説得≠フ裏返し(07/09/30 日-1645)
さてさて、この1ヶ月は説得≠ェらみの話題に拘ってきた。説得は人の態度や行動を変えることを目的にしている。だから社会心理学の中でも重要なテーマである。そこで、いろいろな説得のテクニック≠ノついても盛んに研究が行われてきた。そのいくつかについては、本コラムでも見てきたとおりである。それはそうなのだけれど、私はふと思う。説得≠フ条件を研究するのは大事に違いない。しかし、人の態度や行動を変えるためには、相手の納得≠フ方がもっと大事なのではないかと…。説得の心理学≠ゥら納得の心理学≠ヨ視点を転換させるのである。そのことを私はずっと考えてきた。もうかなり昔になるが、説得の心理学≠フ重要性を学会の発表論文集に書いたことがある。探せばどこかにあるはずだが、いつのことかは忘れてしまった。まあ、今ごろ気づいたんではないぞーっ≠ニ言いたいだけのことである。こんなことを言うと、ことばの遊びをやってるだけじゃないの。納得って、要するに説得を反対から見ただけのことでしょうが=Bなんて声も聞こえてきそうだ。だから、説得≠フ条件を研究すれば、それがそのまま納得≠フ条件にもなる。そんな発想だと、納得≠ヘ説得≠フ単なる裏返しということになる。わざわざ新たに研究することもないわけだ。うーん、そこがちょっと違うんじゃないかい…=Bこれが、納得は説得の裏返し論≠ノ対する私の気持ちである。こんなとき、わたしの頭には生涯教育≠ェ浮かぶのである。今日では生涯教育≠ニいうことばは見ることも聞くこともなくなった。しかし、昭和の終わりごろまでは、生涯教育≠ヘ新しい時代を迎えるキーワードだった。それが、いったいどこに行ってしまったのか。 |
考える$E場(07/09/29 土-1644)
自分のお店にないものをお客様が探していた。そこで、それを売っている競争相手を教えてあげた。これによって一時的にはお客を取られることになる。しかし、そうした誠意≠る態度はお客に感動を与えるだろう。それによって、お店の評価が高まることは間違いない。そうなれば、長期的には私のお店でお買いなさい≠ニいう説得に成功していることになる。ここで大事なのは、自分の店にないものを求めているお客がいたという情報を、職場で共有化することである。それをテーマにして話し合えば、いろいろな選択肢が出てくる。その結果、それはうちでも揃えることにしよう≠ニなるかもしれない。それとは反対に、その手のものは、私たちのお店の販売方針とは合わないので、他店にお任せしよう≠ニいう判断があってもいい。いずれの結論が出るにしても、小さな情報をみんなで共有化して、そのことについて考える≠アとが大切である。組織は考える人≠フ集まりであってほしい。みんなが考えることを止めて、何があっても変化しない。そんな集団は、この時代まともに存続できないだろう。そもそも、働いている人たち自身の意欲が萎んでしまう。変化≠ヘ組織が生き残るためのキーワードであるだけはない。仕事をしている組織の構成員にとっても、それは生き甲斐の元になるのである。こんなこと、どうせ言っても取り上げてくれない=Bこんな雰囲気の職場では、自分が得た情報を提供する気になんてなるわけがない。とても大事な情報だね。一時的には他店を儲けさせることになったけれど、お客様に対する対応としては評価できるよ。われわれとしては、今後どう対応しようか…=B職場のリーダーにはこんなストーリーを展開してほしいと思う。 |
信頼と説得(07/09/28 金-1643)
説得する人物が、自分にとって不利なことを言っている…。こんな印象を受けた場合にも、相手は説得を受け入れやすくなる。人間は自分に損なことはしない=Bこれが一般的な常識だから、敢えて自らに不利なことを言うのは、本人の人間性によるのだと考える。そうなると、その内容も真実に違いないという気持ちが高まってくる。たとえば、ある製品を作っているメーカーの人が競合する同業他社の製品を勧めたりする。これなんぞは、えーっ、そうなのかあ≠ニ感動してしまう。それは、製品そのものよりも、その発言をしている人に対する信頼性が高まるからである。人に対する信頼感が高まれば、その結果として、言っていることの内容も信じたくなるというわけだ。あるデパートでほしい品物がなかった。そのとき店員が、お探しのものでしたら、○○さんにはございますよ≠ニ他のお店を教えてくれた。その行動に驚き、感動してあのデパートはすごい教育をしている≠ニ周りの知り合いに言いまくった人がいる。これなどは、競合店にお客を取られたようでいて、実際にはお客の心をしっかりつかんでいる。だから長い目で見れば、顧客の獲得に成功しているのである。もちろん、当の店員さんとしては、妙な下心や裏の戦略を持っていたわけではないだろう。それこそ本心から情報を提供したのだと思う。しかし、それはデパートの店員として、文字通りお客様本位≠フ行動ではないか。まさにセールスの王道である。というよりも、それは対人関係≠フ基本だと言っていい。もちろん、その店員さんがそれだけで終わったのでは、まだまだである。自店に置いていないものを求めているお客様がいたことを、大事な情報としてお店で話題にすることも必要である。 |
脅しも適度に…(07/09/27 木-1642)
相手を脅して、その態度や行動を変えようとする。これを恐怖喚起コミュニケーション≠ネどと呼んでいる。ひとは怖い≠ニ言うことを聞く。その結果態度や行動も変わるというわけだ。しかし、この点に焦点を当てた一連の研究では、必ずしも一貫した結果が得られなかったのである。ある実験ではたしかに脅し≠ェ効果的だった。ところが別の研究では今ひとつというものもあったのだ。このように矛盾する結果を説明するために考えられたのが、脅しの程度の問題であった。まずは、人の態度や行動を変えるのに、脅し≠ヘそれなりの効果を持っている。しかし、脅し≠フ程度が極端に強すぎると、かえって逆の影響が出てくるのではないか。あまりにも強い恐怖を感じると、それを与えた相手や関連する情報と、それ以上に接触する気持ちがなくなってしまう。そうなると、継続的な説得そのものが成立しないのである。あんな人とは二度と会いたくない≠ニいう感情が強くなる。それに、そうした情報を与える人間そのものに対する信頼感も薄れてくる。ある。そもそも、あの人は本当のことを言っているんだろうか≠ニいう不信感が頭をもたげてくるのだ。そして、そうした不信感は情報の内容にまで疑念を生じさせるかもしれない。ついついそんなことってあるんかいな≠ニいう気分になってしまうのである。情報源に対する信頼が薄れ、情報内容に対する信憑性を疑うことになれば、説得が成功する可能性はゼロと考えるべきだろう。かくして、説得が成功するには恐怖≠竍脅し≠ヘ適切な≠ナないとまずいのである。ただし、その適切さの程度を確定するのは、これまたむずかしい。人によって恐怖≠受け止める程度も異なっているからだ。やれやれ…。 |
脅しの効果(07/09/26 水-1641)
人を説得し、その態度や行動を変えるために脅し≠使うテクニックもある。その究極は言うことを聞かないと命を奪うぞ≠ニ刃物や銃口を突きつけて行動の変化を迫る場合である。これは説得≠ニ言うよりも強要≠ナあり、間違いなく犯罪である。しかも、こんな方法を使って行動が変わったとしても、それは心の中まで影響をおよぼすことは期待できない。しかし、こうした犯罪的行為は論外として、世の中では説得するために脅し≠フテクニックがけっこう使われている。中高年の健康は本人だけでなく国の経済にも影響を与える大きな問題だ。そこで、みんなが健康な生活を送るように説得する必要がある。このごろは健康に関するテレビ番組も多い。そうした放送では、あの手この手の脅し≠燻謔闢れられる。たとえば、糖尿病になると失明したり、手足を切断しないといけなくなりますよ≠ニいった情報を与える。放っておくと、とんでもないことになりますよ≠ニいうわけだ。血糖値が高いと自覚している者にとって、これは怖ーい話である。たばこを止めないと癌になるぞ≠ネども同列にある。ニコチンタールで真っ黒けになった肺の写真などがあれば、さらに効果的である。いずれも事実ではあるから、これを脅し≠ニ言ってしまうことは問題だと思われるかもしれないが…。それはともあれ、人間は怖いことには弱いものだ。やはり地球上の生き物として、生存し続けたい≠ニいう本能があるからだろう。このままだと自分の命がなくなると思うと、誰もが怖くなるのである。こうして説得≠フ研究でも、脅し≠フ効果に焦点が当てられることになった。脅し≠ノよって相手に恐怖≠与えれば、その人の態度や行動が変わるだろうという発想だ。 |
権威の力(07/09/25 火-1640)
説得する際に使われる権威≠ヘテレビや新聞の情報に限らない。たとえばその道の専門家なども大いに権威≠発揮する。そうだからこそ、マスコミでも権威者≠フ発言を取り入れる。その点で大学の教員なども、大昔はいい意味でも権威≠ェあった。しかし、このごろは権威≠ネどとは縁遠くなってきた感じがする。大学そのものの役割が変わってきたのである。すでに少子化で全入≠ニまでいわれる時代を迎えた。大学は生涯学習の場を提供する機関として、生き残りをかけている。それだけ多くの人とって学ぶことが身近になったのである。そんなときに妙な権威≠振りかざしても、誰も相手にしてくれない。有力な大学の中には、学長を総長と呼んでいるところがある。これなんぞは相当な権威づけである。明治時代に東大などの大学ができあがっていく時代、最初は複数の学校が合体して構成された。それぞれの学校に学長がいたのである。そんなこともあって、大学全体を統合する責任者は総長≠ニ呼ばれることになった。まあ、それなら総長≠煦モ味がよく分かる。しかし、いまの時代は、どこも一つの大学≠ネのだから、この際は学長≠ナ十分なんじゃあないんでしょうかねえ…。さてさて本題の説得と権威≠フ話にもどると、情報源としては専門家の方がそうでない人たちよりも信頼されやすいことは間違いない。たとえば今後の経済情勢についても、街を歩いているおじさんと、その道の専門家の発言では、受け入れられる程度が違ってくる。それが専門家≠フ存在理由であり、期待される役割でもある。しかし、そこを危ない商売の人たちが悪用するのである。われわれ素人は、それが本物の権威≠ナあるかどうかを見極めなければならない。 |
連休物語(07/09/24A 月-1639)
三連休ということだが、遠出などはせずに家でゆっくり過ごしている。目が覚める時間はいつもと変わらず、けっこう早い。私にとっては、起きてから数時間が黄金タイムである。いつも出勤前に3時間ほどはあるので、かなりの仕事ができる。これが休みの日になると、仕事場に出かけないから、その勢いが午前中いっぱいまで繋がることが多い。そのおかげで、今回の連休でも来週からはじまる授業の準備など、かなりたくさんの仕事ができた。そろそろ締め切りが間近になった原稿も書き終えた。めでたし、めでたし…。そんなわけで、土曜日の夕方から家内と映画に出かけた。もちろん最寄りのシネコンである。上映中のリストにはとくに観たいという作品は載っていなかった。しかし、せっかくの休みだしということで、ときおり話題になる「釣りバカ」にでもいってみるかという話になった。なにせ国民的な人気のあった「寅さん」シリーズに代わるものだと聞いたことがある。今回で18作目というから、きっとおもしろいに違いない。元祖の「寅さん」は28年間で48作も作られている。「釣りバカ」は第1作目が1988年ということで、こちらも相当なものだ。ところで、私は「寅さん」を完全に観たことがない。ときおりテレビで放映していたから、そのとき20分くらいは観た。しかし、ずっと最後までお付き合いするところまではいかなかった。そもそも私はテレビの前でじっと座っておれない性分なのである。せいぜい50分くらいが限度だろうか。テレビの前にいても、他のことをあれころ考える癖があるのだ。そして、ふと何かを思いつくと、目の前の番組などどうでもよくなってしまう…。この話、また長引きそうですね。思い出したときに続けることにしましょう。 |
権威と同一化(07/09/24@ 月-1638)
マスコミは第四の権力≠ニ呼ばれる。国は立法∞司法∞行政≠フ三権を持っている。マスコミは、そうした権力を牽制する力を持っている。そこで三権に次ぐ第4番目の力を持っているということで、第四の権力≠ニ言われるのである。一般的に、テレビが言う≠アとや新聞に書いてあること≠ヘけっこう信じられやすい。これにアイドルなどまで権威≠セというと異論が出るかもしれない。しかし、彼らもまたテレビやマスコミなどで頻繁に登場すれば、一種の権威%Iな力を持ってくる。そうだからこそ、タレントたちが多くのCMに採用される。彼や彼女がお薦め≠ネのだからきっといい製品なのだ。そんな思いになるのである。タレントの場合は権威≠ニは別に同一化≠フ心理も働く。タレントと同じ服装をすれば、自分も本人に近づいた気になる。CMと同じ菓子を食べる。それだけでも気持ちはタレントと共有できる。少なくともそんな気分になれるというわけだ。もちろん同一化≠ヘ単なる幻想的な満足で終わるだけではない。現実の生活でも、ある人に憧れて、そうした人になりたいと思うことがある。その人を人生の目標にして充実した生活を送ることもできるのだ。これなどは望ましい同一化≠フ例である。ともああれ、とくに女性タレントのように、外見的には優しい誘いかけも含めて、権威≠ェわれわれの態度や行動の変化に与える影響は相当に大きい。かくして、悪徳商法なるものも権威≠最大限に利用する。われわれの心の底には、権威≠ノ対する依存心が潜んでいるように思える。たしかに、権威に従っていた方が、身の回りが安定していて安心である場合が多い。ややこしい商売を企む人たちは、そこを狙って攻め入ってくる。 |
キレイ≠ニ美しい(07/09/23A 日-1637)
例大祭の行列を見に行って、繁華街のアーケードをじっくり眺めることになった。こうして見ると、あるはあるは…。お店の看板はもちろん、天井からぶら下げられた看板や広告も目の前でひしめいている。そのどれもがとにかくキンキラキンなのである。赤や青、黄色に白と、とにかくすべてが目立つように競い合っている。みんなが自己主張をしているのである。看板や広告は人の目に入らなければ意味がない。だから、どれもがキンキラキンであるのは当然のことだ。しかも、活気があるといえばこれ以上のものはない。とにかく刺激的なのである。しかし、少し視点を変えると、どれもが落ち着かない色模様にも見えてくる。こうまでしないと、人が見てくれないとすれば、われわれの感覚はどうなっているのだろう。いつの間にか麻痺してしまっているのではないか。あれだけケバくないと気づかないのである。今年は7月にウィーンとプラハに行ったが、街の雰囲気は日本とはきわめて対照的だった。あちらは古い建物がしっかりと根付いて、その点で落ち着きが感じられる。少なくともわが国のようにキンキラキンではなかった。日本の都市の場合、あちこちに屋外広告があふれ、夜のネオンサインが街の顔になっている。これはアメリカ系文化の影響だろう。とにかく俺も俺も≠ニ目立ちたがっている。目立った&が勝ちなのだ。ヨーロッパの町並みを見てふと思った。ウィーンやプラハははキレイではないが、美しい=Bその点で、日本の街はキレイではあるが美しくはない=B東京に行けば、アルミが輝き、ガラス窓が太陽光を反射してまぶしい高層ビルが林立している。だから、たしかにキレイ≠ナはあるのだけれど。さて、みなさんはどちらがお好みだろうか。 |
F 尺度(07/09/23@ 日-1636)
ある情報を誰が出しているか。あるいは誰が情報の内容を保証しているか。それによって、その情報が信じられたり、疑われたりする。いわゆる権威が内容を保証していれば、そうでない場合に比べて、多くの人々に受け入れられやすいのである。もちろん、これには個人差がある。人によって権威の発言を信じる程度は違っている。ともあれ、世の中には権威に弱い人が少なくない。その一方で権威≠ニいうことばを聞いただけで反発する人もいる。社会学や心理学ではファシズム尺度≠ニいうものが使われたことがある。その頭文字を取ってF尺度≠ニ呼ばれるが、これはドイツの社会学者アドルノが作成したものだ。これによって、自分がどのくらい権威主義的であるかが分かるとされている。たとえば、権威を敬い、それに従うことは、子どもが学ぶべき最も大事な徳目だ≠ニか、もし人々が余計な話をせずに、仕事に励めば、だれもがいい生活ができる≠ニいった項目が30ほど挙げられている。これに賛否≠フ程度を6段階で回答する。ご関心のある方は、http://www.anesi.com/fscale.htm≠ノ30項目が掲載されているのでアクセスしていただくといい。あなたご自身の結果がどうなるかはお楽しみに…。それはともあれ、世の中にはけっこう権威に弱い人たちがいる。まあ、そんな偉そうなことは言わない方がいいか。われわれ人間というものは、一般的には権威に弱いと言っていいだろう。しかも、自分自身ではそのことに気づいていないことが多い。だから怖いのである。権威が先導すると、あっという間に人心が一つの方向へ突っ走る。人類の歴史を振り返れば、その例は世界中どこでも見つけることができる。ところで、マスコミは第4の権力≠ニ言われる。 |
アーケード(07/09/22A 土-1635)
先週は藤崎宮の例大祭で、行列を見に行った。はじめて全部を見たので4時間以上も立ちっぱなしだった。もう年も年だから、さぞかし疲れただろうと思われるかもしれない。しかし、その点はまだまだ大丈夫なのである。なにせ、われわれの場合、立つことも仕事に含まれている。集中講義なんてときは、毎日4コマから5コマは立っている。朝の9時から夕方までである。それが3日とか4日と続く。もちろん教壇に座って授業をすることはできる。ところが私はこれが大の苦手なのである。とにかく、一カ所にじっとしておれない。授業中も机の間をうろちょろするのは、いつものことである。午後2時の気が遠くなる時間≠ネんぞも、後ろの席まで出張する。そんなわけで学生たちも緊張感あふれる≠ニ喜んでいる(?)ともあれ、先週は行列見物で4時間も街中に立っていたというわけだ。ところで、祭りの一団が過ぎ去った後、熊本市の大きなアーケード街を見回した。熊本の中心に「上通」「下通」「新市街」と呼ばれる3つの商店街が続いている。道幅も15mほどあって、かなり広い。そのすべてが屋根付きのアーケードだから壮観である。全長はどのくらいか知らないが、私自身はこれほどスケールの大きいアーケードを他で見たことがない。おそらく日本でも有数であることは間違いない。なにせ仕事中毒≠フ私だから、いつもは自宅と職場の往復が多く、街中に出かけることはめったにない。それに出かけたときも、街中を歩いて移動している。だからアーケードの天井も含めて、立ち止まって眺めることもない。ところが先週は一カ所に立って行列を見ることになった。そこで行列が行き過ぎた後などにも、ときおり天井や街の看板を眺めるタイミングが生まれた。 |
権威と説得(07/09/22@ 土-1634)
人間は、失ってしまったものを取り返そうという衝動を持つもののようだ。出したものが戻ってこない=Bこの喪失感はものすごいものらしい。そんなときに、もう少し投資すれば元は取れる≠ニ突っ込まれる。そこで、もういいや。損は人生の授業料≠ニいってあきらめれば、それでおしまいになる。しかし、現実に起きる詐欺事件などを見る限り、かなりの人間がそこでは止まれない。そして、行き着くところは底なしの地獄というわけだ。それにしても、オレオレ詐欺をはじめ、さまざまな犯罪テクニックを見ると、彼らは社会心理学をはるかに超えているのではないか。いやいや、そんなことで感心していちゃあいけませんねえ…。ところで、ペーパー商法の話は、説得に権威を利用することがあるという話題からはじまったのだった。金融商品などの勧誘に限らず、人に対する説得に際して、いわゆる権威も利用されやすい。たとえば経済情報については、日経新聞のイメージが持っている力は大きい。おじいちゃん、大事なお金だからちゃんとしたところに預けないとまずいんだよ。などと言いながら日経の切り抜きを見せる。そこに金相場が上がりそうだ≠ニか金は他のものに比べて投資として安全性が高い≠ネどと書かれていたりする。経済は生き物だから、いいときもあれば悪いときもある。だから自分に都合のいい記事が掲載されているものだけを集めるのは、そうむずかしいことではない。相手が悪意に満ちた人間だとは夢にも思っていなければ、こうした新聞や雑誌の記事がけっこう効いてくるのである。なるほど、この人の言うことは専門紙でも認めているんだ≠ネんて感じになる。そうした権威がバックにあれば、相手に対する信頼感が高まってくる。 |
至福の時間(07/09/21 金-1633)
孤独な生活を続けている高齢者の前に、自分を理解してくれる人物が現れたらどうなるか。もうそれだけで地獄に仏の大感激をするに違いない。彼は自分が若いころの自慢話も聞いてくれる。わーっ、おじいちゃんも昔はすごかったんだあ≠ネんて大げさに驚いたりする。まあ、たいしたことはないんだけどな…≠ネどと答えるが、こころの中は満足感でいっぱいだ。こうなると、騙されるのは時間の問題になる。しかし、本物のプロはまだまだ焦らない。彼らはこのくらいでは投資の話などを持ち出したりはしないだろう。こうした至福の時間を何度か繰り返すのである。そのうちに、おじいちゃんから昼ご飯でも食べていったら≠ネんて話が出たりする。もちろん、断る理由は微塵もない。2人の関係がますます親密になり、相手が自分を信頼しきっていることは疑いない。ここまで来れば大丈夫だ。そんなタイミングで、いよいよ誘惑者の物語がはじまる。おじいちゃん、僕の方にもちょっとしたおもしろい話があるんだけど…=Bこうして金≠セかなんだか知らないが、とにかく彼が提案するものに投資する話がスムーズに展開していくことになる。ここでもまだ焦りは禁物だ。いきなり大きな金額は提示しない方がいい。最初は10万とか20万程度で抑えておくのである。それなら、警戒されずにそうか、その程度なら≠ニ金を出してくれる可能性が高い。そして、そのうちじわじわと増やしていけばいい。われわれは一度お金を出してしまうと、あとは簡単に転けやすい。おじいちゃん、ごめん。この前、出してもらったお金だけど、ちょっと相場の調子が悪いのよ。いまのうちにもうちょっと出してくれないかなあ。そうしないと前のお金もパーになっちゃうからね=B |
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ペーパー商法(07/09/20 木-1632)
本当はよく分かっていないのに、お分かりですね≠ニいわれてはい≠ニ答えてしまう人。これは相当に危ない。説得≠ウれやすいといえば、まだ聞こえがいいが、それは騙されやすい≠アとでもある。そうなると性格がいいから≠ネんて笑ってるわけにもいかなくなる。さてさて、人にうん≠ニ言わせるには、何かしらの権威を利用する方法もある。その昔、ペーパー商法と呼ばれるものがあった。いわゆる詐欺商法だが、いつの時代にも形を変えて出現する。お互い気をつけましょう。たとえば金≠フ取引をするという触れ込みで投資を誘う。お金を出した人には預かり金の証書を渡す。しかし、客から手に入れた資金は説明通りの使い方などしない。自分たちで勝手に使い込んだり、きわめて危ない商品に手を出して大もうけをねらう。それがうまくいった場合は、彼らだってもうけのほんの一部を投資者に還元するくらいの良心は持っているかもしれない。しかし、この手の投資は大穴を出すに相場が決まっている。はじめから本気で約束など守るつもりはないから、証書は単なる紙くずとなる…。というわけで、ペーパー商法が大問題になったというわけだ。その代表的なものとして豊田商事問題がある。会長が暴漢2人によって刺殺されるという事件まで引き起こしたものである。その事件発生が1985年だから、もう20年以上の時間が経過した。豊田商事の場合もそうだったが、こうした詐欺的行為のターゲットになるのは高齢者が多い。高齢者たちには退職金などある程度の資産がある。金額の多寡は個人差があるにしても、年金という安定した収入もある。とくに身寄りのないお年寄りは精神的にも孤独な毎日を送っている。そんなところに悪魔がすり寄ってくる。 |
両面的説得(07/09/19 水-1631)
人を説得する際に、その内容について相手が何も知らなければ、とにかくお薦め≠ナ攻めまくる。もちろん、してはいけない≠アとであれば、一方的に止めろ≠ニ言いまくればいい。しかし、先方がその件についてある程度は知っている場合、攻めまくり戦法≠ナはなかなかうまくいかない。あんたそんなこと言うけど、それってこんな欠点があるじゃんか≠ネんて反論される可能性が出てくるからだ。そのときに言い淀むようでは説得は失敗する。そこで両面的説得≠ネるノウハウの登場である。まあ簡単に言えば、お薦めのいいところだけでなく、その弱点も敢えて提示するのである。もちろん、この商品が万全というわけではありませんよ。じつは、こんなところは貴方がすでにお持ちの商品の方がいいところを持っていますよね≠ネんて言いながら、ちょっと引くのである。あるいは、相手が気づいていないような弱い点をこちらから提示する。そして、その上ででもいいですか。たしかにこの商品は100点満点ではありません。けれども、いまお使いのものに比べれば、はるかにプラスの面が多いでしょう≠ニ押していく。そう言われると、それはそうかもしれない≠ネんて気になり、ついなるほど≠ニ頷いてしまう。そうなると成功の確率は急に高くなる。これに、これまでの説明で、本商品のプラスとマイナスについてはご理解いただけましたよね≠ニいった問いかけをする。みなさん、この手の質問には要注意ですよ。なぜなら、人間ってのは見栄もあって、こんなときいいえ≠ニ言いにくいからである。自分の理解力≠試されているのだ。ここでわからない≠ニ答えれば、わー、賢くない人ーっ≠ニ笑われてしまいそうな不安がかき立てられる。 |
諸刃のテクニック(07/09/18A 火-1630)
人の態度や行動≠変えるための研究は、私が関わっているグループ・ダイナミクスの領域でも重要なテーマである。それは態度変容≠フ研究と呼ばれている。そうした中で説得≠ヘ態度変容≠ノ大きな影響をおよぼす。そんなことで、説得≠ノ関する研究の歴史は古い。とくにホヴランド・ジャニス・ケリーの3人が書いたコミュニケーションと説得=i1953)という本は、その古典ともいえるものだ。誠信書房という出版社から日本語の翻訳も出ており、関係者の間ではよく知られている。これが1960年だから、いまでは絶版になっていることだろう。いずれにしても、こうした研究によって人間の態度や行動を変えるためのポイントが明らかにされてきた。ただし、この種の研究成果は諸刃の剣≠ナもある。その使いようによっては、悪徳商法やオレオレ詐欺にまで応用される可能性があるからである。もっとも、最近のニュースなどを見ていると、彼ら犯罪者の方が研究のずっと先を走っているような気がする。その手口の数々には、思わず感心してしまう。ときには感動までしたりして。おいおい、詐欺師の手法に感心なんぞしていてはまずいぞな…。ともあれ、こちらが勧めることの内容や買わせようとするものについて相手が情報を持たないとしよう。そんな場合は、一方的な説得がうまくいく可能性が高い。とにかくいいのよ。だから、私が勧めるとおりにしなさい≠ニいうわけだ。何せ、問題になっている事柄についてまともな知識がないのである。いいところ≠ホかりを聞いただけでも、そうかな≠ニいう気分になってしまう。だから一方的なアプローチでもうまくいくのである。しかし、先方がそれなりの知識を持っている場合は作戦も変わってくる。 |
秋祭りの続き(07/09/18@ 火-1629)
藤崎宮のお祭りで、出番のすべてを見たのは初めてだった。なにせ4時間以上もかかるのだから、途中でもういいか≠ニなる。しかも昔は子どもが小さかったから、そんな長時間にわたって見物しているわけにいかなかった。その点、今回は家内のお仲間たちと一緒に出かけて、いつの間にか全部を見てしまったというところもある。ただひたすら眺めていたのだが、参加者されている方が私に気づかれたようで、目の前に来てくださったりした。また私の方に声を掛けてこられた方もおられた。そんなときはなかなか嬉しいもので、つい手を振ってしまった。さらに、調子に乗った若い女性が汗を垂らしながら、私の方に顔を近づけてきた。そんならとばかり、ハーイ、ハーイ≠ニ返事をしかけた瞬間に家内から止められた。まあ、いい年してみっともないということなんですわね。それはそうなんだけど、私ってついつい調子に乗ってしまうんです。いまから思い出せば、ひどく格好は悪かったんだろうが、これでも若いころはゴーゴーにモンキーダンスで鍛えた(?)ものなのよね。そんなわけで鉦と太鼓が鳴ると、けっこう体が動いてしまうのでありまあす。それにしても主役の皆さんは元気のいいこといいこと。その中には、この日だけ元気な人もいるんだろうなあ≠ネどと余計なことを考えた。それに整理のために汗だくの警察官の皆さんもご苦労さん。その数たるや相当な動員だと思う。人が楽しんでいるときに笑いもせずに仕事をするのも、なかなかつらいですよね。笑いといえば、沿道の観衆に笑いが少ないのが気になった。かなり観察したのだが、みんなぶすっとしているような感じなのだ。日本人って、こんなときなかなか乗り切れないのかしら。せっかくなのに。 |
秋祭り(07/09/17A 月-1628)
いまから27年前の9月15日、遠くから地響きのような音が聞こえてきた。かなり早朝のことである。そのころも私は早起きだったが、それでもようやく目が覚めたころではなかったか。当時は大江の住宅に住んでいたが、音を聞いたのはアパートの4階である。そしてその音はさらに近づいてくるのであった。一体全体、何が起きたのか。とにかく飛び起きるようにしてベランダへ出た。すると、早朝だというのにラッパに太鼓、鉦の音まで響き渡っていたのである…。それが熊本にある藤崎宮の例大祭との出会いだった。いわゆる馬追というもので、中には動物虐待ではないかと眉をしかめる人もいる。その点はむずかしいところだが、とにかく賑やかで勇壮であることは間違いない。とくに鉦や太鼓という、ついつい鳥肌を立たせるようなリズムと音は、聞いているだけでも体が動いてくるようだった。あれから随分と時間が経過した。子どもが小さいころは何回か出かけたことはあったが、このごろは家にいて仕事をしていることの方が多かった。それがちょっとその気になったのである。じつは、本日の朝6時過ぎから随兵行列なるものを見物に街まで出かけてきた。熊本の通町筋で最初の行列を見始めたのが6時30分ころだった。それから延々と続いて最後の67番目が目の前を通ったときはすでに10時30分であった。なんと知らぬ間に4時間も経過していたのだった。その後に自宅に帰り着くまで立ちっぱなしだから、けっこうな運動だ。阿波踊りでは踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン≠ネんていう。うーん、まったくその通り。とはいうものの、この年では体力もないからとても無理な話だ。耳をつんざく音を聞いて興奮したので、それで満足すべきだろう。
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だけでは≠ニ対案(07/09/17@ 月-1627)
世の中には○○するだけではいけない≠ニいった表現で、ものごとを批判する人がけっこう多い。そういう私自身も、気づかないうちに同じような行動を取っているかもしれない。人間はとにかく複雑なシステムだから、1つだけの手立てで問題がすっきり解決するわけがない。そんなわけで、批判する場合に求められるのが対案≠ナある。ここにだけでは¥ヌ候群に罹っている人たちの問題がある。それだけではだめよ≠ニ言うばかりで、具体的な策を提案しない例がけっこう多いからである。それでは何ともまずいんですよね。少年法の改正などが議論されるようになると、罰則の強化だけでは問題の解決にはならない≠ニ言う。もちろん、そのこと自身は当然のことである。ただ、こうした発言は、ややもすると罰則の強化は意味がない。いやむしろ、逆の効果さえある≠ニいうニュアンスで伝えられるのである。そこが問題なのだ。その点は、発言されたご本人がどこまで意識されているかは分からない。しかし、少なくとも聞く方はそんな風に受け止めてしまいがちなのだ。だから、その上で対案が提示されていないと、なあんだ、文句を言ってるだけじゃんか≠ニなってしまうのである…。ところで、飲酒運転についても罰則の強化だけ≠ナはなくならないと言われる。これはその通りだと思う。罰則が強化されると全体の数は少なくなるが、現実を見るとそれに限界があることは明らかだ。その大きな要因の1つがアルコール依存症の問題である。飲酒運転については、アルコール依存症にも焦点が当てられている。依存症の人々は、罰則が強化されても簡単に行動を変えることができないというのである。しかし、この問題は簡単に解決できるような代物ではない。 |
カタカタ競争(07/09/16A 日-1626)
わが孫も先月末に満1歳の誕生日を迎えた。おかげで元気に育ってくれている。匍えば立て、立てば歩めの親心≠ニいう。私の記憶では、その前に寝返り≠ェあった。赤ん坊にとって、これがまた大きな壁なのだ。いまかいまか≠ニ思いながら、なかなか寝返り≠ェできない。私の長男の場合は運良くその瞬間を映像にとどめることができた。当時はビデオなどなく、給料1ヶ月分ほどの大枚を払って8mm映写機を買った。それに使うフィルムが3分で2000円もした時代である。新聞購読料が月に1700円だったことを考えると、その負担の重さは相当なものだだった。フィルムだから写してしまえばそれでおしまいなのである…。そんな親の子のためだろうか、息子夫婦も孫の寝返り≠記録に残そうと、いまかいまかと待ち受けていたらしい。そして、運良く息子が休みのときにその日がやってきた。いまではビデオだから長時間にわたって心おきなく映像を撮り続けることができる。もちろん、寝返り≠オた本人よりも親たちが興奮している光景は30年前と変わらない…。さてさて、その孫がカタカタ競争≠ノ出るという。これがすごい大会なのである。題して鶴屋カップ赤ちゃんはいはい&カタカタ競争≠ニいうのだそうな。これを聞いた、じいちゃん、ばあちゃんが応援に出かけたのは言うまでもありません。会場は赤ん坊とその親たちでいっぱい。もちろん、じいちゃん、ばあちゃんもけっこういた。みんなが日本の未来を創るのだと思うと頼もしい限りだ。しかし、われわれはこの子たちに膨大な国の借金を押しつけようとしている。このままでは状況は悪化するばかりである。えっ、孫の成績はどうだったか≠ナすって!おかげさまで満足のいく結果でしたよ…。 |
だけでは¥ヌ候群(07/09/16@ 日-1625)
たまたま&゚まった、運悪く∴っかかった。みんながこんな受け止め方をするのでは、交通違反、とくに悲惨な事故に繋がる飲酒運転だってなくならない。そんなわけで、罰則や警察の取り締まりの強化だけでは問題は解消しない。これが一般的な見方だろう。たしかにその通りだと思う。ただし、世の中にはだけでは≠ニいうキーワードを使って、何でもかんでも反対する人がいるのはちょっと気になる。人間はきわめて複雑な行動をする動物である。だから、何か問題が起きても、たった一つの対応方法ですべての問題が解決することはあり得ない。そんなわけで、心理学もなかなか常識≠超えることができないでいる。とんでもない事件が起きると、新聞やテレビではいわゆる心理学≠フ専門家がコメントすることがめずらしくない。それを読んだり聞いたりしたとき、さすがに心理学者はちがう!自分のような素人には思いもよらない分析があるんだあ≠ネあんて叫んだ人がいるだろうか。そうではなくて、なあんだ、そんなの当たり前じゃんか≠ニ思うことの方が多いのではないか。それが心理学の現状なのである。もちろん、私も心理学で飯を食っている人間である。だから、いまの心理学のあり方についてもそれなりの評価をしている。しかし、そこに立ち入るとまた脱線がひどくなる。ほとんどの方が意識されていないと思うが、私の頭の中では、まだ8月31日にはじめたストーリーが完結していないのである。心理学の現状≠ノついてはあらためて取り上げることにしたい。ここでは、だけでは¥ヌ候群について少しばかり考えてみよう。だけでは症候群≠ニは、何でもかんでも○○だけでは問題は解決しない≠ニ言って批判をする傾向のことである。 |
因果関係のとらえ方(07/09/15A 土-1624)
悪いこと≠ヘ自分以外のせいだと外罰的≠ネ発想でものごとを解釈する。その一方で、いいこと≠ヘ自分の力だと受け止めるのであれば、気持ちも楽なように思えてしまう。しかし、ご本人にとってはそうでもないのである。なにせ、人を含めて外的な環境が変わってくれないから、いつになっても悪いこと≠ェ起きる。だから不満は解消されないのである。これに対して、その対極にある内罰%Iな発想をする人はどうだろう。この場合は、世の中に起きることはなんでもかんでも自分が悪い≠ニ考える。そうなると、行動も容易に変わるような気がする。しかし、現実にはこうした見方をする人々の場合も、その態度や行動はなかなか変わりにくいのである。なぜなら、こうした人々は問題が起きると、とにかく自分を責めるからである。そして、そのことにエネルギーが費やされるために、問題を解決する行動まで繋がらないのである。自分を責めることに疲れ果てて、自らの命を絶つことだってあり得ることになる。こうした人はまずいこと≠ェ自分のせいなら、その反対にいいこと≠ヘ私の努力の結果だ≠ネどと考えればいい。しかし、これがまたうまくいかない。そんなときは、たまたま運がよかった≠ネどと思ってしまうのだ。だから内罰的≠ネ人々も、やはり態度や行動を変えることがむずかしいのである。どちらにしても、現実の因果関係を正しく認識していないということができる。当たり前の結論だけれど、何事か起きたとき、周りの状況と自分の行為の結果をきちんと見つめて、バランスのいい評価をすることが大事なのである。いずれにしても、警察の検問に引っかかって、ありゃあ運が悪かっただけ≠ネんて考える人の態度や行動が変わるわけがない。 |
外罰≠フ視点(07/09/15@ 土-1623)
われわれには毎日、毎日、いろいろなことが起きる。その一つひとつに、それなりの原因がある。しかし、そのすべてを客観的に把握することはむずかしい。そこで、自分なりに原因について考える。ときには、ある結果の原因を人から教えられて、なあるほど≠ニ納得することもある。しかし、また冗談じゃない。そんなわけないだろう≠ニ反発する場合もある。ともあれ、われわれ人間は自分の身の回りに起こったことについて、自分なりに納得しようとする。何といっても、原因が分からないと気持ちが落ち着かないからだ。しかし、この自分なりに≠ニいうところが曲者なのである。その因果関係の解釈に個性というか、個人差が生まれる。自分に関わることの原因を外部に求める人がけっこういる。この手の人たちは、環境が悪い∞人が悪い∞運が悪い≠ニいった類の発想をする。これは外罰的≠ネ発想である。つい先日も、会談に応じてくれなかったから職を辞する≠ネんて発言した人もいた。これはかなり外罰的な感じの見方である。こうした発想が頭の中を支配している人の態度や行動は、なかなか変わらない。何といっても周りが悪いのだから、そちらが変わってくれない限り、どうすることもできない。そう考えるからである。しかも、こうした中にはさらに興味深い考え方をする人たちがいる。自分にとっていいこと≠ると、一転して自分の力だ≠ニ受け止めるのである。こうした発想ができるのも一種の能力≠ゥもしれないが、まあ相当に自己中心的な能力ではある。自分にとってまずいこと≠ヘ外のせい、いいこと≠ヘ自分の力というわけだから…。こんな見方ができれば¢セ平天国、悩みもないだろうと思いきや、それもまた大間違い。 |
外罰」s.内罰(07/09/14 金-1622)
警察の検問に引っかかったり、軽い追突事故を起こしたとき、それを運が悪い≠ニ考える人もいる。これは交通違反や事故に限ったことではない。自分に都合が悪いことは、なんでんかんでん運≠フせいにする人がいる。こんな発想で世の中を見ているうちは、人の行動は変わるわけがない。これがもっと進んで、検問する警察が悪い∞ボケーッと止まっていた相手の車が悪い≠ネんてとこまで行く着く者までいる。こうした人は外罰的′X向があるという。とにかく自分の身に起きるまずいことは、なんでも周りのせいなのである。こうなると自分の行動はすべて正当化される。それがさらに歪むと、そうした外の悪を懲らしめるために正義の行動に出なければならないなんて心境になる。これが高じると殺人事件にまでいってしまう。薬物による被害妄想≠ネどもこれに含まれるのだろう。いずれにしても、何の関係もない被害者が生まれるという悲劇が繰り返される。これとは逆に、極端に内罰的≠ネ傾向の人もいる。なんでもかんでも自分のせい≠ノする。電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ≠ニいう心境だ。もちろん、こちらも大きな問題を抱えることになる。これも極端な形では自殺といった悲劇に繋がる。どちらにしても、こうした人々の行動や態度が変化することは期待できない。それは、周りが悪い≠ゥ自分が悪い≠ゥらである。自分が悪い≠フであれば、変わればいいじゃないか≠ニ思われる。しかし、そうした対応ができる人は何でもかんでも自分が悪い≠ニいった発想はしないものである。どう考えても電信柱が高い≠フは個人の責任じゃないもんね。いつも通りの結論になるが、いずれにしても極端≠ヘまずい。 |
膾を吹く(07/09/13 木-1621)
それにしても人間というものは、つくずく懲りない生き物だと思う。羮に懲りて膾を吹く≠ニいう。羮≠ニはあつもの≠ニ読むが、野菜や肉の入った吸い物で、文字通り熱いもの≠ナある。たしかに、味噌汁汁だってお椀を口に持っていってあっちっち≠ニ唇がやけどしそうになった記憶もある。それに懲りて、今度は膾も吹くというわけだ。膾≠ヘ魚に肉やキュウリなどを薄く切って酢であえたものである。清涼感と酢がきいたしまりがあって、私の大好物の一つである。ともあれ、冷たい部類に入る食べ物だから、それをフッフー≠ニ吹くなんてのは滑稽な光景になる。しかし、まあ人間というものはそれだけ失敗に懲りる動物でもあるのだ。ついでながら、広辞苑によれば羮に懲りたるもの韲えを吹く≠ニいうのもある。韲え≠ヘ刺身や和え物のことで、こちらも膾を吹く≠ニ同じ意味である。どんなことでも過ぎる≠フはまずい。膾≠吹くという行為はやり過ぎ≠ノ違いない。しかし、その一方で膾の心理を嘲笑ってしまうのも、これまたやり過ぎ≠ナ危険である。事故や災害、不祥事、そして戦争…。人の命が奪われるたびに、過去に学ばない人間の姿が浮き彫りになる。それが自分の体験≠ナない場合、人はとくに学ぶことがないように見える。飲酒運転や酒気帯び運転は、その典型である。いやいや、自分に関わった場合でさえ、十分に学ぶかと言えば、これまた相当に怪しい。飲酒運転の検問に引っかかって罰金を取られる。軽い追突をして酒気帯びであることまでばれてしまう。そんなときどう考えるか。たまたま′泱竄ノ引っかかった。たまたま£ヌ突してしまったから酒気帯びがばれた。そんな発想の方はいらっしゃらないでしょうね。 |
アルコールと精神構造(07/09/12 水-1620)
さすがにこのごろは、わが国でも飲酒運転が厳しく非難されるようになった。だからレストランなどにアルコール検知器を設置すれば、それなりの効果があるかもしれない。しかし、それでも私はこの手の機器は日本人に合っていないと思う。そこに検知器があるということは、少なくとも飲んでいい≠ニいうサインだと受け止められる可能性がある。そして、基準を超えて飲まなければいい≠ニいう心理的な状況が生まれる。外国人はどうだか知らないが、いまの時代になっても、日本人にとってはこのあたりが依然としてまずそうな気がする。ともあれ、わが国でも飲酒運転はいけない≠ニずっと言われ続けてきた。しかし、そのかけ声の大きさと比して、日常的にはその対応に甘さがあったことを認めざるを得ない。さすがにこのごろは、その傾向が少しは変わったことを期待したい。最近はバタバタしていて、車で遠出をする機会がない。そんなこともあって昼に外食をすることはほとんどない。しかし、観光地などに行くと、昼間からビールを飲んでいるペアを見かける。どう考えても車でしか行けないところである。そんな機会が昔よりも多くなったように思える。ビール1本くらい…=Bご本人たちはそんな軽い気分なのだろうが、その気持ちが怖いのである。ときにはそれが2本≠ノなったりもする。また、別の機会で運転していても、ビールを引っかける精神構造ができあがっていく…。それはともあれ、いまや飲酒運転だけでなく酒気帯びも許されなくなった。そんなわけで、とくに人を指導する管理職ともなれば、自宅にアルコール検知器くらい常備して置くべきかもしれない。そんなことまでしなければいけないのか。昔はよかった≠ネどと嘆いてはいけないのだ。 |
アルコール検知器の効果(07/09/11 火-1619)
土曜日から月曜日までは1日に2回分を書いた。それも同じシリーズの流れではなく、少し系統が異なる内容である。読まれる方は少しばかり頭がこんがらかったかもしれない。これに対して書く方の私はいい気なものだ。とにかく書きたいから書いている。ただそれだけのことだから。そうは言っても、私も無制限にヒマ≠ニいうわけではない。いつもの1日1個ずつにさせていただこう。飛び入りの話題である、交通安全に関するパネルディスカッションの水は低きに流れるか≠ニいう物語の続きは、また後で考ることにしたい。なにせ先月の末から書いている説得と納得≠フ話がまだ終わっていないのである。しばらくはこの話題に焦点を当てていこう…。さて、オーストラリアで発見したアルコール検知器は日本人には合っていない。それが私の評価であった。飲食の後で食事処の出口で息を吹きかける。そこで赤≠竍黄色≠ェ出れば、そのまま車を置いて帰る。そうなれば何の問題はない。めでたし、めでたし≠ナある。しかし、物語は思い通りに展開しない可能性が高い。とくに日本人の場合はそうだと思いませんか。サインが黄色≠セと、ついついいいんじゃないの≠ニハンドルを握る。それどころか、赤≠ノなってさえそんなに飲んでないよなあ。酔ってないもん。ぎりぎりで赤になっちゃったんじゃないの≠ネどと勝手な解釈をする。そして、ちょっと走ってるうちに黄色になるさ。そのうち青に変わるに決まってる=Bこんな理屈がその場を支配する。それに、機器があっても本当に飲んだ連中はチェックを避ける。そうした危険性が大いにあるから、この手の機器は設置しない方がいい。それが10年ほど目に、オーストラリアで私が持った印象だった。 |
水は低きに流れる?(07/09/10A 月-1618)
今日まで(?)は増刊版で2本目を追加しておこう。さて、先週参加したHSRのフォーラムでは、パネルディスカッションのコーディネータの役割をいただいた。パネリストは、法医学の立場から講演された先生と、企業で安全運転≠ノ取り組んでおられるお二人である。それぞれのお立場から、事故防止のためになすべきことについて興味深い話を聞くことができた。そんな中で、組織と人間をテーマに仕事をしている私としては、とくにヒヤリハットの話題は気になった。同じような事故を繰り返さないためにも、実体験したヒヤリハットがきちんと共有化されることが大事だという話である。しかし、そうした報告がスムーズに行われているかというと、現実はそうでもない。ヒヤリハットが失敗と同列に受け止められると、ついつい言いにくくなる。ましてや、そんな発言をしたことで不利な影響を被ることになれば、積極的に隠したくもなる。こうして小さなミスやヒヤリハットが表に出なくなる。そしてそれが蓄積されて、そのうち臨界点を超えるのである。ここまでくると、どこにも隠しようのない大きな事故や不祥事として表面化する。そして、それは組織にとっても個人にとっても、すでに取り返しのつかない事態になっているのである。ここで大事なことは、そうした小さな問題が上層部にも伝わって、組織の問題として共有化されることである。そのためには、上から一方的に指示や命令をだすだけで満足しているわけにはいかない。いわゆるトップダウンだけでなく、ボトムアップが求められるのだ。水は低きに流れる≠ニいう。だから、組織も指示や命令を上から流しておけばいいと考える。しかし、それだけなら山の上から流れ落ちる川の流れはたちまち枯渇する。 |
アルコール検知器(07/09/10@ 月-1617)
県庁地下の売店でアルコール検知器≠販売している。いまやそんな時代なのである。その値段は忘れたが、そこそこの価格だった。これはあくまで参考までに…≠ニ予防線的な説明がついていた。これでOK≠セといっても、検問でアウトになったときは責任が持てないということである。そういえば、10年ほど前にオーストラリアに半年ほど滞在したことがある。町のレストランなどの入り口にはアルコール検知器≠置いているところがあった。1ドル程度のコインを入れてセンサーにハーッ≠ニ息を吹きかける。すると、信号のように青≠竍赤≠フライトがつく仕組みだ。私はこれを見たとき、まずはおもしろいと思った。なかなか便利だとも思った。しかし、同時に少なくとも日本人には向いてない≠ニほぼ断定した。日本人の場合、こんな機器があると、それは引っかからない程度なら飲んでもいい≠ニいうサインになってしまうからだ。オーストラリアの人々たちが、これをどのように考えているか確認したわけではない。しかし、少なくとも日本人の場合は、飲酒運転を抑える方向に働かないことを懸念したのである。あくまで食事をしても車のときは飲んではいけない≠フだ。ところがこんな機器があれば、後で確かめればいいから、ちょっとばかりやってみるか≠ニいう誘惑に駆られる。そして本当にやむを得ず、ほんの少しばかり飲んでしまった≠ニなる。そこで念のため検知器でチェックしてみよう≠ニ100円玉をいれて息を吹きかける。すると、何と赤信号≠ェ出てしまう。さてどうするか。当然のように、すんなりと車をあきらめて代行を呼ぶなどの望ましい対応をする。まあ、こんな流れが成立すればめでたし、めでたし≠ニなる。 |
いろんな道の話≠フ続き(07/09/09A 日-1616)
味な話の素≠ヘ脱線や寄り道が多い。愛読者のみなさまには申し訳ないが、私の方は十分に楽しんでいる。それは脇道に逸れても、ちゃんと反応をいただくことができるからである。先週のタイガーの手回し計算機の話題についてもメールを頂戴した。いつも味な話の素≠ノお付き合いいただいたいる方からである。それによると、地球物理学者の故竹内均氏が学位論文を書く際に、タイガー計算機を使ったらしい。それも半端ではない。回し続けたのが4年間というから凄まじい。その成果が論文になり、それが地球物理学会のノーベル賞といわれるラグランジュ賞の受賞に繋がったという。手回し計算機さまさまである。さらに7日にはHSR九州が主催する07
トラフィック・セーフティ・フォーラム in 九州≠ノ参加した。HSR九州はHONDA SAFETY & RIDING PLAZA Kyushu≠フ頭文字を取ったものだ。その名の通りHONDA系の会社だが、ここがまたおもしろい。時速100kmから、濡れた道路上で急ブレーキを踏んだり、氷上に見立てたツルツルの道路を運転するなどの実体験ができる。いつかもっと詳しくご紹介する機会をつくりたいものだ。それはさて置いて、先週はそのフォーラムのパネルディスカッションでコーディネーターの役割を仰せつかった。私をお招きいただいたこともあって、HSRの方で事前に味な話の素≠チェックされた方がいらっしゃったのである。そこで、フォーラムの打ち合わせの際に手回し計算機が話題になった。おそらく、われわれ団塊の世代が手回し計算機≠実用として使った最後の世代ではないか。さらに、ある方からは手回し計算機≠アそが、現在の仕事を選択したきっかけになったというエピソードまで飛び出した。 |
教師と飲酒運転≠フ続き(07/09/09@ 日-1615)
まずは、先月末にはじめた連載中の話題からはじめよう。どうしてまず≠ゥというと、今日も2本分の内容を書く気が満々だから…。少なくとも限定された私の実体験ではあるが、昭和40年代の中ごろは、教師までもが飲酒運転≠ノ対して甘い見方をしていた。そういえば、日直の事務室で勢いづいて、さあ吉田君、飲みに行くぞ≠ニ二次会≠ノ連れられていったこともある。その多くは居酒屋さんだったが、たった一度だけ生徒の家に行ったことがある。先生が保護者の方と昵懇だったようで、わいわい騒ぎながら酒を飲むのである。そのうち酔いが回ってか、誘われるままに風呂にまで入っていた。まあ、お友達同士だからといえばそれまでだが、なにせ生徒の家である。いまの時代ならとても許される話ではない。いや場合によっては大問題になるだろう。これを旧き良き時代≠ニ考えるか、悪弊の時代≠ニ観るか、人によって意見が異なるかもしれない。私自身はそのころ学生だったわけだが、ここまでやるのはまずいんじゃないか≠ニ思った記憶がある。もう30年以上も昔の話である。まあ、個別事例の評価は置くとして、とにかく時代は変わった。飲酒運転をすれば組織によっては直ちに首になるほどの状況になった。また飲酒から時間が経過した後での酒気帯び運転もまずいことが常識になってきた。酒気帯びは、自分ではアルコールが抜けたと思っていても法的な基準に引っかかることがあるという。今年の6月ごろだったか、会議で熊本県庁へ出かけたことがある。その際、地下の売店でアルコールの検知器を売っているという話を聞いた。なにせ好奇心だけは人後に落ちない私である。さっそく会議の帰りに売店を覗いてみたら、本物がちゃんと置かれていた。 |
いろんな道の話(07/09/08A 土-1614)
今日はちょっと休憩代わりに2本目の大サービス?このところ、先月の31日から話が続いている。この話、行動を変える≠ニいうタイトルからはじめた。じつは、私の頭の中で決めているテーマは説得と納得≠ネのである。行動を変える≠スめに説得と納得≠ニいうものを考えてみようということではじめたわけだ。しかし、まだ説得≠ニいうことばを初回に出しただけで、納得≠ノは一言も触れていない。そんなわけで、この話が終末を迎えるまでの道のりは遠い。いつの間にか、30年以上も前の話題に迷い込み、やれ手回しのタイガー計算機だの、教師の飲酒運転などを取り上げることになった。本コラムをご愛読のみなさまはああ、またはじまった≠ニ苦笑されていることだろう。道草は当然のこと、脇道、逸れ道、迷い道、それに加えて、いつの間にか帰ってこない不帰の道≠ネんてのもある。じつは昨年末に、私の専門であるリーダーシップ・トレーニング≠話題にするつもりで書きはじめたことがある。そのためにはグループ・ダイナミクスの創始者であるレビンを取り上げないわけにはいかない。ということでレビンがドイツにいた話になり、ベルリンの壁に繋がっていった。もちろん繋げ≠ネくとも話はできるのだが、とにかく繋がって≠オまうんですねえ。それはともあれ、これからいよいよ本題というところまで来て、予定通りのようにどこかへ飛んでいった。その後はそのまま、もう火星に近くまで行ってしまったのかもしれない。何と言っても私の大事な仕事の話題である。いつかは帰ってきてもらわなければいけない。もっとも、愛読者のみなさまのお気持ちとは関係なく、私自身は、それはそれだとばかり勝手に楽しませていただいている。 |
教師と飲酒運転(07/09/08@ 土-1613)
いつものことながら相当に遠回りした。中学校の日直バイトを思い出したのは、その当時の飲酒運転事情が頭に浮かんだからだった。飲酒運転にも甘い時代があった≠ニ書いたのが9月2日のことだ。さて、私の日直が終わりを告げる夕方まで、居残って仕事を続けていた先生方もおられた。ときおり、そうした先生から吉田君、ちょっとビールでも飲むか≠ネどといって声を掛けられた。宿直室の冷蔵庫にはいつも数本のビールが入っていたのである。私としてははい≠ニ応えてお相伴にあずかった。そのときどきで、飲んだ量はいろいろだったと思う。いずれにしても、適当にアルコールが入った後で、それじゃあ≠ニいって先生方と別れることになる。その際に、バイクや自動車で帰られる先生方がいた。もちろん40年近くも前の記憶である。その頻度が多かったのか、たまたま数回のことを鮮烈に憶えているのか、正確なところは分からない。しかし、酒量の多寡は問わないとして、それも一部の人たちだったとしても、教師がわりかしアッケラカンと飲酒運転をしていたのは事実である。その当時はマイカー時代の黎明期だった。まだ360ccの軽自動車に手が出るサラリーマンが出始めたころである。先生方もほとんどは公共交通機関を利用していた。その中の何人かがバイクや自動車という状況だったのである。その当時も飲酒運転≠ェまずいことは誰もが知っていた。飲んだら乗るな、乗るなら乗るな≠ニいう有名な標語ができたのもこのころのはずだ。飲酒運転による悲惨な事故が起きていたからである。それにもかかわらず、ちょっとくらいなら≠ニいう意識から酒を飲んでしまう。学校帰りの教師でそうだったのだから、なんとも飲酒運転に甘い時代だった。 |
おいしい仕事(07/09/07 金-1612)
先輩から誘われた日直のバイトはかなり魅力的だった。何回か学校内を巡回するだけで、あとは事務室で勉強もできるよ≠ニいうのである。ただし、それを引き受けると土日は自由にならなくなる。しかし、とくに遊びが好きということもない超真面目(?)≠ネ学生だった私には、それは大きな問題ではなかった。まあ、デートする相手もいなかったということである。たしかに、夏休みに実家へ帰省するときも平日に制限されることになる。しかし、もうけっこうな年齢にもなっていたので、1週間もいればいいじゃないかという状況でもあった。まあ、そんなことで引き受けたバイトだったが、結果としては、中学校の事務室で卒論が書けたのだから、間違いなくいい仕事をさせてもらった。そうそう、私が日直をはじめた次の年度だったと思うが、夜勤をする剣道部のメンバーの1人が高校時代の同窓生だった。まったくの偶然なのだが、世の中はまことに狭いものである。仕事の性質上、私の担当する土曜日と日曜日は、夜勤担当の彼らと引き継ぎをする。そういえば、その交代時間がかなりルーズだったことも思い出す。はっきり憶えてはいないが、私の勤務時間は17時か17時30分までだったはずだ。ところが、それまでに交代がなかなか来なかった。もちろん、それはいつものことではなかったはずだ。しかし、人間というものは、こうした記憶だけはしっかり頭に残しておくようだ。何かをした&は忘れやすいが、された&はいつまでも忘れない。われわれにはそんな傾向がある。日曜日は家庭°ウ師もしていた。学校の事務職員の息子さんが事務室にやってくるのだ。その当時は中学生だったが、もう40代の半ばにはなっていらっしゃるだろう。ああ懐かしい! |
卒論が書けるバイト(07/09/06 木-1611)
時代とともに脳力≠ェ低下してきた。由々しいことである。しかも、妙なところでとんでもない脳力≠ェ発揮される。その典型がオレオレ詐欺≠ネんていうとんでもない犯罪行為である。その手口は日進月歩で進化していて、あまりの巧妙さに唖然としてしまう。まった嘆かわしくも怪しい時代になったものである。ともあれ、加減乗除を手で回して計算する。そんな機械を使って私は学部の卒論を書いたのである。その当時、大学にはすでに電子式卓上計算機≠ネる代物があった。しかし、それは文字通り卓上≠ナあった。身の回りに同じくらいの大きさのものが見あたらないが、個人用の机なら、それを置くだけで3/4ほどは占領してしまうほど大きかった。価格なんて憶えていないが、それはそれは目が飛び出る値段だったに違いない。しかも、それで加減乗除とルートが出るくらいの力しか持っていなかった。それがどうだろう。いまでは、安いパーソナルコンピュータだと10万円を大きく切っている。しかも実力はアポロを月に飛ばせたコンピュータよりもはるかに超えている。時代の変化だといってしまえばそれまでの話だ。しかし、それにしても猛烈な変化である。だだ、それに伴ってわれわれは考えることを止めたようにも思われる…。計算機の話が長くなってしまった。福岡市内の中学校で日直のバイトをしていたころの話に戻ろう。このときは夜の警備もバイトで対応していた。ただし、そちらはひ弱な℃рノ勤まらないことは誰に目にも明らかだった。その重責を担ったのは、福岡市内にある大学の剣道部員たちである。この仕事は伝統的にその大学の剣道部員が引き継いでいた。私の場合は、大学の先輩が卒業するときにあんた、やらない?≠ニ誘われた。 |
脳力低下(07/09/05 水-1610)
加減乗除の計算機が57万円ともなれば、庶民の手が出るものではない。しかも、手回しで計算するのだから、いまの若い人たちには信じられないだろう。そういえば、計算尺なるものもあった。これだって、われわれの世代は中学校で買って授業で使ったのである。そうそう、計算といえばソロバンも忘れられない。これまた小学校では必須の計算道具だった。いまでは学校で電卓を使っているようだ。ソロバンは指をこまめに動かして計算する。それに暗算能力も身に付くというので、海外でちょっとしたブームになっていると聞いたことがある。もうけっこう前のことだ。こうしたものに比べると、電卓ははるかに便利で、何と言っても楽に計算ができる。しかし、頭を使わないことも間違いない。ダーウィンさんに言わせれば使わないものは退化する≠フである。振り返れば、人間の歴史は便利さ楽さ追求の歴史でもある。しかし、その多くは肉体的な労力を軽減するものだった。そうした中で、ソロバンや計算尺は頭の労力を軽くするものではあった。しかし、それでもまだ手や頭を大いに使った。タイガー計算機などはずっしりと重く、持ち運びにも労力が必要だった。まあ、それは言い過ぎだが、とにかく頭も使いながら計算をしたのである。それが電卓となり、コンピュータへと進化すると頭も使わなくなってきた。何と言っても電脳≠ネのである。電卓の早打ち競技もあるそうだが、これはどうなんだろう。私の勝手な推測だが、電卓の場合は下手に考えるとまずいような気がする。そこで要求されることは、とにかく間違いなく早く叩くことだけではないか。それが正しければ、これは頭を使っているとは言いにくくなる。こうしてますます考える機会が減ってくることになる。 |
57万円の計算機(07/09/04 火-1609)
タイガー計算機のホームページには、バイトをしていた中学校にあった計算機の写真も掲載されていた。それを見つけただけで思わず興奮してしまった。ホームページにはタイガー計算機の歴史も書かれていて、なかなかおもしろい。しかし、それをすべて取り上げているときりがない。関心をお持ちの方はちょっと覗いてみられるとおもしろい。タイガー計算機≠ナホームページに辿り着ける。そこに掲載されているネタのいくつかを挙げると、まずは命名の由来は創業者大本寅治郎の「寅」にあるという。そこで最初のブランドは「虎印」になった。最初に世に出たのは1923年である。大正時代だ。しかし、和製はすぐに壊れる≠ニいう不信の念が強く苦戦する。そこで、「TIGER
BRAND」と輸入品仕立てに変えてみた。これで売れたというのだから、日本人の舶来信仰は相当に強かったのである。その後も苦労はあったようだが、ともあれ私が1970年代に出会うまで進化を続けていったのだ。しかし、いよいよ電卓という超強敵が現れる。これはもう時代の流れ、その大波には抗することができなかった。そして、1970年には製造完了となる。私が中学校で使ったものは、その最後の2代前のものである。ホームページの写真に掲載された形状と色からそうだと確信した。これは1960年の製品である。その前は1949年に発売されている。大学にも黒塗りのものがあったが、それは少なくとも戦後から間もないころの製品だったのだ。1970年製の価格は35,000円とある。その当時、大工さんの日当が800円だったという情報もホームページに追加されている。大工さんの現在の日当は13,000円くらいのようだ。単純な割り算と掛け算をして計算すると、今の57万円ほどになる。 |
パスカルと計算機(07/09/03 月-1608)
私が福岡市内の中学校で日直のアルバイトをしていたのは1970年代のはじめころである。もう35年ほど前になる。日直の仕事といえば、2〜3時間おきに学校全体を見回るくらいだった。電話の応対もあったが、もともと土曜日の午後と日曜日だから、ほとんどかかってこなかった。そんなわけで、本は読めるは勉強はできるわで、なかなかいいバイトだった。実際、わたしはこの中学校の事務室で学部の卒論を書いたといっていい。事務室にはタイガーの手回し計算機があった。この計算機、われわれの世代でないと知らないはずだ。右側に回転させるハンドルがついていて、それを掛け算は向こうへ、割り算は手前に回す。割り算の場合はチーン≠ニ音が鳴ったら桁をずらす…。いやいや、その計算機の説明などやめておいた方がいい。どんなに詳しく書いても、それを知らない人には分かってもらえるはずがない。知っている人には説明する必要がない。ともあれ、いまのコンピュータの10万倍はかかると思われるスピードでせっせと計算したものである。その重さもかなりのもので、足に落としたらおそらく指の骨くらいは粉々になっただろう。機会の中には歯車が内蔵されていた。その計算機を発明したのはブレーズ・パスカルである。あの考える葦≠ナ有名なフランスの哲学者だ。発明したのは1642年というから、その歴史は半端ではない。パスカルの計算機は加減算のみだったようだが、これを乗除まで拡張したのが、ライプニッツである。これまた有名なドイツの哲学者だが、計算機の発明は1694年のことだ。ニュートンと同じ時期に微分・積分法を発見したといわれている偉大なる人物である。卒論でお世話になったタイガー計算機についてはホームページがあった。 |
確率の勘違い(07/09/02 日-1607)
朝なら酒気帯びでも検問には引っかかるまい∞そもそも飲酒運転ではないのだ。。こんな気持ちがハンドルを握らせる。そこには車でないと職場に行けないから≠ニいうもっとも≠フような理由もつけられる。しかし、そんな中で追突事故を起こしてしまう。その原因は酒気帯びのせいではないかもしれない。しかし、こうなってしまうと万事が休するのである。酒気帯びで捕まった校長は単身赴任だったようで、前日は自宅で飲んで仕事場である自分の学校に出勤するところだった。警察で追突事故の事情を聞かれているうちにアルコールの気配がしたのだろう。チェックされてアウトになった。もう言い訳のしようがない。酒気帯びで朝から捕まる確率はきわめて低い。ましてや追突事故を起こす可能性もほとんどない。したがって、この2つが重なる確率は限りなくゼロに近い。しかし、ことが起こってしまえば、アウトの確率は100%なのである。人は事象が起きる確率と、それがもたらす結果の重大さを混同しているのではないか。校長は日ごろから職員に対して飲酒運転≠ノは気をつけるよう教示していたという。組織のリーダーとして当然のことである。しかし、そのご本人が捕まってしまったのではしゃれにもならない。まったく弁解のしようがないのである。われわれは自分たちが犯罪を犯すなんて夢にも思っていない。しかし、飲酒運転はそれだけで犯罪行為なのだ。それでも、現状はそうした意識がきわめて低い。だから飲酒事故は減少してもゼロにはならない。たしかに、飲酒運転にも甘い時代があった。私は大学時代に福岡市内の中学校で日直のアルバイトをしていたことがある。先生方の宿日直が廃止され、やがて警備会社に委託することになる転換期のころだ。 |
酒飲み運転(07/09/01 土-1606)
昨日から人の考え方や行動を変える§bに入った。それはよかったのだが、今日は9月1日で月が変わってしまった。その結果として話の連続性が途切れることになる。本日から読まれる方は、できれば8月31日の分にも目を通していただければと思う。Back
Number≠ノまで遡っていただくのは恐縮千万ではございますが…。さてさて、世の中には一刻も早く止めてもらいたい行動がある。その典型が飲酒運転だ。これは自分が事故を起こして命を落としたりケガをするのであれば自業自得ですむ。しかし、それは人の命を奪い去るのである。しかも何の関わりも責任もない人の命を…。法律的には危険運転致死罪≠竍業務上過失致死≠ニいう表現になっていても、それは限りなく殺人≠ノ近い。少なくとも未必の故意≠ナある。たしかに誰だって最初から人を殺そうと思って飲酒運転をするわけではない。しかし、酒を飲んでから運転すれば事故が起きやすく、しかも人の命を奪う可能性があることは分かっているのだ。こうした行為を未必の故意≠ニ呼んでいる。その線上に酒気帯び≠ェある。これがまたかなり危うい。飲んでから一晩たっているからアルコールも抜けたに違いないと思いたくなる。人間は自分の都合に合わせて判断が甘くなる。とくに公共交通機関が不十分な地域では、車がなければ職場に行くこともできない。その上、警察だって交通整に忙しくて、朝っぱらから検問なんてしている暇はない。そんなこんなで、少しは残っているという自覚があっても、ついハンドルを握ってしまうのである。しかし、そこに悪魔がつけこんでくる。つい先日も小学校の校長先生が酒気帯運転びで追突事故を起こした。前の晩は11時ころまで飲んだということである。 |
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