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味な話の素
No.45 2007年01月号(1361-1391)
 
ことばは曲者(07/01/31-W 1391)
 リンゴの重さ≠ヘ甘さ≠ニ関係ないことは誰にだってわかる。しかし、こころ≠ヘ手にとって重さを感じたり、口に入れて味わうことはできない。ついつい、自分が測りたいものとは違ったことを聴いてしまう。そんな大きな落とし穴があるから、十分に気をつけなければならない。こころ≠質問という形で聴くのだから、ことばの意味が重要になる。ところが、このことば≠ェなかなかの曲者なのだ。私は根っからの九州っ子である。生まれ落ちたのは福岡県の吉井町。戦後間もないころで、私はピカピカ≠ゥどうか知らないが、団塊の世代≠サのものである。よく聞く話だが、両親が中国から引き揚げてきて、母の郷里に帰ってきた。しばらくそこで仕事をしていたが、ご縁あったのか公務員になった。初任地は八幡である。そのときから転勤人生がはじまった。当時の八幡は日本中の人に製鉄の街として知られていた。製鉄所の高いトンネルから吹き出す七色の煙≠ヘ街のシンボルだった。それを題材に映画ができたほどである。その後、煙≠ヘ公害のシンボルのようになる。ところ変われば品変わるというが、時代が変わればものごとの評価も変わるのである。私が6歳ころまで八幡で過ごした。石膏のギブスなどを作っているところがあって、それが商品としてウインドウに飾られていた。八幡と書いた途端に、ギブス≠ニいうことばが頭に浮かんだ。もう何十年も使っていないはずなのに、記憶がよみがえる。人間の大脳のすごさには、われながら感動する。そこで、もともとギブス≠チてどんな意味かと思い、電卓で広辞苑を引いてみた。ところが、なんとギブス≠ェ載っていないのである。すみません。私の悪い癖で、話題が相当に脱線してきました。
誤解のタネ(07/01/30-Tu 1390)
 質問紙は人のこころ≠測る大事な道具である。しかし、その作り方、使い方、処理の仕方には十分な注意が必要だ。さらにもうひとつ追加しておきべきだろう。それは結果の読み方≠ナある。これは心理学の結果だけに限ったことではない。世の中には情報があふれている。いかにももっともらしい情報の中に、とんでもないものが含まれている。そんな時代なのである。こうした話題は、いわゆるIT社会の情報リテラシーと呼ばれる領域に関わってくる。これについては、本コラムでも折に触れて取り上げている。ともあれ、こころ≠フ測定には大いに気をつけないと、とんでもないことになる。リンゴの重さを量っているのに、甘さがどうのこうのと主張する誤りを犯したりするのである。それは、まともな議論をする以前の問題である。ともあれ、ものごとの定義をしっかり考えていくことは、なかなかややこしいのである。まともに定義していても、ことばのとらえ方の問題も出てくる。たとえば、リンゴが重い≠ニ聞くと、ひょっとしたらそのリンゴは大きい≠ニ思ってしまう人がいるかもしれない。日常的には、その可能性はけっこう高い。もちろん、重さ≠ニ大きさ≠ヘ別次元の話である。しかし、これが混同されて大きなリンゴ≠フ話ができあがり、人々の間に伝わったりする。その結果として、誤解が生まれ、論争が巻き起こり、問題が深刻化する…。まあ、リンゴの重さ≠竍大きさ≠ナは、そこまで行くことはないだろう。しかし、定義がはっきりしていないことで不毛とも言える論争が起こり、社会が混乱するケースは決してめずらしいものではない。その対応を誤れば、世の中に誤解と偏見が生まれる。そんなケースだって少なくないのである。
重いリンゴ、甘いリンゴ(07/01/29-M 1389)
 まったくのブラックボックスになっているとまでは言わないが、心理学の統計もそうした危険性を抱えている。どんな質問をしても、とにかく数値としての回答は手にすることができる。それを統計パッケージにかければ、あっという間に結果が出てくる。しかも、様々な検定処理も行われ、それらしい数値がはっきり目に見えるようになる。その点で、体裁はキチンとしているのである。しかし、そもそも最初の質問項目がしっかりしていなければ、どんなにカッコいい技法を使っても、統計処理そのものが無意味になってしまう。2つのリンゴを秤にかける。Aは270gでBは290gだ。そこでBの方が重い≠ニ言う結論を出す。これは明らかに正解である。しかし、だから、Bの方が甘い≠ネんてことを言えば、みんなから笑われるに決まっている。重さ≠ニ甘さ≠ヘ質の違うものであり、それらを量る道具も同じではないからである。当然のことながら、ちゃんと測るものを測っていることが前提なのだ。こうしたモノの性質を測る場合は、それほど問題は起きない。しかし、これが人のこころ≠ニなると話は難しくなる。リンゴの重さや甘さなどのように、誰もが認める客観的なものさし≠ェないからである。そこで心理学者も大いに苦労することになる。もっとも、こんな書き方をすると世の中の質問紙≠ェまるで役に立たないと言っているように聞こえるかもしれない。もちろんそんなことはない。正直なところ、現時点では人のこころ≠測る決定的な道具がないことも事実である。その意味で、質問紙は人のこころ≠測定するための大事な道具なのだ。ただ、その作り方は言うまでもなく、その使い方、処理の仕方に注意しなければならないということである。
ブラックボックス(07/01/28-Su 1388)
 統計処理法が洗練され、コンピュータが急速に進歩したからといって、それがそのままこころを測定する$ク度の向上に繋がったわけではない。どうしてこの統計法を使うのかよくわかっていない≠ッれど、とにかく結果が出るからプログラムを走らせてみた=B世の中にはこんな研究だってあり得るのである。私が子どものころは、自家用車なんぞろくになかった。そんな中で、バスの運転手さんが正面のバンパーあたりに開いた穴に鉄の棒を突っ込んでせっせと回していた光景を思い出す。冬場などにエンジンがかからなくなっていたのである。いわゆるセルモーターでエンジンを始動できないような時代だったのだろうか。それとも、セルモーターを動かすバッテリーが弱くて、手動で回転させなければ動かなくなっていたのかもしれない。いずれにしても、その当時はボンネットを開けて仕業点検をするのは常識≠セったのである。それがどんどん進歩してきた。いまどきの自動車学校でも教えてはいるのだろうが、実際上は仕業点検≠ニいうことばそのものが死語化しているのではないか。ドアを開けて運転席に座りキーをひねる。するとカラカラとセルモータの音が聞こえる。しかし、それも一瞬のことだ。あっと言う間にエンジンが動き始める。いまやボンネットを開けるのはガソリンスタンドや自動車工場のプロしかいないのである。ひょっとしたらエンジンが回転していることさえ知らない人がいたりして…。車がそれほど身近で便利なものになったということだ。それはけっこうなのだが、その代わりにボンネットの中は自分とはまるで関係のないブラックボックスになってしまった。細かい理屈はわからないが、とにかく目的地まで行ければいい≠フである。
こころを測る(07/01/27-Sa 1387)
 職場においても、働いている人たちのこころの状態≠ヘ見えるのである。第三者が沈滞していて元気がないなあ≠ニいった印象を受ける職場は問題を抱えているに違いない。そんな組織が、じつは快活でエネルギッシュ≠ネメンバーで構成されているなんてことは、ほとんどあり得ないだろう。そんなことがあるとすれば、それは喜劇になる。現実はドリフのもしもこんなグループがあったら≠ネんてお笑いの世界ではないのだ。何のことはない、人の直感はけっこう当たるものなのである。人間の行動を科学的に分析することを標榜している心理学ではこころの状態≠測るために質問紙を用いることが多い。それらの中には、そんな聞き方で、こころの中身がわかるのかい≠ニ言いたくなるようなものもある。単なる思いつきで質問項目なんぞ作ってはいけないのだ。そんなわけで、心理学では質問紙≠フことだけを取り扱った専門書もある。しかし、それでも完全に満足できる項目を作るのは至難の業である。一般的に多いのは、質問項目に対して5段階で回答するといった方法である。賛成−反対∞好き−嫌い∞いつもする−ほとんどしない≠ネどの選択肢を提示して、その中から自分の気持ちに近いものを選んでいく。そうして得られた回答が統計的に処理される。そして、その結果をもとに、人の行動を確率的に説明したり、予測したりするのである。時代とともに、統計的な手法もどんどん洗練されている。それに、なんと言ってもコンピュータが猛烈な勢いで進化してきた。気が遠くなるような膨大な量のデータもあっという間に処理することができるのである。しかし、だからといって人のこころを測る$ク度までも上がったと考えるのは、相当にやばい。
こころが見える(07/01/26-F 1386)
 教室の空気の色が今ひとつなのにはいろいろな理由があるだろう。先生が教科書で顔を隠しているように見えたのは、気のせいかもしれない。しかし、そうした小さなところに、教師の自信や対人関係の善し悪しが見えている。そんな気がするのである。今や懐かしいい東映時代劇の股旅物≠ナはないけれど°ウ科書は三度笠≠フように顔を隠す道具ではない。映画の主人公だって、敵に囲まれてチャンバラになるときには三度笠≠カッコよく顔の右上にもでも持ち上げて、じっと相手を見据えていたじゃないか。氷川きよしの沓掛時次郎≠ヘやだねったら、やだね≠ネんて言ってるが、いざとなれば相手と真剣に向き合ったことだろう。ともあれ、顔を教科書で隠しているように見えた先生は、教える内容であるのか、子どもたちとの関係であるのかはわからないが、課題を抱えておられたことは間違いない。いずれにしても、こころの状態≠ヘ外からけっこう見えるものだ。私としては、この点を強調したいのである。そして、そうした主観的で瞬間的とも思える気づきがけっこう当たっていることが多いのではないか…。これは学校の教室だけの話ではない。ある職場に行くと、みんなが明るく楽しそうにしている。挨拶もしっかりしているし、交わされる会話の声も元気がいい。そんなところは、やっぱりうまくいっている方が多いに違いない。たしかに、外部者に対してその様に装っている集団だってあるかもしれない。また、明るい雰囲気を印象づけるように演技することを強制されているのかもしれない。しかし、それはあくまで確率の問題だろう。少なくとも、明るく楽しそうに′ゥえる集団が、本当は暗く苦痛に満ちた*日を送っている方が多いとは思えない。
教室の雰囲気(07/01/25-Th 1385)
 子どもたちがニコニコ顔で、バトンタッチをするように次から次へと意見を出し合っている。そうした雰囲気のいい光景の中に先生が見あたらない。どこかなと探すまでもなく、黒板の横にある机に座っている先生が目にはいる。手元はよく見えないが、採点をしているような感じもする。一区切りつくと、ちらりと顔を上げる。子どもたちが立ったり座ったりしながら意見を出し合っている様子を見ているようだ。先生もニコニコ顔である。私が教室に入ってくることは予想されていなかったはずだ。ひょっとしたら時間がなくて内職≠ウれているのかもしれない。びっくりされたかな…。それはともかく、とにかく空気の色≠ェじつにいいのである。教師が子どもたちと対面して授業をしていない状態のときであっても、雰囲気のよさが伝わってくるのだ。これは先生と児童・生徒との良好な関係ができあがっているからだろう。それが見える≠フである。それからやおら隣の教室に移動する。相談に来られた先生のクラスだ。ドアをスライドさせる。うーん、違うなあ…=Bたしかに違うのである。空気の色≠ェ。教室では先生が一生懸命に授業をしている。まさに本職≠フ授業であって、内職中≠ネんぞではない。しかし、それにもかかわらず、何というか、今ひとつ元気のない雰囲気が漂っているのである。それは、先生ご自身が子どもたちを見ていないことにも原因があるのかもしれない。まるで、教科書で顔を隠しているような感じなのだ。教えている内容に自信をお持ちでないのだろうか。いやいや、それは私の勝手な想像にすぎない。そうではなくて、子どもたちとの関係づくりがうまくいっていない可能性だって大いにある。その場では、本当の理由はわからない。
空気の色(07/01/24-W 1384)
 私は真の成果=見える成果×見えない成果≠ニいう式を提案した。そして、働く人たちの意欲や満足度などは目に見えない成果≠ノ含まれると書いた。しかし、いわゆるモラール≠ニ呼ばれる意欲や満足度などは、本当に目に見えないのだろうか。人のこころはわからない≠ニいう人がいる。こころは測定などできるわけがない≠ニいう意見もある。これなどは、心理学なんて当てにならない≠ニ言われているようなものである。私だって心理学者の端くれである。だから、それに対して簡単にうん、そうよ≠ニ同調しにくいところがある。そうではあるが、私も人のこころ≠モノの重さや長さのように厳密に測れるとは思っていない。とくに、人の意見を聞く態度調査≠ネどの場合、問い方≠ノよって正反対の結果が出てしまうことは、だれだって知っている。しかし、そうだからといって、こころはまったくわからない≠烽フなのだろうか。私は仕事柄、学校にはけっこう出かけている。学級がうまくいかないと悩んでいる教師の相談を受けたりする。その際は学校まで様子を見に出かけましょうか≠ニいう話になることもある。そんな事情で学校に行ったときは、当該の教師が担任している教室だけでなく、他の教室をのぞいたりする。学校特有の横開き式のドアを静かにスライドさせる。その瞬間である。それぞれの教室に違った空気の色≠ェあることを感じるのである。もちろん、空気の色って何色≠ネんて真面目な顔で質問してはいけない。これはあくまでたとえの話である。しかし、とにかく空気の色≠ェ違うのである。そのまま教室に入る。じつに穏やかで暖かい空気が漂っている。子どもたち全員が、性別を問わずニコニコ顔をしているのである。
見えない成果(07/01/23-Tu 1383)
 昨日、私は働く人々の意欲や満足度、いわゆるモラールは目に見えない≠ニ書いた。そして、モラールの状態も組織にとって大事な成果≠セと強調したつもりだ。だから、売り上げや生産高のような見える成果だけでなく、見えない成果≠燒Yれてはいけない。われわれは、真の成果=見える成果×見えない成果≠ニいう式で考えることが必要なのである。この式は、真の成果=短期的成果×長期的成果≠竍真の成果=物理的成果×心理的成果≠ニいった式に変えることもできる。いずれの式でも、かけられる方は目に見えやすい≠ェ、かける項は目に見えにくい≠フである。そして、後者が0≠ノでもなれば、成果だって0≠ノなる。それならまだしも、かける方は平気でマイナスの値をとることがある。そうなると最悪だ。組織にとってマイナスの成果になってしまうからである。一時、社会保険庁で保険料未払い者を本人の了承なしにカットしたことが問題になった。未払い者を勝手に分母≠ゥら引いていったから、ちゃんと納めている人数はほとんど変わらないのに、納付率≠ェ向上したように見えた≠フである。これなんか、目に見える成果≠ヘ上がっていても、その内実はまやかしだったことになる。こうした発想で物事を処理する人々のこころの状態はどうなんだろう。どう考えても、やる気満々で仕事をした結果だとは思えない。おそらく多くの関係者が、内心では、ちょっとやばいよなあ≠ネんて気持ちでいたのではないかと思う。こうした状況が、長い目で見て組織にプラスに働くはずがない。実際、この問題が明るみに出てから、社会保険庁はこっぴどくたたかれてしまった。その意味で、最終的な成果≠ヘマイナスだったのである。
成果とコスト(07/01/22-M 1382)
 世の中は程度が問題である。人間のあらゆる営みにとってコスト≠ヘ大事だが、それを過剰に重視すると問題が起きてくる。そこで働く人間のこころ≠ノひずみが生じるからである。このごろは、多くの組織が成果主義≠標榜している。モノやサービスを提供している企業や団体にとって、成果を重視することは当然である。それは企業などに限った話ではない。そもそも、まったく目標のない人の集まりなんて想像する方が難しい。個人的な趣味の団体にしても、その趣味についてメンバーたちが満足できるような活動をしている。それがうまくいかなくなれば解散するだろう。組織や集団にとって、自分たちの目標が十分達成されることが、そのまま成果として評価されることになる。しかし、一定の成果を導くためにはコストがかかる。そのコストが大きすぎれば、成果との差し引きはマイナスになる。だから成果をプラスにするためには、コストを削減する必要がある。ここでまた問題が生じる。成果はどうしても目に見える≠烽フが重視されるからである。ここが大いなるポイントになる。当然のことながら、目に見えないものは評価することができない。だから、それを十分に配慮するのは難しいのである。この見えない≠烽フの代表が働く人々のやる気や満足度である。いわゆるモラール(morale)といわれる要因である。組織のメンバーが意欲満々で働いている。自分の職場に満足し、仕事に責任感と誇りを持っている。対人関係もなかなかいい…。私は、こうしたこころ≠フ健康状態が実現できていることは、組織の成果そのものだと思う。どんなことがあっても働く人々のモラールダウンは避けなければならない。それを前提に、いかにしてコストを削減するか。
コスト問題(07/01/21-Su 1381)
 しっかりした製品だ≠ニいうお国のお墨付きをもらうだけで安心してはいけない。働く人々に仕事に対する意欲やプライドがなければ、そのうち規格落ち≠フ製品が出てくることは目に見えている。人の気持ちだって劣化する可能性がいくらでもあるのだ。それはともかく、不二家がISOの認証を受けていたということを経済産業省が問題視しているらしい。国としては、ISOを認定する団体に事実関係の調査を依頼したという。その結果、問題が確認されれば認証が取り消される可能性がある。ニュースなどで伝えられている状況から推測すれば、取り消しは確実だと思われる。それは当然だとしても、ここで大いなる疑問が浮かぶ。それは、報道されているような状態で稼働していた工場が、どうして認証されたのだろうかという疑問である。そもそも認定を受ける時点での状況はどうだったのか。少なくともチェックを受けるときには、立派に基準をクリアする水準にあったのだろうか。それとも、評価する側が見落としてしまったのか。まずは工場が認定を受けるに十分なレベルにあったとしよう。そうだとすると、それが壊れてしまった原因はどこにあるのか。その理由としては、認定された後に状況が変わっったことが考えられる。ここですぐ思い浮かぶのはコストの過重視≠セ。めでたくISOの認定を受けた時は会社がうまく回っていた。ところがそのうちに、経済環境が悪化して売り上げが厳しくなった。そうなると、当然のこととしてコスト≠ェ問題にされる。これは自然の流れである。企業は適切な利潤を生み出しながら成長するのだから、コスト≠無視するなんてことはあり得ない。そんなことをしていたら、それはそのまま組織の消滅につながっていく。
心の劣化(07/01/20-Sa 1380)
 JISやJASは通商産業省や農林水産省が関わる国家資格である。この国家≠フ2文字が付いた途端に、かなり大仰になる。JISの場合、現在でも認定されている数は9000件台で、10,000にも達していない。われわれが普通の生活をしながら目にする工業製品は山ほどある。そう考えると、国内で製造・使用されている製品のうち認定されているのは宝くじに当たるほど少数である。だから、認定品はすごいと言えば相当にすごいのだ。しかし、それが権威≠ノなってしまうと、これまた問題が生まれてくる。認定を受けた製品を世に出している組織が、そのことを誇りにするのはけっこうなことである。そして、それを励みにしてさらに製品開発に邁進することもできる。また、そうした認定を得るべく、組織のメンバーたちが一丸となって製品の品質向上に取り組む。これまたすばらしいことである。しかし、これは水戸黄門さんの印籠≠ニ勘違いしてはいけない。これが目に入らぬか≠ヘいいけれど、俺たちはお国が認めてるんだぞーっ≠ネんて反っくり返るようになると、その組織は相当に危ないと思った方がいい。黄門さんはいつまでたってもお偉いさんであり続ける。そんなご身分である。しかし、製品は常に人間が作り続けるものである。その製品がいつまでたってもすばらしい品質≠ナあり続ける保証はない。まずもって、モノを作る装置は劣化する。きちんとしたメンテナンスが必要なのだ。しかし、劣化するのはハードだけではない。物づくりの主役である人間とその集団そのものがいつも新品だとは限らないのである。いつまでもいい物を作ろう≠ニいう意欲、自分たちはいいものを作っているのだ≠ニいうプライドだって、油断すると劣化するのである。
懐かしのJISマーク(07/01/19-F 1379)
 昨日は、不二家の問題を伝えるニュース画面にちらりと映った○○認証≠ノついて書いた。やはりあれが問題になっているようだ。私の見間違いではなかったのである。不二家はISOという国際規格の認証を受けていたらしい。これは企業・団体などが品質保証や環境保護に配慮していることを評価して認定するものだという。ISOはInternational Organization For Standardizationの頭文字で、日本語では国際標準化機構と訳されている。ISOはアイ・エス・オー≠ナはなくて、アイソ≠ニ呼ぶ方が一般的なようだ。まあ、英語的にはそうなのだろう。認証する対象もいろいろあるらしく、ISO9000は品質マネジメント≠ノ関わる標準だという。また14000シリーズは環境マネジメント≠ェ対象になっている。そう言えば、このごろISO○○取得≠ニいった看板を見かけることが多くなった。組織として品質や環境に対して配慮していることをアピールする目的があるのだろう。これに似た感じのもので、私が子どものころは、JISという企画について習った記憶がある。これは工業製品に対する認証でJapanese Industrial Standardsの頭を取ったものだ。文字通り日本で製造・使用する鉱工業製品の規格が審査の対象になっている。こちらはジス規格≠ニ言っていた。またJAS規格というのもあった。こちらはJapanese Agricultural Standardで、日本農林規格である。JISのマークはとても印象的なデザインだった。円の中にJ∞I∞S≠繋げたもので、とてもかっこよく見えた。鉛筆など、子どもの身の回りにある製品にも付いていて、私はいまでもすぐに手書きすることができる。JISもJASも法律に基づいて国が認定する国家資格だという。
○○認証(07/01/18-Th 1378)
 ベルリンの壁≠フ話から、ちょっと寄り道を…。先週あたりから、不二家のニュースが世の中をにぎわしている。最初の期限切れ牛乳をシュークリームの原料に使ったという時点ではやれやれ≠ニいった感じだった。その真偽は確認していないが、ある人からはも不二家の場合、もともと厳しい期限≠設定していたという話も聞いた。それが事実なら、ある意味ではさすが不二家だ≠ニ評価もできる。そうなると、せっかく厳しい基準があるのに、それを破ってしまった≠アとだけが問題になる。もともと厳しい≠フだから、少しだけはいいか=Bそんな気分が職場を支配したのかもしれない。どんな組織でも、働く人々が意欲的で、生産も順調なときには問題は起きにくい。自分たちの基準がよそよりも厳しい≠アとに誇りすら感じる。ところが、組織の成績が振るわず生産性向上への圧力が高まってくると、人々の心に悪魔がささやきはじめる。もともと基準が厳しいんだから、少しばかり守らなくてもいいんだよ=Bそんな誘惑である。もちろん悪魔は組織の外にではなく働く人々の心の中にいるのだ。こんなときこそ、決めたことはきちんと守ろうよ≠ニ叫ぶ正義の味方が必要なのだが、そうはいかないのが人間組織なのだ。それはそうと、ニュースで工場の門がテレビの画面に映った。ほんの一瞬だったから、確信はないが、工場名の下に○○認証≠ニいう看板があったのが目に入った。このごろは組織だけでなく、個人でも認証≠竍資格≠ホやりで、この手のアピールをあちこちで見かける。詳しいことは知らないが、不二家の場合も、きちんとお菓子を作っている≠ニいうお墨付きをもらっていたのではないか。そもそも、あの認証って何なんだろう。
冷戦の壁(07/01/17-W 1377)
 東ベルリンから西ベルリンへの移動が続くのは、東側にとってきわめてまずい。それによって、社会主義体制の正当性そのものが危うくなるからである。問題はそれだけではない。人口が減れば産業の維持にも深刻な事態を引き起こす。働く人がいなければ国は存続できない。そんなことから、東側は西ベルリンへ人々が移動できないような手だてをとるのである。それがベルリンの壁であった。その壁は1961年8月に突如として建設されはじめた。最初は鉄条網だったようだが、そのうちに本物の壁になっていく。その長さは、最終的には西ベルリン市を取り囲んだことから165Kmにも達している。アメリカの若き大統領ケネディとソ連の老獪な首相フルシチョフの時代である。両陣営とも核を開発し、それを使えば熱い戦争が始まる。しかし、そうなってしまえば人類の滅亡すら考えられる。だから核を使えばおしまいなのだが、一方が暴挙に出れば、こちらも瞬時に報復する。そうした意志と能力を明確にしておけば、お互いに核のボタン≠押すことを躊躇する。その結果として熱い戦争≠ヘ始まらない。これがいわゆる核抑止力≠フ論理である。それはそのままだから核は持たねばならない≠ニいった結論に走りやすい。現在、核を保有している国々は、どこもその論理を採用しているはずだ。自分たちは理性的だから、間違っても先に核ボタンを押すことはない≠ニいう立場である。あくまで自己防衛≠ェ目的だと主張する。昨年になって核実験を行ったとされる北朝鮮もまったく同じ論理でものを言っている。第2次大戦後の世界は、そんな危うい状況の中に置かれた。そして、核を使った熱い戦争≠フ代わりに、冷戦≠ニ呼ばれる状態が続くことになるのである。
ベルリンの壁(07/01/16-Tu 1376)
 あのベルリンの壁が破壊されたときは、さすがに驚いた。その衝撃的なニュースが伝わったのは1989年11月のことである。あれからもう17年以上の時間が経過している。もうそんなになるのかと思う。ともあれ、私はベルリンの壁がなくなることなど、自分が生きているうちにはあり得ないと信じていた。それほど衝撃的な大事件だった。ベルリンの壁ができたそもそもの発端は、アメリカとソ連を中心にした資本主義国と社会主義国との覇権争いにある。第2次大戦後、ドイツは連合国によって占領された。この点はわが国と同じである。ところがドイツの場合は、資本主義陣営と社会主義陣営によって分断されるのだ。その経緯はやや異なるが、北朝鮮と韓国が南北に分けられてしまった状況と似ている。東の首都は以前と同じベルリンで、西は新たにボンを首都にした。ベルリンは東ドイツの中にあったから、そのまま首都になったわけだ。ところが、このベルリンそのものが、さらに東西に分断されることになる。もともとの首都であり、その地を占領することはどちらの陣営にとっても大事なことだったのだろう。ソ連が東側を、アメリカ・イギリス・フランスが西側を統治することになった。その後、時間とともに自由を求めて西ベルリンに移動する人々が増えていった。朝鮮半島でも脱北者と呼ばれる人々がいる。これは国からの脱出だが、ベルリンの場合は市内の移動という感じだったようだ。それは東区から西区に引っ越すくらいのことだったのかもしれない。しかし、そうした現象は東側にとっては深刻な問題になる。引っ越し≠ニ言うよりも脱出・逃亡≠ニいうニュアンスが強いからである。それでは、社会主義そのものの正当性に傷が付いてしまうではないか。
知行不合一≠ニ戦争(07/01/15-M 1375)
 さてグループ・ダイナミックスの創始者Kurt Lewin にまつわる話に戻ろう。この話の発端は、学会での自己啓発トレーニング≠ノ関するシンポジウムにあった。それは年末の12月18日からはじめている。その流れの中でLewinが出てきて、彼の業績についての解説につながった。私としては彼の3大業績と考えている、リーダーシップ∞集団決定=Aそして感受性訓練≠ノついてお話したいと思ったわけだ。そして1月10日まで集団決定法≠取り上げていたのである。それをちょっと休憩≠ニいうことで鹿児島市電の話題に切り替えたら、これが4日かかった。ここから再び集団決定法≠ノ戻ることにしよう。さてさて人間というのは、とにもかくにも知っている≠アとと行動≠一致させることがあきれるほど苦手だ。だから、どちらをみても知行不合一≠フ例には事欠かない。しかし、そうかと言って人間は駄目じゃ≠ネんてあきらめていたら事態はますます悪くなる。もともと人類全体にこうした性癖があることを認めた上で、それを何とか克服する知恵を出す方が生産的に違いない。ところで、わかっちゃいるけどやめられない≠フ最大で最悪の典型が戦争である。人間同士が命を奪い合うなんてことは止めたほうがいいに決まってる。とりわけ弱い立場の人間は、どちらの側にいても苦しみ、悲しむだけだ。しかも現実に戦って命を落とすのは未来のある青年が中心になる。それが人類のためにもマイナスであることは言うまでもない。そんなことは誰にもわかっている≠ヘずである。その証拠に、世界の指導者はもちろん、誰もが平和≠フ大切さを強調する。しかし、それにも拘わらず、この地球上から戦争がなくなる気配すら感じられない。
こころのお返し(07/01/14-Su 1374)
 鹿児島市電物語は本日でおしまいです。電車の中で中学生から席を譲られて、即座にいいよ≠ニ断った。そのことを少しばかりしまった≠ニ思って後悔していた。せっかくの好意を拒否したからである。それからいくつかの電停が過ぎていった。しばらくして、中学生たちが座っている向かい側の席が空いた。そこで私は座ろうという気持ちになった。しかし、その前に忘れてはいけないことがあった。それは、席を譲ろうとしてくれた中学生のことである。私は先ほど声をかけてくれた中学生の肩を叩いた。彼はえっ≠ニいう感じで振り向いた。私はニッコリ笑って言った。さっきは席を譲ってくれてありがとう=Bこの声かけに対して、中学生もニッコリ笑って答えた。とくにことばを発することはなかった。ただそれだけのことである。しかしわたしは、これでようやく中学生にお返しができたと思った。ここで黙って座っては、私の気持ちが落ち着かなかったのである。ただ一言、ありがとう≠ニ声をかけただけなのに、私はなぜかとても気持よくなった。そして、ブルーのジャージを着た中学生たちの人数を数えた。全員で8人いた。みんな楽しそうな顔をしている。こちらの気分がいいせいか、そんな様子に見えるのである。そのうち、一人の背中がチラリと見えた。そこには中学校の名前が書いてあった。それを読んで、彼らが加治木中学校の生徒たちであることがわかった。そのうち騎射場≠フ電停が近づいた。さて着いたぞ≠ニ思いながら席を立とうとしたら、8人の中学生たちも降りる準備を始めた。目的地も同じだったのである。ここで、2006年12月27日8時10分ころに始まった楽しい電車物語が終わった。私はニコニコしながら鹿児島大学に向かった。
子どものこころ(07/01/13-Sa 1373)
 もう少し鹿児島の電車の話を続けましょう。電車で私に席を譲ろうと、中学生がニッコリ笑って声をかけてきた。その顔を見た瞬間、私はいいよ≠ニ断った。そのときのこころの状態はよく憶えていない。突然に席を譲ると言われて戸惑ったのかもしれない。あるいは、ちょっとばかり配慮したのかとも思う。彼らはお互いに楽しそうに話していた。それを立たせては話がしにくくなるだろうなんて考えて…。いやあ、そんな思いやりまでするわけはないか。何と言っても、還暦さん≠ェ2軒先まで来ているようなおじいちゃん≠ナある。そのとき、目的の電停までどのくらいの距離があるのか知らなかった。だから本音を言うと、座りたくないことはなかったのである。それなのに、反射的にいいよ≠ニ断ってしまった。そのことに小さな後悔を感じた。なぜならお年寄りが集まる会合などで言っていることと正反対の対応をしてしまったからである。子どもが席を譲ってくれたら、健康のために座らない主義の人も、ありがとうと言って座ってくださいよ。俺は年寄りじゃないなんて突っ張れば、その瞬間に子どものこころを潰すことになるんですから=Bこんなことを強調しているのである。そればかりではない。席を譲ってもらったら、それでおしまいではありません。その子がバスや電車から降りるとき、こちらを見るかもしれません。そんなとき、慌てて作り笑いなどしてはいけないのです。いつでも振り向かれた瞬間に自然に笑みがこぼれる。そんなこころの準備をしておきましょう。途中で混んでくるかもしれませんが、その子が見えなくなっても油断しないでくださいね。バスを降りたときに、窓の向こう側からこちらを見るかもしれないではありませんか…=B
鹿児島の市電(07/01/12-F 1372)
 昨日からの続き。福岡で通学していたころ、市内電車の指定席≠取ることに固執した。それには、乗車口が目の前に来るような位置に立っておくことが必須条件だった。電停は室見≠ナある。福岡の西部にあるが、さらに西の方には姪浜≠ニいう終点があった。朝のラッシュ時だから姪浜≠ゥらくる電車はすでに満員になっていて、座るどころの話ではなかった。ところが朝のダイヤの中で、何本かは室見≠ナ折り返していたのである。私が指定席≠ねらった連接電車は、その中のひとつだった。だから、乗車口の前に立っていれば、希望する席をかなりの確率でゲットすることができたのだ。もう記憶はないが、その取得率は60%台はあったと思う…。さて、昨年末の鹿児島での話に戻ろう。ホテルの最寄り駅である天文館から市内電車に乗った。鹿児島大学のホームページによると、騎射場≠ニいう電停まで行くことになっている。電車の乗り口から上がると、目の前に中学生らしき一団が座っていた。青色のジャージを着ている。スポーツの試合に出かけるといった出で立ちである。電車は混んではいなかった。しかし、一見して席は空いていない。そこで、私は最後部の方へ歩いていった。進行方向であれば運転席になるところで、すぐに降り口がある付近だ。あの若いころの指定席≠フ習慣がまだ残っていたのかもしれない。誰にも邪魔されずに、電車の進行とともに遠ざかるレールを見るのはじつに楽しい。そんな思いで外を眺めていた。ところが電車に乗って数分後だっただろうか。私の腰のあたりを誰かがつついた。ふり返ってみると、ジャージ姿の中学生が私を見上げて笑っている。座らなくてもいいですか=B人なつっこそうな男の子の声が聞こえた。
トラムの話(07/01/11-Th 1371)
 レビンに関わる話は長ーくなりそうな気配がする。そこでときどき息抜きを…。昨年の暮れに鹿児島へ出かけた。鹿児島大学で集中講義をしたのである。最初の日は小雨が降っており、時間の読みもできなかったのでタクシーで出かけた。翌日は市内電車で行くことにした。いわゆる路面電車である。チンチン電車と呼ぶこともある。その昔は車掌さんが乗っていて、運転手にサインを送っていた。チンで降りる人がいますよー≠ニ知らせる。チンチンと鳴れば降りる人がいませーん≠ナある。また、降りる人が済んだので発車オーライ≠焜`ンチンだった。私は福岡に住んでいたころ、高校にも大学にもチンチン電車で通った。はじめて乗った中学生のときは運賃が13円だったと思う。往復券を買うと25円である。市内のどこまで行っても一律運賃だったから、遠距離だと相当に割安だった。私の記憶だと学生定期で乗っていた最後のころは1ヶ月が540円だった。室見から東の九大中門までその定期で乗れた。距離にすれば10kmは超えていただろう。しかも、定期券1枚で途中の中州や天神でも途中下車ができた。まさに値千金の定期券だったのである。いまでは懐かしい思い出である。ところで、チンチン電車もこのごろはトラムといった方がカッコいいかもしれない。そしてわが町、熊本にも市電が残っている。その中に、私としては福岡市を走っていたと確信が持てる電車が走っている。電車の2両分を連接したもので、その外装まで福岡を走っていたときの西鉄電車そのものである。肌色と小豆色のツートンカラーだ。その連接車の最後部にあたる運転席横の隅っこが私の指定席だった。指定席というのは正しくはない。そこが好きな人が多くて、毎朝が席取り競争であった。
わかっていても<gラブル(07/01/10-W 1370)
 青島幸男が作詞し、クレージーキャッツの植木等が唄ったスーダラ節は一世を風靡した。その名文句わかっちゃいるけどやめられない≠ヘ私生活に関わる問題だった。まずは飲み過ぎだ。体に悪いとわかっていても=Aつい飲み過ぎてしまう。そして、いつも二日酔いになってから後悔する。これが2番ではギャンブルになる。歌詞の対象は競馬である。賭け事なんて勝つわきゃあない≠ニわかっている≠フだが、つい財布が空になるまでやめられない。さらに最後の3番は女性問題にまで発展する。甘い言葉に誘われて、ついつい女性に貢いでしまう。その挙げ句の果てに逃げられる。この自分が女性にもてるわきゃない≠ニわかっている≠ッれど、騙されたと気づくまで金を出してしまうというわけである。こうした習性≠ェ仕事に関わってくると問題は大きくなり、深刻さを増す。それは重大なミスや事故、そして災害にまで結びつくからである。規則やマニュアルは遵守すべし=Bそんなことは誰だって知っている。しかし、それができないために起きた事故はごまんとある。というよりも、世の中で起きる事故や不祥事のほとんどがこの手の原因によって起きているのである。あんなことが起きるなんて夢にも思いませんでした∞どう考えても信じられません。悪魔がいたとしか言いようがありません=B深刻な事態が起きてしまった後、関係者からこんな言葉を聞くことは案外と少ない。むしろ、まずいとわかってはいたのですが、ついつい惰性で∞おかしいとは気づいていましたが、みんなもやっているので≠ネどといった弁解の方が多いのである。何のことはない、わかっていた≠フに、やってしまった≠閾やらなかったり≠オていたということなのだ。
わかっているけど(07/01/09-Tu 1369)
 7日に123456件目をゲットしました≠ニいうメールをいただいた。いつも味な話の素≠読んでくださっている方である。私も少し前に123123≠通過したことには気づいていた。しかし、うっかりしていて、123456≠ヘ意識していなかった。だから、言われてみてあーそうだった≠ニ大いに喜んだわけである。それにしてもありがたいことこの上ない。アクセスカウンターも楽しんでくださる方がいらっしゃるのだから。こうしたお声に励まされて、味な話の素≠ヘ続いていくのである…。さて昨日の続き。わかっちゃいるけどやめられない=Bそんなことだから飲酒運転で事故を起こして人を不幸にさせる人間もいる。飲酒事故は被害者たちは言うまでもなく、事故を起こした本人も地獄に堕ちてしまうから深刻だ。加害者の家族だって針のむしろである。飲酒運転をしてはいけない≠ニいう知識なら、誰だって持っている。しかし、知識≠ヘ必ずしも行動≠ノは結びつかないのである。またわかっちゃいるけどできない≠アともわんさとある。中高年になると体のあっちこっちがおかしくなる。とくに血圧なんぞが嫌みのように上がってくる。メタボリック症候群=B昨年ごろから急にはやり出した。内臓脂肪がどうのこうのという話のようだが、これなんぞも大いに気になるところだ。その解決策としては食事と運動≠ェ定番である。とくに歩く≠アとが何よりもいいという。そこで一念発起、よーし、1日1万歩でいくぞーっ≠ニ大決断してはみる。ところが、これが言うほど簡単ではない。人によっては3日続けばいいところ。いやいや1日だけでぽしゃる者だっている。理屈ではわかっているのだが、それが実践できないのである。
民主型リーダーと専門性(07/01/08-M 1368)
 レビンたちの実験が示しているように民主型<梶[ダーは何でもかんでもお好きなように≠ナはないのである。一般の組織に当てはめて見ても、リーダー自身が専門的な知識や技術が豊かでなければお話にならない。相談があるときは、いつでもどんと来い=Bこんな実力と雰囲気があってこそ、民主的<梶[ダーの免許がもらえるのである。もちろん、自由放任型≠フリーダーが専門性に欠けているというわけではない。ただ、あんたたちの自由に≠ネんて言って放っていると、部下たちから誤解される危険性も増すことになる。大体、うちの上司はポリシーがはっきりしてないよな∞もともと哲学や理念がないもんね∞ひょっとして自信がないんじゃないの…=B知らないところでこんなこと言われちゃあかなわんでしょう。もっとも、この任せる#ヘ囲や程度が案外と難しい。基本的なところはキチンと指示や命令する≠ニ言うが、それがリミットを越えると、今度は専制型≠ノなってしまう。そのあたりは、組織の状況によっていろいろありだろう。この兼ね合いをうまく調合すること自身も、またリーダーシップと言うことになるのである。さて、レビンの業績で大いに評価されるものとして第2番目に挙げたいのは、集団決定法≠ナある。知行合一≠ネんて言い方がある。知っていることと行いが一致することだ。だから、知行不合一≠ニ言えば、知識と行為がうまくかち合っていないことになる。われわれの日常生活をふり返ると、知行合一≠謔閧熈知行不合一≠フ方が圧倒的に多いような気がする。わかっちゃあいるけどやめられない=B昨年暮れに亡くなった青島幸男氏が作詞したスーダラ節≠フ一節だが、まさに人間の本質を突いている。
孫は来てよし=c(07/01/07-Su 1367)  *3日の続き
 この数日は、孫に遊んでもらった物語を書いた。ともあれ初めての体験をした楽しい正月であった。孫は来てよし帰ってよし≠ネんて言うらしい。孫と付き合うのは楽しいが、年を取った身には体も堪える。そこで来てよし≠セけれど、帰って<zッとするということだ。しかし、新米のじいちゃん・ばあちゃんとしては、まだ帰ってよし≠ニ言う心境にはならない。そりゃあそうだ。なにせ4ヶ月だから、寝ている時間もけっこうある。母親や父親に抱かれておとなしくしている時間も長い。それに、ぐずったら両親が一生懸命にあやす姿をじっと眺めているだけ。じいちゃんに至っては機嫌のいいときだけ抱いて、怪しくなったらすぐ母親に渡すのである。いいとこ取りだから疲れることもない。これが少し大きくなって動き出したら大変だろう。まずは重いから抱いても疲れる。動き回って何をするか分からないから、さらに疲れる…。そんな時間を過ごしていれば、帰ってよし≠ネんて心境になるのかもしれない。まあそのときはそのときとして楽しみにしておきましょう。孫たちとの正月は本日をもっておしまい。さてさて、年末から続けている自己啓発セミナー≠フ話題に戻らなくっちゃあ。この3日までは、グループ・ダイナミックスの創始者であるクルト・レビンの業績を紹介していた。私が挙げる3大業績のひとつであるリーダーシップの実験まで話が進んだところだった。この実験では、民主型≠ニ自由放任型≠フ違いがおもしろい。私の解釈を入れて言えば、民主型≠フ神髄は、基本的な方向はきちんと示す、そして任せるべきはフォロワーを信頼して全面的に任せる%_にある。リーダー自身がきちんと責任を持つことが前提になっているのだ。
損得勘定の彼方(07/01/06-Sa 1366)
 昨日はチャイルドシートに補助金を出している市町村の情報を見つけていたのだが、うっかりメモし損ねた。そんなわけで、はっきり確認できないからやや怪しいが、大きな町は少なかったような気がした。少子化の中でも子どもの数が相対的に多ければ財政も厳しくなる。その点では同じように逼迫していても、出生児の絶対数が少なければ負担も相対的には軽いだろう。それに大きな町と接しているところでは、それなら隣の町に住もうか≠ニいったことにもなるかもしれない。この時代、若い人たちを住民として呼び込むことは自治体にとって大事なことである。金をもらう話だけに集中するのは上品でないと顰蹙を買うだろうか。しかし、子ども持つ若い世代は総じて裕福≠ナはない。そんな中で少子化≠問題にするのなら、目に見えるサポートを考えてもいいのではないか。もっとも、それは子どもがある人たちの論理であって、子どもがいない立場から見れば不公平に感じられるかもしれない。しかし、世の中の関わりは巡り巡っている。日本全体で見れば子どもたちが大きくなって働くようになる。そして彼らが支払う保険料が原資となって、子どもの有無にかかわらず年金が支給される。現在の年金制度そのものは青息吐息で、いつ潰れるか怪しいが、とにかくみんなが働いて支えているのである。世の中は短期的な損得勘定では動いていないのだ。それに、子育ては補助金をもらったから得をするなんてものじゃあない。純粋に経済的なことを言い出せば、子育てなんて大赤字もいいところだ。それに赤ん坊のときは肉体的にも精神的にも大変である。夜泣きでたたき起こされても、眠い目をこすりながらもキチンと対応する。そこには愛情があり、生きる喜びがあるのだ。
修行スタート(07/01/05-F 1365)
 トイザらスじいちゃん≠ノなりたいと願っても、そこへ簡単に到達できる訳ではなかった。その前にベビーザらス≠ネる関所が通せんぼうをしていたのである。しかし、いま関門の存在を知ったからといって躊躇していることはできない。何としても、その関所は突破する必要がある。それこそが修行の道ではないか。そこで、元日にベビーザらス≠ネる関所をチェックしに出かけた。孫を先頭にして、息子夫婦に従いながら、じいちゃん・ばあちゃん、そしておばさんまでもが付いていった。そこでじいちゃん・ばあちゃんは目を瞠ることになる。あるわ、あるわ赤ちゃん用品があふれかえっているではないか。何分にも修行の身である。驚いてばかりはおれない。そこで3着ほどかわいい&桙購入させていただいた。息子曰く、かわいい、かわいいなんて言ってるけど、それって大人の自己満足だよね=Bうーん、まさに正解である。生後4ヶ月の孫に、自分の服の評価ができるとは、いくら何でも考えられない。そこで分かったことがある。なあるほど、この手のお店のターゲットは若い両親だけではないな。そのバックにいるじいちゃん・ばあちゃんの財布をねらっていることは疑いない。とくに団塊の世代は鴨ネギ¥態ということだろう。それにしても、チャイルドシートなんて無茶無茶に高い。若い親たちには相当の負担だ。その売り場に掲示があった。熊本市近郊の2つばかりの町では、購入費用を1万円を限度にサポートすると書いてある。○○町の人はいいねー=Bそこにいた若い夫婦の会話が聞こえてきた。ネットで調べると、熊本県内でもこうした対応をしている町はかなりあった。まさに少子化対策なのだろうが、自治体によって違いがあるのだ。
修行の道(07/01/04-Th 1364)
 孫が生まれてから決めていたことがある。トイザラスじいちゃん≠ノなることだ。そこで修行のスタートに当たって店名の勉強からはじめた。まずはワープロでといざらず≠ニ入力するとトイザらス≠ニ変換される。もう完全に固有名詞として認知されているのだ。ここで興味を引くのは4文字目のら≠ェカタカナではなくひらがなに変換されることである。これが正式な名称なのだ。本家本元の英語ではToys"Я"usとなっている。やはりЯ≠ェ反転している。その語感からToys are us≠ェ連想される。おもちゃのことなら私たちにお任せくださーいっ≠ニいう乗りだ。それに創立者のチャールズ・ラザラス(Lazarus)に近い音でもある。ただし、名前に被せたというのは俗説なんだそうな。それにしても、Я≠ェ反転しているのがちょっと気になるところだ。何となく、はしゃいで足を伸ばしている赤ん坊≠ノも見えてくる。いかにもアメリカ的なお遊びかユーモアの発想なのか。そのこと自身が興味を引く効果を持っている。アメリカでは、アルファベットを習っている子どもがЯ≠反転させて書くことがあるらしい。そんなことから、わざとЯ≠ノしたんだそうな。なかなかおもしろい。さて、名前の由来を知ったおじいちゃんは、さっそくトイザらス≠ノ出かけようとした。ところが、その認識がいかに甘いかを知らされるのである。トイザらスじいちゃん≠ノなるための修行は、想像を絶する厳しいものだった。トイザらス≠ワでの道のりは遠く険しいものなである。な、なんとトイザらス≠フ前に越えなければならない大きな関門が立ちはだかっていたのだ。その名はベビーザらス≠ニ言う。その名の通り、赤ちゃん$齧蛯フ店があったのだ。
リーダーシップは行動(07/01/03-W 1363)
 レビンたちが行った社会的風土の実験で注目すべき第2のポイントは、リーダーシップの本質に関わることである。彼らは民主∞専制∞自由放任≠フ3つの指導法を設定したが、実験を行う際には指導者を特定の型に固定しなかったのである。たとえば、民主′^で指導した者が、次には専制′^の役割を取り、さらに自由放任′^になる。これは指導法の違いよりも、指導者の個人的な特性が子どもたちに影響を与えることを避けるために取られた措置である。およそ実験をするからには、事前にさまざまな条件をコントロールをしておくのは常識なのだ。そうでないと自分たちが明らかにしたい効果について自信を持って主張することができないからである。しかし、そのためのコントロールがリーダーシップが何であるかを明確にすることになった。それはリーダーシップが個人の特性≠ナはなく行動≠ノよって影響を受けているという事実である。同一人物であるA氏が専制%Iな指導法を採用した場合と、民主%Iな行動をとったときとでは、結果に差が出たのである。A氏の容貌を含めた姿形は変わることはない。指示を出す際に発する声の質も同じである。ただ違うのは専制≠ゥ民主≠ゥ、はたまた自由放任≠ゥといった働きかけ&である。子どもから問われたときに、しっかりサポートするか、勝手にしていいよ≠ニ答えるか。そもそも質問そのものを拒否するような雰囲気を漂わせるのか。声の質は変わらなくても、そこで伝えるメッセージが違えば、受け止め方も異なって当然だ。くだらん質問なんかするな≠ニうーん、なかなかいいところに気がついたねえ≠ナは天地の差がある。まさに、リーダーシップは行動≠ネのである。
民主」s.自由放任(07/01/02-Tu 1362)
 さて昨年末の30日まで、自己啓発セミナー≠ノ端を発したシリーズを書いていた。大晦日と元日は小休止をいただいて孫≠フ話に花が咲いた。ここで自己啓発セミナー≠フ連載を再開したい。シリーズはグループ・ダイナミックスの創始者であるレビンの研究を紹介するところまでいっていた。その研究のうち、まずはリーダーシップに関わる実験を取り上げた。子どもたちを対象に、リーダーが民主∞専制∞自由放任≠フ3つのタイプで子どもを指導した。その結果、専制≠竍自由放任<^イプの場合、服従行動や攻撃反応、そして自分勝手な振る舞いなどが目に付いた。これに対して民主′^では、子どもの精神衛生も落ち着いて、成果物も望ましい出来映えになったのである。その結果だけから見ると何とも常識的に思える。しかしこの実験はなかなか示唆に富んでいる。その第1は民主≠ニ放任≠ェ違うことを明らかにしたことである。自由にしていいよ≠ヘややもすると自分勝手にしていいよ≠ニ同義になってしまう。リーダーは状況を把握して、進むべき方向をはっきり示すことが必要なのだ。その上で、メンバーたちの発想や意見を尊重すればいい。集団の目標から見て誤った方向に走りそうなときは、それを修正するのがリーダーの役割である。その際にフォロワーの意見を聞き、それを取り入れることは進んですればいい。また相談を受けたときは、状況に合った対応策を示す力量が求められる。そんなときこそ、フォロワーからさすがはリーダーだ≠ニ評価されるチャンスなのである。そこであなたたちの自由にしていいよ≠ネんて言おうものなら、信頼失墜は間違いない。それではリーダーとして責任を放棄していると思われてしまう。
2007年 明けましておめでとうございます
今年も、朝からキャッキャ≠ナ書きますので、よろしくお願いします。
慌てず、怠けず(2007年01月01日 月曜日 1361)
 新年、明けましておめでとうございます。2007年が皆様にとりまして、よい年でありますように、心からお祈り申し上げます。今年は、いわゆる団塊世代≠フトップランナーたちが定年を迎える。この団塊の世代≠ニは、1947(昭和22)年から1949(昭和24)年生まれの大量出産℃梠繧フ子どもたちの一群を指している。堺屋太一氏が書いた同名の小説によって世の中に定着した。私なんぞも団塊クラブ≠フ正式メンバーであるが、還暦がお隣近くまでやってきた。そうなると、つい先が見えたなあ≠ネんて気持ちになってくる。そんなときに孫%o場である。まさにスーパースター、元気の素だ。よく一世代≠ェ30年といわれるが、自分の子どもを育てて30年、そろそろくたびれてくるころになって、次の世代≠ェ目の前に現れる。人様の子どもを触るチャンスなんて、なかなかないもんだ。そんなことしていたら、それこそ不審な老人≠ノなってしまう。それが、わが孫であれば抱っこだってできる。柔らかな小さな手や足は、30年ほど前の子どもたちの感触と同じものだ。ばあ≠ナもすれば声を出して笑う。いつもは休みの日だって自分の部屋で仕事しているのに、今日はどうしたのかい=Bそう言って、息子から笑われた。これでまた元気で、長生きしよう≠ニいう気分になるのだから、孫のパワーはものすごいのである。還暦近くなっても、こころはゆったりと生きていきましょう。高校の卒業文集に書いたことを思い出した。慌てるな、人生はそんなに短くない。怠けるな、人生はそんなに長くもない=Bわれながら、なかなかいいキャッチコピーではございませんか。今年の干支はイノシシ≠ナす。突進≠オ過ぎには気をつけましょうね。