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味な話の素
No.75 2009年08月号(2354-2384 )
 
選挙と変化(09/08/31 Mon-2384)
 
 本日は、わがコラムも選挙特集≠ノせざるを得ないだろう。なにせ私は熊本県明るい選挙推進会議≠フ会長さんなのだ。そんなことから、去る22日には投票推進≠フキャンペーンにも参加した。選挙管理委員会の柴田委員長さんや県選管の皆さん、さらに学生ボランティアの人たちと熊本市の繁華街である上通りでウエットティッシュを配りましたよ。笑顔で近づいていって投票を呼びかける。バスケット3個分で、100個くらいは配ったかしら。こちらが人畜無害≠フ雰囲気があるのか、受け取りを拒否した人はほんの数人だった。ちょっと見た目は強面の人にもトライしてみたが、ぎょろっと睨んだ≠とでにっこり笑う<Aンバランスに心の中で吹き出したりした。ともあれ、そんな事情から、選挙期間中はこまかい論評は慎んできた。これから少しずつ、選挙がらみの話題を取り上げていきたい。それにしても、異例の解散予告が13日だったか、その正確な期日まで忘れそうになる。あれから1ヶ月以上、とにかく史上最長の時間を経て投票が行われ。その結果は、ほぼマスコミが予想した通りの民主党大勝である。大昔は別にして、実質的な意味では史上初というべき政権交代≠ェ現実のものになった。少なくとも同じ政党内のたらい回しに比べれば、何かが変わる≠アとだろう。しかし実際に何がどのように変わるか≠ノついて大胆予想≠ネんてのは止めておこう。今度は民主党が攻められる側に立つ。そんな状況の中で、私としては1つだけ変化があるかどうか≠注目したいものがある。それは北朝鮮の反応である。彼の国では、今回の結果をどのように分析しているのだろうか。政権交代≠ェ行動に変化を起こすきっかけになるのは世界の常識だろう。
もう一つの衝撃(09/08/30 Sun-2383)
 
ジンバルドーの刑務所実験≠ェ与えた衝撃はものすごいものがあった。被験者の精神に支障を来すような実験は許されない。みんながそう思っただろう。実験から30年ほど経過した2002年には、ドイツでエス≠ニいうタイトルの映画が作られている。エス(Es)≠ニは、フロイトで有名な精神分析学の概念で本能的性欲動の源のことである。エスは不快を避け快を求めるという、いわゆる快楽原則≠ノしたがう。本人には意識されないとされる。この映画では当事者が亡くなるなど、実際の実験とは違いがあるが、その衝撃が極端な形で表現されている。授業でこの実験の話をすると、大抵は1人か2人の学生がビデオで見た≠ニ言う。レンタル店の在庫に入っているようだ。さてもう一つ、この実験と衝撃の程度では甲乙つけがたいものに権威に対する服従の実験≠ェある。こちらは、ナチスドイツのアウシュビッツにおけるユダヤ人に対する大量虐殺と関連している。アウシュビッツにおける殺戮の実務的責任者であったのがアドルフ・アイヒマンである。彼はドイツの敗戦が明らかになった後、密かにアルゼンチンに逃亡していた。数年後に家族を呼び寄せるために出した手紙をきっかけに、イスラエル当局がその所在を突き止める。当時のイスラエルとアルゼンチン間には犯罪者の引き渡しについて取り決めがなかったらしく、いわば拉致≠キる状態でイスラエルに移送したのだという。その中核になったのがイスラエルの中央公安情報機関モサド≠ナある。このあたりのいきさつについては、かなり前にNHKがドキュメンタリーを放映したことがある。ユダヤ人として家族を奪われたモサドのメンバーがアイヒマンを追い詰めていくという緊迫感あふれる内容だった。
 8月28日(金) 19:00 〜 31日(月) 9:00 まで年次点検のため、HPにアクセスできません。
オリジナル理論(09/08/29 Sat-2382)
 
ともあれ、ジンバルドー教授は刑務所実験≠状況の影響≠明らかにしたものと位置づけている。社会心理学では個人の行動に与える社会≠ツまりは状況の影響≠しっかり押さえてきたのである。したがって、ブルナーとグッドマンのお金の大きさに対する認知が経済的な状況で異なる≠ニいう実験も、われわれにとってユニークではあるがまったく違和感のないものなのである。そんな感覚でいるから、行動経済学≠ェ合理的経済人≠フ軛から逃れたと聞かされても、そりゃあ半世紀遅いのじゃないの≠ニか、そんなもん、もう60年前から研究してまっせ≠ニいった皮肉も言いたくなるのである。ほんの2、3週間前だったと思うが、NHKのコマーシャルでこれで経済危機がわかります≠ニいった感じの番組を紹介していた。その際に、経済学の専門家である大学教授が登場していた。はっきり記憶はないが、囚人のジレンマ≠ゥゲーム理論≠ゥ、少なくともどちらかの視点から世界の経済危機≠すっきり説明しますといった趣旨だったと思う。このときもやれやれ≠ニため息が出た出た。あれだと、2つのうちのどちらにしても、経済学≠ナ生まれたオリジナルな理論だと思い込む人も多いだろうなあと思った。もちろん、いずれも社会心理学≠フオリジナル≠ニいうつもりもない。しかし、いわゆる行動科学%Iな視点から、すでに私が学生のころには大いに研究が進められていた理論なのである。番組そのものは見なかったので、これ以上コメントしてはいけないが、まさか経済学のオリジナル≠ネんて雰囲気で話が進んだのではないでしょうねえ。まあ、文句ばかり言わないで、経済学もわれわれに近づいてきたんだ≠ニ思えばいいのだけど。
看守と囚人(09/08/28 Fri-2381)
 
コインの大きさそのものは物理的なものである。しかし、置かれた経済的状況によって、その大きさに対する人の見方(認知)が違う。そんな研究が60年以上も前に行われていた。私のような経済学の素人は、このごろ元気がよさそうな行動経済学≠ヘこうした研究の大事さを今ごろ気づいたんですか≠ニ言いたくなってしまう。そもそも、個人の行動は状況によって多大な影響を受ける≠ニいうのが社会心理学のセールスポイントなのである。くじ引きの要領で2つに分けられたグループに刑務所の看守と囚人の役割をとってもらう。まさに本物そっくりに作られた監獄での実験が行われ、2つのグループの行動にきわめて大きな違いが生じたのである。はじめは偶然に割り振られた役割だったのに、いずれの側もそれらしく&マわっていく。看守≠ヘ権威を誇示し支配的になり、囚人¢、は卑屈になったり反抗的な行動を取る。数日のうちに囚人たちの精神に深刻な問題が生じて、実験は中止を余儀なくされるほどだった。社会心理学の領域で行われた衝撃的な実験である。これはアメリカのスタンフォード大学のジンバルドー(Zimparido, P)教授が行ったもので、1971年に発表されている(“Stanford Prison Experiment”)。さらに詳細にご関心をお持ちの方は、http://www.prisonexp.org/slide-1.htm で検索していただきたい。まずは下段にあるBegin Slide Show≠ゥらはじめて、Next Page≠クリックしていくと実験の全貌がわかる。ところどころに動画も挿入されている。被験者たちの精神面に影響を及ぼす衝撃的な実験だっただけに、その適否についても大論争を引き起こす。その後に研究に関する倫理規定≠ェ設定され、今日ではこうした実験はあり得ない。
お金の見え方(09/08/27 Thu-2380)
 
いまから62年前、アメリカでじつに興味深い研究論文が発表されている。著者はハーバード大学のブルナーとグッドマン(Jerome S. Bruner and Cecile C. Goodman)である。タイトルはValue and Need as Organizing Factors in Perception =B直訳すれば認知を組織化する要因としての価値と欲求≠ナある。その詳細については、http://psychclassics.yorku.ca/Bruner/Value/ を検索していただければ論文そのものを読むことができる。そこでさらに関心をお持ちの方は、そちらを参照していただきたい。この論文の結論は、人は置かれた状況によってものの見え方(認知)が違うということである。2人の研究者はボストンに住む10歳のこどもたちを集めて、コインの見え方に対する実験を行った。その際に子どもたちを裕福な家庭と経済的に恵まれない家庭の2グループに分けたのである。そして、1セントから5、10、25、50セントの5種類のコインについて、スクリーンに映像を写しだし、それぞれの大きさを推測させた。その結果、2つのグループ間に違いが見られたのである。どちらのグループも、現実のコインよりも過大に評価する傾向が見られたが、そのズレの大きさに違いがあった。貧困家庭の子どもたちの方が、実際のコインよりも大きく認知する傾向があったのである。つまりは、置かれた経済的状況によって、コインの大きさに対する認知≠ェ違ったというわけである。この結論については、多くの方々がそうかもしれないなあ≠ニ思われるだろう。経済的な環境によってお金の大きさまで違って見える。そんなことも大いにありそうな話ではある。こうした研究が社会心理学の領域ですでに60年以上も前に行われているのである。
理論がねえ…(09/08/26 Wed-2379)
 
閑話休題。いまや実践は理論に奉仕するためにあるのではない≠ニ私は確信している。まあ、考えてみれば当たり前のこと≠ナそれほど興奮することもないか。それは裏返せば、理論こそ実践に奉仕すべき≠ニいうことである。しかし、その理論が何とも頼りない。このごろは行動経済学≠ニいったものがあるようだ。これまで経済学は合理的経済人≠前提に理論化してきた。それが行き詰まって生まれたのが行動経済学≠セというのである。しかし、合理的経済人≠ネんて、そもそも前提に無理があるとは思いませんか。人間が合理的に行動するのなら、宝くじなんてこの世に存在するわけがない。中学校で期待値≠ノついて習った記憶がある。このごろの何億円も当たるらしい宝くじがどの程度か知らないが、30円のものを300円くらいで買う計算になるのではないか。世の中が合理的≠ノ行動する人ばかりであれば、そんな非合理な買い物をする人なんていないはずだ。ところが経済学では、今ごろになって、その前提に疑問を感じたというのである。少し前に裁判員制度のニュースがあふれかえっていた。その際に、裁判員が素人から見ればごく自然な質問をしたら、プロには考えられない視点だ≠ネどとプロが驚いていた。素人の私なんぞ、そんなことで驚くプロ≠ノ驚いて≠オまった。その点では、行動経済学≠ェ、これまでの合理的経済人≠理論の基礎に置くという前提に疑問をもったということも、これまた大いなる驚き≠ネのである。まあ、本当の行動経済学≠ヘ、もっとしっかりしているとは思うが、素人がのぞき見した程度で言わせてもらうなら、そんなこと社会心理学で半世紀以上も前にやってますよといいたくなるようなネタもある。
本末転倒(09/08/25 Tue-2378)
 
現実を見れば本末転倒≠フ例はいくらでもある。裁判員制度がはじまったが、法律専門家の中には人間がこの世に生まれる前に法律があった≠ニ勘違いしている人がいるのではないか。このことに関しては、本コラムでも以前から書いてきた。法律はない方がいい=Bこれがスタートなのだ。ただ人の数が増えてくると紛争も生まれる、周りに迷惑をかける者も出てくる。また、強い人間がその力だけで弱い者たちを苦しめる。そんなことがあっては社会全体がうまく動かなくなる。そこで社会正義≠実現するために仕方なく*@律をつくらなければならなくなった。ところが、時間が経過するにしたがって、法律が人間から離れはじめた。そして、裁判の判決文にしても、素人≠ノはわからない日本語を使うようになる。さすがにそれではまずいということで、少し前からまともな日本語に近づいてきたようだ。またそうした問題に対する対応として、裁判員制度も導入されたということだろう。ともあれ、法律≠ェ専門家だけの道具として一人歩きしているのは、目的と手段の転倒≠フ実例の一つである。そんな目で見れば、世の中は目的と手段の転倒≠ノ充ち満ちている。衆議院選挙は今度の日曜日に投票だが、政治の世界も本末転倒≠疑いたくなることが多い。そもそも、何のために議員になるのか。それは、世の中をよくする∞社会正義を実現する≠スめに違いない。しかし、本来の目的がどこかに飛んでしまって、とにかく当選する≠アとが目的になってしまう。しかも、当選してしまうと、世の中をよくする≠ニいうよりも、次の選挙でまた当選する≠アとが目的になる。そんな人ばかりではないにしても、そんな人もいるような気がしませんか。
寂しがり屋…(09/08/24 Mon-2377)
 
この年になって、ますます実践へのこだわり≠ェ強まってきた。そもそも、実践は理論に奉仕するために存在しているのではない≠フは当然のことだ。そうではなくて、理論こそ実践に奉仕しなければならない≠フである。こうした点について、人間というものは転倒≠オやすい性向があるようだ。たとえば、目的と手段の転倒≠ヘその典型的な例である。現在の経済制度の中では、最低限のお金は必要だ。しかし、それはそれなりの人生を送る≠スめの手段だったはずである。ところが、いつの間にか金を手にすること≠ェ目的になる。そうなると、もっと、もっと≠ニいう気持ちが心を占める。それだけではない。金を得るためには手段を選ばない、人をだますことなど平気の平左という状況が生まれる。新自由主義≠ネるものが標榜され、金儲けはいいことだ≠ニいう風潮が生まれた。そして、まずは金持ちが先行すれば、その余得でそうでない人間も助かる。いわゆる、金持ち機関車論≠ヘよく耳にした。しかし、一旦そうなってみると、機関車は客車を引っ張ることをいやがるようだ。何のことはない、自分だけで走っていてしまう。現実の機関車≠ヘ絵本のトーマス≠フように思いやりに溢れていないのである。お金は寂しがりやなのよ。だから仲間がいないところから逃げて、たくさんいるところに集まっていくのよ=Bかつて事件に関わってインタビューされて、そんな名言≠ワイドショーで吐いた男がいた。それを聞いて思わず笑ってしまった。しかし、現実を見ると、しかもお金は思いやりがない≠ニ追加したくなる。いやいや、それをいうとお金は抗議するだろう。それは自分たちのせいじゃない。われわれの持ち主の心が問題なのだ≠ニ。
実践は実践のために…(09/08/23 sun-2376)
 
グループ・ダイナミックスの創始者であるレビンは研究に関して示唆的なことばを残している。その代表的がNothing is as practical as a good theory≠ナある。nothing≠ニいう無生物を主語にしたいかにも英語的な表現だが、as 〜as≠ニいう基礎的な表現の文である。一つのいい理論と同じほど実践的異なものは,何もない≠ェ直訳になるか。つまりいい理論は実践的だ≠ニいうことである。英文和訳なら、nothing≠強調していい理論ほど実践的なものはない≠ニすれば○≠もらえるだろう。もう少し踏み込んで訳せば、実践的でなければいい理論とはいえない≠ワでいく。とにかく実践≠ェ大事なのである。彼はこんなことも言っている。If you want truly understand something, try to change it=Dこれも英語としては中学生でも理解できる。直訳ならもし、あなたがあることを理解したいと思うのなら、それを変化させるよう試みなさい≠ニなる。さらに日本語的にすると、もし何事かを理解したければ、それを変えるよう試みるといい≠ゥ。あれこれと理屈は言わず、とにかく実際に働きかけてみる。そうした実践的な試みの勧めである。私自身はリーダーシップ・トレーニングの開発と実践をライフワークにしている。リーダーシップ・トレーニングは文字通り訓練≠ナあり、生の人々がかかわる実践≠サのものである。そして、この面での仕事をすればするほど実践こそ基本だ≠ニいう気持ちがドンドン高まっていく。実践は、理論に奉仕するためにあるのではない。実践はそれ自身で存在価値がある。むしろ理論が実践に奉仕することが求められている=Bこんなことを教育心理学会の年報(2008)に書いた。
きんだいちゅう(09/08/22 Sat-2375)
 
私はグループ・ダイナミックス(Group Dynamics)≠仕事にしている。日本語では英語を直訳して集団力学≠ニいう。その創始者はクルト・レビン(Kurt Lewin)である。英語的にはカート・ルーウィン≠ニいった響きになる。私が学生のころ、認知的不協和理論≠ナつとに知られていたLeon Festinger(レオン・フェスティンガー) 教授の講演を聴いた。認知的不協和理論≠ノついては、またいつかお話ができるかもしれない。ともあれ、フェスティンガー氏の講演で、レビンはレビン≠ナはなくルーウィン≠ナあることを知った。これだけでも相当な発見だと嬉しくなった記憶がある。文字として見た目は同じでも、国によって読み方が違うのはごく自然なことである。たとえば、CHarlesはイギリスではチャールズ≠セけれど、フランスではシャルル≠ノなる。こうした事情は、わが漢字文化圏でも同じである。先日亡くなった金大中℃≠焉Aわが国ではずっと昔はきん・だいちゅう≠ニ読んでいた。それが現在では実際の読みに近いキム・デジュン≠ナある。この原音読みにするという習慣がわが国と中国との間には出来上がっていない。今日の経済体制の基礎を作ったケ小平氏もとう・しょうへい≠ニいうが、中国ではデン・シャオピン≠ナある。そんなわけで、私が17年ほど前に中国へ行ったとき、熊本大学の吉田道雄≠ニ紹介してくれているはずなのに、本人にはさっぱりわからなかった。ところで、グループ・ダイナミックスの創始者であるレビンは実践≠フ大事さを強調し続けた。そしてそれをアクション・リサーチ≠ニいうことばで表現した。文字通り、実践(action)≠ニ研究(research)≠統合するということだ。
幸せ世代(09/08/21 Fri-2374)
 
人生ゴム紐理論≠採用して1.6掛けで計算すれば、昔の50歳もいまの80歳になる。そうなると、私の風貌は50歳で亡くなった漱石先生≠ノ近づくだろうか。いやいや、それは無理だろう。今度はまるで迫力のない老人になるのが落ちではないか…。いずれにしても、時間はきちんと経過していくのだから、毎日をしっかり生きていくのが何よりだと思う。そして気がつけばすでに還暦≠フ峠を越えたというわけだ。その代わりというわけでもないのだが、3年ほど前には孫が出現した。おしゃべりもできるようになって、ますます楽しくなってきた。とうの昔にトイザらスじいちゃん≠フ免許も取得して、いつも遊んでもらっている。まだまだ若いとはいえ、私と同じ年齢の仲間たちの多くがいわゆる定年でリタイアしている。仕事を終えた後の人生をどう送るか。これもまた重要な現代的課題である。ところで、われわれ団塊の世代は社会はだんだんよくなる≠ニいう期待とともに育ってき。また20代のころには、ベトナムで同世代の人々が命を失っていた。もちろんその他の地域でも多くの戦争や紛争があった。その状況は今でも変わらない。そうした中で、われわれは戦争や死の恐怖を体験することなく青春時代を過ごしたのである。戦後数年間に生まれた団塊の世代こそは、わが国の歴史の中でもっとも幸せな人生を送らせてもらったと思う。もう、その一事だけでも感謝しなければいかない。しかし、時代の環境は一変した。このごろは、子どもはまだしも、孫たちの時代まで日本は存続しているのかと心配になってくる。このままだと、100年後には日本を崩壊させたのは20世紀後半から21世紀にかけて生きた連中だ≠ニ非難されるに違いない。それはまずい。
漱石の生まれ変わり…(09/08/20 Thu-2373)
 
上背はなくても座れば対等に話せる…。それがあまり自慢にはならないことに気づいたのは中学生のころだった。それからというものは、電車に乗ったときなんぞもずり落ちるような姿勢で座るようになった。まあ、要するに短足なのである。しかし、この年に至って、その特徴を漱石大先生と共有しているのだから大満足というほかはない。ところで、こめかみ≠ノ手を当てている漱石先生の肖像写真はつとに知られている。その、こめかみ≠セが、これが米をかむと動くところ≠ゥらきているのはご存じだろうか。知ってる方には何ということもないのだが、その由来をはじめて聞いたときは、なんとわかりやすい≠ニ感動した。つい嬉しくなって、思わず叫び声を上げるほどだった。それはそうと、漱石先生との類似点だが、これも銅像からの推測だが先生はけっこうなデカ頭≠フようである。じつは私も頭がけっこうでかい。子どものころ母が言っていた話を思い出す。母からおんぶされていた赤ん坊のころ、近所の人からわー、お母さんの顔より大きいんじゃない≠ネんて笑われていたという。余計なお世話だが、それだけ頭全体が大きかったというわけだ。いまどきの若者は知らないだろうが、昔は八頭身≠ニいうことばがあった。身長が頭の8倍あるとかっこいいということになっていた。その基準だと、私なんぞは6頭身くらいかしらね。まあ、それも個性であり、これまた漱石先生といい勝負なのだからけっこうな話である。あれやこれや漱石先生と私の類似点を取り上げた。もちろん、どう考えても私が漱石先生の生まれ変わりなんてことはあり得ない。けれども、自分が書いた本の表紙に漱石先生が座っておられるのだから、それだけでも光栄というべきだろう。
漱石と私と短身と…(09/08/19 Wed-2372)
 
拙著の表紙に夏目漱石が採用されて、自分は漱石の生まれ変わりか≠ニ感動、いや勘違いした。しかし、端っから自己卑下することもない。そういっては何だが、漱石と私にはいくつかの共通点があるのだ。まずは、短身である。上熊本駅にある漱石像の側まで行ったことがあるが、相当な小柄だった。等身大だとすると小さいなあ≠ニ思った記憶がある。実際はどうなのだろう。そこでちょっとネットで探してみると、本人のメモのようなものが残っていることがわかった。それには、漱石は23才の時点で体重14貫200匁(53.3kg)、身長5尺2寸4分(158.8cm)と書かれているらしい。この身長だが、当時としては平均より少しばかり高めだったという。私は160cmは超えているものの、まあほとんど似たようなものである。団塊の世代は165cmくらいが平均だったから、私は同世代の中では少しばかり低い方に入る。今の若者とは基本的な体格が違う。小学生のころは1クラス60人もいるような時代である。男女が半分として30人程度。私はいつも前から10番目くらいだったと思う。ともあれ、身長に関しては私は漱石と大いなる共通点を有しているのである。さらに、銅像からの推測だが漱石はかなりの短足に見える。何といってもこの点では私も漱石に負けない自信がある。小学生のころは上背の割には相撲が強かった。仲間内からは、その当時もっとも人気があった初代若乃花ばりに小兵ながら足腰が強い≠ニ評価されていた。おそらく重心が低かった≠フだと思う。そして、自分よりもかなり背の高い友人とも座ればタイで話ができる≠ニいう自信もあった。しかし、この点についてはあまり自慢しない方がいいということを中学生のころに気がついた。
漱石と私(09/08/18 Tue-2371)
 
多くの人がそうだろうが、私もまだまだ若い方だ≠ニ思いながら過ごしてきた。熊本大学にも縁のある夏目漱石が亡くなったのは満でいえば49歳である。こめかみ≠たりに右手を当てて椅子に座っている彼の代表的な肖像写真がある。神経質そうで愁いに満ちた雰囲気だが、明治天皇の大喪の日に撮ったものだという。そういえば、左手には喪章を付けている。そのときの年齢を計算すると45歳になる。堂々たる風格で、あれを見るとわれながら自分の迫力のなさに感動すら覚える。人生ゴム紐論≠ネるものがある。ゴム紐は引っ張ればビーン≠ニ延びる。あれと同じように、昔の人の50年の長さを80年くらいに引き延ばすと同じになるという発想だ。それだと1.6倍くらいのかけ算になるから、漱石時代の45歳は現代の72歳あたりになる。そうなればかなり修正できるが、それでも、私自身は今から一回り経過してもあの雰囲気まで到達する自信はない。もちろん私は漱石の親戚でも何でもないから、とくに突っ張ることもないけれど。それはそうと、熊本大学では知のフロンティア≠ニいう講演会を年に3回ほど開催している。これは社会人の方々に聞いていただくものだが、その内容をまとめたブックレットが出版される。私もそこで講演するチャンスをいただいて、人生をよりよく生きるノウハウ探し −対人関係づくりの社会心理学−≠ニいうタイトルの本ができた。その詳細は、本ホームページでも著書紹介≠フ欄に掲載しているので、そちらもご覧いただければありがたい。写真でおわかりのように表紙は夏目漱石である。出版元の熊本日日新聞社のご担当者から校正刷りを見せられたとき、私は漱石の生まれ変わりなんだ≠ニ大いに感動(?)した。
両面評価の常識(09/08/17 Mon-2370)
 
国土交通省が、高速道路料金上限1000円を導入する際に、観光面でのプラス効果を見込んでいたが、マイナス面は試算していなかった。そんな新聞記事が出た。これに対して私はにわかに信じられなかった。それは国土交通省のプロが事前にプラスとマイナスの両方を考えない≠ネんてありえないと思ったからである。万一の万一、この発言が本当だとすれば、申し訳ないけれど開いた口がふさがらない。ここから先は単なる推測、いや邪推に近いけれど、マイナス面≠ノ関する意見も出たに違いない。しかし、それを言い出すとえいやっ≠ニ実行できなくなる。そこでマイナス面はとりあえず置いといて≠ニいうことになったのではないか。ところで、このアイディアはそれこそ政治主導だったのか、それとも官僚主導だったのか。時節柄、ちょっと知りたいところである。それはそうと、困惑しているのは新幹線だけではない。バスもフェリーも軒並み客が減っている。そして物流のトラックだって混雑に巻き込まれて困っているのではないか。環境に対してもやさしくない。CO2がドンドン排出されているのは間違いない。渋滞はそれに拍車をかける。このご時世に、どうして公共交通機関をサポートする方向で対応できないのだろうか。このあたりがわからない。まあ、これについても、そこまでやり出すと全国の公共交通機関をサポートすることにも繋がるため、試算すらできないということになるのだろう。それならいっそのこと、特定の1週間とか、飛び飛びで10日間だけに限定して、車種を問わずオール無料≠ニいうのをやってみる手もあったのではないか。それこそ日本国中が大渋滞で、公共交通機関もまともに走れない危機的状況になったかもしれないですね。
突貫工事(09/08/16 Sun-2369)
 
お盆の民族大移動≠ヘ今日くらいまで続くのだろう。この夏は混雑が予想される直前に静岡で地震があり、東名の一部が不通になった。これに対して翌日にも復旧≠ニいうアナウンスが聞こえてきたのでホンマかいな≠ニ驚いた。テレビで素人が見ただけではあるが、あれが1日でOKになるとは、にわかに信じられなかった。日本人は昔から突貫工事≠ェ得意ではあった。とにかくやり遂げる≠フ精神である。しかし、いまや安全≠ェ最優先の時代である。工事をされる人たちの安全もしっかり確保していないといけない。サービス精神≠熨蜴魔セが、利用する側にも早く、早くと迫らない@]裕が必要ではないか。最終的には今日の午前零時に全面開通したという。崩落したのは道路に直して数十メートル程度のように見える。この部分だけが崩れた原因もしっかり分析するだろうが、今後の安全チェックも大事にしてもらいたい。それにしても、現場で24時間働いた方々はご苦労さまでした。ところで、高速道路は予想通りの渋滞が発生しているようだが、これに関して気になるニュースがあった。国土交通省の事務次官が会見で高速道路料金割引について発言したものである。あの休日上限1000円≠ノ関して、プラスの効果だけでなく、負の側面も含め総合的に検討する必要がある≠ニ述べたという(毎日 8/11)。同省によれば、値下げで大勢の人が移動することで、観光面でのプラスが7300億円ほどに達すると予測していたらしい。しかし、渋滞や新幹線の利用減による社会的損失≠ヘ試算していなかったというのだ。失礼ながら、この発言はにわかには信じられない。ものごとを決めるときには、プラスとマイナスを考えることは常識以前の常識である。
成田の活気(09/08/15 Sat-2368)
 
空港の話をしたのでまた思い出した。先月ノルウェーに出張したとき、まずは羽田から成田までバスで行ったところまでは書いていた。あの検問≠経てバスは出発ロビーの階に着く。ロビー内に入るが、それほど賑わっていない。そこからホテルに行くためにバス停のある1階へとエスカレータで降りる。その道筋でも人はまばらにしかいない。あとで思えば、出発ロビーの1階下は到着ロビーの階だったのではないか。出口から少し距離はあったのだろうが、とにかく人が少ない。そしてバス停のある1階へやってくる。文章では表現しにくいが長いプラットホームが3本ほどある感じのところだ。ホテルの送迎バスが来る停留所の番号は28番だったと記憶している。とにかく、それほど広いのである。しかし、またしても人は数えるほどしか待っていない。全体を見渡してもその人数が数えられる程度しかいない。時刻はまだ20時台である。これが日本最大の国際空港の実態なのだ。バスでホテルへ向かう。その昔、Gメン75≠ネんぞの舞台にもなったようなホテルだ。もっともGメン75≠ネどといっても、今どきの若い人は知るはずもない、テレビの人気活劇シリーズである。ともあれチャンとしたホテルであるが、築30年以上になると思われる。だから部屋の内装なども古くなっている。私なんぞはそれでどうということもないが、周囲を見渡してもピカピカのホテルは目に入ってこない。よく聞く名前のホテルはあるが、それらも開港以来のものだろう。ただ新築すればいいといういうわけではない。しかし、それでも発展していれば、それなりの光景になっているだろう。私が頭から否定的な目で見ているせいか、空港周りのインフラも今ひとつ活気がないのである。
熊本/静岡往復便(09/08/14 Fri-2367)
 
けっこう忙しくて新聞をゆっくり読んでいる時間が取りにくい。それでもページをめくって斜め読みしていると、それなりに気がかりなことに関する記事は目に飛び込んでくる。国が管理する26の空港の中で20が赤字と出た。九州では熊本と鹿児島空港が黒字である。福岡と那覇は民有地を借り上げている負担が大きいらしい。まあ、詳細な事情は空港によって違っているから、大きい小さいはいいとして、空港の問題はいつも気になるところだ。けっこう話題になった静岡空港は熊本とも繋がった。静岡で学会があるので、さっそく≠ニ思ったが、時間がまるでいけない。行きが10時50分で静岡12時20分着だ。バスの時刻表を見ると静岡駅に着くのは14時17分になる。そこから大学までのバスが25分ということだ。バスの待ち時間を考えると、大学に着くのは15時くらいになるだろう。つまりは学会参加という点では、その日はほとんど意味がないわけだ。また、熊本に帰る便は朝8時45分発で、バスは静岡駅を7時05分に発車する。何とも慌ただしい。そんなわけで、私が選択したのは、熊本・羽田便を使い、品川から新幹線で静岡に向かう路線である。観光客にしても、行きは半日以上がつぶれてしまう。しかも帰りは朝一番だから、起きたら朝飯を食って、慌てて帰ることになる。機材のやりくりなどで、こうしたスケジュールしか組めないのだろうが、この先の赤字は見えてるなあと思う。各地で航空会社が採算が合わない路線から撤退している。地元では何とか引き留めようとしているが、民間企業としては赤字のまま経営を続けるわけにはいかない。そんなわけで、国中に作りまくった空港が、あっちもこっちも赤字で喘いでいる。そして、その責任は誰も取らない。
対人関係の筋肉(09/08/13 Thu-2366)
 
筋肉は使わないと衰える。病院でベッドに寝ていると、1日に3%くらいの筋肉が失われるとも聞いた。宇宙飛行士の若田さんも長期の宇宙滞在で筋肉や骨の状態について心配されていた。彼らしくちゃんと運動もしていたので、インタビューには歩いて出席できたという。そのこと自身がニュースネタになっていた。ただし、会見ではちゃんと対応したが、しばらくはリハビリするらしい。筋肉を鍛えるといっても年齢も考えないといけない。私のような還暦越えの人間が無理な運動をすれば体に悪いことはわかりきっている。その点、老人には歩くことがよさそうだ。私は授業中ずっと立っている。意識してそうしているのではなく、単純にじっとしておられない℃ソだからである。黒板の前にある教卓にずっと座っているなんて考えられない。これが2日くらい続く公開講座でも、そのほとんどの時間を立って過ごす。あるいはウロウロろ教室中を歩いている。そんなわけで、歩行のエネルギーにも達しないとは思うが、筋肉にとってはそれなりの運動になっているのではないか。ともあれ、適度の運動が筋肉の維持にも必要なのだ。これと同じことが人のこころ≠ノも当てはまる。対人関係≠ネども、練習≠竍訓練≠しないと、その力はつかないし、維持することもできない。そもそも生まれたときの赤ん坊は話もできない。それが長い年月をかけて周りの人間たちと関わるスキルを身につけていく。生まれたときから対人関係≠ノ長けた者などいないのである。人との関わりが苦手だ≠ニ思い悩んでいる方も、安心しましょうよ。誰だって、ちゃんと練習すればうまくやれるようになるんです。もちろん、筋肉と同じように、いつも使っていないと力は落ちてしまいますがね。
消費税の機能?(09/08/12 Wed-2365)
 
ものごとは多面的な見方が必要である。たとえば消費税などは、おおむね評判が悪い。いつかは税率をアップしなければならないという議論もあるが、なくしてしまえという意見もある。そもそも金持ちからも収入が十分でない人たちからも同じように税を徴収するので問題だという指摘もある。そこで、消費税は福祉にのみ使うといった使途を限定することが強調されたりもする。これは政治と国民の課題だから、今後も議論を続けていくことが必要だ。ただ、見方を変えると消費税には、隠れた効果もある。たとえば、銀行強盗≠した人は年度末に確定申告などするはずがない。私は昨年、3回の銀行強盗で6,000万円ほど収入がありました≠ネんてことはないのである。したがって、彼らは収入≠ノ応じた税は払わない。しかし、銀行強盗≠フ目的が貯金だということは考えられない。おそらく手にした金はすぐに使うだろう。あるいは、すでに使ってしまっていて、借金の返済に充てるかもしれない。いずれにしても、その金は消費≠ノ回される。そうなると、消費税&ェは回収できるわけだ。このところワイドショーネタの筆頭になっている覚醒剤≠ネどについても同じことが言える。もちろん、この手の犯罪はとにかく根絶することが大事だ。それは当然として、少なくとも莫大な利益を手にしている人間たちが確定申告≠キることはあり得ない。しかし、そうした場合でも、彼らは間違いなく消費≠オている。それも、収入に応じてけっこうな額になっているだろう。そう考えると、消費税は表に出てこないアングラマネーの一部を回収する機能を持っているとも言える。税金のプロである国税庁はこの手の金額についても、すでに試算しているのではないか。
真実≠フ話(09/08/11 Tue-2364)
 
真実を知ることの大事さ≠ヘ裁判に限ったことではない。それどころか、すべての人間行動が真実を知ること≠ノ向けられている。そんな大げさなことを言う人だっているかもしれない。それに対して、私も強く反論するつもりはない。ただし、本当に真実を知ること≠ェできるかどうかとなると、話は別である。結論的には、私は真実を知ること≠ヘできない≠ニ考えている。少なくとも厳密な意味での真実≠ヘ知りようがない。その理由を説明するのには裁判の例がわかりやすい。そもそも典型的な殺人事件の場合、当事者は犯人と被害者だけである。そして、被害者自身は命を奪われているから、発言のしようがない。そうなると、現場にいたのは犯人だけになる。その犯人の口から真実≠探ろうというのが裁判だろう。もちろん、物的な証拠があれば、それをもとに真実≠ノ迫ることができる。犯人が嘘を言っても、物的証拠がものを言うからである。しかし、それは発言が物的証拠≠ニ矛盾しているときに、それはおかしい≠ニ指摘できるだけの話である。とくにそのときの気持ち≠ネどは、犯人だってわからないことの方が多いはずだ。本人がしっかり真実を述べている¥鼾でも、それがそのまま真実≠セとは限らない。そもそも人の命を奪う瞬間などに、冷静≠ノ自分の心情や行動を分析している人間などいるわけがない。私なんぞは、鍵やメガネを置き忘れて家中を探すことが多いが、それ見つけても置いたときの気持ち≠ヘ思い出せない。そこまで言っていたら、裁判どころか人間生活そのものが成り立たないだろう=Bそんな声も聞こえてくる。しかし、真実≠ノ対しては、そのくらいの厳しい見方でものを考えることが大事ではないか。
プロの学習(09/08/10 Mon-2363)
 
裁判員たちの法廷における質問が法曹界のプロたちから評価された。その話題を取り上げたのは2日前のことである。プロ中のプロである堀田力さんまでが、発言に感動したような発言をするから驚いてしまった。この他にも、いわゆる識者たちが裁判員の発言を大いに評価していたから、今まで何だったの≠ニいうタイトルをつけた。しかし、それを書いた時点では、今回の裁判に関わった当事者の話は聞いていなかった。その意味では、プロとはいえ外野≠フ評価であった。ところが週末にニュースのまとめ風のものを視て、被告の弁護士自身がはっとした≠ニいう趣旨の発言をしていることを知った。被害者の命を奪ったサバイバルナイフが亡くなった犯人の娘の遺品だった。そこで、裁判員がどうして遺品を使ったのか≠ニいった質問をした。そうした質問を弁護士はおもしろい≠ニ思ったと語っていた。発言の揚げ足を取って申し訳ないが、公的な記者会見でおもしろい≠ニいう表現が使われたことにも驚いてしまった。そんな受け止め方なのか≠ニいう驚きである。それと同時に、またしても今までは何だったの≠ニいう疑問が頭に浮かんできた。こんな記事もあった。被告は最終意見陳述で特にございません≠ニ述べた。現役のベテラン裁判官は、プロの裁判官なら、これでも反省の意をくみ取る≠ニいう。裁判員は法廷の状況のみから心証を形成する≠ゥら反省していないと判断したのだろう≠ニ分析する。裁判官は、幅広く人間の行為を理解している≠ニも聞こえる。しかし、それなら、素人にはきわめて自然に思える人間的な質問≠ノプロはどうして驚いたのかと思う。今後も紆余曲折が予想される制度だが、今回はプロの方が学んだのではないか。
探偵社の仕事(09/08/09 Sun-2362)
 
信号待ちをしていたら、ビルの窓に探偵社≠ニおぼしきPRが書かれている。浮気・素行・所在。盗聴=Bテレビなんぞでよく聞く浮気≠フ調査がいの一番である。かなり前から不倫≠ニいう言葉が日常語のようになってしまった。探偵社としても、これがトップに挙がる仕事なのだろう。素行≠ヘふだんの生活状態。平素の行い=i電子版大辞林)とであるが、これはどんな人がどんな理由で依頼するのだろうか。次の所在≠煦ヒ頼が多いようだ。いわゆる人間蒸発≠ニいう言葉が使われはじめたのは、ずいぶんと前の話になる。当時のモーニングショー≠ナ、残された家族がカメラから呼びかける。そんな涙のシーンが全国に流れたものだ。このごろは蒸発≠ニいう言い回しは聞かなくなった。しかし、ストレスの多い時代である。失踪≠キる人は多いのではないか。わが国では、ずっと10年間にわたって自殺者が3万人を超えている。これは警察庁が確認した数値だから行方不明者は入っていないのではないか。こうした行方不明者≠フ中には、すでに自殺してしまった人もいるに違いない。そうなると自殺者≠フ数値はさらに増えることになる。来る日も来る日も90人もの人が自殺しているのである。やっぱりどこかがおかしいとしか言いようがない。最後は盗聴≠セ。これを見て、同乗していた家内にえーっ、盗聴までするんかいな≠ニ叫んでしまった。そんなわけないでしょ。盗聴されていないかどうかをチェックしてもらうのよ≠ニ一笑に付されてしまった。そりゃあそうじゃなあ。探偵社≠ェわが社は盗聴をしますよ≠ネんて言うわけがない。そんなことを仕事としてビルの窓に書くはずもなかった。そう思うと自分自身を嗤ってしまった。
今まで何だったの?(09/08/08 Sat-2361)
 
裁判員制度の第1号が終わった。このところ忙しくて、新聞は斜め読みで十分に確認していない。ただ、テレビでは裁判のプロたちがさすがに裁判員の見方が違う≠ニ評価しているのを見た。とくに堀田力さんは裁判員の視点≠絶賛していた。法律関係者は恥ずかしいと思わないといけませんねえ≠ニまで言うのである。まずは裁判員の歴史上初めての質問が注目された。被害者の長男に対して、女性の裁判員が先ほどの(被害者の)人物像の説明と、(検事)調書の違いが気になるのですが、(調書の)確認の仕方はどうだったんですか≠ニ問いかけた(毎日新聞8/5)。この発言が法律専門家からは出ようのないもの≠セというのである。これを聞いただけで、目の前が真っ暗になるような気がした。こんな基本的なことで裁判のプロが驚くのである。素人から見れば、その事実の方が驚いてしまう。それなら、いままで続いてきた裁判って、一体、何をしてきたの≠ニ叫びたくなる。それも堀田氏の発言だから私には重すぎた。堀田力氏と言えば、東京地検特捜部検事で、あのロッキード裁判で田中角栄元首相に論告求刑したプロ中のプロである。退官した後は、財団法人さわやか福祉財団理事長として活動している。やさしく穏やかそうな人で、なかなか感じがいい。それはともあれ、法律家は人類が生まれる前から法律が存在していたと勘違いしている=Bこんな趣旨のことを味な話の素≠ノ書いたのはもう忘れるほど昔のことである。そのときは、人間不在の裁判≠フあり方を批判したつもりだった。自慢じゃないが、いやはっきり自慢だけれど、今回のニュースを見聞きして、素人≠フ私の視点が正しかったことを実感している。かなりあきれながら…。
クリントン氏のメッセージ(09/08/07 Fri-2360)
 
クリントン元大統領が北朝鮮を訪れて、捕まっていた2人の記者をアメリカに連れ帰った。この件についてはアメリカ国内での評価は、とりあえず高いようである。とにもかくにも2人が無事に帰ってきたのだから、その事実についてはめでたしめでたしということだろう。それにしても北朝鮮はまたしてもアメリカを手玉に取って嗤っているのではないか。金正日氏がクリントン氏と並んでにこやかに笑っている写真は、国内的にその力を誇示するには十二分のものだ。大統領がブッシュ氏からオバマ氏に交代して、北朝鮮も新しい展開に期待したかもしれない。しかし、その割にはクリントン国務長官らの反応は厳しいものがあった。そこで北朝鮮側からはクリントン氏に対してはもちろん、大統領もオバマ≠ニ呼び捨てにするような状況が生まれていた。しかし、いわゆる水面下では元大統領の訪問について話が進んでいたというわけだ。普通の人間関係では、裏であれこれ画策するのはいかがかと思う。少なくとも、私はそんな気持ちを大事にしてきたつもりだ。しかし、外交となるとそうもいかないのだろう。表では口角泡を飛ばして非難し合いながら、裏では握手している。それが国際的な常識なのか。それにしても、発表された写真やビデオを見ると、金正日氏とは対照的にクリントン氏が口をつぐんでいたのが印象的だった。これがアメリカとしては、諸外国に対する精一杯のデモンストレーションというか、意思表示だったのだろう。とにかく人道的な観点から解放しにいっただけなのだ。決して甘い条件など提示していない。あらゆることで厳しい態度でのぞんだのだ=Bクリントン氏にしては珍しい笑顔の一切ない写真にはそんなメッセージが込められているのだと思った。
当たり前のルール(09/08/06 Thu-2359)
 
政治家が議論を戦わせる。それは大事なのだが、ただ大声で相手を押さえ込むのでは知性的とは言えない。そんなことでは迫力だって感じられない。たとえばイチローのことを考えてみよう。バッテリーが絶対に打たせまいと考えて投げてくる。イチローが山を張っているのかどうかは知らない。そもそもこの言葉は万一の幸運をねらって投機的な冒険をする≠ニいった意味がある(電子版スーパー大辞林)。その点、イチローなんぞはもっと論理的ではないか。ともあれ、それが好球であればバットを出す。むずかしい球であれば、何とかファールに持ち込む。もちろん相手が投げてこなければ打ち返すこともできない。だからしっかり待つ。そして、状況によっては2ストライク3ボールまで真剣勝負を繰り返す。約束上はあと1球で勝負が決まる。ピッチャーとしては三振か、打たれてもアウトが取れるような球を投げてくる。それを承知の上で、バッターとしてはどう打ち崩すか。ここでもギリギリの球はファールで逃げる。そうしたプロフェッショナルな戦いというか、駆け引きをしながら、最後はクリーンヒットを打つ。もちろん投手側が打者を三振に打ち取る方が確率的には多い。いずれにしても、相手が投げてもこないのに打者がバットを振ることはない。もちろん、打席に立って打撃の準備ができないうちに球を投げたりもしない。当たり前の単純なルールである。ところが、政党の議論になると、このルールがまったくといっていいほど守られない。その挙げ句の果てに、時間を設定されてランプがつくとはい発言終わり≠ニ司会者から止められるような放送も過去にはあった。これでは幼稚園児からだって笑われてしまう。これこそが品格≠フ問題だと思うのですが…。
予告編?(09/08/05 Wed)
 
このごろは重大ニュースが多すぎますね。時間をおいて書くと賞味期限切れ≠ノなりそうなので、「備忘メモ」を予告編として挿入しておきましょう。
 @クリントン氏が北朝鮮を訪れた。そのときの写真を見るとクリントンは笑っていない。一方の金正日氏は笑っている。これって意味がありそうですね。
 A裁判員が初めて質問≠オたことが大ニュースになっている。被害者の印象について、検察側調書と被害者の息子である証人の間にズレがある≠ニ尋ねたとのこと。これがプロの目から見ると新鮮≠セったという。あの堀田力氏までそのことを強調していた。これまでのプロでは考えられない視点だ≠ニのコメント。そんならこれまでのプロの裁判って何だったの?
 B選挙を前に年金についての議論も盛んだ。何せ、私の記録も欠けていたんです…。
玄人力?(09/08/05 Wed-2358)
 
いままでにない1ヶ月を越える選挙戦である。マニフェストも揃って、いわゆる舌戦≠ェ開始された。マニフェスト≠フ完成度などについては問題も指摘されているが、マニフェスト≠ェここまで議論の対象になったことはない。そのこと自身は歓迎すべき変化である。ただし、いまはもう21世紀である。諸外国からは議会制民主主義の後進国≠セと思われるかもしれない。まあ、それはそれとして、相変わらず大声が勝ち≠フ舌戦≠ェ目につく。ずっと前から子どもに見せられない番組の一つとして国会中継≠竍政治討論会≠挙げてきた。ヤジは飛ばすは、居眠りはするはの醜態ぶり。また、相手が発言中に言いまくる。まるでディベート≠フ仕方を知らない。とにかく大声でも相手を押さえれば勝ちと信じているとしか思えない。あるいは、相手の発言にカッ≠ニ来て暴発しているのかもしれない。何のことはない、自分の感情が抑えられないことを公衆の面前で晒しているのだ。それはご本人の力量のなさだから仕方がない。しかし、子どもの教育にはこの上なく悪いですよね。スポーツに限らず、世の中にはルールがある。われわれの生活にもっとも重要で基本的なルールは法律だ。それをお決めになる国会議員さんたちが、議論の基礎ルールを守らない。それを知らないのではなく、知っていても守れないのである。つまりは自分のコントロールができないということだ。そんな人たちが法律を作るんですよね。その上、他党の悪口を言うことで、自分の立場をよくしようとする。よそ様のことは置いといて、自分たちのすばらしさで勝負してほしい。なんてことを言おうものなら、そんな素人発想で生き抜けるか≠ニ笑うだろう。そんな玄人なんて何なのよ。
裁判のグループ・ダイナミックス(09/08/04 Tue-2357)
 
現職の裁判官や検事が、自分が関わった事件について語るのはむずかしいだろう。しかし、それが歴史≠ノなってからは、それなりの情報を提供してほしいものだ。つまりは、元裁判官や元検事の立場から、その体験や事実経過などについて語るのである。ときどき、判決内容に疑問が提起されている事件について、テレビのインタビューで発言する関係者もいる。しかし、それはかなり例外的で数は圧倒的に少ない。それも、私の感じではほとんどが裁判官だと思う。事件に関わった検事の話を見聞きしたはっきりした記憶はない。単なるインタビューなどではなく、しっかりした論文程度のものに仕上げてはどうだろうか。そうしたものが蓄積されていけば、裁判員にとっても判断の参考になるだろう。東京で発生した殺人事件の公判が3日からはじまった。それに初めて裁判員が関わることになった。ところで、裁判官や検事も集団の中で動いている。その心理や行動にはグループ・ダイナミックスの原理が間違いなく働いているはずだ。いわゆる出世競争などもあるだろうし、仲間の中でもリーダーシップを発揮する人もいればそうでない人もいるはずだ。たった一人でも信念を貫く人間もいるだろうが、長いものには巻かれろ<^イプがいてもおかしくない。まあ単純な話、気の強い人もいれば気の弱い人もいるわけだ。それは裁判員にしても同じことである。そうした人間たちが裁判を進めていく。裁判の最大の目的は真実を追究することだろう。しかし、厳密に言えば本当のことなど、誰にもわからない。たとえば殺人事件の裁判では、そこに犯人はいても被害者は存在しない。犯人だけの証言から事実を追求するというのは、土台無理な話である。まさに死人に口なし≠ネのだ。
いつでも、どこでも(09/08/03 Mon-2356)
 
私は朝起きると、まずは味な話の素≠アップする。相変わらず早起きは続いているから4時台が多い。それから、棚に積んだ本に目を通していく。最初は文庫か新書の1冊に手を出す。これは朝だけでなく移動中にも読むものになる。だからコンパクトな文庫や新書が選ばれる。通勤の車でも信号待ちになると読む。その際はどんなに長くても1分程度だから1ページも進まない。タイミングによっては数行だ。それでも私としては十分なのである。徒歩で通勤するときも同じこと、信号待ちになればバッグから本を取り出す。やはりわずかしか読み進まない。もちろん、それにも満足する。こうして、とにかく数行単位でも先に進んでいく。こうした、相当に厚い本も時間さへ気にしなければ完読するのである。いま読んでいる文庫本の佐藤優著「獄中記」は、もうすぐで1ヶ月が経過する。昨日も書いたように、600ページもあるが、すでに2/3ほどまで読んだ。1日のペースを4,5ページとすれば3ヶ月ほどかかる′v算だが、今回はペースが速い。それにも理由がある。出張のときは可能な限り荷物を軽くする。還暦も越えた老骨には重いものは禁物なのだ。そこで本は軽い文庫や新書がお供に選ばれる。今回は海外へ出かけたこともあって、この本を集中的に読んだから、600ページの本も1ヶ月半くらいで読了するわけだ。ところで、佐藤氏の本だが、鈴木宗男氏や自分を起訴した事件が国策捜査≠ナあることを主張している。一般的に裁判官や検察官は進行中の事件について、裁判の場以外で語ることはない。だから、佐藤氏の問題提起に対して公式な反論はない。しかし、すでに裁判員制度が導入された。これに対応するには、一般人が真実を見る目を鍛える必要がある。
散漫型読書(09/08/02 Sun-2355)
 
子どものころはどうだったのかなあと思う。いまの私は明らかに散漫型≠ナある。これは集中型≠フ反対語だと考えている。とにかく、あれにもこれにも°サ味・関心があって、一つのものに集中できない。今日はこれを一気に片付けてしまうぞーっ=Bこんな迫力で仕事をする人がいる。私はこれが苦手なのだ。読書はその典型的な例である。いつも10冊くらいを平行して読み続けている。現在、私の部屋、まあ一応は書斎であるが、そこにある机の後ろの棚に6冊ばかりの本が置いてある。まずは岩波現代文庫で佐藤優著「獄中記」。著者は日本のラスプーチン≠ニ呼ばれ、鈴木宗男氏とともに被告席に座った人物である。つい先だって、執行猶予付きの有罪が最高裁で確定した。本人も悪役≠ニ位置づけられていることを自認している。しかし、自分の事件を国策捜査≠セとし、獄中で514日間を過ごした人物である。検察側の主張に沿った証言をした人物と自分の訴えたことのどちらが正しいか。それは、外交文書が開示される20数年後に明らかになると断言する。かなりの迫力である。文庫本ではあるが、600ページほどもあって2/3くらいを読んだところだ。先月の初めにノルウェーに行く飛行機の中で読み始めた。平均的には1日あたり4、5ページ程度のスピードだから、3ヶ月くらいはかかることになる。そんなスローペースでは本を読んだ気がしない≠ニいう方もいらっしゃると思う。そこが同時並行型≠ノなるか一点中型≠ノなるかの分かれ道になる。私としてはどうしても、他の本まで気になって仕方がないのである。そして、気がついたら別の本に手を出している。これはほとんど依存症≠フようなもので、もうどうしようもないのである。
manifesto(09/08/01 Sat-2354)
 
各党のマニフェスト≠ェ出そろった。原語のmanifesto≠ヘイタリア語のようだ。政策、宣言(書)、声明(書)≠ナある(電子版ジーニアス英和)。ついでに同じ電子版の英英も引いてみるとa written statement in which a group of people, especially a political party, explain their beliefs and say what they will do if they win an election≠ニある。中学生でも理解できるような比較的やさしい説明になっている。まずは、書かれている≠アとが大事だ。口で言うだけではいけないのである。宣言するのは団体であればいいが、とくに政治団体≠ニなっているから、これはほとんど政党≠ニ同義だろう。それを解説(explain)≠オた上で、実行することを宣言する。もちろん、選挙に勝った暁には≠ニいうことである。これは政党の目標設定である。これまでも選挙公約≠ニいうものがあった。しかし、そう言っては何だが、当選したご本人も投票した有権者も、公約は選挙向けのアピール£度だと考えていたのではないか。その点で、マニュフェスト≠ェ話題になるのは、わが国が相当に進歩したことを証明している。ただし、21世紀の今ごろになってようやくマニフェスト≠ニいうのだから、イギリス人なんぞは選挙後進国≠セと笑うかもしれない。マニュフェストは目標管理≠サのものだ。国民が上役で政党がその実行を約束する。当然のことながら、約束した期間が経過したときに評価をしなければならない。これをちゃんと実施する慣習ができあがったときに、はじめておとな≠ノなるのである。ともあれ、目標≠ヘ具体的に表現されていること≠ェ大事だ。そして何よりも実行できること≠ナなければ意味がない。