1階席の悲劇(07/10/28 Sun -1673)
新山口駅のホームでひかり≠待っていたら、中央の線路をのぞみ≠轤オき電車が通過していった。これが凄まじいスピードなのだ。駅の前後にはポイントがあるから、あれだって少しはスピードを落としているに違いない。それでもホームにいる者から見ていると身が縮むような速さである。地上を走るものがあんなスピードを出ちゃあ危ないんじゃないの=Bつい、そんな思いにも駆られてしまう。あまり新幹線に乗る機会のない人間の実感である。まあ、それはいいとして、話を東北新幹線に戻そう。郡山から乗る電車が2階建てだとわかって、急に嬉しくなった。まさに子どものような気持ちで、ワクワクしながら乗ったのである。切符に印字された座席番号を見ながら前進していった。指定された席は1階だったが、そこに座ったところまではなんの問題もなかった。ところが、電車が発車した途端にどっちらけ(シラケ)状態≠ノ陥るのである。コンクリートの防音壁が景色を遮っているではないか。座った席の窓から見えるのは、ただただ壁という状況なのだ。これが東京まで延々と続くのか思うとゾッとした。一生に一度とまでは言わないが、ほとんど利用することのない東北新幹線である。せめて東北っぽい風景ぐらい見たいではないか。そう思うと、じっとしているわけにはいかない。私はすぐに立ち上がって、2階席へ向かった。ところがこちらの方はけっこう席が埋まっている。正確に言えば、乗車率は50%程度なのだろうが、2人掛けで2つとも空いている席がないのである。みんなが窓側にくっついている。東北の景色を見たいのだから、これはかなりまずい。そう思いながら、前の方に進んでいった。その結果、ようやく窓側が空いている席が見つかった。
2階建の新幹線(07/10/27 Sat -1672)
とくに男の子は鉄道が好きだと思う。私も蒸気機関車が大好きだったし、電車も乗りたくてたまらなかった。単線の場合、駅の近くになると1本のレールが2本に枝分かれする。考えてみると、レールが2本で1つの線路ができあがっている。そうなると1本の線路が2本に別れるというのが正しいか。まあ、そこは置いといて、どうして電車が線路に乗り上げたり、脱線しないのだろう。そんな疑問を持ったことがある。もちろん、その問題はすぐに解決した。線路を見に行けば、そのメカニズムは一目瞭然だった。文章では伝えにくいが、それはそれはなあるほど≠ニ唾を飲み込むほど素晴らしい仕組みになっていた。そんな大発見もしながら子ども時代を過ごしたのである。さてさて、そこで電車の話題を取り上げることにしよう。少し前のことになるが、東北新幹線に乗る機会があった。乗車駅は郡山駅のみどり窓口である。そこで東京までの指定席を取った。そして、ホームでその電車を待っていると、なんと2階建ての新幹線が入ってきた。こりゃあラッキーだ≠ニ大いに嬉しくなった。この手の電車には、なかなか当たらないからである。かなり前だと思うが、山陽新幹線にも一部が2階建仕様の電車があった。しかし、最近は見たことがない。もっとも、熊本に住んでいると新幹線の利用頻度はそれほど高くない。大阪以遠の場合、飛行機を考えるからである。熊本あたりでは、新幹線は岡山までという人が多いのではないか。まあ、これは私の勝手な推測である。そんな中で、教育委員会の仕事で山口に行ったことがある。そのときは新幹線を使った。いまでは新山口と呼ばれている駅で乗り降りした。ここはもとの小郡駅である。仕事を終えて帰る際に、ものすごい体験をした。
祭りと仕事場(07/10/21 Sun -1666)
ともあれ、温帯モンスーンという風土に稲作という文化が生まれた。その基盤の上で、秋祭りも創造された。稲作を含めて、それらが同時発生的に各地で生まれたのか。それとも、スタートは一点で、そこから広まっていったのか。あるいは、その両方なのか。このあたりのことは、当然のことながら知らない。いずれにしても、こうして生まれた各地の祭りは、それなりの個性を持ち、時代と環境に応じた変化も遂げてきた。われわれの目の前にあるのは、秋祭り≠ニいうことばではなく、人間や動物が踊り、走り、そして多くは興奮する祭りの行為である。その中にいる人、それを見る人の違いはあるけれど。踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らにゃ損々=Bやっぱり中に入った方が、かなり興奮しそうではある。そのうち、何か問題が見つかって、変えるべきことが出てくれば、自分たちで変えていけばいい。そこに他の祭りにも共通する点があれば、それが影響を与えていくだろう。私としては、ものごとが変わるのは個々の祭りであることを強調したい。そして、この理屈を、組織の風土や文化、さらには規範の話にまで拡大したいのである。組織の安全についても同じことだ。とくに安全に関しては、安全風土や安全文化ということばが使われる。そうした組織の風土や文化を土台にして、個々の仕事場ができあがっている。その一つ一つの集団が、安全をしっかりと守るという規範を持っていること。これが何よりも大事なことだ。そこでミスや事故が起きれば、それをなくす手立てを考える。その手法が効果的なものであれば、それが同じ組織の他の職場にも影響していく。とにもかくにも、まずは働いている集団≠基礎に考える。これが大事なのだと言いたいわけだ。
祭りの影響(07/10/20 Sat -1665)
全国的に有名な祭りといえば、阿波踊りはその筆頭だろう。こちらは8月のお盆に開催される。一般的には盆踊りの時期であるが、阿波踊りは夏祭りの典型である。こちらも桟敷席が設けられ前売り券が販売されている。S・A・B席は指定、C・D席は自由席である。S席で1800円だというから、、岸和田のだんじりよりもお安くなっている。ところで、阿波踊りは400年の歴史があるという。しかし、その発祥の当初から前売り券などはなかったはずだ。それが全国区になるとともに、観覧席が設けられ、料金も取られるようになったと推測する。もっとも、その古さから考えると、江戸の時代にはすでに料金を取っていたかもしれないが…。ともあれ、こうしたシステムは、祭りが知られるようになると他の地域にも広がっていったのではないか。どこもここも、お互いの影響なしで、自然発生的に観覧席を設けて料金を取ったとは考えにくい。熊本の例大祭では、馬と人が走り回る場所が決められている。そこに行くまでも、当事者たちはついつい興奮もするようだが、警察官がそうした行為を牽制している。また、動物虐待もまずいというわけで、馬を蹴ったりすることも禁止されている。昔はアルコールを飲ませていたこともあったらしい。全国には動物も参加する祭りがけっこうあると思う。そうしたところでは、動物虐待を避けるという視点から、同じような動きがあるのだろう。それは時代の流れによる変化と言える。このように、それぞれの祭りに特徴があり、独自に発展し、ときには軌道修正が加えられ、新しい工夫も付け加えられていく。有料化などのように、他の祭りに影響を与えることもある。この際は、どこが最初に新しいことを始めたかといったことは問題ではない。
ゆとり≠フ誤解(07/10/14 Sun -1659)
ゆとり教育≠ノついては、すでに本コラムの05年2月25日から3回ほど続けて触れている。私に言わせれば、ゆとり≠ノ対する誤解がある。それは詰め込み≠フ弊害があまりにも目についたための反動だったのかもしれない。とにかく理屈抜きで丸暗記、それも膨大な量をたたき込む。そんなイメージがあったからこそ、詰め込み≠ニいうことばが使われたのでもある。そこで、ゆとり=ゆったりすること≠ニいう誤った式ができあがった。それは大いなる勘違いである。たとえば、私の考えるゆとりの時間≠ナは何が起きるか。教室を見渡すと、じつに心地いい緊張感が感じられる。子どもたちが真剣な顔をして何かに取り組んでいるからだ。そんな状態だから、声を掛けるのも気が引けるほどである。とにかくその熱中している様子に圧倒される。ある子は数学の問題を解いているようだ。よほどの難問らしく、顔をしかめ頭を抱えている。ときどき上目遣いで天井を睨みつける…。それを見て、ついがんばれ≠ニ叫びたくなる。別の生徒は、授業で使ったと思われる装置で実験に没頭している。なにやってるの=Bそんな声を掛けるのも憚られる雰囲気がある。ふと耳をそばだてると、独り言のような低い声が聞こえてくる。なんだろうと思って、声のする方に目を向ける。すると、歴史の年表を前にしてうなっている子どもがいるではないか。彼の場合、年代の丸暗記をしているようだ。これも邪魔しては悪いと思いながらも、勇気をふるって聞いてみた。ウンウン言いながら、あなたは何をしているの?≠サれに対して、笑顔で答えが返ってきた。私は歴史が大好きなんです。この事件に関わって起きたことについて、その細かい年月まで憶えたいんです…=B
詰め込み≠ニゆとり(07/10/13 Sat -1658)
とにかく事実を記憶する。ただそれだけの教育では、子どもの意欲は高まらない。もちろん、ときには鹿児島線の駅名をすべて憶えているなんておもしろい子どももいる。これなんぞは趣味や遊びの世界に近いから、けっこう楽しいものだ。まあ、しかし一般的には、詰め込み教育≠ヘ目の敵にされる。そもそも詰め込み≠ニいうことばそのものに悪意≠ェ感じられる。ものごとを無理矢理に詰め込んではまずいに決まってる。そんなことをしていると、入れ物が壊れてしまう。しかし、だからといって丸暗記≠ェ有無を言わせず悪者にされるのも行き過ぎだ。掛け算の九九≠ネんて、あれは丸暗記の代表ではないか。私なんぞ、人生の先が見え始めた年になってきたが、それでも九九≠ヘ憶えている。なんと素晴らしいことよ。まあ、正直なことを言えば、最近は九九≠ナん?≠ニ迷うようなこともありますのですが…。なんで、「あいうえお」なの?∞どうして「鳥」っていうの?∞なぜ地球は「反時計回り」なの?…=Bどんなものにも理屈や理由、由来はあるのだろうが、とりあえず憶えておく≠アとを大事にしないと、うまく生きていけない。ただ、ものごとは過ぎる≠ニまずいのである。というわけで、理屈抜きの丸暗記≠セけを重視する教育が詰め込み≠ニ呼ばれて問題になったというわけだ。そこでゆとり¥d視に転換したのだが、これに対して、時間数は減るは、教科書は薄くなるはで行き過ぎだという人が出てきた。そして、今度はゆとり教育≠ェ目の敵にされている。歴史は繰り返す? とかく人間のやることは行ったり来たり≠フ繰り返しだ。ヤレヤレという感じだけれど、もちろん詰め込み教育≠フ復活というわけにはいかない。
これからどうする…(07/10/07 Sun -1652)
「味な話の素」が同じ題材をそれほど続けなかったもう一つの理由は、私自身が分散型、気が散りやすい人間だからである。じっと同じところに居続けることが苦手だ。とにかくせわしないのである。そんなわけで、コラムの内容も連続的にするよりも、あっちゃこっちゃ、行ったり来たりして楽しんでいた。ところが、これまた気分のむらのせいともいえるのだろうか、たまには続けてもいいかなという気持ちにもなってきたのである。それがいつのことだったか、しっかりした記憶はない。いまから思えば、リーダーシップ≠フ特性論と行動論の紹介をしたときは、かなり長かった。その内容も職場のリーダーにとっては現実的だったと見えて、連載中(?)≠ノ、この先、どうなるんでしょうか≠ニいう質問メールまでいただいた。かなり思わせぶりで、リーダーのみなさん大丈夫?≠ニいった調子の書き方だったからである。その後は、年末に息子夫婦を見送った熊本駅での事件≠ェ長かった。あまりのくどさに、息子からもういい加減で終わりなさい≠ニのアドバイスを受けたほどだった。それでも2週間程度だったと思う。昨日から思い出話≠している。じつは、一昨日の5日に、説得と納得≠ェようやく終わった。お読みいただいている方がお気づきかどうかわからないが、これは8月31にスタートしたものだった。正味は1ヶ月と6日ではあるが、足かけで言えば3ヶ月もの引っ張り≠ノなった。何ともしつこい話である。そんなこともあって、休日の日には、とうとう増刊≠出して、他のテーマも取り上げた。自分自身が落ち着いていない証拠である。さてさて、今後はどうするか。連載型か分散型か。それこそ、はっきりしないまま続くんだろう…。
少しばかり思い出話を…(07/10/06 Sat -1651)
いつのころからか、本コラムの傾向が変わってきたと思う。はじめのころは、あれやこれやと目先を変えて書いていた。連続するにしても、せいぜい4、5回程度であった。少なくとも、あまり長く続けることは意識的に避けていた。そんな中で、2003年6月16日に「わざわざ運動」というタイトルで書き始めている。「味な話の素」をスタートしたのは、4月29日だから、まだ2ヶ月も経っていない。回数もまだ59である。ああ、懐かしいこと。この「わざわざ運動」ほ、その次の日に「つづき」となり、その翌日は「さらにつづく」とサブタイトルを付けて引っ張っている。そして、「まだつづく」「まだまだつづく」と、とにかくくどい。しかし、これでもまだ終わらない。その後、「それでもつづく」になり、「もうちょっとつづく」と展開する。それから、「さすがに終わりに近い」となり、「とうとう終わり」でめでたくクローズしている。これが24日で67回目である。連続9日間、同じテーマで粘っているのだ。しかし、これなどは例外的に長い方で、その後は同じテーマを続けるにしても、意識的に分散していた。そして、ときどき思い出すといった雰囲気で、その続きを書くという形にしていた。その理由は二つある。まずは、お読みいただく方のことを考えていた。同じような内容のものがあまり続くと、どうしても退屈するからである。この発想は、「お客様本位」のように思える。しかし、それはそのまま「読み続けていただきたい」という気持ちの表れでもあった。もちろん記録はないが、アクセスカウンターも、まだ1000台とかそんなところだったと思う。あれやこれやと目先を変えて、とにかくアクセスしていただこうという気持ちが前面に出ていたのである。