吉田道雄 YOSHIDA, Michio
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味 な 話 の 素 Since 2003/04/29
 No 119  2013年03月号 (3711-3741)
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〝生命の水〟最優秀賞! 2013/03/31(日)3741
 熊本市の公式飲料〝オフィシャルウォーター〟の〝熊本水物語〟は品名がナチュラルミネラルウォーターで、原材料名は〝深井戸水〟となっています。もう少しラベルを読みましょう。〝日本一の地下水都市 熊本 最高の水が暮らしの中に! 水道水源を100%天然地下水でまかなうその規模は日本最大、世界でも希少な都市です。また、その品質は、「特級水」と評価されたほどです。蛇口をひねれば‘ミネラルウォーター‘。そんな最高の水とともにある暮らしが熊本にはあります〟。もちろん私もしっかり保証します。とにかくうまいんです。さらにラベルはアピールします。〝熊本水物語 世界有数のカルデラ・阿蘇からの贈り物、熊本の地下水。加藤清正公など先人が築いた水田や森林から長い年月をかけてたくさんの水が浸透。その後、阿蘇の噴火による幾重にも重なった地層でろ過されることで磨かれたとてもまろやかで、おいしい天然の地下水。これが「熊本水物語」です〟。
 そして、そのことがついに実証されたのです。国連の〝生命の水 : Water for life 2005-2015〟の〝水管理部門〟で今年の最優秀賞を獲得したのです。もちろんわが国で初めての快挙です。お時間があれば、http://www.un.org/waterforlifedecade/winners2013.shtmlを覗いてみてください。ここでは特定の地方や都市の名前を出すのは控えますが、水道水がおいしくないと言いますか、はっきり言えば〝まずい〟ところがけっこうありますよね。そんな場所に出かけたときは、ホテルでもミネラルウォータを飲んだりするわけです。その点で熊本は大いに自慢できます。蛇口をひねれば〝ミネラルウォータ〟なのですからたまりません。みなさん、うまい水道水を飲みに熊本にいらっしゃいませんか。
県名当てクイズ 2013/03/30(土)3740
 今日は県名を当てるクイズからはじめましょう。第一ヒント:県庁所在地は、水道水の100%を地下水でまかなっていることが自慢です。第二ヒント:県の鳥はヒバリです。第三ヒント:車エビです。さて、それは何県でしょう。すでに瞬間忘却機を自認している私だから、もうひとつ別のヒントを出したかもしれないという不安はある。ともあれまずは回答をいただきましょうか。そうですねえ、かなりわざとらしいクイズでしょうか。答えは熊本県です。
 じつは、仕事で出かけた際にたまたま地元の放送局のインタビューを受けたときのことです。そのときのストーリーが、他県から来た人にヒントを出してもらって聴取者が回答するというものだったわけです。〝一発で当たってはまずい。少なくとも三問くらいで。しかも正解が出ないと次に持ち越すので当ててはほしいのだけれど…〟。まあこんな感じでした。まだ〝くまモン〟は売り出しはじめでしたが、それでも〝彼〟を出すとすぐに正解が出てしまうだろう。ということで、上のようなヒントになったのです。これまた記憶が怪しいのですが、山梨県、三重県、沖縄県という声が上がり、四人目で正解の熊本県になったと思います。先方の期待するとおりに3人は不正解で、しかも時間内には正解となり、めでたしめでたしで一件落着しました。もちろん、今やスーパースターの〝くまモン〟の足下にも及びませんが、それなりに熊本県をアピールできたものと自己満足したわけです。さてさて、本日分のスペースが少なくなってきましたが、今日の話題にしたかったのは、〝第一ヒント:県庁所在地は、水道水の100%を地下水でまかなっていることが自慢です〟に関係したことでした。やれやれ、詳しい内容は明日になりました。
 
巧みな情報戦 2013/03/29(金)3739 
 小作人たちの状況を見て、アメリカ人たちが〝これはまるで奴隷制ではないか〟とまで思ったかどうかは知りません。しかし、とにかく農業の〝民主化〟が何より必要だと考えて農地改革を行ったわけです。こうした怒濤のような変革のなかで忘れてならないのが教育における変革です。〝一億総玉砕〟を叫び、〝捨て身の特攻隊〟が戦艦に突撃してくる。こんな精神構造を創り上げたのは教育に違いない。これがアメリカ側の認識だったと思います。教育が人間の人格や思想、さらには行動にまで影響をおよぼすことは誰でも認めるところです。その点は大人の教育にも当てはまります。
 そこでアメリカは、当時の日本人には手が届かないほど高価だった16mm映写機を1,300台も貸与して、全国各地で映写会を展開します。広大な農地をトラクターが悠々と耕作する、そして収穫時には巨大なコンバインが活躍する。若いカップルはカッコいいオープンカーに乗ってドライブし、家族団らん、みんなが楽しく食事をするダイニングの横には冷蔵庫がどっかり座っている…。こうした光景をカラー映画で見せられた日本人が、〝こんな国と戦って勝てるわけがなかった〟と悟る。とまあ、巧みな情報戦で日本人を啓発していこうとしたわけです。私自身は戦後間もなく生まれたいわゆる団塊世代の人間で、小学生になったのは敗戦から10年目のことになります。そのころになっても、まだ国全体がアメリカのものすごさに圧倒されていました。そんな幼少時の体験が効いたのでしょうか、私たちの世代には、アメリカに対する劣等感と憧憬が混じり合った微妙な気持ちをもちつづけていた人が多いと思います。
 
連合国の改革 2013/03/28(木)3738 
 連合国といっても、その主体はアメリカですが、財閥解体などの経済的な改革も断行していきます。ところで、ついでながら連合国というのですから、文字通り複数の国がメンバーだったわけです。あのポツダム宣言を執行するための最高機関が連合国総司令部(GHQ:General Headquarters)なのです。そこには、アメリカをはじめ、イギリス、中華民国、ソビエト連邦、カナダ、イギリス領インド、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、アメリカ領フィリピンの11カ国が加わり、さらに後にはビルマとパキスタンも参加しています。ビルマは現在のミャンマーです。
 私たちは戦後の占領、とくにGHQと聞けばアメリカだけしか頭に浮かびませんが、イギリス連邦占領軍は山口県、広島県、島根県、鳥取県、岡山県と四国4県の占領を担当していました。私はオーストラリアで半年ほど過ごしたことがあるのですが、地元の新聞に広島県に進駐したという元オーストラリア兵の記事が掲載されたことがあります。それを読んで、〝ああ、連合国だからアメリカだけじゃなかったんだ〟と、ちょっと新鮮な驚きがありました。さてさて脇道に逸れてしまいましたが、彼等は経済の面でも財閥解体などを通してシステムそのものを徹底的に変革すしていきます。彼等には、一族経営のような財閥グループが戦争を主導し、バックアップしたと思われたからです。さらに、農業の分野でもまさに大なたを振るいます。いわゆる農地改革といわれるものです。大地主から小作人が土地を借りて耕作するる。その成果の多くは地主に吸い上げられ、小作人たちは貧窮のなかで生きていたわけです。
グループ・ダイナミックスの輸入 2013/03/27(水)3737 continued from 03/15
 さて、〝組織の安全〟ネタの続きです。こでまずは手始めとして、皆さんに〝グループ・ダイナミックス〟と〝事故防止〟あるいは〝安全〟との関わりについてお話ししましょう。そもそも〝グループ・ダイナミックス〟はアメリカで生まれました。その創始者は Kurt Lewin(1890-1947) です。日本語ではクルト・レビンと表記しています。ところが、アメリカの研究者の講演を聴いたときは〝カート・ルーウィン〟と聞こえたんですね。よくある話ですが、レビンさんもユダヤ系の人であのナチスの台頭があってアメリカに移住したのです。そんなわけで母国のドイツ語的には〝クルト・レビン〟なのですが、アメリカ英語では〝カート・ルーウィン〟と発音されるんです。しかも〝Kurt〟の〝カー〟は、〝hurt〟と同じ〝あいまい母音〟で [ kə́ːrt ]という日本人には苦手な音です。同じ欧米語でも言語の違いはなかなか興味深いことです。さてさて、それは余談として、レビンを筆頭にグループ・ダイナミックスという研究がスタートしたのは1930年代のことでした。それが太平洋戦争後になってわが国に輸入されるのです。とにもかくにも難敵だった日本を破った連合国の盟主アメリカは、〝とんでもない戦争〟をはじめた日本という国を根底からひっくり返すほど変えようと思いました。そうしておかないと、いつまた同じことをしでかすかもしれない。当時のアメリカはそんなイメージで日本を見ていたに違いありません。そこで、まずは軍の改革、というよりもその消滅が最優先の課題になります。その結果、兵隊はいなくなり、軍艦や戦車、飛行機などは解体され、兵器も破壊されたのです。
瀬戸際の冒険 2013/03/26(火)3736 
 〝金融の神様〟〝マエストロ〟と絶賛され、党を超えて4人の大統領からFRB議長に指名されたグリーンスパン氏。その彼が議会の公聴会で失策を責め立てられていた。そして退任後に出版された〝GREENSPAN'S BUBBLES〟のサブタイトルは〝The Age of Ignorance at the Federal Reserve〟である。〝無知の19年〟とでも意訳したいところだが、何といっても〝ignorance〟なのである。日本語訳の帯にも〝サブプライムの元凶は、彼の無知・無策にあった!〟とまことにストレートだ。
 私も日本の経済がしっかり立ち直ることを心から願っている。いま、世の中では白川方明前日銀総裁を〝無能〟とまで批判する〝専門家〟がいる。その厳しい指弾に反比例するように、今回の黒田東彦体制は〝期待〟に満ちているようだ。副総裁の1人も〝2年で2%の物価上昇が達成できなければ、自分たちの失敗だと認めて辞任する〟といったニュアンスの発言をしていた。責任の取り方は可能な限りあいまいにしておこうというタイプが多い政治家には見習ってほしい立派な態度である。まあ、学者だからという人もいるだろう。しかし、うまくいかなかった場合は自分の学説の誤りを認める覚悟を決めているに違いないと私は受け止めている。だから期待をしたい。ただし、いつも〝素人ながら〟と断っているのだが、グリーンスパン氏の顔が目の前をチラチラするのだ。こんな借金を背負った瀬戸際で、国債と交換にお札を出し続けて大丈夫なのか。そもそも経済学は科学ではない。その理論だって、普遍的に通用するものなんてあるわけがない。それにいくらハイレベルの数学を使っても、人の心なんて予測もコントロールもできっこない。ラストの3文は、私の〝個人的主観〟でございます。
二重写し 2013/03/25(月)3735 
 グリーンスパン氏がFRB議長に就任したのは、何とレーガン大統領のときなのである。レーガン大統領は減税を景気刺激に使い、小さな政府を目指すなどの政策を売りにしていた。その一方で、〝スターウォーズ計画〟と呼ばれる軍事への支出にも積極的で、大統領を退任するときには国の負債が就任時の200%に達していたという。そんな彼の経済政策はReaganomics(レーガノミクス)と呼ばれた。いまこの国で流行っている〝アベノミクス〟はこれをまねたものである。時代も違えば国情も本質的に異なるアメリカと同じなんてことはあり得ない。しかし、それにもかかわらず、退任時に負債が2倍になったというレーガノミックスの結果は、私に〝いつか来た道〟を連想させてしまうのである。そして、あのときのFRB議長と黒田東彦氏の顔が二重写しになってしまう。
 ともあれ、当面の主役はグリーンスパン氏でしたね。彼はそれから歴史上例のない長期に亘って中央銀行のトップで居続けた。何せ、すでに挙げたレーガン、父親のブッシュ、クリントン、息子のブッシュという4人の大統領すべてと関わりをもったのだ。彼が辞任したのは、2006年1月31日、ブッシュ大統領の2期目半ばまでなのだ。私のような素人にも、マスコミ情報で信じられない能力の持ち主だと思わせられていた。とにかく〝金融の神様〟〝マエストロ〟などと呼ばれたのだから半端じゃない。それが〝間違いない〟ことは、共和党だけでなく、民主党のクリントンも含めた4代もの大統領から指名されたことから〝明らか〟だった。しかし、その彼がサブプライムローンの崩壊をはじめとした経済危機の元凶とされるのである。議会の公聴会に召還されたグリーンスパン氏の映像は、私にとって衝撃だった。
4人の大統領 2013/03/24(日)3734 
 さて、いつの間にかアメリカ大統領の名前が連なって、グリーンスパンが消えそうだが、これはいつもの脱線ではないのだ。とにかく、クリントン第42代アメリカ大統領の次までお付き合いいただきたい。第43代目はブッシュだが、彼はクリントンに敗れて1期4年で終わったブッシュ第41代大統領の息子である。あのイラク侵攻を指揮した大統領だ。
 あれから今年は20年目を迎えて、いまマスコミで特集記事が組まれたりしている。しかし、クリントンとは対照的に、彼は世の中に顔を出すことなくひっそりと過ごしているらしい。同時多発テロの際に見せた強いアメリカを担う大統領というメッセージを発信し、ギャラップの世論調査で90%もの支持率を獲得した。これは記録が残っているなかで最高の数値だという。ところが、その後はイラク戦争に対する国民の批判が高まり、2期8年目の終盤には支持率が19%まで低落し、その一方で不支持率は76%にも昇った。支持率の19%も、歴代の最低記録なのだという。
 こうした乱高下をしながら、2009年1月には、歴史上初の黒人大統領バラク・オバマ政権の成立につながっていったのである。さてさて、レーガン氏からとうとうオバマ氏の名前が出るところまできた。今回の話題に関係するのはブッシュ氏までなのだが、まずはレーガン氏が大統領だったのは1981年から1989年、ブッシュ氏が1989年から1993年、クリントン氏が1993年から2001年、そして息子のブッシュ氏が2001年から2009年である。この間、4人の大統領で任期は28年になる。さて、ここでようやくグリーンスパン氏に再登場していただこう。彼がアメリカの中央銀行であるFRB議長に就任したのは1987年、レーガン大統領が2期目の仕事をしていたときのことだ。
 
レーガン、ブッシュ、クリントン… 2013/03/23(土)3733 
 昨日は、自分のことを棚にあげて〝人は物忘れしやすい〟などと失礼なことを申し上げた。正直なところ、そのくらいの厚かましさと無神経さ、さらには感受性の低さがなければ大学の教員などはつとまらない。私なんぞは、それを自覚しているだけまだましな方だ〈?〉なんて、さらに厚顔無恥なことを言ったりして…。ともあれ、グリーンスパン氏のことを〝知らない〟なんて言わせませんよ。
 まずは4人の名前を挙げてみよう。ロナルド・レーガン、ジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントン、ジョージ・W・ブッシュ。これらの人物の名前を聞いて、〝それって誰なの〟などという大人はこの世の中にいないはずだ。念のために確認すると、レーガンはアメリカの第40代大統領だ。在任は1981年から1989年までで、2期8年間を全うした。そのときの副大統領ブッシュが次の4年間、1993年まで大統領だった。この2人は共和党だが、そのあとを継いだのが民主党から出た第42代大統領のクリントンである。彼は不倫問題で世間を騒がせた。私は1998年8月に学会でサンフランシスコに出かけたが、そのときたまたまクリントンが当地にやってきていた。クリントン夫妻が滞在中のホテルから出るというので人だかりができていた。その群衆のなかに、〝Impeach Clinton〟と叫んでいる人たちがいて、元気のいいお年寄りの女性からビラをもらった。このとき〝弾劾〟を英語で〝impeach〟ということを知った。ともあれ、クリントンはその不名誉としか言いようのない難局を乗り切って、2001年の満期まで大統領職を勤めた。彼はいまでもアメリカ国民の間ではけっこう人気があるらしい。
 
緑と白と黒 2013/03/22(金)3732 
 これは、ある単行本の帯に書かれたものの抜粋である。「在任中、『ITバブル』と『住宅バブル』を引き起こし、放置し続けたツケが今、アメリカ、日本、そして全世界を混乱に陥れている。最悪の株価予想、乏しい判断力、矛盾に満ちた発言…」。本のタイトルは「グリーンスパンの正体」で副題が〝2つのバブルを生み出した男〟となっている(フレッケンシュタイン・A、シーハン・F 著 北村 慶 監訳 エクスナレッジ社 2008)。原著のタイトルは〝GREENSPAN'S〟BUBBLES: The Age of Ignorance at the Federal Reserve〟である。
 人は物忘れをしやすい。あえてお叱りを受ける覚悟で、失礼千番なことを言わせていただければ、まずは〝グリーンスパン〟という人物の〝正体〟と〝顔〟を想い出された方がどのくらいいらっしゃることだろう。さらに、今日のタイトルから3、4行まで読まれて、〝あなたの言いたいことはわかったぞ〟と私の意図を察していただける方がどのくらいいらっしゃるだろうか…。アラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)は第13代連邦準備制度理事会(FRB:Federal Reserve Board)である。FRBはアメリカの中央銀行、つまりはわが国の日本銀行にあたる。昨日、その総裁に黒田東彦氏が就任した。マスコミ的には〝満を持して〟登場したような感がある。前総裁の白川方明氏とは正反対の考え方をもっているらしい。とにかく〝2%の物価上昇〟の活字が新聞で踊り、アナウンサーが言いまくっている。さてさて、すでに今日のタイトルの意味がおわかりになったことだろう。そう、〝グリーンスパン〟は〝緑〟、前総裁は〝白〟、そして今回は〝黒〟というわけだ。
 
権力者の〝聴く耳〟 2013/03/21(木)3731 
 巨大なところではダイエーの中内氏、ブロック規模では寿屋の寿崎氏に共通していることは〝攻めの経営〟である。あるいは単純に〝積極性〟といってもいい。組織を率いるトップには、そうした資質が必要なことは疑いない。しかし、それならなぜ破綻したのか。その大きな要因は〝先を見誤った〟ということだろう。あるいは〝いつまでも右肩上がりの成長〟を信じていたからだと言えるかもしれない。たしかにバブルのときは、日本人の大多数がそう思っていた。そして、デフレの今日でも〝成長〟がキーワードになっている。
 一体全体〝成長〟とは何なのか。自分たちだけが〝成長すればいい〟などという前提はあり得ない。それは、単に他の国や地域の犠牲を前提にしていることになる。それなら、地球上のすべての国や地域の経済が〝成長し続ける〟というのはどんなことなのか。そもそもそんなことが可能なのか。私なんぞ、どう考えたってあり得ないと思う。例えば20年後の世界がどうなっているのか。多くの人間が〝なあるほど〟と納得する説明が出来るのか。そうした子どもでも疑問に思うようなことに、〝成長〟を叫ぶ人たちは何も答えていない。そして、このごろ超ミニながら、またぞろ〝瞬間的バブル〟の様相を呈してきた。
 さてさて、その議論は別の機会に譲るとして、少なくとも中内氏に関しては、そのカリスマ性というか、創業者がもつ権力というか、そしておそらく独善性が〝聴く耳〟を塞いでしまった。中内氏はアメリカのスーパーマーケットから学ぶことで小売業界の頂点まで上り詰めた。ことの真偽は保証できないが、彼は最後まで、総菜の種類だったか、置き方のようなものだったかは記憶にないが、アメリカ的な発想にこだわりを持ち続けたという。
寿屋 2013/03/20(水)3730 
 もともとは大分県佐伯市が発祥の地で熊本に本社があった〝寿屋〟もいまはない。一時は百貨店やスーパーマーケットを展開する、九州でも最大手の小売りグループだった。しかし、過激な出店に伴う借入金が経営を圧迫し、ついには創業者一族が追われたが、その後も復活はならず消えてしまった。創業者は女性で化粧品店からスタートしている。それを息子の寿崎肇氏が税務署を退職して継いでから、一大小売りチェーンに育てていった。数年前、地元紙に創業から破綻する経過も含めた寿崎氏の回顧録が連載されていた。それはそれは社員思いで、堅実な経営を大事にしながら、大きくなっていったことが伝わる内容だった。それがどうして立ち行かなくなったか。〝それいけドンドン、やることなすことうまくいく〟。そんなときに悪魔が仕掛けてくるのである。何事をなすにも〝自信〟は必要だ。しかし、それが〝過剰〟になり、それがそのまま〝慢心〟に繋がる。そうなると〝崩壊の落とし穴〟に至るまでは、ほんの一歩か二歩なのだ。
 破綻したあとになって、寿崎氏をJRや空港などで見かけることがあった。そのときは、いかにも実直そうな雰囲気で、コツコツと堅実に仕事をする人のような印象を受けた。おそらくご本人はその風貌通りだったのだと思う。しかし、それでも〝悪魔〟は襲ってくるのである。〝いまここで投資すれば何十倍もの利益が返ってくる〟。それはあくまで〝可能性〟なのだが、どうしても〝現実〟に見えてしまう。これこそ人の視力を狂わせる悪魔の巧みなテクニックなのである。私は加藤清正の菩提寺本妙寺近くにあった寿屋の研修所でリーダーシップについて講演をしたことがある。もう20年以上も前のことだが、いまは懐かしい思い出である。
ニコニコドー 2013/03/19(火)3729 
 中内功氏は既存の体制と果敢に戦い、日本国中に〝ダイエー〟の看板を増やしていった。そして1972年には、三越百貨店を抜いて、小売業で売り上げ日本一を達成する。さらに1980年には、売り上げは1兆円を突破した。まさに破竹の快進撃を続けて行ったのである。わが家の近くには熊本ダイエーがある。いや、正しくはダイエーの近くに家があると言うべきだろう。それはともあれ、このダイエーがオープンしたのは1980年のこと、おそらく2月だったと思う。私が鹿児島から熊本に引っ越してきたのが1979年10月である。そのとき、大学の先輩から2つの情報をもらったことをはっきり記憶している。まずは、〝あなたが大学にやってくる通勤経路に〈ニコニコドー〉があるよ。あそこは午前2時まで営業しているから便利だよ〟と言われた。そしてもう一つの情報が、〝あなたのお家の近くにもうすぐダイエーがオープンするよ〟だった。
 この文を書いたとたんに、またぞろ様々な思い出が蘇ってきた。熊本から立ち上がった、ユニークな名前のあの〝ニコニコドー〟もいまはない。一時は松野明美選手が所属する陸上部などももっていた。松野選手の活躍で、〝ニコニコドー〟の名前が全国区になったこともあった。しかし厳しい流通業界の中でついには、事実上の倒産に追い込まれてしまった。流通はおろか、経済そのもののド素人ながら、私は〝やっぱり手を広げすぎたんだろうなあ〟と推測する。私が知っている限りでも熊本市内の2ヶ所に〝うわーっ、すげーっ〟と声を出したくなるほど大きなショッピングモールをオープンした。あれがバブルだったんだろうなあと思う。そして、あれよあれよという間にモールの看板が〝ゆめタウン〟に変わっていったのである。
〝裸の王様〟ウィルス 2013/03/18(月)3728 
 ドラッカーのフォード1世に対する評価は厳しい。もちろん個人的に嫌っていたわけではなく、〝経営の仕方〟が問題だったことを徹底的に批判しているのだ。私のような素人は、フォードはアメリカ自動車業界の神様だろうと思っていた。何といっても〝自動車王フォード〟だったのだから。ところが、大成功を収めてからは、かなり独裁的に振る舞ったようだ。とくに周りを信じないというか、耳あたりのいいことしか言わない取り巻きだけを重用したらしい。そんなことから、フォードは業界トップの座から転落しただけでなく、組織の存続すら危うくなったという。いよいよ厳しくなった第二次世界大戦の際には、軍需生産を維持するために、当時のフランクリン・ルーズベルト政権は国有化すら考えたほどだった。この危機を救ったのがフォードの孫であるヘンリー・フォード2世だった。
 とまあ、簡単に言ってしまえば、フォードもまた〝裸の王様症候群〟のウィルスに感染したということである。このウィルス、時代も洋の東西も問わず、人間とともに潜在的に生き続け、その猛毒で組織を崩壊させるのである。私は、戦後最強の経営者だった中内功氏も、またこのウィルスに襲われてしまったのだと思う。戦地での生きるか死ぬかの激烈な体験をもとにダイエーを創り上げた。そして、強大な体制や組織に敢然と挑戦し、ついには日本一の流通王になったのである。その敵の中でも代表格は、経営の神様と謳われた松下幸之助氏だった。メーカー主導の価格を破ることに命をかけた中内氏は、パナソニックからカラーテレビの供給をストップされることになる。これに対してダイエーは一歩も引かず、自社製品として〝ブブ〟という商品名のカラーテレビを発売したのである。
うん十億年の実験 2013/03/17(日)3727 
 組織は生き物であり、自分を取り巻く環境に対応していかなければならない。その基本として、生き物は自分の体内で絶えず新陳代謝をしている。生きるための栄養物を取り込み、それを力にする。また不要になったものを体外に排泄する。それを確実に繰り返していれば、それなりに生き続けることができる。ただし、生き物は体内の組織そのものが力を失ってくる。いわゆる老化である。つまりは個体としての生き物には限界があって、永遠に生き続けることはできない。そこでまだ力があるうちに、自分を引き継ぐ世代を生み出す。ただし、動物はそれを〝単体〟で達成できない。そこで、もう一つの〝単体〟と一緒になって新しい生命を創り出す。このとき、〝ほとんど同じ〟単体同士では、さまざまな問題が引き起こされる。そしておそらく、理屈の上では〝できるだけ違う〟者同士の方が、それだけ強い次世代を世に繰り出すことになる。
 これは生き物が存続し続けるための〝法則〟だろう。それはこの地球が誕生してからずっと繰り返されてきた〝実験〟の結果である。人間がチマチマと行ってきた実験なんぞとはスケールが違う。そうであるなら、その結果を活用しない手はない。しかし世の中の組織は、それほどうまく〝法則〟を活かしているとは限らない。そもそも〝変化〟を嫌がる組織がけっこう多い。生き物が絶えず新陳代謝という〝変化〟を続けているから健康で生き延びているのに、人間の組織は〝変化〟に抵抗する体質をもっているように見える。とりわけ組織のトップが、自分の体質をずっと維持し続けようという欲求に駆られて〝変化〟を拒否すると、組織は変わりようがない。それどころか、トップのために組織が力を失ってしまった事例はいくらでもある。
事故の範囲 2013/03/16(土)3725 
 いわゆる事務的な仕事をしている職場でも、それによって仕事が先に進まなくなるような〝事故〟は起きます。それだけではありません。世の中では、会社の資金を不正に使ったり横領したりといった犯罪行為も後を絶ちません。また、教育の場でもセクハラや飲酒運転をして職を失ってしまう教師もいます。こうした〝あってはならない〟ことも、組織にとって重大な〝事故〟だと考える必要があります。いわゆる〝不祥事〟といわれるようなものも、組織にとっては〝事故そのもの〟だということです。そして、何とも残念なことですが、こうした〝不祥事〟が毎日のようにマスコミを賑わしています。そんなわけで、私としては〝組織における事故〟をかなり広範囲に捉えています。いずれにしても、安全で安心、そして幸せな毎日を送っていけることが何よりです。ここでは、そうした広い意味で〝組織の安全〟を捉え、それを実現するための具体的な方法を考えていきましょう。
 ところで、もう10年以上前になると思いますが、ある方が私の仕事を見ておっしゃいました。〝おやおや、あなたもけっこう調子がいい人間だねえ。世の中でミスや事故、安全なんてことが話題になると、すぐに方向転換して、人の目を引く仕事をはじめる。いやあ、感心してしまうなあ…〟。そのときの意地悪と言いましょうか、皮肉たっぷりのお顔は、いまでも想い出すたびに苦笑いしてしまいます。私も〝そうなんです。何せ生来のお調子モンですので、つい時代の流行に乗っちゃうんです〟なんて自虐的なことは申しませんでした。〝えーっ、ご存じないんですか。日本のグループ・ダイナミックスって、1960年代から事故防止の研究をしていたんですよ〟。私の方も皮肉な顔をしていたかもしれません。
グループ・ダイナミックスと安全 2013/03/15(金)3725 
 私が専門にしているグループダイナミックスは〝集団との関わりをとおして人間を理解する〟ことを目的にしています。そんなことから、私自身はとりわけ〝組織のなかの人間とその行動〟に関心をもってきました。そこで、対人関係やリーダシップ、さらにはコミュニケーションなどに焦点を当てた仕事をしてきました。それと併せて組織の安全や事故防止も私にとって重要なテーマになっています。フェイルセーフ(fail safe)ということばがあります。装置や機器などが危ない状態になったとき、いつも安全な結果が得られるようにハードの方で対応する。とまあ、そんな感じなのですが、じつは、そうしたハードがしっかりしていても起きてしまう事故はいくらでもあります。この点については、改めて詳しくお話ししましょう。ここでは、組織におけるリーダーシップやコミュニケーションといった、きわめて人間的な要因と事故が結びついていることだけを強調しておけば十分です。いわゆる〝ヒューマンエラー〟も、それを犯してしてしまった個々人の問題だけでなく、組織的な要因が重要な働きをしているのです。
 そんなことから、グループ・ダイナミックスを仕事にしている私は、組織の安全や事故防止にも大いに関心をもってきました。そして、私は前世紀末(?)から、〝組織安全学〟なるものを展開しようと提案しているのです。ご関心のある方は、〝
組織の安全と集団的視点(青文字をクリック)-組織安全学の展開-. 労働安全衛生広報、労働調査会〟をご覧ください。これは2000年に刊行されています。ところで、〝事故〟といえば、列車の脱線、車の衝突、工場での爆発など、死者やけが人が出るようなものを思い浮かべがちです。しかし、〝事故〟はそうしたものだけに限定されません。
中国科学院デビュー!? 2013/03/14(木)3724 
 わたしが〝発明した(?)〟手書きの〝同時通訳〟がけっこううまくいったのは、陳さん自身がリーダーシップなどに関心があって、基礎的な知識をもっていたからだ。何といっても〝タダの同時通訳〟である。そこは少しばかりわかりにくくても文句など出るはずもない。この様子を見ていたある大先輩からは、私の〝ものすごい英語力に驚いた〟と言われた。そのときは、〝単語を並べる能力はまあまあか〟とそれなりに嬉しがった。北京の中国科学院は、国内でトップレベルの研究機関だということだった。建物は簡素なコンクリート仕様で、日本の古い研究機関のような風格はなかった。まだまだ発展途上という感じが強かった。
 そこで私は若い研究者たちにリーダーシップ・トレーニングを紹介した。とにかく中国語はチンプンカンプンだから英語を使った。きわめて興味深かったのは、そこにいた研究者たちが英語をあまり理解できなかったことである。〝そうじゃなくて、あんたの英語が通じなかったんだろう〟と言われそうだが、ここでも陳さんがときどき中国語で通訳してくれた。というわけで、私の英語が陳さんに通じていたことは間違いない。それに、この時間が終わったあとで三隅先生から〝Well done〟と、少なくともことばの上では褒めていただいた。〝なあんだ、何のことはない、自慢したいんだあ〟と言われれば、たしかにそうなんですが…。ただし、いまの中国ではこんなことは起きないはずだ。つまりは研究者たちの多くが英語を流ちょうに使うようになっていると思う。中国語は英語と語順が同じなので、その点では日本人より英語の習得が有利だという話もある。もっとも、私より一回りほど若くなると、日本人の研究者でも英語を使いこなす人たちが少なくない。
同時通訳!? 2013/03/13(水)3723 continued from 01/23
 お久しぶりに〝海外旅行初体験〟の続き。私が初めて海外に出かけたのは47歳だから、けっこう奥手である。渡航先は中国で、いまからちょうど20年前の1993年のことになる。福岡空港から大連経由で北京に飛んだ。大連での〝一騒ぎ〟はすでに書いた。いよいよ北京というのに、一体が真っ暗だったことを鮮明に記憶している。それが私が初めて見た外国の首都だった。そのころの熊本と比べても家々の灯りが見えず、はるかに暗かった。中国では、まだ外国人は国内とは別の〝元〟を使う時代である。空港で外国人が使う〝お金〟に両替をしてもらう段取りになっていた。
 このときは三隅二不二先生を団長にしたグループで、グループ・ダイナミックスの研究を紹介すること、中国における組織の現状を知ることが目的だった。私は中国科学院や上海で開催された集会でリーダーシップ・トレーニングについて話をした。中国語はまったくできないから、こちらは英語で情報を提供し、それを中国科学院の陳龍さんが通訳してくれた。陳さんは三隅先生の指導の下で福岡で研究をしたことがあった。その際は、私も様々なところで実施したリーダーシップ・トレーニングにお連れして、様々な情報を提供した。陳さんは日本語が理解できないが、イギリスに留学していたことがあるため、〝English〟はOKである。そこでコミュニケーションの手段はもっぱら英語になるわけだ。そこで研究会などのときには、人が発表する話の内容を私が〝同時通訳〟した。といえばものすごそうだが、じつは私なりに思いつく単語を繋げながらドンドンメモに書きなぐっていったのである。それを陳さんが読んで理解するという段取りだった。しかし、これが予想以上に効果的で、それなりに通じたのである。
私が子どもになりたい… 2013/03/12(火)3722
 公民館で学生たちをサポートしていただいた方から出た〝嫉妬〟ということば。それは私にとって〝衝撃〟ではなく〝感動〟をもたらした。メイクフレンズの活動を通して築き上げられた子どもたちとの関係を目の当たりに見て、つい〝うらやましいなあ〟と思われたのである。それほど学生と子どもたちの間に固い結びつきができていたということだ。それにしても、ご自分の気持ちを〝嫉妬〟という強烈なことばで表現していただいたことに感謝している。それによって、学生たちは自分たちの活動についてさらに自信をもち、新たなステップに向かうエネルギーを蓄えたに違いない。ともあれ、学生たちの活動がプロの目にもすばらしいものに映ったのである。私も自分のことのように〝やったあ〟と心の中で叫んだ。
 もうひとつのメモリアル・ワードは、午後に行われた学生たちの自主企画分科会で飛び出した。あるメンバーが〝子どもたちの様子を見ていると、自分の方がこの子どもの立場になりたいなぁと思った〟と発言したのである。これはワードではなく気持ちの表明と言うべきだが、この場合は学生が子どもたちに〝嫉妬〟したと言えるだろうか。これまた何ともすばらしいことである。それこそは、学生たちの活動によって、子どもたちがしっかり楽しく充実した時間を過ごすことができていることの証なのである。そして、自分自身を子どもの立場になって観ることができるのも、これまた凄いことではないか。〝フレンドシップ事業〟の公式授業科目名は〝教育実践研究指導法演習〟である。何ともお堅いが、活動に義務的に関わっている学生はいない。単位は二の次なのである。自分たちが本当に楽しいから、嬉しくなるから…。その気持ちが子どもたちにも伝わるのである。
メモリアル・ワード 2013/03/11(月)3721
 〝メイクフレンズ〟の代表者は〝船長〟と呼ばれる。さらに2人の副船長がいる。〝船長〟と聞いて、〝ああ、なるほど〟と思われた方もいらっしゃるだろう。ご推察の通り、彼等は〝フレンドシップ〟号という〝船〟の乗組員たちなのである。船は穏やかな凪の海を順調に走っていれば楽しい航海ができる。しかし、悪天候下の時化で大揺れすることもある。そんなときはいつも以上に一致団結して、海に放り出されないように力を出し合う。そうした1年間の航海を終えて港に帰ってくる3月には〝シンポジウム〟を開催する。いわば〝春の港祭り〟である。今年度は3月4日だった。
 この〝お祭り〟には、年間を通して活動をサポートしていただいている熊本市内にある公民館の社会教育主事、さらに熊本県教育庁の社会教育課長をはじめとした関係者の方々が出席される。シンポジウムの開催や関係者をお呼びする手続きは、われわれが進める。しかし、その内容は〝メイクフレンズ〟の乗組員たちがしっかり創り上げる。午前10時からはじまり、午後は16時過ぎまで学生たちの自主企画分科会が行われる。じつに充実したスケジュールなのである。ところで、彼等の活動発表に対応して、関わりをもたせていただいた公民館の方からコメントを頂戴する。その内容だが、身内のことながらいつも〝絶賛〟に近いと思う。ありがたいことである。今回も、私にとって印象的なことばが聞こえてきた。やや大げさだが、ずっと記憶に残るという意味で〝メモリアル・ワード〟とでも言っておこう。それは、〝嫉妬〟である。このことば、いきなり出されると〝ドキッ〟としそうな意味合いをもっている。それはゲストとしてご参加いただいた社会教育主事の先生のコメントに含まれていたのである。
〝今どきの若いモン〟のエネルギー 2013/03/10(日)3720
 〝フレンドシップ事業〟として構成した授業計画を掲示したところ、人数はそれほど多くなかったが〝子どもとの関わり〟に強い意欲を示す学生たちが集まった。当然のことながら、事業を立ち上げてしばらくは、専任の教員である中山先生と私が学校や公的施設と連携しながら、宿泊や体験学習をベースにした〝授業〟を創っていた。ところが、そのうちに学生たちから〝自分たちも企画などに加わりたい〟という声が聞こえてきた。そして、スタートから4年目の2000年に、〝メイクフレンズ〟という学生のグループが組織されたのである。
 それからすでに13年が経過した。新年度がはじまる4月には、新入生への勧誘をする。公式には2年以上の学生が後期に受講する授業である。したがって1年生は単位取得の資格がない。しかし、〝メイクフレンズ〟の学生たちにとって〝単位は二の次〟なのである。しっかり自分のしたいことをする。そうしているうちに単位も取れる。そんな感じなのである。もちろん単位の取得にはかなりの時間、活動に参加する必要がある。さらにレポートの提出も求められるが、それらも、やはり自然についてくるというのが実態に近い。そして、単位を取得したあとでも、当然のように活動への参加を続け、ついには4年生になって〝追い出しコンパ〟に出席することになる。また2月末から3月はじめにかけて、1年間の活動を振り返る〝フレンドシップ事業シンポジウム〟を開催している。その詳細については、Yahooなどの検索エンジンを使えば、〝熊本大学学術リポジトリ〟と〝フレンドシップ事業〟のキーワードで関連する論文や報告書を読むことが出来る。〝今どきの若い者は…〟と嘆いておられる向きは、ぜひ彼等のエネルギーを感じとっていただきたい。
 
〝フレンドシップ事業〟 2013/03/09(土)3719
 学生たちが主として公民館で子どもたちと関わる活動を企画し実践する。これが熊本大学教育学部の〝フレンドシップ事業〟である。そもそもは、教員養成学部の学生に、こどもたちと関わる力を身につけさせようと、文部省(当時)が全国の教員養成大学に導入を呼びかけた。いまから16年前の1997年のことである。これに対して熊本大学教育学部はすぐに手を挙げた。実際に担当するのは、私が所属する教育実践研究指導センター(現教育実践総合センター)である。そのときセンターの専任教員であった中山玄三先生と一緒に〝フレンドシップ事業〟を創っていった。中山先生は〝生活科〟や〝総合的学習〟に造詣が深く、体験による教育効果を目指すさまざまなアイディアを出された。一方の私は熊本県や熊本市の〝社会教育〟関係の仕事に関わること多かった。そんなことから、〝フレンドシップ事業〟は学校教育と社会教育の両面からアプローチすることになった。
 そもそも教員免許を取得しようとする学生たちは教育実習を通して子どもたちと関わりをもってはいた。しかし、この事業は〝学校や実習〟という枠組みを超えた新しい関わり方を体験することに重点が置かれた。そこでわれわれは、野外活動なども含めて、学生たちを受け入れてもらえる学校や施設などを探しながら、まさに手作りで〝事業〟を〝授業化〟していったのである。文部省としては、大学に呼びかけた当初から〝授業を単位化する〟ことを前提にしていた。こうしたなかで現実にできあがったものは、大学によって違いが見られた。原則として教員養成学部の全学生に受講させるところもあった。これに対してわれわれは、〝子どもと関わるカリキュラム〟を提示して、学生に受講を呼びかけることにした。
担任の勇気 2013/03/08(金)3718
 養護教諭が保健室にきた子どもから問題を抱えていることを聞いた。それを担任に伝えたら〝あんたが担任すりゃあいい〟と言われたという話は強烈だ。これは、〝担任の先生の虫の居所が悪かったからだろう〟などと苦笑いしてすむ話ではない。もちろん私は当事者ではないから、その原因を云々することはできない。しかし、こうした発言をする教師が、現実には少なくとも1人はたしかにいたのである。養護教諭との関係もよくなかったのかもしれない。
 その一方で、養護教諭がほめる教師の実例もある。たとえば、保健室にやってきて、〝自分の話は聞かないから、先生から言ってほしいのだけれど〟と依頼する担任教師もいる。これはなかなか勇気のいることである。自分がリーダーシップを発揮できないことを認めているように思われるかもしれない。そんな気持ちが行動を抑制する。しかし、自分の力で全員に言うことを聞かせると考える方が無理な話なのである。いわば相性といったものもある。いま、この子どもにとって効果的な働きかけは何かが大事なのである。だから、〝人に依頼する勇気〟をもつことも、リーダーシップだと考えていいのだ。こんな話も聞いた。〝今日は学校に保護者が来るのだけれど、一緒に話を聞いてほしい〟と依頼されたことがあったという。これもいい話である。さらに、〝保健室にいないとまずいので、だれかに頼むから、いまから家庭訪問に一緒に行ってほしい〟といった具体的な事例も聞いた。
 いずれも子どもたちのことを真剣に考えている教師のイメージが浮かぶ。これらは、担任自身の姿勢によるものだが、そうした態度や行動が〝当然だ〟という職場の雰囲気が大きな影響をおよぼす。そして、そのために力を発揮すべきなのが校長である。
 
養護教諭の体験談 2013/03/07(木)3717
 熊本大学の教育学部には養護教員養成課程がある。ここでは文字通り養護教諭を養成する。これは国立大学法人の4年生課程としては九州で唯一のユニークなものである。さらに熊本大学には養護教諭特別別科と呼ばれる課程もある。こちらは1年課程だが、3年間の看護学校を卒業した学生が、さらに養護教諭の教員免許を取るために設けられたものである。こうしたことから、卒業生は看護師免許プラス養護教員免許をもつことになる。この別科もやはり九州では唯一で、全国でも北海道教育大学や山形大学、新潟大学、金沢大学、岡山大学など数カ所しかない。
 私自身はかなり長いこと養護教育課程で授業をしている。大学院が出来てからは、こちらも担当するようになった。また別科でも世紀末に13年にわたって授業をしていた。そうしたことから、現職の養護教諭と話をしたり、情報交換をする機会が多い。そんななかで、養護教諭の置かれた立場なども聞いたりする。当然のことだが、校長をトップにして、教員たちと養護教諭との関係ができているかいないかが大事なポイントになる。私がこれまで養護教諭から聞いた話のなかで最悪のケースは次のようなものだ。子どもが保健室にやってきて教室で困っていることを話した。そのときの内容は、おそらく〝いじめ〟に関するものだったと思う。そこで養護教諭はすぐにその話を担任の教師に伝えたわけだ。ところが、それを聞いたとたんに返ってきたセリフは信じがたいものであった。〝何であんたに言うんかい。そんならあんたがを担任すればよかたい〟。これには開いた口がふさがらなかったという。ただし、〝あんた〟という単語や〝よかたい〟という九州弁の部分の正確さについては、しっかり記憶しているわけではない。
養護教諭の役割 2013/03/06(水)3716
 学校におけるいじめの問題では養護教諭の果たす役割が大きい。養護教諭は基本的には保健室にいて、児童や生徒たちの心身の健康を図る教師である。私たちが子どものころの保健室と言えば、お腹が痛くなったり、怪我をしたときに行くところだった。そんなこともあって、ずっと昔は誰となく〝赤チン先生〟と呼んだりしていた。それは決して侮辱的な表現ではなく、子ども心としては親しみを込めていた記憶がある。しかし、時代とともに養護教諭の役割は大きく変わっていく。子どもたちの〝心身〟の健康のうち、〝こころ〟の部分が揺らぎはじめたからである。
 いわゆる不登校とは違って、学校には出かけるが教室まで行くことが出来ず保健室で多くの時間を過ごす子どもたちがいる。これを保健室登校と呼んでいるが、そこで対応するのが養護教諭である。教室に行けない理由は様々で、当然のことながらいじめられた子どもたちもいる。こうした問題を抱えた子どもたちについて、養護教諭は多くの情報を得ることになる。担任の教師に言えないこともあれば、ときには体罰を受けた情報さえ含まれたりもする。保護者との葛藤のような、きわめてプライベートな問題を語る子どもたちもいる。こうした状況だから、児童生徒の健全な発達を図るためには、学校全体で養護教諭がもっている情報を共有化することが欠かせない。もちろん、個人情報なども含めて情報管理を厳密に行うことは基本的常識である。別の言い方をすれば、学校のすべての教員が養護教諭の役割を尊重し、その情報と意見や判断を活かそうとすることが求められるのである。もっと言えば、学校の中で、子どもたちの心身の健康については、養護教諭がリーダーシップが取れるような環境づくりが必要なのだ。
旅の終わり 2013/03/05(火)3715
 吉良先生がお亡くなりになったのが1989年だとわかった。私は1979年10月に熊本大学に赴任したから、先生とはちょうど10年のお付き合いだったことになる。それにしても、緊急非難的にお引き受けした〝視聴覚教育〟だったが、バックがないのだから、まさに初心者運転そのものだった。
 そのうえ、その年に限って、たまたま1人の聴講生がいらっしゃった。見るからにしゃきっとした感じの女性で、座席はいつも最前列だった。ときおり質問もされるから、私の緊張感はいやが上にも高まった。その学期の講義がすべて終わったとき、その女性からチケットをいただいた。それは熊本市にある〝島田美術館〟のものだった。宮本武蔵に関する一級品を展示することで有名な、あの島田美術館である。じつは、その聴講生は館長の奥様だったのである。その後、家内と島田美術館に出かけたことは言うまでもない。それからしばらくして、衝撃的な事実を知った。何と、彼女はプロの写真家だったのである。無知はお詫びするとして、それほどしっかりした目をもっている方が、駆け出しの〝視聴覚教育〟を受けられたというわけだ。それでも、そのときは〝勉強になった〟と言っていただいたような、自分に都合のいい記憶だけがかすかに頭に残っている。
 さて、ここまできたら吉良先生がおいくつで亡くなられたのかも知りたくなった。ふといただいた著書があったことを想い出して書架を探したらすぐに見つかった。吉良偀著「大正自由教育とドルトン・プラン」(福村出版)である。その奥付には1929年生まれとあった。これで吉良先生が還暦の年にお亡くなりになったことがわかった。いまや私も64歳になった…。机の天板からはじまった記憶の旅もそろそろ終わりにしないと書類が書けない。
 
タイムスリップ 2013/03/04(月)3714
 入院されていた吉良先生は、前夜にいただいた電話の声から推測されたが、安心できるほどお元気ではなかった。〝とにかく1学期だけ、「視聴覚教育」の授業をよろしく〟と改めて依頼された。それからしばらくお話をしてからの帰り際だった。〝お見舞いはありがとう。いただいたものはちゃんと返しますからね〟。いつものような人なつっこいお顔に戻られて小さく笑われた。それなりにお持ちしたお見舞い金を入れたのし袋のことをおっしゃったのである。しかし結論から言えば、〝1学期だけ〟も〝返しますからね〟の〝お約束〟も実現することはなかった。それほど時間が経たないうちに、吉良先生は再び教壇に立たれることなく亡くなられたのである。そして、危うげな状態で吉良先生から引き継いだ〝聴覚教育〟だったが、他大学の非常勤を含めて、それから20年あまりもの長期間に亘って授業をすることになった。
 ここまで来ると、〝視聴覚教育〟をはじめた年、つまりは吉良先生が亡くなられたのが〝いつだったか〟を確かめたくなった…。そもそもは仕事の書類を書いていたときに、ふと机の天板を見てから、34年ほど前にタイムスリップしたのである。つまりは脇道に逸れてしまったのだが、その旅が簡単には終わらなくなった。私は椅子から立ち上がって授業の記録ファイルを入れているキャビネットまで移動した。もちろん、そのファイルはすぐに見つかった。私が文学部の〝視聴覚教育〟をスタートしたのは1989年度の後期であった。いまから24年もの昔の話になるのである。これで吉良先生がお亡くなりになったのが1989年だったことが明らかになった。
吉良先生からの電話 2013/03/03(日)3713
 机の天板と昔話をしているうちに、また吉良先生のお顔が蘇ってきた。先生は定年前にご病気で亡くなられてしまった。
 ある夜のことだった。おそらく8月ころではなかったかと思うが、わが家の電話が鳴った。いつもとはおそろしく違って何ともか細い声だったが、それが吉良先生であることはすぐにわかった。〝あ、吉良先生、今晩は〟〝じつは私、いま入院してるんだよ〟〝えっ、どうされたんですか〟〝いや、大したことはないんで、黙ってたのよ。それよりもちょっとあなたに頼みたいことがあるのだけれど〟〝ええ、何でしょうか〟〝いやあ、あなたもご存じのように、私は後期に文学部で「視聴覚教育」の授業をしてるのよ。ところが、こんなことになってしまったので、今回だけはそれが出来なくなってしまったのね。そこであなたに代行してほしいと思って電話したわけよ。突然で悪いけど、よろしくお願いしますよ〟〝えーっ、私が「視聴覚教育」ですかあ〟〝いやあ、あなたもコンピュータやビデオについてはけっこう出来るでしょう。それにこちらに来て私と一緒に放送教育についても研究したじゃない。そうしたことを中心に構成すれば授業はちゃんと出来ますよ…〟。
 もちろん正確な記録などあるはずもないが、およそこんなやりとりの電話だった。とにかく状況が状況である。まったく不安がなかったと言えば嘘になるが、その電話でお引き受けすることにした。そもそも私は〝Yesしか言わない〟ことを原則にしている。また、〝流れに抗しない〟ことも私なりの生き方である。しかし、そうではありながら、いきなり「視聴覚教育」の授業となると、さしもの厚かましい私もそれなりに緊張感を覚えた。ともあれ、お電話いただいた翌日には病院にお見舞いに行った。
天板との会話 2013/03/02(土)3712
 仕事場の机で書類を書いていた。ふとグレーの天板が網膜の隅に映った。その瞬間である。今から34年前のことが蘇ってきた。私が熊本大学に赴任したのは1979年10月である。その年にオープンした〝教育工学センター〟の専任教員として採用されたのである。初代のセンター長は吉良偀先生だった。初めてお会いしたその日に〝当座の〟研究室に案内された。〝教育工学センター〟は教育学部がある黒髪地区ではなく、附属小中学校の敷地内に建てられることになっていた。それが完成するまでの1年半ほどは、学部の3階を間借りする段取りだったのである。その部屋に入ると、机と椅子、それに応接セット、さらにロッカーが置かれていた。いずれも新品だった。〝机と椅子は上等を注文しました。そうそう、ロッカーもけっこういいものですよ〟。あなたを心待ちにしていました。その気持ちで備品も配慮したんです。しっかり期待してますよ…。吉良先生は、それほどはっきりとは言われなかった。しかし、私にはそんな声がしっかり聞こえた。まだ私は30歳だった。
 〝ちゃんと憶えているかい?〟グレーの天板が私に聞いてきた。〝もちろんさ、あのときのことはどんなに時間が経っても忘れないよ。それにしてもおまえさんも34年間、ちっとも変わらないなあ〟。〝そうさな、けっこう傷もついたし、ほれ、この汚れなんぞは、どうしたって消えないのさ。それに、体の中はあちこち錆びてるところも出てきてはいるんだ。ただ、自分たちはおまえさんのような人間とは違って、それほど老けたりしないかもなあ〟。〝いやいや立派なもんだよ。私が30歳のときから、よくもまあ付き合ってくれたもんだ。本当に心から感謝しているよ〟。〝そうかい。そりゃあどうも〟。
こだわり〝さくら〟 2013/03/01(金)3711
 私にとって九州新幹線開業の効果は抜群だった。それは福岡空港へのアクセスが飛躍的によくなったことである。最速の〝みずほ〟は本数が少ないが、それでも〝さくら〟を利用すれば、熊本から40分前後で博多に着く。博多駅から福岡空港までは地下鉄で5分である。これは驚くべきことで、人口100万を超える都市としては、世界で都心から最も近い国際空港であるに違いない。私の研究室から熊本駅まではタクシーで15分ほどである。つまりは所要時間だけを足し合わせると、ちょうど60分ということになる。もちろん歩いたり待ったりの時間があるから、そんなにうまくいくはずはない。しかし、それでも1時間30分程度でとにもかくにも福岡空港まで着くという気持ちになる。新幹線が開業する前は在来線の特急だけで90分かかっていたから、とてつもないスピードアップである。
 その一方で、熊本空港は市内からかなり離れていて、バスだと45分ほどかかる。これがタクシーなら30分台になるが、メーターは5,000円近くまでいく。さらに名古屋便などになると本数が違ってくる。とまあ、こんな具合で私としては新幹線効果を大いに享受している。ところで、新幹線は〝速さを買っている〟のだから、〝遅い〟ことに耐えられない。各駅停車の〝つばめ〟はわずか118.4km間で5つもの駅に止まる。そのため所要時間が50分になる。これに対して〝さくら〟だと40分ほどである。この10分の差が何とも気になる。心理的に落ち着かない。そんなわけで、例えば19時過ぎに博多駅へ行ったときは19分発の〝つばめ〟に乗らずに、42分の〝さくら〟を待つのである。熊本到着は〝つばめ〟の方が9分早く着くのだが、どうしても〝鈍行〟を避ける私がいる。