばも使う。これまた現代的な使い方では、「女の子」だけ指しているような感じがする。しかし、「子女」は「息子と娘」の意味である。ここで「子」は「息子」なのである。そして「子」は接尾語として「動詞性の名詞に付いて、そのことをもっぱら行う男子の意を表す」とされている(スーパー大辞林)。その例として「読書子」「編集子」を挙げている。この2つは私も若いころから目にしていて、意味もわかっていると思っていた。しかし、どちらも「男」のことだとは知らなかった。
 ところが、スーパー大辞林は「古く、貴族の女子の名に添えて用いる」と続けているからややこしくなる。「光明子」や「式子内親王」がその例である。この場合は高貴な感じがしてくる。それにしても、「『子』は男と女のどっちかい」と言いたくなる。さらに辞書はここで止まらない。「子」は「自分の名前の下に付けて、卑下する意を表す」とくる。もう混乱するしかなくなってしまうのである。その例として、松尾芭蕉は書簡に「芭蕉子」と記しているという。いやははや、私も馬齢を重ねていまや堂々たる前期高齢者なのだが、「子」という小学生でも知っている漢字を一つ取っても「知らないことだらけ」なのである。そんな世界に生きているのだから、じつに楽しいことである。そんなわけで人生はなかなかリタイアできない。そう言えば、「憎まれっ子世にはばかる」という。これまでの流れから言えば、「憎まれっ子」の「子」にも、「年寄り」が含まれているに違いない。そして、「憎まれっ子」を自認する私自身が「世にはばかるぞーっ」と張り切っているのである。
 
「子弟」の意味:家計メモ6  2014/06/08 Sun 4194 Continued from 5/17
 「素人経済学者」の論評が永くなりすぎている。もともとは、熊本のスーパーEとF、そして大手のYの関連について書くつもりだった。それが、Fの親会社の地元デパートに話題が移り、それが熊本市内におけるデパート事情にまで深入りした。さらに熊本駅のことにまで広がった。ここで、いい加減に本題に戻らないといけない。しかし、それにしても「続きすぎ」である。そして、もう一つの連載だった「家計メモ」シリーズが5月17日で止まっていることに気づいた。いやあ、これもいけません。そんなわけで、ここで「家計メモ」の続きを書いておきたい。
 そもそもは、私が大学院に進学したころの話しだった。毎月の収入が24,000円で、その使途などをネタにしながら若いころを振り返っていたわけだ。そして、その生活の基盤が、父親の職場が提供した「子弟寮」だったところまで進んでいた。そこで、本日は「子弟寮」がらみのネタから復帰を試みたい。
 まずは「子弟寮」という名称である。ここで使われている「子」は「子ども」と解釈すれば女性も含まれる。しかし、「弟」の方は今日の感覚では、第一義的には「男」を指している。そうなると「妹」が入らないのは問題になる。ところが、ここがおもしろいのだが、「弟」には「男女にかかわらず、年下のきょうだい」という意味も含まれているのである(スーパー大辞林)。そうだとすれば、「子弟」は女子も含めた「子どもたち」を意味しているのだから性別は問題でなくなる。それとは関係ないが、小野妹子という歴史上の人物は男性である。彼は、推古時代の607年に聖徳太子の命で第一回目の遣隋使として中国に渡ったことで知られている。男性なのに「妹子」というので、私がはじめて聴いたときは違和感があった。
 
新JR熊本駅:素人経済学者10  2014/06/07 Sat 4193
 ともあれ、熊本駅周辺の再開発はまだまだなのである。まあ、いろいろと論評してはいるが、こちらは無責任に文句を言うだけである。当事者の方々、とくに第一線で働く人たちは知られざる苦労をしているに違いない。しかし、それにしても「高架化」も「駅前の整備」も「まだ」というのは、やはり素人としてはものを言いたくなるのである。ただ、来年くらいになるのだろうか、「新JR熊本駅」の本格的な建設がはじまるらしい。JR九州の社長が「JR熊本駅」の将来構想についてインタビューを受けていた。そのときのスクラップは手元にないが、社長は「もう少し地元の理解と協力がほしい」といった感じのことを語っていた。新聞の記事だから、詳しい発言内容や、そのときの雰囲気まではわからない。しかし、私は発言のこの部分を「地元の理解と協力がいまひとつ」という不満がにじみ出ていると受け取った。記事になることを前提としたインタビューだから、おおむね発言には配慮するものである。そこでこうしたことを言ったとすれば、少なくとも不満な点があることは推測できる。
 一般的には、誰もが熊本駅周辺が活性化することは望ましいと思っているだろう。しかし、「総論賛成、各論反対」ではないが、現在の中心街は、やはり緊張感が漂っていると思う。九州新幹線開業に合わせて、JR博多駅がリニューアルし、阪急系のデパートが入った。その影響がもともと商業の中心地だった天神の客を奪った。その後は天神の商店街もさまざまな工夫をして巻き返しを図っているようだ。熊本でも「新JR熊本駅」がオープンすれば、少なくとも一時的にはこれと同じことが起きるに違いない。しかも、JR九州によれば、鹿児島中央駅を上回る規模にする計画だという。
 
熊本駅の未整備:素人経済学者9  2014/06/06 Fri 4192 Continued from 6/04
 前回、熊本駅のバス停から「交通センター」つまりは「バスセンター」まで、一般人が降りるようなところがあまりない。だから、熊本駅から乗った客の「ほとんど」がバスセンターで降りると推測した。そうだとすれば、「センター」にも人が来るという理屈になる。しかし、これも素人経済学者の憶測だから、具体的な数値は知らないのだが、熊本駅からバスに乗る乗客の数そのものが少ないのではないか。
 じつは、熊本駅が整備されるまでの一時的な対応なのだろうが、とにかくバス停そのものがよくわからない。素人目にはあっちこっちに分散していて、どれに乗っていいのか混乱する。そもそも3年前に新幹線が開業したというのに、まだ熊本駅の整備が終わっていない。これまた、素人にはわからない。いまだに在来線の高架化工事が進行中なのである。
 とにかく熊本駅は大いなる課題を抱えている。新幹線の開通後には「ほんの少し」はましになったが、それまではよそから来た人には、人口が70万を超える「政令指定都市」の玄関口という実感は湧かなかったはずだ。もっと言えば「間違って降りたのではないか」と疑っても不思議でない状態だった。それが現時点でも続いているとまでは言わない。しかし、この地に移り住んで35年近く、いまでは中学生から青春時代の思いが詰まった「博多人」よりも「肥後人」だと自認している者としては、「ヤレヤレ感」が重くのしかかる。すでに再開発中の大分駅の方が、北口も南口も熊本をはるかに超えている。駅ビルはまだ見えないが、私の感覚では「はるか」な差だ。南側には幅の広い道路が走り、すでに緑化も進んで、新しいホールもできている。そうそう、大分のバスはとうの昔(?)から「Suica系」でスイスイなのだ。
今月の写真  2014/06/05 Thu 4191
 今月は熊本城の一角である。ここから天守閣は見えないが、美しい石垣が映える。私は写真のすぐ右側を走る道路を使って仕事場に通っている。もちろん天守閣も目の前にそびえ立つ。私の息子が友人から「城が見える町に住んでいるってすごい」と言われたという話を聴いたことがある。そのときは、本人も「そうなんだ」と思ったらしい。たしかに、城は日本の歴史と文化の象徴ではある。しかし、全国のどこにでもあるわけではない。子どもとしては、物心着いたころから城はあったのだから、「当たり前」になっていたのである。福岡城には石垣はあるが天守閣はない。幕府に遠慮して最初から造らなかったという説もあるが、途中で壊したことを推測させる資料も見つかっているらしい。
 そもそも「日本三大□□」というのは、けっこうあいまいなところがある。しかし、熊本城が「日本三代名城」と呼ばれても、それを頭から否定する人はいないだろう。そんなお城に、定年退職後の身でありながら、仕事場に向かう途上で毎日のように出会うことができる。ありがたや、ありがたや。
 もう一枚は言わずとしれた富士山である。ややぼやけて表紙の写真としては今ひとつの感がある。ただ、ちょっとおもしろい富士山だと思って、飛行機からシャッターを切った。頂上から雲を下に見るのは、富士山にとっていつものことだろう。しかし、それと同時に頂上の上にも雲が被さって、サンドイッチ状態になっている富士山とはなかなか出会わない。もちろん下から見たときに雲が頂上を包んでいる光景はめずらしくない。しかし、この写真のように頂上の下に雲があれば、地上からはその上がどうなっているかわからない。そんなわけで、「これはおもしろい」とデジカメを取り出した。
 
周辺の「センター」:素人経済学者8  2014/06/04 Wed 4190
 熊本のバスセンターの位置を詳細に説明するのはむずかしい。ただ、ほとんどのバスがここに集結し、ここから出て行くことは、「センター」の名の通りである。ただし、それは現実の商業地区の「センター」には位置していない。大雑把な表現になるが、人口が多い地区からターミナルである「センター」に到達する前に「通町筋」というバス停がある。ここで「下通」と「上通」と呼ばれる、道幅の広い2つのアーケード街が電車通りを挟んで繋がっている。そして、まさにそのバス停の目の前が地元のデパート「鶴屋」があるのだ。
 私もときおりバスに乗るが、ほぼすべてのバスが「交通センター行」にもかかわらず、多くの乗客が「通町筋」で降りてしまう。たとえば30人ほど客が乗っていても、その先まで行くのは5人といった感じになる。次は「市役所前」だが、そこでさらに1人、2人が降りたりすれば、ターミナルの「交通センター」までは2、3人しか残らない。通学で交通センターを使っている学生の話では、地下のショッピングセンターも人が少ないという。もちろん、「通町筋」とは反対の地域から「センター」にやって来るバスもある。しかし、私の推測では、その方面の人口は相対的に少ないのである。
 じつは、「JR熊本駅」も「通町筋」がある路線とは「反対」方向にある。しかし、これがまた今ひとつなのだ。熊本駅から「センター」までには、昔は賑わっていたんだろうと思われる問屋や金融関係の建物はある。しかし一般の人が乗り降りするようなところがない。つまりは「センター」までつながっていないから、熊本駅でバスに乗った客の「ほとんど」がバスセンターで降りるのではないか。それなら「センター」にも人が来るじゃないかと考えたくなる。
 
素晴らしい意思決定  2014/06/03 Tue 4189
 昨日、地元の夕刊紙トップに素晴らしい見出しが踊った。熊本市の幸山政史現市長が四選不出馬を決めたというのである。幸山氏はまだ48歳ときわめて若い。一昨年には熊本市を政令都市にした立役者である。これが成立するための条件づくりに、周りの町との交渉などがとにかく大変だった。私は市内の小中学校に少人数学級を導入するための委員会に参加した。こうした教育改革も幸山市長の公約に含まれており、委員会の提言を受けて少人数学級が実現された。もちろん、在任の3期が順風満帆だったわけではない。とくに職員の不祥事等が繰り返し発生し、その度にお詫びの会見を余儀なくされた。こうした場合、あくまで形式的には市長の責任が問われる。しかし、それが幸山市長に対する個人的な批判に繋がったわけではない。私の勝手な推測にすぎないが、このまま立てば、すんなり4選を果たしたことだろう。
 実際、ローカルニュースでは、突然の意思表明に誰もが驚きを隠さなかった。政治団体の関係者も「他に変わる者がいない」と困惑していた。そうした状況の中で、「多選による弊害を防ぐ意味からも、区切りをつけることを決めた」という。まことに素晴らしい決断である。世の中には、生まれた子供が成人式を迎えてもまだ同じ首長なんていうケースがいくらでもある。その仕事が全国的な評価を受けた県知事が7選までいこうとして抑えられた例もある。よそ様のことながら、やれやれである。その点、幸山氏は後継者を指名する気持ちもないというから、輪をかけてすばらしいではないか。どんなことにも批判的な意見はある。したがって、幸山市政を諸手を挙げて評価している人間だけではないだろう。しかし、私は最近にない快挙として大いなる爽快感を味わった。
 
場所はいいのに?:素人経済学者7  2014/06/02 Mon 4188
 熊本のバスセンターは九州でも最大級の広さを誇っている。その後、博多駅や天神などでも総面積としては広いものができた。それでもワンフロアーのものとしては、現在でもトップクラスの広さだろう。もともとは県庁があった敷地を再開発したという。私たちが1979年に熊本へやってきたとき、県庁はすでに現在の水前寺に移転していた。バスセンターの地下は「センタープラザ」と呼ばれるショッピング街になっている。テレビコマーシャルで繰り返し流される「センタープラザの歌」は、熊本出身の人ならどこで暮らしていても思い出す「故郷の歌」である。センターにはかなり大きなボーリング場も併設されていた。そして、バスセンターには「センターホテル」もあって、私もそこで開催される様々な会合に出席した。その隣に建っているビルに「岩田屋・伊勢丹」が入っていた。私は中学2年生から30歳になる年まで福岡で過ごし、家内も福岡県の出だから、当初はデパートと言えば「岩田屋・伊勢丹」だった。
 熊本には、老舗の「鶴屋」と並んで「大洋デパート」があった。むしろ「鶴屋」を凌ぐほどの売り上げを誇っていたという。しかし、ここでは1973年11月に大火災が発生した。その結果は死者103名、負傷者124名という史上最悪の惨事となった。その後、「大洋デパート」の経営は福岡資本のユニードの「熊本城屋」となり、さらに「ダイエー熊本下通店」として引き継がれていった。それも建物が老朽化したために、この5月にダイエーもクローズになった。さて、熊本のデパート事情はこんなものだが、バスセンターに直結している「岩田屋・伊勢丹」の経営は相当に厳しかったようだ。その理由は素人経済学者ながらかなりはっきりしている。単純に場所が悪いのだ。
 
熊本デパート事情:素人経済学者6  2014/06/01 Sun 4187
 スーパーのEは、「ちょっと高め商品」設定で、それなりの客層を掴んでいたと思う。その経営が危うくなったというのだから驚いた。新幹線の鹿児島中央駅にも出店するなど、積極的な攻めの姿勢が裏目に出たらしいとの情報もあった。しかし、ここは素人レベルながら、もう一つの要因を考えた。それは地場デパートTが打って出たスーパーFの影響である。こちらも、いわばEと同じ戦略を取っているように見える。店内には明らかに「ちょっと高い品」が並んでいる。それが店舗数を増やしはじめたことは知っていた。
 かつてのデパートは都市の中心街にある象徴的な商業施設だった。なにせ「百貨店」だから、そこへ行けば何でも手に入る。ただし、こちらもやや高めの品揃えだったと思う。だからこそ、東京や大阪などにある、全国的に知られたデパートの包装紙やショッピングバッグは、持って歩くだけでちょっとしたファッションにもなった。熊本にもかつては「岩田屋・伊勢丹」という名前のデパートがあった。そもそもは福岡で育った私である。熊本に来たときは、「岩田屋」の名前を見ただけでホッとした。それからは、友人の結婚祝いなどを購入するときは「岩田屋」と決めていた。しかも、ここは「岩田屋・伊勢丹」だった。私でも「伊勢丹」の名前だけでなく、格子縞のショッピングバッグも知っていた。まさにファッションのトップランナーといった感じだった。福岡の老舗「岩田屋」と東京のカッコいい「伊勢丹」の組み合わせはなかなかのものだった。そんなことで、熊本に住み始めたわが家はデパートと言えば「岩田屋・伊勢丹」だった。ところが、当然と言うべきか、時間が経つうちに、熊本の売り上げ一番店は、地場の老舗「鶴屋」であることがわかってきた。