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味な話の素
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No.60 2008年04月号(1845-1874)
裁判員制度
4月28日(1872)の続き
(08/04/30 水-1874)
映画12人の怒れる男たち≠ナは、父親殺しで裁判にかけられた少年が有罪か無罪かを巡って陪審員たちが激論を戦わす。アメリカでは陪審員は12人のようだ。映画の制作は1957年、とにかく陪審員室というのか、議論する部屋だけで話が進んでいくから制作費は安上がりだったに違いない。途中に窓の外では大雨が降ったりするので、そのあたりの経費はかかったかもしれない。ともあれ、投じた資金と映画のできは必ずしも比例していない好例だ。もっとも、内容的にはいまならそうはいかないだろうという部分もある。たとえば、登場人物がすべて男たち≠ナある。女性が入らないなんてのは現代では考えられない。さらに全員が白人というのもあり得ないだろう。まさに黒人の大統領候補が生まれる可能性が高まってきた時代である。それはともあれ、ストーリーとしては陪審員たちの間に有罪の空気が充ち満ちているところからはじまる。そうした状況の中で、建築家のデイビス1人が、何も議論せずに有罪と決めるのはまずいのではないか≠ニ問題を提起するのである。このあとの内容には触れないでおこう。ただ、私が聞いたところでは、アメリカの場合、陪審員は有罪か無罪か≠決めるだけだという。実際の刑の判断は裁判官に委ねられているのである。これに対して日本の場合は、死刑を含む刑そのものの決定にまで裁判員が関わるようだ。私の勝手な思い込みかもしれないが、法曹界なんてのはほとんど保守の塊といった印象を持っていた。それがいとも簡単に陪審員に刑まで決めることを許容したというのは驚きだった。その背景にはいろいろなことがあるのだろうが、とにもかくにも来年からこの制度が始まる。それこそ誰に当たるかわからないのである。
Happy Birthday!
(08/04/29 火-1873)
今日は4月29日。国民の祝日としては昭和の日≠セが、この味な話の素≠フ誕生日でもある。生まれたのは2003年4月29日、今日と同じ火曜日だった。満5歳の誕生日ということになる。まずは形式的だが、味な話の素≠フお誕生日おめでとう! 最初の日はスタート記念のつもりだろうか、3つのテーマについて書いている。そのNo1. のタイトルは行動変容のために≠ナある。行動を変えるには適度の危機意識∞改善できるという確信∞変わるのは自分のためという意識∞行動を変えることの使命感≠ェ必要だと強調している。そして、附属中学校の校外授業での出来事≠ニ子どもの発達と教室の人数≠ノついて書いている。それから今日まで、とにかく書き続けてきた。そのナンバーもご覧の通りで、1873になった。最初の日だけでなく、ときおり2つ以上書いたりしている。そんなわけで、今日までの日数は1828日だから、40日ほどは複数の原稿を書いたことになる。ともあれ、生来の粘着質のせいもあってか、とにもかくにも続けてくることができた。その間、軽い手術で入院したことはあるが、それでもコラムの継続には何の支障もなかった。健康な体を与えてくれた両親にはこころから感謝している。そろそろネタ切れではないか≠ニご心配される向きもある。しかし本人としては、ネタがありすぎて困っているのである。何かがあるたびに、また思いつくごとに1行から2行程度のメモをとる。それをワープロのメモ帳≠ノ書き込んでいるのだ。ところが、それがとにかく増える一方でなかなか消化できないでいる。メモを見ても何を書きたかったのかわからなくなってしまったものもある。あーもったいない。ともあれ、まだまだ止まりません。
プロの影響力
(08/04/28 月-1872)
裁判員制度が導入された場合、法律のプロである裁判官が全体をリードするのは当然である。そうなるとどうしてもリーダーシップを取る人間の影響力が大きくなる。これまた当然である。しかも一方は法律のプロで、他方は素人である。そもそもの土台が違うから裁判官側の意見や発想が決定的な力を持つ。何か言っても、いや、これまでにこんな判例があります∞それは刑法○条と□条との関係からちょっと無理でしょう≠ネんて言われれば、やっぱり引いてしまうに違いない。こんな感じでことが進んで判決となる。これでプロ側としてはアリバイづくりが完成ということになるか。なにせちゃんと裁判員も納得して決めたこと≠ネのである。だから何の文句もなかろうと胸を張ることができるではないか。何もしない先からあれこれ推測しているだけだけれど、そんなことになっては意味がないよねーと思う。そうかといって、これまで通りの裁判でいいのかと言えば、やはり問題もある。裁判官だけに任せておくとフツーの人間の感覚では信じられないような判断が出てきたりするのである。痴漢の冤罪事件でも、最終的には混んだ電車に乗らないように≠ニ言い放った裁判官がいるという。被告だった人は、裁判官は満員電車などには乗ったことないんでしょうね≠ニ嘆いていた。そんな問題を解決する1つの方法として裁判員制度が導入されることになったのだと思う。アメリカには陪審員制度と呼ばれるものがある。ヘンリー・フォンダ主演の怒れる12人の男たち≠ヘ知る人には知られている名作だ。そりゃあ当たり前ですなあ。この映画、私は何度も見たがとにかくおもしろい。なにせ、議論している裁判所の一室が舞台なので、制作費も時間もかかっていない。
裁判員
(08/04/27 日-1871)
来年から裁判員制度がスタートする。そうなると、自白の信用性≠ノついても、一般市民が判断しなければならなくなる。犯罪を犯した人がこころから反省してすべての事実を包み隠さず告白する。もちろん、物的な証拠もきちんと揃っている。世の中の裁判がすべてこうしたものばかりなら問題はまったく生じない。そうは言っても、裁判だからその上で量刑を決めなければならない。この点になるとまた大いに難しい問題が出てくる。法の下の平等≠ェ保証されなければならないのは当然である。しかし厳密に言えば、地球上のすべての人間はすべて違った状況の中で生きている。たとえば、私と私を生んでくれた両親との関わりは、この世で一つしかない。もちろん友人のAさんとの関係も唯一特定のものであり、Bさんとの関係のあり方とは異なっている。そうした個別の関係の間で起きた事柄を一般化しようというのが法の下の平等≠ニ言っているのではないか。そう考えると、本当の意味で平等≠ニいうのはほとんどあり得ない。そんなことから、突然飛躍するようだが、裁判のプロの間では相場≠ネるものができあがっているという。たとえば、殺人でも2人までなら無期懲役=A4人なら死刑≠ニいった基準である。人の量刑を相場≠ネどとかなり不謹慎な表現が使われている。それにしても、これが本当に平等≠ニいえるのか、はなはだ疑問である。正直なところ、このあたりの問題は人間が存続していく限り、永遠に解決できないのではないかと思う。もちろん、そうだからといって考えるのを止めてしまうわけにはいかない。ともあれ、こうしたむずかしい状況の中で、法律の素人である裁判員たちが、プロの裁判官たちと議論をすることになるのである。
自白の信用性
(08/04/26 土-1870)
自白の信用性≠ノついては多くの裁判で争点になる。とくに物的証拠が少ない場合は、自白の重みが大きくなる。本来は動かぬ証拠≠突きつけるのが筋なのだが、そこは刑事コロンボ≠竍サスペンスドラマ≠フようにすんなりとはいかない。もっとも、コロンボ≠ウんの場合も、物的証拠≠謔閧熈心理的証拠≠使うこともあったけれど…。現実の世界でも、犯人しか知り得ないことを自白した場合は、それが決定的な証拠になることは納得できる。たとえば死体を遺棄したり、凶器を隠した場所を指し示すなどである。ただし、自白≠ノついては、その任意性≠ェ争われることが多い。それで犯人と特定するかどうかを決めるのだから、追及する側、防御する側の双方にとって最大の争点になるのは当然である。攻める立場の検察側は自白≠文字通り自発的意思≠ナ行われたと主張する。だから、被告人が犯罪を犯した≠ニいう事実は動かないという論理である。これに対して弁護側は自白の任意性≠ノ問題があると反論する。とくに被告が捜査段階の自白の内容を裁判で翻した場合は、その信用性≠ェ問題とされる。そこで、自白≠ヘ取り調べの段階で強制されて言わされた≠烽フだと訴える。それも警察側の作ったストーリーに合わせて自白≠ウせられたというのだ。また死体の遺棄現場の告白にしても、あらかじめ特定されていた場所に誘導したと主張する事例もある。弁護側は取り調べの際に問題があったと訴える。被告に十分な睡眠をとらせなかったり、大声で脅したりした。また家族が泣いているとか、共犯は自供したなどと事実ではないことを言って心理的に追い込んだと主張する。そんな状況で、やっていない事実を認めてしまったというのである。
身辺整理
(08/04/25 金-1869)
これほど脳科学≠ェ発達・進化してくると心理学≠フ行く末も心細くなってくる。それはそれで時代の流れということである。私自身は仕事としての心理学を十二分に楽しませていただいた。そろそろ先も見えてことでもあるし、感謝の気持ちでいっぱいである。実際、少し前から研究室を中心に身辺整理をはじめたところである。ペーパーレス時代がやってくる。そんな話はどこに行ったのか。とにかく毎日のように上の書類や報告書が山のように押し寄せてくる。それを処理しなければ紙は貯まる一方である。部屋を整理する原理そのものは単純だ。入り≠ニ出≠比べて出る&が多ければ在庫も減っていくに決まってる。まあ、完璧にというわけではないが、とにかくその実践を進めているうちに研究室はそれなりに整理されてきた。このまま元気でいることができれば、現在の職場を離れるまで残りは5年と252日である。これだけあれば、最後の日にはほぼ完全な空き部屋になることだろう。目標があるということは素晴らしい。それにしても、こころ≠ノ関わる仕事や研究はなかなかむずかしい状況にある。今月の初めだったと思うが、仕事をしながら聞き流していたテレビかラジオからニュースを読むアナウンサーの声が聞こえてきた。ある事件の裁判で判決が出たという。○○裁判長は精神鑑定≠ヘ信用できないと≠オ、…。いわゆるながら聞き≠セったので具体的な事件の内容は頭に入らなかった。念のため、翌朝にはいつも読んでいる新聞2紙をチェックしてみたが、それらしき記事は見つからなかった。私が耳をそばだてたのは、精神鑑定が信用できない≠ニいう表現である。信用できない≠ニいう言い回しは、人の評価としては相当に強烈なものだ。
頭がよくなる本
(08/04/24 木-1868)
脳に関する話題となると、このごろでは養老孟司さんが始祖みたいになっている。ご本人の話だと解剖学者だということである。しかし、脳についての研究は、当然のことながら今に始まったことではない。私が子どものころは慶応大学の林髞氏が一世を風靡した。彼の著書頭のよくなる本≠ヘ大ベストセラーになったはずだ。この人はかなりユニークな人で、本名を分解したような木々高太郎≠フペンネームで推理小説まで書いていたという。頭のよくなる本≠ヘ光文社のカッパブックスだったが、世に出たのが1961年というから、私は中学生だったわけだが、その本を買ってもらって読んだのである。読書の効果があったかどうかは怪しいが、大脳にいい食べ物などが紹介されていた記憶がある。もう少し硬派の感じがするのは時実利彦氏だ。岩波新書脳の話≠ヘ1962年の出版だが、私の本棚にもまだ座っている。また最近売り出し中なのは茂木健一郎氏である。ご本人が脳科学者≠ニ言っているから、これはもう脳の専門家であることは間違いない。この人は理学系の出身で、学位も理学博士である。これまでは脳の研究≠ニいえば、医学的な見地から生理学者あたりがするものと思い込んでいた。茂木氏の著書は最近になって初めて読んでみたが、文章にキレがあってなかなかおもしろい。ともあれ、脳についての研究はあらゆる方面から行われているわけだ。そして、それに関する情報はこれからもドンドン増えていくはずである。とにかくどこまで行くか分からないから、ちょっと怖いところもある。いずれにしても、現在のような心理学≠ェそのまま存続するとは思われない。心理学≠ニいう用語自身が生き残っていけるのかどうかも、相当に危うそうではないか。
脳科学と心理学
(08/04/23 水-1867)
人間の行動のコントロールタワーは大脳にある。反射≠ニいう反応があって、意識しないままに筋肉などが外界に対応することはある。しかし、われわれの大事な行動のほとんどが大なり小なり意識されている。そうした行動を引き起こす大脳のメカニズムが少しずつで明らかにされている。それだからこそ、猿がロボットを歩かせるなんてことが現実のものになったのである。ニュースとしてはおもしろいが、これが徹底していくとどうなるのか。究極的には人が考えていることまで信号化され解読される可能性が出てくるではないか。少なくとも私の世代がこの世にいる間はそこまでは行かないと思う。しかしこのままだと、やはりいつかは≠ニいう気持ちになる。そこまで行ってしまえば、それは自由の喪失したといっていい。そうなると、人間として生きているとはいえないのではないか。現時点ではそこまで心配することはないとは思う。しかし、こうした変化は心理学にけっこう大きな影響を与えるはずだ。なにせ行動の科学≠標榜する心理学だが、その根源である大脳のメカニズムについては十分にわかってはいなかった。だから大脳をブラックボックスとして、目に見える刺激と反応の関係について、いろんなことを考えてきた。大脳の中身は見えないことが前提だから、いろんな仮説を立てたり推測することが心理学の仕事だったわけである。しかし、それが見える≠謔、になったら、行動の科学は大脳の科学≠ニほとんど同じになってくる。あるいは、心理学が大脳の科学の一領域に含まれることになる。現時点では、脳科学≠ニ心理学≠ヘ別物ということになっている。しかし、記憶≠フ研究などは、脳科学の知見が大いに役立っており、その影響も大きい。
ロボット操縦の猿
(08/04/22 火-1866)
猿がロボットを動かした。New York Timesの日曜版1月17日号に掲載されている記事である。日本の新聞で取り上げられたかどうか知らない。ただ、私が日ごろから目を通している2紙では気づかなかった。その内容はかなり衝撃的なものだ。記事によると身長81cm、体重5Kgの猿が、152cmで91Kg のロボットに踏み板の上を歩かせたというのである。英語ではtreadmillと呼んでいるが、健康センターなどでウォーキングの練習で使っている動く歩道みたいなものである。あれは正しくは何と呼ぶのだろうか。それはともあれ、猿の名前はIdoya(アイドヤ?)。彼女は2カ月にわたって踏み板の上で歩き続ける練習をした。大脳に埋め込んだ歩行≠コントロールする部分から信号を取り出す。それをロボットに送るのである。猿がいるのはノースカロライナ。相手のロボットがいるのはなんと日本の京都である。Idoyaの歩行信号がロボット用に変換されてインターネットを通じて日本に送られたというわけである。そして見事にロボットくんは猿が歩くように歩いたのである。実験の責任者Nicolelis氏は、ロボットにとっては小さな一歩だが、霊長類にとっては偉大な飛躍だ≠ニ言ったらしい。どこかで誰かが言ったことばのもじりだが、とにかくすごい時代になったものだ。少なくとも頭の中で思ったことが行動に結びつくとすれば、発語や四肢の運動に障害を持つ人々には復員になる可能性が強い。しかし、この世の中はいつも光と影の葛藤にあえいでいる。その技術がややこしい目的に使われたりすれば、これはまた人類の存続をも危うくするかもしれないのである。それにしても、大脳のメカニズムにまで入り込みはじめた現状を見ると、心理学の先行きは相当に危うい。
団塊の恩返し
(08/04/21 月-1865)
ともあれ、仕事場のお向かいにある中学校生徒たちを見ていると、しっかり生きていってね≠ニ応援したくなる。しかし考えてみると、わが国の現状はそんな気楽な声を掛けられるような状況なのだろうか。とにかく先行きが不安になってくる。何といっても、自分たちは年を取ってきた。団塊の真ん中にいる私も今年が干支なのだ。つまりは紅葉の見ごろには還暦≠迎えるというわけである。振り返ってみれば、われわれが子どものころは日本全体が貧乏だった。クラスにはほとんど裸足状態で学校に来ている子もいた。ほしいものだって思いのままに手にはいるわけではなかった。我慢を強いられたこともたくさんあった。しかし、昨日よりも今日、そしてまた明日の方がきっとよくなる。少なくとも真面目に生きていればそうなるという実感があった。そんな状況だから、それなりに夢≠持つことができたのである。人間にとって、笑顔≠ニ夢≠ヘ生きる力になる。生まれたときから重ねてきた笑顔≠ェその人の幸せ度を決めると思う。小さな親切運動≠ナはないが、小さな笑顔運動≠熨蛯「に進めていきたいものである。こどもが笑顔≠ノなれる環境作りが大事なのだ。さて団塊世代は、戦争の恐怖を感じることもなかった。ベトナムで多くの若者たちが命を落としているときも、戦争は遠くのできごとだった。そうした点で、われわれはとにかく平和で心地いい時間を過ごしてきた。私は、日本の歴史の中で、われわれ団塊の人間たちこそが、もっとも幸運≠ノ恵まれた世代だったと思う。まずはそのことに感謝しなければならない。そして、まさに恩返し≠フときを迎えたのである。子や孫たちの世代にツケを回すようなことをしていてはまずいに決まってる。
自己防衛反応
(08/04/20 日-1864)
中学生などの思春期には異性との距離を置きたがる。少なくとも表面的にはそうした行動をとることが多い。本当は興味関心があるのだが、それとは反対の態度を示すのである。自分が好意を持っている相手を他人から特定されたりする。おまえ、○○が好きなんだろう=Bそれが図星であるときには、とくに反発した発言をする。なに言ってるんだい。俺はあの手は大嫌いなんだ≠ネんて感じである。団塊の世代ともなれば、それも人生の懐かしい思い出である。また、そんな姿を見ているとかわいくもなる。しかし、こうした反応はごく自然のことである。単純な話、人類誕生のころから自分のこころの中身≠他人から悟られるのは、生きていく上でかなり危険だったはずだ。生存競争が厳しい時代では、地球環境も他人も、はたまた一緒に生きている動物たちも、お互いにそれほど優しくはなかった。あえて人を騙すのではない。こころの中身≠ヘしっかりカバーしながら対人関係を創り上げていくことが必要だっだのだ。その事情はいまでも変わらないだろう。完全に本音むき出しでは、まとまるものもまとまらない。いずれにしても、われわれはこころの中≠見透かされることには抵抗するのである。その事情は老人になっても同じこと。本音≠見破られれば、そんなことはない≠ニ否定する。それが事実に近ければ、それに比例してムキになる。思春期の子どもたちが異性のことで本音とは裏腹の態度をとったり、発言をするのは当然の自己防衛的#ス応なのである。もちろん、これに単純に恥ずかしいという気持ちが加わることもあるだろう。われわれ年寄りでそれが話題にならないのは当然だ。いまごろ異性≠フことで指摘されるなんてまずいに決まってる。
お向かいの新入生
(08/04/19 土-1863)
また新しい年度を迎えた。大学も新入生が入学してきた。私の仕事場は附属小中学校のキャンパス内にある。目の前は中学校だ。昨年から小中学校で耐震工事が進められていたが、年度末には終わった。耐震工事といっても相当に大がかりなもので、外見的には分厚い壁がもう一枚外側に立ったように見える。ただし、実態を文章で表現するのは至難の業である。おそらくほとんどの方が、結局はどうなったか、おわかりにならないだろう。まあ、それはそれでいいことにしよう。さて、これまでは私の仕事場である教育実践総合センターの向かい側は事務室や校長室、副校長室、そして職員会議室などがあった。窓はすべて磨りガラスで、ときおり窓が開けられることはあったが、いつもは部屋の様子は見えなかった。それが工事の結果、1年生の教室になった。今度は普通のガラスで教室がしっかり見える。つい先日は入学式だったので、保護者もいっぱい。その中にはビデオを撮っている姿もあった。中学生といっても、ついこの前までは小学生である。まだまだくちばしが黄色い≠ニ言ったら怒られるだろうが、子どもそのものだ。これが2年生、3年生と学年が上がって行くにつれて急激に成長してくる。世の中はなかなか思い通りにならないことも実体験する。親とも何となしに距離ができてくる。友人との関係も、親友ができることもあれば、その裏切りにショックを受けることもある。異性に対する関心もそれまで以上に高まる。まさに思春期である。そうした様々な出来事に対応しながら、人は少しずつ大人になっていく。そんな思いで向かいの教室を見ていると、人ごとながらがんばれよ≠ニ声をかけたくなる。それと同時に、これから先の日本を想像すると不安もよぎる。
マニュアル問題(16)
(08/04/18 金-1862)
職場の監督者がマニュアルを各自で読んでおきなさい≠ニいった指示だけで終わったりする。これではいかにもまずい。あとは当事者に任せっきりになるからである。そうした対応でマニュアルが読まれるのであれば問題は起きない。しかし、仕事に追われている状況では、結局は言っただけ∞聞いただけ≠ナ終わってしまうのである。これでは不都合が起きるのは必然とも言える。その結果、マニュアル作成者がそのことはちゃんと書いているでしょう∞そもそも、そんなことは常識ではないですか≠ニ嘆くような問題が引き起こされる。また、マニュアルは面倒くさい≠ニいう気持ちを起こさせることも無視できない。この発想には、まずは読むのが面倒くさい¢、面と、マニュアル通りにすることが面倒くさい≠ニいうものの2つが考えられる。前者の場合は、マニュアルがFail-Safeを基本に作られていることも影響している。そのためマニュアルには、あらゆる情報が微に入り細に亘って書かれることになる。もし情報に欠落した部分があれば、トラブルが起きた際にはマニュアルが問題にされるから、それは当然の対応である。こうした中で、仕事をする側でも日常的に時間やコストを迫られている。そこで、つい面倒くさい≠ニいう気持ちになってしまうのである。このような場合も、集団でマニュアルをチェックすることが効果をもたらすと思われる。それは面倒くさく∞いやいや≠ナあっても、みんなでしなければならないこと≠ニして認知されるからである。また集団になれば、しっかり読み込もうという忍耐強い<<塔oーも出てくるものである。こうした人に仲間が引っ張られることになれば、個人では期待できない効果も出てくることになる。
マニュアル問題(15)
3月20日(1833)の続き
(08/04/17 木-1861)
マニュアルが守られない理由として、従来のやり方とマニュアルが異なっており、慣れたやり方をしてしまう≠ニいう問題があった。人間には、それまでに慣れた方法をとるという本来的な傾向がある。その方が、効率的に生きていくことができるからである。しかし、それが新たなミスや事故を引き起こす原因になる。こうした本性≠ノ逆らうことはなかなかむずかしい。それでも、従来の方法を変えるべきときには、とにかく変更点≠強調するしかない。問題はその強調の仕方である。家電製品のマニュアルでも、冒頭に重要な点だけをまとめている。これは最低必須条件≠目だ立たせる方略である。このように、マニュアルを必須度や重要度によって内容別に分けることで、読もうという意欲を少しでも高めることができる。ただ順を追ってすべてを説明するのではなく、まずは欠かせない≠アとを押さえるのである。さらに、マニュアルを守るべき理由≠明記するといい。ただしなさい∞してはいけない≠ナはなく、どうして≠サうしないとまずいのかを伝えるのである。そうすることで、読む側の納得が得られやすくなる。また、職場のグループでマニュアルを学習することも効果が期待できる。仕事仲間とマニュアルを検討していけば、実際に機器を使う際の問題や注意点も共有化できる。現実の職場で、マニュアルを読んでおきなさい≠セけで済ませているところは少ないと思う。しかし、類似の機械が導入されたときやマイナーチェンジした設備などが据え付けられた場合、人々の間にこれまでと同じようなものだろう≠ニいった気持ちが働きやすくなる。こうしたときに、マニュアルを各自で読んでおきなさい≠ニいった指示だけで終わったりする。
鳥取砂丘
(08/04/16 水-1860)
スエーデン製のSAAB340もなかなかのものだった。何といっても36人乗りだから、CRJ200よりもさらに小振りである。それこそ円い筒の中にいることが実感できる。もちろん座るときは上の棚を意識しながら体を曲げて座る感じだ。こちらはプロペラで飛ぶ。機内から見るとかなり大きい。2つのプロペラは同時に回り始めるのではなく、少しばかり時間差があった。いずれにしてもブーンと音を立ててスタートするが最後は一生懸命に回転する。伊丹から島根に向かうのだから中国山地の上を飛んでいるのだろう。どこなのかはよくわからないが、なかなか美しい。このときは帰りがまた楽しかった。行き先は島根と書いたが正確には出雲空港を利用した。その出雲から飛び立って大阪伊丹へと向かう。客室乗務員は当然のことながら1人である。往路と違って、まずは日本海側に沿って東に進む。それなら鳥取砂丘も見えるかもしれない=B漠然とそんなことを思った。それがまさにピッタシの当たりだった。しばらくして乗務員が間もなく左手に鳥取砂丘がご覧になれます≠ニ案内したのである。運よく帰りは1席だけが並んでいる左側の席だった。そこでワクワクしながら砂丘が見えるのを待ったのである。実際の時間経過はわからないが、お目当ての砂丘はすぐに現れなかった。しばらくして、あれかなあ≠ニいう感じのものが目に入った。しかしそれにしても小さい。まるで公園の砂場ではないか。乗務員が近づいてきて、あれが砂丘です≠ニ教えてくれた。文句を言ってはいけない。あれが鳥取砂丘≠ネのだ。そりゃあ空から見るから小さいに決まってる。富士山だって飛行機からなら全体が見えるほどだもの。いいものを見せていただいた。ありがたや、ありがたや。
スエーデン製
(08/04/15 火-1859)
JALの熊本−名古屋小牧間を飛んでいるCRJ200はボンバルディア社製である。本社はカナダにあって、小型機市場に根を下ろしているようだ。ただし、この会社のDHC8型機は高知空港で前輪が出ずに胴体着陸したものである。こちらの方は、日本以外でもトラブルが報告されているようだ。ニュースでも頻繁に流されたので知っている方が多いと思うがプロペラ機である。しっかり作って、十分に整備しておかないと大事を引き起こす。会社は信頼を失うとその回復には多大なコストと時間がかかる。最悪の場合には世の中から消滅してしまう。新しい日本製の飛行機ができるのは楽しい話だが、このあたりは心して取りかからなければならない。それはともあれ、CRJ200は名古屋に向けて1人前に滑走し、気持ちよく飛び上がる。ジェットだからその角度は大型機と変わらないと思う。その点は機体の外から見ていないのでわからない。水平飛行になってからも、なかなか楽しい。エンジンの音は一般のジェット旅客機と同じだし、高さも変わらないと思う。このごろはスマートな軽自動車が増えたが、そんな雰囲気にあふれている。○○と煙は高いところに昇りたがる≠ネんて言うが、私は高いところから下を見るのがけっこう好きなのである。そんな体験をしているうちに、今度は36人乗りの小型機に出会った。飛行機はSAAB340で、こちらはスエーデン製である。全長が19.7m、全幅21.4mだから、それぞれ26.8mと21.2mのCRJ200よりもさらに一回り小振りである。定員が50人対36人であることを考えると当然だ。こちらは通路を挟んで右側2席で左側は1席だった。これが12列並んでいる。トイレは前方にあったが使用しなかった。大阪の伊丹から島根にいくときに利用した。
小型機の魅力
(08/04/14 月-1858)
どんなに稚拙なものだと笑ってみても、彼の国が核実験を行い、ミサイルを作ったことは事実である。そんな中で、あくまで平和に徹しながらも、航空機製造をはじめとして、つぎの技術を磨いておかなければ、わが国は生き残っていけない。そう考えると、小型機ではあるものの、久々の航空機製造の話はGood Newsである。それに小型機は乗る方もけっこう楽しめる。熊本の場合、一般人が乗れる小型機としては熊本ー名古屋小牧間のJALがある。飛行機はボンバルディア社のCRJ200で50人乗りだ。外見は尾翼に2発のジェットエンジンが付いていてじつに格好いい。座席は左右に2席ずつで、これが12列並んでいる。最後の13列目は左に2席のみで、その横はトイレである。したがって、座席の合計はちょうど50ということになる。最初に乗ってと機は、その最後尾を指定した。お隣のトイレも使ってみた。はじめて体験≠ヘ子どものころから大好きだ。もちろんちゃんとしたジェット機だけれどジャンボが最大で550人以上も乗せることを考えると相当に小さい。全長が26.8m、全幅21.2mである。これがジャンボになると全長70.7m、全幅59.6mというから、まるでミニチュアである。たしかに乗ってみると機体が丸いことが実感できる。小柄な私でも座るときは上の収納棚に気をつけるほどである。客室乗務員も1人で対応する。たまたま2人のことがあったが、そのときは一般席の先頭に座っていた。おそらく勤務の移動中だったのだろう。これはときどき見かける風景である。そうそう、乗り降りの際は機体に内蔵されたタラップを使う。もちろん数段しかない。これが出てくるところはじつにメカニックで格好いい。収納するところは乗っている者にはわからない。
大阪・徳島便
(08/04/13 日-1857)
YS−11はターボプロップと呼ばれる方式でプロペラを回して飛んでいた。プロペラが印象的で素人目にはジェット機とは違うように見える。しかし、エンジンはピストンを動かすのではなくではなくタービンを回す。だから原理的にはジェットエンジンと同じである。YS−11はブーン、ブーンという音を立ながら一生懸命に飛んでいた。私が子どものころは、はるか上空を通過する飛行機を見たが、そのころを思い出させるような飛び方だった。もともと大阪と徳島は目と鼻の先だからあっという間に着いた。プロペラ機だということもあるだろうし、あまりにも近いためでもあるだろう、飛ぶ高さも比較的低かった。そんなわけで陸地から海までしっかり見えるのである。所要時間は記憶にないが、おそらく30分ほどではなかったかと思う。いまでは本四架橋ができたので大阪と徳島の間は飛行機は飛んでいない。どう考えても採算が取れないだろう。そのうちYS−11そのものが日本の空からいなくなってしまった。その後はホンダが個人用の飛行機を製造した話は聞いた。また、ボーイングの旅客機などでも翼などの部分は日本製だという情報も耳には入った。しかし、旅客機を作る計画は聞いたことがなかった。わが国は、新幹線や車、電子機器などで技術を磨いてきた。資源のない国としては、それが世界の中で生きていくための欠くことのできない基盤になった。そして、ついに自動車の生産台数ではトヨタがGMを追い越した。しかしこの状況と同じことが、今度は日本と中国やインドとの間で起きることは必然である。それはもう時間の問題に過ぎない。それどころか、そもそも軍事的なものは金の糸目を付けないから、中国はすでに人を乗せた人工衛星を成功させた。
YS−11の思い出
(08/04/12 土-1856)
国立阿蘇青少年交流の家≠フ火≠ヘ東京オリンピックので聖火ではなくて阿蘇山の御神火≠セった。今回は、30年以上の思い込み≠ェ修正されて本当によかった。せめてもの慰みは、この事実誤認≠人に伝えなかったことだ。いや伝えなかったはずだ。うーん、伝えたかな。ひょっとして伝えたことがあるかもしれない…。こんなところで、さだまさしの関白宣言≠ナもあるまいが、もう半年もすれば還暦なもんで、記憶もやばいのですよね。それはともあれ、国産機のYS−11がアテネからオリンピックの火を運んだ事実は間違いない。そのYS−11もすでに退いて日本の空は飛んでいない。私自身は少なくとも2回は乗ったことがある。もう30年以上の昔になるが、大阪と徳島の間を往復したときである。東和国内航空(TDA)の飛行機だったと思う。この会社は日本国内航空(JDA)と東亜航空(TAW)が合併してできたものである。その後、日本エアシステム(JAS)となり、さらに日本航空との経営統合が行われて今日に至っている。いまでは全日空(ANA)と日本航空(JAL)の2つの会社が国内線を中心に競っている。JASへの名称変更は海外にチャーター便を出すようになった際に行われた。アジアの人たちに太平洋戦争時の大東和共栄圏≠想起させるのではないかと思われたことと、国内≠ニいう呼び方が実情にあわなくなったからだという(ウィキペディア)。こうした会社の変遷は、そのときどきの社会・経済情勢を反映しており、歴史物語としても楽しめる。百科事典を開いてある事柄を調べているうちに、その前後に載っている内容に目が移る。それがまたまたおもしろくて、そのまま読み進んでしまい、いつの間にか時間が経過している。そんな思い出が懐かしい。そうした癖が残っているせいか、このコラムも寄り道が多い。
聖火の誤解
(08/04/11 金-1855)
最近、国産のジェット旅客機を作る計画が発表された。乗客が70人から90人乗りだそうだ。国産の飛行機といえば、われわれの世代はYS-11を思い出す。戦後の荒廃から立ち上がり、総力を結集して作った飛行機だった。初飛行は1962年で座席は64席の小型である。オリンピア≠ニいう愛称を付けられたYS-11が、東京オリンピックの聖火を運んできたことも記憶にある。このところ、聖火リレーが世界的に注目を浴びているが、東京オリンピックのときはYS-11が大活躍したのである。その火の一つが、阿蘇にある国立阿蘇青少年交流の家≠ナ火をともし続けている。この施設は国立阿蘇青年の家≠ニして、全国で2番目に1963年に開設された。東京オリンピックが1964年だからちょうど1年前のことである…。とまあここまで書いてから、確認のために交流の家≠フホームページを開いてみた。そこでびっくりたまげてしまった。なんと、この火≠ヘオリンピックとは縁もゆかりもないものだった。たしかに火≠ヘあるのだが、解説によると阿蘇山系中岳火口底より昭和40年3月25日、地元登山家が直接採火したもの≠ネんだそうな。それはそれで素晴らしいが、とにかく事実誤認も甚だしい。青年の家≠フ時代から何度となく見ているのに、オリンピックの火≠セと思い込んでいた。どうしてこんなことが起きるのだろうか。いまになっては推測するしかないが、30年ほど前にはじめてこの火の解説を読んだときに、私が勝手に頭に刷り込んだのだろう。それから後は、何度見ても解説を読み直すことなど考えもしなかったのだと思う。それにしても、改めて思い込み≠フ恐ろしさを実感した。やっぱり事実は確かめてみないとまずいという当然の教訓である。
引き出す力
(08/04/10 木-1854)
コミュニケーションで大事なことは、自分から話すだけでなく相手の話を聞くことである。それも、相手が自分から話しているのを聞くだけでは十分ではない。会話の相手か話を話を引き出すことがポイントになる。すでに会話においては話し上手は聞き上手≠セということは話題にした。これに加えて、引き出し上手≠ナあることも求められているのである。そのためには、相手が話したいことを話しているかどうかを配慮しておかねばならない。また集団で意見を交わしているときには、話していない人がいるかどうかに気づく感受性≠ェ必要になる。たしかに人によっては聞くことが楽しみで、自分から話すのは苦手だということもある。しかし、話すことが好きでないことと、仕事のアイディアを持っていないこととは同じではない。そんな人の発想が仕事の促進や事故の防止などに役立つことは大いにあり得るのである。そうした気持ちを大事にしながらも、本人が話しやすく≠ネるような状況をつくっていく努力をすることが期待されている。少なくとも職場のリーダーにとっては、自分の思いを発言できる≠謔、に部下を育てることは重要な役割の一つである。もちろん、あんたは発言していないから、ドンドン言いなさい≠ナは口はさらに固まってしまう。ここで焦っても仕方がない。人を育てるのには時間がかかるものだ。成長の時計は人によって違っている。自分は若いころからみんなの前でちゃんと話をしていた=Bそこまではいいが、だから他人も私と同じペースでいくべきだ≠ニなるとまずいのである。よく言われることだが、問いかけるときもYES=ANO≠ナ答えるような訊き方では話は続かない。語りにつながるような問いかけが必要なのだ。
脅しは逆効果
(08/04/09 水-1853)
会話では、相手に対してちゃんと聞いてますよ≠ニいうメッセージを送ることが大切だ。そしてその中には、わからないときは、わからない≠ニ伝えることも含まれる。人と話していると、すべてがうん、うん、わかった≠ニいうめでたしめでたし物語ではすまないこともある。相手の発言内容に疑問を持ったりもする、そのときはちょっと違うなあ≠ネどといった反応を示すことも必要になる。そこを曖昧にしておくと、後で取り返しがつかなくなったりする。ただし、そのときの雰囲気づくりは人によって大いに違う。自分と意見が異なると、戦闘意欲をむき出しにして否定する人がいる。この手の人は顔も迫力があるし、声が大きいのが相場だ。相手を指さして、唾まで飛ばす。これはもうコミュニケーションや会話ではなく脅迫とに近い。そんなときは、大抵の人は怖いから反論≠オない。しかし、こころの中では納得しているわけでもない。まさに面従腹背≠ネのである。これは個人間の会話だけではない。そもそも武力で民心を惹きつけることはできないのだ。それは多くの歴史を見ればわかる。また、社会心理学の説得′、究でも、過度な脅しは逆効果であることが明らかにされている。せっかくなら、なるほどそうか≠ニいう気持ちになってもらいたいものだ。ところで、異議ありというのではなく、ただ理解できない≠ニか聞こえなかった≠ニいう場合もある。そんなときは、単純によくわかりませーん≠ニか、聞こえませんでした≠ニ言えばいい。相手に遠慮して、何でもかんでもうん、うん≠ニ反応していると、これまた後で大誤解を生み出すことにもなる。そして、確認された方も、その内容についてちゃんと説明をするこころの余裕がほしい。
割り込み禁止
(08/04/08 火-1852)
話すときに顔と目で笑う≠アとが大事だと強調した。その重要性は聞く立場に回っても変わらない。にこやかに目で笑う。すると相手は聞いてもらっている≠アとが実感できる。顔は笑っているが眼光は鋭く、突き刺すように覗き込んでくる。これでは相手も警戒せざるを得ない。ところで、当然のながら話は最後まで聞く≠アとは会話の基本中の基本である。相手が話しているのに割って入ると、せっかくの流れを止めてしまう。止められた方だっていい気はしない。たしかに、議論をしているときは、一秒でも早く反論したいから、すぐに口を出したくなる。しかし、そこをどれだけ我慢できるかが聞く人の力なのである。この点で国会議員さんたちのレベルは相当に低い。とくにテレビの討論会などでは、しばしばコミュニケーションが成立しなくなる。相手が話していてもまったく無視して喋りはじめる。声が大きい方が勝ちだと言わんばかりだ。お互いが大声になるから何を言っているのか判断できない。じつはこれが本当の目的で、ちゃんと聞かれると本当にわけのわからないことを言っているからまずいのかもしれない。そうなると、国民の目を、いや耳を逸らすことが目的で、お互いで結託しているのではないかと勘ぐりたくもなる。これとは別に、以前暫定税率撤廃≠主張していたことを責められた某省の副大臣が自説を主張しまくった。これはテレビ討論ではなく、正式な国会での出来事である。議長からは何度もやめなさい≠ニ制止されたが、ご本人はどこ吹く風で徹底して無視し続けた。その結果、予算委員会≠ヨの出入り禁止を言い渡されてしまった。これなんか、見苦しいというか、聞き苦しいというか。少なくとも子どもたちにはとても見せられない。
聞き上手への道
(08/04/07 月-1851)
私自身は話しすぎ≠自覚することが多い。ただし、それに気づくのが少し遅いのが問題なのである。人と喋っていると、ついついあれもこれも§bしたくなる。そのうち、自分の話している時間が圧倒的に多くなっていることに気づく。もちろん、相手と自分が話している時間をいちいち測ったりはしていないから、正確な割合はわからない。しかし、私の推測するところ、3対1くらいで私が喋っていることが多いのではないか。話し上手は聞き上手≠ニいう。その基準で評価すると、私は相当に点数が低いに違いない。ともあれ、喋る≠セけでなく聞く°Z術も磨かなければ、コミュニケーションの免許取得者というわけにはいかない。そこで、聞く≠アとが苦手な私としては自省の気持ちを込めながら、その点について考えておきたい。まずもって、相手に自分が理解している≠アとを伝える。これが基本だろう。あなたの話はわかっていますよ≠ニいうメッセージを送るのである。そのためには、いわゆる相づちと呼ばれる目に見えるアクションが役に立つ。うん、うん≠ニ頷く。なあるほど≠ニ納得顔を見せる。えーっ≠ニ驚くのも効果的だ。もちろんこの際は、本当に驚かないと迫力に欠ける。驚いたふり≠チていうのは、わざとらしくて白けるものだ。もっとも、相手が小さな子どものときは、わざとらしくても驚く≠アとが大切だと思う。わが孫も、1歳と7カ月を超えて絶好調。それなりの体で走り回りはじめた。じいちゃんとしては、何でもかんでもすごい≠連発する。これには気分がいいようで、いい笑顔を見せる。人間には笑顔が必要不可欠だ。小さいころにどれだけ笑顔になれる体験をしたか。その回数でその後の人生が決まるとすら思う。
脱線注意
(08/04/06 日-1850)
面従腹背≠ニいうことばがある。顔ではあなたのおっしゃるとおり≠ニ受け入れているように見える。しかし、腹の中では冗談じゃない≠ニはっきり拒否している。これではうまくいくはずがない。ただ大声で叫んで相手を従わせようとする。そんなやり方が面従腹背¥況をつくり上げる。ご本人はうまくいっている≠ニ思っていたのに、いつかとんでもないどんでん返しが起きる。これだは困りますね。さて、コミュニケーションでは相手が理解しているかどうか、確かめながら話す≠アとも大事なポイントだ。一方的に喋っているのはいいが、まったく理解されていない。これでは話している意味がない。会話をしている間、相手はいろいろな反応を示してくる。興味津々といった感じで目を輝かせているかもしれない。しかし、何とも退屈そうな顔をしていることだってある。それもはっきり表に出してくればいいが、マイナスの気持ちの場合は、隠されることが多い。、そうなるとついつい調子に乗ってしまう。何といっても、隠された心情を察するのはむずかしい。そんなわけで、まずは聞いてもらうために簡潔に話す≠フがポイントだろう。運悪く相手が興味を持ってくれない話題であっても、とりあえずの区切りはつくからである。それから、話題を逸らさない≠アとも大いに気をつけたい。自分でも気づかないままに、話がドンドン脱線していく。うんざり顔の相手に気づいたときには、もう話のきっかけも忘れてしまうほど遠くにきている。これでは相手も話を続ける意欲を失うだろう。その点、簡潔さ≠モットーにしていれば、そうした脇道に逸れる可能性も低くなる。こんなことを書いているうちに、これって私のことかなあ≠ネんて気がしてきた。
笑顔の会話
3月30日(1843)の続き
(08/04/05 土-1849)
はじめはコミュニケーションのポイントを考えていた。その中で眉毛を動かすと効果的だなんて話をした。そして、さらに相手が理解できるように話すことの大切さを、「ことばの共有化」という視点から話題にした。それが国会のネタに広がって、昨日まで行ってしまった。いつものことである。そこで、またコミュニケーションのポイントに戻ることにしよう。一応、3月30日(1843)の続きになる。ともあれ、スムーズな会話には笑顔≠ェポイントだ。もちろん、それは大声を出して笑うことではない。穏やかな表情で話すように努めるのである。優しい気持ちで相手に接していると、表情は自然とやわらかくなり笑みが浮かぶものだ。こんなことを言うと、それこそ一笑に付されるだろうか。あんたも甘いね。世の中はもっと深刻なんだよ。エヘラエヘラ笑っておれるなんて、そんな浮世離れした仕事なんてどこにもありませんよ=Bたしかに、こんな攻め方をされたら一言もない。私たちが想像もつかない厳しい現実はいくらでもあるはずだ。もちろん、私にしても話の内容やその場の雰囲気によっては笑っておられないようなことだってある。しかしそれでも、人と会話をする際には、できるだけ平静でいたいと思う。穏やかな気持ちを保つのである。それができれば、ものごとの見え方が違ってくることはたしかだ。相手も自分も興奮していては話はすすまない。そんあとき、ああ、自分はいま興奮しているんだなあ≠ニ自分を客観的に見ることができれば、少しばかり落ち着いてくる。その場の雰囲気だって変わるだろう。いかにも結論が出たようであっても、それは単に声が大きい方が押さえつけただけということが多い。そうなるとうん≠ニ言わされた方に不満が残る。
拡大解釈
(08/04/04 金-1848)
モラル・ハザード(moral hazard)≠ニいうことばがある。hazard は危険・冒険≠ニいった意味の英語である。自動車のハザード・ライト(hazard light)は故障警告灯≠セ。hazardは危険な兆候ということだから、私はmoral hazard≠モラルの崩壊≠ニ訳している。これが日本国中、至る所で起きている。個人から集団や組織まで、それはそれはありとあらゆるところに広がっている。どうせ潰れるのなら、使うだけ使ってしまえ∞よそだってやってるんだから、こっちもやりたい放題やっとかなきゃあ損だ=B国中がこんな精神状態では行く末は見えている。親からこれは学校に通うための交通費よ≠ニいってもらったお金でデートのタクシー代も払う。だって、交通費だもん≠ニいう発想だ。食事代≠セって飲み代にまで化けてしまうかもしれない。その上、もらった金が余りそうになるとスポンサーに報告する前に使ってしまおうとする。いらないのか≠ニ言われて減額されると損をするからだ。そこで、使途についての解釈は止めどもなく拡大されていく。もっとも、予算の使い道についての拡大解釈は、このごろ国会で問題になった例の財源の使い道で判明したことだ。だから、本来の目的から外れた使い方は地方自治体の問題とは言えないかもしれない。しかし、いずれにしても3割自治などと言われる状態が戦後からずっと続いてきたのである。その方が国としても何かと便利だったと思う。お金があれば、相手をコントロールしやすいからだ。そんな状況の下では、国からお金を引き出す力を持った人物が自治体の長になる可能性も高くなる。現実に、私なら国から予算を持ってこられます≠ニ叫んで当選した人はけっこういるのではないか。
指示待ち自治
(08/04/03 木-1847)
あまり急激な変革を導入すると、それに絶えられない自治体は崩壊してしまう。その点では大いなる知恵がいる。しかし、とにかくこのままでは総崩れ≠ノなってしまう。どうせ潰れるなら、自分たちも使いたい放題に使っとけ=Bこんな精神構造ができあがれば、事態はさらに悪化する。しかし、それにしても自治体も自立できていない。まあ、事実としては、国が補助金などを通して自立できないようにしてきたと言う方が正しいのかもしれない。とにかく親からの仕送りでやってきたのである。しかも、お金の使い道も指示されないと自分では意思決定できない。いま話題の財源にしても、ほとんどの自治体の首長たちが、使い道を特定≠ウれないと困ると言っているようだ。それはそのまんま∞私たちは自分では生活費をうまく調整できません≠ニ言っているのと同じである。これは交通費、これは食費≠ネどと指示してくれないとうまく使えないというわけだ。これでは自治≠竍自立≠ニはとても言えない。道州制なども話題になっているが、あれは国からの独立性を高めようという趣旨なのだと思う。しかし、いまの状況を見ると、とても、とても≠ニいう気がする。いまさら言っても仕方がないが、そうした状態が私が子どものころからずっと続いてきたというわけだ。そのことこそが問題の本質なのである。今回の大騒動も、チャンスと考えることができる。これがなければ、問題はさらに先送りされて議論にならなかったかもしれない。とにかく、これしかない正解なんてあるわけがない。これではいけない≠ニいう危機意識が、われわれの行動を引き起こす原動力になる。みんなが何とかしなけりゃ≠ニ考えれば、それなりの知恵も生まれてくるものだ。
自立できない自治
(08/04/02 水-1846)
それにしても、私が子どものころから3割自治≠ネんて言われていた。もう50年も前のことである。自前の税金でまかなえるのは3割程度、あとは国からの交付金などで維持していく。地方自治体の台所事情を指したことばである。自分のことは自分で責任を持って生きていく。これが自治≠ノ違いないが、何分にも自分で稼ぐ収入が生活費の3割しかない。そこで、どうしても保護者からの援助に頼らざるを得ないことになる。つまりは自律していないのである。人間はだれもが生まれたときは無力の赤ん坊である。あらゆることで大人の世話にならないと数時間だって生きていけない。その赤ん坊も時間とともに成長する。寝返りをし、ハイハイをし、そして歩き始める。もちろん最初はヨチヨチで危なっかしい。しかし、それもちゃんと克服して、成長のつぎのステップへと進んでいく。敗戦で日本は、国全体がボロボロになった。ある意味では生まれ変わりの赤ん坊そのものだった。日本を統治した連合軍の総司令官マッカーサー元帥が、日本人は12歳程度≠セと言ったという話がある。その当時のアメリカ人の目には、日本人は子どもに見えたのだろう。国にしてそんなレベルなのだから、個々の自治体は言うまでもない。それこそ生まれたばかりの赤ん坊だったに違いない。しかし、それからもう60年以上の時間が経過しているのである。それにしては、地方自治≠ニいうことばとは裏腹に、未だに自立していないのが現状だ。親からの送金がなければ生活できないのである。しかも使い道まで指示されないと、うまくやっていけない。これは食費にしか使っちゃ駄目よ∞こっちは交通費だけよ≠ニいちいち指導されるのだ。そんな生活から抜けられなくなっている。
野党の責任
(08/04/01 火-1845)
ここまで来ると、国会における野党の責任は大きい。国民生活に影響する決定を左右するのだから当然である。自分たちが過半数を占めていなければ、なんでも反対≠ニ叫んでみても、結局は与党の筋書き通りになる。与党側も数が多いから、子どもを相手にするような気分で余裕がある。お話だけは聞いてあげましょう≠ニ対応する。そこで野党が自己主張≠繰り返す。そのうち日程が厳しくなると、与党もだんだん我慢ができなくなってくる。そこで、どうしても通したい法律は数の論理に頼ることになる。その典型として強行採決≠ェ行われたりする。野党議員が議長を取り囲む、そのマイクを取り上げる、はてはネクタイで首を絞めてるのではないかと思われる場面までテレビに映される。議長を守る与党側も必死だ。かつてはプロレス出身の議員がその役回りを果たしたようなこともあった。とてもじゃないけど、子どもには見せられない。このごろの日本は大人がモデルになっていないのである。もっとも国会に関して言えば、われわれが子どものころから、それほどお行儀がいいとは言えませんでしたけどね。いずれにしても、あれで議長の声が聞こえるのかいなと思われる中で法律が成立する。野党側もやるだけやった≠ニいうことで、あとは与党の横暴を非難し続ければ、それで物語はおしまい。そして何事もなかったかのように新しい法律が施行される。そんなことで、少数の時代はきるだけ目立つように異議を唱えていれば、お役目は果たせていたのである。その中にはパフォーマンス擬きもあったなんて言えば怒られるだろうか。しかし、自分たちの行動で選択の道が違ってくるとなるとそうはいかない。とくに野党の代表である民主党さん、大丈夫ですか。