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味な話の素
No.71 2009年03月号(2193-2225 )
 
大関五人組(09/03/31 火-2225)
 それにしても大関がふがいない。大阪場所では大関は5人いたが、その成績はまことに厳しい。番付順に見ると、東では琴欧洲が10勝5敗で、魁皇が8勝7敗、そして琴光喜は8勝7敗である。西は千代大海が2勝13敗、日馬富士10勝5敗だ。琴欧洲と日馬富士は10勝だから一応の評価をする人がいるかもしれない。しかし、この数値ではまったく優勝に絡めない。横綱は名誉職みたいなもので、実質的には大関が最高位だったとも聞く。それを考慮すれば、12勝くらいまではいかないと職責を果たしたとは言えない。千代大海の2勝13敗はワースト記録の更新だという。相撲は体あってのことだから、人には言えないほど体調が悪かったに違いない。だから数値だけで責めるのは酷だとは思う。しかし、彼の場合はこれまでの流れが悪い。千代大海は来場所で13回目のカド番になるという。実力だけの世界で、1つでも負けが多ければ転落する。対人関係で情緒的だといわれる日本人にとって、むしろ例外的な力の世界だ。そこで大関が2場所連続して負け越さないと下に落ちないのは、それだけ尊敬すべき地位だからである。私が子供のころは3場所連続が基準だった。ただ、2場所続けて負け越しながらカド番で勝ち越す大関がいて、これが批判されたのである。もちろん2場所の基準を外せば、大関もただの力士と同じになる。その世界で最高位に付いた人だから、まあ1回か、せめて2回くらいまでは2場所の特典は仕方がないだろうか。しかし、それが13回なんてところまでいくと、これはどう考えてもまともではない。千代大海はわが九州出身の力士である。私だって気持的にはしっかりがんばってほしいと思う。それでも文句を言いたくなってしまう状況なのである。
相撲と形(09/03/30 月-2224)
 大相撲は横綱白鵬の優勝で終わった。先場所は朝青龍の復帰で沸いた。あのときは場所前の予想を覆す奇跡的な優勝だった。朝青龍はテレビのコマーシャルや土俵外での態度を見ていると明るくて人なつっこい感じがする。それなりのユーモアもわきまえていると思う。もちろん実力もあるから文句のつけようがない。誰もがそう言いたいところだが、品格を問題にする人たちからの評判がすこぶる悪い。もちろん横綱が世界で一番強い人間でないことは確かだ。格闘技に転じた曙を見ていると、体がでかいだけで目を覆いたくなるほど弱い。曙は例外としても、横綱が強いのは土俵の世界に限定されている。こんなことを言うと、横綱はだめだと言っているように聞こえるかもしれない。しかしそれはまったくの誤解である。私は横綱はあの土俵という舞台の上で強いだけでいいと考えている。相撲は文化であり伝統芸術なのである。だから、私も品格が大事だ≠ニいう意見に賛成したい。とにかく勝てばいい∞強ければいい、のではないのである。この野郎、思い知ったか=Bそんな形相で相手をだめ押ししてはいけない。勝ってうれしくてたまらなくても、負けて悔しくてたまらなくても、お互いに礼をしあって土俵を降りる。ガッツポーズをとったり、チェッ≠ニ舌打ちしてはいけないのである。それは本当の気持ちを抑えることを強要している。もっと素直でおおらかな方がいいという考え方もあるだろう。しかし、負けてしまった相手の気持ちも忖度する、あるいは尊敬する。そんな心も大事ではないか。人間以外の動物は、そうした態度をとることはできない。それは人間だけに備わったすばらしい力である。形だけを追いかけるのは問題だが、形が心を作ることもある。
大型画面とビデオ(09/03/29 -2223)
 液晶の発想はアメリカ発だが、実用化は日本で成功した。こうした例はいろいろある。その代表の一つがトランジスタだろう。これもアメリカで開発されたものの、その使い道の名案がすぐに出なかった。それに目をつけたのがソニーで、あっという間にトランジスタラジオを作った。アメリカ生まれの発想を実用化する点において、日本は抜群の力を発揮したのである。あのころの日本は、とにもかくにも元気だった。そしていまや超大型画面の時代になった。もう50インチを超えるものさえ店頭に並ぶ。しかも画質が抜群に向上した。タレントなどは衣装のコーディネーターが付いているだろうから絵になる格好をしている。その点、政治家の皆さんなどはそこまで手が回らない。そのためもあってか、政治関連の討論会などに出てくる議員が大写しになると、背広の肩に落ちたフケまで見える。いやはやものすごい精度なのだ。そんなことだから、死者のマツゲ≠ェちょっと動いても目に付いてしまうのである。しかも、映像を作る側にとってやっかいな道具が常識になってしまった。それはビデオである。刑事コロンボ≠ェ放映されはじめた70年代初頭には家庭用ビデオなんてものはなかった。まだ開発途上で、ソニーがベータマックスを発売したのは1975年5月のことである。だから、白黒の小さな画面で死者のマツゲ≠ェ揺れ動くようなことを発見≠オたとしても、シーンは一瞬にして先に進んでしまう。そこでいま、マツゲが動いたんじゃないか≠ニ気づいたとしても後の祭りなのである。もう確かめようがない。ところが、いまや事実を何度でも検証できる武器が視聴者側にある。かくして、ハイビジョンで再放送される刑事コロンボ≠ェさらにおもしろくなる。
液晶デビュー(09/03/28 土-2222)
 刑事コロンボ≠フチョンボも白黒テレビの小さな画面では気づきにくい。死体≠フマツゲの動きなどは一瞬の出来事だから、あっという間に画面は変わっていくのである。それから40年近くの時間が流れた。画面サイズはどんどん拡大し続けていく。そのころ主役の座を占めていた18インチは21インチとなり、それからいきなり27インチに進んだと思う。インチ数が飛び飛びなのは、その時々で精一杯の技術を投入した結果だったのだろうか。ただし、それらはいずれもブラウン管製だった。ブラウン管は長いチューブ状のものだから、画面が大きくなるほど奥行きも長くなった。そんなわけで、これを使う限り家庭用としては27インチくらいが限度だったかもしれない。画面が大きくても奥行きが1m以上なんてことになれば狭い日本の居間には置けない。ところが、ここで液晶なるものが実用化されていく。詳しい経緯は知らないが、液晶の原理はアメリカ発である。ただ、その実用化については先に進まなかったらしい。こんなもん、何の役に立つの≠ニいう感じだったのだろう。それに目をつけて取り入れたのが日本だった。おそらくシャープだと思うが、電卓の表示装置にこれを採用したのである。当時の電卓は熱線のようなものを使って数値を表示していたから電池の消耗が早かった。そこを液晶に変えることで使用時間を一気に伸ばしたのだ。はじめのうちはモノクロだったが、そのうちカラー化される。これに太陽電池を組み込んでさらに進化を続ける。開発当初は表示1桁について1万円などといっていた電卓が、いまでは100均ショップに並んでいる。シャープのライバルはカシオだったと思うが、このすばらしい戦いは電卓辞書などの形で今日でも継続中である。
小さい画面(09/03/27 金-2221)
 昨日から、刑事コロンボ≠ナおい、おい≠ニ言いたくなるような場面に出くわす理由を邪推している。そのBとして、当時テレビが置かれていた状況を挙げたい。私の記憶では、刑事コロンボ≠ェ放映されはじめた1970年代の初めころ、テレビの画面は現在と比べるとはるかに小さかった。そもそもテレビが出始めたころは14インチが標準だった。それが時代とともに大型化していく。それでも、70年代の主流は18インチ程度だったと思う。私の父は新しもの好きで、とくにメディア系には目がなかった。私が小学生だった1950年代にも電池式のポータブルラジオを楽しんでいた。電池といっても長方形の羊羹1本もあろうかという、でかくて重い代物だった。もちろん充電など考えられなかった。しかも、ラジオの方はポータブルといいながら真空管式だった。若い方は真空管そのものをご存じないだろうが、電球のように発熱を伴うもので電気を食うのである。耐久時間は覚えていないが、1時間もなかったのではないか。おそらく価格もえーっ≠ニ言うほど高かったはずだ。コード付きの普通のラジオがあったのだから、まあ親父の道楽である。しがないサラリーマンの収入から考えると、相当に無茶な買い物だったと思う。その分、家計をやりくりしていた母は苦労したに違いない。いずれにしてもそんな父の実家で、70年代はソニーのトリニトロンが鎮座ましましていた。トリニトロンはカラーだが画面は18インチだった。それでも当時としては最大級に近かったはずだ。しかも、70年代初頭のカラーテレビ普及率は60%台である。まだ白黒テレビの家が少なくはなかった。そうなのだ。画面が小さく、さらに白黒タッチだと画面の細かいところには気づきにくい。
揺れるマツゲの理由(09/03/26 木-2220)
 刑事コロンボ:権力の墓穴≠ナ死者のマツゲが動いたと書いた。その後もずっと見ているが、物語の内容とは別にいろいろおもしろいことが出てくる。その具体的な内容はボチボチ取りあげていくことにしている。それはそうとして、とてつもないお金をかけると思っていたアメリカの作品で、どうしてそんなチョンボが生まれたのか。その理由を推測すると、いや関係者には邪推に近いかもしれないが、とにかく勝手に考えるといくつかの理由が浮かび上がってくる。まずは、@刑事コロンボ≠ェテレビドラマだったことである。もちろん毎週流れるのではなく、シリーズ物としてある程度の時間をおいて放映されていたと思われる。日本でも、○曜サスペンス≠ネんていう枠があって、その中で特定のシリーズが間を取りながら流される。その手法そのものが刑事コロンボ≠ネどをモデルにしているのかもしれない。シリーズということもあって、惜しげもなく資金を投入する映画と比べれば、いくらアメリカといえども予算や時間に制約があっただろう。撮影後に編集していてマツゲの揺れに気づいても後の祭りになったのではないか。邪推のAは、映像機器が未発達だったことだ。当時はいまのようなビデオではなくフィルムを使っていたと思われる。そのため今日では常識だが、写したその場で映像の確認ができなかった。それだけ、映画づくりは緊張感にあふれていた。そんなわけで、これまた後で見てからでは取り返しが付かなかったのではないか。これが映画であれば、取り直しになったに違いない。しかしその点ではテレビ用の作品だったこともあり、それほど徹底するまでには至らなかった可能性はないか。それに何といってもフィルムはとても高価なものであった。
格差社会(09/03/25 水-2219)
  イギリス人の文章から、彼の国の階級社会についてちょっとばかり情報を得ることができた。少なくとも前世紀のはじめまでは厳然たる階級制度が存在していたという。それは私がいこれまで聞いてきたイギリスの話と一致していた。福沢諭吉ではないが天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず≠ナある。人権思想やヒューマニズムが当然のような印象を持つイギリスだが、どうもそうでもないようだ。そういえば、マルクスが資本論を書いたのもロンドンだったと思う。その当時のイギリスでは、子どもを含む労働者が長時間労働を強いられていた。お金持ちがいる一方で、多くの労働者たちが虐げられていたのである。それではわが国はどうなっているか。日本で階級制度≠ニいえば、士農工商≠ェ頭に浮かぶ。これは身分制度といっていいのかどうかわからないが、とにかく超えることのできない壁があった。明治政府がそうした制度を撤廃したことで、わが国はイギリスのような階級は制度的にはなくなった。しかし、だれもが知っているように、わが国においても差別の問題は厳然として存在し続けた。そして、いま新たな格差社会が生まれていると言われる。いわゆる一流大学に在学する学生たちの親は平均的に収入が高いという。そう言いきってしまうと、経済的な厳しさを乗り越えて入学した方々には申し訳ないが、あくまで数値平均%Iに見ればそうなっているらしい。その結果、平等な競争≠ネしに、格差が少しずつ広がっていく可能性がある。それこそ塾などの授業料には国が何パーセントかの付加金をかけて、それを元に経済的理由で塾に行けない子どもたちを対象に学校で教育をするなんてのはどうだろうか。世の親御さんたちから猛反撃されるだろうなあ。
階級社会(09/03/24 火-2218)
  イギリスは階級社会だと聞いてきた。しかし現実はどうなのかは知らない。もちろんイギリスには行ったこともない。そんな中で、相当に信頼できる人のエッセーに遭遇した。筆者は Dominic Cheetham 氏で、イングランドの生まれ、そこで育った。バーミンガム大学で心理学を専攻し、合気道部に入った縁で日本に関心を持ち1986年に来日したという。その後は日本で生活を送っている。その彼が「Class 階級」というタイトルでエッセイを書いているのである。NHKラジオ講座「実践ビジネス英語」の08年12月号テキストに掲載されていたものだ。それによると、イギリスは文字通り階級差社会だったそうで、同じ地域に住み、同じ隣人や友人に囲まれて生涯を終えたという。読んでいる新聞まで階級によって違っていたらしい。自分の属する階級よりも下に属する人と結婚すれば、友人をすべて失ったりもした。また労働階級の人が大学に行くようなことがあれば、身の程知らず≠ニ指を指されかねなかった。イギリス系では人気の高いクリケットの競技場でも、その入口は「紳士用」と「選手用」に分かれていたという。もちろん20世紀はじめころから、こうした厳しい階級制度はなくなっていった。しかし、Cheetham氏に言わせれば、まだ階級の意識や思い込みは人のこころの中に残っているという。相手の服装やアクセント、会話の話題や意見などからお互いの階級を推測すると言うのだ。そんな状況が嫌で、イギリスを愛してはいるが日本に住んでよかったと思っているとのことだ。まさに生粋のイングランドっ子の文章だけに信頼性は抜群である。英国には、聞きしにまさる階級社会が過去に存在し、その残滓がいまのイギリス人の心の中にも残っているようである。
ストレスと依存(09/03/23 月-2217)
  ストレス社会である。ストレスはさまざまな精神的緊張状態のことだ。それを引き起こす要因をストレッサーと呼ぶ。ストレスが限度を超えて高まると体が対応できなくなる。その結果、いろいろな反応が生まれる。たとえばアルコールやギャンブルへの依存などはその典型である。人の噂も七十五日≠過ぎたので話題にもならなくなったが、元大臣の問題記者会見もストレスによるものかもしれない。プライベートなことまで邪推してはいけないが、玄関先で報道陣に取り囲まれた大臣を大きな声で励ます声が聞こえた。正確な台詞はメモしていないが、がんばれ、日本一≠セったと思う。画面にはその声の持ち主が奥さんであるとの文字が出ていた。連日連夜で攻めまくってくるマスコミや、それに乗っかった世間に対して怒りを覚えられたのだろうか。しかし、内面的にはナイーブだという記事も書かれた元大臣のことである。お節介ながら、あの最も身近な人の応援メッセージは相当にきついんじゃないかと思ってしまった。それがアルコールへ走らせたなんてことは言わないけれど。あの頑強に思える鈴木宗男氏が苦境に立ったとき、涙を流しながら家族だけは理解してくれる≠ニ訴えていた。最後は家族が支えてくれるということだろう。そこがストレス発生の源にでもなったら大変なわけだ。それにしても、依存症だけでなく、凶悪な犯罪も多発しているように見える。その原因を単純にストレスに帰するわけにはいかないだろうが、それも関係していることは間違いないだろう。統計的に見れば、殺人事件は減少しており、あまり騒ぎすぎるなという論者もいる。しかし、その質は変化しているのではないか。それに数値が減ったから安心≠オていいというわけではない。
今ごろ言っても…(09/03/22 日A-2216)
  中谷 巌氏の「資本主義はなぜ自壊したか」が話題になっている。アメリカの経済を賞賛し、それを見習うことを主張してきた中谷氏の懺悔の書なんて広告を見たような気がした。そこで念のためインターネットで探してみると、あった、あった。構造改革の急先鋒であった著者が記す「懺悔の書」≠セそうな。中谷さんといえば、国立大学の教授としてソニーの社外取締役だったかなんだかに、なれるのなれないのと騒ぎになったこともあった。国立大学が法人化した後では、そのあたりの事情はかなり緩やかになったが、まさに時代の最先端を走っていた人である。マスコミにもしばしば登場していた。そんなわけで、「資本主義はなぜ自壊したか」にも大いに興味を持った。そこで、このところ通りがかりに本屋さんを見つけると、3軒ほどだが覗いてみた。しかし、少なくとも私の目に付くところには置いていなかった。まあ、焦らなくてもそのうち手に入るだろう。読みたい本は山とある。そこで中谷氏のHPくらいは見ようかと思ってクリックしてみると、この本に関するメッセージも入っていた。その中に次のようなことが書かれている。「改革」は必要だが、それはなんでも市場に任せておけばうまくいくといった新自由主義的な発想に基づく「改革」ではなく、日本のよき文化的伝統や社会の温かさ、「安心・安全」社会を維持し、それらにさらに磨きをかけることができるような、日本人が「幸せ」になれる「改革」こそ必要であると考えたわけである。この文章を読んだ瞬間に、本は買わなくてもいいなという気分になった。そんなこと、言いたかないが、経済や政策にド素人の私だって大昔から考えていたことだ。どうせなら10年前に言ってくれればよかったのに。
死者のマツゲ(09/03/22 日@-2215)
  コロンボの権力の墓穴≠ナは、警察次長の友人が妻を殺害してしまう。そこから物語がはじまるのだが、問題はその妻の遺体である。フロアーに横たわった妻の顔が大写しにされる。その瞬間だ。彼女のマツゲがかすかに動いたのである。まだお話ははじまったばかりだ。夫としては手を下してしまったと思っているが、じつはまだ生きていた。そして、その後に本物の犯人が出てきて、最終的に息の根を止める。ちょっと見では犯人と思ったが、じつは本当はもっと悪いやつがいた…。なあんて、そんなストーリーかもと考えた。しかし、時間の経過とともにそれはまったくの思い過ごしだとわかる。あのとき、奥さんは間違いなく絶命していたのだった。それならどうしてマツゲが動いたのか。こればかりは制作者たちに確認するしかない。しかし、素人にその手立てはない。それともコロンボさんに捜査していただくか。といっても、彼自身が病気で往年の活躍は期待できそうにもない。それにしてもどうしてあんなカットが出来上がったのか。これからはコロンボならぬ、オンボロ刑事の推測となりまあす。まずはマツゲが動いた≠アと自身がですね、これがそもそも間違いないのかということなんです。このあたりは、還暦を超えて私自身があやしいなんて思ってるんです。そこでたまたまビデオを録ってましたから、うちのかみさんにも見てもらったんですよ。するとかみさんもあんたの言うとおりだね。マツゲが動いてた≠ネんて同意してくれたんです。いつもはあんたの見間違いじゃないのかい≠ニ無視されることが多いんですが、こればかりは私のことを認めてくれたんですよ。えっ、かみさんは大丈夫なのか≠ナすって。いやあ、そこまで言われちゃあおしまいですがね。
Halo effect(09/03/21 土-2214)
  コロンボ≠ェ帰ってきた。これまで放映した68本をノーカットで流すというのだからワクワクする。刑事コロンボ≠ェ日本でスタートしたのは1972年だというから、すでに37年が経過している。それでもストーリーのおもしろさはいま見ても変わらない。もちろん作品によって出来不出来はあるが、これは数が多くなれば仕方がない。いずれにしても最初に見たとき、とにかくおもしろかった≠ニいう思い出が強烈なのである。それが私の心の中でプラスに働いている。心理学にはhalo effect≠ニ呼ばれる現象がある。halo≠ヘ光背・後光≠フことだ。仏様の背中から放射している光が光背・後光である。もちろんhalo≠ヘ英語だから仏様ではなくて聖像の背中に差している光になる。そこで日本語では後光効果≠ニか光背効果≠ニも呼ばれる。ある人物や物事を評価する際に、人や物が目立った特徴を持っていると、それに影響されて全体の評価が歪められる。これをハロー効果≠ニいうのである。早い話がいいなあ、と思ったらすべてがよく見えはじめるというわけだ。語源が後光≠セから、どちらかというと望ましいと思う方向の歪みが基本だが、現象としてはマイナス方向のハロー効果≠熏lえられる。まあ、そんなことで刑事コロンボ≠ヘ週末の楽しみになっている。しかもこのごろは、うん十年前とは違った楽しみ方もできるのである。たとえば、権力の墓穴=Bこれはロス警察の次長が犯人というストーリーだ。次長だからコロンボの上司ということになる。この回では、2件の殺人事件が起きる。被害者は2人とも犯人の配偶者で、ひとりは次長の妻、もうひとりは近所に住んでいる次長の友人の妻である。ここで大問題が起きるのだ。
そして、実行力(09/03/20 金-2213)
  患者取り違え∞キャンプ地での悲劇∞臨界事故≠ニいう3つのケースは一見すると何の関係もないように見える。しかし、グループ・ダイナミックスのメガネで見ると、そこにはすべて同じ力が働いているのである。それは、言いたいことが言えない≠るいは言っても聞いてもらえない≠ニいった集団の状況である。その詳細な説明は別の機会に譲ることにする。ともあれ、理系のイメージで代表されるテクノロジーの世界だけでなく、人間を理解する領域においても、しっかり人や集団を観察する力が必要なのである。それは人間ウォッチング力と言い換えることもできる。必要なのは見る力だけではない。そうした観察を粘り強く続ける根気もまた欠くことのできない大事な要素だ。ちょっとだけ覗いて、ああこりゃ駄目だ≠ニ諦めていてはお話にならない。これだと目星を付けたら徹底して追求する。そんなしつこさが発見や発明を生み出した事例は挙げていけばきりがない。そして最後に求められるのはB実行力≠ナある。観察した成果を実際に応用していく。それが実行力だ。理屈ばかり言っていても仕方がない。やるべきことがわかったら、それを行動に移すことである。そのとき、場合によっては思い通りにいかないことがあるかもしれない。しかし、少々の予想違いがあっても、あるいは失敗しても、簡単には諦めないことである。ウォッチングの成果を断固として活かしていくぞーっ≠ニいう精神が大事なのである。ノーベル化学賞の田中さんだって、大発見は失敗から生まれたと言っていた。これに似たような話はいくらで聞いたことがある…。そんなわけで、アインシュタインの目≠ヘ、私に問題意識∞観察力∞実行力≠フ大事さを教えてくれた。
観察力(09/03/19 木-2212)
  水で汚れが取れる壁はできないものかという問題意識がなければ、カタツムリを見てもわーでんでん虫だ。かわいーっ≠ナおしまいである。水を節約できる食器を考えていなければ、蓮の葉≠ノしてもいやあー、水玉クルンクルンでおもしろいじゃないか≠ェ関の山だろう。騒音を抑えたパンタグラフが頭にないとフクロウを見ておもろい顔してるよねえー≠ニ笑うだけかもしれない。見えども見えず、聞こえども聞こえず…=B目の前に大事なヒントがあっても、それに気づかなければ何もないのと同じである。猫に小判≠ニはやや意味が違うけれど、それが宝だと思わなければ、ただのガラクタにしか見えないのだ。問題意識≠フ次に大事なのはA観察する力≠ナある。カタツムリがヒントになるかもしれない≠ニ気づいても、その殻を丹念に調べる力がなければ、そこでストップしてしまう。せっかくのお宝もお役に立つことはできないのである。私の仕事は集団との関わりを通して人間を理解する≠アとを目的にしたグループ・ダイナミックスである。この世界では人間ウォッチングの力がないとやっていけない。人々が社会や集団の中でどのように振る舞うかを冷静に観察する力である。一見すると違って見える組織の出来事の中に、同じ力が働いていることを見つけ出す。そんな力が必要なのである。いまから10年ほど前の1月、ある病院で患者を取り違えて手術をしてしまうという事故が起きた。同じ年の夏には、狭い中州にキャンプを張っていた民間人が上流の雨で増水した川に流されて、10名以上の命が奪われた。そして、9月には決められた装置を使わなかったために、工場で放射能が発生する臨界事故が起きた。このときも作業従事者が亡くなった。
問題意識力(09/03/18 水-2211)
  アインシュタインの目≠ヘ科学番組だ。だからこそNature Technology≠ェトピックスになった。子どもたちの理系離れが問題だと言われはじめて久しい。世紀末のバブル期には、理系の学生まで金融°ニ界への就職委希望者が増加していると話題になったことがある。しかし考えてみれば、人間の基本は農産物も含めて物づくり≠ナある。金融工学などという、素人には理解不能の数式を駆使した学問≠ネるものが世の中を席巻した。その結果がどうなったかは、世界中が厳しい状況の中で喘いでいる事態を見ればはっきりしている。そもそも金融工学≠ナノーベル経済学賞を取ったアメリカの研究者2人が経営する会社が潰れているのだ。それも最近のことではなく、10年近く前の話である。これについては、自慢じゃないが、いやじつは自慢話だが、2001年に出した拙著でも皮肉な表現で触れている。とにかく昔からうさんくさいんですよね。いずれにしても、こんなときにこそ、改めて物づくり≠フ大事さと楽しさを分かち合っていきたいと思う。それはそうと、私が偶然に見てしまったアインシュタインの目≠ヘたくさんのことを教えてくれた。それはいわゆる理科系だけでなく文化系的な領域にとっても大いに役立つヒントが込められていたと思う。いや、研究といった領域だけに狭めることもない。それは人間生活の全体にも必要なノウハウだと言ってもいい。その筆頭は何と言っても、@問題意識を持ち続けていること≠フ大切さだ。自分の仕事の目標としてこれが何とかならないものか≠ニいつも考えていた人がいた。カタツムリも蓮の葉も、そしてフクロウさんも、そんな彼らの目の前に姿を現した。だからこそ、新しいアイディアに直結したのだ。
自然の実験(09/03/17 火-2210)
  アインシュタインの目≠ノ登場したNature Technology≠ゥら何を学ぶか。そこで取り上げられたのは、カタツムリ=ィ雨で汚れが取れるタイル∞蓮の葉=ィ水をはじく食器=Aそしてフクロウの羽=ィ低騒音のパンタグラフ≠ニいう3点セットである。この3つに共通しているのは、まさにNature Technology≠サのものである。これ1本で自然に学ぶ≠アとの重要性がよくわかった。私自身は感動しながら見てしまった。人間はこれまで自然に挑戦する≠ニいうスタンスで生き延びてきた。挑戦≠ネらまだ控えめで、謙譲の美徳も残っている。しかし、そのうち自然を克服する≠ニいう幻想に陥っていったのではないか。こうなると、謙譲の精神≠ニいったプラスに近いことばは使えない。それは傲慢の精神≠ニ言うべきだろう。とくに自然科学では実験が大事にされる。また新しい技術を生み出すために、気の遠くなるような試行錯誤も繰り返される。そう考えると、いま目の前にある自然≠ヘ、何十億年の期間をかけてすすめられてきた実験や試行錯誤の成果だと言える。たしかに実験する∞試行錯誤する≠ニいう表現をする際の主語はとりあえず人間である。しかし、それを自然≠ニ入れ替えたとしても、とくに違和感はないと思う。しかも自然≠ヘ人間とは比較にならない時間を費やして、われわれ人類にその成果を見せてくれているのである。月並みな結論ではあるが、この番組を見て、自然を見つめ、そこから学ぶ姿勢の大事さを再認識した。私などはもう先が見える年齢になってきた。しかし、これから未来を生きていく子どもたちには、自然から学ぶ°C持ちをもってほしい。そして、そうした意欲を喚起する教育をしてほしい。
フクロウのノウハウ(09/03/16 月-2209)
  わが孫が新幹線に興味をもっていると言うが、本当はじいちゃん自身がもっている潜在的欲求の実現だと考えたほうがいい。昨年はJRの新幹線ツアーにも参加した。川内にある新幹線の整備場に出かけていって、そこでイベントを楽しむという企画である。孫が喜んだことは言うまでもないが、じいちゃんがそれに負けず劣らずはしゃいだのだ。それはともあれ0系≠ゥらスタートした新幹線だが、その後もどんどん進化していく。アインシュタインの目≠ェNature Technology≠ニして取り上げたのは、500系を開発したときのことである。万年筆のような円筒形に近い感じの500系だが、この車両で営業速度が300Kmを超えた。その開発に当たって直面した問題がパンタグラフから出る騒音だった。これを基準以下に抑えるために1本のアームにするなど様々な工夫が凝らされた。しかしそれでも目標の音量にまで達しなかった。そのとき、フクロウは音を立てずに飛ぶ≠ニいう人がいたらしい。実験をしてみると、たしかに鷹だったか鷲だったか忘れたが、他の鳥とは比較にならないほど風に対する音が静かだったのである。そこでフクロウの羽の研究が始まった。その結果、文章では伝えにくいが羽の先に微細な切れ目のようなものが入っていることを発見した。それをヒントにして、新幹線のパンタグラフの棒の部分に切れ目を入れたところ基準をクリアしたという。もちろん、そう簡単にうまくいったとは思われない。満足できる結果を得るまでには、大いなる試行錯誤があったはずである。こうした新幹線のパンタも自然≠フ中から大いなるヒントを得たのである。こうして、ちょっとコーヒーブレークのつもりで見始めたアインシュタインの目≠P本分が終わった。
ヒューマンエラー(09/03/15 日A-2208)
  先日、味な話の素≠フ内容が前日と同じものだというご連絡をいただいた。お昼過ぎのことだった。えーっ≠ニ驚いて確認すると、たしかにまったく同じ内容である。ただし、タイトルは私がその日に書くつもりのものになっていた。当日用の原稿は書いていたから、そのまま転写してすぐに修正した。午前中にご覧いただいた方はおかしいな≠ニ思われたに違いない。これはヒューマンエラーそのものである。しかも、前の日とあわせて確認すれば犯しようのないエラーである。味な話の素≠フ作成画面には少なくとも前日の分は出ているから、わざわざチェックする必要はない。目に入ってくる情報を前日のものと較べるだけで済むことである。これが数日前のものと同じであれば、その瞬間に間違いを発見することはむずかしいけれど。ともあれ、私の記憶としてはチェックする≠アとを厭ったつもりは毛頭ない。しかし起きた結果を見れば、少なくとも意識的にチェックしなかったことは明らかである。ヒューマンエラーとはこんなもなんだと妙に感心した。あたりまえのこと、当然のことは慣れてしまってしなければいけない≠ニいった意識が薄れる。人間は無数の行動を繰り返しながら生きている。そのすべてを意識していると、それだけでストレスになってしまう。そこで可能な限りエネルギーを節約する行動を選択しようとする。それはうまく生きていくための適用なのである。決して手を抜こうといった怠け心から出てくるものではない。そして、いつもの行動は習慣化して、改めて意識しないでもできるようになる。しかし、問題はそこから起きる。習慣化しているから多くの場合は間違いは起きない。しかし、何らかの原因で普通と違うことが起きても気づかない。
新幹線の進化(09/03/15 日@-2207)
  ああ上野駅≠聞いて目頭が熱くなる。われわれ団塊の世代はそんな人間たちである。もちろん、演歌一筋などといえば怒られるだろう。吉田拓郎や井上陽水、谷村新司、それに沢田研二だってわが世代である。ビートルズは少しばかり年上だが、彼らから大きな影響を受けた人間もワンサカいる。それはともあれ1964年に東海道新幹線が開業した。おそらく夏休みだったと思うが、開業前の試験運転が公開された。そのとき東京から大阪までNHKが生中継した。案内役は鈴木健二氏だった。時速210Kmの夢の超特急≠ェ一気に東京から大阪へと突っ走る。ヘリコプターも動員した大がかりな中継だった。当時の所要時間は3時間30分だったと思う。いやひょっとしたら最初は4時間近かったかもしれない。わが国初のハイウエーである名神高速道路がすでに開通しており、それとクロスする場面は、身震いするほどカッコよかった。その後、新幹線は絶え間なく進化を続けていく。2台目が100系と名付けられ、どんどん進んで現在はN700系が走っている。新型車が出ることによって初代は0(ゼロ)系≠ニ呼ばれるようになった。その元祖も昨年でリタイアした。昔から子どもは乗り物が大好きだ。自動車や電車、それに飛行機などはいつになっても人気が陰ることがない。わが孫も消防車から救急車、飛行機まで大いに興味を持っている。もちろん新幹線もその代表で、両親にしか認識できない発音でゼロ≠ニ言う。ゼロ系≠ニ700系≠ェ描かれている服を着ていることもあって、両者の違いもわかる。まだ2歳半なのだけれど。ただし、この点は倒錯的な解釈もできる。子どもが好きだというよりも、周りの大人がこだわっているから、その手の情報が多くなるのである。
ああ、上野駅(09/03/14 土-2206)
  さて、アインシュタインの目≠ェ紹介する自然に学ぶ技術(nature technolog)≠フ3つ目は新幹線だった。つい先だって、いわゆる0系≠ニ呼ばれる新幹線がリタイアした。あの東京オリンピックが開催された1964年10月にデビューした最初の新幹線である。思えば私はそのとき高校1年生だった。まだ集団就職が行われていた時期である。数は少なかったが、中学校を卒業したあと就職していった友人もいた。もちろん高校卒業後の就職は、その方が一般的だった。私が卒業した1967年の統計では、文部科学省の「学校基本調査報告書」によれば大学への進学は19.6%である。同じ統計で中学校から高校へ進学した者は69.3%だ。これが2007年3月には97.7%に達している。高校全入≠ニいわれる所以である。ちなみに同じ年の大学進学率は47.2%である。そしていまでは大学全入時代≠ニいわれている。少なくとも進学希望者数と大学の入学定員との比較でいえば、定員の方が上回る状況になってきているのである。こうした数値を見ていたら、伊沢一郎のああ上野駅≠ェ聞こえてきた。作詞関口義明、作曲荒井英一の名曲である。一番:どこかに故郷の香りをのせて 入る列車のなつかしさ 上野は俺らの心の駅だ くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった∞二番:就職列車にゆられて着いた 遠いあの夜を思い出す 上野は俺らの心の駅だ 配達帰りの自転車を とめて聞いてる国なまり=@三番:ホームの時計を見つめていたら 母の笑顔になってきた 上野は俺らの心の駅だ お店の仕事は辛いけど 胸にゃでっかい 夢がある=B歌詞を見ればそのままメロディーを口ずさみたくなってくる。するとこれまた思わず目頭がにじんでくる…。
愛読者の方から、13日の内容が前日と同じであるとのお知らせをいただきました。ワープロ原稿からのコピーミスでした。
なにせ、毎日720文字にこだわっておりますため、原稿をワープロで書いていますものですから…。
お騒がせいたしました。お知らせいただきました○○○様には心から御礼申し上げます。今後ともよろしくお願いします。
弾ける食器(09/03/13 金-2205)
  アインシュタインの目≠ナ取り上げられた第2のNature Technology≠ヘ、蓮の葉≠セった。最近の子どもたちはどうかしらないが、私たちは蓮の葉に落ちた水滴が丸いボールのようになってクルンクルンと走り回るのを見たことがある。走り回るという表現がおかしければ、弾けると言ってもいい。そうそう、子どもたちも洗車した車に水を掛けると水玉になることは知っているだろう。車の場合はワックスを掛けているのだから、素人的に言えば、油の被膜をつくっていることになる。だから、時間がたつとその膜が薄くなったり流れたりして効果が失われる。それを防いで半永久的に弾ける表面ができないか。これが問題意識≠ナある。大学の名前は忘れてしまったが、ここで蓮の葉≠ノ目をつけた研究者がいた。これもまた微細な構造を探求すると、小さなトゲトゲがあったらしい。早い話がトゲが協力して水を持ち上げているのである。水などでは分子同士の引力によって、できる限り表面積を小さくするような力が働く。これを表面張力というのは中学校だかで習った。そのため、トゲトゲなどの上ではとにかく丸くなろうとするらしい。その蓮の葉≠フ原理を応用して食器を作ればどうなるか。たとえばお皿にしても、カレーライスのあとはけっこう油ぎっている。そこでいわゆる食器用の洗剤を使いながら、ゴシゴシすることになる。もう30年くらい前になるだろうか。その成分が体に悪いとか環境汚染の元凶になるといった問題が起きたこともあった。こうしたとき蓮の葉$H器は大いに威力を発揮する。なにせ水分がくっつかないのだから、水をさらりと流すだけできれいになるのだ。洗剤もいらない。これは大切な水資源を守るためにきわめて有効である。
何とかならんかなあ…(09/03/12 木-2204)
  雨水で汚れを流してしまうタイルはカタツムリの殻から学んだのである。もちろんカタツムリを漫然と見ているだけでは創造的なアイディアは生まれない。開発者たちは毎日の仕事の中で油汚れが取れやすいタイルってできないものか≠ニ考えていた。だからこそカタツムリの殻が大脳に刺激を与えるのである。そのとき見ていたアインシュタインの目≠フ内容をすべて記憶しているわけではないが、何かの機会に誰かがカタツムリって殻がいつもきれいですよね≠ニ言ったらしい。それがきっかけで研究が始まったというのだ。ここに常識的ではあるが見逃すことのできないポイントが明らかにされている。それはいつも問題意識≠持ち続けていることの重要性である。それは何とかしたい≠ニいう気持ちでもある。そうした心の状況があれば、周りの世界にあるものの見え方が違ってくるのだ。宗教心に欠ける私が言うのもどうかと思うが、気持ちがあれば、神はそれに応えてくれる≠ニいうことだろう。それび加えて、偶然≠竍運≠熨蛯「に関係している。番組の解説によると、カタツムリは世界各地に生息しているらしい。その種類も、メモはしなかったが相当な数を挙げていた。ところが、雨などで殻の汚れが落ちるのは2、3数種類しかいないらしい。多くの場合、カタツムリの殻は泥がくっついたままなのである。そんなカタツムリを見ていても、創造性を刺激されることはあり得ない。その意味で、開発担当者が世界でも数少ない自動洗浄の殻を背負ったカタツムリに出会えたことは幸運≠セったのである。しかし、それもまた日頃からの問題意識≠ェなければ、運命のカタツムリとの出会い≠烽り得なかった。何とかならんかなあ≠ェ大事なのですね。
あめあめ降れ降れ…(09/03/11 水-2203)
  雨で壁の汚れが流されるのなら、こんなにありがたいことはない。これまでだと、いつもは目立たない汚れも雨水の流れに沿って黒く筋を書いていた。洗車をしたすぐ後に雨が降れば、せっかくピカピカしたボディーに黒い線が浮き上がる…。これが雨によって流されるのなら願ってもないことだ。八代亜紀の歌ではないけれど、あめあめ降れ降れ、もおっと降れ≠ナはないか。ところが、そんな夢のような壁面ができたというのである。油性のペンで書いても水を吹き付けると浮き上がって溶けていく。そんな画面が目の前で展開するのである。これはすばらしいの一言だ。そして、その開発のヒントがまさに自然≠フテクノロジー≠フ中にあったのだ。それを教えてくれたのはカタツムリである。カタツムリは土の上なども移動していくのに、その殻が泥だらけになっていない。いやむしろ水分を載せて光っているように見える。彼らが特別の洗い場を持っているようには思えない。それなのにあれだけきれいなのはどうしてなのか。これに気づいたメーカーの研究者がカタツムリの殻を徹底的に分析した。専門的なことは置いて素人の解釈レベルでいうと、カタツムリの殻の表面はトタン屋根のように凹凸があるという。いろいろな汚れが表面について見えるが、実際には凸の上に載っかっている状態になるのである。そのため、凸との間にわずかながらも隙間ができる。そこで上から水を掛けると凹の部分との隙間に水が入り込む。その水が凸の上に載っている汚れを押し上げるというわけだ。まあ、聞いてみればなるほど≠ニ納得いくし、当たり前だ≠ニも思う。しかしそれはまさにコロンブスの卵。まずは新しい製品を開発した人々に拍手を送るのが礼儀というものである。
Nature Technology(09/03/10 火-2202)
  休みの日もけっこう仕事をしている。いまは新学期の授業用のパワーポイントづくりが楽しい。先月だったか、いや1月だったかもしれない。そんなある休みの日のこと、ちょっと休憩とばかりテレビのスイッチを入れた。NHKにアインシュタインの目≠ニいう科学番組がある。いつもは教育テレビで放送していると思うが、このときはハイビジョンの特集版だった。昨年テレビ画面が急に赤くなって新しいものを購入した。いま最先端のデジタル対応である。その結果、わが家でもハイビジョン放送を見ることができるようになった。これから話題にしていこうと考えている刑事コロンボ≠焜nイビジョンによる放送だ。そうなんです、ハイビジョンが見えるという自慢話です、はい…。さて、スイッチオンと同時にかなりおもしろそうな内容が目に入ってきた。このごろはNature Technology≠ニいうものがあるらしい。文字通り自然≠基礎にした技術≠ナある。はじめはコーヒーブレークくらいのつもりでいたが、あまりにもおもしろく、1回分を最後まで見てしまった。この手の番組はどうもいけない。ついつい引き込まれてしまう。まず登場したのが汚れない壁タイル≠ナある。とくに都市部では排気ガスなどでビルの壁に汚れがつく。これは白い車でも同じで、青天井で駐車しておくと洗車していても黒い筋がついてくる。排気ガスの汚れを溶かした雨水がたれるとそれがシミになって目に見えるようになるのだ。これを取るには洗剤でシコシコ磨くしかない。車の1台ならまだしも、ビル全体の壁タイルともなれば相当な労力と経費がかかる。これが何とかならないかというわけだ。とくに雨が降ったとき汚れを一緒に流してくれれば、こんないいことはない。
逆転のテクニック(09/03/09 月-2201)
  さて、最初に放映された刑事コロンボ≠ヘ衝撃的だった。もう30年以上も前のことだ。ストーリーのはじめから犯人とその手口が視聴者にわかるのである。それまでの推理ドラマ≠ヘ、文字通り誰が犯人であるかを視聴者側が推理しながら楽しんでいた。これがまったく逆になって、興味は刑事コロンボが犯人を追い詰めていく点に集中される。推理小説≠英語でdetective story≠ニいう。detective≠ヘ探偵や刑事だから、日本語の推理もの≠ヘmystery story≠フ方が近いかもしれない。ともあれ、刑事コロンボ≠ヘ英語ではinverted detective story≠ニ呼ばれている。invert≠ヘ単純に逆さまにする、ひっくり返す≠ニいう意味である。あるいは転化≠竍転倒物∞倒錯者≠ニいった名詞もある。犯人がわかっているから大物の俳優も使える。ナポレオン・ソロ≠ナ茶の間でも知る人が多いロバート・ボーンは、コロンボ・シリーズ≠ナ少なくとも2回は見た記憶がある。もっとも知る人が多い≠ニいってもわれわれ世代の人間に限っての話ではある。1932年11月生まれだから、もう喜寿を前にした76歳の高齢者だ。それはともあれ、彼は黒沢の七人の侍≠フリメークである荒野の七人≠ノも出ている。そうした大物をコロンボがどう追い詰めていくか、これが視聴者にとって大いなる醍醐味となる。そこで毎回のスクリーンが豪華な雰囲気を醸し出すのである。資金が潤沢で大物出演者もわんさかいるアメリカならではの超一級番組だった。しかし21世紀になったいま、それをハイビジョンで、なおかつ大型画面で、さらにビデオに撮って見ているとけっこう笑える<Vーンが出てくるのだ。それらを折を見て取り上げていくことにしよう。
あやしい笑い声…(09/03/08 -2200)
  名犬ラッシー≠竍家のママは世界一≠ネどは、アメリカの一般家庭を舞台にしたファミリードラマだった。この手の番組も大いに視聴率を稼いでいたと思う。画面の隅々までにアメリカの文化が埋め込まれている。台所近くには人の背丈もあるようなドでかい冷蔵庫が置いてある。それを開けて、これまた2リットルもあろうかという牛乳瓶を取り出して主人公がおいしそうに飲み干す。極めつきは車だろう。彼らはとにかく当たり前のように自動車に乗っているのである。日本では商用車が中心で、自家用≠フ乗用車≠ネどは高嶺の花どころか、小さな町中では見るのも珍しいころである。とにかく、これでもかこれでもかとばかり、アメリカの豊かさを見せつけた。福岡に板付基地があったころ、その近くに玄関前まで芝生が敷かれた家が建ち並んでいた。もちろん基地の兵士たちの住宅である。あの中では、まさにテレビに出てくるような生活が送られていたのだろう。そうそう、テレビといえば喜劇だっていろいろあった。たとえばルーシーショー≠竍奥様は魔女≠ネどはその代表だろうか。あの番組では観客の笑い声まで聞こえてくる。あれはホンマもんかいなと思い続けていた。いや、いまでも合成したのではないかと疑っている。昔のお笑い三人組≠竍ドリフの全員集合≠ネどは舞台であることがはっきりしている。だから観客が笑ったり拍手をしたりしても違和感がない。しかし、ルーシーショー≠竍奥様は魔女≠ネどは、場面もいろいろ変わる。あれはどう見ても舞台の上でやっているようには見えなかった。たった一度だけ客の前で撮影しているような場面を見たことがある。そのときは、やっぱり笑い声は本物か≠ニ思ったが、じつはまだ疑っている。
テレビとアメリカもの(09/03/07 土-2199)
  懐かしの刑事コロンボ≠ェノーカットで放映されはじめた。そのことはすでに本欄でも書いたが、その後もしっかり見続けている。ただし録画である。放送は土曜日の20時からなのでゆっくり楽しめそうだがそうもいかない。夕食の後で家族と話しもするし、ついつい眠くもなる。家にいても仕事から逃げ切れない団塊人≠セから、21時前後はその日の追い込みどきである。そんなわけで、確率的には机に着いていることが多い時間帯である。そこでどうしても録画に頼ることになる。それはともあれ、コロンボ≠ヘ懐かしく楽しい。しかも、いま見ると映像的にかなりのチョンボが目につくのである。それに気づくと、さらに楽しさが倍加するというわけだ。経費を抑えるために張りぼてで通していた日本の番組と違って、アメリカものは金がかかっていた。少なくともそう思って見ていた。とにかくアメリカは凄かったのである。テレビが出現する前に映画があった。アメリカ映画といえばハリウッドだ。そしてハリウッドといえば巨費を投じた大スペクタクルものが売りだった。子どものころには十戒≠竍ベンハー≠ェあり、少し後にはクレオパトラ≠ニいった映画に圧倒された。そうした流れがテレビにも見られた。テレビの黎明期には、夜7時から9時ころまでのゴールデンタイムはアメリカからの直輸入ものが独占していた。ララミー牧場≠竍ローハイド=Aそれにライフルマン≠ニいった西部劇があった。サンセット77∞バークにまかせろ≠ネどの粋な探偵ものも大人気だった。私はほとんど見なかったが、シリーズ化されていた逃亡者≠フ視聴率は相当なものだったと思う。そうそう、名犬ラッシー≠竍家のママは世界一≠ネんてのもあった。
宗教ごころ(09/03/06 金-2198)
  私にはとくに信じる宗教はない。その意味では無宗教である。しかし、これは多くの日本人に言えることかもしれない。結婚式のときは神前だった。母親の葬儀は父親が取り仕切ったが、父が亡くなったときは私が喪主になった。その際はお坊さんにお経を上げてもらった。お坊さんだから仏式である。子どものころは普通なみにサンタさんの長靴を買ってもらっていた。これでキリスト教徒なんてことはとても言えない。ともあれ私自身は宗教心というものを自覚したことはない。そうだからといって、宗教そのものの存在意義まで否定することはない。今年の1月には、道元法師が主役の映画禅≠見に行った。これがなかなかよかった。あるがまま、あるがまま≠ニいう台詞が印象的だった。あの世で幸せになるために、今の試練を乗り越えなさい=B私としてはこの発想は採用したくない。あの世も大事かもしれないが、どんなところか教えてくれる人がいない。それよりも、たしかに生きている今の幸せをしっかり追求したいと思う。真意の読み違えかもしれないが、道元さんは今を大切に≠ニ教えてくれているのではないか。また多くの宗教が人間が生かされている≠アとを強調していると思う。これにも大いに賛成したい。この世の中に心臓を自分で動かしている人はいない。自分の意思とは関係なく心臓はしっかりと動いてくれている。これを生かされている≠ニ言わずしてどうしますか。いやあ、ありがたや、ありがたや。思わず手を合わせたくなる。朝、目が覚めたときもわーっ、生きてらあ≠ニ嬉しくなる。前の晩、床に入ったとき、明日も生きているよ≠ネんて誰も保証してくれてはいない。それなのに今朝も生きているのだ。ありがたや、ありがたや…。
距離の取り方(09/03/05 木-2197)
  当事者と報道する者の距離はきわめて重要である。遠すぎれば情報が入らない。それなら近ければ近いほどいいのか。たしかに、人が知り得ない情報を得ることはできる。しかし、その人物を客観的に見る目が曇ってくる危険性も急激に高まることになる。そして、本来は伝えなければならないことが押さえられる可能性も高まる。そして、相手から依頼されたのではなく、まさに自己検閲、自主規制といった状況にまでなれば問題はさらに深刻さを増す。そこまで行ってしまえば、報道の自殺行為だとも言える。素人的には、今回の事件≠ナは、記者会見の際に大臣、体調でもお悪いのですか≠ニいった質問があってもよかったと思う。「あのおー、フーッ…」という映像が、食傷するほど繰り返し流される。あれを見ると、その場にいなくったって、誰が見てもおかしいと思ったはずだ。それに気づかない方がよほどおかしい。あの手の場では、内容に関わりのないことは聞かないのがしきたりなのかもしれない。しかし、それにしても事態は国益を損なうほどすごすぎた。素人なら、どうしたんですか≠ュらいは聞きたくなると思う。そうだとすれば、記者たちの方が裸の王様≠ナある。外国の記者はいざしらず、あの場にいた日本人記者たちは中川氏の酒にまつわる行動パターンを知っていただろう。だからとうとうやっちゃった≠ニいうのが本音だったのではないか。あの場でストレートに聞くと、その後の取材が危うくなる。そんな気持ちがあったとすれば、これまた困ったことだ。しかも、いったん問題化すると、一斉にあんなこともあった、こんなこともあった≠ニ過去の行状に対する情報があふれ出てくる。それなら、アウトになる前に言ってくれればいいのに…。
親しい関係(09/03/04 水-2196)
  中川氏の事件≠ノは新聞記者も絡んで≠「た気配がある。はっきり報道されてはいないが、薬を飲んだ≠ニきに女性を含む何人かの記者が一緒だったらしい。そのうちの一人については新聞社の名前も出ていたが、その他については何とも曖昧なままだった。とくに悪いことをしたのでないなら、堂々と名乗ればいい。それを伏せている≠謔、に見えるのは、何とも言えない気まずさ≠感じているのだろうか。その辺りの真相はわからない。しかし、この件はジャーナリズムの問題点を提起している。なんと言っても、中川氏ときわめて親しい記者がいることである。もちろんそれ自身はまったく問題はない。しかし、近い∞親しい≠アとはそれだけで危険を伴っていることを自覚しておく必要がある。それがプロというものである。なんと言っても、スクープを大事にする世界である。重要人物の近くにいれば、同業者には知り得ない情報≠いの一番に独占的に手にできる可能性が強くなる。それはそうだけれど、素人目から見ればそれだけでも公正さ≠ノ危うさが生まれる。つまりは、情報獲得≠ナフェアなプレイが行われていないということである。もちろん世の中はそんなもんよ≠ニ言われてしまえばそれっきりではある。たしかに、信頼関係≠構築することは、どんな人間関係でも重要である。しかし、そこには大きな心の落とし穴≠ェあるのではないか。そうした親密≠ネ関係が、相手の不利益な情報を流すことに抵抗を感じさせたりはしないか。それがさらに悪い方向へ動けば、重要な公益情報を隠してしまう可能性だって出てくるかもしれない。そんな事態が起きるようでは大変だ。ジャーナリズムが標榜する正義≠ェ実現されないことになる。
任命責任(09/03/03 火-2195)
  自分の発言が説得力を持っているのかどうか。われわれにはそれを正しく評価できる力が求められているのである。この話題はすでに本コラムの2月17日に想像する力≠ニして取り上げた。国会は最高度に公式の場である。中川氏とは何十回も食事を共にしましたが、今回の事態を予想させるような飲み方をしたのは見たことがありません=Bまあ、この程度の答えをしていれば、ほんまかいな≠ニいう意地悪な反応も最小限に抑えられたのではないか。やっぱし、ものは言い様なんですよね。ところで、今回の事件≠ノついては任命責任も問われることになった。もともと中川氏はアルコールに関しては武勇伝が多かったようだ。それが事実だとすれば、とうとうやっちゃった≠ニ思っている人がいる可能性が高い。そうなると、危機管理の視点から見れば、やはり大臣の任命は問題のある意思決定だったということになる。危機管理とは、将来起きるかもしれない危機を予測し、それを避けることそのものだからである。それだけではない。もしも身近のブレーンにいつかやっちゃう≠ニ思っている人がいたとすれば問題は深刻だ。そうした心配な状況を伝えるのがブレーンの役割である。あるいは進言はしたけれど、それが聞き入れられなかった可能性もある。もしそうだとすれば、これもまた困った事態である。自分の耳に障るようなことでも、ちゃんと受け止めるのがリーダーには求められるのだ…。ここまでくると、どう転んでも問題になる。そんなわけで、他人の行状に対して問題点を指摘するだけならいくらでもできる。しかし、われわれの日常生活でも、これと似たようなことが頻繁に起きているのではないか。もちろん、私もこれをもって他山の石≠ノしたい。
ことばと危機管理(09/03/02 月-2194)
  政局≠ニいうことばがある。電子版スーパー大辞林≠ノよると、まずは@政治の動向、政情≠ニある。その次がA首相の進退をめぐって政治の主導権をめぐる争いが表面化すること≠ナある。一文中にめぐって≠ニめぐる≠ニ重複している。国語辞書なのだから、表現はもう少し工夫があっていいなあ。まあ、今の話題とは関係ないけれど。これには括弧付きの追加説明がある。政治上の大きな変動をいう「政変」に較べると、政権交代の可能性や倒閣の兆しなどにいう=Bうーん、ここでもいう≠ェ二つですねえ。おっと失礼、なにせ粘着質なものですから、はい。それはともあれ、政局≠ニは生臭い権力闘争を伝える専門用語≠ネのである。その意味では予算が成立してから、あっちもこっちも政局≠ェらみになりそうな気配である。それにしても、政治家は料亭≠ナ大事な話をするのがお好きなようだ。ニュースでも玄関口に和服の女性が迎えに出ているのが映ったりする。私が子どものころ、古い政治の体質を象徴する表現に料亭政治≠ネどという言い方があった。政治の中枢にいる人間たちが料亭に集まって酒を酌み交わしながら政策を話し合うのである。もちろん高級料亭≠ナあるだ。それでけで何となくうさんくさく、謀議を図るといったニュアンスがあった。しかし、この点については少なくとも場所的にはちっとも変わっていないようだ。そんなところで何十回も飯を食べて≠「ながら、自分の前で酒を飲んだことはない≠ニ言われても、誰も信じないだろう。たとえそれが事実だとしても…。ことばは怖いものだ。しかも国会という公的な場での発言は命取りになる。その意味で、ことばの配慮≠ヘ危機管理の中でも最重要のポイントである。
静かな反応?(09/03/01 -2193)
  私は福岡空港からよど号が飛び立つのを見た歴史的な目撃者でもある。そんな時代の中で、日米安保条約の改定問題などもあって世情は騒然としていた。しかしその当時でも、米軍の存在に対する賛否は別にして、その詳細な構成について十分な知識を持っていた人は少なかったと思う。だから、小沢氏は国民の意識を喚起するつもりで今回のような発言をしたのだろうか。その真意は分からないが、この時期にこの手のことについて具体的な発言をするというのはものすごいと思う。いや、ものすごすぎる。それが証拠に、自民党からはさっそく本気で政権を担当しようと思っているのか≠ニ非難されている。専門的に見て発言の内容が正しいかどうかはわからない。しかし、ニュースを見たとたんにえーっ、今ごろそんなこと言っていいのーっ≠ニ思わず叫びそうになった。すぐに菅直人代表代行も発言を聞いていない≠ゥらコメントできないといった会見をしていた。実際はけっこう慌てたのではなかと思う。小沢氏としては正直なところを語ったのだろう。しかし、この微妙な時期に、微妙な問題について具体的な発言するのはどうだろう。せっかく敵失で形勢が有利になっているときにあの手の発言をすれば、揚げ足をとられることは目に見えているではないか…。とまあ、そう思っていたのだが、私の予想とは違ってほとんど尾を引かなかったようだ。少なくとも私が目にする報道では、自民党以外の党から厳しい発言が出されたようには思われない。マスコミも発言を伝えただけで、その真意を追求するという感じもない。いま、これを問題として取り上げない方がいい=B素人の邪推に過ぎないが、そんな気持ちが働いているのではないか。それも戦術のうちなのだろうか。