3分2000円の映像29日の続き(08/05/31 土-1911)
新しもの好きの父が27インチのテレビを買ったのは、まだ前世紀の1980年代だったと思う。今でこそ大した大きさではないが、その当時は新聞大の画面≠ネどといったCMも流れていたような記憶がある。そんなこんなで、その息子である私自身も父の血を受け継いでいるところがある。私に子どもができたとき、いや正確にはできるとわかったときには8mmカメラを買った。そのころは家庭用のビデオカメラなどなかった。いまの若者には知らない人の方が多いだろうが、いわゆる映画の撮影機でフジカシングル8≠ニ名付けられた製品だ。参議院の議長までした扇千景氏はそのころ俳優を業としていた。その扇氏が私にも写せます≠ニいうセリフでコマーシャルしていたのがフジカシングル8≠セった。そのネーミングから推測されるように富士フイルムの製品である。なにせ、フィルムだから、いったん写すと成功か失敗しかない。テープのようにいらないところは消して、違う場面を上書きするなんて器用なことはできないのである。それにも拘わらずフィルムは3分で2000円ほどもした。いまから30年以上も前の2000円である。もちろん撮影機材であるフジカシングル8≠サのものが、当時の私の月給を超えていた。その代わり、最新鋭のトーキーだった。トーキー≠熈それって何ですか≠ニいう人が多くなっているだろう。これは英語のtalkie≠ナ、映像だけでなく声も出る映画のことである。いまではそんなもの当たり前でしょそ≠ネのだが、映画そのものがスタート時は音が出なかった。いわゆる無声映画である。映像と音を合わせることが技術的にむずかしかったのである。そのため、映像に合わせて物語を展開させる弁士と呼ばれる人々が活躍した。 |
マニュアル問題(21) 25日の続き(08/05/30 金-1910)
一人ぐらいマニュアル通りでなくても大丈夫だろうと考えるから=Bこれはきわめて危険な発想である。こうした精神構造は結果的には「一人」のことでは終わらなくならからである。それは職場全体に拡散していくのである。こうした状況の中で、お互いにマニュアルを無視したり軽視ししているうちに大きなミスや事故が起きる。その後になってはじめて、「1人」ではなく「全員」がマニュアルをないがしろにしていたことが判明するのである。とくに単独で仕事をすることが多い職場では、このような事態が起きる可能性が高くなる。仕事仲間に自分がマニュアルを守っていないことを気づかれないからである。事故や災害が起きてから、いろいろな弁解がなされる。「自分一人くらいなら大丈夫だろう」「問題があっても誰かが対応してくれるだろう」。こうした実態は新聞報道などでも頻繁に明らかにされている。マニュアル通りにしている時間がない℃タ情を訴えるものもある。この場合は、「時間の制約」が重くのしかかっている。絶対的に時間が厳しいのであれば、その事実を前提にマニュアルを調整することが必要になる。そこで、まずはマニュアル作成に関わった人間にその事実を伝え、てニュアルを改善してもらうこともあり得る選択だ。しかし、現実にはそうした連絡そのものが面倒だということになちがちだ。その結果として、問題になる情報がたち消えてしまう。目先のことを考えれば、マニュアルを守らなくても仕事ははかどっている場合は、とくに問題にされることもない。しかし、時間がないから≠ニいう理由づけがこころの免罪符になる。そうした心の動きがマニュアルからの逸脱をさらに促進するマイナス効果を生む。そうなると問題はますます深刻化していくことになる。 |
βの戦略ミス(08/05/29 木-1909)
ソニーのベータマックスが世界初のホームビデオとして独走したのは1年半ほどの間だった。満を持して発表されたVHSの新聞広告には、いきなり2時間録画≠ニいう文字が躍ったのである。その衝撃は大きかった。しかも画質が落ちるのを承知であれば3倍速の6時間まで録画可能というのである。これでは勝負にならない。画質そのものはベータが上だ≠ニ言う人もいた。素人の私にはその評価はできない。しかし、庶民は花より団子≠ネのだ。映画劇場≠録画したいのに30分ではお話にならない。その後になって、ソニーはベータU・ベータVとテープスピードを落とした長時間使用のVTRをつくって対抗する。しかし、それ以前に30分仕様を買った人たちは、また新たに買わざるを得なくなったのである。既存の機器でも対応できるようにするのであれば文句は出ないだろう。しかし、録画スピードが変わらない限りテープを4倍の長さにするなんてことは不可能だった。世界初≠熨蜴魔セが、それはユーザー側の立場も考慮した上での話である。その点では、ベーターはスタートの時点から戦略を誤っていた。私もおやじに録画時間が長くなるまで待った方がいい≠ニ忠告していた。しかし、生来の新しもの好きの父はそれも聞かずに30分機を買ってしまったのである。そんなことから、いまでも苦い記憶が頭に残っているというわけだ…。ところで、今風で言えばIT好き≠フ父にはまだまだサプライズさせられ続ける。子どもたちを連れて福岡の実家に里帰りしたときのことだ。部屋の襖を開けると突然巨大なテレビが目に飛び込んできた。何とそこには、ほんの少し前に発売されたばかりだった27インチの大画面テレビが鎮座ましましていたのである。 |
ビデオ戦争 (08/05/28 水-1908)
私の父が買った昭和30年代のポータブルラジオは当時としては相当の高級品だったはずだ。電源もすごかった。小城羊羹のようなでっかくてやたらと重い積層電池を使って携帯化を実現していたのである。もちろん家庭用のコンセントからも電気を取れたはずだが、うちの中のどこにいても聞けるというのが携帯ラジオの大特徴だった。はっきりした記憶はないが、その巨大な電池の寿命がきわめて短かった。しかも充電式なんぞではないから、電池が切れると新品を補充しないといけない。これが大きさ以上に相当に高額で、おそらく家計を預かる母の頭を悩ませたに違いない。その後もわが父はいろいろなものを先取りして買った。その中の大物の一つに、出たばかりだったソニーのベータマックスがある。こちらは30分しか録画できないという代物だった。何といっても世界初≠売りにしていたソニーだから、このベーターマックスも世界初の家庭用ビデオ≠ナあった。それを強調するために、ソニーとしてはわずか録画時間が30分にも拘わらず販売に踏み切ったのだろう。しかし、それはどう考えても消費者志向とは言えなかった。ベータの発売は1975年5月だが、それから1年5ヶ月ほど経ってから2時間録画のVHSが登場した。その後は世界中を巻き込んだ壮絶なビデオ戦争が展開されることになる。その結果、最終的にはソニーが敗れたことは承知の通りである。当時はいわゆる洋画劇場≠ネる番組が出始めたころである。少なくとも1時間30分程度は録画できる機能を持たせないと庶民の期待に応えられないことは明らかだった。VHSを開発したビクターはとにかく2時間に拘ったようだ。そのため1年以上は、ホームビデオはソニーの独壇場だったのである。 |
ITおやじのルーツ (08/05/27 火-1907)
テレビが真っ赤≠ノなってしまったからには、その対応策を考える必要がある。もう選択肢は限られている。この事実を車で30分ほど離れているところに住んでいる息子にも伝えた。電話の向こうで、心なしか弾んだ声が聞こえた。ああそう、それなら新しいのを買うしかないね=B私の答えは単純そのもの。そうだな≠フ一言である。これに追い打ちをかけるように息子の声が続く。こんどは大型だよね。50インチとかも出てるし…=B私としてはその提案を待っていたといえる。何といっても正真正銘の元祖テレびっ子≠ナある。このごろ大キャンペーンを張っている大型テレビを選ばない手はない。ただわが家もどこかの政党に同じで、テレビに関しては必ずしも一枚岩とは言えない状況に置かれていた。わが家のメンバーのうち、約1名が部屋の大きさを考えると、あまり大きすぎるのはいかがなものか≠ニ否定的な見解を表明していたのである。もう1人は中立的な考えを表明していた。こうした状況下では、すでに独立はしているものの、息子の意見はきわめて重要な意味を持ってくる。いわゆる多数派工作が可能になるからである。これは相当に有利な状況だ。中立の者を除けば絶対多数の2/3を占めるから、一度否決されても再可決の道が残されている。こうなると勇気100人倍、どこかの国のように何でもかんでも結局はOKになるのである。私も息子もテレビ系になると血が騒ぐ。そのルーツは、少なくとも私の父親にまで遡ることができる。そもそも私の父も、いまで言うならITおやじ≠セった。昔風に表現するならエレキ・オタク≠ニいったところだろう。まだ昭和も30年代のことだが、その当時に真空管を使ったポータブルラジオを持っていた。 |
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真っ赤なテレビ (08/05/26 月-1906)
私はテレビっ子≠ナある。もちろん、それは昔の話で、いまはテレビじいさん≠セ。なにせ小学生のころはテレビそのものがなかった。その後、テレビが世の中に出始めても、それは超大金持ちのお家の話だった。だからわが家にテレビが来たときは、もう死んでもいい≠ニ思うほど嬉しかった。そんなことだから、テレビの話を始めると3ヶ月くらいの連載になってしまう。それでは本コラムも読んでいただけなくなる。それでは困るので、ここは気持ちをぐっと抑えることにしよう。今日のところは2ヶ月ほど前にわが家のテレビ画面が真っ赤になった話に焦点化しておこう。それは本当に突然の変調だった。テレビを見ているときにそうなったのではない。ある日の朝のこと、いつものようにリモコンのスイッチを入れたら、画面が妙に赤っぽく映ったのである。したがって真っ赤になった≠ニいうのは私のいつもの大げさな表現である。その色合いを正確に使えることはなかなかむずかしい。ここでは赤っぽい≠ェ実態に最も近いだろうか。これは素人の推測だけれど、テレビの色の素である赤青緑≠フ青≠ゥ緑≠フ部分がアウトになったのだと思う。問題のテレビとのお付き合いは、15年以上にはなっていた。その間にリモコンも壊れて、同じものを注文したらやたらと高くて驚いた記憶がある。電気屋さんではどの会社のテレビにも使える汎用のリモコンを売っているが、その存在意義が十分にわかった。とにかく純正は高いのである。それはともかく、画面が赤っぽい≠フはテレビの寿命のせいだと思われた。しかも気のせいもあるのだろうが、その状況が日を追うごとにひどくなってくるのである…。やれやれ、またまた本題に入る前に720文字になっちゃいました。
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マニュアル問題(20) 19日の続き
(08/05/25 日-1905)
マニュアルを憶えていないが、マニュアルを引き出して見ることもしない≠ニいう問題だが、確信犯的に見なくていいから放っておく≠ニいうのは論外である。これはちゃんと確認しなければならない。それが正解だ。こうした場合に問題になるのは、どうだったかな≠ニか、これでよかったかな≠ニ少しでも疑問に思うようなときである。その際に、まあ、いいや∞おそらく大丈夫だろう≠ニいう判断でマニュアルを確認しないとなると、これは大きな問題を引き起こす可能性が高まる。それは、そのときどきでは問題が起こらなくても、そうしたメンタリティというか、対応のパターンが一般化する危険性があるからである。この場合、「手抜き」といった意図的なものでなく「時間不足」に原因があることもある。前者は明らかに意図的だが、後者の場合は状況要因も大きく働いている。しかし、正確に言えば、そうした時間が迫ってきたのは本来の仕事の状況が問題なのか、個人的な要因によるものかに分けられるだろう。今日では成果主義∞人員削減≠ェ常識的なスローガンと化してしまった。文字通りの意味では成果≠大事にするのは当然である。また、無駄な仕事≠ェあればそれを整理し、その結果として人数を減らすのも、また当然の対応である。しかし一口に成果≠ニいっても、そのすべてが目に見えるとは限らない。私は真の成果=見える成果×見えない成果≠ニいう式を提案している。ともすれば、見える成果≠セけが強調され、評価される。じつは、その裏でごまかしが起きたり、働く人の意欲を低下させる事態が生じている。そんなことが少なくないのである。ごまかし≠竍意欲の減退≠ヘすぐには目に付かないが、時間をかけてゆっくり効いてくるのだ。
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ことばの蓄積22日の続き
(08/05/24 土-1904)
孫を目に入れすぎた≠ケいで近くのものが見えにくくなっただけではない。このごろは体重も10kgを超えた。そんなことはお構いなくだっこする。また買い物に行くと孫と運動会になる。とにかく山のように置いてある商品に触ろうとする。あるいはキンキラキンの包装紙に包まれたガムやキャンデーを手に取ろうとする。じいちゃんはそれを阻止するために追いかけるのである。とにかく歩くことを憶えたら、つぎは走ることが楽しくなったようだ。とくにじいちゃんが後ろから追ってくるから走り甲斐がある。まだ大人のように腕を振って走ることはできない。阿波踊りではないが、両手を綱渡りのように上に挙げてバランスを取りながら走り、曲がり、急停止する…。そんな孫に付き合った翌朝は体全体がぐったりと疲れている。もちろん、そうかといってあんなことしなきゃあよかった≠ネんていう後悔の念は微塵もない。しかし、こちらは日一日と体力が衰えていく。その一方で孫はどんどん力を身につけていく。こちらが限界に達するのは時間の問題である。そのときはそのときのこと。追いかけられるうちは、せっせと追いかけていきたいものだ。それはそうと、周りの大人が発する日本語の単語もどんどん蓄積されているに違いない。それらが一挙に結びついて言葉となってほとばしり出てくるのである。あー、楽しみなこと。外国語を勉強するときも、はじめは聞き取ることからはじまる。周りの人間が言っていることは理解できても、自分の意思を表現するとなるとことばに詰まってしまう。単語は頭に入っているが、それらをうまく組み合わせて使えないのである。そんな段階がけっこう長く続く。しかし、そのときに様々なことばを吸収しておくことが大事なのである。 |
学習しない動物 (08/05/23 金-1903)
人間というものは学ばない%ョ物だとつくづく思う。アメリカのサブプライムローン問題などは、その典型だ。ことの詳細は知らないが、とにかく金を貸しまくり住宅バブルに火を付けた。十分な返済能力がなさそうな人々にもとりあえずお金を借りてちょうだい≠ニ誘いをかけた。マイホームが実現しますよ≠ニいうことだろう。それで空前の住宅ブームが起きたところまでは上り調子。しかし、返済の負担がどんどん増えて耐えられなくなる人が続出する。そりゃあ無理に貸してしまったのだから返せなくなる人たちが出てもおかしくない。そんな理屈なら小学生にだってわかる。しかも、いまから20年ほど前に極東のある国においてバブル大崩壊という生の実例がある。そこは経済大国≠ネどといわれていたが、人々が土地や株のブームに踊らされた。それらが一挙に崩壊し、国全体がズッコケたのである。まだ歴史にもなっていない身近な事実があるというのに、性懲りもなくサブプライム問題が発生する。とにかく人間は学ばない。原油価格の高騰だって同じことだ。国際金融なんてド素人の私にだって、需要と供給のバランスを無視した価格高騰が異常であることは容易にわかる。そのうちあっという間に価格の暴落が起きるのは目に見えている。あとは時間の問題だけだ。とにかく上げるだけ上げて頃合いを見て売り抜ける。そのタイミングを狙っているのが集団か組織か、はたまた個人かは知らない。しかし、いつの時代も確実に儲けて後は知らんふりの人間たちがいる。今回も同じことが起きるに決まってる。実質を伴うものなら蓄積があるから衰退するのも緩やかな場合が多い。しかし思惑で膨らんだ風船なんて、小針の一突きであっという間に破裂し、萎んでしまう。 |
孫を目に入れる (08/05/22 木-1902)
私はけっこうものごとを信じやすい方だと思っている。しかし、その私があれは絶対に嘘だ≠ニ思い続けてきたことがある。それは孫は目に入れても痛くない≠ニいう話だ。そんなバカなことがあるものか。嘘もそこまでいくとあきれて起こる気にもなれない=Bそんな気持ちだったのである。ところが一昨年の夏のこと、そんな私の目の前に孫が出現した。そのときである。孫は目に入れても痛くない≠ニいう話が真実であることを知ったのだ。それからというもの、一体どのくらい孫を目に入れたことか…。そのたびごとに、痛いどころか快感さえ覚えているのである。ひょっとしたら、私のように様々なことを信じる質なのに、孫は目に入れても痛くない≠ニいうことだけを疑わしいと思っている方がいらっしゃるかもしれない。そのような方々に私は確信を持ってお伝えしたい。孫は目に入れても痛くないんですよ≠ニ。もっとも、その事実は私の体に予想もしなかった問題も引き起こした。なにせ、目に入れすぎたせいか、このごろは本や新聞の活字がぼやけて読みづらくなってしまったのである…。ともあれ、わが家の孫も1歳と9ヶ月である。ことばは発しないが周囲の大人が言っていることをわかりはじめている。少なくともお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、そしておばさん、さらにはひいおばあちゃんはしっかり認識している。それにいろいろな芸≠烽キる。その一つ一つがかわいく、われわれの心を癒してくれる。私自身は土日に祝日を問わず自宅でも仕事をすることが多い。正月だって早朝から職場へ出かけていって仕事をしたこともある。その私が、孫が来ると仕事はすべて一時停止≠フ状態になる。まったくもってものすごい力持ちなのだ。 |
自由の代償? (08/05/21 水-1901)
お互いが日常生活を監視し合うような社会は御免被りたい。大体、そんな組織を作るのは助け合いの側面よりも為政者側の民衆統制に便利なだけだ。しかし、ものごとはなんでも程度問題である。戦前・戦中の強烈な統制に対する反動もあって、とにかく自由≠ェ最優先の世界になった。もちろん自由≠ヘ人類が求め続けてきたものであり、また求め続けて行くべきものでもある。とくに自由は≠ソょっと油断するとすぐに奪われてしまう。だからいつも自由≠ノついて考えていることは大事なことである。しかし、繰り返し言われているように、自由≠ェ、それこそ自由気まま≠ノ定義されているのではないか。はじめはみんなの自由を尊重しよう≠ニいう気持ちから、お互いプライバシーには立ち入らないようにしようと考えた。そこまでは歴史的に見ても当然のことだっただろう。しかし、それがだんだんと人間関係の関わりそのものをなくす方向へ走っていく。その当然の結果として、隣は何をする人ぞ≠ニいう状況が生まれた。ここまで来ると、これはこれで様々な問題を引き起こしはじめた。その結果として、グリコ・森永犯も捕まらない状況が生まれたと言い切ってしまえば反論もあるだろう。しかし、そうした側面があることを完全に否定することはできないと思う。だからきわめて皮肉な言い方だけれど、グリコ・森永犯≠ェ捕まらないのは、それだけわれわれが自由を謳歌している≠アとの証だとも言える。だから、未解決の事件が増えても、それは覚悟すべき負担なのだ≠ニ割り切れるのかうか。他人が被害者になった報道などを見ているだけの間は、ついついそんな発言をしてしまう。しかし、最近は誰でもよかった≠ニいう理由の殺人も起こる。 |
隣知らず 12日の続き(08/05/20 火-1900)
毎日のように殺人事件が報道される。それも身勝手な理由や動機すらあったのかどうかわからないようなものが少なくない。しかし、統計的には殺人事件の数は減少しているという。ワイドショーでは、またかというほど殺人事件が取り上げられている。だから、件数も増加し続けていると思ってしまう。ところが実態はそうではないらしいのである。ただ件数の増減だけでなく、動機や状況などを含めて、内容的な検討もしなければならない。それはそうとして、犯人の検挙率はどうなっているのだろうか。犯罪が起きたらしっかり解決する。それが最強の抑止力になるはずだ。このあたりが揺らぐと社会の安全性も危うくなる。お互いが他人の干渉を受けずに自由に生きることは大いに価値あることだ。しかし、そのメリットだけを追及すると、一方で人間関係の希薄化をもたらす。その結果、隣は何をする人ぞ¥況が生まれる。そのために事件の捜査も飛躍的にむずかしくなる。あのグリコ・森永事件≠ェ未解決に終わったのも、お互いの関わりのなさにも原因があるだろう。あの犯人たちは決まって週末に行動した。その中には東京の新聞社にまで出かけて毒入りキャンデー≠置いた者もいる。彼らは大阪府下の摂津辺りに住んでいたというのが警察の判断のようだ。昔のように、ご近所づきあいが常識の時代なら、同じ町の住人が毎週のようにどこかに出かけていたら、誰かが気づくに違いない。そうした関わりが徹底してなくなってきたため、もう誰が何をしていてもお互いにわからないのである。もちろん江戸時代の五人組のように、お互いに監視し合うような組織はこれまた困りものである。それは助け合いもするが、何かことが起きれば連帯責任を問われることになる。 |
マニュアル問題(19)
07日の続き(08/05/19
月-1899)
マニュアルを憶えていないが、マニュアルを引き出して見ることもしない≠ニいう声があった。これには手抜きの場合と時間不足の場合がある≠ニいう注釈がついている。前者の手抜き≠ヘ確信犯≠ニ言っていいだろう。憶えていない≠アとがわかっていながら、その内容を確かめようとしないのである。それはきわめて重大な問題行動であり、少なくとも建前上はまったく許されないことだ。しかしこれを別の視点から捉えれば、マニュアルを見なくてもできる≠ニいうことでもある。それほど基本的でわざわざ確認する必要のないものであれば、見なくてもいいじゃないか≠ニいう誘惑が大きくなるに違いない。このあたりの判断は微妙である。現実として確認しないですむ≠フであれば、そこをマニュアルから削除することを考えてもいい。しかし、そのときどきの状況や職場の置かれた環境を踏まえてそれが外せないのであれば、その理由を明確にして、マニュアルを確認し続けること≠喚起し続けるしかない。職場のミーティングなどで、マニュアルのこの部分は確認しない者が多い≠ニいう事実を繰り返し明らかにするのである。その役割を担う中心人物は管理者である。しかし会議などで、ついついマニュアルを無視している≠ニいう事実を知っているのは現実に働いている一人ひとりのメンバーたちである。こうしたマイナスの事実≠自発的に発言できるような雰囲気が欠かせない。それがないと、その多くは隠されてしまう。そして、そうした実態は事故やトラブルが起きてから明らかになる。当然のことながら、ことがそこまで至ってはもう取り返しがつかないのである。そして管理者は、部下たちは気づいていたようだが、私には知らせなかった≠ニ嘆く。 |
不信缶 (08/05/18 日-1892)
新幹線の自動改札口に入れるべきチケットが確認できた。今から思い出すと、もう1枚、新幹線特急券と書かれたチケットがあったがこれをどうしたか記憶から消えている。いずれにしても、その時点では6枚の切符の中から自動改札に入れるべき切符がわかったのでまずは安心した。そこでさてさて≠ニばかり、カバンを持って改札口を通過した。それからゆっくりとトイレに行った。それでもほんの少しだが時間があったので、目の前のベンチに腰掛けた。ホームに昇ると肌寒いかもしれないと推測したのである。よっこらしょ≠ニ腰を下ろして、読みかけの新書を取り出した。それから、ちょっとお茶でも≠ニ思った瞬間だった。いや正確に言うと、お茶≠ェ頭にひらめいたのと、あっ≠ニ叫びたい気持ちのどちらが先だったか。それが自分にもわからないのである。まあ、常識的に考えればお茶≠フ方が先なんだろうとは思うけれど。とにかく、いまカバンの周りにはお茶のアルミ缶≠ェないことに瞬時にして気づいたのである。電車から降りたとき、その缶を持っていたことまでは自信があった。そしてつぎの瞬間に再びあっ≠ニ叫びそうになった。あの6枚の切符を前にして、どれを出すべきかを探したときに、カバンとお茶をその場に置いたのだった。幸いというべきか、改札口がまだ目の前に見えるところにいる。さっそくそこに近づいて自動改札機の向こう側を覗いてみた。あった、あった、ありましたよ。何とも不自然な位置にポツンと小さな缶が置いてきぼりになっていた。あんな感じで置かれていれば、誰も手を出さないに違いない。それこそ不信缶≠サのものである。駅員さんに声をかけて取ってもらったことはいうまでもない。その彼も笑っていた。 |
改札前のチケット選び (08/05/17 土-1891)
さてさて、紆余曲折を経てとにかく6枚の切符を持って電車に乗ることができた。電車の中でホッとしてからお茶を買うのを忘れたなと思った。ほどなく車内販売がやってきたので、さっそくお茶を買った。アルミ缶入りのものだった。特急は博多へ向けて順調に走っていった。博多からは新幹線に乗り換える。そのときは少しばかり時間の余裕があった。そこでゆっくり新幹線の改札口へ向かったのである。その改札口の前で例の6枚の切符を取り出すことになった。なにせ6枚だからその内訳も見ながら、この改札口ではどれを出せばいいか確かめる必要がある。そこでカバンを置いた。そうそう車内で買ったお茶のアルミ缶は別に持っていた。小さな容器だからカバンの中には入る。しかし、冷えた缶には水滴が付いてうっすらと濡れていた。そこでPCや書類などが詰まっているカバンには入れずに手に持って移動していたのである。そこで大量のチケットを選択するためにカバンとアルミ缶を下に置いたわけだ。まずは博多までやってきたから、ここまでの特急指定席はいらなくなった。それから、この先で新幹線を降りてから乗る在来線一駅分の普通乗車券もまだいらない。まことに申し訳ありません、この乗車券については、今日から本コラムを読まれる方には、その存在理由がおわかりにならないはずだ。しかし、そのところは置いといて、とにかく6枚ものチケットを持って改札口の前に立ったことだけご了解いただければ、まずはOKである。どうしてもそこがわからないと気持ちが悪いという方は、お手数ながら13日の本欄からお読みいただきたい。その経緯がおわかりになるはずである。ともかく博多駅の新幹線改札口では乗車券と指定券の2枚だけでいいことを確認した。 |
変なルート (08/05/16 金-1890)
一つの行き先に6枚もの切符が必要になる。そんなルートが書かれたシートを客から出されて、カウンターの担当者もおかしいなあ≠ニ思ったのではないか。たしかにお客には個々人の目的がある。したがって行きは、順当であれば降りる新幹線の一つ先まで行って、そこで用をたすのかもしれない。あるいは、とくに到着時間が切迫していてそうした経路を選択せざるを得なかったのかもしれない。そんなところまで推測していたら仕事にならない。ただし、よくよく考えると、ちょっとおかしい≠ニ思ってもいい余地はあった。なぜなら最初に私の方から、ここへの行き帰りは往復割引はあるのですか≠ニ聞いていたからである。行きと帰りのルートが一致しなければ往復にはならない。それにも拘わらず、行きだけはわざわざ遠くまで行くのはおかしいからである。しかし、このときはそこまで考える余裕がなかったのではないかと思う。もちろん、そのときの気持ちが私にわかるわけがない。しかし当日は休みの日とあって、お客がけっこう並んでいたのである。じつは私自身は駅に少し早く着きすぎたかなと思うくらい時間に余裕を持っていたはずだった。ところがそこそこ順番待ちのお客がいたから、まずはカウンターに行くまでに少し時間がかかった。その上で、なんじゃこりゃあ≠ニ思ってしまうようなルートを示したものだから、結果的に時間がかかってしまった。そんなわけで、博多行きの特急が発車する時間が少しずつ迫ってきた。もっとも私自身については、少しばかり時間がかかっても列車に遅れるほどのことはない。しかし、そのとき後に並んでいた人たちの中には気が焦り始めた感じの人がいた。時間がかかっている私には、悪いなあ≠ニいう気がしてきた。 |
チョンボ (08/05/15 木-1889)
今日の味な話の素はきのうのと同じのものになっています=Bたったいまメールを開いたら、こんなメッセージが目に飛び込んできた。えーっ≠ニ驚いて確認すると、おっしゃるとおり、昨日と同じものである。いやー、かなりの大チョンボである。この手のエラーは初めてではないかと思う。それも5年以上も続けているから確信はないけれど…。まあ、私も今年は還暦、すでに頭の方は弱体化しつつある。これからも同じようなことが起きることだろう。それにしても、すぐにフィードバックをしていただけることのありがたさをかみしめている。多くの方々にお付き合いいただいていることに大感謝である。ときおり、朝のスピーチに使わせてもらいましたよ≠ニいったお話をお聞きすることがある。これまた書いてきてよかったと思う瞬間である。これからも心温まるサポートをいただきますようお願いします。さてさて、昨日の続きである6枚切符のお話を…。いきなりJRの窓口でこれで行きたいんですけど≠ニ言って1枚のシートを出した。路線ソフトが選択した結果をプリントアウトしたものだ。ちょうど新入社員を迎えて教育の時期なのだろう。見るからに実習中≠ニいう感じの女性がカウンターに座り、その後に指導員とおぼしき女性が立っていた。当然と言うべきか、私の前のお客までは何のこともなく仕事をこなしていたようだった。ところが突然にややこしそうなメモを突き出す人間が現れたのである。これはいけない≠ニ即座に判断した気配が感じられた。後方にいた指導員がさっと席を替わった。さすがにプロである。しかし、そのプロも内心はおかしいなと思ったかもしれない。なにせ一つの行き先に6枚の切符が出るような操作が必要だったからだ。 |
ナビの落とし穴 (08/05/14 水-1888)
時刻優先で列車を選択すれば、新幹線で1つ先の駅まで行く方が早く着くことだって大いにあり得る。しかしそのために、私の場合は6枚ものチケットと一緒の旅になった。そもそも自分の行き先の地理も調べずに路線ソフトに頼ったことがズッコケの発端である。このごろは車のナビゲーターもどんどん普及してきた。ナビが付いてないころは、知らないところへ出かける際はは地図を調べたものだ。単なる位置だけでなく、およその距離も頭に入れて所要時間も考えた。そんなとき、脇道を走れば距離的には遠くてもこちらの方が早い≠ネんて発想はあり得なかった。とにかく初めての道なのである。確実な道を選んで行った。実際に仕事を終えて帰るときには、こっちの道を行ってみようかなあ≠ネどと遊び心が出ることはあった。しかし、それでもやはり手持ちの道路地図を見ながら道を選んだのである。ところが、ナビが登場してから私自身の心構えもかなり変わってきた。少なくとも事前に道路地図を見ることがなくなった。なにせ今では自分の車に道路地図すら置いていない。その結果、出かける寸前になって電話番号や住所などを入力することになる。ところが、これが大間違いのもとなのだ。公的施設であるにも拘わらずデータが出ないことだってある。こうなると最悪で、そもそも時間が窮屈な上に、行ったこともない道筋ともなれば気持ちだけが焦る。そんなことをしていると思わぬ事故を起こしたりするのである。もちろんそれはナビの責任ではない。機械に頼りきりになる精神構造が問題なのである。コンピュータの場合も同じこと。事故にはならないものの、路線ソフトだって、ただひたすら信じていると、一つの行き先に6枚もの切符を持つ羽目に陥ってしまうのだ。 |
あふれるチケット (08/05/13 火-1887)
少しばかり列車で遠出するときはチケットの枚数も増える。つい先日も一度に6枚のチケットを手にしながら特急電車に乗った。まずは乗車券。これは行き先まで1枚のはずである。いわゆる基本料金の部分だ。ところが、新幹線を利用する場合、在来線に対応すると先に行き過ぎることがある。そこで降りて在来線で逆戻りすればすぐに着くというような位置にある駅は、少なくとも時間的には早い。しかしそのコースを選ぶと新幹線の駅から逆に戻るため、そこでさらに在来線の切符が1枚必要になる。そこで基本料金の普通乗車券がもう1枚加わる。あわせて2枚である。これに熊本から博多までの特急指定券が付く。さらに新幹線の指定券もあるから2枚追加で4枚になる。これでOKだとよかったが、たまたま選んだ新幹線が目的の駅には止まらなかった。そこで、一つ手前の駅で降りて別の新幹線に乗り換えることになった。それなら最初からつぎの電車に乗ればいいものを、とにかく遅く出て早く着く≠アとを前提にすると、そんな選択になる。いずれにしてもそのために、さらに指定席券が1枚が追加されて5枚になった。その上でもう1枚、新幹線の特急券というのも加わった。最後のものが着いた理由は今ひとつ分からなかったが、とにかくこれでチケットは6枚にもなったのである。ちょっと考えると、普通乗車券1枚に、在来線と新幹線の特急指定券がそれぞれ1枚で、合わせて3枚あればOKのはずである。それがどうして6枚にもなったのだろうか。その理由ははっきりいしている。私がインターネットの路線ソフトで行程を検索したからである。その際に目的地の到着する時刻を設定した。そこで、これを受けたソフトくんはおそらく時間優先で路線を探したのだ。 |
裁判官の高座 (08/05/12 月-1886)
裁判所でデートしているという若者の話によれば、裁判はおもしろくてたまらないらしい。それこそ人間模様と言うべきか、犯罪にいたるまでの状況やそのときの生々しい実態が逐一明らかにされるのである。しかも、日常的にはタブーになっている言葉なども飛び交うという。そのことをおもしろいと思うか、それとも顔をしかめるかについては人によって違いがあるだろう。しかし来年からは裁判員制度がはじまることを考えると、一度は裁判所に行ってみることも意味があるかもしれない。大学では裁判の傍聴を授業に組み入れている例もあるようだ。子どもたちについても社会見学の対象に裁判所が入っていることがあると思う。もっとも子どもたちの場合は裁判そのものを傍聴することはないだろう。私自身は本物の裁判は一度も見たことがない。ただ、かなり以前の話だが、熊本地裁で友人の裁判官が勤務していたことがある。そのとき、友人から司法修習生に話をしてほしいという依頼があって、講演のために裁判所に出かけていった。そして講演が終わった後で、法廷の一つを見せてもらった。当然のことではあるが、テレビニュースやドラマでよく見る作りの部屋だった。だから誰もが知っていることだが、裁判官の席はけっこう高い位置にある。まさに上から見下ろすという感じだ。しかも裁判のときは裁判官は黒服のコスチュームに身を包む。それは見た目にも重々しく裁判官は特別だぞ≠ニいう雰囲気を醸し出す。しかも被告は受け身で多くの場合は罪を悔いているだろうから、弱々しく見えるに違いない。さすがに縄はかけられていないと思うが…。ともあれそんな状況であの席に座れば、それだけで自分はみんなとは違うんだ≠ニいう気分になってもおかしくはない。 |
公開裁判 (08/05/11 日-1885)
親告罪≠ナあるが故に犯罪を犯す。そんな輩は、まさに人の弱みにつけこむ#レ劣漢という他はない。こうした問題に対応するために、このごろは裁判の際にフェンスを設置するといった方法も導入されているようだ。もちろんそれで十分とは言えないが、精神的な面で少しは違うかもしれない。このほか親告罪≠ノは親族間の窃盗なども含まれている。そのあたりは自分たちで問題を解決してくれという趣旨だろう。たしかに、可能な限り法律なんてない方がいいのである。まずはお互いに犯罪を犯さないこと。何かおかしなことが起きても、自分たちで穏やかに解決できること。それができれば法律はいらないのである。しかし現実はそううまくいくものではない。それどころか法律は増える一方である。そして実態を見れば、法律が現実に追いついていない。かくして法律とその裏をかく犯罪のいたちごっこが、人間社会が存在する限り続いていくのだろう。そのうち行くところまで行ってしまう。そのとき気づいたらもう手遅れ、人類は滅亡寸前だった…。こんなストーリーがいつかやってくるのではないか。とにもかくにも犯罪が起きて、その犯人の可能性があると推定される人物が捕まると裁判になる。裁判は原則として公開である。マスコミでも報道されるような裁判になると傍聴券を求めて長い列ができる。それも公開されているからである。マスコミ関連の会社などはアルバイトを雇って傍聴券の列に並ばせるらしい。うまくゲットしたらその券をテレビなどでよく見る評論家などに渡すようだ。それで話題の裁判を傍聴して原稿を書いたりコメントしたりするのである。いつの世にも変わった人はいるものだ。テレビを見ていたら、裁判所でデートしている人まで登場した。 |
おしゃべり世代 (08/05/10 土-1884)
授業中に私語をしている学生たちを見ていると、その動作の滑稽さについ吹き出したくなる。そんなときは、ちょっと、ちょっと。コソコソしゃべってるのが見え見えなんだなあ≠ネどと声をかける。ときには聞こえないつもりだろうけど、話してることはわかるもんね≠ニやや皮肉っぽい顔で伝える。まあ大体のところはこれで私語はおさまるものだ。もっとも、この手の話はすでに昔のことになったと言っていい。なにせ、このごろはオリエンテーション時にしゃべりは欠席扱い≠ネどと宣言するせいか、けっこう静かに聞いてくれる。いやそれは誤解の可能性もある。そんなことをしなくても、最近の若者は静かになったのかもしれない。もうけっこう前のことだが、全国の大学の教員がはしかの流行のように私語対策に腐心していた時期があった。それが当時の一般的傾向だったと言い切るにはちょっと証拠が不足しすぎている。しかし、とにかくしゃべり好き世代≠ニいうか、しゃべりが抑制できない人たち≠セと思ってしまうような時代があったことはたしかである…。さてさていつの間にか授業中の私語の話題にはまりこんでしまった。ともあれ、元気なF先生の法律学の授業で、私ははじめて親告罪≠ネるものがあることを知ったのである。強姦≠竍強制わいせつ≠るいは名誉毀損≠ネどは被害者が訴えなければ裁判にならないというのである。たしかに裁判は公開だから、その中で事実が細部にわたって明らかにされることになる。そのため、被害者には想像を絶する苦痛を体験せざるを得なくなる。そうした事態を避けるために親告罪≠ニいうものが設けられていいるのである。ところが、それをいいことにとんでもない事件を起こす連中がいるのだ。 |
私語対策 (08/05/09 金-1883)
私語をしている学生に大声で一喝されたF先生は印象的だった。あれは1967年のことだから、もう40年以上も昔の話である。しかも、F先生からは2単位分の講義を受けただけである。それなのにフルネームを一瞬にして思い出した。その上、当時のお顔まで鮮烈に記憶している。いやいや、かすれ気味のお声までも…。失礼しました、あれはハスキーボイスというべきでしょうか。ともあれ、正直なところ自分の記憶にもいささか驚くのだが、それにしてもとにかく衝撃的な印象を与えられたわけである。私自身といえば、先生に刺激されたわけでもないが、授業での私語≠ノついてはかなりうるさい。ただし、F先生のように青筋を立てて怒鳴りつける気力はない。その代わりに、授業のはじめに宣言している。私語≠指摘したときは欠席扱いにするよ≠ニ。私語は本人たちにとってはヒソヒソと話しているつもりだから、ほとんど聞こえないと思っているのかもしれない。少なくともそんな様子が見える。しかし、問題は音量だけではない。あれは音質も関わっているのだろう。とにかく小声であるが故にかえって気になることもある。それに本人たちは見えていないと信じているかもしれないが、私語は体の動きも伴っている。そりゃあそうだろう。正面を見据えて私語するなんてことはあり得ない。もちろん、お互いに反対を向いて話しはしない。何のことはない、やや下向き加減でお互いに斜めに向き合うような体勢になるのである。筆記具は持ちながらというのが多い。気持ちだけはとりあえず遠慮≠オているからなんとも不自然な感じになる。さらに、コソコソといった雰囲気もにじみ出てくる。その上で、こちらの様子も窺うようにときおりチラリと目を向ける。 |
親告罪 06日の続き(08/05/08 木-1882)
明らかに犯罪が起きていても裁判にならないことがある。それは親告罪≠ニ呼ばれるものだ。これには被害者が訴える意思を表明することが必要とされている。訴えてやる≠ニいう言い回しを売りにしているテレビ番組があるが、本人が告訴しなければ裁判が行われないのが親告罪である。親告≠ヘ本人がみずから告げること∞被害者その他一定のものが告訴すること≠ニいう意味である(広辞苑)。もともと訴えてやる≠ニいう行為、つまり告訴≠ェないと、裁判そのものが成り立たない。もちろん一般的には、世の中で事件が起きれば警察が捜査し、訴えるべきであれば検察などが告訴するから必ず裁判になる。しかし当然のこととして、裁判では様々な事実が明らかにされる。そのことで被害者に不利益が生じるおそれがある場合は、本人の親告≠ェ必要になるというわけである。その典型が強姦罪≠竍名誉毀損罪≠ナある。器物破損罪≠煌ワまれるという。さらに親族間に起きた問題なども親告罪に含まれるものがある。たとえば親のお金を子どもが盗んだり、その逆であったりなどである。もちろん、このごろニュースになることが多い親子間の殺人などは、当事者同士の問題を超えているから事件として強制的に取り扱われる。私自身がこのことばを知ったのは、大学1年生のときの法律学≠フ授業でだった。それは教養部のF先生の授業だった。先生は40代だったと推測するが、喉を絞るような声で授業をされていたことが記憶に残っている。昼過ぎの時間のある日のことだった。教室の後ろの方で私語をしている何人かの学生がいた。私にとっては突然のように思えたが、F先生は大声を張り上げられた。こらあ、お前たちうるさいぞ。出て行けえーっ=B |
マニュアル問題(18)
02日の続き(08/05/07
水-1881)
マニュアルが守れない理由として遵守が面倒だ≠ニ指摘されることも多い。少ない負担で目的を達成することは、人間がよりよく生きるために必要である。食べ物にしても、その資源は限られている。そうした状況の下で効率化を優先するのは当然である。その点、効率化に成功した生き物だけが地球上に残ったということもできる。しかし、成功をもたらしたその習性≠ェマニュアルに対する態度にも影響をおよぼしていると思われる。それは遺伝子に組み込まれた体質とでも言うべきものである。したがって、これを理屈だけで乗り越えることはきわめてむずかしい。こうした場合にも、職場ぐるみの運動として集団の力を活用する方法が効果的だと思われる。職場の中にマニュアルを守っていることがスマートだ、格好いい≠ニいった雰囲気をつくり出すのである。他の職場はどうであれ、自分たちはきちんとマニュアルを守っている≠ニいう意識が高まれば、それが現実の行動に結びつく可能性が高まる。集団との関わりを通してマニュアル遵守の動機づけ≠喚起するのである。時代とともに、個人の自主性が強調され、集団主義が疎まれる傾向が強まってきた。しかし、そうした個性や自主性も集団の中で実現されるものだ。自分たちが生きる基盤として集団を大事にしながら、その上で自律的に生きていくことが必要なのである。集団の力を活用する具体的な方法として、グループ・ダイナミックスの世界では集団決定法≠ェよく知られている。それはグループ・ダイナミックスの創始者であるクルト・レビンたちが提案した集団技法である。その研究は60年以上も前に行われているが、問題解決に集団の力を利用する≠ニいう原理の重要性は時代の変化とは無縁である。 |
検察審査員(08/05/06 火-1880)
刑事事件になれば、私は犯人を許すつもりですから捜査なんかしないで下さい≠ネんて話にはならない。それは社会の安定を脅かすものとして、当事者たちの意思とは関係なく国が権力を発揮する。そこで警察が犯人を捜し捕まえる。そのあとで裁判所に訴えるのか検察官ということになる。検察官が起訴状を裁判所に出すことで裁判が始まる。公の場に訴えるので、これを控訴≠ニいう。しかし何でもかんでも訴えられるとは限らない。ときどき不起訴処分≠ニか起訴猶予≠ニいうことばをニュースで耳にする。事件の状況を検討した結果、裁判所に訴えないことにするのである。それは法律の解釈の問題で、相当に専門的な判断のようだ。その中には、手元にある証拠だけでは裁判で勝てないから起訴しないというのも含まれる。まあ、勝てない≠ニいう表現はやや刺激的なためだろうか、公判が維持できない≠ニいった表現で報道される。しかし、その判断そのものがたとえば被害者たちから見ると問題になることがある。犯人を絶対に許せないと思っているのに、裁判にかけません≠ニ言われるのだからそう簡単に納得するわけにはいかない。そこで検察審査会なるものが登場する。検察官が行った判断に不服がある際にそれを審査することになる。この構成員である検察審査員は11名だそうで、任期は6カ月、半数は3カ月ごとに改選されるという。選挙権を有する国民の中から無作為に選ばれるのである。正直な話、この点はまったく知らなかった。それなら原理的には裁判員≠ニ同じではないか。世の中は知らないことばかり≠セ。だからこそ、どんなに年を取っても知ること≠ェ楽しくおもしろい。さらに、明らかな犯罪であっても裁判にかからないものもある。 |
民事と刑事(08/05/05 月-1879)
事件の犯人を特定するには物的証拠≠ェ必要だ。それさえあれば、本人がどんなにやっていない≠ニ叫んでも無駄な抵抗である。まさに動かぬ証拠≠ェあるからだ。世の中の事件ですべて物的証拠が見つかれば、ほとんどの裁判が迅速に進むだろう。しかし、現実はけっこうややこしい。完全に犯罪を証明する物的証拠が思うように揃うとは限らないのである。そこで情況証拠≠ネる発想が生まれる。個人と犯罪を結びつけるモノ≠ヘないが、どう考えても犯人はこの人間しかいないと推測できる情況があると考えるのである。これはあくまで推測≠セから完全というわけにはいかない。しかし現実にはこうした証拠≠ナ裁判が行われることもある。憎むべき犯罪者を懲らしめるためには何としても裁判にかけなければならない。そんな思いが情況証拠≠使おうという気持ちにさせる。そもそもわれわれが新聞やテレビで目にする裁判は、全体の何パーセントくらいなのだろうか。裁判には民事と刑事とがある。民事事件には損害賠償や借金の返済問題などが含まれる。文字通り民間人の間のトラブルに関わるものである。刑事事件の方は刑罰を科するかどうかを決める必要がある犯罪が対象になる。民事の場合は被害者がまあ仕方がないか≠ネどと言って諦めたり許したりする場合は裁判にならない。ただし、本当にそう断定していいのかどうかは素人なのでちょっと怪しいが、私としてはそう思っている。この解釈に間違いがあれば、どなたか教えていただきたい。さて民間人の争いごとである民事に対して、殺人や傷害など、われわれが一般に犯罪だと考えているものは刑事裁事件になる。法律で決められた刑罰を科する必要がある事件である。この場合は警察が動く。 |
流れに反する意見(08/05/04 日-1878)
裁判そのものが社会の中で行われる人間の行為である。だから、それが社会の影響を受けるのは当然なのである。もっとも、その社会の影響≠ノついての考え方や受け止め方が人によって違っているようでもある。いまから60年以上前になるが、日本人は社会全体が一つの方向に偏ることで手痛い失敗をした。その際には、新聞をはじめとしてマスコミが一定の方向性を持たせるために大きく関わった。その反省も含めて、報道の中立性・公平性♀m立の重要性が強調される。そんなことから、社会風潮に流されてはいけない≠ニいう指摘も大事である。とくにテレビなどでは時々刻々と洪水のようにあふれる情報が流される。それが世論≠つくりあげていることは否定できない事実だからだ。したがって、大方の流れに反する声≠熨ク重することが必要なのである。たしかに、反対意見がまったく世の中に出てこない状況は、社会にとって危険な兆候だと考えた方がいい。ともあれこうした時代背景の中で裁判員制度≠ェ導入され実施されることになる。その結果、予想した問題は言うまでもなく、想像もつかなかったトラブルも発生するに違いない。そのときどんな対応をするか。社会全体の力が問われている…。本欄をときどきお読みの方はおわかりにならないと思うが、どうも寄り道が長くなってしまった。いつの間にか裁判員制度にまで話が広がってきたからである。そもそもこのネタは、ある裁判で精神鑑定が信用できない≠ニいう理由で否定されたというニュースを聞いたことからはじまった。4月25日のことである。ここであらためて精神鑑定の信用性≠ノついて考えてみよう。裁判の記事で信用性≠ニいうことばが載るのは自白≠フ場合が多いと思う。 |
社会と裁判 3月30日(1874)の続き(08/05/03 土-1877)
人はすべて固有であり、その人と人の間に起きる事柄もまた固有のものである。だから起きてしまった事件を裁く裁判も1回ごとに異なっていなければならない。しかし、そう言いながら、その一方で公平性≠ェ問題にされる。そんな中でプロの間には相場≠ネるものが生まれる。たとえば、2人の殺人なら無期だが3人なら死刑≠ニいった相場である。これも公平性≠フ問題として議論される。また裁判は社会の影響を受けてはならない≠ニいう意見もある。たしかにそれにも一理あると思う。しかし、考えてみれば裁判そのものが社会で生まれた制度である。また、刑にしてもその時代の社会を反映している。江戸時代には仇討ちが公認されていたのだろうし、マリー・アントワネットはギロチンで命を失った。こうした残虐な刑や法律によらない私刑(リンチ)などは野蛮だとして、この世の中からなくなっていった。それが人間社会の進歩だと考えられているのだろう。そして、そうした変化そのものがやはり社会の影響を受けているのである。ともあれ人間のなすことで社会と無関係なんてものはあり得ない。そもそも裁判の基本になる法律そのものが社会の影響の中で起きる事象をもとに成立しているのである。あらかじめ存在していない犯罪を想定して法律をゆくるのは、それこそ予防検束を呼ぶものとして大問題になる。だから、法律はいつも社会を後追いしている。そこで、法律の弱点を見透かして犯罪を起こす不届きな輩も出てくることになる。それが一定水準を超えて問題になってから法律の必要性が叫ばれる。法律は社会そのものの反映なのだ。そうした時代や状況を映した法律をもとにして裁判をするのだから、社会の影響から逃れるわけにはいかないのである。 |
マニュアル問題(17)
4月18日の続き(08/05/02 金-1876)
グループでマニュアルの確認や勉強会をするのは、各自で読んでおくように≠ニいった指示よりも効果が期待できる。その動機づけに個人差があって、最初のうちは仕方なく着いていくという感じる者もいるだろう。しかし、マニュアルを読み込み理解するという行為そのものが集団の活動になれば、職場の一体感が生まれる。その結果として、マニュアルを守る行動にまで繋がればいいのである。人間の関係やあり方は時代とともに変遷することは当然だ。しかし、人と人との関わりが重要な意味を持っていることは、いつの世も変わらない普遍的事実である。仕事に際しては個々人の独立性が高まり、同じ部屋同士でもメールのやり取りで済ませるという時代だからこそ、あえて人との関係を重視することが、これまで以上に求められているのである。人との関係づくり≠ウえも効率化≠ノ反するというのであれば、われわれ人類は何に向かって生きていこうとしているのか、その存在意義そのものが疑われる。人と人との関わりを最小限に抑えながらモノや情報を生産し、それを個別に消費して満足する。それが人間たちのあるべき究極の姿だとはとても思われない。むしろわれわれが目指していたのはまったく逆のことだったはずである。人間として辛く苦しい作業は少しでも軽減する。そのために、昔は動物の手を借りたし、道具も開発してきた。そうした歴史の流れの中で道具が機械になり、その機械もコンピュータといった情報機器になってきた。しかし、そのどれもが人間をより自由にすることを目標にしてきたのである。自由とは何か。それは、お互いが人間らしく生きることを保証する鍵になるものである。他人を押しのけて自分だけの自由≠謳歌することではない。 |