新幹線の〝ファーストラン〟 2013/02/28 (木) 3710
私が生まれて初めて〝歌舞伎〟を鑑賞したのは、2011年3月12日でした。お昼の公演だけでなく、当日買いができた夜の1本まで観て熊本へ帰りました。その日は九州新幹線の開業日でした。博多駅に着いたのがちょうど〝みずほ〟の時間と一致していました。九州新幹線の電車は〝みずほ〟〝さくら〟〝つばめ〟の3種類があります。このうち、〝つばめ〟はほとんどが熊本と博多の間を走ります。これは各駅停車で、5つの駅に止まります。〝さくら〟は一部を除いて鹿児島中央から新大阪へ行きます。最速の〝みずほ〟は、すべて鹿児島中央と新大阪間を走りますが、熊本から博多までノンストップで、新大阪までは2時間59分というのが売りでした。新幹線が飛行機と勝負できるのが3時間の壁を破るかどうかだと言われていました。ただし〝みずほ〟は1日に数本しか走っていません。それなのに歌舞伎を観た日は、その〝みずほ〟に乗ったのです。博多を出ると熊本まで33分で走ります。そんなわけで、結果として九州新幹線の開業日に最速〝みずほ〟のスピードを体感したのです。それまでの在来線では、〝つばめ〟の最速で熊本・博多間の所要時間を〝1時間12分〟と謳っていたと思います。しかし、それは数本で、ほとんどの特急は、特急とは思えないほど多くの駅に止まっていましたから、体感では〝2時間近く〟かかっていました。つい先だって部屋の整理をしていましたら、2008年7月28日の指定席券が出てきました。そこには熊本と博多の発着時間が印字されていましたが、所要時間は1時間26分でした。これが〝みずほ〟で33分なのですから、ほとんど1/3ということです。こうして私は九州新幹線の〝ファーストラン〟も体験したのです。 |
大地震の翌日 2013/02/27 (水) 3709
私が初めて歌舞伎を見たのは2011年3月12日でした。前日に起きた大地震のすさまじさが明らかになってきていました。そんな状況ですから、前口上では地震のことに触れるだろうと思っていました。しかし、それは公演の最後までまったくありませんでした。その日は午前中のプログラムを観たのですが、夜の部の最後の1本だけ観ることができるチケットがありました。私は歌舞伎の幻想的な美しさに感動していました。セリフや義太夫の内容はよくわからないところもありますが、それにも退屈しないから不思議です。体をくねらせて原から声を出す語りなどは、滑稽さまで感じます。もちろん、そこで笑っていては歌舞伎の通に笑われるのでしょうね。そんなわけで、ことばが理解できない外国人も楽しめるのもわかるような気がします。
ともあれ、その日は夜のラスト〝夏祭浪花鑑〟まで観たわけです。終演時にはアンコールもあって華やかでしたが、やはり震災のことはまったく触れられませんでした。私は〝ああ、そんなものなんだなあ〟と思いました。歌舞伎を含めて、日本では、親の死に目に会えなくても芸に、あるいは仕事に徹するという考え方があります。〝親も子に対してそう望むに違いない〟〝それこそが親孝行だ〟というわけです。〝今どきそんな発想は古い〟〝もっと人間的になった方がいい〟…。とまあ、いろいろな意見もあるでしょうが、これが〝伝統の世界〟なのでしょう。それに、観客は〝歌舞伎の世界〟にやってきているのです。その一時だけは〝現実〟から離れることが出来るように最大限の力を発揮すること。これこそが役者たちの最も大事な仕事なのだろうと思いました。歌舞伎の関係者たちが震災のことを無視したのではなかったはずです。 |
博多座と勘三郎 2013/02/26 (火) 3708
さてさて、生まれて初めての歌舞伎でしたが、まさに幻想の世界でした。あの中村勘三郎が出演する予定でしたが、体調を崩して代役になったことも記憶に残っています。演目は〝俊寛〟でした。勘三郎が勘九郎のころに、鹿児島県の硫黄島で〝俊寛〟を演じたか、演じることがテレビで取りあげられていました。そのときは物語の内容などまったく知りませんでした。というよりも歌舞伎そのものに興味がありませんでしたから、〝ああ、そうなのね〟程度のことでした。ただ、勘九郎自身にはそれなりの親しみを感じていました。先代の勘三郎の子どもで、私よりも少しばかり若く、小さいころはかなりのやんちゃな腕白小僧としてのイメージがありました。そんな様子が、ときおり白黒テレビの芸能番組で流されたりしていたのです。それが私の親世代で話題にもなっていました。その彼がいつの間にか、歌舞伎界の代表的な役者になったわけです。
そんなことから、映画に刺激されて〝歌舞伎を見に行くぞーっ〟と叫んで博多座のチケットを取ったときは、勘三郎の出演に期待したのも当然でした。しかし、体調不良では如何ともしがたいわけです。前口上でも、〝大好きな博多座の舞台に立てないことを残念に思っている〟といったお詫びがありました。その後、勘三郎は病床から回復して舞台に復帰していました。そこで、いつかは再チャレンジで観に行こうかと思っていました。しかし、それからまた別の病に倒れ、ついには亡くなってしまったわけです。海外公演を積極的に展開するなど、じつにエネルギッシュな活動をしていたのですが、人生というものは思った通りにはいかないんだなあと思います。ともあれ、そんな状況で、私は初めて〝博多座大歌舞伎〟の席に座ったのです。 |
新幹線効果… 2013/02/25 (月) 3707
私にとって九州新幹線の効果はかなり大きいものがあります。博多まで開業したのは2011年3月12日でした。あの大震災の翌日になります。いまや全国区的に知られるようになったゆるキャラ〝くまモン〟の〝公式誕生日でもあります。新幹線が開業する日は大々的に記念イベントが準備されていました。しかし、それも震災のためにすべてカットされることになりました。その日、私は家族と福岡の博多座に出かけて、〝歌舞伎〟を観ることにしていました。家内たちはすでに博多座の体験がありましたが、私は生まれて初めての歌舞伎鑑賞でした。その2か月ほど前の1月に、映画〝わがこころの歌舞伎座〟を観て、本物の歌舞伎を観る気になったのでした。この映画は、歌舞伎座が改築されるにあたって、現役の歌舞伎スターたちが総出で登場するドキュメンタリーでした。とにかく映画に感動して、帰宅する道すがら、家内に〝歌舞伎に行くぞーっ〟と叫んでいたのです。
そこで3月12日のチケットを手に入れたのですが、あとになってその日が新幹線の開業日と重なっていることに気づきました。もう想像しただけで怖くなるほど混雑しそうではありませんか。そこで前日に博多へ行って泊まり、ゆっくり博多座へ出かける予定を組みました。まあ、そんなわけで偶然にも、在来線の〝特急つばめ〟の〝ラストラン〟に乗ることになったのです。鉄道ファンなら当然でしょうが、この日限りの体験をすることになるなど、思ってもいませんでした。といっても、ツバメを背にして、日付と〝特急ツバメ ラストラン〟と書かれたボードを家族で持って、女性の乗務員さんから写真を撮ってもらっただけなのですがね。おやおや、冒頭の〝新幹線効果〟まで話が進みませんでしたね。 |
幼稚ないじめの賠償命令 2013/02/24 (日) 3706
大手化粧品会社の大分支店でのトラブルに対して裁判所から賠償命令が出た。訴訟内容を見てあきれてしまった。会社の研修会で、ある月の販売目標に達しなかった女性に対してコスプレを強要したというのである。訴えた女性以外にも
3人いたようだが、コスチュームが入った箱を選んで、それを長時間にわたって着用させたらしい。コスチュームは、たとえばウサギ耳のカチューシャなどだったという。しかも、翌々月の研修会でそのときの写真をスライドで上映したのだそうな。これが大人のすることかと開いた口がふさがらなかった。ともあれ女性は会社と当時の上司を相手取って訴訟を起こしたわけだ。裁判所は計
22万円の損害賠償の支払いを会社と上司に命じた。
いまどき、〝大手化粧品会社〟にこんなレベルの低い上司がいるんですね。判決は〝任意であっても拒否するのは非常に困難だった。正当な職務行為とはいえず、心理的負担を過度に負わせた〟と指摘している。この文面から察するに、上司側は〝任意〟だったことを強調したようだ。〝任意性〟などを問題にする以前に、仕事の目標達成とコスチュームには何の関係もない。これを本気で〝職務行為〟と思っていたと言うのだろうか。しかも、その写真を2か月後の研修の場で映し出すなんて、人間としてよくも出来たもんだと思う。何のことはない、これって単なる〝いじめ〟じゃないですか。人を辱めることでしか喜べないとしたら、じつに哀れなメンタリティの持ち主であることよ。この上司、自力でストレスをマネジメントできなかったんでしょうか。化粧で見栄えだけよくしても、心の中が磨かれていなければ、人間としては最低なんです。この会社の化粧品は内面を隠すうわべだけのものじゃないですよね。 |
スクールカウンセラー 2013/02/23 (土) 3705
大津市のいじめに対する報告書について、某全国紙の支局から電話はなかった。仮に連絡があったとしても、私に個別の分析は出来ない。しかし、そのときは報告書の内容について細かいところが聴けるかもしれないと思ってはいた。さて、その報告書だが、私がネットで検索した限りではその全体を手にすることができていない。したがって、これまた正確な情報抜きでコメントをすることは控えるべきである。
それはそうなのだが、報告書が出されたあとで放送された日本テレビ系の報道番組には、かなり気がかりな情報が含まれていた。番組名は〝真相報道バンキシャ!〟で2月3日の放送である。その中で〝スクールカウンセラー〟についての言及があった。スクールカウンセラーが〝自殺の要因がいじめ以外にもあるとしたい学校側の考えを補強した疑いがあるとされている〟というのである。録画をしていないので、放送内容そのものは記憶に頼るしかないが、①いじめ以外に家庭に問題があったこと、②いじめと自殺を関連づけると、マスコミに知られたときにまずいだろうと伝えたことの2点について、文書の該当箇所が映し出された。それを見ている者は〝報告書〟の特定のページ〟だと受け止めたはずである。それに続いて、元スクールカウンセラーだったという人が登場する。彼は〝カウンセラーは教育委員会から来ているので、委員会や学校の意向がかぶせられたときに動きづらくなる〟といった趣旨の発言をしていた。
私も心理学を専門にしている立場の人間である。カウンセリングそのものは領域外だが、この部分はかなり衝撃的だった。報告書の全文は手にれていないが、その通りに書かれているとすれば、担当したスクールカウンセラーから事情が聞きたくなる。 |
大津市の報告書 2013/02/22 (金) 3704
〝ヘルペス〟と〝いじめ〟は、一点を除いて瓜二つのように似ている。ヘルペスの場合、地球上の〝すべて〟の人間に宿っているわけではない。これに対して、私は〝いじめ〟の動因は、〝あらゆる人間〟の体内に潜んでいると主張する。ともあれ、体内に入ってしまったヘルペス菌は、いつもはひっそりと身を隠しているから、宿主にもその存在に気づかない。ところが、ストレスが高まったり体力が弱ったりすると、しっかりと活性化するのである。最近はヘルペスの増殖を抑える薬が販売されている。例えば唇の周りに怪しい気配が見えたら、すぐに薬で対応すると軽くて収まる。それを放っておくと他人にもわかるほど悪化する。病気はもちろん、人間関係や心の問題も、とにかく小さいうちに対応することである。風邪を引かないように日ごろから気をつけるのと同じ感覚で、差別やいじめについても気をつけ続けるしかないのである。
ところで、昨年の大津市で起きたいじめと子どもの自殺の問題は、これまでとは違った経過をたどった。かなり早い段階で市長が学校側の責任を認め、第三者委員会を立ち上げたからである。その報告書が1月末に出されて、その内容の一部が報道された。その前に、私が熊本県のいじめ対策の委員会に関わっていることもあってか、ある全国紙の大津支局から電話取材を受けた。もちろん私は大津のことについて個別の情報をまったくもっていない。つまりはコメントは出来ないのである。そのことを断った上で、すでにこの覧でも書いてきたような、差別やいじめに対する私の考え方を伝えておいた。〝間もなく報告書が出ます。そのときまたお聞きするかもしれません〟。先方はそう言って電話を切ったが、報告書が出たあとに連絡はなかった。 |
いじめとヘルペス 2013/02/21 (木) 3703
これまでも、いじめが原因だと思われる子どもの自殺が起きると一斉に焦点が当てられ、しばらくの間は議論が沸騰する。しかし、それも時間の経過とともに〝沈静化〟して、また次の〝悲劇〟が起きるまで待っているかのような状況が続く。これは人間の悲しき特性なのだろうか。地球に人間が存在する限り、人々の心の中から差別やいじめの動因を完全に消し去ることは出来ない。そう考えている私は、学校から呼ばれて児童生徒たちに話をするときも、そのことを強調している。これもまた人間の悲しき特性なのだと思う。だからまずはその事実を認めることが大事だ。
インフルエンザに罹らないために、日ごろから手洗いやうがいをしっかりする。不幸にしてウィルスにやられたときでも、それが重症化しないように予防接種をしておく。とにもかくにも意識した活動が必要なのである。差別やいじめも同じことである。それを引き起こすウィルスはいつでもどこでも存在している。いや、インフルエンザウィルスのようにいつもは体外にいると考えること自身がすでに間違っている。そこで頭に浮かぶのがヘルペスである。ヘルペスは一度感染してしまうと、菌が体の中に入って一生付き合わないといけなくなる。いつもは神経細胞のなかに潜んでいるため、いわゆる免疫力が働かないという。完治できないのである。そして、免疫力が低下したときなどに再発することになる。そして疲労したりストレスが溜まったりすると、細胞の中にいるヘルペスが活動しはじめるわけだ。唇の周りに水疱ができる口唇ヘルペスはよく知られている。このヘルペスは感染力が強いらしい。たとえが行き過ぎるが、〝差別やいじめ〟は何とヘルペスに似ていることか。それが〝感染する〟ことまで含めて…。 |
大人社会のいじめ 2013/02/20 (水) 3702
交通システムを中心に移動手段は止めどなく発達している。また情報手段の革新も際限がない。ストーカーに狙われると、どこまで逃げても追いつかれてしまう。それが悲惨な殺人事件にまで繋がることすらある。また自殺者が15年ぶりに3万人を切ったことがニュースになる時代である。わが国における凶悪犯罪の件数そのものは減少している。犯罪が増えたように感じるのは、マスコミをはじめ人々が騒ぎすぎるからである。そんな〝専門家〟の意見もある。しかし、〝だから現状でいいんだ〟と放置するわけにはいかない。いずれにしても、〝いじめ〟は、こうした環境のもとで起きているのである。教師自身がいじめに加わったという信じられない事例もあるが、基本的には教師たちだけで問題を解決することはできない。学校だけでなく社会全体が発想の転換をする必要がある。教育における問題のすべてが、学校という大人がつくった社会で起きているのである。
それに、いじめそのものが学校における特殊な現象ではない。セクシャルハラスメントやパワーハラスメントなどは、まさにいじめそのものである。古くは赤穂浪士の物語にしても、今風に言えば了見の狭い管理職によるきわめてレベルの低いいじめがきっかけになったのである。それに、これまた古典的な表現の〝お局様〟にしても、その元凶は古参の女性である。職場の先輩として若い人たちを育てるのではなく、いじめる快感を楽しむ。それによって自分の欲求不満を解消するわけだ。自分よりも弱い者を困らせて喜ぶ。こんな人に限って力の強い者には弱いのである。何とも寂しい話である。 |
データの違和感 2013/02/19 (火) 3701
われわれは根拠なしに勝手に推測することを避けなければならない。そんなことをすれば〝邪推だ〟と批判される。しかし、それを覚悟してでも、〝違和感〟を覚える数値がある。たとえば、東京都のいじめ認知件数である。昨年は4.0だったが、今回は6.8である。大阪府の場合は、昨年の2.4が3.5件になった。二つの大きな都府で数値はたしかに増えた。しかしその実数は東京都で8,313件だから、熊本県の3,649件よりも2.27倍である。人口では東京都が1月の推計で13,222,760人、一方の熊本県は昨年度のデータだが1,807,201人だ。その比率で7.3倍になる東京のにおけるいじめの認知件数が熊本県の2.27倍というのである。この数値に〝どこかおかしい〟と言ったら〝根拠のない邪推をするな〟と怒る人がいるのだろうか。私にはとても思えない。大阪府も2.4が3.5に増えたといっても、件数は3,327である。そもそもの絶対数が3,649件の熊本よりも少ないのである。〝そんなことはあり得ない〟と叫んだりすれば、やはり〝邪推だ〟と批判されるのだろうか。
これ以上、数値を上げてもくどくなるだけである。とにもかくにもはっきりしているのは、①〝いじめの実態〟はデータだけからはつかめない、②自治体間の比較はまったく意味がない、③日本国中の子どもたちの間に間違いなくいじめがある、さらに推測になるが、④カウントされないいじめがあるに違いないことだ。しかも、この数値が急激に減少するとは考えにくい。それは学校だけで解決できる問題ではないからだ。社会全体にストレスが充満し、大人の社会で毎日のように殺人事件が起きている。 |
都道府県のいじめデータ 2013/02/18 (月) 3700
熊本県が〝いじめ件数〟でずっとトップだったことはすでに書いた。ところが今年度はその様相が大きく変わった。自治体によって人口が違うから、その比較は〝児童生徒1000人あたりの認知件数〟で見ることになる。昨年度は、熊本県がトップで32.9件だった。これに続くのは18.3件の大分で、3位は12.2件の岐阜、さらに11.4が千葉で、愛知が10.0だった。これがトップ5だが、これ以下は10.0を切っているのである。また、1.0以下が、0.8の福島、0.9が和歌山、宮崎、そして最少は0.6の佐賀だった。
それが今年度の調査ではどうなったか。鹿児島県がダントツで159.5件という3桁の数値になったのである。前の年が2.0だったことを考えるとほぼ80倍である。この数値を見ればだれもが〝これまでよく調べていなかったのではないか〟と思うに違いない。私も学校教育に関わる仕事をしている者として、まことに言いにくいが、そうとしか考えようがない。この調査では、認知件数のうち、〝問題が解消している件数〟も上げられている。それによると、鹿児島県では86.8%が〝解決済み〟とされている。第2位は奈良県で、昨年の1.8が43.0と24倍に増えた。これに宮城県の37.6が続く。ここは昨年が6.7だから5.6倍になった。第4位は京都府で、1.6から19倍の31.0である。さらに山梨25.5、千葉24.2と20件以上が続いている。そして熊本は17.8で7位、昨年と比べると半数近く減少した。
こうした数値を見ると、都道府県同士の比較はまったく無意味なことがわかる。前回の全国平均値にしても5.0に対して、新しいデータは10.4と倍増している。そんな大きな変動が1年間で起きるはずがない。〝去年までは何だったのか〟と言いたくなる。 |
自分を知ること 2013/02/17 (日) 3699
人間に限らず、地球上のすべての生き物は、存続の可能性を高めるために〝ありとあらゆる環境条件〟に耐えられる遺伝子を必要としている。これは生物にも当てはまる。とにかく生き続けていかなければならないのだから。しかしながら人間にしても、一人ひとりは一つの遺伝子しかもつことができない。そこで、お互いに違った特性の遺伝子を持ち合っていて、いざというときには誰かが生き残る戦略をとることになる。そうすれば、個体は命を失っても、人類全体としては存続してくことができる。だから、〝違う〟ということは、みんなで加入している〝存続保険〟なのである。ところが、この〝違う〟ことが、そのまま〝差別やいじめ〟の原因になる。とにかく〝違う〟からである。
鉄でできたものはできあがったときは美しくても、空気に触れるうちに〝必ず〟錆びる。だから鉄橋はペイントを塗って錆を防ぐ。しかし、その塗料も時間とともに剥げてくる。そこでその前にペイントを塗り直す。ところが現実は厳しい。それほど気をつけていても、鉄自身が内部から劣化していく。これが地球上のすべてのものに起きる変化である。差別やいじめも、人類が地球上に生きている限り根絶なんて出来るわけがない。われわれは改めて〝自分を知る〟ことの重要性をしっかり押さえておきたい。差別やいじめについても、その潜在可能性をすべての人間が背負っていることを認めることからはじまる。それを人間の〝特性〟と考えるか、あるいは〝弱点〟と言うか。そんなことは問題ではない。とにかく、その現実をしっかり認めて、いつも自己点検を続けていくことである。少しでも気を緩めると悪魔はいつでも耳元でささやいてくる。世の中で起きる事故やトラブルと同じように…。 |
差別といじめの必然性 2013/02/16 (土) 3698
熊本県のいじめの認知件数はしばらくトップを続けていた。もちろん、いじめは〝ない〟ことが理想である。だから、全国でその件数が多いことを単純に〝よし〟とするわけにはいかない。しかし、すべては事実を発見することからはじまる。問題を見つけることができなければ対応のしようがない。それぞれの学校で個々のケースを分析し、適切な対応法や解決策を探っていくことこそが大事なのである。また、それらを共有化することも期待される。学校に限らず組織で起きた問題は内部で収拾して、できるだけ外には出さないでおこうという気持ちが支配的になる。しかし、世の中には原因や経過が類似したケース、また解決策が共有化できる事例が多いものである。もちろん、プライバシーを十二分に配慮しながら、学校や関係機関と情報交換する。それが問題の解決や再発防止のために強力な力になるはずである。
そもそも人間が集団をつくって生きている限り、差別やいじめは必ず起きる。あるいは、すべての人間が差別といじめをする潜在可能性を背負っている。人は顔かたち、背丈や体重など外面的な違いがある。これらははっきりと目に見える。また、性格や能力といった内面的な特性についてもそれぞれ固有のものをもっている。こうした〝違い〟は人類の存続にとって欠くことができない。それによって、人類は厳しい環境のなかで生き続けてきたし、これからも存続していける可能性があるのだ。地球上に〝寒さ〟に強い者だけしかいなければ、熊本のような暑さが襲ってくれば絶滅してしまう。逆もまた真なりである。病原菌やウィルスたちも生き残りをかけてドンドン進化してくる。予防注射などの飛び道具も一時的な効果はあるが、人間だって根本的な変化も求められる。
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いじめの件数 2013/02/15 (金) 3697
いま、私は熊本県教育委員会の〝いじめ対策検討委員会〟のメンバーである。今年度はすでに3回の会議を行っている。文部科学省は学校におけるいじめの調査を継続してきた。その際、かつて、いじめは〝①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない〟と定義されていた。これに〝なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと〟という条件が付いていた。その後も深刻ないじめが問題化したことから、定義の見直しが行われた。
新しい定義では、まず〝個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする〟ことがトップに掲げられた。その上で、〝「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」〟になった。〝なお、起こった場所は学校の内外を問わない〟という条件はそのまま付けられている。この新しい定義を基にした調査が2006年度から実施されている。その結果、熊本県は全国で最多の件数が報告され続けてきた。ただし、今年度の速報値では鹿児島の件数が際立って増えている。この数値の高さは、熊本県で全国で最も深刻ないじめが発生していることを示しているわけではない。むしろ、いじめに関わる問題を数値的には最も多く発見することができたということだ。 |
二つの〝違い〟 2013/02/14 (木) 3696
小津監督の〝東京物語〟が創られた1953年ころは、まだ〝核家族化〟といったことばが一般的でなかったのではないか。いわゆる就職列車で地方に住む子どもたちが東京にやってきた。しかし、それも次男や三男が中心で、長子は農業や漁業といった、その土地の一次産業を継ぐ。そんな状況が一般的だったと思う。そう考えると、〝東京物語〟の長男は医者である。親としては自分たちの土地で開業してほしかったのだが、東京に住み着いてしまった。映画では相当な勝ち気な女性として登場する長女も東京で美容室を開いている。夫はまさに〝髪結いの亭主〟風である。小津作品では,この長女を杉村春子が演じている。また次男は戦争で亡くなっているのだが、残された嫁も東京で働いているから、やはり次男も故郷を離れていたわけだ。さらに大阪に住む三男もいた。
ともあれ、〝東京物語〟は〝核家族〟の問題を先取りしていた感がある。二つの映画で、父親が母親の形見を与えた女性が象徴的だ。小津作品では原節子が演じる戦死した次男の妻である。この血の繋がっていない女性がもっとも献身的に尽くしてくれる。両親の目にはそう映るのだった。これが〝東京家族〟では次男の婚約者になっていた。新作でも心の優しい女性であり、やはり父親が母親の時計を形見として渡すのである。素人評論家は、この女性の位置づけが微妙で、〝東京物語〟を超えられなかった一点だと思う。もちろん、今日では戦争で夫を亡くした女性という設定はあり得ない。しかし、そこは〝企業戦士〟で過労死したという悲劇的な設定も可能だ。ただし、そこまでいくと完全なコピーになってしまう。山田監督には、この一点だけは小津作品と違ったものにしたいという意図があったのかもしれない。 |
二つの〝東京〟物語 2013/02/13 (水) 3695
〝東京家族〟を観た。小津安二郎監督の〝東京物語〟のリメーク版である。山田洋次監督の作品だ。まずは素人評論家の総合的な評価は〝優〟である。ただし、私としては、ある一点でオリジナルを追い越せなかったと思う。
ストーリーはかなりの部分が同じだった。田舎に住む老夫婦が東京の子どもたちの家に出かける。そのうち、〝お父さんたちはいつまでいるんでしょうねえ〟。そんな会話が子どもたちの間で交わされる。そんな流れのなかで、〝親孝行〟と称して横浜の高級ホテルをとって泊まりに行かせる。〝東京物語〟では宿泊先が熱海になっていた。いずれも〝自分たちでも簡単には泊まれない贅沢〟なプレゼントである。しかし、田舎の親たちには〝高級〟には馴染めないというストーリーである。そして父親は東京に住む昔の友人宅を訪れる。一泊させてもらうつもりで出かける。母親は戦死して一人になった次男の嫁の家に泊まりに行く。そんな経過をたどりながら、〝東京物語〟では両親が夜行列車で尾道へ引き返す。ところが母親が体調を崩したために、大阪にいる三男のところに一泊してから、わが家まで帰り着く。しかし、体調は回復せずに、母親はそのまま熱発して亡くなってしまう。その結果、年老いた父親だけが田舎に残されることになる。
その後の展開は、〝東京物語〟も〝東京家族〟も、観る者たちの想像に任せる形で終わる。この高齢社会を迎えて、老いとともにどう生きていくか。それは現代の差し迫った大きな課題である。私自身も今年は定義上の〝高齢者〟になる。小津監督の〝東京物語〟は
1953年の作品である。まだ敗戦から 10年が経過していない時期だが、田舎の親と都会に出てしまった子どもたちとの関係がすでに問題になっていたのだろうか。 |
ジャーナリストの役割 2013/02/12 (火) 3694
女子柔道の体罰問題は、関係者数人の辞任だけでは収まりそうにない。しかし、私なんぞが柔道界の今後について論評したり予想できるはずがない。それよりも、これまでのマスコミのあり方については一考の価値があると思う。今回のケースは言わば〝内部告発〟である。それも柔道連盟のなかで対応できず、さらに
JOCにまでいっても十分に取り上げられなかった。少なくとも 15名とされている選手たちにはそう見えた。そのため、選手たちが代理人の弁護士を立てて問題が公然化した。監督の暴力行為が出はじめたころからマスコミも一斉に報道し、柔道連盟の〝古い体質〟を批判している。これに併せて、柔道連盟のトップに女性がいないことも問題視されている。いずれも〝その通りだな〟と思う事実が多い。
しかし、ここでふと思うのである。われわれ素人は柔道連盟の内情や指導の実態は知りようがない。これに対して、いわゆるマスコミの人たちは、様々な局面で取材をしているはずである。素人だって八代で行われた強化合宿で〝蹴り上げる〟という行為を見たといって新聞に電話投稿しているのである。それなのに、プロの記者たちは柔道の練習で〝暴力行為〟が行われていたことを知らなかったのだろうか。もしそうであるならば、あの金メダリスト議員のように〝われわれは見たことも聞いたこともなかった〟ので驚いたという記事が出てもいいだろう。私の邪推であればすぐに訂正するが、本当は知っていたけど報道しなかっただけなのではないか。また女性のトップがいないことも記者ならわかっていたはずである。ただそれを問題にする感受性がなかったということなのか。一般人が知らない事実を押さえ問題提起する。それがジャーナリストの本務だと思う。 |
3人の食い違い 2013/02/11(月) 3693
柔道女子日本代表の暴力問題が大問題になった。門外漢の私はその実態を知りようがない。しかし、ある報道番組に登場した女子柔道のメダリスト 3人が正反対の反応をするのに驚いた。国会議員でもある一人だけが〝暴力行為を体験したことも見たこともない〟と語り、他の
2人はその存在をはっきりと認めていた。後者の一人は、フランスで外国のコーチから問題だと指摘されたという。つまりは外国人ですら〝見たことがある〟というのに、何十年も柔道をしてきたあの人が〝見たことがない〟と言うのである。
昨年、オリンピックの柔道強化合宿が八代で行われた。それを見学した、おそらく柔道には素人だと思われる人が熊本日日新聞社に電話している(ハイ!こちら編集局
1月31日)。〝コーチが投げ飛ばした選手に蹴りを入れるなど見て嫌な気持ちになりました〟と言っているのだ。公開の場で見学者を前に〝蹴り〟を入れるのに、メダリストから〝見たこともない〟と言われても、それを信じろという方が無理な話である。しかも、他の
2人は暴力行為を認めているのである。ただし、ご本人の発言が虚偽である証拠は皆無だから、話はそこでおしまいになる。さらに、〝今回の辞任で問題は解決するか〟と聞かれたとき、
2人の方は即座に〝✕〟のカードを上げたが、彼女は、ほんの一瞬だけ考えたように見えたものの、〝○〟を出した。その理由を問われると〝そう期待したい〟といった意味合いの答えをした。私の主観的な目には、かなり苦しそうに映ったが、ご本人はいかがだっただろうか。冒頭の発言と整合性を保つのであれば、〝私自身、体験したことも見たこともないので、そんな質問には答えようがありません〟と言った方がよかったかもしれませんね。 |
〝カナカナ〟〝タイと思う〟… 2013/02/10 (日) 3692
とにもかくにも一国のトップである総理大臣であれば、〝確信〟というか、〝責任〟をもっているという雰囲気が伝わる表現をしてほしい。時間が経過して認識の誤りが明らかになっても、〝だから‘だろう’と言ったんですよ〟なんてことでは困るのである。さらに〝思う〟までくっつけて、〝だろうと思う〟となると、これはもういただけない。これはおそらく首相の口癖なのだろう。だから真意をくみ取ればいいじゃないかという意見もあるに違いない。しかし、一般庶民なら〝それは口癖だから〟ですむが、総理は最高レベルの公人である。個々の発言でもきちんとした表現をしてほしいものだ。そもそも回りの人間は気づいていないのだろうか。それとも気づいているけれど指摘するほどではないと思っているのか。あるいは、言いたいけれど言いにくいのか。
すでに本欄で取り上げたことだが、そのほかにも気になることばがある。たとえば〝かなかな〟症候群だ。やたらと〝まずいのかなと思う〟とか、〝いいかなと思う〟などと、〝かな〟を使いすぎる。もっと自分の意思と気持ちをはっきりしたらどうかな。この〝かなかな〟、政治家までが使うから世も末なのかな。日本人全体が自分の責任を背負った発言をしなくなっているのかな。また、〝たいと思う〟症候群もあるかな。まずいことが起きると〝お詫びを申し上げたいと思う〟である。〝たいと思う〟なんて悠長は表現はやめましょうよ。単純明快に〝お詫び申し上げます〟と言うべきかな。日本語学的にどうなのか知らないが、〝申し上げたい〟なんて、私は上から目線を感じてしまうのかな。それに〝お詫びしたくない〟という本音が透けて見えそうではないかな。これに対して〝そうじゃない〟と言う人もいるのかな。 |
気になる〝だろう〟 2013/02/09 (土)② 3691
安倍総理大臣のデフレ克服策については、またぞろ国債依存で、素人としては心配している。しかし、マスコミの支持率は60%を超えているようだから、スタートとしては合格点に達していると言うべきか。ただ、安倍氏の癖のようだが、語尾にやたらと〝だろう〟を付ける。これがどうも気になる。たとえば、8日の予算委員会で日本維新の会の中田宏議員が中国のレーダー照射への対応について質問した。その答弁に立った首相は、データを精査した上での発表だと説明した上で、次のように答えている。
〝日本外交というのは国際社会において、あるいは国際条理において、礼儀正しく、物静かな外交を行ってきたんだろうと思います。これからも礼儀正しく、物腰は物静かではあっても、しかし主権や国益が侵害されるときには、しっかりとわれわれの考え方を述べていく、そういう外交に変えていきます。その意味において、国際社会において、われわれの考え方、われわれの主張を浸透するうえにおいて、戦略的な体制を取っていく必要があるだろうし、いまそういうことについては、すでに指示をしているわけでありまして、詳らかに申し上げることはできませんが、中田議員の指摘はきわめて私は重要な指摘だろうと、このことを踏まえながら対応していかなければならないと、こう考えております〟。
この1回の答弁だけでも〝だろう〟が3回入っている。その中で自分の意思をしっかり表現したのは〝外交を変えていきます〟と〝いかなければならないと考えております〟といった印象である。こうした表現が重なると、何かしら〝断定〟〝言い切り〟を避けている感じがしてしまう。それが内面の〝弱さ〟〝自信のなさ〟の現れでなければいいのだが、どうも気になるのだ。 |
〝一票の格差〟万歳! 2013/02/09 (土)① 3690
大日本帝国憲法の発布とともに、衆議院議員選挙法が公布されたのが1889年(明治22年)である。このときは、満25歳以上の男性で直接国税15円以上を納めている者にしか選挙権がなかった。このときの15円が今日のどのくらいになるかはわからない。しかし、翌年の1890年に行われた第1回衆議院議員総選挙における有権者数は約45万人、全人口の1.1%というから、どう考えても一握りの金持ちだけが投票した選挙だったのだ。史上初めての体験とはいえ、投票率が93.7%だったというから、今から見れば驚天動地の数値である。それが1900年(明治33年)には衆議院議員選挙法が改正された。その結果、被選挙権の納税要件を撤廃し、投票権も国税10円以上へと拡大された。それでも有権者数は98万人ほどで、人口の2.2%である。
それから少しずつ制限が緩和されて〝普通選挙〟とも呼ばれたようだが、女性に選挙権がなく、これを〝普通〟などというのは、まったくもって〝不都合〟な話なのである。女性が選挙に加わったのは、敗戦後の1946年(昭和21
年)の第22回衆議院議員総選挙からである。このときは女性79人が立候補して、39名が当選している。このような長い時間をかけて獲得した権利なのだが、いまや投票率が60%にも届かないところまで落ちてしまった。とにかく経済的に、あるいは社会的に力のない者にも、確実に1票が保証されているのである。この〝格差〟を利用しないのは、じつにもったいないのである。〝1票の格差万歳!〟と叫んでしっかり活用しようではないか。〝国の政治家のレベルはその国民のレベル〟とも言われる。文句だけ言っていてもはじまらない。学校でもこうした側面での教育に力を入れてほしいものだ。 |
〝一票の格差〟 2013/02/08 (金)3689
さて、選挙における〝一票の格差〟は真の〝民主主義〟とは何かを考える際にきわめて重要な問題である。それが国の形と将来にも影響を与えるに違いない。〝喉元過ぎれば…〟ではあるまいし、〝選挙過ぎれば〟では困るのである。またぞろ最高裁の判断が出るまで放っておくなどあり得ない。経済対策が大事なことは言うまでもないが、それに劣らず〝選挙制度〟も、いの一番で検討しなければならないはずだ。国会の委員会については、かなりのものがインターネットで観ることができるようになった。選挙制度についても、できるだけフォローしないといけない。また、マスコミもこうした問題にこそしつこく迫った行くべきだ。
ところで、投票には〝もう一つの格差〟がある。ほとんど確認できない情報だが、ソフトバンクの孫正義さんの給料は 2億円だという。資産は 7,000億円なんていうネット情報もある。他人の懐を除く趣味はまったくないが、とにかく相当なもんだろう。その一方で、いまやサラリーマンの平均年収は
400万円だという。この〝平均値〟もかなり怪しい数値だが、とにかく孫さんと比較にならないことだけは間違いない。私が日常的に接している学生たちは、よほどのバイトでもしていない限り年収100万超なんてあり得ないだろう。それでも、孫さんも成人になった大学生も選挙で行使できるのは同じ
1票なのである。孫氏の年収を 2億円、学生が 100万と過大に評価しても、両者には 200倍の〝格差〟があるのだ。これは逆に言えば収入 100万の人の1票は2億円の人のそれよりも
200倍の価値があるということである。スーパー金持ち 1万人が主張する政策も 1万と 1人の相対的低所得者が正当な手段として拒否できるということなのだ。 |
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違憲状態の選挙 2013/02/07 (木)3688
国政選挙における〝一票の格差〟は最高裁で〝違憲〟だと認定されてしまった。これは国会が〝自己解決能力〟を失ったことを示している。弁護士たちから構成される原告によって訴えられた結果である。つまりは国会が〝外圧〟によってしか問題が解決できなかったのというわけだ。しかし、そこはさすがに国会なのである。ほとんどの組織が外圧で押しつぶされるのに、国会になると〝違憲状態〟でも選挙をしてしまうのである。これではまるで、〝カエルに○○〟である。
ともあれ、議員一人あたりの選挙名簿登録者数は、昨年末の第46回衆議院議員総選挙で、最多が千葉県第 4区の 497,350人、最少は高知県第
3区205,461人だった。これは 2.42倍になる。また、2010年の第22回参議院議員通常選挙の場合は、最多の神奈川県選挙区の 1,219,108人に対して、鳥取県選挙区が
243,783人で、こちらは 5.00倍である。今回の選挙に対しても、最高裁から〝違憲状態〟と判断された区割りのまま実施された衆院選は無効だとして、弁護士たちが訴訟を起こした。選挙のやり直しを求めているのである。最終的には最高裁がどう判断するか、大いに注目しておく必要がある。
とりわけ私は、〝熊本県明るい選挙推進協議会〟の〝会長さん〟なんですから、はい…。それにしても、総務省によれば、年末の衆議院議員選挙は小選挙区の投票率が 59.32%で、史上最低なのである。さらに、白票や候補者以外の名前が書かれた〝無効票〟も 200万票を超えて、これまた最悪だという。全国平均は
3.31%で、高知県が 5.24%と最も多いのだが、わが熊本県も大阪府の 4.63%に次いで4.44%、3位に入ってしまった。これは棄権ではなく、とにかく投票所に出かけた人たちではあったのだが…。 |
外圧招来 2013/02/06 (水)3687
〝God helps those who help themselves : 天は自ら助くる者を助く〟。私は〝奇跡は求める者にのみ起きる〟と言ってきた。また、〝どうせダメでは思考停止〟だとも強調してきた。さらに、〝何もしない方が楽だ、今のままが楽だ〟と叫ぶこころのラクダは〝動物園に帰ってもらおう運動〟も提唱してきた。それに〝自分が変わるのは人のためならず〟なんだと、自分にも檄を飛ばしてきた。とにかく〝自分から変わる〟ことができなければ、外から〝変えられる〟ことを覚悟しなければならない。厳しい進化の歴史では、〝変えられる〟ことは〝絶滅〟を意味することもあった。
いま自民党で〝いじめ防止対策基本法案(仮称)〟が検討されている。野党とも調整して超党派の議員立法にするという。つまりは、自の力で自分たちを変えることができない教育現場に対する強烈な外圧である。ああ、とうとうここまできてしまった。〝法律による国家統制ではいじめ問題は解決しない〟と言うのは簡単だ。しかし、それでは、ここまで追い詰められる前に何をしてきたか。こう聞かれたときに十分に答えることができるか。今の時代、教育に限らず、深刻な問題を特定の組織だけで解決しようなんて考えない方がいい。うまくいかないときは、周りからしっかり援助を受けることが大事なのだ。ただし、われわれも偉そうなことは言えないのである。いまから9年ほど前に国立大学はすべてが法人化された。このときも大学側には反対論も多かったのだが、やはり〝外圧〟によって吹き飛ばされた。それまでにも〝大学改革〟は大いに議論されていた。しかし、世の中が納得してくれるような改革まで踏み切れなかった。これと同じことが、いまこの国全体で起きていないことを祈るばかりだ。 |
〝ゴツン〟の効き目 2013/02/05 (火)3686
ファーストフードのレジで順番を待っていた。私の前に女性がメニューから注文をしていた。すぐ横に5歳くらいの女の子がいた。その子が少し横に動いたかと思うとものが落ちる軽い音がした。コーヒー用のミルクを入れた籠が落ちてミルクもコロコロと散らばった。その瞬間、母親の絶叫が聞こえた。そして会計を済ませてから子どものところへ行って、〝拾いなさい〟と怒鳴った。まあ、ここまではよかったが、すぐに〝ゴツン〟という鈍い音が聞こえた。そして女の子が大きな声で泣き始めた。大人だろうと子どもだろうと、人の前で叱られることは恥ずかし。いきなり〝ゴツン〟と頭にひびく痛みは心に残るだろう。公的な場での行為だから、誰もいないところでも同じことが繰り返されているに違いない。
この光景を見て〝すばらしいしつけ〟をする母親だと思う人はいないだろう。いやいや人は様々だから、そんあ評価をする人だってまったくいないとは言い切れない。しかし、その事実がどうであれ、私自身はそんなものは〝しつけ〟だとはまったく考えない。子どもは〝恥ずかしい〟から、〝痛い〟から言うことをきくことになる。それでは、一時的には効果がありそうでも、〝永続的〟で〝自発的〟な行動の変化は起きるはずがない。いやいやこの点でも、〝まったく例外がない〟と断定はしない。しかし、私としては、それはあくまで例外だと考えている。その上、子どもが成長して体力がついてくれば、親の方も〝ゴツン〟だってできなくなる。それどころか、世の中では親たちが子どもから〝復讐〟されるような事件だって起きているではないか。そして、しっかりとしたデータの存在は確認していないが、親の〝暴力〟が子どもに連鎖していく可能性も指摘されている。 |
2つの貨物列車 2013/02/04 (月)3685 continued from 2/02
〝東京物語〟がはじまってすぐに貨物列車がスクリーンを横切っていく。最初は海側からのカットだが、すぐに反対の山側に切り替わってアップで追いかける。ところが、この2つのカットで撮られている列車が違っているような気がした。そこですぐにメモをした。〝貨物列車?〟という程度である。ここでビデオを止めては映画の流れが途切れてしまう。それはまずいに決まってる。映画制作者にも失礼だ。もっともメモするのだって控えるべきかもしれないなあ。ともあれ、映画が終わってからやおらビデオで確認した。やはり列車は同じものではなかった。この映画では列車は主役ではないが、尾道から遠く東京まで老夫婦が出かけていく。そんなわけで鉄道は欠かせない黒子なのだ。だから貨物列車も撮しておく必然性があった。それも生き生き感を出すために2カットはほしい。これは素人なりの勝手な推測である。
ともあれ列車が違った理由はわかる。海側から貨物列車を撮ってから、今度はカメラを山側に持っていって貨物列車を撮影することになる。すでに撮った列車は走り去っているから、〝次〟が通るのを待たないといけない。国鉄から情報を得れば、通過時刻はすぐにわかる。もちろん、実際に撮影するタイミングはいろいろありだ。他のスケジュールを考えながら、〝その日のうち〟に撮ることもあるだろう。また、それが数日後になってもおかしくはない。映画は時間をカットし繋げるところに自由さがある。これは舞台と決定的に違っている。むしろ映画の場合、ストーリーの流れを追いながら撮影をする方が超例外だろう。昨年、高倉健が主演する〝あなたへ〟は、ストーリー通りに撮していったと聞いた気がする。もしそうだとすれば、その方が例外のはずである。 |
テロリストの計算 2013/02/03 (日)3684
アルジェリアのテロで人質になった日本人のうち10名が犠牲になった。その詳細が完全に明らかにされることは今後もむずかしいだろう。武装したテロリストたちが〝日本人はいないか〟と指定したのかどうか。報道によれば、その可能性を指摘する証言もあるようだ。そうしたこともあって、今回は〝たまたま日本人が巻き込まれた〟のでないことはたしかである。それは、日本人幹部が重要な会議に出席するために来訪する日に襲撃したことからもわかる。そこで、〝もはや日本人がターゲットにされる時代になった〟という見解が出てくることになる。これまでイスラムとは良好な関係にあった日本も、キリスト教文化の側に立ったと観られはじめたという分析である。
しかし、この発想は正しいのだろうか。〝日本政府は人命を第一にするから交渉が有利になる〟。テロリストの方にこうした計算があったのではないか。もちろん西側の国々も〝人命最優先〟の態度を取るだろう。しかし、その程度は日本が最も強いと思われたのではないか。交渉の時間が長くなるほど世界の耳目を集める。このように、政治的・宗教的な理由からではなく、〝交渉の有利さ〟が大きな決め手になった可能性はないのか。テロを制圧する側のアルジェリア政府の方はどうだったのだろう。テロリスト側と同じ認識が政府にもあったとすれば、〝交渉が長引く〟のはきわめてまずいことになる。そこで信じられないような早い段階で急襲したと考えられないか。今回は、われわれが知りうる限り、〝交渉した〟という事実はまったく伝わっていない。これはテロリストたちにとっても大誤算だったに違いない。その理由はどうであれ、人命が失われたことは事実だが、こうした観点からの分析も必要だと思う。 |
ウォッチング〝東京物語〟 2013/02/02 (土)3683
〝映画好き〟を自称するのであれば、その内容を楽しんでけば十分なはずである。ところが、〝人間ウォッチング〟を業としている私は、対象が何であれ細かいところまでチェックして楽しむ癖が体に染みついている。こちらは〝楽しむ〟と表現するが、〝ウォッチ〟された側からは〝ケチを付けるだけじゃないか〟と言いたくなるだろう。たしかにそれなりの節度を保つべきだと思ってはいる。しかし、〝ついつい〟言いたくなってしまうのである。
ところで、この正月には〝東京物語〟を観た。小津安二郎監督の名作として世界的に高い評価を得ているものだ。熊本出身の笠智衆やその当時の花形スター原節子、佐分利信、杉村春子たちが好演している。公開されたのは1953年だからビデオで観た。ストーリーそのものは尾道に住む老齢の夫婦が東京の子どもたちの家に出かける話である。そこで〝いろんなこと〟が起きる。私も今年はめでたく〝高齢者〟と認定される年齢に達する。その点からもまことに興味深いストーリーである。今回、山田洋次監督が〝東京物語〟を意識しながら映画〝東京家族〟を撮った。それが現在上映中である。もちろん、これも近いうちに観ることにしている。
さてさて、本題の〝ケチを付ける〟話だが、この点でも〝東京物語〟は私を楽しませてくれた。まずは映画のスタートで主人公の夫婦が住む尾道が映し出される。瀬戸内海が映り、さらに山を背景にして左から右に貨物列車が走っていく。最初は遠景からのカットで、長い貨物列車が終わりそうになるかと思ったそのときに画面が変わる。今度は反対側から撮った貨物列車が少し大きめに映る。ところがである。この列車、遠景のものとはしっかり〝違って〟いるのだ。〝おやっ〟と思ったのでメモをした。 |
〝影武者〟のリアリティ 2013/02/01 (金)3682
黒澤監督の〝影武者〟の主役は勝新太郎から仲代達也に交替した。仲代はもちろん一級の演技者である。しかし、〝影武者〟は武田信玄が主人公の物語だった。私のイメージとしてはどう見ても勝新太郎の方がぴったりだと思った。これはいまも変わらない。歴史に残った絵や山梨県塩山にある銅像などを見る限り、信玄は小太りで顔面の雰囲気も勝新太郎だ。昔の絵がどのくらい本物に似ているのか、誰にもわからない。あまり時間が経過していない西郷隆盛だって、われわれがよく知っている銅像や肖像画は本人じゃないという話もある。上野動物園の銅像除幕式で、隆盛の未亡人が〝こんな人じゃなかった〟と言ったという。それはそうだが、とりあえずみんなが知っている武田信玄の肖像画を尊重するなら、勝新太郎の方が〝リアリティ〟が高かったと私は思う。何と言っても〝リアリティ〟をあくまで追求すると言われたのが黒澤明である。それが勝新太郎と揉めたが故にその精神を放棄したと言えば言い過ぎだろうか。
それでも〝影武者〟はカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した。国内での評判は今ひとつだったが、国際的には高い評価を得たことになる。しかし、それによって国内で再評価された感じもなかった。黒澤が撮った〝羅生門〟は当初は低い評価だったらしい。ところが、それがベネチアで賞を取ると、国内でも大騒ぎになったという。外国でいいと言われると、そのまま鵜呑みにする。まだまだ鹿鳴館的劣等感が残っていたのだろう。〝影武者〟のグランプリは多分にカラーの美しさやエキゾチックさが評価されたからではなかったか。外国人は武田信玄の風貌なんて知らない。このとき国内の評価がそれほど上がらなかったのは、日本人が成長したからだと思った。 |
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