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味な話の素
 No.66 2008年10月号(2034-2064)
 
金沢物語(08/10/31 Fri-2064)
  北国の雪対策に関わるコストは相当なものに違いない。もちろん、九州などの方が多いと思われる台風や大雨の被害をカバーするためにも膨大な費用がかかる。人命が失われることも少なくない地震も、これでおしまいと言うことはない。そうだ、日本は天変地異の多い国だったのだ。天災は忘れた頃にやってくる=B寺田寅彦の至言である。そんなこんなで、わが国は宿命的にコストがかかる国なのである。もちろん自然の力による災害には何としても打ち勝たなければならない。そうでないと、この国土の上で生きていけない。だからこそ、わが国はつまらないところで無駄遣いしているような余裕はないのだ。そう考えると、この頃は官民を問わず妙な話が多すぎる。日本人の本性はいったいどうなってるのか。つい大声で叫びたくなるような呆れた出来事が息をつく暇もなく起きている。じつに嘆かわしい状況だ。とにかく国も自治体も民間組織も一億総財政難のこの時期、少なくとも公的なお金の使い方はしっかりしてもらわねばならぬ。経済のことはわからないが、出てくる景気刺激″も、どこかで見聞きしたようなワンパターン。なんか、根本的な発想の転換を伴うようなものはないんでしょうか…。ところで、昨日から金沢を話題にしていたんだった。その金沢に還暦記念の旅行で出かけたのだけれど、じつに久しぶりだった。この町にはちょっとした思い出がある。いまから29年前の1979年10月中旬に私は初めて金沢に出かけた。そのとき私は10月1日付で熊本大学の構成員になったばかりで、まだ半月しか経っていなかった。前職は鹿児島女子短期大学で、9月30日に依願退職した。新しい職場はその年の4月に熊本大学教育学部に設置された教育工学センターである。
雪のコスト(08/10/30 Thu-2063)
  還暦を迎えて家内と北陸方面へ小旅行をした。最初の日は金沢まで行った。その日の夕刊を見ると冬将軍を迎え撃つ≠ニいう見出しが目に飛び込んできた。カラー写真で新しい機械が写っている。説明に除雪機械≠ニ書いてあるから、この地方ではそう読んでいるのだろう。どんなものか文章では説明しにくいが、雪をかくブルドーザーみたいなものである。記事によると、石川県が保有している車道除雪車や凍結防止剤散布車が218台もあるという。これが雪のない期間中はじっと待機しているのだと思う。その間も保管場所を確保しないといけないだろうし、いざ使おうというときのために点検する必要もあるだろう。なんと言っても200台以上もあるのだから、そうした費用だって相当な額に上るはずだ。記事はそれでだけでは終わらない。公的に所有しているもの以外に緊急時は民間からも借りるのだそうな。これと合わせると1,380台になると書いてある。ということは、民間のもので貸し出し可能なものが1,000台を超えるわけである。これまた余計なお節介だけれど、民間だって膨大な費用をかけて維持管理しているのである。石川県の重点除雪路線は584kmにも及んでいるという。そして、新たな積雪が5cmに達するとこの機械が出動するのだそうな。もちろん、除雪機械の操作研修会も開催しないといけない。これはあくまで石川県の話である。当然のことながら北海道はその何倍も必要だろうし、豪雪の新潟をはじめ、東北地方はすべてがこうした対応を必要としているはずである。同じ日本でも本当に違うものだ。もちろん、九州だって台風や豪雨に焦点化すれば、相対的には雪国より被害が大きいとは思う。とにかく自然は容赦なく人間に試練を与えるのである。
先を越された?(08/10/29 Wed-2062)
  パブロフの犬が身につけた条件反射とは違うけれど、本来はおかしい∞楽しい≠ゥら笑顔をつくる筋肉が動いていた。ところがある日、その順番が逆になった。おかしくも何ともないのに、顔の笑う筋肉が動いたのである。そのとき、なぜか心地よさというか、ちょっとワクワク感に浸ることができたわけだ。いつだれが初めてそんな体験をしたのか知らない。しかし、とにかく笑えば楽しくなる、おかしくなるというのはなかなかいいメカニズムではないか。まさに、笑う門には福来たる≠フである。というわけで、そんな話を授業や講演でもしていたのである。ところが、つい先だって静岡に出かけたとき、かすかなショックが走った。ホテルでたまたまテレビのスイッチを入れたらNHKのプロフェッショナル≠フ放送中だった。この番組はなかなかおもしろい。ただし、このごろの私はテレビ離れをしていて、定期的に見る番組はまったくない。それでもたまたまプロフェッショナル≠ノ出会ったのだから、ちょっくら見てみるかという気分になったのである。ところが、そこでなんと笑い→楽しさ≠フ関係が話題になっているではないか。イタリアだったような気がするが、ヨーロッパのある国で行われた実験で、笑えば気分がよくなる≠アとが実証されたというのである。もちろん、それはけっこうなことだ。私が素人なりに考えていたことが、それなりに正しかったのである。そうではあるのだが、何せこのコラムにそのことを書いた記憶がない。となると、イタリアに先を越された≠けだ。もっとも、ある小論文にはそれに近いことを指摘していたから、まあいいとするか。ともあれ、ここで言いたいのは、ただそれだけのこと。いつものようにお騒がせしました。
垂涎の犬(08/10/28 Tue-2061)
  おかしい≠ゥら笑う(筋肉が緊張する)=Bその体験が積み重なるうちに、今度は笑う(筋肉が緊張する)≠ニおかしくなる≠ニいう現象が起きるようになる。この逆転現象は大いにあり得るのではないか。本来結びつかなかったものが、いつの間にか新しい関係を作り出すのである。その代表的な例がパブロフの犬である。こちらは条件反射の古典的研究としてよく知られている。犬に肉を与えると口の中で唾液が分泌される。これは無条件反射である。犬が意識しなくても食べ物が口の中に入っただけで自然に唾が出る。それは食物の栄養素を体の中に取り入れるという、生きるために必要な手続きの始まりである。われわれ人間だって、食べ物が口の中に入れば唾液を分泌する。はい、何かが入ったので唾を出すぞーっ≠ネんて意識していない。そんなことから、これを無条件反射≠ニいう。ところがロシアの生理学者だったパブロフは、この現象に対しておもしろい実験を試みた。犬にエサを与える際に合わせてベルの音を聞かせるのである。もちろん、犬の立場になってみれば、ベルの音は食事を口にする際に聞こえた単なる雑音に過ぎないはずだ。もっとも食事のときにいきなり余計な音がするのだから、最初はびっくりしたかもしれないけれど。しかしエサを与えるのとベルの音を鳴らすことを繰り返していくうちに、犬はベルの音を聞いただけで口から唾液を出すようになったのである。もちろん、エサ≠ニベル≠フ間には本来は何の結びつきもなかった。しかし、二つの出来事が繰り返されるうちに、新しい反射の関係が出来上がったのである。そこで、これを無条件反射と区別して、条件反射と呼ぶことになったわけだ。世に知られるパブロフの犬の登場である。
歴史的逆転(08/10/27 Mon-2060)
  猿だって反省≠キるのだから、きっと笑う≠ノちがいない。しかし、ぱっと見た目では猿が顔をゆがめたり、おなかを抱えて笑っているのに出会ったことはない。もちろんそれは動物園での話だから、野生の環境であればおおらかに笑っている姿を見ることができるかもしれない。しかし、表情豊かに笑うのは人類になってからではないかと思う。ともあれ、ここではとくに笑顔に焦点を当てて考えてみよう。まずは、歴史的に笑顔をつくる≠フとおかしい事態が生じる′サ象の前後関係はどうなっているか。これは誰もが、まずはおかしいことが先行していると言うに違いない。おかしいこと≠ェあるから笑う≠フである。この世の中で最初に笑ったヒト≠ヘ、おかしい事態≠眼前にして笑った≠ヘずである。ところで、人類で初めて笑ったのはどこの誰で、どんな理由で笑ったんでしょうね。どうでもいいけど、そう思うだけでついおかしくなってきましたよ。この時間関係は、その後も続いていったはずである。笑うときには笑い顔をつくるために顔の筋肉が動く。このおかしいこと=ィ笑顔をつくる筋肉が動く≠アとが天文学的な回数で繰り返されてきた。しかもその体験が人類全体で蓄積されていったのである。そしてあるとき、この時間関係に逆転が起きる。何かのきっかけで顔の筋肉が笑ったときと同じ張り方をする。決しておもしろいことを考えたり体験したわけではないのだが、その瞬間にふっと楽しさ、おかしさを感じる。おかしいから笑うのではなく、笑ったときと同じような筋肉の動きから刺激を受けて、大脳の方がおかしい≠ニ反応する。それまで体験し続けてきた前後関係が逆転するわけだ。まあ、私としてはそんな解釈をしてきたのである。
アバウトな時間(08/10/26 Sun-2059)
  泣くから悲しくなる≠ニいうジェームス氏の提言は、事実とは逆さまな話のように聞こえる。しかし、それから時間がずいぶんと経過して、彼が言ったことにけっこうな信憑性が出てきたのである。その中でも、いわゆる脳科学なるものなどは、ジェームスが正しかったことを実証している感じだ。私自身は、残念ながら、その方面の知識は持ち合わせていない。しかし、それでも私なりにおもしろくなくても笑っていれば楽しくなる@搴は以前から考えていた。それは逆反応説とでも言えるものである。人の祖先がどうなっているか詳しくは知らないが、私の知識レベルで言えばアウストラロピテクスといった名前が浮かぶ。原始時代あたりに興味を持ち始めた小学校のころだった。類人猿と人類の中間に位置するものとして、アウストラロピテクスと呼ばれる化石が見つかっていることを知った。彼らがアフリカに生まれて100万年とか200万年ほど経過しているらしい。もっとも人類の元祖にもいろいろあって、現在のわれわれに繋がるのはまた別のものだという。北京原人だのジャワ原人だのが出てきて、クロマニヨン人なるところまで話が繋がっていく。このあたりがわれわれにとって直接のご先祖様だろうと推測されているらしい。そんなことを中学校のころに習った。人類の祖先を云々しはじめると、時間スケールも相当に粗っぽくなる。とにかく昔々の大昔だから100万年だろうが200万年だろうが、似たようなものになってしまうのだ。個人としては、多くの場合100年も生きないことを考えると、この上なくアバウトな話ではある。しかし、そこが考古学や歴史の楽しいところだと思う。はっきりしない分、夢もある。ともあれ、人類が生まれて10万年ほどは経つのだろう。
笑いの効用(08/10/25 Sat-2058)
  笑いの効用については多くの人が語っている。私も間違いなくその一人である。それは自分の実体験とも一致するからだ。とにかく私はかなりの早起きである。大体4時台には目が覚める。そしてその瞬間に、わーっ≠ニ叫びたくなるような嬉しさを感じる。なぜって、今日も確かに生きて目を覚ましたのだから。昨日の夜、床に入って気が遠くなる前に明日も生きているよ≠ネんて、誰も保障していてくれていないのだ。それなのにちゃんと生きているのである。これはもうそれだけで凄いことだとしか言いようがない。そこで朝から思わず叫びたくなるというわけである。そんな勢いで、私は朝からキャッキャと騒いでいる。それが1日のエネルギーになることは疑いない。そうしたことから、授業や講演でも朝からワクワクのこころ≠フ大事さを訴え続けている。朝のスタートがうまく始まると、自然に笑顔が生まれてくる。この笑顔が対人関係にとって大事なことは言うまでもない。しかし、それは人との関係がどうのこうのという前に、自分自身の体にとってプラスなのである。とりあえず笑っていれば心が落ち着く、気持ちもよくなる。それだけで幸せになるのである。だから、おかしくなくてもとにかく笑ってみることが大事だ≠ニ強調しているわけだ。これにはそれなりの根拠があるつもりだ。その発想の源はアメリカの哲学者・心理学者のウイリアム・ジェームスの提言にある。彼によると人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなる≠ニいう。おかしいから笑うのではなく、笑うからおかしい≠ニいうのである。ジェームスがこんな発言をしたときは、彼が奇をてらったことを言って目立とうとしているのではないかといった悪口もささやかれたようだ。
実践過重視(08/10/24 Fri-2057)
  私は、そもそも人間行動に関する普遍的原理≠ネんてあり得ないと考えている。そんなことを言うと、お前さん心理学をやってるんだろ。心理学は人間行動の科学だなんて言ってるじゃないか。よっぽど経済学にケチをつけたいんだろうけど、あんた自身がそんなこと言っていいのかい≠ネんて声が聞こえてくる。仰るとおり、まさに天を仰ぎて唾す≠サのものである。しかし、私はそれも承知で人間行動に関する普遍的原理なんてあり得ない≠ニ言っているのである。もちろん今の勢いだと、これから先のいつか大脳細胞の機能について、そのほとんどが解明される日がくるのだろう。そうなると人間行動≠フ原因について普遍的な原理≠ェ見つかるかもしれない。しかし、それはきわめてマクロな化学変化レベルの話になるだろう。いずれにしても、その日は私がこの世に存在している間にやって来ないことだけははっきりしている。そんなわけで私としては目の前の、あえて言えば目先の実践を大事にしたいと思いながら仕事をしている。わずか3人の職場で事故がなくなった。それを鬼の首を取ったように喜びたいのである。そこで見つけたノウハウが似たような集団にもうまく適用できたとすれば、それはそれで大喜びするのだ。それがさらに大きな組織にまで広げることができれば、もっともっと喜べばいい。しかし、まずは小さなことで成功し、満足することが大事だ。理論化できるかどうかなんて2の次である。ともあれ、ノーベル賞を受賞した人≠ェものすごい≠アとは言うまでもない。しかし、それは受賞しなかった人≠ェものすごくない≠アとを意味しない。受賞は大いに喜ぼう。それが刺激になって子どもたちの夢が広がるとすれば、これまたすばらしい。
経済学賞の疑問符(08/10/23 Thu-2056)
  同じ日本人の書いた源氏物語でも現代語訳はいろいろとある。そして、それぞれが翻訳者の個性をにじませている。それはそれでいいのだ。だから、そのような性質を持っている文学に世界共通の評価基準を当てはめようとすることが問題なのである。そんなわけで、私自身はノーベル賞の文学部門の存在意義については大いなる疑問を持っている。それは文学がつまらないというのではなく、国際比較などするようなものではないということである。ついでに言えば、経済学賞もいかがなものかと思う。あるいは平和賞もこれまたどうかなあ…。経済学賞については、受賞した2人の学者が絡んだ金融会社が破綻するという事件≠煖Nきている。受賞者はスタンフォード大学教授マイロン・ショールズ氏とハーバード大学教授ロバート・マートン氏である。宇宙や地球上の物質は、高度の数式で解析できるかもしれないが、どっこい人間様の行動はそううまくはいかないのである。そもそも、日本のバブル崩壊はもちろん、アメリカで大問題になっているサブプライムローンのズッコケなど、経済に関わる問題は深刻さを増すばかりだ。専門的なことはまったくわからないが、経済学はこうした問題を予測することや防止することについてもまるで無力だったのではないか。それどころか、まさかサブプライムローンの発想そのものが経済学的な分野から出たんではないでしょうねえ。そう言えば、これまた仰っている理屈はまったくわからないが、経済学で一世を風靡したケインズという人がいた。しかし、この人の名前も、最近ではまるで聞かなくなった。彼が世界の経済に与えた影響はものすごいものがあったようだけれど、それも時代とともにその価値や有効性は変わると言うことだろう。
翻訳いろいろ(08/10/22 Wed-2055)
  とにかく私が強調したいのは、翻訳された文学≠ナ原本を完全に理解することは不可能だという点である。優れた作品を心底から理解している人がすばらしい翻訳をする。それは十二分にあり得ることだ。そして多くの人がその翻訳書に感動することも、またすばらしい。この世の中に翻訳本がなければ、一般のわれわれはドストエフスキーの罪と罰≠窿Jミユの異邦人≠読むことができない。そうそう、セルバンテスのドン・キホーテ≠セって楽しめないのである。そんなことで翻訳の役割は大いに評価しなければならない。ただし、そのことと言葉≠フ深いところまで意味を理解することとは別の問題なのである。この点にこだわっていけば、それは外国文学だけの問題ではないことがわかる。同じ日本語≠ナあっても、その受け止め方の違いで、わが国の文学だって雰囲気が違ってくる。その典型的な例が源氏物語≠ナある。私が知っているだけでも、与謝野源氏に谷崎源氏、比較的新しいところでは瀬戸内源氏もある。谷崎源氏などは、私が学生時代に新新訳≠ネんてのが出ていたので、その第1巻は思わず手を出して買ってしまった。さすが文豪と言われる谷口さんである。素人は1ページ目を開いただけでも読むのをあきらめるような源氏物語を3回も訳そうというのだからものすごい。淡いピンク系の色が入った箱入りの格調高く装丁された本だった。10年前の引っ越しの際に処分していまは手元にない。ともあれ、いろいろな人が、そして同じ人物が翻訳を繰り返すのだから、それだけ内容が奥深いことは疑いない。しかし、それは同時に文学というものが、曲がりなりにも共通の文化的風土を思っている人間同士の間でも100%は通じないということでもある。
脳の経験(08/10/21 Tue-2054)
  ことば≠ヘ文字を読んだり、話を聞いたりするときに使われる。そこで私たちはことば≠目で見、耳で聞いて理解していると考える。しかし本当に見たり∞聞いたり≠キるのは目や耳ではない。目や耳は外界からの刺激を受け止める道具である。それは刺激の受容器≠ノ過ぎないのだ。だから目≠竍耳≠サのものがことば≠理解≠オているのではない。もちろんその主役は大脳である。われわれの大脳にはさまざまな情報が蓄積されている。それは刻々と入ってくる刺激を処理して、そのときどきに適切≠セと思われる反応を続けていく。もっとも適切≠セと思ったものが結果として不適切≠ナあることも少なくない。それが失敗する≠ニ言うことである。いずれにしても、ものごとの判断をするのが大脳であることははっきりしている。そしてその大脳はすべての人に固有のものであることは言うまでもない。この世の中の人の顔が違うように、声が違うように、はたまた同じ指紋の人間がいないように、大脳もみんな違っているのである。もちろん顔が違うと言っても、そこには基本的な共通性はある。目は少なくとも鼻の上にあるし、鼻が口の下にあるわけではない。そうした基本的な構造が同じである点では、大脳だって同じことである。しかし個々の大脳が育った環境∞経験してきた事実≠ヘすべて異なっている。それらが積み重なって人間の個性が生まれるのである。こうした事実を踏まえれば、同じことば≠ナあっても大脳によって∴痰、ように理解されるのは当然のことなのである。この話題は、ここから始まるところだ。しかし、これから先に行くとまた元に戻られなくなってしまう。そもそもはノーベル文学賞の話をしていたのだった。
ことば問題(08/10/20 Mon-2053)
  人と人の間で行われるコミュニケーション≠ェ100%共有化されないことをしっかり認識しておきたい。それは個として生きる生き物の宿命である。生物学的には全く同じである一卵性双生児だって、人生で体験することはそれぞれ違っている。たしかに、生まれて間もなくは、ほぼ完璧に同一の環境で育てられるかもしれない。しかし、成長するとともに、関わり合う環境は大いに違ってくる。とくに人間形成にとって重要な役割を果たす友人や教師をはじめとした大人たちに違いが出てくる。私が小学生のとき、同年の中に一卵性双生児の兄弟がいた。この二人はお互い別のクラスに所属していた。先生が間違えないようにとの措置だったのかどうかは知らないが、とにかくずっと別々だった。その結果、付き合う友人は違っていたわけである。その結果、2人の人に対する見方にも差が生まれてきて当然なのである。こうして遺伝的に見れば完全に同じ≠ナあっても、その個性には違いがうまれることになる。ましてや、われわれ人間はお互いに遺伝子が異なる者同士である。それぞれの人や物に対する見方や考え方が異なっていても何の不思議もない。そうした現象はことばに対しても起きると考えていい。まったく同じことばであっても、人によって受け止め方に違いが生まれる。例えば、日本人であれば犬≠ニいうことばを知らない人はいない。しかし、犬≠ニ聞いて頭に描く犬は一人ひとりで違っている。それは自分で飼っている犬かもしれない。あるいは、小学生のころに噛まれた怖い犬だという人もいるだろう。それとも子どものころに母親に読んでもらった絵本の中の可愛い犬をイメージする人だっていてもおかしくない。ことばは自分の歴史を無視してはあり得ない。
コラムの連載問題(08/10/19 Sun-2052)
  徹底して厳密で過激なことを言えば、そもそも人間のコミュニケーションがお互いに100%通じることはあり得ないのである。ただし、この話をはじめると止まらなくなる虞がある。コミュニケーション≠ヘ対人関係の基礎である。私としては、その対人関係について仕事をしているつもりだから、とにかく際限なくしゃべりそうなのである。そうなると、またまた1ヶ月くらいは続いてしまう可能性がある。それもまずいので、このテーマはときどき思い出して書いていくことにしよう。本コラムに最初のころからお付き合いいただいている方はお分かりと思うが、以前はテーマを頻繁に変えていた。同じテーマで連続すると読まれる方も退屈するだろう。その前に自分自身が飽きてしまう。そんな思いでいた。しかし、いつのころからか連載ものが増えていった。その理由の1つは、私の方が書き出すとブレーキがかからなくなったからである。もう1つは、かなり日が経ってから○日の続き≠ネどと書いても唐突な感じで、読まれる方もそこまで戻っていただかないと話が続かない≠ゥらだ。これではまずいと思った。この問題は連続することで解決できる。いまでもマニュアル問題≠ノついては、思い出したように書いて前回までバックしていただく方法をとっている。しかし、それはあくまで例外である。私としては、どちらがいいと決め込んでいるわけではない。これからもこの点では、どっちにしようかなあ≠ニ大いに揺れながら書いていくことになる。やれやれ、続けるの続けないの≠ニ言いながら、本日も規定(?)の720文字に達してしまいそうだ。そんなわけで、話の内容は少しも前進しなかった。そこは味な話の素≠ノ免じてご容赦をお願いするしかない。
ノーベル賞の基準(08/10/18 Sat-2051)
 ノーベル賞を獲得するためにも、けっこうな運動があったりするようだ。たしかに、何かを選ぶ際には、純粋で絶対的な秤なんてない方が多い。そんなことを考えると、受賞者が欧米に偏っていてはまずいから地域的なバランスも考えようかなんて力が働かないでもないのではないか。いやあ、自信がないとすごい悪文になりますなあ。ないでもないのではないか≠チて、結局は何を言いたいんでしょうねえ。私自身がきちんとしたデータを持っていないから、思いっきり推測しているわけです。それは下種の勘繰り∞邪推だよ≠ニ叱られるかもしれない。しかし、この手の判断には絶対的な基準はないと言えばないのではないか。また、ないと言えばないのではないか≠ナごまかしました。ともあれ、物理≠竍化学≠ノしてこれなのである。いわば文化系である文学賞に至っては、評価は曖昧模糊、絶対的な基準なんてあるはずもない。世界で一番読まれている≠フであれば、将来の受賞者は中国人やインド人で独占されるかもしれない。世界で初めて書いた≠フであれば、私の雑文だってそれに該当する。そもそも初めて≠ナなければ盗作じゃないですか。日本人にも文学賞の受賞者がいることはご同慶の至りではある。けっこうなことだ。しかし、日本語で書かれたものを本当に理解≠オている外国人の読者がどれだけいるのだろうか。言語は歴史の中で育まれてきた文化そのものである。そんな性質を持った言語を使って書いたものが翻訳されても、その本質は伝わりようがない。そもそも翻訳する過程で訳者の大脳が仲介している。翻訳者によって、そのできも印象も違って当然なのだ。それこそ翻訳≠ヘひるがえらせる≠フであって、本訳≠ナはあり得ない。
ノーベル賞の波紋(08/10/17 Fri-2050)
 ノーベル賞を一度に4人が取るなんて、歴史に残る快挙である。私が子どものころは湯川秀樹氏の1個だけ。どんなに偉そうなことを言っても、科学の分野では後進国という劣等感があった。それがあっという間に、ノーベル賞の受賞数だけなら世界第7位にランクインしたという。これまたけっこうなことである。ただ、私は生来のというか、父親ゆずりの天の邪鬼だから、けっこう毛だらけ猫灰だらけ≠ナはおさまらない。ちょっとばかり憎まれ口をたたきたくなる。今回の物理学賞については、イタリアで日本にノーベル賞を盗まれた≠ニ大騒ぎになっているようだ。もちろん、本当に大騒ぎかどうかは実際にイタリアに行っていないのでわからない。ともあれイタリアの物理学会だけでなく、イギリスの科学誌なども受賞が日本人だけに限定されたことを批判しているという。理由は単純で、イタリアの物理学者ニコラ・カビボ氏が小林・益川両氏の研究の基礎になる理論を10年前に提唱していたというわけだ。このあたりの評価については素人としては何とも言えない。ただ、ノーベルさんが物理学賞は3人だと決めていらっしゃるんだそうな。いずれにしても、この手の話はノーベル賞でもよくある話のようだ。私が子どものころでも、日本人の中に受賞してしかるべき人物がいたという主張はよく聞いてきた。たとえば北里柴三郎氏とか仁科芳雄氏などだ。ひょっとしたら長岡半太郎氏も入っていたかもしれない。まあ、具体的な人物名については私の記憶違いもあり得るが、選考結果にはけっこう文句が出るもののようだ。私のようなド素人が言っても迫力はないが、ノーベル賞だってそんなものなのである。そもそも受賞決定に至るまには相当な運動があると聞いたこともある。
マニュアル問題(28) 9月27日の続き(08/10/16 Thu-2049)
 コストダウンを徹底し、効率化をはならなければ、諸外国との競争にも勝てないという。そのこと自身は事実だろう。しかし、いわゆる成果主義≠ェ多くの問題を生み出していることも否めない。アメリカなどで行われている方法の一部だけを取り入れた、いわゆる和製∞成果主義≠ノなってはいないか。そもそも日本人が成果主義≠ニ無縁だったわけではない。たとえば、1970年代に常識≠ニなっていた小集団活動≠ナは、全員参画≠キーワードに、きわめて質の高い成果を挙げていたのである。それは日本は集団主義≠セというイメージが重なって、諸外国、とりわけアメリカからは、個人主義≠フ抹殺などと見られたこともあったと思う。アメリカのNBCがIf Japan can … Why can't We?≠ニいうドキュメンタリーを作ったのは1980年のことである。詳しい内容は知らないが、日本の小集団活動などにも注目したもののようだ。その中では、デミング氏が日本人に教えた統計手法を基礎にして生産管理がうまくいっていることも強調されている。そのデミング氏はアメリカ人だが、国内では十分な評価を受けていなかったらしい。もともとはアメリカ人の発想なのに、日本人がそれをうまく利用≠オて、いまでは製造業が自分たちアメリカを振り回している。そう考えると、なおさらイライラが募ったのではないか。アメリカの自動車労働者たちが日本車をハンマーでたたき壊している映像がニュースで流されたのもこの時代である。その一方で、わが国ではデミング賞なるものが設けられて、品質管理や生産性などで会社同士が切磋琢磨していた。こうした時代の流れの中で、誰もが、現実にモノをつくる¥W団の大事さを認識していたのである。
逃げ得はまずい(08/10/15 Wed-2048)
 とにかく奨学金の返還はちゃんとしてもらわないとまずい。もちろん、いまでも取り立てる努力はしているはずだが、これがうまくいっていないのである。その結果、未返済額が2006年度で600億円を超えてしまった。それにしても、人からお金を徴収するのは難しいものである。奨学金は法定利息を超える不法で怪しい金融ではない。それどころか、その時々の相場と比べれば利息はかなり低いはずだ。そして、奨学生は過去に間違いなく現金≠手にしているのである。NHKの受信料ならテレビがない≠ニかテレビを見ない≠ニいった理屈を言う人もいるだろう。国民年金にしても、今の社会保険庁の体たらくを見ていると払う気がしない≠ニか自分たちはもらえないんじゃないか≠ニ言って拒否する人間がいる可能性はある。しかし、奨学金は返す約束≠した上で、お金そのものを借りた≠フである。ともあれ、取り立てる努力をしても未返済が巨額なのであれば、現在のシステムに問題があることは明らかである。赤提灯などでサラリーマンたちが一杯を楽しんでいる。少しばかり気分がよくなってきて、学生時代の思い出話にも花が咲く。そう言えば、俺は学生のときは入学してときから奨学金をもらったわけよ。もちろん卒業してからは返還の催促がくるんだけど、とにかく逃げまくって返していないもんね。あと2年くらいすれば時効じゃないかなあ∞えーっ、そんなのってありかよ。俺ってまじめに返しちゃったぜ∞お前なんて、昔からまじめだからなあ。俺が知ってる連中なんて、大抵が返してないぜ=Bこんなネタが酒のつまみ話にされてはまずいのである。このまま行くとどうなるか。経済的にサポートが必要な学生たちにお金が回らなくなるのである。
どうすりゃいいのよ…(08/10/14 Tue-2047)
 奨学金の取り立てに個人番号℃gうのには反対意見も多いことだろう。しかし、いま話題の尽きない年金については、少なくともすべての成人に番号が振られている。奨学金についても、これを使うことも考えられる。それなら新たに番号を付けることから生じる問題は、相対的に小さくなる。それでも目的外使用≠セから断固として反対だという意見もあるだろう。とにかく、この世の中はすべての人がYes≠ニいう解決策はあり得ない。それが一人ひとり個性を持った人間が集まった世界の特性なのである。しかし、それならどうすれば奨学金の条件を改善しながら、返還率を限りなく100%にすることができるか。その辺りについて、いいアイディアを出していただきたいなと思う。借りたものは返す≠ニいう基本的な常識を植え付け、それに伴う行動力を育てることも1つの方法だろう。これには家庭も含めた教育の役割が大きい。現に大人になっているわれわれに対する教育も必要だ。ただし、いまからそうした試みを始めるとしても、常識として定着するためには時間がかかる。そのうちに日本国そのものがなくなっているかもしれませんよね。いやいや、そうした社会全体の画一的な運動によって個々人の行動を強制するのは問題だ。そもそも心の問題にまで社会が介入してはいけない。とまあ、こんな反対意見が出たりして…。そんならどうすりゃあいいのよ、思ー案橋…≠ニなってしまうではないですか。どうすりゃあいいのよ、思ー案橋≠チてなんなのよですって! いやいや失礼しました。つい興奮して、自分の世代にしか理解できない表現をしてしまいました。これって、ハスキーボイスで一世を風靡した青江美奈の長崎ブルース≠ノ出てくる歌詞の一部なんです。
奨学金の未返還問題(08/10/13 Mon-2046)
 個人番号まで振って奨学金の返済を追求するというのはやり過ぎなのか。それも、会社などにまで源泉徴収の義務を負わせるなんて…。まあ、こんな議論になるのだろう。しかし、そんな強制的な手立ても自発的に返済する人には何の関わりもないことである。いま大きな問題になっているのは、借りた金を返さずに逃げまくる人間がいるからである。日本学生支援機構によれば、2006年度中に返す必要のある額が2855億円あって、そのうち614億円が未返還だという。延滞している者が28万人もいるのである。まじめにこつこつ返している人たちがいる一方で時効≠ねらっている輩がいるのだ。もちろん、経済的な事情から返還が難しいというにと人たちもいるに違いない。そんな場合には、返還免除や一時停止の手続きだって準備されている。とにもかくにも借りたものは返す≠ニいうのは基本的な常識ではないか。それが実践できないモラルに欠ける人間がいるのである。それが614億円、28万人という具体的な数値となって目に見えている。機構としても取り立てる努力はしていると思う。ただ、ホームページで見る限りは外部委託による電話催促と督促状の送付で終わっている。おそらく督促状などは表を見ただけでゴミ箱にポイ捨てされている可能性がきわめて強い。今後は法的措置を強化すると書かれており、2006年度は10498人がその対象になったという。ただし、その結果どのくらい取り立てがうまくいったのかは明らかにされていない。そうこうしているうちに、時効で逃げ得≠フ連中がわんさか出てくる。ともあれ、こんなに多額の未返還額があるのだから、現在の返還対策に問題があることは明らかである。一般の金融機関であれば、とうの昔に潰れている。
教育の格差(08/10/12 Sun-2045)
 生まれた家庭の環境によって、子どもが影響を受けることは言うまでもない。だから、子どもの教育では経済的影響を小さくする手だてが必要だと思う。裕福な家庭の子は思いっきりいい教育が受けられる。その一方で経済的に厳しい環境にある子どもは勉強したくてもできない。これではまずいのではないか。子どもは自分が生まれる家庭の経済状況を選べない。いわゆる一流大学の学生たちが収入の多い家庭出身だということが事実であれば、もろに経済的な影響が出ていることになる。こうした格差が、さらに社会全体を格差社会にしていくのである。私たちが学生だったころよりは、奨学金もかなり改善されている。しかし、それでもまだ十分とはいえないし、保護者の収入などによってかなり制限がある。このコラムで、奨学金は十分な金額≠誰にでも出す≠アとを提唱したことがある。もういつ書いたのか記憶にないほど昔のことである。誰にでも≠ニいっても、本人が希望すればの話である。その代わり、希望さえあれば超大企業の経営者の子どもにも出す。これを大原則にするのである。そうした環境に恵まれた人の中にも、親の世話になりたくない≠ニ踏ん張っている若者がいることを私は知っている。ただし、これには条件がある。卒業後に個々人をフォローできるシステムもしっかり作っておいて、徹底して返還させることである。あえて言えば、就職した場合などは給与から源泉して返還する義務を個人だけでなく組織にも負わせるのである。これがうまくいくためには、受給者に登録番号を付ける方法なども必要になるだろう。個人に番号を付ける≠ニ言った瞬間に、この案は葬り去られるかもしれない。それこそ国民総背番号制≠連想させるからだ。
成長の投資(08/10/11 Sat-2044)
 ノーベル物理学賞の対象になったのはいわゆる理論的な基礎研究の成果ということだ。理科離れが深刻な問題になっていると言われて久しい。バブルの時期などは工学部の卒業生まで金融系の会社に入るなど、これでいいのかと話題になったこともある。とにかく、目先のゼニカネ取得≠ェ最高の目標だと考える人間が増えてきた。そんな風潮の中で、猫も杓子もすぐに効果があるものだけに投資する。これはなんとしてもまずいに決まってる。短期的に目に見える効果がないこともあって、教育予算はいの一番にカットされる。教育に出し渋りなんかしていると、それこそ30年後には惨憺たる状況に陥っているに違いない。教育投資については、企業などでも似たような傾向が見られる。景気が悪くなると、まずは教育研修の予算がカットされる。背に腹は代えられない。まずは作るものは作って稼がないと、組織がなくなってしまう。その点では、教育投資が縮小されるのは、少なくとも短期的には致し方ないところもある。しかし、教育なくしては人の成長はないことを、いつも忘れないでほしいと思う。こうした中で、最近は成果主義とリストラの嵐が吹きまくっていたころの反省が生まれてきたような感じがしていた。教育や研修に関する話題をあちこちで聞くようになったからである。もっとも、せっかくのそうした流れも、アメリカ発の大嵐で、今後しばらくは止まってしまうかもしれない。いずれにしても、個人だろうと組織だろうと、いつも変化≠キーワードにして成長していきたいものだ。そのためには、長期的な展望を持って教育投資を進めていくことが何よりも大切なのである。諸外国から教育にお金をかけない国≠ニ言われるようになってはおしまいですよね。
教育投資(08/10/10 Fri-2043)
 明治政府が義務教育を導入するに当たってどのくらいの金をかけたのかは知らない。しかしそれが膨大なものだたことは容易に推測できる。それでも当時の為政者は貴重な金を教育のために使ったのである。これとは対照的に、今では日本は教育に金をかけない国になってしまった。統計の取り方など考慮すべきことはあるが、GDP比で見ればわが国の教育投資はOECD加盟国の平均水準を下回っているのである。また機会均等の点からは、親の経済的な力に厳然たる差があり、それが教育にも影響してくる。とくに最近はその格差が拡大し、いわゆる一流大学に入学する学生の保護者は相対的に高収入だという。スタート時点から経済的条件が違っていて、大学のころには親の収入差が効いてくるわけだ。もちろん、親の収入の多寡には様々な理由があるだろう。今風に言えば、努力したから高収入なのだ≠ニ主張する人がいるかもしれない。しかし、世の中を見ていると本当にそうかなあと疑問も湧いてくる。まじめに働いていても、それに見合った報酬を手にしていない人がたくさんいるのではないか。その一方で、まともに働きもしないのに、人がうらやむ生活をしている人間だっていくらでもいそうだ。まあ、この辺りはあまり言い過ぎるとまずいかもしれない。講義や研究など、あなたの仕事とを見ていると自分で楽しんでるんじゃないの。それで給料をもらってるんだからうらやましい限りですよ…=Bそんな声がどこからともなく聞こえてきそうだ。まあ、あれやこれや書いているうちに、4人もの日本人がノーベル賞にノミネートされた。さすがに一挙4人というのは驚きに近い。この上なくけっこうなことだが、評価された研究そのものは20年とか30年前のものらしい。
メダル物語のおしまい(08/10/09 Thu-2042)
 明治の学制導入について考えている最中だが、とりあえず人口別金メダル獲得数のネタに戻ることにする。とにかく先月から始めたシリーズが完結していないのである。日本の次は中国だった。ご承知のとおり、北京オリンピックにおける金メダル獲得数はダントツの51個だった。2位のアメリカが36個だったから、その突出ぶりがわかる。しかし、この国はとにかく人が多い。今回のテーマを取り上げるに当たっては、データは国連の2006年度版人口推計をもとにしたが、それによると 1,328,630,000 人である。周知の事実とはいえ、13億は半端ではない。世界全体の人口が67億というから、ほぼ20%が中国人ということになる。なんと5人に一人である。これは凄まじい。もっとも、インドもすでに10億を超えていて、いずれ中国を追い越すという予測があるそうだ。まさに人口爆発である。そんなわけで中国も人口別金メダル獲得数になると、1000万人あたりは0.4で、日本に続く第12位だった。金メダル獲得ベスト10のうち、フランス・ウクライナ・オランダの3国が7個で10位として並んでいた。そのため、12カ国で人口別指数を計算した。これ以外にも、人口が少ない国で指数的には上位に入ってくる国もあり得る。そこは厳密な統計ではなく味な話の素≠フネタなので、これでOKとしましょう。最後に、もう一度順位を確認して、粘着質的に続いてきたこのシリーズをおしまいにしたい。皆様、長々とお付き合いいただきましてありがとうございました。@オーストラリア(指数6.7)Aオランダ(4.3)Bイギリス(3.1)C韓国(2.7)Dドイツ(1.9)Eロシア(1.6)Fウクライナ(1.5)Gイタリア(1.4)Hアメリカ(1.2)Iフランス(1.1)J日本(0,7)K中国(0.4)。
気になる官僚制(08/10/08 Wed-2041)
 このごろ官僚の問題が話題になっている。しかし、これが問題視されたのはもう大昔からのことである。その問題点を指摘した最初の人はマックス・ウエーバーだと言われている。彼には官僚制≠ニいう本がある。ウエーバーが活躍したのは1900年代の初頭である。すでに官僚制の問題が明らかにされてから100年以上経過しているわけだ。私の恩師三隅二不二先生も組織論の立場から官僚制≠フ問題点を指摘されていた。それは1970年代のことである。とにかく官僚制が問題だという話題は取り立てて新しいテーマではないのである。しかし、とにかくその制度の主役である官僚たちに政治が牛耳られているという。新しい首相も、官僚を使いこなすこと≠強調した。それはとりもなおさず、政治家が使われている℃鮪タを認めたことでもある。どんな制度も時代とともに出現し、存在し、場合によっては消滅していく。したがって、官僚制を求められていた時代があったことは言うまでもない。民力というか、一般市民の力が必ずしも十分でない時代、たとえば明治のころは、エリートが国を引っ張ることが絶対条件だった。明治維新の立役者たちはそうした制度を一気に整備した。そのおかげでわが国はアジアの中ではとにもかくにも独立を維持できた数少ない国の1つになった。学校制度にしても強引に導入されたと言っていい。多くの大衆にとって、当時の子どもたちは働き手だった。その貴重な労働力を学校という箱の中に閉じこめられては家業も成り立たなくなる。そんな理由から、ほとんどの国民が義務教育に反対したはずである。しかしそれを断固強行した結果として、その後のわが国の発展が実現されたのである。それは、すぐには効果が見えない決断だった。
組織の硬直化(08/10/07 Tue-2040)
 先行きまともに払われるかどうかわからない年金に対して若者たちが不安を覚えるのは当然である。若者どころか、中年期の人たちですら年金についてあきらめ気分の人が多い。こんな状況だから、とくに若い人たちに国民年金を納付する気持ちが高まるわけがない。それを若者たちのせいにしてはお話にならない。うまくいかないのは制度そのものに問題があるからだ。そもそも国の制度が信頼されなくなったら、もうその国はおしまいである。それにしても、ことがここに至るまで、だれもこうした問題に気づかなかったのか。いやいやそんなことはないはずだ。ただ、周りがみんなそうしているから、私だっていい加減に手を抜いておこう≠ネんて気分になった職員がいたことは大いに考えられる。また、それに気づいてもいちいち指摘していたら面倒くさい≠ニ逃げていた管理者がわんさかいたに違いない。それが組織全体の気分を作り上げ、手を抜くこと、お互いに指摘しあわないことが集団の規範になる。そうなると、ときに正義感の強い人間が現れても組織は変わらない。そんな常識をわきまえない輩≠ヘ敬遠される。その結果として人事的にも不利な扱いを受ける。左遷されることもあるだろう。そうしたパターンが定着して、これまた組織の常識になる。少しばかりおかしなことをしてもばれなきゃあいい≠フである。そして無事に定年を迎えて退職金をいただき、それこそ年金を満額ちょうだいすれば人生はバラ色というわけである。あとは野となれ山となれ。おかしなことの後始末は現役世代が何とかしてくれるだろう。こうなると自浄作用などは期待できなくなってくる。このところマスコミを賑わせている政権交代がこうした官庁組織の硬直化を阻止できるかどうか。
第11位の国(08/10/06 Mon-2039)
 人口別金メダル獲得数リストにいよいよ日本が登場する。フランスに続く第11位である。残念ながらベストテン入りはかなわなかった。人口1億2900万人に対して金メダル9個、1000万人あたりの指数は 0.7 である。この国の現状は多くの方がご存知なので、いまさらとくに追加する情報はない。ただこの国の外に住んでいる方々には、悪性の病魔に冒された重症患者に見えるだろう。これまで表に出ていなかった問題が白日の下にさらされ、その膿があっちこっちで吹き出している。今でもこの国には外国の公務員のレベルが低いと笑う人がいる。たしかに税関職員や警官がまともに仕事をせず、袖の下を堂々と要求する国もあるらしい。その点、わが国ではその辺りの状況が深刻だというわけではない。しかし、社会保険庁の年金問題だけでも目を覆いたくなる悲惨な状況の続出だ。そもそもデータ改ざんなどはあってはならない≠フが大前提である。それがいとも簡単に壊れてしまっている。内容のレベルから言えば、あれはもう犯罪の水準に達している。こうした一連の状況を見た外国の人たちは笑うに違いない。日本とはなんとアホな国かいな≠ニ…。年金に関しては、これからもさらに泥沼にはまりこんでいくに違いない。データの確認と再生を図ろうとすればするほどボロが出てくる。そう言えば、半年くらいですべてのデータをチェックして国民に迷惑をかけない≠ニ叫んでいた人がいた。しかし、それも今はむなしい。湧きだしてくる問題に対応するためにさら国のお金が使われる。そうした無惨な状態を目の当たりにして年金の納付率は下がる一方である。とくに若者たちの年金離れがひどいという。しかし、少なくともその気持ちだけなら十分すぎるほどわかる。
フランスと熊本(08/10/05 Sun-2038)
 さてさて連邦≠フ議論は置いといて、人口別金メダル獲得数の話題の戻ろう。アメリカに続く第10位はフランスになった。メダルは7個だが人口は6100万人程度で、1000万人あたりの指数は 1.1 になる。フランスといえば、これまたネタには事欠かない。そこで熊本ならではのとっておきの話題を1つだけ挙げておこう。藤田嗣治の名前をご存じの方はけっこういらっしゃると思う。フランスでは日本人画家としては最も有名な人物のようだ。最終的にはフランスに帰化している。芸術にはまるで縁のない私ですらその名前だけは知っているのだから、相当な有名人だ。その藤田氏だが、じつは熊本大学教育学部附属小学校に入学している。当時は熊本師範附属小学校である。父親が軍医として熊本で仕事をしていた関係で附属に入学したわけだ。その後は東京高等師範の附属に転入したようだが、ともあれ熊本にもかなりの縁がある人なのである。いかがでしょうか。へーっ≠ニ思っていただけただろうか。こんなとにきそれがどうした?≠ネんてしらける質問をしてはいけない。もちろん私にとっては、ただそれだけのことではありますが…。そういえば、クリームシチュウなる二人組が頻繁にテレビに出ている。このうち、有田哲平氏は附属中学校の出身なんだそうな。もう、それがどうした≠ネんて質問はされませんよね。もちろん、これまたただそれだけのこと≠ナすからね。やれやれフランスの話が脱線しまくりになった。東京タワーが建ったとき、世界一の高さをエッフェル塔から奪った。その際に、フランス人は東京にもエッフェル塔ができた≠ニ負け惜しみを言ったという。しかし、たしかに見た感じはかなり似ていて、そう言われても仕方がないところがあった。
連合王国(08/10/04 Sat-2037)
 連邦≠フ邦≠ヘくに≠フことである。それがいくつか集まって国を形成するから連邦≠ニいう。じつに単純明快、国≠フ連合ということだ。したがって、私たちにも言葉としては理解できる。しかし、現実のイメージとしてはどうもはっきりしないのである。もっとも、邦≠ニいうのが日本語では地方あるいは州≠ニいうニュアンスも強い。だから、アメリカでも金融を取り仕切る FRB はニュースでもよく聞くが、あれはFederal Reserve Bank で連邦準備銀行≠ナある。アンタッチャブルの FBIは Federal Bureau of Investigation の頭文字だから連邦捜査局≠ニいうことだ。州≠ニいう邦≠超えて捜査するのである。その点では地方自治体が1つの国のような独立性を持っていることが大きな特徴だと言うことだろう。いま話題になりつつある道州制≠ヘその方向を向いた発想である。もちろん、いくつかの異なる民族国家が一緒になるのも連邦≠ナある。たとえば日本が韓国や北朝鮮、あるいは中国と連合して1つの国になるといったことになる。ここまでくると、われわれには実感が湧かなくなってしまう。ともあれ、世界を見渡せば連邦≠ニ呼ばれる国はけっこうある。われわれはイギリスなんていているが、正式な名称はUnited Kingdom≠ネのだ。だから私たちが出張する際の正式文書には連合王国≠ニ書くのである。スコットランドやウエールズ、北アイルランドなどが独立しているということらしい。7月には学会でドイツに出かけたが、このときもドイツ連邦共和国≠ニ書いた文書を提出した。こうなると、あっちもこっちも連邦≠ナはないか。このところ目立っているドバイがあるのもアラブ首長国連邦≠ナある。
天下統一(08/10/03 Fri-2036)
 アメリカは合衆国、United States である。基本が States で、それらが集まってひとつの国を作っているのである。したがって個々の州がかなりの独立性を持っている。よく知られているように結婚や飲酒が可能になる年齢なども州によって違うのである。これに対して日本はとにかく中央集権で全体を統一してきた。歴史的には豊臣秀吉が天下を統一したことになっている。それを受け継いだ徳川幕府は中央政府だと言えるだろう。しかし、昔は藩札があったりして、地方の独自性もけっこうあったのではないか。それはそうだろう。いくら中央でコントロールしようと思っても、今のように交通・通信手段が未発達では、指示や命令を出しても、そううまくはいかなかったに違いない。これが明治になると相当に徹底してくる。何と言っても、通信や交通手段が次第に整備されていった。鉄道の敷設や郵便制度の確立などはその典型例である。その中でも最も強力だったのは軍隊や警察力の整備だろう。とにかく武力は絶大なる力を持っている。人を黙らせる効果は抜群である。問答無用といわれたらおしまいなのだ。お隣の国を伝える映像に、兵隊が足を直角に上げて行進する様子が繰り返し流される。あれだって相当な威圧感を与える。まあ、いろいろな変革を導入することによって、わが国は東アジアの中で無視できない力を持つ国になった。とにかく全国一律が大原則である。教科書も国定だった。国語読本では全員がサイタサイタ サクラガ サイタ≠読んだ。これは初めて色刷りの教科書だったらしい。こうしてわが国は、あくまで1個の国として統一されていったのである。だから、アメリカの United States はまだしも、われわれには連邦≠フイメージがわきにくい。
まだ終わらない…(08/10/02 Thu-2035)
 私はかなり粘着質なところがあります。ですから私がストーカーになると、それはもうあの裁判官どころではなくなるでしょう。でもご心配いりません。私はストーカーにはなりません。なぜなら家内ととてもうまくいっていますから。その粘着質のエネルギーはホームページ作りに向いているのです。じつは私の「味な話の素」ですが、これを毎日更新しています…=B私は講演などで、こんなネタ話をしている。いやあ我ながら本当に粘着質だなあと思う。あるテーマで書き始めるとこれでもかと言うほどしつこくなる。たとえば、北京オリンピックの人口別金メダル獲得数の話題。これを取り上げた最初は9月3日だった。それから、いつものように他の話題に飛んだりはしたが、今日に至ってもまだ終わっていない。気がついたらもう10月なのである。さすがに食傷気味の方がいらっしゃるに違いない。この話題はできるだけ早めに区切りを付けたいものだ。とまあ、こんなことを書いているから、今日だって1日720文字という割り当ての2/3は終わってしまった。やれやれ、閑話休題。イタリアに続く人口別金メダル獲得数第9位はアメリカだった。人口は3億人を超えている。私が子どものころは日本の倍くらいの2億人を超える程度だったと思う。それが3億以上になっていた。建国そのものが移民によっているから、その後もその流れを受け継いで、多くの国から人が移動してくる。その中には不法な事例も少なくないようだ。これが国の中では大きな政治問題になっている。人口構成を見ると白人が66.9%、ヒスパニック14.4%、アフリカ系黒人が12.3%、そしてアジア系が4.2%である(NHK高校講座)。こうした中で、英語が話せない人たちもかなりの数にのぼるという。
イタリアが笑う?(08/10/01 Wed-2034)
 人口別金メダル獲得数でウクライナに続く第8位はイタリアだった。人口が5900万人ほどで、わが国の半分くらいだがメダルの数は8個である。この国がどの分野で金メダルを取ったのか知らないが、とにかくベストテン入りを果たしているのだから立派なものだ。こうしてみると、いわゆるヨーロッパのオランダ、イギリス、ドイツが上位に上がっている。あとはフランスが気になるところだが、先に言ってしまうと第10位に位置づけている。その理由はわからないが、やはりヨーロッパはしっかりしているということか。それはともあれ、イタリアといえばずっと以前から経済的に大きな問題を抱えていると言われていた。いまでも決していい状況ではなさそうだが、日本がそれを笑っておられるような立場ではなくなってしまった。このごろは日本の財政の方がはるかにひどい状況になっているからである。とにかくわが国では借金が800兆円に達しようとしているのだ。これこそまさに天文学的数値だという他はない。国も個人の健康と同じで、節制がなかなかできない。暴飲暴食はいけませんよ。運動をして下さいね。こんな指導や忠告を受けてもどこ吹く風。飲みまくり食いまくる。そしてその挙げ句の果てが体をこわして強制入院と相成るわけである。それで何とか健康を取り戻せばいいのだが、現実はそう甘くはない。最悪の場合には取り返しのつかないことになってしまう。ことここに至って後悔しても手遅れというものだ。わが国は間違いなくこうした状態に向かって突っ走っているとしか思えない。またぞろ積極財政≠ネんて掛け声が聞こえてきはじめた。経済状態さえよくなれば借金なんて一瞬にして吹っ飛ぶという理屈である。素人ながら、どう見ても危ないなあ。