相談相手(06/06/30-1175)
配偶者の存在理由はいろいろあるのだろうが、危機的な場面で相談できる人であってほしい。まあ、浮気している§bなどは、配偶者に相談したくてもできない相談≠ネんだろう。借金が、その手のことに関係していると、相談どころの話ではなくなる。うーん、私としては、そんなレベルに到達した事例にまではコメントはできないなあ。しかし、世の中には、けっこう団結力のある夫婦もいらっしゃる。北海道にある都市の市長さんは、自分のセクハラについて奥さんにすべて話したようだ。そして、2人揃って釈明の記者会見を行った。すごいというか、やり過ぎというか、マスコミもその異例さに殺到した。とにかく画になるのである。そして、開いた口が塞がらない≠ネどとぼろくそに非難していたが、その話題もどこかへ消えていった。つい最近、問題の市長さんが逮捕されたという情報は流されていたが。ともあれ、この上なく言いにくいことを配偶者に相談したところまではよかった。しかし、それに対するアドバイスが問題だったのだろうか。あるいは夫が立てたまずい作戦に合意した結果なのか、その真相はわからない。しかし、ああした例を見ると、2人寄っても文殊の知恵≠ノ届かないことがあるのだと思う。それでも、夫婦で解決しようとした℃p勢は買うべきか。まあ、結果を見ると、文殊の解決に達するためには、もう1人くらい客観的な物の見方ができる人が必要なのだろう。もちろん、この夫婦のバックに、アドバイスをした人がいた可能性はあるけれど。さて、夫婦といえども、すべて≠ヘ話せないという人がいるかもしれない。それでも、自分だけで問題を解決しようというのは、かなり危険だ。そんなときは、やっぱり誰かに相談した方がいい。 |
計算違い(06/06/29-1174)
一時的とはいえ、子どもの年金まで負担するとなれば、教育ローンに頼らざるを得ないことにもなってしまう。年金といえば、ご本人たちが知らないうちに、お支払いを免除します≠ネんて、気の利いた措置をとってくださる場合もあるようですが…。ともあれ、世の中にはやむを得ない借金というのだってあるかもしれない。しかし、借金≠ェ正当化される場合でも、無理なく返せる≠アとが大事な条件になる。借金にまつわる多くの悲劇は、借入額と返済能力のバランスが欠けていることから生まれる。もちろん、そんな理屈は誰だって知っている。ただ、その計算方法≠ェ人によって大きく異なっているのだろうか。とくに、ギャンブルの借金などは相当に危険だ。一発で元が取れるどころか、一攫千金の夢さえある。そう思うと、借金だってあっという間に返せる≠ネんて計算≠してしまう。それがどんなに誤った算数≠ナあるかは、現実の悲劇を見ればわかる。しかし、それでも謝金にまつわる事件は一向になくならない。まったく、やれやれの世の中である。ともあれ、公金を流用した校長先生の借金がどのような性質のものかは知らない。しかし、とにもかくにも、それを返すために公金に手を出すなんてまずいに決まってる。そこまでいく前に、誰かと話すチャンスはなかったのかと思う。立場的には借金で困ってる≠ネんて言いにくい。それはそうだろう。しかし、それもバランスの問題だ。格好悪いとか言いにくいなんて考えてるうちに、事態はさらに悪くなる。その挙げ句が公金の流用では、格好悪いどころの話ではない。結局は職まで失ってしまうことになる。ともあれ、相談相手の筆頭は配偶者だと思うが、この校長先生の場合はどうだったのだろうか。 |
想像力欠乏症(06/06/28-1173)
われわれ人間は進化しているのか、それとも退化しているのか。私にはどっちなのかわからないが、とにかく体のあちこちが変化している。そうなると、おなじ細胞でできている大脳だけが変わらないと考えるのには無理がある。大脳がおかしくなっている≠ニしか考えられないことが多すぎる。そうした信じられないこと≠ェいつの間にか当たり前のこと≠ノなる。それって恐ろしいと思いませんか。そのうち、カネがほしけりゃ、人を殺して保険金を取ればいい=A気にくわない人間はショベルカーで穴掘って生き埋めにすりゃあいい=Aまあ、とりあえず、ばれなきゃあいい≠ネんてことが当たり前になったりしないでしょうね。いまや、自分の行為がもたらす結果について想像力欠乏症≠ニもいうべき病が蔓延しつつある。校長先生の公金流用だって、手を出せば取り返しのつかない事態になることは、子どもにだって分かる。それが分からない立場でも年齢でもないのについ手が出てしまう。それは大脳が変わっている≠ニしか言いようがない。その理由が借金という、よくあるパターンだから、ますますまずい。そもそも、正当な理由≠ェなければ、借金をしてはいけない。これが大前提である。たとえば、一般の市民にとって住宅ローンはやむを得ない借金の代表だろう。また、教育費も大変だ。子どもを大学にやるだけでも、親にとっては相当の負担になる。さらに、20歳になれば国民年金の支払義務も生じる。学生などは、支払いの延期ができるようだが、基本的には毎月13,000円ほどを払い続けなければならない。なにせ、国民の義務というのだから、それを就職するまでは親が支払うこともある。そうなれば、これまた大いなる重荷が加わることになる。 |
大脳の変化(06/06/27-1172)
公金を流用した校長先生は、事件発覚後≠ノ依願退職になったという。ことの詳細は分からないが、どうもしっくりこないところがある。世の中は、ばれなきゃあいい=Aばれたときはやめりゃあいい≠ナすむのだろうか。何と言っても校長先生の行為である。これでは、子どもたちにも説明のしようがない。そもそもの原因は借金のようだ。よくあるパターンである。金額は27万円だという。その具体的な使途は分からないが、職を棒に振るにしては、あまりにも少額である。校長ともあろう人が、その程度の判断ができないなんて信じられない。当たり前の考える力≠ェあれば、考えること≠ヘあっても実行する≠ネんてあり得ないはずだ。しかし、とくにこのごろは、あり得ない≠アとが平気で起きてしまう。どうも大脳の制御機能≠ェうまく働いていないのだ。何でもかんでも環境や時代のせいにするわけにはいかない。しかし、いわゆる規範意識≠フ希薄化など、社会風土の変化が、こうした事件≠起こしやすくしているのではないか。その中で息を吸っていると、意識≠ェ変化し、それが大脳≠フ器質的な変化≠ノまで繋がっていくのである。そうなると、ことは個人の問題ではすまなくなってくる。数日前、テレビのクイズ番組で江戸時代の男性の平均身長は157cmだったと言っていた。それが、いまでは何と16歳で170cmを越えている。体がこれだけ大きくなっているのだから、その部品の能力も相当に変化しているに違いない。足は長くなったが、おそらくその力は弱くなっている。食事にしても、柔らかい物が多くなった。そのため、強く噛む力がいらなくなって、あごの育ちも悪いらしい。このごろは、土踏まずがない人も増えているという話もある。 |
大脳の制御(06/06/26-1171)
世の中にはいろんな人がいる。それが社会を活性化させる。それは間違いないのだが、それにしても、あまりにもひどいいろんな人≠ェ多すぎる。とにかく、自分の仕事を弁えていない。先日の新聞によると、長崎県にある小学校の校長先生が給食費を流用していたんだそうな。もともと教師は、その仕事の性格から社会の注目を浴びやすい。だから、不祥事があれば直ちに取り上げられる。それは、社会が教職を大事な仕事であると評価し、期待していることの表れでもある。何と言っても、未来を背負う子どもたちに直接的に影響を及ぼす仕事である。そこで不祥事が起きてはお話しにならないことは、誰もがわかっている。そんな中で、校長先生の公金流用などを聞くと、もう目の前が真っ暗になる。ここまでくると、社会の目が厳しいとか厳しくないとかの問題ではない。とにかくひどい≠フ一言である。子どもはもちろん、一般の先生方に対しても、まるで示しがつかない。部下の教師たちだって、唖然としたに違いない。われわれ他人だって、開いた口が塞がらない。お金を流用した理由もきわめて単純で、借金の返済に充てたという。これが校長先生の行動だというのだから、ことばを失う。われわれの大脳≠ノは厄介なところがあって、ある意味では何でもあり≠フ世界である。すばらしい夢≠育む一方で、邪悪な仕業≠思い浮かべる。善行≠熈悪行≠焜`ャンポンである。しかし、そうした想像力≠ェ創造力≠ニなり、人間を万物の霊長≠ニ自惚れるところまで進化させてきた。問題はその一歩先である。何でもあり≠フ大脳をうまく制御≠ナきないといけない。それがこのごろは、そのコントロール装置がうまく働かなくなっているのではないか。 |
母国語(06/06/25-1170)
男たちの大和≠ナは、映画が終わって名前のリストが出始めても、観客はじっと座ったままだった。私の記憶では、館内が明るくなる前に立ったのは一人だけである。そのことが、映画が与えた影響の強さを伝えている。もちろん、観客の年齢層や好みによって反応も違う。だから、そのことだけで、映画の優劣を決めることはできないけれど…。ともあれ、男たちの大和≠観に行った日は、そこそこの入りだった。さすがにというか、年配の夫婦と思われる人たちが多かった。もちろん、若者たちのカップルだっていた。映画の内容については、3月の本欄でも取り上げたが、なかなかしっかりした内容だった。細かいことを言えば、遠景にコンプリートの電柱と思しきものが写っていた場面があった。まあ、今の時代、電柱1本も写らない場所を探すことは至難の業である。時代劇に至っては、舗装されていない道を探すのだって苦労するだろう。さて、ストーリーが終わり、最後の名前などが出る時間になった。いつもだと、あちこちで人が席を立ちはじめる。すでに書いたが、そんなとき、私たちは大声で映画知らず≠ニ叫びたくなる。この時間は、映画の余韻を楽しむためにあるのだから。ところが、この日は少しばかり様子が違っていた。誰もが、いま見た映画をこころの中で振り返っているように思えたのである…。それにしても、俳優やスタッフの名前のひとつひとつ、主役にはスタイリストが付いていることなど、小さな情報もどんどん目に入ってくる。そんなとき、自分が日本人だなと思う。外国映画だと、ときおりあっ、日本人スタッフも入っていた≠ネんて気づいたりする程度である。それに対して、細かいことまで見える日本語は母国語≠ネのだと実感する。 |
余韻を楽しむ(06/06/24-1169)
ストーリーがはじまる前から名前ばかり見せられると、映画の本物感≠ェ失われてしまう。そこで、名前は後回しになった…。私の勝手な推測だが、ありそうな理由だと思う。とにかく映画の中身を早く見たい。それなのに延々と名前のリストが続いては、せっかくの気持ちだった萎えてしまう。えっ、あんたのこの話題も長すぎる≠ナすって。うーん、そうなんです。そろそろやめにしようとは思っているんですが、名前リストの効用って、まだあるんですよね。映画が終わってから関係者の名前を見ると、感動に溢れる作品を創った人々の姿が目に浮かんでくる。ああ、そうなんだ。あのセットを一生懸命に作った人がいるんだ∞中井貴一には専任のスタイリストが付いてたのか=Bこんな思いとともに、映画の余韻を楽しむことができる。また、悲しい映画だと涙が止まらないこともある。それはそれで自然の反応である。しかし、目が真っ赤で涙がぽろぽろという状態では、やっぱし気恥ずかしいものである。そんなとき、しばらく名前が出続けてくれると、そのうち涙も乾いてくる。それからやおら映画館を出てくことができるのである。これも、それなりの効用だと思う。ともあれ、わが家では名前のリストまでが映画だと考えている。だから、名前の提示が終わって劇場内が明るくなるまで座っている。しかし、現実には物語の終了とともに席を立つ人がいる。そんな人たちは映画を楽しんでないなあと思う。つい先だって見たポセイドン≠ナは、最後まで席に座っていたのは、わが家の3人と、子ども連れの一家族だけだった。その点では、しばらく前に見た男たちの大和≠ナは、席を立ったのは数人だった。このあたりの状況が、映画が与えた影響の度合いを伝えている。 |
小は大を兼ねる§b(06/06/23-1168)
文字の大きさは小さくても、自分の名前が映画に出る。それだけでも本人にとっては十分に満足できる。それで仕事をした≠ニいう気持ちになれる。それは自己実現の世界である。私は、喜びに関して言えば小は大を兼ねる≠ニ思っている。小さなことで喜べる人は、中くらいのことがあれば、もっと喜ぶことができる。だから、さらに大きなことに出会えば、もう死ぬほど嬉しくなるのである。もちろん、死んでは元も子もないが、とにかく喜びに関する限り、小は大を兼ねる≠ニ言うべきではないか。大きなことしか喜べない人は、人生を楽しむことができないだろう。なにせ、大きなことなど、そうそうあるわけがない。小さなことで喜べる力≠アそが大きな力≠ノなるのである。小さな喜びを毎日の生活の中でどう感じていくか。それが職場や家庭生活を豊かにし、人生を楽しく充実させるのだと思う…。ところで、映画で名前のリストが物語の終了後に出る理由として、リアリティの問題も考えることができる。映画がはじまる前から配役などの情報を見ると、いかにも作り物≠セという感じが強くなる。黒澤明監督の映画では、常連が多かった。三船敏郎や志村喬、仲代達也といった名前がどんどん映し出されていく。主役を中心に、大物については見る前から知った上で映画館に行くのだが、脇役の名前もどんどん出てくる。おやおや、○○も出てるのか。今度の映画ではどんな役回りなのかな=B□□は、この映画にも出ているのか。この前はパットしなかったなあ…=Bそれが楽しみになる反面、映画のリアリティ≠ヘどんどん失われていくような気がする。ドキュメンタリーのような迫力がなくなって、いかにも芝居≠セという感じになってくるのである。 |
ささやかな喜び(06/06/22-1167)
映画に関わるスタッフが多いことは、名前のリストが延々と続くことから容易に分かる。とくに最近では、どんな映画でもコンピュータ・グラフィックスが当たり前になってきた。いわゆるCGである。これなどは、膨大な数の人たちが動員されているようである。さらに、このごろは主演の俳優には専属のスタッフまでついている。衣装や着付け、それにメーキャップなどを担当するのだろうか。さすが、主役は違うというわけだ。すでに書いたが、ポセイドン≠ナは、Primary
Floating Body≠ワで名前が出ていたのである。そんなこんなで、とにかくすごい人数になることは間違いない。あの画面に出てくるだけで優に千人は超えていると思う。ゆっくりではあるが、スクリーンの上を流れて行く名前の数を数えるのは至難の業である。だから、私もそんな無謀なことはしたことがない。どなたか、動体視力のいい方で、カウントされてみてはいかがだろうか。さてさて、そんな膨大な人的情報を、物語がはじまる前に流したりすれば、見ている方はそれだけで疲れ果てるだろう。もう、いい加減にして早くはじめろ≠ネどと文句が出てもおかしくない。そんなわけで、名前のリストアップは後回しになった…。これが私の推測である。かなりありそうなことだと思う。ところで、名前を入れる基準なんてあるのだろうか。その昔は、「通行人A」とか「群衆」なんてものもあったような気がする。それでも、自分の名前が出るというのは、ご本人にとっては嬉しいだろうと思う。たとえそれが小さくっても、親戚や友人たちに連絡しまくって、最後の右側あたりに出るから見に行ってちょうだい≠ネんて話になるだろう。主役を演じる者たちに比べれば、何ともささやかな喜びではある。 |
後出しの理由(06/06/21-1166)
さて、水戸黄門≠ェはじまった1969年にまで遡ったために、アポロから同時通訳にまで話が逸れていった。もともとは、"水戸黄門"のスタート時には、キャストなどの名前は、本番の前に提示されていたのではなかったかという話題だった。話が脱線するのは、このコラム子の癖なので、ご容赦いただきたい。一昨日には、亡くなった今村昇平監督の「楢山節考」がBSで放映されていた。そのときも、ヘリコプターで撮ったと思われるすばらしい雪山の映像からはじまり、まずは「楢山節考」というタイトルが画面いっぱいに広がった。それから、緒方拳、坂本スミ子…と、出演者の名前が次々に出てくるのである。これを見た娘が「やっぱり前だね」とふと言った。そもそも、この話題は、BSで「十戒」を見ているときに、娘が発した「いつまで名前が出てるんだろう」という一言からはじまったのだった。もちろん、娘は私のホームページをいつも見ているわけではない。だから、私が、このところこの話題を書いていることは知らないはずだ。しかし、またしてもおなじ発言をするところを見ると、映画で名前が出るタイミングについては、いつになっても気がつくんだなと思った。これは1983年の作品である。ともあれ、私の勝手な推測だが、水戸黄門≠熏ナ初のころは、番組のはじめに名前が流れていたのではないか。そして、私にとっては、いつの間にか♂f画でキャストなどの名前が出るタイミングが変わったのである。それはどうしてなのだろうか。この疑問に対しては、私なりにいくつかの理由が推測できる。その第一は、何と言っても、1本の映画を作るために関わる人間があまりにも多くなりすぎたことである。それは、最後の出てくる人の名前の多さですぐに分かる。 |
同時通訳(06/06/20-1165)
人類で初めて月に立ったアームストロングさんが、一人の人間≠ニいうところで、大事なa≠ミスってしまった。その後、彼は自分の第一声を文章化する際には、括弧付きの[a]を加えるよう希望したという。なかなかおもしろいお話しである。ところで、アポロといえば、このとき日本人の前に颯爽と登場したのが同時通訳≠ニいう職業だった。なんと、アームストロング氏がしゃべっている声と重なって日本語が聞こえてくるのである。これにはほとんどの日本人が驚いた。それまでも、通訳という職業があることは、だれだって知っていた。映画のニュースなどでも、総理大臣が外国の要人と会談するようなときには、後ろに通訳が立っていた。外国から来た芸能人がテレビに出たりすれば、やはり通訳が活躍した。スター千一夜≠ニいう人気番組があって、これにはけっこう外国人も登場した。三木鮎郎の司会などが記憶に残っているが、いずれも話のあとに通訳するタイプだった。こんなわけで、アポロの月面着陸までは、外国人が話していると同時に通訳が進行するという場面に遭遇した日本人はいなかったと思う。このとき活躍したのは西山千という男性だったが、彼は同時通訳≠ニいうことばとともに一世を風靡した。これを契機にして、よく知られた同時通訳者がどんどん出てきた。鳥飼玖美子氏などは、われわれと同世代でテレビにもしょっちゅう登場したものである。普通の人間は、同時通訳者の頭の中は一体どうなっているんだろうと考え込んでしまう。私などは、日本語の会話でさえ、人の話しを十分に聞き取れていないことがある。それなのに、語順も違う日本語と英語の間を同時に行ったり来たりできるなんて、それはもう神業としか言いようがない。 |
アポロに飛んだ(06/06/19-1164)
あの国民的な「黄門さん」も終わりに名前が流れているとすれば、それはこの番組がスタートしたときからなのだろうか。なにせ放送開始が1969年というから、半端じゃあない。昭和44年である。ところで、この年は人類にとって記念すべきことが起きている。それは、アポロ11号の月面着陸である。月の大地を踏みしめたアームストロング船長の第一声はあまりにも有名だ。"That's
one small step for [a] man, one giant leap for mankind."「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる飛躍だ」。感動に溢れるこの声は、生中継で世界中に伝えられた。いやあ、何ともかっこいい。もっとも、私は思うのである。アームストロングさんは月を踏みしめた瞬間にこのことばが頭に浮かんだのではないだろうと…。きっと、地球から出かける前に、よーうし、月に着いたらこう言うぞーっ≠ニ決めていた。なんて、あまり白けたことは言うまい、言うまい。あっ、もう言っちゃったか。ところで、彼の声を記録した文では、a≠ェ[]で囲まれている。本来の意味からすれば、a≠ェ必要である。しかし、音声記録にはそれが入っていないのだ。ご本人はa≠発音したつもりだったらしいが、彼自身がもともとa≠省いて発音する癖があったことを認めている。それにしても、自分の第一声が人類の歴史に残る発言になることは、当のご本人が承知していたはずである。しかも、この文章では、はじめに一人の人間≠強調することが決定的な意味を持っている。そこで、a≠落とすのだから、なんとも楽しい話ではないか。英語を母国語にする人だってこんなチョンボをするのである。日本人のわれわれなんて、英語の細かいところにこだわることはない。 |
由美かおる(06/06/18-1163)
このごろは、テレビドラマでもストーリーが終わったあとで名前が出るものが多い。その点では、映画と同じである。それでは、スーパー長寿番組の「水戸黄門」はどうなんだろう。国民的な人気があるらしい「黄門さん」シリーズだが、私自身はチェンネルを変える途中にチラリと見るくらいである。まあ、「水戸黄門」といえば、由美かおるが欠かせないらしい。なにせ、民主党の渡部恒三氏もお気に入りのようだ。彼は前原問題で党が混乱した際に国会対策委員長に就任した。そのとき周りから「黄門さん」ともてはやされたが、報道陣を前にして一言。黄門さんといっても、由美かおるがいなくっちゃあね…=Bこの発言のおかげで、彼女から激励の電報が届いたという。なかなかおもろいオッちゃんである。その由美かおるさんだが、私はおなじ列車に乗り合わせたことがある。もう10年以上も前になると思う。新幹線の三島あたりだった。そのときは、なぜか私はグリーン車に乗っていた。グリーン車といえば、庶民には手が出ないほど高い料金が必要だった。その戦略を変えて、少しばかり奮発すればグリーン車にも乗れるようにする。JRがそんなサービスをはじめたころだっただろうか。ともあれ、停車した新幹線の乗車口あたりで花束を渡している光景が見えた。それから列車が発車し、数人の客が前から進んできた。そのうちの一人が私の前の席に座った。その寸前、ふと見ると、黒いサングラスをかけた顔が私の目に入った。まあ、何というのでしょうか。さすがプロなんですねえ。一瞥した瞬間に、それと分かる顔だった。それこそ、ほのかなかおり≠ワでしてくるような雰囲気が漂うのである。それからどうした≠ナすって。もちろん、ただそれだけの話ですよ…。 |
名前が後回しの理由(06/06/17-1162)
このごろは、テレビドラマでも、ストーリーが終わったあとで名前が出る。この点では、映画と同じである。ところで、スーパー長寿番組の「水戸黄門」はどうなんだろう。国民的な人気があるらしい「黄門さん」シリーズだが、私自身はチェンネルを変える途中にチラリと見たことがあるくらいである。そんなわけで、実際にどうなっているかは知らない。もし、「黄門さん」も終わりに名前が流れているとすれば、それはこの番組がスタートしたときからなのだろうか。とにかく放送開始が1969年(昭和44年)というから、半端じゃあない。1969年と言えば、アポロ11号が月に着陸した年である。その翌年には大阪で万博が開催される。いまから40年ほども前にはじまったというのだからすごい。私の勝手な推測だが、その当時は番組のはじめに名前が流れていたのではないか…。いずれにしても、私にとっては、いつの間にか♂f画でキャストなどの名前が出るタイミングが変わった。それはどうしてなのだろうか。この疑問に対して、私の勝手な解釈だが、それなりの理由が推測できるのである。その第一の理由は、1本の映画を作るに当たって、関係者があまりにも多くなりすぎたことである。とくに最近では、どんな映画でもコンピュータ・グラフィックスが当たり前になってきた。いわゆるCGである。これに関わる人も膨大な数になる。さらに、このごろは主演の俳優には衣装に着付けやメーキャップを担当する専属のスタッフまでついている。さすが、主役は違う。先週はポセイドン≠見た。大波に襲われて客船が沈没するパニック物である。これには、Primary
Floating Body≠演じた℃メまで出ていた。それって、押し寄せる水の中に流れている死体≠ナはないですか。 |
素朴な疑問(06/06/16-1161)
私の30代から40代、さらについ最近までは、映画には行かないのが基本的な生活パターンだった。子どもを連れて行くといっても、それは太陽戦隊サンバルカン≠ネんて、テレビを映画化したようなものやアニメだった。私自身が行きたいと思って子どもを引っ張っていったのは、ゴジラ≠ュらいのものだろう。これも、いよいよ映画館に入るときになって、娘の方は恐がりはじめた。そりゃあそうだろう。あのゴジラの形相を見れば、小さな子どもだったら尻込みする。幸いというべきか、息子の方はそれに対応できるくらいに成長していたので、一緒に入ったのである。ともあれ、そんなわけで映画からは随分と遠ざかっていた。ところが、わが家の近くに突如としてシネコンなるものが出現するのである。一昨年の暮れのことだ。なにせ、歩いて10分という至近距離である。それに、どちらかが50歳を越えていると、夫婦なら一人1,000円というサービス付きだ。もちろん、どちらも越えてますけどね。そこで、映画鑑賞はあっという間にわが家の主要な娯楽となったのである。そんな状況の中で、テレビの十戒≠見ることになる。はじまったかと思うと、まずはキャストなどの名前のリストが延々と続く。それでも私自身は、とくに違和感はなかった。しかし、娘がこれに反応した。まだ、名前が出てる。話はいつはじまるの=Bそう言われればその通りである。今日では、ほとんどの映画で名前のリストは最後に流れる。しかし、映画から遠ざかっていた私には、その転換がいつのことだったのか、まったく分からない。それは外国映画からの影響なのだろうか。それとも日本映画からはじまったのか。あるいは同時発生的だったりして…。娘の声で、そんな疑問が頭に浮かんだ。 |
映画の衰頽(06/06/15-1160)
昔は映画のはじめにキャストやスタッフ、それに監督の名前が出ていた。それなのに、いつの間にかストーリーが終わってからになっている…。これが、6月7日に取り上げた話題だった。それからいつものように脱線した。The
End≠フ話に広がり、さらには英語の教師に関する私の思い出物語にまで逸れていった。ここいらで、名前が映画のはじめではなく終わりに出るようになった話に戻ることにしよう。さて、この変化はいつおきたのか。そして、だれがはじめたのだろうか。私の力では、このあたりの事情を明らかにすることはできない。私の記憶にないというよりも、そもそも長いこと映画を見なかったからである。私が子どものころはテレビなんてすごいものはなかった。少なくとも庶民には縁のない超高額商品だった。そんな中で、映画は娯楽の代表選手だった。その当時、人が動く映像といえば映画しかなかったのである。だから、昭和30年代の前半ころまでは、映画館へけっこう出かけていた。いわゆるニュースも、映画の前に予告編などとともに上映されるものを見ていたのである。それもなかなか充実していた。国内と海外のニュースは独立していたし、スポーツニュースなるものもあった。産経スポーツ≠セったか、ロダンの考える人≠ェスタート時に出てきた記憶がある。ああ、懐かしい…。しかし、その後は急激に普及していくテレビに圧倒されて、映画は衰頽の道を辿る。私自身も気がついたら映画を見なくなっていた。いまから自分の30代や40代を振り返ってみると、映画とは縁のない生活をしていた。そういえば、年に2、3回は子どもを連れて映画館に出かけたことはある。しかし、当然のことながら、それはあくまで漫画や子ども向けの活劇であった。 |
The″ト考(06/06/14-1159)
まことに失礼ながら、われわれが子どものころ教わった英語の先生の力はかなり怪しいものだった。それに比べると、最近は大いに様子が違う。わが教育学部の学生が実習生として附属中学校にやってくる。そんなとき、彼らの授業を見に行く。当然ながら、その中で英語の授業にも出会うことになる。そこで学生たちの発音や学生とのやり取りの見事さを見ていつも感心している。そもそも全員とは言わないが、度胸もかなり据わっているようである。少なくとも、私が中学生だったころの英語の先生たちよりも優れていることは疑いない。もちろん、このごろの教師もすばらしい力を持っている。ただ、昔の英語教師を責めるのも、いささか酷ではある。何と言っても、英語に触れる機会なんぞ、ほとんどなかった時代に育った世代だったのだから…。さて、the≠フ話題だが、a≠竍an≠ニ並んで、冠詞≠ニ名付けたのはすばらしい。ことばの上につける冠だものね。the≠ヘ定冠詞、a≠竍an≠ヘ不定冠詞となる。定冠詞は、定まったもの≠ノつく。つまりは、話している者に特定されている名詞の前に置くのだそうな。日本語でその≠ノ当たるのだろうか。それと、この世に1個しかないとthe≠ェつくらしい。たとえば、地球は宇宙にただ1つだからthe
earth≠ニいうわけだ。おなじ理屈で、the Sun≠ナあり、the Moon≠ネのだ。したがって、このごろの映画で見なくなったTHe
End≠焉A一般的な終わりではなく、その映画がまさに終わり≠ニいうことなのである。それは分かるが、He
plays the piano≠ネど、楽器のときはどうしてthe≠つけるのだろうか。彼が特定≠フピアノを弾くとは決まってないと思うのだが。そのあたりは、どうも理屈があるような、ないような感じである。ここまでくると、あとは専門家にお任せすべきか。 |
タイプライターの思い出(06/06/13-1158)
もう老年を迎えようかという年になっても、小中学校の先生については、いろいろ思い出す。その内容は楽しいものもあれば、そうでないものもある。いずれにしても、教師は子どもの心に大きな影響を及ぼすのである。もちろん、マイナスの記憶ばかりが残るようでは困るが、それだけやり甲斐のある仕事なのである。さて、昨日の話題にしたタイプライターに絡んでも忘れられないことがある。それは私が中学の2年か3年生のころである。1960年代も前半だから、タイプライターが先生方の間でもめずらしい時代だったのだろう。それを学校の備品として購入されたようだった。そこまではよかったが、先生はよほど嬉しかったらしく、教室まで持ち込んでタイプを打ち始めたのである。こう書くと、授業中にタイプなんて打てるかと疑問に思われるだろう。そうなのだ。さすがに授業中にタイプなど打てるわけがない。何のことはない、生徒たちが試験を受けている最中だったのである。その場の状況を想像していただきたい。中間か期末かは忘れたが、みんなが一生懸命に試験と取り組んでいる。その静寂の中で、タイプを打つ音が教室中に響きわたるのである。しかも、先生はタイプを初めて使うらしく、タイプを1文字ずつ打っているように聞こえてくる。カチン、カチン、…、カチン。少なくとも、スムーズな流れではなかった。それが、試験を受けている者にとって、この上ない雑音だったことは言うまでもない。だれかが文句を言わないかな=Bそんな思いを全員が持ちながら、結局はそのまま時間が終わったような気がする。どんな理由があれ、あれはとにかく非常識だった。その後、自分がタイプライターに触れるようになってから、いつもこの日のことを思い出していた。 |
英語の先生(06/06/12-1157)
われわれが中学生のころは、英語がまともに話せた教師が少なかった。こんなことを断言すると叱られると思うが、子どもなりにかなりの確信を持っていた。発音だって、ジシ ザ ペン<激xルの先生もおられた。さすがに私の記憶違いだろうと、自分自身を疑っていることまである。それは、教師の指導書にカタカナの発音フリガナがついていたことである。生徒向けの参考書にフリガナがついていたのは間違いない。しかし、それが先生のものにまで載っていたなんて、とても考えられない。しかし、たまたま教壇に置いてあった先生用の教科書にそれがついていたような記憶があるのだ。なにせ戦争中は、敵性語≠ネどと言って英語を排除していたお国柄である。教師の養成に当たっても、英語の指導などはまともに行われていなかったのかもしれない。ともあれ、子どもの目から見ても、この先生、英語でしゃべれるのかなあ≠ネどと疑いたくなるような先生がいらっしゃったのである。そういえば、大昔はタイプライターなるものがあった。いまの若者には、もう説明のしようがない。ただし、現代社会では欠かせないコンピュータのキーボードとその配列は、ほぼ完璧にタイプライターを引き継いでいる。キーボードを押すと、金属の活字がハンマーのように紙に叩きつけられる。その活字と紙の間にインクのリボンがある。そこで、活字の形通りにインクが紙にくっついて、結果として紙の上に活字が印刷される…=Bああ面倒くさい。これでもタイプライターを知らない人には何のことか分からないだろう。このタイプライターも後々には電動になった。しかも、活字も一文字ずつのハンマーではなく、球形のボールに進化した。そして、字体を変えたいときは、そのボールを付け替えるのである。キーボードを押すとボールがクルクル回る様子は驚異的だった。 |
The≠フはなし(06/06/11-1156)
The END≠ナ思い出したが、英語のthe≠ヘ、なかなかおもしろい単語である。英語の専門家でもないのに知ったかぶりしていると恥をかくことになるが、ちょっとthe≠ノついて考えておこう。まずは発音だが、普通はザ≠ネのに、The
END≠ネどではジ エンド≠ニなる。これは、自然に発音しようとするとこうなるのである。もちろん、日本語的にザ≠ニ書いてしまえば、ザエンド≠セっておかしくはない。the earth≠セって、ザアース≠ニいえばいい。しかし、もともとthe≠フth≠ヘ、舌先を歯の間に軽く挟んで発音することになっている。その状態ですぐにa∞i∞u∞e∞o≠ニいった母音がくると発音がしにくくなる。ザ アー エンド≠ニいった感じだろうか。国が違っても、会話は流れが大事だ。だから、普通はthe≠ヘ聞こえないでも話が通じることが多い。そんな軽い感じのことばを強調して、the≠ニ発音し、それから間をおいてend≠ニいうわけにはいかない。そうなると、さっと続けるためにザ≠ナはなくジ≠ニいうかディ≠ニいった音でつなげる方が発音しやすくなる。これは意識的にそうするのではなく、自然にそうなるのである。かくして、日本語的にはザエンド≠ナはなくジエンド≠ニなるわけだ。おなじように、ザアース≠ニは言わずにジアース≠ニ発音する。何を今さら物知り顔で講釈してるのよ。そんなことだれだって知ってるさ≠ネんて笑われるかもしれない。それはそうかもしれない。しかし、われわれ団塊の世代が中学生のころは、そんなことを教えてくださった英語の先生はおられなかった。私の記憶に間違いがなければ、そもそも英語がしゃべれる先生≠ェいらっしゃらなかったのではないか。 |
「終わり」がない映画…(06/06/10-1155)
映画は会社のロゴマークが出た後で、画面いっぱいにタイトルが広がる。それから、主役をトップに俳優たちの名前が流れていく。制作に関わったスタッフや衣装でバックアップした会社名なども提示される。そして監督名が一人だけ画面に出てから、ようやく物語がはじまる。それが映画のカタチだった。だから、あの「羅生門」も「七人の侍」も、タイトルに続いて、三船敏郎・志村喬・加藤大介…、と出演者の名前が映し出されていく。その順番もなかなかおもしろい意味があるようだった。その昔、東映には市川歌右衛門と片岡千恵蔵という超大物俳優がいた。正月やお盆などに当てる目玉となる大作では二人の大物が共演することがあった。こんなときは、どちらをトップに置くかといったことも十分に配慮されていた。1番目と2番目となれば差≠ェついてしまう。そこで、一人をはじめに流しておいて、もう一人は、最後の最後に配置するのである。しかも、多くの俳優のリストが流れた後に、一人だけ独立して名前を提示する。これは特別出演といった形で大物が登場する際には、いまでも使われている方法である。そして、いよいよ最後に監督の名前が誇らしげに登場することになる。「七人の侍」でも、黒澤明の名前が出てから画面が消えて、いいよ本番となるのである。それが、いつの間にか、キャストやスタッフの名前が流れるタイミングが変わった。映画がはじまる前ではなく、終わった後に流れるようになったのである。そう言えば、このごろは「終」のマークも見なくなった。英語版ではThe
End≠ナある。多くの映画で、物語が終わると画面が次第に消えていく。そして、「終」やThe
End≠フ文字は出ないで、配役やスタッフの名前がリストアップされていく。 |
アメリカ映画(06/06/09-1154)
映画がはじまる前の各社のマークも個性があって記憶に残るものが多かった。アメリカ映画でも、ライオンが吠えるMGMは、じつに印象的である。コロンビア映画は自由の女神だが、時代とともに変化しているような気がする。こちらは日本のソニが関わるグループである。日本の経済が今ひとつ元気がなく、海外から狙われていると言われて久しい。とくに禿鷹ファンド≠ネどは骨までしゃぶるというわけだ。それはそれで困ったことだ。しかし、30年近く前になるだろうか、日本の不動産グループがニューヨークのロックフェラーセンターのビルを所有したことがあった。アメリカ資本主義の中心であるだけに、アメリカ人が受けた衝撃はすさまじかったと思う。そのとき、日本側からアメリカ人の心を傷つけるようなことをしてはいけない≠ニか、まるで禿鷹じゃないか≠ネんて話は、それほど聞かなかった。コロンビア映画の場合もそうだったと思う。ソニーは、映像ソフトを手に入れてこそ、電子機器のビジネスも成り立つという戦略を持って映画産業に資本を投じたのである。それはハードメーカーとして将来を見据えた正しい選択だった。しかし、何と言ってもハリウッドである。アメリカが世界に誇る映画産業を日本の会社が買い取るというのだ。アメリカ人に与えたそのショックは相当なものだったと思う。そのときもまた、それ行け、やれ行け≠フ日本人にとっては、すばらしい快挙≠セった。あれから随分と時間が経つが、コロンビア映画はうまくやっているようだ。いま話題沸騰の「ダビンチコード」もコロンビアである。もっとも、宗教的な理由から映画に反発するところもあって、ソニー製品の不買運動≠訴えている団体もあるのだそうな。そのほか、WB≠フ文字が入ったエンブレムが出るワーナーブラザーズなんて映画会社もあった。 |
映画のロゴ(06/06/08-1153)
映画の始まりに出るシンボルマークはなかなか楽しい。東映は海の岩に波が当たって砕け散る。いまもそのイメージは変わらないが、昔はほとんどが白黒だった。子どものころ、あれはどこの海で撮ったのだろうと思った。あの画面が出ただけで、映画を見る前から躍動的な時代劇のイメージが浮かんだ。松竹は富士山である。荘重な山の前に松と竹を組み合わせたロゴマークが出る。これもまたよかった。こちらは現代の庶民生活を描く名作が多かった。もっとも、庶民生活にしては、主人公は美男と美女ばかりだからおもしろい。もっとも、「寅さんシリーズ」も松竹だから、この場合は美男とは言えない。まあ、マドンナは魅力的だったけれど。東宝は、輪の中に東宝と書かれたマークが出て、その後ろからライトが当たる。映写機を直接見るような感じだ。こちらも現代物が多かったと思う。あのゴジラなんぞは東宝が生んだ大傑作シリーズだ。加山雄三の若大将ものなどもあった。いまのフジテレビのようなイメージか。大映はといえば、「大」の字を円形にロゴ化したものだった。こちらは、羅生門」や「雨月物語」などの名作がある。いわゆる古典と呼ばれる文芸作品に強かったと思う。京マチ子などが看板スターだった。大人の映画が多いようで、子どもの私には、やや近づきにくい感じがしていた。さらに日活は、「K」を○で囲んだ木彫りのようなマークが浮かび上がった。現代の若者を中心にした路線が得意だった。石原裕次郎や小林旭など、いわゆるアクションスターを排出した。吉永小百合も日活である。これに新東宝というものもあった。その名の通り東宝系だと思うが、内紛かなんかで独立したような話を聞いた。子どものころだから、そのあたりの経緯はよく知らない。 |
映画のスタート(06/06/07-1152)
もうかなり前になるが、BSで映画「十戒」を放映していた。チャールトン・ヘストン主演の映画だが、私は小学校のころに見た。当時は70mm映画というのがあって、それが大作の象徴になっていた。もともと映画で使うフィルムの幅は35mmである。そこで迫力を増そうと、幅70mmのフィルムにしたのである。その結果、スクリーンが横にグーンと広がった。フィルムの幅が2倍なのだから当然のことであった。とにかくどでかいスクリーンになった。これとは別に「シネマスコープ」という方式もあった。こちらは35mmのフィルムに横2倍分の情報を入れる工夫をした。レンズを使って画像の横を圧縮するのである。したがって、フィルムを見ると人物や建物がひょろっとした縦長に写っている。これを映画館でレンズを使って再び横幅を元に戻すのである。フィルムの幅は変わらないのだから、70mm映画から見ればまがい物ではある。しかし、それでも私たちは、「シネマスコープ」という名称で大いに楽しませてもらった。さて、テレビで「十戒」がはじまってから間もなくのことである。娘がぽつんと言った。まだ名前が出てるじゃない。これって、いつまで続くの…=Bそう言われればそうなのであった。もう映画がはじまってからかなりの時間が経過している。それなのに、物語はまだはじまっていない。画面には、まだキャストなどのリストが出続けているではないか。これでもか、これでもかと、いつ終わるともしれない。それを見ながら、あることに気づいた。あの俳優やスタッフの名前が出るのを何と呼ぶのか知らない。しかし、少なくとも最近の映画では、この部分は映画のラストに出るのが当たり前になっている。これに対して、昔の映画では間違いなく、スタート時に流れていたはずである。まずは、「東映」だの「松竹」「東宝」といった会社のマークが出る。 |
サプライズ(06/06/06-1151)
先月の5月19日にアクセス件数が10万件を超えた。その記念すべきナンバーをゲットしたということで、中学校の先生からメールを頂戴した。かねてから「味な話の素」をご愛読いただいている方である。そのメールには、10万件目の画面も添付されていた。せっかくだから、これを掲載させていただくことにした。小さくして挿入しているので、肝心の100000≠ェよく分からないと思う。もしお時間があれば、写真そのものを拡大していただくと、はっきり見える。このメールには、その1つ前の99999#ナもついていた。まことにありがたいことである。まあ、99999≠ゲットした方はもう1回クリックするのは当然の成り行きだと思う。そういえば、1週間ほど前には、101010≠ニいう、並びのいいナンバーに巡り会われた方もいらっしゃるわけだ。そんなことを考えると、数字は夢と楽しみを与えて くれる。次の大物は、111111≠ニいうことになるだろうか。これも3ヶ月後の8月中には達成するだろうと期待している。さて、そんな中で先月は大阪に行く機会があった。息子夫婦が関西に住んでいるので夕食を一緒にという話になった。息子の方で大阪駅近くのお店に予約を入れてくれていた。何と3日前に開店したばかりだという。料理はなかなかのもので、3人でおいしく食べた。おおよそコースが終わり、あとはデザートというころだった。お店の方が突然ケーキを持ってきた。そこにチョコレートで書いたカードが付いている。10万アクセスおめでとう=Bうーん、これは参った、驚いた。息子夫婦によるサプライズの演出だった。やや見にくいかもしれないが、今月のホームページにはこの写真を採用した。ケーキがいつも以上に美味であったことは言うまでもない。 |
怪しい勤勉(06/06/05-1150)
三ずの精神≠ヘ公務員を揶揄したものだと言う人もいる。一旦採用されれば、余程のことがない限り首にならない。給料もそこそこ。大都会は金持ちも多いが、地方に行けば、給料だってけっこういい。そんなことから、公務員にはどうしても批判の目が向けられやすい。しかし、三ずの精神≠ェ公務員の世界だけの現象だとも思えない。世間は広い。真面目に仕事をしている人がいる一方で、ちょっとどうなんだろう≠ニ首を傾げたくなる人はどこにでもいるものである。ともあれ、公務員か民間かといった比較は置くとして、三ずの精神≠ヘ、どう考えたって勤勉≠ニはまるで対極にある。これに加えて、一時は5時からおじさん≠ネんてのも流行ったことがある。まともな勤務時間中はいい加減手を抜いておいて、時間外手当が付くとなると目の色が変わる。そんな人間が実在したかどうかは知らない。しかし、世の中に広まっていく笑い話の中には、けっこう真実を突いたものが少なくないのである。日本人が勤勉だという通説は奢りにも繋がったと思う。それ行けどんどん≠ナわが国の経済が絶好調だったころである。それに対応するかのようにアメリカの経済が衰頽しているように見えた。そんなとき、そもそもアメリカ人は労働者の質が低い。週末なんて休みに遊ぶことしか考えていない。月曜日は、遊びすぎて仕事がまともにできない。とにかくやる気がないんだ。そんな連中が作ったものなんて、ろくなものはない…=Bまあ、こんな調子でわが世の春を謳歌していたのである。しかし、その後バブルで転けて、今では得意だったはずの電子分野でも、アメリカや韓国の後塵を拝している。少なくとも、日本人だけ≠ェ勤勉≠セというのはかなり怪しいのである。 |
真打ち登場(06/06/04-1149)
私が子どものころは、とにかく休まない≠アと、それだけで高く評価されていた。そして、夏休みになるとラジオ体操である。朝6時半ごろになると広場や公園に子どもたちが集まってくる。10分の放送が終わると、参加したことを証明する出席カードに○印を押してもらった。全部の日付に○がつくと皆勤賞である。そんな時代の後遺症なんでしょうかねえ、この味な話の素≠燻~まらなくなってしまった。それはともあれ、三ず≠フ休まず≠ヘいいとしても、それはただ出勤しているだけのこと、見栄えだけ整えていればいい。そんな本音が見えている。これに遅れず≠ェ追加される。昔も今も、遅刻はまずい。これをちょくちょくやっていると目立ってしょうがない。とにかく時間内には滑り込んでおくことである。とくにタイムカードで管理されている職場では、とにもかくにも時間までにカードを通しておかねばならない。そしていよいよ真打ちである。なんと仕事せず≠ニいうから驚き桃の木である。相当にすごい。そもそも組織は仕事をする人たちの集まりだったはずである。その中で、堂々と仕事せず≠ネんて、もうあってはならないことではないか。しかし、笑い話とはいえ、世の中にはそんな連中がけっこういたんだろうと推測する。だからこそ、三ずの精神≠竍三ず主義≠ネんて言い回しが生まれたわけである。最後のず≠ノついては、余計なことをせず≠ニいうのもあるらしい。とにかく言われた仕事、決められた仕事だけをする。それ以外は一切手をつけないというわけである。これって、私の仕事じゃないもん=Bそりゃあそうなんだろうけど、そんな気持ちで仕事をしていておもしろいろかなあと思ってしまう。その背景には、職場における人間関係の問題などもあるのだろう。しかし、これも仕事せず≠ニ同じようなものだ。 |
三ず≠フ精神(06/06/03-1148)
アメリカ人だって勤勉≠ノ働いているのである。たしかに、自分たちがしなくなったような細かい作業を黙々とやっている光景を見ると、勤勉≠ノ見えてくる。少なくとも戦後の日本人の働きぶりは、アメリカ人にはそう映ったのかもしれない。ちょうどいまの日本人が中国人は単純な作業にも熱心に取り組んでいる≠ニ思うようなものである。考えてみれば、そうした仕事に対する態度を勤勉≠セということもできる。その意味では、かつての日本人が勤勉だったというのは事実なのかもしれない。しかし、そんな時代でもけっこうおもろい表現があった。それは三ずの精神≠ニいうやつだ。三ず主義≠ニも言うらしいが、ご存じの方はどのくらいいらっしゃるだろうか。私がこのことばを知ったのは父から教えてもらったからで、それは小学校のころである。三ず≠ニは、休まず∞遅れず∞仕事せず≠フ三つのず≠フことである。最後は、余計なことをせず≠ニいうのもあるらしい。どちらが正しいのか私は知らない。しかし、この表現、相当に危なっかしい。なにせ、これがサラリーマンの処世術だというのである。もっとも、そこまで言うと言いすぎで、こんなひどいやつがいる≠ニいう批判的な表現だったのかもしれない。それはともあれ、三ず≠フ消極的な態度は勤勉≠ニはまるで対極にある。これが処世術というのなら、相当にひどい話である。ともあれ、給料をもらっているからには休んではいけない。毎日とにかく仕事場へ行くことが重要なのである。休まないこと。それ自身が美徳≠ニ考えられていたわけだ。私が子どものころには皆勤賞というものがあった。雨が降っても風が吹いても、とにかく学校へ行く。そのことが高く評価されていた。 |
勤勉アメリカ人(06/06/02-1147)
アメリカに密入国する者が多いのは、それだけ仕事があるからだろう。逆に言えば、自国には仕事がないのである。だから、生きるためにはどんなことでもする。そんな覚悟の人間が多いと思われる。こうした人々の間では、それこそ過労死≠セって発生しているのではないか。このように、勤勉≠ニいわれる現象の根底には、じつは必死で働かざるを得ない℃柾があったと考えることもできる。そして、敗戦後の日本は、たしかにそういう状況にあった。一般的に、発展途上国≠フ人々は一生懸命に働く。それが、それなりに発展を終えた国の人間から見ると勤勉≠ノ見えるのではないか…。さて、日本人勤勉説≠ノは、ほかにも反論があり得る。それは、アメリカ人だってやる人はやっている≠ゥらである。たとえばIT関連の仕事をしている人間の中には、時間など関係なく働き続ける者もいるという。研究者たちにしても、その仕事ぶりはものすごいようだ。とくにノーベル賞レベルの研究でしのぎを削っている人々の生活などはモーレツそのものである。ノーベル物理学賞を受賞したファインマン氏の自伝のようなものを読んだ記憶がある。「ご冗談でしょうファインマンさん」(岩波書店)だったか。もう手元にはないので、内容の確認ができないが、その中には夜も寝ないで必死に研究したという記述があったと思う。あるいは、それは同じ岩波書店の「ノーベル賞の決闘」という本の内容だったかもしれない。これもすでに処分したが、やはり研究者たちのすざまじい生活ぶりが書かれていた。このような例を勤勉≠ニ呼ぶかどうかはちょっと置くとして、とにかくやる人たちはやっている≠フである。これは想像に過ぎないが、ビジネス界だって同じだろう。 |
勤勉さの意味(06/06/01-1146)
勤勉≠ニ働き過ぎ≠ヘ微妙に違う。前者は自分から進んで仕事をする真面目な人≠ニいう意味合いが感じられる。これに対して働き過ぎ≠ヘ、仕事依存症になってしまった状態に近くなる。その結果として家庭すら顧みないなんてことも起きる。さらに過労死≠ノなると、働き過ぎ≠ノは違いないが、それが外的に強制されたという事情も加わってくる。休むに休めない状況に追い込まれて働き過ぎ≠驍フである。たとえば期限に間に合わせるために無理に無理を重ねるなどはその典型だろう。そんな状況ではストレスも強烈になる。その解消ができないうちに、さらにストレスが加わる。こうして体調がおかしくなる。また、精神的に追い込まれる事態も生じる。こうした不幸なことが起きないようにすることは、まさに緊急の課題である。さて、日本人が勤勉だ≠ニいう通説であるが、その真実はどうなのだろうか。日本人勤勉説≠ェ強調されればされるほど、それじゃあアメリカ人は怠け者かということになる。どう考えてもそんなことはないはずだ。私自身、客観的なデータは持たないが、この点ではけっこう反論も出てくるのではないかと思う。まず第一に、それは勤勉≠ニいうよりも、必死で働かざるを得ない事情によるのだという見方である。外見的には一生懸命に働いているが、それは望んで≠サうしているのではない。それを勤勉≠ニ表現するのはおかしいというわけである。アメリカは移民の国だというが、同時に密入国者に悩まされ続ける国でもある。つい最近のニュースだったか、人口に占める白人の割合が減少し続けていると伝えていた。正規の移民はもちろんのこと、大半の密入国者たちは、条件の悪い中で必死になって働いているに違いない。 |
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