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味な話の素
No.40 2006年08月号(1207-1237)
 
昼食とビール(06/08/31-1237)
 飲酒運転を引き起こす心理的な素地がある。私が住む熊本は、山にも海にも恵まれている。山の方は言うまでもなく大阿蘇だ。世界一のカルデラといわれているが、その雄大さは比較するものがない。そして西に向かえば天草がある。こちらは海の幸がいっぱい。西端の牛深ともなれば、伊勢エビも楽しめる。天草五橋も美しい。子どもたちが小さいころは阿蘇にも天草にもけっこう出かけていた。このごろは仕事が忙しくなって、その機会が減った。それでも、ときおり家内と阿蘇などに足を伸ばす。四季折々の自然を楽しみながら食事をとる。高森町の田楽なんぞは最高である。そんなとき、ビールを注文する客がけっこういる。家族連れで夫婦のうち一方しか飲んでいないこともある。この場合は、飲んでいない方が運転するのだと思う。しかし、どちらの側にもジョッキが座っているときもある。あるいはビンビールを注文して、二人ともコップでビールを飲んでいる。そこまで公共交通機関で来られるはずがない場所である。どう考えても車で来ているに違いない。何のことはない。食事の際にビールを飲んで、その後どちらかが運転するのである。こうした状況は阿蘇などの観光地に限ったものではない。いまやビールは昼飯のお茶替わりになっている。そんな光景をあちこちで見かける。外国では水替わりにアルコールを飲むところもあるらしい。そうした国では、朝から晩までアルコールを飲んでいるのだろうか。まあ、よそのことは知ったことではない。とにかく日本では、昼食時にビールを飲んで運転するくらいでは罪悪感もなくなってしまったようだ。ちょっとくらい、いいじゃないか∞このくらいなら大丈夫…=Bこうした自己中心的な解釈がドンドンと拡大していく。
飲酒運転の悲劇(06/08/30-1236)
 アルコールによって前頭葉が怪しくなってくる。いまや、日本人全体の前頭葉が機能不全に陥りつつある。これが私の認識だが、アルコールはその働きをさらに無力化する。だから、日常の場では言えないことも平気で言う。いつもの態度や行動からは想像できない行動もする。そして悲劇が繰り返される。また≠ナある。橋の途中で追突されたRV車が海に落ち、3人の子どもが命を失った。母親は子どもたちを助けるために、必死に潜ったという。その事実を新聞で読んだだけで胸が痛む。目頭が熱くなる。車をぶつけた男は飲酒運転だった。また≠ネのである。酒を飲んでいて引き起こされた交通事故がいかに悲惨なものか。誰だって知っている。それは、被害者たちの人生をメチャメチャに壊すだけではない。加害者自身の人生も駄目にしてしまうのである。さらに、加害者の親や兄弟、そして配偶者や子どもたちまでが重い荷を負うことになる。今回の事件≠ナは、加害者の父親が消防団に所属していていた。息子が起こした事故の被害者を救助するために出動していたという。こうして、また#゚劇が繰り返された。しかし、残念ながら同じことはまた°Nきる。あの報道の後に飲酒運転をした者たちはごまんと≠「るはずだ。それほど人間は救いがたいのである。あまりにひどいので、飲酒で事故を起こすと罪が重くなった。ところが、そのためにひき逃げ≠ェ増えたとさえ言われている。数字の問題だけではない。ひき逃げした後に飲み屋に駆け込むという信じられない行動に及ぶ者までいるという。捕まったときに、逃げた後から飲んだ≠ニ主張するのである。人を轢いたときは飲んでなかった≠アとにして重罰から逃れようという魂胆なのだ。何とも浅ましい。
昨日(28日)、この世に孫≠ェ出現しました…
こころの交換レンズ(06/08/29-1235)
 一眼レフカメラはレンズを交換することによって、同じ被写体でも異なる映像を写し込むことができる。それぞれのレンズが固有の表現力を持っているのである。同じもの≠ナあっても、異なる画面≠ェできる。何とすばらしいことだろう。一眼レフカメラが持っているパワーを感じながら私は思う。この発想は対人関係そのものにもあてはまるではないかと…。私たちは毎日、毎日、いろいろな人と関わりながら生きている。その一人ひとりに対して、この人はこうだ=Aあの人はああだ≠ニいった評価をする。そして、その評価に基づいて、それぞれの人に対応している。その際に、相手をいい人だ≠ニ思えば、自然と顔もほころび、好意的な態度をとることになる。その反対に、好ましくない人物だ≠ニ考えれば、その人の前では体全体が緊張する。顔はこわばるだろうし、対応も冷たくなる。そもそも、できれば会いたくないと思っているから、遠くに見かけたりすると、避けて通ろうとする。人によっては、他人にその人物の悪口まで言うかもしれない。それが人情というものだ。しかし、ちょっと待てよ。そうした態度や行動のもとになっている評価は、どれだけ正しいのだろうか。われわれは、自分の固定した発想を振り返ることは少ない。ひょっとしたら、相手のことを標準レンズ≠セけで見てはいないか。そこで試しに、魚眼レンズ≠ノ交換してみる。すると、あのとんでもない人物≠フ異なる側面が目の前に現れるかもしれない。そして、望遠レンズ≠ナ見るとどうなるだろう。これまた、おもしろい人物像が浮かび上がってくるのではないか…。私たちは、こころの交換レンズ≠持つことが大切だと思う。対人関係でも一眼レフカメラが欠かせない。
レンズいろいろ(06/08/28-1234)
 ともあれ魚眼レンズを筆頭に、広い範囲で写せるものを文字通り広角レンズと呼んでいる。レンズメーカーの商品リストを見ると、焦点距離8mmから28mまでが広角に入っている。魚眼の8mmは画角が180度で、28mmでは75.4度になっている。狭い部屋に大勢が集まったとになどは広角レンズの実力が発揮される。ただし、広角レンズで写すと外側ほど幅広く写るので、お気をつけなされ。これと正反対側にあるのが望遠レンズである。こちらは文字通り望遠鏡と同じ効果がある。遠くにある被写体を引きつけて、あたかも目の前にあるように写すことができる。スポーツなどは遠くから写さざるを得ないので、望遠レンズが欠かせない。プロ野球の報道写真などは、どれをとっても望遠撮影である。それは人間の目では見ることのできない映像だ。その意味で、カメラマンは映像を創造しているのである。望遠レンズはじつに楽しそうだが、価格も相当なもので、普通人の家計からは遠く離れている。ニコンの600mmレンズは、税込みで126万円だ。重さも5k近く、長さは40cmを超える。画角も4度10秒だというから、山の上の鉄塔の先端あたりだって画面いっぱいに写ることになる。外野からバッターの顔を捉えることができるのである。このレンズを付けると、その後ろの方に小さなカメラがくっついている感じになる。わずかなブレでも大きな影響があるので三脚は必需品だ。その三脚はレンズ側に取り付けられる。カメラでは支えきれないからである。これがまた何ともカッコいいのだ。広角と望遠の中間に標準レンズがある。これは焦点距離が50mm程度である。このレンズを使うと人間の視野に近い範囲が写せるということで、その名前が付いたという。あるメーカーの場合、画角は46.8度である。
交換レンズ(06/08/27-1233)
 何でもかんでも時代と共にグレードアップしてくる。われわれはそんな体験を積み重ねてきた。余談だが、グレードアップ≠ニいうのは和製英語である。英語では、名詞も動詞もupgrade≠セ。デジカメも例外ではない。普及型が出回ったことから、今度は高級化競争である。メーカーはこぞって一眼レフカメラの新製品を発表している。一眼レフはレンズの交換ができる高級機である。これまで売れ筋だったカメラもズームボタンを押せば、ある程度は画面の大きさを変えることができた。雄大な景色や人物全体を写したいときは広角側にする。動物園の檻の中にいるトラをできるだけ大きく写したい。そんなときは、ズームを効かせて望遠側にすれば、それなりのアップができる。しかし、広角にしても望遠にしても限度がある。そこで、写る範囲を大幅に変えるにはレンズそのものを交換する必要がある。そうした要求に応えるのが一眼レフカメラである。こうなると百人力だ。使用するレンズによって、多様な画面を楽しむことができるようになる。魚眼レンズなるものもある。ほとんど180度の範囲の世界を1枚の写真に取り込んでくれる。無数の星が輝く夜空全体だって写し出せるのである。魚眼レンズで撮った写真を見ると、画面の端に行けば行くほど歪んでいる。しかし、それが何とも言えないおもしろい効果を生み出すのである。広辞苑によると、水中からものを見ると光が屈折するために広い視野が得られることから魚眼という名が付いたらしい。この書き方から察すると、魚たちが水の中で魚眼レンズと同じ視野でものを見ているわけでもなさそうだ。もっとも、水の上から自分たちを狙っている人間たちの動向については、180度の広い範囲でチェックしているのかもしれない。
高級化・大型化(06/08/26-1232)
 さて、いまや写真といえばデジカメになった。これについては、日本がトップランナーで、ここ数年の景気回復にも貢献したと思われるほど勢いがある。携帯にまでカメラが装着される時代である。われわれのような年配者にとっては、いつでもどこでも電話ができるというだけでも夢のような話だ。それに加えて写真まで撮れるのだから信じられない$「界である。しかし、そうした機器の進歩に人間の心がついて行っていない。人の迷惑を考えず公共の場でしゃべりまくる。こうした携帯の基本的な問題に、今度は盗撮という犯罪が問題化する。人間というのは、何とも手に負えない生き物である。ところで、デジカメも大いに普及したため、売り上げは頭打ちになってきたようだ。そこで、メーカーの次の戦略は高級化である。こうした流れはモノの世界ではよくある話だ。車にしても、最初は排気量360ccからはじまった。ワーゲンに似たスバル360やホンダN360などが日本の街中を走っていた。いまの若者には、360ccのエンジンで4人乗りの車があったなんて、信じられないかもしれない。商用車には、ミゼットなどという三輪車もあった。こちらは1957年に発売されたときは、200ccのエンジンだったというから、いまさらながら驚いてしまう。これで立派な丸ハンドルが付いていた。運転席と助手席と合わせて2人が乗って、荷物を運んだのである。最高時速は80kmだというから本物だ。テレビだって、当初は14インチの白黒が一般的だった。しかし、そのうちカラーに変わり、画面もドンドン大型化していった。それは進歩の象徴であると共に、企業組織の生き残り戦略でもある。新しい製品を出し続けなければ、存続ができない。企業はそんな宿命的な立場に立たされているのである。
消えるフィルム(06/08/25-1231)
 フィルム会社は、他の製品に転換しなければ生きていけなくなるのだろう。レントゲン写真はまだ健在のようだが、これだっていずれはなくなっていく運命にあるのかしらね。いまでは、フィルムを大量に消費してくれるのは映画会社あたりだろうか。この映画だって、フィルムで撮す方式が永遠に続くとは限らない。日本のNHKが中心になって開発したハイビジョン方式なるものは、映画館のスクリーンの大きさにも耐えうる画質のようだ。これを使えばフィルムは不要になる。昔は映画を配給≠キるという言葉があった。それこそフィルムというモノを各映画館に配っていたのである。しかし、ハイビジョンなどになると、映像は信号化され、それを有線で送ることが可能になる。すでに、インターネットを通じて映像の配信がはじまっている。現時点では、家で見る場合は画面がどうしても小さくなる。しかし、それは受け側の問題であって、ディスプレイを大きくすれば限りなく映画に近づいていく。しかも、オンディマンドなどといって、見たいと思ったら、いつでもそのスタートから楽しめるということができるようになってきた。こうなると、またまた人々が個別化、孤立化されていく。この点が心配だ。お互いに知らない者たちが映画館というひとつの場所に集まって同じ映画を観る。そこに、何とも言えない一体感が生まれる。感情の共有化も起きる。しかも、街頭での示威行為などとは違って、一人ひとりは画面を注視している。そのときには、お互いに話をすることもない。そうでありながら、一斉に笑い声が聞こえたり、すすり泣きの音が伝わってくる。人が繋がっているのである。こうした体験をする場所がなくなっていくのは、前頭葉にとってもまずいのではないか。
先を見る(06/08/24-1230)
 最近のプリンタの仕様を見ると、最小1/5760インチのドット間隔で印刷します≠ネんて表示もある(エプソン)。こうなると、どのくらい微細な点の集まりなのかわからない。いずれにしても、文字は言うまでもなく、画像もしっかり印刷できる。これと歩調を合わせるように、液晶の画面も大いに精度が上がっている。して、写真はもちろん動画の表示も問題がなくなった。野球中継もかなりのカードが中継で見られるようになってきた。テレビは永遠です=Bホリエモンと対決した某テレビ局のトップはこんな発言を繰り返していた。しかし、そんな悠長なことを言ってると、大変なことになりまっせ。その点では、ホリエモンの方が先を見ていたのである…。ともあれ、カメラもデジタル化して、一般人はほとんどフィルムを使わなくなった。そのフィルムを供給するメーカは、世界でもそんなに多くなかったと思う。そんな中で、日本にはよく知られたブランドが2つあった。フジとサクラである。後者は小西六写真工業として、日本で初めてカラーフィルムを売り出した会社だ。サクラカラーは誰もが知っていた。フィルムの入っている箱が赤っぽく、フィルムも赤系が鮮やかだと聞いていた。これに対して、富士フイルムの箱は緑だから、緑系が強かったのだろうか。光の三原色は、赤青緑≠ナある。それぞれが、一色を強味にしていたというわけだ。しかし、小西六の方はすでにフィルム市場から撤退してしまった。時代の流れとはいえ、寂しい気がする。これに対して富士フイルムはまだまだ元気なようだ。現在、熊本にも新鋭工場を建設中である。ここでは液晶ディスプレイに関連した製品を作るのだそうな。すでにフィルムからの方向転換を図っている。先を見ているのである。
まともな憂鬱(06/08/23-1229)
 デジカメではじめた話が、ドンドン広がって、いつの間にか飛行機の携帯の話題にまで広がってしまった。いつものことである。じつはデジカメをネタに言いたいことがあったのだが、まだそこまで到達していない。そこで、話をデジカメに戻すことにしよう。ともあれ、カメラはフィルムを使うものからデジタル方式に変わってきた。少なくとも、一般人がフィルム型に回帰することはないだろう。画質も日に日に向上し、素人にとって問題はまったくないからである。この方面での進歩には目を瞠るものがある。昔は、ディスプレイに画像を表示すること自身がきわめて困難だった。まるでモザイクのように粗い表示しかできなかったのである。ディスプレイだけでなく、それを印刷する側にも限界があった。1980年ころのプリンタは16ドット程度で印字していた。だから、日本語といえばカタカナを出すのが精一杯だった。ドットは点を意味するが、要するに16×16の点で文字を作るのである。そのため、出来映えが粗いのは当然だった。少し前の電光掲示板といった感じである。それが24ドットになって漢字の表示もできるようになった。しかし、画数の多いものは、細かいところを省略せざるを得ない。憂鬱≠竍襲撃≠ネんて漢字は、まるで記号のようだった。しかし、それもすぐに48ドットに向上し、その後もドンドン進化していった。そして、いつのころからか dpi という表示が現れた。これは、dots per inch のことで、1インチあたりどのくらいの点を使って文字を作るかを示している。そして、紙にインクを吹き付けるインクジェットなる印刷方式が開発された。こうなると、ドットの大きさは顕微鏡レベルへと向上する。こうして、漢字が漢字だという感じになってきた。
待てない時代(06/08/22-1228)
 あれもこれも我慢なしには生きていけない時代だった。フィルムの現像やプリントにしても、東京まで郵送でやり取りする。いまから考えると、じつにとろい話である。しかし、まだか、まだか≠ニできあがりを待っているのも、ある種の楽しさを感じさせるものだったのかもしれない。何でもかんでもすぐに≠ナきて、待つことがない。そのこと自身はすばらしい進歩ではある。しかし、それに伴って毎日の生活から我慢する心が失われていった。すこしでも時間がかかると、もう待っておれない。それがまた新たなストレスとなってわれわれに襲いかかってくる。こうして世の中全体がイライラした状態になるのである。携帯電話だってそうだ。公共の場では使うなと言われても使う。先日は飛行機が飛んでるときにメールを見ている中年の女性がいた。座席は私の2列ほど前だった。ずっとメールを見るのをやめようとしないので、注意しようかと思い始めた。ちょうどそのとき、後ろからスチュワーデスがやってきた。そこで、あの人メール使っているよ≠ニ小声でチクッた。ところが、彼女は後ろにも目を持っていたようだ。スチュワーデスがそちらに目をやる前に携帯をバッグにしまい込んだ。しかし、スチュワーデスも私の言うことが事実なら問題だと思ったらしい。その座席まで行って、女性をチラリと見てから問いかけた。携帯をお使いではございませんでしたか=Bこれに対する回答は見事なものだった。いいえ≠フ一言である。世の中には平気で嘘をつく人がいるもんだと感動した。隣の座席には子どもが座っていた。さぞかし倫理観の強いおとなに育っていくことだろう。地上でも運転中の携帯電話はやりっぱなし。いまやおとなも子どもも、我慢ができなくなった。
遠い現像所(06/08/21-1227)
 それにしても、昔のカラー写真は大変だった。まずは現像にかなりの時間がかかった。撮影が終わると、フィルムをあらかじめ付いていた缶に入れる。現在ではプラスティック製になっている、あの円筒形のケースである。それをさらに布の袋に入れるようになっていた。これもフィルム購入時に付属品として付いていた。さらに封筒があって、それに布袋ごと入れて郵送していたような記憶がある。送付先は東京にあるフィルム会社の現像所である。その後、近所の写真屋さんに持って行くようになったと思う。しかし、それでも福岡ではカラー写真の現像はできなかった。フィルムそのものは、やはり東京まで送られるのであった。それが戻ってくるまでどのくらいかかったか、もう憶えてはいない。おそらく2週間程度は優に待ったのではないかと思う。こうした状況の下で、今では常識のようになった「同時プリント」などは考えられなかった。なぜなら、写した写真の出来不出来も確かめずに、1枚70円もの大枚は払えるはずがないのである。そこで、ようやく戻ってきた現像済みのフィルムのネガを見ることになる。色が補色になったあのネガである。そして、「これとこれ」などといいながら現像する写真を選んでいった。ハーフサイズでフィルムの箱に書いてある枚数の2倍分も撮ったのはいいが、プリントするのはほんの数枚になるのだ。そして、またしてもそのために時間がかかることになる…。今から考えると、なんともつましく、悠長な時代であった。それは、カラーフィルムに限ったことではない。すべてがこんな調子で、何をするにしても、やりたい放題なんかできなかった。誰もが、我慢すべきときには我慢しなければならない。そんな状況に置かれていたのである。
一眼レフへの進化(06/08/20-1226)
 わが家で初めて買ったカメラもハーフサイズだった。品名はオリンパスペンEEである。インターネットで調べると、この世に出たのは1961年で、価格は10,000円とある。当時の東京におけるタクシー初乗り料金の100倍だから、いまなら6万円はすることになる。そのころの生活水準を考えると、これまた破格の高さと言うべきだろう。ともあれ、フィルムの箱に書かれた倍の枚数が撮れるカメラなんて、いかにも日本らしい。まさにコンパクトで省エネ志向である。それでいてきちんと写ったし、フラッシュも別売りでちゃんと準備されていた。そのころは、1回限りのバルブで、ボッと燃えて熱くなった。ああ懐かしい。それにしても、しっかりしたカメラであった。これが日本におけるカメラ普及に大いに貢献したことは疑いない。その後もオリンパスは一眼レフでもコンパクト化したOM-1なる名機を世に出した。もちろんこちらのフィルムはフルサイズである。わが家でも、1973年10月にOM-1を買った。それに決めたのは、オリンパスEEが気に入っていたからである。それからは、レンズも広角や望遠を揃えるなど、それなりのカメラファンになった。絞りやシャッタースピードを調整しながら写真を撮るのは、なかなか楽しいものである。そのうち、素人の趣味程度ながら、そこそこの写真も撮れるようになった。その成果があって、友人や後輩の結婚式で写真を頼まれるようになった。その際は、披露宴の写真を撮ってアルバムを作り、それを贈るのが私のお祝いになった。自分自身が結婚して子どもが生まれると、これまた写真を撮りまくった。長男などは生まれてから半年も経たないうちにアルバム1冊になるほどである。その点、妹の方がペースが遅くなってしまった。いやあ申し訳ない。
ハーフサイズ(06/08/19-1225)
 カラーフィルムが一般向けに売り出されたころ、現像代が1枚70円もした。今日の500円くらいに当たると思われるが、その心理的な高さは、いまの500円とは比較にならない。なぜなら当時は、ほかに優先しなければならないものがたくさんあったからである。ようやく食べていける時代の500円は、欲しいものがなくなったときの500円とは意味も重さも違う。そんなわけで、わが家でも初めてカラー写真を撮ったときは、清水の舞台から飛び降りるほどの覚悟がいったに違いない。もともとカメラそのものが当たり前のものではなかった。そんな時代に、フィルム代を抑えるために、ハーフサイズカメラと呼ばれるすばらしい製品があった。これは、普通の35ミリフィルムの半分の大きさに写真を写し込むという発想で作られたものである。現像した35ミリフィルムを見ると、36×24mmの横長に写っていることがわかる。これが一般的である。それをハーフサイズカメラは、18×24mmに写すのである。つまりは横が24ミリで縦が18ミリというわけだ。だから、ファインダーを覗くと、まずは縦長の画面が目に入る。横長の写真を撮りたければ、カメラを横向けにするのである。この方法で写せば、1枚分の面積で2枚の写真が撮れることになる。ハーフサイズという呼び名は、カメラの大きさではなく、フィルムの使用面積に由来していたのである。こうして、12枚撮りのフィルムなら24枚、36枚なら72枚も撮影が可能になった。もちろん、フィルムの面積が半分になるから、それだけ画質は落ちる。しかし、写真1枚が名刺よりやや大きい程度のものだったから、画質なんて大して問題にならなかった。そんなことより、自分の家にカメラがある。それだけで大いに満足できる時代だったのである。
デジカメ時代(06/08/18-1224)
 いまやカメラはデジタルが主流になってきた。写真の質を決める画素数も、あっという間に1000万を超えている。1枚の写真をそれだけの点で表現するのだから、素人目にはフィルムの写真と変わらない。その上、撮ったらすぐに写り具合を確認することができる。さらにフィルムだと、それなりの経費がかかるので、無闇に撮りまくるわけにはいかない。これに対してデジカメはメモリーが許す限り撮りたい放題である。しかも、気に入らない写真は簡単に消せるし、出来映えのいい写真は、ハードディスクなどに保存できる。これまでのようにフィルムの保管場所にも困らない。こうした好条件の下で、素人の撮影技術もどんどん伸びていくだろう。せっかくいい被写体があっても、フィルムがもったいないから2、3枚でやめとこう。これがいままでの常識だった。しかし、好きなだけ写すことができるとなると、経費など気にせずシャッターを切りまくることができる。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる≠ナはないが、その中から傑作が生まれることは疑いない。そのうち、本当に腕も上がっていくあろう。ともあれ、時代の変わりようには驚くばかりである。私のアルバムにある最初のカラー写真は、高校1年生のときに撮ったものだ。場所は自宅の近くにあった福岡の香椎宮である。父と新しい制服姿の私が並んで写っている。おそらく入学の記念に撮影したものだろう。このカラー写真は、名刺より少しばかり大きいが、1枚現像するのに70円もした。朝日文庫の戦後値段史年表によると、この当時の駅弁が150円、タクシーの初乗り(東京)が100円である。その当時、カラー写真がどれほど高価なものだったかがわかるだろう。いまの物価水準に合わせれば、500円くらいになるのではないか。
進化した体型(06/08/17-1223)
 小さな体だと、食べる量も少なくてすむ。それだけでも地球にやさしい。自分の体に見合った生き方をすれば、他人との摩擦だって起こりにくいだろう。このごろの日本人は、体の割には食い過ぎだと思う。あれもこれも使い捨てにする。どうも、体相応の生き方をしていない。昨年あたりから、外国人の影響でもったいない(Mottainai)≠ニいう日本語が注目されている。外から言われてあらためて評価し直す。こうした日本人の悪い癖は相変わらずという感じだ。何とも寂しくなる。ついでに言えば、もったいない≠ノ加えて、おかげ≠ニいう日本語も大事にしませんかと提案したい。この世の中には、自分だけ≠ナ生きている人間なんていない。どんな瞬間をとっても、他人のおかげ≠ナ毎日の生活がある。そう考えると、私は平和な気持ちになる。体は小さくても、理性の力持ち。それが人間らしくていいなあ。人類の発祥の地はアフリカだという。われわれの祖先は、そこから地球上の至る所に散らばっていった。そして、それぞれの風土に合った体型になり、文化を育ててきた。草食だから胴長というのなら、それはそれで立派に適応した結果である。アフリカの人たちは、ものすごい足長に見える。それは、足がしっかりしていなければ、食べるものにも困るような地域だからだろう。肌の色だって、その地域の環境野中でうまく生きることができるように違いが生まれた。どんなものでも、ひとつの基準で測ろうとするとややこしくなる。いろいろな物差しを準備すれば、ものの見え方も違ってくる。短躯・短足・胴長の方が省エネであることは間違いない。いまの地球には最適の特性ではないか。われわれこそ、進化した∞スマート≠ネ体型として評価されていい…。
小さな理性人(06/08/16-1222)
 とにかく、われわれは依存が高まるほど、それを忘れてしまう。そんな傾向を持っている。いま、私は自宅でPCに向かって、味な話の素≠書いている。このPC、蛍光灯、机、本棚、…。部屋中を見回して、私自身が作ったものはただのひとつもない。自分が身につけているものも、下着から半ズボンまで、すべて人が作ってくれたものだ。もちろん座っている椅子も、住んでいる家そのものも…。こんなわけで、どの瞬間、どの空間をとっても、自分が作ったものなんてないのである。そんな中で、私が書いている、この原稿くらいは、私のオリジナルだと言いたいところである。しかし、それだってかなり怪しい。なぜなら、私がこれを書けるのも、日本語を教わったからである。そして、私のものの考え方や見方は、無数と言っていいほどど多くの人から影響を受けているのである。たしかに、文章そのものには私のオリジナルな考えが含まれている。それはそうだとしても、私自身が生きていなければ、一文字だって書くことはできない。そうだ、私はご飯を食べなければ生きていけないのである。そのご飯は、誰が作ったか。お米も味噌も、野菜も、そして水の一滴すら、私が作ったものではない。とにもかくにも、現代の人間は一人で生きてはいけないのである。私は自立した人間です=Bこんな発想は思い違いだと考えた方がいい。その点では、お互いに依存し合っていることを知っていた太古の人たちの方が、よほど理性的だったのではないか。われわれ現代人は、体だけは大きくなって、いかにも進化しているように思い込んでいる。しかし、それは大いなる勘違いだと言うべきだろう。体は小さくても理性的である方が、よほど人間らしいのではないか。省エネでもあるし…。
逆向する進化(06/08/15-1221)
 この地球の上で人類が適応していくためには、もっと少ないエネルギー消費で生きていけるように進化する必要がある。そのためには、体型だっていまよりも小さくなった方がいい。時代とともに大きくなっている人類を見ていると、どうも進化に逆行していると思う。もっと小さければ、家だって自動車だって小さくて済む。飛行機も少ない燃料で飛べるじゃあないですか。そして、前頭葉さへしっかり育っていれば、体の小ささなんていくらでも克服できる。それが、逆になっているから問題が深刻化することになる。体は大きくなって、理性は縮小していくばかりなのだ。この味な話の素≠はじめたころの2003年5月13日に、相互依存のパラドックス≠ノついて書いたことがある。まだNo.26である。われわれは、依存すればするほど、依存していることを忘れてしまう。そんな逆説的現象を取り上げた。たとえば、吉野ヶ里遺跡に住んでいた人たちは、自分たちが、お互いがなくてはならない人間であることを実感していたと思う。そこに何人住んでいたか知らないが、あのおじさん、おばさんたち、隣のお兄ちゃんからおじいちゃん、おばあちゃん。もちろん、自分のお父さんやお母さん…。とにかくみんなが、誰からもお世話になっているということを体感していた。相互依存≠ネしには生きていけない。そのことを誰もが知っていたに違いない。その結果、他人に対する感謝の気持ちが生まれてくるのは容易に想像できる。それがいまではどうですか。自立≠ヘ現代人のキーワードと言わんばかりだ。わたしは自分の力で生きています≠セって…。冗談を言っちゃあいけません。この世の中、どこに自立している人がいますか。一人だけで生きている人がいたら教えて欲しい。
短躯・短足・胴長(06/08/14-1220)
 恐竜は体が大きくなって自滅した。この説明は隕石説によって覆されたのだろうか。しかし、仮に隕石説が正しいとしても、衝突時に地球上のすべての生き物が消滅したわけではない。おそらく恐竜は図体が大きかったため、地中に避難することもできず、最大の被害者になったのだろう。そう考えると、体が大きいことがそのまま有利だとは言えないことになる。いま、とくに先進国といわれる国々の人間は、資源を使いまくり、ありとあらゆるものを食いまくっている。何でもかんでも食べて喜ぶだけではない。食べきれないほどつくって、それをドンドン食い残している。東京などではカラスが増えて困っているという。それも、街のあちこちに残飯が置かれていることが大いに影響しているのだろう。こうして欲求は際限なく拡大していく。それを抑制すべき前頭葉はそのスピードに追いつけない。それどころか、ますます弱体化している。こうして、体そのものは恐竜ほど大きくはなっていないが、人類も自分自身の巨大化によって滅亡への道を突き進んでいる。いやいや、日本人を見ても、体だって大きくなっている。もともと、東洋系は小柄だが、エネルギー効率からいえば、小さい方が地球にもいいに決まっている。草食性で植物繊維を消化するために腸が長くなり、したがって胴長短足になるという。それだって、動物を殺して食いまくらないだけ地球にやさしいんじゃないか。大地にしっかり足を置いて、むやみやたらに移動しない。その方が平和でもある。食い物がなくなったといって、他人が平和に生活している所まで足を伸ばして行って争うこともない。そうなのだ。短躯で短足胴長こそ、人類の進化すべき姿なのである。私なんぞは、その典型的なモデルと言っていい。
恐竜と人類(06/08/13-1219)
 私が子どものころ、恐竜が地球上からいなくなったのは、彼らが大きくなりすぎたからだといわれていた。体が巨大になり、自分自身で身動きができなくなった。また、体を維持する食べ物も手に入らなくなった。まあ、少なくともこんな理由が重なって絶滅したというのである。しかし、この話は下火になった。いまでは、隕石説が有力のようだ。地球に大きな隕石が落ちてきた。その衝撃は凄まじく、一瞬にして爆発による雲が地球を覆った。その結果、地球全体が死の世界と化した。地下や水中で命拾いした生物はいたのだろうが、図体の大きな恐竜たちは生き延びるすべを失ったのである。そうだとすれば、絶滅の原因は、やはり彼らの体の大きさだったと言える。彼らは、地球環境の変化に耐えられないほど大な体をしていたわけだ。それこそ地球最古の生き物かどうかは知らないがゴキブリなどはしっかり生き延びている。私は小学生のころにある仮説を立てた。恐竜は体が大きくなって自滅した。自分の体を動かすことができず、食べ物も食い尽くしたからだ。これに対して人間は恐竜ほど体は大きくなっていないが、その活動は、地球の資源を食いつぶすほど巨大化している。まさに破壊的である。たしかに、われわれ人間は見た目は恐竜ほど大きくなっていない。しかし、その活動範囲の拡大は凄まじく、資源の食いつぶし、環境の破壊がどんどん進んでいる。このままだと、人類は恐竜と同じ絶滅の道をたどる。大きくなりすぎたが故の自滅である。これが私の仮説だった。こうした最悪の事態を回避するためには、人間に備わった理性を発揮する必要がある。ここまではいいのだが、その先がかなりまずい。その中心的な役割を果たすべき前頭葉が危機に瀕しているからである。
こころの筋肉(06/08/12-1218)
 いつの間にか、日本人の子どもたちは体が大きくなった。その理由は、栄養がよくなったからだろう。足も長くなった。これは正座をしなくなったためかもしれない。昔から日本人は足が短いと言われてきた。その大きな原因が草食だからだと聞いたことがある。肉類は簡単に消化できるが、草食類は手間と時間がかかるらしい。そのために、長い腸が必要になる。そうなると、その腸を収めなければならないから、胴体部分が長くならざるを得ない。その結果、胴長短足となったというわけである。そう言えば、草食の牛なども、反芻する胃を持っている。これも、草食だから必要になった仕組みなのだろうか。ともあれ、長い年月を経て体のあちこちが変わってきたことはたしかだ。それにしては、戦後60年程度で、足が長くなるのは、少しばかり早いような気もする。いずれにしても、こうした変化は大脳にだって起きてもおかしくはない。我慢≠しなくていい環境が当たり前になっていく。欲しいと思ったら何でも手に入る。そんな中で、快感を感じる部分に変化が起きる。小さなことでは喜びを感じない。喜びの感受性が低下しているのである。その上、欲求が少しでも阻止されると、すぐにキレる、暴発する。それに耐える力がないのだ。しかも、自分の行動が引き起こす結果まで思いが至らない。その点で、想像力≠フ低下も深刻なものがある。こうした状況が続いていけば、体格と同じように、大脳に変化が起きてもおかしくない。とくに、こころ≠フ中枢である前頭葉が変化し、期待した役割が果たせなくなることも考えられる。体の筋肉は鍛えないと衰える。前頭葉は、こころの筋肉≠ナはないか。こちらだってちゃんと鍛えていかないと、取り返しがつかなくなる。
我慢の死語化(06/08/11-1217)
 たしかに地球は温暖化している。このごろの夏を体験すると、日本が温帯だという感じはしない。熱帯とまでは言わないが、おそらく亜熱帯の資格は十分に備わってきたのではないか。いわゆるコンクリートジャングルで熱は反射するばかり。吸収されることがない。これにクーラーの室外機が熱風を吹き出しまくる。車は車で排気ガスを出し続ける。その上、人間の活動は夜になっても止まらない。放送だって省エネ≠ネどといいながら、24時間ぶっ続けで番組を流している。かくして、真夏日と熱帯夜の日数は新記録を更新していく。すでに日本では冬にだって蚊を見つけるような状況になってきた。ああ、今日も暑い=Bわが家に扇風機なるものが顔を見せたのは、私が高校生のころである。その当時だって、夏はそれなりに暑かった。そんな中で、重い鞄を持って自宅に帰り着く。家に入るやいなや、扇風機に飛びついた。扇風機を抱くような格好で風量を強≠ノする。まるで地獄から生還したのではないかと思えるほどの快感だった。わが家では、その扇風機を買ったばかりだったのである。当時、街ではデパートにクーラーが設置されはじめた。デパートのドアを開けたとき、しびれるように冷たい空気が肌を刺した。汗が流れ出る体にとっては、まるで神様から贈り物をもらったような気持ちになった。我慢≠ェ報われたのである。そうそう、わが家に冷蔵庫が来た日のことだって、いまでも目に浮かぶ。自宅で氷ができる。それは、もう奇跡だった。製氷器に舌をくっつけたら、離れなくなって驚いたりもした…。あれもこれもが懐かしい物語である。こうして、人間は自分たちの夢を実現していった。そして、何でもかんでも思いのまま、我慢≠ェ死語になりはじめる。
我慢と喜び(06/08/10-1216)
 テレビが来たときの喜びは、我慢するだけ我慢した≠アとに対する最高のプレゼントだった。我慢の程度と喜びの大きさは、大いに相関していると思う。満腹のときには、高級なごちそうも魅力を感じない。もっとも、ケーキは別腹という女性もいるにはいる。これなどは例外にしておこう。ともあれ、嬉しくてたまらないときは、前頭葉も我を忘れて喜びの輪に加わるのである。たとえ欲しいものがあっても、状況によっては我慢する=B将来を夢見ながら、目先の厳しさに耐える=Bそんな日常的な体験が前頭葉を鍛えていく。そして、目標が達成されたときには、欣喜雀躍、躍り上がって喜びを噛み締めるのである。こうした体験を通して、我慢≠竍忍耐≠ニ喜び≠竍満足感≠ェ結びついていく。それが、さらにチャレンジをしようという意欲を引き起こすのである。ところが、このごろの状況を見ると、前頭葉の強化に望ましい好循環が、危うくなってきた。世の中から、我慢≠竍忍耐≠ニいうことばが消えている。自由≠セけが奔放に生き延びて、義務≠フ観念はどこかに置き去りにされた。しかも、このごろの自由≠ヘ、他人の自由≠無視することなど平気の平左である。かくして前頭葉が次第に退化していく。もちろん、この現象を若者たちだけに当てはめるのはフェアーではない。いい年をしたわれわれからも、我慢≠フこころが遠ざかっている。この夏もまた暑い。そんな中で、どこもここもクーラーが入っている。われわれには、いつの間にか冷房のない生活があり得ないものにになった。すでに、クーラーなしには過ごせない体に変質してしまった。こうなると、もうほとんど無意識にクーラーのスイッチに手が出る。我慢≠ナきないのである。
我慢のテレビ(06/08/09-1215)
 テレビは超高価で、超贅沢品であり、超大金持ちでないと買えなかった。そんな時代が進んで、少しばかり裕福な人や、飛びっきり変わった人の家にテレビが置かれるようになった。後者は、生活に苦労していても、とにかくテレビは買うという人たちだ。当然のことながら奥さん泣かせだったに違いない。狭い家に、不釣り合いのテレビが大きな顔をして鎮座していた。しかし、その家の経済事情なんて知ったことではない。子どもたちはとにかくテレビを見たいから、おばちゃーん、テレビ見せてー≠ニ転がり込んだ。金曜日の夜ともなれば、力道山のプロレスだ。このときは子どもだけではない。近所の大人もなだれ込む。ビールビンまで持参する厚かましいオッさんまでいた。いま考えるとひどい話だが、子ども心に違和感はなかった。そんな状況の中で、夢はわが家のテレビ≠セった。とにかくテレビが欲しい。そんな強烈な思いを持ちながら、わが家ではまだまだ無理だ≠ニいうことも十二分にわかっていた。子どもだって、ちゃんと我慢することができたのである。そして、いつかわが家にテレビが来る日のことを夢見ていた。その夢が実現したのはいつのことだったか。もう細かい時期は憶えていない。ただ、わが家の最初のテレビはナショナル製で、68,000円くらいしたことだけが、なぜか鮮烈な記憶として残っている。この金額、父のボーナス全部をはたくほどのものだったのではないかと思う。いよいよテレビが来るという日、母が封筒から数枚の1万円を出して見せてくれた。こんな大金、これから先も見ることはないからね=Bそんなことを言ったような気がする。そして、テレビがわが家にやってきたのである。その日の喜びは、いまではもう譬えるものがない。
我慢の時代(06/08/08-1214)
 自分の思い通りにならない。それが当たり前の時代があった。そんな現実に対応するためには我慢する≠オかなかったのである。そんなときに前頭葉が大活躍した。動物のように本能や欲求のままに生きるのではない。抑えるべきときにはちゃんと抑える。それが前頭葉の仕事であった。また、我慢する≠アとによって、前頭葉の方もさらに鍛えられていったと思う。こうして、前頭葉がまともに機能していれば、世の中は安定していた。そして、ささやかな望みでも、それが充足されたときは最高の満足感を味わえた。そんな体験と記憶なら、いくらで思い出す。テレビなんぞは、その代表だ。そもそも、われわれが子どものころはテレビそのものがなかった。小学生のころだろうか、テレビ放送が始まった。しかし、受像器がメチャメチャに高くて買えなかった。「戦後値段史年表」(朝日文庫)によると、1957年(昭和32年)の小学校教員の初任給は8,000円である。もうひとつ、私の手元に、当時あった雑誌「キング」の1956年(昭和31年)正月号の付録「家庭電化読本」がある。父の遺品を整理していたときに出てきた、私にも懐かしい冊子だ。この中に、あこがれのテレビがずらりと並んでいる。その値段は、最も安価なものがサンヨー製の14インチである。もちろん、白黒だ。その値段が99,800円なのである。単純な割り算をすれば、教師の初任給の12.5倍である。現在なら、200万円を超えるだろう。しかも、まだ日常の生活が十分に安定していない時代である。とにもかくにも、テレビは半端な金持ちでは持てない超贅沢品だったのだ。友だちに医師の息子がいたが、自宅には、町でも数台しかないテレビがあった。彼の家は相当に遠かったが、私はテレビ見たさにせっせと通った。
我慢のこころ(06/08/07-1213)
 ともあれ、敗戦の廃墟の中から、日本人は立ち上がった。それは、ゼロからの出発というよりも、マイナスからの再生だった。戦後の生活は、その日のご飯もままならないような、そんな毎日からはじまったのである。しかし、われわれの親やその親たちの世代は、脇目もふらずに頑張った。こうして、わが国は一人ひとりの真面目な努力を通じて、復活していく。そして、経済的には世界でも有数の豊かな国として、海外への援助さえできるようになったのである。その経済的な成長は、世界の奇跡とも言われた。誰が見ても、年率10%にも届こうかという成長率は、驚異の的だったのである。それは、ちょうどいまの中国の様子と似ている。しかし、世界の見方も変わったのだろうか。現在の中国経済の状況に対して、奇跡≠ニいう表現は使われないようだ。10億を超える人々が、資本主義的なシステムの元で動き出すと、飛躍的な成長をするのは当然という見方なのか。これに対して、日本はもともと小さな島国で、しかも原爆まで落とされて、完膚無きまで叩かれた。そんな小国が世界の経済で目立つようになったので、奇跡≠ニいう冠が付けられたのかもしれない。私は、いわゆる団塊の世代の人間である。戦後間もなくしてから、ワンサと生まれた。したがって、終戦直後の厳しさは体感していない。しかし、その後の経済成長については、いちいち体で覚えていることが多い。とにもかくにも、まずは成長ありき≠フ時代に子どもから大人になっていった。それにしても、いまから振り返ると、毎日の生活が我慢≠基本にしていた。食べるものだけでなく、全体に物が十分にないのだから、我慢≠キるしかなかった。その当時は、みんながそうした状況を受け入れていた。
食と前頭葉(06/08/06-1212)
 十分に食べることすらままならない。人間の歴史はそんな生活の連続だった。もちろん、その時々の権力者など、ほんの一握りの人々は、けっこうな生活を送っていたに違いない。しかし、それも大多数の人間を踏み台にしていたはずだ。水呑百姓ということばがある。それこそ、水しか飲めないような貧しい農民のことだろう。そうした状況は、農民以外でも似たり寄ったりだったのではないか。われわれ日本人についていえば、敗戦で国全体が廃墟になった。その後、人々は真面目に、そして必死に働いた。その成果が徐々に現れて、ついに食うこと≠心配することのない状況を作りあげたのである。それどころか、それは食い過ぎ≠フ段階にまで移っていく。まさに、飽食∞過食≠フ時代である。食べ過ぎて、せっせと脂肪を蓄積する。その脂肪が体に悪さをする。そこで、今度は脂肪を燃やすために、せっせと運動をする。まだ運動ができればいい。仕事に追われて放っておくと体がおかしくなっていく。やれ高血圧だの、糖尿病だのいうわけだ。こうなると、病院のお世話にならざるを得なくなる。こうして、またまた国民の医療費が増大していく。まあ、考えてみればじつに効率の悪い話である。お互いが必要な量と内容だけで満足できれば、体にもいいし、環境にだってプラスに決まってる。しかし、理屈ではわかっていても、それをみんなで℃タ践することは、至難の業である。食べられない℃梠繧ヘ、我慢≠ケざるを得なかった。そこに食うものがないからだ。これに対して、いまは、食べられる≠フに我慢≠オて食べない≠謔、にしなければならなくなったのである。目の前に≠るものに手を出さない。こんなときこそ、前頭葉の出番になるのだが…。
体の変化と前頭葉(06/08/05-1211)
 前頭葉が原初的で動物的な脳の部分をうまく制御できていれば、この世の中も平和に過ごせることだろう。それに、人間は自由奔放な発想ができるからこそ、発明や発見という、人間にとって欠かせないことが可能になるのである。それが人類に大きな恩恵をもたらしたことは疑いない。しかし、このごろの様子を見ていると、前頭葉が大脳の働きをコントロールできなくなってきたように思える。そもそも、前頭葉は長い進化の時間をかけて今日の姿になったのである。それには、人間を取り巻く環境との相互作用が大きな影響を与えたはずだ。人間の生きる環境は変化を続けている。だから、これからもこうした変化と関わりを持ちながら、前頭葉は変質していく。すでに、体格に関しては日本人は大いに版質している。大学は、若者と接触することの多い職場だが、とにかくスクスク育っている。私より背の高い女子学生もざらである。こうした外面的な変化を見れば、目に見えない部分だって変わっていくことが容易に推測できる。だから、大脳の変質はあり得るというよりも、むしろ必然的なことなのである。そして、その大きな変化の兆しが、いま見え始めている。私にはそんな気がしてならない。その大きな要因が豊かさ≠ナはないか。そもそも、人類にとって、まともに食べられる¥況を作ることは、永遠の課題であり、夢でもあった。ほんの少し食べても、人間の体には脂肪がつく。これは、食べたものを少しでも体に貯めておこうという、体が持っている本能的反応だという。まさに余り≠ネんてないのだ。そうしたメカニズムが必要なほど、われわれの祖先は、栄養分が不足した生活を送っていた。もちろん世界を見渡せば、今日でも毎日の食事に困っている人々がいる。
前頭葉の二面性(06/08/04-1210)
 前頭葉は、大脳の基本的な部分を放っておくと取り返しがつかなくなるために発達したのだと思う。それは自然が与えてくれた歯止めなのである。人間は、直立して歩行することで手が自由になった。手は大脳の延長だと言われる。人間は手で道具を作り、それを巧みに操作する。それだけではない。手はコミュニケーションの手段としても使われる。これに、ことばという強力な道具が加わる。こうして、人間にとって、地球上に敵はいなくなった。手やことばの進化は、お互いに働きかけ合いながらますます大脳を進化させていった。その結果、人間の思考は止めどもなく広がっていく。欲望に刺激された邪悪なことも押さえきれないほど頭に浮かぶ。自分の利益のためなら、相手に危害を及ぼすことも平気で考える。人をだますことだって厭わない。最後には人の命を奪うことすら想像し、実行に移してしまう。こうした事態をそのまま放っておくわけにはいかなくなった。人類が絶滅するかもしれないではないか。そこで、その最悪の結果を避けるために、それをコントロールするものが必要になる。こうして、人間に言わせれば、理性的な力の源である前頭葉が発達したのである。しかし、それは期待通りの理性的な抑制力にはならなかったようだ。歴史を振り返れるといい。人間は殺戮を繰り返してきた。つい先日、学会で出かけたアテネだが、そこにある古代の遺跡も、ペルシャかどこかとの戦争で破壊され尽くしたという。だからこそ、遺跡として発掘しなければならなかったわけだ。このときも、膨大な数の人々の命が失われたに違いない。前頭葉は、たしかに理性的な要素も持っているのだろう。しかしその一方で、人間は同じ前頭葉で、人を殺すことを合理化もするのである。
理性のかげり(06/08/03-1209)
 子どものころ、小学校の先生が人間は理性的な生き物だと教えてくれた。人間の大脳には前頭葉というものがある。それが理性の源だというのである。おそらく、それは事実なのだろう。ただし、先生は人間の前頭葉が発達してきた理由は教えてくれなかった。本当のところは大脳生理学者にでも聞くしかない。しかし、私だって私なりの解釈がある。それは、人間の大脳があまりにも気ままで勝手、そして邪悪な発想をするようになったからに違いない。早い話が、動物と共通する大脳の部分が発達しすぎて、そのまま放っておいたら何をしでかすかわからなくなったのである。われわれは、頭の中でありとあらゆることを考える。一方で神のことを思いながら、他方では悪魔でさえ躊躇するようなことを平気で考えるのである。そもそも動物は自分たちの仲間同士で殺し合うことはないという。これが100%の事実なのかどうかは知らない。しかし、たしかにそのように見える。これに対して人間は殺人という、同種のものの命を奪う行為をする。それでも、その昔は、人を殺すときは、少なくとも躊躇するこころがあったのではないか。もちろん、当事者にインタビューなどしたことはない。だから、私の思い過ごし、勝手な推測といわれればそれまでのことではある。しかし、殺人という行為は、それほど簡単に行われるものではなかったのではないか。それが、このごろはどうだろう。人が人を簡単に殺す。何よりも、親が子どもに手をかける。この世の中で、身を守る最後の砦になるべき母親が自分の子どもの命を奪う。カッとなったのかどうかは知らないが、子どもが親を殴り殺す、焼き殺す…。人間は理性の動物だったのではなかったか。その象徴である前頭葉は、一体どうしたのか。
生まれ変わり(06/08/02-1208)
 追い越し車線を走っていたバスから見た牛の目は大きく、澄んでいた。その目を見ながらふと思った。あの目を構成しているのも人間と同じ細胞なんだ。それに、牛の肉そのものだって細胞からできている。その細胞の中へどんどん入り込んでいくとどうなるか。最後は、それを作っている分子や原子に突き当たることになるのだろう。そもそも、肉は蛋白源というが、その蛋白質だって、原子や分子でできているに違いない。実際にどんな原子や分子が関係しているのかは知らないが、水素や窒素、それに炭素なんてのは、必ず含まれているのではないか。そこまで考えると、新しい疑問が湧いた。体の素になっている水素や窒素などの原子は誰のものなのか。体の中にある原子に、その所有者の名前が付いているわけではない。原子や分子に所有権などないのだ。あえていうなら、その所有者は地球である。そう考えると、牛の体全体を支えているのは、もともと地球のものだということになる。そして、それは目と目があった牛だけに限られたことではない。この私自身の構成物だって、突き詰めれば水素や窒素であり、炭素ではないか。そう思うと、自分のもの、自分のもの≠ニ言い張るのが滑稽な気がしてきた。そうだ、いま私の体の中にある水素原子は、ひょっとしたら100年前には、猫の体を構成していたかもしれない。前世は牛だったとか、来世は猫になる…。そんな話は、昔の人たちの非科学的な発想のように思っていた。しかし、体の構成要素のことまで思いを巡らすと、生まれ変わり≠ニいう考え方も、それほど突飛なものだとは言えないではないか。いま、自分の前にある机だって、そうだ。その中にある炭素原子は、ひょっとしたら、人の中にあったのかもしれないのだ。
目と目が合って…(06/08/01-1207)
 高速バスに乗ったときのこと。本を読んでいるときに、バスが追い越し車線に入っていくのを体感した。それからすぐのことだ。誰かから見られているような気がする。そんな妙な感じがして、ふと窓の外に目をやった。その瞬間、大きな目が私を見ていた。牛である。トラックに乗せられた4〜5頭の牛の1頭と目があったのである。高速運転で走るトラックの荷台で揺れながら、こちらをじっと見ている。その目は、悲しさを帯びていた。そのうえ、窓の向こうから、助けてー≠ニ叫んでいるようにも思える。それはそうだろう。彼らが、いまからディズニーランド≠ノいかないことだけは間違いない。この世に生を受けながら、それを全うできずに終わるのである。それも、人間のために…。いただきます≠ニいうことばは、命をいただきます≠ニいうことから生まれたのだという。この世に生きる者の宿命として、何かを食べなければ自分自身が生きていけない。だから、ほかの命をいただく≠アとが避けられないのである。命は動物だけに限ったことではない。野菜や果物だって、生きている点では同じだ。植物などは大脳がないからこころ≠烽ネい。だから悲しみもなければ、痛みも感じない…。なんという身勝手な発想だろう。うまい∞めずらしい≠ニいう理由で、地球上の生き物をむさぼり食う。人間というのは何という恐ろしい動物であることよ。私たちが子どものころは、ご飯は、最後の1粒まで大切にいただきなさい≠ニ繰り返しいわれた。それは食物としてのお米に対する気持ちを表していただけではない。それを作るお百姓さんたちの大変な労力に対する感謝の表現でもあった。ありがたや、ありがたや=Bそんな感謝の気持ちが失われてはいないか。