味な話の素  Since 2003/04/29 
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No.125 2013年09月号 3908-3937
八幡から行橋へ 2013/09/30 Mon 3937
 北九州から日豊線で南に向かうと苅田町があります。漢字表記からは〝かりた〟と呼びたくなるのですが、じつは〝かんだ〟なのです。ここには昔から九電の火力発電所があり、また1975年には日産自動車九州工場がスタートしています。さらに北九州空港も北九州の小倉南区と苅田町に跨がってつくられました。こうした企業などを多く抱えている自治体は平成の大合併にも乗らず、独立を保ったところが多いと思います。何と言っても企業からの税収が大きいので合併するとそれが薄められてしまいます。
 さて、そのまた南にあるのが行橋市です。私の父は母と結婚して間もなく中国に渡っています。そして敗戦後にいわゆる〝引き揚げ者〟として日本に帰ってきました。とにかく職のない時代です。まずは福岡県の浮羽郡にあった母の実家に転がり込みます。それから職を得て吉井町に小さな家を借ります。そして1948年(昭和23年)に私が生まれたというわけです。もちろん産婆さんが自宅にやってきた時代です。そこでしばらく働いてから公務員の試験を受けることになります。その試験に幸いにも合格して、最初の勤務地が北九州の八幡市だったのです。私はまだ小学校に入っていませんが、ぼんやりながらも、いくつかの記憶があります。まだ6歳になっていなかったと思いますから、人間はけっこう小さなときのイメージをどこかにもっているのだなあと、ちょっとした感動を覚えます。
 そして、その八幡市から転勤で引っ越したのが行橋市でした。最初は街の中心から外れたところにある借家に済むことになりました。もちろん、今となっては、それがどこだったのかはまったくわかりません。ただ、雨が降ると天井からポタポタと水滴が落ちてくる、そんなもの凄い家でした。
連載復活… 2013/09/29 Sun 3936 Continued from 7/23
 時間というものはなかなか厳しいものです。私たちの個人的な事情や思いとは関係なく、確実に進んでいきます。地球上のどこに住んでいても、誰もが同じ24時間を与えられ、その中で生きているわけです。ただし、相対性理論で超厳密に言えば、住んでいる場所によって時間の経過が違ってくるのでしょう。しかし、それは理論的なもので私たちの感覚レベルでは完全に無視していいはずです。じつは、今年のゴールデンウィークに温泉巡りをしたのですが、そのときに熊本県の美里町にも出かけました。ここには3,333段の石段を積んだ〝日本一の階段〟があります。もとは中央町でしたが、平成の大合併で美里町を構成することになりました。まあ、細かい歴史は置くとして、そこに〝佐俣の湯〟という温泉もあって、そこに家族で出かけた話を〝味な話の素〟に連載していました。
 ところが、自分でもどこからどうなったかわからないほど脇道に逸れていったわけです。ただし、脱線は本コラムの〝特徴〟なんです。私は子どものころから〝うろちょろして落ち着きがない〟と言われていましたから、〝それはそれで仕方がない〟と思っています。それでも、連載は7月23日まで何とか〝続いて〟いたのです。しかし、気がつけば、9月も明日で終わりではないですか。何とも時間が空きすぎてしまいました。しかも、その日の内容は私が子どものころに両親から買ってもらった机の話と、家族が住んでいた北九州の隣町である苅田や行橋の話題なんですね。いやはや、こんなことでは、いつになったら佐俣の湯にたどり着くやらわかりません。ただし、そこは粘着質を自認する私です。ここで〝連載放棄〟するわけにはいきませんから、またダラダラにお付き合いいただくことになります。
西安の大雁塔 2013/09/28 Sat 3935 Continued from 9/25
 最初の海外旅行先の中国ですが、北京のあとは西安と上海に出かけました。その当時は、〝北京⇒西安⇒上海〟の3点は〝ゴールデン・トライアングル〟と呼ばれていました。おそらくいまでもそうなのでしょうね。北京は中華人民共和国の首都です。そして、西安は昔の長安ですから、これまた誰もが知っている古都です。日本の東京と京都の関係に似ています。西安では大雁塔(だいがんとう)という、文字通りの塔がありました。これはあの孫悟空で有名な唐の玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するための施設ですからまことに由緒あるものです。ときの権力者だった高宗が三蔵の申し出を受けて652年に建立したのです。もちろん私も最上階まで昇りました。そこからさらに西の方にはシルクロードへと繋がっているわけです。街全体が砂混じりでほこりっぽい印象を受けましたが、それがまた何とも言えないロマンをかき立ててくれたのでした。
 塔の周りでは小さな木製の雁を売っていました。おばさんたちが観光客に近づいてきて〝千円、千円〟と声を高くして売り込むのでした。私たちは笑いながら〝いらない〟といった身振りをします。すると、その数がドンドン増えるんです。もう記憶は定かではありませんが、最初は4、5個だったのが、6個、7個とアップして、最後には両手に載せきれないほどになるのです。その圧倒的な攻勢に負けて、私たちの仲間の一人が千円で買ったと言いますか、買わされてしまいました。そして自分がこんなに持っていても仕方がないというので、皆に配りはじめました。そのときでした、渡し損ねた1個がバスの床に落ちてしまいました。と、それがパックリと見事に割れてしまったのです。なかなかおもしろい体験でした。
トップの無責任だけ? 2013/09/27 Fri 3934
 この世の中では、〝あってはならない〟ことが現実に起きる。しかもそれが繰り返されてしまう。そもそも人間とはそういうものなのか。そんなあきらめに近い気持ちになってしまうことが起きすぎるのではないか。もう言うまでもない、今回のJR北海道のトラブルである。これは〝あってはならない〟ではなく〝あり得ない〟と言うべき大問題である。JR北海道では2011年に特急列車がトンネル内で火災を起こした。その際の社長は自死している。事故の責任を取ったと推測される。そうした人の命を失うという厳然たる事実があったにもかかわらず、その後もトラブルが続いている。
 ここまで来ると、誰もが組織そのものに問題があると考えるのが当然である。ついにと言うべきか、脱線事故が起きてから、問題が湧き出るように出てくる。補修の基準を超えた異常を感知していながら放置していたところが267ヶ所にも至ったという。しかも、そうした不具合があっても、その情報が本社にまで届かなかったというからさらに驚愕する。われわれにはマスコミの情報しか手に入らないため、その内部事情まで知ることはできない。だから余計な推測はしない方がいい。ただ、ここまでひどいと、いろんなことを考えてしまう。こうしたときは、まずはトップ層のいい加減さを責めたくなる。しかし組織の責任者たちは、情報が上がらない事情を本当に知らなかったのだろうか。そしてそれをいいことだとして放置していたのか。そうだとすれば、弁解の余地はまるでない。さらに、そうした情報が伝わらないシステムそのものに対する危機感がなさ過ぎる。
 しかし、そこにそうした事情は掌握し、かつ問題だと考えていたにもかかわらず、何らかの理由で、その改善ができなかったということはないのか。これから国の調査も進められるようである。いずれその結果が公表されるにことだろう。今回のトラブルについての情報が増えるにつけ、〝単なるトップの無責任〟だけでは説明できない原因があるのではないか。そんな気持ちになるほど〝ひどすぎる〟というのが私の実感である。
デトロイトと〝農業革命〟 2013/09/26 Thu 3933
 数年前にド素人ながら、本欄で〝新農業革命〟なるものを提唱したことがあります。このまま行くと、日本は経済大国でなくなるかもしれません。そうなっても、〝経済的には厳しいけれど、21世紀の初めころの人たちが手を打ってくれていたので何とか食べていける〟と言ってくれるようにしておかないといけないと思うのです。とにかく、いまこそ〝新農業革命を〟と叫びたかったわけです。生きる基本は食べ物です。そこを押さえなければ国は滅びるしかない。そもそも農業は総合科学です。それは作物や果物を作るだけではありません。iPS細胞の研究だって関連していますし、天気情報も欠かせません。それは衛星を打ち上げる宇宙開発にまで繋がります。農機具などの機械製造も重要な分野です。いまこそ将来を見据えて農業という総合科学を育てることが求められているのです。
 最近、アメリカのデトロイトが破産したニュースを聞いて私は驚いてしまいました。またある種の感慨もありました。私たちが小学生のころ、デトロイトは巨大な自動車の都市でした。その写真を見ただけで、日本にこんな大都市ができるなんてあり得ないと思っていました。それがどうでしょう。デトロイトをこうした状況に追い込んだ原因の一つとして日本の自動車産業の発展があるはずです。いま、TPPが議論を呼んでいます。これには農業にとって厳しい問題が含まれているのだと思います。しかし、ここで〝農業革命〟を起こして、第2の〝自動車産業〟を創り上げるというチャレンジもあっていいのではないでしょうか。農業に関わる技術や様々なノウハウを輸出することだって大いにあり得るでしょう。さらに太陽電池や太陽光を使ったハウス栽培システムだって輸出できるでしょう。
 
北京の観光 2013/09/25 Wed 3932
 さて、北京では中国科学院をはじめとした研究者や実務家との情報交換を終えました。それから観光として万里の長城に出かけました。何といっても〝万里〟なのですから、登り口はいろいろあるのだと思います。私たちは北京からバスのルートで出かけました。そこにあったのは〝万里の長城〟でした?そのとき、どのくらい歩いたのかもいまでは記憶がありません。石の畳を登ったり下ったりしながら時間を過ごしたわけです。それから故宮博物館にも行きました。あの毛沢東氏の巨大な肖像画でしばしば登場する天安門広場ですが、あの門をくぐっていくとドデカイ博物館がありました。
 さらに本場の北京ダックも体験できました。私たちのところに勉強に来られていた中国科学院の陳龍さんご家族が招待してくださったのです。中国は一人っ子政策ですから、お嬢さんが1人でした。食事が一段落ついたとき、彼女が〝北国の春〟を謳ってくれました。いまは結婚してパリに住んでいるとのことです。昨年、私はパリに出かけたのですが、そのときはお父さんの陳先生もご一緒だったということをあとで知りました。それが事前にわかっていたら、久しぶりにパリで会うという、かなりおもしろい事態になったはずでした。つい先だって、陳先生から手紙が届きましたが、住所はもとの北京になっていました。初めてお会いしてからすでに20年以上が経過していますが、恩師の三隅先生に対する尊敬の念を変わりなく持ち続けていらっしゃいます。先生が滞在中は私もリーダーシップ・トレーニングに関するノウハウなどをお伝えしました。そのこともしっかり感謝していただいています。個々人としては良好な関係がたくさんあるはずですが、国レベルとなるとややこしくなるわけです。
北京以降 2013/09/24 Tue 3931 Continued from 3/14
 私が初めて海外に出かけたのは1992年、48歳のときだったことはすでに書きました。そのスタートが中国で、三隅先生を団長にしたグループ・ダイナミックスを伝える訪問団の一員としての訪中でした。そして、私が初めて踏んだ外国の土地が大連であること、北京では中国科学院で情報提供したことまでお伝えしました。これが3月14日のことです。とにかく時間はドンドン過ぎ去っていきます。それからもう半年も経ってしまったのです。
 もともとは、私のどちらかと言えば奥手の海外体験物語をときおり連載しようと考えてスタートしたのですが、まだ最初の中国訪問が終わっていないわけです。まあ、私の〝味な話の素〟ですから、これも珍しいことではございません。とは言いながら、〝続ける意欲〟は失われておりませんので、またぞろボチボチと行きましょう。今年の7月にはオランダとスウェーデンに出かけましたが、この調子だとストックホルムに達するまでにはあと5年くらいかかるかもしれません。それでは自慢の瞬間忘却機の性能がさらに向上して、しっかりとした物語にならないでしょう。
 そうは言っても、生まれて初めての海外である〝訪中物語〟も中途半端にするわきにはいきません。ここはとにかく、〝北京〟以降の続きを、少し足早に追いかけることにしましょう。いまから21年前の北京は、明らかに〝これから〟という状況でした。天安門広場前を走る大通りは、とにかく自転車で埋め尽くされていました。トロリーバスだったような記憶もありますが、バスも満杯で人がこぼれ落ちそうでした。北京空港に近づいたときの地上が暗かったことも強く印象に残っています。その当時の熊本上空からの光景の方が圧倒的に明るかったことは間違いありません。
 
内職革命 2013/09/23 Mon 3930
 いつのまにか風景が変わっている。そんな体験をしばしばしますが、オフィスや教室でも明らかに時代の変化が見られます。たとえば、ほとんどの仕事場の机の上にコンピュータが当たり前のように座っています。失礼を承知の上で申し上げれば、ある程度のお年を召された管理職の方すべてがキーボードが得意だとは言えないと思います。もちろんマウスでかなりのことができるようにはなっていますが、そのマウスすら苦手だという方がいらっしゃることも事実です。そしていまや学校の教室では〝電子黒板〟なるものが普及しつつあります。私自身も授業のベースはパワーポイントで、付加的な情報をホワイトボードに書いていくスタイルを取っています。そうですね、いわゆる黒板が少なくなって、チョークを使う機会もめっきり減りました。こうした状況ですから、私がお手伝いしているある大学の授業では学生たちが基本的にPCを机上に置いています。まさにノート型コンピュータで〝ノート〟を取るわけです。私のような〝戦後すぐ生まれ〟にはちょっと違和感がありますが、もう時代が変わったのです。
 こんなことですから学会や会議でも、あちこちでPCの蓋を開けている人がたくさんいます。そんな様子を後ろから何気なく見ていると興味深い光景が目に入ってくることがあります。そのときの発表や発言内容とはまったく関係のない画面を見ている人がいるわけです。何やら重要そうな文書を作成している人もいます。つまりは、〝内職〟をしているんですね。まあ、そんな人がいてもおかしくないと言えばそれまでではあります。ただし〝昔の内職〟は、できるだけバレないように気を配っていたはずです。いまやそんなことを気にしている時代ではないのでしょうか。
 
特急のドアに寄り添って… 2013/09/22 Sun 3929 Continued from 9/14
 少し間が空くと、それこそ〝間が抜けて〟しまいますね。じつは新鳥栖から諫早へ出かけたときの物語が途中で止まっていました。しっかり確認していないのですが、おそらく一昨年のことです。大雨で長崎線が乱れ、たまたま到着した大幅に遅れた特急に乗ったのです。改札口で、駅員さんから〝あれに乗ってください〟と言われたくらいですから、乗車は〝びりっけつ〟になりました。電車は超満員です。それはそうでしょう、特急2本か3本分のお客が乗っているからです。その電車に最後に乗ったのですから、それはもう大変でした。電車のドアのあたりに顔まで押しつけられたというのは、少しばかりオーバーですが、首都圏の通勤ラッシュとはこんなものだろうかと思うくらいでした。しかも佐賀まで徐行運転だというのです。ダイヤでは特急で13分、鈍行でも23分の距離です。この間を時速25kmでゆっくり走ります。ときどき信号停車になります。そんなことですから、はっきりは憶えていませんが佐賀まで50分以上かかったはずです。
 佐賀駅ではかなりのお客さんが降ります。これは福岡に通勤している人も多いからだろうと推測しています。私は金曜日の夕刻に乗ることがけっこうあるのですが、自由席はかなりの人が立っている状態で新鳥栖に到着するのです。それはともあれ、ドア側すれすれにいた私ですから、まずはホームへ降りたわけです。とにかく大勢の人たちがドアから出てきます。それがなかなか終わりません。それだけ満員状態だったわけです。そのとき、ふと前の方を見ると降車する人の流れが終わっていました。そこでそちらの方に移動していったわけです。その車両ではデッキに立っている人もいましたが、 3~4席が空いているではないですか。
 
〝リンカーン〟 2013/09/21 Sat 3928
 さて、ゴールデンウィークに観た映画の3番目は〝リンカーン〟でした。あの奴隷開放のために南北戦争を戦ったリンカーンの物語です。映画は憲法に修正条項を付けるために様々な議会工作をする過程を描きます。いまから150年ほど前のことですが、賛成票を獲得するために役職への就任を約束するといったことも行われます。今日ではとんでもない裏取引として糾弾されるに違いありません。賄賂で票を買うようなものですから。もちろん映画を観るまで、こんな裏があったなんて知りませんでした。ある意味では〝神聖なる憲法の修正〟、しかも〝奴隷解放〟という歴史的な評決がそうした手段も利用しながら決定されたということです。そんなこんなもありながら、アメリカ合衆国憲法修正第13条はわずか2票の差で可決されたのでした。これもまた歴史というか、時代というものなのでしょうね。しかもリンカーンはそれからすぐに暗殺されてしまいますから、その後の流れはまったく知ることはできなかったのです。これが各州の議会に提案されたのは1865年1月13日のことです。しかし、最後のミシシッピー州が批准したのはなんと1995年3月16日なのです。
 私は1960年代に中学生でしたので、リンカーンが暗殺されてからほぼ100年後になります。そのとき、アメリカでは利用するお店やバス、さらにはトイレまでが白人と黒人で違っている事実を知っていました。そして、それによるトラブルが頻発していたのです。こうした人種問題の解決に取り組んだのが、あの若き大統領J.F.K.:ケネディだったのです。その長女が駐日大使になるというので話題になっています。しかし、彼もリンカーンと同じように暗殺という悲劇の大統領になってしまいます。
 
プラハの春 2013/09/20 Fri 3927
 権力が発信する情報が怪しいとなると、国民もそれを〝眉に唾付けて〟受け取るようになります。私が大学2年生だった1968年のことです。当時、社会主義国で構成するワルシャワ条約機構のメンバーだったチェコスロバキアで自由化の気運が高まりました。チェコ共産党の書記長に就任したドプチェク氏がそれまでの政策を大きく変えたのです。そのなかの目玉の一つが〝報道の自由化=検閲の廃止〟でした。共産党大会も公開されました。こうした動きの中で行われたメーデーは、まさに自由の祭典と化したのです。このときの首都の模様が〝プラハの春〟と呼ばれるようになったわけです。ここ数年間、チュニジアやエジプト、リビアなどの北アフリカや中東で起きた政権交代を求める運動には〝アラブの春〟といった見出しが付けられています。これらは〝プラハの春〟を念頭に置いて命名されたのだと思います。
 元祖〝プラハの春〟は、ワルシャワ条約機構を主導していたソビエト軍が戦車を動員してチェコに侵入して、あっけなく終わってしまいます。さて、改革の夢が壊れたとき、一人の大学生が焼身自殺を図りました。大学2年生だった私は、軍事的な侵攻はもちろん、同じ年代の若者が自ら命を絶ったことに大きな衝撃を受けました。一時的な〝春〟の際は新聞の発行部数も大きく伸びたようです。つまりは国民が報道を信じるようになったのです。また、それまでは〝Radio Free Europe〟という〝自由主義国〟からのラジオ放送を聞いていた人がけっこういたのですが、自由化後はそれが急速に減少したという調査データもあります。情報を押さえれば、国民もそれに対応するのです。それが流言・飛語になると問題ですが、案外と真実を突いていることもあるわけです。
 
〝図書館戦争〟 2013/09/19 Thu 3926
 ゴールデンウィークに〝舟を編む〟の次に観たのは〝図書館戦争〟でした。こちらも〝本〟がらみの映画ですが、内容は言論統制と思想・表現の自由をテーマにしたものでした。その点で重いテーマを背負っているのですが、タイトル通り銃撃戦を伴った戦闘が起きるわけです。いまの世の中で、図書館の本を守るために火器を使って戦争をするなんてことはあり得ません。その点で荒唐無稽だと言ってしまえば、その通りの展開ではありました。しかし、権力者たちに情報をコントロールされることの危険性を分かり易く伝えているのですから、誰にもわかりやすく、なかなかの作品だと言えるでしょう。
 秦の始皇帝が行った思想弾圧である〝焚書坑儒〟やナチスの〝非ドイツ的な魂〟に対する抗議行動の一環として書物が燃やされたことは歴史的な事実です。私たちも、あの戦争中には〝検閲〟というものがあり、新聞や雑誌などが黒塗りになったりしたのです。新聞では発刊ギリギリになってダメ出しを受けると、その部分の埋め合わせができず空白になることもあったようです。しかし、そのこと自身が読者に〝何かあったんだなあ〟と思わせたりするわけです。そんなことで、〝国民に知らされないことがある〟ことを〝知らせるため〟に、意図的に〝空白〟のままにしたこともあったようです。この最後の部分は若いころに読んだ本の記憶ですから、しっかり確認はしていません。しかし、そんなことがあってもおかしくないと思います。こうした状況が続けば、国民の方も〝眉に唾しながら〟情報を受け止めることになります。〝新聞には日本軍が快進撃を続けていると書いてあるが、本当は大打撃を受けたらしい〟。そんな日常的な会話が交わされていたという話を聞いたことがあります。
映画〝舟を編む〟 2013/09/18 Wed 3925 Continued from 8/23
 わが家で映画のビデオを見る場合も〝厳しい条件〟を付けて〝観賞映画リスト〟に加えることにしたところまでお話ししていました。とにかく〝エンドマーク〟が出るまでじっと画面を凝視し続けるのです。前回は〝周りを真っ暗にして指定の座席に模して座椅子を使います…〟とも書きました。すみません、じつはそんな条件を付けてるなんて〝真っ赤な嘘〟でした。そもそもわが家には〝座椅子〟はありません。もう一度〝すみません〟。ただし、観ている途中で止めないことだけは厳守しています。
 さて、少し昔のことになりますが、ゴールデン・ウィークには劇場で3本の映画を観ました。まずは〝舟を編む〟です。昨年の本屋大賞を取った作品の映画化で、日本語の辞書を編纂していく物語でした。ことばの定義をするのはむずかしいけれど、その成果は後世に残るのですから、これ以上に楽しい仕事はないでしょう。もともと活字好きというか、活字中毒で、かつては辞書や辞典にもマニアックなところがあった私です。ただ単純に楽しい映画でした。それにしても紙の辞書を開かなくなってどのくらいになるでしょう。すでに小さな英和辞書は処分してしまいました。私は電子辞書の出始めから使っていますが、当初は液晶で1行表示など、とても紙の辞書の敵ではありませんでした。表示が5行くらいになったときでしたか、しばらく海外で過ごすことになりました。そのときはデカイ辞書をもって行くことができず、電子辞書に頼らざるをえなくなりました。しかし、これが大いに働いてくれたのです。とくに病院に行ったとき、お医者さんが発する〝医療英語〟は私の単語帳に載っていないものばかりでした。そこで電子辞書を仲介にしたところバッチリ意思疎通ができたのです。
 
ムードメーカー 2013/09/17 Tue 3924
 学生を対象にした講義では少ないのだけれど、講演をしていると、ときおり強烈に反応する方がいたりする。こちらとしては〝受け狙い〟で言ったつもりがないのに、とにかく体を震わせると言えばちとオーバーだけれど、大声を出して笑っていただくわけだ。これがその場にいる他の人たちに影響を及ぼすからおもしろい。話の内容ではなく、人の反応につられて笑うのである。そのうち周りの人たちは、その人が笑うのを待っているかのような雰囲気が生まれる。こうした方々を〝ムードメーカー〟というのだろうか。とにかくその場が飛びきり明るくなるから、こちらも話がしやすくなる。ありがたや、ありがたや。
 それはそうとして、反応の有無にかかわらず、その状況に対応しながら話をすすめていくのが私たちの仕事である。それもまた楽しいのだが、自分だけで調子に乗ってはいけない。大学で学生評価が導入されてからかなりの時間が経過した。評価の自由記述欄に〝余談が多い〟と指摘されたことがある。自分としては、それなりに主題と関連させながら〝行ったり来たり〟しているつもりだが、〝余談〟だと受け止められたわけだ。〝あんたは脱線が多いんだろう。このコラムを見てると想像がつくよ〟なんて言われそうでもありますが…。ただし、その一方で〝余談がとてもおもしろくて、しかも自分の生きる力になっています〟などと、涙が出るようなことを書く学生もいる。自分に都合のいいものだけをピックアップするのは気が引けるが、こんな記述もあった。〝講義の冒頭でイスタンブールの話を聞き、いろんな状況でも講義の題材にしてしまわれることに驚き、食い入ってしまいました…〟。このときは、学会で出かけたイスタンブールのことを話題にしたのだった。
いよいよスタート 2013/09/16 Mon 3923
 ときとところを問わず、どんな組織にも〝縁の下の力持ち〟がいる。そうでないと動かないのである。九大同窓会の熊本支部の場合もその通りで、本職の仕事が大丈夫なのかと周りが心配するほどだったのである。〝何もしない理事〟の私も忸怩たるものを感じながら、〝そのとおりだ〟と思っていた。このほかに、熊本の同窓会としては、私が卒業した福岡高校のものもあって、毎年10月には定例会が開催されている。この時期はいろいろとスケジュールが入りがちで、私自身はまだ一度しか参加したことがない。この会もやはりボランティアとしてリードされるキーパーソンがいらっしゃる。そもそもこの方のご尽力で会ができあがった。こうした先導的なリーダーの存在を抜きにしては、いわば任意団体である地域の同窓会は存在することができない。しかもリーダーとは言いながら実態はボランティアそのものである。
 ところで、九大の方は2月に熊本市内のホテルでスタートを切った。記念講演と発会式を終えた懇親会の会場では、法学部卒業の方々と同じテーブルに着いた。ここでも〝何もしない理事〟としての面目躍如というべきか、わが教育学部卒の出席者は地元の新聞社にお勤めになっている記者の方と私の2人だけだった。何とも申し訳ない。それにしても法学部というプレートが置かれたところには、じつにお若い方々が座っていらっしゃる。そもそも同窓会なるものは〝年寄りクラブ〟みたいなところがある。個別に卒業年度ごとに集まる場合だと、全員が同じ年齢だから〝みんな若い〟こともあっておかしくない。しかし、これが〝全体〟になると大抵は高齢者たちが大多数を占めることになるはずだ。そうなるとなおさら〝若いモン〟たちの出席する意欲は減退する。
同窓会支部の発足 2013/09/15 Sat 3922
 九州大学の熊本同窓会を結成しようという話があって、その発起人の1人になってくれないかと誘われた。すでにいくつかの学部には熊本支部があり、それらを統合しようという話になったという。ところが教育学部にはそうしたものがない。そこで発起人になってくれないかということであった。もう3年くらい前になるだろうか。私はこの手の仕事が苦手で、いわゆる〝同窓会〟活動にはほとんど関わりをもってこなかった。そこで私としては大先輩をご推薦したところ、幸いに快く引き受けていただいた。そんなわけで支部発足の準備が進められたのである。その後は順調で、いよいよ公式組織として発足することになった。それに伴って理事などの役員を決める段取りになり、再び私に声を掛けていただいた。このときも発起人を引き受けていただいた大先輩にと思って、その旨をお伝えした。ところがその回答は〝あなたがしなさい〟だった。
 そんな流れの中で、とうとう〝何もしない理事〟として大役を引き受けてしまった。そして2月には九州大学熊本同窓会の発会式が開催された。私としても当日のお手伝いくらいはちゃんとしないといけない思ったから、気持ちだけは早めに会場に出かけた。しかし、ときすでに遅しだった。準備万端、私の出る幕などまるでなかった。どんな仕事でも大いにリーダーシップを発揮される方がいらっしゃる。同窓会の運営もまったく同じだ。それも前面に出られるのではなく、いわゆる縁の下の力持ちとして尽力されるのである。こうした方がいなければ任意の団体は存在し得ない。今回の場合は、法学部を卒業された弁護士の方がその役割を担われた。関係者が口々に〝○○さんはまともに自分の仕事ができなかったのじゃないの〟と言っていた。
あのときと同じ… 2013/09/14 Fri 3921
 さて、案内放送の音量問題はひとまず置くとして、新鳥栖に近づいた〝さくら〟の中で、〝大雨のために鹿児島線、長崎線に遅れが生じている〟というアナウンスを聞いたときは、いやな予感がした。過去にこれとまったく同じ状況に遭遇したことがあったからだ。そのときもやはり大雨がらみだった。佐賀のあたりが冠水しているらしかった。しかし、その運行区間だけでなく、長崎線全体が恐ろしく遅延状態だったのである。その理由は単純で、仮に佐賀付近のスピードを落として運転しても、長崎方面から博多へ向かう列車が遅れてくる。その影響が積み重なれば、今度は長崎行きの折り返し電車が調達できないのである。もちろん予備の車両を準備している可能性も考えられるが、それだって限度があるに違いない。
 そんなこんなで、そもそも博多を出る電車が定刻の1時間以上も遅れて出発していたのである。このときは、そうした遅れの事実すら知らなかった。新幹線の中でその案内を聞いた記憶もない。ともあれかなり早めに新鳥栖に着いたこともあって、駅の外に出て親戚に電話をしたことを想い出す。それも一区切りついたのでやおら長崎線の改札に行くと遅延しているという。指定席を取っていた電車どころか、その1時間前に発車する特急が到着していなかった。〝おい、おい〟と思った瞬間、駅員が声を掛けてきた。〝お客様、長崎方面でしたら特急列車運行の目処が立っていません。じつはすぐに前の特急が入ってきます。こちらにお乗りになることをお勧めします〟。そう聞いた瞬間、ちょうど向かい側のホームに列車が入ってきた。こうなったら、とにかく走るしかない。自分でも元気さにはちょっと自信があるが、還暦を超えた体である。老骨に鞭打って階段を上っていった。
ボリューム問題 2013/09/13 Fri 3920 Continued from 9/06
 駅構内も車内も放送のボリュームが強烈すぎて、ときには耳が痛くなることすらある。駅の場合、発車と到着の列車が重なったりすると状況はさらに悪化する。たとえば熊本駅では博多からの〝つばめ〟がホームに到着するのと、新大阪方面に行く〝さくら〟が重なることがある。まず〝つばめ〟についてだが、熊本駅に到着すると同時に折り返し博多方面に向かう電車であることが案内される。つぎに〝さくら〟の方は、間もなく到着し新大阪まで行くとの放送が流れる。〝つばめ〟はあらかじめ録音されたものである。〝さくら〟はホームで到着と発車を仕切る駅員による生の声だ。これがまったく同時に重なるのである。しかもそのボリュームが半端ではない。少なくとも私の耳には強烈に響く。ボリュームが大きいのは〝聞くことに不自由を感じる利用者のためだ〟と言われれば批判しにくいが、それならなおさらのこと〝同時〟ではまずいに決まっている。
 つい先日のこと、大阪の阪急電車に乗った。駅の列車案内はきわめて静かで必要な限度に押さえられていた。構内放送は電車が到着する少し前までなかったし、まずは軽いメロディーが流れて、〝適切な〟音量で〝間もなく〇〇行が参ります〟といった感じだった。セリフを逐一メモしたわけではないが、電車の中もまた〝適切〟なものだと思った。もちろん、この〝適切さ〟が個人や立場によって変わってくるのは当然である。その上で、私自身は日本の駅や車内で、音量やタイミングなどでどうかと思うケースが少なくないと感じている。箱根あたりだったか、ずっとしゃべりまくることで大好評の車掌さんが話題になっていた。観光客には何よりのサービスだと思うが、本を読みながら通勤している人などはどうなんだろう。
それでも〝ホンマによかった〟? 2013/09/12 Thu 3919
 〝昔はホンマによかったですか〟と疑問を投げかける事例を挙げていけば切りがありません。だから、昨日の3つだけでおしまいにしようと思ったのですが、〝姦通罪〟と〝女性参政権〟は女性にウエイトがあるものでした。さらに、私自身がその法律の問題を実感できる時代のものではありませんでした。その点で、最後の〝内風呂〟だけが性別に関係ありませんし、私自身が〝自宅に風呂がない〟時代をかなり永く体験した事実だったのです。そんなことから、〝やっぱりもう少しリストアップしておこうか〟という気持ちになりました。それでも、とくに重要度などを無視して、ただひたすら頭に浮かぶものを挙げていくだけになります。
 まずは内風呂にしても、お湯を沸かすのが大変でしたよね。家の外にある風呂釜に紙と木片を入れて、まずは紙に火を付けます。そして木片が燃える火がさらに石炭に燃え移るという段取りです。細かいことは言いませんが湯の温度の調整だって簡単ではありませんでした。お湯がぬるくなれば石炭を追加します。雪の降る冬の夜だって外に出て石炭を釜に投げ込まないといけない。どうです、これでも昔の方がよかったですか。
 私が高校生になるころまで洗濯は手動でした。つまりは洗濯板でゴシゴシと対象をしごくのです。洗濯板なんて言っても〝昔はよかった症候群〟の世代にしか分からないでしょう。とにかく洗濯機がなかったということです。これまた寒い冬など手が真っ赤になるのは常識でした。脱水機や乾燥機など人の想像力を超えていました。そうそう私の家に冷蔵庫が来たのは中学生の終わりだったのですよ。自宅で氷ができるなんて、とても信じられませんでしたね。ああ、やっぱり切りがない。まだ〝昔がよかった〟と思いますか。
 
〝昔はよかった〟症候群 2013/09/11 Wed 3918
 私たちの年になると、いやそれよりもかなり早い時期から〝昔はよかった〟と言うことが多くなります。これは〝今時の若者は〟という、繰り返されてきた嘆き節とトップを争う〝年寄り語〟ですね。ここで〝年寄り〟の定義をすることもないでしょう。相撲では引退すると30代でも〝年寄り〟ですから…。発想を逆転させて〝昔はよかった〟〝今時の若者は〟と言い始めたら、年齢を問わず〝年寄りになった〟ということにするのもいいかもしれません。
 たしかに昔はあり得なかったとんでもないことが今日では起きてしまう。あるいは起こしてしまう人たちがいるのは事実です。しかし、そうかと言って時間は逆に進むことはあり得ません。とにかくあれやこれやと知恵を出していくしかない。ちょっと過激ですが、それでもダメだったら国ごと沈没するしかない。ただし、そこまで窮地に追い込まれていくと、人間ですからこれまた何とかするとは思いますが…。
 そうそう、今日はそうした〝自暴自棄〟〝あきらめ〟の心境を書くつもりはありません。とにもかくにも〝昔はよかった〟とばかり言いまくるのは止めましょうという提案です。そして〝昔はこんなだったですが、それでもよかったですか〟と、規定の720文字で書ける範囲で疑問を呈してみようと思うのです。まずは〝昔は姦通罪〟というものがありました。妻が他の男性と関係をもったときは夫の告訴によって、妻だけでなく相手の男も処罰されたました。ところが、夫が同じことをしても相手が人妻でなければ問題にならなかったのです。また〝昔は女性に参政権がなかった〟のです。それが実現したのは1945年になってからです。さらに〝昔は自分の家に風呂なんてなかったです〟よね。いやあすでに字数制限一杯、挙げだしたら切りがないのです。
〝いつかは、Made in Japan〟 2013/09/10 Tue 3917
 現時点では世界を席巻する一眼レフカメラだが、その命を決するパーツであるミラーがないカメラ、つまりはミラーレスカメラの急増が予想される。そもそもミラーが不要だからコンパクトに設計できる。とにかくシャッターを連動してミラーを跳ね上げる精緻な技術がいらないのである。つまりは後発のメーカーでも追いつくことができるのだ。それどころか液晶を含めた製品では、いまや韓国勢が世界を圧倒している。もちろんレンズも高度の技術が必要になる。しかし、これについては日本製のカメラでも海外の製品を使っているものがある。それに映像の質はミラーではなく電子素子で決まるから、写真のできにはまったく遜色がないのだ。まさに日本製一眼レフが窮地に陥ることになるだはないか。
 しかし、今こそ正念場なのだ。私はこれまで以上に一眼レフを進化させ続けるべきだと確信している。そして、世界中の写真を愛する人々に〝いつかは日本の一眼レフカメラを手にしたい〟という夢と願望をもってもらうのである。その付加価値は圧倒的に大きいのだから、価格も飛び切り高くていい。もちろんメカニズムはきわめてハイレベルだから、これから追いつこうという気持ちになるものもいないのである。ところで、スイスの時計は日本製の台頭によって厳しい試練を体験したはずである。しかし、いまでは手作りの高級機がスイスの国際収支に大きく貢献しているという。時計は2011年の統計で輸出の9.8%を占め、前年より19.4%の伸びを示している。これに対してクォーツで大成功を収めたセイコーでは手先の器用な技術者が減少したとも聞いた。そして〝高級時計はスイス〟という評価が定着して健闘しているのである。これで一眼レフカメラの戦略も決まりだろう。
 
Made in Japan 2013/09/09 Mon 3916
 今年は7月にアムステルダムとストックホルムに出かけた。オランダとスウエーデンだがどちらも初めてである。ヨーロッパでは以前からサムスンやLG が幅をきかせていた。ウィーンの空港には大きなヒュンダイ自動車の看板もあった。ヨーロッパに関しては、その傾向はさらに強くなった感じがする。
 そんななかで〝すべてMade in Japan〟と断じても間違いないと思われるものがあった。カメラである。とりわけCanon のロゴマークは行く先々で目についた。一眼レフの高級品もけっこう健闘していた。このごろはミラーレスカメラと呼ばれるものが台頭しつつある。これには一眼レフカメラの精巧なメカニズムがない。一眼レフはレンズから入ってくる光をミラーで反射してファインダーから画像を確認する。シャッターを押した瞬間にミラーが跳ね上がって、受光体にレンズからの光が届く。これを画像として記録する構造になっているのが一眼レフカメラである。昔はフィルムを使っていたから、瞬間的に光を当てないとあっという間に感光してしまう。つまりは真っ黒になるから写真にならないのだ。だからフィルムに届くのと同じ映像をまずはファインダーで確認しておくのである。これでいいぞとなったらシャッターを押す。
 ところが、少なくとも素人にとっては、フィルムは身の回りからすっかり消えてしまった。光を直接受ける電子素子は感光などしない。だから単純に、そのときレンズの前にある映像をそのまま感知して映像として記録するのだ。そんなわけでレンズを通して入ってくる映像をあらかじめファインダーで確認しなくていい。電子の目に映っているものをディスプレイで見れば、それがそのまま画像になるのである。その結果、ミラーが不要になった。
コーラとお茶と水とガソリン 2013/09/08 Sun 3915
 私がコカコーラを初めて飲んだのは中学生のときだった。コーラは米軍基地内では普及していたらしい。日本コカコーラ(株)のHPによれば国内での製造開始は1957年だという。私が小学生のときだが、〝そんなものがある〟と認知したのは中学生ころだったはずだ。そのとき1本が35円だった。日本人に馴染みのあったサイダーやラムネが20円しなかったと思うから、とにかく破格に高かった。これは国内のメーカーを保護するための政策だったと推測する。ともあれ、最初の1本は一口飲んで吐き出した。そのときは35円という価格のことは忘れてしまったのである。福岡市の香椎、バス停の前にあったそのお店の位置まで記憶している。
 そして時代の経過と共にお茶が自動販売機の製品となった。今となってはミネラルウォーターとどちらが先に商品化されたのかすら記憶にない。しかしわれわれの世代にとって、〝お茶は言うまでもなく、水にいたってはタダが当然だ〟と確信していたことは間違いない。だからどうしても水分が必要なときは、お茶やミネラルウォーターがあっても、それらを避けてジュースを選んでいた。私が意識的に水を買ったのは1992年に中国へ行ったときだったと思う。海外では水に気をつけなさいというアドバイスにしたがったのである。それから長い月日が経過した。いまでは糖分過多を避けるためにも、お茶やミネラルウォーターにしか手を出さなくなった。しかし、それにしてもミネラルウォーターはすごいものだ。一般的には500mlで100円程度する。ということは1リットルで200円ということになる。いまガソリンが高騰して、160円を超えた、超えないと大ニュースになっている。水はそれよりも高いのだが、もう当たり前になった感がある。
今月の写真 2013/09/07 Sat 3914
 今月は2枚とも〝電車〟にした。正確には左の青い方はディーゼル車である。JR九州の佐世保駅・竹松駅と長崎駅を結ぶ快速列車だ。左側のライトの上にSSLという文字が見える。これはのシーサイドライナー(SEA SIDE LINER)という愛称の頭文字である。佐世保駅・竹松駅から佐世保線・大村線・長崎本線を経由して長崎へ向かう。もちろん長崎から佐世保への逆方向もある。この写真は諫早駅で撮った。日曜日の夕刻だったが、お客さんはそこそこ乗っている感じだった。私自身も諫早から大村までこの列車に乗車したことがある。九州本体と西彼杵半島に囲まれた大村湾添いを走る。佐世保と長崎の間は81.4kmだからけっこうか距離がある。所要時間は1時間50分ほどらしい。ブルーがなかなかいい感じである。
 右側は長崎と博多を結ぶ特急〝かもめ〟である。これも諫早駅で撮った。これから停車するタイミングである。黒くて精悍な顔をしているが、以前は鹿児島線の〝つばめ〟として走っていた。九州新幹線が開通したために〝つばめ〟としての役割を終えた。その後は長崎線や日豊線で頑張っている。いまでも特例的に(?)何本かの特急が在来の鹿児島線で走っているようだが、この車両を使っているのかどうかは確認していない。コンパートメントで仕切った車両もあって、けっこうおもしろい仕様になっていた。すべての座席に足置きもある。こうした経緯から〝かもめ〟としては後発の車両である。長崎線では随分前から〝白いかもめ〟と呼ばれるマニアが好みそうな電車が走っている。ただし、私自身はその乗り心地について今ひとつだと思っている。座席は黒いレザー張りのような感じでじつに豪華に見える。ところが実際に座ってみると何とも狭くて窮屈なのだ。
悪夢の思い出 2013/09/06 Fri 3913
 首尾よくノンストップで新鳥栖に着く〝さくら〟に乗った私は大いに満足した。わずか23分しかかからないのにPCを出して〝趣味の仕事〟に精を出した。座席にコンセントが着いているN700系〝さくら〟はじつにいい。バッテリーが満タンのままだと在来線特急〝かもめ〟で1時間11分かかる新鳥栖/諫早間も心置きなく〝仕事〟を続けることができる。そしてあっという間に新鳥栖に到着するとの放送が車内に響き渡った。〝間もなく新鳥栖です…〟。ここまではいつものアナウンスだ。しかし、このときはさらに重要な情報が追加された。〝本日は大雨のため鹿児島線、長崎線に遅れが発生しています。くわしくは駅の案内をお聞きください…〟。もちろん録音していたわけではないので、一言一句まで正確ではないが、およそこんな内容である。
 その瞬間、私には悪夢のような記憶が蘇ってきた。この状況、まるでビデオのリプレイのように思えたからである。それは昨年か一昨年のことである。それが去年のことか、さらにもう1年遡るのかがはっきりしない。このあたりが間もなく前期高齢者になる私の現状なのであるが、とにかく体験としては忘れることができないものなのだ。つまりは、まったく同じ経過をたどって目的地である諫早に何とか辿り着いたときのイメージがしっかり頭のなかで再現されたのである。ところで、今回の話は今日ですでに3回目になる。私の〝予感〟では簡単には終わりそうにない。そこでいつもの悪癖ながらちょっと脇道に逸れてみたくなった。それは駅や車内で流れるアナウンスのボリュームのことである。どんな状況の人にも聞こえるようにという配慮だと思うが〝でかすぎる〟と感じることが多い。音量の強烈さに耳が痛くなることすらある。
 
〝さくら〟好き 2013/09/05 Thu 3912 Continued from 9/03
 金曜日のラッシュ時を考えて行動した甲斐があって、熊本駅に着いたのは18時50分だった。座席を指定している電車が発車するのは31分だから、かなり余裕がある。そこで1本でも先に出る電車に乗れるかもしれないと思ってみどりの窓口に行った。私に対応してくれた女性は時刻表らしいファイルをめくっていた。〝先に出る電車はありますが、新鳥栖で乗り換える在来線はご予約のものと同じになります〟。これが回答だった。〝どっちにしても着くのは同じ〟ということである。〝それならわざわざ切り替えるほどはないか〟ということで、しばらく熊本駅の売店を覗いて回ることにした。そのうち発車まで10分ほど前になったので、ゆっくり改札口に向かった。そこで電光掲示板を見ると、指定の〝つばめ〟よりも4分前に出る〝さくら〟の文字が目に飛び込んできた。その瞬間に私はホームに昇るエスカレーターに向かって突進していた。
 この行動にはちゃんとした理由があるのだ。九州新幹線の〝つばめ〟は各駅停車で、新鳥栖まで4つもの駅に止まる。一方の〝さくら〟は新鳥栖まで久留米に止まるか、運がよければノンストップである。〝新幹線は速くなければならない〟と確信している私は必死で各駅停車を避けている。ここで〝さくら〟に乗れば、〝つばめ〟より早く発車する上に所要時間も短い。そんなわけで〝さくら〟に乗れば新鳥栖で在来線を待つ時間が長くなる。それを百も承知しながら、私の体は動いたのだ。〝そんなもん新鳥栖で仕事をすればいい。その方がちゃんとした時間が取れるから好都合じゃないか〟。わたしの心のなかには、こんな思いがあったはずである。そして飛び乗った〝さくら〟は熊本を出るとノンストップで新鳥栖に着くものであった。
マニュアル問題(60) 2013/09/04 Wed 3911 Continued from 9/01
 〝マニュアルが現場の動きに即していない〟という声はどうでしょうか。こうしたことは原則としてはあってはならないことです。しかし、現場からこの種の問題が指摘されることはめずらしいことではありません。これが受注生産のような機器の場合は、注文者が使用者ですから、その要求に基づいて製造されているわけです。その点で〝現場の動き〟に対応していると考えていいでしょう。しかし一般的にはハードをつくる側とそれを使う側にはギャップがあります。そこでマニュアルを提供する製造者側に期待するだけでなく、利用者側が自分たちの状況にあったマニュアルを作成することもあっていいでしょう。
 もちろん、その際にはハードを製造する側とも十分なコミュニケーションを図ることが前提になります。そうでないと、安全に対する細かい工夫や配慮が伝わらず、安全を脅かすような修正が行われることもあるでしょう。また利用者に都合のいいような解釈で修正されてしまう危険性も出てくるわけです。その極端なケースが〝裏マニュアル〟でしょう。正式のマニュアルでは仕事の段取りが悪いといった理由から自分たちの都合に合わせたマニュアルを作っていたのです。これが大きな事故を引き起こしたことは周知の事実です。もっとも、このケースでは厳しい競争のもとでコストや納期の問題なども絡んでいたようですから、〝現場の動きに合わない〟といった理由とは言えないかもしれません。しかし、そうした内的・外的な事情を理由にして〝裏マニュアル〟などの作成が許されないことは当然のことです。言い訳をしてはいけないのです。
週末の移動 2013/09/03 Tue 3910
 台風15号は予報によれば九州北部を直撃する勢いである。それも週末の長崎行きと見事にぶつかりそうなのだ。これはきわめて困ることなのだが、台風が相手では進路を相談するわけにもいかない。もちろん〝一つよろしくお計らいを〟などと言って賄賂を贈ることも叶わない。何分にも自然現象だから、ただひたすら〝なるようになる〟のを見守るだけしかない。それに気象庁の方々には申し訳ないが、とくに台風の予想はけっこう変わる印象がある。そもそも進路予想の円が大きい。素人としてはその〝中心を進む〟と考えるし、そうあるべきだと思う。ところが台風の方はそれほど素直ではないのである。それに妙なところで停滞することも少なくない。かくして台風の進路予想は〝参考程度〟というレベルに落ちてしまう。人的物的に大きな被害を与える可能性がある台風だ。どちらかと言えば〝危機を強調する〟傾向が出ても仕方がない。そもそも〝危機管理〟とはそういうものだから。気象関係の方々は身内では当たり外れで喜んだり沈んだりしているのではないかと勝手に推測している。
 それはともあれ、自分が住んでいるところで万全を期するのは当然である。ただそれに移動が伴う日程を抱えていると悩ましさが増大する。今回もまた同じような状況になったのである。さて台風15号だが、幸いと言うべきか進行速度が予想よりも遅くなった。そのため週末の予定はそのままゴーサインが出されたのである。そこで私もスケジュール通り金曜日の夜に長崎へ移動することになった。すでにゲットしていたのは熊本発19時31分発の〝つばめ〟である。長崎へ出かける場合は新鳥栖で在来線の長崎線に乗り換える。私は夕刻のラッシュのことも考えて、少し早めに自宅を出た。
 
台風と旅物語 2013/09/02 Mon 3909
 〝犬も歩けば棒に当たる〟という。これは〝何かをしようとすれば、何かと災難に遭うことも多いというたとえ〟と〝出歩けば思わぬ幸運に出会うことのたとえ〟という二通りの意味がある(大辞泉)。じつは〝吉田も歩けばネタに当たる〟のである。それが不運なことも幸運なこともあるのも〝犬棒〟の場合とまったく同じなのだ。さて今回は〝台風と旅〟の物語である。それが不運なのか幸運なのかは、楽しみにしておいていただきたい。
 先週、台風15号が発生して九州方面にやって来る気配が濃厚になっていた。そのころ私は北陸にいたのだが、熊本に帰るまでは大丈夫そうだった。朝方に金沢・小松空港間の高速道路でトラックが絡む大きな追突事故が起きて〝下り線〟が通行止めになっていた。このあたりでは京都・大阪方面に向かう方が〝上り〟だということをその日に教えてもらった。あの〝越前・越中・越後〟と同じ基準である。京都から近い福井県が〝越前で〟であり、それから富山県の越中と続いて、最も遠い新潟県が越後なのだ。その当時の都との位置関係から〝前・中・後〟となる。日本国中の地名には歴史が感じられるものが多くて楽しくなる。こうした〝なあるほど体験〟は心の健康に必須だと思っている。
 ともあれ、私が通る上り線は無事に走れたのである。すでに夕刻も過ぎているころに事故現場を通過したが、〝下り〟はまだ通行止めになっていた。私としては幸運だったのである。しかも翌日のニュースによれば、あれから北陸地方に大雨が降ったようだった。それが飛行機の発着に影響したことなはいと思うが、とにかく無事に帰宅できたのである。しかし、この間にも台風は〝順調に〟北上していた。そこで問題になってきたのが週末の長崎行きだった。
  
マニュアル問題(59) 2013/09/01 Sun 3908 Continued from 8/24
 〝マニュアルの量が多くて、確認作業が多いため〟というものもありました。これには〝時間的に余裕がない〟という注意書きが付いています。〝分量と時間〟との勝負なのです。たとえば取り扱う機器が複雑になればなるほどマニュアルの量も増えてきます。また創り出す製品やサービスの品質に関する要求事項が増えれば、それに対応してチェックすべき項目も多くなります。もちろん〝品質〟には安全性が含まれることはいうまでもありません。そうしたものをすべてチェックしていると時間がかかるわけです。
 このごろはマニュアルの複雑化に加えて、様々な職種で作成すべき書類が増えるという現象も起きています。その結果として、安全に関わる責任者が書類作成に時間を取られて現場に出かけることができない。そんな声も頻繁に聞きます。これでは安全そのものが危うくなるのですが、そうかと言って決められたことはしなければならないわけです。もちろんこのご時世ですから人員を増やすことなどできない相談なのです。これはじつに悩ましい問題です。しかし、この状態をそのまま放置しておくわけにもいきません。
 こうした深刻な状況にどう対応すればいいのでしょうか。〝すべて〟を押さえることができないのであれば、〝優先順位〟を設定するしかないでしょう。もちろんその際は〝仕事のしやすさ〟よりも〝安全性〟を先に考える必要があります。またマニュアルや手続きをいくつかのパートに分けることができる場合には、職場のメンバーが分担してマスターすることもあり得るでしょう。その上で、自分たちが身につけたことをお互いに伝え合っていくという流れです。