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味な話の素

No.62 200806月号(1912-1941

 


責任回避の対策08/06/30 -1941
 
目の前に起きている事態の原因が自分の行動によって引き起こされたとき、自分の責任が気になるものだ。そこで、どうしても自分を護りたい気持ちが先行する。本当は危機的な状況に対応しなければならないはすだ。しかし、そんなときでも、自分自身が犯したミスや問題行動をどう説明するかを考えてしまうのである。そうした精神状況そのものは誰にも起こることだ。それを克服するには、自分の責任問題はとりあえず措いて、とにかく問題の解決に当たることの重要性を体に染みこませておく必要がある。もちろん、そうした未知の事例はあらかじめ体験することができない。したがって、過去の事例やよそで起きたことを具体例として取り上げながら、緊急時の対応についてイメージしておくしかない。窮地に陥ったときに何とか対応した経験を持っている者がいる場合には、その人の話を聞くのもいい。そして、何といっても組織の基本的な考え方をしっかりしておくことである。このごろは、No blame culture:個人責任を追及しない文化≠フ重要性が指摘されている。何かが起きても、そのことについて個人の責任を問わないという基本的な方針をとるのである。もちろん法的な面から、すべてを免罪にするわけにはいかない。しかし、そうした政策を持っているだけでも、働く人々の気持ちは違ってくる。それにしても人のこころは、とにもかくにも微妙なものである。これが犯罪となると状況が変わってくる。もちろん犯人は個人的な責任を逃れるために必死になる。できる限りの知恵を絞って証拠が残らないように工作する。これに対してこれが目に入らぬか≠ニ動かぬ証拠を突きつけることができれば一件落着である。しかし、現実はそう簡単にはいかないのである。

 

自己防衛反応08/06/29 -1940
 
リスクに直面したときも判断力が低下したパニック反応が起きやすくなる。とくに目の前に起きている事態の原因が自分の行為によって引き起こされた場合は、その危険性が高まる。まずは危機的な状況に対応しなければならないのだが、自分自身が犯したミスや問題行動をどう説明するかが先に頭に浮かんでしまう。このあたりは、事前の動作を伴うような訓練だけでは完全に回避することはできない。それはこころの問題なのである。そして、こうした人間の行為については完全な対策はあり得ないのである。だから、結局は動作訓練と同じように、それまでにあった具体的な事例などの情報が大事になる。自己弁護のストーリーを組み立てるよりも、とりあえずは目の前の危機に対処する。そのことがじつは自分や自分の職場を守ることになる。そんな事例に繰り返し接しておくことである。たとえ自分が原因であっても、現実にしっかり対応する。そのことだけで責任は逃れられないにしても、対応としてはそれなりの評価をしてもらえる。そうした実例を知っていれば、それはそれで効果があるのではないか。もちろん、これは善意の人間の場合である。はじめから利己的、あるいは悪意を持って特定の問題行動をしていた結果として問題が起きたときには、前例の提示効果などは吹き飛んでしまう。ばれたらまずいことがあるから、どうにかしてごまかそうとするからである。犯罪を犯した人間の場合も、基本的には罪をすんなり認めて事実を伝えれば、事件は容易に解決する。しかし、現実にはなかなかそうはいかないようだ。どうしても自己防衛的に嘘をついたり、少なくとも本当のことを言わない状況が生まれる。そんなときには、まさに物証が決定的な役割を果たすことになる。

 

判断力消滅08/06/28 -1939
 
パニック状態になると窮鼠的反応≠する。ギリギリの状態だから合理的な分析などしている時間がない。だから反射的な行動が生まれるのである。ほとんど駄目もと≠フ心境だから、とにかく抵抗だけは試みるというわけだ。食品偽装の疑いをかけられた経営者が、冷静に考えればすぐにばれるに決まっている嘘をつく。何といっても多くの従業員がいるのだから、その口を塞ぐことなどできるわけがない。それでも私は知りません∞私は謝りません≠ニ言い切れるのは、やっぱりこれも<pニック反応≠ニいうことになるのだろうか。とにかく人は学習しないものだと思う。もっとも、度重なる報道もあってさすがに観念したのか大阪のウナギ販売業者はすんなり偽装工作を認めた。そうは言ってもこの場合は相当に手の込んだ仕掛けを作っていたために、皮肉にも偽装の証拠も見え見えの状態だったようだ。そんなわけで早々に偽装工作を認めざるをえなかったのだろう。さすがに逃げられる♂ツ能性がほとんどないと判断したとも言える。その点では、マスコミに話したときには、すでにパニック状態が終わっていたとも考えららえる。それにしても、パニック≠ヘ人から冷静な判断力を奪うことは明らかである。窮鼠が猫に反攻するのは生きるための最後の手段である。だから、ある意味ではそれは合理的な行動≠ネのかもしれない。それなのに、これを偽装≠ェばれたときの一時的ごまかし反応≠ニ同列に論じればネズミが腹を立てるだろう。その点はごめんなさい。それにしても、パニックという状況だけに限れば、リスクマネジメントでも考えておきべきことは多い。重大な緊急事態を目の前にすると、冷静かつ合理的な判断がしにくくなることは間違いない。

 

窮鼠反応08/06/27 -1938
 
このごろは孫が走れるようになった。もっとも手を挙げながらバランスを取っている状況だから、見た目にはぎこちない。それでも追いかけっこがじいちゃん相手のお遊びになっている。目と目が合うと笑って走り出す。もちろん、じいちゃんは追いかけていく。ただし、ずっとに追いかけずに途中で少しばかり待つのである。孫の方は廊下を伝って隣の部屋まで走っていく。そこで彼はこちらを振り返って様子をうかがう。ちょっとした沈黙がワクワク感をいやが上にも高める。そのタイミングで、じいちゃんはわーっ≠ニ声を挙げて走り寄る。すると孫はさらに奥へ逃げる態度を示さない。むしろ笑いながらこちらに抱きついてくる。時間をおかずに追い続けたときも似たような反応が見られる。つまり、私が待たずに孫を追いかけ続けていくと、当然のことながら行き止まりになってしまう。その先は部屋の壁なのだ。そのときどうなるか。孫は部屋の壁に突っ立ったままにはならない。こちらを振り向いて飛び込んでくるような仕草を見せる。これはなかなか興味深い反応だ。逃げ場を失うと、追いかけている対象に向かってくるのである。まだ2歳にもならない孫のことだから、論理的な判断をしているわけではない。これは危機的な状況に追い込まれたときにとる本能的な反応ではないかと思う。まさに窮鼠猫と噛む≠ニいうことである。逃げるという選択肢がなくなったときにできる自己防衛的な行動は、じっとうずくまるか、むしろ相手に向かっていくかのどちらかである。しかし動かないという反応を取れば食われるしかない。そんな場合は、どんなに成功する可能性が低くても、とにかく相手に対抗する。これが生きる≠アとを前提にした生命体の反応なのかもしれない。

 

パニック反射08/06/26 -1937
 
犯罪を裁く裁判にもいろいろあるが事件≠ニして報道されるのは刑事裁判が圧倒的に多い。裁判の原則は物的証拠≠大事にすることだ。人間は自分を守るために嘘をつく。しかし、目の前に動かぬ証拠を突きつけられれば、その嘘も一瞬にしてばれてしまう。何といっても物的証拠≠探すことが最も重要な課題になる。ところで、嘘は必ずばれる≠ニいう法則があれば、嘘をつく人なんてこの世の中にいないはずだ。しかし、残念ながらそう簡単にはいかないから事件や犯罪が起きる。毎日新聞によれば、この5年間で241件もの殺人事件が時効になっている。人の命を奪っていながら、そのことを隠して生きながらえる。まさに究極の嘘と言うほかはない。殺人ほどの大罪は措くとしても、われわれは、ついつい嘘をついてしまう。自分自身がパニックになって、ばれるに決まっているのに嘘をつく人もいる。それは反射的な防衛反応と言うべきかもしれない。もう見るのも聞くのもうんざりするが、今度は高級牛肉≠フ偽装が発覚した。マスコミから迫られた社長はやってません≠フ一点張り、謝りません≠ニ断言までした。私はしっかりしていたが、従業員がいい加減なことをした=Bこれまた何度となく聞かされてきたセリフだ。そして、時間の経過とともに事態は不利な話でいっぱいになる。そして、いつものやってました≠ナおしまいというわけだ。本当にやっていなければ命をかけても闘うしかない。しかし、それが嘘なら近いうちにばれるに決まってる。しかも、その前例はワンサとあるのに、問い詰められると否定する。人は窮地に追い込まれてパニック状態になると、とりあえずは嘘をつく。窮鼠猫を噛むというが、これも一種の防衛反応なのだろうか。

 

マニュアル問題(23)606日の続き08/06/25 -1936
 
夜勤などで睡眠や休息の時間がなくなる≠ゥらマニュアルが守れないという声もある。これも結果としては「時間がない」ことが大きな理由になっている。この回答者の場合、通常の業務に夜勤が含まれる職場に勤めている。病院や工場ははじめ夜勤を求められる職場は少なくない。そうしたところでは睡眠や休息時間をうまく取ることが容易ではない。そのような状況下では、当然のことながら日勤のみの仕事と比較すれば心身ともに疲れが蓄積する。自分の体調管理に配慮することは個々人の責任ではあるが、仕事によってはそれも十分に実現できないこともあり得る。そんな中でマニュアルを守れと言われても、ついつい手を抜いてしまうというのが本音なのだろう。しかしそれは安全にとっては深刻な問題である。小さな積み重ねが蓄積することで大きな事故を起こすことは、われわれが繰り返し経験していることである。いわゆるハインリッヒの法則と言われるものがある。アメリカの旅行保険会社に勤務していたハインリッヒ(Heinrich, H. W)の分析によると 1件の深刻な事故の前には29件の中程度のトラブルが起きている。さらに、それ以前に300件ほどの報告されない事象(unreported occurrences)が発生していることがわかったというのである。この報告されない事象≠ヘれわれが一般的に使うことばで言えばヒヤリハットにあたるだろう。いまわが国の多くの組織では、それをお互いに共有化することの重要性が強調されている。したがって、表に出てきた場合にはハインリッヒのいうunreported occurrences≠ノは当たらない。しかし、この点が微妙なところなのである。現実にはヒヤリハット≠ェ出やすい職場≠烽れば、出にくい職場≠烽るのだ。

 

インフレ促進運動08/06/24 -1935
 
笑いが人間にとって薬になることは昔から気づかれていた。何といっても笑う門には福来たる≠ネのである。じつに残念なことだが、親から育てることを放棄される赤ん坊もいる。本当はあってはならないことである。しかし、それは厳しい現実でもある。もちろん、生まれてきた命には何の責任もない。そうであるならば、可能な限り笑顔が生まれるような環境で育ってほしいと願う。とにかく笑顔は人間にとって健康のもとである。それは本人に取って望ましいだけではない。笑顔は周りの人を幸せにしてくれる。だから世の中に笑顔があふれてほしいと思う。そこでふとインフレ≠ニいうことばが頭に浮かんだ。いま原油の高騰などをきっかけにして経済の世界ではインフレの懸念が増大しているという。インフレーションはお金が余っているために起きる現象である。金がわんさかある人たちは、その力を利用してモノを買いまくる。そうなるとモノの価格もつり上げられる。そしてバブルが生まれる。原油だって実際の需要とは関係なくもっと高くなるかもしれないといった思惑で先物の値段がどんどん上がっている。ところが、それに比例して庶民の実入りは増えないから生活は苦しくなるばかりだ。原油価格高騰が食料の値段にも影響しはじめている。とにかくインフレは困ったことなのだ。しかし、お薦めのインフレもあることに気づいた。それは笑いのインフレ∞笑顔のインフレ≠ナある。世界中に笑い≠ェあふれることでマイナスになることはこれっぽっちもない。現状を見ると笑いのデフレ′サ象が起きているような気がする。しかも笑いのインフレ≠ネら、行き過ぎなんてことは起こらないはずだ。みなさん、笑いのインフレ促進運動≠はじめませんか。

 

あふれる笑顔08/06/23 -1934
 
わが孫君も1歳と10ヶ月となった。もう走り回る。後ろ向きに歩く面白味も覚えた。正直なところ彼は幸せ者だと思う。まずは両親から愛されている。これが基本だ。息子の自宅に遊びに行ったときのことである。まだ1歳を少し越えたくらいだっただろうか。ハイハイしかできないころだ。父親が勤めから帰ってきた。玄関の方から部屋に入ってきた息子を見て、孫がじつに嬉しそうに笑った。ああ、親子だなあ≠ニ思った。この関係はわれわれにはできない≠ニも感じた。もちろん、それが当然なのである。そんなところで本当の父親とじいちゃんが張り合えるわけがない。両親から愛情を注がれているだけではない。その両親の親たちであるわれわれじいちゃんとばあちゃんからも大いに愛されている。まだまだ応援団のメンバーはいる。ひいばあちゃんもいるし、おばさんだって控えているのである。わが孫はそのすべての人々がかわいい、かわいい≠ニ言いまくるのだ。そんな雰囲気の中にいるから、孫も笑顔でいることが圧倒的に多い。もちろん積み木などに注意を集中しているときは笑顔が消える。むしろ口を尖らせたり舌を出したりと、じつに様々な表情を見せる。つい自分の息子が赤ん坊のころを思い出す。しかし、そのときに笑顔がないのは、目の前の仕事≠ノ神経が集中しているからである。笑う必要がないのだ。とにもかくにも笑顔が多い孫を見ていて思うのである。人は、とくに幼いころにどのくらい笑顔≠ナいることができたか。それでその後の人生が決まるのではないかと…。とにかく笑顔はいい。笑っているときには Natural Killer(NK)細胞が増えるという。それは人間に対して悪さをする細胞たちをやっつけてくれる正義の味方の殺し屋である。

 

人間科学≠フ落とし穴08/06/22 -1933
 
混沌とした時代、行き場を失ってさまよう時代。経済が第一だと考える。とにかく最優先は勝つこと。負けるのは本人の自己責任。もちろん、なすべきこともせずにみんな平等なんて話は通らないと思う。しかし、勝った人間が本当に正義をもとに生きてきてその実りを得たのか。人を騙し欺き、それでいながら自分は賢いから≠ニ自らの成功≠正当化している人はいないか。負け組の連中は賢くないのだから≠ニ嘲りながら…。その一方では、うまくいかないことをすべて社会や他人のせいにする人たちもいる。それが極限に達すると人命を奪うような悲惨な事件を引き起こすこともある。いまこそ哲学が求められているのだと思う。もちろん、哲学だけにこだわる理由はない。人によってはそれが宗教であるかもしれない。あるいは個々人が持っている人生観や価値観であってもいい。とにかく自分や社会のこと、生き方のことなどをじっくり考える。いまこそ、それが最優先されるべき時代だと思う。哲学の復権、宗教の再生、人生観や価値観についての健康な思索…。とにかく行動やこころに関する何かが求められている。その流れの中で、私も関わりのある心理学だって、人の生き方に対するヒントを提起するようなことがあっていい。歴史的に見れば、心理学は哲学から生まれてきたことになっている。それは19世紀の終わりころから急に科学≠ノ変身した。こころの測定に数式を使い、実験を用いて行動の客観的な分析にエネルギーを注ぐようになった。それは隆盛を極めていた科学に少しでも近づこうという気持ちの現れだった。その状況は、あたかも科学に擦り寄っていくようにも見えた。その点こそが経済学なども含めた人間科学が陥った落とし穴ではなかったか。

 

哲学の衰退08/06/21 -1932
 
人の行動を正確に予測することはほとんど不可能なのである。その点、わが心理学だって大きなことは言えないが、経済学なども似たりよったりだ。いまのところ、政治や社会に与える影響は経済学の方が大きいかもしれない。なにせ精神鑑定なんぞは信用ならない≠ニ切って捨てる裁判官もいるのである。ルネッサンスを経て科学は大いに進歩した。ニュートン物理学はもちろん、天体の観察や数式の活用、さらに実験を導入することで物に関する研究が大進歩を遂げたた。自然界のことはなんでもわかるぞという、それ行けやれ行けの時代がやってきたのである。そんな華々しい成果を目の当たりにして、人間の行動に関しても同じような研究ができると考えたのは自然の流れだった。ただ、その思い込みが過ぎたのである。世の中、どっこいそうは問屋が卸さないというわけだ。そもそも哲学は万学の女王≠ネどと呼ばれ、すべての学問の生みの親だと考えられていた。しかし、歴史の流れの中で、哲学はただ頭で考えるだけで現実には何の役にも立たないといった評価が定着して、いつの間にか廃れてしまったように見える。その責任の一端は哲学者にもあると思う。素人は寄せ付けないと言わんばかりの難解なことばや言い回し、いやことばとも言えない隠語を使って自己満足している。そのようにしか見えない哲学者が多かったのではないか。それはあんたが理解できないだけなのよ≠ニお笑いであれば、それはそうでけっこうだが、私は哲学が人々の心から遠く離れてしまったように思われる。しかし、本当は人間にとって哲学はなくてはならないものなのだ。今日の身動き一つできないような閉塞した時代の中で、人間そのものや生き方についてしっかり考える哲学が必要なのだ。

 

天の邪鬼08/06/20 -1931
 
天気に関わる個々の現象はすべて物理的なものだ。大気といってもそれを構成するのは分子や原子に違いないから、これだってモノそのものである。また大気というか空気の通り道にある山や平野などもモノなのだ。しかし山の高さや平野の形状、その広さ、それに微妙な温度の変化等々、お天気に影響をおよぼす条件には無数といえるほどの組み合わせがある。したがって天気はあくまで確率的にものを考えないといけなくなる。そして天気が確率的な事象だということになると、当たることもあれば外れることもあって当然なのだ。少なくとも100%確実なんてことはあり得ないのである。かくして天気のような物理的な現象ですら当たらないという状況が生まれる。それこそ、天気≠ヘ天の気分≠ニいうわけだ。これに対して人間の行動を予測する場合には、さらにさらに条件が複雑になる。モノの行動と人間の行動における最大の違いは意思≠フ存在である。自然界における物理的な現象を考える際の対象はモノである。モノには意思≠ネいから、それなりに先の予測が立てやすい。こんな条件ではこうなる≠ニいうことが確率的問題として言いやすいのである。しかし、人間の行動には意思≠ェ加わる。これが行動をとんでもなく予測できないものにする。そしてたいていの人はこうする≠ュらいのことしか言えなくなるのである。なにせ世の中には天の邪鬼さん≠ニ呼ばれる人たちが少なくない。ある予測を立てると、それにわざと反する行動をする人が出てくるのだ。そこでこちらも負けじとばかりに、天の邪鬼≠ェいることを前提にして予測を立ててみる。ところが、そのことを知った天の邪鬼氏≠スちは、それを踏まえた上で反天の邪鬼%I行動を取る…。

 

話のズレ08/06/19 -1930
 
原油高騰の話から天気予報の話題へと内容がズレてきた。まあ、これが味な話の素≠フ最大の特徴だから、このままの流れで先に進んでいこう。ただし、私自身はあることを強調したくて、一連の物語をはじめたのだった。それはタイトルにするとインフレの勧め≠ニでも言うべき内容である。あまりにも景気が悪いから、むしろ意図的にインフレ≠起こそうなんて言う学者もいた。インフレターゲット≠ネる用語まで使われていたがその後どうなったのだろうか。まあ、私としてはとにかく経済関係の人たちの言うことはかなり怪しいところがあると思っている。それはともあれ、一般的にはインフレ≠ヘ勧める≠謔、なものではないんだろう。それがわかっていながらインフレの勧め≠ネんてことを書こうというのだから、それはそれで私なりの魂胆があるのだ。それがマイナスに働くインフレでないことは当然である。ちょっと思わせぶりだけが強くて恐縮だが、数日後くらいにインフレの勧め&ィ語も書くつもりである。じつはこのネタを少し前に行った講演ではじめてお披露目した。そのとき聞いていただいた多くの方々から、そうだなあ≠ニいう反応をいただいた。ああ、いけないいけない、いささかもったいぶりすぎですかねえ。そんなにじらさずにいま書いてしまえ≠ナすって? いえいえ、もうちょっとのご辛抱です。少しばかりお持ち下さいな。というわけで、天気予報の話をもう少し続けることにしよう。そうは言っても、もう本日分の720文字に達しそうになってしまった。ヤレヤレである。ともあれ、天気予報があくまで予報であって、けっこう当たらないように見える理由ははっきりしている。天気を取り巻く外的な条件が複雑だからである。

 

お空の気持ち08/06/18 -1929
 
予測が難しいのは人の行動だけではない。月曜日の朝の天気予報だと熊本地方は午後から雷を伴った大雨になるはずだった。それはもう洪水まで心配しないといけないような雰囲気があった。朝方はほとんど降っていなかったが、これが昼過ぎには凄いことになるんだろう。そんな思いで仕事場に出かけた。ところが午前中の授業を終えて正午になっても雨は降っていない。研究室からキャンパスを歩く学生たちを見ても一人として傘を差している者はいない。雨は降っていないのである。それでも、空全体がにわかにかき曇り、大粒の雨が地上めがけて落ちてくるのだろう。そこまで読めるかどうかがプロと素人の違いなんだ。なんて気持ちにもなっていた。しかし、その後も雨の降る気配はまったくないままに時間が過ぎていった。そして3時ころには、すっきりした白い雲の向こう側には青空が見えはじめたのである。かくして大雨を覚悟して持っていった傘だったが結局は使わずじまいと相成った。夜のニュースを見ると熊本より南側の鹿児島地方はけっこうな降りだったようだ。前線がほんの少しばかり%にズレただけで、予想はそれほど誤ったわけではない。とまあ、専門的にはそんなところで落ち着くのだろうか。しかし予報を受け止める側としては、今日の予報ははずれだ≠ネんて考えてしまう。衛星やスーパーコンピュータを駆使しても、お空の気持ちピッタリと予測することは至難の業のようだ。われわれの仕事では研究費もどんどん減っている。そんな状況のもとで、対人関係や組織の安全について、何とか役に立つ成果を上げようと踏ん張っている。そう考えると、人の行動をうまく予測できなくてもいいか。いやいや、そんなことは口が避けても言ってはいけない。

 

衰退する国08/06/17 -1928
 
もっとも経済学だけを責めるわけにはいかない。心理学を含めて人の行動を予測するのはもともと至難の技なのである。しかし、経済学に関わる人たちはそれなりの影響力を持って公的にも発言している。だから、少なくとも自分の言ったことについては責任を取る必要がある。それはともあれ、このところの原油高騰は世界中の人々の生活に大きな影響をおよぼしている。そしていつものことながら、そのしわ寄せはの結果は弱い立場の者に押し寄せる。飢餓で苦しむ国の人々は、その影響を最初に受けることになるだろう。ところで、偏在する石油については、その危機が繰り返し襲ってくる。しかし、いまから40年ほど前の日本には、そんな危機を何とか乗り越えようという大きなエネルギーがあった。中東の紛争に関係して、いわゆる石油ショックが何度か起きたが、わが国はそれを省エネなどの努力でうまく克服したのである。その点では国際的にも大いに評価されたものだ。そしていまでも、人知れず血のにじむような努力を続けている人々がいるはずだ。それはそうなのだが、このごろの様子を見ていると、わが国ではそうしたパワフルなチャレンジ精神がひところよりも弱まっているような気がしてしまうのである。たしかに歴史を振り返ってみても、栄耀栄華を永遠に楽しんだ国はない。あのローマ帝国だって滅びたのである。個人のレベルでは人間は生まれてからある時期までは成長を続ける。しかし、一定の成熟を達成すればあとは衰退していく。そしてついにはこの世とサヨナラとなる。しかし、その代わりに新たな生命を生み出して次に繋げていくのである。この繋ぐことろが国のレベルになるとなかなかうまくいかない。繁栄した国はひたすら衰退していくように見える。

 

予測と予想08/06/16 -1927
 
はなはだ失礼ながら、経済関係の専門家も十分に先は読めないようだ。もう20年近くも前になるだろうか。日本の景気が傾きはじめたころ、いつごろ回復するかが大いに話題になった。そのころ、やれ今年の春ごろ≠セの秋口までは厳しい=Aいや来年初めころだ≠ネどといろんな予測があった。しかし、素人目にはどれも外れではなかったか。人間は何でもかんでも忘れやすい動物だ。あのころに誰がどんな予測をしていたかなんて憶えてもいない。しかし、胸に手を当てれば少しばかりは心が痛む専門家がいるのではないか。いや、そんな気の弱いことでは予測なんてできない。それはそうかもしれないが、それならそれで、あのときの予測は間違ってました≠ニ認める必要はあるだろう。さらに、予測を誤った原因をきちんと整理でいることが必要だ。そうでなければ、それは単なる予想屋さんであって科学者と呼ぶわけにはいかない。原油のバブルだって、いつか崩壊する≠ネんてことを言うだけなら、素人の私にだってできるのである。いつ∞どんな理由で∞こんな形で&壊していく…。そこまで押さえた予測ができてこそプロではないか。ところで最近では行動経済学≠ネるものが台頭しているという。その大きなポイントが経済は感情で動いている≠ニころにあるらしい。しかし、それは当たり前のことである。経済学の歴史はまるで知らないが、いままで人の感情を考えてこなかったとすれば、その方が驚きというほかはない。ある本によると、過去の経済学は合理的経済人≠フ行動を前提にしていたという。それを聞いただけでも私なんぞはえーっ≠ニ叫んでしまう。世の中がそんな人間ばかりなら、宝くじやギャンブルなんぞ成立するはずがない。

 

学習能力欠如08/06/15 -1926
 
過去から学べない人類は、ひたすら滅亡に向かって走る。先進国が省資源を訴えても、発展途上の国々は聞く耳を持たない。自分たちはさんざん資源を使いまくったくせに、ここにきてわれわれに資源を使うななんて身勝手も甚だしい=B心情的にはその意見の方が迫力がある。先進国側に説得力がないのである。そんな中でわが国は省資源、省エネルギーで世界のトップを走っている…。とばかり思い込んでいた。ところが、それもかなり怪しいようだ。太陽電池の生産ではドイツに抜かれたという。ドイツは省エネや環境対策のノウハウを産業の中核に据えようとしているようだ。それが輸出に結びつく新たな産業になるというわけだ。わが国は世界中でこの手の分野で競争していかなければならなくなるはずだ。そんな状況だから国会でゴタゴタをやってるヒマなどないのである。いずれにしても、資源の奪い合いなどが高じると、その結果として戦争がはじまったり、大量の難民が生まれたりして地球全体が究極の危機に直面する。そこまで行く前に何とかしなければならないことはわかりきっている。しかし、それが人類にとってはまことにむずかしい。暴飲暴食≠警告されても、たばこを止めろと言われても、ハイそうですか≠ニ行動を変える人はきわめて少ない。そして気がついたらもう取り返しがつかないところまで来てしまっている。もう入院して手術するしかない。あるいはその手術だって手遅れになっているかもしれない。そんな人間が集まった人類社会なのだから、その行き着く先も危うさにあふれている。ともあれ、原油のバブルだってはじけるに決まってる。そんなことは素人にもわかる。プロの経済学者にはそれがいつ起きるのかまで予測してほしいものだ。

 

原油バブル08/06/14 -1925
 
経済学の専門知識はないが、一般的に景気は変動すると言われている。好景気だけが続くわけにはいかず、一定の期間を過ぎると不景気が襲ってくる。その変動のショックをできるだけ抑えて緩やかでも成長する状況を作り出す。それが政府に期待されている役割なのだろう。しかし、そこがなかなかうまくいかない。そもそも人間というのは過去に学ぶことのできない%ョ物だと思う。アメリカのサブプライムローン問題にしても、日本のバブル崩壊から何も学んでいないように見える。そんな中で今度は天井知らずの原油価格高騰である。実体を伴わないものはいつか破裂する。世界中では金が余って行き場を失い、それが原油につぎ込まれているらしい。どこの誰がそんなことをしているのか知らないが、この原油の高騰騒ぎでも儲ける人間は徹底して儲けるのだろう。そして、その行き着く先はバブルの破裂である。そのときに、調子に乗りすぎた人間たちだけが損をするのなら、それは自業自得というものだ。しかし、そこがそうはいかないのがこの世の中である。むしろ、とても賢い$lたちは危機をちゃんと切り抜けて生き残るのではないか。そんなわけで、現実は勧善懲悪物語≠ェ成立するとは限らない。それに、何の事情も知らないわれわれ一般人も、預金などを通してそうしたところに資金を提供している可能性だってある。それはわずかな額だとしても、結局は個々人の資金が集まって投資されているのである。とにかく、この時代は一人ひとりも世界の経済情勢からまったく無関係というわけにはいかないのだ。しかし、そうだからといって、私たちは勧善懲悪≠フ理想を捨ててはいけない。このまま放っておけば、人類は行き着くところまで行くしかないではないか。

 

選択の自由08/06/13 -1924
 
水泳の水着については決着がついた。その際に解禁≠ニいうことばが使われていた。これは事情を知らない素人から見れば奇異な言い回しである。競技の際に指定された水着以外を着てはいけないということだ。違法なものを排除したり、不当な競争をもたらすから使用してはいけない≠ニいうであれば禁止≠キるのもわかる。それは当然のことである。しかし、そうでもないのに特定のもの以外を使ってはいけない≠ニいうのはどうしてか。詰まるところはお金の問題に落ち着くのだろう。いわゆる契約したスポンサーが資金を出してくれる。その代わりにその会社以外のものは使わせないということなのだ。まあ、それがこの世の中というものよと言われれば、それだけの話である。取り立てて文句を言うほどのことでもない。しかし、それにしても今回の水泳に関しては連盟も譲らざるをえなかった。あまりにも露骨に記録が出すぎた。それは水着の特性だけでなく、これを着れば早く泳げるかもしれない≠ニいう選手の気持ちまでプラスに働いたかもしれない。スポーツはとくにメンタルなところで大きな差が出る。何といってもスポーツの世界である。実力の差を見せつけられたのであれば、現実を潔く認めることだ。それがスポーツマンシップにも叶うことになる。その上で技術を磨いていけばいい。連盟のお偉いさんが解禁したことに関して、これで選手たちに言い訳をさせない≠ネんて発言をしていたこれをバックアップと受け止める見方もあるようだが、私には余計なプレッシャーをかけているように聞こえてしまった。いい、いい≠ニ言いまくった選手たちがお気に召さなかったのだろうか。ご本人のお気持ちはわかるはずもないが、私にはそんなに見えました。

 

目的外使用?08/06/12 -1923
 
いまアメリカの自治領で拘束されて話題になっているM氏がコンビニを訴えた。彼はそこで万引きしたとして裁判中である。それを聞いたときは、万引きそのものが冤罪だと訴えているのかと思った。ところがそうではないらしい。コンビニが撮っていた防犯カメラのビデオをマスコミに渡したことを問題にしているという。その結果、再三放映されたため、肖像権を侵されたというのである。もちろん万引きは犯罪である。しかし、その模様を撮したビデオを犯罪の立件以外に使っていいのかどうか。裁判所はどんな判断をするのだろうか。その結果には大いに関心がある。日曜日から大変な衝撃を与えた秋葉原の事件でも同じようなことが起きている。容疑者がお店で凶器を購入する模様が流されている。犯した犯罪は許すことができない。そして、それに直結する凶器の購入状況も知る権利に含まれるのかもしれない。しかし、あれはあくまで個々のお店がセットしている防犯カメラである。そのお店自身が犯罪にあったわけではない。また、犯人が捕まらないために、一般人にも情報提供を求めることが不可欠の事態でもない。加害者はすでに捕まっている。その点で、ビデオは明らかに本来の目的とは異なる使い方をされている。どんなことでも目的外使用≠ヘ問題をはらんでいる。いったん外れ出すと、その逸脱範囲がどんどんと広がっていくのが世の常だ。今回のような許すことのできない犯罪だと、人々の許容限度も低くなる。あんな事件を起こした人間なのだから、防犯ビデオの映像が公開されても仕方がない。そうした気分が漂っているような感じがする。こうした流れが、いつの間にか一般人のビデオまでもがどんどん流出する可能性を高めていくことにならないといいが…。

 

16本のレール08/06/11 -1922
 
そこで鋼≠電子辞書で引く。とてつもなく固く強いことを鋼鉄のごとく≠ニいう。またはがね≠ニいうことばも、何ものをもはじき飛ばすような強いイメージがある。つまり鋼≠ニはきたえた鉄≠ネのだそうな。さらに具体的には、鉄と炭素の合金で炭素の濃度が2.0パーセント以下のものらしい。いろいろな成形が可能で、熱処理をすることでその性質が著しく変化する。それがどんな性質になるのか。その点は電子辞書程度では詳しく書かれていない。まあ鋳鉄≠ニの違いが漠然とわかればそれでよしとしよう。ともあれ、映画の影響もあり「キューポラの町」として九州の私も知っていた川口市だが、いまはその名残はまったくなかった。とにかく駅の周りには高層のマンションが立ち並んでいる。これから建築というところもあちこちにある。それはそうだろう。東京から電車で30分程度のところにあるのだからベッドタウンとしては最適地に違いない…。さて、東京で並行して走る電車の話に戻ろう。山手線の浜松町あたりで外を見ると、京浜東北線の他にもこれまた同じ方向に電車が走っているのが見える。東海道線である。こちらは山手線ほど小刻みに止まらない。実際に乗ってみたら、品川を出ると次はいきなり川崎だった。東海道線はいわゆる遠距離を前提にした線ということなのだろう。したがって町と町を結ぶ、いわばシティライナーなのだ。こうして東京では3種類の線路が独立に走っているのである。しかもこれだけでは終わらないからさらに驚くいてしまう。その向こうには東海道新幹線が16両編成の長い車両を光らせながら颯爽と走っているのだ。そして4本の路線が当然の顔をして並行している。まるで、それがどうかしたの≠ニ言いたげに…

 

京浜東北線08/06/10 -1921
 
羽田から浜松町までモノレールで行く。その後、山手線に乗るとまたすごい光景が目の前に飛び込んでくる。まずは自分の電車と反対方向に同じ山手線が走る。これは複線だから当然のことで鹿児島線でも普通に見られる。しかし東京の場合は同じ方向に隣り合わせで走る電車がある。これは京浜東北線である。山手線はグリーン、京浜東北線はブルーが基調だ。少し前までは全体がグリーン、ブルーだったが、最近はステンレス製の新しい車両が走っている。私自身はほとんどの場合、浜松町からは山手線を使用する。そんな中で、先日は川口方面に行く機会があった。川口といえば埼玉県、九州人である私には東京からかなりの距離にあると思い込んでいる。ところが、それはまったくの誤りだった。なにせ田端までは山手線と共有している。その田端を出てから5つ目がもう川口である。川口といえば鋳物の街として知られていた。私は見ていないが、吉永小百合も出演した「キューポラの街」という映画もあった。電子辞書版の広辞苑によると、キューポラとは溶銑炉≠フこと。そう言われても溶銑炉≠ェわからない。そこで溶銑炉≠引くと、鋳鉄を溶融する簡単な炉≠フことだそうな。材料は炉頂から投入し、装入語点火送風し、とけた地金は底部から出る≠ニある。さて、鋳鉄≠ニはなんぞや。そこでまた広辞苑。2.0パーセント以上の炭素を含む鉄合金。通常、炭素のほかに珪素・マンガン・燐などを含む鋳物用工業材料=Bさらに、鋼に比し機械的強さは劣るが溶けやすく鋳造が容易≠ニ続く。なあるほど勉強になるなあ。ところで鋼≠チて何? ここまで来るとついでだ。鋼≠セってはっきりさせとこう。なにせ電子辞書はピッピッピーでちょいちょいと出る。

 

東京モノレール08/06/09 -1920
 
羽田に着くと浜松町までモノレールに乗るのがお決まりのコースだった。たいていの人がそうだと思う。東京モノレールは1964年の開業である。東京オリンピックが開催された年だ。これに合わせてスタートしたのである。東海道新幹線もこの年の10月に走り始めた。それ以来、どちらも数え切れない人を乗せて走っている。私なんぞも羽田に着くとモノレールしかないと思っていた。新宿などの都心に向かうバスもあるが、東京の道路は高速も含めて渋滞するという先入観もあってまったく乗ったことがない。例外は成田とディズニーランドに行ったときだが、これは都心向けではない。つまりは一般人にとって東京都内に行くにはモノレールしかなかったということである。ところがこの数年は状況が変わりつつある。私鉄の京浜急行が羽田に乗り入れたからである。これがちょうど10年前の1998年である。京浜急行は羽田を出ると蒲田にに向かう。そこからさらに品川へと走る。その後は泉岳寺を経て都営の地下鉄である浅草線に乗り入れるのである。この地下鉄に繋がったところが大きかった。地下鉄は網の目のように繋がっているから、乗り換えるといろいろな方面へ行くことができる。こうしたことから、東京モノレールとの競争が激しくなった。いつ乗っても満員といった感じのモノレールだが、2002年には株が日立物流からJR東日本に譲渡された。その経緯についての細かい事情は知らないが、現在はJR東日本の子会社である。それもあって休日は500円でJR山手線内のすべての駅まで行ける。浜松町までが470円だから30円プラスでOKなのだ。最も近い新橋や田町まででも本来は600円だから100円安い。池袋となると720円との差額は220円とこれは相当に大きい。

 

モグリの効用08/06/08 -1919
 
片側5車線のうち、交差点の手前で2車線を地下に潜らせる。これで信号機と出会わなくてすむことになる。したがって外側の車線を走る車は信号で左折するか右折するだけのものになる。しかも前方から来る直進車も下に潜るのだから、基本的には対向車がいない。そこで右折の車もほとんど待つことなく右に曲がっていくことができるのである。なあるほど、これほど簡単な問題解決策はあり得ない。しかし、こうした対応策をとっているのは東京以外にあるのだろうか。おそらく大阪くらいになれば何カ所かあるかもしれない。東京や大阪では公共交通機関が発達している。そのため。タクシーなどの車を使う頻度が極端に少ない。かくして、こうした交差点対策がなされていることにもあまり気づかないというわけだ。下に潜るという解決策はじつにシンプルな発想である。しかし、単純さは素晴らしいが、これを実現するためにには膨大な費用がかかる。信号を避けるために地下を掘ってしまうのである。それだけ渋滞がひどく、地下を潜る手立てをとるだけでも大いに経済効果があるというのだろう。それはそうなのだろうが、そんなことを平気でするように見える東京は、はやりお化けのような街であることは間違いない。もっとも、ここまで書いてからフット思い出したことがある。そう言えば熊本でも国道3号線を横切る際に立体交差ができているところがある。これは地下に潜る代わりに立体交差で上っていく。この場合も信号機に出会うことなくそのまま直進できる。その点で機能的には東京の潜行型と同じ働きをする。ただし、熊本の場合はいわゆる街のど真ん中ではない。私が見たのは新橋付近の道路であった。やっぱり東京は桁違いのことをするとしか言いようがない。

 

東京物語08/06/07 -1918
 
東京に出かけると、いつもその巨大さにため息をつく。少しばかり高層のホテルに泊まったときのことだ。朝食を取りながら外の景色を眺める。眼下に大きな道路が延びて、そこを車が走っている。東京は朝が早い。九州と比べると体感的には1時間は違う。もっと正確にと思ってインターネットでチェックしてみた。東京の今日の日の出は4時25分である。熊本は5時09分となっている。実際的にも45分ほどの差があるわけだ。ともあれ、朝食時にもなれば東京は完璧に明るく、すでに多くの車が道路を占拠しはじめている。ホテルから見える道路はやたらと幅が広い。両サイドに3車線あって、さらにその中央部の片側2車線が下に向かって潜り込んでいる。片側が3車線プラス2車線だから、あわせて10車線もある。ともあれ、真ん中の下に潜り込んでいる2車線はどこに続いているのだろう。それこそ地下を通ってどこかへ走り抜けるのか。そう思ったのはほんの一瞬だった。よく見ると、その道は少し向こう側でまた地上に上っているようだ。こちらから潜りこんだ車が向こう側に出て行っているではないか。それがわかると向こう側で消えた車がこちらに上ってくることにも気づく。あんなわずかな距離を下ったり上ったりご苦労なことである。それにしてもそんな面倒なことをどうしてわざわざするのだろう…。そう考える間もなく、その理由はすぐに理解できた。こちらの入り口と向こうの出口、もちろん向こうから見れば入り口と出口は反対になる。そんなことはどうでもいいが、この短いトンネルの上が交差点で、当然のことながらそこには信号機がある。なあるほど。朝食のシャケを口に入れながら納得した。あれは信号機を避けて走り続けるためのアイディアなのである。

 

マニュアル問題(22) 530日の続き08/06/06 -1917
  現実がマニュアル通りにしている時間がない≠アとが確認されているのであれば、その事実を明らかにする必要がある。そして、その結果として若干なりともマニュアルから外れた行為をしている現実をオープンにすることが重要だ。そうした認識を共有化した上で、その改善策を考えていくのである。そうでなければ、マニュアルを守らない≠アとが既成事実になり、それに従わないことが当然のことになる。そうなると、ますますおかしいのではないか∞まずいのではないか≠ニいった問題の指摘もしにくくなっていく、さらに、職場でこうした対応が常識化すると、その発想が他の領域にまで拡大することは容易に推測できる。もちろん、一時的といえども法的に違反するような行為は論外であることは言うまでもない。さまざまな理由があるにしても、絶対的な時間の制限によってマニュアルが守れないのであれば、マニュアルそのものを検討せざるを得ないのである。守られない現状を黙認したり放置したままでいるよりも、現実の問題点を明確にし、その解決策を考えていくことによって、新しい対応策も生み出されてくることが期待される。また職場の中にある問題がメンバー全員に共有化されるのである。ここで留意すべきは、「時間がない」ことが「マニュアル」に従いたくないという本音を隠す言い訳に使われる場合である。現実にこうした可能性がどの程度あるのか、そのデータは手元にない。しかし、仮にそのような現実があれば、そのことを最もよく知っているのは職場のメンバーたち自身である。この点については、当該の職場が自らの力で対応していくしかない。その際に重要な鍵を握るのは職場のリーダーである。ここでもリーダーシップが重要になる。

 

大型≠フ思惑 531日の続き08/06/05 -1916
  父親の血を引いて、子どもが生まれる前にフジカシングル8を買い込んだ。当時の月給を超える出費だった。れこそ清水の舞台から…≠ナはないが、相当の覚悟をして買ったことは言うまでもない。しかし、それも今は昔の物語。家庭用の8ミリ映画などはこの世の中から消えてなくなってしまった。わずか3分で2000円もした8ミリフィルムだが、わが家でもお蔵入りである。こうした時代の変化に対応して、数年前に8ミリフィルムをビデオにコピーしていた。ところが、そのビデオもいまでは過去のものになりつつある。それどころか電器屋さんではVHRのテープすら見なくなってしまった。今度はCDにコピーしないと見ることすらできなくなる。こんな状況だからこの先はどうなることか、見当すらつかない…。ところで、この話はもともとわが家のテレビが突如として赤色に変身したことからはじまった。つまりは故障したのである。そこで新しいものを買う必要が出てきたのだが、その際にITおやじの血を引く私と、その3代目の息子の意見が一致したことはいうまでもない。つまりは、どうせ買うなら大型≠ニいうことである。これまでのものが27インチだったから、それよりは大型≠ニいう点では、わが家も全員が一致していた。ただ、どのくらい大型か≠ニいうことになると、微妙な温度差が生まれていた。いや、微妙な≠ニいうよりは明確な∴痰「といった方がいいだろう。ITおやじの2代目と3代目はもちろん、この際は50インチだぞ≠ニ密かに通じている。しかし、その魂胆はすぐに見透かされて、強烈な抵抗勢力≠ェ立ちふさがるのである。50インチなんて、離れて見ないといけないでしょう。そんなスペースがどこにあるのよ…=B

 

サービス残業は大丈夫?08/06/04 -1915
 
勤務形態もさまざまな方式が生まれてきました。そんな中で、裁量労働制というシステムのもとで仕事をしている私たちの場合、9時から17時までといった明確な勤務時間の意識は強くありません。とにかく四六時中、何かをしているという感じです。もちろん仕事そのものが、自分の興味や関心に基づいていることが多いわけです。すべての時間ではないものの、世の中で言われる好きなことが仕事になっている≠ニいう状況があります。その点で、無理矢理にサービス残業を強いられている方々とは決定的な違いがあります。とにかくありがたや、ありがたや≠ニ感謝している毎日です。そんなこんなで、自分の裁量が尊重される私たちは、サマータイムになっても大きな問題は起きないかもしれません。というよりも、私自身の状況を考えると、いまの状況とほとんど変わらないと思います。しかし、そうでない方の場合は、まだ明るい≠ェ故に、ついついサービス残業をせざるを得なくなったりしないのでしょうか。その点こそが経済界がサマータイムを導入しようとするねらいなんだ≠ネどと言えば、下種の勘繰り≠セと怒られるんでしょうかねえ。そんなことってあり得ない≠ニいうのであればいいのですが…。サマータイムが実現すればたしかに明るいままのアフターファイブが長くなりますから、遊び時間が増えて消費が伸びるかもしれません。しかし、そうなるとエネルギー消費だって増加することになりますよね。いま盛んに叫ばれている省エネと環境保護にとってはマイナスの影響が出るかもしれません。財界をはじめ、政治家の中にもけっこうやる気がありそうな方がいるようですが、どうなりますことやら。光と影の両方を議論していただきたいものです。

 

身辺整理08/06/03 -1914
 
まだ明るいうちに家に帰ることに抵抗を感じる。そんなサマータイムの状況で何が起きるでしょうか。まだこんなに明るいんだから、もっと仕事だってできるだろう≠ネんてことになりそうな気がしませんか。その結果として、サマータイム導入とともにサービス残業がますます増えたという話にでもなったら、それこそ笑い事ではすまなくなってきますよね。ところで、われわれ大学に勤めている教員は裁量労働制という制度が適用されています。この場合、まずは雇用者と労働者が1日あたりの労働時間を決めます。たとえば1日8時間で週5日ですから1週あたりは40時間ということになります。したがってどんなに仕事をしても、とりあえずは8時間と見なします。個人的なことですが、私なんぞは朝の4時ころからキャッキャ°ゥびながら仕事をしています。夜も食事と若干の家族の会話が終わると、やはり机の方に向かうのです。私はアルコールをまったくやりませんので、夜だってキャッキャ¢宸ャながら仕事をすることができるわけです。そんなこんなで、論文原稿の90%はわが家で書いています。とくに朝の時間が頭もスッキリしていますから、効率も最高なのです。それでは研究室では何をしてるんだ≠ニ思われるかもしれません。これがまた、いろいろありです。とくに最近はあれやこれやと書類を作成する時間が多くなってきました。朝はけっこう早く職場に出かけますから、大体8時には研究室に着いています。しかし、書類をつくったりお客様とお会いしていると、あっという間にお昼になってしまいます。その上、私も次第に先が見えてきましたから、短時間ですが研究室で身辺整理をはじめました。ものごとの整理をするのはそれなりに楽しいものです。

 

サマータイムは疲れる?08/06/02 -1913
 
ヨーロッパでは夜の10時近くまで子どもが町にいる。といっても、私が見たのは家族連れではあった。だからそれなら健全でいいじゃないかと言われればそれまでのことではある。しかし、サマータイムなんぞを導入すると、ことの勢いで世の中全体がさらに夜更かしになっていくのではないかいな。その上、相対的には朝は早く起きることになるのだから体が休む時間は少なくなってしまう。そのせいで疲れてしまって、仕事がいい加減になるなんてことになったら、経済界も困るでしょう。何のことはない夜更かしすれば電気だってさらに使ったりして…。そうなるとサマータイムが省エネにも効果的という話でもなくなってしまう。まあ、やるまえからあれやこれやと文句ばかり言っている。私自身はそんなやり方は好きな方ではない。しかし、ことがサマータイムの話になると、単純にめでたしめでたしとはいかないのではないかと思ってしまう次第である。それにとにかく仕事の効率ばかりを優先するのもいかがなものか。歴史的な事実との関わりを葬り去って、このごろは祝日が変な日に回されている。とにかく休日増やしだけを優先するハッピー・マンデー≠ネんて奇妙な制度である。これなんか、私に言わせりゃあアンハッピー≠サのものだ。おかげで月曜日の講義が頻繁に潰れてしまう。そんなことで今年も1月7日に補講なんぞして、学生から顰蹙を買ってしまいましたよ。やれやれ…。それにですよ、サマータイムがはじまれば仕事が早く終わってエンジョイできる≠ネんておっしゃってますね。しかし、これまたかなり怪しい感じがしてしまうのですよ。なにせ勤勉≠ネ日本人のことです。まだ日差しがまぶしい真っ昼間にお疲れさーん≠ニ言って帰れますか。

 

サマータイム08/06/01 -1912
 
経済界がサマータイムの導入を提唱している。大抵の方はご存じだと思うがサマータイムは夏になると時計を1時間早めるのである。いまの8時が1時間繰り上がると9時になる。夏場は太陽が早く昇る。少しでも暑くならないうちに仕事をすれば能率も上がる。それに16時が17時になるのだから、仕事が終わった後も明るい時間が延長される。九州だと夏場は20時少し前まで明るさが残っている。ということは、サマータイムになれば夜の9時ころまで明るいという理屈である。そうなると暗くなるまでゆっくり時間を過ごせるではないか…。とまあ、そんな話だけならサマータイムもけっこうなように思える。しかし、どんなものだって裏もある。そもそもが世の中を斜に構えて見る性癖のある私なんぞはそうかなあ≠ニ疑わしそうな顔もするのである。まずは何といっても季節感が崩れてしまうのではないかと思う。あっという間に暗くなる冬を乗り越えて春になり、夏が近づいてくる。そしてちょうど今ごろになると決まって交わされる会話がある。ずいぶんと日が長くなってきましたねえ=Bこれに対する答えもかなり予測しやすい。そうですね、ほんのこの前までは6時でも真っ暗でしたものねえ…=Bいかがでしょうか。これは時間が固定されているからこそ可能になる会話なんですよね。それにヨーロッパなんぞでは夜の10時近くまでよちよち歩きの子どもがいたりして驚いたことがある。おやおや、ここでヨーロッパの話題を出してしまいました。いかにも自分はヨーロッパを知ってる≠ニひけらかしていますよね。じつは2年前にギリシャに行ったのがはじめてだったんですけど…。それにしても、この手の話は言えば言うほど嫌みな自慢話になってしまうなあ。