よいお年をお迎えください 2013/12/31 Tue 4029
今年もお世話になりました。本日をもって定年の年度の3/4が終わります。明日から3ヶ月が経てば退職です。この秋口にはめでたく〝前期高齢者〟の基準をクリアしました。さっそく介護保険の被保険者証が届いたので、すごくスピーディーな対応だと感心したものです。ところが、それから間もなくして保険料の納付通知書がやってきました。まあ〝請求は後出し〟のほうがいいですよね。ありがたいことに給料をもらっている身ですから、その保険料もしっかりした額でした。こちらは〝感心〟したというよりも〝驚いた〟といった方が正しいでしょうか。いやはや、この国では老人が進む道も平坦ではないわけです。
おかげさまで体調は万全ですので、まだまだ動き回れるものと確信しています。身近にいる家内によれば、私はマグロなのです。回遊魚であるマグロは泳ぎ続けるしかありません。彼等が止まるのはあの世に逝ったときなのだそうです。私が子どものころ、周囲の大人たちから〝うろちょろしていて落ち着きがない〟と言われていました。自分としては、これに〝注意散漫〟も加えたいと思っています。いまでも10冊近くの本や資料を並行して読んだりしているのは、私の行動パターンがそのまま継続しているということです。ただし、今年の人間ドックでは〝ちょっとしたエピソード(?)〟が生まれました。これについては、シリーズ〝人間ドック物語〟で〝いつか〟取りあげることにしています。それにしても、今年もいろんなところへ出かけました。夏の終わりには秋田への出張がありました。この地は、〝通過しただけ〟も含めれば、私がこれまで行ったことのなかった唯一の県だったのです。その一方で、はるか南方にある石垣島にも出かけるチャンスをいただきました。 |
常識を越え過ぎ 2013/12/30 Mon 4028
文部科学省の統計によれば、教諭の人数は全国でほぼ100万人で、かなり大きな集団になります。それほどの数になると、〝全員〟がすばらしい人たちばかりというわけにはいきません。もちろん、それは教員の世界だけでなく、世の中のあらゆる組織に共通していることです。そんなわけで、ときおり飲酒運転をしたり窃盗をしたりするとんでもない警察官がニュースになります。また、わいせつ行為で職を失った裁判官だっていました。そうそう、私たちのような大学の教員に至っては、もともと〝妙ちきりん〟な人間集団の住人と言えるかもしれません。それにしても〝ヤレヤレ〟な先生方がいらっしゃるものだとあきれてしまいます。
先週26日の朝夕刊だけでも、こうした先生のことが取りあげられていました。まずは小学校の校長が修学旅行の積立金やPTA会費などを着服したというのです。教頭だった時期も含めて3つの小学校で同じことをしたというのですから、まさに開いた口がふさがりません。その記事には校長が教頭時代に勤務していた講師もやはり同じように給食費や部活動費を着服していたことも書かれていました。そもそもはこの講師が同僚に告白したことから、2人の犯罪行為が明らかになったようです。これと同じ日の夕刊ですが、同僚の教師に睡眠導入剤を入れたシュークリームを食べさせて懲戒免職になった女性講師の記事も載っていました。動機は〝やり方があわずイライラした〟からだとのことです。運動靴に油性ペンで〝ヤメロ〟という落書きもしていたといいます。とんでもないケースだからこそニュースになるのですから、こんな先生はきわめて例外的な人たちではあります。しかし、それにしてもなんと〝常識を越えすぎて〟いることでしょう。 |
教諭と免許状更新講習 2013/12/29 Sun 4027
学校の先生は教諭と呼ばれます。基本的には幼稚園・小学校・中学校・高等学校・特別支援学校の先生たちのことです。すべて教員免許状が必要で、その有効期間は長いこと終身でした。これが法律の改正で基本的に10年ごとの「教員免許状更新講習」を受けなければならなくなりました。これを受講しないと免許が失効してしまいます。そこで、該当する先生たちは、せっせと30時間の講習を受けていらっしゃるのです。この制度がスタートしたのが2009年度で、今年で5年になります。実際には、前年の2008年度に〝試行〟が実施され、私の所属する熊本大学では熊本市と阿蘇地区で開催しましたから、もう6年目を迎えているということもできます。
この制度は第一次安倍内閣でできたのですが、政権が交代した時期とそのスタートが重なっていました。そのため、〝自民党政権〟の政策を否定することを強調していた民主党ですから、教育界には更新制度はなくなるのではないかという情報が広がりました。そこで多くの該当者たちが〝様子見〟をすることになりました。行政側は〝廃止するといった公式発言はまったくしていない〟と言っています。しかし、マスコミの報道では〝なくなりそうな〟雰囲気が読み取った先生たちがたくさんいました。法律に基づく制度ですから、〝公式に言ったことはない〟というのは事実だと思います。しかし、現実に教員の世界で混乱が起きたことは疑いありません。当時の政府関係者が報道関係者たちにそれらしき発言を微塵もしたことがないのでしょうか。もう済んだことですが、もしそうだとすれば、マスコミは〝言ってもいない情報をそれらしく流してしまった〟ことになります。そのあたりの〝真相〟はどうなっているのでしょうか。 |
飛行機物語2:初フライト時の世情 2013/12/28 Sat 4026
私が生まれて初めて飛行機なるものに乗ったのは、1970年4月23日(木)のことだった。大学4年生になって間もなくのころだ。1970年といえば、日米安保条約の改訂の年ということで世情は騒然としていた。その10年前、岸信介総理大臣のときに〝安保闘争〟なるものが起こった。〝日米安全保障条約〟の改定阻止の旗印のもとに、国会はデモ隊で取り巻かれた。その混乱の中で東大生だった樺美智子が亡くなっている。このときは清瀬一郎衆議院議長が国会に警官を入れていわゆる強行採決をした。議長席に入り乱れる与野党議員と警備員のもみ合いを背にして、議長がマイクを握りしめながら議事を進行する様は、子ども心にも異様だった。もちろん、そのとき大人たちが取っている行動の理由は理解していなかった。
それから10年後の1970年に、〝あの人の渦を再び国会で〟というを高めようという人たちがいた。そして、それをターゲットに数年前から様々な動きが出ていたのである。それが学園紛争となり、〝紛争〟のない大学は〝遅れている〟と思われるほど、その勢いは全国に広がった。そうした流れの中で、いわゆる過激派がうまれ、少なくとも大学内では立て看(いうまでもなく大きな看板を立ててアピールする)には反政府・反米・反帝国主義といった文字が躍った。それはついに武力闘争にまでエスカレートする。そしていわゆる過激派が大学の建物を封鎖して立てこもる。これを排除するために機動隊が大学構内に入って壮絶な戦いがはじまるのである。その代表が東京大学安田講堂の攻防戦だ。屋上に昇った学生たちは機動隊に向かって火焔瓶や石を投げつける。これに対して警察側は催涙ガスを溶かした水を放水する。このときはヘリコプターも使われた記憶がある。 |
飛行機物語1:初フライト 2013/12/27 Fri 4025
もし、私が今東京に居ると書いたら人はおそらく驚くであろう。また朝10時には博多にいて12時の昼食は東京でとったといえばもっと驚くに違いない。だがこれは事実なのである。朝9時頃私は〇〇さんの〝電話ですよ〟という声で起こされた。出てみると〝昨日の一次で合格したから東京に来てくれ〟というのである。私は就職する気はないとしても、東京まで只で行けるというのだから何の抵抗もなく行くことにした。といっても、10時半の飛行機で行って午後には本社で面接すると言われた時には我ながら驚いた。そして生まれて初めて飛行機というものに乗ったわけである。富士山もはるか低く下に見えた。考えてみればおそろしい程速かった。しかし、その1時間20分ほどというものはとても快適であった。これになれると汽車なんかおかしくって乗れない。午後面接と身体検査があり、その後は自由となったので、□□さんに電話して会った。新宿の紀伊國屋であって、近くで飲んだ。□□さんとても悲しくて、博多に帰りたいと思うと冗談半分ではあるけれども言っていた。だが、□□さん達を送って今日で1ヶ月である。
あえて〝〟で囲まずにストレートにあるものを〝写〟した。それは私の日記で、日付は1970年4月23日(木)である。このとき私は大学の4年生になっていたのだが、なんと平日の9時に寮母の〇〇さんから起こされている。今では朝の4時過ぎから起きて騒いでいる私である。その生活習慣は若いころからだという記憶があって、これまで人様にもそう話してきた。しかし、この文面を見ると、その信憑性には疑問符が付く。先輩の□□さんとは現在でも音信がある。それはともあれ、この日のポイントは〝生まれて初めて〟飛行機に乗ったことなのである。 |
暗闇の感触 2013/12/26 Thu 4024
冬の朝日は気持ちだけ遅刻する。だから4時ころは暗黒の中に地球は眠っている。熊本の場合、7時20分に日が出てくる。もっとも、日の出時刻が早い6月にしても、5時8分ころだから、季節を問わず午前4時はまだ世界は暗い。ともあれ私はいつものように4時を回ったころベッドを出で書斎へ向かった。天井には豆球が点いているから壁や戸に当たることはない。いくら手元が暗くても、そこはすでに15年は住み慣れたわが家である。書斎のドアの取っ手を取った。その瞬間、いつもとは違う感触があった。取っ手の金属ではないものに触れたのである。ドア付近はそれが何であるのかがわかるほどの明るさに欠けていた。ともあれ、その何かがあるためにドアを開けられないような状態ではなかった。そのまま取っ手を回して部屋の電気を点灯させた。いつもはそのまま机の方に目を向ける。しかし、このときばかりは暗闇で手に触れた場所に目が走った。ドアの取っ手に布製の袋から出たひもが掛けてあるのがわかった。
その瞬間、私はそれが何であるのかを悟った。袋はサンタさんからのプレゼントだったのだ。何と素晴らしいことだろう!サンタさんは前期高齢者のところにも来てくれたのである。その驚きと喜びは袋を空けたとき、3倍ほどは膨らんだ。サンタさんはどうして私がチョコレートが好きなことを知っているのだろう。あの5年前にダイエットにチャレンジするまで、アーモンドチョコボール1箱(参考情報580kcl)を熊本から羽田までの1時間20分で空っぽにしていたことを見ていたのだろうか。私はゆっくり筆ペンを取り出した。〝サンタさん、ありがとう。夢見る前期高齢者より〟としっかり書いてダイニングのテーブルに置いた。サンタさんは気づくだろうか。 |
人間ドック物語3:メタボへの道 2013/12/25 Wed 4023 Continued from 12/15
人間ドックに35歳のときから通い始めて4年間は、あの〝直腸診〟があった。先輩が〝女医さんのときもあるんだよね〟と嬉しそうに話していたが、私も〝めでたく女医さん〟に当たる幸運にも恵まれた。これでまた、〝あれがあるから死んでもドックにはいかない〟と宣言する先輩に対して〝大いなる自慢話〟が追加された。学会で会ったとき待ってましたとばかり、この貴重な体験を話した。件の先輩は、この話を聞いてさらに〝絶対にいかないぞ〟という意志を強固にした可能性がある。ご本人の健康を考えると、言わないほうがよかったかもしれない。あれから後も先輩が人間ドックにいったという話はとんと聞かない。それはそうだが、私自身が前期高齢者になるのだから先輩は失礼ながら後期高齢者に近づいていらっしゃる。このところずっとお会いしていないけれど、ドックにいかなかったから困ったことになったという噂も流れてこない。あの〝ドック絶対拒絶方針〟は誤っていなかったのだろう。
もちろん、そうかと言って、私が〝ドックにいかなくてもよかった〟などと反省するわけがない。それどころか、私にとってドックは〝趣味〟の境地にまで達しているのである。ついでながら、ドックの中でも〝胃カメラ〟は、初体験の翌年ころからやはり〝趣味化〟しているのだが、これについてはまた思い出したときに詳しくお話しよう。ところで、4年目のデータを見ると体重が64.0kgになっている。スタート時が60.2kgだったから〝順調〟に増加していることがわかる。その後に〝メタボ〟なる基準が導入されることになるが、腹囲も78.5cmが徐々に増えて84cmにまで達している。このときは中年に向かう30代後半で、年々ズボンのウエストもグレードアップしていた。 |
公開講座11:ビデオの二の舞 2013/12/24 Tue 4022
ホームビデオの録画方式がβマックスとVHSに別れてしまったために、一般のユーザーは困り果てた。しかし、30分録画でスタートしたβに対して、1年ほどの後れをとったものの120分が標準で、3倍速だと6時間も録画できるVHSが登場したことで勝敗は決まった。これに対抗するためにβのソニーは、当初のものをβⅠとして、後追いするように〝Ⅱ〟〝Ⅲ〟と録画時間を延ばしていった。しかし、それは最初に高価格で購入したユーザーにはどうしようもなかった。はじめから勝負はついていたのである。VHSの優位が揺るがなくなってからも、プロの目から評価するとβの方が優れているという声は聞くことがあった。しかし、一般のユーザーにとってはそんなことは気にもならなかった。そもそも画質の優劣が判定できるほど明らかな差は感じられなかったはずだ。あえて言えば、VHSの方がやや大きかったから、収納のスペースでβが優位だった程度である。いずれにしても、お互いに競争して切磋琢磨、消費者にプラスになればいいが、ホームビデオの場合はマイナスの方が多かった。
こうした経緯を知っている者にとって、身近になり始めたコンピューター間に互換性がないことは、〝ビデオの二の舞か〟という嫌な気分の再体験版になった。そもそも学校に導入する際に、小学校は富士通系で中学校はNEC系というのでは、経費的な問題だけでなく子どもたちにとってもプラスにはならなかった。しかし、自由競争が基本の経済である。独走するNECにとって、一緒になる話など聴く耳をもたなかったにちがいない。そうした中で、EPSONが〝NEC互換機〟なるものを相対的に低価格で発売した。このときにはNECとの間で揉めたようだったが、それなりに受け入れられた。 |
公開講座10:NECの独走 2013/12/23 Mon 4021
細川熊本県知事が記者会見で〝すべての学校にコンピューターを導入〟と打ち上げたのは1985年11月である。これに〝マイタッチ計画〟と、なかなかいい感じの名称を付けられた。学校に1台のコンピューターが入っても、それで教育が急激に変わるものではなかった。しかし、こうした動きは先進的な試みとして評価され、全国から学校関係者が視察にくる状況が生まれた。その中でコンピューターソフトの〝非互換性〟は大きな問題だった。これに対して熊本県は、中学校に〝NEC:PC8001〟を導入し、小学校には〝富士通:FM8〟を入れることで対応した。このような〝非互換機〟の併走状態のために、せっかくソフトを作っても、どちらか一方だけでした使えない時期が一定期間続いていくことになる。
このとき先行したNECの強さは圧倒的だった。そのころの富士通はFACOMシリーズと呼ばれる大型コンピューターの領域ではトップを走っていたはずである。もちろんNECも大きな会社で、こちらはNEACという呼称の大型コンピューターを持っていたが、富士通の後塵を拝していたと思う。この点については私の記憶であるから歯切れが悪い点はご了承いただきたい。ともあれ、この世界では〝先行者の利益〟が大きい。NECのPC-8000シリーズ向けに開発されたソフトが幾何級数的に蓄積されていった。ソフトが多ければ、それが使えるコンピューターの需要が伸びるのは当然の結果である。この点はビデオの世界で経験済みだった。ホームビデオの場合、〝先行した〟のは〝世界初〟を標榜するSONYだった。商品名〝βマックス〟と名づけられた家庭用のビデオは当初30分の録画時間だった。しかし、それから遅れることほぼ1年にして2時間録画のVHSが登場する。 |
公開講座物語9:〝N〟と〝F〟 2013/12/22 Sun 4020 Continued from 12/20
私が熊本大学に採用された1979年は、歴史に残るNECPC-8001がデビューした年でもある。そのころはメーカー間にソフトの互換性がなかった。そのため、マイクロソフトの〝N-BASIC〟を搭載して先行したPC-8001
は、長期に亘って市場を占有した。因みに〝N-BASIC〟の〝N〟は〝NEC〟の頭文字で、後発の富士通は〝F-BASIC〟である。いずれもビル・ゲーツ率いるマイクロソフトの〝BASIC〟がベースになっている。つまりはメーカーがソフトを買い取っていたことになる。このころから、ハードのメーカーよりもソフト側のパワーが強くなってくる。つまりは、〝自社のハードにソフトを採用してやる〟のではなく〝ソフトを乗っけさせてもらう〟という関係である。
その後NECはPC-98 シリーズなどへハードのレベルアップに邁進して独走態勢を確立した。そうして稼いだ成果が港区芝に屹立する地上43階、180mの本社ビルになった。と、少なくとも私はそう確信している。このビルは東京モノレールから見えるのだが、JRの田町駅や地下鉄の三田駅が最寄りの駅になる。私はこの近くで仕事をすることが多く、特徴のある形をしたビルを見上げながら通り過ごすこともある。さて、同じ〝BASIC〟でも〝N〟と〝F〟では互換性がなかったから、これがユーザー側にとっては大問題だった。かつてビデオがVHSとベータ陣営に分かれて世の中が混乱したのだが、多くの人たちがその悪夢を思い起こしていた。学校教育にコンピューター導入する空気が高まる中で、お導入を考える責任者たちは〝どちらの機種にするか〟で頭を悩ますことになる。熊本県は当時の知事が細川護煕氏で、全国に先駆けて〝教育にコンピューターを導入する〟とぶち上げていた。 |
ブレーンはいたのか? 2013/12/21 Sat 4019
ついに猪瀬直樹東京都知事が辞任に追い込まれてしまった。ことが発覚したとき、私は〝ドーピング違反だ〟と皮肉ったのだが、やはり世の中は厳しかった。とくに彼の場合は舌鋒鋭く問題を追求する一点で〝評価〟されていたのだから、それが〝真逆〟になった時点から結果は見えていた。ご本人としては何とか切り抜けようと粘り続けたが、その姿がさらに〝疑惑〟を呼んでしまった。弁護士を含めてブレーンはいたのだろうが、そもそもいい知恵が出るような状況ではなかった。辞任を表明した日の午後は東京にいたが、肌寒い中で小雨が降っていた。もちろん猪瀬氏の涙ではない。報道によれば、石原慎太郎前知事や日本サッカー協会最高顧問の川淵三郎氏に相談したという。そのこと自身はごく自然ではあるが、あの〝攻撃的〟な猪瀬氏も、自分の行動が引き起こした窮地に対する最終決断を〝一人では〟できなかったわけだ。
また〝やや傲慢だった〟という表現で自己評価していた。冒頭の〝やや〟が気になるが、それに気づくのが〝あまりにも〟遅かった。そして、その代償はきわめて大きいものがある。とくに大きな失政がなければ、オリンピックを引っ張ってきた功績が評価されて再選を勝ち取り、2期目最後の年に開催都市の知事として歴史に残ることは間違いなかった。自分が信じる正しいことをしっかり主張する。これは組織のトップに期待される最も重要な行動である。しかし、それをどのように〝表現〟するかについては十分な工夫と配慮が求められる。〝攻めまくり〟は迫力があるが、〝攻め方〟に品位を欠くと〝傲慢さ〟というマイナスのイメージが引き起こされる。それにしても猪瀬氏には〝ブレーン〟がいたのだろうか。あるいはその声すら聞かなかったのか。 |
公開講座物語8:〝PC8001〟登場 2013/12/20 Fri 4018 Continued from 12/16
月曜日16日の〝連載にまつわる迷い〟は未解決のままである。いわゆる〝連載〟を〝特定の曜日〟に割り振るのも一案ではある。しかし、〝賞味期限〟の上から、その日のうちに取りあげないとうまくないネタが出たらどうするか。その場合〝翌週〟となれば、こちらの〝味〟が落ちる。何分にも〝味な話(自称)の素〟である。それに月が変わったりすれば、さらに混乱する可能性もある。そうかと言って、数ヶ月、いや下手をすると1年も前の続きを〝Continued
from〇〇〟と言ってしまうのもどうなんでしょうねえ…。ともあれ、この問題の解決は〝先送り〟することに決めた。これは最も安易かつ問題解決にまったく貢献しない対処法である。そんなことをし続けてきたから、国の借金も1,000兆円を超えてしまったのだ。それでもまだ〝先送り〟しているのが、わが国の現状である。などと、矛先を〝国家のレベル〟に向けて〝自分のマイナス点〟から人の目を逸らそうとする。これまた、〝ごまかしの常套手段〟ですなあ…。
それにしても、今日は〝…〟の目眩ましが多くはござんせんか…。まあ、そんなこんなで、今日は〝12月10日〟まで書いていた〝公開講座物語〟の続きにしようと思う。この物語がスタートしたのは11月30日で、そのタイトルは〝公開講座終了〟だった。東京での〝リーダーシップ・トレーニング:フォローコース〟後に書き始めた。今日が8回目ということで、やや煩雑だが連載回数も入れるようにしよう。さて、私が熊本大学に赴任したのは1979年(昭和54年)10月1日のことである。その4月に発足していた〝熊本大学教育学部附属教育工学センター〟の専任として採用されたのだ。そしてその同じ年に、NECのPC-8001がこの世に登場した。 |
強気の仮面? 2013/12/19 Thu 4017
やはり元気者の雰囲気があった熊本県選出の衆議院議員松岡利勝氏も、自ら命を絶った国会議員の一人である。松岡氏の場合は現職の農林水産大臣だった。享年62歳。当時、自らの事務所の資金管理に関わる問題で国会の追及を受けていた。この人も、個人的な情報を持たない一般人には、けっこう気性の激しい人のように見えていた。同じ熊本選出の国会議員魚住汎英氏と演じた〝乱闘〟騒ぎの様子がテレビで流されて話題になった。このときは、支持した候補者が熊本市長選挙で落選した。その候補者が支持者やマスコミを前にして挨拶をしている後ろでつかみ合いになったのである。その原因は敗戦の責任についての言い合いだったという。その松岡氏も事務所の資金に関する国会答弁でマスコミからも大いに批判された。そして、2007年5月28日に議員宿舎で亡くなっていたのである。
まったくの余談だが、私は松岡氏と隣り合わせの席に座ったことがある。それは熊本県立済々黌高校の卒業式だった。そのとき私は附属中学校の校長をしていて、来賓として卒業式に出席した。式が始まってしばらくして、隣の空席に人が近づいてきた。ふと右上に顔を上げると松岡氏が立っていた。お互いに目と目が合って軽く会釈してから松岡氏も席に着いた。式が終わったときは、すぐに退席したからただそれだけのことである。それにしても、〝見るからに強そうな人〟が自ら命を絶つのはミスマッチの感がある。しかし、〝強気〟が〝自己防衛のための仮面〟だとすれば、そんなこともあるんだろうなあと思う。人格を意味するパーソナリティの語源はラテン語のpersonaである。これは〝仮面〟という意味がある。われわれは裸で歩けないから服を着るように、〝仮面〟を着けるのだ。 |
〝攻撃的〟防衛機制 2013/12/18 Wed 4016
〝攻めるときは強いが、攻められると脆い〟。このごろの猪瀬さんはそんな感じである。こうした人たちを見ていると、〝攻められるのを避けるために、必死になって攻撃している〟ような気もしてくる。いわば〝攻撃が最大の自己防御手段〟となっているのである。たしかに〝攻撃は最大の防御なり〟という格言もあるが、それは心理的な防衛反応のひとつだと考えてよさそうだ。そして、こうしたケースはけっして珍しいものではない。たとえば、〝北海のヒグマ〟と呼ばれた衆議院議員中川一郎氏は57歳で自ら命を絶った。そのニックネームのとおり、北海道出身で見かけもいわゆる強面だった。中川派と呼ばれた派閥の領袖で、周囲からは〝喧嘩師〟などとも呼ばれたと言うから、その発言や行動の激しさは相当のものだったに違いない。
その子息である中川昭一氏も強気の発言をすることで知られていた。財務大臣をはじめ、農林水産、経済産業などの要職にも就いて、父親を凌ぐほどの勢いだった。ところが、イタリアで開かれたG7の財務大臣・中央銀行総裁会議後の記者会見で酩酊様の状況が放映された。これが国内外で大きな批判を浴び、選挙でも落選の憂き目に遭っている。マスコミによれば、深刻なアルコール問題を抱えていたという。彼の場合は自宅のベッドで息絶えていて、自死とされたわけではないが、父より若い56歳だった。やはり自民党の新井将敬氏の自死も衝撃的だった。この人も強烈な個性と発言で知られていた。あるとき、証券取引に関する疑惑が浮上し、衆議院議院運営委員会で逮捕許諾決議が可決された。そして、本会議で逮捕許諾決議が採決される前の記者会見で身の潔白を訴えた。しかし、その翌日にホテルで亡くなっていた。享年50歳である。 |
猪瀬さん、大丈夫? 2013/12/17 Tue 4015
その舌鋒の鋭さでは、日本でもトップクラスだったことは自他共に認めていたに違いない。猪瀬直樹東京都知事のことである。ところが、先月から知事生命を左右するような嵐の中に1人放り出された。その原因が自らにあることは、ご本人もおわかりのはずだ。私もこのコラムで〝ドーピング違反〟などと皮肉った。ところで、余計なお節介であることは十二分に承知しているが、その猪瀬さんが心配になってきた。都議会での質問に答える映像はあまりにも痛々しい。その瞬間だけ切り取るというマスコミ的な映像ではあるが、書類をもつ〝手は震え〟ていたし、〝耳元から汗がしたたり落ち〟ていた。テレビの画面では、その程度が尋常ではなかった。もう昔の話だが、ロッキード疑惑に関して証人喚問が行われた。その際に手が震えて宣誓書にサインするのに難儀した例はある。
しかし、そこはあの猪瀬さんである。少々のことで〝ビビれる〟ような器量じゃない。多くの国民がそう思っていたはずだ。ところが、あの画面である。私としては、まずは精神的に大丈夫なのかと心配になってしまったのである。それに昔の猪瀬さんが、いま〝自分の発言〟を聞いたら〝とんでもない言い訳だ〟と怒鳴り立てるにちがいない。猪瀬さん自身、そんな思いでいるはずである。もし〝そうでない〟などと言うのであれば、感受性が低すぎる。自分自身のことが見えなくなっているのだ。そして、ご本人が自らの発言と行動が社会や他人にどう受け止められているかもわかっているはずである。今回は大チョンボをしてしまった。ところで、〝人は見かけによらない〟と言うが、猪瀬さんもその部類に入ってしまうのだろうか。攻撃するときは滅法強いのだが、攻められると信じられないほど弱い。 |
連載の悪癖 2013/12/16 Mon 4014
このところ、またぞろ悪い癖が出てきている。あるテーマについて連載しているうちに、突如として別の話題に移り、それをまた続けるという〝癖〟である。そして〝思い出した〟ように〝続き〟を〝Continued
from〇〇〟と日付を付けて再開する。これも一つの方法ではあるが、〝思い出す〟日がまことに恣意的なのである。それだけではない。もう〝思い出す〟こともできなくて葬り去られたものもある。いつのことだったか記憶にないが、グループ・ダイナミックスの創始者であるクルト・レビンがアメリカに渡ってから行った〝集団決定法〟の研究について書いていた。ところが、話はレビンがアメリカに到着する前でストップして、そのままになっている。もちろん、それも〝中断〟として、ウン年後にでも再開すれば〝連載〟にはなるのだろうが、これはもう〝強弁〟でしかない。
そうそう、そう言えば〝マニュアル問題〟も〝中断中〟である。そこで継続するトピックについては〝曜日を決めて〟書いてはどうかと考えて、それを実行したことがある。ただし、そうした方針は宣言はしなかった。そんなことから今回は〝話題と曜日〟を対応させることを明言しようかと思った。ただし、2~3回でまとまるものは、これまでのように〝数日連載〟にする。しかし、ちょっと待てよ。たとえば、ある話題を月曜日に取りあげることにしたとする。そのとき、土曜日から〝3回の連載〟を入れると〝月曜日〟でかち合ってしまう。それなら〝数回もの〟は金曜日スタートにするかというとそうはいかない。何と言っても新規の話題は生ものだ。〝その日〟にはじめないとタイミングを逸してしまうことがある。〝ああ困った、困った〟。何のことはない今日は〝困った〟だけでおしまい。 |
先輩のドック拒絶 2013/12/15 Sun 4013
私は35歳になったら人間ドックに行くと〝心に決めていた〟のだが、私より7歳ほど先輩で〝自分はドックには死んでも行かない〟と声高に宣言される方がいらっしゃった。その理由はただひとつ、〝あれがあるから〟だった。〝あれ〟とは〝直腸診〟である。それは文字通り医師が肛門から直腸に指を入れて病変の有無を診断するものだ。大腸ガンやポリープは直腸、すなわち肛門のすぐ上のあたりにできることが多いという。たしかに〝お尻に手を突っ込まれる〟と聞けば、〝うわあぁーっ〟とひるむ人もいることだろう。しかし、私としてはそれも医療行為だと思っていた。そもそも、〝吉田道雄君のお尻の穴を見てみよう〟なんて個別的な興味をもつお医者さんなんているわけがない。それは看護師さんだって同じことである。何と言ってもプロなのだ。それに個人の特徴を頭に入れるほど暇じゃない。
そこで〝絶対に行かない〟と言われる先輩に、〝じつは、私としてはあれこそを人間ドックの楽しみにしてるんですよ〟と言ってしまった。もちろんいつもの〝冗談〟である。ところが、こうした〝発言〟は〝冗談〟の雰囲気を薄めながら拡大していくものなのだ。その後、学会などで数人から、〝吉田さん、○○さんから聞いたんですが、ドックの『直腸診』が好きなんですってね〟とおかしそうに声をかけられた。まさに〝流言〟の社会心理学を肌で感じて、これまた楽しい思いをした。同じ大学の一回りほど上の先輩は、ドックの体験でも先輩であった。私がはじめてドックに行く前だったが、直腸診をネタにしながら、〝ときには女医さんに当たることもあるんだよね〟と言われたことを思い出す。これは私の主観に過ぎないのだが、そのときのお顔はじつに〝嬉しそう〟だった。 |
人間ドック物語 2013/12/14 Sat 4012
前期高齢者ともなれば、やはりいろいろなことを体験をする。今年は私の趣味としてきた〝人間ドック〟がいよいよ30周年を迎えた。母が47歳という年齢で他界した。とにかく健康には気をつけよう。そんな気持ちから、36歳になる1984年に〝人間ドック通い〟のスタートを切った。この時期を選んだ理由は単純で、35歳になると共済組合からドックに対して補助が出るのである。ただし、35歳になる年はドックの申し込み締め切り日を過ぎていたから、その翌年に〝満を持して〟出かけたのである。それでも、誕生日より前の6月11日~12日の一泊二日だったから、暦年齢的にはまだ35歳だった。
病院は国家公務員共済組合連合会が運営する熊本中央病院である。その当時は熊本市の新屋敷にあって、大江の自宅から歩いて10分もかからなかった。そんなわけで、着替えに本と日記を入れた軽いバッグを持って、公務員住宅4階にあったわが家に手を振りながら出かけた。はじめの4年間はかなり年季の入った部屋で、記憶が正しければ同じ部屋に3人が泊まった。その中にこれまた相当に古いバスタブがあった。個人情報ながら、そのときのデータは、身長が162.9cmで体重は60.2kgである。標準体重は56kgと記されていて、〝肥満度〟は18%になっている。血圧は上が124、下が80だから、こちらはまことに順調である。さらに視力は右が1.5、左が1.2と、これまたけっこうな眼力と言える。ともあれ、体重を除けば仕上がりとしては〝Aクラス〟だった。それはそのはずである。何と言っても35歳なのだから、この時点で問題が出ては将来が怖くなってしまう。そして、同室になった人たちは私よりもすべて年齢が高かった。その後も長いこと、私の〝最年少記録〟は続いた。 |
いまどきの年寄りたち…? 2013/12/13 Fri 4011
団塊の世代としては、ほぼ平均身長の私だが、若い人たちと比べれば〝ちびっ子〟そのものである。そのことはすでに昔から体感していた。しかし、いつのころからか、それが〝若者たち〟だけに限らないことを実感するようになった。つまりは〝そこそこの年齢の人たち〟といっしょになったときも、やはり〝林の中にいる〟と気づいたのである。たとえば50代の人たちだって、私と比べて〝一回り大きい〟のだ。こうした状況を私としては楽しい事実として受け止めている。青春時代ならいざ知らず、すでに早い時期から〝日本人も背丈が伸びて大きくなったなあ。けっこうなことだ〟と頼もしく思ってきた。文部科学省だったと思うが、つい数年前に〝生活様式の変化と栄養の向上〟から見れば、日本人の成長は天井に達した〟という資料を見たことがある。このときは、〝もうこれ以上は伸びなくてもいいよね〟と思った。
ところで、〝同じ仲間たち〟とエレベータに乗った私だったが、別の点では〝違和感〟を覚えた。私と変わらない〝高齢者〟たちが廊下ですれ違っても自発的に挨拶しないのである。せっかくのリゾートホテルで温泉付きである。仕事とは言え、せめて朝晩は湯に浸かりたい。そんな思いで、夕食後と朝食前に大浴場へ出かける。このときはさすがに浴衣に着替えてツアー客と同じ気分である。それはいいのだが、温泉までの道すがら、湯上がりの人たちと行き交うのだが、とにかく声がない。〝こんばんは〟、も〝おはようございます〟も聞こえないのだ。このとき私は意識的にこちらから挨拶をせずに様子を見た。その結果、先方から挨拶したのは、なんと17人中でたったの1人だった。それもよく見ると〝ホテルの関係者〟である。今どきの年寄たちは…。 |
エレベータ体験 2013/12/12 Thu 4010
先だって、能登半島に出かけた。冬を迎えた海からそのまま空全体に雲がかかる。ちょうど中央あたりに隙間があって、赤みがかった太陽の光が遠くの空に映っている。その光景は演歌が似合う。もちろん明るい光景ではないが、心にしっかり忍び込んできて気持ちを揺さぶる。私はこうした景色も大好きだ。ところで、仕事で出かけたのではあるが、宿泊したのはリゾートホテルであった。ちょうどいい時期なのだろうか、〝〇〇ミステリーツアー〟と銘打った団体さんが幾組も泊まっていた。ホテルの駐車場には10台近い観光バスが並んでいるのである。もちろんというか、そのメンバーのほとんどが高齢者であった。私もつい先だって前期高齢者の仲間入りしたばかりだから、いわば〝同年配〟ということになる。
そんなわけでエレベーターも満杯になったのだが、みんなが浴衣掛でいるなかで、私だけはスーツにネクタイという、まことに異質な存在になった。そんな客を見て、人なつっこそうな男性が大阪弁で〝仕事でっか〟と聞いてきた。私は〝ええ〟と頷いた。おじさんというか、おじいさんは〝はよ 温泉にでも入りなはれ〟と勧めてくれた。ありがたや、ありがたや。エレベータでは1人だけ異質だったと言ったが、じつは私自身としては妙な同質感と安心感を覚えていた。〝みんなが同じ背丈だなあ〟。これである。私なんぞは163cmしかないから、いつもは人間の林の中にいる。女子学生だって、私の方が目線を上げることが少なくない。しかし、ここで団塊の世代の平均身長は165cmほどであることを強調しておかねばならない。私だって子どものころから〝ちょっと背が低い〟だけだった。すし詰めの60人学級で、男子30人の前から11番目くらいで健闘していたのだ。 |
まだまだ、あわてない? 2013/12/11 Wed 4009
先日、熊本市内の小学校から人権に関わる話をしてほしいとのお誘いに乗って出かけた。私が人権の講話をすると言うと、若いころからの友人の中にはあきれた顔をする者もいる。〝何でおまえが人権なんや〟というわけだ。私としては〝まあ、そう思われるだろうなあ〟といった感じで受け止めている。とにかく〝まずはYes
のこころ〟で人生を送ってきたから、大抵のことは〝わかりました〟なのである。もちろん、あとになって〝無責任じゃないか〟と言われては大変だから、その点は慎重でないといけない。さて、小学校の勉強会だが、話をする前に校長先生が私に1枚のメモを提示された。〝あわてるな、人生はそれほど短くはない。怠けるな、人生はそれほど長くもない〟。それが私の創ったものであることはすぐにわかった。
校長先生によると、私が附属中学校の校長をしていた10年ほど前に、保護者として私の話を聞いてくださったという。そのとき、このことばに感動していただいて、当時は附中生だった子どもさんの机にずっと置かれていたという。おことばから推測すると、家族ぐるみで評価してくださったらしい。ありがたいことである。自分の発言がこんなに大事にされているなんて、私の方が感動してしまう。とにかくありがたい。これは私が高校生のときに頭に浮かんだもので、卒業の文集に掲載したと思う。この話を家内にしたら、〝知ってるよ。年賀状に書いてきたでしょう〟と言われてしまった。おそらく高校生のころに、いま一緒に暮らしている〝元お友達〟にもこの文章を押し売りしていたのだった。それにしても久しぶりに再会した気持ちになった。すでに前期高齢者を迎えた身だが、それでも〝あわてるな人生はそれほど短くはない〟の心境でいる。 |
PC登場 2013/12/10 Tue 4008
〝全国共同利用大型計算機センター〟を使っていたといえば聞こえがいいが、コンピュータ本体は〝素人は触るべからず〟の代物であった。ユーザーであるわれわれは、FORTRANのプログラムをパンチカードに入力するだけだった。パンチカードと言っても、今ではかなりの人が見たことがないだろう。これを説明していると時間がかかるので、ご関心があればウィキペディアで検索していただくと詳しい説明が載っている。とにかく、プログラムとデータをパンチカードにして、その束を〝大型計算機センター〟に運んでいくのだ。データが多いとカードが1,000枚近くなることもあった。カードを入れた箱ごと受付に預けると、向こう側にいるコンピューターを操作する専門職が順番に処理してくれるという段取りである。プログラムに一文字でもパンチミスがあれば〝エラー〟となって突き返される。プログラムが長いと、そのエラーを見つけ出すのにも大いに苦労した。それが〝コンピューター〟なるものだった。
しかし、そうした機会が与えられたこともあって、私はとにもかくにも〝FORTRAN〟を勉強していたのである。そして熊本大学に採用された1979年には、後にNECの稼ぎ頭となるPC-8001が世の中に登場することになる。すでにPC=Personal Computer、つまりは〝パソコン〟が頭に付けられていたことになる。このときにPCを動かす代表的な言語が〝BASIC〟だったのである。これは私にとってFORTRANの親戚のように思えた。そんなことから、すぐに使えるようになった。パンチカード不要で、〝大型計算機センター〟まで出かけることもない。目の前のディスプレイにキーボードでプログラムを入力すればいいのだから、それはもう一大革命だった。 |
コンピュータ言語 2013/12/09 Mon 4007 contunued from 12/5
私のチョンボに関する〝RCA(Root Cause Analysis : 根本原因分析)〟のために、公開講座物語の中断を余儀なくされた。ここで復活してもう少し続けたい。講座をスタートしてから3年目の1987年には〝BASIC入門〟を開講した。この〝BASIC〟はコンピュータ言語の一つだが、その名の通り言語としては〝BASIC〟なものであった。そして、当時は科学技術計算に向いた〝FORTRAN(Formula
Translationの合成)〟があり、ビジネスの領域には〝COBOL〟と呼ばれる言語もあった。こちらは〝COmmon Business Oriented
Language〟の頭文字を繋いだものである。名前だけで〝ビジネス〟向けであることがわかる。
もともとコンピューターは機械だから、いわゆる〝オンとオフ〟あるいは〝1と0〟といった2つの相互に排除する信号の組み合わせで作動するようになっている。しかし、それではコンピュータを動かすことができる人間なんて超プロの専門家しかいなくなる。そこで人間にも使える〝言語〟をつくってコンピュータを動かそうということになったわけだ。その要望に応えるために、FORTRANやCOBOL、そしてBASICなどが開発されたのである。このほかに〝Assembly Language〟というのもあった。こちらもプログラム言語だが、素人的にはより機械語に近い感じで、私なんぞはリストを見ただけで、勉強する気にはならなかった。しかし、電子技術にかかわる仕事をしている人には、これを使ってコンピューターを動かすことこそがおもしろいんだと言う人もいた。私の場合は、データの処理に役立つ道具としてコンピューターとつきあいはじめた。その昔は〝全国共同利用大型計算機センター〟と命名されたものすごい名前の施設で使っていた。 |
〝あわてんぼう〟の〝思い込み〟 2013/12/08 Sun 4006
本コラムをご愛読いただいているある方が、その日(4日)のコラムにミスがあることを伝えてくださった。そこですぐに修正したところまではよかった。ところが、それが、上から2番目の記事になっていたから、〝今日(4日)〟ではなく、〝前の日(3日)〟の原稿にエラーがあったと思ったのである。そのとき、私は〝あれっ、昨日(3日)のことを今日(4日)に知らせていただいたんだあ〟と思ったことをはっきり記憶している。今回はこの〝あれっ〟が活かされなかった。ここで、〝ああ、そうじゃないか。一番上は明日(5日)の分だよな〟と続かなければならなかったのである。
私のチョンボの第三の原因は〝あわてていた〟ことにある。ありがたいことに、このコラムは1日に100件ほどもアクセスしていただいている。そこで〝ミスは少しでも早く修正しておかないといけない〟という気持ちが先行したのである。〝あわててはいけない。落ち着いて〟。ほとんど常識である冷静な対応ができなかったのである。しかも、修正したものをアップロードしたあとには間違いなくチェックして確認したはずなのだ。それでもミスに気づいていない。こうして第四の原因まで明らかになる。それは注意が修正した箇所だけに向いていたことと、〝とにかく昨日の分のエラーだったのだ〟という強烈な思い込みがあったことが決定的だった。いただいたメールは〝さっそく『味な話の素』読ませて頂きました。…ですが、実は(言おうかいうまいか迷いましたが)文中にミスを発見してしまいました。〟ではじまっていた。そもそも〝さっそく〟という書き出しにもすぐに反応しないといけなかった。このことばから、〝それは昨日ではなく今日のコラムのことだ〟と気づくべきだったのだ。 |
チョンボの原因分析 2013/12/07 Sat 4005
この〝味な話に素〟については、誤字や脱字、あるいは変な文章がないか、1回は確認している。それでも変換ミスが起きたりするが、一応の対策はとっているのである。しかし、今回は石垣島と宮古島という、これまでまったく関わりのなかったところを話題にした。したがって、固有の湾やビーチについては、〝ちょっとだけ〟でも再確認をしておくべきだった。さて、翌日の分までアップするというエラーを生じさせた第二の理由は、〝あれっ〟感覚を大事にしなかったからだ。文章におかしなところがあるという指摘を受けて、私はすぐにホームページビルダーの原稿を確認した。その瞬間、エラーがあったのはトップではなく、〝1日前〟の文章のなかだったことに気づいた。そこで〝あれっ〟と思ったことをはっきり記憶している。なぜなら、私としては〝昨日〟の内容について1日遅れでエラーの指摘があったと思ったからだ。
ここまでくると、読んでいらっしゃる方は混乱されるかもしれない。このあたりは当事者の私だけが納得していることだからである。そこでくどくて恐縮だが、何が起きたのかをゆっくり分析してみよう。まずは、4日の早朝に、予定通り〝4日〟のコラムをアップロードした。その後で、〝1日分だけストックしておく〟という私の方針に従って、〝5日の分〟を書いて保存した。何も起きなければ、これを〝5日〟になってからアップすることになる。ところが、ここで〝4日〟のコラムを読まれた方が誤りに気づいて、すぐに私へメールで通報していただいたのである。それを受けて、私も直ちにホームページビルダーを読み込んだ。そこには、すでに準備していた〝翌5日〟の内容が書かれているから、その〝下〟に〝4日〟のものがあったのである。 |
修正とチョンボ 2013/12/06 Fri 4004
いつも本コラムをご愛読いただいている方の何人かは、昨日〝あれっ〟と思われた方がいらっしゃるのではないだろうか。じつは、4日水曜日に翌日の5日の日付の分まで入っていたからだ。私自身、5日のアップをするつもりでホームページを開けるまで気づかなかった。ただし、その瞬間にこのエラーが起きた原因は了解できた。もう随分前のことになるが、〝味な話の素〟がずっと続いている理由について書いたことがある。それは3つあって、簡略すれば①私が粘着質である、つまりは〝しつこい〟から、②朝起きてキャッキャの気分で書くから、そして③1日分だけストックを準備しておくから、というものである。
じつは昨日の朝方にご愛読者の方からメールが届いた。その日は今月の写真の解説だったのだが、石垣島と宮古島の海に関する記述が反対になっているというご指摘である。すぐに確認すると、おっしゃるとおりだった。そこで修正をしてアップロードしたのである。このときにミスが起きた。すでに〝明日5日〟の分まで入力していたのだから、修正した後に、そこをカットしなければいけなかったのだ。ところが、〝修正〟したことで安心してしまって、翌5日まで書いたものをアップしたのである。こうして直接的な原因は明らかになった。しかし、このエラーが起きたプロセスはさらに掘り下げて分析する価値がある。まずは、①そもそも文章の確認が十分でなかった。この日は、石垣島と宮古島の風景について2ヶ所で触れているのだが、その最初の部分は間違っていなかった。ミスが発生したのは後半の部分で、〝宮古島(正しくは石垣島)の川平湾は高台から展望したのですが〟と〝石垣島(正しくは宮古島)の与那覇前原ビーチの方は〟と真逆に書いていた。 |
価格破壊の公開講座 2013/12/05 Thu 4003 contunued from 12/3
私の〝公開講座29年物語〟をもう少し続けたい。スタートした1985年は〝コンピューター〟と〝ビデオ〟の2本立てだったが、2年目も同じコースで開催した。そして3年目の1987年には〝コンピューター中級〟が〝BASIC入門〟と〝ワープロ入門〟に替わった。これまであった〝ビデオ入門〟はなくなった。これはコンピューター関連の講座に対する期待が大きく、それと比較すれば〝ビデオ講座〟は受講者が相対的に少なかったことが挙げられる。とくに編集機やカメラといったビデオ機器の台数も多くはなかったから、そもそも募集定員にも限りがあった。そんなとき、〝ワープロ〟は未来を感じさせる時代の最先端機器だった。国立大学が主催する公開講座だから受講料もリーゾナブルを超えて安価なのだ。たとえば今年の〝リーダーシップ・トレーニング〟は3日間で18時間のコースだが、受講料は9,900円である。そんなわけで、講座は〝価格破壊〟の走りだと言うこともできる。
こうしたことから、〝ワープロ入門〟は募集開始からあっという間に満杯になった。その事情は〝BASIC入門〟も同じだった。ところで、いま〝コンピューター〟と聞いて〝ああ『BASIC』か〟と頭に浮かぶ方がどのくらいるだろうか。そもそもコンピューターなるものは、それを使う者が〝プログラム〟と呼ばれる〝言語〟を作って動かすものだった。その言語を身につけなければ、コンピューターは何もできない〝ただの電子箱〟に過ぎなかったのである。それを〝プログラミング言語〟と呼んでいたが、複数のものが準備されていた。たとえば科学技術の計算には〝FORTRAN〟が使われた。これは〝Formula
Translation〟を合成したもので、〝数式の翻訳〟が得意なプログラムだった。 |
今月の写真 2013/12/04 Wed 4002
公開講座の思い出はちょっと置いて、今月の写真は南の島2点です。先月号では、10月に出かけた本州最北端の大間にあるマグロのモニュメントを掲載しました。それから11月になって、沖縄本島・宮古島・石垣島の3つの島に行ってきました。北の方は、2010年の7月に宗谷岬を訪れました。こちらは一般人が行ける地としては日本の最北端になります。最南端の方は人が住んでいる島としては波照間島だそうです。しかし、私としては石垣島に到達しただけで最南端に足跡を残したつもりでいます。石垣島は子どものころから名前だけは知っていました。そこに行けたのですから、それだけで嬉しくて、いつものように自慢話をしたくなります。
ところで、左の写真が石垣島の川平湾で、右側が宮古島の与那覇前原ビーチです。どちらも曇り空でした。これが青空であれば、さらにまた美しい写真ができあがっていたことでしょう。それでも私としては十二分に満足したことは言うまでもありません。そもそも私が自分の意思で石垣島や宮古島に出かけることは一生を通じてなかったと確信しています。それが前期高齢者になって間もなく、あたかもお祝いをしてくれるようなタイミングで南の島へと旅立つことができたのです。何とすばらしことでしょう。私をお呼びいただいたのは沖縄で養護教諭をされている先生方でした。それにしても宮古島も石垣島も周囲の海が息をのむほど美しいんです。石垣島の川平湾は高台から展望したのですが、まるで絵はがきを見ているような気分になりました。宮古島の与那覇前原ビーチの方は、砂浜に革靴のまま歩いて行きました。その砂の粒子は、これまで見たこともないようなすばらしく繊細なタッチでした。これまた自然が育んだ砂なのです。 |
講座は続く 2013/12/03 Tue 4001
さて、85年に公開講座〝教師のためのコンピューター中級〟と〝教師のためのビデオ入門〟をスタートさせたが、翌年も当然のように継続した。このときは〝ビデオ入門〟が7月30日から8月1日で、〝コンピューター中級〟は8月4日から7日のスケジュールである。さすがに連チャンは避けて、まずは水曜日から金曜日まで〝ビデオ〟を開催して、〝コンピューター〟は次の週の4日間にした。いま手元に資料がないが、このときは夜間コースだったかもしれない。とにかく〝お客様は神様〟という大演歌歌手が隆盛を極めていたころである。私もその精神で突っ走ったのかもしれない。本当に夜間だったかどうかは、早めに確認するつもりでいる。
ところで、〝ビデオ〟の方は〝教師のための〟が取れている。これは一般の人たちからの希望もあったからだ。その当時、たまたま熊本にいた大学時代の友人が勤務する会社の若手社員にも参加してもらった。あのときの若者たちも間違いなく50代、いまどうしているのかなあ。ともあれ、昨日のことのように思い出す。さて、講座の開設から3年目を迎えた1987年にはリニューアルを図っている。まずは〝ワープロ入門〟が新規にスタートした。お若い方々はご存じないはずだが、当時は〝ワープロ専用機〟なるものがあった。その機器を上記の友人の会社から3日間だけ借用することができたのである。これもやはり7月の開催で、29日から31日までの3日間だった。〝これからはワープロの時代〟といった雰囲気がみなぎっているときだ。この講座も千客万来、大いに賑わったと言いたいところだが、何分にも借り入れることができる台数が少なかったから、たしか15名程度の定員だったと思う。それでも受講者たちには大満足してもらった。 |
ビデオ講座 2013/12/02 Mon 4000
私が公開講座をはじめた1985年には〝教師のためのコンピュータ中級〟だけでなく、〝教師のためのビデオ入門〟なるものも開催している。こちらの日程は8月9日から11日までだった。手元の記録を見てわれながら驚いた。〝コンピュータ中級〟が8月5日から8日だから、6日間の連チャンである。ほぼ1週間,ぶっ続けで公開講座に浸っていたことになる。おかげさまで、いまでも前期高齢者の割には元気がいいと思っているが、ほぼ30年前はもっと元気がよかったわけだ。とまあ、そんなことは当ったり前のことである。何せ30代なのだから。
ともあれ、この当時〝ビデオ〟が教師たちにも身近なものになりつつあった。いわゆるビデオデッキがゆっくりながら家庭にも入りはじめたころである。ただし、ビデオカメラの方は家庭用としてはまだまだこれからという状況だった。そんなときに、わが施設ではいち早くカメラセットだけでなく、ビデオの編集機まで設置していたのである。そこで〝教師〟を対象にして〝ビデオ教材を自作するためのノウハウを身につけましょう〟という公開講座を開催したわけだ。それにしても当時のビデオカメラセットはごっつい装置だった。カメラそのものが大きくて重かったが、それで撮った映像を録画するデッキがこれまだ超重量級だった。すでに媒体はカセットにはなっていたが、あのビデオテープに録画するのである。もう現物は当然として、仕様書も身の回りには残骸すらないが、デッキだけで10kg以上あったのではないかと思う。それを担いで野に山にではないが、取材に出かけるのだから大変だった。バッテリーもすさまじくデカかった。しかも充電には8時間ほどもかかるのに、作動時間はわずか30分程度という代物だったのだ。 |
公開講座、事始め 2013/12/01 Sun 3999
私と公開講座のお付き合いは30年近くになる。最初に開講したのは〝教師のためのコンピュータ中級〟で、1985年の8月5日から8日までの3日間のコースである。もう29年も前になる。当時は今日のパソコンなるものが世の中にデビューして間がないころだ。NECからPC8001と命名されたコンピュータが発売されたのが1979年のことである。その能力は現在のパソコンとは比較にならない。まるで新生児だったと言えば赤ん坊が怒るだろうか。ともあれ、パーソナルコンピュータがつぎの時代を担う重要な道具として認知されはじめたころだった。熊本県は当時の細川護煕知事が〝県内すべての学校にコンピュータを1台は導入する〟と記者会見でぶち上げた。それが1985年11月18日のことである。〝自慢じゃないが〟、いや〝しっかり自慢〟なのだが、公開講座はそれよりも先に〝教師のためのコンピュータ中級〟なるものを開催していたのである。何という先取りの精神、すばらしい。もちろん自画自賛である。
ところで、〝中級〟というからには〝初級〟もあった。こちらは当時教育工学センター長の比屋根方健先生が担当された。細川知事は新しい目標を〝マイタッチ計画〟と名づけた。この当時は、新手のコンピューターを〝マイコン〟と呼んでいた。こうした時代のなかで〝マイタッチ計画〟は全国の教育関係者から注目を浴びることになる。そんなことから、しばらくの間、熊本県は〝学校におけるコンピュータ教育の先進県〟としてその名を馳せたのである。ところで、〝コンピューター中級〟の実質的な内容は〝BASIC〟の講習だった。いまでは信じがたいだろうが、コンピュータを動かすためには、それなりの〝言語〟を使って〝指示〟しなければならなかった。 |
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