No.50 2007年06月号(1513-1542)
霧の正体(07/06/30 Sa-1542)
列車のトイレが底なし≠ニは、なんとも原始的なシステムではある。しかし、少なくとも私が大人になってもしばらくはこの方式だった。結婚した後に夫婦で友人を博多駅に見送りに行ったことがある。いよいよ発車時刻が来て、電車はホームから走り去っていった。吉田家にはさよなら≠キるときは、見えなくなるまでバイバイを続けるという家訓がある。このときも、列車が視界から消えていくまでホームに立っていた。さて帰るかと思った瞬間だった。偶然、目が線路に向いた。衝撃的なものを見たのはそのときだった!なんと、できたてホヤホヤのものが取り残されていたのである。まだ湯気が立っているほどだから、その新鮮さはわかっていただけるだろう。列車が静止している状態で落とされたことは明らかだった。もちろん私の友人は発車までデッキにいたから、彼が犯人でないことは証明できるのだけれど…。こどものころ、保線をしている人たちに黄色い霧が肌をぬらすこともあると聞いたこともある。こうした原始的な処理法をタンク式に統一したのは新幹線だったらしい。これが1964年の開業だから、このときまでは開放型≠ェ常識だったのである。ところで、小学生のとき担任の先生が列車のトイレについて話をしたことがある。汽車はまだいいけど、飛行機も同じことだから、空を飛びながら糞尿を撒き散らしているんだ=Bうわーー、大変だ≠ニ思うと同時に、そのころは自分が住んでいた伊万里市の上空を飛行機が飛ぶことなどほとんどなかったから、妙に安心した記憶がある。それにしても、密閉しておかないとまずい飛行機のトイレが開放型≠セったというのは本当ですか、先生?こどもは、そんなことだけはいつまでも憶えているんですよ…。 |
列車のトイレ(07/06/29 F-1541)
いまの若い人たちにはとても信じてもらえないと思うことがある。いやすでに30歳を越えた、それほど若くはない人たちだって信じてくれないだろう。それは、その昔、列車のトイレは底なし≠セったことだ。底なし≠ニ言っただけではその意味すらわからないかもしれない。そうなんです。列車が駅に止まっているとき、トイレに行って便器を覗くと、その下に線路に敷かれたじゃり石が見えていたんですよ。列車が走りはじめると、その石が流れるように去っていくことになる。そこで用をたすとどうなるか。まず小用の場合は、しぶきになって消えていく。まあ、その状況は何となく想像できるだろう。それでは大きい方ならどうなるか。もちろん、列車のスピードに応じて飛び散るのである。モノ≠フ固さによって飛散の仕方も違ってくるとは思うが…。それでは列車が止まっているときにはどうなるか。想像するまでもない。小さい方はそのまま水になって下に落ちていく。線路のじゃり石が濡れるだけのことだ。もちろん、大きい方だってそのまま万有引力の法則にしたがって落ちていく…。それが列車のトイレだったのである。だから、そもそも停車時にはトイレを使用してはいけないことになっていた。そんなことはわかっていても、状況によっては体が許さないことだってある。そこでやむにやまれずに禁を犯して用をたすとどうなるか。そのとき起きている事態を認識しているのは本人だけである。しかし、そのうち発車時刻が来て列車がホームから去っていく。そのときになってはじめて、その線路上にもっこりとした固まりが居残っているのことを多くの人が知るのである。夏なんぞは早くも銀ハエが数匹飛んでいたりして…。さあお若い皆さん、信じられますか。 |
不思議な力(07/06/28 Th-1540)
美空ひばり・江利チエミ・雪村いずみの3人娘シリーズ≠観たことがあるという私の発言から夫婦の会話が続いた。そういえば、美空ひばりも江利チエミも亡くなってしまったね∞そうだなあ。江利チエミは自宅で急死したんだけれど、その前日は熊本のキャッスルで公演したらしいよ∞えーっ、そうなの。江利チエミは「サザエさん」とか「咲子さんちょっと」でテレビにも出てたよね…=Bこのとき私の体に電気が走った。昼間に祖父が母に宛てた手紙に書かれていた咲子さんちょっと≠ェ家内の口から飛び出したのだ!手紙を読んだときは、何と懐かしい番組だことよとある種の感動を覚えた。江利チエミはもちろん、主要な出演者の顔が目に浮かんだからである。それにしても、たまたま資料の整理中に手紙がこぼれ落ちなければ、一瞬だって思い出すことのない番組のタイトルだった。それがよりによって、同じ日の夜に今度は家内の口から聞くことになるのである。やっぱり目に見えない何かがある。そんな気がして電気が走ったというわけだ。結婚して33年目、いままで一度だって家内が咲子さんちょっと≠引用したことはない。そして、何もなければこれから先だって、それが話題になることはなかっただろう。少なくとも、この日の2つの出来事が現実に起きる確率はきわめて小さいはずでだ。それは宝くじで1億円が当たる確率よりも小さいのではないか。そう思うと、じつに嬉しくなった。もうほとんど1等賞が当たった気分である。それにしても、街を歩いていて、ふと○○さんに会わないかなあ≠ネんて思っていたら本当に会ってしまう。そんな不思議な体験は誰にだってあるだろう。何か説明不能な力が働いている。そんな気持ちになりませんか。 |
BS映画劇場(07/06/27 W-1539)
祖父の母宛の手紙は心に残る遺品でもあった。しかしそうは言っても、何でもかんでも取っておくわけにはいかない。そこで手紙に目を通した後、今度こそ最終的な整理のためにシュレッダーにかけたのである…。偶然におじいちゃんが書いた手紙が出てきた。それが母に宛てたものだったから読んでみた。それだけであれば、部屋の整理などしていればあってもおかしくない話だ。それが40年以上も昔の手紙であったとしても。しかし、この物語はそれで終わらなかったのである。その日の夜9時を少し回ったころだった。夕食も終えてゆったりとした気分でたまたまテレビをつけると、BSで映画がはじまった。見ると、美空ひばり・江利チエミ・雪村いずみが演じる3人娘シリーズ≠ナある。私には、この3人の映画を見た記憶がある。おそらく小学校に入る前だったと思う。もちろん、その内容はまったく憶えていない。あくまでイメージなのだ。それでも雪村いずみが良家のお嬢さんという設定だったような雰囲気だけは何となく頭に残っている。そういえば、同じ時期になぜか伴淳三郎だけは鮮烈に印象に残っている映画を観た記憶もある。おそらくハワイ珍道中≠ニいうタイトルだったと思う。鮮やかなカラー映画だった。敗戦からまだ10年が経過していないころである。その当時、ハワイに出かけるなんてことは夢にだって見ない話だった。なにせ1ドルが360円の時代でもある。そこに出かけた日本人のお笑い話である。カラー映画ということも併せて、そのころとしては強烈なインパクトがあったに違いない。まあそれはそうとして、BSの映画を最後まで見るつもりはなかったが、懐かしい思いもあって、家内に声をかけた。3人娘の映画は観た記憶があるなあ…=B |
蘇るイメージ(07/06/26 Tu-1538)
ロッカーのファイルからこぼれ落ちた、祖父が母に当てた封筒…。父が15年ほど前に亡くなったとき遺品を整理した。その際に一部がファイルの中に残っていたのだと思われる。私信ではあるが、2人とも今はこの世にいない。懐かしさもあって中身を読んでみた。そこには叔父のうちに住んでいた祖父の近況が綴られていた。その中に日ごろから楽しんでいるテレビのことも書かれている。そして祖父は咲子さんちょっと≠ニいう番組について触れていた。その部分を読んだとき、子どものころの白黒テレビが鮮やかに蘇った。この番組の主人公は新婚の2人である。夫は小泉博で新妻が江利チエミだった。江利チエミの役が咲子さん≠ナある。これに舅の石井寛と姑の芦原邦子が加わって、様々な人間模様を織りなしていく。基本的には喜劇である。まだわが家にテレビが来て間もないときで、私が中学生から高校生のころである。姑と新妻の関係と間に挟まった夫の関わりがおもしろおかしく展開していく。私の母は身の回りに舅や姑がいたわけではないが、当時はなかなかの人気番組で、興味深そうに見ていた。私も大人の人間関係はわからないままに、けっこう楽しんでいた記憶がある。ほとんど偶然に目の前に現れた祖父の手紙から、咲子さんちょっと≠フイメージが広がった。人間の記憶や感覚はものすごいと思う。その瞬間に、隣の建家に住んでいる2世代家族という設定のテレビ画面まで目に浮かんだ。それだけではない。出演者の4人の顔が目に浮かび、声が聞こえてくるのである。もちろん、それは本物とは違っているはずだ。しかし、とにかく40年以上も前のことをあっという間に思い起こすのである。人間の大脳はなんとも信じられない力を持っているものだ。ともあれ、ほんの一瞬だけ、おじいちゃんの顔と声を思い出し、母の笑顔が頭に浮かんだ。 |
何かがある…(07/06/25 M-1537)
見えないものはこの世に存在しない。この考えが誤りであることは科学的な事実である。生きるために欠くことのできない空気だって目には見えないが間違いなく存在している。可視光線というのは、光線のうち見える≠烽フを指している。ということは見えない光線≠セってあるわけだ。紫外線や赤外線はその代表である。音についても同じことが言える。人間に聞こえる音にも可聴帯≠ニいう音域があって、それが20ヘルツから2万ヘルツだという。だから聞こえない音は存在しない≠ニいうのは誤りなのだ。そんなことで、感じないものはこの世にない≠ニいうことだった間違っているのである。この発想をどんどんすすめていくと、自分にとって信じられないことも、何か気づかれない力が働いているのではないかと思いたくなる。そうしたことは科学的に説明しにくいことが多い。そこでついつい神秘的な力を借りたくもなる。私なんぞも、日ごろからそんなことを考えていた。そしてつい先日のこと、やっぱりこの世には何かがある≠ニいう思いに駆られる大事件≠ノ遭遇したのである。まことに私的な体験だが、お時間と興味のあるお客様には是非ともお付き合いいただきたい。部屋のロッカーを整理をしていたときである。処分しようと思ったバインダーの片隅から古い封筒がポトリと落ちた。それこそ茶褐色に色あせていたが、懐かしいピンクの地に桜が描かれた通常切手が貼ってある。額面は10円だ。宛先は私の母になっている。消印は昭和39年だから東京オリンピックの年になる。1964年、あの東海道新幹線が開通したのもこの年だった。何となく見覚えのある字である。くるりと回転させて裏を見た。差出人は母の父親だった。私のおじいちゃんである。 |
プロと謝罪(07/06/24 Su-1536)
先輩アナウンサーが一瞬にして数十万≠十数万≠ノ訂正してくれた。そのためにごめんなさい≠言わずにパスした。それでお詫びもせず恥もかかずにすみました=Bプロがこんな精神構造であっては困るのである。やはり謝るべきときにはちゃんと謝ってけじめをつける。そして、その後には同じ過ちを犯さないようにする。人生はこの繰り返しなんだと思う。しかも、そう言い聞かせているにもかかわらず、なかなかうまくいかない。同じようなチョンボを繰り返してしまう。それが人間というものだ。また、上役や先輩は、そうした誤りを避けるノウハウを知っているかもしれない。それをきちんと教えることも重要なリーダーシップなのである。いずれにしても、アナウンサーの皆さんにはことばのプロ≠ニしての自覚を持ってほしい。それにしてもことば≠ヘむずかしい。つい先だってはNHKのクローズアップ現代≠ナタクシーの規制緩和を取り上げていた。お客の数が増えないのに台数が増加しているという。その理由は、会社と運転手が売り上げを折半する方式が多いためらしい。1台あたりの売り上げが落ちれば会社の取り分も減る。そこで台数を増やせば1/2の額は少なくても会社の売り上げ合計は増えるというわけだ。こうなると運転手の方は大変だ。台数が増えるから自分自身の売り上げはますます減ることになる。番組に登場した一人は、収入が25万から13万に激減したと話していた。正直なところ、これでは満足できる生活はやっていけないと思う。そんな中で、キャスターが発言した。たしかにタクシーはつかまりやすくなりましたが…=Bつかまる…=Bうーん、とくに問題することはないかもしれないが、ちょっと引っかかる表現ではある…。 |
失敗時の対応(07/06/23 Sa-1535)
女性アナウンサーが、年金のもらいそこねが数十万円≠ノも達すると原稿を読んだ。それを瞬間的に十数万円≠ニ瞬間的に訂正した男性アナウンサーのフォローはすばらしいものだった。ちょっと聞き漏らしたが、この金額は年間の差だったと推測する。なぜなら年金は生きている限りもらえるものだから、寿命によっては数十万どころか数百万だって個人差が出ても当然だからだ。私の母に至っては50歳にすら達しないうちに亡くなってしまった。したがって受領した年金はゼロである。もし年額の問題だとすると、1年に数十万≠烽フ差が出ることはほとんどあり得ない数値だとわかる。もともと老齢基礎年金の満額が年に792,100円になっているから、1年で数十万≠ヘあり得ない。まあ、このときは単なる読み違いだったのだと思う。しかし、そこはプロなのだから数値には大いに気をつけてもらわねばならない。男性アナウンサーの瞬間的な修正はすばらしかったと書いたが、これには少し皮肉を込めたつもりである。ただ数十万≠十数万≠ニ追いかけるようにして訂正しておしまいなのだ。それでいいのだろうかと思うのである。いま数十万と言いましたが、正しくは数十万ではなくて十数万ですね=Bあっ、失礼しました=Bこんなやりとりにならないとまずいのではないか。人間のことである。プロといえども間違うことはある。問題はその際の対応の仕方である。誤りを指摘されれば一時的には恥をかくことにもなる。ドキッとするだろう。しかし、それに対してきちんと失礼しました≠ニ謝罪することでひとまとまりがつくのではないか。そうでないと、何となくごまかしたような中途半端な気持ちになってしまうと推測するのだが、いかがでしょうか。 |
プロの自覚(07/06/22 F-1534)
プロのアナウンサーが金比羅宮≠きんぴら≠ニ読むのもかなりひどい。ご本人としてはきんぴらゴボウ≠連想したのかもしれない。しかし、あれは金平牛蒡≠ネんですよね。つまりは、初めて見たり読めない文字は自分勝手≠ノ読みをつけるというわけだ。これがことばのプロ≠ニいうのではがっくりしてしまう。そうした自覚もないのだとすれば、さらに参ってしまう。放送局の責任者の皆さん、まさかこの手の番組を見ていっしょに笑ってるんじゃないでしょうね。これって、世の中に私どもは基本的な教育もしておりません≠ニ宣言しているようなもだと思うのですがいかがでしょうかね。ともあれ、こうした傾向は自己中心的≠ネ時代を反映しているのかもしれない。何せ、自分が読めるように読むというのだから…。さらに植木等さんじゃないけれど無責任性≠熬ヌ加されている。ああ、ごめん≠ナおしまい。それどころか、笑っておしまいなのである。もちろん、自分が間違ったときには進んでそれを認めることも大事である。謝罪が軽くなりすぎた一方で、どう見ても誤るべきなのに、あああだこうだと言いながらごまかそうとする人たちがいる。前にも書いたが謝らない誤り≠犯す人が多いのである。ともあれ、ごめんなさい≠ェ有効なのは、プロとしての仕事をきちんとしていることが大前提なのだ。先週末のあるワイドショーでも7時15分ころだったが、ニュースを読む際にちょっとしたチョンボがあった。大騒ぎになっている年金のトラブルに関するものだった。女性アナウンサーが社会保険庁のミスで人によってはもらえなくなる金額が数十万≠ノも達することがあると読んだ。その瞬間、男性アナウンサーが十数万≠ニ言い換えた。 |
危ういプロ(07/06/21 Th-1533)
番組の編成替えのときはいろいろな特番が放映される。その中に、アナウンサーたちのチョンボを特集して笑うのがある。真面目にレポートしようと努力している際に予期せぬことが起きる。何かが落ちてきたり、本人がずっこけたり…。人の失敗をネタに笑うのは、決していい趣味だとは言えない。そのメンタリティがいじめにも繋がる。まあしかし、画面を見る限り本人たちもあまり気にしていないようだ。それどころか、むしろ喜んでさえいるように見える。何せ地方局のアナウンサーが全国ネットに乗るのである。この種の仕事をしている人は、どちらかといえば目立ちたがりやさん≠セと思う。その意味ではチョンボ・デビューも大歓迎というこどかもしれない。もちろん、その本心はわからないけれど…。そこまではいい。しかし、彼らがことば≠ナチョンボしているのを平気で笑いのネタにするのは相当に問題だ。いつだったか、映画武士の一分≠いっぷん≠ニ読んだ女子アナがネタにされていた。四国の金比羅宮≠きんぴら≠ニ言ってしまった例もあった。これで笑いを取っているのだ。ちょっと待ってちょうだいな。あなた方はことば≠フプロなんでしょうが。地名や固有名詞などは事前に調べておくのが当然の仕事≠ネのだ。しかも、いまではインターネットもあるから局の資料室や図書室まで行くこともない。試しに武士の一分≠検索したら、わざわざいちぶん≠ニふりがなまでつけられていた。そもそもぶしのいっぷん≠ニ読んだとき、それがどんな意味なのかさえ疑問を持たないからいい加減な読みになる。これではことばのプロ≠ニはとても言えない。放送局は、わからない読みは事前にチェックするという教育すらしていないのかしら。 |
日ごろの対人関係づくり(07/06/20 W-1532)
いつもは論理的な発想とそれに基づく行動を強調しているリーダーが、理屈じゃない。だめだといったらだめなんだ≠ニ叫ぶ。それに対して部下たちは自分が都合の悪いときは理屈じゃないと逃げるのはずるい≠ニ不満を募らせる。これは最悪だ。しかしその一方で、今日の上役はちょっと顔色が違った。たしかに要求していることは論理的ではないけれど、あれだけ強く言うのには何か事情があるに違いない≠ニいう受け止め方もある。この違いは、最終的には日常のリーダーシップのあり方によっているのである。リーダーの行動が部下との対人関係を作り上げていく。それが、いざというときに効いてくるのだ。リーダーシップを話題に講演した際にこんな質問を受けたことがある。たしかに日ごろから人間関係をよくしていることは大事でしょう。ただ、一刻を争う緊急事態になれば、そんな関係なんかどうでもよくなるのではないですか=B大方こうした趣旨の発言だった。この件については思い当たることがあった。書名の記憶がないのだが、リーダーシップの専門書に同じようなことが書かれているのを見たことがあったのだ。私の答えははっきりしている。たとえば緊急事態が起きて上司が2つある出入り口の一方を指して前のドアから避難しろっ≠ニ叫んだとする。これに対して全員がそちらへ向かえばめでたしめでたしだ。しかし、うん?ちょっと待てよ。うちの上司はけっこういい加減な判断をして俺たちを困らせるもんなあ。しかも後では言い訳ばっかり。ほんまにAドアの方がいいんかいな。Bドアが正解だったりして…=Bこんな想念が一瞬でも頭に浮かんだらどうなるか。いかがでしょうか。日ごろの対人関係のあり方が、緊急事態にも影響すると思いませんか。 |
理屈じゃない?(07/06/19 Tu-1531)
どうせ素人の理解だから本当のところはわからない。しかし、光の速度は絶対不変で秒速30万kmという大前提≠ェ論理的に証明されることではない≠ニ言われるとやはり嬉しくなってしまう。その根拠が、とにかくあらゆる実験的事実がそう告げている≠ゥらだそうな。少なくとも実験をした限りではすべて&b速30万kmになったというのである。私が言いたいことはおわかりだと思う。あの相対性理論だって論理的≠ノは証明できないことをもとに宇宙を説明しているのだ。われわれの日常的な生活では論理的に証明できない≠アとは実際にあるし、あってもいいのである。人間関係なども理屈ばかりにこだわらずに、もっと柔軟に考えて対応していきたいものだ。これを教師と子どもの関係に翻訳して考えてみよう。いつも論理や理屈が大事だと言っている先生がいたとしよう。その先生があるとき子どもに対して人をいじめちゃいかんのは理屈じゃない。いかんもんはいかんのだ≠ニ叫んだ。そのとき子どもたちはどんな反応をするか。えーっ、先生ってずるいよ。いつも理屈が大事だと言ってるくせに、自分の都合が悪くなると理屈なんか言うなと怒るんだから。先生、ごまかさないでよーっ=Bいかにもありそうな反応ではないか。しかし、それだけの可能性しかないのか。ひょっとしたら、もっと違った声だって聞こえてくるかもしれない。おやおや、いつも理屈が大事だと叫んでる先生が、今日は理屈なんか言うなだって! 参ったなあ。しかし、あの剣幕を見るとこれはただごとじゃないよね。この件については理屈ばかりで考えてはいけないのかもしれないなあ…=Bいかがでしょうか。まったく同じ発言に対して正反対の受け止め方があり得るのだ。 |
相対性理論の論理性(07/06/18 M-1530)
われわれが生きていく上で信頼≠ヘ最も重要なキーワードである。しかし、それがあっちでもこっちでも揺らいでいる。こうした状況は国内だけのものではない。そもそも国と国との間でも信頼関係が築かれていない。これが様々な問題を生み出している元凶だと言えるのではないか。人間らしく生きるためにはお互いに信頼≠キる感情を取り戻すことだ。それが確かなものになれば、約束をすること=Aそして約束を守ること≠燗魔スり前のことになるだろう。それが法律や規範を守ることにも繋がっている。何度も強調するが、法律や規範は必ずしも論理や理屈だけで成り立ってはいない。だからこそ、論理や理屈だけにこだわっていると楽しい人生は送れない。そして対人関係なんていうのは論理だけでうまくいかないものの典型ではないか。人の心は単なる論理や理屈だけで説明できるものではないからである。おいおい、とりあえずは心理学≠ナ飯を食っている者がそんなこと言っていいの?そんな皮肉も言われそうだ。しかし、ちょっと待ってくださいな。現代科学の基礎と言うべき相対性理論≠セって、われわれ素人が想像するほど論理的ではないみたいですよ。物理学者の橋元淳一郎氏が書いた「時間はどこで生まれるのか」という本を読んだ(集英社新書)。その中の51ページにとてもおもしろい記述がある。相対論では、時間と空間は絶対的なものではなくなるが、その代わりに、(真空中の)光の速さが絶対的な物理量として登場する=Bここまではいい。その後がすごいのだ。光速の絶対性は論理的に証明されることではなく、あらゆる実験的事実がそう告げているのである。川の水は必ず低い方へ流れる、というのと同じくらい確かな事実である!! |
約束と信頼(07/06/17 Su-1529)
約束≠キることができるのは人間だけなのだ。何とすばらしいことだろう。そして約束≠ニ友情≠ェ結びついて走れメロス≠ェ生まれた。この有名な太宰治の小説は、いまでも教科書に載っていると思う。これが学校でどう教えられているか、また子どもたちはどう受け止めているか。なかなか興味深いところである。自分の命をかけて律儀に約束を守るなんて笑ってしまう=Aいくら友人であっても、命を預けるほど信じちゃあまずいじゃないの≠ネあんて発想で読んでないでしょうね。こうした精神状況が広がって、世の中全体が約束を意味のないものにする。約束を守ることがかっこいい≠アとであってほしい。わが国の現状を見ると、そのあたりが相当に怪しい。それは個々人間の問題だけではない。社会や組織も同じことだ。その典型的な例として表面化しているのが、昨今の社会保険庁の問題である。ほんの少し前に、100年安心≠ニカラーフィルムの宣伝みたいな文句を聞いた記憶がある。あれからまだ数年しか経過していない。その際に、こうした問題があることを知っていて言ったのなら、それは約束∴ネ前の話である。あるいはそれを知らなかったとすれば、まともな組織だはいえない。どっちに転んでも弁解の余地はない。そもそも約束が成立するためには、過去の記憶と未来を見通す力が必要である。その能力において、人間はあらゆる他の生き物を凌駕している。そして、約束するという行為には、もうひとつ欠かせないものがある。それは信頼≠ナある。これは、犬をはじめ多くの動物にも備わっているような感じがする。ところが、この信頼する≠ニいう約束にとって最も重要な力が、現代の人間にとって相当に危うくなっているのではないか。 |
やぶ蛇(07/06/16 Sa-1528)
とにかく社会保険庁の5000万件という数値はなんとも多すぎる。その後もちらちら新しい数値が出てくるからいけない。そんな中で、今年入庁した新人などは私のせいじゃないのに≠ニ文句のひとつも言いたくなるだろう。本当の元凶は、いい加減なことをした昔の責任者や担当者たちなのだから。しかし、それが組織というものである。前の人間がやったことなので、私たちには責任はありませーん≠ニは言えないのである。だから、長官が休みの日にも対応していることを評価してもらいたい≠ニいった発言をしても理解は得られない。何と言っても、休日出勤をせざるを得なくなった理由が外部にあるのではなく、内部のいい加減な仕事から生じたものである。だから、どんな組織だってそうした対応を取るのは当然なのだ。長官の発言は、それを言っちゃあおしまいよ≠ニいうことになる。それどころか、休日出勤の手当が出てるんだろう≠ネんて嫌みで斬り返されるのが落ちだろう。民間の組織であれば、そうした手当を負担するするだけで存続が危うくなるのではないか。このところ、ニュースは年金問題であふれかえっている。参議院議員選挙も控えて、あっちこっちの思惑もちらついている。日替わりで、新しい数値≠ェ飛び出してくる。そんなことで、ついついかなりの脱線をしてしまった。法律だって科学的・論理的な根拠でつくられているわけではない。それらは約束であり、そもそも約束という行為は人間にしかできない。そんな話をしていたのだった。当然のことながら、犬が別の犬に対して時間通り来なかったからと文句を言っているところを見たことがない。猿だって、昨日は芸をしたらバナナをくれると約束したじゃないかなんて怒ったりはしない。 |
弁解の迫力(07/06/15 F-1527)
社会保険庁の長官が通勤途上にインタビューされていた。コンピュータがダウンしたことについては短期的にはご迷惑をおかけした≠ニいった表現で答えていた。このときは短期的≠ニいうことばをどうしても挿入したかったようだった。マスコミから否定的な突っ込みばかり受けるから、ついそんな気持ちになったのだろう。ただ、時節柄短期的≠ニいう表現は避けた方がよかった。ことばは魔物だ。意識的な表現もあるが、ときには無意識のうちに心の状態が露呈してしまう。その直後に土日でも相談に乗っているんですから評価してもらいたい≠ニいう発言が続くのである。たしかに、窓口で対応している方々は大変だと思う。ただ、それも基本的な危機管理をしてこなかった過去のツケが回ってきているのである。その当時はコンピュータもいまのように進化していなかった=Bそんな意味合いの弁解をしていた人もいた。カタカナだけしか入力できなかったことなどを指しているようだった。しかし、これもほとんど説得力がない。そうしたレベルだからこそ入力ミスをきちんとカバーする対策を取っておかねばならなかったのである。ほとんど万全と思える対応をしていても、ミスはゼロにはならない。それが人間のやることなのだ。だから、たとえば0.1%くらいの数値を聞かされても、それは許容範囲だと受け止める人が多いだろう。1億件なら10万件である。もちろん数が少なくても、それに当たった本人には深刻な事態ではある。しかし、とにかく絶対完璧≠ェないことも現実なのである。ところが、算出の基準はわからないが、5000万件などという数値が飛び交っている。これには外部の人間だけでなく、当事者たちも正直なところ驚いているのではないか。 |
成果の裏側(07/06/14 Th-1526)
年金納入者の母数を勝手に減らすと行った操作≠して納入率を高める。目に見える成果≠フみを求めるとこんなことになる。およそ組織であれば何らかの目標を持っている。それを効果的に達成するために成果≠大事にすることは当然のことである。成果≠ェどうでもいい組織なんてあり得ない。しかし、その成果≠フ内容が問題なのだ。どうしても見える$ャ果だけが強調される。業績がどんどん上がっている組織がある。しかし、その一方で働く人たちは不満たらたら、やる気はまるでない。こんなところは、いずれ問題が発生する。リーダーシップに関するわれわれの研究でも興味深い傾向が見られる。ある職場のリーダーをその上役が評価するような場合である。その評価が業績≠基準に行われることが多いのである。リーダーがそれ行け、やれ行け≠ニ元気がいい。もうそれだけでも頼もしい≠ニなる。そして業績が上がっていれば、完璧なマル優≠ニなるわけだ。そんなとき、そのリーダーのもとで働いている部下たちには目が届かない。疲労困憊、意欲減退、最悪の場合にはリーダーに対する敵意すら感じている…。そうした現実が見えないのである。また業績一辺倒で尻を叩いているから、まともな教育なんてそっちのけだ。だから組織を健全に継続させていく力を持った部下も育っていない。成果=見える成果×見えない成果≠ネのである。あるいは、成果=短期的成果×長期的成果≠ナあり、成果=物理的成果×心理的成果≠ナもある。会社を買収して株価をつり上げ、高くなったところで売り抜ける。そんなのって、あの種の組織にとっては大成果≠ネんだろう。しかし、世の中がそうした集団ばかりになって、まともに存続できるのだろうか。 |
約束違反(07/06/13 W-1525)
刑期の長さや重さなどは論理的・科学的根拠に基づいているとは限らない。しかし、そうかといって法律や裁判の結果をいい加減にしていいことにはならない。なぜならそれらは約束だからである。もちろん、法律も含めて世の中にはおかしな約束や理不尽な決めごとがある。そうしたものは変更しないとまずいことは言うまでもない。しかし、そのためには関係者が話し合いながら変えていくことが必要だ。自分は気に入らない≠ゥらといって、誰もが約束を守らなければ、収拾がつかなくなる。そして人から約束を破られても文句が言えなくなる。その連鎖が社会を弱体化し、最悪の場合には崩壊するのである。このごろの様子を見ていると、世の中がますますおかしくなっている。どこもここも約束違反ばかりだ。当たり前のことをやっていない。社会保険庁で働く人たちも、いまや針のむしろだ。何をやっても文句を言われる。そんな中でコンピュータまでダウンするからまさに泣きっ面に蜂≠ナある。それに関して出勤時の長官がインタビューを受けていた。画面の様子からうかがうと、公共交通機関で通勤しているようだった。折からの雨に傘を差して歩きながら話をしていた。昔の長官らなお迎えの車が自宅前に横付けする優雅な出勤だったと想像する。このあたりは大いに状況が変わったということだろう。長官は損害保険会社の経営者だった。いわゆる民間出身である。就任時の3年前にはその凄腕が期待されていた。おそらくその影響は浸透しているのだろうが、外に出てきた結果はマイナスが目立ってしまった。職員が勝手に未納者を分母から除外して、数値的に納付率を上げようと操作したなんて事実も発覚した。それも組織ぐるみっぽいから、ちょっとせこすぎる! |
刑期の根拠(07/06/12 Tu-1524)
風俗営業法≠フ中には待合≠ニいうのもある。これなどは昔の小説の中などに出てくる程度で、そんなものが現実にあることも知らない。広辞苑によれば客が芸妓を呼んで遊興する茶屋≠ニある。その手のものであれば、京都などではいまでも存在しているのだろうか。また、店内の明るさが10ルクス以下とか、見通しの悪い5u以下の客席を設けているところが含まれるなど、その定義はじつに細かい。そんなこんなで、この法律は読んでいるだけでなかなかおもしろい。こうしたお店が善良な風俗≠フ維持にとって微妙な位置にあるということだろう。さらにご関心をお持ちであれば、インターネットでこの法律の条文を見られることをお勧めする。ともあれ、みんなが平和で安心して暮らすためには公共の秩序、善良なる風俗≠ェ必要なわけである。そこで筋としては、これを確保するために法律がつくられる。その際に年齢やスピードの制限などが設定されるのだが、それが必ずしも論理的・科学的な根拠に基づいているとは限らないのである。この点は、酒やたばこが20歳まで禁止されているとか、スピードの40km制限などの例を挙げた。裁判の結果である刑期についても同じことが言える。このごろは放火事件も少なくないが、これは重大な犯罪である。そこで刑法では第百八条に「放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船又は鉱坑を焼損した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」と定めている。死刑もある厳しい対応だが、5年以上の懲役については、どうしてその長さなのかよくわからない。他の法律との相対的な関係もあるのだろうが、そもそも刑期そのものが科学的な根拠に基づいて決められたとは思えない。 |
公序良俗(07/06/11 M-1523)
公序良俗≠ニいう法律の専門用語がある。私が初めてこのことばを聞いたのは大学の授業でだった。おそらく教養部で受けた法律の授業である。これは公共の秩序、善良なる風俗≠ゥら4文字を抜き出したものだ。細かいところは抜きにしていえば、公の秩序を乱す決まりや行為は許されないということである。もっとも、何をもって公の秩序≠ニ考えるかについては議論が沸騰する。また善良なる風俗≠ニいうのも、まあ普通の生活をしているのであれば善良≠ニ認定されるということだろうか。風俗には、習わしやしきたり、慣習などが含まれている。それがいつの間にか風俗店≠ネどという用語まで使われるようになった。もともとは「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」なんてものがあって、これが後に風俗店≠ニいったことばを生んだのだろう。この法律ができたのは1948年(昭和23年)だから、歴史は相当なものだ。その中に対象になるお店についても具体的に挙げられている。たとえば、キヤバレーその他設備を設けて客にダンスをさせ、かつ、客の接待をして客に飲食をさせる営業≠竍待合、料理店、カフエーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業≠ネどなどである。私が子どものころ、担任の先生がキャバレー≠ノ通っているといううわさ話が広がったことがある。小さな街で、キャバレーは1軒しかなかったと思うが、たしかリスボン≠ニいう名前だった。何と50年も前のことがフット思い出されるから恐ろしい。子どもって、こんなことばっかりはよく憶えているものですよ。先生方、お気をつけください。そのうわさの真偽はわからないが、いまではキャバレー≠サのものがなくなてしまった。 |
論理と約束(07/06/10 Su-1522)
先月、飲酒や喫煙が法律で20歳まで禁止されていることに科学的な根拠はないという話をした。もちろん、だからといって法律を違反してはいけない。なぜなら、それは約束だからである。これに関して重複気味になるが、もう少しばかりこだわってみたい。法律や決まりが約束だとすれば、それはそう決めましょう≠ニ決めただけの話である。したがって、そこには科学的な根拠がある場合もあれば、そうでないこともある。たとえば、科学的な研究の結果、ある物質が大気中で基準値を超えると健康に害があることが明らかにされたとする。そうなると、その数値をもとに安全な範囲を考慮して、○○は□%以下にコントロールしなければならない≠ニいった決まりができる。それが法律になじむのか、条例の方が適しているのかどうかはわからない。しかし、このような明確に数値化された根拠をもとに法律が決められるといったことは圧倒的に少ないのではないか。道路交通法の速度制限だって、ここは40kmで走るべし≠ニ決めてはいるが、その数値に論理的、あるいは科学的な根拠があるわけではない。ただ、39kmや43kmなんてやると、区切りが悪いから40kmといってしまったということだろう。もちろん、区切りがいいことと科学的に安全な運転ができることとの間に論理的な関係はいささかもないのである。こんな話をしていたらきりがなくなる。ともあれ、われわれの世の中には論理や理屈だけでは整理できないものがワンサとあることだけ共通理解できればいいのである。その上で、とにかく約束をしたからには、まずは守らなくっちゃ話にならない。これが社会生活の基本にならないとまずいのである。もちろん、世の中には変な約束や理不尽な約束もある。 |
教育問題(07/06/09 Sa-1521)
いま教育が危機に直面している≠ニいう。たしかにそうだと思う。しかし教育というものは、いつの時代でも問題を抱えていた。そもそも教育には誰もが認める正解≠ネどは存在したためしがない。だから教育についていつも議論をしておくことが大切なのである。教育が話題にならなくなったら、その国はおしまいだと考えた方がいい。その点、政治家にも米百俵≠フ話を持ち出した人などもいて大いに期待した。ただし、あの話は続きがなかったなあ。ともあれ教育問題はテレビのワイドショーでもいいネタになっている。ずっと前は評論家と呼んでいたが、いまは横文字のコメンテーターさんの元気がいい。とにかくいろいろなことを言う。とくに格差を生む恐れのあることなどについては敏感だ。まさに、舌鋒鋭く口角泡を飛ばす。なかなかいいことを言うと感心することもある。だから文句はないといえばないのだけれど、ちょっと聴いてみたいこともある。皆さんの子どもさんはちゃんと公立学校に行かれているんでしょうねえ。塾についてはどうなんでしょうか。まあ、お孫さんまでフォローするのはやり過ぎだと思うけれど、このあたりは興味津々だなあ。お受験を笑い、塾で消耗する子どもたちを憂い、有名大学を批判する。そんな元気のいい方が、ご自分の子どもはエリートコースのコンベアに載っけている。こんなコメンテーターがいたら、相当に笑えますよね。いわゆる有名大学を出て、俺ってエリートだ≠ネんてこれっぽっちも思ってはいませんよねえ…。このごろの政治家は資産を公開するようになった。その線でいくと、教育を云々するコメンテーターは、自分たちの身内の教育がどうなっているのか公開するといい?うーん、それって無理に決まってるか。 |
雲隠れテクニック(07/06/08 F-1520)
授業参観では、みんなが廊下で井戸端会議を開いているわけではない。静かに授業を観ている親御さんもいらっしゃる。しかしそれもよく見ると、その視線が向かっているのはわが子だけということも少なくない。ご丁寧に手まで振ってるなんて事例にも遭遇したことがある。まあ、その気持ちはわかるんだけど、もっと教室全体を見渡していただきたいと思う。うちの子だけでなく、よその子も観察するのである。もちろん先生の振る舞いにも関心を持つ。そんな姿勢をお持ちいただくと、学校がさらによく見えてくるはずだ。教師とのコミュニケーションの質も高まるだろう。ともあれ、廊下でしゃべっている皆さんは、授業そのものには興味がないのかと思ってしまう。そうか、その後の学級懇談の方を大事に考えているのかあ=Bそんな期待をしたら、これまたずっこけてしまう。授業が終わるとあっという間に消えて亡くなる人が少なくないのだ。あっという間に姿を隠すことの見事さといったら感動ものである。とくに新学期のときは、にわか忍者が急増する。まさに一瞬で雲隠れテクニックを発揮するのである。なにせ、うかうかしていたら役員をさせられるのだから大変なのだ。そして逃げ足の遅い、テクニックに欠けた人たちが現場に残されるのである。それから役員決めが難航することは容易に想像がつく。仕事を持っている方々がどんどん増える時代である。みんなが同じような状況で役割を果たすことはできない。しかし、はじめから逃げ足が速いことを自慢するような発想は、いかにもまずい。こんなところで子どもに逃げるが勝ち≠ニ教えてはいけない。それぞれの立場に応じた責任を持つという姿勢が大事なのだ。それが子どもの教育にもプラスに働くのである。 |
ヤジ=不規則発言?(07/06/07 Th-1519)
ああしろこうしろ≠ニ言うだけが教育ではない。子どもは親の背中を見て育つ≠フである。もちろん対象になるのは親の背中だけではない。世の中の大人たちの振る舞いは、そのすべてが子どもたちに影響を与えると考えていた方がいい。議論と良識が支配すべき国会で乱闘もどきの大騒ぎをしているようでは、先が思いやられる。そもそも国会での居眠りや私語は子どもに悪いだけではない。ちゃんと歳費をもらっているのだから職務怠慢なのだ。これに輪をかけるのがヤジである。じつに聞き苦しい。人の発言を封殺しようというのだから、言論の府が泣いている。しかも国会ではヤジを不規則発言≠ネんて言うんだそうな。またまた、妙なことばを使ってごまかすのは悪い癖だ。テレビなどの討論番組でも人の発言中に重ねてしゃべり出す。とにかく声が大きい方が勝ちなのである。聞いてる方はわけがわかりゃあしない。それでも平気の平左だ。相手が言いたいことを言わせなきゃあいいんだから。そのひどさに、タイマーをセットして発言時間を制限する番組もある。ここまでくると、レベルはわがまま盛りのガキと同じだ。自分の気持ちが抑えられない。人の話が聞けない。内容の低俗さから子どもには見せられないとやり玉に挙げられる番組がある。今のままだと、国会中継もそれに入れられるかもしれませんよ。そんなことですから、授業参観中の廊下で井戸端会議をするのだけはやめてくださいね。ところで、昔からお付き合いいただいている方の中には、井戸端会議のネタを過去にも読んだことがあると思われているかもしれない。そう、このコラムをはじめた2003年の6月25日や12月8日、20日にもPTAがらみで取り上げている。状況はあまり変わっていないようですな。 |
参加+観察=参観(07/06/06 W-1518)
井戸の消滅とともにすっかり消えてなくなったと思っていた井戸端会議は、授業参観の廊下で復活していた。先生が一生懸命に授業をしているその横の廊下で、わいわいがやがや騒いでいるのだ。さすがに騒いでいるというのは言い過ぎか。ご本人たちは聞こえないようにと意識しているようだから、声の音量そのものはひそひそ話に近い。しかし、その内容といえば授業にはまるで関係のない世間のお話なのである。先生方だって四六時中エンジンをふかしっぱなしでは体が壊れてしまう。ときには手を抜くと言えば叱られるだろうが、日ごろはバランスを取りながら授業をされているはずだ。その点では授業参観は、はりきるべき大事なイベントである。この日とばかりパワーポイントを充実させたり新しい教材を開発したりと気を入れて準備されているのだ。ああそれなのに、それなのに。お客様は廊下で井戸端会議…。いやあ失礼しました。もちろん井戸端会議に専念している人はほんの少数ではあるのですがね。ともあれそのひそひそ話、ご当人たちは声が低いから聞こえないと思っていらっしゃるようだ。そこに大いなる勘違いがある。声が低くて内容が聞こえなくてもうるさいことはいくらでもあるんです。ちょっと静かにしてよ=Bそんな気持ちになると、さらに輪をかけてうるさく感じる。それが人間の感覚なのである。授業参観は、授業に参加≠オて、その中で観る≠アとが目的なんですよね。廊下の井戸端会議を開くってことは、授業中に私語しているのと同じことなのである。これでは、子どもに授業中はおしゃべりしないで先生の言うことを聞きなさい≠ネんて言っても迫力なんてありゃあしない。子どもは大人たちの振る舞いをじっと観察しているのである。 |
授業参観休暇(07/06/05 Tu-1517)
井戸がなくなれば井戸端会議も消えていく。当然の成り行きではある。しかしみなさんご心配はいりません。井戸端会議はしぶとくも密かに生き続けていたのです。それはどこで? どこだと思います? 正解は、何と子どもたちが通う学校の廊下だったのです。疑問に思う方がいらっしゃったら授業参観の日に出かけてみることです。この日に学校へやってくる保護者のほとんどはお母さん方である。お父さんをはじめ男性はほんの数人といったところだろうか。もう10年ほども前になるが、熊本市の社会教育委員を仰せつかっていたことがある。そのときも、男性が子どもの教育に対して十分に関わっていないことが話題になっていた。いまでもその状況はそれほど変わっていないだろう。授業参観だって、仕事があるから出たくても出ることができないのである。そうした障害を克服するために授業参観休暇≠ネるものを設けてはどうか。そんなことを話題にした記憶がある。このごろでは、そんな配慮をする組織があるかもしれない。秋口にも祝日をくっつけたりしながらゴールデンウィークを作ろうなんていう意見があるらしい。せっかくの歴史的・文化的な意味を持っている祝日を、何でもかんでも連休にするようなことはやめてほしいものだ。私の心には体育の日≠ヘ10月10日以外にはあり得ない! あの秋空の東京オリンピックの開会式の日こそが体育の日≠ノふさわしい。10月の第2月曜日では断じてないのでありまあす! そんなことよりも、1学期ごとに1日は授業参観休暇≠設定したらどうか。しかも、これを子どもがいる保護者たちだけの特権にはしない。子どもがいようといまいと、とにかく大人たちが1年に3回くらいは近所の学校に出かけるのだ。 |
井戸端会議(07/06/04 M-1516)
時間は心のフィルターだ。楽しいことは楽しく、厳しい体験もそれなりに客観的に振り返ることができるようになる。そしてある種の感慨深い思い出として心に残っていくことが多い。もちろん、あまりにも過酷な体験をしたためにPTSDに苦しむ方々もいらっしゃる。PTSDはpost-traumatic
stress disorderの頭文字を取ったもので、心的外傷ストレス障害≠ニ訳されている。事故や災害が起きるとPTSDが問題になる。そうしたことを考えると、軽々に感慨深い思い出≠ネどと言っているわけにはいかないけれど…。ともあれ水道が開通する前のわが住民たちにとって、井戸は命綱であった。ライフラインという言い方があるが、これは電気やガス、水道のシステムなどのことである。井戸の場合は個々に掘っているからシステム化されていない。そう考えるとライフラインとは呼べないかもしれない。それはともあれ、昔は井戸の周辺で主婦たちが洗濯したり、ものを洗ったりしていたわけである。そのときにわいわいがやがや世間話をする。今風に言えばワイドショー的な話題がネタになったのだと思う。もちろん世の中の問題や知っておくべきニュースなど大事な情報も交換されたに違いない。その一方で興味本位の噂や根拠のない中傷などのマイナス情報も飛び交うこともあっただろう。プラスもマイナスも飲み込みながら、そうした集団が地域の小さなコミュニティを構成していた。それが日常的なつながりも強めていく力になった。その点で井戸は情報発信とコミュニケーションの大事な場だったのである。ところが、いまでは井戸がなくなってしまった。その結果として井戸端会議も死語と化したのである。隣の人間が亡くなっても気がつかない。そんな時代である。 |
水道革命(07/06/03 Su-1515)
井戸をせっせと汲むのは大変だった。しかし、ポンプの上から覗いてみると弁の動きなどが見えておもしろくもあった。正確なメカニズムはわからないにしても、何となく地下から水を吸い上げる理屈が理解できたような気がした。そしてこれを考えた人はすごいなあ≠ニいう感慨にふけった。いまは何でもかんでもパッケージ化している。外からメカが見えにくくなった。それだけ子どもたちも感動する体験が少なくなっているのではないか。年に何回かしか行かないデパートだったが、地下のまんじゅう製造器などもじつに興味深かった。少し前に博多大丸で復活したらしい。練った小麦粉をたらりと落とすところからはじまり、あんを入れて最後は焼き印を押してできあがり。その一連の流れが見えるのである。これだけで科学的好奇心に刺激を与えたとまでは言わないが、こんな体験が物づくりの夢を与えていたことは間違いない。さてさて井戸の話に戻ると、そのうち水道が開通した。蛇口をひねれば水が出てくるのだ。それだけで大満足だった。これでポンプで水を汲む仕事からは解放されたのである。井戸の水汲み作業は力仕事というだけではない。真冬の戸外で井戸からバケツに水を汲んで家まで運ぶ。その厳しさは想像しただけでも寒くなる。水道の開通をもっとも喜んだのは母親だったに違いない。そうした仕事を中心的にやっていたのは母親だったからだ。いまではその母もいないが、井戸の水汲みもまた懐かしい思い出ではある。時間はすばらしい記憶のフィルターだ。そのときは苦しいこと、辛い思い、不愉快な体験、悲しい現実、そし恥ずかしい気持ちも、時間が経過すると心に落ち着きが生まれてくる。自分の体験を客観的に眺めることができるようになるのである。 |
豪邸暮らし(07/06/02 Sa-1514)
昨日、PTAのアンケートで「委員ができない」という回答が95%もあったという話を書いた。これを見られたご当人からメールが届いた。「委員ができない」中には、「子どもが小さい」など、当然と思われる理由も含まれていたという。したがって「仕事があるから委員は無理」という回答だけではないということである。それはそうだろう。そして、「仕事があるからできない」というのも立派な理由である。問題は様々な事情はあるにしても、とにかく委員になる人が少ないことだけは現実としてはっきりしている。こうした点を何とかしなければ、まずいことだけは間違いない。しかも委員にならないどころか、このごろは生活に余裕があるにもかかわらず給食費を払わない人もいるらしい。この世の中はどうなってるんだろう…。さてさて、行橋の思い出を続けよう。庭までついた真新しい市営住宅が当たって、わが家は超ハッピーになった。それはそれは贅沢な2Kの豪邸生活だったのである。この住宅の2軒ごとに共用で1つの井戸があった。まだ水道が完備していなかったのである。しかしこの井戸がこれまた豪華なもので、何と屋根付きだった。しかも、鉄分の混じった水が出てくるという大サービスぶりだった。ポンプでえいこらしょ≠ニ水を汲む。蛇口には布袋が付いていて、それが時間とともに茶色に変色していくのである。そこで誰が見ても鉄分が混じっていることがわかるという理屈だ。近所のおじさんなどは「人間には鉄分が必要なんだぞ。この水を飲んでりゃあバッチリ供給」なあんて言って笑っていた。まことに平和でのどかな時代であった。それはそうと、ポンプで水を汲むのはけっこうな力仕事である。そのときはきつくていやになっていたに違いない。 |
PTAの悩み(07/06/01 F-1513)
少し前になるが、いつも「味な話の素」をご愛読いただいている方からメールが届いた。新学期が始まって間もなくのことだ。内容はPTAがらみの話題である。新しい年度になるとPTAも慌ただしくなる。そんな話からはじまっていた。その方の悩みのタネは役員の引き受け手がないということだ。保護者にアンケートを採ったところ「仕事があるため委員はできません」という回答が、何と95%近くを占めたという。さすがにこの数字には驚いた。たしかにみんなが忙しい時代だ。委員を引き受ければ大変だし、本当にそれができない状況におられる方も少なくないことはわかる。しかし、それにしても95%というのは尋常じゃない。地域性や学校の特性などいろいろな理由があるとは思う。しかし、それにしてもすごい数値である。もともと子どもの数が極端に少なければ、実態以上に大きな数値がでることはある。しかし、この場合は子どもたちの数もかなり大きかった。うーん、すごいなあ≠ニ驚いているうちに、ふと井戸端会議≠ェ頭に浮かんだ。この井戸端会議=Aいつの間にかなくなった。それは当然だ。井戸がなくなったからである。私は小学4年生の1学期まで福岡県の行橋市に住んでいた。いまや映画の東京タワー≠ネどで話題になる1950年代である。わが両親は新築されたばかりの市営住宅に当たったのである。そのころの住宅事情はいまでは想像もできないほど劣悪だった。だから、新しい住宅は、わが家にとって夢のような御殿だった。何と言っても庭付きの一戸建てである。6畳と4畳半の部屋があって、あとは土間に台所という配置だった。今風に言えば2Kということだろうか。そこで両親と小学生の私、幼稚園に通う妹の4人が暮らすことになった。 |
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