No.64 2008年08月号(1973-2003)
| 8月29日(金)夕刻から31日(日)にかけて、コンピュータのメンテナンスのためアクセスできませんでした。せっかくご訪問いただきました皆様にはお詫び申し上げます。 |
井戸端会議 (08/08/31 土-2003)
アメリカ人は冷水器の周りでおしゃべりをするようだが、わが国では井戸端会議≠ヘ死語と化した。なにせ井戸がなくなったからである。もともと井戸端会議は主婦が主役だった。水道なんて気の利いたものがなかったころは生活用水は井戸に頼っていた。それも各戸に備わっていないから、ご近所の共有である。そこで、主婦たちが洗い物や洗濯のために集まってくる。洗濯だって、それこそたらいに水を汲んで洗濯板でゴシゴシやるのである。その労力たるや大変なものだ。もちろん時間もかかる。そんな仕事をしながらご近所の人たちと情報交換をしたのである。こんなときは人のうわさ話などで話も弾む。このほか男女を問わず、銭湯などもコミュニケーションの広場になった。床屋さんも同じような役割を果たしていた。風呂にしてった、仕事をしているわけではないからいろんな話ができる。人が体を洗っているときに声をかけると邪魔になるということもないのである。床屋さんもしっかり腕を動かしていれば仕事はドンドン捗るわけだ。なにせ、頭の回りを右に行ったり左に行ったりするのだから、自然と話は進む。銭湯や床屋は庶民の社交場だったのである。そうした雰囲気を活写しているのが、式亭三馬の浮世風呂≠竍浮き世床≠ナある。落語でお馴染みの熊さん八つあん≠フ世界である。そんな時代はしっかりコミュニティが見えていた。それから長い時間が経過した。床屋さんはまだあるが、銭湯はほとんどなくなった。床屋さんにしても、20分とか30分であっという間にカットするお店が増えてきた。現代人はとにかく忙しい。こうなると、客はまるでベルトコンベアに乗せられたようなものだ。その代わりに料金もかなりお安いから文句なしというわけか。 |
at the water cooler (08/08/30 土-2002)
英語にat the water cooler という言い回しがある。water cooler は冷水器のことである。日本でも人が集まるところに置いてある。食堂では、お茶のサーバーと並んでいることが多い。あれはアルミ製というのだろうか、どちらかといえばグレーっぽいものが多い。その周りに水滴がついていたりする。これが冷たさそうな感じを演出している。あるいは、これまたプラスティック製と言っていいのだろうか、けっこうゴッツイ立方体のものもある。こちらの方は、冷たいよーっ≠ニいうよりもいっぱい入ってるよーっ≠ニ主張しているような感じがする。いずれも蛇口が付いていて水を注ぐ。海外の学会などに行くと、これまたどう表現したらいいのか、とにかく透明で中の水が見える容器がドーンと置いてあることが多い。日本でもあるに違いないし、また実際に見たことがあるはずである。ただあまり意識していないので、海外でしか見ないような気がしている。ところで、at
the water cooler≠ヘ日本語の井戸端会議≠ノ当たる表現である(NHK 実践ビジネス英語6月号)。会社などでもみんなが集まるところに置いてあるから、そこに集まって会話が弾むというわけだ。もちろん仕事の話もあるだろうが、人のうわさ話なども飛び交う。人が集まると、ついついそんな話題が多くなる。その点では洋の東西を問わないようだ。そして、ついつい時間を忘れて仕事場に戻るのが遅れたりして…。このごろは職場でたばこが吸いにくくなった。そこで、愛煙家は喫煙所に集まることになる。羽田では降りてからロビーに出る間際のところに喫煙ルームが見える。モクモクと立ち上がる煙の中で、モクモクと吸い続けている姿が見える。あまり会話が進んでいる感じではない。 |
雨漏りの家(08/08/29 金-2001)
私が生まれた福岡県吉井町の自宅やその近くにあった製材所は久大線の沿線にあった。久大線は久留米と大分を結ぶローカル線である。私が子どものころは蒸気機関車が走っていた。煙を吐いて疾走するシュッシュポッポ≠ノ子どもたちは歓喜した。毎年だったかどうか記憶がはっきりしないが、母の里帰りの際はこの久大線に乗った。そして汽車で吉井を通過するたびに、道雄はここで生まれたのよ≠ニ教えられた。柿の木があったような、なかったような、そんなかすかな記憶もある。もちろん、いまではそれがどこに当たるのか見当もつかない。母が47歳という年齢であの世に逝った後、父と二人で母の故郷付近を回った。会葬のお礼に出かけたのである。吉井を訪れたときには、昔の家があったところにも行った。そしてここにお前が生まれた家があった≠ニ教えられた。しかし、それもいまは記憶にない。母がこの世にいなくなって、もう35年もの歳月が流れた。父は八幡から行橋に転勤した。そこで私は小学校に入学する。行橋でも最初は間借りに近い家に住んでいた。雨が降ると天井からポタリポタリと水滴が落ちてきた。雨漏りしたのである。水滴の落下地点に洗面器を置いた。放っておけば畳が濡れてしまうからである。私の父は公務員だったから、一応の生活はできる収入はあったと推測する。それでも雨漏りのする借家に住んでいたのである。そんな時代だった。それからしばらくして、雨漏りのしないところに引っ越した。味噌や醤油を醸造している古い商店の一角に部屋がつくられていた。それまでとは比較にならないほど新しかった。ただし、味噌や醤油の倉庫の一部だったのか、いつもその臭いがしていた。先日、この近くを通ったら更地になっていた。 |
孫と2000回目(08/08/28 木-2000)
味な話の素≠ェ2000回になった。20003年4月29日にスタートして、とにかく書き続けてきた。つい調子に乗って1日に2つのテーマで書いたこともある。そんなわけで、日数としては1949日なのだけれど、一足早く大台に乗ったということである。しかも、偶然ながら、本日はもう一つ大いにめでたいことと重なった。それはわが孫が2歳の誕生日を迎えたからだ。いやはや、目に入れはじめてから≠烽、2年が経過したのである。おかげで、私の視力はかなり低下してきた。しかし、あれだけ目に入れて≠「れば、それも仕方がない。それにしても楽しい限りである。新しい命を見ていると、ついつい少しは長生きしなくっちゃあ≠ニいう気分になるから大したものだ。2ヶ月ほど前、わが家で昔のアルバムを見ることがあった。その中に息子が小さいころの写真があった。その顔や表情が孫と瓜二つなのてある。さすがに親子だなあと改めて感動した。そこで、孫に○○君はどれ?≠ニ聞いてみた。すると、われわれの意見がそっくりだ≠ニ一致した写真を指さしたのである。周りから歓声が上がったのはいうまでもない。たまたまその中に、私が息子を抱っこしている写真もあった、母親がおじいちゃんはどれ?≠ニ声をかけた。ページを見回した孫は、写真の中の私を指さしたのである! さらに歓声が沸き起こったことはいうまでもない。もちろん、最も喜んだのはおじいちゃんの私だった。それがどうした≠ニ問われれば、ただそれだけのことである。しかし、そんなささやかな喜びが人生を豊かにするんだと思う。小さなことで喜べること=Bそれが大きな幸せに繋がるのだ。とにもかくにも2000回、今度は3000回を目指して、せっせと書き続けて行きますよ。 |
生まれたときの記憶(08/08/27 水-1999)
さてさて、私が産婆さんに取り上げられたことは間違いない。世の中には、自分が生まれてきた瞬間を憶えているという人がいる。さすがにそんなことはあり得ないと思えるが、それを完全に否定する証拠もない。私だって子どものころに、そんな記憶があるような気持ちになったことがある。それは、お前はお母さんのお腹の中から生まれてきたんだぞーっ≠ニ言われてからイメージしたのだろうと思う。大脳の中を探しても、どこにどのような形で個々の記憶が納められているのかは見えない。記憶のメカニズムそのものが十分には解明されていいのである。いずれにしても、事実の記憶≠ニ信じていることが、自分でイメージした映像である可能性はいくらでもある。それは自分がこの世に出てきたときのものだけではない。いまや大脳に関する研究は猛スピードで進んでいる。いつか、そのメカニズムが明らかにされるときが来るのだろう。しかし、そうなったとき、われわれは幸せなのだろうか。人の記憶のコントロールにまで繋がるようで、空恐ろしい気がする。ともあれ、私の記憶の中で幻想ではなくて確実なものもある。私が生まれたときに住んでいた家の近くには製材所があったはずだ。おそらく吉井製材所≠ニいったのではないか。そのことは、父や母から繰り返し聞いた。製材所と言えば、小学校に上がってからの思い出だが、伊万里時代の通学路に製材所があった。大きな丸いノコが回転している。そこに向けて丸いままの木材が押しつけられる。ノコはキーンという金属音を立てながら木とぶつかり合う。すると木くずを飛び散らかしながら、丸太は1/2になる。さらにそれを通して薄い板ができていく。その木くずの臭いまでが、いまも鼻のあたりの記憶に残っている。 |
自宅の臨終(08/08/26 火-1998)
産婆さんは妊婦の家に出かけて来て出産を助けた。助けたというよりもリードしたというべきだろう。そして、母親や赤ん坊の世話をしたのである。私自身はずいぶん後になって助産婦ということばを知った。私たちが子どものころ産婆さんと呼んでいた職業が助産婦という名称になったのである。そのころの統計は知らないが、人は死ぬときも自宅が多かったのではないか。映画の中に出てくる臨終の場面も、たいていは自宅だった。広間に身内のものが集まり、その中で病に倒れた老人と最後の言葉を交わす。そして、ときがくると静かに目をつぶるのである。その場にお医者さんもいて、ご臨終です≠ニ伝える。それがいつの間にか人は病院で亡くなるようになった。設備をはじめいろいろなことを考えると、その方が合理的なのである。お医者さんだって、いちいち個別に訪問して臨終の確認をする余裕はない。ただこのごろは、在宅ケア≠ニいう考え方も浸透してきた。私はことばを知っているだけで、詳しいことはわからない。しかし、自宅で療養する方が気持ちが落ち着くに違いない。私も、あまり遠くない時期に病気で倒れる可能性が十分にある。そんなとき、事情が許すのであれば自宅で過ごすことができればいいとは思う。まあ、現実はそううまくはいかないだろう。私の父も体調がすぐれない状態で診察を受けて、そのまま入院した。内実はかなり状態が悪くなっていたこともあり、自宅には帰らないまま、3ヶ月後に亡くなった。その間、はっきり家に帰りたいなあ≠ニ言ったことが何回かあった。体調がよくなったように見えたとき、1回だけそのチャンスがあるように思えた。お医者さんの許可もいただいていたのだが、その日になって調子が悪くなってしまった。 |
産婆さんの時代(08/08/25 月-1997)
私もけっこうな年になってきた。子どものころ読んだ本に君たちは21世紀を体験できるんだ≠ニ書かれていた。そのときはバラ色の素晴らしい世界ができあがっている。そんな気分になったものだ。それから数十年、たしかに21世紀を迎えることはできたが、現実は夢のようには進んでいない。20世紀も終盤にかかろうとする少し前、今度は21世紀は日本の世紀≠ネどとおだてられもした。われわれ日本人もそのお囃子にけっこう乗った。しかし、それも儚い夢だったのか。へたをすると21世紀は日本崩壊の世紀≠ノもなりかねない。そんな危うい状況が続いている。最長の好景気といわれる、あまり実感の伴わない景気だったが、それも悪化の方向に進んでいるらしい。そこで景気対策の大声が聞こえはじめた。もちろん経済的な活性化は必要だ。しかし、それを唱えている人たちの顔ぶれを見ると、ほんまに大丈夫なんかいな≠ニいう不安もよぎる。福田さんも苦労しているようだが、周りのメンバーを見ると同窓会内閣≠ニいった感じがする。誰もがどこかで見たような人ばかりで、今ひとつ新鮮さがない。若い世代や未経験者の方が無条件にいいというわけではない。しかし、何となくいつか来た道≠フ雰囲気が漂っていないかしらね…。それはそうとして、間借り≠ニいうことばひとつをとっても懐かしくなる。私もそんな年になったわけだ。両親が吉井町で住んでいたのが借家だったか間借りだったか。もういまとなっては確かめようがない。しかし、そこで私は生まれた。そして、私を取り上げたのが産婆さんであることは間違いない。今日では赤ん坊はほとんど例外なく病院で生まれる。しかし、私たちがこの世に生を受けたころは産婆さんが主役だった。 |
襖の先の部屋(08/08/24 日-1996)
さてさて、一昨日までお話ししていた友人の間借について続けよう。あれは大学1年生のときだった。友人の部屋に行くためには、まず大家さんのお家の玄関から入って廊下を進む。はじめから他人の玄関を入るのだが、鍵などはかかっていない。そのころだって泥棒はいたけれど、社会問題になるほどの事件はあまり起きていなかった。すでに40年ほど経過してはいるが、当日としてはそれなりの都会だった福岡市での話である。もっとも、泥棒に入っても、学生の部屋から盗んでいくものなどほとんどなかっただろう。盗るものがなければ泥棒さんも来ないわけだ。そう考えると、持たないことの気楽さもまた人生にとって大事なんだと思う。何の心配もなく生活できるではないか。その間借り≠烽キでに死語である。そうそう、下宿≠ニいうことばもあった。下宿も部屋を借りる≠アとだったから、間借り≠ニほぼ同義である。こちらもやはり死語になった。いまの学生には何のことか想像すらできないと思う。ともあれ、玄関から上がって廊下を進む。そして突き当たりの襖を開けると彼の部屋があった。広さはほとんどが四畳半か六畳だった。家賃と言うより部屋代と言うべきだが、そのころは1畳あたり1,000円というのが相場だった。自宅から送金される学生1人あたりの平均額は15,000円程度だったと思う。およそ1/3が住居費ということである。いまではバストイレは常識、インターネットも標準装備のワンルームマンションが当たり前になっている。もちろん空調だってついている。そろそろ還暦の声も聞こえ始めるこの年になると、やはり古き良き時代の記憶が蘇る。もちろん、快適さを基準に比較すれば、今日の方がはるかにいいことは言うまでもないけれど…。 |
| 8月22日(金)夕刻から23日(土)にかけて、コンピュータのメンテナンスのためアクセスできませんでした。せっかくご訪問いただきました皆様にはお詫び申し上げます。 |
遠くの記憶(08/08/23 土-1995)
私たちはいつのころから記憶が残るのだろう。わが孫はもうすぐ2歳になる。じいちゃんとしては一生懸命に相手をしてもらっているのだが、このことを憶えていることはないだろう。しっかり記憶に留めてもらうためには、もう少しは生きながらえる必要がある。孫の力は、刻々と迫ってくる老化の波の中で衰えがちな気力を取り戻してくれる。自然に少しは長生きしたい≠ニいう気持ちになってくるからおもしろい。私自身の記憶としては、5歳ころが限度かと思う。父が公務員の試験を受けて採用された初任地は八幡である。まだ小学校に入る前だが、妹がいたこともしっかり記憶にあるから、少なくとも3歳は過ぎている。借家が傾斜のある道沿いに建っていたこと。銭湯があったこと。また近所に紙芝居屋さんがやってきたことも記憶にある。母と買い物に行った商店街からガス会社の丸いタンクが遠くに見えた。坂を上ると電車通りだったが、その角にたばこ屋さんがあった。お家の名前は吉田さんといっていたが、これは後になって母たちから聞いた情報が残っているのだろう。そのときに名前まで意識していたとは思えない。たばこ屋さんは2階建てで、階段を上っている雰囲気というか、その感覚が何となく記憶にある。そしてそこで妹と写真を撮った。それはいまでも私のアルバムの中で生きている。写真を撮るために、はい気をつけー≠ネどと言われている状況が目に浮かぶ。いやいや、それは本当の記憶なのだろうか。その写真を見るたびに、母がそのときの状況を語ってくれたはずだ。そして、その刺激が私の記憶倉庫に働きかけて、臨場感あふれるイメージを創り上げたのかもしれない。大脳は最も身近な私の一部である。しかしそのメカニズムはよくわかっていない。 |
間借り(08/08/22 金-1994)
言うまでもないけれど、自分が生まれたちきのことは憶えていない。しかし、誰にでもあるように、何となくかすかな記憶はけっこう残っている。私は母の郷里近くにある福岡県吉井町で生まれた。私の両親は戦時中は中国大陸にいた。住んでいたのは青島(チンタオ)である。敗戦後、着の身着のままで日本に帰ってきた。いわゆる引き揚げ者である。その中には、中国に赤ん坊を残して来た人たちもいた。それが後になって残留孤児≠ニしてクローズアップされることになる。私の両親も、荒れ果てた祖国の状況の中で、おそらく行く当てがなかったのだろう。二人は福岡県筑後郡の大石にあった母の実家に転がり込んだ。もっともいまとなっては、正確な場所などはわからない。それからしばらく経って、父はお隣の吉井町で働き始めたようだ。これまた私が子どものころに父から聞いた記憶によれば吉井殖産≠ニいう会社である。もちろん何をしていた会社なのかもわからない。そのころにはすでに母の実家を出て借家を借りていたようで、そこで私は産声をあげた。ひょっとしたら借家ではなく間借りだったのかもしれない。いまでは間借り≠フ意味すらわからない人も多いだろう。比較的大きな家の一間(ひとま)を借りるのである。一間とは基本的には1つの部屋のことだ。部屋と部屋の間は壁で仕切られてはいるが出入りする側は襖だったりした。この襖(ふすま)も、若い人には理解できなくなっているかもしれない。ともあれ間借りという形式は、その当時の日本人にとってめずらしいことではなかった。むしろそれが一般庶民の住宅事情だったのではないか。その後も間借りシステムはかなり続く。私が学生時代だった1960年代の末でも、間借りしている友人がいた。 |
団塊世代と還暦(08/08/21 木-1993)
団塊の世代である。敗戦は昭和20年、1945年のことだ。荒廃の中で日本人はとにかく生きることに必死だった。中国大陸などから、いわゆる引き揚げ者たちが祖国に帰ってきた。ソビエト軍などに抑留された者を除いて、兵士たちも帰ってきた。しかし、荒果てた国には十分な食べ物もなかった。ないないずくし≠フ中で、とにかく生きようとした。それから数年後、昭和22年から24年にかけて、800万を超える子どもたちがこの世に生を受けた。通産相の役人だった堺屋太一氏は、後に経済をベースにした社会評論家として活躍する。その彼が団塊の世代≠ニいう小説を書いた。その中で、団塊の世代を昭和22年から24年生まれと定義したのである。西暦でいえば、1947年から1948年生まれになる。昨年から団塊世代のリタイアが話題になっている。最初の47年生まれが2007年には60歳を迎えたからだ。そして今年は1948年生まれが還暦に達する。じつは、かくいう私自身が48年生まれである。干支はねずみ=Bまさに年男というわけだ。おかげで、今年は孫まで還暦を祝ってくれる。もちろんまだ2歳にもならないから、本当はそんなことはわかるはずもない。しかし、そんな事実関係などはどうでもいい話である。私がそれで勝手に喜んでいればそれで十分なのだ。ともあれ、まずはここまで生きてこられたことに感謝せねばならない。知っている限りでも、高校の同窓生に物故者がけっこういる。年をとると若い人たちの元気さがうらやましくもなる。しかし、それはかなり勝手な心情だ。自分だってそんなころを送ってきたのだ。しかも確率的には、若い人のすべてが私のように還暦を迎えるわけではない。これまで生きてきたこと自身が、何よりもありがたいのである。 |
携帯不調(08/08/20 水-1992)
日本の製品はしっかりしている。戦後間もなくは安かろう悪かろう≠ネどと皮肉られていたが、その後の努力で海外からも大いに評価されるようになった。それは確かなのではあるが、ときどき白けることもある。先月、ベルリンに出かける前に、家内や娘が持っている携帯がそのまま海外でも使えると聞いて驚いた。これまで海外に行くときは海外用を一時的に借りていた。子どもが成人してからは、海外に家内と一緒に出かける機会が増えた。私が仕事をしている間、家内は1人で観光に出かける。仕事が終わると携帯で電話する。それで夕食などの待ち合わせができるわけだ。これがじつに便利なので、海外旅行時には必ず借りる備品になっていた。ところが、いまの携帯はそのまま海外で使えるというのである。これは凄い≠ニ感心しながら出かけた。しかし、それが十分に機能しなかった。まったくといっていいほど通じないのである。私が持たされた携帯からかけて成功したのは、テスト≠オた3回だけ。連絡が必要になる肝心のときにアウトになった。家内側からも思うように通じず、滞在中にうまくいったのは数回だった。しかも、それは連絡不能で仕方なく私がホテルに帰った後のことだ。これでは待ち合わせも何もあったものではない。メールも送信できませんでした≠ニ味気ない。そんなわけで、海外でも使えるという触れ込みの携帯がまったく目的を達成しないままで終わった。通話したのはベルリン市内もど真ん中である。東京で言えば山手線内に当たる区域だ。そんな地域で電波状況が悪いということがあるのだろうか。はじめの期待が大きかっただけ、それが外れたときのガッカリも大きかった。アテネやウィーン、それにプラハでもうまくいったのに…。 |
ドイツとビール(08/08/19 火-1991)
ベルリン滞在中に意外だなあ≠ニ思ったことがある。何といってもドイツだから、あっちでもこっちでもビールを飲みまくっている。日本人ならそんな光景を想像するのではないか。その昔、サッポロビール≠ェミュンヘン、札幌、ミルウォーキー≠ェ世界のビールの3大生産地といった内容のCMを流していた。そんなわけで、ミュンヘンがドイツにあること、ドイツ人がビールをたくさん飲むことなどは、子どものころから知っていた。ところが、これが相当に違うのである。パブなどには行かなかったから、本格的な飲酒場所ではどうかわからない。しかし、少なくとも路上のレストランに限って言えば、そんな状況には遭遇しなかった。もちろん、男女を問わずほとんどの客がビールのジョッキを前にしていた。しかし、問題はその飲み方である。いわゆる一気飲み、あるいはそれに近いグーッと∴みの人は目に入らなかった。夫婦連れと思われるカップルはもちろん、仲間たちが集まった感じの一団も、とにかくおとなしく飲んでいるのである。日本であれば、まずは乾杯して、ゴクゴク≠ニ喉を通し、あーっ、うまーいっ≠ニ叫ぶところである。なにせ、とりあえずビール≠ナ始まる国なのだ。ところがビールの本場と思われるドイツのベルリンで、そんな様子がうかがえなかったのだ。むしろ淡々と少しずつ、話をしながら飲んでいる。しかも2杯も3杯もお代わりという人たちもほとんど見なかった。滞在したのは1週間足らずのことである。わずか5回ほどの夕食体験だから、ドイツ人の行動様式を発見したなんてことはとても言えない。しかし、私としてはやはりおもしろい光景だった。日本人だったら何回もトイレに行かなければならないほど飲みますものね。 |
300トンと300km/h(08/08/18 月-1990)
先月ドイツに行ったときのお話である。ベルリンからフランクフルトに行って、それから国際線に乗り換える。そのフランクフルト空港から飛び立つときだった。飛行機はぐんぐんスピードを上げ滑走路を突っ走る。しかし、走った距離の割には大地から離れようとしない。仕事の関係で飛行機に乗る機会はけっこうある。したがって、離陸するタイミングというか体感は何となくわかっているような気がしている。その感じからいうと、今回はなかなか上がろうという雰囲気にならないのである。ちょっと遅いんじゃないの=Bそう思ったころで飛行機は地上を離れた。しかし、その角度がいつもよりは傾斜がゆるやかな気がする。プロペラ機と違ってジェット機は乗客が機体の傾きを感じるほどの急な角度で大空に昇っていく。その感じがないのである。それほど乗った経験はないが、どうもプロペラ機の雰囲気に似ている。もっとも、そうは言いながらも機体は徐々に上空に向かっていった。それからしばらく時間が経過してからのことである。機長のメッセージという形で女性乗務員が機内放送をした。本日は離陸時に300トンもの重量があり、時速300kmで離陸しました≠ニ言うのである。単なるサービス放送のようだが、少なくとも私が飛行機に乗った際に、この手の情報を聞いたことはまったくない。これはおそらくかなりめずらしいことだと思う。早い話が、それだけ重くて、機長も相当に踏ん張って機体を持ち上げたのだろう。飛行機は大体200kmくらいで飛び上がると聞いている。それが時速300kmまで離陸しなかったのである。重ければ空に上がるのも一苦労する。そんな当たり前の話だが、これまたドイツ行きのおもしろい土産話になったということになる。 |
防衛教育(08/08/17 日-1989)
携帯サイトのモデル募集で10代の女性が暴行を受け、7万円も奪われた。とにかくこの手の事件が頻発している。報道されるのは氷山の一角に過ぎないはずだ。相対的に被害が小さかったり、被害者が訴え出なかったりしているものがワンサとあるに違いない。こうした事件の場合、まずは加害者が悪いことは論を待たない。文句なしに厳罰に処すべきだろう。またストーカー事件などでは、被害者にまったく責任がないことは言うまでもない。しかし、昨日から取り上げているような事例の場合はどうなんだろうか。現実としては、こうした事件について被害者の方にも責任がある≠ニ公言するのが憚られる雰囲気がある。まるで人権感覚ゼロの人でなしのように非難されることが少なくない。そんな時代である。しかし、やる方≠セけが悪いと言っているだけで、この種の事件は防げるのだろうか。どんなに巧妙な罠を作っても、そこに飛び込む者がいなければ犯罪は成立しない。被害者≠ノならないための有効な手立てはないものかと思う。もちろん、いわゆる教育≠ェ大事なことは言うまでもない。学校でも金融の問題や情報の危険性などは、授業で取り扱われている。よりよく生きる力≠身につることは、学校教育の大きな目標の1つなのである。その実現のためには集団の力が重要な役割を果たすはずだ。そうだよね。うっかり嵌ってしまうとまずいよね=Bそんな話をお互いに交わし合う友人が多ければ多いほどいい。それが仲間たちの常識になれば、個々人の行動にもブレーキがかかりやすくなる。そうなれば、ややこしい状況に引っかけられる子どもたちも少なくなるだろう。もちろん、学校の力だけで子どもたちに免疫力をつけさせるのはむずかしいけれど。 |
理解不能(08/08/16 土-1988)
10代∞携帯∞モデル募集∞7万円∞暴行=Bこの5つの言葉でどんなことを想像されるだろうか。フジテレビ系8月12日朝、ワイドショーのニュースで取り上げられた事件のキーワードである。携帯%d話のサイトにモデル募集≠フ広告が載ったらしい。それに応募した10代≠フ女性がいた。指定されたスタジオらしきところに行ってみると男がいて暴行≠ウれたという。しかもその際に現金7万円≠盗られたのだそうな。こんな事件、このごろはめずらしくもないですか? 朝からやれやれ≠ニため息が出てくる。どんなに魅力的な誘い文句が使われていたのか知らないが、その手の広告で軽く動いてしまうんだなあと驚いてしまう。このごろはややこしい時代である。携帯を使った出会い≠ナ命まで奪われる事件さえ起きている。そうした状況の中で10代の女性が疑いも持たずに出かけて行く。もうそのことだけで私の理解を超えている。このごろの若者は新聞を読まないというが、テレビでもこうしたサイトの危険性は伝えている。詰まるところ、私だけは大丈夫≠ニいうほとんど根拠のない自信≠ェあったのだろうか。それとも、そんな危険性は疑いもしなかったのだろうか。しかも、被害者は7万円もの現金を強奪されたという。どんな立場の人か知らないが、10代の女性が7万円もの現金を持っていたことにも驚いてしまう。皆さんは、日ごろから7万円を持ち歩いていらっしゃるだろうか。もっとも、モデルになるための手続き料≠ネどといって、そのくらいの金額を準備するよう要求されていたのかもしれない。しかし、そうなるといよいよ怪しい募集だと疑ってもよさそうなものだと思う。いやー、わからない。とにかくわからない。 |
マニュアル問題(25) 7月30日の続き(08/08/15 金-1987)
失敗≠責めない文化は、組織の安全を確保するためにきわめて重要である。とくに小さな失敗の時点で問題点が隠されない≠アとで、さらに大きな問題が起きることを防くことができる。そこには失敗は誰でもするもの≠ニいう前提がある。しかし、現実にはほとんど失敗をしない人もいる一方で、同じ失敗を繰り返す人もいる。人間はまずは原則をきちんとしておくこと、その上で個別に対応することが必要だ。いくら失敗≠責めないと言っても、同じ失敗を繰り返す人≠責めないまま≠ナ放っておくのも問題ではないか。やはり仕事に対する適性もある。しかし、ここまで話が進むと現実的な対応が急にむずかしくなる。まずは、客観的に適性≠明らかにできる秤があればいいが、そんなものは世の中に存在しない。むしろ失敗を繰り返す≠ニいう事実そのものが適性を測る物差しになっているというべきだろう。こうした状況では、納得性≠ェ問題になる。いくらその仕事をしたくても、こんなに同じエラーを繰り返しているのでは、やはり適性がないと諦めるしかない=Bご本人にそうした納得をしてもらうのである。そのためには、職場の仲間との関係が重要になる。とりわけ監督者との関わりのあり方は重要な役割を果たす。この人≠竍この人たち≠フ言うことだから、ここはしっかり受け止めざるを得ないだろう=Bそんな気持ちになるような関係があれば、本人としてもそれなりに納得した状態で、少なくとも一時的には、エラーを繰り返した仕事から離れることもできるのではないか。ここから先は程度の問題になるが、場合によっては再教育で復帰できるかもしれない。そうしたシステムが確立していれば、当事者の納得も得やすくなる。 |
思い込み(08/08/14 木-1986)
公開講座の会場がJR田町駅前、だから田町で下車しないといけないと思い込んでいた。しかし、ほとんど同じ場所に地下鉄浅草線の三田駅がある。そして、その浅草線は私が泊まっているホテルがある人形町に繋がっている。したがって、人形町から乗り換えなしで三田まで行けば、すぐそこに公開講座の会場があるのだ。それなのに、わざわざ新橋で乗り換えていたのだ。そこでインターネットの路線ソフトにも人形町−田町≠入力していたから、回答としては新橋乗り換え≠優先して出していたのである。しかも、そのソフトは3番目の候補として人形町−三田≠指定し、これに徒歩≠追加した情報も提供していた。まさに正解を出していたわけだ。しかし、それが3番目でそのままでは見えないところにあったから、新橋乗り換え≠正解として会場に出かけていたわけである。今回は1日目にそのことを知ったから、2日目にはめでたく三田まで行って田町の会場まで歩いた。じつは、昨年の2日目は少し時間の計算が違ってホテルから出かけるタイミングが遅れてしまった。そのとき、新橋乗り換えを考えると遅刻の危険性があると判断してタクシーで会場に行ったことを思い出す。これも人形町−三田≠フ直通を知っていたら、それほど慌てることもなかったのである。ともあれ思い込みは恐ろしいと思う。しかも、よくよく考えてみると羽田−人形町≠ェ直通であることはホテルに行くときにわかっていた。その上、途中の三田で降りることもけっこうあって、その三田駅の近くに田町駅があることも知識としては頭にあったはずだ。そんな記憶の内容がうまく連携していなかったのである。それこそ、知識があっても、それが繋がらなければ役に立たない。 |
浅草線三田駅(08/08/13 水 -1985)
JR田町駅前にある国立大学のビルは山手線の電車から見える。手前に東京工業大学附属高校のグランドがあり、その向こう側に建っているのだ。ビルの中にはいると、目の前を新幹線が行き交っている。少し先の方には東京タワーも見える。そんな都心の一等地に、わが熊本大学リエゾンオフィス≠烽るのだ。その2階の研修室が、公開講座の会場である。ところで、先週からお話ししているように、私の宿泊しているホテルは日本橋にある。これは公開講座の東京シリーズをはじめた昨年からのことだ。地下鉄の最寄りの駅は浅草線の人形町である。昨年、インターネットの路線サイトで時刻をチェックした。当然のことながら人形町(地下鉄)→田町(JR山手線)≠入力した。その結果、人形町から新橋まで行って、そこで山手線に乗り換えるルートが出る。そこからは浜松町を経てめでたく田町に着くというわけだ。新橋では乗り換えのために少しばかり歩く必要がある。朝のラッシュ時、ともあれ人が多い。その雑踏の中をくぐり抜けながらJR新橋駅まで行くのである。もちろん、それは仕方ないことである…。とまあ、私は昨年からずっとそう信じ込んでいたわけである。ところが、これがまた大いなる思い込みであることが判明するのだ。それは、今年の公開講座基礎研修が終わった後に、研究の打合せであるグループの方とお会いしたときの話である。会合の後で、宿泊しているホテルの場所を聞かれた。そこで当然のことながら浅草線の人形町下車です≠ニ答えた。これに対して、先方から驚くべき反応が返ってきた。ああ、それなら三田で乗ればいいですね=Bこの声を聞いた瞬間、頭が白くなったような気がした。そうだ。浅草線三田駅があるじゃないか=B |
リエゾン・オフィス(08/08/12 火-1984)
さて、日本人の語学の話に逸れてしまったが、おとといはフランス語のliaison≠フ話をしていた。英語の定冠詞the≠ヘフランス語でle∞la≠ナある。日本人にはややこしいが、あちらでは名詞にも男性名詞と女性名詞がある。そして、男性名詩にの前にはle≠つけ、女性名詞ではla≠ニなる。ついでに言えば、不定冠詞のa≠ノ当たるものもun≠ニune≠ニ区別する。さらに定冠詞では、名詞が複数になるとle≠ニla≠ェles≠ノ変わる。そこでまずは子ども≠フenfant≠ェ子どもたち≠セとs≠ェついてenfants≠ノなる。そして、その子どもたち≠ネら、les
enfants≠ニいうわけだ。ああ、ややこしい。しかし、いまから41年も前のことを憶えているのだから、わたしの記憶も、まあまあというところでしょうか。もっとも、自慢になるほどの内容ではございませんけれどね。それに、知った風な雰囲気で書いているこのフランス語の部分、本当に大丈夫でしょうね…。さてさて、このles
enfants≠セけれど、レ アンファン≠ニは読まない。les≠フ最後尾のs≠ニenfants≠フ頭のe≠ェ繋がるのである。その結果、われわれの耳にはレザンファン≠ニ聞こえる。このs={e≠liaisonn≠ニいうのである。まあそんなわけで、かなりの脱線からようやく公開講座≠フネタにまで戻ってきた。わが公開講座の東京会場がリエゾンオフィス≠ニいうのは連携≠ニいった意味があったわけである。法人化してから、とくに社会との連携が重視されるようになった。そうした状況のもとで、連携≠ヘまさに時代のキーワードなのである。ともあれ、山手線の田町駅から3分程度で着くという、じつに便利なところにある。日 |
言語問題(08/08/11 月-1983)
日本人は外国語の習得がうまくないと言われる。たしかに、ヨーロッパの国に住む人たちは英語もうまいように思える。人によってかなり訛はあるものの、少なくとも話の流れは流ちょうである。しかしその理由の1つとして、ことばや語順が似ていることが挙げられる。極端な話、単語さえ入れ替えれば通じるようになるのであれば、かなり楽になるはずだ。もちろん、お互いに微妙な違い、いや超えることのできない違いもあるとは思う。しかし、それも程度の問題だろう。少なくともわれわれには、語順も単語もまるで英語と異なる体系を持っている日本語が頭に染みこんでいる。そんな状況では、ヨーロッパ系の言語をマスターするために大いに苦労するのは仕方がないのである。ただし、中国人や韓国人は、その点で日本人よりはるかにうまいという。そのこと自身が真実なのかどうか、それはわからない。しかし、中国語は少なくとも語順が英語的になっているようだ。そうなると頭に入りやすい。もっとも朝鮮語は日本語と類似しているという。そうなると、語順の壁はわれわれと同じになる。そこで、日本における英語教育のあり方が議論されることになる。それはそうとして、最近の若い英語教師は、われわれが中学生だったころと比較すれば、天と地ほどの能力を持っている。戦争中は敵性語などといって、少なくとも庶民に対しては英語を使わないような指導をしていたという。そんな環境だから英語教師をちゃんと育てるなんてことはしていなかったのだろう。私が中学生だったころは、ジシ ザ ペン≠ネんて発音の先生もいた。そのころラジオの基礎英語≠ニいう番組を聞きはじめていた。そんなことから、先生の発音はいまいちぃー≠ネんて思ったりもした。 |
もう一つの事件(08/08/10 日-1982)
この数日、東京の地下鉄で遭遇した自動改札機切符拒否事件≠ノついて書いてきた。これはこれで一件落着にしよう。ところで、この地下鉄がらみでは、さらにおもしろい体験をした。体験と言うよりも、私の思い込みによる失敗話である。公開講座の東京会場はは山手線の田町駅前にある。そこは、もともと東京工業大学の土地で附属高校がある。そこに新しいビルを建て、工業大学が占有していた面積を3階分ほどで保証し、その下の階に大学の分室を設けることになったようだ。それに加えて授業や研修などに使える部屋も設置されている。わが熊本大学もここに一室を確保している。その名を熊本大学リエゾンオフィス≠ニいう。リエゾン≠ヘフランス語のliaison≠ゥら来ているのだろう。私が大学に入ったのは大昔だが、第二外国語としてフランス語を選択した。そのときの記憶を辿ると、liaison≠フ意味がおぼろげながらわかってくる。フランス語で、子どもはenfant≠ニ綴ってアンファン≠ニ発音する。その複数形は英語と同じでs≠つける。ただし、このs≠ヘ発音しない。フランス語はこのあたりがおもしろい。h≠ノついても大体が発音しなかったと思う。そうそう、そのことをアッシュ・ミュエ≠ニいっていた。アッシュ≠ヘh≠フことで、ミュエ≠ヘ無音≠セったはずだ。そう言えばずっと最近(?)になってテレビのリモコンなどに消音≠ネる機能がついた。これが英語でmute≠ニ書いてあるから、フランス語の音とかなり似ている。あちらの言葉はとにかく類似したものや共通性の高い単語が多い。おそらくラテン語などをもとにしているからだろう。ともあれ、語学の学習には相当にプラスになる。うらやましい限りだ。 |
精算の仕方(08/08/09 土-1981)
本来は210円の運賃に対して260円の切符を買っていた。だから自動改札機でトラブったのである。これはもう少し話を進める価値がある。幸いにも時間には余裕がある。そこで、昨日と同じ改札口横の窓口を覗いた。そこには昨晩とは違う駅員さんがいた。ちょっといいですか∞はい何でしょう∞じつは昨日の夜、三田から260円の切符を買ってここまで乗ったんですよ∞はい∞改札を出ようとしたら機械に引っかかりましてね∞ええ∞それでここにおられた方にその切符を見せたんです∞ええ∞すると、そのままOKで通していただきました。ただし、日比谷線にお乗り換えですかとは聞かれたんですが∞はい∞まあ、それはいいとしてですね。いま料金表を見たら210円になってますね=Bまあ、こんな会話をしたのである。私としては、切符もないのだから50円をバックしてもらおうなんて気持ちはこれぽっちもなかった。ただ、先方はそんな印象を持ったようだった。たしかに、朝っぱらから、昨夜の運賃について文句を言っているのははっきりしている。その目的は差額を返せ≠セろうと思っても仕方がなかっただろう。そんな雰囲気を感じたのか、彼はこんな答を返してきた。切符を発券した駅でないと精算できないんです…∞…?=Bこれもかなりおもしろい回答だ。いま切符がないから話は成立しないが、昨晩の事件発生時≠ノ立ち返ると、この問題の解決は西村京太郎氏だってお手上げだろう。A駅から乗った乗客がB駅に着く。その際に運賃を払いすぎだったことが判明する。すると、その差額を精算するために、彼あるいは彼女は発券したA駅まで戻らないといけないというのである。いくらなんでも、そんな理屈は成立するはずがない。 |
事件♂決(08/08/08 金-1980)
自動改札機にひっかかったものの、駅員氏はすぐに通してくれた。だからもう問題は解決済みだった。ものごとが完結すると頭の中から消えやすい。そんな働きをツァイガルニク効果と呼ぶことはすでに述べたことである。ご関心のある方は7月31日の本欄をご覧いただきたい。ともあれそんなことで、その後に何もなければ。この事件≠ヘ記憶の彼方へ追い払われてしまうはずだった。突如として問題が解決したのは翌朝のことである。当然のことながら、次の日はホテルを出て今度は会場に向かうために地下鉄人形町駅へ降りていった。そして、行き先である三田までの料金をあらためて確認した。あっ=B私は自分のそんな声を確かに聞いた。切符の自動販売機の上に掲げられた運賃表示板の三田の横には210≠ニいう数値が書かれていたのである。昨夜の自動改札機による切符拒否は料金不足≠フためではなかったのだ。そうではなくて、むしろ料金の払いすぎ≠ノよる反応だったのである。それで、そのときの駅員氏が発した日比谷線にお乗り換えですか≠ニいう質問の理由がわかった。人形町が最終目的地ではないかもしれないと思ったのだ。しかし、そうならそうで、どうして彼は私にそのわけを教えてくれなかったのだろうか。こちらは改札機から拒否されて、何でかいなと不思議に思っているのである。それがわからないはずはない。この点はサービス不足だったと思う。本来は210円のところを260円の切符を買ったのだからその差額は50円だ。これを大きいと思うか小さいと思うかは人によって違うだろう。しかしトラブルが起きたことは確かなのである。やはり、その説明はしてほしいものである。犬も歩けば棒に当たる。吉田もまたおもろい棒に当たった。 |
自動改札通せんぼ事件(08/08/07 木-1979)
浅草線三田駅からホテルのある人形町まで無事に着いた。そこまではよかったのだが、切符を自動改札機にかけたときに事件≠ェ起きた。なんとエラーが出て通せんぼになったのである。すでに9時過ぎだったから他にはほとんど客がいなかったが、これはかなりかっこうわるい。瞬間的に頭をかすめたのは、料金不足≠ナある。しかし、三田から260円というのは、ご一緒した方から教えていただいた金額である。もちろんその方は都内にお住みで、地下鉄にも乗り慣れているはずだ。それなのに金額を間違えられることがあるんだろうか。まあ、そんなことも考えながらだったと思うが、とにかく改札機の横にある窓口に切符を持っていった。これって、通らないんですが…=B私の声を聞きながら切符を見た駅員さんが問い返してきた。日比谷線にお乗り換えですか=B人形町の改札口の向かい側にはもう一つ改札口があった。それが日比谷線ということだ。こちらは霞ヶ関や六本木方面に繋がっている。もちろん人形町が最終目的地だから、いいえ、ここで降ります≠ニ答えた。すると、駅員氏はじゃあ、いいです≠ニ言って、すんなり私を通してくれたのである。これで事件≠ヘ一件落着、めでたし、めでたしとなった。それから地下鉄の階段を上って地上に出て行った。もちろん無事にホテルに着いたことは言うまでもない。そんなわけで、そのときはとくに疑問が湧くこともなく、1日の仕事を終えたのである。しかし、よく考えてみると、切符が自動改札機を通らなかった理由は明らかになっていなかった。通せんぼされた瞬間には、料金不足≠ゥと思った。しかし、駅員氏の反応からそれが問題でないことは明らかだった。いとも簡単に通してくれたのである。 |
東京地下鉄物語(08/08/06 水-1978)
さて、いろいろ寄り道をしたので、公開講座物語はいつの間にか消えてしまっている。いまから振り返れば、7月15日までは公開講座(4)≠ニして連載する感じでいた。しかし、その後に公開講座にも含まれる行動目標≠フ設定について考えはじめたころから、それが曖昧になってきた。そんなわけで、また番号をつけていくのも面倒くさくなった。ここからは、連載とは関係なく、7月の公開講座中に体験したエピソードを書いていくことにしよう。それは東京会場で1日目の講座が終わったあとのお話である。会場のある田町で、このところある検討会でご一緒している方々とお会いして情報交換をした。議論と食事を兼ねた会合が終わったときは9時を回っていただろうか。それから私は地下鉄浅草線に乗って日本橋に取っていたホテルに帰ることになる。さいわいそのときのメンバーのお一人が同じ地下鉄駅まで行かれるという。そこでご一緒に地下鉄の三田駅まで歩いていった。その方は三田線だから電車の系統は違っていたが、私が乗る浅草線の切符売り場まで来ていただいた。そして、ここからですよ≠ニいうことでお別れすることになった。その際、路線図を見上げながら運賃を確認する私の後ろから、人形町ですね。それなら260円ですよ≠ニ教えて下さった。ホテルの所在地は日本橋になっているが、地下鉄の下車駅は人形町なのである。先ほどの会合で、その話題が出ていたのだ。そこで直ちに運賃が書かれた図を見て私にお伝えいただいたというわけだ。東京の地下鉄は網の目のように路線が入り組んでいる。それを見慣れていない者には、瞬時に行き先を見つけるのはなかなかむずかしい。そこで、すかさず260円≠ニ教えていただいたので、大いに助かった。 |
3ヶ月勝負(08/08/05 火-1977)
設定した目標は3ヶ月だけ全力を挙げて実践する。そして、その期間を過ぎれば完全に忘れてもいい。これが私の行動目標≠ノ対する基本的な考え方である。もちろん、そこにはそれなりの理由がある。現実として3ヶ月間しっかりやれたことは、もう日常的な行動として定着していると思う。したがって、実際には忘れようにも忘れることができないものになっているはずだ。というよりも、完全にうまくいったものであれば、すでに無意識化しているのである。これとは対照的に、3ヶ月間も意識して℃タ践してみたのにうまくいかなかったらどうするか。それはおそらく設定した行動目標そのものに問題があったのだろう。もともと3ヶ月間はできる≠ニ考えて決めたつもりだった。しかし、そのどこかがまずかったのである。それならそれで目標そのものを決め直すといい。その方が時間の節約になる。そんな場合、すでに目標として決めていた行動の表現を修正する≠ニいったマイナーな調整がまず第一に考えられる。その表現が抽象的であったり、大風呂敷的であれば、実践もおぼつかない。しかし、そうした小手先の修正では対応できないこともある。そんなときは、目標そのものを大幅に変えることだって大いにあっていい。ただし、そのときには、どうして設定した目標行動がうまく実践できなかったのか、その原因をしっかり分析しておくことが必要である。決めては失敗、決めては失敗≠ニいうのでは進歩は期待できないからである。しかし、こうした体験の繰り返しによって、行動目標も、より具体的で実践的なものになっていく。何も慌てることはない。人生はそれほど短くはないのである。しかし、怠けていてはまずい。人生はそれほど長くもないのだから。 |
目標設定3点セット 7月19日の続き(08/08/04 月-1976)
ベルリンに出かける前まで、公開講座にまつわるエピソードを書いていた。それがそのまま休止状態になっている。公開講座における目標設定のあり方≠話題にしていた。そこで、その続きを書いていくことにしよう。前回までに、目標設定に当たって必要なポイントとして、@求められていることを決める、A期間内にできることを決める、の2点を挙げていた。公開講座では、これに加えてもう一つ強調している条件がある。それは、周りに見えること≠ナある。われわれの行動は周りの人たちに見える≠アとによってはじめて評価される。もちろん、心の中で決めたことを人知れず実践することだってあり得るだろう。そのうち、そうした心の変化が行動や雰囲気に現れてくる。そうなると、これまた人から評価されることにも繋がっていく。しかし、その領域にまで達するには相当の時間がかかる。公開講座では、そこまで悠長に考えているわけにはいかない。受講者の方々に、毎日のリーダーシップを改善し向上するために努力していただかなければならない。そのためには、行動目標はやはり周りに見える≠アとを第一に考えていただきたいのである。公開講座では2日間の基礎研修¥I了時に、学習したことをもとにして職場で実践する行動目標を決定する。それを念頭に入れて、3ヶ月間はしっかりと行動していただくのである。この3ヶ月という期間もかなり重要なポイントになる。決めたからには、一生にわたって実践し続けないといけませんよ≠ネんて言われたら、その瞬間にやる気を失ってしまうだろう。そうではなくて、実践するのはわずか3ヶ月だけでいいのだ。それが過ぎれば、止めてもいいのか≠ニ問われれば、私の答はその通りです≠ナある。 |
画質優先(08/08/03 日-1975)
とにもかくにも超大型のテレビがわが家にやってきた。さすがにその迫力は凄い。画面の大きさは50インチ君だが、これがなかなかのものだ。画面の大きさよりも、そのきれいさが目立っている。もちろん電器屋さんで画面の美しさは見ていたつもりだったが、自宅で見るとひときわきれいに見える。その結果、おもしろい現象が起きてくる。番組内容よりも画面の見栄えが優先するのである。つまり見たい内容で選局するのではなく、きれいな画面の番組の方を見てしまうのである。もともと、私自身はそれほどテレビを見る方ではない。だからこそ、なおさら美しい方が見たくなるのだ。それに、このテレビが来てから知ったことがある。それは、映る放送局が一挙に増えたことだ。購入前にもBSは見ていたから、あとはハイビジョンが見えるようになることはわかっていた。そして、それは当然のごとく期待通りに映った。しかし、それ以外にもけっこうたくさんの局が映るのである。あっちこっちとチャンネルを変えているだけだから、まだはっきり区別はできていない。しかし、少なくともテレビ朝日系、日本テレビ系、フジテレビ系、東京12チャンネル系などなど、いろいろと映るのである。また天気に関する情報を流し続けている局もある。私は新聞のテレビ欄はまったく見ないから気づいていなかったが、ちょっと覗いてみると、なるほどBS系でいくつかの局の番組表が載っている。そんなわけで、テレビにかじりつきではなかった家内も、新人君の登場以来、けっこう視聴時間が延びたと言っている。このほかにも内容は映らないが、有料テレビの加入おすすめ♂譁ハも出てくる。あのWOWOW≠竍スターチャンネル≠ネどである。とにかく賑やかな画面ではある。 |
プラズマがやってきた 7月31日の続き(08/08/02 土-1974)
未完成のことは思い出されやすい。そのことを実験で明らかにした心理学者の名前を取ってツァイガルニク効果という。その意味で、わが味な話の素≠フお得意様は6月5日の続きをお待ちになっていたのである。もう一度、ありがたや、ありがたや=Bそれでは、この話題を完全にお忘れいただくために、テレビ購入騒動の結末をお話ししよう。あれからめでたく、購入しましたよ。それもプラズマの50インチを。業界では液晶とプラズマが熾烈な争いを続けている。どっちがいいか、大きな買い物だけに購入者側も迷うところだ。しかし、わが家ではすんなりプラズマに決まった。その理由は孫にある。もうすぐ2歳になる孫は、当然テレビ画面に手を出すことが予想される。指を指したり押さえたりである。液晶画面は押した場合はブヨーンとへこむ。少しくらいのことではどうということもないとは思う。しかし、やはりへこむのは気になるに違いない。その点、プラズマはガラスでコーティングされている。だから、いくら押してもへこむことはない。指の跡がついても拭けばすむことである。そんなわけで、めでたくプラズマがわが家にやってきた。そして、予想通り、これまためでたく孫の指紋もついた。プラズマが正解だったことはすぐに証明されたのである。ただし、ガラスのコーティングは光を反射する。したがって昼間などは背後に窓があると外の景色が映り込む。それだけ見にくくなるのだが、慣れてしまうとなんのこともない。人間はよくできていて、見たいものに集中すると、その他のバックは気にならなくなるのである。しかも、私自身は昼間にテレビを見ることは休みの日くらいのものだ。このごろの私は夜にしてもテレビを見る時間はそれほど長くはない。 |
裁判員制度のアリバイ(08/08/01 金-1973)
来年は裁判員制度がスタートする。しかし、ここに来ていろいろな議論が沸騰している。私の予想では、この制度は圧倒的なプロ主導の中で展開されるだろう。とにかく法律は素人を寄せ付けない。そんな状況で、裁判員が裁判官と一緒になるとどうなるか。おそらく素人的な発言はことごとく退けられるのではないか。それについては刑法○条□項に書かれているように……と解釈するのが正しいのですよ∞その点はすでに○年に出された□裁判所の判例があるんですよ…=Bとまあ、こんな具合になる。そもそも裁判員制度が導入されることになった理由はなんなのか。ネットでも探せばそれもわかると思うが、いまは少しばかり時間がない。庶民の常識からかけ離れた判決が出て、世の中の批判が高まった。それに対応するために一般人の良識的判断≠燻謔闢れることにしよう。まあ、そんなところが大きなきっかけになっているのではないか。しかし、その常識≠ニいうか良識≠ニいったものがこの制度によって保証されるだろうか。それを期待するのはなかなかむずかしいと思う。そもそも法律からして庶民の常識では理解しがたい文章で書かれている。最近でこそ少しは改善されたようだが、裁判官が書く判決文もどこまで書けば気が済むのと言いたくなるような長文だ。それは悪文の代表である。そんな法解釈のプロが、とにかく素人を煙に巻く。なんのことはない。法解釈や判例など、とにかくあらゆる専門性を駆使して、素人を圧倒し、自分たちの思い通りの結論を引き出すのが落ちではないか。しかも、裁判員制度という衣を着ているから、庶民の発想も取り入れたというアリバイはちゃんとできあがっているのである。これって、私の思い過ごしなのでしょうか。 |
|
|