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味な話の素
No.42 2006年10月号(1268-1298)
 
Discover Korea(06/10/31-1298)
 初めて行った韓国だったが、おもしろい発見がいろいろあった。まずは会場になったインハ大学だが、それはそれは立派な大学だった。まずはキャンパスの中に本物の飛行機が置いてあるのが目に入った。もちろん展示なのだが、少なくとも2機が存在を誇示していた。これには理由があって、大学のスポンサーが大韓航空(KAL)なんだそうな。それなら飛行機があってもおかしくないというわけだ。1954年の創立とのことだが、当時は工学部系で出発したらしい。しかし、いまでは国内でも指折りの大学だというから大したものである。ものすごい図書館もあって、コンピュータ教育の設備も整っていた。そこが学会の会場でもあったが、気がついたら私のPCが反応していた。無線LANが完備されているのである。1階のフロアーにはKALの創始者のビデオが流されていた。大きな液晶テレビはもちろん、SAMSUNGである。この施設も当然ながらこの人物の寄付というわけである。わが国でも、東大の安田講堂など財閥系の寄付で建った施設もあるにはある。しかし、このごろのわが国はどうなんだろうか。どうも教育に投資という迫力が感じられない。今年4月には、トヨタ・中部電力・JR東海が中高一貫の学校を発足させたというニュースは見た。しかし、これも大学規模までには至っていない。さて学会の話に戻ると、夕食後のアトラクションも大いに楽しむことができた。スタートはテコンドー・ショーである。食事の際に同席したインハ大学の体育教授がこれは世界一のショーだ≠ニ胸を張っていた。そこで、私も張り切って、なぜか空いていた前方の席に座った。ところが司会の英訳をする女性が寄ってきて、○△□※◎◇×…=Bわたしゃあ、韓国語は分からんですたい。
 韓国からのライブ版は本日で終了です。
元気な国の教育(06/10/30-1297)From Korea 3
 いまでは高度経済成長≠ヘ日本昔話となった。しかし、アジア全体で見れば、けっこう調子がいいようだ。最近の中国やインドの成長はめざましい。ベトナムも注目されている。韓国やシンガポール、それにマレーシアなどは、もう先進国の水準に近づいているのではないか。そうした中で、教育の奇跡≠起こそうという会合が韓国で主催されたことには大きな意味があると思った。とにかく元気がいい。先進国に近づきながらも、本物までにはもう一歩という感じなのだろう。主催者の中心人物からはとにかく学力を伸ばそう≠ニいうかけ声が発せられた。それがどうのこうのと迷っている暇はない≠ニいった調子である。ひたすらまっしぐらというのは問題もあるだろうが、とにかく教育が大事≠ニいう点で徹底していた。開会の記念行事では教師の団体(Korean Federation of Teachers' Associations) の会長が挨拶をした。私の英語はかなり問題で Konglish と言った方がいいかもしれません≠ネどとジョークからはじめた。ところが何の何の、私が聞く限りかなりのできであった。発音だってしっかりしていた。こんな場合、日本ならどうなるんだろうかと思った。会場はインチョン市にあるインハ大学である。韓国で10指に入る有力校だとのこと。校内に両親とその子どもと思しき一団がいた。夕刻だったか、教室のカーテンの隙間から親たちが中を覗いていた。あとで聞いたら入試だったという。あまり大きな規模ではなかったので、限られた生徒を対象にしたものだったのかもしれない。韓国人の教育熱心はよく知られているが、入試に両親とともにやってくるという光景は日本では見られない。ともあれ、教育をいい加減にする国はいずれ滅びるに決まっている。
奇跡の思い出(06/10/29-1296)From Korea 2
 仁川国際空港で指定された集合場所に集まったまではよかったが、それから転けた。われわれを宿舎まで運ぶバスの都合がつかなくなったという。そこでやむを得ず、3〜4人が一緒になってタクシーに乗った。ところが、これがものすごかった。降りたばかりの飛行機が負けそうになるほどの猛スピードで走るのだ。これはぶつかったが最後、車の跡形もなくなるだろうと確信した。まあ神様がいたのか、結果としては無事に目的地に着いた…。さて、韓国は思ったほど寒くなかった。熊本は夏は暑く冬は寒いが、寒暖の差が大きい。そのため、この時期も早朝はけっこう冷えたりする。少なくとも昨日と今日の韓国の朝は、その程度である。ところで、今回参加している学会は、Asia's Educational Miracle≠ェテーマである。アジアにおける教育の奇跡≠起こそうというわけだ。われわれにとって奇跡≠ニいうことばにはある種の懐かしさを覚える。その昔、日本の経済は奇跡の復興≠遂げたと言われた。昭和30年代の終わりから40年代にかけて、国民総生産の伸びが10%前後にも達した。そして池田勇人総理大臣が所得倍増計画≠打ち上げ、現実がそれをも上回って走っていった。田中真紀子氏の父親である田中角栄首相のときには、1年でベースアップが30%の年まであった。例えば給料が20万の人が、翌年は26万円になるのである。そのかわり物価の上がり方も相当に激しかった。その中でも土地の値上がりは凄まじかった。この先、必ず高くなると思うから、誰もが土地を買おうとする。その結果、さらに価格高騰が起こるという循環にはまっていた。いわゆる土地神話≠ニ言われるものである。当時その異常さを指摘した専門家がどのくらいいただろうか。
韓国でもLANが使えました!
韓国便り(06/10/28-1295)From Korea 1
 おはようございます。いま4時40分。昨夜、学会に出席するために韓国にやってきた。こちらでもLANが使えた。これで、今日も元気に味な話の素≠フ開店である。じつに楽しい時代になったものである。因みに時間は日本と同じだ。せっかくだから、昨日まで書いていた携帯の迷惑おばさん≠フ件は、熊本に帰ってから続けることにする…。さてさて、わたしは初めて韓国に来たが、まあ近いこと、近いこと。たしかに地図上では近いと思っていたが、それを実感した。もっと具体的に言うと、福岡から1時間05分でソウルのインチョン空港に着くのである。時間的には、熊本から大阪までとほとんど変わらない。福岡を飛び立ったのが18時20分。日も暮れて、光り輝く夜景を見ながら飛行機は北西へと向かった。福岡の灯りが見えなくなる前から、海の上には漁り火が点々と続いていた。それからほんの少しして、また町の灯りが見えてきた。これは推測だが、あれは対馬だったのではないかと思う。そしてすぐに、今度は韓国に近づいたようで、海際の灯りが見え始めるのである。その後は、ぽつんぽつんと光の塊が見える。わが国で言えば、日本アルプスあたりを飛んでいる感じだ。山々は真っ黒になっているが、その中に町や集落のような灯りが見えるのである。そうこうするうちに、広い範囲にわたって街の灯りが見え始めた。あれがソウル市街だったのだと思う。それから間もなく飛行機は国際空港に着いた。開港時にニュースで見た記憶があるが、かなりの大きさである。ソウルからは30kmほど離れているようだ。事前に知らされていた待ち合わせ場所に行くと、学会に参加するメンバーが10人ほど集まっていた。中国や香港からの研究者もいて、なかなか賑やかである。
 本日27日から30日まで韓国へ出かけます。LANが使えない場合は、まとめて30日の夜に更新します。
暗闇の呼び出し(06/10/27-1294)
 心のインフラ*「整備を感じることはしょっちゅうである。つい先日の休みの日に家内と映画を観に行った。いつもは近所のシネコンだが、今回は別の映画館まで出かけた。お目当ての映画がそこでしかやっていなかったからである。さて、映画がはじまってどのくらい経過しただろうか。突然、携帯電話の呼び出し音がけたたましく鳴り響いたのである。この音だけでも他人にとっては相当にうるさく感じるものだ。しかも、音量をやたらとでかくしている人がいる。自分が聞きづらいのかどうか知らないが、会議や話の途中でドカーン≠ニくるから参ってしまう。その上、どう考えても似合わないメロディーをセットしているおじさんがいる。あんた少女趣味かい≠ニ吹き出したくなることもある。操作ができずに、娘にセットしてもらったのかもしれない。しかし、笑っているよりも不愉快さの方が優ることが多い。むしろメロディーが不釣り合いであるほど、カチン≠ニきたりする。これなんぞは、マナーが守れない人が迷惑機械を持っている事例である。しかし、それにしても暗闇の映画館で携帯が鳴り響いたのには唖然とした。少なくとも私には初めての体験だった。まあ自慢じゃないが、いや自慢だけれど、年間にすれば20回以上は映画館に通っているが、とにかくこれには驚いてしまった。その音源は女性だった。年の頃は私と変わらないか、少し上といった感じである。そのことは映画が終わった後にしっかり見て確かめた。とにかく携帯の電源を切っていなかったことだけでも信じられなかった。ところが、話はそれで終わらないのである。むしろ、その後の方が凄まじかったと言うべきか。何とそのおばさんは、携帯のスイッチを切らずに話しを始めたのである…。
インフラ未整備(06/10/26-1293)
 昨日は、おとといまでの投書≠フ続きのつもりだったのに寄り道をしてしまった。しかし、味な話の素≠ヘそれでいい。いつまで何を書かねばならぬといった制限も締め切りもない。まことに気楽なものである。それにしても、われながらしつこく書き続けているものである。この点は、何と言っても両親に感謝しなければならない。何年経っても寝込むようなことのない身体をプレゼントしてくれたのである。本当にありがたいことだ…。さてさて、例の投稿だが、あれは自己中心的だと文句をつけた。警官からシートベルトをはめなかったのを咎められた。その際に妊娠しているため≠セと勘違いされた。それ幸いにハイ≠ニ嘘を言った。それで違反と認定されるのを免れた。それにもかかわらず、自分が妊娠していると思われるくらい肥っていると見られたことに憤慨したというのである。やれやれ、何という自己中心中毒だ。そんなら嘘を言わずに、文句を言えといいたくなる。まあ、こんなストーリーだ。こんな文章を読んでいると、人間が環境の変化に対応できていない姿が浮かび上がってくる。早い話が自動車がなければ、シートベルトを締めるの締めないのといった問題は起こりようがない。しかし、現実には車の洪水である。もう日本人の大半が免許を持ち運転する。だから、いろいろ問題も起きてくる。あの深刻な飲酒運転だって、車がない世界ではあり得ない。そう考えると、人間そのものが自動車という機械に追いついていないのである。まあ、別の言い方をすると、車に乗る資格のない人が車を運転しているのだ。自動車交通に欠かせないインフラである道路は随分とよくなった。しかし、運転する人間のインフラである基本的な心の方はまるで未整備なのである。
寄り道(06/10/25-1292)
 身辺整理≠進めていたところ、随分前に取ったコピーが出てきた。それは、ある雑誌に投稿された、まことに自己中心的な投書だった。そこで、いつものように文句をつけた…。部屋の片付けをしていると、目にとまるものが出てくる。そこでついつい道草を食ってしまう。しかし、これもまた楽しである。時間の余裕があれば、道草や寄り道は心の洗濯になる。もっとも、忙しいと分かっているときでも脇道に逸れることがある。また、それほど大事なことではないのに、そちらから先に処理しようとすることもある。手元にはもっと緊急の仕事があるにもかかわらず、後回しにするのだ。これなどは、ある種の逃避といえるかもしれない。仕事の優先順位はちゃんと分かっているのである。それでも、なぜか手を付けない。そうかと言って、後でやった方ができがよくなる訳でもない。むしろ時間が切迫して、妙な妥協に追い込まれることだってある。もちろん改めて見直す時間も取れなくなる。とにかく状況は悪くなるだけなのに、同じことを繰り返す。それが人間というものだろうか…。私が仕事をする際に大事にしたいと考えているキーワードは、優先順位≠ニ集中≠ナある。まあ書いてしまえば単純な二つのことばだが、これがなかなかの強敵である。いくつになっても、最優先でないことをする誘惑に駆られる。もっと集中した方がいいと思いながら、別のことに目が向いている、注意散漫な自分を発見する。そんなことで、この二つはこれからもずっと私のキーワードであり続けることだろう。おやおや、また寄り道している自分を見つけた。じつを言うと、今日は昨日まで取り上げた頭にきたこと≠ニいう投書から頭に浮かんだ話題に続けようと考えていたのである…。
自己中心中毒(06/10/24-1291)
 シートベルトをしていなかった理由を妊娠中のためだと間違えられた。そこで警官に「ハイ」と嘘≠言った。そのおかげで違反キップを切られなくてすんだ。しかも、警官は「大事にしなさい」とまで言ってくれたのである。何のことはない。本人が嘘を言って助かったくせに、そのこと自身で文句を言っているのだ。いい加減にしなさい。そんなら堂々と「妊娠なんかしてません」と言いなさいよ。まったく、自己中心中毒もここまでくれば表彰状ものである。この手の理屈があっちでもこっちでも通りまくる。それがいまの日本人の精神構造なのである。これじゃあ世の中がよくならないはずだ。まあまあ、この程度のことで本気になってカッカしていたら身が持たないかもしれない。ひょっとしたら、この投稿の主は笑い話のつもりで原稿を書いたのかもしれない。しかし、あの欄はジョークを取り上げるコーナーではなかったはずだ。「妊婦の免責」と真面目な題も付けられていた。まあ書く方も書く方なら、それを採用する方に対しても、その真意を疑ってしまう。お互いに遊びのつもりならそれでいいが、けっこうマジに読む者だっているのだ。せっかく人情味を発揮してくれた警官にだって失礼である。この記事の掲載はかなり昔と書いたが、コピーには1993年の日付があった。私は、「身辺整理」と称して、少しずつ部屋の整理をしているが、その過程でこれが出てきた。つい先日のことだ。授業のネタにするつもりだったものである。読んだときにスクラップしていて、取り上げる機会がないまま放置していた。ここにきて、ようやく日の目を見ることになったのである。めでたし、めでたし…。その当時はインターネットやホームページなどは考えもつかない時代だった。
憤慨の理由(06/10/23-1290)
 パトカーに止められてシートベルトを着用していないことを指摘された。そのとき警官から「妊娠してるんですか」と問われて「ハイ」と答えた。ところが声が小さかったのか、もう一度、同じ質問を受けた…。昨日は、「頭にきたこと」というテーマで掲載された投稿をここまで読んだ。この時点で、どこが「頭にきた」のかよく分からない。2回も聞かれたのは声が小さかったからで、答えた方の問題ではないか。それとも警官の態度があまりにも威圧的で許せなかったのか。そこで先に進むと…。「今度はもっと大きな声でそうだと答えると、『大事にしなさい』と一言残して立ち去りました」。おやおや、警官の対応が悪くて「頭にきた」のかという予想は見事に裏切られた。それどころか、大岡越前もビックリの人情味溢れるやさしい警察官ではないか。これで一体、どこが「頭にきた」と言うんだろうか。そこでさらに読み進むと…。「違反キップは切られませんでしたが、あとでモーレツに腹が立ってきました。」となるのである。な何ですって、キップも切られていないんでしょう。この状況は、どう考えてもテーマが「感謝したいこと」のときに出すべき原稿ではないですか。みなさんはいかがですか。この投稿者が怒っている理由がお分かりですか…。正直な話、ここまで読んでも、私は彼女が「頭にきた」理由がさっぱり分からなかった。そして、この投稿は次の一文だけで終わるのである。「私はそんなに肥えていません!」。まさに、ビックリ仰天の結末。しばらくの間、開いた口が塞がらなかった。なあるほど。それで「夫がピクン≠ニ身体を動かした」わけがわかった。それは「妊娠を理由に、シートベルトをしていなかった言い訳にしろ」という合図だったのだ。
頭にきたこと(06/10/22-1289)
 もうかなり昔のことになるが、ある雑誌にとても興味深い投稿記事が掲載された。その号のテーマは「頭にきたこと」である。まずは冒頭から引用しよう。「『その車、左によって停車して』いきなりパトカーに呼びとめられ、慌ててハンドルを切って道路の端に停車すると、おまわりさんが 『あなたシートベルトしてませんね』それから私をよく見て、こう付け足しました、」。少しばかり読みづらいかもしれないが、句読点や空白は原文のままにしている。ここはまだ、≠セから文章は終わっていない。しかしここまで読んで、投稿者が遭遇した状況が分かってくる。なにせ、「頭にきた」というテーマに応募して採用された原稿である。私としては、さぞかし警官の対応が悪かったのだろうと推測した。そこで続きを読んでみよう。「『あなた妊娠しているんですか?』 助手席の主人がピクンと身体を動かすのが分かりましたが、私がためらいがちに小さくハイ≠ニ言うと、相手は聞こえなかったのかまた同じことを聞きました」。ここでめでたく一文の区切りがついた。さて、この時点で、寄稿者が「頭にきた」理由がお分かりだろうか。何で亭主がピクン≠ニ身体を動かしたんかいな。そんな疑問が湧いた方もいらっしゃるだろう。まあ、ともあれ投稿者が女性で妊娠中≠ナあったことは間違いないようだ。ためらいがち≠フ小さな声だったので、警官はもう一度確認したらしい。そりゃあ当然だろう。もっと大きな声で言えばいいだけのことである。もっとも、妊娠していることを知られたくないとか、言いたくないという人だっているかもしれない。世の中はいろんな人がいるから…。しかし、この投稿者の女性がシートベルトをしていなかったことだけはたしかなようだ。
悪魔対策(06/10/21-1288)
 赤ん坊を後部座席に置いたまま、そのことを忘れて仕事場に向かった。そんなことが実際に起きるのである。どう考えても悪意がある行為ではない。ことばを選ぶならうっかりしていた≠ニいう軽い表現になるだろう。しかしその結果、赤ん坊が亡くなるという、この上なく重大な事態を引き起こしてしまった。父親は仕事のことで、それほど気になることがあったのだろうか。それにしても習慣とは恐いものである。われわれは、いつもと違う≠アとがあれば、それについてはちゃんと気づくし、きちんと頭に入っていると思う。しかし、この事例を見ると、人間はいつもと違う≠アとがあっても、気づかなかった≠閾思い出さなかった≠閧キることがあるのだ。まことに不幸なことである。生まれて1年にも満たないうちに亡くなってしまった赤ちゃんがかわいそうでならない。いずれにしても、世の中どんなことが起きるか分からない。これもまた危機管理の問題だということができる。組織も個人も、日ごろと違う行動を取るときは、そのこと自身をしっかり押さえておく必要がある。後部座席に赤ちゃんを置いたのなら、そこに鞄や上着も一緒に置いておく。自動車のキーにメモを貼り付ける。あるいは、裸足になって靴は後部座席に置く…。裸足になるなんて笑い話のようだが、こうした二重三重の措置を取っておくことで、うっかりミス≠防ぐことができると思う。それこそが Fail-Safe の精神なのだ。おそらく父親自身、自分が赤ん坊を車に放置するなんて、その可能性すら考えていなかったのではないか。悪魔はそんな心の隙間につけ込んでくるのである。情報は限られているから、どうしても推測だけでものを言うことになるが、何とも悔やまれるニュースだった。
習慣の怖さ(06/10/20-1287)
 わが子を車の後部座席に置いていながら、そのことを失念する。そんなことは起こりようがないと思う。しかし、それが現実のものになり、赤ん坊が熱中症で亡くなる事故になってしまった。ネットで見た新聞記事にはその原因までは書かれていなかった。そこで、あえて推測すれば、いつも赤ん坊を保育所に連れて行くのは父親ではなかったのではないか。その行為が父親にとって習慣化されていなかった。そうなると、自宅と保育所の位置関係にもよるが、通勤途上に保育所があるとは限らない。そして、保育所に赤ん坊を手渡すという習慣的な行為も身体に身に付いていない。そんな状況の中で、何かの要因が働いて保育所に寄ることを忘れてしまったのだと思われる。これまた勝手な推測だが、その日の父親には仕事のことで気になることがあったのかもしれない。自宅を出てからまっすぐ職場へ向かう。そして、いつものように駐車場に車を置いて、そのまま仕事場に向かう。こうした一連の行動が完璧に習慣化されていた。そうなると、いつもの通り≠ナとくに異変を感じることもない。職場に着いてみれば頭は仕事に切り替わってしまう。とくに朝のうちに済ませなければならない急ぎの仕事でもあれば、注意はそちらに集中する…。そもそも日常的にはこうでないと困るのである。あれやこれやと余計なことを考えていると仕事も捗らない。すぐに集中できることは、人間が仕事に専念するために期待される能力でもある。ところが、その望ましい力を持っていることが、ときとして裏目に出てしまう。その結果として、個人や組織にとってきわめて望ましくない事態を引き起こすのだ。こうした逆説的な力が事故や災害となって現れることになる。まことに皮肉で不幸な話である。
もうひとつの放置事故(06/10/19-1286)
 少し前にも、車に赤ん坊を放置した記事を目にした。父親が子どもを車の中に置いていたために、男の子が熱中症で亡くなったというのである。子どもは生後11ヶ月だという。かわいくてたまらないころだろう。この事件=Aまたしても親が遊びほうけていたのかと思いきや、今回は様子が相当に違っている。父親は通勤途上だったのである。その日の朝、父親は保育所に送るために子どもを後部座席に乗せた。ところが何と保育所に寄るのを忘れたというのである。父親はそのまま仕事場に直行し、いつものように駐車場に車を置いたらしい。子どもを車に置いていたことを思い出したときは、すでに5時間ほど経過していた。それから子どもを病院に運んだが、かわいそうに亡くなってしまったという。わが子を車に放置して5時間も思い出さないというのは、にわかには信じられない話である。ここで父親を責めるのは簡単である。しかし、今回はすぐにそんな気持ちになれないところがある。この父親がまあ、いいや≠ニ思って赤ん坊を放置したのでないことは明らかである。そこで、どうしてそんなことが起きたのか、その原因を考えてみたくなる。記事から推測すると、いつもは母親が子どもを保育所に連れて行っていたのではないか。毎日のことなら、保育所までの道が通勤ルートに入るはずだ。それは遠回りであっても、自宅−保育所−勤務先≠ェ決まったコースとして頭にインプットされる。したがって、ほとんど意識せずに車は保育所に向かうことになる。そして、毎日そこで車を止め、赤ん坊を保育所の中まで連れて行き、保育士と挨拶を交わす。それが習慣的な行為として定着していたはずである。そうだとすれば、父親がこうした一連の行為を忘れるとは思えない。
理屈じゃない(06/10/18-1285)
 子どもを炎天下の車の中に放置していては危険だ=Bそのことを知らない親はいないだろう。しかし、まずいとわかっていても、やってしまう≠フである。それでもパチンコに興じるとなると、もう理屈では理解できなくなる。それは依存症の世界であり、病気の領域に入ってしまう。元有名私立大学の教授だった某氏の場合も、その例外ではなさそうだ。彼が電車の中で女子高校生に触ればまずいことを知らなかったはずがない。しかも数年前にもトラブって職を失っている。その上で世の中から疑惑の目で見られるような行為をすればどうなるか。そんなことは考えるまでもない。まさに、李下に冠を正さず≠ナある。その気がなくったって誤解≠ウれる。そんな立場にあるのだ。あれからどのくらい経ったのだろうか。すでにほとぼりが冷めて、別の大学に教員として復帰していたという。お得意の分野である経済分析でも、小泉政治を取り上げた力作を雑誌に書いている。ようやく復帰の足がかりができた。そんな状況にありながら、またまた電車の中で手が動いてしまったらしい。こうなると、やってはいけませんよ≠ネどというお説教では効果は期待できない。もう理屈じゃないのである。人間は理性の動物だったはずだ。ことばも使いながら、論理的にものごとを考え、自分自身を抑制することができる。それが人間の霊長類たる所以ではなかったか。しかし、頭では分かっていても身体が言うことを聞かない。沸々と湧き起こる心の突き上げに抵抗できない。そして気がついたら捕まっていた。某氏の場合、今回の事件についても周りの誤解だと主張しているようだ。一般的に性犯罪≠ヘ繰り返される傾向があるという。ただ病気だから≠ニいうだけではすませない。
赤ん坊放置(06/10/17-1284)
 子どもを炎天下の車の中に置いたままパチンコに興じる。その結果、小さな子どもが熱中症で命を落とす。それも父親と母親が揃ってパチンコという事例がけっこうある。パチンコは完全に個人的な遊技だ。しかも、隣り合わせの台がジャンジャン出るなんて可能性はきわめて低い。となると、いつも横に座って仲良くでもないのである。そんなら、どちらかが子どものことを考えろーっ≠ニ叫びたくなる。そのそも、わが子が赤ん坊のときくらい遊びほうけるのは我慢しなくっちゃあ。そんなこと言うと、すぐに個々人の自由≠ネんて反論されるんだろうか。しかし、親の責任≠ヘ大いに自覚してもらわねばならぬ。この種のニュースはテレビなどでも頻繁に取り上げられている。知りませんでした≠ネんて言い訳は通用しない。車を運転したことがなくっても、炎天下で駐車していたらどうなるかくらいは誰でも知っている。人から言われて気づくようなものではないのだ。車に放置された子どもの悲劇が報道される数そのものは多いとは言えない。しかし、この手の記事を見るたびにああ、またか≠ニ思う。嘆かわしい話である。このごろは、パチンコ店の従業員が駐車場の見回りをしているところもあるらしい。子どもが見つかったら、店内放送をするというのだ。ここまでしないといけないなんて、どんな時代なんだろうか。私が20代のころはときおりパチンコ屋に行った。その当時、赤ん坊をおんぶして必死の形相でパチンコ台に向かっている母親を見ることがあった。耳を劈く金属音、そしてむせぶようなタバコの煙…。そんな中でパチンコに集中できる母親がいるなんて信じられなかった。いつの新聞だったか、今度は託児所付きのパチンコ屋さんが登場したらしいですよ。
ミスの指摘(06/10/16-1283)
 さてキン肉マンの歌≠セけれど、たしか牛丼一筋…何とかかんとか≠ニいう歌詞だったと思う。ガラガラ声での歌も聴いたような気がする。ともあれ、ワイドショーでキン肉マンの歌≠説明するときのことだった。フリップに牛丼の歌≠ヘキン肉マンの国家≠セと書かれていたのである。うーん、これも国歌≠フ間違いなんだろうな。一目見ただけで分かるのに、これまた誰かが気づかないもんかと思ってしまう。放送局にとっては、ことばや映像に現れる文字は最も重要なものだ。そこに間違いがあれば欠陥商品だと言うことになる。どんな世界でも、自分たちのミスや間違いに対する感受性が必要なのである。そして、ミスや問題に気づいたら、それ指摘する者がいないとまずい。そうでなければ、小さなミスがそのまま看過され、その蓄積がついには大爆発となるのである。そこまでいくともう手遅れで、組織の存続まで危うくなってしまう。これはおかしい≠ニ思って発言する。「ちょっとおかしい」という感受性を育てること、そして問題点を抵抗なく指摘できること。これらが実現できているかどうか。それは組織風土にかかわってくる問題である。言わなければならないことが言えない。組織にそうした雰囲気があれば、誰もものを言わなくなる。さらにひどい場合には、発言に対して否定的な反応が返ってくることもある。つまらんことをいちいち言うな=A人の揚げ足を取るな=Bそんな非難である。前者では、言っても仕方がない=A後者の場合は言いたいことが言えない≠ニいう気持ちになってしまう。しかも最悪の事態になった後で、言いたかったけれど発言できなかった=A言ったけど聞いてもらえなかった≠ニいう声が挙がるのである。
キン肉マン(06/10/15-1282)
 ずっと前にもかな、かな症候群≠ノついては書いたことがある。とにかく、やたらとかな≠つける人が多い。それを聞くたびに気になって仕方がない。かな¢ス用派には大臣まで含まれる。このことばは、自分の行為や判断の責任を曖昧にする。今回の対応は好ましくなかったかなと考える=Aお詫びした方がいいかなと思う=c。これは、対応は好ましくなかった=Aお詫び申し上げる≠ニ言うべきなのである。何も、かな≠ネんて迷う必要などないのだ。ただし、かな≠ヘ相手のまずい行動をたしなめるようなときには効用もある。その際は、婉曲的な感じになり、相手の行動を配慮した雰囲気が生まれるからである。ところで最近は日本語をテーマにしたクイズ番組も見るようになった。この手の放送は、人をいじめて笑いものにするようなものと比べれば、それなりに楽しめる。しかし、洪水のように流れてくる情報だから、気になることの種は絶えることがない。先月のことだが、吉野家がアメリカ産の牛を使い始めた。その日はどの局も大勢の客が殺到した光景を伝えていた。その話題を取り上げたワイドショーだったかをたまたま見た。気になるメモ≠ノよると日付は9月18日である。世の中には牛丼の歌≠ネるものがあるらしい。その昔、子どもたちの間で流行ったアニメの「キン肉マン」で歌われていたという。そう言われれば思い出す。日曜日だったような記憶があるが、わが息子が「キン肉マン」を欠かさず見ていた。アニメに出てくるキャラクターを形取った小さな人形が流行っていて、なぜか消しゴムと呼んでいた。そのセットをおみやげにねだられて、出張先の横浜駅で買ったことも思い出す。横浜国大で研究会議があった帰りのことである。
気になる日本語(06/10/14-1281)
 袋小路≠ヘふくろこうじ≠ニ読む。先の方が袋のように行き止まりになっている路地のことである。問題解決が行き詰まり、それから先に進めないようなときに使われる。それがふくろこじ≠ニ聞こえてしまったのである。こんなメモもある。3月の番組改編のころである。朝のニュースでスポーツを担当していたアナウンサーが交代することになった。その挨拶で、熱い気持ちにさせてもらった≠ニいった感じの表現をしていた。こんなときもらう≠ニいうのはかなりの違和感がある。それを言うなら、いただいた≠ナはないかと思う。ついでながら、タレントなどがよくやらせていただいた≠ニ言うのをよく聞く。やらさせていただいた≠「うのもある。これなんかも何か変な感じがする。やらせる≠サのものが上品な言い回しじゃないものね。ここはさせていただいた≠ナいいのではないか。このあたり、あまり細かいことまで言うと、私自身の日本語能力が問われることにもなりそうだ。まあ、言いがかりみたいなところもあるが、ことばは人間にとってもっとも大事な道具である。気になることは、あれやこれやと議論しておく方がいい。そして、とくに日本語を飯の種にしている人たちには、普段の勉強を続けて欲しいと思うのである。そんな中で、ことばの言い回しをテーマにしたNHKの気になることば≠ニいう番組もある。これがなかなかおもしろいが、ほとんど偶然にしか見ない。そんなわけで、かなり前に見たときのことになるが、解説のアナウンサーがかな≠使うのが気になった記憶がある。あの例の〜かなと思う≠フかな≠ナある。この言い回し、ものごとを断定的に言わずに柔らかくする効果があるとは思うが、私にはかなりの抵抗がある。
耳を貫く(06/10/13-1280)
 天下の宝刀≠ヘ聞き違いだったかもしれないと、やや弱気のことを書いた。プロが間違えるようなものではないからである。その日のメモには力士名までは記録していないが、得意技で勝ったときのことだった。これはもちろん伝家の宝刀≠ェ正解である。家宝として何代にもわたって伝わっている刀のことだ。とっておきの名刀だから、むやみには抜いたりしてはいけないのである。そう考えると、いつも使っている得意技にこの表現を使うのはまずいのかもしれない。その翌日の日付で、「ラオス、耳を貫く、女性」というメモもある。ラオスの不発弾処理で貢献する日本人についてのレポートの際に、女性レポーターが耳を貫く#囃eの音と言っていたのである。たしかに、ものすごい音だろうから耳を貫く≠ニ言われればすんなり受け入れてしまう。しかし、本当は貫く≠ナはなく劈(つんざ)く≠ナはないか。じつに細かいことではあるが、私には何とも言えない違和感が残るのである。これって重箱の隅をつつくような揚げ足取りなんでしょうかねえ。たしかに、通じればそれでいいという考え方もある。しかし、ここはことばのプロとして自覚してほしいのである。そんなことを思っていたら、10月10日にも耳にちょっとだけ引っかかることがあった。北朝鮮の核実験宣言に関連して、中国の対応を伝えるレポートのときだった。中国としては遺憾であることを表明し、制裁にもある程度の理解を示さなければならない。しかし一方では、あまり北朝鮮を追い込むと難民が自国に押し寄せるといった事態を引き起こしかねない。そうした中で、中国は袋小路≠ノ追い込まれている。そんな内容だった。このとき、私の耳にはふくろこじ≠ニ聞こえてしまったのである。
モデルとしてのリーダー(06/10/12-1279)
 部下からミスを指摘されても、それをちゃんと受け止める。そんなカッコいい対応はなかなかできないものだ。しかし、それもまたリーダーシップの要諦なのである。そうしたリーダーの姿勢がモデルになって、部下たち同士でもミスを指摘することに抵抗を感じなくなることも期待できる。心理学にはモデリング≠ニいう考え方がある。自分自身が当事者でなくても、他人がほめられていれば、同じような行動をしようと思う。それとは反対に失敗したり怒られていれば、あれはやばいな≠ニいうことがわかってそれを控えようとする。このように、われわれは他人のことを観察することで行動の仕方や対応方法を学んでいく。直接的にああしろ、こうしろ=Aあれはやめろ、これもするな≠ネどと教育するだけがリーダーシップではないのである。だからこそ親や教師、さらに世の中のリーダーたちは、自分が見られている≠アとを意識していなければならない。子どもは親の、部下は上役の背中を見て育つということでもある。ともあれ、キチンと仕事をするためには気づいたことをちゃんと伝える必要がある。そして指摘された方はそれをありがたいことと感謝する。そんな雰囲気があれば組織のミスや事故も大いに減少するだろう。そして、それを現実のもにするためには、日ごろの対人関係づくりが重要になってくるのである…。ところで、私の気になるノート≠ノは、放送などで聞いたちょっとどうかなメモ≠ェまだいくつか残っている。そのひとつには、「相撲放送、9月16日、天下の宝刀」と書かれている。その日、アナウンサーが伝家の宝刀≠ナはなく「天下の宝刀」と言ったように聞こえたのである。これは相当にひどいので、聞き違いだったかもしれない。
指摘できる風土(06/10/11-1278)
 小さなことでも、ミスを見つけたらちゃんと指摘する。それは組織の安全にとって欠かせない大事なポイントである。大は小を兼ねる≠ネんてものではなく、大は小から生まれる≠アとを認識しておいた方がいい。とにかく個人の考えでミスを指摘するしないを勝手に#サ断することは避けるべきなのだ。もちろん、そうかといって、ミスを指摘しなかった個人の責任を問題にするだけでいいのかどうか。そんな場合もあるだろうが、組織によっては、ミスに気づいてもそれを指摘できない雰囲気だってあるのではないか。そんなしょうもないことで人の揚げ足を取るなよ∞そんなもん、どうせ気がつかへんで…=Bこんなことを言われるような職場では、とくに小さなミスなど指摘する気持ちにならない。お互いがプロとしていい仕事をしよう=A人間はあっちでもこっちでも間違うもんだ=Aそんなの人から言われんとわからんもんやで…=B職場のメンバーたちにこうした気持ちが強ければ、どんな些細なミスだってドンドン指摘する意欲も湧いてくる。ここで、上役たちの態度や姿勢も問われることになる。部下たちの指摘に対して、わーっ、気づかんかったなあ。あんたに言うてもろうて助かったわー≠ネんて感謝の気持ちを表現できるかどうか。どうでもええけど、いつの間にか関西弁タッチになってきよったわ。とにかく、上司の反応が組織の健全さを保てるかどうかの分かれ道になる。ついでながら、驚き≠ヘできるだけ大げさな方がいい。部下たちの小さな指摘に、大きく驚く≠フである。あるいは、小さな指摘に、大きな感謝≠ニいうのはいかがだろうか。ともあれ、リーダーが率先して部下からもらったミスの指摘をキチンと評価することが大切なのだ。
小さなエラー(06/10/10-1277)
 放送でおかしな表現を聞いたりするたびに疑問に思うことがある。もともと人間は間違いや失敗を犯す。勘違いだってしょっちゅうやっている。だから原稿を読むご本人、それを書いた当事者たちが誤ることがあってもおかしくはないである。問題はそれを聞いた周りの人間までもが気づかないことではないか。あるいは気づいていても、それを指摘しないのかもしれない。それも、そんなこと言っても仕方がない∞言うほどのことでもない≠ネどと、個々人で勝手に判断しているのかどうか。まずはこれが第一のポイントである。とくに放送の場合は、言ったことばも空気の振動に変わり、そのまま消えていく。仮に人の耳に引っかかったとしても、噂だって七十五日£度しか持たないのである。まあすぐに忘れられる。こんな調子で軽く考えることは、大いにあり得ると思う。私自身、そうした心情はよく分かる。しかし、そこからがプロのこだわりを見せてほしいところだ。なにせことば≠ェ飯の種ではないか。どんなにささいなこと≠ナあっても間違いは間違いである。ここは、小さなことでもちゃんと正すぞーっ≠ニばかり、正義の味方になってもらいたい。このことは放送のプロに限ったことではない。世の中のあらゆる職種に携わる人々が、自分の仕事にこだわりを持っていただきたいと思う。そうでないと、個人的に、小さな取るに足らないと評価されたが最後、ミスが表に出なくなる。少なくとも、個人の判断で消されてしまう。それはまずいのである。現実には、ささいなことが重大事故に繋がることが少なくない。水の一滴だって鍾乳石を作りあげるのである。小さなこと≠放っておくと、いつかは大きな≠オっぺ返しを喰らう。よく聞く話ではないか。
尾ひれ、はひれ(06/10/09-1276)
 鹿児島の町名の話題から、湯桶読み∞訓読み≠ニ脇道に逸れてきた。とにかく固有名詞は様々な読み方があるということだ。だからことばのプロは、その辺りをしっかり押さえていてほしい。それは原稿を読むアナウンサーだけの課題ではない。その原稿を書くスタッフたちも、自分の仕事が何であるかを自覚しておかねばならない。事件や事故、おもしろい話題…。それが何であれ、報道に関わるみなさんは事実≠伝えることに命≠かけているんでしょう。それならば、地名の呼び方そのものも大いなる事実≠ナあることを認識しておかなくっちゃあ。こんなことを考えているうちにも、またまたチョンボの実例が出てくるから笑ってしまう。一昨日のこと、NHKのローカルニュースで、天の岩戸≠ェてんのいわど≠ニ読んでいた。運転中に耳に入ってきた一瞬のことだったが、少なくとも私にはそう聞こえた。あれはあまのいわと≠ノ決まってる…。もちろんことばは人名や地名だけに限らない。例えば、手元に1月30日のメモがある。それによれば、NHKの朝のドラマで、登場人物がおひれ、はひれが付く≠ニいったセリフを言っている。人に話をするときに、事実以外のことも付け加えることを、尾ひれをつける≠ニいう。もともとないものを持ち出して、話をおもしろくしようとするのである。世の中の噂は、こうした特性を持っているものだ。しかし魚には尾ひれはあるが、はひれ≠ネんてのは聞いたことがない。そういえば、噂に関しては根も葉もない≠ニいう表現がある。それこそ、何の根拠もないという意味だ。根っこがないから葉っぱだってあるわけがないのである。おそらく、両者をごちゃ混ぜにしてしまったためにあのセリフが生まれたのだろう。
重箱と運動会(06/10/08-1275)
 湯桶(ゆとう)というのは、そば屋さんで出てくるそば湯を入れた容器などのことである。取っ手がついていて、ちょっと尖った注ぎ口がある。朱色のものが多いと思う。このとき、湯桶≠フ湯(ゆ)≠ヘ訓読みで、桶(とう)≠ヘ音読みになる。そこで、(訓読み+音読み)する二文字熟語を湯桶読み≠ニいうのである。消印≠竍合図=A手本≠ネどはその例である。漢字の読みは、音は音で、訓は訓で統一することが多いことから、例外的な読みということになる。鹿児島の春山町(はるやまちょう)≠ヘ二文字ではないが、はるやま≠ヘ訓読み、ちょう≠ヘ音読みだから、湯桶読み′nである。これに対して重箱(じゅうばこ)読み≠ヘ最初が音読みで、二文字目が訓読みする漢字のことを指している。番組≠竍台所≠ネどはその例に含まれる。ここで使っている音読み≠サのものが、まさに重箱読みである。それにしても、いまでは湯桶≠熈重箱≠熕カ活の中から消えつつある。私などは重箱と聞いた途端に運動会を思い出す。母が前日から準備して、心を込めて作ってくれたお昼のご馳走が詰められていたのが重箱だった…。それにしても漢字の訓読み≠ゥらは、何でもかんでも消化する日本人の特性が見えてくる。たとえば、春≠はる=A山≠やま≠フように、漢字本来の意味に日本語をあてて読むのである。それは器用さというか、じつに柔軟な発明だと言っていいと思う。もっとも、ヨーロッパでもアルファベットの a 、b 、C をそれぞれ固有の発音をしながら単語を構成している国がある。単語も似ていて、発音が違うといったものも少なくないようだ。ことばというものは、それぞれの文化で工夫されていくものではある。
湯桶と重箱(06/10/07-1274)
 わたしが鹿児島に行ったとき、町名の呼び方にやや違和感を覚えた記憶がある。それは、町をちょう≠ニ呼ぶことが多かったからである。私自身はかなり長いこと福岡で生活していたが、ほとんど町≠ヘまち≠セと思っていた。生活する地域が変わると、こうした直感的な違いに気づくのである。そんなことは、それぞれの土地にずっと住んでいる者たちにとっては何の疑問も感じない。当たり前、当然のことなのだ。しかし、このような違いが生まれてくる経緯を探っていくと、これまたおもしろい歴史的な事実が発見できるだろう。ところで、鹿児島市内の地名で春山町(はるやまちょう)≠ヘ湯桶(ゆとう)読み≠セと書いた。失礼ながら、この湯桶%ヌみをご存じの方はそれほど多くはいらっしゃらないと思う。これと似た表現に重箱(じゅうばこ)読み≠ェある。こちらの方は知っているという方もいらっしゃるだろう。そもそも漢字の読み方には音読みと訓読みと呼ばれるものがある。音読みは、漢字を本来の発音で読むことである。本来というのは、はるか昔のこと、漢字が中国からやってきたときの音である。だから、もともと中国で発音されていたものに近いのだと思う。ただし、それにも古音・呉音・漢音・唐音といった種類があるらしい。いまでもそうだが、中国では北京と上海ではことば≠ェ違う。呉や漢、唐などという字を見ると、あの大陸の歴史の中で力を持った国や地方、あるいは民族によって漢字の発音も違っていたのだろう。とにかく、原音ではないかもしれないが、それに近い発音で読むのが音読み≠ナある。これに対して、訓読み≠ヘ、中国製の漢字に日本語をあてて読むというアイディアである。それは、裏技≠ニ言っていいだろう。
町名いろいろ(06/10/06-1273)
 地名や人名を誤って伝えても、テレビやラジオなどはそのときだけのこと。文字で残るわけでもない。それはそうだが、だからといって調べもせずに間違っていいという理屈にはならない。それとも、このごろ流行の効率主義≠ネんてことになるのだろうか。読み方なんて本質的ではない。地図を提示すれば場所も分かる。大事なのは事件の内容だ。それこそ一刻でも早く伝えねばならないのだ=Bこんな発想で、読み違いなどは軽くあしらわれてしまう…。それはないと思う。何と言っても、自分たちがことばのプロであることを自覚し誇りを持ってほしい。日本語をリードするのはわれわれだ=Bそんな気概があっていいと思う。プロは素人が逆立ちしてもできないことをする。だからこそプロなのである。固有名詞を正しく読むのはプロの基本であり。それこそが徹底的にこだわるべきことではないか。少し前になるが、テレビで香川県のかんおんじし≠ニ読んでいるのを聞いた。漢字は観音寺市≠ナある。そこで、あーっ、それってカンノンジだろうよ≠ニ反射的に思った。何といっても観音(かんのん)様≠ナある。まるで鬼の首を取ったような気分になったが、念のためMapionで検索してみた。その結果は、かんおんじし≠ナあった。いやー、これは参った驚いた。私の方が思い込みだった。こんな感じで地名はじつに個性豊かなのである。ここまで書くと、25年以上前に住んだことのある鹿児島市を思い出す。この市では町≠ちょう≠ニ読む方が圧倒的に多かった。例えば私の自宅があった中山町≠ヘちゅうざんちょう≠ニ読む。これは音読みだからそうかなと思う。しかし春山町≠ヘはるやまちょう≠ニいうから、いわゆる湯桶読み≠ナある。
町名問題(06/10/05-1272)
 人の名前だけでなく、地名はもっと固有の読み方をするものが多い。熊本県には合志町≠ニいう自治体があった。これはこうし≠ニ読む。そしてそのお隣が西合志町≠セった。こちらはにしごうし≠ニ、こ≠ナはなくご≠ニ濁音になる。この二つの町は、今年の2月に合併して現在は合志市になっている。それでも、地図を見ると合志市役所と西合志庁舎の二つが併存している。また熊本市内には新南部∞上南部≠ニいう地名がある。これをどう読むか。正解は、しんなべ≠ニかみなべ≠ナある。もうひとつついでに沼山津≠ヘいかがだろうか。これはぬやまづ≠ニ読む。そんなこんなで、言い出せばきりがない。しかし、ことばのプロがそんな読み方なんて知らなかったあ≠ナはまずいんですよ。そこはきちんと確認しておくべきなのである。そもそも、ローカルなニュースや話題を東京あたりのキー局が取り上げるときは、地方局が絡んでいると思う。原稿だって地元で書くことが多いのではないか。そんなときは、間違いやすい地名などにはあらかじめ注意を促しておく必要があるのだ。東京側が独自で取材する場合であっても、地名の読み方についてはほぼ100%確認できる方法がある。例えばインターネットのMapionには住所一覧≠ェあって、全国の市町村名はもちろん、その中にある町名もふりがな&tきで載っている。これなどは検索に1分もかからない。何と言ってもプロなんだから、そのくらいのこだわり≠持って仕事をしてほしいものだ。もちろん、読み方を間違っても、違和感を覚えるのは地元の人間だけだ。その他の者は誤りに気づきもしない。まさにその通り。それで大した問題は起きないし、地元の住民だってすぐに忘れてしまう。
ことばのプロ(06/10/04-1271)
 
ことばは人間理解、最強の道具≠ナあり、人間誤解、最悪の凶器≠ナもある。過去に取り上げたことがあるフレーズを改めて書いたのは、最近味な話の素≠読みはじめられた方に、ことばが持つ光と影≠フ二面性をお伝えしたかったからである…。ところで、世の中にはことばを職業にする人たちがいる。たとえばテレビやラジオの仕事はことばのプロを要求する。アナウンサーと呼ばれる人たちは、そのことを自覚しているはずだ。耳には聞こえないが、新聞や雑誌などの出版に携わる人たちも、やはりことばを職業にしている。ところが、そのプロたちの日本語がけっこうおかしいのだ。テレビを見ていても、うん??≠ニ頭を傾げたくなることが少なくない。ときには、もっときちんと調べておいてよ≠ニ文句を言いたくなることもある。私はそうした妙な発言や読み方を耳にするとすぐにメモを取る。それがこのごろ少しばかりたまってきた。そこで、そのいくつかをご紹介しようと思う。まずは、6月23日≠フ日付でちゅうきょうく テレ朝系≠ニ書かれたメモがある。そうそう、思い出した。これはテレビで京都の話題が取り上げられたときのことだった。女性のアナウンサーがちゅうきょうく≠ニ読んだのである。これは漢字で書くと「中京区」のことだが、あそこはなかぎょうく≠ナしょうよ。ちゅうきょう≠ヘ名古屋≠カゃないですか。私のように京都に縁もゆかりもない者だってなかぎょうく≠ュらいは知っている。そもそも人名や地名は、漢字の読み方に迷うものがある。河野≠ヘこうの≠ゥかわの≠ゥ。小山≠ヘこやま≠ゥ、それともおやま≠ネのか。田島≠ウんだって、たじま≠烽ればたしま≠ニ呼ぶことだってある。
ことばの力(06/10/03-1270)
 
私は昔の遺跡を見るのは好きだが、それを作るときの犠牲者のことを考える。その数は遺跡のスケールが大きいほど多かったはずである。今日のように安全第一の発想はそれほど強くはなかったに違いない。いわゆる労災なんてものもない。見事にできあがった施設の主は、これ以上になく満足感を味わったことだろう。しかし、その裏には尊い命が隠されているのである。この夏に出かけたアテネで見た宮殿の下にも、きっと多数の人々が眠っているに違いない…。さてさて、この話はもともとことばの話題からはじまったんだった。それがいつの間にか文字の話題に移り、とうとう熊本城の石垣にまで来てしまった。もちろん、いつものことである。とにもかくにも、ことばがなければ人間はここまで文明を築くことはできなかった。それだけはたしかである。そして、ことばは単に冷たい事実を伝えるだけではない。それはまた情緒的な気持ちを表す大事な道具にもなる。だからこそ、ことばを通して人間はお互いを理解することができるのである。そんなわけで、ことばは人間理解の最強の道具≠ネのだ。しかし、ことばはプラスの側面を持っているばかりではない。われわれは、そのことばを使って人を傷つけることもある。悪意のデマだってことばを使って流される。昨年ごろからか、オレオレ詐欺≠ネる、とんでもない騙しのテクニックが現れた。それは毎日のように進化≠オている。これは間違いなくことばを使った犯罪である。こうなると、ことばは人間理解の最強の道具≠ネんて感心してはおられない。そこでは一転してことばは人間理解の最悪の凶器≠ノなっているのである。ことばに対するこの二つの対照的なフレーズは、本コラムでかなり前に書いたことがある。
文字と文明(06/10/02-1269)
 
人間は文字を発明することで、地理的な距離を越えて意思疎通ができるようになった。それだけではない。文字は時間の壁をも克服するのである。人間はメソポタミアの地にくさび形文字を残し、エジプトのピラミッドには象形文字を刻んだ。メソポタミア文明は世界最古の文明で紀元前3500年ころには文字があったらしい。メソポタミアというのは二つの川の間≠ニいう意味なんだそうな。二つの川とは、あのチグリスとユーフラテス川のことである。ああ懐かしい。こうなると、中学校社会科の世界である。ここは現在のイラクと重なる。その歴史を背負って、この国の人たちには自分たちこそが世界文明の魁≠ニいう思いが強いのかもしれない。象形文字のエジプト文明にしても紀元前3000年くらいまで遡る。これまた世界史の中で燦然たる光を放っている。ピラミッドを知らない人はいない。それはいいが、あの大きな石を運んだ人たちは大変だったと思う。時代は相当に違うが、私の身近にある熊本城だって同じこと。城の前を通るたびに、石垣の美しいカーブに感動する。そのゆっくりと反り返った曲線のために、そこを敵がよじ登ろうとしても、ひっくり返って落っこちるのである。そんなところから、熊本城の石垣が武者返し≠ニ呼ばれるようになったらしい。たしかに石垣を見るたびに、なあるほど≠ニ感動している。しかしそれだけ気軽に喜んでおられるのも、できあがった結果を見ているだけだからである。あの石垣を積み上げるのは、想像を絶するほど大変な仕事だったはずだ。そして、それがする完成までには何人もの犠牲者が出たと思われる。その規模の大きさから考えると、ピラミッドの場合は、さらにさらに膨大な数の人々が犠牲になったに違いない。
ことばと人間(06/10/01-1268)
 
ことばと行動は密接不可分だ。人間はことばを操ることができる壮大な大脳を持った。その結果、人間はことばなしでは日常生活さえ送れなくなってしまった。ことばは頭にあっても、それらを目的に応じて使えない。それがアルツハイマーの悲劇を生んでいる。そして、このことばこそは人間と動物を隔てる決定的な壁になったのである。人間は道具を使う点で動物と違うと言われる。もちろん動物も道具は使う。チンバンジーは棒きれでオリの外のバナナを引き寄せる。高いところにぶら下がったものは、踏み台を使って取る。いずれも道具を活用している典型的な例だ。しかし、道具といっても、チンパンジーにはこの程度までが精一杯なのである。そして、人間が使うありとあらゆる道具の頂点にことばがある。それはきわめて抽象的な操作を伴う超ハイレベルの道具である。動物だってことばを持っているという考え方もある。その中でもイルカなどは、ことばを使ってけっこうなコミュニケーションを取っているという。犬を見ていても単に吠えるだけでなく、その声色で気持ちを表す。鳥たちも危険を知らせる声と配偶者にアピールするさえずりを使い分けている。しかし、どんな動物のことば≠ノしても、人間のことば≠ニは比較にならない。いわゆる信号の域を出ないのである。ことばに愛情を込め、思いやりを乗せ、喜びを溢れさせる。その一方では、怒りや憎しみを含め、悲しみを表現する。さらには皮肉なニュアンスまでも溶け込ませる…。こうして自分の気持ちや体験した内容を相手に伝えていくのである。さらに人間はことばを目に見えるようにしてしまう。文字の発明である。文字を使えば声が届かない遠くにいる他人にも自分の意思を伝えることができるのだ。