ことばの進化論(06/09/30-1267)
日本語が乱れていると言われはじめて久しい。私自身も気づかないままに変な言い回しをしているのだと思う。ことばについては、どんなに年を取っても知らないことの方が多い。それだけ日本語は豊かで奥が深いのである。もっとも、それは日本語に限ったことではあるまい。人間のことばというものは、どんなものであっても無限の広がりを持っているに違いない。それは、それぞれの地域で人間が長い歴史を通して育んできたものだ。一人ひとりは壮大な言語辞書のわずかな部分だけを使いながら、ことばをやり取りしているに過ぎないのである。しかも、ことばは時代や環境に対応しながら変化していく。新しいことばが生まれる一方で、人間たちの頭の中から消えていくものものもある。いわゆる新語と死語である。ことばにもダーウィンの進化の法則が当てはまるのだろうか。人間にとって発音しにくいものは、もともと出現する確率も低いのだと思う。そんなことばは、この世に生まれたとしてもいずれは消えていく運命にあるのかもしれない。もっとも、骨粗鬆症≠ネんて用語もあって、すぐには消えそうにない。これってうまく発音できる人がいるんでしょうかね。私なんぞは、まずしょうしょう≠ニ繰り返しながら、その前にこつそ≠つける。そうすると何とか発音できる。はじめからそしょうしょう≠ニ繋げようとすると、どうもうまくいかないのである。まあそんなことはどうでもいいか…。ともあれ、ことばの世界にも自然淘汰・適者生存の法則が生きているような感じがする。今風に言えば、効率化・成果主義の魂が宿っているのかもしれない。しかし、私のような情緒優先型の人間には、ことばがそんなことでいいのだろうかという思いが強いのである。 |
滝の音(06/09/29-1266)
聖徳太子様とは比較にならない能力の私は、複数の人の話を同時に聞くといった芸当はとてもできない。それどころか、目の前の人と話をしているのに、近くから私の名前が聞こえたりするともういけない。目は前方の相手を見ているものの、耳はそちらの方にピーンと向いてしまう。話している人に対してはいい加減な生返事しかしなくなる。なにせ、自分に関係する話が近くで進行中なのである。誰だってそちらの方を聞きたくなりませんかねえ…。だから、話をしているときに私の目がうつろになったら、それはもう他の方に耳が向いていることなんですよね。私の大脳がそうさせるんです。こんなことバラすとまずいかなあ。今後に差し障りがあったりして…。私が阿蘇の赤水にある旅館に泊まったときのこと。近くに滝があってドドーッ≠ニ音が聞こえてくる。水しぶきを上げるその滝は、夏などはじつに涼しげである。滝の音なんて久しぶりに聞いたなあ。なかなか風流じゃないかい=Bそんな気分でゆったりをお酒を味わう…。なんてのもなかなかいい。そして夜も更ければ、鼻風船を膨らませ、グースカ≠「びきを立てながら寝転けてしまう。そんなとき、お客様が床に入られたようだから、ボリュームを下げてちょうだい≠ネんて言って、旅館の主が滝の音量を絞らせているわけがない。滝は相変わらず水を落とし続けている。夜になって周りが静かになった分だけ相対的にうるささを増しているはずである。そんな状況のもとで、何の抵抗もなく眠っておられるのはどうしてか。それは滝の音は風流だな≠ネどと感じながら、私がその状況に満足しているからである。そうなのだ。私の大脳が滝の音を騒音≠ナはなく心地よい音≠ニして肯定的に評価しているのだ。 |
悪口の耳(06/09/28-1265)
われわれに備わるすべての感覚は大脳が感知する。だから耳の場合でも、鼓膜に届く客観的な音量とは関係なく、大脳の状況によって快音にもなれば雑音にもなる。1970年代にはピアノ殺人事件≠ネるものが起きたことがある。ある団地で階下の子どもが練習するピアノの音がうるさいと言って怒鳴り込み、母子3人が殺される惨事になったのである。自分の家で子どもが弾いているピアノは騒音≠ネどではなく、楽しい音≠ノ聞こえるだろう。しかし加害者にはそうはいかなかった。うるさい≠ニ苦情を言っても止まないピアノの音は、意図的に自分を困らせようとしている騒音としか聞こえなかったのである。少なくとも当人の大脳はそう判断したのである。そこまでいかなくても、家のばあちゃんは耳が遠いくせに、悪口を言うと聞こえる≠ネんて嘆く人がいる。それも理屈は簡単である。おばあちゃんの大脳が自分の悪口≠ヘ気になるので、敏感に反応するのだ。それに対して、どうでもいいことはどうでもいいから聞こえないのである。私なんぞ徳がないから聖徳太子の足元にも及ばない。彼は同時に七人の声を聞いたというから驚きだ。しかし、この人数には十人という説もある。そう考えるとホンマかいな≠ニ眉に唾をつけたくもなる。聖徳太子さんも人間だ。何人もの訴えを一度に分離して理解するなんて相当に厳しいはずである。あの時代のことである。お偉い方が下々も含めてみんなの意見を聞くことなどあまりなかっただろう。そんなとき、太子さんは人々の声を聞き入れる懐の広い人だった。今風にいえば、トップ・ダウンだけでなくボトム・アップを大事にした。そんなことから、一度に大勢の話を聞き分けた≠ニいう物語ができあがったのではないか。 |
許せない騒音(06/09/27-1264)
夜中にブーーン≠ニ鳴く蚊に起こされて大捜査網を引く。やがて小さな犯人を見つける。そこで大きく手を広げる。そう、本当はパチン≠ニいう程度でか弱い蚊はあの世に逝くはずだ。しかし、そうはいかない。なにせ、俺の血を吸おうとした不届き者≠ナある。無意識のうちに手の間隔は広がる。そして蚊が両手の間に入った途端にバッチーーーン≠ニ挟み撃ち。そのときのパワーはものすごいものがある。もう少しで手が割れるほどに力を入れている。そのため両手を開けてみると、そこには小さな赤と黒の点が残っているだけではないか。その二つの点を見て自分の努力の成果があったことに大満足する。それからにやりと笑うのである。もうその顔はほとんど悪魔同然だ。しかし、一連の追跡大作戦に心から興奮してしまったらしい。それから床に入っても眠れなくなってしまうのである…。子どものころに親や先生に叱られた。蚊の鳴くような声でモノを言うなーっ=Bそう、その通り、蚊の声≠ヘ聞こえない音の代表なのである。その消え入るような蚊の声≠ェ夜中に人をたたき起こすのだ。それだけではない。蚊を追いつめてあの世に葬ったのはいいが、その興奮で目が冴えてしまうのである。蚊の音が大の大人をここまで追いつめる理由ははっきりしている。大脳が蚊なんかには血の一滴だって吸わせないぞーっ≠ニ考えるからである。どんなにわずかであっても、蚊に血を吸われることが許せないのだ。このように、大きな音は聞こえるが、小さい音は聞こえない≠ニいった単純な関係は成り立たないのである。目でモノを見るときだけでなく、耳で聞くときにも大脳はしっかり働いている。大脳がうるさーいっ≠ニ判断すれば、それは騒音になるのである。 |
真夜中の蚊(06/09/26-1263)
大脳は個々人で違っているから、モノの見え方も異なっていて当然なのである。それを承知で意見の違いを調整しようとする。そんな発想と、自分と違う見方は許さない≠ニいう考え方には相当の距離がある。そして、この両者は対照的な反応を生み出すと思われる。これはまさにリーダーシップの問題であり、わたしが仕事にしている領域である。これからも、こうした対応の違いがもたらす効果や影響について研究を進めていきたいと思う。ところで、このところ目の見え方≠ノこだわってきた。そして、モノの見え方≠ェ違うのはそれぞれに固有の大脳≠ナ見ているからだと考えた。したがって、こうした違い≠ヘ目の見え方≠セけに限定されるわけではない。大脳は人間の感覚全体に関わっているからである。たとえば夏の夜、ぐっすり眠っているあなたの耳にある音が聞こえてくる。ブーーン…=Bそう、蚊の音である。そのときあなたはどうするか。あー眠ーい。それにしても何だ、この音は…。蚊かあー。ちょっとうるさいなあ。何時だか知らないが、こんな時間まで飛んでるところを見ると、まだ十分に血が吸えていないのかあ…。うーん、そんなら私の血でも吸っていいよおー…=Bこんな人道主義者ならぬ蚊道主義者がいるだろうか。たしかに、蚊が自分の腕に止まってたときはそのまま血を吸わせたなんて、ものすごい宗教家がいたと聞いたような気もする。しかし、それはまず例外だろう。蚊の音を聞いた途端に鳥肌が立つ。その瞬間、部屋の電気を点けまくる。それでも足りずに懐中電灯まで引っ張り出してくる。深夜の蚊捜索大作戦のはじまりはじまり…。すぐに空中を飛んでいる蚊が目に飛び込んでくる。いたぞ≠ニばかり両手を大きく広げる…。 |
見方の違い(06/09/25-1262)
私の目に昨年末から妊婦が目立ちはじめ、このごろでは赤ん坊が目につくようになった。それは、私に孫が生まれたからだ。こうして人間は自分の置かれた状況に影響を受けながら周りの世界を見ているのである。だから、他人が自分の見え方≠ニ違っているからといって、すぐにそれはおかしい≠ニ決めつけるわけにもいかない。相手は相手の状況に影響を受けた大脳でものごとを判断しているからである。人と付き合う場合に、この事実を前提とするかしないかで、人間関係のあり方もかなり違ってくる。俺と同じ見方じゃないなんて、お前はおかしいぞーっ=Bこうした発想からは、相手を排除したり強制的に自分の見方を押しつけるといった行動が生まれる。これに対してへーっ、あの人にはそんなふうに見えるのかー≠ニうい捉え方もあり得る。まずは相手の大脳がそんな見方≠していることを受け入れるのである。もちろん職場のリーダーなどにとっては、相手の見方に驚いてばかりはいられない。通すべきは通さないといけないモノの見方≠ェある。そうした場合は、相手の見方をこちらの見方に合わせてもらわなければならない。その際に、大脳が違っているからモノの見方も違って当然≠ニいう発想のあるなしで、対応はまるっきり違ってくる。部下が自分の見方と違うと、相手を自分の見方に引きずり込んだり無視したりするリーダーがいる。その一方で、部下がどうして自分と異なる見方や考え方をしているのかを考えるリーダーもいる。まずは相手の見方を受け入れるのである。あなたがそのような見方をするのは十分に分かる≠ニいう姿勢を取るのだ。その上で、現状では別の見方で対応する必要があることを理解してもらうように働きかけるのである。 |
赤ちゃんだらけ(06/09/24-1261)
われわれは一人ひとり、親も違えば育った環境や文化も違っている。したがって、それに反応する大脳だって同じものは唯のひとつもないのである。そう考えると、世の中のモノの見方は個々人によってすべて違っていることになる。たまたま見ている位置が同じではないから見え方も違うというのではない。そんな位置の差ではなく、見え方そのものがすべての人で違っているのである。それはわれわれが大脳でモノを見ている≠ゥらである。さらに、その時々の体調や気分、あるいは周りの状況によってモノの見方や見え方が変化する。私の場合も、わが家に孫がやってくると分かってから世の中の見え方に変化が起きた。とにかく今年は随分と妊婦が多かった。スーパーに行っても、天草の道の駅に行っても、はたまたお茶を買うだけでコンビニに入っても…。とにかくあっちこっちでお腹の大きな女性がいるのである。事実、今年は出生数が昨年よりも増えているという。しかしだからといって、急に私の目に付くほど妊婦が増えるわけがない。何のことはない、孫ができると聞いてから、私の大脳が妊婦に対する感受性を高めていたのである。自分の孫が生まれる。その事実が頭にあるから、日ごろは目に写っていても気づかないお腹の大きな女性が目についたということである。それは意識と無意識の狭間にある感受性のような気がする。そしてついに孫とご対面した。こうなると、今度は世の中に赤ん坊が溢れているように見え始めるのである。デパートに行ってもバスに乗っても、あっちもこっちも赤ちゃんなのだ。まあそれは言いすぎだが、これまでとは違って、赤ん坊を抱いた母親や父親の姿が目につくようになってきた。ベビーカーの中までチラリと覗き込んでしまうのだ。 |
脳細胞と環境(06/09/23-1260)
140億個もの細胞から構成される大脳である。細胞一つひとつにも微妙な違いが出てくるに違いない。だから世の中に同じ大脳はないのである。しかもそれは数の問題だけではない。生まれてこの方、大脳を形成してきた状況もきわめて個別性が強い。まずはこの世に生を受ける元になった両親が違う。兄弟姉妹の場合は親は同じである。しかし、生年月日は違っている。そして長子だの末っ子だのという出生順位があって、これがけっこう大きな影響を与えるのである。同じ子育てといっても、初めての子は親の方も要領を得ない。体験がないから神経過敏になったりもする。長男が生まれたとき、哺乳ビンは必死で消毒する。わざわざベビーバスで体を洗う…。わが家でもそんな記憶がある。これが二番目になると、相当におおらかになる。3年後に生まれた長女の場合、哺乳ビンはさらりと洗ってOKにした。入浴も、おーい、連れといで≠ネんて感じでいきなり風呂にも入れた…。それだけ親の方が落ち着いているのである。それに長男も突然おにいちゃん≠ノさせられるのである。自分中心に回っていた世界なのに、重心が少し動いた感じがする。いや大きく変動したと思うかもしれない。そもそも親の対応が異なっているのだ。まあそんなこんなで、小さな大脳が大きな影響を受けるのである。こうして血縁の兄弟姉妹といえども、ものの見方や感じ方に違いが出てくる。その点では、一卵性双生児の場合は誕生日も同じなら、生物学的な性質も完全に同一である。しかしそれでも、時間とともに環境は大いに違ってくる。学校に行って別々のクラスになれば、付き合う友だちが違う。いわゆる対人関係が異なるのである。それは世の中に対する見方や考え方に影響を及ぼすはずである。 |
脳の細胞(06/09/22-1259)
寝ているときは目を閉じているが、夢を見ることができる。だから夢は目で見ていないである。そう言えば、このごろは夢を見なくなったなあ。実際に見ていないのか、それとも見たこと自身を忘れているのか。人間は加齢とともに現実の記憶だけでなく、夢ですらメモすることが難しくなっていくのだろうか。まあそれも老化の正常な形かもしれない。なにせ私もおじいちゃん≠フ仲間入りを果たしたのだから。あるいは朝早く起きるから、これから夢を見ようというときに目が覚めてしまうことも考えられる。いずれにしても、夢見る人生≠ナはなくなったきたか。まあ、私自身の老化の問題はさておいて、寝ているときは網膜には何も写っていない。それでも夢を見るのは、就寝中にも大脳が働いているからである。私たちは目ではなく、大脳で*イを見、モノを認識しているということだ。この事実を受け入れると、またまたおもしろい話が展開していく。大脳は一人ひとりに固有のものである。世界中に同じ脳なんて唯のひとつだってない。それはこれまで地球上に生きてきたすべての人々に当てはまる。この世に指紋が同じ人はいないという。しかし、その個別性は大脳の方がずっと強いはずである。何と言ってもその複雑さが違う。大脳に神経細胞がいくつあるかなんて、正確に答えられる人はどこにもいない。そもそも数えること自身が不可能な仕事である。そうは言いながら、脳を真面目に研究している人がまるで概数も分からない≠ニいうのでは格好がつかない。そこで大脳皮質の神経細胞数を推定する人が現れる。私が聞いているところでは、その数およそ140億個だという。それだけの細胞から成り立っている脳のことだから同じものがあり得ないことは当然である。 |
目で写す(06/09/21-1258)
二つの目があることでモノを立体的に見ることができる。だから一方の目を覆うと、たったいま立体的だった私が平面的になる。少なくとも理屈ではそうなるはずである。ところが実際の結果は違っている。目の前にある私は相変わらず立体を保ったままである。そこで、これはおかしいじゃないですか≠ニ問いかける。すると多くの人がそりゃあそうだ≠ニいった表情をする。しかし、本当はおかしいことなんかないのである。われわれは目でモノを見る≠ニいう。しかし、これは正しい表現ではないのだ。目は外界の光を受け止める受光体に過ぎないからである。目の玉の前面にはレンズが装着されている。そして、その奥には網膜がある。そこにはたくさんの細胞で埋め込まれている。その細胞に当たった光は電気的な信号に変換される。それが視神経を伝わって大脳に走っていくのである。その際に神経は左右が交叉する。この構造は手や足などでも同じである。そのため、左の脳がやられると右手が不自由になる。こうした構造になっているのにも進化論的にはちゃんとした理由があるのだろう。じつに興味深い事実である。それはともかく視神経を伝わった信号は大脳の後方にある視覚野にたどり着く。ここに信号が到達してはじめて私たちは目に写った<cmが何であるかを判断することになる。だからモノを見ている≠フは目ではなく大脳なのだ。少なくともモノをモノだと認識したり判断する≠フは目ではない。その意味で、目はモノを写している≠ニいうべきだろう。たしかに、われわれは目を使わなくてもモノを見ることができる。こう言うと、誰もが夢のことを思い浮かべるだろう。夢は睡眠中に見ると決まっている。もちろん寝ているときは目を閉じている。 |
視覚実験(06/09/20-1257)
両眼視差≠ヘ文字通り両眼の視野の差≠ナある。目がお互いに離れているから、それぞれの目に映る像にはズレがあるのだ。この両眼視差≠ノよって、われわれは奥行きを知覚できると考えられている。外界のモノが立体的に見えるということである。そこで授業や講演でささやかな実験を試みる。みなさーん、幼稚園の子どもにさせるようで申し訳ないんですが、ちょっと私の言うことを聞いてくださーい=Bこれがイントロである。そして続ける。私を見てください。立体的に見えるでしょ。少なくとものっぺらぼうには見えませんよね=B全体にそりゃそうじゃ≠ニいう雰囲気が漂う。そこで次のステップに進む。さあ私を見ながら片手で一方の目を覆ってくださーい…=Bみんなが手で目をふさぐ。ほーら、私が平面的に見えるようになったでしょう=Bそう言いながら、私自身が目を覆う動作を繰り返す。平面、立体、平面、立体…=Bこれに対して多くの人が首を傾げはじめる。それでも2回、3回と続けていると、あちこちで笑いが起きる。どうしたんですか。もうしないんですか=Bそんな問いかけにも反応する人がいなくなる。まあ大体こんな調子になるのだが、世の中は楽しいものだ。ときには、私の問いかけにうん、うん≠ニ頷く人が出てくるのだ。これには呼びかけた私の方が笑ってしまう。片目を覆ったからといって立体的なモノが平面に見えるようにはならないからである。そこでさらに続ける。本当は前と変わりませんよね。しかし、それっておかしくないですか。モノが立体的に見えるのは両眼視差があるからだと教科書に書いてあるんです。それなのに、片方の目で見てもモノの見え方が変わらないのでは理屈に合わないじゃないですか=B |
両眼視差(06/09/19-1256)
中学生くらいになると、実習生の問いかけに対して全員が手を挙げなくなる。少なくとも私にはそんな気がする。その理由にはいろいろ考えられるが、社会的な発達の影響が大きいと思う。答えが間違っていたら恥ずかしい∞あまりはしゃぎすぎるのも格好悪い=c。こんな気持ちが手を挙げることを抑制するのである。そこには他人の存在が意識されている。そしてそのことは、そのまま自分を意識していることでもある。私とは何か∞私は他人とどう違うか∞私はどうあるべきか…=Bまたこの時期には異性に対する関心も強まる。その結果、さらに自分自身が気になってくる。こうした課題に直面し、その解決を試みる中で、いわゆる自我≠ェ確立されていくのである。それでも挙手しない中学生はまだかわいい。分かっているけど、手は挙げないよーっ=Bそんな内心の気持ちが見えるからである。ところが、さらに成長して大人になるとどうなるか。こちらが問いかけをしても、小学生はもちろん中学生程度の反応すら起きなくなる。話し手と目が合わないように上を見る、下を見る、あっちを見る…。そうそう目を閉じる人もいる。こんなことだから、こちらにとっては分かっているのか、分かっていないのか≠ェ分からない。まあ、そん話になるのである…。これは冗談として、講義や講演などで私たちに二つの目がある理由≠聞いても、自発的に手を挙げる人はほとんどいない。そこで当方で勝手に話を先に進めていくことになる。まずは両眼視差≠話題にする。われわれの見ている外界のものは両目の間にズレが生じている。二つの目はお互いに5〜6cm程度離れている。だから、同じものを見ていてもその間に微妙な差ができるのは当然なのである。 |
両手でハーイ(06/09/18-1255)
どうして目が二つあるかご存じですか=B私は授業や講演でこんな質問を投げかけてみる。これに対して直ちに答えが返ってくることはほとんどない。この傾向は大体どこでも同じである。こちらの問いかけになかなか反応してもらえないのである。これは日本人の特徴だと言っていいのか。それとも海外でも似たようなものなのか。それは分からない。もっとも、日本人が終始一貫して無反応だというわけではない。教育学部の学生が附属学校の実習にやってくる。そのとき小学校3年生くらいの教室に出かけてみるとおもしろい。実習生が一生懸命に授業をしている。はーい、ここが分かる人ーっ=B質問を投げかけると、みんながハイ、ハイ、ハイ≠ニ元気に手を挙げる。その中には両手を挙げる子どもまでいたりして…。これに感動したか、実習生も元気な子を指名する。はい、○○くーん=Bその瞬間、当てられた子が固まるのである。えーっ、何でボクなの≠ネんて顔をして体をこわばらせる。しかし、すぐに気を取り直して大きな声で分かりませーん=Bじつに楽しい授業風景である。それが中学生になると微妙に変わってくる。もちろん附属中学校でも実習生の懸命さは変わらない。はーい、ここが分かる人ーっ=Bしかしながら、その反応には変化が見られる。小学生のようにハイ、ハイ、ハーイ≠ニはいかなくなるのである。その中には、分かってるけど、手は挙げないもーん=Bそんな雰囲気を漂わせる生徒もいる。小学生よりも手の挙がり方が少ないのはどうしてか。中学校になって学習する内容そのものが難しくなったこともあるだろう。しかし、それよりも発達の影響が大きいのだと思う。みんなの前で答えることに対する意識が変化しているのである。 |
孫と目(06/09/17-1254)
わが家では孫をスーパーマン≠ニして認定した。自分の100倍を超える体重の大人たちを動かすからである。しかし、スーパーマンは空を飛ぶが、わが孫は空を飛ぶことができない。それどころか、いまのところはいはい≠セってできない。しかし、そのかわり周囲の人間をウキウキさせている。みんなの心が飛んでいるのである。だから孫は正真正銘のスーパーマンだ。この世に現れてまだ20日にも経たないというのに、その影響力たるやまことに凄まじい。日本語には、目に入れても痛くない≠ネどという、とんでもない言い回しがある。先日のことだが、JRに乗っていたら、隣の席のおじさんが目薬を目に落としていた。まずは体を座席からずらす。それからグーンと反っくり返る。それからやおら目に薬を投入する段階になる。電車の中で目薬なんて差ささなくてもよかろうに≠ネんてつい考えてしまった。いやいや、おじさんにはおじさんの事情があったに違いない。それにしても一滴を落とすのにビビれていることが見え見えなのである。手まで震えているから、なおさら目から逸れてしまいそうだ。それでも無事に一滴が目の中に落ちていった。その瞬間である。おじさんの顔が厳しく歪んだ。最近の目薬はそれほどしみないと思う。それなのに、おじさんは目薬が脳天の裏側まで滲透したようなしかめっ面をした。それを見ていた私まで目に痛みを感じてしまった。ひょっとしたら顔だって歪んでいたかもしれない。ともあれ、それほど目は繊細なのである。だから、その中に孫を入れるなんて、冗談を言っちゃあいけない。もちろん、これは大げさな比喩的表現だから、笑っていればいい。しかし、現実に孫が目の前に現れると、本当に目に入れたく≠ネったりして…。 |
スーパーマン出現(06/09/16-1253)
孫と対面してから3週間近くになる。いま現在は母親とともに北九州にいる。少しばかり距離があるので、頻繁に見に行く≠アとはできない。しかしそれがまたいいのだろう。待った分だけ喜びも増えるというものだ。おかげで母子ともに健康である。その状況は頻繁に送られてくる写真で手に取るように分かる。すごい時代になったものだ。携帯で写真が撮れて、しかもそれをメールで送信できるのである。当然のことだが、1枚、1枚が違った表情をしている。ドンドン育っている≠アとが手に取るように分かる。実際、毎日70gばかり重くなっているのだそうな。いまや孫はスーパーマンになった。彼は信じられないほどの力持ちなのだ。とにかく周りの人間を、いとも簡単に動かしてしまう。まずは両親としての息子夫婦が2人いる。それに、おじいちゃん≠ニおばあちゃん≠ェ2人ずつで4人。これに、このたびめでたくおばさん≠ノ昇格した娘が加わる。少なくともこの7人は孫の話題で持ちきりである。写真が来ればかわいい≠ニしか表現のしようがない。みんなの平均体重がどのくらいかは知らないが、少しばかり軽めの55kgで計算しても、合計は385kgにもなる。これに対してご本人≠ヘ3,300g程度しかないのだ。そうすると、わが家の孫は自分の体重と比べて、100倍を優に超える大人たちを右往左往させていることになる。映画の世界ではスーパーマンが帰ってきたらしい。私が子どものころのスーパーマンは機関車を止めたりしていたから、相当の力持ちなんだろう。その上、空まで飛ぶからものすごい。しかし、あれはあくまで物語の主人公である。架空の人物なのだ。それに対して、わが家の孫は実際に存在している。これぞまさに本物のスーパーマン≠ナある。 |
確率≠ゥら確実≠ヨ(06/09/15-1252)
いまでは設備や機械は安全を考えた設計がなされている。いわゆるフェールセーフ、安全第一である。したがって、規則やマニュアルに書いてあることを守らなくても事故が起きる確率は非常に低い。法律で決められた制限速度にしたがって走っている車がどれだけいるか。たしかに悲惨な交通事故が起きてはいる。しかし、それでも車の台数や走行距離の伸びに比べれば、相対的には死亡事故は減っている。一時は死者が1万人にも達していた時期もあった。職場の安全についても同じことだ。相当に危ない行動をしても、それがただちに事故に結びつくことはほとんどない。飲酒運転にしても、警察の検問に出くわすことはきわめて少ない。飲酒運転が危険だと知っていても、飲んだら100%事故を起こすわけでもない。その確率は間違いなく低い。しかし、それはあくまで確率の問題である。われわれは、組織の安全や人命に関わることについては、確率≠セけに頼ってはまずいのである。そこでは確実≠ノ安全であることを選択しなければならないのだ。酒を飲んでも確実≠ノ飲酒運転にならない方法がある。それは、酒を飲み終えてから1日以上経過して運転するのである。これだと間違いなく飲酒運転で事故を起こすことはない。それは確率≠ナはなく確実≠フ問題である。われわれは、確率%Iな発想から、確実≠大事にする考え方へ転換する必要がある。少なくとも安全に関わることについては、確実≠アそが正解なのだ。それは科学というよりもこころに深く関わっている。その人の生き方そのものである。世の中に絶対%Iなことは絶対に≠ネい。しかし、確率≠謔閧熈確実≠尊重して生きることによって、絶対≠フ神に近づけるかもしれない…。 |
確率の勘違い(06/09/14-1251)
ともあれ、世の中に絶対がない以上、われわれは確率を考えながら生活していくしかない。交通事故に遭う確率がゼロでないから外出しない。足を踏み外す確率があるから階段を使わない…。そんなことをしていたら生きていけないのである。しかし、そこに大きな落とし穴がある。低い確率でしか起こらないことに気を使っていては生活ができないじゃないか。そんな思いが、あらゆる対象に広がっていく。もともと確率は、ある事柄が起きる可能性を数値で表したものである。その値がどんなに低くても、自分がそれに遭遇すればとんでもないことになるのだ。確率の数値が小さいと、その結果として起きる事態の影響も小さい。そんな勘違いをしてはいないか…。気象台が降水確率を出し始めたころである。発表されるパーセントと雨量が関係していると思っていた人がいる。降水確率が5%などと言われると、その日にはひどい雨≠ェ降らないと考えるのである。しかしそれは、あくまで1時間に1mm以上の雨が降る確率≠ネのである。だから理屈としては、その日に100mm″~ってもおかしくはないわけだ。まあ、降水確率でそんなひどいズレが起きることは考えられない。気象台も数値とは別に細かい状況を説明している。ともあれ、ある事態が起きる確率≠フ低さ≠ニ、実際にそれが起きたときの深刻さ≠ヘまったく無関係なのである。ところが、安全や人の命に関わるような問題に対しても、われわれはついつい確率≠フ低さ≠ノ目を奪われてしまう。そのうちに、確率が低い=自分には起こらない≠ニいう勝手な式を採用する者まで出てくる。こうなると、小さな確率にこだわっていては、まともに仕事もできないじゃないか≠ニいった理屈が大手を振り始める。 |
特異日(06/09/13-1250)
現実的には検問に引っかかる可能性が低くて、飲酒運転がばれることもない。そんな状況の中で事故が繰り返される…。何かが起きる可能性を割合として数値で表したものが確率である。世の中に絶対≠ニ言えることはほとんどない。したがって、われわれは確率に依存して生活することになる。天気予報はその代表である。結婚式などのお祝いに出席する日は雨が降ってほしくない。だから、その日の天気予報が降水確率0%≠ノなっていればうれしくなる。その反対に、80%≠ニいった数値が出ればガックリする。せっかくの着物が台無しになってしまう。天気に関しては特異日≠ニいうことばがある。これは、晴れや雨など同じ天気が高い確率で現れる日を指している。それなりの期間の統計を取って、同じ天気が多ければ、それを特異日というのである。たとえば東京オリンピックの開催日である10月10日は、晴れの特異日に当たっていたという。もっとも、詳しく調べてみると、そうでもないという人もいる。そもそも10月に決まった経緯は知らないが、その日が土曜日だったこと、10が2つ揃って見栄えがよかったことなどが影響したのかもしれない。それはそうと、体育の日≠ヘ1964年10月10日土曜日の開会式を記念して設定されたのだった。ところが、2001年からこの祝日は10月の第2月曜日に変更された。そのため、体育の日と決めるきっかけになった歴史的な意味はが失われてしまった。ただ連休を増やすという目的だけで安易に日付を変えるのはやめてほしい。これを称してハッピーマンデー≠ニいうのだそうな。しかし、大学でも後期の月曜日は授業数も少なくなるから、後で調整に大変だ。その意味ではハッピーどころか、アンハッピーマンデー≠ネのである。 |
検問との遭遇(06/09/12-1249)
飲酒運転をした理由いろいろ考えられる。このくらいは大丈夫だ∞飲んでも警察には捕まらない≠ニいったものは、その代表だろう。タクシー代がもったいない≠ネんてのもあるようだが、これは相当にせこい。飲み代は払ってもタクシー代はけちるというわけだ。それで事故を起こして一生を棒に振っては話にならない。しかし、そんなことは起きるはずがない≠ニ考えてしまう。後悔は文字通り後になって悔やむ≠フである。先に悔やむ≠アとなんてあり得ないのだ。たしかにアルコールに対する反応には個人差がある。その日の体調によっても酔い方が違う。だからビールのコップ1杯でも運転に支障をきたす人とそうでない者がいる。しかし、アルコールの怖さはそれがエスカレートすることである。どんな場合でもコップ1杯でやめることができる人なら、どんなときでも飲まないこともできるのである。いつの間にか1杯が2杯となり、それが3杯となる…。これに警察に捕まらない¥況が重なると、さらにブレーキが効かなくなる。そもそも警察の検問に会うこと自身がきわめて少ないのではないか。私は運転歴27年になるが、これまでアルコール検知で止められたことは2回しかない。それも高速道路の入り口である。さらに免許証の提示を求められたのは1回っきりしかない。家族旅行の途中で下関から広島へ向かうときのことである。中国自動車道の料金所に入る前だったが、初めての検問に出会ったこともあって記憶にはっきり残っている。そんなわけで警察と出会うことはきわめて少ないと言うべきだろう。もっとも夜間になると、飲酒運転のチェックも多くはなると思う。私は夜中に運転することがほとんどないから、このあたりの事情はわからない。 |
車検が楽しみ?(06/09/11-1248)
高速走行時にチン、チン…≠ニ鳴る装置がはずされたのは外圧だったと思う。日本が集中豪雨的に輸出をしていたころである。外国車には、その手の警報装置は付いていなかった。そこで、そんな装置がなくても日本に輸出できるようにしろと圧力をかけてきたのである。警報機能の効果について、実証的なデータがあるかどうかは知らない。しかし、何でもかんでも外圧に押されてしまうのはまずいのではないかい。安全に関わる基本的なことである。そう簡単に譲ってはいけない。それどころか、お宅の国でも取り付けなさいよ≠ュらいのことを言うべきではないか。それはともあれ、日本国内では時速180kmなんて必要ないのである。どんなにアクセルを踏んでも一定以上にスピードが出ない。そんなメカニズムを組み込むことくらい、日本のハイテク技術を使えば容易にできるはずである。ついでにスピード記録メモリーなんてのを付けてはどうだろうか。トラックなどに装着されているタコメータをメモリーチップ化するのである。通常はユーザーが手を出せないように封印しておく。それを2年ごとの車検の際にチェックするのである。一般道路の最高である時速60kmを10km以上超えていた時間には一定金額を掛け算する。高速道路の場合は、その限度を時速120kmに格上げすればいい。ETCなんて便利なものがある時代だ。車が高速道路に入ったことくらい自動的に判別できる。こうして、超過分は罰金として徴収するのである。何とすばらしいアイディアであることよ…。しかし、いくら技術的に可能であっても、本当にこれが現実になっていいのか。そこまでしなければ、人間は自分をコントロールできないのだろうか。何とも情けない話だが、このままだと笑い事ではすまなくなる。 |
アンチ アルコール カー(06/09/10-1247)
指紋認証にアルコール検知器付きの車というのは、なかなかいいアイディアではないか。日本のハイテク技術を持ってすれば、それくらいのことは朝飯前に違いない。しかし、悪賢い人間はいくらでもいる。最初のチェック時には素面の友人を座らせ、すぐに酔っぱらった車の持ち主が交代することができる。それでも運転中の呼気を計測する手はあるが、そうなると助手席の人間も飲んでいてはまずいことになる。どうしても誤作動する可能性が出てくるからだ。それではうまくない。そこで、次の手段として、ついでにカメラも取り付けるのはどうか。世の中にはとんでもない連中がいて、あっちこっちで盗撮しているというではないか。そのとき使うカメラなら、レンズも随分と小さいに違いない。そんな立派なものを犯罪行為に悪用するのはやめてはどうか。そこでハンドル部分にでもレンズを組み込むのである。そうすれば、事故が起きたとき運転してしていた人間は一目瞭然である。さらにカメラに写った顔を分析すれば、いまの技術なら本人確認までできるだろう。そうなれば登録者以外は運転できないことになるから、盗難防止策としても大いに役立つではないか。そうそう、スピード違反だって大問題だ。そもそも車のメータがおかしい。日本の道路を走るのに、どうして180kmまで書いてあるんだろうか。免許を持たない家内は、もうずっと前から不思議だと言っていた。たしかに、素人にはそのあたりの理屈がわからない。エンジンには余裕が必要なのだろうが、そのためには時速100kmをはるかに超えるスピードが出なければまずいのか。もうかなり昔の話になるが、高速で時速110km程度を超えるとチン、チン、…≠ニ警告音が鳴っていたが、その機能はカットされてしまった。 |
責任能力(06/09/09-1246)
法律的には飲酒による死亡事故を起こしても、未必の故意による殺人罪には問われない。しかし、これだけ頻繁に酒飲み運転が悲惨な結果を引き起こしているのである。自分が酒を飲んで事故になれば、人が死ぬこともあり得るという認識は持って当然である。したがって、酒飲み運転の死亡事故は限りなく未必の故意≠ノ近いといわねばならない。もっとも、故意≠ニいうキーワードは酒を飲む前に問題になることである。アルコールが入ってしまえば精神状態がおかしくなる人間も出てくる。つまりは自分の意思で判断できない状態になるのだ。そうなると責任能力が問題にされる。泥酔状態では罪を問えない。法律の世界では、そんな理屈の方が優先されるのではないか。このあたり、現行の飲酒事故の場合、法律的にはどのような解釈で責任が問われているのだろうか。それにしても人間は自己中心的な動物だ。飼い犬が噛みついて人を死なせたりするとどうなるか。もう文句なしにその命を奪う。人を襲った熊だって、たいていは撃ち殺される。犬や熊には責任能力があるというのだろうか。まことに人間中心の勝手な解釈だという他はない。それにしても、絶望的な状況である。これから先も飲酒運転はなくならない。そう考えると、もはや人間の理性になんぞに頼ってはおられない。車のハンドルあたりに指紋認識装置でも付けますか。何といってもハイテクの時代だ。そんなことくらい朝飯前だろう。運転する前に指紋で認証しなければ、エンジンがかからない。これでまずは運転者を確定する。それと合わせて、呼気の測定装置を装備するといい。ハンドルにふっ≠ニ息を吹きかけるのである。そして一定のアルコール濃度が検知されると、これまたエンジンがかからない。 |
未必の故意(06/09/08-1245)
福岡の事故の後でも、大分で公務員が事故を起こして逃げている。あれだけ報道されても、何の教訓にもなっていない。そうなると、自分で責任をとってもらうしかない。とにかく、飲酒事故はそれ自身殺人未遂なのである。そして、運転するのを知っていながら酒を飲ますのは殺人幇助だと考えるべきである。法律用語に未必の故意≠ニいうものがある。未必≠ニいうことばは単独で辞書に載っていないから、それ自身が法律特有のものだろう。必ずしも、未だ…=B素人にはわけのわからない漢字の組み合わせであることよ。専門家だけわかっていればいい。そんな気持ちで造語されたようなことばである。それはともかく、広辞苑では未必の故意≠以下のように説明している。まずは、@行為者が、罪となる事実の発生を積極的に意図・希望したわけではない(が)…=Bたとえば、積極的に人を殺すために℃を飲んで自動車を運転するわけではない。当たり前のことだ。しかし、A自己の行為から、ある事実が発生するかもしれないと思う(いながら)…。つまりは、自分が酒を飲んで車を運転すれば、交通事故を起こして人の命を奪うかもしれないと思うのである。それでも、B発生しても仕方がないと認めて、行為する。まあ、飲んだことで自分が事故を起こせば、人を死なせるかもしれないと思う。しかし、そのときはそのときで仕方がないと考える。その上で、酒を飲んで運転するのである。それは、C(行為する)心理状態≠ナ、故意の一種≠セとされるのである。この心理状態というのは、われわれがよく聞く動機に近いことばなのだろうか。故意≠フ結果であれば、それは殺人である。もちろん法律的には、飲酒による死亡事故は殺人とは捉えられていない。 |
社会規範の醸成(06/09/07-1244)
社会の規範を変えていくには時間がかかる。その中でも重要なのが教育だ。私もだんだん先が見えてきた。もう何軒か向こうには還暦≠セってやってきている。だから高齢者の福祉には十分な配慮をして欲しいと思う。しかし、その対極にある子どもたちの教育にも大いに力を入れる必要がある。ほんの数年前、米100俵≠フ話をした人がいた。あれを聞いたときには、何とすばらしい≠ニ感動した。しかし、その後はどうなったのだろうか。まさに雲散霧消=Aどこかに消えてなくなった。人は歴史の事実を知っているだけで自慢してはいけない。それなら単なる個人的な趣味で終わりだ。過去の歴史をふり返り、それを現在と未来に生かすことが大事なのである。とくに政治家にはそうした力がほしいものである。高齢者には選挙権がある。しかし、生まれたばかりの赤ん坊や子どもたちには選挙権がない。政治家の皆さんはやっぱり高齢者の方に目が向くのかなあ。はっきりいしていることは、教育に金をかけない国は、いずれ崩壊する≠ニいうことである。それにしても、社会規範を一朝一夕で醸成することはむずかしい。しかも、飲酒運転などは規範の力だけではなくならない。われわれはそれほど賢くないのである。そうは言っても、飲酒運転を抑える規範が当たり前になることを期待したい。しかし、それが実現するまでは、飲酒運転など許せないことには厳罰で臨むこともやむを得ない。飲酒運転は、事故を起こさない場合でも殺人未遂%Iな行為であることを認識すべきだ。福岡で子ども3人が亡くなった事故では、容疑者が友人に水を持ってこさせたという。酒を薄めようという浅ましさにはあきれてしまう。あれからも、各地で飲酒運転による事故が報道されている。 |
規制と規範(06/09/06-1243)
もともと法律や規制などはない方がいい。そんなものを気にせずに生きていける世界が理想というものだ。法律や規制は上からの権威によって人の行動をコントロールする。それよりは、社会の規範や文化によって、お互いが迷惑をかけずに気持ちよく生活できれば最高ではないか。ところが人間はそれほど賢くないのである。だから法律や規制が幅をきかせる。ところが、そうして罰則を強化しても愚かな行為はなくならない。飲酒運転などはその典型である。まったく救いようがないのだ。こうした事態を前にして識者は訴える。罰則を強化しただけでは、飲酒運転はなくならない≠ニ。この飲酒運転≠フ部分はいろいろ変えることができる。少年犯罪≠ネどはその代表である。おっしゃるとおりだと思う。しかし、だけでは¥ヌ候群にも気をつけた方がいい。こうした言い回しには、それをやっても無駄∞そうしたことはしないほうがいい≠ニいった響きがあるから要注意なのだ。もちろん、法的な規制だけ≠ナ不十分なことは誰にだってわかっている。しかし、残念ながらそれも必要≠ネのである。しかも、だけでは≠強調する人々も、それ以外≠フ効果的な方法は、なかなか提示できない。人類が発生以来どのくらい生きてきたか知らないが、これしかない≠ニいうベストの正解を見つけたことなどないだろう。結局は、みんなで知恵を出し合ってよりベターな方法を探し続けていくしかないのである。たしかに、法律のようなものでトップ・ダウン的に規制されるのはできるだけ避けたいものだ。社会の規範というか、みんなの常識を高めていくことが何より大事である。どんなに時代が変わっても、当たり前の常識を育てながら社会を維持していくしかない。 |
規制社会(06/09/05-1242)
小さなことを見逃すと、さらに大きな問題が起きる。これが割れ窓理論≠フポイントである。だから、ニューヨークでは小さなこと≠徹底的に取り締まったのだ。一般的に、犯罪に対する海外の対応は知らない。しかし少なくとも日本では、決まったことが徹底されない傾向がある。運転中の携帯禁止≠ヘ鳴り物入りで法制化された。最初の1週間くらいはニュースでも大いに話題になっていたが、その後はどうか。もう、いまでは運転中に電話しまくりの状態だ。そんないちいち取り締まっていたら、警察官がいくらいても足りないということだろう。しかし、守らなくても咎められないような法律なら、ない方がましだ。そもそも子どもの教育に悪い。平気で法律を違反しても、捕まらなければOKという手本を示しているのである。人が足りないというなら、違法駐車と同様に民間の手を借りてはどうか。飲酒運転の取り締まりだって、その手でいけばいい。しかし、そうなると規制と監視が幅をきかせる世の中になってしまう。そんな社会を許してはいけない。こんな声が一斉に聞こえてきそうだ。私もそんな事態は相当にまずいと思う。しかし、それならどうするかである。携帯電話や飲酒運転に限らない。人の傘を平気で拝借する、自転車を勝手に持って行く。本屋やスーパーでは万引きが絶えることがない。その上、このごろは盗撮なるものまで大流行である。人の生命にまでは関わらない程度の犯罪が増加の一途をたどっている。してはいけない≠アとをする人間があまりにも多すぎるのだ。いまや規制と監視といった外圧なしにはまともな社会が実現できない。何とも悲しい世の中ではないか。私たち自身が、そんな情けないレベルに自らを堕落させてしまったのである。 |
慣れの悪循環(06/09/04-1241)
割れ窓理論≠ノよれば、小さな悪事が次第に大きな悪事を呼び込んでいく。このごろは、殺人事件のニュースを聞いても驚かない。ああ、またか≠ネのである。親がわが子を殺し、子どもが親を殺す。たしかに困ったことなのだが、世の中がひっくり返るような驚きはなくなった。ワイドショーのレポーターは、とんでもない事件を追いかけて全国を飛び回る。しかし、そのレポートも数日つづく程度、すぐに次の信じられない℃膜盾ェ起きるのである。こうして、慣れが慣れを呼ぶ∴ォ循環が生まれる。世の中は、すでに取り返しがつかなくなってしまったのではないか。そんな暗澹たる気持ちにもなる。慣れ≠ヘ同じ程度のものには驚かなくなることである。だから、それはさらに大きなものへと拡大していく。個人が起こす飲酒運転だって同じことだ。はじめはコップ一杯か二杯≠フビールが、ビール1本≠ノなる。それでも事故なんて起きはしない。昼飯時なら検問だってあり得ない。そのうち、焼酎1杯≠熬ヌ加される。ちょっと一杯のつもりで飲んで、いつの間にやらはしご酒…=B歌の文句ではないが、これがだんだんとエスカレートしていくのである。飲酒運転などは、そうした悪循環の典型なのだ。とにかく確率的にはまず捕まることがない。だから、飲酒運転が危険なことだという実体験的な学習がなされない。一般的には、他人が起こした悲惨な事故を知るだけでも、自分の行動を変える力になるような気がする。しかし現実を見ると、マスコミの情報だけではそうした効果は期待できないようだ。身近で起きた場合はどうかしらないが、テレビや新聞で報道される悲劇は自分とはまるで無関係なのである。こうして悲劇は永遠に繰り返されることになる。 |
小悪と大悪(06/09/03-1240)
ニューヨークが強化した取り締まりの中には飲酒運転も含まれている。こうした働きかけの甲斐があって、殺人や強盗・婦女暴行などの重大犯罪が激減したのである…。その成果については批判もある。警官が増えて徹底した規制社会になったとか、犯罪がよその地域に移っていっただけだといったものは、その代表である。それに、厳密な実証的データがなく、情緒的にものを言っているだけだという批判もある。こうした点について考えるのも大いに意味があるだろう。それはそうとして、小さな犯罪でも、それが減少するのはけっこうなことである。小さなことでも悪いことはしない。それが基本ではないか。いまでは、人の傘を持っていくことなど何の抵抗もないように見える。だって、傘がないと濡れるもん=Bこんな理由で傘立てにある他人のものを勝手に盗っていくのだ。そして、駅に着いたら放り出す。なにせ目的は達したのである。これが少しばかり値が上がると、対象が自転車になる。そして、これもまた必要でなくなったら適当に放置する。こうして、最終的には自分のものにしたわけではない。それどころか、ちゃんと返した≠ナはないか。だから泥棒≠ネどと言ってもらっちゃあ迷惑だ。まあ、ちょっと移動はしたけど≠ニいうわけである。こうなると罪悪感のかけらすら見えない。われわれは慣れる≠ニいう強力な能力を持っている。それは生きるために必要不可欠な力である。しかし、これがプラスにもマイナスにも働くから注意しなければならない。人間は悪いこと≠ノもすぐに慣れてしまうのである。組織の事故やミス、不祥事などの事例でも同じことが起きている。小さな問題を放置しておくと、それがさらに大きな問題の隠蔽に繋がっていくのだ。 |
割れ窓理論(06/09/02-1239)
ニューヨークが採用した割れ窓理論≠ヘ、なかなか興味深い。その発想はアメリカのある州で行われた警官の防犯パトロールから生まれた。犯罪が多発するために、警察官たちが徒歩で街を見回ることにしたのである。その結果、犯罪が減少したかというと、それほど直接的な効果は認められなかった。しかし、このパトロールは地域住民たちに安心感を与えることになる。そして、警察に対しても親しみを感じるようになった。自分たちの安全を守るためにパトロールをしてくれるのだから、好意的な感情を持つのは当然だろう。こうして、地域全体の治安に対する安心感が生まれていった。それが犯罪防止の意識向上にも繋がり、結果として凶悪事件も起こりにくくなるだろうというわけだ。徒歩による防犯パトロールという小さな働きかけが、地域全体の安心感を高め、最終的には大きな犯罪を防ぐ。こうした現象をもとに、割れ窓理論≠提案したのは、ジョージ・ケリングという犯罪学者だった。街中で使われていないビルのガラスが1枚だけ割られる。それによって、ビルが管理されていないことが一目瞭然となる。そうなると、2枚目の窓を割ることにも抵抗感がなくなる。こうして次々にガラスが割られて、ビルは廃墟と化する。たしかに、われわれの身近にもこうした建物を見かけることがある。ビルが廃墟になるだけではない。その中に人が住み始めたりする。しかし、誰もそれを咎めない…。こうして、小さな*竭閧放置していると、それがどんどんエスカレートしていく。そのうち、気がつくと取り返し≠フつかない事態になっているのである。こうした発想から、ニューヨークでは、落書きや無賃乗車・駐車違反など、比較的軽微な犯罪を徹底的に取り締まった。 |
ちょっとだけ≠フ常態化(06/09/01-1238)
昼食時のビールちょっと一杯≠ェ、こころのたがをはずしていく。何と言っても、ちょっとビールを飲んだくらいで事故なんて起きるはずもない。それに、山の中まで飲酒運転の検問なんてあるわけがない。飲んでも事故らない。飲んでも検問などあり得ない=Bこれに、自分の運転は大丈夫≠ニいった気持ちが後押しする…。こうして、ちょっとだけ飲酒≠フ回数が重なるうちに、それが日常化していく。少しくらいなら大丈夫≠ニいうわけだ。大都市では車の通勤は効率が悪いから、公共交通機関を利用することが多い。しかし、地方になると車への依存度が高くなる。もちろん、大都市の人間も休みの日にはドライブもするだろう。そんなとき、行った先でついついアルコールを口にすることは少なくないはずである。こうして、気がついたら社会全体が、ちょっと一杯≠許容する取り返しのつかない状態になってしまっていたのである。こんな状況を見ると、ニューヨークの割れ窓理論≠ェ思い起こされる。1980年代のニューヨークでは凶悪犯罪が多発し、街を歩くのも恐いと言われていた。そうした中で、治安の回復を公約にして立候補した検事出身のジュリアーニ氏が市長になった。彼の名前は、9.11テロの際に日本でも大いに知られるところとなった。市長は割れ窓理論≠基にして治安を改善しようと考えた。これは、ビルの小さな窓が破れているのを放置していると、そのほかの窓もドンドン壊されていく≠ニいう現象を基に名付けられた。小さな問題≠ほったらかしにしておくと、それがさらに悪い方向へ進んでいく。われわれの周囲を見ると確かにそうした傾向が認められる。そこで、ニューヨーク市は落書きや違法駐車など軽微な犯罪の防止に力を入れた。 |
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