モノクロとカラーとリアリティ 2013/01/31 (木)3681 continued from 1/28
暗闇の中でスクリーンを見つめて楽しむ映画は、それ自身〝リアリティ〟に欠けている。しかし、そんな限界を前提にしながら、〝映像〟そのものは〝リアリティ〟を追求する。あるいは、小説や舞台などよりもはるかに〝リアリティ〟あふれるイメージを創り出すことができる。そして、それを目指して多くの人々が挑戦してきたし、これからもそれは続いていく。巨匠と呼ばれた監督黒澤明は、〝羅生門〟でベネチア映画祭のグランプリを取った。それは敗戦後の日本人を大いに元気にした。黒澤は長いことカラーで映画を撮らなかった。カラーの方が不自然でリアリティに欠けると考えていたのだと思う。このあたりはなかなかおもしろい。〝司馬遼太郎が考えたこと〟では、〝街道を行く〟の挿絵はモノクロであるにもかかわらず原画はカラーだったという。須田画伯の絵だそうだが、あくまでカラーにこだわったところがすばらしいというのが司馬氏の評である。
さて、黒澤映画の〝赤ひげ〟だが、撮影の際に主役の三船敏郎のひげを赤く染めた。まさに赤ひげである。黒澤は色合いにこだわって、海外から染料を取り寄せたらしい。それが肌に沁みるようなものだったらしく、大いに参ったという後日談を三船敏郎が語っていた。それほど〝リアリティ〟を追求したわけだ。それはそれでじつにおもしろいことだと思う。そんな調子だから黒澤の映画は金も時間も桁違いにかかったらしい。それも巨匠だからできたのだろう。その黒澤も〝どですかでん〟からカラー映画を撮るようになった。そのために画面はきらびやかになったが、かえって迫力は失われたのではないか。〝影武者〟では、そもそも主役だった勝新太郎と揉めて、勝が降板させられた。その結果、主役は仲代達矢に交替した。 |
早く辞めたが勝ち? 2013/01/30 (水)3680
教員の早期退職がマスコミを賑わせている。年度末で辞めると退職金が減額されるため、早めに退職する教員がでたという。これに対してある県の知事は〝無責任のそしりを受けてもやむをえない〟と発言している。お節介ながら、行政の最高責任者だから、次のように言うべきだったとご助言申し上げたい。〝こうした事態が起きることは想定していました。そのために、あらかじめ○□△×の手立てを取っておりました。そのおかげで、現場の混乱を避けることができたわけです。ただ、現実に退職希望の先生方がこれほど多かったのはまことに残念です…〟。世の中の問題は、当事者のどちらかが一方的に責められるものでないことが多い。今回も執行する側がこの手の問題が起きることをどれだけ想定していたか。つまりはリスクを予見し、その対応策を準備していたのかどうか。年度途中で実施しないと人件費の負担が大きくなるという。そう言われると、世間ではなおさら〝辞めたやつがけしからん〟という流れになるのかしらね。
いまや知らない人はいない人気絶頂(?)の教育評論家も〝辞めた教員〟はすべて〝ダメ教員〟であるかのような発言をしていた。そんなことどうしてわかるんでしょうねえ。もうお一方、こちらも大物の女性学長だけれど、〝武士は食わねど高楊枝〟なんてことをおっしゃっていた。つまりは、教師たるもの、やせ我慢すべきだというわけだ。そんな家父長制の時代の言い回しを使うのなら、当時の女性を蔑視する言い回しも受け入れるんだろうか。自分の都合のいいものだけピックアップするのはいかがなものか。ところで、私も来年度で退職なんですが退職金がめでたく減額されそうですよ。もちろん3月31日までしっかり勤めさせていただきます。 |
〝がんばれ〟○○さん! 2013/01/29 (火)3679
〝いかがですか、とてもお安くなっていますよ…〟。スーパーで買い物をしていたら、店頭販売の女性から声をかけられた。おっと、〝買い物をしていたら〟は正確ではない。家内と買い物に出かけて、〝いつものように店内を好き勝手にブラブラしていたら〟というのが事実だ。ともあれ、差し出されたのは乳酸飲料だった。件の女性は、じつに気が弱そうで、しかも店頭販売が〝生まれて初めて〟のような雰囲気に充ち満ちている。もちろん、まずはミニカップで試飲した。とくに新しい味ではなかったが、おいしくないというわけでもなかった。しかし彼女を見ていると、ついつい心が動いた。少し離れたところから眺めてみても、セリフは〝お安くなっていますよ〟だけである。そして誰も買わない。私は心に決めた。もちろんその商品を買うことを。すぐに店内の家内を〝探して〟言った。〝あとで買うものがあるから…〟。買い物が一区切りしたら家内にも試飲させたかったのだ。
そこまではよかったが、何分にも瞬間忘却機である。これは私だけではなさそうだ…。というわけでレジも済ませて車に乗り信号待ちをした瞬間に、〝ボッ〟とバーナーに火が点いた。〝あっ、忘れてた〟。そこで家内に〝事情〟を説明して店に舞い戻った。彼女は商品を箱に戻していた。すでに店じまいをしている感じである。商品は山と残っている。家内が近づくと〝お安くなっていますよ〟とまた同じセリフを言った。〝試飲はできるの〟と家内が聞いた。〝すみません、もうなくなって、あとは買い取りになるんです〟。心から申し訳なさそうな声である。いやあ、そんな事情は知らなかった。それにしても内輪の事情まで言っちゃあまずいんじゃないの。もちろん、試飲なしで数本を買って帰った…。 |
舞台と映画のリアリティ 2013/01/28 (月)3678 continued from 1/24
小説などのような〝文字〟を基礎にした文学よりも〝生の演技〟そのものによる〝舞台〟の方が〝リアリティ〟は高くなる。つまりは〝本物〟に近いのである。そうは言いながら、いわゆる舞台はどう考えても〝現実〟からはほど遠い。そして、〝リアリティ〟が高いという点では、映画はずば抜けている。もちろんそれはスクリーンに映った、いわば虚像ではある。しかし、舞台は〝すべてがセット〟なのだが、映画はロケーションなどをして、イメージの〝現実化〟を図る。仮にセットを使う場合でも、可能な限り〝本物
に見えるように力を注ぐ。ただし、だから映画の方が上だということにはならない。それぞれが特徴を持っているのである。
そもそも〝スクリーン〟が現実ではない。舞台には目の前に〝生きている本物の人間〟がいる。まさに〝ライブ〟である。また、映画ではさまなカットを使うから、顔の表情もしっかり見ることができる。しかし、私たちは〝胸から上だけ〟〝顔だけ〟などを見ながら生活をしているわけではない。その点、舞台は役者ではあるものの、人間全部が体ごと目に入ってくる。さらに映画はNGがあっても、うまくいくまで撮り直すことができる。舞台でそんなことしていたら顰蹙ものである。セリフにしてもすべてを頭の中に入れておく必要がある。〝Gメン75〟というテレビシリーズがあった。その主役の丹波哲郎だが、彼はセリフを覚えないことで有名だったらしい。もし、それが本当であれば、舞台の方は無理だっただろう。それはそうとして、舞台と映画の〝リアリティ〟は、そもそもの質が違っているのだ。だから、〝リアリティ〟は〝どっちが上〟といった議論は意味がない。むしろどちらも〝楽しめればいい〟ということである。 |
往きと帰りの違い 2013/01/27 (日)3677
ほんの少し前、電車で移動したときのことです。本を読んでいたら隣に座った二人の女性の話が聞こえてきました。〝このごろ肩が凝ってしょうがないのよね〟〝ああそうなの、私もよ。だから湿布を貼ったり消炎剤を塗ったりしてるのよ〟〝そうなの、私も湿布、貼ろうかなあ〟〝そう。それなら湿布、あげようか〟〝えっ?〟〝いやいや、家のおばあちゃんが病院からいっぱいもらってんのよ。湿布だけじゃなくて消炎剤だって何本もあるから、それもあげようか〟〝…〟。最後の〝…〟は私です。こんな実態があるんですね。いやはや、処置や薬も必要なものに限定しないと、とんでもないことになります。
さて、さて先日飛行機に乗った60肩の私はキャリーバッグを客室乗務員に頼んで上の棚に上げてもらいました。目的地についてベルト着用サインが消えると、先ほどの彼女がやってきてバッグを下ろしてくれたんです。すばらしい気配りだと思いました。さて、その帰りのことです。往路と同じようにバッグを棚に入れてもらいました。そのときはコートも一緒にあげてくれました。そして熊本空港に着いたのですが、行きのときとは違って乗務員さんはやってきませんでした。そこで自分で棚からバッグを下ろそうとして〝おやおや〟と思いました。何とキャスターの車輪側にコートが置かれていたんです。そのため、コートには白い車輪の跡が付いていました。もちろん、ちょっと叩けばそんな汚れなんてあっという間に取れます。それはそうなんですが、私はコートをバッグの上に載せるか、取っ手側に置きます。やれやれ、小さなことにいちゃもんを付ける迷惑な客ではございますめ。でも、こんな〝小さな〟対応の差がサービスだけでなく、対人関係にも影響するんですよね。 |
60肩 2013/01/26 (土)3676
いま60肩の真っ最中です。おそらく50代でしたが、右手が40肩になりました。私の場合〝10歳〟ほど症状が若いんです。そのときは、顎にベルトを着けて上に引き上げる牽引というものも体験しました。ただし、けっこう忙しくて出席率は最悪だった記憶があります。そのせいでしょうか、治るまでかなり時間がかかりましたね。ただし、この手の病は気がついたら治っていたというところがあります。いまでは〝1年はかかったよなあ〟くらいの記憶しかありません。この〝1年〟というのもどのくらい正確なのか、怪しいものです。
今回は7月にフランスに行ったときにスタートしたと信じています。けっこう重い荷物を肩にかけて歩いたわけです。そのあとから調子が悪くなったんですね。もっとも、その際は左肩を中心に使っていたかどうかはわかりません。自分の癖から考えると右肩にかける方が多いと思うのです。それなのに左肩というのでは説明がしにくいですよね。まあ、発症した時期や原因などはどうでもいいかもしれません。とにもかくにも左手が右手と同じように自由に動かせなくなった。それは困ったことですから治したい。ただそれだけの話です。日常の生活に支障がないから、ついつい放っていました。〝そのうちよくなるんじゃないか〟などと自分の都合のいいように〝診断〟するんです。それで4ヶ月くらい経過してから病院に行きました。プロの診断は、やはり〝60肩(?)〟でした。お医者さんは患者とのコミュニケーションがお上手で楽しいんですね。〝こんなときはレントゲンが定番だけど、あなたの場合は必要ないでしょう。医療費がかかるしね〟。これには感動しました。いまこの国は医療費だけで崩壊してしまいそうな状況にあります。 |
判事の国民審査 2013/01/25 (金)3675
昨年末の衆議院議員選挙の際は最高裁判所判事の国民審査が行われた。この制度は、はるか昔の中学校で習った。これは日本国憲法第79条第2項と第3項に基づいて行われる厳粛なものである。その2項は「最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする」である。さらに第3項で「前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される」とされているわけだ。これに具体的な手続きを定めたものが、最高裁判所裁判官国民審査法である。
その細かいことは置くとして、これまでこの制度で〝罷免〟された裁判官は1人もいない。しかし、そうかと言って国民が〝全員が非の打ち所のないすばらしい人物だった〟と認めたわけでもない。とにかく〝わからん〟のである。それでもご本人たちは〝気にしている〟という記事もあるにはあった。しかし、もう少し工夫があっていい。ところで、最高裁判事15人の出身分野は、判事6人、弁護士4人、検事2人、学者・行政3人だそうだ。それはいいとして、その割合が固定されているらしく、任命の経緯は不明だというから、素人的には驚いてしまう。このあたりから透明性を上げる方が先ではないか。今回の〝選挙公報〟を見ると女性はたった1人だった。これまた相当に時代遅れだ。それに出身大学が4校に限定されている。ご推測どおり東大が5人で最も多く、一橋大学、慶応義塾大学、中央大学出身者が3名で並んでいた。こんなところでケチを付けられるのは選ばれた方々としては不本意だろうが、やっぱり偏ってますよね。 |
映画の登場 2013/01/24 (木)3674 continued from 1/14
小説のような〝文字〟による〝物語〟が人を感動させる。これは読む者が創り上げる〝イメージ〟が大きな役割を果たす。それが〝舞台〟になれば、自分の〝目で観る〟ことになる。まさに〝観客〟として楽しむわけだ。ことばに比べれば具体的になるが、しかし舞台はあくまで〝つくりもの〟であり、現実ではない。それがわかっていても心が動かされる。人間は何とすばらしい力をもっているのだろう。そして、それが映画になると、さらに〝リアリティ〟が高まる。ただし、人の歴史から見れば映画は、ついこのごろ発明された新参者である。そうは言っても、私などは物心ついたときから映画はあった。だから、〝新参者〟という定義は当てはまらない。映画の特徴はいろいろある。その中でも決定的なのは、身近の映画館に行けば、目の前で〝スーパースター〟を見ることができることである。これが映画がもっている決定的な特徴である。
昔は全国津々浦々に舞台があり、そこで〝演芸〟が行われていた。しかし、そうした小屋にまで〝スター〟がやってくることはまれだった。いまはほとんど聞かないが、昔は〝旅役者〟ということばがあった。全国のあちらこちらを回って演劇で人々を楽しませた。だからちゃんとした〝プロ〟ではあるが、こうした形で歌舞伎の大御所が出演するなんてことはまずなかっただろう。もちろん、地方の中小都市にも数年に1回くらいは〝大物〟がやってきたりしてはいたけれど。これは歌手なども同じで、いわゆる〝全国区〟の歌手たちのコンサートが公会堂などで開かれてもいた。しかし一般的には今ひとつのプロたちが〝どさ回り〟と呼ばれたりもする巡業をしていた。これは地方というか、田舎を回る劇団などに対して使われたことばである。 |
機内のスーツケース 2013/01/23 (水)3673 continued from 12/31
さて、私が初めて海外に行ったときの話だが、大連で乗り継いで北京に向かうことになっていた。したがって荷物はそのまま次の飛行機に移し替えられる段取りだったはずである。ところが中継地の大連の回転台にスーツケースが回ってきたので、全員が受け取った。ところが、その荷物を預けないままで北京に行くというのである。そこでとんでもないことが起きた。何と全員が大きくて重いスーツケースを持ってエッチラオッチラと飛行機のタラップを昇っていったのである。いわゆる手荷物ではないから、それはそれは異様な光景である。しかも、その後がさらにすごいことになる。〝すべての荷物〟が機内の通路にまとめて置かれたのである。何と客室の通路にである。そうしないと置くところがないといえば、たしかにないのである。素人が考えても危険きわまりないのだが、その状態で飛行機は〝立派〟に離陸し、〝まともに〟北京空港に着いたのである。荷物の塊が飛行機の動きにつれて前後左右に動く光景など、滅多に見られるものではない。
日本では、小さなバッグでさえ座席の下に置くように強く要請される。ほんの少し座席側に出ていても〝もっと奥に〟と言われたりもする。そんな神経質な国と、スーツケースが客室にほとんど無造作に置かれる国との違いは、やはり半端じゃあない。かくして、私ははじめて海外の地を踏んでいきなり珍事に遭遇したのである。それは1993年8月のこと、すでに20年が経過しようとしている。このときは北京から西安、そして上海へと回った。さて、いよいよ北京に降りようとするときだった。目の前に広がったのは真っ黒な夜だった。ほとんど灯りがないのである。それは熊本の明るさと比べても信じられないほどの暗さであった。 |
世界の現実 2013/01/22 (火)3672
アルジェリアといえば〝カスバの女〟という裏悲しい歌を想い出す。フランスが植民地にしていた国である。ジダンというサッカーのスーパースターがいたが、彼のルーツはアルジェリアだった。その地でテロが起きた。情報が錯綜しているが、多数の人質の命が奪われた。そのなかに日本人も含まれている。アルジェリア政府の行動はきわめて過激だった。これに対して、国際的にはさまざまな評価があるようだ。日本は平和である。それが正しければ、それは世界に誇るべきことである。しかし、海外と日本とでは大違いだ。
日本の空港では手荷物検査場の正面に警察官が一人立っているだけである。もちろん拳銃はもっているが、それこそ〝小さな拳銃〟だ。海外では自動小銃を抱えた警官か軍人がパトロールしている。それは映画でしか見ないようなおどろおどろしい銃である。たしかに空港はきわめて重要な施設であり、テロの危険度が高いところだろう。重装備をしている理由もわかる。しかし、たとえばイスタンブールの観光地であるトプカピにも自動小銃をもった兵士が複数いた。日本であれば、熊本城あたりに重装備の警官がいるイメージである。あるいは東京のスカイツリーの周辺を自動小銃の兵隊が巡回している感じである。パリのエッフェル塔ではそれが現実なのである。誰もが、そんなことはないほうがいいと思う。さらに、自動小銃付きの警備などが必要でない世界を目指すことが無意味だとは言いにくい。しかし、今回のような現実が目の前にある。テロを起こそうとする者は当然のことながら警備が手薄なところを狙うのである。その点では、日本は重要施設での警備体制がきわめて脆弱だと思う。もちろん、何も起きないことをこころから願っているのだけれど…。 |
JALの〝ド演歌〟 2013/01/21 (月)②3671
鳴り物入りで導入されたボーイング787が大きく躓いた。いまのところ油漏れにバッテリーの発火、さらにフロントガラスのひび割れなどが問題化している。ともあれ原因を追及中だが、油漏れやバッテリの発火は安全そのものを脅かす厳しいトラブルである。私は787に3、4回ほど乗ったことがある。これまでは日差しが強いときにシェードを下げていたが、それが見当たらない。窓の下にボタンがあって、それを押し続けると〝ジワーッ〟と暗くなる。もう一つ、あるとき出発間際だったが、樺島熊本県知事が秘書と乗ってきて前の席に座った。羽田ではバス乗り換えだったが、さすが、要人である知事たちは別仕立てのバスでターミナルに向かった。とまあ、787機がらみではそのくらいのエピソードだろうか。
ただし、つい先日は予約便の787が欠航となって、JALに切り替えた。このごろはマイレージで〝囲い込み〟をしているから、私自身は圧倒的にANAが多い。そこで久しぶりにJALが中心の羽田第一ターミナルで乗降した。昔はこのターミナルだけだったから懐かしかった。この日は帰りもANAは欠航した。ところで、JALでは機内のオーディオに〝演歌〟が健在であることを知った。これは〝ド演歌好き〟にとってすばらしい発見だった。私は機内では本を読むかPCで仕事をしている。とにかくじっとしていることができない性分で、われながらせわしないのである。ただし、音楽を〝聴きながら〟ということもある。そこで〝演歌〟となるのだが、ANAは〝とうの昔〟に〝心のド演歌〟を追放してしまった。利用者本位から逸脱したサービスカットだと思っている。それがJALで生きながらえていたのだ。熊本空港で座席を立つまで3回ほどリピートした。 |
〝玄人〟たちへの質問 2013/01/21(月)①3670
自分が200%〝素人〟であることを自認したうえで、私にはどうしても心配なことがある。もちろん〝素人の戯言〟だから、〝玄人〟から見れば〝笑止千万〟であっていい。しかも、その心配が〝200%〟の〝杞憂〟であることを〝1000%〟、いや〝無限大〟に願っている。その不安とは新政権の〝経済政策〟である。〝事業規模〟だの何だのはよくわからないが、とにかく〝20兆円〟にものぼる〝補正予算〟を打ち出したという。これでまた赤字国債を発行するのである。〝私は世界一の借金王〟。これは1999年に小渕恵三首相が総額24兆円もの経済緊急対策を打ち出し、12兆3000億円の国債を発行したときの〝名台詞〟である。〝素人〟は単純に思う。〝それでどうなったか〟。〝玄人〟的には2002年から2007年ころまでは〝景気回復期〟だったらしい。それが〝戦後最長の好景気〟だというのだから驚いてしまう。しかし〝玄人さん〟の言うことだから〝正しい〟のだろう。
それはそれでいいとして、2002年度は30兆円、03年度35兆円、04年度35.3兆円、05年度35.5兆円、06年度31.3兆円(小泉政権)、07年度27.5兆円(安倍政権)、08年度25.4兆円(福田政権)、09年度33.2兆円と11兆円の補正(麻生政権)、そして10年44.3兆円(鳩山政権)、11年44.3兆円(菅政権)…。〝経済成長すれば税収が伸び、国債も減る〟〝日本の国債は国内で消化しているから大丈夫…〟。そんなことを〝玄人〟からどれだけ聴かされたことだろう。〝玄人〟の皆さん、あなた方はこれでも〝素人の杞憂〟だとおっしゃいますか。ご自分の見通しが当たった方は、どうぞ世間の前に出てきて大いに自慢してください。しかし、それができる人がいまどのくらいいますか。 |
上から目線 2013/01/20 (日)3669
新聞は〝京都・三条の橋の上にムシロを敷いて座り、世間を低い位置から見ることだ〟と司馬遼太郎は言う。ややもすれば〝上から目線〟から世の中を見たくなる誘惑と、そうした権利を天から与えられたという勘違いに陥る危険性への指摘である。そもそもマスコミは〝第4の権力〟と言われる。〝司法・立法・行政〟の3権に並ぶほどの〝力〟をもっているのだ。だから油断すれば、瞬く間に〝上から目線〟になってしまう。これに対して司馬氏は〝低い位置から〟世間を見ることこそ新聞の神髄だというのである。そしてこんな念押しをしている。〝そうした弊害を温存したまま、新しいニュース・ウィークリーを出すなら、それは社内であつれきや抵抗を生み、混乱させ、社内のがんのような存在になるに違いない〟。社内の〝がん〟になると言い切るのだから、これまた強烈ではある。
まあ、ここまでは厳しい筆致できたが、さすがにこれは〝創刊パンフレット〟向けの原稿だから、最後は応援文で締めている。〝しかし、それが一転してプラスになる可能性がある。他の動物の異細胞を人間の古びた組織に植え込むと、その組織が活性化するという治療法がかつてあったが、新しいニュース・ウィークリーがそうした作用を果たし、朝日新聞全体に新しい刺激を与えるという可能性がある。それを考えると、朝日新聞百年事業として、こんないいことはないと思う〟。ここで〝アエラ〟の発刊が朝日新聞の百年を記念した事業の一つだったことがわかる。その後、この〝新しいニュース・ウィークリー〟の〝アエラ〟が司馬氏の期待に応えたのかどうか、私はそれを判断する情報をもっていない。ただ、少し前に〝アエラ〟を発行する朝日新聞出版社の名前がしばらく話題になっていた。 |
天下の公器? 2013/01/19 (土)3668 continued from 01/17
司馬遼太郎の厳しい指摘を「アエラ」の編集部と、併せて朝日新聞社が受け入れたのは、それだけの意気込みがあったからだろう。だからこそ〝アエラ創刊〟のパンフレットに強烈な内容のものが掲載されたのである。司馬遼太郎は週刊朝日に〝街道を行く〟を連載していた。司馬氏自身もこのシリーズには力を入れていたようだ。そんな流れで、〝朝日、しっかりしろよ〟という応援文として日ごろから感じていた思いを書いたということか。司馬氏自身が産経新聞の記者だったこともあり、報道についてはプロとしての思いもあったのだろう。〝まともなごますり文なら書きませんよ〟〝もちろんけっこうです。この際ですからしっかり苦言も呈してください〟。まあ勝手な推測ながら、このくらいのやりとりはあったのではないか。それに一見すると厳しい文章だが、〝それを受け入れる度量の深さ〟が感じられないこともない。
ともあれ、パンフレットの文章だから分量は少ない。ここまできたら最後までフォローしてみよう。前回書いたように、〝朝日色という存在することのない思考法〟と言ったあとで、〝朝日色とは、天下の公器という意識につながりやすい。ニュースは商品なのである。さらにいえば、京都・三条の橋の上にムシロを敷いて座り、世間を低い位置から見ることだ〟と続ける。まずは〝朝日色〟が〝天下の公器〟だという気負いに繋がる危険性を指摘する。〝ニュース〟なんて、そんなに大げさに考えるものではない。単なる〝商品〟に過ぎないのである。とまあ、一刀両断なのだが、本当にこんな気持ちで仕事をしている関係者がどのくらいいるだろうか。 |
体罰の系譜 2013/01/18 (金)3667
教員免許状更新講習は4年目を迎えた。私は公式に制度が導入される前の試行段階から担当している。そのなかで、おそらく教師の100%が〝知らなかった〟という情報がある。それは、〝体罰はずっと昔からアウトだった〟というものだ。いわゆる家父長的な価値観が支配する戦前の教育では〝体罰〟は容認されていた。しかし、敗戦後に導入された教育の民主化によって〝体罰〟は許されなくなった。とまあ、大抵はこんな〝思い込み〟があるのだ。しかし、それは大いなる誤解で、〝大昔〟から〝体罰〟は許されていなかったのである。
〝凡学校ニ於テハ生徒ニ体罰殴チ或ハ縛スルノ類ヲ加フヘカラス〟。これは1879 (明治12)年に出された教育令第46条の内容である。まさに明治風の古い表現だが、すでに〝体罰〟ということばそのものが含まれているではないか。しかも、〝殴つ〟〝縛る〟あるいは、それに類することをしてはいけないと具体的に示されていたのである。さらに、1890(明治23)年の第二次小学校令によれば、第63条で〝小学校及教員ハ児童ニ体罰ヲ加フルコトヲ得ス〟と、これまた〝体罰〟ということばを使用している。こうして体罰は学校教育がはじまった当初から禁止されていたのだ。しかし、こうした禁止条項があるのは、現実には〝それがあった〟ことを示してもいる。〝痛み〟あるいはそれに伴う〝恐怖〟を与えて人の行動を変えようとする。それでは、牛や馬には悪いが、人間を彼らと同じ動物レベルだと考えているわけだ。人間であるのなら、人格的な力で影響を与えたいものだ。〝人を人と思わない〟。そんな人も人とは言えない。 |
朝日色 2013/01/17 (木)3666
〝橋下問題〟が起きたとき、記者会見の場にいた朝日新聞の記者が〝朝日新聞出版は朝日新聞社とは違う会社で、編集権も別だ〟といった趣旨の発言をした。橋本氏から朝日新聞に記事についての責任を問われた際の回答である。もちろん、〝それはそうだ〟と思った人は誰もいなかっただろう。おそらく記者ご本人も本気でそう信じていたとは思えない。あの瞬間にはあのように答えるしかなかったのだろう。朝日文庫は朝日新聞出版が刊行する文庫だが、そのなかの代表の一つが〝天声人語〟だろう。全部で何冊出ているか知らないが、私はかなりの冊数を読んだ。そんなときも〝朝日新聞〟と〝朝日文庫〟が〝別物〟などとは夢にも思っていなかった。
ともあれ、いまから四半世紀前とはいうものの、司馬遼太郎氏が、この会社が発刊する週刊誌「アエラ」の創刊パンフレットに、〝朝日新聞に苦言を呈するとすれば、何割かの人はどうも自分のアタマで思考していないように思えることだ〟と書いているのである。これは〝朝日新聞出版社=アエラの創刊=朝日新聞〟という関係が成立していたことを当事者が認識していたということである。司馬氏の文章は厳しい表現を重ねながら続く。〝自我が十分育ってないときに入社する。世界や世間をどうとらえていいかわからないために、二、三年上の兄貴分の記者の思考に染まり、やがてそれが、朝日色という存在することのない思考法を借りてしか、ものを考えない体質になっていく。だが、記者は人工人間であってはいけない…〟。これ以上ないと思われるほどの猛烈な指摘である。あり得ない仮説だが、もしも小物の私がこのとき編集責任者だったら、司馬氏に原稿を頼んだことを取り返しの付かない大失敗だったとビビれたに違いない。 |
司馬遼太郎の苦言 2013/01/16 (水)3665
〝朝日新聞に苦言を呈するとすれば、何割かの人はどうも自分のアタマで思考していないように思えることだ〟。朝日新聞の関係者にはきわめて厳しい指摘である。これは「司馬遼太郎が考えたこと14」の200~201ページに掲載されている文章の冒頭部分である。タイトルは「朝日を変える異細胞(「アエラ」創刊パンフレット)」だ。文末に昭和63年4月と入っているから、1988年に書かれたものである。私は〝アエラ〟が出ることを知って創刊号からしばらくは購読していた。スタートの表紙はノーベル賞を受賞した利根川進氏だった。司馬氏の文章はその創刊に向けたパンフレットに書かれたものなのだ。翌月の1988年の5月に創刊している。
「AERA」はラテン語で「時代」という意味があるのだそうな。それに、〝Asahi Shimbun Extra Report Analysis〟の頭文字をつなげている。よくある語呂合わせだが、〝朝日新聞報道・分析特別版〟ということである。大学紛争時代には怒濤のような勢いのあった〝インテリ(?)向け〟週刊誌の〝朝日ジャーナル〟も発行部数が低迷していた。あの筑紫哲也氏が編集長になったのは1984年で、〝筑紫色〟を前面に出したが、1987年には編集長を降りている。この翌年に「AERA」が創刊されたことになる。創刊時には〝日本初の本格的ニュース週刊紙〟として、広告見出しには〝ライバルは朝日新聞です〟とぶち上げた。そのパンフレットに司馬氏は〝何割かの人はどうも自分のアタマで思考していないように思える〟と書いたのである。創刊に向けて張り切っていた関係者が、司馬氏に〝厳しいことも書いてください〟くらいのことは言ったのかもしれない。発行元の朝日新聞出版は、昨年〝橋下記事〟で謝罪した会社である。 |
敗軍の将は… 2013/01/15 (火)②3664
〝敗軍の将は兵を語らず〟という。戦いに敗れた責任者があとになって弁解などしてはいけないという意味である。そんなことをすればただただ見苦しく、自分をおとしめるだけだ。出典は司馬遷の歴史書〝史記〟である。これは52万6千5百字にも及ぶという大著である。
ところで、滋賀県の嘉田知事が新年会で行った講演の内容を新聞で読んだ。〝敗軍の将が思いっきり兵を語って〟いる。あの〝国民の生活が第一〟代表の小沢一郎氏から〝あなたが出てくれたら(反原発派の議員が)100人通る〟と言われて新党の結成を持ちかけられたという。その誘いに〝信じるべきではなかったが信じてしまった〟らしいのだ。まあ仮定の話はしても仕方がないけれど、そんなもん素人の私だって〝きわめて怪しい〟と判断するに決まってる。この1点だけでも、嘉田氏の〝政治的センス〟に疑問符が付いてしまう。さらに、この人には〝ブレーン〟がいるのだろうかとも思う。これは念のためなのですが、まさか〝「日本未来の党」を信じて投票した有権者たちに対して、「あなた方も私たちを信じたのが悪いのよ」〟なんておっしゃるんじゃないでしょうね。投票用紙に〝日本未来の党〟と書いた人たちの多くが小沢氏ではなく嘉田氏を頭に置いていたのではないか。小沢氏の操り人形になるんではないかといった〝不安〟を抱きながらも。
ところが、あっという間に〝未来〟は風前の灯となってしまった。あの票は小沢氏の〝生活の党〟として残ったことになる。敗戦直後に〝家風が違った〟なんて、なんとも無責任な発言をなさることよ。それって単に〝素人でした〟ということでしょう。ふと、マッカーサー元帥が退任時に語った、〝老兵は死なず、ただ消え去るのみ〟が頭に浮かんだ。〝敗軍 |
講演の評価 共通一次への道 2013/01/15 (火)①3663
「司馬遼太郎が考えたこと」を14冊まで読んだ。全15冊だから残り1冊になる。それぞれ500ページを超えているから、単純計算で7,000ページになる。けっこうな量である。ここまで来たら全15冊を読むしかなくなった。ところで司馬氏は大阪外国語大学の出身である。この大学、ほんのちょっぴり私とご縁がある。いまから46年ほど前に私は大阪外国語大学に願書を提出した。当時は国立大学は一期校と二期校に別れていた。その呼び名の通りまずは一期校で入試が行われる。その時期は3月のはじめで、2週間ほど経過してから合格発表がある。それから二期校の入学試験になる。こうした段取りになるために、一期校に合格した者が二期校は受験しないケースも少なくなかった。そんなわけで、世の中には二期校は一期校の〝滑り止め〟というイメージもあった。私は大阪行きの切符と旅館を予約していたが、九大に合格したことから外大の受験は取りやめた。
それはそうと、二期校には実力のある大学が少なくなかった。東京と大阪の外国語大学もそうだし、横浜国立大学・東京工業大学・九州工業大学なども含まれていた。そんな流れのなかで、民間出身の永井道雄文部大臣が〝共通1次試験〟を導入したのである。〝現在の東大を頂点にしたピラミッド型になっている大学の序列を解消しなければならない。大学を日本アルプスのようにしたい〟。そんな発言をしている永井大臣をいまでもしっかり記憶している。日本アルプスの乗鞍・
穂高・槍ヶ岳・立山・剱岳・白馬などは、私のような登山とは無縁の人間でも知っている。それぞれ個性のある山々が競い合っているのである。国立大学をこれと同じようにするというのが〝共通1次試験〟の目的だったのだが…。
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〝演技〟と〝人生〟 2013/01/14(月)3662
〝パーソナリティ〟のもとになるラテン語の〝persona〟は古典劇で使う〝仮面〟を意味している。それを私が知ったのは大学生のときだった。〝心理学〟の基礎知識として授業で教えられたか、本から得た知識だったのかは憶えていない。ともあれ、その事実は私にとってけっこう衝撃だった。〝パーソナリティ=人格〟が〝仮面〟だというのである。しかし、少し考えてみると〝そうかもしれない〟と思えてきた。人間はいろんな状況のなかで生きている。そのときどきで、さまざまな〝役割〟が期待され、それを〝演じている〟ことは疑いない。ときには〝本音ではない〟ことを言ったりもする。そうでないと世の中はうまく回らない。個々人が自分の欲望のまま、思いのままに行動していたのでは周りが迷惑することもある。その一方で〝自分に正直でありたい〟とも思う。そこで〝心の揺れや迷い〟〝葛藤〟が生まれることになる。これらと向き合ってしっかり克服していくのが人生というものだろう。そうした体験を経ながら人は〝成長〟していくものである。
ところが、問題をうまく解決できない人もいる。その原因として問題が〝大きすぎる〟場合がある。また、問題そのものの重さよりも、それを背負った個々人の処理能力によることも考えられる。ともあれ、〝人生〟は〝簡単〟じゃないのだ。しかし、そうだからこそおもしろいとも言える。ところで、〝人工的〟な〝演劇〟のなかでも徹底して形式を重視するのが歌舞伎である。顔は真っ白けで隈取りまでした人間など現実にはあり得ない。それでも感動と興奮を呼ぶのは一体全体何なんだろう。私の歌舞伎体験は一度だけだが強烈なインパクトがあった。そんなわけで、来月には“六代目中村勘九郎襲名披露”を観に行く。 |
〝演じる人〟 2013/01/13(日)3661
〝ヒト〟が〝ホモ・サピエンス Homo sapiens〟と呼ばれることは周知の事実である。もともとはラテン語で〝知恵のある人〟という意味だ。また、〝ホモ・ファベル
Home faber〟という言い方もある。これは〝工作する人〟で、人間が〝道具を創る〟点に注目したものである。さらに、〝ホモ・ポリティクス Home
politicus〟は〝政治人〟だが、こちらは〝人類全体〟の呼称というよりも、〝権力を追求する者〟を意味している。政治学者のラスウエルが使った用語である。また、オランダの歴史家ホイジンガは人間を〝ホモ・ルーデンス
Homo ludens〟と規定した。こちらは〝遊ぶ人〟だ。私としては、これに〝演じる〟も加えてはどうかと思う。しかし、ラテン語で〝演じる〟は〝ludere〟だから、これはホイジンガの〝ludens〟に繋がるのだろうか。そう思って英語を確かめたら、〝Homo
ludens=Man the Player〟となっていた。そこで電子版ランダムハウスを引くと、名詞としての〝play〟は、まず〝劇や戯曲〟がきて、それから〝遊び、娯楽〟となり、〝冗談、戯れ〟から〝試合、競技〟と続いていた。私は〝ホモ・ルーデンス〟は〝遊び人〟の印象が強かったが、こうなるとむしろ〝演ずる人〟の方がより本質的だと思う。そして、〝演じること〟は〝遊ぶこと〟でもあり、それは〝競技すること〟にも繋がっていく。そうだからこそ、〝競技〟にはちゃんとしたルールがあって、それに従うことは、ある種の〝演技〟でもある。さらに〝パーソナリティ〟ということばがある。心理学では〝人格〟などと訳されるが、このもとはラテン語の〝persona〟である。これがまたきわめておもしろいのだが、古典劇で役者が使った〝仮面〟のことだというのである。 |
演劇に動かされる力 2013/01/12(土)3660
小説は〝文字〟で勝負するから、読者のイメージが決定的な役割を演じる。これが〝演劇〟になると〝舞台〟が創られる。そこでさまざまな〝物語〟が目の前で展開していく。しかし、〝舞台は現実ではない〟ことが前提にある。登場人物たちはもちろん、その服装や周りの大道具から小道具まで、とにかくすべてが〝作りモノ〟だ。しかし、だからといって客は〝現実じゃない〟〝偽物だ〟などと文句を言わない。そもそもそんな人間は劇場に足を運ばない。そんな特質をもった舞台でありながら、人々に感動を呼び起こす。涙を流すこともあれば、腹を抱えて笑うこともある。そして、何十年も何百回も公演されるものもある。しかも、筋書き的にはまったく同じであるにもかかわらず、〝追っかけ〟るようについて回るファンもいる。舞台はそれほど魅力的なものなのである。
これは人間の力だと思う。〝現実〟でないとわかっていても〝共感〟できる、そんな力である。舞台俳優からも〝テレビよりも舞台の方がいい〟という声をよく聞く。まずは生身だから、全身を見られ評価される緊張感がある。その演技に対して観客からも直に反応がある。これがたまらないという。その点、仕事はまるで違うものの、私もよくわかる。もう随分と前のことだが、ラジオで講座を担当したことがある。しかし、受講者のいないスタジオでの話には受講者の反応がない。やっぱり自分の目と耳、そして肌で反応を感じることができる講義や講演の方がはるかにいい。さらに、〝読書〟と〝舞台〟には決定的な違いがある。それは楽しむ際の人数である。読書は基本的には〝1人〟で行う行動である。これに対して舞台は〝観客〟という集団で楽しむ。みんなといっしょに笑い、そして本気で涙を流す。 |
挿絵とイメージの固定化 2013/01/11(金)3659
小説は文字だけで人の生き様を描く。だから、すべての情景が読む者のイメージによって創り上げられる。新聞や週刊誌の連載小説では挿絵が付いたりする。大物の作品になれば、挿絵もまた大物が登場する。司馬遼太郎氏の『街道を行く』の挿絵は洋画家の須田剋太氏が描いたことで知られている。須田氏について司馬氏は完璧なまでに絶賛状態である。これは現実にある全国の街道の物語、つまりは紀行文だから、まあ〝それもありだろうか〟とは思う。しかし、私自身は、少なくとも〝小説〟に関しては、挿絵など付けないでほしい。それがあると読む者に固定的なイメージができあがってしまう。文字だけに頼る小説であるからこそ、読む人間の数だけの物語ができていいのではないか。それこそが〝文字だけ〟という〝弱点〟がもっている〝強味〟であるべきだ。だからこそ、小説を映画化した場合は〝イメージが違う〟という批判を受けたりするのである。
そうした中では、松本清張氏の〝砂の器〟は例外だとされている。私も映画を観るよりも相当前に小説を読んでいたのだが、上映中に〝よくできている〟と思った。原作は読売新聞の夕刊に連載され、全部で337回にもなっている。当初からある程度の連載期間が決まっていたのだと推測する。だから1冊の本になってから読むとどうしても〝冗長〟な部分があると思っていた。そんな印象をもっていた〝砂の器〟だったが、映画ではそうした部分が見事に削除されていた。それに映画では、親子が移り変わる四季の中で追われる映像や主人公の心情を伝えるオーケストラの音楽が効果抜群だった。〝砂の器〟は、清張氏自身が〝原作よりいい〟と言ったというエピソードを聴いたこともある。しかし、これはあくまで例外である。 |
チョンボを発見する楽しさ 2013/01/10(木)3658
〝コロンボ〟を初めて観たのは1973年ころだった。母がこの年に亡くなったのだが、父が1人で〝コロンボ〟を観ていた記憶がある。その後は私もファンになった。そして一昨年だったか、NHKのBSでシリーズとして一気に再放映された。最初に放送されたころはビデオに録画する時代ではなかった。それが今では録画して時間があるときに観ることができる。そうなると、とんでもないおもしろさが付け加わるのだ。これは作る側には迷惑な話なのだが、チョンボにけっこう気づくのである。このことは本欄で書いたことがあるが、それ以外にもいろいろと出てきて楽しんだ。
例えば〝50時30分の目撃者〟というものがある。内容を細かく書いている余裕はないが、犯人が車で逃走する際に歩行者とぶつかりそうになる。つまりは目撃者ができてしまったわけだ。ところが、犯人にとって都合にいいことに、その歩行者は目が不自由だったのである。それで安心していたのだが、コロンボは〝歩行者があなたを目撃しているんだ〟と犯人に迫る。犯人は〝そんなだましの戦術は通らんぞ〟とばかりに、〝目撃者〟に本を渡して読ませようとする…。その後のどんでん返しは置いといて、このときもチョンボが含まれている。コロンボが床屋に行く場面があるのだが、それにもかかわらず、次のシーンでは髪型は前のままだったのだ。だった。さらに〝忘れられたスター〟ではコロンボが愛犬にアイスクリームを食べさせる。そのため、それが顔にくっついて左半分が真っ白になっていた。そして、次のシーンでは、こちらに歩いてくるコロンボの後方の車からワンくんが顔を出す。やや遠景になるのだが、イヌの顔から白いものが見事に消えていたのである。これも、やはりチョンボですよね…。 |
| 昨日(9日)は〝更新していない〟ことに 20時過ぎまで〝気づき〟ませんでした。〝ご心配(?)〟をおかけしました。 |
掛け替えのなさ 2013/01/09(水)3657
私の頭の中ではJames Bond=Sean Conneryという式が確定してしまった。映画の〝007シリーズ〟は最新作が24作目で、James
Bond役は6人目になる。このうち、ショーン・コネリーは7作に出演しているが、私はこのキャラクター以外の作品は1本も見ていない。まことに〝はまり役〟だったのだ。ただし、俳優としてはそれも善し悪しだろう。〝これしかない〟というイメージが定着してしまうからである。プロの俳優なのだから、様々な〝人生〟を演じてこそ〝本物〟の証であるはずだ。しかし、〝観る側〟はそれなりの〝期待〟をもつのである。
私の世代は〝ドラえもん〟がなくてはならない存在ではない。しかし、子どもたちに言わせれば〝声が変わった〟となるのである。ドラえもんは〝大山のぶ代〟でないといけないわけだ。〝ルパン三世〟もまたしかり、山田康雄しかいなかった。彼はクリント・イーストウッドの吹き替えでも知られていた。しかし、天命は如何ともしがたく、シリーズ途中で亡くなってしまった。そのあとは、ルパンの物まねとして評価されていた栗田貫一が引き継ぐことになる。つまりは〝おなじ〟でないといけなかったわけだ。この点で思い起こされるのは〝刑事コロンボ〟である。まずもって、〝Columbo=Peter Falk〟以外の式はあり得ない。さらに声優の小池朝雄と〝うちのかみさん〟も、これしかないという組み合わせになった。ところが小池も途中で亡くなったために石田太郎に交替した。このときも〝ルパン三世〟と同様に、〝小池朝雄〟を思わせるような声で吹きかけが行われた。物語の登場人物とはいえ、まさに〝掛け替えのない人格〟なのである。ところで英語版では〝うちのかみさん〟は単純に〝my wife〟である。 |
James Bond 2013/01/08(火)3656
昨年は26本の映画を観た。スタートは元日の〝エンディングノート〟で、ラストは12月8日の喜劇〝綱引いちゃった〟である。年間30本が一応の目標なので、あと4本というところだった。1年の折り返しになる6月1日には、15本目の〝鬼に訊け〟を観た。法隆寺の修復や薬師寺の如藍復興に尽くした宮大工西岡常一氏のドキュメンタリーである。一般の映画館では上映されにくいもので、そうなるといつもの〝電氣館〟になる。年頭の〝エンディングノート〟もここだった。こうして6月までは完璧に30本ペースだったが、7月と8月がバタバタで1本も観なかった。秋口から挽回を期して、10月は3本、11月は6本と猛チャージした。とくに23日から25日の連休には4本を観た。もちろん無理したわけではなく、けっこう興味深いタイトルが並んでいた。〝これで30本は達成できるなあ〟と思ったのだが、それからが1本で終わってしまった。
候補のなかで〝007スカイフォール〟は当然のことながら〝筆頭〟にいた。そして実際に、〝今日行こうかなあ〟と思った日があった。しかし、結果としては出かけなかった。その理由は〝あれはJames
Bondじゃない〟である。Bondはショーン・コネリーでないと〝いけない〟のである。Bondとの出会いは私が高校生のときだった。〝007は殺しの番号(原題:Dr.No)〟を福岡の天神にあったセンターシネマで観たときの衝撃は忘れられない。ここは封切り館ではなく、好評だった映画を時期をずらせて再映していた。入場料が高校生にも手ごろな50円だった。スタート時のBondのシルエットとテーマ音楽を聴いただけでドキドキ感があふれて興奮した。このイメージは半世紀後の新作にも引き継がれている。 |
嬉し恥ずかし… 2013/01/07(月)3655
私の講演を聴いていただいた方に挙げられた〝もう1つ着眼すべき点〟として、こんな文章が続いている。〝彼はブログのPR など、普通ならば、体裁を気にして言わないような、いわば「言い難いこと」を冗談を交えるという手法で「伝えた」〟。おっしゃるとおりである。私はほとんどの講演で、もちろん本職である授業でも、自分のホームページをPRする。〝まずはメモのご用意を〟などと言って、かなりの方が筆記の準備をするのを見極める。それから笑って〝私の発言にすぐに対応していただける。いやあ、この姿勢がじつにありがたいですね〟などと言い、すぐに〝じつはメモはいらないんです〟と前言を翻す。そして、〝YahooやGoogleで「吉田道雄」で検索してください〟というセリフに一瞬の間を置いて〝いまのところトップに出るんでーす〟と続ける。そのときは、〝自慢げ〟な顔をしているに違いない。また、〝日本語はおもしろいですよね。「自慢じゃないけど」と言うときは必ず自慢するんです。ところで、「自慢じゃない」んですが…〟と前置きすることもある。
そうした〝私の厚かましさ〟をレポート氏は指摘しているのである。その上で、〝言い難くても言わねばならない時がある。それをわざと演じているように、私には映りました〟とおっしゃる。いやあ、ここまで過大評価していただくと、厚顔無恥の私でも赤面してしまう。そして最後の〆は〝「今回の講義の詳細はHPで見てください」と本人が言っていたように、この講義で学ぶポイントは、講義自体の「内容」」ではなく、吉田道雄氏の話法にこそあったのではないでしょうか〟である。この3日間は〝嫌みな自慢話〟に終始してしまったが、こうした声が私の元気の素になるのである。 |
笑いの効用 2013/01/06(日)3654
私の講演に対するレポートは続く。〝開始直後は数人が笑いを漏らす程度でした。しかし、講義終了間際、大部分の人が、彼の冗談に対し声を挙げて笑ったのに私は驚きました〟。まさに〝客観的・冷静な目〟で観察されていたことが窺われる。私は笑うことが単純に好きだ。とくにみんなで笑うと楽しくなる。もちろん、その場の状況を考えないといけない。だから、〝いつでも、どこでも〟笑えばいいというわけでないことは承知しているつもりだ。しかし私は、笑いが伴うことで〝あんたの言うことも聞いてやろうか〟という気持ちになっていただける確率が高いと思っている。
それに、そもそも笑いは体によさそうだ。昔から〝笑う門には福来たる〟という。吉本の観客から、舞台を観る前と後に採血させてもらったら、NK細胞が増えていたというレポートがあるほどだ。このごろはNK細胞も知られはじめたが、Natural killerの頭文字で、腫瘍細胞やウイルスに感染した細胞を拒絶するリンパ球だそうな。われわれの体に生まれつき自然に備わっている、つまりはnaturalなありがたい細胞なのである。これが笑うことで増えるのであれば、阿波踊りじゃあないけれど、〝人生、笑わにゃソン、ソン〟ではないか。そんな気持ちがあるから、〝大部分の人が…声を挙げて笑ったのに〟驚いていただいたこと自身がこの上なくありがたいのである。それに、〝笑い〟は話をしている者にとって重要なフィードバックなのだ。それによって、しゃべっている自分の方も動機づけられる。そうした〝反応〟がなかったり、さらに〝冷たい視線〟が浴びせられれば、ことらの動機づけも低下してしまうのである。さてさて、このレポート氏は〝また、もう1つ着眼すべき点がある〟と言うのです。 |
講演の評価 2013/01/05(土)3653
私の講演に対する〝レポート〟を送っていただいた。その中の一つをご紹介しよう。お書きになったのは企業組織の方である。全体としては私の話を〝ほめて〟いただいているので、いつものように単なる〝自慢話〟になる。新年早々、〝そんなモン、読みたくないよ〟と思われる方は是非とも飛ばしていただきたい。さてレポートでは、講演内容について整理されたあと、〝自分なりのまとめ〟が続いている。そこで〝吉田流のコミュニケーション〟が〝分析〟されることになる。〝まず、はじめに彼が実際に講義に入ったのは、開始より30分後のことである。それまで、自己紹介から過去の経緯などを、笑いを交えながら説明した。これが吉田氏流のインフラ整備であったはずである〟。
全体としては話の流れについて好意的なタッチで書かれているのだが、私としてはちょっぴり苦笑する。おっしゃるとおり、事前にお配りしていた〝講演メモ〟に入る前の〝前置き的〟な〝ネタ話〟なのである。その内容は、私が専門にしている〝グループ・ダイナミックス〟の紹介と、私の関わりなどだ。したがって、〝それなりの意味〟をもたせているつもりなのだが、お聞きになる立場からは〝講義前〟の情報だと受け止められるのは当然である。そもそも私自身が〝いやあ、また私の悪い癖が出てしまいました。まだ(パワーポイントの)タイトルから先に進んでいませんよね〟なんて発言をするのである。大学の授業では、〝先週の体験談〟などと言いながらウォーミングアップのつもりで小話をする。それを5分程度に抑えればいいのだが、10分ほどになると〝前置きが長い〟と、教員評価アンケートでしかられたりする。授業内容と関連させているつもりだが、それが通じるとは限らない。 |
〝幻想〟を楽しむ 2013/01/04(金)3652
私が〝イチローを見た〟のは1993年5月29日のことだ。その日、〝ダイエー対オリックス戦〟を仲間たちと観に行ったのである。この年の4月2日に福岡ドームがオープンしたばかりだった。いよいよ来年3月に定年を迎える私だが、それを見据えて〝身辺整理〟を続けている。お正月の3日間だけでも、かなりの〝ガラクタ〟が出てきた。その中からに、オリックス戦のチケットが見つかったのである。座席は1塁側内野B指定席58列342番でかなり上の方だった。それでも入場料は3,300円になっているから、けっこうなお値段である。イチローは前年の1992年にデビューして40試合に出ている。この年は2年目で出場したのは43試合だ。そして、〝あの試合〟に100%出ていたかどうかはかなり怪しい。少なくともスタメンでないことだけは確かめた。
しかし、〝イチロー〟というインパクトのある名前が場内放送で流れたような記憶がある。ということで、私は間違いなくこの目でイチローを見たと信じているのである。ただし、それは時間とともにイチローがとんでもない選手になったから、私が〝確かに見た〟と思いたいだけなのかもしれない。人間の記憶というものはそんなものである。そして、〝イチローをこの目で見た〟と思い込んでおくのも、けっこう楽しいではないか。それが〝幻想〟だったとしても。たまたま出てきた1枚のチケットだが、ほんのちょっとだけ幸せな時間を過ごすことができた。そんな大きな役割を果たしたチケットはそのまま処分した。ただし、世の中には〝思い込みもいいじゃないか〟などとのんきなことを言ってはいられないこともある。そんなときには〝記憶〟というものは怪しいと疑ってかかるのが危機管理の基本だ。 |
イチローを見た? 2013/01/03(木)3651
昨日、松井選手のことを書いたら、すぐにイチローが頭に浮かんだ。国民栄誉賞さへ受けることを拒んだ〝サムライ〟も今年で40歳になる。彼が生まれたのは1973年10月22日だ。今から思えば、47歳で手術をした母がほとんど意識不明の危篤状態のときである。母はいわゆる医療ミスで10月29日にあの世に逝ってしまった。その月の6日に第4次中東戦争が勃発し、〝オイルショック=石油危機〟が発生した。スーパーや薬局からティッシュペーパーとトイレットペーパーが消えてなくなった。いずれも手術後の患者にとって必須のものだったが、その確保に大変な苦労をした。
さて、イチローについては、その業績を誰もが評価するはずだが、一昨年から200本安打の記録が途切れた。そして今年が40歳となれば、おそらく彼にとっても決断の年になるのだろう。まあ、そんなことは余計なお節介、ご本人が決める話だ。ところで、私自身はオリックス時代のイチローを見たことがあると思っている。いまから20年前の1993年5月29日に〝ダイエー対オリックス戦〟を仲間たちと観に行った。福岡ドームが4月2日にオープンしたばかりだった。来年3月の定年を見据えて、〝身辺整理〟を続けているが、その日のチケットが〝ガラクタ入れ〟から見つかった。座席は1塁側内野B指定席58列342番でかなり上の方だった。それでも入場料は3,300円と、けっこうなお値段である。イチローは前年の1992年にデビューして40試合に出ている。この年は2年目で出場したのは43試合だ。だから〝あの試合〟に100%出ていたかどうかまでは調べるすべがない。しかし、名前が〝イチロー〟とインパクトがあったので、私は間違いなくこの目で見たと信じている。 |
松井選手の引退 2013/01/02(水)3650
子どものころの遊びといえば相撲と野球だった。とくに相撲は道具がいらないし、すぐに勝負がつくから休み時間でもできた。私は子どものころから小柄だったが、通学距離がけっこうあったのでよく歩いた。そのためかどうか足腰がしっかりしていて、相撲は強い方だった。野球はボールとバット、それにグローブがいるが、この3点セットをもっている子などほとんどいなかった。私はいまでも野球は嫌いではないが〝じっとしておれない〟からテレビの中継を試合終了まで観ている根気がない。
つい先日、松井選手が引退した。彼は誠実で人柄がよさそうだ。もちろん実績も偉大なるものである。だからご本人には何の問題もない。ただ、それにしても朝の7時台に教育テレビを除く〝全ての局(熊本の場合5局)〟が引退会見を生中継するなんて、どうなんだろうと思う。まあ、私なんぞは〝天の邪鬼〟だから、〝みんな一緒〟という状況に出くわすと、すぐにケチを付けたくなるのである。日本国民なら全員が観ないといけない〝大ニュース〟だと言われれば、〝ああそうなんですね〟なのだが、これって外国でも同じなんでしょうか。そう思いながらBSに変えてみたら、さすがにこちらは放送していなかった。さて、さんざん憎まれ口をたたいたが、松井選手の発言は夜のニュースで観た。当然のことながら、日本の球団から誘いがあったらしい。ところが彼としては、〝ファンから10年前の自分を期待されても、それに応える自信がなかった〟から引退を決めたという。いかにもまじめな松井選手らしい発言に感動した。まさに〝退き際〟の美学である。世の中には、そのタイミングを逸する人がワンサカいる。かくいう私自身も十分気をつけないといけない年になってきた。 |
感謝の新年 2013/01/01(火)3649
新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。私もとうとう〝高齢者〟の仲間入りを果たす年になりました。今年の4月からはじまる年度をもって、熊本大学を〝定年退職〟となります。私がお付き合いいただいている方々のお話から推測しますと、退職日は誕生日を基準にされているところが多いようです。これに対して、私たちのような教員の場合、〝誕生日になりましたので今日でおしまいです。授業の残りはどなたか適当に続けてください〟というわけにもいきません。そんなわけで、私は来年の3月31日をもっておしまいというわけです。これまでも、〝あと10年を切った〟〝残り5年だ〟〝ついに3年になった〟などと、ちょっとした〝区切り〟がくるたびに、それなりの感慨がありました。しかし、個人の意思とは関わりなく、地球は太陽の周りを回って時間はきちんと経過していきます。そして、私にとってもいよいよ〝最後の1年〟というところまでやってきました。
今日まで、軽い鼻の手術をして休みを取ったことはありますが、〝病気でダウンした〟記憶は小学生のときに高熱を出したときくらいしかありません。おそらくインフルエンザだったのでしょう。もう10年ほど前ですが、少しばかり〝だるい〟感じがあったので近くの病院に行きました。鼻をくすぐぐる検査の結果、〝インフルエンザですね〟と言われてしまいました。すでに猛烈な流行が沈静化したあとで、私は〝インフルエンザが遅刻してきたんだあ〟と笑ってしまいました。しかも症状はじつに軽くてすんだのです。まことに月並みではありますが、これも健康な体に生んでくれた両親のおかげです。そして楽しい日々を送らせていただいている皆さまに大感謝です。 |
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