味な話の素  Since 2003/04/29 
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 2014年5月号 No 133 4156-4186
スーパーEとF:素人経済学者5  2014/05/31 Sat 4186
 私としては、ちょっとハイレベルのスーパーEがしっかりした評価を得たと思ったころ、同じような品を扱うFが登場した。実際の開業時期はどちらが早いか知らないが、少なくとも「私の認知」では、先にEを知っていて、それを利用しているところで、Fに出会ったのである。このFは地元の老舗デパートTが運営する小売店である。一番店はデパートの在庫センターと思われる敷地内にできた。
 そこはわが家からかなり離れていて、頻繁に通ることはない。しかし、それが目に入るたびに、一度は寄ってみたいものだ思っていた。それがいつの日だったか実現した。店に入って「おーっ」と思った。そして、すぐに「Eと同じレベルか、もう少しは上かなあ」と評価した。ただし、それが事実だとしても、「わざわざ出かけるほどでもない」と思える程度に、わが家からの距離感があった。しかし、それでもたまたま近くに行ったときは、「Fを覗いてみるか」という気になった。そのうち、Fが攻勢をかけ出した。店舗数が徐々にではあるが増え始めたのである。「Eもいいが、Fもいい」。そんな評価で、Eよりも少しばかり遠いものの、Fに向かうことも珍しくなくなった。
 そこで素人経済学者は考えた。「EもFも地場の資本だ。ただし、状況は知らないが、Fは何と言っても老舗のTデパートがバックにいる。この差は大きいのではないか。このままFが店舗を展開していけば、Eにとって脅威になるだろう」。とまあ、こんな分析をしたわけだ。そんななかで、寝耳に水というわけでもないが、いきなり「Eの経営が危うくなったらしい」との情報が入ってきた。もちろん、その源は一般の新聞だったと思う。
 
地元スーパーE:素人経済学者4  2014/05/30 Fri 4185 Continued from 5/20
 さて、ど素人経済学者のコメントが途中で飛んでいた。テーマは熊本で起きている小売店の話題だった。いかにもわざとらしいが、お店の名前はすべてアルファベットで表現する。
 まずは熊本資本のEというスーパーマーケットがあった。ここの特徴は「少しばかり高級」だった。つまりは一般のスーパーと比べると高めの品揃えをしていた。とりわけ肉は国産牛をベースにした上等が並んでいた。消費者もそれを知った上で買い物をする。たとえばわが家では、すぐ近くに大手のDがある。とにかく便利だから、基本的なものはここで調達できる。しかし、肉をとなると輸入品などが多く、「今いち」の感がある。そこで車で7分程のところにあるEへ出かける。そのときの目的が肉であっても、目の前においしそうな果物があれば、少しばかり値が張ってもつい手を出すことになる。
 また、蜂蜜も国産がけっこう並んでいる。そこで「Dとは違う」と、その品揃えを評価する。こうしたことを繰り返していると、今度は蜂蜜が目的で出かけたりする。そして、その際も他のものを買うし、肉にも目が向いたりする。つまりは、身近なDと比較しても、けっこう出かけるお店になっていくわけだ。たまたま、仕事場や出かけた先でEが話題になったことがある。その際は、「あそこは少し高いけれど品がいい」という話しに落ち着くのだった。まことに不遜ながら、お若い方はDを中心にして、われわれのような高齢者は、日常の食料品にも少しばかりは高めの商品を購入する。そんな流れができているように思われた。ところが、素人耳には突然だったが、このEが大手の傘下に入るというニュースが飛び込んできたのだ。そのとき私は瞬間的に「ひょっとしたらFのせいかもしれない」と思った。
 
ご愛読者とのご縁  2014/05/29 Thu 4184
 お嬢さんとアクセスカウンター〝100000ゲット〟が首尾よくいかなかった方は、その後もずっと「味な話の素」をご愛読いただいてきた。そして、ときおりお仕事に関連するメールをいただくこともある。あの不二家が品質管理に関わって問題を起こしたことがあった。その際に本コラムで〝ISO〟のことを話題にした。これについて、この方からメールをいただいた。その内容をもとにして、2007年3月25日に「継続審査」というタイトルで書いている。そこで、私も「味な話の素」でお応えした。「ISOについて情報を教えていただいた愛読者の方は、九州外にお住まいである。とにかく、ご熱心に〝味な話の素〟を読んでいただいている」。こんな書き出しである。じつは安全に関する講演会のお手伝いをしたことがあって、そのときに一度だけお会いした。
 コラムは続く。「ホームページのアクセス・カウンタも、まず5万件目をゲットされた。その次の大台である10万件目も狙っていただいたが、これは一瞬の差で逃されたようだ。何分にもご自分のお仕事があるので、高校生のお嬢さんにもゲットの指示を出されていたという。それでも、10万はうまく取れなかったというお知らせをいただいた。昨年の5月19日のことである」。そのときの雰囲気がしっかり思い起こされる。ありがたいことである。そして、「100000」件目は中学校の先生がゲットされたと書いた後に、「次の大台といえば、やはり11万や12万ということだろうが、もっとおもしろい数値もある。たとえば、111111や123456である」と続ける。なんとも、ご愛読者の方を煽っているのである。ただし、「この両者とも、ここでご紹介している方がゲットされた」とすでに終わったこととして伝えている。
 
止められない事情  2014/05/28 Wed 4183
 いつもご愛読いただいている方が〝333333〟をゲットしていただいたのだった。メールを見て、すぐに昔のことを思い出した。そのときの大台は「10万件」だった。これを高校生のお嬢さんと狙っておられたのである。そのことは鮮明な記憶として頭にしっかり残っている。それは、2006年5月19日のことで、翌日の本欄に、「19日のアクセス件数が10万の大台に乗りました。これも皆さまのご支援のおかげです。大感謝!」と書いた。それから、2日後の5月21日になって、中学校の先生から「100000件」をゲットしたというご連絡があった。これを受けて翌22日には「10万件目をゲットされたのは、以前からご愛読いただいてきた中学校の先生でいらっしゃいました。記念のコピーを添付して、知らせてくださいました」と書いた。そして、それに続けて「そのほか、高校生のお嬢さんとご一緒に10万件を目ざしていたとおっしゃる方もおられました。みなさま方のご支持に心から感謝いたします」とまとめている。中学校の先生のメールには「100000」のカウンターが入った写真が添付されていた。
 これだけ関わってくださる方がいらっしゃるのである。このコラムを続けている者としてはこれ以上の喜びはない。その上、高校生のお嬢さんとタッグを組んでゲット狙いをしてくださる方までいらっしゃるのである。そして、今回は「333333件」を当てていただいたわけだ。しかも、あのときにタッグを組まれたお嬢さんが結婚されるという。今月が式だというお話しである。さぞかし華やかで幸せいっぱいの結婚式だったに違いない。本当におめでとうございます。こんな素晴らしい関わりが生まれるのである。かくして、私は「味な話の素」を止めることができないのだ。
 
333333  2014/05/27 Tue 4182
 「PC操作事件」が急展開したため、本コラムもそちらに引っ張られた。そして、いつものことながら「本題」から次第に逸れていった。江川紹子氏は今回の「当事者」だから取り上げるのは当然だった。しかし、それが昨年の「橋下記事」を書いたルポライターや「ヨット事件」の主役にまで話が広がった。当初から「思いのまま」がモットーの「味な話の素」であるから、この点については「ああ相変わらずだなあ」と苦笑していただくしかない。
 私は長い間、いろいろな方とお付き合いをさせていただいてきた。そのおかげでたくさんの体験をし、また新しい知識を得ることができた。その状況は前期高齢者となった今も変わらない。もちろん、そのすべてが本欄の原資になっていることは言うまでもない。さらにありがたいことに、毎日、あるいはほとんど毎日、わが「味な話の素」をご覧にただいている方がいらっしゃる。そして、ときおりその内容に関するメールを頂戴している。このことが「味な話の素」が続くエネルギーになっているのである。
 じつは、4月29日に、アクセスカウンターが〝333333件〟に達した。その際に、数人の方から「しっかり狙っていたのですが、ゲットに失敗しました」「すごくいいナンバーに当たった方がいらっしゃったんですね」といった内容のメールをいただいた。それから数日後に、ご自分が当たったとのメールが届いた。それは本コラムをずっと愛読いただいている方からのものだった。そのメールは、「昨日、333333をゲットしました」ではじまっていたが、その後に、「7、8年前に高校生で、私と一緒に『ぞろ目』を狙って、そのことを『味な話の素』のネタにしていただいた長女が5月に結婚することになりました」と続いていた。
 
〝説明文化〟と〝前置き文化〟  2014/05/26 Mon 4181
 〝This is the book which I bought in Tokyo〟. 「これは私が東京で買った本です」。あまり気の利いた例文ではないが、英文とその和訳はこんなものだろう。ここでお遊びついでに〝Yahoo翻訳〟で試してみると、「これは、私が東京で買った本です」となった。「読点」を除けば「完璧」に一致した。せっかくだから「これは、私が東京で買った本です」を入力すると、当然と言うべきか〝This is the book which I bought in Tokyo〟と、これまた「完全」に一致した。さて、本日は「翻訳ソフト」を話題にしたいのではない。英語と日本語の構造の違いと、それが思考や行動に与える影響について考ようというわけだ。
 まずは結論から言えば、「説明文化」と「前置き文化」との違いである。英語の場合、〝the book〟が「先」に来て、その本がもっている性質をあとで「説明」する。だから、後半まで聴かないと詳しいことはわからない〝This is the book which my mother bought for me〟. これに対して日本語は「前置き文化」と言える。「これは私の母が私のために買ってくれた本です」。こちらは最後まで聴かないと「何」のことかわからない。もっとも「これは」と目の前で提示できるものの場合は、「見ればわかる」から、日本語でも「本」のことだとわかる。ここで、英語と日本語について、言語的な機能の優劣を議論するつもりはない。ただ単純に、「思考方法」が違うということである。英語は「事実」を先に押さえて、それから説明を加える。つまりは「結論先行型」である。これに対してわが日本語は、まずは「説明をしておいて」から結論を伝えるのである。つまりは「前置き」を大事にして、可能な限り相手の理解を得ようとする気持ちがにじみ出ている。こうしたことばの違いは、日常の人間関係にも影響をおよぼすのである。むしろ、文化とそれによってつくられた社会関係が「ことばの順序」に影響を与えたという方が正しいだろう。
 
希望を与えてくれる人  2014/05/25 Sun 4180
 佐野眞一氏のルポライターとしての命はなくなった。橋下事件でそう思ったが、そのこと自身を忘れていた。ところが、「PC操作事件」の江川紹子氏について書いているうちに佐野氏のことを思い出した。そこでネットで検索してみたところ、改めて「おやおや情報」が目に飛び込んできた。彼は過去に原稿の「剽窃」問題を引き起こしていたという。それも一度や二度ではないらしい。本人が「剽窃」した著者に宛てて書いた謝罪文まで公開されている。これまた「やれやれ」である。ただし、それ以上細かいことまで知ろうと思うほどの関心はない。とにかく私の心のなかに「興ざめ」感が漂った。
 それにしても、プロである限り、「栄光と転落」はコインの表と裏である。栄光が凄いだけに、妙なことをすればその転落の度合いも大きい。それを覚悟して仕事をするのがプロである。その点で、まことに興味深い人物がいる。昨年「ヨット」で太平洋に出かけたのはよかったが、すぐに遭難して救助された放送人がいた。とにかく舌鋒鋭く他人を批評していた。その徹底ぶりはすさまじいものがあった。そんな彼も、ヨットが無事に成功していたらとびっきりの栄光に輝くことを期待していたはずである。しかしそれもあえなく数日にして失敗してしまった。そこで、他人に対する彼の厳しさから推測して、「転落」の責任も人一倍、いや「一万倍」は負うんだろうと思っていた。ところが、このSさん、人を唖然とさせるのが使命だと思っているのでしょうか。何もなかったようなお顔でテレビに出ていらっしゃいますね。これほど人に希望を与える人はいないでしょう。皆さん、どんなにひどいことをしてしまっても心配いりません。Sさんのことを思えば、すべて乗り越えられますよ。
ルポライターの栄光とチョンボ  2014/05/24 Sat 4179
 私は佐野眞一氏のルポルタージュ「東電OL殺人事件」(全2冊)を読んで、細かい事実調査の進め方など、なかなかのものだと思った。殺人事件は1997年に起きた。東京電力の社員が闇の商売をしていて殺されたのである。その容疑者としてネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリ氏が逮捕され起訴された。一審は無罪だったが、二審の高裁は無期懲役となる。本人は一貫して無罪を主張したが、最高裁で上告は棄却され刑が確定した。その後、再審が行われることになり、最終的には2012年11月7日に無罪が確定した。ただし、本人は入管法違反で国外強制退去処分を受ける形で6月に帰国している。これで私の佐野氏に対する評価はさらに高まった。彼は私と同じ団塊の世代でもあるから、親しみすら感じたものだ。
 ところが、私のこの評価が一転するとんでもないことが起きた。ゴビンダ氏が帰国したから間もなくの10月のことである。大阪市長の橋下氏に関する週刊誌の連載記事が大問題になった。橋下氏の政治を評価するしないは個人の心情で大いに違って当然である。しかし、佐野氏は世に問う文章で、感情をむき出しにしたらしい。彼は橋下氏を「ハシシタ」といった表現も交えながら、その出自にまで触れて攻撃しようとしたという。私は週刊誌をまったく読まない。病院などの待合室でも週刊誌には手をつけない。だから、その内容についてはまったく承知していないが、これが大問題となった。そして、ことの流れは誰もが知っての通り、週刊誌側が橋下氏に謝罪する事態に至ったのである。私はその著者が佐野氏だったことに驚いた。それを知ったとき、私は「ああ、これでこの人のルポライターとしての命は終わったんだな」と思った。プロが道を踏み外したのだ。
 
プロの責任  2014/05/23 Fri 4178
 江川紹子氏と言えばの多くの人が知っているジャーナリストのトップランナーの1人である。今回の件で、その彼女の旗色がかなり悪くなっているようだ。私はまったく知らなかったが、「自作自演」の容疑者にインタビューをし、相当程度にサポートしていたという。つまりは、「これは冤罪だ」との立場から発言を続けていたらしい。こうしたことから、これまでの流れが順調にいけば、彼の冤罪が立証されると信じていたのだと思う。そうなると、江川氏はさらに高い評価を受けることになったはずである。
 そもそも彼女はオーム真理教を鋭く追及し、そのために自らの生命まで危機に瀕することになった。そうした経歴から、彼女は本物のジャーナリストとして不動の地位を獲得してきた。わが地元紙にも定期的に評論が掲載されている。それが今度ばかりはとんでもない人物に引っかかったことになる。こうなったからには、彼女もそれなりの説明をせざるを得なくなってしまった。何と言っても素人ではないのである。その仕事が成功したときには、一般人とは比較にならない高い評価を受けるのだから、その反対に失敗したときにもしっかり自らの仕事を整理をしなければならない。あれだけのジャーナリストがどうして騙されたのか。その経緯を明らかにすることは、世の中にきわめて貴重な情報を提供することになるはずである。そこをきちんとすることで彼女は今後も敏腕のジャーナリストとして生きていくことができるだろう。
 ところで、佐野眞一というノンフィクションライターがいた。私は彼が書いた「東電OL殺人事件」(全2冊)を読んだ。その中で、いち早くネパール人の冤罪を主張している。現実もそうした展開となり、そのときはなかなか凄いなあと思った。
 
取り調べの可視化  2014/05/22 Thu 4177
 冤罪は絶対にあってはならない。この点で異論のある人はいるはずがない。しかし、今回のように、よく知られた冤罪事件を担当したスーパー弁護士に〝騙された〟と言わしめる人間がいる。テレビのネタではあるが、今回の裁判では物的な証拠が少なく、無罪になる可能性もあったという。当初、弁護士も自信があるような口調だった。ところが、一転して疑いを持たれているすべての件を自分がしたと認めるという。今度こそは、裁判中に発言を「ころっ」と変えることはないのでしょうね。
 ともあれ、仮に無罪になっていた場合、彼は濡れ衣を着せられた冤罪の主人公になっていたわけだ。しかし、「一般的」には、そうした「誤審」が起きるとしても、1件の「冤罪」の可能性を排除することが大事だとされている。わたしも「冤罪」なんてとんでもないと思う。とりわけ、取り調べ段階で、本当は無罪なのに「やりました」と言ってしまうような状況をつくってはならない。だから、「取り調べの可視化」は必要なのである。この点についても、「一般的」には、それほどの異論はないだろう。もちろん物理的暴力や脅しなどは論外である。ただ、皆に見える状況の中では、微妙なことばのやりとりも「かけひき」だと言われて問題視されたりするかもしれない。まあ、とにかくどうなるかわからないのだが、今回の彼のような人間だと、うまくすり抜けるケースも生まれる可能性はある。取り調べの「可視化」とは、そうした可能性を皆が認めることである。つまりは、国民の誰もが「取り調べによる冤罪」の発生を根絶するために、「本当は罪を犯している人を見逃すことがあり得る」と納得しておく必要があるわけだ。ところで、このところ、評論家の江川紹子氏の名前が出てきた。
 
一杯食わされたプロたち  2014/05/21 Wed 4176
 弁護士さんも大変ですね。この方は世に知られる冤罪事件で大活躍したらしいのですが、今回はすっかり騙されてしまいました。これからの人生に大いに役立つ勉強になったと思われていることでしょう。そにしても、こんな人もいるのですね。人を罪に陥れるだけでなく、徹底して白を切ることがいとも簡単にできる。その上、名うての弁護士にも恥をかかせてしまうのですから、とにかくすごいとしか言いようがありません。それにしても、あれだけ賢いと思われた彼が何とも妙なところで墓穴を掘ってしまったものですね。公判中に合わせて「真犯人」からのメールを細工するなんて、あなただけにしかできない「裏技」を使ったのはさすがでした。しかし、それが致命傷になったということですから、皮肉としか言いようがありません。むしろ、保釈を勝ち取ったことが裏目に出たということになりますか。あのときは弁護士さんも、きっと快感を感じられたと推測します。それに、裁判官だって騙されたということでしょう。なまじ保釈にならなければ、こんなことにはならなかったわけです。
 それにしても、河川敷にスマホを埋めたところを警察に見られたんですってね。それって、偶然だとはとても思えません。警察はちゃんとフォローしていたんでしょう。それもまたすさまじいばかりの執念を感じますね。まさに脱帽というところでしょう。それにしても、これまでの捜査や裁判にも莫大な税金が使われているんです。本当に弁償してほしいですよ。それよりも何よりも、誤認逮捕されてしまった方々はお気の毒です。まったくひどい目に遭ったものですね。これで少しは気持ちが落着かれたでしょうか。それでも、こうしたとんでもない事件はこれからも起きてしまうのでしょうか。
ロケットを飛ばす法則:素人経済学者3  2014/05/20 Tue 4175
 西側諸国の代表選手とも言うべきアメリカは人類初の人工衛星も、宇宙飛行士もソ連に先を越された。これに追い打ちをかけるように、次は最初の女性飛行士として〝テレシコワ〟がボストーク6号で地球を回った。こうして、アメリカは宇宙競争でソ連の後塵を拝することになった。これを意識して、ケネディは人類をはじめて月に送るという「アポロ計画」を打ち上げたのだった。そのケネディ自身はアポロを見ることができなかったが、1969年にはアメリカは月に人間を運んだのである。そして、その後もアメリカ人以外で月を歩いた人間はいない。
 いつのまにかアポロまで来てしまった。この脇道に逸れる前までに言いたかったのは、ロケットを飛ばす原理は、国や人々の主義や主張と関わりなく普遍的なのだということである。お隣のあの国も「将軍さまの原理」でミサイルを飛ばせていているのではない。もちろん、わが国だって「大和魂」でロケットを打ち上げてはいない。それはアメリカが「ヤンキー魂」でスペースシャトルを成功させていないのと同じである。つまりは政治体制や経済のあり方とはまったく関係のない「自然科学的理論と法則」が基礎になっているのだ。これに対して、「人間の行動」を「普遍的な原理」で予測することはできるはずがない。ましてや、それでコントロールするなど不可能だし、そもそもそんなことをしてはいけない。だから、私は自分たちの仕事を「科学的」なんて言ってはいけないと主張している。
 さて、いつものことながら前置きが長くなった。今回は、ど素人経済学者として、熊本で起きているある現象についてコメントしたいのだ。それはスーパーマーケットと言うべきかどうかわからないが、いわゆる日常的な買い物をする小売店のお話である。
 
ペンシルに夢あり:素人経済学者2  2014/05/19 Mon 4174
 わが国の宇宙開発も長い歴史がある。私が小学生のころ、糸川英夫氏をリーダーにしてペンシルロケットなるものが開発された。秋田県かどこかの砂浜で「発射実験」が成功したニュースを聴いたことをはっきり憶えている。糸川氏はあの「はやぶさ」が目標にした60億km先の「小惑星イトカワ」として、その名前が残っている。ともあれ、全長23cmで長さ1.5mの水平発射台から発射されたのがはじまりなのだから、まさに「ペンシル」であり、今ならおもちゃである。そこからスタートして、ついには自力で人工衛星を打ち上げることができるようになった。アメリカやソ連に勝てるわけがないと、はじめからあきらめていたのではダメなのである。
 ところで、人類史上初の人工衛星打ち上げ成功の栄誉はソ連が勝ち取った。それは、1957年10月4日のことで、衛星は〝スプートニク号〟と呼ばれたが、アメリカをはじめ、西側諸国に強烈な衝撃を与えた。それは〝スプートニクショック〟と呼ばれて、アメリカの理科や算数・数学などの教育にも大きな改革を引き起こした。同じ年にソ連は犬を乗せ、さらにそれから4年後の1961年4月12日には人間を乗せた〝ボストーク1号〟が飛んだ。人類最初の宇宙飛行士として〝ガガーリン〟の名前は「地球は青かった」との名セリフとともに、「日本人」には永遠に記録されることになった。ここで「日本人」と条件を付けたのは、本当は「直訳ではなかった」ということだからである。さらに、ガガーリンは「ここに神は見当たらない」とも言ったらしく、海外では、この発言の方が知られているようだ。まさに社会主義国の「唯物史観」の正当性をアピールしたのである。当時対立していたキリスト教徒の多い西洋諸国に対する当てつけだったわけだ。
 
熊本経済論(?):素人経済学者1  2014/05/18 Sun 4173
 プロには申し訳ないけれど、「素人経済学者」として、熊本におけるちょっとした経済現象を取り上げてみたい。ただし、本題に入る前に、私はそもそも「『経済学』は『科学』ではない」と考えている。もちろん、身の程知らずとは思いながらも、けっこう確信に近いものがある。経済学は、一般人が「科学」と聴いて頭に思い浮かべる「科学」とはほど遠いところにいると思うからである。われわれが「科学」と言う場合は、それを「自然科学」と同義で使っている。だからこそ、社会や人間を対象にしたものは「社会科学」と呼ばれて、「自然科学」と区別している。そこには、「自然科学」と「社会科学」は違うという認識があるわけだ。
 その上で、社会で起きている様々な事象を、とりわけ「客観性」を重視しながら分析し、将来を「予測」するものが「社会科学」の特性だと言う。自ら「科学」と称するからには、少なくともこの2点だけは欠かせないと考える。しかし、そうした説明を聴いて「なあるほど」と納得するのはむずかしい。なぜなら、対象物を「客観的」に分析し、その後に起きる現象を「予測」するという点だけであれば、それは「自然科学」とまったく同じであって、どこにも「違い」はないからである。これに加えて「科学として社会現象に関する『普遍的な法則』を探求する」などと言われると、ますます「それはないよね」という気持ちになる。
 今では人工衛星が地球の周りをワンサカ回っているらしい。地球上でもある大陸から別の大陸まで飛んでしまうミサイルが開発されている。これが「大陸間弾道弾:Intercontinental Ballistic Missile」で、新聞等でも「ICBM」と頭文字で略称されている。そして、人工衛星と称してミサイルを飛ばす国もある。
 
ノンリニューアル・オープン:家計メモ5  2014/05/17 Sat 4172
 私の「家計メモ」によれば、24,000円の月収(?)に対して、まずは「寮費」として2,000円が計上されている。そこは大学の寮ではない。父が勤務していた組織の職員寮が福岡市の室見にあった。いまでは福岡ドームも歩いてすぐの位置にある。私が学生のころは博多湾の砂浜まで歩いて5分ほどで行けた。そこで同じ寮の仲間たちとキャッチボールもした。とにかく静かな町だったのである。土日だったのだと思うが、西南学院大学まで歩いていって生協でお昼ご飯を食べたりした。平日に出かけて本を買ったこともある。
 ともあれ、職員寮が古くなって、30メートルほど離れた場所に新しいものが建てられた。そこで、それまで使っていた寮をどうするかが問題になる。その詳細は知りようもないが、木造の寮も「壊すには早すぎる」という結論に至ったようだ。そこで福岡にいる職員の子どもたちを入れることになり、私もめでたく寮生になったのである。実際に生活してみると「壊さないにしては古すぎる」と思った。それほど年季が入っていた。しかし、とにかく高校2年生の私は2学期から、この寮で暮らすことになった。福岡の東にある香椎中学校を卒業してから県立高校に通っていたが、父が長崎に転勤したのである。いまなら多くの人たちが父親の「単身赴任」を選択するのだろう。ただし、わが家の雰囲気では、同じことが現時点で起きても、「家族で引っ越し」ということになると思う。ともあれ、室見の旧職員寮は「子弟寮」と名づけられ、「リニューアルなし」でオープン」した。親の立場かにすれば、「寮費」が相場よりも安いというメリットがあった。しかし、それだけでなく、同じ勤め先の仲間たちの子どもが入ることから、「安心感」もあったことだろう。
 
家庭教師の+α:家計メモ4  2014/05/16 Fri 4171
 さて、中学校における「警備:じつは日直のみ」のバイト中に卒論も書いたが、さらに事務の方から息子さんの家庭教師も頼まれた。日曜日の10時ころになると彼がやってくる。それから2時間ほど勉強して、出前の昼食を一緒に食べる。お勧めは中華丼だったのだが、あるとき、その中に真っ黒な「蠅」も入っていた。そんな事件に遭遇してからお店を変えた。いまでも、「中華丼」と聴くと「蠅さん」を想い出す。中学生が「助六」が大好きで、その後は「助六」や「ちらし」もメニューに加わった。その当時は「助六」も含めて「寿司」と言えば、「上等品」だったから、彼もけっこう喜んだ。今の若い人たちは「寿司」と聴けば、真っ先に「回転寿司」をイメージするかも知れない。これはわれわれの感覚とは違うが、とにかくと時代が変わったのである。何分にも「回転寿司」は海外でも人気があって、あちこちのあるようだ。私もオーストラリアで試したことがあるが、少なくともそのお店は、かなり高かった記憶がある。
 それはともあれ、日直の時間中に家庭教師をして、いわば二重取りでバイトをしていたわけである。そんなこんなで、奨学金と警備のバイトを合わせて、24,000円に家庭教師の収入も加わったのである。さて、私としては「生涯の仕事」として、ずっと「身辺整理」を継続しているが、先日、その当時の「生活メモ」が出てきた。いまや懐かしの「九銀」のロゴが入った1枚のメモ用紙である。そこには、「安定収入」として、24,000円が挙がっている。なぜか家庭教師の分は含まれていない。子どもの都合で来ないこともあって、「安定」していなかったのかもしれない。これに対して支出項目も挙げている。これが、われながらじつに懐かしく、かつ面白い。
 
〝ベンツ〟と〝レクサス〟、そして〝レガシー〟:家計メモ3  2014/05/15 Thu 4170
 そう言えば、このごろ街中で「ベンツ」を見ることが多くなった。それもときおりではなく、毎日数台とは出会うほどだ。われわれが若いころ「ベンツ」は「超」がつくお金持ちのものだった。もちろん現在でも裕福なお家の所有物なのだろうが、「見るだけ」ならかなり身近になった。アメリカはTPPの交渉で、日本は「自動車」輸入の壁が高いと問題にした。これに対してわが国は「ヨーロッパ車は増えている」と反論している。これはわれわれの実感に近い。昨年の〝Car of The Year〟はドイツのフォルクスワーゲンだったことは、それを象徴している。またトヨタの「レクサス」もやたらと多くなった。こちらもとくにアメリカで高級車として売り出したものだったと思う。それが、やはり毎日のように出会うようになった。前世紀の終わり近いころ、「一億総中流」と言われ、皆が「そこそこに同じ」という幸せ感を楽しんでいた。実際はどうだったか知らないが、少なくともそんな「時代の雰囲気」があった。それが今では「格差社会」だと強調される。つまりは貧富の差が拡大しているという指摘である。
 それはともあれ、わが家はスバルの「レガシー」である。こちらは、走り始めてすでに12年を経過しているが、まだまだエンジンに衰えを感じない。これまでの経験だと、大体10年目あるいは走行距離が10万キロを超えるころから、坂道を登るとエンジンが「カラカラ」音を発していた。車が「私はこのごろ疲れやすくなったんです。次をお願いします」と絶叫しているような気がした。ところが、今のレガシーにはこの音がない。坂道だろうがとにかく快調なものである。そんな状況だから、「人生最後の車」を購入する気にもならない。まことに素晴らしい車である。
 
バイト先で卒論書き:家計メモ2  2014/05/14 Wed 4169 Continued from 5/11
 私は大学4年生になってから、福岡市内にあった中学校で「警備=日直」のバイトをはじめた。これが 7,000円ほどで、奨学金の 17,000円と合わせた 24,000円が基本的な月収になった。就職をしないで大学院に進学したから、親からの援助には頼らないことにした。ただし、そこは親であり、子どもの関係である。ときおり帰省したときには小遣いをくれた。また、父親のボーナスのお裾分けなどもあり、いろんな理由でサポートはされていた。しかし、とにもかくにも、その当時は 24,000円あれば、それなりの生活ができたのである。いや、むしろちょっぴりながら余裕があった。
 ところで、中学校の仕事は土曜日の午後から夕方までと日曜日の昼間だから、学校に仕事で来る人はいなかったし、基本的には電話もかかってこない。その点は、何とも「おいしい仕事」だった。大学を卒業する先輩から4年生になってから引き継いだこともあって、学校の事務室で卒論も書いた。たまたま事務室に、「考える葦」の「パンセ」で知られるパスカルが発明したとされる「タイガー計算機」があった。これは複数の歯車を組み合わせ、それを回転させて掛け算や割り算などができるもので、私はその使い方を知っており、これが卒論の作成過程で役立った。ようやく「電子式卓上計算機」なるものが出はじめていたが、私の卒論程度だと手回し式の計算機で十分に対応できた。それに「電子式」と名前は格好いいが、価格は100万円近くもするとんでもない機械だった。それでも「√」が計算できていたかどうか、はっきり記憶にない程度のレベルである。いまなら「ベンツ」や「レクサス」くらいの価格だったのではないか。もっとも、「ベンツ」や「レクサス」がいくらするのかは知らないけれど。
 
字数制限違反  2014/05/13 Tue 4168
 「身辺整理」はすべての分野に亘るわけです。つい先だってのことです。ファイルケースのなかに、私が附属中学校の校長をしたときに書いたものが出てきました。じつは最近のことですが、このストーリーを授業で話したことがあって、「ああ、ここに書いていたんだあ」と懐かしく想い出しました。これは附属中学校の卒業文集「響」の原稿で、わがホームページにも「Archive附属中学校」のなかに入れています。ただし、ここまで読まれる方はほとんどいらっしゃらないと勝手に思い込んでいます。そこで、今日は1回720文字の、これまた私が勝手に決めた「字数ルール」を破って、「全文一挙公開」とさせていただきます。しかも「オリジナル」ではないという問題も抱えていますが、私の「いま、この気持ちをお伝えしたい」という心情をご理解いただけると幸いでございます。それでは「長文」のスタートです。
 わたしが子どものころ聞いた話です。スフインクスが旅人に「なぞなぞ」を出します。「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足になるものは何か」。これに答えられない人は、スフインクスに食べられてしまうのです。とても怖い話でした。みなさんは、この話を知っていますか。「聞いたことがある」という人は、その答えもおわかりですね。そう、それは「人間」なのです。赤ん坊の時は四つん這い、大きくなると二足歩行、そして年を取ると杖を使うので三本足になるというわけです。
 それでは、もう一つ「なぞなぞ」です。「朝は長くて、昼間には短くなり、夕方にはまたまた長くなるものは何か」。これは、わたしのオリジナル「なぞなぞ」です。その答えは、「自分の影」といいたいのですが、どうでしょうか。あまり上等の「なぞなぞ」じゃないなと思われそうですね。まあ、そこはご容赦いただくとして、わたしの「太陽と影の物語」を聞いていただきましょうか。
 太陽が照っていると、わたしたちの影ができます。みなさんが学校に来るときは、影はどちらにありますか。前の方、それとも後ろの方?わたしが通勤するときは、大体は影が前の方にあります。そこで、「自分の影」を追いかけながら、学校へ向かうことになります。「おいおい、影よ。そんなに逃げなくてもいいぞ」。こんな気持ちで、影を追っかけているうちに、「あっ」という間に学校に着いてしまいます。もちろん、車に乗ることも、バスを利用することもありますから、学校までの道をずっと追いかけているのではありません。そんなことしていたら、すでに50歳を越えた体が参ってしまいます。その影も、昼間は、ほとんどなくなってしまいます。影が隠れてしまうのです。それは太陽が真上から輝いているからです。こんな時間は、わたしも元気いっぱいで仕事をしています。人は輝いているときは、自分の影は見えないのです。このことは、ちょっと気になりませんか。調子がいいときは影に気づかないので、自分を反省することを忘れてしまうのです。元気なとき、輝いているときこそ、自分自身の影を見つけて、行動をふり返る必要があると思います。
 仕事が終わって帰るときには、また長い影がわたしの友だちになります。今度は後ろから影が追いかけてきます。「寄り道などしないで、早く帰れよ」と言うのです。「まあ、そんなに急かせないで、ゆっくり帰らせてよ」。こんな会話を影と交わしながら家に帰っていきます。ところで、この影は季節によって痩せたり、太ったりします。その時々で、体型が変わるなんて、楽しいですね。そして、冬になると、仕事を終えて帰るころには、もう影は見えなくなっています。ですから、この季節は朝がとても大切です。影を追いかけるだけでは物足りないので、遠回りでも脇道に入ります。進む方向を変えると影から追いかけられるようになるからです。
 これが、わたしと太陽と影の物語です。みなさんも、自分の影と話をしながら歩いてみませんか。影って、自分の分身。かわいいものですよ。
 本日は長文にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。この程度の内容なのですが、十年以上前の「気分」を改めて楽しみたいと思っております。
 
その後の身辺整理  2014/05/12 Mon 4167
 私が無事に定年退職を迎えてから一か月と少しになりました。その後も熊本大学でお手伝いすることになりましたので、毎日の生活は、現役時代とほとんど変わりありません。ただ、名刺に「シニア教授」と入れているものですから、「これって何ですか」とお尋ねになる方がけっこういらっしゃいます。私の答えは単純で、「仕事場も電話番号もメールアドレスも同じで、外から見られる限りでは何も変わりません」と申し上げています。もちろん「収入」だけはまったく違うのですが、それは退職者ですから当然のことです。いずれにしても私にとって「人生ありがたや、ありがたや」の状況が続いているわけです。
 ところで、私自身は3月末までに相当程度の「身辺整理」を済ませたつもりでいました。それでも、まだまだ「人生の抽斗」には残っているものがけっこうあります。私としてはとにかく淡々と整理を継続していくしかありません。そのなかでも写真はかなりの難物ですね。日常的にはほとんど見ることがないのに、いざ整理するとなると手が固まってしまいます。しかもデジカメとなったこのごろは、とんでもない量の「写真」が蓄積されていきます。そんなことで、私は「過去の写真」も整理するという大いなる意思決定をしました。とくに基準はありませんから、以前なら間違いなくそのままにしていた写真もシュレッダーの暗闇に消えていきます。もちろん「身辺整理」の対象は「写真」に限りません。若いころに書いた手書きの原稿なども含まれます。学生時代のノートも数冊は残っています。こうしたものが「自分の宝」であることは疑いありません。しかし、「自分だけ」のものに過ぎないわけです。その処分を、あとに残された者たちに頼めば迷惑になります。
大学卒業のころ:家計メモ1  2014/05/11 Sun 4166
 私が大学の学部を卒業したのは1971年、昭和46年3月である。入学した年の後半から全国の大学で学園紛争の嵐が吹きすさんだ。しかし、それも1970年に日米安全保障条約の改訂が終わり、その勢いは治まりつつあった。ちょうど10年前に起きた1960年安保改定に対する大闘争の再現を企図した組織もあったが、時代は明らかに変わっていた。この1970年には大阪で万博が開催され、国民の目はお祭りの方に向かった。わが国が経済的に豊かになり、政治的なものへの関心は明らかに薄れていた。給料は順調に上がっていくし、土地も買っておけば必ず値上がりする。とにかく経済は「右肩上がり」で、「一億総中流」と言われた。国民の多くが「自分たちは中流だ」と思っていたという時代である。そして、1970年には未来学者のハーマン・カーンはその著書「超大国日本の挑戦」で、「21世紀は日本の世紀」と予測した。さらに1979年にはハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授が〝JAPAN As No1〟を出版している。いまの学生たちにこうした話をしてもほとんど信じてもらえない。
 ともあれ、そうした状況の中で私は大学を卒業した。ただし、学園紛争の火はくすぶっていて、大学としての卒業式は行われなかった。私も学部の事務室に出かけていって卒業証書をもらった。それから私は大学院に進学した。ありがたいことに毎月17,000円の奨学金をもらうことができた。大学4年生のときに、卒業する先輩から福岡市内の中学校で警備のアルバイトを譲り受けた。それが月に7,000円になった。私のようなひ弱な人間が警備をするなど信じられないようだが、勤務は土曜日の午後と日曜日の昼間だけだった。本格的な夜警は福岡大学の剣道部に所属する学生たちが受け持っていた。
 
今月の写真  2014/05/10 Sat 4165
 今月の写真は「阿蘇神社」と「恐竜展」です。阿蘇神社は文字通り阿蘇にあるのですが、参道がとても珍しいのだそうです。それは「横参道」というもので、拝殿に向かっていないのです。観光案内によれば、参道の南に阿蘇火口があり、北方に国造神社が位置しているということです。ともあれ、駐車場に車を止めると目の前に写真の門に出くわすのです。この神社の「火振り神事」はニュースでも取り上げられます。三月に神様の結婚式がおこなわれるそうで、姫神は神社と15km離れた吉松宮から迎えられるのです。夕方には姫神が阿蘇神社に到着します。そこで、人々が参道で火をつけたたいまつを振ってお迎えするというわけです。この日は天気がよくて、空が真っ青でした。いかにも初夏らしく、緑と青が大きな門をさらに美しくしていました。
 さて、もう1枚は「恐竜展」です。この日は「孫サービス」の日でした。何分にも「実物大14体」が売りでして、ドデカイ恐竜たちが叫びながら動いていました。そのうち、写真は「ティラノザウルス」だったと思います。2頭が頭突きをしているのもあって、なかなかの迫力でした。そのとき2歳の孫が大きな口を開けて「ギャアオ」とばかり、精一杯にマネをしていました。それからしばらくは周りが「恐竜」と声をかけると、反射的に大きな口を開けていたということです。それにしても、お兄ちゃんたちがいると、ほとんど怖い物知らず状態です。心理学でも「遺伝と環境」の影響は大きなトピックです。そして、遺伝体質としてまったく同一体とされる一卵性双生児でも環境が異なると行動も違ってくることが明らかにされています。そうした例を挙げるまでもなく、出生順それ自体がきわめて大きな環境の違いだと実感しています。
 
Management 力の〝P〟  2014/05/09 Fri 4164
 
さて、リーダーシップのネタが途中のままでした。「PM論」の「P:目標達成行動」を「Professional」「Planning」、そして「Pressure」の側面があることをお伝えしたところまでいっていました。私としては、リーダーが備えるべき「Management力」についても、同じように「Pづくし」はどうだろうかと考えたわけです。それは、「空間軸」と「時間軸」に関わるものです。
 組織のリーダーには、「自分の所属組織や集団」だけでなく、「ほかの組織や集団」の状況、さらに「社会の現状」を正確に把握しながら、自分たちが取るべき適切な対応ができる「力」が求められます。自分たちは「自己完結型」でうまくいっていても、他の部署との連携が取れなければ全体のシステムは機能しません。そこで管理者としてはフォロワーよりも高い位置に立って「全体を見回す力」がいるのです。オーケストラの指揮者は指揮台から、すべての演奏者に目を配り、全体の状況を把握しながら、仕事を進めます。管理者の場合は、そのほかの組織や集団の動向、社会情勢にまで注意を向けるということです。これを「展望台から、けっこうな遠方まで含めて360度を見渡す」というイメージで「Perspective power」とするのはいかがでしょうか。つまりは「空間軸」です。
 つぎに「時間軸」ですが、こちらは「Prospect power」を採用したいと思います。こちらは「見通す力」というべきでしょうか。もちろん、先を見通すからには「過去(Past)を分析する力」も欠かせません。 まだ十分な整理をしていませんが、「Pづくし」でいけそうでしょう。これに「先に進む力」として「Progressive power」なんてのもありますし、個人的な魅力として「Personal power」だって考えられます。
 
共著者の条件  2014/05/08 Thu 4163
 
それにしても、論文を読んでなくても共著者になるというのは、自然科学系もすごい世界なんだなあと思う。その昔は指導した教員が著者の筆頭に来るのは、文系でも珍しいことではなかった。若い者はそうした仕事を通して育てられるということだったのだろう。これは学会だけの話ではない。ミケランジェロの大作品にしても、すぐれた弟子たちがいたからできあがったという。それでも作品が完成すれば、「ミケランジェロ作」となる。建築でも同じことではないか。いろんな建物が、「誰それが設計した」などといわれる。しかし、実際は多くの智恵が結集しているに違いない。それでも、指導したトップがいないと作品や建築はできないのだから、個人の冠がつくのは仕方がないということだろう。
 しかし、私たちの仕事については、「それでいいんかいな」とも思う。個人的には、論文作成にもっとも貢献した者が筆頭著者になるのが当然ではないか。そして、その論文を作成するために関わりのなかった人は、せいぜい「謝辞」で感謝の意を表すればいい。とくにすでに大きな仕事をした人なら、「これも私がやった研究だ」と大声で叫ぶ必要もないだろう。それよりも、「本当に仕事をした者」がしっかりアピールしたらいい。それでも、「あの優れた研究は〇〇さんの指導があったからできたんだよね」と、わかる人はわかってくれる。ここまで、かなり偉そうなことを言ってきたが、私自身としては、この線を曲がりなりにも保持した来たつもりである。もっとも自然科学では「分担」しないと研究が進まないようだ。今回の理化学研究所でも、「試料」を受けて確認した「だけ」の研究者もいるようだ。彼にとっては「試料」を信じるしかなかったのだ。皆さんも大変ですね。
 
そんな程度のもの?  2014/05/07 Wed 4162
 
人間を対象にした実験では、モノのように「完全に等質」など保証できるはずがない。そのために、心理学では実験の実施に際しては、統計的な工夫などをしてはいるが、私なんぞは胡散臭さが消えない。そもそも学生を使って大学の教室で行う実験のなかには「リアリティ」に欠けるものが多い。まあ、このあたりについては大いに議論したいところだが、ともあれ私としては自然科学に対して「健全な劣等感」を楽しんでいる。それは自然科学の「厳密さ」に対する尊敬の念の現れでもある。
 ところがである。わが国の自然科学をリードすると信じていた理化学研究所が、過去に発表された2万本の論文について、不正の有無を点検するという。そのなかには、「他の論文の引用元を明示しているかどうかも」も含まれているようだ。この一点だけでも私にとっては驚きである。そんなことすら怪しい可能性があるなどとは、にわかに信じられない。そのうえ、「画像の切り貼りに関しては科学誌の規定に従っている適切なやり方であれば問題視しない」らしい。ここで「適切なやり方」についての情報がないため、何とも評価のしようはない。ただ、STAP論文を問題だと指摘した委員長の論文にも類似のことがあったらしいから、この世界では「常識」になっている部分があったのだと推測される。それに、共著者の一人であるアメリカの研究者は、当の「論文を読んでいない」ともいう。これまた事実を確認したわけではないが、それも「この世界の常識」なんだろうか。私が自然科学に対して「健全な劣等感」を楽しんできたのは、あらゆる側面で、われわれの基準とは比較にならない厳密さを確保しているのだと思っていたからである。なあんだ、そんな程度のモノなのですか…。
 
理研騒動  2014/05/06 Tue 4161
 
理化学研究所の揺れが気になる。日本だけでなく、世界から頭脳を集めたすごい組織なんだと思っていた。そもそもはSTAP細胞なるものについての「大論文」がきっかけだった。それは間違いなく山中氏に続く快挙であり、その代表者が女性だったことも大いに注目された。マスコミもおばあちゃんの割烹着を身につけていることまでもちだして大騒ぎした。当の本人が「近所の方々にも迷惑をかけているからそっとしていてほしい」とコメントを出すほどだった。マスコミが殺到したのである。さもありなんと思った。しかし、しばらく経つと、それが一転して「怪しい」ものになってしまった。それどころか「不正」ということばまで飛び出してきた。そうなると、法律的にはどうか知らないが、素人には「犯罪行為があったのか」とまで連想させるから尋常じゃない。
 私も一応は研究者の端くれとしてこれまで仕事をしてきたが、今回の件については、相当に驚いている口である。人間の行動を対象にした研究領域でも、厳密な実験を試みる。ただし、私は「心理学は『哲学』を母とし、『自然科学』を父と勘違いした」とシラけたことを公言している。いわゆる実験とは、発表者以外の者が、世界のどこにいても完全に追試ができることが最も重要な条件である。そして、そのとおりの結果が得られることによって、最初に研究した者が評価される。その人にしかできないというのでは、実験としてはお話にならない。ところが人間を対象にした実験では、「完全な追試」などあり得ない。はじめて実験した当事者ですら、「同じ人間」で追試をしても、「それ以前」の影響を遮断できない。そうかといって「ほかの人間」にすれば、それは「ほかの人間」から得られた結果なのである。
 
自動車税とコンビニ  2014/05/05 Mon 4160
 
自動車税の納税通知書が届いた。熊本県から送られてきた封筒には、2頭の「くまモン」がにこやかに納税を誘っている。じつは裏側にも自動車保険の広告が載っていて、そこにもくまモンがいるから合計で3頭になる。さて、今年度は6月2日が納期限である。いつもは5月31日だが、今年は土曜日に当たるため2日遅れとなる。これだけでも全国の納付額に付く利子は相当に違うんだろうなあと思う。もっとも、いわゆる〝ゼロ金利〟が常識になったこの時代、それほどでもないかと否定したりもする。経済がいわゆる右肩上がりのころは、金利が8%近いときもあった。郵便局の定額預金で10年預けると、ほぼ倍になるという、いまでは浦島太郎だって腰を抜かすほどだった。これだと、定年後の退職金を安全な預金に預ければ、その利子がけっこうな額になった。そのおかげで、少なくとも蓄えが急激に減少していくことはなかった。
 ところで、封筒のくまモンの1頭は「納税はコンビニが便利です」と呼びかけている。納付書の裏側にも銀行や農協関連などの機関名が書かれているが、コンビニだけは10個以上の店名が太字書きである。家内に聞くと、コンビニは銀行などと違って待たないでいいことが多いという。たしかにコンビニでは、ちょっとでも人の列ができると、手が空いている店員が飛んできて「お待ちのお客様はこちらへどうぞ」と声をかける。もちろん「飛んでこない」ところもあるが、少なくとも客を待たせない教育をしていることがはっきりわかる。これでは銀行など、既存の金融機関が敬遠される。素人経済学者としては、コンビニの機能が明らかに変化してきたと見ている。そして、それは郊外にある超大型店を存亡の瀬戸際に追い込む力を十分に備えている。
リーダーシップの要素  2014/05/04 Sun 4159
 
私はといえば、お釈迦様の手のひらの上を飛び回っている孫悟空みたいな小さなスケールではありますがい、永いことお世話になったPM論という雲からは、少しばかり飛び出したつもりでリーダーシップの仕事をしています。とりあえず一人前の研究者として生きていくためには、やはり独自性を追求しなければなりません。そんなわけで、私がライフワークにしている「リーダーシップ・トレーニング」では、自分なりの考え方と、それをもとにして開発した手法を使っています。
 ところで「PM論」では、リーダーの行動を二つの次元にわけます。その一つは「目標達成」のためのもので、英語で「遂行・実行」を意味する「performance」を当てて、「P行動」と呼びます。もう一つは、「集団維持」に重点を置くことから、「維持・支持」という意味の「maintenance」を使います。この二つの頭文字を取って「PM論」になるわけです。そして、PにもMにもいくつかの要素が含まれているとされます。たとえば、「P」には、リーダーとしての「専門性」が欠かせません。なにせ「プロ」なのですから、この要素は「Professional power」とも言えるものです。また、リーダーは仕事について、しっかりと計画を立てることが期待されます。これを「Planning power」としましょう。こうした影響力に加えて、リーダーなら、必要なときには部下たちに「圧力」をかけることも避けられません。そこで、これを「Pressure power」と呼ぶことにします。おそらく多くの方に「なあるほど」と思っていただけるのではないでしょうか。しかもこの三つにはちょっとした「仕掛け」が組み込まれています。すでにお気づきかも知れませんが、いずれも頭文字が「P」なのです。
 
リーダーシップPM論  2014/05/03 Sat 4158
 
私の恩師である三隅二不二先生は「リーダーシップPM論」の提唱者として知られています。その研究は三隅先生をリーダーにして、多くの先生や先輩方が関わっていらっしゃいました。そして末席ながら、私もその研究に参加させていただきました。「PM論」は日本で生まれたリーダーシップ研究として、海外の専門書にもしばしば取りあげられています。私はいまから18年ほど前にオーストラリアに滞在していたことがあります。その際に、シドニーに来ていたペンシルバニア大学、Wharton SchoolののRobert House教授と話す機会がありました。House 教授は、組織の変革に際して求められるカリスマとしてのリーダーシップに関する研究で知られています。そのときHouse 教授は、「PM研究について知りたいことがある」ということで、私はデータの取りからを含めて、かなり細かいことまで聴かれました。つまりはPM論そのものは知っていて、さらに詳しい情報を得たいという雰囲気がありました。それも気がつけば20年近くも経過していますから、そこでお話した内容については記憶が飛んでいます。ただ、リーダーシップ研究の大物が、PM論に関心をもっていたことだけは間違いありません。
 こうしたなかで、わが国では組織やリーダーシップを取り上げた専門書では、いまでも基本的な理論としてけっこう引用されています。その意味で一世を風靡したリーダーシップ論だったのです。もちろん、理論は時代を超えて存在し続けるものですが、このごろはPM論をベースにした研究論文はあまり見られなくなりました。三隅先生ご自身は2002年に他界されました。それでも、看護系の研究でPM論を取り入れた論文が書かれたものを見かけることがあります。
 
〝専門力〟と〝Management力〟  2014/05/02 Fri 4157
 
そこで、「組織の管理者」を念頭に置きながら、リーダーシップの公式に〝Management力〟を取り入れることにしました。そうなると、新たな項が追加されて、「リーダーシップ力={(専門力×人間力)/フォロワーの人数」}+Management力」ということになるでしょうか。この「Management力」をこれまでの項の後ろに追加するのか、頭にもってくるかについては、少しばかり頭の整理が必要です。私としては、「リーダーシップ」の基本的な要素だけでなく、「組織の管理者」には「Management力」も求められるという観点から、「後ろ」に加える方がストーリーとしては自然だと考えました。
 ただし、「Management力」は、自分が影響を与える「フォロワーたち」だけでなく、「組織経営」を組み込んだ、より上位の概念と言いますか、要素ということになります。それだけ「重い」ものであるのなら、式の先頭に置くべきだという考え方もできます。まあ、この点は少し時間をかけて検討していくことにしましょう。ここでは、これまで式に含まれていた「専門性」とは異なる「Management力」がどんなものであるのかを考える必要があります。私としては、これまでの式で使ってきた「専門性」を「短期的な仕事を遂行するために求められる力」としておきたいと思います。ただし、ここで「短期」の期間を明確にしないと、曖昧模糊としていてまともな定義とは言えないと指摘されてしまうでしょう。まあしかし、そこははじまったばかりですから、とりあえずアバウトにしておきます。そのうえで、私は、「組織管理者」には、基本的に「空間」と「時間」にかかわる「力」が必要だと考えています。その一つは「状況を見渡す力」というべきものです。
 
Management力  2014/05/01 Thu 4156
 
さて、公式「リーダーシップ力=(専門力×人間力)/フォロワーの人数」は「リーダーシップ」の要素を単純化したもので、その適用範囲はかなり広くなっています。ある意味では「対人関係」のすべてに適用できる「オールマイティ」のカードです。すでに例として挙げたのですが、幼稚園児の会話でも「リーダーシップ現象」は起きているのです。さすがに、「幼稚園児の場合は『専門力』なんてないだろう」と疑問に思われるかもしれません。しかし、「■■ちゃんのお母さんはおやつをくれる」という情報をもっている子がその後の行動に決定的な影響を与えたわけです。そうした「適確な(?)情報をもっていたこと」は、そのときに求められる「専門力」と考えることができるでしょう。また、新入社員が一緒に仕事をする際にも「リーダーシップ」を発揮することが期待されており、そこでも公式を適用することができます。新入社員や幼稚園児のケースでは、公的な役割や地位が決まっていませんが、会話している他のメンバーが「フォロワー」ですから、その「人数」は重要な要素になるわけです。
 ただ、この式には「management」の部分が明示されていません。私は、たとえ数人の小さな職場であっても、それを組織として考えて「経営者」的な視点からリーダーシップを発揮することが重要だと指摘してきました。したがって、「management」の要素は公式の「専門力」に含まれていると考えることができます。しかし、相対的に大きな組織を視野に入れる場合には、「リーダーシップ力」を構成する要素として「management力」を独立させることが必要になるでしょう。たしかに、「management力」を「専門力」に入れてしまうと、その重要性が薄れてしまいます。