Back Number

味な話の素
No.52 2007年08月号(1574-1605)
 
行動を変える(07/08/31 F-1605)
 人の考え方や行動を変える際は説得しなければならない。人の考え方や行動を変える≠ネんてとんでもない。まったくけしからん話だという人がいるかもしれない。もちろん、人間を抑圧する形で人の考え方を統制したり、行動を規制することは避けなければならない。権力者が自分たちの思うままに人々を支配する。歴史を振り返れば、そんな苦い体験がいくらでもあった。いやいや、それは過去の話ではない。この地球の上で、抑圧≠ェ現在進行中の例はいくらでもある。視点を変えれば、人間の歴史は抑圧≠ニそれからの自由≠求める戦いであった。そして、それはこれからも続いていく。なぜなら抑圧の根≠ヘ人間がお互いに違う≠ニいう事実にあるからだ。その意味で、抑圧の根絶≠ヘ不可能だと考えた方がいい。もしそれを根絶≠キるのであれば、人類そのものが消滅するしかない。こうした点は、差別≠竍いじめ≠燗ッ様である。先週は差別≠竍いじめ≠ノ焦点を当てた。その際にも強調したつもりだが、差別≠竍いじめ≠熈根絶≠ヘあり得ない。人間存在の根底に同じでない≠ニいう事実がある限り、われわれはその宿命的な重荷を背負っていかなければならないのだ。だから抑圧も差別もそしていじめも、絶えず意識的に対応していないと、いつだって頭をもたげてくるのである。そんなわけで、抑圧を目的にして人の考え方や行動を変えようという試みがまずいことは当然のことである。しかし、その一方で人はわかっちゃいるけど止められない≠ニ大いに悩む。植木等のスーダラ節≠ナは、酒とギャンブルと女が止められない#Yみの対象になっている。いずれにしても、現実問題として少しでも早く変えることが望まれる行動もある。
ことばと相互理解(07/08/30 Th-1604)
 ウィーンで市内電車に乗るために時刻表を見ていたら、おじさんがMay I help you?≠ニ聞いてきた。まことに親切なのである。その上、自分が降りる電停まで来るとこちらへやってきた。そして、つぎのつぎだ≠ニニコニコ笑って確認してくれた。おじさんというよりおじいさんに近い感じだったが、これまた分かりやすい英語だった。ウィーンではドイツ語が中心だと聞いていたが、とにかくみんな英語がうまいのである。その理由は何となく分かるような気がする。おそらく、英語やドイツ語が言語として同じ構造になっているのだ。だから文型はそのままで、単語を入れ替えればOKになる。もちろんすべてがそうだとは言えないにしても、大体そんな感じではないのか。そうなると、極端に言えば、お互いに違った方言でしゃべるくらいのことになる。たしかに、同じCharlesが、国によってチャールズになったり、シャルルであったり、はたまたカールとも言うなどと聞いたことがある。ちょっと読み方を変えるだけであれば、何とも楽なことだと思う。その点、韓国語は日本語と語順が同じらしい。そうなると、単語を覚えれば、何とか話せるようになるのかもしれない。これに対して中国語は、語順がS+V+Oで英語に近い。だから漢文では「レ点」をつけて「主語・目的語・動詞」の順に読み直す。何とすばらしい工夫だろう。そういえば、子どものころスイス人は3カ国語くらい話すと聞いて驚いたことがある。ドイツ語と英語と、フランス語やイタリア語なんだろうか。ウィーンの人を見ていると、それも納得できるような気がする。何と言ってもコミュニケーションの最大の道具は言語である。その言語の親和性が高ければ、それだけ相互理解もスムーズにいきやすい。
ウィーンの英語(07/08/29 W-1603)
 ウィーン空港に着いてから目に入ったのは大きなHYUNDAIの看板だった。韓国の車のCMである。市内まではタクシーに乗ったが、空港から間もなくして、今度はSAMSUNGの広告塔があった。こちらは主として家電製品で知られる韓国企業だ。韓国の企業はヨーロッパに浸透する努力を地道にすすめてきたのだろう。どこに行ってもTOYOTAやHONDA、SONYにPANASONICなどが大いに幅をきかせている。アメリカなんぞはそんなイメージだったが、時代は確実に変わっている。半導体や液晶はいつの間に≠ゥ韓国に大いなる差をつけられた。台湾もものすごい勢いで走っている。そんな状況ではあるが、まずは現実をきちんと見極めることが大切だ。個々人のレベルでも調子に乗って油断することもある。おごり高ぶって自分が見えなくなることだってある。しかし済んだことはどうにもならない。これからしっかり前を向いて行きましょうよ。さてさて、空港からホテルまで乗ったタクシーの運転手さんだが、のっけから英語で話しかけてきた。見るからにおしゃべり好きのようだった。最初は日本人か≠ニいうおきまりの問いかけではじまったが、そのあとはウィーンの観光案内といった感じになった。おかげで退屈する間もなくホテルに着いた。その英語がまことに立派なのである。オーストラリアなどは相当に訛があったが、それも感じられない。ウィーンからチェコのプラハへ移動するときは鉄路にした。せっかくのヨーロッパ大陸だから飛行機ばかりでなく電車もいいと思ったのである。そこであらかじめ駅まで切符を買いに行ったが、こちらも英語がきちんと通じたし、先方が言うことも十分に分かった。レストランもしかり。そして、発音がまさに英語≠ネのである。
ウィーンのことば(07/08/28 Tu-1602)
 まだまだ暑さは厳しい。しかし、朝晩はもう熱気がゆるんでいるような気がする。今週末にはもう9月がやってくる。今年は学会でウィーンとプラハに出かけたが、あれからもう2ヶ月近くになる。ウィーンで泊まったホテルの前には大きな公園があった。その中にヨハン・シュトラウスの銅像が建っていた。金色のピカピカである。これは誰でも知っている有名なものらしい。私自身は音楽がまるでだめだから、ヨハン・シュトラウスと言われても名前を聞いたことがあるだけである。なにせ私には楽譜のオタマジャクシとアラビア語は同じくらいチンプンカンプンな記号に見えるのだ。そういえば、昨年はモーツアルトの生誕何年目かで、NHKのBSでもシリーズものを盛んに放送していた、またウィーンにはベートーベンが探索した道もある。さらに小澤征爾が指揮を執るというオペラ座なんぞもウィーンの街中にドカーンとそびえ立っている。そんなこんなで、音楽好きの人にとってウィーンはいつまでいても見納めのできない聖地なのだろう。やっぱり趣味はいろいろもっていた方がいいと思う。ところで、オーストリア人が使うことばは基本的にドイツ語だそうな。しかし、私のドイツ語レベルはゼロ級だ。なにせ大学での第二外国語はフランス語なのである。もちろん、大学の第二外国語というのがこれまた相当に怪しい。だからフランス語のレベルも惨憺たるものである。ともあれ、ドイツ語で知っているのはグーテン・モルゲン∞グーテン・ターク∞ダンケシェン≠フ3語程だ。なんとも頼りない状態なのである。しかし、ウィーンに着いた瞬間からドイツ語の能力をまったく必要としないことが分かった。誰もが流ちょうに英語をしゃべるのである。しかも発音もいい。
24日17時からサーバーがアウトでご覧いただけませんでしたが、27日中には回復していました。
差別のもと(07/08/27 M-1601)
 地球上のすべての生き物は、少しでも生き残る可能性を高めるために互いに違っている。それは1個1個の個体が、自分の種を存続することを目的に貢献しているということである。つまりはお互いに違っていることが、生き残るための武器になっているのである。それぞれの違いを個性といってもいい。それによって、われわれ人間もこの世界で生き続けてきたのである。だからこそ、お互いに個性を尊重していくことが必要なのだ。しかし、すべての個体が違っているという事実そのものが、差別を生み出す可能性を持っている。そして、それはいじめにも繋がっている。生き延び続けていくために必要な違い≠ェ、差別≠生む契機になる。自分たちが存続する条件そのものの中に、差別のもとがあるのだ。そう考えると、人間にとって差別やいじめは、はじめから起きる可能性を持っているということになる。だからといって、差別やいじめはなくすことができないとあきらめるわけにはいかない。ここで重要なことは、われわれがそうした状況の下で生きている事実をはっきり認識することである。すべてがお互いに違っていること≠ヘ地球上で生きとし生けるものに備わった危険な体質≠セと考えるべきだろう。それは生きているものにとっての強み≠ナあるとともに、最大の弱み≠ネのである。しかし、そうした弱点を持っていることを嘆き悔やんでも問題は解決しない。その弱点をはっきりと認識した上で、自分たちの行動に反映させることが大事なのである。それがうまくできれば、われわれ人間はもっともっと強くなれると思う。自分の弱点を知り、それに対して真面目に対応を考える。そのことでしか、人は差別やいじめを克服することはできないのではないか。
多様性の力(07/08/26 Su-1600)
 いじめや差別の原点は、世の中にはお互いに同じものがないところにある。世界のすべてが同じもので構成されていれば、そこでは差別やいじめは生じない。みんなが同じだから区別のしようがないのである。しかし現実には、自分とまったく同じ人間は1人としていない。SMAPの歌ではないけれど、一人ひとりがonly one≠ネのだ。顔も違うし、性格も同じではない。こうした特徴は人間だけのものではなく、生き物全体に共通している。何かの機会に、これを生物の多様性と呼ぶと聞いたような記憶があるが、それが科学的な表現なのかどうかは分からない。いずれにしても、春になれば日本中に咲き誇る桜の花びらも1枚だって同じものがないというのだから、驚きモモの木である。しかし、それもそうかと思う。われわれ人間だって、現時点で66億人くらいが地球上にいるらしいが、そのすべてが違っている。もちろんこれまで生きてきた人々にしても、同じ人間は1人もいない。この点はこれから先も変わらない。そしてそれぞれの指紋にまで注目すれば、もう天文学的な違いになってくる。そう考えると、桜の花びらのすべてが違っているとしても、それも当然か≠ニ納得してしまう。じつは、このすべてが違う≠ニいう事実がものすごく重要らしい。それが人類だけでなく、すべての生き物が無事に生き延びるための強味になっているのだ。地球上に暑さに強い人種だけしかいなければどうなるか。地球が寒冷化すればそれに耐えられず滅びてしまう。もちろんその逆もまた真である。このごろのように、温暖化どころか熱帯化して地球がホットになれば、寒さに強いだけでは生き延びることはむずかしいではないか。多様性こそは生き物が存続するためのキーワードなのだ。
高齢者の夢と希望(07/08/25 Sa-1599)
 私が子どものころ、ヨーロッパの先進的福祉国家では高齢者の自殺が多いと聞いた記憶がある。これに対して日本では若年者の自殺が多いというのである。それが事実だったのか、またそうだとして現在もその傾向が続いているのかどうか。そのあたりは分からない。もしそうだとすれば、人間は食べる心配がないだけではまずいということだろう。どんなに年をとっても、未来に対する夢や希望≠持っていたい。そして生きていることが楽しい≠ニいう実感が必要なのである。いよいよ団塊の世代が還暦を迎えはじめた。わたしもそのクラブの一員である。どうしたら夢や希望≠持ち続けることができるか。しっかり考えていきたいものだ。もちろん、社会全体が高齢者に優しくあってほしいと思う。しかし、社会に要求するだけで夢と希望≠ェ生まれるわけではない。私たち自身も、楽しい生き方ができるような努力をしていくことが求められている。ところで、自殺が自分に対する攻撃だとする見方がある。攻撃の一つの形がいじめだと考えると、自殺は自分に対するいじめだという側面を持っていることになる。自殺によって命がなくなってしまうのだから、それは究極のいじめだともいえる。そうなると、他人に対するいじめだけでなく、自分に対するいじめについてもこの世の中からなくす努力が必要になる。ただし、現実にいじめが原因で自殺する子どもたちがいる。だから、自殺も自分に対するいじめだといった見方に対しては遺族の気持ちを逆なでするという批判もあるだろう。なかなかむずかしいところである。このところ、本コラムでは自殺などに焦点を当てて書いてきた。そのそもそものスタートは水曜日だった。いじめや差別について考えたいと思ったのである。
24日17時から27日9時までサーバーがアウトになります。
自殺社会(07/08/24 F-1598)
 救急医療の進歩など、いろいろな要因があると思うが、ともあれ交通事故死者数は少なくとも減少傾向にある。これに対して多少の凹凸はあるものの、長期的に見れば自殺者数は増加してきた。せっかくこの世の中に生まれておきながら自ら命を絶つ。その背景には他人には理解できない事情があるとは思う。しかし、それにしても自殺はあまりにも悲しい。その数が3万人を下らないのだから、これは社会にとって大きな問題である。それが現状だから≠ネどといって放置しておくわけにはいかないのである。国際的に見ても、2004年にWHOが出した統計では、日本の自殺者数は世界で10番目になっている。統計数値は2000年から2002年までのもので幅があるが、最も多いのはリトアニアで10万人あたり44.7人である。そのあとに、ロシア、ベラルーシ、ウクライナと続く。日本は2000年のデータで24.1人となっている。いわゆる先進国では最も多い。よその国との比較にどれだけ意味があるのか分からない。しかし、現状が深刻であることは間違いない。とくに子どもたちの間では、いじめの結果として自殺を選ぶ事例が少なくない。もちろん大人の場合も、職場におけるいじめが原因で亡くなっている人がいるに違いない。大人の場合は仕事に疲れた≠ニか借金が返せない≠ニいったことが表に出てくる。しかし、その裏には、仕事上でのいじめといえる背景があるかもしれない。また高齢社会を反映していると思われるが、病気を苦にした自殺も多い。警察庁の2007年度の資料では健康問題≠ェ41%で自殺動機の筆頭に挙がっている。病気を苦にした自殺までをいじめの結果だと強弁するつもりはない。しかし、社会全体が高齢者にもう少し優しくあってほしいとは思う。
交通事故の死者数(07/08/23 Th-1597)
 行方不明者が年間20万人ほどもいるとすれば、その中にすでに自殺している人が含まれている可能性は極めて高い。したがって、自殺者3万人というのは確実で最低の数値だということになる。また自殺と断定できないとしても、それに近い亡くなり方をした人だっているかもしれない。さらに自殺未遂者まで入れると、その数はどこまでいくのか想像もできない。交通事故による死者数が増加して、交通戦争≠ニいわれた時代があった。最悪の記録は1970年で、この年は16,765人もの人が亡くなっている。この年を含めた前後3年間も16,000人を超えている。交通戦争≠ニ呼ばれたのは、日清戦争の戦死者17,282人を上回る勢いで死者数が増加していたからである。これはもう戦争≠ニ同じではないかというわけだ。しかも、日清戦争は2年間にわたっているから、16,000人はすでに戦争≠超えていたのである。それが昨年度は6,352人にまで減少した。車の台数は確実に増えていると思われるから、数値以上の改善である。自動車や道路をはじめ、さまざまな整備がすすめられたおかげなのだろう。ただし、公表されている数値は交通事故が起きてから24時間以内に亡くなった人の数である。昔に比べれば救急医療体制が進歩して、24時間以内に亡くなる人の数は減少していると思われる。そうなると、死者数は必然的に減少することになる。さらに、救命率そのものも高まっているだろう。そんなこんなで、交通事故死者数が激減したと安心すると怖いことになる。そんなこともあってか、警察庁は事故発生24時間後から30日以内≠ノ亡くなった人の数も出している。これを加えても昨年度は7,200人程度であるから、事故死が減少していることはたしかである。
3万人の自殺(07/08/22 W-1596)
 A=A。まったく同じものの間には違いがない。当たり前のことである。まったく違いがないから同じなのである。したがって、この場合には差別は生まれない。そして、いじめも起こらない。差別≠ニいじめ≠ヘまったくイコールではないが、両者が密接に関連していることは疑いない。自分で自分をいじめる≠ニいうこともある。この表現はたとえとして使われることが多い。スポーツ選手などが自分の力を高めるために厳しい努力を重ねるときなどにこうした言い回しをする。この場合に限って、いじめ≠ヘプラスのイメージを伴っている。しかし、それ以外はいじめはマイナスそのものである。ところで、自殺は自分に対する攻撃≠セという考え方がある。そうだとすれば、自殺は自分に対するいじめ≠ニ言い換えることができるだろうか。わが国では、その自殺者がまた無視できないほど多い。年間の自殺者が3万人を超えているのだ。はじめて3万人の大台を突破したのは1998年だった。したがって、こうした深刻な状況がすでに10年間も続いていることになる。これまで最悪だったのは2003年度で、34,427人が自殺している。その後は少し減少して、昨年度は32,155名である。しかし、今後も減少するという保証はない。最悪だった2003年度の場合、単純に1日の平均に直すと94.3人になる。さらにこれを24時間で割ると3.9人である。何と15分に1人が自らの命を絶っているのだ。しかも、これはあくまで警察庁が確定した数である。年間の家出人捜索願が出された数は、これも警察庁の統計だが2005年度で90,650件にも昇っている。この数値はあくまで積極的に願いが出された件数に過ぎない。実際の行方不明者は20万人はいるだろうという推測もある。
保険の壁(07/08/21 Tu-1595)
 日ごろから不摂生な生活をしていても、データが危機的でない限り生命保険に加入できる可能性が高い。これはルールだから仕方がない。その一方で、降圧剤などの薬を飲んでいると門前払いする。たとえ健康管理に気をつけていて、定期的に人間ドックに行っていても、薬は決定的要因なのである。保険は確率をもとに成立している。だから持病持ちや薬を飲み続けている人が平均的に残りの時間が少ない可能性は高い。しかし、単純に薬や病名だけで契約の決定的な壁にするのは、あまりにも事務的だと思う。もっと本人との対話を大事にして、その人の健康観まで知るようなきめ細かいサービスがあってもいいのではないか。こうした壁があるかと思うと、一方では収入とはかけ離れた高額の契約が成立している。他人や妻に数億円もの保険をかけておいてから殺人を犯す、いわゆる保険金殺人が多すぎる。たしかに人の価値観はさまざまである。それにしても、数億円もの保険契約をするなんて常識じゃない。そもそもあの手の事件を起こした人たちは、ご本人たちにも生命保険を掛けているのだろうか。自分は保険なしで周りだけ超高額な契約というのは、それだけで怪しいではないか。それをプロが気づかないはずがない。もっとも、最近は持病があっても引き受ける商品が出始めた。しかし、そのほとんどが外資系のようだ。日本の保険会社にはそうしたものが出せない足かせのような規制があるのだろうか。保険契約高か数かは知らないが、あっという間に外資系が日本の保険会社を抜いてしまったらしい。保険はきわめて長い期間の契約だ。だから外資系だって永遠に不滅とはいえない。しかし、とにかく顧客側に立った対応をしなければ、生命保険会社の余命そのものが危うくなる。
ふたりの保険(07/08/20 M-1594)
 ここに二人の男がいる。そのうちの一人は神経質なくらい健康に気を使っている。若いころから人間ドックにも行っているという。ところが、あるときドックの検査で血圧が高いことが判明した。しばらく様子を見ていたが、思ったように血圧が下がらない。そこでお医者さんと相談して、朝だけ2種類の降圧剤を飲むことにした。あわせても1.5錠だという。それから2年ほど経過しているが、血圧は極めて良好な状態が続いている…。もう一人の男はこれとは対照的だ。もともと病院に行くことが大嫌いだという。そして、人間ドックなんてナンセンスの極みだ≠ニ笑っている。人間、死ぬときは死ぬ≠ェ心情である。もちろんタバコは大好き。禁煙する気なんてさらさらない。お酒だって相当なものだ。若いころから比べるとさすがにおとなしくはなったが、晩酌は欠かさない。週末なんぞになると飲み過ぎることも多い。こんな人でも会社の健康診断は受けさせられる。さすがにそのデータがいい訳はない。そうかといって直ちに治療するほどの数値でもない。もっとも、面談したお医者さんからは脅された。もう少し節制されないと取り返しがつかなくなりますよ。血圧も高めですからしばらく様子を見ましょうか=Bさすがにそのときは殊勝にはい%嘯ヲた。しかし、今回もそれだけのことだろう…。さて、こうした状況に置かれた2人が生命保険に加入しようとするとどうなるか。最初の人間ドック派は契約が成立しない可能性が高い。なぜなら彼は薬≠飲んでいて、当然のことながらそれを正直に申告するからである。これに対して後者は、よほどデータが悪くなければ契約OKになるだろう。少なくとも、データを見るだけでは契約条項に引っかからないのである。
責任の広さと重さ(07/08/19 Su-1593)
 わが家は2001年の3月に家族旅行で北海道に出かけた。そのときは札幌にある白い恋人パーク≠ノも行った。そこでは白い恋人≠フ生産ラインも覗いたものだ。その横にはコンサドーレ札幌の練習場もあった。まだ6年前のことである。何のことはない、あのときはすでに賞味期限の改ざんが行われていたのだ。当初は、社長は改ざんを知らなかったというストーリーだった。しかし、すぐに10年以上も前から認識していたという話に進化した。そんなこんなで、結局は社長が辞任することになったという。はじめは4日程度の休業で納めようということだったがそれでは済まなくなったのである。この会社は創業者一族が経営を牛耳っていた感じだ。創業者は先代のようだが、これがなかなか続かない。跡継ぎの代でずっこけるというのはよく聞く話である。ともあれ、メーンバンクから社長を迎えるという。経営者がごっそり変わることで、恋人≠ヘ再スタートするのだろう。それにしても、恋人の裏切り≠ノ対する世の中の目は厳しい。せっかく築いた栄光も一瞬にして崩壊するのである。問題は顧客に対する背信行為だけに止まらない。販売店の存在も忘れてはいけない。自分たちが作ったものを売ってくださる方々も大事なお客様なのだ。その人たちも目玉商品≠ェなくなることで大きな打撃を受けることになる。さらに、身内の従業員たちに対しても深刻な影響を及ぼす。会社がなくなるといった最悪の場合には路頭に放り出されるのである。子どもだって、おまえのところはあそこに勤めてんのか≠ネどと、いじめの対象になるかもしれない。組織のトップにある者は、責任範囲の広さも認識しておくべきだ。自分たちの保身を考えるだけでは経営者失格なのである。
学習しない恋人?(07/08/18 Sa-1592)
 白い恋人≠フ裏切りを聞いて、なんと学習できない人たちだろう≠ニため息が出た。雪印をはじめミートホープの偽装など、食品業界でも様々な問題が発生した。そのたびごとに組織は壊滅的な打撃を受けている。雪印乳業の食中毒事件では、問題が起きた年の赤字が224億円にも昇る。これは、雪印乳業にとって初めての赤字だったという。食肉偽装の雪印食品も損失額は250億円以上で、会社は解散に追い込まれた。先のミートホープも会社は消滅である。不正義の代償はあまりにも大きい。そんな前例がいくらでもあるのに、何で学ぶことができないのか。ニュースを見たときはそう思った。しかし、白い恋人≠フ場合、賞味期限の改ざんは10年以上も前から行われていたと聞いて納得できた。なんのことはない、他の組織から学ぶ前に自分たちの方が先にやってたんだ。雪印乳業の事件は2000年、雪印食品の偽装発覚は2002年のことである。ミートホープに至っては今年の事件だから、それらから学ぶなんてことはないわけである。この手の事件が明るみに出れば出るほど、幹部たちの不安は高まっていたかもしれない。そしてそれがいよいよ内部告発という形で現実のものとなる。もっとも、新聞報道によれば最初の告発は抑えられてしまったという。しかし、そんなことをしても一時的な効果しかないに決まってる。最終的には問題が発覚することになる。そして、今回も外部から追究される状況に陥ってしまった。こうなると防戦一方である。しかも記者会見のたびに、その前のときよりもさらに深刻な事実が明らかにされる。この種の事件が起きるといつもと同じパターンの繰り返しである。こうして、当初は休業4日といっていたのが、無期限ということになってしまった。
恋人の裏切り(07/08/17A F-1591)臨時増刊
 今日はもう1本書きたくなった…。どんな裏切り≠燉切られた方にとっては許しがたい。その中でも恋人から裏切られることほど悲しく、厳しいものはない。それだけに相手を許すことができないのである。心から信じていた。それ故に、その気持ちを裏切ることの罪はこのうえなく大きい。しかし、白い恋人≠ヘそれをやってくれた…。突如として降って湧いたような事件≠セった。あの白い恋人≠ェ賞味期限をごまかしていたという。昨日からはじまった公開講座「リーダーシップ・トレーニングBコース」でもこの件を取り上げた。いまのところ部長が勝手にやったことになっています。しかし、つい最近も工場長の独断だと言っておきながら、じつはトップが関与していた事件が起きたばかりです。今回だって本当のところはどうなんだろうかと思いますね=Bこんな話をしたばかりだった。それが夕刊を見るとどうだろう。なんと11年前から賞味期限の延長をしていたという。しかもそのことを社長が知っていた。やっぱりというか、案の定というべきか、部長の独断ではなかったのである。社長は記者会見で、期限を延長したのは30周年記念の限定品だけだったと発言していた。それが真っ赤なウソ≠セったというわけだ。白い恋人≠ヘあっという間に白々しい恋人≠ノ変わってしまった。賞味期限を延長しても問題のない商品だ=Bこれが社長の言い分である。そのこと自身は事実だと思う。しかし、それならそうで、賞味期限≠変更することを宣言してから延長すべきなのだ。そうでなければ、その行為はやはりウソ≠ノなる。とにかくウソをついたらいけない。ところで、このネタは今日のうちに書いておかないと賞味期限$リれになりそうですね。
大は小から始まる(07/08/17@ F-1590)
 これまでの朝青龍の相撲ぶりから、彼の対人関係のあり方についておもしろいと思ったことがある。私は対人関係やリーダーシップは専門性と人間性の掛け算だと言ってきた。式に表すと対人関係力=専門性×人間性≠ニなる。専門性とは、自分の仕事に関わる知識や技術のことだ。英語のTechnical Skillsである。一方の人間性はHuman skillsだろう。これらは専門力≠ニ人間力≠ニ表現することもできる。朝青龍が専門力に満ちあふれていたことは間違いない。しかし、人間力については多くの疑問符が打たれるだろう。勝負がついたあとに相手を突き出す。本人は勢い余ってという感じなのだろうが、そこは横綱なんだから力を抜く余裕がほしい。投げ倒した相手にけりを入れたのではないかと疑われるような所作が見えたこともあった。このときも横綱の品格が話題になった。横綱は強いだけではいけない≠ニいうわけだ。懸賞金を取る際の手刀も長いこと左手を使っていた。本来は右手を使うのだそうな。そんなもん、どうでもいい些細なことのようでもある。しかし、相撲は歌舞伎と同じような伝統文化である。歴史的にはそれなりの理由があるに違いない。横綱は世界中で最も強い男ではない。相撲は土俵という限定された空間での瞬間芸に近い。だからこそ相撲は芸術的なものにさえなるのだ。ともあれ、今回も大は小からはじまる≠アとを実感した。小さなことでちゃんと指導をしてこなかったツケが回ってきたのである。些細な問題行動を起こしたときにそれなりの対応を取っていたら、ここまで深刻な問題にはならなかったと思う。誰が見ても問題だと思われる事態になって、相当に厳しい処分をしたというのが今回の話だろう。いつの世も、最初が肝心なんですね。
朝青龍の印象(07/08/16 Th-1589)
 外見からでは予想もつかないことが起きる。このところ話題になっている朝青龍もそのひとつだ。CNNまで取材に来たということで、騒ぎはさらに大きくなってきた。これまでの朝青龍は、いつも厳しい相撲をしていた。体全体が激しい気性の塊のように見えた。しかしマスコミ情報に頼る限り、今回の問題では精神的に相当のダメージを受けているという。土俵の上では厳しいが、インタビューになると相好を崩す。まるで人が変わったような優しい顔になる。洗剤のコマーシャルなんぞではおかあちゃーん≠ニ、甘えん坊の顔にもなる。朝青龍が日常生活では愉快で優しいんだろうなあ≠ニ思わせるに十二分の効果があった。その点で、あれは朝青龍自身のイメージCMだったとも言える。もっとも、あの種のCMそのものが相撲協会にとっては苦々しいことだったのかもしれない。そもそも横綱はCMなんぞに出てはいけない。そんな雰囲気があった。協会にCM出演に関する規則があるのかどうか知らないが、ずっと横綱は別格とされていた。それとは別に朝青龍は精神的にもしっかりしているという印象を持っていた。かなり前になるが、連勝記録が35勝くらいで途絶えたことがあった。そのときのインタビューでも、また新しい目標を持ってがんばるよ≠ニいった軽快な対応をしていた。そのときは、さすがに大物。負けたばかりなのに、前向きで気持ちの切り替えが早いもんだ≠ニ感心した。この点は小兵の大横綱千代の富士も同じだった。こうした能力は相撲などのスポーツに限られたことではない。さまざまな世界で高く評価されている人たちが合共通して持っている力だと言える。そんなわけで、あの朝青龍が精神的に参っていると聞いて驚いてしまったのである。
子どもたちに失礼(07/08/15 W-1588)
 さてさて、参議院の本会議や委員会でネクタイ着用を義務づけようという提案はお流れになったようだ。それはそうとして、その提案の理由がおもしろかった。ネットの記事によると、「制服を着た国会参観の子どもがいる中で、大人がリラックスした格好」ではまずいということだったらしい。子どもに失礼で教育上好ましくないということなんだろう。しかし、子どもたちのことを考えるなら、国会での口汚いヤジなんぞを止めてもらう方がよほど教育的だ。声もろくに聞こえない騒然とした中で無理矢理に採決をする姿なんてのも、子どもたちの方があきれてしまうのではないか。採決を強行する方もする方だが、これに対して議長に飛びかかるはマイクを取り上げるはといった行為もかなり見苦しい。どれをとってもまことに失礼で教育的でもない。ネクタイでないと制服の子どもたちに悪いというのであれば、こうした点についても大いに考えていただきたいものである。いずれにしても、この発言にはその日のうちに様々な批判が寄せられた。身内の民主党からも批判が出たという。ネットでは、むしろ統制的な子どもの制服をやめろ≠ネどといった声もあった。制服だと同じものをずっと着続けるから衛生上よくない≠ニか制服の納入が特定の業者に偏るなど問題が多い∞自由に選べる普段着に比べて経済的にも負担が大きい≠ネどなど、発言したご本人の意図とは別に、話はどんどん広がっていた。いずれにしても、藪から棒の発言に、疑問どころか反発まで呼び込んでしまった。そんなこともあって、この意見はすぐにたち消えてしまったようだ。なかったことにしようという♀エじである。何とも曖昧な処理の仕方で、これまた子どもたちの教育上よくないですよね。
どっちで行くか(07/08/14 Tu-1587)
 夏の服装は時代の転換期にあるのだろう。もう10年以上も前になるが、省エネルック≠ネるものが提唱されたことがある。このときも総理大臣が率先してノーネクタイのシャツを着用していた。しかし、何とも中途半端なサファリルックみたいな感じで、すぐに廃れてしまった。それが今回はやや本物っぽくなってきた。ただし、ネクタイに関わる業者の人たちにとっては大いなる逆風である。新しい風が吹き始めると、喜ぶ人もいれば困る人もいる。これが世の常である。ところで、ある市の校長先生の勉強会に出かけたときは、ほとんどがスーツにネクタイ姿だった。私の方はネクタイをカバンに入れてはいたが、ノーネクタイで通した。ただし、話を始める際にこのご時世ですので私はノーネクタイで来ました。みなさまもネクタイをお取りになりませんか≠ニいった声かけをした。これは私自身の行為に対する説明というか弁解である。その点では、何も言わずにノーネクタイを通すにはもう少し時間が必要だろう。吉良上野介と浅野内匠頭の松の廊下ではないが、相手がどんな服装で来るか予想が付きにくいのが現実である。軽い服装で行くのはいいが、そのとき全員がスーツにネクタイだったらどうしよう。そんな不安があるうちは、ノーネクタイは徹底しない。そんな場合は、やっぱり安全な方を取ることになる。つまりはスーツにネクタイで出かけるのである。このごろは、事前にお断りが来ることもある。私どもはノーネクタイで出席させていただきますのでご了承ください≠ニいう感じだ。それを聞くと、こっちも軽装で行こうかという気持ちになる。最近では多くの職場で写真入りのネームプレートを首からぶら下げるようになった。これがループタイのようにも見える。
会議の服装(07/08/13 M-1586)
 本会議や委員会でネクタイ着用を義務化するという話は1日にして消えたようだ。ああ、かっこわるい。たしかに、テレビのニュースなど見ているとノーネクタイでだらしなく見える議員のおじさんたちが多い。しかし、いまや日本列島が40度近くの気温になってしまう過酷な環境である。わが国はすでに温帯の域を脱している。少なくとも夏場は亜熱帯というべきだろう。それが単なる気休めにしても、温暖化を抑える方向のアクションを取っていく必要がある。そのうち、若い世代を中心にかっこいいノーネクタイ議員が出てくることを期待したい。現代の断髪令≠ネんぞというと、強権的なニュアンスがあってまずいが、どこかがリードしないと世の中は変わらない。私自身のことを言うと、大学の教員の中では、年間を通してネクタイを着用している方だと思う。その私も今年あたりから講義や講演などでネクタイをつけない機会を増やしてきた。先日、公的な委員会に出かけることがあった。そのときは首長さんも出席と聞いていた。そこで、念のためスーツにネクタイで出かけた。実際の状況は、男性委員はすべてスーツだった。ただし、お一人はノーネクタイのシックな柄のシャツだった。上着を着ているのに、ノーネクタイ。私もこのスタイルに見た目上の違和感があるとは思う。しかし、それも時間とともになれてくるのではないか。ファッションなんてそんなものである。いま女性がズボンをはいていても何の違和感もない。その一方で膝が見えるスカートだって当たり前になっている。さてさて、その委員会での首長さんは、上着なしだったがネクタイは着用されていた。さらに事務局の皆さんだが、全員がノーネクタイのシャツ姿であった。これは事前の予想通りである。
勝手に転けてる(07/08/12 Su-1585)
 政治家は何を考えているのか分からない。そんな話を3日ほどしたばかりだ。それなのに、またまた唖然とする発言をしてくれましたよ。いまや民主党は、それいけ、やれいけ≠フ上げ潮に乗っている。これに対して自民党は誰が見ても大混乱の様相だ。ある意味では、結党以来で最大の危機に瀕していると言えるだろう。なにせ総裁ご本人がすぐそばに座っている横で辞めろ、と迫る仲間がいるのである。しかも、それも跳ねっ返り分子が1人で叫んでいるのではない。ニュースを見る限り、入れ替わり立ち替わりはオーバーにしても、閣僚経験者の大物が発言している。こんなとき、民主党としては対岸の火事≠ニばかり、高みの見物を決め込んでおいた方が賢いのである。よほどの正論ならいざ知らず、この際は一般人から疑問を持たれるようなことは言わない方がいい。いまは一時的に自民党のあわてぶりが大いに絵になる。だからマスコミも自民党のゴタゴタの方に殺到する。しかし、それが落ち着けば今度は民主党に目が向くことは間違いない。そもそも政権担当能力はあるの≠ニ迫ってくるのだ。そんなことは常識なのである。だから、間違っても揚げ足を取られるようなことはしてはいけないのだ。ところが、そのあたりの感受性をお持ちなのかどうか疑問を持ってしまう。議院運営委員長になったのが嬉しかったのか、民主党の某さんが張り切って宣もうたという。本会議場、委員会室ではネクタイ着用を義務化しよう≠ナすって! さっそく官房長官も皮肉な反論をしたらしい。案の定というべきか、与党側から大いなる批判がわき起こった。自分の党からもスタンドプレーだと顰蹙を買っているようだ。やれやれ、自分の方で勝手に転けてるんだから世話はない。
庶民も成長を…(07/08/11 Sa-1584)
 政治家が香典などを送ったとき領収書がとれないなら、せめてリストくらいはつくっておくのはどうだろう。そんなことしたら、またまた政治活動の自由が侵されることになる≠ニ言われるかしら。なにせ、誰にいくらやったかが分かるから…。しかし、それが正当な政治活動≠ナあるならすっきりした方がいいのではないか。政治家個々人の判断に任せておくと混乱するというのなら、政治家≠ナある限りは祭事や祝い事には関わらないと決めてもいい。そんなことすれば仁義にもとる≠ニいう反論もあるだろう。なるほどと思う。しかし、その際は自分のポケットマネーから出せばいい。ともあれ政治家≠ヘ一般市民とは違うのだから、一定の自由≠ノ制限が加えられることは仕方がない。憲法で人々の平等は保証されてはいるが、職業による対応の違いがあることも事実である。たとえば収賄罪は公務員が賄賂をもらったときに成立する。もちろん、民間人であっても金を出せば贈賄の罪に問われる。しかし、これも相手が公務員の場合である。そんなわけで、政治家が発言や行動の自由を保障されることは大事だが、金の使い方では一般人以上に制限されても問題はないだろう。それによって政治活動ができない≠ニなると、政治活動って≠ネんなのと言うことになってしまう。もっとも、われわれ一般人も成長しないといけません。電報だろうと生花だろうと、政治家からもらって喜んでいる人はいませんか。あいつの葬儀のときには香典だったのに、俺のときは電報と差をつけやがった≠ネんて文句を言っている人はいないでしょうね。もちろん、自分の葬儀ともなれば棺桶の中ですから文句なんて言えませんが。その際は、生きてる周りの人たちの問題なんですね。
リストづくり(07/08/10 F-1583)
 新聞の死亡欄に載る人であれば、葬儀への参加者も多いことが予想される。そこで、亡くなった方や残された家族は知らなくても、電報が読み上げられればPR効果が期待できる。この場合、当然のように肩書きも付いている。○○議員 □□様≠ニ行った具合である。これで立場と名前を大いにアピールするのだから選挙でよろしく≠ニいうメッセージになる。参列者たちの中には、自宅に帰ってあの人の葬儀では□□からの弔電もあった≠ネんて話題にしてくれるかもしれない。そんなわけで、これに一定の効果はあり得るのである。しかし、これが政治活動≠ニいえるのだろうか。もしそうであれば、正当な政治活動≠ネんだから領収書ちょうだい≠ニ頼んでもいいではないか。さすがにお取り込み中はまずいだろうが、少し落ち着かれたあとなら問題もないだろう。なにせ正当な政治活動≠ネんだから…。しかし、そうなると新聞に載る人だけに電報を打ったり香典を出すのは公平さに欠けるのではないか。それならいっそのこと、役所に届けがある人のすべてに電報でも打ちますか。もちろん、そんなことはできっこないに決まってる。そうだとすれば、少なくとも電報や香典を出す人の条件くらいは明らかにしておくべきだろう。なにせ、正当な政治活動≠ネんだから…。こんなとき、企業などでどう対応しているのだろうか。おそらく会社などでは慶弔規定といった基準が明確に決められているのではないか。そして、それに基づいて電報や生花代などが支出されていると思う。その場合はちゃんと帳簿に記録が残っているはずだ。政治家の皆さんも、領収書がとれないような状況のときは、せめて送り先と金額を明記したリストをつくることにしたらどうだろうか。
領収書問題(07/08/09 Th-1582)
 参議院選挙の結果で、自民党が大いに揺れている。お金の問題についても、1円以上の領収書を添付するしないでもめているようだ。そんなとき、中川幹事長が記者会見で言った内容が耳に残った。テレビニュースの1カットだが、「政治活動の自由は国民から認められない…」という発言が聞こえた。1円からでも領収書を付けて報告することも仕方がないという趣旨の話をしたときのことである。参議院選挙の結果、そうせざるを得なくなったというわけだ。この発言がおもしろいのは、「領収書を添付すること」と「政治活動の自由」が両立しないと主張しているところである。つまりは領収書を取ることができないような政治活動があることを認めているのだ。すでにこのあたりから政治の怪しさが漂うが、その代表例として葬式の香典などがあるらしい。たしかに香典なんてのは領収書は取りにくい。しかし、考えてみれば一般庶民などは個人的なお祝いや香典は自分の財布で出すのが常識である。はじめから領収書などもらうなんて思ってもいない。だから政治家も個人のポケットから出せばいい。ある人の父親が亡くなったので葬儀に行った。その際に、政治家からの弔電が読まれていた。あとで、ご本人に「あの政治家と関係があるのか」と聞いてみたら、自分はまったく知らないという。また、亡くなった親もそうしたお付き合いがあったとは考えられないらしい。私の推測だが、政治家の秘書か誰かが新聞の死亡欄などをチェックしていて、これと思う人が亡くなったら電報を出しているのではないか。それが相手の立場によってはお花になったり、香典という現金になったりするのだろう。当事者たちが知らなくても、名前が読まれるのだからそれなりの効果は期待できる。
円安傾向(07/08/08 W-1581)
 昔に比べると円安傾向が続いている。先月ヨーロッパに出かけたときは1ユーロが170円近くになっていた。海外旅行者にははかなりの負担増になる。それでも1週間程度の一時的なことだから、運が悪いと思えば気持ちも収まる。その逆のことだってあるからだ。もう10年以上前のことだが、超円高で1ドル90円を切るかもしれないころに旅をしたこともある。ところで、この円安は一時的現象ではないという人もいる。日本経済の元気のなさ、また少子化による経済の縮小などを見込んでのことだ。そもそも貯金の利率も極端に低い状態が続いている。そのため庶民の貯金ですら利率のいい外国にシフトしているらしい。円高になればたちまち損をするのだが、いまのところ手数料を払っても、その方が得をするという。それほど円の利子が低くて魅力に欠けているのだ。だから、円を売って外貨を買うという話になる。証券会社などに任せているから実感はないだろうが、要するに円を売っているのである。いつの時代も、売りたい人が多ければ足下を見られる。それは物であっても通貨であっても同じことだ。そんな値段なら買わないよ。お宅以外でも売りたい人はいるんだから=Bこんな理屈で責められる。そんなこんなで、さんざん叩かれて価格が下がるのである。その一方で、ほしがる人が多いものは高くなる。こうして自分たちでは気づかないうちに、一般人も円安に拍車をかける行動をしているのだ。私自身の人生は先が見えてきた。しかし、孫にまで恵まれた身になっては、やっぱり50年先のことだって心配になってくる。円安が一時的でないとしたら、それが資源のない日本にとって輸入品の高騰という形で効いてくる。このままでは、やっぱりまずいのではないか。
ああ、読み違い(07/08/07 Tu-1580)
 先週の4日、NHKのニュースが中国で「ニセ医薬品検査車」の話題を取り上げていた。私は根っからのテレビっ子=Aいやテレビじいさん≠ナある。テレビを点けたまま仕事をしていることもある。そのときは気が散って≠ヘまずいから、音を消していることが多い。大抵のリモコンに消音(mute)<{タンが付いているところを見ると音無視聴≠フ需要も多いと推測する。そのときも、「ニセ医薬品検査車」の文字をちらりと見て思った。「やれやれ今度はニセ医薬品検査車かいな…」。このところ中国発のニュースはマイナスイメージのものが多い。とくに食品をはじめ、歯磨きや土鍋に至るまで、あれやこれやと問題が伝えられる。段ボール入りの餃子については放送局のやらせだということになったが、これとてもほんまかいな≠ニ疑う向きもある。そんな中で、今度は「ニセ医薬品検査車」まで登場したらしい。なにせ車だから、ニセ物と言っても半端じゃない。相当に大がかりで悪質だ。とまあそんなことを考えながら仕事をしていた。それからも横目で画面を見ていた。すると、私がとんでもない誤解をしていたことに気づいた。てっきり「医薬品検査車」がニセ物だと思いこんでいたのだが、どうもそうではないらしい。私がことば≠切る箇所を間違っていたのだ。ニュースで取り上げられているのは「ニセ医薬品」の「検査車」なのである。なあんだ、それならまともじゃないか。たしかに、ニセの「医薬品検査車」まで作るなんてちょっと大がかりすぎるとは思った。しかし、最近続発する中国発ニュースの影響もあって、ついそんな読み違いをしたのである。それは私の先入観が原因ではあるが、マイナスのイメージが浸透するとこんな誤解も起きやすい。
事実の修正(07/08/06 M-1579)
 2歳児の熱中症≠ノついて3回ほど書いた。これについて新聞記事を読んでいたら、私が認識していた事実を修正する必要が生じた。先週29日の毎日新聞である。それによると、あの車を運転していたのも保育士だった。もちろん付き添いの保育士も助手席に乗っていたということだ。私は、プロでないとしても運転士≠ェいたに違いないという前提で書いていたので、その部分は修正が必要になった。記事によると、担当の保育士は「園児たちが一気に降り始めたため、誘導役として危険回避に気を取られた」と言っているようだ。そうした状況は大いに起こりうると思う。だから、それはそれでいい。しかし、それは子どもたちが降りてしまうまでの一時的なものである。最終的には園児たちは保育園に入っていったはずである。だから、「気を取られたこと」と事態が落ち着いて園児の数を確認しなかったこととの間に因果関係はない。また運転していた保育士は「ドアを開けて中をざっと見たが気付かなかった」と話しているという。この「ざっと」がどんな意味なのかは分からない。しかし、2歳の子どもがいるかいないかが認識できないのでは、点検したとは言い難い。プロの運転士ではなくても、座席の間や下くらいは覗いてもよかったのではないか。もっとも、運転した方としては担当の保育士が人数の確認くらいはするに違いないと思っていただろう。何と言っても、それが常識だからである。しかし、それでもなお運転した者≠ニしてその役割を果たしてくれていたらなと思う。そんなわけで、この話は昨日で終わったつもりだったが、若干の修正をさせていただくことにした。ただ、お節介≠ノ関わる内容の方は、わざわざ修正を加える必要はないと考えている。
お節介と聞く耳(07/08/05 Su-1578)
 お節介≠ニ思われることでも率直に言い合える雰囲気をつくる。それはみんなの力で達成されることではある。しかし、そうした文化や規範を集団の中に醸成するには、トップを含めたリーダーの役割が大きい。とくに重要なのは、お節介≠受けた方の姿勢や対応である。余計なことを言うな≠ニお節介を拒絶するのでは、お話しにならない。おお、何とありがたいことよ。すばらしいアドバイスをありがとう=Bここまで行けば最高である。もちろん、聞く≠セけでは十分ではない。聞く耳≠ノは、相手の意見を受け入れて自らの考え方や行動を変える≠アとまで含まれる。とりあえずお聞きしておきましょう≠ナはまずいのだ。それでは、前向きに善処します≠ニいって何もしない官僚の回答パターンと変わらない。部下たちはリーダーの姿を見つめている。リーダーがモデルとしてお節介≠オあうことで、組織全体の規範も変わってくる。リーダーたちの個人的な努力に加えて、お互いが率直に指摘しあえるシステムをつくることも必要だ。それができていれば、内部告発といった危機的状況に達する前に、組織自身で健全な対応ができるのである。ところで、ことが起きたとき、その経緯を正確に伝えられる人がどのくらいいるだろうか。つい先だって私がビルのドアガラスに鼻と口をぶつけた話を書いた。私は、この事件≠フ理由をはっきりできないままでいる。その瞬間しか記憶がないからである。ただ、急いでいたから≠ニしか説明のしようがない。わたしのお笑いチョンボと深刻な事故やトラブルを同列に並べるのは不謹慎かもしれない。しかし、とんでもないことが起きたときに、その際の気持ちや状況を正確に語ることは相当に難しいのではないか。
お節介の必要性(07/08/04 Sa-1577)
 保育園の車を保育士が運転していたとは考えられない。そうなると運転手は車に子どもが残っているかどうかを確認しなかったことになる。もしそうなら、これまたかなり問題になるだろう。もちろん、ここで言う運転士とは必ずしもプロに限定してはいない。園児の車を運転している人のことである。そもそも運転手は車を安全に運転することが仕事だ。しかし、目的地に着いた後は、忘れ物や落とし物の確認も含めて車を点検するのが常識ではないか。とくに子どもを対象にした仕事である。そうした配慮は仕事の基本として認識しておきべきだった。ニュースで見る限り、それほど大きな車ではなかった。座席を確認するのに数分もかからないだろう。それをしていれば、この悲劇は避けることができたのである。われわれは自分の仕事≠ニ思われるものはきちんとやる。もちろん、そうでない人だっていることはいるけれど、ここでは性善説を採用することにしよう。しかし、その一方で、われわれは少しでも人の領分だと思うと案外と知らぬ振りをしがちだ。このときに、必ずしも悪意があるとは限らない。ただ余計なお節介≠ヘかえって嫌がられるなどと考えたりもするのである。それに自己完結型集団≠ナは、自分たちはしっかり仕事をしている≠ニいう自信もある。だから、問題が起きても、それは他集団の責任だ≠ニ考えて妙に納得する。そんなこんなで、結果として相互に無責任な行動をとってしまう。組織が健康を維持していくためには、余計なお節介≠歓迎する雰囲気が必要なのである。こうなると、それはいわゆる組織の風土や文化の問題になってくる。さらに言えば、仕事集団にメンバー同士のお節介≠受け入れる規範の確立が求められるのである。
置き去り(07/08/03 F-1576)
 炎天下の車に放置された子どもが熱中症で亡くなった。保育園から公園に遊びに行った帰りに起きた悲劇である。子どもは2歳、何とも悲しい出来事である。それにしても、事故はなぜ起きたのか。子どもを連れて出かける前に人数を確認するのは当然のことだ。それから目的地に着いたとき、全員が車を降りたかどうかをチェックする。さらに、遊んでいる間も事故がないように目配りする。そして、帰りの車に乗るとき人数を確かめる。無事に保育園に帰り着けば、みんなが降りたことをきちんとチェックする。どの手続きも当然すぎて、いちいち書くようなものではない。しかし、その当たり前のことがなされなかった。とくに最後の、帰園したときの確認を怠ったことが致命的だった。もちろん、保育園では人数の確認≠ヘ決められていたという。当然である。しかしその基本的なことがいとも簡単に無視される。これまでも大丈夫だった=Bそんな経験≠ニ、だから大丈夫という思い込み≠ェ怖いのである。悪魔はいつも心の隙間をねらっている。ことが起きてしまってからは取り返しがつかない。緊張ばかりしていては人間は持たない。しかし、緊張すべきときには緊張しなければならない。どんなことでも愚直≠ノ守るべきことは守らなければならないのだ。沈痛な記者会見で園長と並んで座っていた保育士たちは全員が頭を垂れていた。自分たちが起こしてしまった重大事に混乱していたに違いない。ふと思う。あのとき車は誰が運転していたのだろう。朝方に見かける送迎のバスなどから推測すると、保育士とは別の人間が運転していたのではないか。そうでないと子どもの安全も守れない。そうだとすると、この人は子どもたち全員が降りたことを確かめなかったのか。
事件の記憶(07/08/02 Th-1575)
 何度も何度も出入りしているビルのドアにぶつかった。その後も、そのドアを開けているが、どうして私がそんな事件≠ノ遭遇することになったのか、どう考えても分からない。そこで思いつく理由は、だた急いでいたから≠ニいうだけのことなのだ。それ意外にこの結果を説明することができない…。あの日は夕刻まで研究会をすることになっていた。しかし、大型で強い¢苺翌ェ九州の南部から上陸をうかがっていた。研究会の仲間には関西方面の者もいた。ちゃんと帰れないと先々の仕事に差し支えるという。そんなことでみんなの意見が一致して、予定を早めて会を終わることにした。事態は急迫しつつある。台風は九州南部に迫っている。だから関西の人よりも私の方がさらに早く帰らないとまずいのだ。そこで急いで書類をバッグにしまい込み、会場を飛び出たのである。それからエレベータに乗って1階まで降りる。さらに出口へ急いでいく。もちろんいくら急いでいるといっても駆け足でダッシュしたわけではない。そんな無謀なことをしたら、たちまちこける。もう年なのである。そして数秒後に事故は起きたのだ。そのとき、2重のドアのうち、外側のものだけが目に入っていたような記憶もある。そりゃあそうだろう。だから手前のドアに激突したのだ。しかし、それ以外にはまったく記憶がない。ああしたから∞こうだったから=Aあの事故が生じた。そんな説明ができないのである。幸いと言うべきだろう。唇も少しばかり腫れただけで翌日にはその跡は消えていた。鼻についても、いつも見慣れている家の者だけが、少し腫れてるみたいねえ≠ニいう程度になっていた。職場の事故やミスを研究している私にとって、まことに貴重な実体験をさせてもらった。
衝突事件(07/08/01 W-1574)
 その瞬間、鈍い音がした。その音を聞いたのが先なのか、自分の顔に痛みを感じたのが早いのか。それは分からない。理屈だけ考えれば同時だったはずである。あいたっ≠ニ思って、すぐに唇を手で触れてみた。上も下も真ん中あたりがちょっぴり腫れたように感じた。鼻の方も先端よりは少し上の方に軽い痛みを感じる。先の部分は最も高いけれど柔らかい。まあ、私の鼻のことですから、高いといってもたかがしれていますがね。ともあれ、先っぽは瞬間的に押さえられてへこんだのだろう。その上の骨の部分が直撃したと思われる。細かい前後関係は分からないが、とにかくあいたっ≠ニ思ったときに、自分がガラスにぶち当たったことを了解した。あるビルから出る際の事件であった。ビルの出入り口が2重になっている例はめずらしくない。空調の空気などを逃さないようにするためだろうか。そこで外に出るためには、まずは内側のドアを開けて、一歩か二歩だけ前進する。それからもう一つのドアを再び押し開けることになる。これは日常的に繰り返しているありふれた行動だ。それなのに、どうして私はドアの2重構造に気づかなかったのか。その理由を考える前に、私には大きな疑問が湧くのである。それは、私がこのビルのドアが2重になっていることに気づかないなんて考えられないからだ。じつは、私は30年近くも、このビルに出かけており、いつも問題のドアを使っているのだ。それほど慣れ親しんだドアにもかかわらず、私は体ごとまともにぶつかってしまった。なんでそんなことになるのか、どう考えても信じられない。しかし、それが起きたことは事実である。私にはただひとつの理由しか思いつかない。それはあのとき、私が急いでいた≠ゥらである。