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 2014年2月号 No 130 4066-4093
欲求5段階説: 仕事の階層2  2014/02/28 Fri 4093
 〝JOB〟は〝仕事〟の部分というニュアンスがある。したがって、〝JOB〟ができれば、それに対する報酬は受けられる。ただし、自分がしていることが、全体の〝仕事〟の中でどのような位置づけにあるかとか、それがどのくらい重要なのかといったことはわからない。あるいは、それらを知らなくても、〝JOB〟を〝こなす〟ことはできる。しかし、これでは個々人の意欲や満足度は高まらないだろう。だから、〝JOB〟をこなしているだけでは、人としてはまずいのである。そこで、その上の階層が登場することになる。じつにわかりやすい考え方である。
 ところで〝仕事の3階層〟ということばを聞いたとき、すぐに連想するのが〝欲求の5段階〟説である。これもよく知られているが、アメリカのマズローが、人間の欲求を5つの階層に分類したものである。人間の欲求は基本的なものからはじまって、それがある程度満たされると、次の段階の欲求が顕在化するという発想である。私たちの体や心の中で生まれる欲求によって、それに対応する行動が引き起こされる。そうだとすれば、欲求は人間の行動を説明したり予測したりする際のキーワードということになる。この5つの欲求を説明するために、ピラミッド型の階層図が使われることが多い。〝ああ、それなら見たことがある〟という方も少なくないのではないか。その最下層にあるのが〝生理的欲求〟だ。われわれは、この世に生を受けて生きていく。そして確実に生きるためには、それに必要なエネルギーを手にしなければならない。それを実現する行動が〝食べること〟である。人間は〝パンのみにて生くる者に非ず〟とは言っても、食べることができなければ生きてはいけない。そして、それよりも先に〝呼吸〟という、一瞬たりとも欠くことのできない〝行動〟行動がある。これは意識的な行動というよりも、生得的で無意識に近いものではある。
 
JOB: 仕事の階層1  2014/02/27 Thu 4092
 〝 仕事の3階層〟という考え方がある。それは、最下層が〝JOB〟で、その上に〝CAREER〟が乗っかって、さらに一番上の層に〝CALLING〟が来る。つまりは、「JOB(ジョブ)」→「CAREER(キャリア)」→「CALLING(コーリング)」と昇っていくのである。その原典は〝Wrzesniewski, A., McCauley, C. R., Rozin, P., & Schwartz, B. (1997). Jobs, careers, and callings: People’s relations to their work. Journal of Research in Personality, 31, 21-33.〟である。
 まずは〝JOB〟だが、これは英和辞典では〝仕事、作業;賃[手間]仕事〟と訳されている(電子版ジーニアス英和辞典)。さらにアメリカ版の辞書(dictionary.com)で引くと、最初に〝a piece of work, especially a specific task done as part of the routine of one's occupation or for an agreed price〟と説明されている。まずは賃金をもらってするものなのである。さらに、〝仕事〟の特定の部分を指していることもわかる。そのことは、例文として〝She gave him the job of mowing the lawn.〟が挙げられていることで、さらにはっきりする。〝芝刈り〟がJOBなのである。
 わが国でも〝On the Job Training=OJT〟ということばは昔からよく知られ、使われている。一般的には、職場で上役や先輩が実際の仕事を通じて教育や訓練をしていくことを意味している。これに対して、職場から離れて行う場合は〝Off JT〟という。こちらは〝職場外研修〟ということである。〝職務分析〟という用語もあって、英語では〝Job analysis〟である。これも〝特定のJob〟を行うために求められる責務やスキル、得られる結果、さらには環境についての情報を収集し、分析していく過程を意味している(About.com Human Resources)。この場合も、〝JOB〟は〝仕事:work〟よりも限定的なニュアンスがある。
沖縄県の子どもたち: グリーンランド物語9  2014/02/26 Wed 4091
 じつは、〝三井グリーンランド物語〟は、沖縄・宮古・石垣島とつながっているのである。こんなことを言い出すと、〝何のこっちゃあ〟と疑問に思われるだろう。本コラムでも紹介したが、私は昨年11月に、養護教諭の先生方のお招きで、沖縄から石垣島、そして宮古島へ出かけた。そのとき、〝三井グリーンランド〟が話題になったのである。沖縄の子どもたちにとって、〝三井グリーンランド〟は最も人気のある施設だというのである。修学旅行では長崎や太宰府にも行く。この二ヶ所については、〝そうだろうなあ〟と納得がいく。しかし、それ以上に、子どもたちは〝三井グリーンランド〟を楽しみにしているということだった。その理由は簡単で、〝絶叫マシーン〟がお目当てなのである。日本各地にこの手のものはあると思うが、沖縄の子どもたちには、修学旅行の行き先にある九州の施設が唯一というわけだ。
 この際、〝被爆地である長崎や歴史の太宰府よりも『絶叫マシーン』の方が人気があるというのは問題だ〟などと嘆いてはいけない。いずれも子どもたちにとって〝大事な体験〟にすればいいのである。石垣島の場合は、修学旅行で台湾に出かけるケースもあるらしい。何と言ってもほんのちょっとしか離れていないのである。それにしても、この話は私に軽い驚きを引き起こした。正直なところ、〝三井グリーンランド〟には、40年ほど前の調査のときにしか行ったことがない。しかも、同じ熊本県に住んでいながら、子どもたちを連れて行ったこともない。さらに言えば、全国のアミューズメント施設があっちこっちで苦戦しているなかで、〝三井グリーンランド〟も同じイメージを持っていた。もちろん実情は知らないが、沖縄の子どもたちのためにもがんばって!
夜陰の轟音: グリーンランド物語8  2014/02/25 Tue 4090
 〝いびき〟に〝はぎしり〟、そして〝寝言〟体験について書いたが、私が〝三井グリーンランド〟に出かけたときは、さらに強烈な思い出がくっついている。それは、調査に出かけた3人が床を並べて寝ていたときである。突如として夜陰の中を猛烈な音が響き渡った。それは、地震と間違ったと言えば過剰な表現になる。しかし、部屋が揺れたと感じてもおかしくないほどの轟音だったのである。その音を文章で伝えることは不可能に近い。したがって無理に表現することはあきらめて、何が起きたかをストレートに申し上げよう。それは風圧を感じるほどの〝おなら〟だった。そのときの驚きは、これまた私の文章力を超えている。ただはっきりしているのは、発信源でないもう一人の先輩が〝うぉーおーっ〟と、ほとんど人間のものとは思えないような声をあげたことである。そのとき、当のご本人が起きていて、意識的にその行動をとったのか、それとも完璧に睡眠中だったのか、もうその記憶はない。ただ、あれが意識していなかったとすれば、人間は知らないうちに信じがたいことができるのだと感心するとともに、恐ろしくもなる。
 それにしても、われわれの記憶とは不思議なものだ。この物語をスタートしたときには、〝おなら〟のことなど、頭の隅っこにもなかった。それが〝三井グリーンランド〟について書いているうちに、鮮明に蘇ってきたのである。しかも、その音まで聞こえてくるような気がするのだから、すごいと思う。もちろん、40年以上も昔のことである。その音質まで正確に覚えているはずがない。しかし、人はそうした〝記憶〟をベースにしながら生きていくのだ。ところで、そもそも〝三井グリーンランド〟をシリーズにした本当のわけをまだお話していない。
 
はぎしりと寝言: グリーンランド物語7  2014/02/24 Mon 4089
 やはり若いころ、同じ部屋に泊まった方との体験に〝はぎしり〟がある。これがかなり厳しい方がいらっしゃって、〝ガリガリ、ゴリゴリ〟と、激しい音が暗闇に響き渡るのである。とにかく寝ていても目が覚めざるを得ないすさまじさだった。また、寝言についても面白い思い出がある。もちろん、いびきやはぎしり、さらに寝言だって、人様のことをあげつらっていても、自分のことはわからない。そこは〝わからない〟からいいので、それを気にしすぎていれば眠れなくなるだろう。私も、当然のことながら、寝言を言っていたと指摘されたことはある。ただ、私が聞いたある方の寝言は普通のそれとは少しばかり違っていた。それは英語だったからである。
 人間というものは、こうしたことを人に言いたがる。それが当初は事実であっても、人を経由していくうちに、まさに尾ひれが付いてしっかり〝秘密の真相〟となる。私もそうした噂の持ち主と一緒に泊まったのだが、それは本当だった。とにかく、かなり激しい調子の英語で、何となくトラブル状況にあるような雰囲気だった。もちろんその瞬間は私も寝ていたのだから、まずは第一声で目を覚ましたわけだ。したがって、その〝一言〟で終わっていれば、その言語まで確認はできない。ところが〝幸運〟にも、かなりのボリュームに気がついたすぐ後に、聞き違うことが不可能だと確信できるほどの〝English〟が耳に飛び込んできたのである。私が〝うわーあっ、これが噂の英語版寝言かあ〟と闇夜の中で感動したことは言うまでもない。人の記憶というものはすばらしく、また不思議でもある。私は今これを書きながら、それが大阪の宿泊施設での〝事件〟だったことを鮮烈に思い出した。もう40年ほども昔のことなのに…。
 
宿泊の悲喜劇: グリーンランド物語6  2014/02/23 Sun 4088
 〝三井グリーンランド〟に〝職場の調査〟を実施するために出かけて、生涯を通じて1度だけの〝ゴルフ体験〟をした。そのとき私がクラブを保持していた時間は、おそらく5分に満たない。今では、〝忍者みたいな握り方だったなあ〟という記憶だけがある。さて、この調査は少なくとも2日間を要したはずである。なぜなら、〝グリーンランド〟内だったか、外だったかは憶えていないが、宿泊したことだけは明確に記憶しているからである。しっかり憶えている理由が特別なのだ。すでに述べたように、このとき調査に出かけたのは、集団力学研究所に出向されていた方と大学院時代からの先輩、そして私の3人だった。この3人が畳の部屋に布団を並べて寝たのである。
 今では学生たちですらワンルームマンションだし、われわれがグループで宿泊するといっても、基本的にはホテルの個室である。しかし、その当時は2人や3人が枕を並べて一緒の部屋に泊まるのは当たり前のことだった。それがもたらす悲喜劇はあった。最も悩ましいのはいびきである。とくに夕食が宴会を兼ねているような場合は、しっかりアルコールが入っている。それがのどのあたりの筋肉を弛緩させて、轟音発生の原因となる。お互いに自分のいびきは聞こえないことになっているから、被害は一方的になりがちである。こんなときは〝先に寝たモン勝ち〟ということになる。私の神経がどのくらい太いのか、はたまた細いのかは知らない。しかし、少なくとも人生の中で1回だけは、そのすさまじさに毛布を持って部屋を出たことがあった。ある会社の保養所で研修をしていたのだが、このときはみんなが集まる談話室に緊急避難した。おかげでそこでは眠れたが、1階の部屋まで、2階のあの音と振動が伝わってきた。
 
ゴルフと無縁の人生: グリーンランド物語5  2014/02/22 Sat 4087
〝三井グリーンランド〟での打ちっ放し体験(?)が私とゴルフのつきあいを決めた。まずは結論から言うと、私はそれ以来、ゴルフのクラブを手に持ったことがない。もちろん本物のゴルフ場には入り口にすら入ったことがないのである。つまりはゴルフとは完璧に無縁の生涯を送ってきたことになる。これを聞いて、団塊世代前後の人の中には信じられないと言う人がいる。組織人にとってゴルフは仕事のひとつだと考えられていた時代もあるようだ。駅やバス停など、何かを待っている状況にあると素振りをする。たしかに、そんな光景をあちこちで見ることも多かった。私としては、〝あれでどのくらい上手なんだろう〟などと、少しばかり意地悪な目で見ていたかもしれない。そもそもフォームからうまい下手などわかるはずもなかった。
 そんなことだから、若いころもボーリングの放送を見ることはあったが、ゴルフについては完璧に見ていない。ジャンボ尾崎という選手がいたり、そうそう青木という名前の選手もすごいらしいことを知っていたくらいだった。ところで、ボーリングの中継だが、それは週3、4回は放映されるほどの人気番組だった。ただし、そのほとんどが女子選手のもので、より正確には〝ほとんど〟ではなく、〝すべて〟そうだったと思う。ともあれ、そんなゴルフとの付き合いだから、〝18ホール〟とか〝ハンディ〟などがどんな意味なのかを知ったのは、いつだったか記憶にないが、相当に時間が経過してからである。ただ、こうしたゴルフとの関係は、われわれの業界では、それほど珍しいことだという実感はない。そもそも私の身の回りにいる同業者でゴルフの話をする者は皆無である。つまりは〝人とのお付き合いなし〟でできる仕事というわけだ。
ゴルフ体験: グリーンランド物語4  2014/02/21 Fri 4086
〝三井グリーンランド〟からの依頼に応えて〝職場の健康度調査〟に出かけた。福岡からだと西鉄電車で終点の大牟田まで行く。その後はタクシーだったのだろうと思う。このときの調査は徹底していて、事務棟で働いている人たちだけでなく、たとえばゴルフのキャディさんたちにも回答してもらった。どの程度のゴルフ場だったかはもう記憶にない。そこで、きっと青空だったに違いないが、ゴルフ場に近接する屋外で調査をした。それが終わってから、おそらく〝打ちっ放し〟といわれる施設だと思うが、〝ちょっと打ってみませんか〟ということになった。私の先輩を含めて3人が調査に出かけていたが、〝お言葉に甘えて〟打ちっ放しでトライすることになった。
 まずは集団力学研究所に出向されていた先輩がスタートを切ったはずだ。なぜなら、この方はちゃんとした組織人で、ゴルフの経験をお持ちだったからである。おそらく、ボールはそれなりに飛んでいったと思う。次は大学時代からの先輩である。その当時、研究所の所員をされていたかもしれない。彼がどのくらいの成果を上げたのかは、記憶の彼方に飛んでいっている。そしていよいよ私の番が来た。それまで私はゴルフクラブというものを握ったことがなかった。なんだか知らないが、まるで忍者が〝チチンプイプイ〟と念力を引き出すときのような手の組み合わせ方を教えてもらった。じつにぎこちない。その指導の甲斐があって、どうだろうか、空振りもしながら、最高で10mも飛んだだろうか。つまりは、単なる〝笑いの対象〟になっただけのことである。私としては、それで〝恥をかいた〟と不快になった記憶はまったくない。ただ、そのときにゴルフなるもののおもしろさをまったく感じなかったのである。
 
私の接点: グリーンランド物語3  2014/02/20 Thu 4085
 三池炭鉱から筑豊まで飛んでいき、ついには〝ラドン〟が飛び出した。さらには〝ゴジラ〟が登場するかと思うと、挙げ句の果てに〝キングコング〟まで顔を出す…。いつの間にか、基本タイトルの〝グリーンランド物語〟が吹っ飛んでしまった。まあ、いつものことではあるが、ここで本題に立ち帰ることにしよう。さて、〝グリーンランド〟だが、私とは1回だけ接点があった。それは私が大学院の学生だったころだから、1970年代はじめのことである。もう40年以上も昔だ。きっかけは知らないが、、私が出入りしていた集団力学研究所に、当時の〝三井グリーンランド〟から〝職場の健康度調査〟の依頼があった。これは働く人たちの意欲や満足度と、その上司のリーダーシップを測るために開発された調査である。
 私の恩師である三隅二不二先生を筆頭に創り上げられたもので、〝PMサーベイ〟とも呼んでいた。ご存じの方もいらっしゃると思うが、三隅先生は〝リーダーシップPM論〟で知られた、グループ・ダイナミックス研究の大御所だった。〝PM論〟を簡単に解説すると、リーダーには〝仕事の目標を達成するために部下たちに働きかける〟ことが求められる。これを〝達成〟の英語である〝Performance〟の頭文字をとって〝P行動〟とする。それと併せてリーダーには集団をうまくまとめて維持していく働きも欠かせない。〝維持〟の英語は〝Maintenance〟だから、こちらは〝M行動〟としようというわけだ。そして、この二つの行動が相まってこそ、部下たちの意欲も高まるし、結果として事故の発生も防ぐことができる。これが〝PM論〟のもっとも基本的な主張である。そのために、働く人たちの意欲や満足と上司のリーダーシップを測ろうというわけである。
ヒーロー対決: グリーンランド物語2  2014/02/19 Wed 4084
〝怪鳥ラドン〟は日本怪獣映画の傑作である。もちろん、ダントツのヒーローが〝ゴジラ〟であることは議論の余地がない。しかし、〝ゴジラ〟は途中から〝善怪獣〟になったし、なんと手で丸をつくり足を上げて〝シェー〟までやっでしまった。お若い方には何のことかわからないだろうが、赤塚不二夫のマンガ「おそ松くん」に登場するイヤミがこのポーズをとって一世を風靡したのである。それは〝びっくり仰天した〟ときのリアクションである。これをイヤミがする分には問題はないが、〝ゴジラ〟がやっちゃあ、それこそ嫌みになる、シラケてしまう。私が中学生のころ〝ゴジラ〟は〝キングコング〟とも対決した。〝キングコング〟はまさに怪獣映画の元祖であり、文字通り〝キング〟だった。だから、この二大怪獣が対決するのは圧巻だった。子ども心ながら〝どっちが勝つのか〟とワクワクするよりも心配になった。わが日本としては〝ゴジラ〟の方が強くあってほしい。しかし、それだと〝キングコング〟生誕の国のアメリカ人が不愉快になるかもしれない。そうかと言って、〝ゴジラ〟が負けるなんて面白くも何ともない。こんな具合で日米間の葛藤まで心配していたのである。その結末は、中学生にも〝なあるほど〟ということになった。そんなわけで両国間に溝ができずに終わったのである。その最後のシーンは半世紀を経たいまでも〝鮮烈〟に憶えている。もちろん前期高齢者であるから、〝鮮烈〟の度合いは保証しない。これからビデオを借りてみるかという気持ちになる方がいらっしゃるとまずいので、そこを詳しくお伝えすることは差し控えておこう。〝えっ、記憶に自信がないからだろう〟ですって?とんでもない。あの強烈なシーンを誰が忘れるものですか!
 
〝月があ、出た出た〟: グリーンランド物語1  2014/02/18 Tue 4083
 〝グリーンランド〟は熊本県荒尾市にある遊園地である。私たちの年配者には〝三井グリーンランド〟と呼んだ方がわかりやすいだろうか。その名前から察しが付くのだが、もともとは三井三池炭鉱で知られた三井鉱山の子会社が運営していた。〝月があ、出た出たあ、月があ出た、よいよい。三池炭鉱の上にい出たあー。あんまりい、煙突うが高いいので、さーぞやお月さん煙たかろう、サノよいよい〟。この歌もわれわれ世代の者であればみんな知っている。ところがこの炭坑節の元祖は三井三池ではなく、福岡県の筑豊、田川の炭鉱で歌われはじめたという。月が煙たがる煙突も三井田川炭鉱にあった2本の煙突だと言われているそうだ。
 じつは、この筑豊にあった炭鉱の奥底で〝怪鳥ラドン〟が生まれた。正しくは阿蘇との説もあるが私としては筑豊だったと確信している。そもそも阿蘇には炭鉱がない。ラドンは体長50m、翼の幅は120mにも達し、その重量は15,000トンである。もちろんスピードも快速でマッハを超える。とうとう今年でリタイアするというジェット機ボーイング747ジャンボの場合、後発の747-8の全長が76.4m、翼幅68.5m、最大離陸重量は440トンである。速度は0.855マッハだから音速には達しない。体長こそジャンボに譲るものの、その巨大さとスピードは想像を絶する。これが西海橋を破壊し、福岡市では天神のビルをなぎ倒し、西鉄電車をまるでおもちゃのように吹き飛ばすのである。その光景は息を飲む余裕すらないすさまじさで、今も私の脳裏から消えることがない。そもそもラドンがエサにしていたトンボの幼虫のヤゴに似た生き物ですら体長が2mを超えるのである。このメガヌロンが人を襲い、無残な姿に変わり果てた犠牲者が発見された。
 
〝Melitta〟と〝Kalita〟: コーヒー物語11  2014/02/17 Mon 4082
 いつの間にか〝コーヒードロップ派〟になって、しばらく様々な会社が出しているものを買っていました。そのうち、〝これなら本物でドリップすればいい〟と思うようになり、〝あの婿入り道具の〝陶器製ドリッパー〟を思い出したのです。もちろんちゃんと保管してありました。まったくの無傷です。かくして、長あーい遍歴の後、私はクラッシックな〝ドリッパー〟に復帰したというわけです。つまりは〝はじめて本物のコーヒー〟を飲ませていただいた、池田数好先生の演習にまで戻ったのです。あれは1960年代の終わりから70年代にかけてのことです。もう40年以上の大昔になりました。今のところ、またコーヒーメーカーなどに逆戻りすることはあり得ないと思っています。ところで、白い陶器のドリッパーですから意識していなかったのですが、浮き彫り風に〝Melitta〟と書いてありました。私は〝Kalita〟だと信じていたものですから、家内にも〝うわわわーっ、これってKalitaの類似品だあ〟なんて叫んでしまいました。そこで〝Melitta〟って何者じゃとネットで検索して、今度は自分の無知にあきれてしまいました。なんと〝元祖〟は〝Melitta〟の方ではありませんか。こちらは、ドイツのドレスデンに住んでいた主婦のMelitta Bentzさんが、1908年に濾紙を使ってコーヒーを抽出するノウハウを発明したのでした。これに対して〝Klita〟さんは、1958年に東京の日本橋で創業したということです。何と私は20代の前半に〝元祖Melitta〟を選んでいたのでした。それは池田先生からお聴きしたのかもしれませんが、もう奥深い記憶の森の話です。両者は抽出口の数が違って、〝Melitta〟は1つ、〝Kalita〟は3つということです。味も違うらしいですよ。
 
コロンブスの〝ドリップ〟: コーヒー物語10  2014/02/16 Sun 4081
 昨日は〝記憶〟の話題に終始して、タイトルのコーヒーが一文字も出ませんでした。いつもの悪い癖です。じつは、〝紅茶派〟になったかに見えた私がコーヒー党に戻ってしまったのがいつのことだろうかと考えたのです。その結果、〝よく憶えていないなあ〟ということになって、記憶というものの曖昧さ、いい加減さについて思うことを書いてしまったのでした。そういうことで、〝いつからか憶えていない〟のですが、私はコーヒーを飲むことが多くなりました。そして、これまた記憶が怪しいのですが、気がついたら仕事場の事務室にコーヒーメーカーが置かれていたのです。みんなでお金を出して買ったと思うのですが、最初のきっかけや時期は憶えていません。ともあれ、それからは、ちょっと休憩といったタイミングでコーヒーを楽しむようになりました。
 これとは別に出張でホテルに泊まると、少しレベルの高いところにドリップ式のコーヒーを置くところが出はじめました。もう相当に昔だった記憶がありますです。はじめてこれを見たとき、何とすばらしいアイディアだろうと思いました。まさにドリップ方式をそのまま1パックにしたわけですから、味も本格的です。いわゆるコロンブスの卵というのでしょうか、できあがってしまえば、〝もっと早くからあってもよかった〟と思いますよね。その後は、いろんな会社がこの〝ドリップパック〟を出して、いまではにぎやかなものです。じつは、わが家でもコーヒーメーカーを使っていたのですが、これは場所を取るんです。これに対してドリップ式は単に包装しているだけなのでスペースがいらない。しかもコンセントに繋げる必要もありません。そんなことで、私はあっという間に〝ドリップパック派〟になったのです。
 
記憶と〝主観性〟: コーヒー物語9  2014/02/15 Sat 4080
 記憶というものは相当にいい加減なところがあります。もちろん、〝前期高齢者のあんたがそうなんだろう〟と言われれば二の句が継げません。ただ、それは私の記憶だけの個人的な特性ではなく、けっこう一般的なのです。日本語に〝客観的〟ということばがあります。お客さんには、つまりは他人の立場からはどう見えるかということです。これに対して〝主観的〟は、〝主である自分の立場から見たもの〟ですね。まあ、〝主観〟は〝自己中心的〟な視点ですから、どうしても〝自分の都合〟に合わせて、ものごとを見てしまいがちです。その点、とくに利害関係を持たない他人は、当事者とは違った評価ができるというものです。しかし、その他人もまた〝自分の歴史〟を抱えています。そもそもそれまで生きてきた体験が違いますから、好みも価値観も違わない方がおかしいのです。つまりは、そこでも〝主観〟が働くことになります。そんなわけで、いつものようにシラけた結論になるのですが、私としては人間世界に真の〝客観性〟はないと言ってしまうわけです。
 これが自然界だと〝客観性〟が保証されていると思いがちです。この世で1mのものは誰が図っても1mだというわけです。しかし、事実はそう単純ではないようです。というのも、あの〝相対性理論〟が頭に浮かぶからです。もちろん、私は理論についてまったく理解していませんから、想像することしかできませんが、とにかく宇宙の出来事は〝相対的〟だと言うんでしょ。つまりは測定する立場によって、モノの長さも、時間ですら相対的だと言っているのではないですか。そして、唯一〝絶対〟なのが、光の速さだそうです。しかも、〝どうして光速だけが絶対なのか〟は論理的に説明できないんですって!
一転、〝紅茶党〟: コーヒー物語8  2014/02/14 Fri 4079
 それからしばらくして、今度は〝紅茶通〟になりました。センターの事務補佐員として採用された新谷さんが、完璧な〝紅茶派〟だったのです。子どものころから〝日東紅茶〟しか知らず、その後に〝Lipton〟という横文字の紅茶が出てきました。何と言いましょうか、横文字好きだったんでしょうね、紅茶と言えば〝Lipton〟なんて思っていました。ただし、それを進んで楽しむほどのことではなかったのです。そうしたところに新谷さんが登場したわけです。まあ、一言でお茶と言いますが、香りと味は千差万別なんですね。それが〝口の中に広がる〟、多分そんな気がして、あっという間に〝紅茶通〟になったのです。
 そうこうするうちに、1996年でしたが、私はオーストラリアに6ヶ月ほど出かけることになったのです。いかにも絶好のタイミングでした。オーストラリアはイギリス連邦の重要なメンバーです。大学でも、ちょっとした休憩時間は文字通り〝ティー・タイム〟になるのでした。もう正確な時間は忘れてしまいましたが、10時くらいになるとメールが届きます。〝誰それがケーキを持ってきたのでお茶はどうか〟といった具合です。ケーキがクッキーになったり、食べるものはなくても、〝誰それが来たから〟と、理由は無尽蔵にありました。そんなわけで、私はすっかり〝紅茶党〟になったのでした。それからまた時間が経過して、新谷さんはご結婚を機に退職されました。お相手は矢守克也さんで、私も学生時代から存じ上げている方です。現在は京都大学防災研究所・巨大災害研究センターの教授として、とにかく〝八面六臂〟の大活躍をされています。お二人と私の関係を書き始めると〝大河小説〟になりますので、この程度の情報でおしまいにしておきます。
 
コーヒーの習慣: コーヒー物語7  2014/02/13 Thu 4078
 大学のゼミではじめて〝本物のコーヒー〟を味わっても、自分で楽しむなんてことはとんとありませんでした。〝大人〟になると、人と会ったり会議の場などで、頻繁にコーヒーが出てくるようになります。つまりは日常的にコーヒーを口にするようになったわけです。会議のときに自分だけオレンジジュースというわけにも参りませんよね。それでも〝コーヒーはおいしい〟といった思いはありませんでした。ただし、そうは言いながら池田先生の真似をして、陶器製のドリッパーを手に入れ、コーヒーを買って飲んだりもしました。それでも〝味わう〟ところまでには至っていなかったわけです。
 そうこうするうちに、私も結婚することになります。今でも記憶にあるのですが、若い夫婦ですから、朝からコーヒーなんぞを楽しみたいと思ったのですね。そのころ私たちは福岡市東区の香椎に住んでいました。買い物に出かける途中にコーヒーを売る新しいお店ができたのです。そこで挽き立てのコーヒーを買って帰り、自宅で楽しむという習慣ができあがりました。まだお兄さんと言っていいくらいの若い店主でしたが、彼がコーヒーのおいしい入れ方を教えてくれたのでした。そこで私の婿入り道具であるドリッパーが大活躍することになりました。しかし、それもまたいつの間にか、私たちの習慣リストからは消えていきました。子どもが生まれたりして、ドリップでお湯を注いだりするのが危ないとか、朝食時にそんな時間がなくなったとか、まあ理由はいろいろあったと思います。ただし、そのあたりについては、はっきりとした記憶はありません。それからしばらくはインスタント族になったのでした。そして、外出先でコーヒーが出てもミルクや砂糖を入れたりして飲んでいました。
ゼミのコーヒー: コーヒー物語6  2014/02/12 Wed 4077 Continued from 1/31
 もう〝コーヒー物語〟なんぞ、書いていたことすら忘れていました。先月の31日で止まったままです。はじめて〝本物のコーヒー〟を飲んだのは、大学のゼミで先生が淹れてくださったときでした。カウンセリングの池田数好先生です。その当時は学園紛争の嵐が吹いていて、その〝闘士〟が〝学生を懐柔するためにコーヒーを飲ませている教授がいる〟なんて叫んでいました。そのとき私は何とも貧しい心の持ち主だろうと思いました。人のすることを何でもかんでも〝攻撃のネタ〟にする。そんな人だなあと感じたわけです。池田先生はきわめて厳格な人格者で、紛争中に九大の学長にもなられました。
 その一方で、〝口撃〟をしていた彼の人は財閥系の銀行に就職していきました。それを聞いた私の口が開いたまま塞がらなかったことは言うまでもありません。その人たちの〝理論〟で言えば、財閥系の銀行なんて、帝国主義の旗頭、資本主義の権化だったはずでした。そんな組織には命を捨ててでも関わらない。それが彼等の信念だと思っていたのですが、いとも簡単に就職されていきました。まあ、理屈はあったようです。そうした〝敵陣〟に浸入して内部から組織の転覆を謀ろうというわけです。しかし、あれから45年は経過しているのですが、彼が就職した銀行が転覆したという話は聞かずじまいでいます。それに、私よりもお年でしたから、もう67歳くらいにはなられます。とうの昔に定年でお辞めになっていることでしょう。それとも、さらにトップへと上り詰めて、〝転覆するのはこれからじゃあ〟と叫んでいらっしゃるのでしょうかね。もう私にはどうでもいいことですが、とにかく人の気持ちを悪くしか捉えることのできない方はお可哀想だと思っていたということです。
 
二つの老化: 34年と6ヶ月6  2014/02/11 Tue 4076
 〝教育実践総合センター〟へと2回目の名称変更が行われた。そこで臨床心理系の専任教員が加わって、センター活動の幅が広がった。ところで、これまで名称変更と言ってきたが、そのたびに目的も変更され、スタッフも増えてきた。そんなことから、正しくはこれを改組と呼んでいる。つまりは組織そのものが変わったということである。もちろん建物はまったく同じものである。そんなことからセンターそのものが、1981年の竣工だから33年もの風雪に耐えてきたことになる。だから、あちこちで老化の兆候が現れている。その典型は玄関で、錆も目立つようになり、この対応のために間もなく新しいものに替えられる。屋上は素人だから上がったことはないが、雨漏りを引き起こすような場所が散見されるという。実際にその結果として応急措置をとったところもある。
 トイレについては長いこと和式だったが、しばらく前に洋式へとグレードアップされた。トイレの工事中は、当然のことながら使えない。そのために、隣接する附属中学校にお世話になった。数年前に附属中学校が耐震工事で改装する際は、センターのトイレをお使いいただいた。文字通りお隣組の助け合いを実感した。そう言えば、大きめの窓についても開け閉めがきついところもある。ただし、状態を見に来られてた業者の方のお話だと、しっかりしていて、窓枠そのものがゆがんだりはしていないとのことだった。センターの新築工事を入札で請け負った業者の社長が〝とにかく気持ちを込めてつくらせていただく〟と言っていたという話を現場に来ていた監督者の方からきいた。あれがもう33年も前のことなのである。かくして、建物とともに、私も負けずに老化を体験しながらセンターで仕事をしている…。
名称変更: 34年と6ヶ月5  2014/02/10 Mon 4075
 若い先生たちが〝情報教育〟をしっかり担う時代を迎えたとき、私としてもグループ・ダイナミックスの仕事に、さらに力を入れたいと考えはじめていたのである。そのあたりの細かい話は別の機会に譲るとして、私が所属するセンターは、さらに名称を変更することになる。それは新世紀を迎えた2001年(平成13年)のことである。それまでの正式名称は〝熊本大学教育学部附属教育実践研究指導センター〟という、2度や3度聞いたくらいではまったく憶えてもらえない、長ーい名前とお別れすることになった。今度は〝教育実践総合センター〟である。これはなかなかすばらしい名称だった。
 スタート時の〝工学〟は、コンピュータや教育機器を中心にした仕事をするものと思われがちだった。〝工学〟は機器と同義語ではない。いかにして効果的な教育を展開するか、そのためにあらゆる可能性を追求するのが〝教育工学〟である。したがって、そこには教師の対人関係力やリーダーシップも含まれるのである。しかし、とにかく〝工学〟という用語がかなり効いて、結果としては〝ハード〟寄りの期待に多く影響されたのである。
 それが〝教育実践研究指導センター〟になって変化した。この名称だと、少なくとも〝ハード優先〟のイメージは消えたのである。ただし、〝研究〟や〝指導〟も、センターの専任がするのか、みんなでするのか、何を誰に対して指導するのか、よくわからないといえばわからない。とにかく〝何でもする〟ように見えながら、〝研究と指導〟に限定されている感じもする。それが理由ではないが、名称は〝教育実践総合センター〟へと変わっていったのである。それにしても、〝総合センター〟だからこれまた幅が広いのだが、教員の定員がもう一人増えた。
エンディングはチェコ: 34年と6ヶ月4  2014/02/09 Sun 4074
 私としては〝『情報』から『グループ・ダイナミックス』への転換〟を図るチャンスが訪れたわけだった。しかし、その後も大学では〝視聴覚教育〟というタイトルで授業をしていた。これが時代とともに〝視聴覚メディア論〟と名称は変わるが、基本的には〝情報系〟の授業である。そして1993年には〝教育情報科学〟という講義を担当することになった。それから20年が経過したのである。そして、これが熊本大学の現職としてラストの授業になったわけだ。グループ・ダイナミックスが専門の私にとって、こうした領域での授業は二次的なものと思われるかも知れない。しかし、本人はまったくそんな気持ちではいないのである。それどころか、社会の情報とそれを受け止める人間の行動は、グループ・ダイナミックスの対象そのものなのだ。最後の授業では〝社会と情報〟に焦点を当てた。たとえば流言がどんな経路で伝わっていくか。これはまさにグループ・ダイナミックスの研究領域そのものである。もっとも、私自身は〝流言〟に関する研究そのものを手がけたことはない。その点では既存の研究を紹介するだけになる。それでは私のオリジナリティはなくなってしまう。そこで、こうした話を1968年に起きたチェコスロバキアに対するソ連軍の侵攻に繋げていった。国が情報を統制するとき、人は別のルートから情報を得ようとする。そうした状況と抑圧がもたらす深刻な状況を伝えるのである。この歴史的事件は私が大学2年生のときに起きた。その衝撃はいまでも記憶にある。そして、それから40年が経過した2007年、私はチェコのプラハに行った。いつものことではないが、今年の〝教育情報科学〟では、この話を最後に持ってきたい。そんな気持ちでいたのである。
 
イメージチェンジ: 34年と6ヶ月3  2014/02/08 Sat 4073
 わが〝教育工学センター〟はスタートから9年が経過した1988年(昭和63年)には〝教育実践研究指導センター〟と名称を変えた。これを大学の場合は改組という。もちろん名前だけでなく教員の数も増えた。それまで私一人だったのが2名になったのである。名称から〝工学〟がなくなり、〝実践〟が入ったことからもわかるように、とにかく生の教育に役立つ研究を展開していく役割が期待されることになった。私は〝工学〟と馴染みの深い〝視聴覚教育〟について関わりを持ち、教育におけるコンピュータ活用のための仕事をしていた。そんなこともあって、私のことを〝情報教育〟の専門家であると思っていた人も少なくなかった。
 しかし、この名称変更は私のイメージチェンジにもなった。そのころから教師のリーダーシップや対人関係の仕事が増えたからである。いや正確に言えば、その方面の仕事は自分の専門だから、様々な組織と関係を持ちながらずっと継続していたわけだ。ただし、地元の教育関係から仕事を頼まれるときは、ほとんどが〝視聴覚〟や〝コンピュータ〟に関するものだった。そうしたことから、私がリーダーシップなどの話をすると、〝先生はこの方面でのお仕事もされるんですねえ〟と驚かれたりもした。そんなときは、〝私はこちらの方が専門なんです。視聴覚系はモグリだと言うと怒られるでしょうか〟などと冗談交じりに答えたりしたものである。そもそも、そのころになるとPCも学校に普及しはじめていた。そうなると若手の先生たちを中心に、コンピュータなどをしっかり勉強して教育に生かすことが常識になりつつあった。もう私が出る幕ではなくなっていたのである。まさに潮時だと思って、それに関連した団体の代表も退かせてもらった。
 
フレッシュ・オープン: 34年と6ヶ月2  2014/02/07 Fri 4072
〝教育工学センター〟は学部での間借り生活が1年半ほど続いた。そして、1981年(昭和56年)に、教育学部から3kmほど離れた京町の附属小中学校キャンパスに新しい建物ができあがった。その2年後の1983年11月に、第34回放送教育全国大会が熊本で開催されることになっていた。これはNHKが中心になっており、教育工学センターの専任として私も準備委員会のメンバーだった。そして、おそらく委員会で、私がセンターの竣工式が行われる話をしたと思う。その甲斐があってか、フレッシュ・オープンの模様がローカルニュースで伝えられた。そのときのアナウンサーが二見さんだったことを瞬間に思い出すから、われながら記憶の不思議さ、すばらしさに驚いてしまう。
 それから30年が経過しているが、懐かしい顔に出会う機会があった。それは金沢に出かけたときのこと、ホテルでテレビのスイッチを入れると、ニュースに二見和夫アナウンサーの懐かしいお顔が登場したのである。もちろん、自分と同様にそれなりの年輪を重ねていらっしゃったが、あの低音の奥深いお声はそのままだった。そこでインターネットでチェックしてみると、私よりも一つ上の団塊世代だったから、すでに定年を迎えておられた。ただし、その後もシニアスタッフとして在籍中だとのこと。
 まあ、そんなわけで、わが〝教育工学センター〟は新たな施設であらためて出航したのである。そんなわけで、そのころはPCに加えて、目が飛び出るほど高価なビデオとその編集をするための機器も導入されていた。そして同じキャンパスにある附属小中学校の先生方とビデオ教材を開発するために夜遅くまで一緒に奮闘した。ビデオ教材が完成し、それを子どもたちに見せるときの喜びは格別だった。
 
ザ・ラスト: 34年と6ヶ月1  2014/02/06 Thu 4071
 今週の月曜日3時限目に熊本大学の現職として最後の授業をした。講義題目は〝教育情報科学〟である。私がこんな題目の授業をしていると聞けば、若いころから知っている友人たちは〝あんたがなんで『情報科学』なんかい〟と訝しがる。あるいは〝何でも軽薄に引き受ける奴だ〟とあきれたりもする。その経緯を話し出すとまた長くなる。とにかく〝Yesしか言わない人生 〟を送ってきたらそうなった。この授業では5名の社会人が受講されている。そのなかに一組のご夫婦がいらっしゃって、何と花束をいただいた。もちろん大いに恐縮したが、ありがたいことだと心から感謝した。
〝とにかく元気だけはありますので、これからしっかり勉強させていただきます〟。いまから34年と6ヶ月ほど前の1979年(昭和54年)10月10日(水)、私は教育学部の教授会でこんな挨拶をした。その年の4月に〝教育学部附属教育工学センター〟が設置され、その専任講師として採用されたのだった。まだセンターの建物はなく、大学本部がある黒髪キャンパスの教育学部3階に3部屋を間借りしてのスタートであった。この年にはNECのPC8000シリーズが登場した。センターはさっそくフルセットを購入したが、私はプログラム開発にのめり込んだ。その能力は現在のPCを新幹線にたとえれば自転車程度だったが、価格は80万円ほどもした。センターは新設で設備を充実する予算があったから買えたのである。とにかく夜遅くまでPC8001と格闘した。その一コマ一コマが思い出されて、いまでも軽い興奮を覚える。まだ31歳になったばかりで、コンピュータがうまく動かなくてもあきらめることなどなかった。とにかく〝動くまでチャレンジする〟というエネルギーに充ち満ちあふれていた。
空港バスの後ろ姿:今月の写真4  2014/02/05 Wed 4070
 さて、今月の写真の2枚目です。これはバスの後ろ姿ですが、熊本に本拠地がある九州産交バスが運行している空港リムジンバスです。少し見えにくいと思いますが、ANAの787機が描かれています。この飛行機は世界で最初にANAが飛ばしたということでアピールしていました。わが国でできたパーツなども多く、純国産とも言っていました。ところがご存じのようにバッテリーから火が出たということで、せっかくの出鼻をくじかれたわけです。熊本空港にも長いこと駐機していました。そのうち、エンジンにカバーまで取り付けられて、いつ飛べるのかわからない状況が続いていたのでした。しばらくして、アメリカからボーイング社のスタッフがやってきて修理をしたわけです。私は熊本空港にお勤めの方を存じ上げていますが、その仕事環境の整備に感心したとお聞きしました。仕事の内容は重要だとしても、その期間は一時的なものです。それでも機体の近くにトイレを設置するなど、至れり尽くせりだったということです。さて、バスの後ろ姿ですが、写真を撮る気になったのは、もう一つ理由があります。それはナンバーも〝787〟だったことです。もちろん、いまは一般人でも特別料金を支払えば好みの番号をつけられることは知っています。だから、ナンバーを〝787〟にするなんて簡単なのです。それでも楽しいではありませんか。そしてもう一つあるんです、写真を撮った理由が。それはバスが〝現代〟製だったからです。韓国車が力を付けてきて、いまやリムジンバスに採用されているわけです。先日は横浜から羽田までバスに乗りましたが、このときも現代製が走っていました。現時点ではトップを走っている自動車業界ですが、厳しい競争の時代に生きているのです。
絶景満喫:今月の写真4  2014/02/04 Tue 4069
 羽田空港は現在もその顔と体を変え続けています。東京オリンピックも開催されることになりましたから、その拡大の勢いはさらに加速するのでしょう。さて、この数日に亘って引き合いに出している羽田エクセル東急ですが、私は2年ほど前にもここに泊まったことがありました。そのときは滑走路とは反対側の部屋でした。しっかりした記憶はありませんが、駐車場や第1ターミナル、それに道路が見えていたのだと思います。それが今回は滑走路側の部屋に当たったわけです。そして、窓から眺めた景色を今月の写真にしたのです。とにかく飛行機好きには絶景でした。
 ボーディングブリッジが真下にあって、飛行機が出たり入ったりするのです。今年でリタイアするジャンボも目の下に駐まりました。私も今年で定年ですから、年齢の差はかなり大きいのですが、ジャンボは私の同僚みたいなものです。ホテルはANA側にありますが、滑走路から飛び立つ飛行機はJALも含めて、いろいろありです。羽田の発着回数は別格ですから、頻繁に飛行機が飛び上がっていきます。私は早朝の便で熊本へ帰ることにしていましたから、まさに6時過ぎには朝食を摂っていました。その際も子ども連れを含めてけっこうな数の泊まり客が朝食バイキングの会場にいました。しっかりと5時オープンの需要があることがわかります。それから7時半過ぎまでしか部屋にはいませんでしたが、それでも前日の夜景を含めて十二分に楽しむことができました。ところで、別に珍しいことではありませんが、写真1枚の解説にしては、かなり長くなってしまいました。まだ表紙写真の右側1枚についてお話をしていません。
 
空港御用達ホテル:今月の写真3  2014/02/03 Mon 4068
 博多駅近くの航空会社系ホテルであれば、早めの朝食対応は強味にしてほしいものです。そんなことを言うと、〝うちはビジネスホテルじゃない〟といった声も聞こえてきそうです。しかし、羽田の東急ホテルも5時から対応しているのですから、朝食開始時間とホテルの格は別物でしょう。ともあれ、博多駅近くのJAL系ホテルに2回目に泊まったときに朝食のルームサービスがあることを知ったのでした。それは部屋の中にある案内を見たからです。ホテルには夕食のサービスや有料ビデオの案内などが机の上に置いてあります。ホテルによってはその分量もけっこう多いんですね。しかし正直なところ、私はこうした情報はほとんど見ません。じつは、朝食チケットでルームサービスが利用できるのを知ったのは、たまたま机上に置かれた情報に目を通したからでした。ここはしっかりフロントで案内すべきでしょう。もっとも、それからすでに数年が経っています。そんなわけで、現在はどんなことになっているのかは知りません。
 ところで、羽田の東急ホテルはずっと昔から空港御用達のような感じでした。今から50年程前になりますか、羽田で事故があったときなどに家族や関係者が集まるのが東急ホテルでした。それはテレビの中継や新聞報道で知っていました。私がときおり飛行機に乗るようになってから、モノレールが通過する下の方に東急ホテルがあるのを見て、〝ああ、これがあのホテルなんだ〟と思っていました。それから羽田はドンドンと拡張していき、昔の面影はどこにも残っていません。当時の東急ホテルもなくなりました。現在は国際線のビルを延長する工事が進行中です。
空港のホテル:今月の写真2  2014/02/02 Sun 4067
 今月の写真は〝飛行機〟と〝バス〟にしました。そのうち1枚は〝額縁〟に入っています。これは羽田空港のホテルに宿泊したときに撮ったもので、〝額縁〟ではなく、部屋の〝窓枠〟です。ホテルは空港に直結している〝羽田エクセルホテル東急〟です。羽田の国内線第2ターミナルはANA系ですが、航空会社のカウンターの一番奥にホテルの〝玄関〟があります。朝が早い便を利用する人にとっては最適の位置にあります。このホテルの朝食は5時スタートでした。これを見て、さすがだと感心しました。
 福岡の博多駅近くにJAL系のホテルがあります。もう数年前になりますが、ここの朝食は7時からでした。福岡空港は博多駅から地下鉄で5分という、世界で最も便利なところにあります。そこで、早朝の便に乗るときには、博多駅近辺のホテルに泊まることになります。そうした事情がありますから、朝食は早い時間に摂りたいわけです。それが7時スタートというのですから、そのときは朝食抜きで出かけることになってしまいました。空港には若干の余裕を持って行きますから、空港に着いてから朝ご飯となりました。とくに航空会社系のホテルなのですから、このあたりはちゃんと考えてほしいと思ったことは言うまでもありません。じつはその後もこのホテルに泊まったことがあります。そのときは、朝食チケットでルームサービスを利用できることに気づきました。それは簡単なトースト系のものだったと思いますが、ともあれ朝食にはありつけたのでした。ただし、最初に宿泊する際にフロントで朝食が7時からということをきいて〝えっ、7時からですか〟と驚き半分で聞いたと思います。しかし、それに対してルームサービスの案内があった記憶は残っていないのです。
 
あこがれの飛行機:今月の写真1  2014/02/01 Sat 4066
 私たちが子どものころは、あこがれの対象がたくさんあったと思います。力の強い相撲取りも、その世界から飛び出したプロレスの力道山も、そして野球の長島選手だってトップクラスのあこがれの的でした。もちろん、スーパーマンもどきの宇津井健扮するスーパージャイアンツ、月光仮面に怪傑ハリマオと、挙げていけば切りがありません。一方で野口英世や湯川秀樹氏のような世界に貢献する医師や科学者も、やはりトップクラスだったといえるでしょう。
 そして、職業としてのパイロットは、これまた子どもたちの多くがあこがれる職業でした。それに、私たちが子どものころは飛行機なんて一生かかっても乗れないものと決めていた様な気がします。とにかく超高級、贅沢な乗り物ですから、お金持ちでも半端では無理なんて考えるほどでした。それが〝ちょっと出かけてくる〟と言って気軽に飛行機を利用する時代になりました。そんななかでとにかく飛行機好きなんですね。その証拠と言いましょうか、九州新幹線が新大阪まで直結してもう3年になろうかというのに、熊本から新大阪まで乗ったことがないのです。すべて飛行機を使ってきました。さすがに自分の体を2つにわけることはできませんので、仕事場や自宅からや同時に出発して〝どっちが先に着くか〟で競争したことはありません。それなりにシミュレーションしてみましたら、大阪の中心にある梅田のホテルまで10分ほど飛行機の方が早く着くという結果になりました。それなら、新幹線の方がいいじゃないかと言う方もいらっしゃいました。ただ、私は同じ場所にじっとしていられない質のため、それがとにかく辛いんです。