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味な話の素

                        No.31 200511月号(933-962

   


課題の力05/11/30-962
 まったく初対面の学生たちが、ずっと前から知り合いだったかのように振る舞う。それは若さの力だと感心した。しかし、同時に共通の目的を持って課題に取り組むことが重要であることも教えてくれた。何でもいいから、メンバーがこれだと思うことをしなさい≠ネどと言われても、こうはいかない。せいぜい簡単な自己紹介をしたら、その後は沈黙ということになるだろう。その自己紹介にしても、ある者は長々としゃべり、またある者は一言で終わり。こんな状況になることが大いに予想される。そうしたことにならなかったのは、共通の課題があったからである。しかも、個々のメンバーが欠かせない情報を持っていて、それがなければ問題が解決しない。そんな課題の性質が、一人ひとりの参加意識を高めたのである。そのことが、学生のレポートから見て取ることができる。家族や仲のいい友達となら話をするのに抵抗がないのに、はじめて会った人たちとはなかなかむずかしい。しかし、こうした協同作業ならうまくいくんだなーと思いました。それだけでなく、短時間に役割の分化まで起きたことに感動している者もいる。日ごろ話すことのない他の学科や学年の人とのコミュニケーションが新鮮でした。協同作業をするうちに仲間意識が生まれ、その中でリーダーとして指揮を執る者、フォローする者、場を盛り上げる者などと役割が生まれていくのに、とても驚いた=Bまた、私は1年生です。最初に自己紹介をしなかったので、年上の人とも話せた≠ニいう興味深い内容もあった。たしかに、自己紹介で他人の属性が分かると、それで話しにくくなったりする。余計な情報がなかったので、お互いに平等な関係で課題に取り組めたという意見には新鮮さを感じる。

若者の適応力05/11/29-961
 大学生を対象にグループワークをした。参加者は35名ほど。みんなで与えられた問題を解決するという課題に挑戦してもらった。全員が自分の情報を出し合わないと目標が達成できないような課題である。そうした条件があるためか、情報交換はスタートから賑やかに進んでいく。そして、いよいよグループが出した結果について発表する段階になった。どのグループも、発表者はユーモアを交えながらの発表をしていくので、全体に笑いが起きる。そんなわけで、発表そのものを大いに楽しんだ。そして、最後のグループになったとき、発表した学生が興味深い発言をした。私たちは、この課題をはじめる前まではお互いにまったく知りませんでした。ところが、これは自分が持っている情報をきちんと伝えないと先に進めないものでした。そこで、ついつい一生懸命になって、いろいろな意見をドンドン出して行くことになりました。いま考えると、自分たちはずっと前から知り合いだったような感じがしています…=Bこの発言を聞いて、私自身が感動した。たしかに、くじ引きのような方法でグループを構成したので、知らない者同士が集まったはずではあった。しかし、グループが課題に取り組んでいるのを見ていると、初対面だという雰囲気はまるで感じられなかった。そんなわけで、知らない同士でした≠ニ聞いて、ああ、そうだったな≠ニ改めて驚いたのである。いやあ、さすがに若者は適応力があるんだと感心した。それと同時に、こうした状況をもたらしたのは、課題の性質も大いに影響している。それは、各人が自分独自の情報を持っていて、その提供なしには課題が解決できなかったからである。自分がいなければ≠ニいう気持ちが、集団の活動を活性化していく。

自分の首を絞める05/11/28-960
 広島で命を奪われた女児のビデオが流された。卒園式なのだろうか、元気な姿がテレビに映る。これが何と他人が撮ったビデオなのだそうだ。そんなのありかよ。人権だのなんだのを標榜する放送局が、家族の了解もなく他人のビデオを流す。もう肖像権も何もあったものではない。ビデオを提供する人間の非常識もさることながら、それを取り上げる放送局の無神経さにも開いた口が塞がらない。事件の解決を祈って≠えて公開するといった感じの理屈≠ェ付いていたようだった。いつものように正義の味方≠ネのである。なんとも白々しい響きがしてならない。大阪だったか、つい先日の姉妹が殺された事件でも、まるで子どものころではないかと思われる写真が使われていた。現在のものが手に入らなかったのだろう。あるいは肉親が提供を拒んだのかもしれない。それはどうであれ、とにかく真実≠伝えるために写真が必要だという理屈なのだろう。しかし、そんな昔の写真≠ェ本当に真実≠ネのか。それを掲載することが、事件の本質を伝えるために欠かせないものなのか。はなはだ疑問だと言わざるを得ない。そんなことを繰り返しているから、実名報道にも疑問が呈されるのである。マスコミは警察が関係者を匿名にすることの問題を指摘する。自分たちの良識≠る判断に任せるべきだという。たしかに、ひとつの機関や組織が情報を独占することは大きな問題を含んでいる。しかしまた、報道する側にも、きちんとした判断力≠ェあることを実証する義務がある。他人のビデオを事件解決のため≠ネどと言って放映する放送局に、そうした力があるのかどうか、はなはだ疑わしい。自分の首を自分で締めていることをもっと認識してもらいたいものである。

 

教育者の常識05/11/27-959
 教師は聖職≠ゥ労働者≠ゥ。かつては大きな論争を呼んだものだ。いつのころからか、そんな議論はまるで聞かなくなった。まあ、聖職≠ゥどうかは別にして、教師には社会一般の常識は弁えてもらわねばならぬ。その意味で、セクハラや体罰などは言語道断ということになる。昔ほどではないにしても、先生、先生≠ニいわれる身である。それだけ一目置かれているという自覚を持ってことにあたらねば…。もっとも、先生と言われるほどの○□でなし≠ネんて手厳しい言い回しもあるから、調子に乗るといけない。さて、JRの特急指定席に乗ったある人の話である。京都から自分のチケットに印字されている席に行った。すると、はじめから乗っていた3人が席を向かい合わせにして談笑していた。知り合いがその席に行ってもビクとも動こうとしない。彼は仕方なく、3人の中に座って、彼らの話を聞かされることになった。それが目的地の金沢まで続いたというのである。何という非常識。人の気持ちを配慮しない無神経さ、感受性の低さ。知り合いには、話の内容から、3人連れが教師であることがすぐに分かったという。一人は明らかに校長だった。このごろの子どもは躾がなっていない≠ネんて話をしていたらしい。人様の子どもについて言う前に、自分たち自身の躾を考えてほしいもんだよ=Bいやー、ごもっともな話です。教師は天狗になりやすいから気をつけなければ≠ニいう話題も聞こえてきたという。天狗じゃなくて、常識人になってほしいよ≠ニ嘆いてもいた。わかります。これだから教師は世間知らず≠ネんて言われてしまうのである。そう言う私も教師の端くれでございますたい。ちゃんと常識人としてやれてるかどうか、気になるところです。

 

さよなら05/11/26-958
 昨日の朝6時10分に義母が亡くなった。今年の春に体の不調を訴えた。福岡県の行橋市に住んでいたが、もしものこともあるので熊本の病院で診ていただいた。その結果、先行き厳しくなるような状態だった。その対処法としては手術の可能性もあったが、本人はそれを嫌がった。すでに80歳を超えていることもあり、体力も心配になった。そんなわけで、そのまま地元の病院に行きながら過ごすことにした。今年のとりわけ暑い夏には、孫たちと揃って墓参りもした。春先には孫息子が結婚したので、夫婦で帰ってきたのである。こうした、とてもいい時間を過ごしていった。それからさらに時間が経過して、秋がやってきた。この10月には私の母の33回忌ということで、それには必ず出席すると言っていた。なにせ、いまから50年前に、行橋の地で知り合った関係である。いつもいつも、私の母の早過ぎる死を悔やんでいた。しかし、10月になってから体調がかなり悪くなった。そして、とうとう母の法要には出ることができなかった。そのことを、また心から残念がっていた。その母親の子である私自身も50年来のお付き合いだったことになる。その当時は前のお家の「おばちゃん」だった。そして、私の方は「道雄ちゃん」と呼ばれていた。家内と結婚してからは、「道雄さん」に昇格したが、最後まで私が健康であることを祈ってくれていた。ずっと前からいざというときは熊本の病院にお世話になると決めていた。娘が最後の日々を身近で過ごすことの大切さは、父が亡くなるときの妹を見ていて感じていた。そして、その通りになった。家内は入院してからずっと病院に通い続けることができた。それが何よりのプレゼントだったと思う。行橋の「おばちゃん」さよなら。

 

Group Dynamics05/11/25-957
 お気づきの方もおられると思うが、今年の5月から、ホームページに講義あ・ら・かると≠新設した。まだほとんど空っぽだが、その中に講義部品(授業の素)≠ネるものを入れた。これは、授業や講演で使っているパワーポイントのコマと、その際の標準的なセリフをまとめたものである。併せて、コマに託している目標やそれにまつわる話題なども取り上げている。みなさまにご参考になる部分があれば、ありがたい。このだいだい色≠フタイトルで始まるシリーズは、ホームページの「授業の素」に組み込んでいくことにしたい。本コラムでは、すでに入れている3件についても、折を見てご紹介しておきたい。
標準的セリフ
 みなさん、「集団力学」あるいは、「Group Dynamics」ということばを聞いたことがありますか。これは、文字通り「集団との関わりを通して人間を理解する」研究分野なのです。とくに、集団の中で見られる人間の行動に目を向け、その法則を探っていくことが大きな仕事です。そして、発見された法則を、生活場面の実践を通して役立てることを重視します。
コマの目標
 とにかく、「グループダイナミックス」「集団力学」は知られていない。そこで、まずは、「グループ・ダイナミックス」について、その名前を含めて、おおよそのイメージを持ってもらう。「法則」を、「行動パターン」、行動に影響を与える「集団の文化や規範」と言い換えることもある。

 

ちりめんじゃこと鯛05/11/24-956
 「エビでタイを釣る」という。小さなエビを餌にして大きな鯛を釣り上げるという意味である。投資は最小にして効果を最大にする。商売などでは当然のことだろう。しかし、それもやりすぎるとまずい。一方が、あまりにも大きな利益を得るような関係は長続きしない。お互いに信頼関係を築きながら、納得できるところで譲り合うことが大切なのだ。しかし、そうではあるけれど、ときとして「運良く」いい目に合うこともある。それはそれで喜んでおけばいい。先日のこと、家内の肩をちょっと揉んだ。とくに頼まれたわけではなかったが、何となく肩に手が行ったのである。しかし、私の肩揉みはあっという間に終わるのが特徴だ。時間にして1分も経たないうちに、「ハイ終了」となる。それだけなら、「もうちょっとくらい続けてよ」と言われるという話でおしまいになるはずだ。ところが、この後に私が声を発するのである。「さあ、今度は私の肩を揉んでくれ」。これで家内はあっけにとられるのである。「えーっ。あれで揉んだって言えるのーっ。そして、今度は自分の番だなんて信じられなーいっ」。そこですかさず、「これじゃあ、まるでちりめんじゃこで鯛を釣るようなものじゃないの」。うーん、まさに明言と言うべきである。しかし、そんな文句を言いながら、結局は肩を十二分に揉んでもらった。めでたし、めでたし。しかし、この積み重ねによって利子が利子を生み、後になって取り返しが付かなくなったりして…。いえいえ、家に限ってそんなことはございません。それにしても、子どもが小さいときにもらった「肩たたき券」を大事に持ち続けてきた。発券主である娘に券を見せたら、「もう有効期限切れよ」ですって。もらったときに使っとくんだったなあ。

 

ほとんどがホント05/11/23-955
 私の話は、ホントは2割で、ウソが8割なのよ…=B講義や講演で、ちょっとしたウソ≠言う。そのすぐ後で、いまのはウソでーす≠ニ追いかける。私としては、これでちゃんと説明≠オたと思うのである。うそ≠ニ言いながら、話の流れの中でアクセントをつけたつもりなのだ。ところが、これが思わぬ波紋を呼ぶことがある。ある研修後のレポートを読んでいたら、大いに注目すべきものがあった。先生のお話の内容は、事実は2割で、嘘が8割だと言うことでした。それを聞いた後は、どれが本当でどれが嘘かが分からず困ってしまいました…=Bいやー、参った、参った。ちゃんとフォローしたつもりだったが、それが十分に伝わらなかったのである。ともあれ、これには申し訳ございませんでした≠ニお詫びするしかない…。さてさて、そうこうしているうちに、またまた同じような反応に出会ってしまった。ほんの最近のことである。今度は授業後に書いてもらった学生のレポートを読んでいた。その冒頭の文面を見が目を引いたのである。先生の話は8割がうそらしいので、本物の2割を聞き分けるのに苦労しました=Bこんな始まりなのだ。うわー、学生もマジに受け止める者がいるんだあ。こりゃあ、やっぱしまずいかなあー=B私自身、明確な記憶はないが、瞬間的にそう思ったのではないかと想像する。ところがである。その後に続く文章はこうである。と言うのは冗談ですが…=Bうむ、お主、やったな。何のことはない、彼の方が私をおちょくっているのである。その後の内容が面白かったことは言うまでもない。こんなレポートを読むと、さらにウソ9割≠ノアップしようかという気持ちになってしまう。おっと、それはウソ≠ナすよーっ。

 

ウソ8割、ホント205/11/22-954
 どうも根っからの軽佻浮薄だ。これって面白いかな≠ニ思ったら、後先を考えずに口に出してしまう。もちろん、人を傷つけたり、貶めたりするようなことは言っていないつもりでいる。しかし、それは私の勝手な推測であり、まずい発言をしているかもしれない。われわれは、自分で気づかないうちに、いろいろ発言し行動しているのである。その際に生じる問題を解決するためには、他者からのフィードバックが欠かせない。そして、それを受け止める力も必要だ。何でも気づいたことは言いなさい=Bそんな度量の大きそうなことを言いながら、部下が問題点を指摘すると顔を変える。こんな管理者もけっこういるのではないか。それでは誰だってものを言わなくなってしまう…。ともあれ、私としては発言に気をつけながらも、楽しく授業をしたい。講演で話すときも同じだ。まあ、本音を言えば、自分が一番楽しもうと思っている。そんなわけで、けっこう冗談も言う。学生のような若者から見れば、それこそオヤジギャル≠ナしらけるものもあるに違いない。しかし、当方としては、そんなことなどは気づかずに、一人で勝手に受けているわけである。そして、ときどきはうそ≠言う。もちろん、話の流れの中で、少しばかりアクセントをつけようと思ってのことである。もちろん、それがうそ≠ナあることは、すぐに告白≠オている。先月連載した、リーダーシップの適正を測定する物差しがある。これを受ければ、リーダーとして一生うまくやっていけるかどうかが分かる≠ネんて話は、その代表例である。そして、その手の話が一区切りついたところで、こんなことを言うのである。いやー、私の話は2割は本当のことだけど、あとの8割はうそなんですよね=B

 

もう一組の親子05/11/21-953
 昨日は、横断歩道で危ない渡り方をしている親子について書いた。その体験をしたのが休みの日の夕方である。私の記憶では5時を少しばかり回ったころだ。それから用件をすませて家に帰ってくる道すがらのことである。ふたたびあの交差点にやってきた。今度は家に向かうから逆の方向である。時間は6時を過ぎて、もう真っ暗になっていた。信号が青になって、ゆっくり歩いていった。ほとんど渡り終えようとしたときだ。前方から男の子の手を引いた母親が、間に合った、間に合った≠ニいって走ってきた。青になった時間のタイミングを考えると、間違いなく間に合うだろうと思った。私としては何気なくという感じで、いま渡ってきた横断歩道に目をやった。その途端に、歩行者用の信号が点滅をしはじめたのである。まあ、それでも点滅だから走れば十分に行ける状況である。ところが、その母親はあっ、信号が変わっちゃうー≠ニ言いながら、渡るのを止めたのだ。うーん、まことにご立派な態度だ。おそらく自分一人であれば走ったに違いない。しかし、子どもがいることを考えて、しっかり気持ちを抑えたのだと思う。それが教育というものである。こうした日ごろの積み重ねが子どもの心を育てていくのだ。子どものいる前で、たばこはポイ捨て、ビンやカンを放り投げる。横断歩道で人が待っていようと止まらない。黄色の信号なんて気にするな=A赤信号もさっさと走り抜けろ=Bこんなサインだとしか思っていない…。こうした行動を子どもに見せていれば、社会のルールなど身に付くはずもない。その昔は、うるさいおじさんがいて、子どもだけでなく大人に対しても大声を張り上げていたものだ。このごろは、そんなことをすると逆ギレする人間が増えてきた。

 

親子二組05/11/20-952
 
わが家の近くにある交差点で信号を待っていた。家内とふたりである。視覚的に表現するのがむずかしいのだが、後ろの方から人が走ってくる気配がした。バタバタという感じだ。その音に振り返って見ると、母親とふたりの子どもだった。ひとりは小さくて抱っこしている。もうひとりは3歳くらいの女の子だ。私たちが待っている信号はまだ赤である。この親子は青信号の横断歩道を渡ろうとしている。その意味では、別に問題はないのである。しかし、ちょっと見た私の目には、女の子が横断歩道に飛び出すような形で走り込んでいった。私は思わず危ないっ≠ニ大声をあげてしまった。その親子に私の叫びが聞こえたかどうか分からない。そのまま走っていった3人はバス停で止まった。おそらく発車時刻ギリギリのバスに乗るために大あわてで走ったのだろう。その気持ちは分かる。しかし、あのとき左折の車が入ってきたらどうするんだ。かなりカーブのきつい交差点で、車は横断歩道をまともに歩いている者しか見えない構造になっているのだ。そんなところに飛び込むように入っていけば、最悪の場合も起こりうる。もっとしっかりしてよ、お母さん。私たちと同じ信号待ちをしている中学生の女の子がいた。私は家内の顔を見て、大きな声で言った。親が気をつけてあげないと、あのくらいの子どもでは危険なことが分からない。こんなときに限って事故が起きたりするんだ。事故が起きてから嘆き悲しんでも手遅れじゃあないか=B私の気持ちを伝えたつもりだったが、それは家内にというよりも、横にいた中学生にも聞いて欲しいと思った。とにかく子どもを大切にし育てましょうよ。今日はもう一組の親子についても書くつもりでいたが、もういっぱいになってしまった。

 

これまた理解不能05/11/19-951
 それにしても、理解不能な事象は止まるところを知らない。教師の不祥事もその代表である。仕事が仕事だけに、何かを起こすと大きな事件≠ノなる。今年の夏にも、男性の校長が起こしたトラブルがニュースになっていた(毎日新聞8/18 Yahoo News)。この校長先生、林間学校で5年生の男の子に暴言を吐かれたと勘違いしてしまった。人が言ったことを聞き違うことはよくあるものだ。だから、それを聞きただすことはあってもおかしくはない。ところが、なんと彼は子どもの足首をつかんで逆さづりにしたという。これには唖然としてしまった。いやはや、まさに理解不能な行動である。それもにしても、小学校の校長先生が自分の立場を弁えているのかと疑ってしまう。何と言っても、人を育てることを最大の目的にしている学校のリーダーである。これでは、まるでキレやすい℃qどもと同じではないか。何が起きたのかと読んでみると、じつに単純なのである。林間学校の集会で態度が悪かった子どもがいて、それを注意していたらしい。つい、その子の体を押してしまう。それでよろけたのか、その子の頭が別の児童に当たった。痛かったのか、当てられた子が泣き出した。その際に、校長のアホが泣かしよった≠ニいう声が聞こえたらしい。そこで、その暴言を吐いたと思った子どもの足を引っ掛けて押し倒した。さらに、顔を押さえ、足首をつかんで逆さづりにしたというのである。瞬間的にカッ≠ニなったのだろう。しかし、それにしても、やっていいこととまずいことがありますよね。とにもかくにも、大人がしっかりしないと子どもは育たない。それに、学校における最高責任者なんだから、部下である一般の教師たちに対しても示しがつかない。やれやれ…。

 

やっぱり理解不能05/11/18-950
 コーチの児童に対するセクハラ問題から、子どもの教育に関する話題へと広がってきた。しっかり子どもを育てるには、個々の親だけでなく、社会全体が連携しなければまずい。いつもこのあたりに行き着くのだが、そうしたつながりを作ること自身が困難な時代でもある。まずは大人がしっかりすることだ。しかし、そう考えた途端に、またぞろ大人の理解不能な行動が目についてしまう。新聞によると、パチンコ屋さんに託児所を設置するところが出てきはじめたらしい。子どもを車に置き去りにして、パチンコに熱中し、それこそ熱中症で死なせてしまう。そんな事件≠ェ起きる。そうした不幸な事例の発生を防ぐための対策なのだろう。まあ、賛否両論があるとは思うが、私なんぞは、そこまでしてパチンコをすることが理解不能だ。もちろん、パチンコそのものを否定するつもりはない。しかし、人間は我慢すべき時期もある。子どもがもう少し大きくなるまで待ってはどうかと言いたくなる。たしかに、子育てはストレスがたまると思う。昔のように、おばあちゃんやおじいちゃんに預けて一息つくこともできない時代環境である。朝から晩まで子どもと一緒だとイライラしてどうしようもなくなってくる。そんな悩みもあるという。うーん、それは分からないでもない。しかし、それにしても、もっと他の解消法がないものか。パチンコの場合は、勝てばスッキリするだろうが、負ければ気持ちもクシャクシャになるに違いない。その感情が子どもに向かうなんてことはないんだろうか。そんな余計な心配もしたくもなる…。ところで、NHK紅白の司会者が決まったようですね。インターネットにその名のがチラリと見えた瞬間に目を疑った。私にとっては、これまた理解不能=c。

 

子どもと集団05/11/17-949
 子どもが思春期になると、母親に対して罵詈雑言を浴びせるといったことも起きる。これで親は参ってしまう。しかし、その同じ子が、繁華街を歩いていて、怖そうなおじさんに、同じような悪態をつくかというと、そんなことはない。子どもだって相手を選んでいるのである。その点では、それなりに社会性は持っているのだ。また、非行に走る子どもたちにも、仲間内では経験者と初心者の序列があるに違いない。社会的に問題を起こす集団だって、その中にはある種の礼儀≠ェある。ただ、その方向性が社会から見て困ると言うことである。そうした集団の方が、よほど統制が取れているようにすら見える。リーダーシップが確立され、メンバーのまとまりも強い。だから、組織の目標を実現するための意欲も満々である。まさに、効果的に目標を達成するためのノウハウが凝縮されている。ここまで持ち上げると問題だけれど、その点ではまことに皮肉な話ではある。まあ、そんなことだから、個々の親が努力するだけではどうにもならないこともある。そんなときは、それなりに言うことを聞く人間を探して、その人に力を貸してもらうことだ。そえによって、危機を乗り越える可能が生まれる。また、問題行動をする子ども一人ひとりに個別に対応しても、なかなか問題は解決しない。行動は変わらないのだ。その子にとって、自分の存在を認めてくれる集団があれば、そこは居心地がいいに決まっている。そうした集団全体の価値観や行動規範を変えない限り、個人の行動変容もむずかしい。暴走族などに対して、組織そのものを解散する道を探すという警察の方針は正解なのだ。組織そのものの発想を変えるのである。それにしても、私のように評論≠キるだけなら簡単だけれど…。

 

2つの顔の子ども05/11/16-948
 自分の子どもの教育は自分たちでする。それが親として当然の義務である。しかし、それがうまくいけば問題はない。ところが、子どもが思春期に達すると、そう簡単にはいかなくなってくる。子どもたちに自立心が生まれ、親の言うことに反抗しはじめるのである。親だけでなく、それまで自分を拘束してきた社会の約束事などにも反旗を翻す。こうなると、親だけの手に負えなくなってくる。成長に伴って、考える力もつけてくるから、しっかりした理屈を言う。また、体も大きくなって、文字通り親の力で抑えることができなくなる。こうした状況がつづくと、親の側にあきらめが支配しはじめる。それがさらに、事態を悪くすることになる。まさに悪循環である。そんなときは、大人たちが連携する必要がある。自分の子どもに影響を与えることができない。人からそう思われるといやだな=B親としてはそんな気持ちにもなる。しかし、その強度に個人差はあるとしても、親子の間にはそうした時期があるのだ。だから、子どもが言うことを聞かないのは自然現象だと考えて、他からの力も借りることが必要だと思う。家の中ではおはよう≠フ一言すら発しない子どもが、外ではこんにちは≠ネどと言っている。そんな例は珍しくない。お宅のお子さんは礼儀正しいですねえ。よほどしっかりお育てになったんでしょう=Bこんなことをご近所の人から言われる。どう考えても、この人、うちの子とよその子を間違ってるんだ≠ネどと思ってしまう。そんな話を聞いた後で、遠くから子どもを見る機会が訪れる。そのときである。自転車に乗ったまま、ご近所のおばさんにペコンと頭を下げて挨拶している若者がいる。それは間違いなくわが子なのである。外向きの顔をした…。

 

子どもたちの問題行動05/11/15-947
 昨日までの2日間は、女児を裸にして走らせたというコーチの行動が理解できないと書いた。しかし、世の中には分からないことがじつに多い。いや、多すぎる…。そのひとつひとつの原因を追及していくことは大事である。しかし、そんなことしていたら、現実に追いつけない。そのくらい危機的な状況になっている。そうした中で、子どもの問題行動や非行が社会不安を引き起こす。いつのころからか、援助交際≠ネどという、信じられない現象が生まれた。略称で援交≠ニいうらしい。こうした話を聞くと、このごろの高校生は≠ニ嘆きたくなる。若いもんは何を考えているんだ≠ニいうわけである。しかし、彼女らだけを責めても仕方がない。商売は売り手と買い手があって成立する。援交≠セって、一方に金を払うおっさん≠ェいるのである。おそらく、小遣いにも多少の余裕がある50代なんてのが最も危ないのではないかい。まさに、われらの世代である。えっ、あんたの世代だって!それならひょっとして…=Bちょっと待ってちょうだい。早合点はしないでくださいな。私はやってませんよ! こうなると、理解不能と言うよりも大人がしっかりしていないだけのこと。それを理解不能≠セとか、どうしようもない≠ネどと言って解決を放棄すること自身が問題なのである。何はともあれ、まずは親たちがしっかりする必要がある。社会や環境が悪いからと責任を転嫁しても問題は解決しない。学校だって、やれることには限度がある。援交なんか、やりたい連中は勝手にやれ≠ネんて考えている教師などいるわけがない。もちろん、親にも限界がある。とにかく言うことを聞かないのだから…。そんなとき、自分たちだけで悩んでいても、問題は解決しない。

 

理解不能05/11/14-946
 態度が悪い≠アとを理由に、女児を裸にする。そんなの教育≠ネんてものじゃない。今回の四国の事例は、教員ではなく市の職員が問題を起こした。もちろん、この際は職種の違いなどは意味がない。とにかく、やってはいけないことをやった。ただそれだけの話である。周りから追及されて、子どもが真面目にしなかったからなんて理屈でごまかしてはいけない。それが、何で裸≠ノなるんだ。それならそれで、効果的な教育の方法を考えなければならないのである。本人には、自分が何をしているのか自覚がなかったのだろうか。こんなとき、どうしてあんなことをしたのか分からない≠ニいった供述をする例をよく聞く。しかし、それもにわかには信じがたい。今回の場合も、本人は40代も後半である。自分がやっていることがまずいことくらい分からないはずがない。それに、相手は子どもたちである。ややこしいことをすれば、彼らから情報が流れていくことさえも想像できなかったというのだろうか。しかも、このごろは、体罰≠竍セクハラ≠ェ頻繁に問題にされている。そんな社会状況の中で、自分がやろうとしていることが問題になることは気づいてしかるべきである。これほどに条件が揃っていても、なおかつ問題行動を起こしてしまう。とにかく理解不能としか言いようがない。一体全体、どうなっているんだ。だれもが、そんな思いになってしまうだろう。もしも変なことがあったら、すぐにお家の人に言いなさいね=B親たちは、子どもたちにこんなことまで伝えておかなければならないのだろうか。これでは、世の中の大人たちを信じてはいけない≠ニ教育しているようなものだ。そんな時代になってしまったなんて、もうお先は真っ暗ではないか。

 

指導者の罰05/11/13-945
 子どもを対象にした不祥事が頻繁に起きる。今度は、四国のスポーツ少年団でコーチの体罰が明らかになった。数人の女子児童に対して体育館内を裸で走らせたという。「態度が悪い」などといって腹を立てたのだそうな。自分の気持ちが通じないことにいらだちを覚えることはあるだろう。大きな声を出したくなることがあるかもしれない。しかし、それが、どうして裸≠ノ繋がるのか。そこには何の必然性もない。単に、自分の欲求不満を解消してるだけのことではないか。とにかく、やっていいことといけないことの区別が付かない。このごろは、そんなニュースが多い。子どもに罰を与える際に、本人が反省し、奮起するため≠ニいった理由が挙げられる。しかし、それは甚だしい勘違いだと悟るべきだ。そもそも、人間に恥をかかせるような罰を与えても、その効果は期待すべくもない。それでは、本人たちが卑屈になるだけである。そして、罰を与えた者に対して反感を抱いたり、自分自身の心を傷をつけてしまう。しかも、直接的に反抗や抵抗ができない場合は、そのストレスが、他の弱い者に向かったりする。こころに余裕があれば、あえて弱い者をいじめる気持ちになるはずもない。人前で恥をかかせるなんて、百害あって一利なしである。もしも、効果的な罰があるとすれば、それは自分がしっかりできなかったことを悔やむ°C持ちにさせるものだろう。心理学には、外発的動機づけ∞内発的動機づけ≠ニ呼ばれるものがある。前者の方が持続的で好ましい結果を生むというのが一般論だ。それに倣えば、恥をかかせるのは外発的≠ネ罰で、自分に悔しさを感じるのは内発的≠ネ罰ということになる。そう考えると、罰の場合も、内発的≠ネ方が効果的ではないか。

 

公正であること05/11/12-944
 どんなことでも、「公正さ」は大切である。去る9月28日に根室沖の漁船が転覆した事故では、イスラエルのコンテナ船の関与が疑われた。事故が発生した場所が公海上だった。この場合は、警察の捜査から裁判に至るまで、船が所属する国の管轄になるのだという。それが国際的な約束というわけだ。根室沖だから、北海道とは目と鼻の先なのだ。それでも約束は約束である。しかし、疑惑の船は香港に行ってしまった。船にあった傷跡などから、この船が衝突したことはほぼ断定された。ただ、すでに外国に行ってしまっているし、捜査権はイスラエルにあるということだから、一抹の不安を覚えた人も多かったのではないだろうか。とくに、相手によっては、政府ぐるみで卑劣なでっち上げをしている。われわれは断じて関与などしていない=Bこんな反応をしそうな国だってありますよね。それが、間をおかずに運輸会社の責任者が日本にやってきて謝罪をした。事故への関与を認めたのである。補償金も払うという。亡くなられた方は戻ってこないが、とにかく責任の所在が明らかになったことで、少しばかり気持ちが落ち着いた。そして、その後にイスラエル警察が過失致死容疑で船長ら3人を逮捕したという。警報が作動したにも拘わらず、必要な措置をとらなかった容疑である。もちろん、捜査の結果がどうなるかは分からない。しかし、とにかく一連の手続きがきちんと取られていることは間違いない。はじめから、知らぬ、存ぜぬ、でっち上げだ≠ネどと言われては、お互いの信頼関係は崩れてしまう。何よりも、公正さを優先する。じつに大切なことである。イスラエルと日本では文化も価値観も大いに違っている。これからどうなるか、その推移を見守りたいと思う。

 

バレンタインさんへ復帰05/11/11-943
 
先月の30日に、ロッテのバレンタイン監督を話題にして本欄を書いた。それから、広岡達郎氏の管理主義≠ヨ焦点が移っていった。そのうち、いつの間にか管理主義と子育て≠ノまで広がってきた。まあ、味な話の素≠ナある。あっちに飛んだり、こっちに舞い戻ったりは、いつものことだ。とにもかくにも、管理主義≠ノよるトップ・ダウンの監督方式は、短期的には成果を上げる。しかし、少し時間が経過すると、ほころびがでてくる。そんなことを言いたかったのである。リーダーは、プレッシャーだけでは人のこころをつまむことはできない。それどころか、ある程度成長したメンバーからは、反発すら引き起こす。いつまで子ども扱いにするんだ≠ニいうわけだ。だから、広岡氏は弱小球団に優勝をもたらすのだけれど、長続きしない。そんなことを考えた。これに対して、マスコミで見る限りのバレンタイン監督のやり方は、かなり違っているようである。そうだからこそ、10年前に広岡氏とうまくいかず首になったのである。バレンタイン氏は、人は失敗をするという前提で選手たちに対応するらしい。短兵急には、その責任を追及しないのである。まともな人間なら、失敗したときは自分で責任を感じるものだ。ああ、まずかった≠ニ落ち込んでいるときに、追い打ちをかけるように責められてはやるせない。そんなこと、言われなくても分かってる=Bそう反発したくなる。ある程度成熟している者であれば、ちゃんと反省するのだ。バレンタイン氏のこうした対応の積み重ねが、選手たちの意欲を高めていったのではないか…。リーダーシップの話だから、まだまだ続けたいとも思うが、野球の監督物語としては、やや長くなりすぎた。明日からは、話題を変えよう。

 

管理主義と子どもたち05/11/10-942
 
子どもが成長して行くにつれ、親はその自立性を認めていく。それからさらに時間が経過するとどうなるか。老いては子に従え≠ナある。生まれたときとは、攻守が逆転するのだ。そのこと自身を、自分の権威が失墜したと嘆くことはない。それは、親に対してちゃんとした働きかけができるように自分の子どもを立派に育てたという証なのである。いつまでたっても指示や命令が必要で、小言や文句を言い続けなければならない。そんなことでは、まずいのである。もっとも、このごろは必要な時期にしっかりトップダウンが行われていないような感じもする。息を呑むような短いスカートをはいた高校生がいる。同僚の女性でさえも、すっごーい≠ニ絶叫するほどのものもある。こんな光景を見ると、親はどう対応しているんだろうと考え込んでしまう。とくに、父親である。そんな格好なんかするな≠ネどと言ってはいるのだろうか。母親はどう対応しているのだろう。こうした状況を授業で話題に取り上げてみた。ある女子学生はおそらく言っても聞かないとあきらめているのではないでしょうか=Bそんな回答が返ってきた。たしかに、親も悩める時代である。子を思う気持ちはあっても、それが通じない。ついついあきらめてしまう。その一方で、児童虐待である。これは管理主義≠ニは似て非なるものだ。管理主義≠ノは、少なくとも主義・主張≠ェある。しかし、児童虐待はそうした根拠なしに子どもに暴力をふるう。問題化したあとは、親自身がそれなりの理由をあげている。しかし、本当は、自分がどうして子どもに暴力を振るうのか、それさえも分かっていないのではないか。理由が分からない行動ほど怖いものはない。管理主義≠フ話から逸れてしまった。

 

管理主義とメンバーの成長05/11/09-941
 
管理主義≠モットーとするリーダーは、自分の信念を変えることがない。こう断定すると、文句を言われるかもしれない。そんなことはない。管理主義のリーダーが、ただ指示や命令を与えるだけだと決めつけるのは問題だ。状況に応じて、ボトムアップを大事にすることだってありうるのだ=Bこんな反論である。しかし、ことばの遊びになってしまうけれど、そんな柔軟性≠持ったリーダーであれば、その人のことを管理主義的≠ニは言わない。その意味で、管理主義%Iなリーダーは、あくまで管理≠キることを選択し続ける人のことなのである。ともあれ、すでに見たように、まだ十分に成長していない集団に対しては、管理主義≠熨蛯「に成果をもたらす。ここで大事なことは、メンバーの成長に応じて、リーダー自身も対応を変えていくことである。親子関係を考えても同じようなことが言える。生まれたばかりの赤ん坊は、この上なく無力である。あれもこれも、生きるためにあらゆる援助をしなければならない。少しばかり大きくなれば、それに応じていろいろなことを教えていく必要がでてくる。○○しなさい=A□□してはいけない=B小さなころは、こうした指示・命令が多い。しかし、親たちは子どもの成長に伴って、その対応を変えていく。いつまでも、ああしろ、こうしろ≠ナは子どもは育たない。社会で生きていくこともできない。いわゆる自立を目指して、自分で考え行動を律することを大事にする必要がある。いつまでも、親の言うことを聞け≠ニ言うばかりでは、反発を招くだけである。とくに、いわゆる思春期には、それが最高潮に達する。親が一方的なプレッシャーを与えようとすると、子どもたちは猛然と反発することになる。

 

短期決戦型リーダーシップ05/11/08-940
 
勝つことを忘れていたようなチームにとって、強烈な管理主義≠ヘ、意識改革≠もたらすために、大いに刺激的のようだ。素人の野次馬野球評論家としては、広岡氏の功績も、高く評価すべきだと思う。たしかに、こうした手法は短期決戦には向いている。そして、成功もしやすい。だから、広岡氏が低迷するチームを一気に頂点に引き上げたことも、理解できる範囲内にある。しかしながら、徹底したトップ・ダウンは、その結果として反発や欲求不満をもたらすことにもなる。メンバーたちがストレスを感じ始めるのである。それは、力のない者たちが、適切≠ネ指導に対して、反発するという意味ではない。選手たちは、まずは、新任監督のやる気≠見てプレッシャーを感じただろう。その結果として、ストレスやある種の反発もあった可能性はある。しかし、とにもかくにも弱いのだから、文句を言える立場でもない。だから、渋々ながらも付いていく。それが勝利に繋がるから、監督に対する信頼感も高まっていった。この時点までは、何の問題もないのである。まさに、短期的には完璧に近いリーダーシップが発揮されているのだ。ただし、人は心身ともに成長する。自分で自信をつけて、しっかりやろうという意欲も高まっていく。そうなっても、相変わらずわしの言うことを聞け≠ニいうトップ・ダウン方式だと、それまでなかった欲求不満やストレスが頭をもたげてくるのである。こうして、短期決戦で成功した発想と手法にほころびが見えはじめる。そんなときに、リーダー自身も状況に応じて成長すれば問題は解決できるのだろう。しかし、そこは管理主義<梶[ダーである。これまで保持してきた自分の信念を変えるようなことなど、夢にも考えることはない。

 

管理主義とストレス05/11/07-939
 
ほとんど意欲を失っていた集団にやってきた、ものすごい管理主義≠フ鎧をかぶった監督は集団に緊張感をもたらす。実績もないくせにグダグダ言うな。とにもかくにも意識改革≠しなければならない。負け犬根性をたたき直してやる。文句を言わずに監督の言うことを聞け=Bこんな監督が現れたのである。まあ、現実の広岡さんがどうであったかは分からないが、少なくともかなり強力なリーダーシップを発揮したことは間違いなさそうである。それには、菜食主義導入≠ニいった新しい理論≠煌ワまれていたのではないか。しかし、それがどんなものであれ、まずは監督の言うことは聞かなければならない。そして、そうこうしているうちに、試合に勝ち始める。しかも、何と夢の優勝まで現実のものになるのである。それは、たしかに監督のおかげなのである。もう、監督は神様同然である。なにせ勝てば官軍≠セから、マスコミは言うまでもなく、素人も大拍手する。ここまでのストーリーは完璧に近い。しかし、問題は、それが長続きしないことである。それはなぜなのか。少しばかり気持ちが落ち着いたあと、選手たちの心に変化が生まれるのではないか。自分たちの力にも自信がついて、彼らは考えはじめる。たしかに監督のおかげで優勝できた。それはいいが、何でもかんでも言われるがままにしているだけでいいのか。われわれは、まるで羊も同然じゃないか。試合をして勝ったきたのは自分たちだ。われわれに力があるから勝てたのじゃないか。箸の上げ下げまで指示されるなんてまっぴらだ=Bヤクルトや西武の選手たちがこんな気持ちになったかどうかは知らない。しかし、とにかく管理一辺倒だと、ストレスが高まり不満が頭をもたげてくるのである。

 

管理主義的リーダーシップ05/11/06-938
 
いきなり西武に日本一の栄光をもたらした広岡達郎氏は、またしても時の人≠ニなる。ヤクルトに続くすばらしい仕事ぶりである。そのときは、西武ライオンズの人間だけでなく、マスコミも外野席にいる人々も、その偉業を成し遂げた監督を絶賛した。そして、広岡野球について、さまざまな分析が行われたはずだ。それらに共通していたのは、管理野球≠ニいうことばだったのではないか。あの菜食主義も含めて、徹底して選手たちを管理するというやり方である。しかし、すでに見たように、広岡氏は栄光のスポットライトを浴びたかと思うと突然に姿を消すのである。そこには、外野の人間には分からない原因があるのだろう。だから、ことの真相は知りようがない。しかし、リーダーシップのあり方という視点から見ても、あのような事態が発生することは説明することができる。一般的に、トップダウンを偏重する管理法は、長く続かないことが多いからである。万年Bクラスという低迷を続けていたチームの選手たちは、身も心も勝つ≠アとを忘れていた。本当は実力があっても、負けぐせ≠ェ身に付くと、気持ちも落ち込むばかりである。それがさらに負けを呼ぶという悪循環に陥ってしまう。そんな状況下で、仲間に対する信頼感も薄れる。自分はしっかりしているのに、あいつが不用意に打たれるから負けるんだ=A何だ、あのエラーは。あれさえなかったら勝ち投手になれたのに=Aなんで、ボケーッと見逃してしまうんだ。あそこで、ゴロでも打ってくれれば点が入ったかもしれないのに=Bこうした不信感は、本来の力をますます萎えさせることになる。もう救いようがない…。そんなときである。目の前にとてつもなく強力なリーダーが登場するのである。

 

未成熟集団のリーダーシップ05/11/05-937
 
プレッシャー型のリーダーと思しき広岡氏は、自分の理論≠ノ確固たる自信を持ち、人の言うことはあまり聞かないタイプの人ではないか。この手の人は、どちらかというと十分に成熟していない集団で効果を発揮する。管理されようと菜食を強制されようと、言うことを聞いていると、とにかく試合に勝ちはじめるのである。会社などで、それまで低迷し続けていた業績が上向いてくる。そうなると、リーダーが発する方針や指示のすべてが輝いて見えるのである。野球の選手たちも、やや胡散臭いところは感じながらも、勝てれば気持ちがいいに決まっている。これまで知らなかった成功体験を味わうのである。そして、もっと勝つためには、監督の言うことを聞こうじゃないか。そんな機運が高まっていく。夢にさえ出てこなかった優勝≠ェ、何となく見えるような気がしてくる。とにかく、おもしろいように勝てるのである。こうして、みんなの波長が合いはじめ、選手たちが持っていた本来の力が外に出てくるのである。ソフトバンク・ホークスも、いまではパリーグの雄とまで言われるようになった。しかし、このチームも最初はひどいものだった。大阪の南海からダイエーが引き受けて、福岡に移ってきたのは1989年である。当初は、応援の数が多くて選手が力を発揮できないとまで言われた。それまで、閑古鳥しか応援してくれなかったのだろうか。平和台いっぱいに広がる応援の歓声にビビッた≠ニいうのだから、笑ってしまう。負け犬根性≠ネどと言ったら犬たちが怒るだろうが、まさに勝つ≠アとを忘れてしまったかのような状況だった。西武にしても、そんな流れの中で広岡氏が優勝を実現させたのである。しかも、いきなり日本一というのだから、監督は神様なのだ。

 

監督と管理主義05/11/04-936
 
広岡氏が監督したヤクルトの成績は、日本一から最下位へと、どうも極端なのである。そのあとの西武ではどうなったか。彼は、西鉄ライオンズ時代からBクラスを低迷していた西武を、監督就任1年目でいきなり日本一にさせる。1982年のことである。その翌年もまた日本一だ。いわゆる西武黄金時代の開拓者なのである。3年目の84年には3位になってしまったが、それでも立派なAクラスである。しかも、85年には日本一は逃したものの、またしてもパリーグを制覇する。ところが、翌年には森監督と交代しているのである。まあ、4年もやれば十分という考えもあるが、これだけ貢献した人物がぷつんと消えるところに、何となく不思議さを感じるのである。まるで、バレンタイン監督がロッテをAクラスにしたその年に辞めてしまったのと同じように…。このときは攻守を変えて、広岡氏はジェネラルマネージャーであった。監督の首を切ることができる立場である。もちろん、まったくの外野にいる私なんぞは、中で何が起きたのかは知る由もない。しかし、マスコミなどで伝わる情報だけでものを言えば、広岡氏の考え方が大きく影響していたことは疑いないようだ。選手の起用や練習のやり方などでバレンタイン監督と意見の食い違いがあった。まあ、そんなところなのだろう。広岡氏を特徴づけるキーワードは管理野球≠ナある。その具体的な内容はいろいろあるのだろうが、とにかく選手たちを自分の発想でコントロールする。これにつきるのではないか。いわゆる徹底したトップダウン方式である。どこまで本当かは知らないが、選手たちに菜食≠強制したという話も聞いたことがある。どうも広岡氏は、プレッシャー型のリーダーシップを持った人のようなのだ。

 

広岡スワローズ05/11/03-935
 
広岡達郎氏がスワローズ≠フ監督を引き受けたのが1976年5月である。シーズン途中で、荒川監督から引き継いだ。当時の記憶はないが、スタートから不振を極めていたのだろうか。広岡氏は荒川氏と同じ早稲田大出身で、先輩後輩の関係になる。そのときは、ヤクルトのヘッドコーチをしていた。昨日も見たように、スワローズ≠ヘ極めて弱いチームだった。66年10月12日のドラゴンズ戦では、観客100人という史上希に見る最低観客数記録も残している。平和台でのクラウンライター・ライオンズの試合も、客の数よりカラスの方が多かったと思っていた。しかし、それを上回る記録はスワローズ≠ェ保持していたのである。まあ、そんなこんなで、もう未来永劫Bクラスだと思われるスワローズ≠ナあった。さすがに就任した年は5位だったが、翌年は2位、78年には何と日本一に輝くのである。これはほとんど奇跡に近い偉業だった。そこまで引っ張ったのは広岡監督であり、すごいリーダーシップの持ち主なのである。その後も82年には西武ライオンズの監督に就任して、ここでもチームを日本一に育てている。とにかくすごい業績の持ち主なのである。それはそうなのだが、私自身は当時から広岡氏が何となく理解しにくい人物のような気がしていた。その理由ははっきりしている。彼の場合、球団の強さが長続きしないのである。たとえばヤクルトのときには、3年目で阪急を下して日本一になったところまではすばらしい。ところが、その翌年はどうなったか。何があったか知らないが、シーズン中の8月に辞めてしまうのである。そして、その年は何と最下位になってしまう。日本一の翌年が最下位という、まさに天国から地獄へと転落するのである。

 

スワローズ物語05/11/02-934
 
とにかく国鉄スワローズ≠ヘすごいチームだった。ここには金田正一という投手がいた。この人がまたものすごい人なのである。スワローズは金田投手一人で勝っていたと言ってもいい。当時の選手たちには申し訳ないが、少なくとも素人には、それが実感だった。スワローズ≠フすごさは数値を見ると納得できるはずだ。たとえば勝率である。今年の楽天ゴールデンイーグルスの勝率は2割8分1厘だった。これでも、かなりひどいと言われた。しかし、スワローズの最低勝率は70年の2割6分4厘なのだ。あの楽天を立派に上回る$ャ績である。50年にはトップと57.5ゲーム差がついている。大学野球や高校野球のチームがプロと対戦した場合でも、こんなに差がつくんだろうかと思ってしまう。ただし、最低防御率が84年の4.76だが、これはちょっと興味深い。今年パリーグ3位の西武が4.27、セリーグで5位と6位の巨人と広島がともに4.80である。この数字を見ると、現在が打高投低≠ナあることが分かる。昔は、相手に5点くらい取られたら、それでおしまいだったのだろう。そんなチームにいて、金田投手は14年連続20勝の記録を打ち立てているのである。完全試合もノーヒットノーランもやった。さらに62年には通算3,509奪三振の世界記録も達成している。彼が投げれば点を取られないから、1、2点でも勝てたのだろう。その後は、65年に巨人に移籍したが、何と通算すると400勝である。この記録は永遠に破られないだろう。おやおや、いつの間にか広岡達郎さんの話から逸れてしまった。とにもかくにも、彼は今年の楽天ゴールデンイーグルス≠焜rックリのものすごいチームに監督として就任したのである。76年5月のことだ。

 

頑固者物語05/11/01-933
 先月末からはじめたバレンタイン監督物語を続けよう。まだお読みでない方は、「バックナンバー」をご覧いただきたい。さて、来日したその年に、万年Bクラスのロッテを2位に引き上げたバレンタイン監督だったが、何と1年で首になってしまった。そのときの責任者が広岡達郎氏だった。この広岡氏が、これまた極めて興味深い人物なのである。とにかく、彼は鉄の意志を持った相当の頑固者のようだ。巨人を引退した後の野球解説も毒舌で通っていた。まあ、毒舌といわれる人は、他人のことは言いたい放題だ。だから舌に毒があるといわれる。ただし、この手の人は自分で反省することはあまりない。そんなことをしていたら、毒が鈍って迫力がなくなるから、当然のことだろう。その広岡達郎氏は巨人の名ショートとして名を馳せた。サードの長嶋選手とともに鉄壁の守備で定評があった。ただ、その当時からきまじめというか頑固というのか、いわゆる取っつきやすい人だという感じはしなかった。長嶋氏は、入団時から派手さを売り物にしたあの行動パターンだった。だから、2人は動と静∞明と暗≠ニいった対比を見せていた。もっとも、これは私が子どものころの印象である。その点では、きちんとした人物評価ができていたというわけではない。ともあれ、巨人とはしっくりこない感じで引退したようだった。その後は野球解説者として、辛口の話をしていたのである。彼の名前が全国に響き渡ったのは、ヤクルトの監督になってからである。この球団は、その昔は「国鉄スワローズ」といっていた。あの日本国有鉄道の野球チームがあったのだ。ノンプロが戦後になってプロに昇格したようだ。それにしても、「国鉄スワローズ」は信じられないような弱い球団だった。