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味な話の素
No.47 2007年03月号(1420-1450)
 
法律とこころ(07/03/31-F 1450)
 法律が人のこころを考えていないといえば、専門家は怒るだろうか。あるいはだから素人はかなわない≠ニ嗤われるかもしれない。しかし、その素人が裁判にかかわろうとしているのである。いわゆる裁判員制度≠ナある。その導入は2009年の5月だから、もうあと2年しかない。アメリカに陪審員制度≠ェあることは多くの人が知っている。映画などを通して知る限り、この制度では陪審員が有罪≠ゥ無罪≠判断するだけのようだ。最終的な刑期などはプロの裁判官が決める。ところが日本の場合は、死刑≠ゥどうかまで判断するようである。このあたりは、素人としては相当に過激な印象を受ける。なにせ法曹界といえば、東京帝国大学を頂点にしてこの世の司法を牛耳ってきた。それこそ、素人など寄せ付けない権威主義の牙城だと思っていた。それがまた、なんともすごい転換をするものではある。レースで言えば、アメリカよりも先に飛び出したという感じがする…。さて、そもそも法律は可能な限りこころ≠排除しているように見える。むしろそうでないと、法律の存在意義がないかのようである。人のものを盗んではいけない=Bこれは世間の常識だが、法律では刑法第235条に次のようなことが書かれている。他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する=Bこの条文そのものには、他人の物を盗んだ者の境遇≠竍気持ち=Aそのときの状況≠ネどについては何も書かれていない。もちろん、世の中で起きるすべての犯罪について、その状況を書き込むことなど不可能である。だから、法律は基本的なことだけを決めていて、現実の問題については、裁判官が考えてよということになっているのだ。
因果関係3割(07/03/30-F 1449)
  昨日、2つの新聞の社会面を広げると、30%∞3割≠ニ言う見出しが目に入ってきた。8年ほど前に、一人の若者がリンチによって殺害されるという不幸な事件が起きた。本人の行方が分からなくなったあと、父親は警察に捜査を依頼したが、まともに対応してもらえなかった。そのため、息子は殺されてしまったということで、損害賠償の裁判になった。この点については裁判所も警察側の過失を認めている。もちろん、詳しい事情は分からないから、コメントにも限界があるが、見出しの30%∞3割≠ノは引っかかってしまった。裁判官は、警察が仕事を怠ったことは認めるが、そのことが殺害に結びついたかどうかに疑問を投げかける。そして、仮に警察が親の要請に応えて捜査していたとしても、被害者を救えた可能性は3割程度≠セったというわけである。この3割≠ニいう数字はどこから出てきたんだろう。どう考えたって科学的な根拠などありそうにない。そもそも、そんな確率なんて計算のしようがないだろう。そなると、30%≠ヘ、裁判官がただそう思って≠セけということか。素人はここでウーン≠ニうなってしまうのである。しかし、裁判というものは、われわれの常識とはかなり違うようだ。おそらく、この裁判の争点は因果関係≠セったのだろう。それを認めるかどうかで、損害賠償の額が決まる。因果関係が100%であれば、原告の要求通り。もし因果関係がなければ賠償は無しということになる。だから裁判官としては、そこで割合を決めないと損害賠償の額も定まらない。それでは判決が出せないから、やむを得ず数値化したのではないか。法律というのは、きわめて技術的なもののようで、人のこころ≠ネどはあまり考えていない。
資格取得はスタート(07/03/29-Th 1448)
  ISOに限らず、資格のようなものは取得=スタート≠ニ考えた方が無難なようだ。われわれ人間だって、生まれるまでも大変だが、生まれたあとの方がもっと厳しいのである。人から聞いた話だけれど、ISO にしてもマニュアルや手続きの整備を評価するものであるのなら、なおさらのこと。取得後のアクションや態度の方が大事なのである。あのあるある≠フ放送局も、過去の番組をチェックしたら、ややこしいのが16件もあったという。どこかでこりゃあおかしい∞なんかおかしい≠ニ気づかないとお話にならない。何といってもプロなんだから。放送局は番組製作を外部の小さな製作会社に丸投げして、それを買い取っているものがけっこう多いらしい。さまざまな理由から、そうした方法も仕方がないところがあるのだろう。しかし、それならそれで、キチンとチェックしないといけない…。とにかくこの世の中は、信じがたいことが平気で起きている。しかし、その原因を探ってみると、じつに単純なものが多い。しなければならない≠アとをしていない=Bただそれだけのことなのだ。ところが、われわれ人間には、それが最もむずかしいらしい。不二家は山崎パンの傘下に入ったようだ。そして、品質管理≠フノウハウを学ぶという。それは、それで一件落着、けっこうなことだ。ただ、山崎パンのノウハウはアメリカから取り入れたんだそうな。そのきっかけは、ここでも過去に問題を起こしたことがあって、その後に導入したという。まあ、素人だから何ともいえないけれど、どうしてアメリカ製なんかなあ≠ニ思ってしまう。高品質≠ヘものづくり%本のトレードマークじゃなかったのかしらね。いわゆる成果主義≠焉Aアメリカ製なんでしょうかね。
法令遵守?(07/03/28-W 1447)
 不二家に限らず、このごろはコンプライアンス≠フ問題が際だってきた。このcomplianceは、法令遵守≠ネどと訳されている。まあ、法律を守る≠フは当然のことだが、それができないわけだ。しかし、法令遵守≠ニいってしまうと、問題も起こる。法律に反しなければ、何をやってもいい=Bそんな発想をする人間が出てくるからである。もう随分前から叫んでいるが、もともと法律なんてものはないほうがいいのである。人々がお互いを思いやり、他人から強制されなくても約束を守る。それが理想の姿なのだ。しかし、そればかりではややこしい人も出てくるから、やむを得ず法律を作らなければならなくなってしまった…。この順番を間違ってはいけない。社会の規範や約束事、もっと簡単には常識に従うことは当然なのである。もっとも、cpmplianceなんてことばが出てきたところを見ると、海の向こうでもややこしい人がワンサかいるんだろうと思う。ともあれ、今回の不二家問題を通して学んだことがある。それは、われわれとしては、資格や免許は基本的な条件を満たしたものだと考えた方がいいということだ。むしろ大事なのは、資格取得後の仕事の内容である。そう言えば、放送だって免許制≠セ。なにせ電波は目に見えないが、限りある国民の貴重な財産である。そんなわけで誰もが勝手に使っては混乱する。そこで国が免許を与えた者だけが放送業を営むことができるのである。放送ほど、多くの人々に影響を与えているものはない。だから、その放送局が、やらせ≠竍インチキ≠ネ番組をつくっていてはお話にならないのである。しかし、こちらのコンプライアンスも怪しい状況だ。あんな事例があっちでもこっちでもあるある≠ナは困ってしまう。
認証問題(07/03/27-Tu 1446)
 今回の不二家のような問題が起きて、ISOを認定した機関は相当に困ったことだろう。しっかりチェックしていなかったのではないかと疑われるからである。そのためだろうか、経済産業省は認定団体に、不二家の事情を確認するよう要求している。その結果、登録の一時停止などの措置が取られたということだ。不二家側がチェックの際にうまく取り繕っていたのか。それとも、認証する側が問題を見抜けなかったのか。このあたりの実情は知るすべもない。しかし、少なくともチェックする側の責任だって問われるに違いない。そもそも、工場が認証に価したのかという疑問まで投げかけられる。誰だって責められるのはつらい。しかし、それは社会的に重要な仕事をしているという証でもある。ここはしっかり受け止めて、今後のあり方を考えることである。今回の問題が理由で、これからは認証体制が厳しくなるのだろうか…。ともあれ、認証した側としてはちゃんと、することをしてくれておけばいいのに…=Bそんな文句も言いたくなるところだろう。しかし、そこがなかなかうまくいかないから世の中はややこしい。何分にも、このごろのわが国では、どこでもここでも基本的な約束を守る≠アとができていない。みんなが決められたことをちゃんとやる≠セけのことなのに、それができないのである。そうした約束事の中には、組織にとってまずいことがあっても、それを隠さないことも含まれる。それは、いわゆるコンプライアンスの問題でもある。しかも、このごろは一時的≠ネ問題回避が致命的な組織の崩壊に繋がることが多い。むしろ組織を防衛≠キるためには、自分たちの問題点を少しでも速くオープンにすることだ。今や、その方が有利に働く時代なのである。
品質管理査≠フ品質管理(07/03/26-M 1445)
 ISOを取得しても、継続的に改善の努力を続けなければならない。ご承知の方には当然のことだろうが、私としては基本的で大事な情報をお知らせいただいた。あまり立ち入るといけないが、情報をお送りいただいた方にはお嬢さんがお二人いらっしゃる。この3月には、大学と高校入試にチャレンジされたとのこと。そして、無事にご希望されていた学校から合格のお知らせを受けられたようだ。まことにおめでとうございます。とくに、大学生になられる娘さんは、わがホームページの10万件目ゲットを目指してお手伝いをしていただいたはずである。しかし、残念ながらそのときはうまくいかなかった。それをそのまま引きずることなく、入試には合格されたというわけである。これからは、大学生として、私のホームページのアクセスカウンター増進キャンペーンにご参加いただけるとありがたい…。さて、さてISOは認証後もチェックが入ることが明らかになった。そうなると、そのチェックそのものの品質も課題になるのだろう。認証機関としても、今回の不二家さんのような事例が出てくるのはまずいに決まっている。品質管理≠チェックする品質管理≠ェ必要などというのは皮肉な話ではある。しかし、これを言い出すと、もうことば遊びというか、グルグル周りで目が回ってしまう。とにもかくにも、個人であれ組織であれ、それを正しく評価するのはじつにむずかしいものである。評価される側としては、OKを取るために何とかしようとする。まずいことがあっても、ちょっとごまかそうか≠ニ心が揺れる。職場の仲間にも、面倒を避けたいから、少しくらい、いいんじゃない≠ニいった雰囲気が生まれる。それを外部から見抜くのは、大変なことではある。
継続審査(07/03/25-Su 1444)
 ISOについて情報を教えていただいた愛読者の方は、九州外にお住まいである。とにかく、ご熱心に味な話の素≠読んでいただいている。ホームページのアクセス・カウンタも、まず5万件目をゲットされた。その次の大台である10万件目も狙っていただいたが、これは一瞬の差で逃されたようだ。何分にもご自分のお仕事があるので、高校生のお嬢さんにもゲットの指示を出されていたという。それでも、10万はうまく取れなかったというお知らせをいただいた。昨年の5月19日のことである。このときは、熊本の中学校の先生がゲットされた。次の大台といえば、やはり11万や12万ということだろうが、もっとおもしろい数値もある。たとえば、111111や123456である。じつは、この両者とも、ここでご紹介している方がゲットされたのだ。そして、つい先だっては13万件目獲得のお知らせが届いていた。翌日はお嬢さんの高校入試だとのことだった。そして間を置かずに、つい先日ISOについてメールをいただくことになった。ご自身が以前にISO認証にに関わられたとのことである。それによると、ISO取得後も毎年、継続審査が行われているという。したがって、ISOを取得しただけではOKではないのだ。たしかに、情報をいただいてみると、それはそうなんだろうなと思う。資格の出しっぱなしでは無責任だと言われるかもしれない。そうだとすれば、不二家では何が起きたのだろうか。今回の結果だけを見れば、不二家の工場ではISOの認定に伴って求められる継続的な改善がなされていなかったことになる。それに対して、認定した側も問題点を十分にチェックできなかったわけだ。そうなると、今度は認定する側のあり方に焦点が当てられることになる。
長崎アプローチ(07/03/24-Sa 1443)
 さてさて、不二家さんがISOを取得していたのにトラブってしまった話から、長崎造船所の話題にまで広がってきた。このままいくと、脱線から復帰できなくなる。長崎造船所におけるアプローチについては、まだまだ具体的な事例がたくさんある。そのどれもが、今日の組織の安全や不祥事問題を考える上で、大いなる示唆を与えてくれる。そんなわけで、この件は改めてじっくり情報を差し上げることにしたい。もっとも、映画明日の記憶≠見ながら、あれは私の記憶≠ナはないかと自問自答した私だ。ちゃんと憶えていればいいのだけれど…。ただし、ここまで来たからには、長崎での研究において重要な役割を果たされた高禎助氏のお名前だけは記しておかねばならない。その当時、高氏は集団力学研究所の副所長を勤めておられた。そのお立場で、数年間に渡って造船所に出向され、運動を推進されたのである。私は高氏が指導されていた調査や研修に参加することができた。そのものすごい迫力を目の当たりに見て、私はトレーニングというものに魅了された。そして、それがそのままトレーニング≠仕事にすることへと繋がっていったのである。ともあれ、安全≠旗頭にした長崎の運動は、明確な目標のもとに、全員が一丸となって取り組んだ。。その結果として、組織全体がすばらしい成果を手にすることができたのである。それは1970年代、日本も随分と元気がよかった。いまでは造船も韓国などに押され気味であるが、安全運動≠ヘ世界に誇るアプローチだった。さて、このところ話題にしているISOについて、ある方から貴重な情報をお知らせいただいた。本コラムを開始して間もなくから、ずっとお付き合いいただいている、ありがたい読者のお一人である。
安全運動の展開(07/03/23-F 1442)
 三菱長崎造船所の「全員参画による安全運動」の実践は、資格取得≠ニはまるで無縁のものだった。しかし、その展開によって事故が減少したことはデータが明らかにしている。しかも、小集団を主役にしたさまざまな活動は、本来の目的である事故を減少させただけではなかった。それは働く人々のエネルギーを引き出し、予期せぬプラス効果をもたらすことになる。船は何枚もの鉄板を溶接によって繋ぐことによって造られる。その際につなぎとして使われるのが溶接棒である。溶接棒を溶かしながら仕事を進めるから、次第に短くなっていく。そのうち、もうこれまで≠ニいうくらいの長さになればご用済みというわけだ。安全運動の進展に伴って、この仕事に変化が見られるようになった。溶接棒を廃棄するときの長さがドンドンと短縮していったのである。それまでは、けっこう長い状態でも捨てていたものを見直そうという機運が高まったのだ。まだ使える≠ニいうわけである。これは、安全運動がコスト意識にまで拡大した現れの一つである。その他にも、こうしたアイディアや提案が働く人々から溢れるように出てくることになる。ある職場では、自分たちのグループが関わった証として、関連部分にシールを貼ることを決めた。これは私たち○○班がつくったものです=Bそんなシールをつくったのである。それは会社から要求されたことではなかった。もちろん、なんとか資格≠フ認定を目指したものでもない。それは文字通り自主的な品質保証≠ナあった。こうした具体的なアクションは、職場の人々の仕事に対する意欲と誇りが形となって現れたものなのだ。意欲は見えない∞誇りなんて測定できない=Bそんな嘆きは、こうした事実の前には雲散霧消する。
資格と目標(07/03/22-Th 1441)
 不二家の工場がISOを取得していたと聞いたときはガックリきた。しかし、ISOについては誤解があるという人がいた。その方の話では、ISO は品質や環境に対するマニュアルや手続きが整備されているかどうかがポイントになるのだそうな。つまりISOを取得したことと、その結果として期待される品質保証や環境配慮の成果とは直結しているわけではないという。素人の悲しさで、私はそんなこととは思いもよらなかった。その発言をされた方の情報が100%正しいのかどうか分からない。しかし、そうだとすればなあんだ≠ニいう気持ちにもなる。われわれの感覚から言えばマニュアルや手続きがしっかりしているだけでは品質や安全の保証はできない≠アとは常識だからである。もちろん、ある種の資格を取るために職場の人々が同じ気持ちで前進することによって、最終的な結果が望ましいものになることはある。こうした実例は、世の中ではいくつも見ることができる。しかし、それは何も資格取得≠ノ限ったことではない。働く人々が一丸になって挑戦できる明確な目標≠ェあればいいのだ。私が20代前半の駆け出しのころ三菱重工業長崎造船所のプロジェクトに関わりを持たせていただいた。その当時、船穀工作部で掲げられた目標が全員参画による安全運動≠フ展開であった。事故が起きれば会社が損失を被る。だから安全が大事なのではない。そうではなくて、働く一人ひとりにとって欠かせないものが安全≠ネのである。安全≠ヘ、職位や職種を越えて全員≠ェ参画して無条件にチャレンジできる目標であった。その成果は、事故の減少だけでなく、コスト意識の向上や出勤率の改善など、スタート時には予想していなかった効果も生み出していくのである。
資格と品格(07/03/21-W 1440)
 教員免許がなくても学校の校長なれるという、学校教育法の施行規則が改正されてから、少しずつではあるが、民間出身の校長が増えてきた。熊本県でも、この4月から銀行出身の方が校長に就任することになっている。熊本県としては第1号である。さてさてさむらい商法≠フ話題に戻ると、とにかく世の中には、あれやこれやといろんな資格があるようだ。その中には、単なる金儲けのためにつくられた、いい加減なものだってある。何でもかんでも資格≠ウえ持っていればいい。そんな気持ちではまずいのである。博士号などもいわゆる資格≠ネのだろうが、夏目漱石が文学博士号≠フ授与を辞退したことはよく知られている。さすが文豪の漱石と言うべきか、世俗の評価なんぞには我関せずという大いなる自信の表明でもあったのだろう。なんと、かくいう私もじつは博士号≠持っているのである。しかし、そのスケールの小さいこと、小さいこと、漱石とは月とスッポンである。いやいや、私と比較≠キること自身が漱石先生に対する大いなる無礼というものである。もっとも、この博士号≠ノついては、けっこうおもしろい話のネタがある。そのうち、思い出したら取り上げることにしよう。とにかく、個人にしても組織にしても、資格≠持っているだけでは何の意味もないのである。そう言えば、降って湧いたような耐震偽装問題≠ヘ、世の中を驚かせ、人々の不安をかき立てた。あれも中心人物は文字通り一級建築士≠セった。こんな事件≠目の当たりにすると、資格≠ヘ人格≠竍品格≠ニはまるで関係がないことが分かる。ここで取り上げているISOだって、取得後にいい加減なことをするようでは、偽装≠セと責められても反論できない。
さむらい商法(07/03/20-Tu 1439)
 ひところさむらい商法≠ニいうものが話題になったことがある。○○士≠ニいう資格を取るのが流行ったのである。世の中にはすでに弁護士や公認会計士、建築士など、国が認定する資格がある。ここで使われている士≠ヘ武士の士≠ナあり、さむらい≠ニも読む。そこで○○士≠フ資格を取りませんかと売り込んでくるものをさむらい商法≠ニ呼んだわけだ。われわれ心理学の領域でも臨床心理士≠竍学校心理士≠ネどがある。ご参考までに申し上げれば、私は何の資格も持っていない。免許といえば運転免許だけである。その運転免許だって、若いころの志では持たない≠ツもりだった。まあ、このあたりの顛末を書き始めると、いつものように脱線したまま帰ってこられなくなる。いつかこの話題を思い出すことがあれば、そのときに詳しくお話ししよう。ついでに言えば、私はとりあえず教員なのだが、教員免許は持っていない。大学の教員は免許がいらないのである。そんな私が数年前にはなんと附属中学校の校長≠した。まさに無免許校長≠ナある。もっとも、これはルール違反ではない。2000年に学校教育法の施行規則が改正され、教員免許を持たない校長もOKになったのである。そんなこともあって、私も無免許ながら校長として2年間を過ごさせていただいた。校長なんて夢にも思わないことだったが、とても楽しい時間を過ごすことができた。修学旅行にも出かけるなど、私にとっては一生の思い出に充ち満ちている。無免許ではいかにも危なさそうだが、心配はいらない。そもそも教育学部の附属学校には副校長と呼ばれるプロの校長先生がいらっしゃるのである。それも実力抜群の方々なので、実務的な運営で支障をきたすことはないのだ。
認証と保証(07/03/19-M 1438)
 今回の事態を受けて、不二家は山崎パンから品質管理の指導のもとで再生を図ることになった。それはけっこうなことだが、このニュースは何となく引っかかりを感じてしまった。実際に問題を起こした工場と対応しているかどうか確認していないが、少なくとも不二家のある工場はISO9000や14000の認証を受けていたという。それが今回のことで是正勧告や一時停止の措置が取られたようだ。私はISOについては詳しく知らない。ただ、9000は品質管理、14000は環境対応に関するものらしい。それらが認証機関から要求される基準を満たしていれば、めでたくISO資格が取得できる。そう受け止めていた。たしかに、最近はISO○○○○認証≠ニいった看板を掲げているところが少なくない。あれを見ると素人は、ここはしっかりしているんだな≠ニいう印象を持つ。もっとも何が#F証されているのかを知らない人も多いとは思う。しかし、とにかく何かしらプラスのイメージを持つことだけはたしかである。しかし今回の不二家の例を見ると、看板だけでは、そのあたりが怪しくなってくる。私なんぞは、将来、すべての組織でISO が認証されたら、世界中で駄目な品質のものはなくなるのかしらね≠ネんて思ったこともある。地球の環境はバッチリになるのかいな≠ニ考えたりもした。いずれも、少しばかり皮肉な疑問ではあった。これに対して、あれはマニュアルが整っているかどうかが基準で、その結果まで保証するものではないんですよ≠ニ教えてくれた人がいた。そのときは、なあんだ、そうなのか≠ニいささか驚いた。そしてガッカリもした。それが本当なら、認証≠ェただちに製品の品質や環境対応を保証≠オてはいないことになるからである。
こころのメカニズム(07/03/18-Su 1437)
 不二家がISOを取得していたという話から、運転免許証の話題に広がった。いずれにしても、運転免許証は運転に求められる最低の基準を満たしたことを保証しているだけだと考えた方がいい。その上、免許を取得したときの状態が維持されるとは限らない。たしかに、運転していれば運転するというスキルは上達するだろう。しかし、それが裏目に出ることもある。うまくなった分だけ、違反できる力が身に付いたということでもある。これはこころの余裕≠ナはあるが、これは鬼っ子だ。こうなると、法律や決まりが胡散臭く感じられてくる。そして、少しばかり違反をしても事故なんて起きないさ≠ネんて気持ちが生まれる。それにどうせ見つかりはしないぜ≠ニいう悪魔の声まで聞こえはじめる。もちろん、その悪魔はわれわれ一人ひとりのこころの中に住んでいるのである。そして、いつかは取り返しのつかない重大な事態を引き起こすことになる…。これは組織における不祥事≠竍事故≠起こすこころのメカニズム≠サのものである。そう考えると、いわゆる認証≠ネどと呼ばれる制度についても、こうした状況がピッタリと当てはまるのではないか。不二家が取得していたISOについても、同様のメカニズムが働いた可能性もある。それは運転免許と同じで、認証を取るまでは必死≠ノ頑張るが、取ってしまえば甘くなる≠ニいう心理である。そんな問題も前提にしているためか、運転免許は更新制になっている。もっとも、視力などに致命的な欠陥でも見つからない限り、まずは誰もがパスしているように思われる。国民皆免許ともいえる状況だから、更新に時間をかけるわけにもいかないのだろう。こころ≠ノまつわる問題は、いつの時代も悩ましい。
後追いと抜け駆け(07/03/17-Sa 1436)
 法律は原則として後追いである。それは仕方のないことだ。あらかじめ特定の犯罪を予想して、それを罰する法律をつくるわけにはいかない。そんなことをしていたら、法律が人々を抑圧する道具になる。歴史はそのことをいやと言うほど教えている。このコラムでも幾度となく書いてきたが、本当は法律や規則はないほうがいいのである。それは外的な規制であり、強制だ。そんなものに頼らずに、みんなが自主的に常識的な行動をする。それこそが万物の霊長≠ナある人間ではないか。いやあ、何とも懐かしいことばを思い出してしまいましたよ。万物の霊長≠ネんて、この前はいつ使っただろうか。しかし、考えてみると、万物の霊長≠ニは、じつに不遜≠ネ言い回しだ。リーダーシップに関する研究では、自己評価はあまりあてにしてはいけないことになっている。しかも、このごろは、自分のことを万物の霊長≠ニ呼ぶ資格があるかどうかも怪しい情勢だ。なるほどそうか。だからこの不遜なことばを誰もが使わなくなったのか。いずれにしても、人間も数が増えてくると、法律なしでは社会が動かなくなる。人を欺いて抜け駆けするような人間たちが出て来たりするからである。このごろ話題になっているプロ野球の西武問題も、抜け駆け≠フ典型例だ。そして時間の経過とともに、ほころびが出る、ボロが出る。もちろん、他の球団がこの種のインチキをまったくしていないというのが前提ではあるけれど。ともあれ、駐車禁止の徹底化も、法令が施行された1週間程度は大いにニュースになっていた。しかし、それも時間の問題である。あっという間にニュースの賞味期限が切れてしまった。そして、現状はといえば、もう野放し状態である。なんとも徹底していない。
資格の性格(07/03/16-F 1435)
 不二家の工場がISOの認証を受けていたという事実は、いろいろなことを考えさせる。今回の事件≠ェどうして起きたのか。その原因について二つの可能性が頭に浮かんだ。第一は、ISOの認証を受けた時点では要求されていた基準を満たしていた≠ニいう前提に立った場合だ。そうだとすれば、問題は認証後に起きたことになる。めでたく認証を受けた後に、当事者たちがいい加減な仕事をした。そのために、大きな問題が起きてしまったというストーリーだ。一般的に資格≠ニいったものには、こうした問題がついて回る。これは宿命的なものかもしれない。卑近な例としては運転免許証がある。世の中には、免許証を持っていなくても運転がうまい人間はいくらでもいるだろう。そんな人は、ペーパードライバーよりも安全な運転ができるかもしれない。しかし、われわれの社会には約束というものがある。運転免許証がなければ車を運転してはいけないのだ。それは運転技術がうまい∞下手≠フ問題ではない。だからこそ、誰もが運転するために免許を取るのである。しかし免許証を持っていることは、上手な運転ができる≠アととイコールではない。ましてや、人に対する思いやりや人間性などと免許証はまるで無関係なのである。その証拠には、あれだけ悲惨な事故が報道されても、相変わらず飲酒運転はなくならない。スピード違反や信号無視は日常茶飯事のこと。さらには運転中の携帯電話に駐車違反…。まさに道路上は違反のオンパレードではないか。私が見る限り、携帯電話の使用委禁止など、そんなもんあったんかいな≠ニいうのが現実だ。まあ、重大事故でもあったら、また大いに問題になるから、一応は法律を作っておこうか£度のものだったのかしらね。
不二家問題(07/03/15-Th 1434)
 今月の4日まで、質問紙調査のあり方について連載していた。本欄を継続して読んでおられる方は、その話題のもとが1月21日にまで遡ることをご存じかもしれない。すぐに話題が逸れて脱線を繰り返す。それこそが味な話の素≠フ大特徴なのだが、私としては記憶にある限りは、復活もしたいと思う。そのきっかけは、不二家さんの賞味期限切れ材料の使用問題だった。その不二家も、ようやくお菓子の生産を再開することになったという。私なんぞも、ペコちゃんとポコちゃんのミルキーになじんだ世代である。個人的には、しっかり再生してほしいと思う。もともと日本人は潔癖で、ものごとに対する要求水準が高い。賞味期限なんて過ぎていても、それがただちに健康を害することはないのだろう。しかし、だからといって、ルール≠守らなくてもいいということにはならない。自分たちで決めたことは頑なに守る=Bこれが大事なのである。もし、そのルールが問題だというのなら、ちゃんとした手続きを踏んで変えればいい。それを実害がないからいいんじゃないの≠ネんて言ってると職場ごと転けるのである。そうした精神構造は、他の領域にも容易に伝染する。そんなら、これだっていいんじゃないか=Bそんな逸脱現象があっという間に広がっていくのである。今のように、成果≠セの効率≠セのが強調されるご時世では、そうした誘惑の声はいつでもどこでも聞こえてくる。ともあれ、質問紙物語を連載するきっかけは不二家さん問題だった。その後は、名の知れた食品メーカーが、今のうちとばかりじつは…≠ニいうお詫びをしはじめた。それも半端な数ではなかった。そんな中で、不二家の工場がISO≠フ認証を受けていたことが目に止まったのである。
特急の定義(07/03/14-W 1433)
  JNRの3文字をデザイン化した国鉄のマークはなかなかカッコよかった。そう言えば、鉄道警察≠ナある公安官≠ェ主人公のドラマもよく見ていたものだ。さて、今回のシリーズは土曜日から始まった。きっかけは博多発20時40分発の有明≠ノ乗ったことだった。じつは、そのときはリレーつばめ≠ニ書いていたが、これは有明23号≠フ間違いだった。この電車は22時07分に熊本に着く。所要時間は1時間27分である。最も速い特急だと1時間13分ということだから、かなり遅い。それはそうだろう、止まる駅が半端ではないのだ。博多を出ると、つぎは二日市。そして、鳥栖・久留米に止まる。それから、羽犬塚・瀬高と止まっていく。この2つの駅の間は5分である。距離は6.1Kmになっている。さらに特急は大牟田に止まって福岡を離れ、熊本にはいる。そしてすぐに荒尾になる。この間は4.1Kmで所要時間3分だ。それから6分で長洲である。ちょっとくどいが距離は7.8Km。それから6分走ると玉名に到着する。玉名を出ると15分ほどかかって上熊本に着く。すでに10時を回っている。そして、いよいよ待ちに待った熊本駅ということになる。有明23号≠ヘ博多・熊本間で10駅に止まったのである。もうけっこう遅い時間だ。そんなことで、できるだけ多くの人に利用してもらうために多くの駅に止まるのは大事なことだと思う。それには何の異存もない。しかし、これを特急≠ニ呼んでいいのだろうか。そんな疑問が湧いたのである。土曜日に特急や急行などの定義を書いたが、これはせいぜい急行℃~まりだろう。特急≠ニいって特別料金も払うから気になるのだ。理由は知らないが、いつのころからか鹿児島線から急行≠ェ消えた。
JRの成人式(07/03/13-Tu 1432)
 ともあれ三等≠ヘ、庶民的と言えば聞こえがいいが、要するにあまり上等≠ナはないものに付けられる呼称だった。そして私が子どものころは、国鉄の列車は一等車から三等車までに分かれていた。それがそのうち三等車がなくなって、二等車制になったと思う。このときは、自分たちのような庶民が二等車≠ノ格上げされたような気分になった。子ども心にそんな思いがした記憶がある。もっとも、そのときは名称が変わっただけで、列車の仕様が飛び切りグレードアップしたわけでもなかったのではないか。ただし、その点については、しっかり憶えているわけではない。ひょっとしたら、関係者の方からちゃんと上等になったんだぞ≠ニ叱られるかもしれない。さらに、その後に何等車≠ニいう呼称がなくなって、グリーン車≠ニ普通車≠ノなった。グリーン車≠ェ登場したのは1969年だという。昭和44年のことだ。われわれのような団塊世代の感覚からいえば、そんなに昔の話ではない。たかだか38年前のことである。そう言えば、国鉄がJRに変わったのは1987年4月である。だから、あと3週間足らずでJRさんも満20歳の誕生日を迎える。晴れて成人になるわけだ。このごろの大学生には、JRは昔は国が保有していて日本国有鉄道=国鉄≠ニ呼ばれていたことを知らない者が多い。それも仕方ないかもしれない。もう20年が経過しているのだから。今はJRだが、昔はJNRだった。英語のJapan National Railwaysの頭3文字を取った略称だ。JapanをJapaneseとしているものもある。しかし、国鉄自身はJapanを使っていたと思う。それに、日本航空は間違いなくJapan Airlinesである。やっぱしここはJapan≠フ方がいいですよね。
鈍行列車(07/03/12-M 1431)
 とにかく、三等≠ヘ一般的にパットしないものを指すときに使われた。小学校の先生が、日本は一等国だったけれど、戦争に負けて三等国になった≠ニ言っていたことも記憶に残っている。この発言の適否には議論もあるだろうが、子ども心に日本の現状を知ったような気がしていた。三等国ならまだいいが、鈍等国かもしれんな≠ネんて追加まであったような気もする。いまでもJRの普通電車を鈍行などと呼んだりしている。足の速い俊足≠ノ対して鈍足≠ニいうことばがある。これに電車などを対応させると、一方が特急や急行に当たるから、全部の駅を止まる方を鈍行≠ニ言うようになったのだろう。優れた力を持った人を賞賛するのはけっこうなことだ。しかし、それに対して普通≠フ力を持っている者に鈍≠ニいう、否定的なニュアンスを含んだことばを付けるのはどうかと思う。もっとも、このごろは渡辺淳一氏が鈍感力≠ニいうタイトルの本を出して、鈍感さ≠フ効用を説いているようだ。鈍≠フ応援団長が登場したのだ。さすがに小泉純一郎さんである。この本をさっそく取り上げて阿部首相を激励したらしい。支持率の高低なんかに気を使うな。鈍感力が大事だ≠ニいう趣旨だったという。それはそうなんだろうけれど、渡辺さんだってすべてに鈍感であれ≠ネんて言ってるわけでもないだろう。人間には敏感≠ナなければならないこともある。人を傷つけても何も感じないようでは困るではないか。飲酒運転をしてもいいんじゃない≠ナはまずいに決まってる。誰もがそうだとは思わないけれど、政治家の皆さんは、どうも鈍感の対象が一般庶民よりも相当に幅広いように感じる。もう少し感受性≠磨いて欲しいんですが、いかがでしょうか。
三等車(07/03/11-Su 1430)
 特急:@特に急ぐこと。大急ぎ。大至急 A特別急行の略。 特別急行:普通急行よりも速い列車。特急。 急行:@急いで行くこと。 A急行列車の略。→対義語:鈍行 鈍行:各駅停車の列車・電車の俗名。普通列車。 急行列車:乗降客の多い主要な駅だけに停車し、高速で運行する列車。急行。快速: @気持ちがよいほどに速いこと。 A快速電車の略。 快速電車:普通電車より停車駅を少なくして速く走る電車。快速。(すべて、スーパー大辞林電子版) リレー特急つばめ≠ノ乗った後で、特急≠フことを知りたくなった。そこで自宅に帰ってから電子辞書を引いてみたのである。この話は3日くらい続くような予感がする…。まずは、私が子どものころの思い出。昔の列車には、一等車から三等車までの区別があった。もちろん庶民が乗るのは三等車だった。この「三等」ということばは、人を揶揄するようなときにも流用されていた。たとえば、森繁久弥や三木のり平、加東大介らが演じる喜劇映画に「三等重役」なんてものもあった。女性好きで浮気病の森繁社長を中心に物語が展開する。森繁に代表される「重役」は、まさに名ばかりで、人格レベルは相当に低い。そこが滑稽でコメディになるのだが、現実にもその程度の人物が実在していたに違いない。人は他人のことを見て大いに笑う。まあ笑いは健康にもいいからけっこうなことではある。しかし、スクリーンの人物が、じつは自分が鏡に映った姿なんだということには、ほとんど気づかない。ともあれ、あまり高級とはいえない人物に「三等」という呼称を付けていたわけである。それにしても記憶は定かではないが、映画は全編が今ならセクハラにパワハラといわれるようなセリフや行動に充ち満ちていた。
ざつもくりん(07/03/10-Sa 1429)
 時間が迫っている。あと1つだけなのに、これだけは見たことがない。その他のものにはかなりの自信がある。しかし、これだけがどうにもまずい…。それは国語の試験中のことである。小学校4年生の2学期だった可能性が高い。なぜなら、私はその年に福岡県の行橋市から佐賀県の伊万里市の学校に転校していた。県が違ったために教科書も異なっていたのだろう。とにかく見たことがない漢字が目の前にあった。その読みを書かなければならない。それがわからないのだ。その漢字は雑木林=Bしかし、ここで空欄のままにしておくことはできない。そこで、私は苦し紛れにざつもくりん≠ニ書いたのである。これは、1個1個の漢字の読みとしては間違いなかった。しかし、音にしてみるとざつもくりん≠セ。何とも変な音ではある。もちろん聞いたこともなかった。どう考えたっておかしい。しかし、それでも書かないよりはましだ。そんな精神状態だったのだと思う。もちろん、後になって、それがぞうきばやし≠ニ読むことを知った。そのころ、雑木林の意味を十分に理解していたわけではない。しかし、少なくともぞうきばやし≠ニいうことばがあるのは知っていた…。こうして、私は大いなる失敗をしたのである。もちろん、そのとき以来、雑木林≠フ読みを間違うことはなくなった。それは当然のことではある。しかし、雑木林℃膜盾ヘ、私に失敗することの大事さを教えてくれている。ものごとに成功したときの喜びは何物にも代え難い。その一方で、失敗した際に感じる一種の恥ずかしさやドッキリ体験も、また人生には欠かせないのだ。それも時間が経てば、すばらしい思い出になる。私のこころの中では、いまでもざつもくりん≠ェ息をしている。
GDP≠ゥらGDH≠ヨ(07/03/09-F 1428)
 GDP≠ノは家事労働やボランティア活動が含まれていないという。その理由はよくわからないが、それらには金銭のやり取りが伴わないからだろう。いわゆる付加価値≠ェないというわけだ。もちろん、だれも無価値だと言ってるわけではない≠ニいう反論があるだろう。ただ経済的な面から見ると付加価値を生み出さないだけだ…=Bしかし、国の政策決定にも、GDPはそれなりに影響を与えているのではないか。国民にとって本物の価値≠ニはどんなものか。そろそろ発想の転換をする時期が来ていると思う。純粋な統計ではどうか知らないが、目や耳に入る限り、最近は殺人事件が多発している。殺人事件が起きるとどうなるか。ここで被害者の損害を金銭に換算するのは不謹慎だから止めておこう。まずは警察が捜査をする。そのために物的・人的にさまざまな経費がかかる。幸いにも犯人が捕まる。そうなると裁判が行われる。裁判中は拘置所が、判決後は刑務所が必要になる。これらに必要な費用はGDPに含まれているのではないか。また、モノを作るために環境が汚染されたとする。するとそれに対応する必要が出てくる。こちらもGDPに入るのだろうか。もしそうなら、メチャメチャにおかしいと思う。世の中で、事故や事件が増えるほどGDPも大きくなるというのである。やっぱり変ですよね。そろそろゼニ≠謔閧熨蜷リなものを付加価値≠ノ算入することを考える時期に来ていると思う。たとえば、Happiness≠入れた国内総幸福GDH≠竍Safety≠重視した国内総安全GDS≠ネどを追求するのである。このごろの状況を見ると、心の健康だって大切だ。それなら、GDH≠フH≠ヘHealth≠ニ重ねてダブルH≠ナもいい。
付加価値(07/03/08-Th 1427)
 英和辞典が英英辞典の直訳であるべきかどうかについては議論があるだろう。しかし、少なくとも1つだけではあるが、英英辞典と和英辞典で意味の順番が違っていることは、それなりに興味を引く事実ではある。ことばは文化と歴史の産物である。それが持っている意味についても、歴史があるに違いない。はじめは狭い意味であったものが時間と共に広がっていくのである。したがって、あることばの意味を伝える際には、その順番も貴重な情報になる。AがA'の意味になり、さらにBへと変化していった…。これが重要なのだ。おっとっと、このまま話が進むと、またまた脱線しそうだ。そこで話題をもとに戻すと、とにかくdomestic≠ノは国内の≠ニいう意味がある。そこでGDP≠ヘ国内総生産≠ニ訳されているのである。家庭内総生産≠ナはないのだ。このGDP≠ヘGNP≠ニ違って、国内で生産された付加価値の総額だという。そこでちょっとした疑問が浮かんだ。このGDP≠ノは、日本国内で働く外国人の生産活動も含まれているのだろうか。もっとキチンと調べるといいのだが、今はちょっと時間がない。この点についてご存じの方がいらっしゃったら、教えていただければありがたい。いずれにしても、現在ではGDPが一般的に使われている指標である。ところが、ここでまた大いなる事実を知った。それは、GDPには、家事労働やボランティア活動などは含まれていないのだそうな。GNPの定義から考えると、これらは付加価値≠ナはないのである。まあ私の勝手な推測だが、家事労働やボランティア活動はゼニ≠ノ換算できないからなんだろう。そうだとすれば、まさに、経済至上主義・金儲け第一主義の発想丸出しということになる。
Domestic≠フ意味(07/03/07-W 1426)
 TDAと略称していた東亜国内航空≠ヘ1988年に日本エアシステム(Japan Air System)≠ニ社名を変更した。このためDomestic≠フ文字はなくなった。いわゆるJASである。さらに2002年には日本航空との経営統合が行われて、JASの名称も使われなくなった。さてdomestic≠辞書で引くと、頭に出てくる訳語は家庭の∞家事の≠ナある。家庭的な∞家庭を愛する≠ネどもある。このごろ問題になることが多い、DV≠ヘdomestic violence≠フ省略形で、文字通り家庭内暴力≠ニいうことになる。家庭での生活に関する科学である家政学≠ヘdomestic science≠ナある。その後に、自国の≠ニか国内の≠ニいった語義が現れる。GDP≠ナ使うdomestic≠ヘ後者の意味である。このあたりは訳のことだから、とくにどうということもない。ところが英英辞典でdomestic≠ェどうなっているか調べてみると、けっこうな驚きがあった。電子版のオックスフォード英英辞典では、第一義がof or inside a particular country; not foreign or international≠ニなっているのである。そして二番目に、used in the home; connected with the home or family≠ニ解説されている。手元にある英和辞典とは、ことばの意味の順番が違うのだ。そこで30年近く前に買ったThe Pocket Oxford Dictionary を引いてみたら、こちらは先にOf the home≠ェ先でof one's own country≠ェ後に続いている。こちらは日本の英和辞書と同じになっている。このあたりの事情については、もう少し詳しく調べるとおもしろそうだ。ことばの辞書は、印刷物としては最も内容が変わらないものだろう。それが時代とともに変わってきたのか。
GNPからGDPへ(07/03/06-Tu 1425)
 その昔、国の経済状況を伝える指標としてGNPということばが使われていた。Gross national productの頭文字を取ったものだ。grossには総計の≠ニか全体の≠ニいう意味がある。Nationalは国家の∞国民の≠ナ、Productは生産物≠ナある。Productには成果・結果≠ニいった意味もある。そんなわけで、日本語としては国民総生産≠ニいう訳語が当てられていた。ところが、このごろGNPということばを聞くことが少なくなった。先週だったか、MMさんがやっている朝の番組で、ジャーナリストがGNP≠ニいう表現を使っていたが、プロの割にはちょっと時代遅れの発言じゃないのかなあ。なぜなら、いまではGDPが常識になっているからだ。その理由はというと、GNPの定義が問題なのである。これには海外に住んでいる国民≠フ生産も含まれている。だから、日本人や日本企業が外国で運用するお金の利子や配当もGNPに入るのだそうな。このごろの経済はかなり危ういけれど、わが国は海外にかなりの債権を持っているらしい。その結果、利子や配当が得られるからGNPは大きくなる傾向が出てくるわけだ。そんなこともあって、政府も1993年にGDPという指標に変えることにしたという。GDPはGross domestic productの頭文字だから、GがDに変わっている。domestic≠ヘ国内の∞自国の≠ニいった意味がある。そこで、GDPは国内総生産≠ニいうことになる。英語のdomestic≠ヘ、なかなかおもしろい単語である。その昔、東亜国内航空≠ニいう航空会社があった。一般的には、社名をTDAと略称していたが、これはToa Domestic Airlines≠フことである。まさに国内≠Domestic≠ノ直訳していた。
こころ≠フ経営戦略(07/03/05-M 1424)
 企業の経営者は、組織の成長のためにさまざまな戦略を練らなければならない。そのキーワードは変化≠ナある。このままでいい=Bそんな気持ちが強ければ成長はストップしてしまう。たとえ業績がいいとしても、そんな儲かる市場には必ず競争相手が出てくるものだ。そうなると、あっという間に競争は激化し、それまでの利益も失われてしまう。市場のパイが大きくなればいいが、大抵は限界がある。まさに奪い合い、競争と競合の世界が目の前に現れる。これが市場の原理というものだろう。ところで、私たち一人ひとりの人間にも成長することが期待されている。体の成長は20代か、その前でストップすると思われる。しかし、心の成長は永遠に続くと考えたい。その際にも、変化≠ヘ何よりも大事なキーワードになる。もうこれでいい=Bそう思った瞬間に成長は止まると考えていい。その点では、組織も個人も同じなのである。しかし、私に言わせれば、その先は相当に違っている。こころのパイには限界がないのである。それは無限だと言っていい。みんなが喜んだからといって、この世にある喜びのパイ≠ェ小さくなったりはしないのである。ある人が喜んでいること自身を見て、こちらも嬉しくなる。なかなかいい感じだ。あえて競争や競合ということばを使ってもいい。みんなで、私の方こそ、もっと喜ぶぞーっ≠ニ競争するのである。この場合は、どう考えても企業組織の競争とは違っている。いまこそ、私たちにはこころの経営戦略を練る力が求められていると思う。それは、宗教や哲学、あるいは個々人の人生観という形で実現するのかもしれない。みんなで喜び≠共有しようではありませんか。どんなに喜んでも、パイが減ったりはしませんからね。
どちらともいえない≠フ受け止め方(07/03/04-Su 1423)
 質問調査の際に5段階で回答を求めることは頻繁に行われている。そして、真ん中の選択肢が3.どちらともいえない≠ノなっていることが多い。この回答にわからない≠ニいう気持ちが混入する可能性があることは、すでに指摘したとおりである。これが3.わからない≠フ結果を受け止めるときの第一の留意点である。それに加えて、もうひとつ考えておきたいことがある。それは、これをどちらともいえない≠ニいう中間的な反応だと解釈してしまう点である。どちらともいえない≠フだから、真ん中に決まっていると言われそうだが、本当にそう考えていいのだろうか。これは私の個人的な感触だが、この反応には、どちらかというと#ロ定的な意味合いが含まれている。少なくとも、回答者がプラスに考えていないことは確かである。調査結果を踏まえて、自分の行動を変えていくことを目指している教育や研修においては、この点は大いに気をつけた方がいい。どちらともいえない≠フだから、とくに問題があるわけではない。そんな発想でデータを受け止めていては現実を見誤る危険性がある。2.あまりやっていない≠ニも思うけれど、ちょっと酷かなあ。まあ、3.どちらともいえない≠ュらいにチェックしとこうか…。これがどちらともいえない≠選択するときの本音に近いのではないか。全部が全部とは言わないけれど、そんな気持ちで回答する人たちも少なくないと思う。行動変容を考えるからには、こうしたやや厳しい視点から結果を分析していくことが必要なのである…。さてさて、ことばにこだわりながらドンドン走ってきて、とうとう質問紙調査の分析にまで話が進んできてしまった。この話題は、とりあえず区切りをつけることにしよう。
大雑把で行こう(07/03/03-Sa 1422)
 ある質問に対して本当は賛成≠ネのに反対≠ニ答える。それとは逆に、本音は反対≠セけれど、賛成≠フ選択肢にチェックする。こんな人もいる可能性はある。とくに回答するとき、その内容が人にわかるような場合には、その危険性は大いに高まる。いわゆる集団の圧力も働いてくるのである。だからこそ、調査の匿名性は十分に保証される必要がある。そのあたりの配慮がなされていれば、自分のこころとはまったく反対≠フ回答をする可能性は低くなるだろう。その上で、この手の回答は誤差として扱える範囲内にあると考えるのである。そうでなければ、この世では質問紙調査≠サのものがあり得ないことになる。マスコミは、インタビューも含めた調査をもとに選挙結果を予想する。そして、投票日当日の出口調査も踏まえた予想は、おおむね当たっている。こうした例を見ても、調査がまるで役に立たない≠ニあきらめることはない。もっとも、選挙報道では当選確実≠ェ出ても、ひっくり返ることがある。その昔に比べると、その数はむしろ増えているような気がする。とにかく1秒でも他局より早くという競争意識が当確≠フエラーに繋がっているのではないか。その元凶の1つは久米おじさんだ≠ニいうのが私の認識だ。ああ、懐かしい名前だこと。ともあれ、私自身は質問紙調査の回答結果については、あまり細かい数値まで分析しない方がいいと思う。それは、4、5≠ニ1,2≠フ両サイドに何人が回答しているかといった程度の精度で、データを受け止めるということだ。たとえば、研修の満足度を聞いて、その平均値が2.2から2.9へと有意≠ノ上昇したとしても、それは満足≠オていない範囲で移動しているだけの話なのである。
PPマジック(07/03/02-F 1421)
 ともあれ、お互いパワーポイントに幻惑されないようにしましょう。えっ自分だってせっせとパワーポイントを使って、はしゃいでるじゃないか≠ナすって?そうなんです。いまや、私にとってパワーポイントは欠かせない道具になりました。これにレーザーポインタが加われば、もうバッチリです。おかげで、内容なんてないのに、けっこうごまかしてまして…=Bなあーんて、もちろん冗談ですよ。ネタはちゃんと真面目につくってますから。それはともかく、質問紙を使う場合には、もとになる項目がキチンとしていなければ、いくら最新で高級な統計処理を施しても意味がないのである。それは厚化粧で地を隠しているようなものだ。そんなことでは素顔が見えないのである。わからないことがあれば調査すればいい≠ネんて言うけれど、人のこころを測るのは、とにかくむずかしいのだ。そんなわけで、質問紙は大体の傾向を知るために役立てばいい≠ニいうのが私の考えである。たとえば、5段階の尺度を使った質問では、1と2≠フ回答と4と5≠フ回答とに分けて、現状を把握するくらいが無難だと思う。より具体的には、5.非常に賛成∞4.かなり賛成∞3.どちらともいえない∞2.かなり反対∞1.非常に反対≠ニいう5つの選択肢があったとしよう。このとき、こころの中に少しでも反対≠フ気持ちがある人はどうするか。そこで非常に賛成≠竍かなり賛成≠ノチェックする可能性はきわめて低いはずだ。もちろん世の中は広いから、データを混乱させてやろう≠ニいった意地悪な人だっているかもしれない。そんな人たちは、本音は賛成≠ナも反対≠ニ回答するわけだ。あるいは反対≠ネのに賛成≠ノ○を付けるかもしれない。
OHPからPPへ(07/03/01-Th 1420)
 私は縄文時代からOHPを使っていた。講演を依頼されてもOHPがないとお話できませーん≠ネんてわがままを言っていた。ところが、いつのことだったか、学生がOHPのトランスペアランシーを不思議そうに見て、私に聞いた。先生、このピラピラは何ですか=Bまるで、どこかで拾ってきたのか、はたまた発掘してきたのかという顔をしている。まあ、学生がそこまでするわけはないが、私にはもうOHPなんて時代遅れですよ。パワーポイントでなくっちゃあ≠ニ言っているような気がしたのである。そこで、さっそくソフトを手に入れることにした。それからパワーポイントと遊びはじめたというわけだ。ところが、これが思っていた以上におもしろいのである。あっという間にやみつきになってしまった。私は、どうも出来が単純なようで、何でもかんでもすぐにはまってしまう。それまで作っていたOHPの資料も次から次へとパワーポイントに化けていった。スライドの枚数をすべて数えたわけではないが、おそらく400枚くらいにはなっていると思う。授業や講演で使って、インパクトがないとマイナーチェンジする。これがまた楽しくて仕方がない。このごろはアニメ化に凝っている。かなり以前からOHPで使っていたネタがある。これをパワーポイントにして使ったところ、昔から私の話を聞いてくださっている方から進化しましたね≠ニほめていただいた。もちろん、内容そのものはまるで成長していない。それにも拘わらず評価してもらえるのはパワーポイントの魔力である。とくにアニメーションなどで画面に動きが出ると、もういけない。さらに訴える力が大きくなるのだ。みなさーん、ごまかされてはいけませんよ。大事なのはあくまで内容なんですから。