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味な話の素
No.49 2007年05月号(1482-1512)
 
Mr.Stress氏との会見(07/05/31 Th-1512)
 先日、あのMr.Stress氏と話をするチャンスがあった。ご存じの方も多いと思うが、いまや彼は世界中で引っ張りだこの売れっ子である。私のような者が彼と話す機会を持てるなんて僥倖としか言いようがない。会話の間はまるで夢を見ているかのような気持ちだった。そこで運のいい私には彼から聞いたことをきちんとお伝えする義務があると思う。ただ最初に言っておかねばならないが、Mr.Stress氏はかなり機嫌が悪かった。怒りの矛先は私に向けたものではなかったから何とか対応できたが、怒髪天を衝くような形相だった。とにかく世の中には無責任な輩が多い。本来は自分たちがだらしないのに、悪いことは何でもかんでも私のせいにする=B顔をほてらせながら叫ぶのだ。何と言ってもレベルの低い行為の原因を俺のせいにするから頭にくるんだ≠ニ唾を飛ばしてテーブルを叩く。そう言われればそうだなと思う。電車の中で痴漢行為をして捕まる。酒を飲んで運転した。つい万引きをしてしまった…。こんなニュースが毎日のように伝えられる。そのときご当人たちが何と言うか。つい仕事でストレスがたまってしまって…=BこれだからMr.Stress氏が怒るのである。何でもかんでも俺のせいにするな=Bまったく同感である。人間、誰だってストレスはあるもんだ。それをなだめすかしながら必死で生きているんですよね。どうせなら、もっとまともなストレス解消法を考えなくっちゃあ! それにしても対人関係が希薄になって、お互いに支え合う仲間も少なくなっている。携帯で話しながら繁華街を歩く。そんなときは、向こうから来る人間どもは単なる邪魔者にしか見えない。会話は話が通じる人間とだけ。これじゃあストレスの解消法だって学ぶ機会もないですよ。
指切りげんまん(07/05/30 W-1511)
 ともあれ法律≠ヘ約束≠ネのであって、少なくともすべてが科学的根拠に基づいたものではない。また必ずしも論理的だとも言えない。だからいい加減にしていい≠フではなく、約束≠セから守ることが必要なのである。もちろん世の中には悪法と呼ばれるものもある。また制定当時はまともであっても、時間とともに不都合になったものもあるだろう。それらは廃棄したり改正していかねばならない。ソクラテスのように悪法も法なり≠ニ悟っているばかりではまずいと思う。しかし、とにかく約束は守る≠ニいう精神構造だけは大事にし続ける必要がある。ところが、わが国の現状を見るとそのあたりがかなり怪しい。街の交差点に3分でも立ってみるといい。信号が黄色になった後から進入するのはほとんど常識だ。それから赤になっても平気で突っ込んでくる。それも信号が変わった瞬間ならまだしも、完全に赤になっているのに止まらない。生活の基本である道路ひとつとってもこの状況である。いまや約束≠守ることは至難の業になっている。昔は人と待ち合わせをしていたら、時間を守る圧力が働いた。いつも遅れてくる人間は信頼を失った。そこまでいかなくとも時間にルーズなやつだ≠ニ思われた。ところが、いまでは携帯電話があってちょっと遅れる≠ネんて連絡すればおしまいになる。そんなわけで、約束を守らないと人に迷惑をかけるという切迫感が希薄になっているように見える。こうして、法律はもちろん会社の規則や規定、それにマニュアルだって約束∴癆スの洪水である。そういえば、このごろの子どもたちは指切りげんまん≠するのだろうか。世の中で約束≠ェいい加減に取り扱われるようになって、これも死語になっていないか。
約束と人間の証明(07/05/29 Tu-1510)
 法律さえ守れば何をしてもいい=Bこれでは、ことの善悪がわからない赤ん坊よりも質が悪い。赤ん坊は危ないこともするが、その動機に悪はない。それに親たちから行動を規制される。大人のいい加減な行動は物心ついた子どもたちにも好ましくない影響をおよぼす。法律≠ヘ最低限の基準であり、本当は法律なんてないほうがいいのである。それはともあれ、わが国は法治国家だからまずは法律を守ることが基本である。そして法律に問題があるなら、それをきちんと議論して変えることだ。法律が必ずしも科学的でも論理的でもないという理由だけで守らなくていいということにはならない。そもそも法律は約束≠ネのである。この地球上の生き物の中で約束≠ェできるのは人間だけではないのか。渋谷の忠犬ハチ公が送り迎えをしていた主人が亡くなっても、渋谷駅で待ち続けたという話は感動的である。しかしハチ公の行動は飼い主に対する思いの表れではあるが、それは約束≠セったとは言えない。約束≠することができるのは人間だけなのである。だから約束なんて守れない≠ネんて平気で言う人は人間の免許≠返上していただかねばならない。ともあれ、何でもかんでも論理や科学的根拠を振り回すのはまずいのではないか。まずは約束は守る=Bいまの世の中では、そのことを当然だとする精神構造をしっかりつくりあげることが求められていると思う。約束は法律に限らない。組織のルールやマニュアルだって、立派な約束である。古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、その言説によって裁判にかけられ死刑を宣告される。脱獄のチャンスはあったのだが、それを拒否して刑死を選択したのである。そのときに悪法といえども法なり≠ニ言ったという。
法律で逃げる(07/05/28 M-1509)
 法律で決めた年齢制限や刑期、罰金の額などには科学的・論理的な根拠はない=Bこんなことを言っていると、おまえは法律などどうでもいいと考えているのか≠ニ疑われるかもしれない。あるいは、まさにそのとおり。だから法律など守る必要がないんだ≠ニ大いに同調される方がいるかもしれない。とんでもない。それは大誤解というものですよ! 私が言いたいのはその正反対のことなのである。世の中には、やれ論理だの、やれ科学的根拠だのと大声で叫ぶ人がいる。しかし、われわれの身の回りには理屈だけで通らないことがいくらでもある。そもそも法律は契約であり約束なのである。だから歴史の中には悪法と呼ばれたものはいくらでもある。今日でも人々の人権が踏みにじられている国がある。そうしたところでも形式的な法律は存在しているはずだ。しかし、それが抑圧の道具に使われているのである。人間はいくらでも間違ったことをする。また時代や状況が変わって、法律や決まりそのものが無意味になったりおかしくなったりもする。法律なんてものは一度決まると、それを悪用したり拡大解釈しようとする人間や集団が現れる。この点では権力を持っている者たちがとくに危ない。さらに法律を言い訳に使う人間たちがいる。法的手続きはきちんとしています≠ネんて言って自分に都合の悪いことをごまかす手段に使う連中がいる。これでは法律に違反しなければ何をしてもいい≠ニいうことになる。こんな逃げの道具に成り下がっては、法律だって立つ瀬がない。さらに進むと法律の抜け穴≠探し出してややこしいことをする人間も出てくる。こうなると法律以前の人間性の問題である。しかし、そうした力が備わっていない人間があっちこっちにいる。
法律の科学的根拠(07/05/27 Su-1508)
 今日は、まだほとんどの方がご存じないことを敢えて暴露させていただく。そうはいっても、一部の研究者の間ではほとんど常識≠ノなりつつある事実ではあるのだけれど…。じつは、われわれ日本人の場合、19歳と364日23時間59分59秒まではアルコールを体に入れると1ccであっても脳細胞にきわめて大きなダメージを与えるのだ。ところが何とその1秒後には、まったく反対にすばらしくプラスの効果をもたらすものになる。まさに酒は百薬の長≠ノ変身するのである。このことが繰り返し行われた実験で証明された。これはいつ公表するかが密かに検討されている科学的な事実≠ネのである。まさにノーベル賞級≠フ大発見である…。なあんちゃって。この話はもちろん嘘でーす!そんな馬鹿な話はあるわけがないですよね。未成年飲酒禁止法の第一条の第1項には「満二十年ニ至ラサル者ハ酒類ヲ飲用スルコトヲ得ス」とある。1922年(大正11年)にできた法律である。20歳になるまでは酒を飲んではいけない≠ニいう法律には科学的・論理的根拠なんかないはずだ。そもそも法律なんてそんなものなのだ。刑法第二百三十五条は「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する」と定めている。いわゆる窃盗罪であるが、どうして十年以下なのか五十万円以下なのかについても科学的な根拠はない。専門家は他の法律との整合性≠ネんて言うかもしれない。それならそれで、その他の法律≠フ年限や罰金の根拠はどうなっているのと聞きたくなる。それまた他の法律≠ネんて言ってたら堂々巡りで目が回ってしまう。そんなわけで、法律で決めている年限や期間の正当性を科学的に説明するなんてできないのだ。
主観的解説(07/05/26 Sa-1507)
 とにかく解説者がうるさいのには閉口する。その点で鈴木啓示氏はどうもいけない。ああしたらいい、こうしたらいい≠ニ耳に障るのである。それに比べると武田一浩氏の方はアナウンサーとの対話になっている。もちろん遠慮しているわけではなく、言うべきことはけっこうチャンと言っている。そもそも解説者は自分が知っていることをまくし立てればいいというものではない。素人がなあるほど≠ニ唸るような話をしてほしいわけである。たしかにギャラをもらっている仕事なのだから、ただアナウンサーに相づちを打つだけではまずい。そんな気持ちもあって、鈴木氏などはついつい口が出てしまうのだろう。そう言う意味では職業意識に徹しているのかもしれない。それはそうだとしても、どういう視点からものを言うかは問題になる。鈴木氏は私ならこうする≠ニかこれで打てんようじゃいかんなあ≠ネんて発言が多い。どうも主観的な評価が気になるのである。もう少し選手の気持ちになって話を展開してくれないかと思う。よく名選手、名監督ならず≠ニ言われる。現役時代の実績が凄いほど、それを基準にして選手や部下を見てしまうのである。ど素人の感覚に過ぎないけれど、その昔替え時≠いつもミスる元名投手の監督がいた。俺ならまだやれる∞しっかりせんかい=Bそんな雰囲気が漂っていた。鈴木さんも近鉄の監督をしていたが、そのときはどうだったのだろうか。野茂選手とはまったくそりが合わなかったと聞いたことがある。同じ投手出身の解説者でも与田剛氏などは、かなり客観的な話をすると思う。個人を特定していろいろ文句を言ったが、おそらく私が鈴木さんと相性が悪いだけのことなのだろう。とくに鈴木ファンの方にはすんませーん。
おしゃべりと寡黙(07/05/25 F-1506)
 武田さんはどちらかといえば口数が少ない方だ。もちろん経験も豊富でいろいろなことを知っている。そして相手から聞かれれば、すぐさまちゃんとした答えを出してくれる。だから安心もできる。これに対して鈴木さんはかなりのおしゃべりだ。彼も相当な実力の持ち主で、正直なところ実績としては武田さんを上回っている。おそらく名前を知っている人の数も多いことだろう。しかし彼はこちらが聞きたくないときもべらべら話をする。その点でかなりうるさいタイプである。もちろん人によって好き嫌いがあっていいのだが、私としては圧倒的に武田さんを評価したい…。さてこの2人が誰だかおわかりだろうか。じつは私のお友達ではない。そう、NHKの野球解説者として活躍中の鈴木啓示氏と武田 一浩氏である。少しばかり前になるがBSでホークス対楽天戦を2日連続で放送していた。最初の日が鈴木氏で次の日が武田さんだった。鈴木さんはいつものように、絶え間なくしゃべっていた。絶え間なくは大げさかもしれないが私にはそのように聞こえるのである。アナウンサーよりも口数が多いんじゃないかと言いたくなるほどだ。そこで音声を実況なしに切り替えた。解説をうるさいと思う人がいるのだろうか。副音声だと球場の音しかしなくなる。もっとも、こっちの方も鳴り物入りの応援がかなりうるさい。球場に行ってみると応援に来ているのか騒ぎに来ているのかわからない人もたくさんいる。ともあれしばらくはテレビをつけていたが、そのうち仕事をする気になって机に向かった。今度はPCで仕事をしながらYahooの動画中継をオンにした。もちろん仕事中(?)だから、こちらも音無しだ。それにしても仕事をしている画面の隅っこに野球が映るなんて時代が変わった。
過疎化の行く末(07/05/24 Th-1505)
 先日、NHKで都市への人口集中と地方の過疎化についての討論番組が放送されていた。白熱した議論が展開していたが、私自身は途中で仕事を始めたので番組を最後まで見なかった。どうも集中力に欠けているようで、長時間続く番組は苦手だ。テレビは部屋が明るいから周りが見えすぎる。それだけに余計なことを考えてしまう。雑念が湧くのである。その点、映画は周囲が真っ暗闇になるからいい。スクリーンだけに集中できるのである…。さてさて、その番組のはじめだけ見てふと思ったことがある。このまま過疎化が進んでいくと、地方の土地はどうなるか。その価値が下落するから価格も落ちていくに違いない。山が500万円で買える。福岡ドーム1個分が200万円…。そんなことになったらどうするか。それでも過疎地は利用価値がないから誰も手を出さない?? そうでしょうかねえ。たとえば、安い土地に外国資本が目をつける。九州1個が5000億円で買えるなんて話になったら、そんなことだってありでしょうよ。そこをリゾート地にして観光事業を立ち上げる? 今時そんな話にはならないだろう。そうではなくて、この土地を産業専用にしたらどうなるか。この広大≠ネ土地で本国では許可されないような工場を作るのである。あるいは有害物質を垂れ流すよう施設を操業する…。公害防止の法律などで規制するから大丈夫というのが模範解答なんだろう。しかし、本当にそんな心配はないのか。あるいは、安い土地で農業を経営するとどうなるか。豊かな収穫は本国へなんてことだってありじゃないですか。日本人はそのお裾分けで恵んでもらう? それも目が飛び出るほどの高値で。会社が外資に乗っ取られる心配はしているが、わが大地だって相当に危ないのではないか。
1日31人の犠牲者(07/05/23 W-1504)
 New York Timesの銃に関わる記事は本日でおしまいにしよう。さて、26歳から39歳≠ワでの年齢層の死亡者は1日21名だが、そのうち9名が自殺である。銃による自殺が多いのは、それが死に至る確実な方法だからか。映画などでは銃でこめかみを撃つシーンがあったりする。大脳を弾丸が突き抜ければひとたまりもないだろう。わが国では白い巨塔≠ナ好演した田宮次郎も銃による自殺だった。こちらは不法な銃所持ではなく、猟銃によるものだった。とにかく銃を使えば失敗する確率はきわめて少ないと思われる。この年代では、これに事故あるいは警官による正当な行為≠ノよる死者が1人いる。さて、最後の区分は40歳以上≠ニなる。この年齢層では39人が亡くなっている。年齢の上限がないので高齢者も含まれる。予想通りというわけではないが、この年代になると自殺者の多さが目立っている。何と39人中30人である。これは77%にも達する数値である。その内訳は白人男性が25人、白人の女性が4人である。もう1人については人種・性別は書かれていないが、やはり白人が圧倒的に多い。自殺数には性別による偏りがあるように見える。その理由はわからないが、それなりの分析はされていることだろう。この年代で殺された犠牲者は白人男性が3人、黒人男性は2人である。女性も2人いるが、こちらは人種が書かれていない。比率の問題は措くとして、すべての世代を通して銃によって殺される人たちがいるのである。かくして、統計的にはアメリカでは1日に31人が銃による殺人事件の犠牲者になっている。銃がなければ他の手段で殺人が起こる可能性はある。しかし殺傷力の大きさを考えると、命を落とすまでには至らない例だって増えるに違いない。
殺人と性別(07/05/22 Tu-1503)
 New York Timesの記事に戻ろう。18歳から25歳≠フ次は26歳から39歳≠ワでの年齢層である。この年代の銃による1日あたりの死者は21人である。そのうち殺人事件で命を失った者が11人いる。内訳を見ると最も多いのは黒人男性で灼6名が殺されている。これに対して白人男性は4人である。が加わる。あとの1名については細かい情報が書かれていないが、とにかく毎日11人が殺人事件の犠牲者ということである。殺人に関して言えば男性が多い。犯人側の性別はわからないが、男性の方が乱暴だということだろうか。このごろは性別の違いを強調するとまずいことになっている。だから男の方が乱暴だ≠ネんて言うと怒られるかもしれませんなあ…。しかし違うものは違うんですよね。性別に限らず、お互いを尊重することは何にもまして大事なことである。しかし、だからすべてが同じだと考えるのには無理がある。お互いの違いを認めて、それをちゃんと評価する力が重要なのである。いわゆるDVにしても、妻が夫に暴力を振るって夫が逃げ出したなんて例はほとんど聞かない。通勤電車だって痴漢防止用の女性専用≠ヘあっても男性専用≠ヘない。おばさんが男子高校生の臀部を触って捕まったニュースなんて見たことがない。そんなことも世の中にはあるかもしれないが、その比率は問題にならないほど少ないはずである。それもまた女性が社会的に抑圧されている≠ゥらだと考えるべきなのだろうか…。さてアメリカのデータに戻ると自殺者は9名である。その中には1人の女性が含まれている。自殺者はこの年代でも白人男性が多く、ほぼ7人という数値である。もう1人については注釈がないので性別や人種がわからないが、黒人の自殺はきわめて少ない。
悲しみの共感(07/05/21 M-1502)
 先日の立てこもり事件は解決したが、銃で若い警察官が亡くなった。昨年7月に生まれた赤ん坊がいたという。そのニュースを聞いたとき涙が出てきた。ときおり話題にするわが孫とほとんど同じだ。個人差はあるにしても、周囲の大人たちに笑って反応し、少なくとも伝い歩きはしていたと思う。その日も母親に抱かれてお父さんを見送ったに違いない。にっこり笑って…。もちろん私には、ほんの一瞬だけ涙を流す以外にできることは何もない。しかし、これまでであればああ、お気の毒に≠ニいう思いだけで終わっていただろう。それが涙までいったのは、自分自身にほぼ同じころに生まれた孫がいたからである。こんなときに共感≠ニいうことばを使うのは、ご家族に失礼かもしれない。しかし、その悲しみが理屈ではなく気持ちでわかる感じがするのである。自分の状況に置き換えて考える。対人関係ではきわめて大事なことだと痛感する。そのためには、可能な限り多くの状況に身を置くこと、体験を重ねることが必要だろう。もちろん、個々人にとって偶然や巡り合わせはある。いま私に孫がいるという状況が今回のニュースの受け止め方に、これまでとは違った反応をもたらしたのである。人間が生きていく上で共感≠ヘ大きな役割を果たす。子どもだけでなく大人の世界でもいじめ≠ヘ深刻な問題だ。いじめをなくすためには相手の立場に立てる@ヘが必要である。その力は理屈だけでなく、経験によって身に付くのである。それは可能な限り様々な体験をすることによって強化されていく。アメリカの銃による被害を考えていた矢先に今回の事件が起きてしまった。亡くなられた警察官のご冥福をお祈りするとともに、赤ん坊にもしっかり育ってほしいと願うしかない。
自殺者3万人超(07/05/20 Su-1501)
 アメリカの人口は次第に3億人に近づいている。私が子どものころは日本の2倍という感じだったが、最近は増加のスピードが速いようだ。その理由もいろいろあるようだ。この国は公式の移民も多いが、いわゆる密入国も後を絶たない。そんな事情から英語が話せない人たちだって少なくないという。それが格差の拡大にも繋がっていくことになる。アメリカはまさに多民族から構成される国なのだ。そうした状況を見ると、そもそも国とは何なのだろうという素朴な疑問も湧いてくる。少なくともアメリカ人とわれわれの感覚とは相当に違っていると思う。太平洋の向こうから見れば、日本などはほとんど区別のつかない顔をしている人間の集団に見えるだろう。これが中国になると12億人を超える。彼らの目には脅威≠ニして映るかもしれない。ともあれ、人口がアメリカの1/2以下である日本で1日に90人もの人たちが自殺している。これだって恐るべき数値である。アメリカの銃による死亡者数も凄まじいが、先方から見れば日本の方が信じられないと言われるかもしれない。少なくとも幸せだから自殺する≠ニいうことは考えられない。そうであれば、日本人はそんなに不幸なのか≠ニいう思いで見られることにもなるだろう。政府も自殺防止の対策を考え始めたようだが、とにかく毎年3万人を超えているという現実は重すぎる…。さて、New York Timesの記事に戻ろう。18歳から25歳≠フつぎは26歳から39歳≠ワでの年齢層である。この年代の銃による死者は21人で、殺された者が11人いる。その内訳は黒人男性が灼6名でトップに来る。これに白人男性の4人が加わる。あとの1名ははっきりしないが、とにかく毎日11人が殺人事件の犠牲者ということだ。
銃と自殺(07/05/19 Sa-1500)
 日本では一般人が銃を持ってはいけない。だから銃による犠牲者の数は圧倒的に少ない。しかし、それでも昔に比べると、わが国でも銃による事件が多くなった。つい先日も発砲時間が発生し、若い警察官が命を落とした。痛ましい限りである。さてNew York Timesの記事では17歳以下≠フつぎは18歳から25歳≠ナ区切られている。このグループの銃による1日あたりの死者は17人である。17歳以下≠ェ4人だったから桁違いに増える。このうち殺された者が11人もいる。その内訳は黒人が6人で、5人の白人のうち1人は女性である。また自殺が5人いるが、そのうち4人が白人男性だ。そして、事故あるいは警察官の正当な行為(Accidents or legal police action)によって撃たれて亡くなった者が1名いる。繰り返して申し訳ないが、この数値は1日の平均値なのである。自殺については白人が多い。これはそのまま白人と黒人の自殺数の比にはならないと思うが、実態はどうなのだろう。ところで、自殺数に関しては日本も他人事ではない。警察庁の発表では1999年に年間3万人を超えてから、その大台を割ることがない。昨年度は32,552人が自殺している。これを1日あたりに直すと約89人になる。しかも、これは警察庁が自殺と認定した数値である。行方不明者の中には自殺したものもいるはずだ。日本人はいまでも世間体を気にする。そんなことから、限りなく自殺に近い死でも他の死因にされていることだってあるかもしれない。したがって32,552人は最低の確定値なのである。アメリカの銃による死亡者数で驚いているが、わが国の自殺数も外国から見れば信じられない多さだろう。現にいわゆるG7と呼ばれる先進国の中ではわが国の自殺者数が第1位だという。
17歳以下で1日4人(07/05/18 F-1499)
 昔からアメリカは銃から逃れられない社会だと言われている。しかし、それにしても1日平均81人もの人が銃に関係して命を落としているというのは凄まじい限りだ。それでも銃をなくそうという動きはなかなか本物にはならないようだ。ブッシュ大統領の任期も見えてきて、次の大統領を決める選挙戦がはじまっている。そんな時期は銃規制のスローガンは出にくいらしい。銃規制に反対する勢力がそれだけ強いのである。その人たちの反感を買うと不利になるわけだ。銃の容認は西部開拓史の歴史を背負った文化だと言うのだろうか。いずれにしても、いままでのところアメリカにとって銃の放棄はほとんど不可能に近いようだ。New York Timesは、81人の内訳を17歳以下∞18歳から25歳∞26歳から39歳∞40歳以上≠ノ分けて図示している。その内容について少し見ていこう。統計は2004年のものだが、17歳以下の若者が銃によって1日平均で4人が亡くなっている。その内訳は、まず30時間に1人の割合で白人男性が殺された。これが黒人男性の場合は毎日1人になる。女性では理由を抜きにして2日に1人が銃で死んでいる。また性別は書いていないが毎日1人が銃で自殺した。これらを合わせると、1日あたりほぼ4人になる。数値だけで判断すると男性の方が女性よりも多い。また、黒人男性の方が白人と比べて銃で殺される確率が高い。これが17歳以下≠ノまとめられた集団の実態である。この年齢は日本なら高校2年生から3年生に当たる。これよりも若い人たちが1日に4人も銃で亡くなっているというのである。その深刻さはほとんど想像できない。銃は勝手に暴発することがある。しかし、それを持っている人間の心だって暴発する危険性がある。
銃社会(07/05/17 Th-1498)
 久しぶりにNew York Timesの話題。まず昨年から紙面に大変革が加えられた。New York Timesの創刊は1851年である。それから150年以上が経過しているが、昨年からカラー写真を使いはじめた。これが事実と断定していいかどうか確信はない。しかし、もう20年近くNew York Timesの日曜版(朝日新聞社刊)を見ている限りでは、これまでカラー写真を見たことがなかった。これも時代の流れなのだろう。さて、そのNew York Timesの4月22日号に、銃による死≠ノついての記事が載っている。先週バージニア工科大学で起きた銃撃事件は、1件としては恐るべき人数が犠牲になった。しかし、アメリカでは毎日何人もの人たちが銃の犠牲になっている。最も新しい統計が使える2004年の場合、その数は1日平均81人である…=B何と80人を超える人が銃で命を落としているというのである。アメリカでは銃による問題が深刻だと聴いてはいるが、数値を具体的に挙げられると改めて驚いてしまう。合計にすると29,569人で、さらに64,389人の負傷者が加わる。こちらは1日に直すと176人である。死亡原因は大きく3つに分けられている。殺人≠ニ自殺≠サれに事故あるいは警官の正当な使用≠ナある。人種による差も見られる。銃で殺されたAmerican Indian≠ヘ281人だが、同じ人口の割合だと白人は398人になる。またアジア系は白人の1/3だという。ところで、アメリカではAmerican Indian≠ニいうことばは使わないと聞いたような気がする。しかし、この記事にはそれが入っている。このあたりの事情はどうなっているのだろうか。いずれにしても、毎日80人以上が銃で死んでいるというのは凄まじい限りである。もう少し記事をフォローしよう。
本音と信頼関係(07/05/16 W-1497)
 さてさて、有田の陶器市に行く前の5月4日まで戻ることにしよう。昔の労使交渉をネタにして話を進めていた。お互いの信頼関係がないと交渉ごとでも法外な要求を出し合ったりする傾向が見られるという話だ。昔という条件をつけているとは言え、お互いに不信の構造にあったなどと決めつけるとどちらの側からも怒られるかしらね。何を言ってるんだ。われわれはちゃんと合理的な要求をしていたんだ≠ニ。あるいは理性的に対応していたんだぞ≠ニ。もちろんその場にいなかった私としては、このあたりは推測の域を出ない。しかし、まあどう考えても信頼関係にあふれているようには見えなかった。もちろん何でもかんでも妥協すればいいというものではない。信頼関係があるから妥協するということにはならない。そして状況次第では、一歩も譲らず闘うことも大事だとは思う。しかし、最終的にある程度の線≠ノ落ち着くのなら、はじめから本音≠フところを出しておけば時間だって大いに節約になる。ただし、交渉のスタートから本音≠言うには、お互いの間に信頼関係が確立している必要がある。これは職場のリーダーと部下の関係などに当てはめることができる。お互いに、上司が悪い∞部下がけしからん≠ニ相手を否定的に見ていると、本当のコミュニケーションは期待できないのである。それにしても労使の場合は、いまも同じような関係が続いているのだろうか。このごろは春闘も様変わりした。5月1日はメーデー、労働者の祭典である。そもそもは1886年にアメリカで8時間労働≠要求するデモから始まった。まだ教科書には載っているのだろうが、若い人はその起源を知っているのだろうか。この日も淡々と過ぎていったのではないかしらね。
復路物語(07/05/15 Tu-1496)
 そろそろ有田のお話もおしまいにしないといけない。労使交渉の話題からちょっと休憩≠ニ脇道に逸れたのが5日だった。それから今日は11日目、ちょっと≠ノしては長くなりすぎた…。さて3時45分の集合時間に有田駅へ到着した。ツアーの皆さんもお利口さんが多いと見えて、大多数の参加者たちがすでに集まっていた。列車は16時6分に発車する。団体専用の入り口から一斉にホームへ向かった。連休中ということも影響しているのだろうか、時間通りに電車が来ない。車両は上有田あたりに止めていたと考えられるから、運行に支障があるとは思えない。ホームにはあふれるほどの人がいる。われわれの電車のあとにやってくる通常の電車もあるから、そのお客さんも来はじめた。もう5分以上が経過した。そのとき、向かいの駅舎側にある1番ホームから駅員さんがハンドマイクで情報を伝えた。あと2分で団体列車が来まーす=Bこの情報は大事だ。みんながどうなってるの≠ニ思い始めたときにキチンと情報を流すことで、気持ちを落ち着かせることができる。ただし、その前にお待たせしております一言はほしかった。ささやかなプラスαが全体の情報の価値を上げるのだ。そうそう、この電車は鳥栖でもおもしろいことがあった。われわれとしては鳥栖で熊本方面へ折り返すから、電車としては逆方向に走り出すと思っていた。ところが何と鳥栖を出た電車は博多方向に走って行くのである。えーっ、これっておかしいんじゃないの≠ニ思った人もいて少しばかりざわめいた。結論から言うと2つ先の基山駅で止まって下り方向に変わった。そこではじめて電車は逆に進みます≠ニいう車内放送が流れた。これには運行上の事情があるのだとは思う。しかし、情報提供のタイミングが遅すぎる。サービスの基本は相手の気持ちに立つ≠アとだ。
八巻き大蛇(07/05/14 M-1495)
 私が伊万里小学校の5年生のころだと思う。バスで有田に見学旅行にでも行ったに違いない。そのバスでガイドさんが黒髪山の大蛇物語をしてくれた。その大蛇は何と黒髪山を七巻き半もするほどだったという。とまあ、こんなことを言ったすぐあとで、おもしろい解説が付いた。みなさん七巻き半ってどのくらいすごいんでしょうね。グルグル7回半も巻くんですよ…=Bまあ、半世紀近くも昔の話だ。正確なセリフなど憶えているはずがない。ただその結論だけはたったいま聞いたように記憶に残っている。運動会などでハチマキ≠ヘ頭に1回巻いて結ぶ。これで8巻≠ネのである。だから、7巻き半≠ニいうのは黒髪山の一回りまでは達しない程度の大きさだったというわけだ。なあーんだ、大したことないじゃないか…≠ナもないですよね。山の一巻き近くでもゴジラみたいな蛇であることは変わりないんだから。まあ、それだけの他愛のない話なのだが、折に触れて思い出すからおもしろい。私の子ども心によほど印象的だったのだろう。さて、そうこうしながら有田駅の方へ近づいていった。ちょっと休憩ということでごどうふ≠ネるものを食べた。その触感や味は文章では説明しにくいが、なかなかおいしいものだった。ふと時計を見ると3時を回っている。あっという間に3時間半が過ぎているのだ。どこもかしこも陶器が並んでいるだけなのに、それでもブラブラしているうちに時間が経過していく。これはじつにいい時間である。いつもは仕事に追われて時間を気にしてばかり。そんな状況とは隔絶された空間と時間を体感している。人がいっぱいで混雑しているのに、それも気にならないのである。そろそろ有田駅が見えてきた。集合時間ピッタリに着きそうだ…。
有田焼と柿(07/05/13 Su-1494)
 さて、有田の陶器市は続く。コースの終わりころにふと気づいたことがある。私にとって有田焼≠ニいえば酒井田柿右衛門≠セった。あの見事な柿の色を出す柿右衛門こそ有田の象徴というのが伊万里に住んでいたころの私の印象である。ところが、有田の市を歩いている限りでは、柿右衛門に気づかなかった。その代わり今泉今衛門のお家にはワンサと人が並んでいた。このごろは果物もあれやこれやとあって、柿はあまり目立たない。私自身は子どものころから干し柿が大好きだった。今でも季節になると干し柿を買う。最近は中国産もあって、これがやたらとお安い。しかし、なんと言いましょうか、やっぱしつるし柿は国産なんですよね。干し柿といっても、しっかり堅めのものと、じっくりと柔らかなものがある。人によって好みがあるようだが、私は両刀遣いである。どちらもおいしくてたまらない。それはともあれ、素人の勝手な思い込みかもしれないが、どうも柿右衛門さんが目立たなくなっていたのは、ちょっとばかり寂しい気がした。さてさて有田に黒髪山という山があって、そこに大蛇が住んでいた。それを鎮西八郎為朝が弓で退治したという民話がある。それを有田焼でできたカラクリ人形で見せるショーがあるという。家内が陶器市に来るといつも入るというので、私も観劇することにした。10分ほどで終わる機械仕掛けのものだった。いよいよ大蛇めがけて為朝が弓を引く段になる。ちょっとつばを飲み込んでそのときを待ったのだが、弓が飛ばなかった。家内の話によると以前は飛んだ≠轤オい。陶器市で千客万来、為朝も弓も疲れていたのかもしれない。しかし、あれは弓が大蛇に命中する≠ニころが売りなんだろうに、ちょっとがっかりだったなあ…。
あしなが募金(07/05/12 Sa-1493)
 1枚で何百万円もするという皿や壺を目の前にすると、もうひたすら笑っているだけのことである。それでもうん百万円か≠ニ思うと、どれもが凄そう≠ノ見えてくる。まあそこは素人、相当にいい加減なのである。そんなことを考えながらお店のトイレに入った。さすがに有田だけあって便器も見事な陶器である。しかも目の前の便器にも数十万のラベルが貼ってあるから仰天する。それが目に入った瞬間にミミズを思い出した…。その理由についてあまり詳しい説明をすると本コラムの品格が落ちるからご想像にお任せしたい。えっ、何のことか訳がわからないですって?≠「やあー、私が子どものころはミミズにおしっこをかけると、どこかがどうかなると言われていたんですよ。もうこれ以上は言わせないでください。さて最初のお店を出るとすぐにJRのガードがあった。その下で子どもたちが募金をしている。あしなが募金≠ナある。交通事故などで親を亡くした子どもたちをサポートすることを目的にしたものである。つい少し前に熊本の繁華街でこの募金活動をしている子どもたちのニュースを見た。そのとき今度あしながの募金に遭遇したら500円を入れよう≠ニ家内に話をしていた。それから間もないのに上有田で巡り会ったというわけだ。家内も私の発言を覚えていてあしなが募金じゃない≠ニ言いながら私の顔を見た。いろいろな事情があって親を亡くした子どもたちがいる。経済的な問題も大きいとは思うが、それよりも何よりも親との関わりを持てないことの方がずっと厳しい。われわれとしては、とにかくしっかり前を向いて生きていってほしいと思う。そしてこれから先、自分たちが子どもを持ったときは、親の分まで長生きしてもらいたいものだ。
上有田到着(07/05/11 F-1492)
 無事に用を済ませてトイレのドアを開けた。当然のことながら、外で待っている女性たちと目が合った。ありがとうございました=B私は丁寧にお礼を言った。なにせ、お先させていただいたのである。それに対して女性たちはにっこり笑う。さすがにいいえ、どういたしまして≠ネんて具体的な発言はしなかった。そして、女性同士でお次はどうぞ≠ニいう雰囲気の中で、背中に別の女性が入っていった気配がした。ここで男性トイレ物語≠ヘ終わったかに見えた。しかし、それから自分の席に帰る途中で、見るからにおっさん≠ニいう感じの男性と行き違った。えっ、あなたはおっさんじゃないのか≠ナすって? そうですねえ、私もおっさんでした。ともあれ、そこそこゴッツイ顔をしていたこの男性、どう見てもトイレに行く雰囲気だった。彼もまた入ってまーす≠フ合唱に遭遇するはずだ。おっさんがどんな顔をするだろうか想像した。それだけで笑いがこみ上げてきた…。そんなおもろい体験をするうちに電車はいよいよ目的地の上有田駅に着いた。ここから隣のJR有田駅まで5kmほどの道で陶器市が開催されているという。時計を見ると11時30分近い。有田駅の集合時刻は3時45分と言われている。時間はたっぷり4時間以上ある。幸いにも天気は上々で、陶器市巡りとしては最高に近いコンディションだ。上有田駅近くにいきなり大きなお店があった。なんと3億円の部屋≠ネんてものがあるという。そこに陳列してある陶器の価格が合わせて3億円になるんだそうな。とにかくでかい皿や壺が並んでいる。1枚が2000万円の皿なんて、誰がどんな根拠で値を付けるのだろう。ここまで来ると、少しは安くしてよ≠ネんて交渉に入るような世界ではない。
びっくりトイレ(07/05/10 Th-1491)
 電車の男性用トイレの前で、2人の女性が入ってまーす≠ニ合唱した。その意味は一瞬にして了解できた。男性用ではあるけれど、いま女性が入っているということである。ほぼ満席に近い電車だ。トイレが開いていれば効率よく使うべきである。だから男性用≠セって空いている限り女性が使っても問題はない。そんなわけで、私もあっ、そう≠ニ反応してドアの近くで待つことになった。ただし、このときは何とか抑えたが、こころの中では笑いがこみ上げてきた。これが逆のケースはまずあり得ない。つまりは、女性用≠ノ男性が入るということは考えられないのである。いまどき、そんなことをしていたら、それだけで車掌さんに連絡されるかもしれない。いやあ、そこまではいかないか…。少なくとも通常のトイレでは男性が入ること事態が問題になるだろう。ところが、逆の事例にはときおり遭遇するのである。何の気もなしに小用をすませていると、背中でジャアアー≠ニ水が流れる。そこまでは当たり前の状況である。男性だって大きな用事≠ェある人もいる。ところが、そこから女性が出てくると、こちらとしては相当に驚くのである。ときには、女性の方もあっ≠ニ声を上げることがある。まるで変なおっさんがいた≠ニ言わんばかりだ。こちらの方こそそりゃあないよ≠ニ言いたくなる。男というものは、びっくりすると止まってしまうことだってございますのよ。さてさて電車の方はしばらくしてドアが開き、中年の女性が出てきた。すぐに入ってまーす≠ニ声をそろえた2人と目が合ったが、にっこり笑ってどうぞ≠ニ先を勧められた。はい、どうもありがとう=B笑顔でそう答えた私は、待ちに待った個室の方に入っていったのであります。
気持ちと時間(07/05/09 W-1490)
 さて、有田に向かう電車の車両は特急仕様だが、停車駅まで特急扱いというわけではない。おそらくツアーに参加する人たちが乗るのだろう、博多往復の際には車内放送で聞いたことがないような駅にも止まっていく。また、定時の特急の運行を妨げてはいけないからだと思うが、調整のために待ちもする。有田に近づくと一部は単線になるのか、反対方向の特急が来るまで停車することもあった。その間はじっと待っているのだが、時間に対する評価がいつもと違うと思った。まともに特急に乗っているときは、時刻表の停車駅でないところで止まると、なんでかいな≠ニ文句も言いたくなる。しかし、この日はまあ、だいたいの予定時間には着くだろう≠ナ納得している自分がいた。実際、われわれの電車は予定の時刻よりも10分ほど遅れて上有田駅に着いた。それでもみんなが淡々と電車を降りていく。今日は時間など考えずにゆっくり過ごそう=Bそんなことをはっきり意識していたわけではない。しかし停車時間や少々の遅れが気にならないのは、やはり置かれた状況の影響である。人間はまったく同じことでも、その時々の気持ちによって現実の見え方が違うのだ。その結果として態度や行動も変わるのである。ところで、発車してしばらく経ったころトイレに向かった。トイレの前に行くと、ドアの前に4人ばかり女性が立っていた。順番を待っていることは誰が見てもわかる。しかし、電車はハイパーサルーン仕様だからトイレは男子用と女子用に分かれていた。そこで当然のことながら男子用の方へと思ったその瞬間である。おばちゃんたちもいる中で、比較的若い女性と子どもの2人が声をそろえて言った。入ってまーす=Bもちろん、その意味はすぐにわかった。
読書に脱線(07/05/08 Tu-1489)
 昨日、本の話題に触れたので、有田陶器市に向かう電車からちょっと寄り道を…。かなり前にも本欄で触れたことがあるが、私の読書は多読、並列型である。いつも8冊くらいをちょびっとずつ%ヌんでいる。その根底にはあれも読みたい、これも読みたい≠ニいう欲望がある。それが抑えられないから、読みかけの本があっても目に付いたものに手が出てしまう。この上なく欲が深いのである。まだ読んでるものが6、7冊あるぞーっ≠ニいう声が聞こえるのだが、気がつくと新しい本を開いている。ほとんど活字中毒≠フ状態である。私は子どものときからチョロチョロしている≠ニ言われてきた。この年になっても、親戚のおばたちから道雄はじっとしていなかったねえ≠ニ笑われる。それは目に見える動作を指しているが、じつは私の場合、頭の中も相当に落ち着きがない≠フである。こうして昨日まで続けていた有田行きの話から逸れているのも、あれも書きたい、これも書きたい≠ニいう分散思考が大いに影響している。ここではとにかく本の話を続けよう。まずは朝起きて仕事に取りかかるためにコンピュータのスイッチを入れる。入力がOKになるまでに若干の時間≠ェある。その間に最初の1冊に目を通すことになる。いま読んでいるのは、橋本淳一郎著「時間はどこで生まれるのか」(集英社新書)である。この本の内容にまで入っていくと、また脱線がひどくなる。何と言っても有田に向かっている最中の寄り道である。こんなところで脱線するのは避けなければならない。ただ、とにかくおもしろい本だということだけは強調しておきたい。われわれが日常的に体験している色や温度が実在しないことからはじまって、時間そのものに話が展開していく。
座席指定の旅(07/05/07 M-1488)
 有田の陶器市に向かう電車は長崎線のかもめなどに使われているハイパーサルーン仕様だった。われわれが出発する5分ほど前に上りのつばめが発車した。こちらは満杯で自由席には立っている人もいた。連休中だからやむを得ないとは思うが、揺れる電車で座れないのは疲れることだろう。自分たちは座席指定のツアーなので、その点は何の心配もなかった。ありがたや、ありがたや。それにしても列車はほぼ満員。JRさんにとってもホクホクの大盛況だった。ただし、そのせいなのかどうか、わが家族3人の座席があらかじめ聞いていたものから当日になって変更されてしまった。そりゃあないよ≠ニ文句のひとつくらいは言いたいところだったが、それはやめた。きっと契約条項か何かに小さな字で変更することもあります≠ネんて書いてあるに違いない。もともと3人だから、いずれにしても4人の席は確保できないわけだ。私が新たに指定された席の隣にはすでに男性が座っていた。八代からのお客さんだろう。まだ8時過ぎだったが、すでに缶ビールが空いていた。何と言っても連休ですわね。少しばかりいい気分で陶器市というのもけっこうですなあ。もちろん、私はペットボトルのお茶でしたよ。さて、電車は鹿児島線を走っているが、鳥栖までは見慣れた風景が続く。長崎線に入っても、それほどキョロキョロするほどのことはない。平均的には1年に3、4回はこの線を走るからだ。それに座席は通路側である。そこで持参した新書をやおら開けた。このごろよく聞くようになったコーチング≠ノ関する本である。先に結論を言うと、有田から帰る電車が植木を通過するころに、この1冊を読み終えた。まさに、熊本・有田往復にぴったしの分量だったわけである。
有田へ出発(07/05/06 Su-1487)
 有田陶器市物語のつづき。ただでさえ人混みが苦手、待つのが嫌い。そんな私だから、連休中に、観光スポットに車で行くなんてことは夢でもあり得ない。道路が渋滞しているに決まっているからだ。いつの間にか父や母が天国に行ってしまったが、家内も私もいわゆる里帰り先は福岡県にあった。これは渋滞を苦手とする私にとってまことに好都合なことだった。盆正月の帰省ラッシュ時に世間の流れとは反対に逆走≠キるからである。とにかく渋滞なんぞに巻き込まれれば精も根も尽き果てる。しかし、家内の話を聞くと今回の有田行きはそんな心配は無用だという。なにせJRさんが企画したツアーなので、団体専用列車で行くのである。だから満員で車内がごった返すといった心配はしないでいい。ただし、有田に着いたら5kmほど陶器を見ながら&烽ゥなければならない。どうも買う≠謔閧熈見る≠アとにウエイトが置かれているようだ。それでもリュックサックを背負って行くという。それに買い込んだものを入れるらしい。いずれにしても、歩くことに関してはまったく心配しなかった。私自身、歩きは苦にならないし、健康にいいと信じているからだ。まあ、そんな話をしながら、たまには家族サービスでもするかという気持ちになったわけである。いよいよその日になったら、おかげで晴れ渡ったいい天気に恵まれた。今年の連休は終盤が雷まで鳴る荒れた空模様になった。それを考えると、わが家族としてはかなり運がよかった。家を7時45分に出発、熊本駅の駐車場に車を置いて、駅に着いたときは8時を回っていた。それから手続きを済ませて35分熊本発の電車に乗った。このツアーのスタートは八代になっていて、すでに何組かのグループが座っていた。
有田陶器市(07/05/05 Sa-1486)
 先月末から交渉のメカニズムについて考えているが、ここでちょっと休憩…。連休を利用して有田の陶器市にいってきた。家内と娘は何回か出かけているのだが、私は初めてのことだった。ひょっとしたら2回目になるのかもしれない。私は小学4年生の夏から中学2年生の1学期まで伊万里に住んでいた。ちょうど4年間である。そのとき一度は有田の陶器市に行った可能性がある。ただし、もう50年近くも前のことになるから記憶は定かではない。伊万里に大河内山という焼き物の里がある。ここに母と、おそらく妹も一緒に出かけたことは間違いない。もちろん、出かけたというよりは連れて行かれたのである。その日は平日で父は仕事だった。その際に、白磁というのだろうか、蓋がついた湯飲みに絵を描いた。それから何日か経って焼き上がったものをもらった。この湯飲みはお気に入りで、ひびが入るまで使っていたことをはっきり憶えている。おそらく中学生のころまであったと思う。バスで行ける近場の大河内山とは違って、有田まではちょっと距離がある。といっても時刻表を見ると伊万里・有田間は現在25分だ。当時はSLだったはずだから小一時間はかかったのではないか。その距離を考えると庶民には中移動≠ナある。そんなわけで、有田の陶器市に行くとすれば父も一緒だったに違いない。そのあたりの記憶はいかにも曖昧模糊としている。まあ、過去の話は置くとして、なにせ連休の最中に出かけるのだから相当の覚悟がいると思った。私は徹底して混雑に弱いのである。何かで評判の店があっても、3人も並んでいると戦意を喪失する。もういいや≠ネんて気分になってしまうのだ。人に酔う≠ニいう言い方があるが、雑踏を歩いていると目が回ってくる。
善≠ニ悪(07/05/04 F-1485)
 ずっと昔の労使交渉のように、はじめから本音を出さないのはお互いに不信感≠ェあるからだろう。どちら側も相手は自分たちの利益しか考えていない。少しでも譲ると調子に乗って押してくる=Bそんな認識があるから、対応も慎重になるし、簡単にYes≠ニは言わない。そんな見方をしていれば本音など言えなくなる。相手を善良な人たち≠ニは考えないのである。人間の本性については性善説≠ニ性悪説≠ェあって、いまでもどちらが正しいか意見の分かれるところだ。誰しもできれば性善説≠ナいきたいという思いがあるだろう。しかし、世の中で起きる犯罪や事件を見ていると性悪説≠烽ワったく否定できない…。よくある曖昧で安易な納得法だが、人間を相反する両極に分類すること自身に無理がある。われわれには高潔な心もあれば、邪悪な精神も隠れている。この上なく優しい父親が戦場では鬼のような行為に及んだりする。第2次対戦時にナチが行ったユダヤ人虐殺の実務的な責任者にアドルフ・アイヒマンという人物がいる。彼は戦後アルゼンチンに逃亡し密かに生活を送っていた。しかしイスラエルの必死の捜査によって特務機関に捕まることになる。逮捕されたとき、アイヒマンには彼の地で生まれた幼い子どもがいた。彼がその子を心から愛していただろうことは想像に難くない。逮捕されたあとも、子どものことを心配していたという。当然のことである。また彼を知る人々の証言によれば、日ごろから控え目でおとなしい人物だったらしい。そのどちらもがアイヒマンの実像なのだと思う。人間は白か黒か∞右か左か∞善か悪か≠ニきっちり&ェけることはむずかしい。それは程度の問題であり、誰もがどちらの要素も持っているのだ。
本音は抑えて(07/05/03 Th-1484)
 労使の交渉で最初は労働者側が無理≠ネ要求を出す。それに対して使用者側が受諾不能≠ネ回答で応じる。本当の金額はお互いに頭においているが、はじめからそれを出すことはしない。交渉のスタートから本音≠出すと、相手に足をすくわれるからである。使用者側になあんだ、そんなに低くていいのか≠ネんて思われたらまずいではないか。そうなると、その程度で満足するんだったら、もっと低くてもいいんじゃないか≠ニ押し込まれる恐れが出てくる。一方で、労働者側がえっ、そんなにくれるつもりなの≠ニ驚くほどの回答だと、今度は使用者側にとってマイナスだ。そんなつもりならもっと出せるだろう≠ニなる可能性が高いからである。まあ世の中の交渉なんてそんなものだと言ってしまえば、それでおしまい。それがある種のゲームのすすめ方≠ナあるのなら、それもいいだろう。しかし、それにしては時間もエネルギーも浪費し過ぎではないか。ともあれ、こうした状況の底には相互不信≠ェある。それが解消されない限り、お互いの無理難題合戦≠烽ネくならない。こうした事態を少しでも改善するために、信頼関係≠築く手立てはないものだろうか。人間はなかなかややこしいものだ。この手の問題に対する解決法があれば、世の中はあっちもこっちも平和で、闘争≠ネんぞはないだろう。しかし、現実はそう単純ではないのである。それでも何とかいい方法を考え続けて行きたいと思う。こんなときキーワードになるのは、やっぱりコミュニケーション≠ナある。自分たちが置かれた状況や問題について、日ごろから情報を交換しておくことが大切だ。それによってお互いに共通する認識が生まれ、相手の立場に対する理解も深まるのである。
交渉の台本(07/05/02 W-1483)
 労使交渉で労働者側が高い要求を出す。これに対して使用者側も同じような発想で対応する。会社の状態や社会の状況を考えると、内心は5,000円くらいかなあ≠ネんて思っていても、いきなり5,000円≠ニいう回答はしない。組合側の要求はとても飲めるものではない。10,000円なんてとんでもない額だ。そんなことしていたら会社が潰れてしまう。現況では3,000円が精一杯であり、なおかつ妥当な金額だ=Bまずはこんな回答になるのである。そこで当然のことながら第一段階の交渉は決裂する。これは結果論というよりも、台本がそうなっていたという感じである。そして、労使ともに自分たちの集団で話をして次の提案を考えて、改めて交渉に臨むのである。そこではお互いにもうこれ以上は譲れない≠ニいう強い意思≠ェ表明される。それでも、2回目ですんなり解決というストーリーは少なかったような気がする。そして、とうとう期限が来ても調整がつかない場合はストライキ突入と相成ったわけだ。ともあれ、まずはお互いにウン≠ニは言わない前提で話が展開するのである。あたかも、最初から合意するようではカッコいい物語にならないかのように…。少なくとも私が高校生から大学生になったころには、世の中がこのように見えていた。その当時、春闘を真剣に闘っていた方々には申し訳ないが、交渉にある種の筋書きがあるようにも思えた。もっと現実的なレベルで話をすれば、ずっとスムーズに解決できるだろうに=Bそんな気分でニュースを見たり読んだりしていたのである。はじめから相手がYes≠ニ言わないレベルから交渉をはじめる。そして相手の姿勢を責めながら、ときには罵倒しながら譲歩を迫る。これが大人の世界なのだろうか。
 4月28日から昨日まで、サーバーが動かずHPがアクセスできませんでした。これに対しては、私としては復帰するまで待つしかございません。もちろん、その間もダウンにめげずに書き続けています。皆さま方も、しっかりアクセスしてください。
ストライキ(07/05/01 Tu-1482)
 当時の国鉄をはじめ公共交通機関のストライキは、一般の人々にも大きな影響があった。労使が交渉を続けるのだが、それには期限が設定されていた。そして時間切れになるとストライキに突入することになる。これが朝の通勤通学時に重なると大混乱するのである。夕刊には線路を歩いて通勤する人たちの写真が載ったりもした。今から考えると、電車が走らないからといって、何で線路を歩くのか、その理屈はまったくわからない。それが近道だったというのだろうか。どう考えても歩きにくいだろうし、安全の面からも、いまでは信じられない光景である。それに、線路を歩く人の方が多かったなんてこともあり得ない。あれもわかりやすい絵≠狙った報道のパターンだったのだろう。もちろん、それはやらせ≠ナはない。しかし大勢ではないものをそれが当たり前≠フように思わせる。そんな手法には気をつけたいものである。写真や映像は真実≠ナはあるかもしれないが、それが大勢≠ナあるかどうかは別の問題である。そんな時代の中で、私が高校生のときもストライキで電車が動かず、歩いて登校した思い出がある…。ところで、労使の交渉には、ひとつの流れがあったように思う。両者とも、すんなりとは妥協できないところから交渉をスタートさせるのである。まず労働側はかなり高めの金額を要求する。それに対して、使用者側はどう見てもウンと言うはずのないレベルで回答するのである。たとえば、社会情勢や会社の状況を客観的に考慮すると月給5,000円くらいの賃上げがまあまあの線だったとする。そうした中で、労働側の要求は10,000円くらいに設定されるのである。金額そのものは8,000円だったりするかもしれないが、とにかく相当に高いレベルになるのである。