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味な話の素
 No.37 2006年05月号(1115-1145)
 
日本人勤勉論(06/05/31-1145)
 日本人自身がそうだと思い込んでいる通説≠ヘ少なくない。しかし、それらについても、客観的なデータがあるかどうかは分からない。かつて日本人は勤勉だと言われた時代があった。いまでは懐かしいと思う人たちもいるだろう。あるいは、そんなこと言われてたの≠ニ驚く若者もいるだろう。あの高度成長期のころ、人はとにかく働いた。いわゆるモーレツ社員≠ェ当たり前の時代である。家庭もろくに顧みない。残業は当たり前。その姿はまるで働き蜂≠フように見えた。もっとも、蜂たちは家庭を放ったりはしないだろう。こんなの働き過ぎじゃないの≠ニ疑問を抱くこともないはずだ。これに対して日本人は一心不乱に働き続けた。その結果、不幸にして過労死で亡くなる人まで出てくることになる。それはkaroshi≠ニして英語にすらなっている。"death from overwork"という解説付きである。何とも不名誉な英語化であるが、とにかく日本人は働きまくるというイメージが定着していた。もちろん過労死をなくすことは何としても必要である。ここまでくると、それは勤勉≠ニいう、どちらかといえば肯定的な意味合いが失われてしまう。それは、自分の意思や健康状態を無視して働かされる¥況を伴っているからである。これに対して、勤勉≠ヘ美徳≠ナあるというイメージがある。とにかく真面目に一生懸命に働くのである。だから、それを見習うことも必要だという雰囲気がある。そんな状況の中で、日本人は本当に勤勉だった≠フだろうか。これに対して、アメリカには、そんな人間はいなかったのか。日本のように仕事依存症≠ネんてことばが生まれる素地はあり得なかったのか。じつは、そのあたりになると、どうも怪しくなってくるのである。
通説を疑う(06/05/30-1144)
 日本人が集団主義的だ≠ニいうことは実証されていない。これが学会のシンポジウムにおける方向性だった。たしかに個々の事例を見ると、国民性といわれるものにも、かなり怪しいところがある。県民性も話題になるが、本当に当たっているのだろうか。さらに血液型などもどうなんだろう。自分の思っている行動傾向と相手の血液型が一致すると、ほうら当たった≠ニなる。それがはずれると、おかしいなあ。お宅、本当に○型なの≠ネんて疑ったりする。かつて、(財)集団力学研究所でリーダーシップのタイプと血液型についてデータを取ったことがある。その結論は関係なしであった。わが家の長男と長女にしても、血液型は同じだが、その性格はとても同じとは言えない。血液型と性格判断も遊びの範囲なら楽しいが、決めつけてしまってはまずい。この欄でも映画「荒野の7人」について書いたことがある。そこでは、アメリカ人の方がよほど義理人情的であることを強調した。私としてはケースバイケースというか、状況によって集団主義的にも個人主義的にもなるのだと思う。もっと言えば、われわれは集団主義的≠ニ個人主義的≠フどちらが得かを判断しながら選択しているのではないか。本当の気持ちはどうであれ、そう見えるように行動する≠フである。もっとも、そうした行動を取っているうちに、どちらかの傾向が多くなり、それが定着する。そう考えると、結果的には集団主義的≠ゥ個人主義的≠ゥのどちらかに偏ることになる…。いま、その結果がどうなのかについて議論が交わされているのだろう。いずれにしても、通説≠疑ってみることは大事なことである。その意味で、国民性だけでなく、県民性などについて考えるのもおもしろい。
ステレオタイプ(06/05/29-1143)
 昨日まで参加した学会で、日本人は集団主義的≠ネのかどうかをテーマにシンポジウムがあった。日系アメリカ人の研究者や言語学者などが登壇した。一般的には、日本人は集団主義的≠ナアメリカ人は個人主義的≠ニいわれる。われわれ自身も、そうじゃないかな≠ニ思いがちなところがある。しかし、その常識≠ヘ、少なくとも正しい≠ニ確認されているわけではない。これが、基本的な流れであった。この点については、日本人の研究者の間でも論争が続いているようだ。社会心理学や社会学などではステレオタイプ≠ニいうことばが使われる。もともとは印刷業界の用語だという。同じものを何枚も印刷するために用いられる鉛版を "stereotype"と呼ぶらしい。そこから、人が型にはまったものの見方≠することをステレオタイプ≠ニいうようになった。あの人たちは…=A○○人は…≠ネどと決めつける。人間は一人ひとり違うんだ≠ネどと考えていると時間がかかる。そこで、ある集団に属する人たちを同じようなもの≠ニして見ると、その対応も簡単になる、効率もいい。しかし、それがそのまま誤解≠竍偏見≠ノ結びつくことは容易に想像できる。このステレオタイプ≠ヘ、相手の望ましい面についての見方として使われることはほとんどないからである。日本人は集団主義的、アメリカ人は個人主義的≠ニいうのは、必ずしもマイナス≠フ意味だけを持っているのではない。しかし、なんとなく自我が確立していない∞一人では責任ある行動ができない∞しっかりとした意見を持っていない≠ニいった否定的なニュアンスを含んでいる。徒党を組むと何をしでかすか分からない=Bこんな印象を持たれているようなところもある。
群衆の中の孤独(06/05/28-1142)
 東京をはじめ、いわゆる大都会は人が多すぎる。その一方で、過疎地域の問題も深刻である。こちらは人が少なすぎるのである。何でもそうだが過ぎる≠フはまずい。東京なんぞは人が多すぎるが故に、他人との関わりが薄くなる。朝夕のラッシュ時などに、のんびりと会話をしながら歩いてなんかおられない。だから、兵隊の行進のように、とにかく前進するしかないのである。ボンヤリしていたら人にぶつかってしまう。ましてや、昨日の思い出に浸りながら笑ってたりしていたら、怪しい人間だと思われるに違いない。まったくゆとりのない話である。しかし、いつの間にかそんな状態が当たり前になってしまうのである。人がワンサかいながら、だれもが自分のことしか考えていない。いや、考える余裕がない…。もう古典になってしまったが、リースマンという人が「孤独な群衆 THE LONELY CROWD」という本を書いている。みすず書房から出された加藤秀俊氏の翻訳もある。いまから40年ほども前のものである。しかし、そのタイトルはなかなか魅力的だ。まさに今日の時代状況にもピッタリの感じがする。都会はとにかく人間の数は多い。しかし、通勤途上の人間同士はお互いに何の関わりもない。あまりに多すぎるから、さっさと歩きたいと思う気持ちで見ると、他人はじゃまですらある。まさに、群衆の中にありながら、一人ひとりは孤独なのである。それに加えて、このごろは携帯電話やコンピュータが普及して、人の付き合いも狭くなっている。雑踏の中で携帯で話しながら歩いていると、もう周りの人間などいてもいなくても同じことである。人がいっぱいても、関わりを持つのは限られた人間だけなのだ。しかも、その関係が壊れると、もう立ち直れなくなってしまう。
人混み(06/05/27-1141)
 学会に出席するために東京にやってきた。この連休は大阪にも行ったが、それを上回るように人が多い。仕事が終わって新宿のホテルに帰ったのは6時台だった。この時間だから人が多いのだと思う。しかし、それにしても半端ではない。昨日こちらに来たのはお昼前だが、それでもモノレールは満員だった。東京の集中化のためなのか、羽田空港はどんどん拡張されて、2つのターミナルに分けられた。そのときから、モノレールは全日空系の飛行機を利用する方が終点になった。そのため、全日空の客がドット乗ると、次の駅で待っている日本航空系の利用者は座れないことになる。それまでは、人が多ければ向かい側に止まっているモノレールにすればよかった。さすが東京だけあって、次の電車といっても数分後には発車するのである。しかし、日本航空系の利用客はそれができなくなった。まあ、仕方がないといえば仕方がない。しかし、環境の変化は個々人にけっこうな影響を及ぼすものである。昨日だって11時ころなのに、モノレールは始発から満員だった。だから、次の第1ターミナルで待っていた客は一人も座れなかったはずだ。そしてその客が一斉に降りる浜松町は人の洪水になる。さらに東京駅で中央線に乗り換えるために階段を下りると、これまた通路を人の波が押し寄せてくる。さすがに中央線は始発だったため、電車そのものは、それほど混んではいなかった。お昼時だから、もともと少ない時間帯だったのかもしれない。しかし帰りはまたしてもワンサカである。この人たち、一体何を考えながら歩いてるんだろう=Bふとそんな疑問が浮かぶ。まあ、余計なお節介ではあるが、これだけ人が多いと他人のことなんぞ気になんかしておれないのではないかと思えてくる。
迷人戦(06/05/26-1140)
 将棋は体を動かすスポーツではないが、頭をフル回転させる勝敗事≠ナある。その集中力のすごさは、将棋が分からない私にも伝わってくる。それに、将棋は八百長≠フできない真剣勝負だろうと思う。まさに一手一手が周りから監視≠ウれている。たしかに、いい加減な手を打つことは理屈では可能である。しかし、そんなことをしていたら、後でどうしてあんな手を打ったのか≠問われるに決まっている。そのときに、まともな説明ができないだろう。うっかりしてました≠ネんて、素人のようなことを言えば、将棋の歴史に恥をさらすことになる。そんな将棋の戦いの中でも、名人戦は最高のイベントらしい。その名人戦が大揺れに揺れている。その原因がゼニカネ≠ノあるようだから、どうもいただけない。将棋連盟が経済的に苦しくなった。そこで、スポンサーを毎日新聞から朝日新聞に乗り換える話が出てきたようだ。将棋がチンプンカンプンの私などは、そのスポンサーがどちらになっても支障はない。もともと将棋の記事なんて読んだこともないからである。それはそうだけれど、今回のことが水面下≠ナ行われたから問題になったというのであれば、そりゃあまずいんではないか。将棋連盟も、経済的に困っているのであれば、それを明らかにした上で、スポンサーの問題もオープンにすればいい。何と言っても、衆人環視の元で正々堂々と戦うのが将棋ではないか。それにしても、世の中にはいろいろな事情があるらしく、毎日新聞が名人戦を育ててこなかったという意見もあるようだ。そのあたりについては、どっちが正しいのかは知らな。しかし、いずれも天下の言論機関である。こんなことでゴチャゴチャしてるようでは、迷人戦≠ノなってしまうよ。
名人戦(06/05/25-1139)
 日本には伝統的なものが数多くある。将棋もその代表だろう。発祥の地はインドらしいが、それが中国に伝わり、最終的には日本に入ってきた。西側の方に行ってチェスになったというわけだ。それにしても、その後は日本で育ったと言っていいのだろう。ただし、私自身は将棋についてはほとんど無知である。もちろん、最終的には敵の王将を身動きできなくすればいいくらいのことは知っている。また、歩は一個しか前進できないが、敵陣の3列目くらいまで行けば裏返って金になる。これを成金という。飛車は縦横を自由に行ったり来たりできる。これに対して角は、斜め方向がフリーパスである。桂馬は2つ前の右と左だったっけ…。しかし、お遊びながらも将棋をやった記憶があるのは小学校のときである。だから、私は将棋を知らないというのが正確なところだ。もちろん、羽生善治氏などはよく知っているし、彼の著書を読んだこともある。そして、名人戦などというものがあることくらいは知っている。ところが、その名人戦がもめているらしい。スポンサーの問題だ。これまで毎日新聞がバックアップしてきたのだが、ここに来て急に朝日新聞に変わる動きが出てきたというのである。毎日側に言わせれば寝耳に水。何の打診もなく朝日と交渉しているという。その背景にはカネの問題があるらしい。将棋連盟が経済的に厳しく、スポンサー料がもっとほしいということのようだ。基本的な動機は単純そのものである。しかし、その手続きがどうもまずかった。朝日がスポンサーになることに意欲を示し、将棋連盟と水面下で交渉をしていたらしいのである。毎日新聞の言い分しか読んでいないから公平な評価はできない。しかし、カネが絡んでいることもあってどうも胡散臭い。
狸でおしまい(06/05/24-1138)
 人間の動物に対する偏見的¢ヤ度は止まるところを知らない。ともあれ、相手の状況を無視して、自分だけの発想で決めつける。そうした自己中心的な対応には気をつけた方がいい。そのような態度が偏見や差別に繋がっていくのである。とにもかくにも、自己中心的≠ネ見方には、いつも危うさが伴っている…。このところ続けてきた動物虐待&ィ語で言いたかったことである。ところで、この物語も連載して1週間になる。そろそろ区切りをつける潮時だろう。またぞろ、家内や息子たちからくどすぎる≠ニ言われてしまいそうである。しかし、それにしても動物の生態を人間の行為や性質に当てはめる表現の多いこと、多いこと。猿にしても、猿まね≠竍猿知恵≠ネどといったものがある。そうそう、猿芝居≠ネんて言い方もする。どれもこれも、おろかさ≠竍浅はかさ≠ニいったニュアンスを含んでいる。お猿さん≠ネんて呼んで、その所作を楽しみながら、その一方で悪口を言う。人間様ってのは相当に根性の曲がった動物なのではないか。ところで、熊本は船場山の狸≠ナ知られているが、ときおり狸と遭遇する。とくに、熊本大学の近辺には狸が住んでいるようだ。大学の構内を、決して素早くないスピードで駆け抜ける姿を見たことがある。また、街中の道路で車にはねられてしまった狸がいたこともある。その彼らに人間は何と言っているか。そう狸寝入り≠ナある。これだって、狸に失礼な話だ。狸が寝たふりなんてするわけないじゃないか。挙げ句の果てには、たんたん狸の金○は、風に吹かれて…≠ネんて脳天気に歌っている。まったく余計なお世話ですたい。えっ、それって正しくは風もないのに≠ナすって。あとは、皆さまでお調べ下さい。
犬だってカンカン(06/05/23-1137)
 われわれは、太古からお付き合いしている犬に対しても、じつに罰当たりな態度を取っている。「権力の犬」などという、あの表現だ。 大辞泉では、「他人の秘密などをかぎ回って報告する者。スパイ」となっている。犬の臭覚は鋭敏である。そのおかげで、人間は警察犬などとして大いに助けてもらっている。麻薬犬も、鋭い嗅覚を持っているからこそ、許し難い犯罪を未然に防ぐことができるのである。それにも拘わらず、その能力のすごさを取り上げて、他人を批判する際に使うなんて、言語道断としか言いようがない。まさに罰当たり行為そのものである。裏切り行為だということもできる。犬は飼い主の恩を忘れないという。あの忠犬ハチ公≠フ物語はその代表である。それにくらべて人間の情けないことよ。偉そうに「恩を仇で返す」なんて言い方をするが、人間の方が余程に恩知らずではないか。それだけではない。「犬侍」などのように、相手を蔑んで見ているときにも使う。さらに、「犬死に」に至っては、無駄な死に方という意味がある。これでは、犬の一生は人間に奉仕して、挙げ句の果ては役立たずの一生だったということではないか。もう開いた口が塞がらなくなってきた。人間は、これまでのお犬様たちのご恩に感謝して記念碑でも建てねばならないのではないか。いやいや、それも愚かなことだろう。ひどい表現をしながら、一方では、「犬将軍様」のように極端な人も出てくるのがこの世の常である。第5代将軍徳川綱吉の「生類憐れみの令」は、つとに有名だ。ただし、その歴史的な経緯については諸説があるようだ。それはともあれ、「お犬様」とまで持ち上げるのも、これまた行きすぎである。ただ普通に、犬たちに対して感謝の気持ちを持っていればいい。
 10万件目をゲットされたのは、以前からご愛読いただいてきた中学校の先生でいらっしゃいました。記念のコピーを添付して、知らせてくださいました。そのほか、高校生のお嬢さんとご一緒に10万件を目ざしていたとおっしゃる方もおられました。みなさま方のご支持に心から感謝いたします。
猫糞(06/05/22-1136)
 猫については猫なで声≠ネんていうのもある。人が媚びへつらう≠ニきの卑屈な態度を冷笑しているようなニュアンスがある。これだって何のことはない、猫がなでられて気持ちがいいときにミヤーーオー≠ニ声を出しているだけのことである。相手に媚びを売ったりなんかしているわけじゃあない。それを、人間が自分たちの卑屈な生態にくっつけて、そんな表現をしているのである。もっとも広辞苑によると、「猫をなでるように、あたりをやわらかく発する声」だとある。猫自身の声だというのは「一説」なんだそうな。そうなると、問題の声≠ヘ優しい人間のものだということになる。世の中、聞いてみないと分かりませんなあ。私自身は媚びるときの声≠ニいう意味でしか意識していなかった。猫といえば、もっとひどい表現がある。猫糞≠ナある。これをどう読むかご存じだろうか。正解はねこばば≠セ。ものを拾っても、それを自分の懐に入れてしまうこと。また、悪いことをしても知らんふりをすることである。何とも不道徳、許し難き行為であるが、猫がそんなことをするか。猫はウンチをしたあとに、足で砂をかけて分をそれを隠す習性があるらしい。そう言えば、子どものころその現場を見た記憶がある。何のことはない、猫としては自分が出したものをちゃんと処理しているのである。見上げたものではないか。それを、盗人呼ばわりするなんて、人間とは何と罰当たりなのだろう。それどころか、公衆トイレに行くと、便器の端にウンチがくっついていることがある。よほど逼迫していたのだろう。しかし、それならそれで、無事に終了したらちゃんと拭いとけよ。ろくに後始末もできない人間にくらべれば、猫の方がよほどしっかりしているじゃあないか。
猫も怒る(06/05/21-1135)
 とにもかくにも人間の身勝手な解釈には、動物たちもカンカンに怒っているに違いない。馬や鹿たちも、馬鹿にするな≠ニ憤っているはずである。ついでに言えば、猫だって相当の被害者だろう。猫に小判≠ネんて表現がある。ものの価値が分からない人に対する軽蔑の意味合いが強い。しかし、猫にとって小判が何の意味もないことは当たり前のことだ。自分にとって価値があるからお前もそう思うべきだ。それが分からないやつはアホや。そんな雰囲気が漂うからいけない。もう自己中心の精神丸出しだ。このごろは、ゼニゼニ≠ニカネのことしか頭にないような人間が大きな顔をしている。何とかファンドなんて、ありゃあ何なんですか。昔の日本は技能オリンピックでも金メダルに埋まっていた。とにもかくにも物づくりが大切にされる国だったのだ。しかし、それももう日本昔話≠フ世界なのである。猫に小判≠ネんて言って、自分の価値観を押し売りしてはいけません。そんなことしてたら、猫に笑われますよ。そうそう、これと同じ意味合いで豚に真珠≠ネんて表現もありますわね。これだって豚から見ればお節介な話である。何のことはない、人間が物欲♀ロ出しで生きていることを自ら白状しているだけのことではないか。宝石で飾っただけで自分の価値が上がるなんて思い込む方がよほど滑稽だ。人間、何と言っても中身が大切なんですよね。モノばかりに執着しないで、もっと心を大事にしたらどうですかい=Bこんな豚の皮肉な声が聞こえてくるようだ。もっとも、この表現は新約聖書のマタイ伝なるものの中で使われているらしい。まあ、人間の自己中心性は洋の東西、時代の今昔を問わないということである。どう見ても、もう動物虐待のオンパレードである。
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馬が怒る(06/05/20-1134)
 人間の身勝手な発想で動物たちはバカにされている。そうなのだ。このバカ≠ヘご存じのように漢字では馬鹿≠ニ書く。馬と鹿である。この馬鹿ほど彼らをバカ≠ノした言い方はない。とにかくおろかなこと≠ェバカなのだから。もともとは梵語の音に期限があるというから、仏教用語なのかしら。目を通した辞書には、どれにも「当て字」と書かれていた。それなら、何で馬≠竍鹿≠当てたんでしょうね。彼らがことばを持っていたらバカにするな≠ニ怒るに違いない。まったくいい迷惑である。鹿≠セって、脈絡もなく何でこんなときに使うのよと言いたいことだろう。ここまでくると、動物虐待に当たるのではないか…。とにかく、人間は言いたい放題なのである。それにしても、馬さんは辛い思いをしているのではないか。馬齢≠竍馬鹿≠セけじゃあない。なんと、馬の骨≠ネんてひどい言い方もある。素性の分からない相手に対して、罵りあざけるときに使う。まるで品位に欠ける言い回しだが、ここでも馬≠ネのだ。馬は犬と並んで人間との付き合いが長い。しかも、彼らは人間の生活にとって欠くことのできない貢献をし続けてきた。その昔、馬は農耕から人の移動、そして戦闘に至るまで、なくてはならない動物だったはずだ。21世紀になっても、人間は競馬で大騒ぎしている。イギリスでは紳士のスポーツだと言っているらしい。わが国でも、NHKが競馬の放送をしているくらいだから、公式にスポーツであることが認知されているのだろう。そんなこんなで馬を大いに利用していながら、人間はまったく恩知らずなことをし続けている。そうそう、熊本は馬刺しで知られている。たてがみ≠ネんてものまで出てくるが、これがまた珍味なのだ。
自己中心主義(06/05/19-1133)
 人間の自己中心主義は止まることを知らない。馬齢を重ねる≠ニいう。馬齢とは文字通り馬の年である。ただし、広辞苑によると「犬馬の齢」とあるから、なんと犬まで含まれているのだ。そして、馬齢を重ねる≠ヘ、「なすこともなく老いる。無駄に年をとる」ことだという。そりゃあ、世の中にはぐうたらな人やいい加減な人もいる。あんた、もう少しはちゃんとした生活をしたらどうなの≠ニ余計なお節介をしたくなる人だっている。しかし、そうだからといって、それを馬齢≠ネどと言ったら、馬に悪いじゃないか。もちろん犬にだって申し訳ない。馬や犬が無駄に年をとっているなんて、どうして分かるのか。そんなことはない。彼らはみんな一生懸命に生きている。先ほど出た、犬馬≠烽ツいでに広辞苑で引いてみる。まずは「犬と馬」と、当たり前のことが書いてある。それから、「犬や馬のように人に使役されるもの。転じて、自分のことをへりくだっていう」という解説が続く。ここにも、人間の傲慢さが滲み出ている。犬や馬を「使役」するものとしてしか捉えていない。人間にとって欠かせない協力者ではないのである。馬齢を重ねる≠ヘあくまで謙遜して言うのであって、他人様のことではない。しかし、そうだとしても、そこで馬や犬≠引っ張り出すのは、失礼千万な話である。それに、人間は平気でダブルスタンダードを使う。人が犯罪を犯したとき、決まって責任能力が問題にされる。そして、それがないと判断された場合は罪を問うことはできない。ところが、犬や熊が人間を襲ったらどうなるか。まず例外なく命を絶たれるはずだ。まるで彼らに責任能力があるかのように。動物たちは、人間の自己中心的な振る舞いにあきれ果てているに違いない。
道草物語(06/05/18-1132)
 人間ほど自己中心的な生き物はいない。とくに、ことばが使えるからいけない。まさに言いたい放題≠ナある。動物たちが生きるためにしている行動も、人間が勝手に評価する。道草を食う≠ニいうときは、あまりプラスのイメージはない。広辞苑では、「途中で暇を費やす。横道にそれて手間取る」となっている。不必要なことをするということだ。もともとは、「馬が路傍の草を食って進行が遅くなる」ところからできた言い回しだとある。馬から見れば、それを余計なことだといわれてはかなわない。彼らにとって、道草を食うのは生きるために欠かせない大切な行動なのである。それは牛だって同じ。阿蘇に行くと牛が悠々と草を食んでいる。なかなかいい光景だが、牛はいつもいつも食っているように見える。しかし、牛にとっては、そうした行動こそが生きるために必要なのである。意識的に緩慢な行動を取っているわけでもなく、気持ちだってのんびりとしているのでもないのだ。しかし、人間は自分の主観で彼らを見て、牛はゆったりしているなんていうのである。そもそも草しか食べない牛にどうして肉が付くのか。ずっと前に目から鱗が落ちるような話を聞いたことがある。牛が食べた草は腸まで行くと、そこに住んでいる細菌が働きかけてタンパク質になるという。だから草しか食っていないのに、あんなに肉が付くのである。まさに、なあるほど≠ニ納得した。だから、あれだけの体を維持するためには、朝から晩まで食べていなければならないのである。その事情は、馬にしても同じはずだ。それなのに、人間様ときたら、道草を食う≠ネんて言い回しを作ってしまう。何とも自分勝手な解釈ではないか。こんなことばかりしていたら、動物たちが怒るに違いない。
百面相と信頼感(06/05/17-1131)
 1億円もの大金をもらっていながら、記憶にない≠ニ言われたあの方は、対人関係スキルの面から見ても興味深かった。たしか、若くして大臣になられたと思う。頭脳明晰、相当の切れ者だったと推測する。豊富な知識と実力を兼ね備えた方だったのである。そして、当のご自身がそう思っているに違いなかった。もちろんテレビで見たことしかないけれど、そんな感じが見え見えだった。真面目な議論をするときは、どちらかというと強面な雰囲気を出す。目つきも厳しく、あなた方のようないい加減な気持ちで仕事をしてはいないのだ≠ニいった表情になる。つまらない質問などするな=Bそんな威圧的な感じを受けることもあった。それは、あらゆる問題に真面目に取り組んでいることを強調するためだったと思う。しかし、傍目には冷たさ≠感じさせることにもなる。また、○○さんねえ、あなたはよくご存じないようですが…≠ネどと、丁寧な口調になることもあった。こんなときは、にっこりと笑っているのだが、その顔は明らかに相手を見くびっている。少なくとも、私にはそう見えた。これだからど素人はお話しにならない=Bそんな感じが溢れていた。しかし、それも外国の要人などと会うときは一変する。破顔一笑というが、もうこれ以上はないほどのにこやかな表情になるのである。私なんぞ、もう少し抑えて冷静な笑顔でいいんじゃない≠ネんて思うことが多かった。いずれも私の勝手な印象である。そしてご本人は、それこそが状況に応じた態度の表し方だと信じておられたのだろう。しかし、あれだけ態度や表情に違いが見られると、受け止める側は、その真意が分からなくなる。その結果、人によって態度を変える人間だと誤解されることにもなる。
明日の記憶(06/05/16-1130)
 もう3ヶ月ほども前からになると思う。近くのシネコンに行くたびに「明日の記憶」の予告編が流されていた。若年性アルツハイマーの患者とその妻を主人公にした物語である。いまや国際スターになった渡辺謙と樋口可南子が夫婦を演ずる話題作だ。すでにこの欄で何回も書いているが、50歳を超えた夫婦は一人1,000円の入場料ということもあって、頻繁に通っている。この映画の予告編を見たときには、きっとこれも見に行くだろうな≠ニ思っていた。そして、いよいよ13日から公開となった。そこで、家内と娘の3人で出かけた。映画の内容を事細かにお話しすると、これからご覧になる方に悪いから、それはやめとこう。とにかく、人間の記憶が危うくなることの厳しさを感じさせる映画であった。われわれ団塊の世代も、そろそろ老境を迎えようとしている。それに伴って、体力がしっかり落ち始めてきた。しかし、問題は体力だけではない。頭の働き、とりわけ記憶力の低下も、日常的な行動に大きな影響を及ぼす。それが、生きる力や自身を失わせてしまうことだってある。本当に厳しいと思う。そんな現実もあるというのに、1億円ももらって、記憶がない≠ネんて言う人がいる。周囲の証言を突きつけられて、人がそう言うのなら、そんなこともあったのでしょう≠ネんて答える。疑われるような事実は絶対にない≠ニ完全否定しないところに、真実が透けて見える。いずれにしても、まともには信じられないとんでもない話である。記憶の状態が外から分からないことをいいことに、ごまかしてはいけない。この方は、つい先だっても外国の要人とお話しをされていた。しかし、1億円の記憶≠ェ危ういような方が、国の政策に関わるような大事な仕事をしてはいけない。
The End of 禁煙物語(06/05/15-1129)
 自分を信じない≠アとが行動の変容≠ノ繋がる。私の禁煙が持続していることについては、そのことが大いに貢献していると信じて≠「る。ちょっと聞くとマイナス思考≠フようだが、それ自身を楽しむというのはどうだろうか。私は今でも、ことタバコに関しては自分自身を信じていませーん=Bこんなことを公言すると、なぜか嬉しくなってくる。意志が強いのでも何でもない。ただ、自分を信じていないだけなんだ。そう思うと、つい笑ってしまいたくなる。そんな気持ちを持ち続けて、すでに24年以上が経過した。そして世の中も驚くほど変わった。今ではタバコを吸う人の方が圧倒的に少ない。半日以上も乗っていなければならない国際線でも、禁煙は常識である。そんな中で気がかりなことがある。それは、相対的に女性の喫煙者が多くなったように見えることだ。信号待ちで横に並んだ車の運転席を見ると、女性が肺一杯に煙を吸っている。これがまたじつにうまそうだ。その上、窓からポイと捨てるというおまけ付きである。性差別をなくすことは大事だが、喫煙人口などで男と並んでも仕方がない。女性の社会進出が常識になったからといって、ニコチンやアルコール依存症が増えるようではまずいに決まってる。しかも、健康を仕事にしていると言ってもいい看護師さんの中にもタバコを吸う人がおられるようだ。JTの方には申し訳ないけれど、やっぱしタバコは体に悪いぞな。ひょっとして自分は止められない≠ネんて思い込んではいませんか。そんなことはないんですよーっ。いやはや、ようやく結論に達しました。先月の4日からはじめたタバコ物語も、本日で終わりとさせていただきます。粘着質の私に長いことお付き合いいただき、ありがとうございました。
自分を信じない(06/05/14-1128)
 そりゃあできない≠ニいう思い込みが、本当にできないことに繋がる。これが禁煙成功から学んだ私の結論である。それではどうするのか。その答えは案外と単純だ。それは、できる≠ニ思い込むことである。もちろん、素手で空を飛ぶぞ≠ニか、寝てて億万長者になるぞ≠ネどと、はじめから無理なことを考えるのは論外だ。しかし、一般的には、きっとできる≠ニ信じてものごとに対処していくことが大切なのである。これって、結局は、プラス思考≠ナ行こうということだ。できない≠ニばかり考えるのはマイナス思考≠サのものである。ここでは、思考≠フ替わりに志向≠ニいうことばを当てはめることもできる。それは、単に考えるだけでなく、その方向に向かって前進するという意味合いが感じられる。そこがいい。私の禁煙が成功したもうひとつのポイントは、自分を信じない≠アとだと思う。世の中にはまことに器用な方がいらっしゃる。かつてタバコを吸っていたが禁煙した。しかし、宴会などでは、ちょっと1本いいかなあ≠ネんて言って、周りからタバコをもらう。それをうまそうに吸ってそれでおしまい。あとは、何もなかったように禁煙を続けるという方々である。こうした光景を見ると、私は驚愕してしまう。少なくとも、私はあんな器用な真似はできない。ちょっとでもタバコに手を出すと、またぞろ数十本を吸いまくりはじめるに違いないのである。そんな自信≠ェあるからこそ、私はこの24年間、どんなことがあってもタバコに手を出さずにきた。つまりは、自分を信じていないのである。自分を信じないなんて、まるでマイナス思考≠ナはある。しかし、自分の弱点を認識することも、人間の行動を変えるために役立つこともあるのだ。
理屈の克服(06/05/13-1127)
 とりあえず、24年間の禁煙に成功してみると、そのポイントが思い浮かぶ。その最も大きなものは、思い込みの克服≠ナある。タバコを吸っているころは、自分は禁煙することなんてできない≠ニ確信していた。だから、せめて本数を減らすくらいは努力せねば≠ニ思いながら吸い続けていく。ところが、この本数を減らすという方針は思ったほどうまくいかなかった。ともあれ、人の心はなかなかおもしろいものだ。禁煙ができない≠ニいうのは、本当に私の思い込みだったのだろうか。ひょっとしたら、本音では止めたくない≠ゥら、そう思い続けていたかったのではないか。禁煙する≠ニ口では言いながら、本当は止めたくない℃ゥ分がいる。しかし、自分としてはその本心を認めるのには抵抗がある。そこで、止めたくても、もう止められなくなってしまった≠ニ思い込む。もう仕方がない≠ニ心の中で自分を納得させるのである。それは一種の居直りだろうか。こうした解釈が正しいかどうか、自分自身でもわからない。しかし、事実としてはっきりしているのは、ちゃんと止められた≠アとである。人は自分の思い込みで自分の行動を拘束してしまう。そんなことが、けっこう多い。そのころは、タバコがないと手持ち無沙汰になる≠ネんて理由もつけていた。それも、タバコを止めないための言い訳に過ぎなかった。タバコを吸わなくても、話すときは手を動かせばいい。その方がコミュニケーションも豊かになる。ちゃんと間を持つこともできる。そもそも、その理屈だとタバコを吸わない者は、みんな手持ち無沙汰だということになる。そんなことがあるわけないのだ。こうして、できない≠ホかりを繰り返していると、本当に何でもできなくなる。
禁煙と宴会(06/05/12-1126)
 今となっては、禁煙に成功した当時の細かい気持ちは思い出せない。ただ、もうタバコに手は出さない≠ニ確信が持てるまでにはかなりの時間が必要だった。とにかく、無性にタバコが吸いたくなる時期が続いた。それは純粋に生理的な反応だけでなく、明らかに心理的な欲求だったと思う。私の仕事場から公立中学校が目の前に見える。ちょうど正面が職員室らしく、先生たちが出入りする。その際にタバコを吸っている姿が見えるほど、タバコが気になった。この記憶がどれだけ正しいか分からない。しかし、まだ学校の廊下でも先生方がタバコを吸う姿を見かけるような時代だったのである。その点、当時の仕事場にタバコを吸う人がいなかったことも幸いした。これが禁煙成功の要因の1つだと言えるだろう。なにせ、「教育工学センター」という施設ができたばかりで、スタッフは私以外には事務担当の女性しかいなかったのである。目の前でタバコをボンボン吸いまくる人間がいたら気持ちが揺れたことだろう。また、アルコールは禁煙にとって大敵だ。飲んでしまうと、つい抑制する力が取れてタバコに手を出してしまう。そのことを嫌というほど自覚していたから、2月まではまったく酒を飲まなかった。しかし自分たちが主催した公的な会議があり、どうしても懇親会を開かなければならなくなった。それが禁煙以来初めての宴会だった。日記を見ると2月13日のことである。このときはかなり緊張した。いまでも、熊本城が眼前に見える五峰閣で行われた宴会の雰囲気を思い出す。そこでは多くの参加者がタバコを吸っていた。そのなかで、1本も手を出さずにやり通すことができたのである。これが大きな自信に繋がった。その後、今日までずっと禁煙状態が続いている。
娘と禁煙(06/05/11-1125)
 息子の誕生とともに、家では換気扇<^バコになった。禁煙したわけではないから、タバコは相変わらず吸っていた。子どもを連れて散歩などしているときに、タバコを買うこともあった。その際は、息子が自動販売機にコインを入れたがったりした。そこで子どもを持ち上げて、お金を入れさせた。さらにボタンを押して、出てきたタバコを取る。おつりがあれば、そこにも手を突っ込む…。長男は、こうした一連の作業を嬉々としてやっていた。親もまたその光景を見て嬉しがったのである。そんなこともあってか、息子の記憶には私がチェリーを吸っていたイメージがかすかに残っているらしい。やがてわが家に娘が生まれた。そこで家内が再び言う。タバコは子どもにも悪いから止めたら=B何と言いましょうか、父親にとって娘の力は大きいですなあ…。もちろん、家内の一言だけで禁煙したのではないが、とにかく結果としてはタバコを止めたのである。より厳密に言えば、長女が誕生してから1年くらいは、やはり換気扇喫煙を続けていた。そのころの日記で確認したら、最後にタバコを吸ったのは1982年1月9日土曜日である。昭和57年のことだ。その日の16時30分にマイルド・セブンを吸ってから、今日まで禁煙を続けている。もう24年が経過しているのだから、これは本物だと言っていい。ともあれ、当時は1日に30本は吸っていた。それが、とうとう禁煙に成功したのである。今から考えても、よくやったと思う。そのとき、私はすでに30歳を過ぎていた。だから、禁煙したと聞いた途端にタバコを差し出す意地悪な友人はいなくなっていた。しかし、それにしても10年以上も付きまとわれていたニコチンとサヨナラできたのだ。これは私にとって間違いなく快挙であった。
禁煙成功への道(06/05/10-1124)
 一念発起しして止めたタバコなのに、意地悪な友だちが禁煙なんてつまらんこと考えるな≠ニタバコの箱を差し出す。そんな誘惑に負けるものか=Bたしかに頭ではそう思ったはずである。しかし、気がついてみると手には白いタバコがあり、それを一口だけ吸い込んでいる…。なにせ24時間も吸っていないから、一瞬だけ頭がクラリとする。はじめて吸ったときの咳き込みはない。これで禁煙物語は一巻の終わりとなる。あとは奈落の底へ真っ逆さまに落ちていくだけのこと。えーい、禁煙なんて知ったことかあ=Bそんなやけっぱちな心理まで加勢をするから、なおさらまずい。それまで1日20本ですんでいたのが、30本に増えたりして…。こうした挫折の繰り返しをどのくらいしたことだろう…。これが私の禁煙物語である。しかし、私をご存じの方で、私がタバコを吸っているところをご覧になった方はいらっしゃらないと思う。そうなんです。禁煙に何度も挑戦しながら失敗し続けた私だったが、とうとう25年ほど前に禁煙≠ノ成功したのだ。いまから28年前のことだ。わが家に長男が生まれた。その際に、家内からタバコは子どもにも悪いから止めたら≠ニ言われた。そこで、家に帰ってからは換気扇の近くに行って吸うことにした。そんなことするくらいなら、せめて自宅では禁煙したらどうかと思うのだが、やっぱり吸いたくなるのである。だから、家で抑えた分だけ、仕事場でのタバコは増えていたかもしれない。いかにも自己中心的なようだが、その当時、職場でタバコを吸うのはまだ常識だった。人数的に多数派でもあった。さらに、副流煙の害≠ニいった用語もほとんど聞かなかった。だから、赤ん坊の前でタバコを吸うのはまずいだろうくらいの気持だったのだ。
  Internet Explorer をお使いの方の中に、エラーのため吉田道雄のホームページ≠ェ読めない方がいらっしゃるとの情報がございました。ITに詳しい方にご相談しましたら、音楽を挿入しているのが原因だろうとのことで、残念ながらBGMを削除しました。音楽を入れたまま障害が起きない方法をご存じの方はいらっしゃいませんか。
禁煙24時間(06/05/09-1123)
 固く禁煙を誓ったつもりなのに、禁断症状が現れるとタバコをうまそうに吸っているイメージが浮かぶ。その鮮烈さに負けて気がついたらタバコ屋に走っている。とまあ、こんなことで禁煙が挫折してしまう。想像力やイメージ力は、よりよく生きるために必要なはずだ。しかし、こと禁煙に関しては、それがマイナスに働く。またしても、悪魔の両面性≠思い出させる。よりよく生きる≠スめに欠かせない能力≠ェ、状況によっては悪魔の力≠ノなる。それが、人を依存症に陥れたり、事故を起こさせたりするのである。しかし、そうした悪魔のささやきを克服して、朝の一服も必死で抑える。今度こそ、禁煙はうまくいきそうだ=Bそんな気持ちで私はやおら大学へ向かった。午前中の授業が終わって、昼食のために学生食堂へ出かける。そこで、ゆっくり食事をしていると、私を見つけた友人がやってきた。おーい、もうメシ食ったんかあ∞うん、いま食ってるところや∞どうや、このごろは。元気にしとるか…=Bよくある会話だ。この最後の問いかけに対して、私は余計なことを言いたくなる。おれ、タバコ止めたぜ=Bまだ1日しか経っていないというのに、禁煙したことを自慢したくなるのである。これが大間違いであることは言うまでもない。それを聞いた友だちの顔が急変する。コンパのときにタバコをくれや≠ニ言うと、心から嫌そうな態度を取った同じ友人である。その彼が、にやりと笑う。タバコを止めたって?そんなアホなことすんなよ。まあ、妙なこと考えずに1本どうかい=Bコンパのときとは違って、今度は切り口からタバコが3本くらい飛び出てくるではないか。ここで誘惑に負けては元も子もない≠ニ、心の中で大葛藤がはじまる。
想像力と誘惑(06/05/08-1122)
 ついにタバコを止めるぞーっ≠ニ決意したのである。そこで手元に残っているタバコは気前よく友だちにくれてやる。なあんてカッコいいこと言っているが、もともと3本くらいしか残っていなかったりして…。そうだライターだって必要ない。こちらもポーンとそこにいた者にやってしまう。といっても、100円ライターだけれど…。うん、灰皿なんかも処分してしまえ…。かくしてニコチンとの決別大作戦が開始される。後は淡々と時間が経過していくだけである。とまあ、その決意はしっかりしていたはずだった。しかし、依存症の悪魔はしぶとい。頭と体が一体に動かないのである。ほんの数時間が経っただけで、肺が乾いた感じがしてくる。これが禁断症状といのものなんだろう。無性にタバコがほしくなるの。ここでこうした誘惑に耐えなければまずい。必死になってタバコ屋に走りたくなる気持ちを抑えるのである。それでも安心はできない。つぎの難関が夕食後に待っている。アルコールとニコチンの相性がいいのは分かっているが、食後のタバコも、じつにうまいのである。飯を食った後に感じる肺の快感が甦る。目の前に至福のひとときを過ごしている自分のイメージが浮かぶ。これまた厳しい誘惑である。しかし、禁煙の決意は固かったはずだ。そう言い聞かせながら、これも何とか我慢して早めに床につく。寝れば忘れる。ところが、翌朝になると、また強烈にタバコが吸いたくなる。どんなにヘビースモーカーでも、寝ている間までタバコを吸う人間はいない。だから、それだけニコチンがキレているのだ。朝はいつも禁断状態ということになる。またしても、うまそうに一服している自分の姿が目に浮かぶ。想像力というかイメージする力は禁煙にとって大敵のようだ。
しけもく(06/05/07-1121)
 他人からタバコをもらうのは、心理的な抵抗も大きい。何となく惨め≠ネ気持ちになる。そのうえ、くれる方だって千差万別で、いやそうな態度が丸見えの者もいる。だから、箱の切り口を押さえているようにも見えるのである。ご主人のタバコを出したくないという気持ちがそのまま表れている。そんなわけで、それ以上はちょうだい≠ニ言えなくなる。そこで次の1本は、まだもらっていない連中にターゲットを変更する…。そのうち、そんな自分に嫌気がさしもする。それなら吸わなければいいのだが、まだそこまで悟ってはいない。今度は、灰皿に残った吸い殻から少しでも長いものを探すのである。それでも、すでに自分や他人が吸った後だから、数センチと短いものばかりだ。そんなタバコをしけもく≠ネどと呼んでいた。火をつけても、それがすぐに口元までやってくる。フィルターまで焦げて、指先だけでなく口元まであっちっち≠ニなる。何ともわびしい限りである。そんなこんな体験をしながら、タバコの本数だけは確実に増えていった。私がタバコを吸いはじめたころは、男性の70%が喫煙者だといわれていた。タバコを吸う者が多数派だったのである。しかし、タバコが肺ガンを誘発しやすいといった情報はだんだんと真実味を帯びはじめていた。それに、父がタバコを吸わなかったこともあって、心の片隅には、止められるものならやめた方がいい≠ニいう気持ちがいつもあった。そこで、ことあるごとに禁煙にトライした。しかし、これが1日ともたないのである。それでも懲りずに、今度こそは≠ニ気持ちを決める。そこで食事を摂って1服する。食後のタバコはとくにうまい。これが最後の1本だ≠ニ思いながら、勢いよく肺の奥まで煙を吸い込んでいく。
恵んでちょうだい…(06/05/06-1120)
 宴会で吸い過ぎて、自分のタバコがなくなってしまう。それなら、もう吸わなければいい。まあ、そううまくいくなら禁煙もいつだってできる。そこがそうはいかないから、人生はややこしい。しかもアルコールのせいで、普段よりも余計に吸いたくなる。欲求を抑える力が低下しているのである。そこで友人に、悪いけど1本ちょうだい≠ニ頼み込むことになる。このときの態度も、人によって違うからおもしろい。じつに卑屈そうに、すんませーん。私にタバコを恵んでくださーい≠ニ頭を下げる人がいる。これに合掌まで加えることもある。こうなると、相手は神様、仏様である。おい、ちょっと1本くれや≠ニ自分から相手のタバコに手を出す人間もいる。これなどは相手にNo≠ニ言わせない圧力を感じさせる。ほどんど強盗≠ノ近い。そこまではやり過ぎと思えば、あとで返すぜ≠ニ、一時的な借りであることを強調することもある。ただし、この手の人が借りた<^バコを返したという話は聞いたことがない。これに対して、自分のタバコに手を出された側の反応も興味深い。これまた人間ウォッチングの対象になる。ああ、いいよ≠ニにこやかに恵ん≠ナくれる人がいる。まさに神様、仏様である。なかには、どう、1本吸わないかい≠ニタバコの箱を差し出してくる御方もいらっしゃる。こんな人は、きっと天国に召されていくんだろう。もらう側はそんな気持ちになる。しかし、世の中はそんな人間ばかりではない。おまえ、自分の吸う分くらい買っとけよ=Bこの一言が喉まで出かかっているのが見え見えの者だっている。顔だけでなく、体全体が嫌がっている。そんな人は、箱の切り口を押さえているから、タバコだってすんなり出てこないのである。
タバコへの回帰(06/05/05-1119)
 先月初め、このコラムに相撲協会で開催された理事会のニュースについて書いた。そのとき会議室のテーブルにずらりと並んだ灰皿が目に入ったのである。それを見てタバコの話を書きはじめた。それからは、伯父たちのタバコの思い出や私の喫煙まで、とにかく話が飛びに飛んだ。そして、いつの間にやらスーダラ節≠セの依存症≠セのと、その内容は拡散していくばかりである。いつものことといえば、いつものことである。家内や息子たちからは、またしてもくどい≠ニ笑われるだろう。じつは、相撲協会のタバコを取り上げたときには、ある落とし所が思い浮かんだのである。そこで、そこに行き着くために書き始めたのだが、道草を食い過ぎて、いまだにそこまで届かないままでいる。私自身、ほかにも書きたいことがあるから、はやくけじめをつけたたいと思っているのだが、如何せんブレーキが効かない。まことに申し訳ございませんが、もう数回だけお付き合いいただきますように…。えっ、つまらん言い訳するから、今日の1回分も無駄になりそうではないか≠ナすって。いやー、重ね重ねすみません。そこで、さっそく(?)<^バコの話題に戻りましょう。スーダラ節≠ナはないが、私も体に悪い≠ニわかっちゃいたけど<^バコは止められなかった。とくにアルコールが入ったときの本数はすさまじかった。それを知っているから、宴席の前には、あらかじめ1箱を買い込んでおいた。ところが、そうした対応も大抵は水の泡になる。酒を飲み、肴を口にほおばりながら、なおかつタバコを吸い続けるのである。だから、せっかくの買い置きも、あっという間になくなってしまう。ところで、ほおばる≠ェ頬≠ェ張る≠アとだということをご存じでしたか。
反面教師(06/05/04-1118)
 もう40年以上も前に流行ったスーダラ節≠ゥら学べること。その第一は、人間にとって欠かせない能力が、方向次第では自滅をもたらす凶器になる≠アとである。まわりの刺激や、与えられた試練に慣れる≠アとで、さらに力強く生きていく体ができあがる。辛いことに耐える精神力も身に付く。しかし、その刺激が薬物の場合は、そのまま身の破滅である。また、われわれには小さな失敗を乗り越える力≠セって必要だ。それがあるから、人は努力を続け最終的な成功の喜びを体験することができる。人間、あきらめちゃあいけない≠フである。しかし、それがギャンブルに向かうと、これまた地獄に一直線なのである。小さな成功¢フ験だって、さらに頑張ろうという意欲に繋がればすばらしい。ところが、ギャンブルでの成功体験は、人によっては命取りになる。勝ったときの快感が忘れられない=Bその気持ちは分かる。しかし、それはこの上なく危うい快感でもある。そのうち、小さな成功≠ナは飽き足らなくなって、さらにでっかい成功≠求めはじめる。こうなると、もう人生の蟻地獄≠ノはまるのは時間の問題だ。すばらしい恋愛≠することも、人生を豊かにするために欠かせない。しかし、これが過ぎるとストーカー≠ノなってしまう。スーダラ節≠ェ教える第二のポイントは、何でもかんでも、過ぎてはいけない≠ニいうことだろう。過ぎたるは猶及ばざるが如し=Bどんなことだってやり過ぎ≠ヘまずいのである。わかっちゃいるけどやめられない≠ナ一世を風靡したスーダラ節≠ヘ、いい人生を送るための反面教師だったのだ。それにしても作詞者の青島幸男さん、このネタ元ってご自身の体験ですかい。じつに冴えてましたねえ。
だましたつもりが…(06/05/03-1117)
 そして、スーダラ節≠ヘ3番へ進む。酒とギャンブルから一転して男と女の関係≠ェ大テーマとなる。一目見た娘(こ)にたちまちホレて。よせばいいのにすぐ手を出して≠ニいうわけだ。まあ、この歌ではおっさん≠ェ身の程も知らずにバーの女性に貢ぎ込むという感じだったのだろうか。時代は1960年代のことである。ともあれ、ダマしたつもりがチョイとだまされた≠ニいう結末に至るのでございます。こんなこと、このごろだってありそうな話ではある。だましたつもり≠ェだまされる∴」れなオッさんの物語だ。つい最近も、公金を横領して何人もの女性をつなぎ止めていたという事件が発覚した。この手のニュースは絶えることがない。その中には、南米の女性が相手だったというインターナショナルなものまであった。過去には、女性が男性にそそのかされて公金に手を出す事件もけっこうあった。しかし、明るみに出ないものも多いのだろうか、あるいはニュースバリューの問題なのか、このごろは女性よりもアホなオッさんが捕まるニュースの方が多い気がする。かくしてスーダラ節≠ヘ、最後のまとめをする。俺がそんなにもてる訳ゃないよ。わかっちゃいるけどやめられねえ。アホレ スイスイスーララッタ、スラスラスイスイスイ。スイスイスーララッタ、スラスラスイスイスイ…=Bそうなんです。ゼニカネで女性を引きつけるなんてレベル低いよなあ。まさに、金の切れ目が縁の切れ目。カネがなくなりゃ、どろんと消える。何ともむなしい話ですバイ。それにしても、恋心だって人間にとって欠かせないんだけれど、これも一歩間違うとストーカー≠ノまで走ってしまうからかなわない。そこまでいくと、これまた依存症≠サのものじゃあないかい。
失敗にめげない力(06/05/02-1116)
 失敗にもめげずに挑戦し続ける=Bだからこそ、人類はここまで進化した。何でも諦めない≠アとは、成長の原動力であり、人にとって賞賛すべき%チ性である。それは、よりよく生きる≠スめに必要な能力でもある。しかし、ここでも落とし穴が待っている。われわれにとって欠かせないすばらしい特性≠サのものが、ちょっと間違うと自分を傷つける凶器に変貌するのである。どんなに失敗しても、あの成功体験が忘れられない。そこで、負け続け≠ネがら、おけら≠ノなるまで馬に賭け続ける。もうやめないとまずい=Bそれがわかっていても、自分がコントロールできないのである。酒を飲んだ場合は、アルコールの作用で大脳の抑制が効かなくなってしまう。だから、わかっちゃいるけど≠竄゚られなくなる。その点で、飲酒行動のメカニズムはわかりやすい。しかし、ギャンブルの場合は、薬物のような外からの刺激はない。ひたすら、自分の脳内で刺激を出し続けるのである。いずれにしても、生きるための力が仇になって依存症を引き起こすとすれば、その根は深い。しかも、ギャンブルとアルコールは相性がよさそうだ。黄昏の競馬場には、外れた馬券が紙吹雪となり、空のワンカップが転がっている…。私は競馬場に行ったことがない。だから単なる想像だが、そんな光景が広がっているような気がする。負けが込んできたとき、このままではまずいぞ≠ニ心のブレーキがかかる。そんな抑制力を振り払うためにアルコールを流し込む。それは、無意識的≠ネ反応のように見えるが、実際は意図的≠ネのではないか。少なくとも、ここで酒を飲めば、財布がスッカラカンになるまでやってしまう=Bそれがわかっていても、ついつい手が出るのである。
ドーパミンのいたずら(06/05/01-1115)
 競馬の最終レースまで行ってしまったおじさんの背中を見ながら、スーダラ節≠ヘ歌う。気がつきゃ、ボーナスァすっからかんのカラカラ=Bとにかく金がなくなるまで止まらないのである。ギャンブルも、人によっては手強い依存症を引き起こす。スーダラ節≠煬セっている。馬で金もうけした奴ぁないよ。分かっちゃいるけどやめられねえ=Bそうなんだよなあ。みんなが勝つようならギャンブルの胴元は大変だ。パチンコにしても、そんなことしてたら、お店はつぶれる。何のことはない、トータルで見れば勝つわきゃあない≠フである。たしかに、パチンコでもプロ≠ェいるらしい。彼らは本当に稼いでいる可能性はある。しかし、それはプロ≠セもの。それが仕事≠ネのである。どこのだれが、自分がイチロー≠ノなろう、いやいや城島≠ナもいいかなんて思うだろうか。とにもかくにも、素人は勝つわきゃあない≠フである。しかし、依存症は確率や論理の問題じゃあない。一度でも勝つ≠アとを体験すると、そのときの快感が身に付いて忘れられなくなる。大脳の中に神経伝達物質のドーパミンがあふれるのである。それでも、人間だから失敗が続けばいい加減いやになるのではないかと思う。しかし、そうはならないから恐ろしいのである。失敗によって、過去に体験した成功の快感に対する渇きがさらに強化されるようにさえ見える。そんな中で、仕事や対人関係などでストレスが高まると、なおさら快感がほしくなる。そして、気がつきゃあ、ギャンブル場にひた走りというわけである。失敗は成功のもと≠ニいう。成功の味を知ると、その後も少々の失敗なぞ気にもかけず、さらに努力して前進しようとする。それが人間のいいところなのだけれど…。