熊本城主 10/06/30 水 2690
私は熊本城主の1人だ。熊本城は西南の役で焼け落ちたが、戦後天守閣を中心に復興された。石垣は燃えないからしっかり残ったが、このカーブが素晴らしく美しい。それを武者返し≠ニ呼ぶ。敵が下からよじ登ってきても、途中でひっくり返って落ちてしまう。そんな曲線なのである。城主≠ナある私は、その熊本城を毎日眺めながら通勤している。けっこうな身分である。石垣そのものは築城このかたずっと同じ形状だが、季節によって周りの雰囲気が変わる。春の桜の時期はもっとも華やかなときの代表で、文字どおり画になる。ライトアップの光で花見をしている人々のシルエットが石垣に映る。一瞬、戦国の宴を見ているような錯覚を覚える。その熊本城の築城400年を記念して、復元事業が進められてきた。一昨年の2007年がその年だったが、メインというべき本丸御殿が復元され、城の風格がさらにレ ベルアップした。その翌年だったか、熊本城は城として日本で一番の観光客を呼び込んだ。常連は首里城だという。ところで、復興事業の資金に充てるため、かなり以前から寄付金の募集がはじまった。一口が10,000円だが、それで城主≠ノなれるという触れ込みである。私もけっこう乗りやすい質である。そこで、わが家も城主≠ノなる決断をした。その制度がスタートして間もない2005年のことだ。もちろん私だけではなく、家内と娘、そして別世帯の息子夫婦の5人がめでたく城主≠ノなった。その際に家内の母もそれではお父さんと一緒に≠ニいう話になった。そこですでに他界していた義父も含めて、わが家と同じときに城主登録≠した。そのときは、一人ひとりの名前を木札に書いて掲示することになっていたので、合わせて7人が連なった(写真)。 |
逆風 10/06/29 火 2689
いま新聞は世界中で厳しい状況に直面している。毎日新聞は400万部を切っている(世界新聞協会 2008)。これは有力な宗教団体が出している新聞の発行部数よりも少ない。ただし、後者の数値は新聞社自身の発表で、20年間ほど変わっていないというから客観的な比較はできないが、とにかく厳しいのだ。それでも、全国紙≠ニいう形をとる日本の新聞の発行部数は圧倒的に多く、1000万部を超える読売を筆頭に、朝日が805.4万部、毎日が391.2万部で世界のトップ3だという。しかし状況は厳しさを増すばかりだ。いまや、YahooやGoogleをはじめとしたインターネットのサイトでニュースが読めてしまうのである。各新聞社もホームページを開設しているが、いずれも詳細な記事を掲載しており、内容が充実している。私なんぞは、ここまで出したら商売にならないでしょう≠ニ言いたくなる。しかもそれが無料とくれば学生などは間違いなくこれで満足する。新聞を読まなくてもいける≠ニいう気持ちになるに違いない。インクの匂いのする大きな紙面を手で拡げる快感など無縁の世代なのである。あれだけのホームページを作成するのだから、相当な経費がかかっているはずだ。それでもここまで来るとホームページをクローズするわけにはいかない。そんななかで、新聞にとって大きな財源である広告収入も激減している。電通によれば、ついにインターネットが新聞の広告経費を上回ったという。紙活字離れ∞不況∞インターネットの隆盛≠ニいった環境がこうした結果をもたらしたのだろう。広告費のトップは言うまでもなくテレビで1兆7000億円を超える。インターネットは7000億円ほどでその半分にも達していないが、これを脅かすのは時間の問題だ。 |
活字中毒の応援団 10/06/28 月 2688
文学全集などは、その内容だけでなく装丁の豪華さを売りにしていた。そして百科事典も知的な調度品だったのである。そんなわけで、全集ブームで爆発的に売れたとしても、購入したすべての人が全巻を読んだのかどうかはわからない。ともあれ、出版不況といわれて久しいが、紙媒体≠ノよる活字ものが厳しい状況にあることは疑いない。そうした状況の中でも、われわれの世代には活字中毒≠自認する者が多いと思う。そんな人間たちが新聞の応援団に属していることは間違いないだろう。しかし、いわゆる団塊の世代もすでに社会の第一線から引退しはじめた。新聞をはじめとした紙≠ノよる情報伝達はさらに厳しい状況に直面するはずだ。それに、よくいわれる若者の活字離れ≠ヘ、正確には紙媒体による活字離れ≠セと思う。とにかく情報に関わる環境変化がめまぐるしい。瞬きするともう世界が変わっている。そんな時代である。そのもっとも大きな要因はインターネットの普及である。その内容については玉石混淆だとして信頼性が問題にされるが、とにかく24時間、途切れることなく新しい情報に接触し続けられるのである。もちろんそれには海外のニュースも含まれる。しかも、そのほとんどが無料≠ナ手に入るのである。テレビがこの世に登場したとき、ラジオがなくなるといわれた。しかし、運転中の人間や高齢者にとっては、ラジオは落ち着いて聴ける媒体である。テレビに比べれば比較にならないが、しっかり生き残っている。テレビが即時的にニュースを流すので、新聞も危ないといわれた。しかし、事件や時事的問題をしっかり理解するためには、何といっても活字でなければならなかった。こうして長い間、テレビと新聞は共存共栄を図ってきた。 |
活字饑餓と全集ブーム 10/06/27 日 2687
絵文字までを活字≠ニ認知するおとな≠ヘ少ないだろう。しかし、考えてみれば漢字をはじめとした象形文字≠ヘ、今風にいえば絵文字≠サのものだ。それはともあれ、若者は活字離れ≠ニいうよりも紙活字離れ≠起こしていると考えた方が正しいのかもしれない。ただし、われわれが若者だった時代のように、格好を付けてもむずかしい内容のものを読むことは減っている可能性はある。敗戦後の荒廃から立ち上がり、経済的には何とか生活ができるようになった。そうなると、われわれは知的なものに関心をもちはじめる。私の青春時代には百科事典が花を咲かせていた。平凡社の国民百科事典は全8巻だったが、私は1,000円の月賦で買った。文学全集もドンドン出版された。各社が豪華な装丁の日本文学全集、世界文学全集の出版にしのぎを削った。中央公論社から世界の名著¢S66巻が出版されはじめたのは1966年のことだ。その年の2月に最初に出たのがニーチェ≠セった。これはダイジェスト版だったが内容は本格的だったと思う。私はとにもかくにも出たばかりのニーチェ≠買って、よくわからないままに読んだ。それより前にも中央公論社には日本の歴史∞世界の歴史<Vリーズがあった。いずれも1960年代の企画である。戦後間もないころ、明日のご飯も食べられないのに文庫本は並んで買ったというエピソードがある。人々がそれほど活字にも飢えていた≠フである。そして、その後の経済発展のおかげでそれなりの生活ができるようになった60年代に新しい活字ブーム≠ェ巻き起こったわけだ。全集はしっかりしたカバーで、金色のストライプが入った装丁のものもあった。そして、狭いながらも楽しいわが家の本棚に鎮座ましました。 |
若者の活字離れ=H 10/06/26 土 2686
われわれの世代には活字中毒≠自認するものが多いと思う。それは子どものころから身についた習慣でもある。新聞にしても、そこに書かれている内容はわからないが、とにかく家に置いてあるものだった。そのうち、ひらがなが多い4コマ漫画だけでも見るようになる。その代表がサザエさんだったのだろうか。それからスポーツでも、野球などについてはスコアを眺めたりもする。そんなこんなをしながら、少しずつ新聞の読み方を身に付けていった。ただし、いわゆる若者の活字離れ℃ゥ身は現状を正確に伝えているかどうかはわからない。それは、書籍や新聞などの紙媒体≠ノよる活字離れ≠ニいうべきではないか。インターネットにしても、その情報の多くは文字≠ナ表現されている。たしかに映像もあふれているが、基本的には文字がベースになっている。それに、メールも含めて自分から情報を発信する点では、われわれの時代を遙かに凌いでいる。その昔は、特別の例外を除けば、はがきや手紙を毎日書いている人なんていなかったし、今でもいないはずだ。その点、このごろの若者は朝から晩までメールの送受信をしまくっている。すでに依存症的な問題まで起きている。それに紙の辞書≠ヘ引かないが電子辞書≠ヘかなりの学生がもっている。授業中でも、教師が話した内容について電子辞書で確認している者もいる。もちろん英語だけでなく、国語辞書や場合によっては百科事典にまで目をとおしている可能性がある。それらのほとんどは文字情報≠ナあり、われわれの時代には想像すらできなかったことだ。このごろは、さらに
iPadなるものが登場した。その詳細は知らないが、こうした道具が、さらに文字情報≠フやりとりを増やすことは疑いない。 |
情報視力と聴力を… 10/06/25 金 2685
報道が世の中の出来事をすべてを報せている≠けではない。もちろんそんなことはできるはずもない。そこでいわゆるニュースバリューがあるものが優先される。これも当然だ。ただし、その評価をするのは報道側に任されている。少なくとも受け止め側にはその手立てがない。それだけ報道する側の責任が重いのである。そこが大衆に迎合するような選択をしてはまずいに決まっている。それ以前に、そのときどきの権力におもねるようではもっと悪い。すでに60年以上も過去の話だが、太平洋戦争中の報道は極限に近いほどまずかった。それと合わせて、われわれは公平さ∞バランス感覚≠煌待する。昨日書いた公正取引委員会の排除命令はどこに出されても&道すべき重みがあった。その後も似たようなことがけっこう起きていたが、全国紙も身内のことを伝えるようになっていった。やはり時代の変化なのだろう。謝らない誤りを犯してはいけない=Bこれは、組織の安全や不祥事防止に当たって欠かせない要件として、私が以前から提案してきたフレーズである。われわれは他人に厳しく、自分には優しい≠ネどと言って、自分勝手に振る舞う人を皮肉ることがある。とくに報道機関はこんな皮肉なことばを投げかけられてはまずい。だからといって他人にも、自分にも甘い≠フでは役目を果たせない。人も組織も誤りは起こすものだ。問題はそのときの対応である。タイミングよく謝る≠アとでむしろ信頼が高まるのである。自分たちに対して厳しいけれど、自分のミスはきちんと認める=Bそんな教師はカッコいい≠ニ子どもたちからも評価されている。そして、報道を受け止めるわれわれにも情報視力∞情報聴力≠鍛え続けることが求められる。 |
熊本日日新聞 10/06/24 木 2684
熊本に来てすぐに大分へ出張したとき大分合同新聞の夕刊を見た。これが大いなる刺激になった。やっぱり夕刊がほしいな≠ニいうことで、そのまま熊本日日新聞を購読することにしたのである。もちろん、朝刊と夕刊のセットだ。正直なところ、夕刊がないと生活に困るというほどのことはない。全国紙も含めて夕刊はさらりとしている。実際の締め切り時間は知らないが、それこそ夕刻前に配達されるのだから、その日の出来事だってそれほど詳しく伝える余裕はない。読む方にとっても、少し遅く帰るとページをめくるだけに近いこともある。しかし、それでも夕刊なのである。そうこうしているうちに、全国紙の印刷工場が福岡近辺に移動しはじめた。また高速道路も整備された。鳥栖辺りからだと熊本まで1時間と少しである。しかしそうなっても、熊本県内に全国紙の夕刊は配達されていない。朝日新聞がJRの駅などで販売しているようだが、これは福岡の版を運搬しただけのことである。Wikipediaによれば、熊本日日新聞は九州では西日本新聞、南日本新聞に次ぐ発行部数のようだが、とにかく県内ではダントツである。かなり以前だが全国紙が、あっちこっちで拡販のために景品を付けるなどして、公正取引委員会から排除命令を受けたことがある。その際に少なくとも私が購読していた全国紙にはそのことが報道されていなかった。同じ時期に大手の旅行会社が排除命令を受けたことが大々的に報道されていたから、しっかり記憶している。そんな状況の中で、熊日は同業者への排除命令を取り上げていたのである。これまたかなり印象的だったので、その記事はいまでもスクラップしている。つまりは、熊日がそうした問題行動を一切していなかったということである。 |
7回表まで… 10/06/23 水 2683
すでに30年もの時間が経過しているのだが、今から考えると鹿児島時代の全国紙は愉快でもあった。輸送時間がかかりすぎるため夕刊がなかったのは仕方がない。しかし、朝刊の方も距離故のおもしろい現象があった。ナイターの記事は試合の途中で切れているのだ。野球の試合は21時台まで終わらないことが多い。しかし、試合終了まで待ってから印刷する版だと輸送が間に合わない。そこで、たとえば7回表までのスコアが載った記事ができあがることになる。情報としてはこれほど中途半端なことはない。もちろんテレビなどで結果を知ることはできたのだが、読者の方もそれを当然のことのように受け止めていた。インターネットが普及した今日ではほほえましいくらい悠長な時代である。それだけ人の心にも余裕があったといえるかもしれない。まあ、そんなもんよ。仕方ないじゃない=Bこんな気分で過ごせるのは精神衛生上は悪くない。いずれにしてもこうした状況だから、県内で発行している新聞の方が遙かに大きな力をもっていた。鹿児島であれば南日本新聞≠ナある。もちろん朝刊と夕刊のセット体制だった。ただし、経営的に厳しかったのか、2009年3月には夕刊が廃止されている。鹿児島での生活は1年半で終わったが、その間は全国紙を読んでいた。しかし、心の奥底に夕刊が読みたいなあ≠ニいう気持ちはずっと潜んでいた。それは新聞を読むこともできない子どもこのから、とにかく夕方になると夕刊が配達される。その反射的な体感が消えないのである。それでも鹿児島から熊本に引っ越してしばらくは全国紙をとり続けていた。それはもういつのことか記憶にないが、大分に出張したときのことである。大分合同新聞の夕刊を読むことになったのである。 |
サザエさんの新聞 10/06/22 火 2682
とにかく活字中毒≠セから新聞は読み続けてきた。学生時代は経済的な面から夕刊専門紙を購読したこともある。福岡にあった夕刊フクニチ≠ナある。その名のとおり夕刊しか配達されない。しかし当然のことながら購読料が安いのである。この新聞は1946年に創刊しているが、当初は長谷川町子のサザエさん≠連載していた。原作者の長谷川氏は1992年に72歳で亡くなっている。それからすでに18年が過ぎているが、テレビのサザエさん一家≠ヘ健在だ。ほとんど国民的オバケ<Aニメである。こちらはスタートが1969年10月で、20年を超える長寿番組である。日曜日の夕方に放送されるサザエさん≠見終えると、ああ、また明日から仕事か≠ニ考えて憂鬱になる。これがサザエさん症候群≠ネのだそうな。なかなか生きにくい$「の中ですねえ。さてさて、フクニチ新聞だが、その後は経営が厳しくなり1992年に休刊≠オている。この間に読売新聞が九州に進出してきたことにも大きな影響を受けたようだ。それは1964年、東京オリンピックが開催された年である。いまや大手新聞社もネットとの競合に苦しんでいる。こうした時代状況の中では休刊≠ゥら復帰することはほとんど不可能だろう。私自身も、やはり夕刊だけでは何となく物足りない思いがした。毎朝新しい情報に接するという新聞の魅力は何物にも代えがたかった。そこでしばらくすると、また朝夕刊のセット版に戻ったりもした。そうしたことを繰り返しながらも、とにかく新聞は生活に欠かせないものだった。その後は鹿児島に住んだこともあるが、その際も全国紙をとっていた。新聞を印刷する北九州が300kmほど離れているので夕刊は間に合わないため、朝刊のみの体制だった。 |
立ち読み気分 10/06/21 月 2681
活字中毒≠自認している。朝から自宅で10冊程度の本を読む=B世の中では速読術≠ネるものも流行っているようだが、私なんぞにはもったいなくて仕方がない。一文字ずつなめるように活字を見据えて先に進む。だから読書のスピードは早くない。この世の中のすべての本を読みたい=Bそんな思いになったことはあるが、それも大学に入学したころの話、とうの昔に諦めた。じっくり読む&が私の精神衛生にはとてもいい。しかし、その一方でせっかち≠フ二乗くらいせっかち≠ネ私がいる。ついでに言えば、気が散る≠フも二乗したほうがいい。そこで、あれも読みたい、これも読みたい≠ニいう衝動は抑えることができない。そんな葛藤する心の動きにどう対応するか。なんて大げさに悩むこともない。答えはじつに簡単で、安易に妥協すればいいのである。そこで、朝から10冊も読む≠フである。ただし、安易な妥協をしているのだから、読む≠ニいうことばを使うと少しばかり嘘≠ノなる。つまり、個々の本に充てる時間が問題で、長くても5分は超えないのである。ページにして1日1ページでも進めばいい方で、2分程度で数行を読む≠アともある。最短の2分で済むなら、20分もあれば10冊は読める理屈なのだ。それだけではない。トイレ用に1冊とか、信号待ちに充てる1冊などもある。もちろん大学の研究室にも7種類ほど置いている。朝出勤してから15分£度は、これらの読書℃條ヤである。置いてある場所も、コンピュータの横、応接台のテーブル、机の上などと散らばっている。あっちに行ったり、こっちに来たりで読んでいく。まるで本屋さんで立ち読みしている雰囲気である。これがこれで、本を読んでいる気分になれる。 |
一言の力 10/06/20 日 2680
そろそろ身辺整理をはじめた私だが、まだ生命保険の契約は続けている。このごろはいろいろ問題もあってか、1年に1回は保険会社から内容確認に担当者がやってくる。昨年、少しばかり契約内容を変更したのだが、そのときに担当した女性から訪問したいという電話があった。そこで日程を決めていたところ、当日の予定時間よりも30分ほど前に電話が入った。いまから行っていいかという話である。そのときはとくに問題はなかったので、いいですよ≠ニ応えた。いろんなところを訪問して、その時間の都合もあるんだろう=Bそんな思いが頭を過ぎった。相手に商品≠売るのは、むずかしい大変な仕事である。生命保険は確率≠商品にしている。客の目の前に素敵なものを揃えるのではない。また、預ければ現金がドンドン増えるというものでもない。とにかく安心≠ニいう直接には目に見えないものを売るのである。しかも、その安心も確率≠ノよっている。そんなこんなを考えながら、とにかく時間前に会うことにした。事務室のMさんにもそれを伝えた。そして担当のTさんがやってきた。保険の内容を確認している会話の中で、彼女が言った。事務室のMさんから「お待ちしていました」と言われました=Bその瞬間、うん?≠ニ思ったのだが、彼女がすぐに続けた。私たちの仕事では、「お待ちしていました」といった声かけはほとんどしていただけません。それでとても嬉しくなったんです=B誰からも大歓迎≠ウれる仕事ではないというのである。そこで、Mさんの一言が彼女の心を和ませたわけだ。人と対するとき、ちょっとした一言が大きな影響を与える。もちろん、それがマイナスの場合もある。Mさんの一言で、改めてことばの力を実感した。 |
生命保険 10/06/19 土 2679
もう長いこと生命保険に入っている。初めて加入したのは長男が生まれたときだ。結婚した際には加入しなかった。さすがに子どもが生まれるとなると、生命保険は親の責任だ思っただ。はっきりした記憶はないが、当時の月収を考えると保険料はかなり高かった。毎月の給料が11万円くらいだったころの話である。それから今日まで30年以上にわたってせっせと支払い続けている。この間に1週間ほど軽い手術で入院したことがあり、そのときに1万円の保険料を受け取った。いまは常識のようだが、入院初日から保険料が出るという契約ではなかったのだ。それでも手続きはかなり大げさで、医師の診断書やなんやらが必要だと言われた。そのときの細かいことはすべて忘れたが、とにかく30年以上支払い続けて、いまのところ実績≠ヘ1万円だけゲットというわけだ。単純な差し引き計算だと国の国債もたまげる猛烈な赤字である。しかし、私だってそんなことでケチなんぞ付けはしない。それが保険というものである。つまりはお守りであって、役に立たなかったのは健康に過ごせた証なのだ。ありがたや、ありがたや。その代わり保険会社も仕事はしっかりしてもらわないと困る。生活感覚から言えばとても信じられないような額の保険を引き受けて、それが犯罪に使われる。このごろは件数は減ったような感じもするが、いわゆる保険金殺人の多いこと。こうした記事を見るにつけて、犯罪者をとんでもないと思う一方で、保険会社は何をしてるんだと追及したくなる。こっちはまじめに30年以上も保険料を支払ってゲットしたのが1万円ポッキリでも、保険ってそんなもんよ≠ニ笑って済ませているのだ。もっとまともに仕事をしろーっ≠ニ叫びたくなるのは当然である。 |
政権交代の揺れ 10/06/18 金 2678
昨年夏の政権交代は様々な変化をもたらした。まさに試行錯誤の様相を呈しているが、日本崩壊の危機≠ノ直面していることをしっかり自覚してもらわないと困る。ともあれ、政権交代によって様々な変化も起きているが、教員免許状講習についてもけっこうな揺れがきた。すぐにでも講習制度が廃止されると受け止められるような報道が流されたりしたのである。どこまで公式な発言なのかもわからないままに、この手の情報はしっかり走り回るものだ。基本的には教員養成制度¢S体の見直しのもとで、更新制度についても検討するということである。さらに、いま行われている更新講習の評価も踏まえて判断することになっている。いずれにしても、法律のもとで実施されている制度である。われわれとしては、淡々と仕事を進めていくだけのことだ。すでに昨年度と今年度実施中の経験を活かしながら、来年度の計画も立てる手はずを整えているところである。ともあれ、せっかくやるなら楽しく≠フ精神を大事にしたい。私自身も先週土曜日に今年度第1回目の講習を担当した。受講者の皆さまも、制度の不安定さにはある種の感慨をお持ちだとは思うが、しっかりご参加いただいた。この制度では試験もしなければならなくなっている。そのため、試験とはかなり縁遠くなられた方々だけに、けっこう緊張された方もいらっしゃった。しかし、久しぶりに大学で勉強して、若いころを思い出しました≠ニいった声も聞かれた。これを機会に学ばれたことだけでなく、気持ちを新たに教師生活をリフレッシュしていただければと思う。それが我々の願いでもある。それにしても法律はまことに強い。国会議員の皆さん、見直しもいいけど、しっかり筋道を立てて議論してくださいよ。 |
同じ空気を吸うこと 10/06/17 木 2677
教員の免許状更新講座では、できるだけ受講者の便宜を図ることが奨励されている。そんなわけで、熊本大学では試行の段階からサテライト会場≠開設した。昨年の3ヶ所から、今年は玉名・阿蘇・人吉・八代・天草の5地区に拡大して実施する。昨年度のサテライト会場≠フ受講者からは、近くで開催されたのでありがたかった≠ニ評価していただいている。ところで、このごろは単身赴任だったり、けっこう離れた自宅から車で通勤する先生方もいらっしゃるようだ。これも時代の流れだろう。とくに車で通える場合は、自宅からの通勤が何よりだ。ただそのことで、子どもや親たちとの心理的な距離ができるようだとまずい。個人的には、先生方は勤務地で子どもや親たちと同じ空気を吸ってほしいと思う。首都圏だとサラリーマンの新幹線通勤は常識だ。MAXという名のついた2階建て車両が走っているが、これは通勤客をワンサカ乗せるために設計されたらしい。それはそれでいいところがある。生活の基盤はあくまで自宅、仕事は東京という割り切りもできる。そもそも家庭にまで仕事を持ち込まないのが本来の姿だろう。しかしその仕事が学校の場合は、通常の生活時間での子どもとの触れあいも大事だろう。もちろん勤務時間はきちんとしておくべきなのだが、近所の方とのコミュニケーションが教師を育てることもあると思う。まあ私のように何かと生活が便利な熊本市に定着している人間としては、人様のことをとやかく言うと叱られるだろうが…。それはともあれ、昨年度の免許状講習については、受講者のアンケートの分析などを行っている。その結果を見ると、サテライト会場を含めて、受講いただいた先生方の評価はおおむね良好である。ありがたいことだ。 |
先生だらけ 10/06/16 水 2676
幼稚園から大学、さらに専修学校、各種学校を含めると教員数は130万人にもなる。日本の人口が1億2,700万人だから、100人に1人は先生≠ナある。さらにお医者さんや弁護士も先生≠ニ呼ばれる。そうそう、永田町にも先生≠ェワンサカいらっしゃる。先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし≠ネんて言い回しもある。これって、わたしゃ先生ほどアホじゃないよ≠ニ言ってるようにも聞こえる。私も世間的には取りあえず先生°ニを営んでいる。たしかにアホ≠ネ部分がやたらとあるなあと自虐的に認めざるを得ない。もっとも、この言い回しの真意は、先生≠ニおだてられていい気になっている者をあざけ笑うところにある。あるいは、私は「先生」と持ち上げられて有頂天になるようなアホじゃない≠ニいう意味合いもあるだろう。ともあれ、先生≠ニ呼ばれる人をすべて数えていったら、30人に1人くらいは先生になるのではないかしらね…。まあ、それは置いといて、とにもかくにも教員免許状が必要な教員については、免許状更新講習を受けなければ免許状が失効してしまうのである。自動車だって免許が失効すれば運転ができなくなる。それ以上に仕事そのものができないのだから深刻な事態になる。更新講習には30,000円ほどの受講料が必要になる。全国を見渡すと、教育委員会が主体になっている場合には受講料を徴収しないケースもあるが、それはあくまで例外である。熊本大学の場合、本年度は必修12時間≠15講座、選択18時間≠68講座開設する。すでに5月22日にスタートしているが、終了するのは来年の1月8日になる。教師が対象だから、通常の時期は講習日は土日が充てられる。そして夏休みは平日も含めて開講日が多くなる。 |
免許状更新 10/06/15 火 2675
法律が変わって、教員は10年ごとに免許状の更新講習を受けなければならなくなった。その対象には幼稚園の先生も含まれている。学校教育法≠フ第1条でこの法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする≠ニ定められている。特別支援学校≠ヘ、それまでの盲学校、聾学校、養護学校が2007年に1つの校種として統一された。また、中等教育学校≠ヘいわゆる中高一貫教育校である。前期中等教育≠ェ中学校に、後期中等教育≠ェ高等学校に対応している。学校教育法≠ヘ146条と付則10条からなっており、第3章の幼稚園≠ゥらはじまって、小学校=A中学校≠ニつづき、第9章は大学=Aそして第10章が高等専門学校=Aさらに第11章では専修学校≠ノ充てられている。それぞれの学校の最初には目的が書かれ、幼稚園の場合は義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとして、幼児を保育し、幼児の健やかな成長のために適当な環境を与えて、その心身の発達を助長すること≠ニされている。法律は時間の余裕があるときに覗いてみると、ちょっとした読み物≠ニして楽しめる。ともあれ、こうした中で教育職員免許法施行規則≠フ改正が行われて、教員免許状は終身ではなくなった。そして、昨年度から全国でその更新のための講習が実施されている。熊本大学では本格的な実施に先立つ一昨年度も試行的に2つの講座を開設した。大学から離れた地域でも対応するようにということで、阿蘇地区においてサテライト″u習を行った。ともあれ、免許を取得して10年、20年、30年の教師は必修領域≠ニ選択領域≠フ合計30時間を受講しなければならなくなった。 |
放置国家 10/06/14 月 2674
日本は法治国家である。基本的にはすべての行為が法に基づいて#サ断され、行使される。公私のトラブルも最終的には法的な判断を求めることになる。もちろん民間人がお互いに話し合って解決できればそれに越したことはない。そもそも法律なんぞは、なくて済むならない方がいい≠フである。法律の専門家の中には、人類が生まれる前から法律があった≠ニ勘違いしている方もいらっしゃるのではないか。悪法もまた法なり≠ニはソクラテスの言だとされるが、それならそれでしっかり変えてもらいたいものだ。暫定税率≠ニいいながら恒久%Iに続ける一方で、国会で首相が恒久減税≠ニ宣言したはずなのに暫定≠ナ終わってしまう。こんな状況を見るにつけ、変えるところを間違っているんじゃございませんか≠ニ言いたくなる。どんな法律でも成立したときはそれなりに必要な理由があったはずだ。しかし、状況が変化してもそのままにされていることが多いのではないか。それでは、放置国家≠ノ堕してしまう。言いたくないが、政治の状況を見ていると、すでにそうなってしまっているのではないかと不安を覚える。ともあれ、すべての法律が国会で審議され決められていく。この際、何とかグループがどうのこうのなどと騒いでいる暇はない。心身ともに荒廃してきたわが国の行く末がどうなるか。どこかの国の瀬戸際♀O交を笑う前に、自分たちこそ浮沈の瀬戸際≠ノ立っていることを自覚してもらわないと困るんです。国会議員の皆さん方には一人ひとりが責任をもって政策を考え、しっかり議論し、国民のためになる法律を作っていただきたい。ところで、われわれの仕事と関わりの深い教員免許状を10年ごとに更新することも法律で決められた。 |
遡る法律 10/06/13 日 2673
国会は唯一の立法機関である。そこで議論して、本会議で可決されると法律になる。ただし、衆議院と参議院の両方で可決されることが条件だ。予算など国の存続に直接的な影響を及ぼすものは、衆議院の議決が優先する。とまあ、こんなことを習ったのは中学生のときだった。ところで、凶悪事件の時効廃止については、すでに国会で成立した。その際に、法律が即日有効になる手続きが取られた。そんなこともできることをはじめて知った。法律って、けっこう緊急を要するものが多いのではないか。その種のものは即日にでもすればいいのに、これまでそんな話は聞いたことがない。ところで、時効廃止は現時点で未解決の事件にも適用されるという。これで被害者の家族たちは気持ちが落ち着いたことだろう。ただ、まったく素人の疑問だけれど、純粋な法律論として、この辺りの議論はされたのだろうか。事件が起きた時点では時効という制度があったのだから、それを否定する形で遡って法律を適用することになる。その昔、国立大学の授業料を値上げする際は、新規の入学者から適用された。だから、学内には授業料の違う学生たちが混在していた。もちろん殺人の場合は、犯人との間で25年経過したら控訴しない≠ニいう契約などあり得ない。また、適用されるものとそうでないものが混在してはバランスに欠ける。そうしたことを考えると、今回の対応は心情的には理解できる。ご存じの方も多いと思うが、昨年度から教員の免許状更新制度が導入された。これを受講して試験に合格しないと教員を続けられなくなる。その対象として、過去に免許を取った教師も含まれている。免許状を取得したときは終身だったのだが、法律が変わったために受講しないといけなくなった。 |
学べない人たち 10/06/12 土 2672
何かをする限り、まったく失敗なしというわけにはいかない。這えば立て、立てば歩めの親心=B親から見ればそうなのだけれど。赤ん坊にとっては大変な努力の積み重ねで歩けるようになる。そもそも寝返りがなかなかむずかしい。必死になって体をねじっても簡単にはひっくり返ることができない。ようやく体が回転しそうになっても、下にきた腕が邪魔をする。とにかく失敗の連続である。そうして、とうとう寝返り成功の日がやってくる。そして、寝返りが成功して頭を上にもたげたとき世界が変わる。それまでも抱っこされていたものの、ずっと寝たままの状態か見ていた世界の見え方が変わるのだ。それはともかく人間は生まれたときから、失敗を繰り返しながら生きていく。それはそれでいい、いやそうでなければいけないのだが、それにしても失敗を生かせない人がいる。またもや事務所経費*竭閧ナある。法的な適切性はどうなのか知らないが、とにかくまたか≠ナある。この人たちは、どうもも人の失敗から学ぶということがないらしい。あの絆創膏大臣だって事務所問題が原因で更迭されたじゃないですか。心理学にはモデリングという概念がある。アメリカのバンデューラが提唱したもので、人の行動を見て、自分の行動や態度を学ぶ≠ニいうじつに単純な発想である。子どもだって人が叱られているのを見ると、それをしてはいけないということを学習するのである。心理学の理論を持ち出すまでもなく、人の振り見て我が振り直せ≠ニいうではないですか。それに李下に冠を正さず≠ナしょうが。とにかくまたか≠セけはやめにしてほしい。それがとてつもない揚げ足取り≠竍言いがかり≠ニいうのであれば、証拠を出して徹底的に反論してほしい。 |
コントロールの限界人数 10/06/11 金 2671
オリンピックの際に、テレビ映像を5秒ほどずらして放送したことを、中国の人たちは知っていたのだろうか。あれからさらに時間が経過したので、こうした情報コントロールはなくなったかもしれない。しかしいずれにしても、膨大な人数の集団を1つにするには情報の操作が欠かせない。それは身近にある彼の国でも同じことだる。一方的な情報だけが洪水のように流されて、それ以外はカットされる。そうしないと、コントロール側に不都合なものが入ってくるからである。こうした状況を見て、われわれはその後進性を笑ったりもする。しかし、それはいまから65年ほど前のわが国の状況とほとんど変わらない。その点では、単なる時間差があるだけだ。国をコントロールするためには、まずは情報を押さえるというのが基本の基本なのである。しかし、統制する場合でも、その人数は問題になる。あまり多すぎるとどこかで漏れが出てくるに違いない。組織の構成員数と、それを統制するために必要な圧力はかなり単純な比例関係にあるだろう。しかし、それもどこかで壊れる。その限界の人数を明確にした研究など見たことがない。そんなことはわからないのである。しかし、インターネットが常識の時代を迎えて、いつまでも情報操作と力だけではうまくいかないときがやってくるに違いない。それは時間の問題である。そうなったとき、例えば13億といわれる人々が単一の組織構成員としてまとまっていることはむずかしいだろう。その結果、ある程度の独立性をもったグループ化が進行するのではないか。それが連邦国家という形をとるのか、そんなことはわからない。アメリカのように、各州の独立性を保持しながら、合衆国としての意識も高いといったことになるのかどうか。 |
組織の人数 10/06/10 木 2670 5/22の続き
権力者が下部の人間を対立させる。その結果、お互いが消耗するから自分たちは安泰だ。しかし、それは権力者たちにとっても短期的な成果であって、長い目でみれば組織の力は失われる。そして行き着くところは崩壊、あるいは消滅である。ただし、そこまでに至る時間は、組織やそれを取り巻く環境によって大いに違ってくる。国のレベルで見ても、数年で崩壊するところもあれば、半世紀以上経過しても、まだ存在を誇示しているところもある…。それにしても、組織が維持できる大きさの限界はどのくらいなのだろうか。たとえば日本の人口は1億2700万人だが、この国はうまくいっているのかどうか。それなりに民主的で自由な国ということにはなっている。取りあえず政権交代なるものも理屈の上だけでなく実現することはした。そのあとが相当にややこしくはなっているが、とにかく自由主義国家の一員とはいえるだろう。これに対して中国は人口が13億だという。その正確な数値は把握できないという意見もあるが、とにかくものすごい数である。お節介ながら、これを1つの国という組織にまとめて維持していくのは至難の業である。ついこの間はGoogleの撤退が話題になった。いわゆる情報の検閲に対する反発が原因だという。その現実は知らないが、組織の維持≠ニいう目的を最優先にすれば、そうした手段が必須であると国のトップが考えているのだろう。そうしないと、あっという間に混乱を来して内部から崩壊するという危機意識があるに違いない。数年前に開催された北京オリンピックの際にも、数秒遅れの生中継≠ェ話題になった。不測の事態が起きて、それがそのまま画面に映るとまずいので、常時チェックしながら5秒ほど送らせて放送したのである。 |
婉曲話法 10/06/09 水 2669
特定の国や集団について型にはまったイメージをつくりあげる。そうしたほうが対応するときも考えなくて済む。ただし、その内容がプラスであれば不都合も少ないだろう。しかしマイナスのときは問題も起きる。そもそもみんな同じだ≠ニ思ったら、そこでちょっと立ち止まろう。どこか違いだってあるはずだ≠ニ問い返してみるのである。きっと違い≠ェ見つかるはずだ。ついでながら、これと逆の場合も要注意である。みんながバラバラじゃないか≠ネんて気がしたら、やっぱり立ち止まる。そこにはけっこう共通点≠発見できるものだ。さてさて、そんな中で日本アイ・ビー・エムの最高顧問である北城恪太郎氏のインタビューを聞いた。アメリカの本社で会長の補佐をしていたころの話がおもしろかった。組織の下から上がってくる提案を点検し、採用しない≠ニ判断して会長に進言した。それに対して文章が冷たい≠ニいう理由で返されてきたという。アメリカ人といえば遠慮しない∞率直≠ネコミュニケーションをする。そんな思い込みがある。しかし、いつもそうだとは限らない。相手のことを考えてことばも選ぶのである。北城氏によれば。
I disagree with your proposal≠ナはまずいらしい。お前さんの提案は駄目だ≠ニ拒絶している。あまりにもストレートなのである。それではどう言うのか。We
are unablle to accept your proposal due to …≠ェお勧めだという。due to ≠フ後にはその理由≠ェ付けられる。これだと、あなたの提案をそのまま受け入れるのはむずかしいんです≠ニ柔らかくなる。それはそうなのだが、実際はNo≠ニいうことなのである。本音をオブラートに包むのはわが国の専売特許でもなさそうだ。 |
ワンパターン化 10/06/08 火 2668
われわれの大脳はかなりのキャパシティをもっている。それでも限界があるから、すべてのことを記憶することなどできない。それどころか、私なんぞは日に日に物忘れが激しくなってきたことを自覚している。ここまでくると、自分の弱さを認める強さこそ大事なのだ≠ニ居直るといい。ものを置く≠ニきも、さあ、ここにキーを置くぞーっ≠ニ自分に言い聞かせる。いわゆる指差呼称≠ニまではいかないのだが、それとおなじ発想である。もっとも、ものを置くときはそうする≠ニ言うこと自身を忘れ≠ゥけるから現状はきわめて危ういのである。ともあれ、氾濫する身の回りの情報を整理しないと頭の中が混乱する。そこで記憶の効率を高める対策が必要になる。その有力なもののひとつが、似たもの同士≠まとめることだ。ごちゃごちゃしているように見えても、ひとつのカテゴリーに分類してしまえば、対応も楽になる。こんなときはこうすればいい∞これはこんなものなのだ=Bそう考えると気持ちも落ち着いて、ちゃんとした行動ができる。ところが、そのまとめる力≠ェ裏目に出ることもある。とくに人間の集団をパターン化してしまうと、これがそのまま偏見や差別に繋がる。そもそも□□人は、ああだ∞あの○○人たちは、こうだ…=Bその内容が陽気だ∞明るい=Aあるいは純朴だ≠ニいったプラスの評価ならまだいい。もちろん、誤った認識≠ナあることは問題なのだけれど。ところが現状を見ると、この手の発言にはマイナスのニュアンスをもったものの方が多くはないか。ずるい∞嘘つき∞攻撃的=c。さすがに21世紀の現時点でもそうだとは思いたくないが、日本人もずるがしこい≠ニいった見方をされた時代もある。 |
ショッピングセンターからも… 10/06/07 月 2667
石巻市役所庁舎はデパートが変身したものである。その総事業費は30億円を切っている。そのなかにはネットワーク設備の構築なども含まれているからバッチリである。私としては、この手の事例を初めて知ったが、全国には同じような市や町があるのだろうか。ともあれ、けっこうなことである。いまや日本国中で無駄遣いを省くのが喫緊の課題だ。それは経費削減に資するだけでなく、いわゆる環境にとってもプラスになる。1つのビルを崩せば、コンクリートのゴミが大量に出る。それを処分する場所もいる。もちろん、耐用年数や耐震工事の費用なども考えて、長い目で改装と新築のどちらがいいかを決める必要はある。しかし、それはちゃんと評価をすればいいだけのことだ。経費がかからない方が、市民にとっても税負担が軽減される。ところで、この手法を採用した市町村を他には知らないような書き方をしたばかりだが、私としてはもう1つだけは知っている。それはお隣の青森県にあるむつ市≠ナある。石巻市役所に感動した私を見て、地元に詳しい方がさらに情報を下さったのだ。こちらは車で通過しながら横目で見ただけだったが、たしかにとんがり帽子もついた建物だった。むつ市にあったショッピングセンターが経営難で破産した。そこを引き継いで市役所の新庁舎にしたというのである。市の移転方針には広い駐車場と広いワンフロアーの建物構造を活用する≠アとが謳われている。そして、今後数十年、市庁舎として利用することとなります≠ニ宣言している。ワンフロアーがいい。高齢社会のなかで、市民が複数階を行ったり来たりするのも大変だ。それに全体が見渡せれば、担当部局間のの連絡だってよくなる。ともあれ、石巻、むつ両市に脱帽でした。 |
石巻市役所 10/06/06 日 2666
宮城県のJR石巻駅に近づいたころだ。右上の方に市役所駐車場≠ニいう看板が見えた。私が知らないのか、駅の真ん前に市役所があるのは珍しい。しかも、駐車場の案内看板が架かっているのはデパートのようだ。それなら自分のお店の案内を掲げるんではないのか。そんなちょっとした違和感をもったところで電車が駅に着いた。それからわかったこと。当然と言うべきか、看板が架かっていたのは、やはり石巻市役所であった。しかし、それにしても、これまでの市役所のイメージとは大いにかけ離れているのである。そして、すぐに地元の方に聞いて、またわかったことがある。じつは、その建物は間違いなくデパートだったのだ。ご多分にもれず、再開発かなんかで駅前でのビジネスが成り立たなくなったデパートさくら野東北≠ェ2008年4月に閉店した。その建物を改装して新しい市役所庁舎にしたのである。これに伴う総事業費は29億9,100万円だというから、新築とは比較にならない。私が建物を見た瞬間にデパートだと思ったのは間違いなかったのだ。外装だって茜色というのか、いわゆる煉瓦のような色である。こんな感じの市役所はこれまで見たことがなかった。私もそこそこの好奇心はあるから、これは一見の価値があると思って入ってみた。まずは1階だが、そこは食料品中心のスーパーそのものだった。それからエスカレータを昇っていく。デパートだから人の動きも考えた設計になったいたと思われる。とにかくそれぞれの階がさっと見渡せて、なかなかいい感じだ。またまた元デパートだけあって、駐車場はバッチリ完備されている。まあ、百聞は一見にしかず、そのイメージは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E5%B8%82 で見られる。
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座席シリーズの最終回 10/06/05 土 2665
ともあれ、前方の座席に座らない理由としてやる気があると思われる≠ニいうのは、軽い驚きだった。これなんぞは、他人を意識したグループ・ダイナミックス的現象そのものである。しっかり頑張ったら、それをちゃんとほめましょうよ。できれば、人からほめられたい≠ニいう気持ちがエネルギーになるような社会を創ろうではありませんか。さて、どうして前に座らないのか£ヌ求シリーズの第3番目のターゲットは男子学生だった。その答えは、みんなが後ろの方に座ってるから…=Bそうか、そうなのだ。彼は、前の席に座らないことについて確信をもっているわけではないのである。ただ、みんな≠ニ同じ行動を取っている。それだけのことなのだ。もちろん、私自身がこの回答に不満を感じたわけではない。これも集団依存型≠ニ言われる日本人によく見られる行動傾向だろう。もっとも、集団に影響を受けるのは、どこの国でも似たようなものだけれど。彼だけでなく、この世の中を無事に生きていくためには、その方が無難なのである。ただし、そんな流れの中で目立った行動を取るメンバーのことも理解する必要がある。みんなで一緒≠フ方が安心だからといって、そうでない人を排斥することから問題が生じる。そんな心のメカニズムが、いわゆるいじめや差別を生み出すのである。さてさて、学生に対する質問もここで止めておけばよかったのだが、調子に乗って4人目を指名してしまった。こちらも男子だったが、眠られないから≠ニ一言。何とも正直な答えであることよ。この授業は1限目だから、お若い学生さんたちにとってはけっこう厳しいのだと思う。朝が強い私なんぞには理解不能だが、8時40分からの開始はつらくてたまらないのだろう。 |
最大勢力 10/06/04 金 2664
先日、あるところで講演をした際に質問を受けた。与えられた時間いっぱいにお話をしたのだが、司会の方がせっかくの機会ですから≠ニ会場に呼びかけられた。これに対して、誰も手を挙げなかった。そこで、司会が質問するのはルール違反かもしれませんが≠ニ前置きされて、問いかけてこられた。コミュニケーションといえば、現在の鳩山総理は…=B講演が対人関係とコミュニケーション≠ノ関するものだったことから、こうした質問をされたわけだ。そのとき、私は、グループ・ダイナミックスでは宇宙人の行動は研究対象にしていませんので≠ニお答えした。そんな回答だったから、それでおしまいになった。それにしても、今回の辞任劇は切羽詰まっての行動なのか。それとも選挙のタイミングも考えて計算されたものなのか。ご本人たちの頭の中は覗けないから、第三者にはまったくわからない。ところで、すでに決定と思われていた某氏に対して突如として対抗馬が登場した。その人のことは、ほとんどの国民が知らないと思う。しかし、彼を押したのは最大の影響力を持つグループだという。その数が多いため、マスコミのプロも勝敗を完全には読めないらしい。私自身は某氏が最高だと思っているわけではない。対抗馬の人だって、われわれが知らないだけでものすごく有能な人物かもしれない。しかしそれにしても、一党内の数の力で国民が知らない人物を総理大臣にすることがあれば、これまで、どこかの政党から見せられ続けてきたもの以上にものすごいことだ。あるいはそれを武器に、裏でポスト交渉をするんでしょうか。そんなことしてるときですか。こうなりゃ、総理大臣は国民の直接投票制にしてほしい。世界中からあざけり笑いの声が聞こえてくる。 |
平安志向のメカニズム 10/06/03 木 2663
課題を遂行する前に、あるいはまだ結果がわからない状態のときにうまくいかない理由を挙げてああ、だめだった≠ニ考える。こうすると、失敗したときのショックが小さくて済む。その理由は課題を行う際の周りの状況だったり、自分の努力不足だったりする。何といっても時間がなかった∞今回はすこしサボっちゃった≠ネどなど、いろいろありだ。自分の努力不足は自らの責任が伴うので少しばかりきつい。それでも、本気でやればできる≠フだから、自分の一時的な失敗に過ぎないことになる。自分が根底から傷つくことを避けることができる。そうした予防線≠張った上で、うまくいけば、それはそれで大満足できる。なにせ、うまくいかないと思った問題を乗り越えて成功したのである。これはまたすばらしいことではないか…。とまあ、どっちにしても自分の評価が下がることがない。われわれは基本的には心の安定を図りたいと思う。いつも緊張して心臓がドキドキしているなんて体に悪い。失敗、とくに人の前での失敗は恥ずかしい。そうした状況を避けようとして、自己防衛的な心の働きがセルフハンディキャッピング≠生み出すのである。まあ、どんなことでも程度の問題だ。こうした心的なメカニズムも心安らかに生きるために役立つことも多い。ただし、それがあまりに過度になると人とのつきあいにも問題が生じてくるということだ。さてさて、前の座席に座っているとやる気があると思われる≠ニいう。そんな学生の答えから、セルフハンディキャッピング≠ワで話が広がった。人からやる気がある≠ニ見られると過度な期待が生まれて、それに応えるのがきつくなる。そこで、自分で予防線を張るための防衛的な反応が働き始めるのである。 |
セルフ・ハンディキャッピング 10/06/02 水 2662
人様からほめていただいたら、それを真に受けて単純に喜ぼう=Bわあっ、そう言っていただけるとありがたいなあ。またやる気が出てきます≠ニ答える。これが私の基本ポリシーである。もちろん状況や相手によっては、やや控えめ≠フ表現をすることはあるけれど。そうした中には、かなりのお世辞≠竍過大評価≠ェ含まれていることだったあるはずだ。しかし、それはそれでいいじゃないですか。自分が勝手に気持ちよくなって、もっとしっかりやるぞーっ≠ニいうエネルギーに繋がっていくのであれば、文句を言うこともない。もっとも時代が変わってきたから、いまでは誰もが自己否定的な言い回しをする状況ではないかもしれない。しかし、授業で前方の席に座らない理由がやる気があると思われるから≠ニいう学生がいたことはたしかである。この答えを聞いて、ふとセルフ・ハンディキャッピング≠ニいう心理学の用語が頭に浮かんだ。これは文字どおり、自分(セルフ)≠ノハンディキャップ≠つけることである。高校や中学のころ、試験が終わった途端に、ああ駄目だった。あそこで書き損なった≠ネどと、大声で失敗を強調する友人がいた。それに刺激を受けていやあ、俺もとんでもないチョンボした≠ネんて口走る。まあ、内心ではそこそこかなあ≠ネどと思っていてもである。そして自分のことは置いといて、ああ、本当に失敗したんだあ≠ネどと同情する。ところが結果を見ると、なんのなんの、某君はほぼ満点という好成績なのである。それに対して、わが方は予想以上の×マークが付いている。そんな経験、ありませんか。ともあれ、最初にだめだったあ≠ニ自分の評価を下げておくと、本当にまずかったときにショックが小さい。 |
感情表現スキル 10/06/01 火 2661
人からほめられると、いやあ、そんなことはありません≠ニ答える。これが謙譲の美徳を尊重する日本人が取ってきた典型的な態度だった。しかし、そう言った当のご本人が、心の中ではじつはそうなんですよ≠ニほくそ笑んでいるのではないか。ことばでは否定しているが、表情全体にそんな雰囲気が漂わせる方もいらっしゃる。やれやれ、こんな視点から人の行動を見ること自身、嫌な感じですよね。何分にも、私は人間ウォッチングがお仕事≠ネもので、つい商売根性が出てしまうわけでして…。それはともあれ、内心で喜んでいるのなら、人にもその嬉しさが伝わるような答えの方がいいと思う。もちろん、昔の日本では、それは礼儀を知らない無礼者だったかもしれない。しかし、もう時代も変わったのだし、いわゆるグローバル化への対応でもないが、少なくともプラスの感情は外に出すスキルを身に付けてもいいのではないか。もっとも、感情にもいろいろあって、喜怒哀楽≠ニいうことばがある。文字どおり、喜びと怒り、そして悲しみに楽しみの感情だ。このうち、怒り≠爆発させられては困るが、それなりの表現もまた必要なのだと思う。あくまで推測なのだが、私は周りの人たちからは怒らない人≠ニ認知されているようだ。だから、私がこれはまったくけしからん≠ニ声を荒げたりすると、あの人が怒るくらいだから、余程のことがあったのだろう≠ニ思われたりする。私としては、それを意識しているわけではないが、この評価は自分にとってもマイナスではない。なぜなら、私の怒りを理解してもらえるからである。人から理解されるというのは、それだけで心が平安になるものだ。ただし、朝から晩まで怒っていると精神衛生に悪いことこの上ない。 |
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