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No.126 2013年11月号 3969-3998
公開講座終了 2013/11/30 Sat 3998
 熊本大学公開講座〝リーダーシップ・トレーニング〟が終わった。より詳しく言えば、11月27日に東京会場で〝フォロー研修〟を開催し、これが最終回になったわけである。この講座は1992年に熊本でスタートし、そのまま22年間継続してきた。東京は2007年から開催するようになったから、こちらは7年で幕を閉じることになった。この最終回で55コース目となる。
 スタートした1992年は3日間の連続で、はじめの2日間は9時から17時まで、最終日は16時までという20時間のコースだった。受講者は26名で、夏休みの8月18日から20日までみっちり勉強していただいた。その翌年は2日間にしているのだが、3年目の1994年には3日間に戻している。日程を2日間に短縮した理由はわからない。また。3年目には同じものを〝Aコース〟〝Bコース〟と称して2コース開催している。これが次の年には4コースと倍増する。それなりの評価を得て受講希望者が飛躍的に増えたのである。これは、募集を開始するとすぐに定員に達するというまことにありがたい状況が生まれたことから、それに対応したのだった。
 しかし1996年には2コースの開催に留まった。これにも理由があって、この年は4月から9月までの6ヶ月間、オーストラリアに滞在したのである。そのため、開催した時期も〝Aコース〟が11月28日~30日、〝Bコース〟は12月12日~14日になった。その後は、3コースが復活し、2003年まで続いている。ただし、公開講座スタートから10年の経過を経て、11年目に当たる2002年には根本的な構造改革を行った。それまで連続3日間だったスケジュールを、2日間の〝基礎研修〟と3ヶ月後の〝フォロー研修〟に分割したのである。まったく新しいコースが誕生したわけだ。
 
逆立ちの円錐 2013/11/29 Fri 3997
 さて、今日は〝二つの円錐図〟を使ってリーダーシップについて解説しよう。まずは左の円錐を見ていただきたい。「特性」が底辺からどっしりと鎮座ましましている。その先端部分には「行動」が細々という感じで乗っかっている。この円錐で、「リーダーシップはリーダー個人の『特性』で決まる」ことを強調したつもりである。つまりは状況が変わろうと、相手が違おうととにかくワンパターン、「これしかできない」で貫くのである。これはもう柔軟性ゼロのリーダーシップ精神だと言っていい。これに対して右側の円錐は逆立ちしている。こちらも「特性」があって、その上に「行動」が乗っている状況は、特性論の円錐と同じである。しかし、強調したいことはまるで正反対なのだ。リーダーシップに関して「特性」を無視はしない。しかし、そうした特性を乗り越えて、さまざまな「行動」にチャレンジし続けることがリーダーに求められているのである。
 特性論に依拠する限り、「どうせやってもダメ」の言い訳が先行する。それではリーダーシップの改善などできるはずがない。これに対して「行動論」は「やればできる」の世界なのである。それにしても、どっしり構えた「特性の円錐」は安定して揺るぎない。この発想を採用した方が楽ではある。生まれたときから「望ましい特性」を持っていれば、何もしなくても生涯を大安心して過ごしていける。もちろん、「望ましい特性をもっていない」と断定されれば、「私ってどうせダメなのよ」と居直るしかない。円錐が逆立ちするとこれを倒さないように維持し続けるのは大変なことだ。しかし、そうした苦労を買ってでも引き受ける。そこにリーダーとして生きがいの発見があり、大いなる成長が期待できるのである。
力のかけ算 2013/11/28 Thu 3996
 さて、〝リーダーシップの公式〟では、分母以外はすべて「力」が付いている点にも注目していただきたい。私は〝こころの筋肉運動〟と名づけた題材で話をすることが多い。その詳細については改めてご紹介したいが、〝こころ〟も〝筋肉〟と同じように〝エクササイズ〟によって鍛えられることを強調するわけだ。われわれは〝リーダーシップは行動であり、特性ではない〟と考えている。生来の特性を鍛えることはできないが、それが行動だとすれば、リーダーシップは努力によって改善できるのである。つまりは〝力を付けること〟が可能なのだ。そこで、分子にある二つの要因をレベルアップすることが求められることになる。
 その一つが〝専門力〟である。誰にとっても仕事はプロフェッショナルなものだ。リーダーが期待される専門性を備えていることで、フォロワーへの影響力も高まる。この〝専門力〟のあり方についても、いろいろと考えることはあるのだが、これもまた改めて取りあげることにしたい。もう一つの要因は〝人間力〟である。それは〝人と関わる力〟であり、その基本としての〝コミュニケーション力〟でもある。公式ではこの二つの要因を足し算ではなく、掛け算にしている。リーダーはどちらかが優れていればいいというわけにはいかない。たとえ〝専門力〟では右に出る者はいなくても、〝人間力〟が〝0〟であれば、リーダーとしての力は発揮できないのである。ましてや、〝人間力〟がマイナスにでもなれば、〝専門力〟があればあるほど〝マイナス〟の程度も大きくなる。〝仕事に関してはあれほどの力があるのに、少しでも対人関係をよくしてくれればなあ…〟。あなたの周りに、仕事仲間たちからこんなため息をつかれている人がいないだろうか。
リーダーシップの公式 2013/11/27 Wed 3995
 私のライフワークはリーダーシップの向上を目指す〝トレーニングの開発とその実践〟である。これと並行して〝組織の安全〟に関わる仕事をしている。組織の安全はハードウエアの側面からアプローチするだけでは確保できない。いわゆるヒューマンの問題が大きく関わってくる。全国に燎原の火のごとく燃え広がった〝誤表示〟と言い張る〝偽表示〟も、組織の存続を危うくしかねない〝安全〟の問題なのである。今回のケースは〝完璧に人間の問題〟である。〝成形肉〟が〝私を和牛ステーキと呼んでちょうだい〟などというわけがない。それにしても、〝じつは当方も、いや当店も…〟とまさに〝芋づる〟状態、じつに見事な横並びに感動してしまった。ここまで来ると、これは〝業界の常識〟だと考えた方が理解しやすい。ひょっとして〝何でこんなに大騒ぎになるのかしら〟と不思議に思っている関係者がいたりして…。それはそれで怖い話だ。これが日本人の精神構造が劣化している兆候でなければいいのだけれど。
 ところで、リーダーシップを仕事にしている私としては、かなりの昔から〝リーダーシップ力=(専門力✕人間力)/(フォロワーの人数)〟という〝公式〟を提案してきた。ここで、分母の〝フォロワー〟はリーダーが働きかける対象で、組織の管理者にとっては一般的に部下たちのことである。学校の教員であれば自分が担任するクラスの児童生徒になる。リーダーシップを発揮するに当たってフォロワー人数が影響することは明らかである。少人数学級の実現が求められているのも、こうした理由があるからだ。ただし、ここでフォロワーの人数は考察の対象にしない。なぜなら、われわれはフォロワーの人数を自分の意思で調整できないことが多いからである。
 
おかえり、鹿児島空港? 2013/11/26 Tue 3994
 とにかく霧島にある空港に急がなければならない。しかし時間は切迫している。そしてついには、1軒だけ外から覗いた住宅があった鹿児島市の南からタクシーに乗らざるを得なくなってしまった。これが想定外だったことは言うまでもない。NAVITIMEでチェックすると、そのとき私がタクシーに乗った地点から鹿児島空港まで約41kmで1時間以上かかる。現在は高速で46分になっているが当時はまだ十分整備されていなかった。日記には〝空港まではタクシーで行かなければならない羽目になって、5,180円も払った〟とある。そのショックの大きさが窺われる。現在のタクシー料金はナビによれば12,860円である。新幹線の博多から鹿児島中央駅までの運賃が9,660だからタクシー代の方が高いのだ。私の怪しい記憶だが、そのときは特急の運賃とタクシー代がほとんど同じだった。それが脳裏に焼き付いている。その年に30歳にはなる年齢だったが、タクシーで40kmも走るのが厳しかったことは想像に難くない。しかし、それに乗れなければ元も子もなくなってしまうのだった。そんな思いで鹿児島空港に到着したのである。
 これでようやく、この物語のスタートである鹿児島空港に戻ってきました。いやはや〝飛行機が離陸するメカニズム〟から話が逸れ過ぎですね。ところで、飛行機が離陸する瞬間をしっかり見ているつもりなのだが機体のどこにも変化が見えない。そこで日本エアコミュータの方にお聞きした。その回答によれば、尾翼の後部がほんの少しばかり跳ね上がるのである。そこが操縦桿によって動き、下向きの圧力が働いて機体が上昇するのだ。しかし、その動きは小さくて見づらいから、ちょっと見にはわからないのだった。また新知識を得られて大満足した。
 
たった1軒の成果? 2013/11/25 Mon 3993 11/23 の続き
 何のことはない、住宅を探しにいったはずなのに、じつは〝なにも決まっていなかった〟のである。〝それでも、このままでは帰れないと粘って、ようやく谷山にある1軒だけを見てきた〟。日記にそう書いて、さらに〝その家だって駆け足だった〟とその不十分さを嘆いている。ともあれ、不動産屋さんの話を頼りに谷山からさらに山に入った住宅地の〝自由が丘〟まで行った。そこで外から覗くくらいしかできなかったのだが、最終的にはその家に入ることになる。とにかく4月の赴任まで時間がない。これで3軒目も空振りとなれば〝大ぶりの三振〟で即アウトの状況だった。もう〝そこに決める〟しかなかったのである。
 なぜかその日の昼食がラーメンだったことも想い出す。それも2連続空振りの後だった。〝ラーメンなんぞ食ってる余裕はないンですけど〟。そう叫びたい気持ちが喉チンコのあたりまで迫ってきていたのだが、そこはグッと抑えたことが記憶に刻まれている。やっぱし私は執念深いんでしょうか。どの時点からかはわからないが、帰りの時刻が気になっていたはずである。その理由は明確でないけれど、帰りは飛行機のチケットを取っていた。日記によれば翌日が試験監督に当たっていたから、その日のうちに福岡へ帰らなければならなかったのだと思う。おそらく夕刻までは家を探すつもりだったに違いない。そうなると特急電車で5時間もかかるから、帰路は飛行機にしようと思った可能性が十二分にある。ただし、鹿児島空港は霧島大地にあって市内からかなり遠い。しかも谷山は鹿児島市の南で、西鹿児島駅前のバス・ターミナルまではけっこう時間がかかる。想定外の事態で、この日に見ることができた貴重な1軒の家も十分に確認することは叶わなかった。
 
都知事のドーピング違反 2013/11/24 Sun 3992
 今日は〝鹿児島物語〟に割って入る〝飛び入り〟です。まずは先週のお話ですが、南の島に行ってきました。行き先は沖縄本島、石垣島、宮古島の3つです。そんなことで〝飛び入り〟しようと思ったのではありません。当然のことながら、〝南の島物語は〟はかなりの回数が必要になります。今日は、その旅程の中で那覇のホテルに着いてテレビを点けたときに〝飛び込んで〟きたニュースの話題です。突如として大騒ぎになったあの猪瀬直樹東京都知事のお金のニュースです。このところ話題になっている医療法人から5,000万円の〝借金〟をしていた件です。
 いやあ、驚きました。あれはいけません。今回はまさに〝ドーピング違反〟でしたね。これは致命的にまずいなあ。猪瀬さんは昔から単刀直入、それも切れ味の鋭い刃物で国をはじめとした権威を切りまくってきました。その〝正論ぶり〟にマスコミの寵児の感もありました。その発言に快感を覚えた人も多かったに違いありません。だからこそ都知事選にも圧勝したのでした。ところが、よりによってその選挙に現金が絡んでいたというのですから、いかにもまずい。しかも、よくあるような〝秘書が勝手にした〟なんていう言い訳も準備できなかったようですね。お金の貸し借りは当事者たちの自由ではあるのでしょうが、選挙のためのお金となると、猪瀬さんが批判し続けてきた最悪の人たちと同じ穴のムジナになってしまうではありませんか。せっかくオリンピックの誘致にも成功したというのに残念ですが、〝ドーピング違反〟をしたのであれば〝メダル剥奪〟は免れませんよね。それに手続き上のこととは別に、いま最も注目を浴びている方からの借金となれば、弁解の余地もほとんどないでしょう。何とも残念ですねえ。
住宅探しの現実 2013/11/23 Sat 3991
 さて早朝に福岡の自宅を出て13時ころ鹿児島女子短期大学に着いたわけだ。そのときの細かい雰囲気は記憶から飛んでいるが、住まい探しをサポートしてくださる先輩を尋ね、それから学長と面会したことは間違いない。その日の日記によれば、夕刻は学長をはじめ6人で食事をしている。そして翌日がいよいよ候補の家を見に行くことになる。このとき、なぜかスタート時間が11時になっている。まずは先輩のご自宅をお伺いしているのだが、そこでけっこう時間を取ったようだ。その理由はわからない。その日の夕刻には福岡に帰ることを考えると、活動開始がかなり遅い印象がある。これは推測だが、先輩にすでに数軒の候補があって、そのいずれかを選べば目的は達成できるという段取りではなかったか。それなら2、3時間もあれば十分だと思われる。
 しかし現実は相当に厳しいものになったのである。その気持ちが日記からもろに伝わってくるのだ。〝それにしても、ある意味では不満足な鹿児島行きだった〟。こんな一文が目に飛び込んでくる。まずは1軒目だが、新築中だったその家はすでに借り手が決まっていた。これが第一候補だったはずで、私としては不動産屋さんに〝17日には本人が見に来るからキープしといて〟くらいは伝えていてほしかった。それに続いては〝自分の教え子の親が経営している不動産屋さん〟だという。もうこれなら太鼓判、大安心と思っていたら、〝まだ来月でいいのだろうと思っていた〟との答え。つまりは候補の家は準備していないというのだ。何分にも5時間もかけて家を探しに来ているのである。〝ああそうですか。それではまた来月に〟などと悠長に構えている余裕などないのだ。いきなり2連続の空振りのダメージはかなりのものだった。
  
コンビニの40年 2013/11/22 Fri 3990
 この世の中にコンビニが登場したときは、ほとんど魅力を感じなかった。急にどうしても必要になったものがあって、たまたまコンビニが目に入ったらやむを得ず飛び込む。そんな感じだった。それが40年で大変革を遂げた。このごろはバナナの1本売りなども含めて品揃えが大いに変わってきた。さらに、移動式コンビニも登場してきた。その昔、不便な街には音楽を流しながら〝トラックのお店〟がやってきていた。灯油を販売するものもあり、〝日石灯油ほっかほか、…、日石灯油だもんネ〟といった歌を聞いた客が、車の周りに集まったものだ。それが進化して〝コンビニ〟になれば高齢者を中心にした需要は大いにある。
 おやおや、鹿児島への新幹線からシャッター街へと広がり、ついにはコンビニまできてしまった。じつは、まだまだ鹿児島に出かけた物語が続いているのである。鹿児島女子短期大学へ赴任するに当たって事前に住む家を探しに行ったのである。じつは幸いにも、短大に大学の大先輩がいらっしゃった。そんなことからその先輩が住宅の候補地をいくつか紹介してくださることになっていたのだ。その意味では、そのなかから自分の気に入って家を選べばいいという段取りで、かなり気楽な旅になるはずであった。ところが人生は〝はず〟が〝はずれる〟ことがけっこうあるものだ。これからはその物語になる。この話、当初は鹿児島空港からはじまった。それがいつのまにか35年近く前の鹿児島にタイムスリップしている。もちろん、それでも最後には鹿児島空港に戻るのだが、そこに至るまでにもう1、2回はかかりそうな気配がしてきた。あんたの昔話なんぞには付き合ってられない。そんな思いの方は、この数日間をスキップしていただくことをお勧めする。
 
栄枯盛衰 2013/11/21 Thu 3989
 郊外の大型ショッピングセンターは人々の消費行動を変え、従来の街をシャッター色にした。それはモンスターの登場だった。しかし、この世のあらゆるものは栄枯盛衰の波と無縁ではあり得ない。その典型はダイエーである。あの全国を飲み込んでいったスーパー業界の雄ダイエーが、いまやイオンの傘下にある。また熊本でも地場の大手スーパーが消えていった。そして大型ショッピングセンター自身が岐路に立ったされることは目に見えている。とにかく高齢者ばかりになるのだから、気楽に車で出かけることができなくなるのだ。その上、いまの若者たちは車に対する興味関心が薄れているという。もっとも、これは車を手にすることそのものにあこがれて、夢が叶ったときにはドライブを楽しむといった傾向が薄れたものである。だから、若者にとっても買い物などで移動する手段としての車は永遠に必需品であり続けるはずだ。しかし、とにかく高齢者の割合は今後も増加の一途なのである。
 われわれのような前期高齢者に仲間入りしたばかりの人間でも、灯油の2缶を持ち帰るのすら難儀しはじめてきた。そんなことから、暖房を灯油からガスや電気に切り替えようという知り合いも出てきた。そしていまやコンビニの進出競争が激化している。あのセブンーイレブンは今年で40年になるのだそうな。もともとはアメリカが発祥の地で、ライセンス契約を結んで日本でスタートした。ところが本体の方が経営不振となって、日本のイトーヨーカ堂が買収したという歴史がある。いまではアメリカの方が子会社いうわけだ。私の記憶では、コンビニができた当初はまったく魅力を感じなかった。そもそも価格がスーパーよりも高かったし、品揃えにしても必要なものが極端に少なかった。
新幹線とシャッター街 2013/11/20 Wed 3988
 その昔、鹿児島線では博多・西鹿児島の所要時間は5時間だった。熊本からしばらく行くと単線になって、特急といえども行き合い待ちで時刻表に載っていない駅でも停車していた。それに山越えのような感じのところもあったから、平均すれば時速100kmを大幅に下回っていたのだと思う。在来線だと317.1kmだから単純計算で60km/hという計算になる。これに対して新幹線効果にはすさまじいものがある。いまや最速の〝みずほ〟だと1時間17分、鈍行でも1時間40分を切っているのだ。それに距離も288.9kmだから、28kmばかりだが短縮している。これはできるだけ直線を走ろうとする新幹線の性格からトンネルを突っ走るため短くなったわけだ。
 ただし、そのために従来は特急が止まっていた海側の阿久根がパスされることになった。阿久根と言えば一時はもの凄い市長さんが出現して市役所の職員とのトラブルが発生するなど全国ニュースになったこともあった。そこがご多分に漏れず、駅前がシャッター街になっているという。新幹線で通過することもないから、その様子すらわからないが、駅前にある商店街の様子はしっかりイメージできる。ただですら、全国の町々が、新幹線が通るとか通らないとかとは関係なく、同じような状況になっていることは、いろんなところで目にする現実である。たとえば福井県の敦賀市もそうだし、長崎県の諫早市も状況は似ている。これは単なる人口減少の影響だけではない。いわゆる郊外型の大型ショッピングセンターが全国各地にできて、消費者がそちらに向かったからだ。まさに車社会の産物で、私たちの世代から見ると、子どものころに見たアメリカ型の大量販売、消費社会が実現したのである。それがシャッター街をもたらした。
 
住まい探し 2013/11/19 Tue 3987
 さてさて、今回は鹿児島のストーリーがまだ続いている。私の日記によれば、1978年2月16日に特急〝有明〟で鹿児島に出かけた。その日は福岡市の香椎にあった自宅から歩いて香椎駅に向かった。〝自宅〟といっても〝借家〟であることは言うまでもない。かなり年季が入っていたが、曲がりなりのも一軒家だったのである。しかも当時の相場から見れば家賃が相当にリーゾナブルだった。そこが結婚して初めての住処になったのである。家賃のリーゾナブルさには、それなりの理由があった。何分にも1mの間隔を置いて国鉄の香椎線が走るのである。狭い玄関から大家さんのお家の横の細い道を歩いて通りに出るのだが、その通路もちょいと躓いたりすれば線路に落っこちるほどの幅であった。すぐに踏切の警報器があって、列車が通過する度に大きな音で鳴りはじめる。そして自宅が列車と共鳴して揺れるのであった。ここに3年ほど住んだところで、鹿児島に引っ越すことになったのである。
 さて、その鹿児島で住む家を探しに出かけたのが、1978年2月16日だったというわけだ。そのとき、家内がまだ生後3か月の長男をだっこして見送ってくれた光景が頭のなかに残っている。わが吉田家には、〝うちのものが出かけるときは、見えなくなるまでバイバイする〟という〝家訓〟があるのだ。その時間までは憶えていないが、間違いなく朝早い時間だったはずである。その理由は簡単だ。まずは当日の日記に〝1時を少しまわったところで大学(鹿児島女子短期大学)に着いた〟と書いている。そして翌日には〝博多・西鹿児島(現鹿児島中央駅)〟が列車で5時間かかったと記しているからである。この2つの情報を合わせると、1時から逆算して朝7時台の有明に乗ったはずだ。
 
49年前の明日から… 2013/11/18 Mon 3986
 叔父が自分の日記を亡くなる前に処分したと聞いたときは、すごい決断だと感動を覚えた。そして、自分も何とか対応を考えないといけないと思ったのである。ところで、日記には私なりのこだわりがあって、この時代になってもきっちり手書きである。筆記道具はボールペンや細身のサインペンを使ったりしたこともあるが、やはり〝日記は万年筆だ〟という思いが強い。ボールペンと違って〝さらさら〟と紙の上を流れるように文字が書けるのは、ただそれだけで楽しい。唯一の欠点はインクがすぐに乾かないことである。大昔はインク専用の〝吸い取り紙〟まであったことを知っている人がどのくらいいることだろう。
 ところで日記を書き始めた動機だが、私の場合ははっきりしている。高校に入学して間もなく仲良くなった友人が日記を書いており、それを私にも勧めたからである。もともと父が日記を書き続けていて、子どものころにも自分の日記を書いたことはあった。いわゆる〝当用日記〟というもので、あらかじめ1年間のすべての日付が付いている。それを買ってもらって、子どもなりにせっせと書いていった。〝すべての日を埋めたい〟。ただそれだけの理由で、中学生のときに、365日の間とにかく何かを書いたという年もある。もちろんその際の気分を記憶してはいないが、大晦日にそれを仕上げて大いなる満足感に浸ったことは十二分に想像できる。とにかく子どものころから粘着質なのである。そうした経験を持っていた私が、友人から刺激を受けて、改めて日記を書き始めたわけだ。まずは1学期からけっこう続いていたが、それでも挫折した。しかし、すぐにはあきらめないで再度チャレンジしたのが11月19日だった。それがとうとう今日まで続くことになった。
 
焼却の情緒 2013/11/17 Sun 3985
 日記を確認すれば〝49年間については、その日に何があったかわかる〟というのは、じつはただしくない。日記というものは書き始めたころは〝その日のこと〟についての記述が多いと思う。しかし、ずっと継続しているうちに〝その日に考えたこと〟も含まれるようになってくる。さらに〝成長(?)〟すれば、後者の方が事実の記録よりも多くなる。私に関してはその傾向が強まっていった。ただし、それも10年前にホームページを開設してから変化が生じた。この〝味な話の素〟が登場したからである。まったく同じではないが、それまでは本コラムに書いているような内容を日記で取りあげていたわけだ。それがこちらに移動した結果、日記の方は自然と〝その日の出来事〟の記述が増えていった。いわばスタート時に回帰したのである。もちろんプライベートなことは、文句なしに日記で取りあげる。
 そんなわけで、生来の粘着質を発揮して日記を書き続けてきたのであるが、そろそろ整理する時期にさしかかってきた。何といってもきわめて個人的なものだから、わが人生の終了後にまで残しておくわけにもいかない。私の叔父は自分の寿命を悟ったとき、そのすべてを焼却したという。昔は諸々のものを燃やして処分した。火の中にいろいろな思い出を投げ入れたのである。燃えさかる炎の熱で顔が熱くなったりもした。ほんの一瞬だけ、処分するのを躊躇するものが出てきたりする。しかし、それでも決断して〝えいやっ〟と燃える火のなかに入れるのである。すると紙がめらめらと燃えて書いていた文字もろとも灰色に変わっていく。いまや焼却処分は御法度となり、シュレッダーの時代である。あの〝ジャリジャリ〟という機械音では心に何の情緒も引き起こすことがない…。
いまから35年前… 2013/11/16 Sat 3984
 そうそう、鹿児島空港についてはもっとすごい思い出がある。いまから35年前の1978年のことである。新年度から働く新しい職場が決まった。鹿児島女子短期大学である。それまでの2年間は九州大学の助手として仕事をした。助手も当時は文部教官と呼ばれていたが、正式に単位を出す授業はしていなかった。もっとも九州産業大学に非常勤講師として出かけていたから、そこでは授業をし単位も認定していた。しかし、それはあくまで非常勤としての仕事であった。ところで、この一文を書いた瞬間に、このとき担当した講義名が〝職務分析〟であり、〝私が忙しくなったので代わりに行ってみないか〟と紹介していただいたのが当時集団力学研究所副所長の高禎助さんだったことを思い出した。
 さすがに教室の細かい場所までは記憶にないが、その雰囲気は今でも頭に浮かぶ。しかもこのとき偶然の出会いがあった。学生時代にいた寮の最年長者で、まだ高校生だった私を何かとサポートしてくださった大先輩が九州産業大学の事務職としてお勤めになっていたのである。先日も書いたが、人間の記憶のメカニズムというのは何とも不思議で、われながらそのすごさに驚くことが多い。
 さてさて話を鹿児島に戻そう。こうした経験をしながら、正式に講義をする教員として鹿児島女子短期大学に採用されたのだった。そして2月16日木曜日に、一家が住むところを探すために休暇を取って鹿児島に出かけた。日付と曜日まではっきりしているのは日記で確認したからである。私は高校1年生だった1964年の11月19日から日記を書き続けてきた。それはいまも続いているから、数日で49周年の記念日(?)を迎える。そんなわけで、この間は特定の日に何があったかがけっこうわかるのだ。
鹿児島空港 2013/11/15 Fri 3983
 先だって〝日本エアコミュータ(JAC)〟にお邪魔した。毎年、〝安全フォーラム〟を開催されているとのことで、これに関連した講演のご依頼があったのだ。本社は鹿児島空港にある。私にとって鹿児島は思い出の地である。ちょうど30歳になる年の1978年4月に鹿児島女子短期大学に就職した。そこでしっかり修行させていただくつもりだったが、翌年の10月には熊本大学に異動することになった。そんなわけで、鹿児島での生活はきっちり1年半ということになる。その後は今日まで熊本で生活をし、あと4ヶ月と2週間ほどで熊本大学の定年を迎える。
 当時は鹿児島線を使っていたから鹿児島はとにかく遠かった。在来線が八代あたりから単線になって、特急でも時刻表に乗っていない駅に停車した。上下線の列車が行き合い待ちをするのである。そんなこんなで、あくまでぼんやりした記憶だが博多からは5時間、熊本からでも3時間はかかっていたと思う。それが新幹線の開業で激変した。熊本からだとノンストップで43分、各停でも57分で鹿児島に着くのである。
 鹿児島に赴任した年の8月はお盆に福岡へ帰省した。前の年に生まれた長男が10ヶ月に満たない状態だったので鹿児島空港から福岡空港まで飛行機を使った。そのときの機材は東和国内航空のDC-9だった。細身のスマートな機体だが、わが息子はまだ0歳の時点で飛行機の旅を楽しんだことになる。これはわが吉田家では特筆すべき記録で、21世紀の孫たちもすでにこれを破るチャンスを失っている。それからは、はっきり時期を憶えていないが、一度だけ鹿児島空港に降りたことがある。東京か大阪の出先からそのまま鹿児島に飛んだのである。その際は、お迎えいただいたのであっという間に空港を後にした。
 
飛び上がるメカニズム 2013/11/14 Thu 3982
 根っからの飛行機好きだ。そもそも私たちが子どものころは飛行機なんて一生かかっても乗れる乗り物ではなかった。いまならさしずめ孫正義氏クラスの超大金持ちが利用するものだったのである。私が佐賀県の伊万里小学校の子どもだったころ、運動場で遊んでいると、ときおり空の高いところを飛行機が飛んでいった。もちろんプロペラ機だが、それが民間機だったのかあるいは自衛隊機だったのか、はたまたその他のものだったのかは知りようもない。ただおそらく口を開けて上空を見上げていただけだった。そんなあこがれのものだけに、とにかく〝一生のうちに1回は乗ってみたい〟と夢見ていた。それがいまや誰もが利用する交通機関になったのだから時代は変わるものである。
 そんなわけで飛行機に関する新書程度の読み物はときおり手にしている。もっとも新幹線にまつわる本も目に付くと買っているから、総じて〝乗り物好き〟なのである。そうそう、小学生3年生のころには鉄道のポイントの仕組みを知っていて、どうして電車が1本のレールから右や左の一方向に進んでいけるのか、そのメカニズムを理解していた。それと同じことだけれど、飛行機の翼の形状から揚力が発生して空に飛び上がる理屈はわかっているつもりだった。ただし、飛行機が滑走路を走って飛び上がる瞬間にどこが変化しているのかがわからない。空港で時間待ちのときには飛び立つ飛行機をしっかり横から見ているのだが、主翼も尾翼も取り立てて動いたようには見えないのである。しかし、ただスピードが速くなれば自然に舞い上がるはずもない。そんな疑問を持ち続けていたのだが、今になってその〝秘密〟を知ることができた。これはプロからお聞きしたことだから100%確かな事実なのである。
 
古墳とマグロ 2013/11/13 Wed 3981
 ありがたいことに日本はどこに行っても歴史を感じることができる。その中でも九州は大陸に近く、小さな個人の家を建てるときですら遺跡が出てきたりする。福岡の太宰府などはその点経のようで、知人でけっこう難儀したという話を聞いたことがある。もちろん熊本県でも歴史を感じさせるものがあふれている。今月の写真の1枚は、熊本県立装飾古墳博物館の上から眺めた光景だ。それは山鹿市鹿央町にある立派な施設だが、周辺には岩原(いわばる)古墳群と呼ばれる国指定の史跡がある。この付近を流れる菊池川流域には多くの古墳が残されており、岩原はそのうち最大のものである。前方後円墳を中心に円墳郡が並んでいる。これらは5世紀ころに菊池川の中流あたりを支配した豪族のお墓だという。さすがに強烈だった猛暑も過ぎ、少し赤みがついてきた古墳も古の里に誘ってくれる。博物館のなかには実物大の装飾古墳が置かれている。さすがに本物ではないが、ほとんどそれに近いということだった。
 もう1枚は本州の最北端にある大間のマグロである。こちらは450kgの本物をモデルにしたという。このごろは毎年の初競りが全国ニュースになる。今年も寿司チェーン店の大将が1億5,000万円で競り落としたということで話題になっていたが、一般的には1kgが1万円ほどらしい。津軽海峡の沖合にはマグロを捕る船も見えた。ただし、いつもいつも大物が釣れるのではないらしく、表現は適切さに欠けるが〝博打みたいなところがある〟という話であった。ここではイカも獲れるから、その漁の方が安定しているという。それはそうとして、さすがにマグロの大間である。マグロの〝のど肉の炙り〟に〝軟骨の唐揚げ〟などなど、とにかく何でもありのメニューを楽しんだ。
 
ベスト・サービスの人間的側面 2013/11/12 Tue 3980
 夜遅くなっても、宅配便を持ってくる方にはちゃんと笑顔も付いている。その中には、〝ヤマト〟から委託を受けたと思われる方もいらっしゃる。本当に大変だと思う。それはともあれ、問題の原因が個別の営業所や個人ではなく、組織にある可能性も考えていく必要がある。いずれにしても、私のように〝好きなこと〟をさせてもらっている人間としては、夜間に来られた方には心からお礼を言って、あとはただただ頭を下げるしかない。とにもかくにも、これが〝配達時間指定〟なのである。これほど客側にとってすばらしいサービスはない。まさに〝日本のわがまま運びます〟の面目躍如ではないか。
 もちろん、これは〝ヤマト〟だけでなく、いまや日本の常識になった。郵便物についても、不在だったとき、手紙などを早く手にしたければ、以前は地域の中核になる郵便局に取りに行く必要があった。再配達を頼んでもその日のうちに来ないこともあった。しかし、郵便物もまた夜間も含めて再配達してくれるようになった。郵便がこのサービスをはじめたことを知ったとき、私は自分の耳を疑った。郵便の方には申し訳ないのだが、ついつい〝親方日の丸〟と揶揄されていた過去のことを思い出したからである。
 しかし、〝時間指定配達〟だけを取っても、これを運用するためには相当なノウハウが必要なことは素人でもわかる。そして事実、ものすごい配送システムができあがっているのだと思う。大きなベルトコンベアが縦横に走っている映像を見たこともある。それによって、品物を分類・整理し、スピーディに移動させる物理的な部分は問題ないに違いない。ただし、これらに対応する人間の方がどうなっているのだろう。詳細は知りようがないが、そこに問題はないのだろうか。
〝個人の資質〟or〝組織の体質〟? 2013/11/11 Mon 3979
 〝クール宅急便〟の問題は、〝ヤマト〟に対するこれまでの評価が一気に落ちてしまうほどの衝撃がある。何と言っても〝クール便〟は看板の一つだからだ。これから年末を控え、〝クール便でなければ〟という品物が動きはじめる。たしかに、今回の問題で〝けしからん〟と憤るのはやむを得ない。しかし、そうかと言って、それを第一線で働く人たちへの不信感に変えるだけではまずいのである。それがどうして起きたかを考えていけば、おそらく個々人の怠慢や不真面目さが原因ではないことが明らかになるのではないか。これまでにも、配達すべき品物や郵便物を捨てたといった信じられないことがときおり報道されてきた。配達がいやになって年賀状をごっそり廃棄した〝事件〟が報道されたこともあったと思う。これらも組織自身やそこで行っている教育の問題に起因する可能性はある。しかし、それには個人的な問題が影響しているのではないかと思う。
 ところが今回は、4000ほどの営業所のうち200ヶ所で同じマニュアル違反が見つかったのである。これはどう考えても〝個人の資質の問題〟ではない。つまりは組織的な問題なのだ。それも過重な労働などが関係しているかもしれない。随分と前から宅配便は〝配達時間指定〟というサービスも提供している。生活時間がゆとりで覆われているように見えるヨーロッパなどでは、こんなサービスはあり得ないのではないか。もちろんその事実を確認したわけではないから、これは私の単なる推測ではあるけれど。わが家でもときおり不在票が入っていたりする。そうなると、その日のうちに夜遅い時間を指定して改めて配達に来てもらうことがほとんどである。もちろん、宅配や郵便はこうした依頼にも気持ちよく対応してくれる。
 
〝宅急便〟の挑戦 2013/11/10 Sun 3978
 〝親方日の丸〟で〝送ってやる〟体質に果敢に挑戦したのが〝黒猫ヤマトの宅配便〟だった。いまでは〝宅急便〟が普通名詞だと思っている人も多いに違いない。父の仕事の関係で、子どものころはよく引っ越しをした。わが家の場合は近くの運送屋さんに頼んでいた。もちろん〝引っ越し〟が専門ではなかった。それがいつのころか〝引っ越し専門〟の業者が生まれた。こうした背景にはヤマトの成功があったと思う。そして時は流れて、いまでは郵便も国鉄も民間の会社になった。これに対してヤマトは〝日本のわがまま運びます〟というキャッチコピーで他社に先駆けたサービスを〝創造〟しながら一歩も二歩も前を走り続けた。私には関わりはないが、〝スキー宅急便なるものが1983年、さらに〝ゴルフ宅急便が1984年の開発である。これらはテレビコマーシャルで評判になった。〝ゴルフ宅急便〟については、そのバリエーションとして私もけっこう利用した。それはゴルフ道具に限らず、出張の際に重い荷物を前もってホテルに送っておき、帰る際にはまたホテルに依頼すると自宅に届くシステムだったのである。おそらく数年間に亘ってお世話になった。それもこのごろはすっかりご無沙汰している。じつはキャスター付きのスーツケースを購入して、そちらの方が便利になったからである。ところで〝ヤマト、お前もか〟という状況が生まれたのは〝クール宅急便〟である、そのスタートは1987年だと言うから私が思っていたよりも昔からあるのだ。これはわが家も使うことがある。利用者にとってこの上ないサービスだと思う。ところが、その〝命〟である温度管理がマニュアル通りになされていなかったという。これが事実だとすれば、それだけで信じがたい背信行為だ。 
〝ヤマト〟さん〝お宅〟さんも? 2013/11/09 Sat 3977
 とうとう業界の勇〝ヤマト〟の〝クール便〟も常温のまま放置していた問題が明らかになった。全国にある4,000ほどの営業所のうち、ルール違反をしていたところが200ヶ所にもなるという。ヤマトは、それまで郵便や鉄道などにほぼ独占されていた宅配便に革命を起こした会社だ。いまでは信じられないが、郵便小包や国鉄の荷物輸送はお世辞にもサービスといえるものではなかった。正確な時間は憶えていないが、そもそも受付時間の終了が早かった。おそらく5時だったのだと思う。それを1分でも送れると、当然のように即アウトだった。しかも紐のかけ方にもルールがあって、その通りにしていないとやはりダメ出しとなった。とにかく〝送ってやる〟という態度が見え見えで、私自身きわめて不愉快な思いをしたことがある。その郵便局と窓口付近のイメージまではっきり覚えてえているから対応が相当にひどかったことは間違いない。それも民営化による合理化のためか、現在その郵便局はなくなっている。えっ、〝そんなに鮮明な記憶があるなんて、あんたが執念深いからじゃないの〟と言われれば否定はしませんが…。
 そうした状況のなかで、1976年に殴り込みのように登場したのがヤマトだった。私は鹿児島に住んでいた1970年代終盤には福岡の親たちに物を送ったりしたが、このときはヤマトを使った記憶がない。いずれにしても〝あっとおどろく〟鮮烈なデビューだったはずだ。その衝撃で郵便や鉄道の方も旧態依然としていられなくなった。いまや配達の時間指定なども常識である。それは引っ越し業界にも大きな影響を与えた。それまでは貨物列車やトラックで、エッチラオッチラと引っ越していた。わが家は父が転勤族だったから同じことを何度となく体験した。
 
〝偽り〟の〝誤り〟 2013/11/08 Fri 3976
 何のことはない。関西のトップホテルからはじまった〝誤表示〟はあっという間に全国に広がった。何せ、東京でも知られた一流ホテルの名を冠したわが熊本のホテルでもやってらっしゃったんだそうな。こうした〝技法〟は〝業界の常識〟なのかと疑いたくなる。この調子だと、全国の主要都市のホテルがオンパレードで〝わが方も同じなりーっ〟なんて調子で〝名乗り〟を挙げるのではないか。とにかくひどい、ひどすぎる。外国の食品を信頼できないなどと笑っている段ではない。むしろこちらが笑われても反論もできないじゃないか。
 とにもかくにも、ビフテキと称して成型肉を使うのは、どう考えても〝誤〟ではなく〝偽〟である。しかも普通の肉に機械で脂を注入して、いかにも霜降り肉に見せる〝技術〟があることも初めて知った。そんなことをわざわざするのはどうしてか。つまりは普通の肉を高級品のようにしようというのである。もちろん、〝本物ではないけれど、いかにも霜降りに見えるでしょ。せめて雰囲気だけはリッチに楽しんでください〟。こんな説明を入れるのなら、それで満足する人がいてもいい。あの名品、〝蟹蒲〟は目隠しテストでは判別が就かないほどの味がする。もちろん、ちゃんと〝蟹蒲〟と表示しているのだから、その技術をひたすら賞賛するしかない。しかし〝ビフテキ〟と称しているからには、これは明らかに〝誤表示〟ではなくで〝偽表示〟意外の何物でもない。しかも、〝それなりのお値段〟を付けていたはずである。それにも拘わらず〝誤表示〟と言い続けるなんて、プロとしての良心があるのかと疑いたくなる。子どものころに〝嘘つきは泥棒のはじまり〟なんて言われた。どこかが認定する〝〇ツ星〟なんてのも怪しく感じられてきた。
〝繰り返し〟と〝組織体質〟 2013/11/07 Thu 3975
 〝ブルータス、おまえもか!〟ユリウス・カエサルの驚きは人間にとって〝永遠〟のものなのか。さらに〝〇〇、またか!〟というセリフも用意していないと、今日の現状を伝える舞台は成り立たないようでもある。〝またか〟。悲しいことである。あれだけ厳しい体験をし、心から反省したはずなのに、また同じことを繰り返してしまう。そんなケースもある。すでに1年ほど前のことだが、過去に〝リコール隠し〟として大きな問題になった自動車メーカーが、また不具合の情報を把握していたにも拘わらずリコールを見送っていたことが明らかになった。社内会議で〝安全上の問題はない〟という結論に達したのだという。最終的には、国交省から〝リコールの実施に、消極的な対応を続け、事実と異なる不適切な説明をしていた〟と指摘されて、厳重注意を受けている。最初の問題が起きたとき当時の社長は〝隠蔽工作が担当者の習い性になっていた〟といった発言をしている。
 事実は知らないが、その深刻さから推測して責任者はすべて変わった可能性が高い。それでも同じようなことが起きたとすれば、それは個別の人ではなく〝組織の体質〟によるものだと考えざるを得ない。このときは〝内部情報〟もあったようだ。つまりは〝事実を知っている人間〟がやむにやまれずに訴えたのである。私は、洋の東西を問わず、この地球上で起きる事故や不祥事は、すべての原因を〝言いたいことが言えない〟か〝言っても聞いてもらえない〟のどちらかに集約できると主張してきた。そこにあるのは組織における人間関係の問題である。この〝すべて〟という表現に抵抗を覚える向きがあるに違いない。たしかに〝ちょっと断定しすぎ〟の感はあるが、私はそこに焦点を当てて仕事をしている。
 
唖然の〝誤表示〟 2013/11/06 Wed 3974
 またまた、老舗のホテルや旅館など、いわゆる〝たくさん星〟のレストランなどで〝偽装疑惑〟が明るみに出た。しかも、ある有名ホテルでの発覚をきっかけに、〝それならわがところでも〟と〝待ってました〟とばかりに出てくるのが嘆かわしい。何のことはない、同じようなことを〝あっちもこっちも、日本国中で〟やっているのではないか。そんな疑いの目を向けたくなる。和牛と称して外国産の肉を使ったのかと思いきや、それも〝成型肉〟というから開いた口が塞がらない。成型肉は、肉のいろんな部位を集めて接着剤で固めたものである。これでも〝意図的な偽装ではなかった〟とか〝誤表示〟などという説明をしているようだが、それを聞いて〝ああ、そうだったんですか〟などと納得する人間がこのようのなかにいるのだろうか。小学生だって〝唖然〟とするに違いない。そもそもプロがまともな顔をして言うようなことではない。こんな状況では、海外産のいい加減な管理や偽装を笑ってるどころではない。いまに〝日本製は信頼できないから気をつけろ〟などと指さされるだろう。
 どんなことであっても、犯罪そのものや犯罪的行為は許されない。しかし、それが組織の現場に近い者たちが起こした場合は、総体的な被害としては、それほど大きくない場合もある。ところが、このごろは組織の上層部が絡んでいる不祥事が多すぎはしないか。いわゆる〝組織ぐるみ〟ということである。こんなことでは組織は崩壊してしまう。それどころか、日本そのものが沈没するに違いない。〝歴史は繰り返す〟などと言うが、組織の不祥事も繰り返されてしまう。不誠実な、あるいは犯罪的な行為に走ったために消滅した組織まであるのに、現実にはそれがまったく教訓になっていないのだ。
 
四半世紀前の職業 2013/11/05 Tue 3973
 昨日は〝寄り道〟して、書くつもりだったネタにまで到達しなかった。もう昨年のことになるが、東京の住宅街で男が日本刀で女性を切りつけた。被害者は意識不明の重体だったが、搬送された病院で亡くなってしまった。被害者の方には申し訳ないが、ここまでは〝よくある不幸な事件〟だと言っていい。私が〝味な話〟で取りあげたくなったのは、それを伝える報道の内容である。警視庁は女性が現場の民家に住む女性だとみて身元確認を進めている。これも〝よくあるパターン〟だ。そして記事は犯人の情報になる。〝男は向かいに住む元警視庁警視、〇〇〇〇容疑者(86)で、事件後、女性宅に立てこもって自殺した。〇〇〇〇容疑者は□□さんが世話をしていた多数の猫などを巡りトラブルになっていたといい、同庁は近く、容疑者死亡のまま殺人容疑で書類送検する方針〟と続いている。
 このときは記事の内容を数行に亘って書いているから、私のメモとしては〝異例〟と言える長さだ。これを私が残していたのは、上の2文のあるところに注目したからである。皆さんは、それがどの部分かおわかりだろうか。じつは、〝元警視庁警視〟という6文字に目が止まってしまったのだ。理由は簡単である。すでに86歳にもなる老人が犯した犯罪にも〝元の職業〟を書く必要があるのか。そんな疑問を持ったからである。年齢から推測すると四半世紀以上前に就いていた職業である。それがこの犯罪行為につながっている必然性などまったくないはずだ。単に個人の問題である。世の中には〝警察官までしていた人が…〟なんて情緒的な反応をする人はいるだろう。 伝える側は〝可能な限り事実〟をと言うだろうが、そんな昔の職業まで〝知らせなければならない〟必然性を感じない。
 
メモの洪水 2013/11/04 Mon 3972
 少しばかり旧くなるが、これは時期ではなく内容の問題だから賞味期限切れでもないだろう。
 じつは連休中に〝味な話の素メモ〟ファイルを開けて見たのだが、とにかく満杯というかメモが溜まりすぎなのである。その概数を数える気にもならないほどたくさんあって、おそらく300件ほどにはなるだろう。そのほとんどが〝単語〟あるいは1~2行の〝覚え書き〟にもならないメモである。そして〝いまごろ書いてもなあ…〟と思う〝賞味期限切れ〟のものもある。ご承知のように、私としては〝あること〟を念頭に書きはじめるのだが、これが〝道草〟〝寄り道〟〝脱線〟〝飛躍〟して、とにかく1回で終わりそうなものが止めどもなく拡散していく。
 そう言えば、今年の5月には温泉巡りをして、ついには日本一の石段である 3,333段にも挑戦した。当然のこととして、その物語をはじめたのはよかったが、間もなく師走だというのにまだ決着がついていない。それどころか、話は私が子どものころに住んだ佐賀県の伊万里にまで広がっていて、それすら放置状態である。しかも本コラムの読者の方から、〝私も石段に行ってきました〟とのご報告をいただいてしまった。そのときの臨場感あふれる表現に、〝ああ、そうだった私も早く書いとかなくっちゃあいけなかった〟などと思ってしまった。しかし、それにも拘わらず、〝他のネタ〟があって未だに放置したままである。そんなことだから、下手にメモなどしない方が身のためではないかと反省しはじめた。この調子だと、まずは不老不死の薬を見つけないといけなくなる。いやあまずいなあ。ここで〝不老不死〟なんて単語が頭の中からこぼれ出てきちゃったので、これをネタに〝またなんか書けるぞーっ〟なんて気がしてきましたよ。
 
記憶の不可思議 2013/11/03 Sun 3971
 記憶というものは本当に不思議だ。脳細胞のどこにどのような形で蓄積されているのか。自分でも思っていないことがいきなり思い浮かぶ。とにかく思い出そうと目をつぶり頭を抱えても蘇ってこない。しかし、それでも〝ああ、これだ〟と思い出す。そのときは、ただそれだけで感動すらする。とにかく思い出すということは、脳細胞のどこかに記録されていることだけは間違いない。この前は何の脈絡もなく〝たかじあすたーぜ〟ということばが頭に浮かんだ。これは消化促進の酵素で高峰譲吉という人が発見したものである。真偽のほどは知らないが、子どものころに母が〝大根おろしに『タカジアスターゼ』が入っている〟と言っていた。それはそうとして、この〝タカジアスターゼ〟ということば、前回はいつ使ったかなんて憶えてもいない。そもそも65年の人生でどれだけ〝言った〟ことがあるのか。まあ100回には届かないのではないか。それが〝いとも簡単に(?)〟頭に浮かぶなんて、何というメカニズムなんだろう。そういえば家内と話しているうちに、ひょんなことから〝牧ノ原台地〟という地名が飛び出てきた。これだって、一生のうちで何回使ったのか記憶にないが、社会の試験のときまで憶えていただけだろうに。また、家内が突如として〝一畑電鉄〟という固有名詞を口にした。何と20代のころに出雲に行ったときに乗ったのだそうな。じつは私自身はこのごろ、ときおり仕事で松江に出かけていて、そこを走っている一畑電鉄の電車を知っているし、系列のホテルに泊まったこともある。しかし、うん十年も前にしか行ったことがない家内の頭の中に〝一畑電鉄〟が残っていて、それが蘇るのである。こうした記憶のメカニズムを探るのは楽しい仕事に違いない。  
瞬間記憶蘇生の驚異 2013/11/02 Sat 3970
 高校2年生のときに父が長崎へ転勤になったが、私は福岡に残ることにした。そして父の関連で子弟寮に入ることになった。人間の記憶というものは不思議なものである。いま、この一文を書いた瞬間に頭の中に思い出がワッと吹き出してきた。あれは室見の寮に入ることが決まった土曜日のことだった。私は高校から市内電車に乗って室見に向かった。その日は電停で父と母と待ち合わせていた。3人で寮を見に行くことにしていたのである。電停の前に〝みゆき〟と言う名前のお店があった。雑貨屋と言うにはしゃれたところで、本や文具、化粧品なども置いていた記憶がある。まだ両親が来ないのでそのお店に入ってブラブラしていた。しかし、それにしても2人は現れないのである。
 先を急いで書くと、とにかく信じられないほど遅れてやってきた。もうその理由は憶えてもいないが、おそらくあの日は30分以上は待ったのではないか。それにしても、突如として両親が遅れたこと、電停の前に〝みゆき〟と言う名前の店があったことなどを瞬間に思い出すのである。まだ記憶のメカニズムは十分に解析されていないが、とにかくわれながら驚異と言うほかはない。しかも、ここまで書くとまたまた、その隣のスーパーや道路の反対側にあった床屋や酒屋、そして薬局のイメージまで付いてくるのだからさらに驚いてしまう。しかも床屋さんで体験したこともまた昨日のように蘇るではないか。とにかく落ち合った私たち3人は電停から歩いて5分ほどの寮に向かった。そうそう、その道すがらには後々にお世話になる(?)たばこ屋があり、その隣がこれまた通うことになる銭湯があった。そしてその横には元気のいいおじさんがいた小さな個人商店もあった。ああ思い出には切りがない。
 
大江18年、福岡17年 2013/11/01 Fri 3969
 熊本市の大江にある公務員宿舎には18年半ほど住んだ。私の人生で、すでにここが最も滞在の長い住まいになっていた。私の父は転勤の多い仕事をしていて、4年くらい経つと異動があった。家族もその度に引っ越していく。ただし、私が中学校で伊万里から福岡に行ってからは、ほぼ30歳になるまでそこで生活した。この間が17年近くになる。じつは、それまでと同じパターンで、父は私が高校2年生のときに長崎に転勤になった。家族は一家の大黒柱と生活を共にするのが常識の時代である。いまのように父親が単身赴任ということは聞いたことがなかった。そんな状況ではあったが、高校が進学校でもあり、私は1人で福岡に残りたいと主張した。それが認められて、そのとき住んでいた福岡市東部の香椎に下宿も見つけていた。当時の家賃は一畳で1,000円が相場だったことを思い出す。おそらく4畳半のところだった。父の異動は7月だが、子どもたちは一学期を終えるまで学校に行く。それから夏休みに引っ越しするというのが定着していた。その間に父が住まいを探すのである。
 そんなとき、父がある情報をもってきた。勤務先の単身寮が新築になる。それに伴って、これまで使ってきた建物を福岡に住んでいる子どもに開放してはどうかという話があるというのである。そこで前提になっているのは大学生であるが、高校生だって受け入れてくれそうだ。父に言わせれば、勤務先が管理する寮であれば朝と夕方の食事の世話をしてくれるし、民間の下宿よりも負担が少なくて済む。とにもかくにも親として安心できる。そんなことから、おそらくすでに契約まで済ませていたと推測する下宿を止めにして、〝子弟寮〟と名づけられたところから高校に通うことになったのである。