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味な話の素
                No.23 2005年03月号(686-716)
 
娘の優しさ(05/03/31-716)
 2年ほど前に車を買った。もっとも、わが家は中古主義なので、新車ではない。永年お付き合いしているご近所の自動車工場からお勧め車を購入した。そこで、それまで乗っていた車は、福岡に住んでいた息子に譲った。かなり古くなってはいたが、まだ走れたからである。しかし、昨年の春に息子が引っ越すことになり、車が家に帰ってくることになった。息子の環境が変わり、車を使う状況でなくなったのである。その結果、おんぼろ車は娘に回ってきた。幸い就職もできたし、免許も持っていたので、練習台にいいじゃないかというわけである。さっそく、家から歩いて5分くらいのところに駐車場も借りることにした。それから、土日にボチボチ運転をしはじめた。おそるおそる…。しかし、1年もすると、その車も寿命を迎える時期がやってきた。そこで、娘は自分で軽自動車を手に入れる決断をする。お気に入りの車が見つかって、購入の手続きも終えた。例の車は廃車になる。その車を手放す前日のことである。夜になって、娘は車の写真を撮りたいという。そこで、駐車場まで行って、古い車と一緒に記念撮影をした。車の横に立って、運転席に座って…。十分に満足したのだろうか。娘は「もういいよ」と言った。それから駐車場に車を置いて、私の車に乗って家へ帰る。いよいよ車が動き始めた。そのときだった。助手席に座った娘の小さな声が聞こえた。「さよなら…」。私は、自分の娘の一言にこの上ない優しさを感じた。そして、そんな優しい心を持った人間に育ってくれたことをうれしく思った…。
田尾さん、そりゃあまずい(05/03/30-715)
 新球団楽天≠ヘ、予想されたとおり苦しい戦いをしている。とにかく戦う前から徹底的に低い評価をされた。関係者はもちろん、仙台のファンには、腹立たしい思いもあるだろう。それに、対戦相手もある種のプレッシャーを感じるに違いない。あそこまで力がないと言われているチームに連敗でもしたら、大恥をかくことになる。どんな罵声を浴びるか分からない。しかし、いまのホークスだって、これ以上ないようなどん底時代があった。福岡のライオンズ時代もそうだし、南海ホークスとしても、かなりひどかった。余計なお節介だが、広島カープも、初めて優勝するまでの道のりは遠かった。楽天も、いまは「あんな時代もあった」というほろ苦い思い出づくりの時期だと考えて、がんばってもらいたい。仙台の皆さん、見捨ててはいけませんよ。ところで、昨日ののニュースにも田尾監督が出ていた。負けた試合後のインタビューがテレビに映る監督なんていなかった。監督が言う。「明日はかならず勝つと言うくらいの気持ちでいく…」。この発言には思わず反応してしまった。田尾さん、「勝つと言うくらい」はないですよ。これでは、はじめから「勝てないけれど、せめて気持ちだけは」という意味になってしまいますよね。それを言うなら「勝つ気持ちでいく」でしょう。いやいや、これでも弱くてまずい。「明日はかならず勝つと信じています」かな。ウーン、これもまだ弱いか。やはり、「明日はかならず勝ちます」でしょうかね。ここまで来ると、これまた大ボラと非難されるかなあ。まあ、とにかく苦しいですね。しかし、ちょっとした言葉遣いが、人の意欲を高めたり低めたりすることだけは確かですよ。責任者ともなれば、外向けの発言も考えなければならない。つらい仕事ではある。
すべて(、)同じ(、)ではない(05/03/29-714)
 テレビのコマーシャル。お酢のCMだったが、「○○は、すべて同じではない」といったナレーションが流れた。これまたおもしろいと思った。その昔、英語で「部分否定」なるものを習った記憶がある。「部分」に対するのは、「全否定」だったっけ。ともあれ、このCMの趣旨から言うと、「○○は、すべて同じではない」は、「○○」は、どれをとっても「同じではない」という意味だと思う。そう主張したい場合には、「○○は、すべて、同じではない」と、「○○」や「すべて」の後に「、」をつけた気持ちで読むのが正しいのだろう。しかし、「○○は、すべて同じ、ではない」という文もあり得る。こうなると、「○○が全部同じ」とは限らない。つまりは、「違うものもある」ということになる。私は、日本語の文法に関して素人である。これが「部分否定」や「全否定」といった話題になるのかどうかは知らない。しかし、それにしても人が使うことばは、おもしろいと同時にむずかしいものだ。日常的にも、自分の思った通りには伝わらないことが少なくない。前後の文脈から言いたいことを推測するしかないこともある。また、受け止める側の気持ちや置かれた状況によって、文意が変わったりもする。日本語に限らず、誤解を招かない情報の伝え方をいつも考えておきたい。
核開発国のリスト(05/03/28-713)
 New York Times の2月20日号では、核の脅威についてかなりの紙面が割かれている。その昔は、大国だけが核を保有していた。そうした時代は、核使用がもたらす結果の重大さのために、指導者は抑制力を働かせた。しかし、いまや越えてはならない「進入禁止の赤線」が、「ピンク色」に薄まっている…。そんな内容の記事である。すでに、インドとパキスタンが核を保有していることは周知の事実だ。これにはイスラエルも含まれる。あの9.11′繧ノは、敵の掃討作戦でパキスタンの協力を求めることになった。そんな事情もあって、アメリカはこの国の核に対して強い態度を示していない。こうした世界情勢の中で、北朝鮮やイランを放置しておけば、核保有を進める国が増加することを予想する者がいる。そのリストには、シリア、サウジアラビア、エジプト、台湾、ブラジルが挙がっている。さらに、インドネシアやスーダンも含まれるという。Nicholas Eberstadt という北朝鮮の専門家の話である。こうした具体的な国名が、淡々と新聞に掲載されるところがアメリカらしい。今日では、核は技術的な問題ではなくなった。その気になれば、どの国でも作ることができるのである。あとは、その意思があるかどうかということになる。これは相当に危うい状況である。
事業部制と「任せる経営」(05/03/27-712)
 組織が大きくなると、動きも鈍くなりがちだ。効率が悪くなる。そんな弊害を避けるために、製品や地域ごとに組織を独立させる。それぞれがひとつの会社のように仕事をするといい。素人レベルで言えば、これが事業部制と呼ばれるものである。松下幸之助氏が事業部制を導入したのは、1933年(昭和8年)のことである。その6年前には、電熱部を独立させたというから、その発想はもっと早くから生まれていた。それは、デュポンやGMよりも先である。そんなことで、松下は事業部制を世界ではじめてスタートさせたと自慢している…(立石泰則「ソニーと松下」)。立石氏によると、制度を導入した動機はデュポンなどとは違っている。海外の場合は、会社吸収で巨大になり過ぎるといった理由から事業部制が導入された。これに対して松下氏の場合は、本人の体が弱く、すべてを仕切ることが難しかった。そのために、組織を独立させることにしたというのである。しかし、動機はどうであれ、事業部制で取られた基本精神が「任せる経営」である。もっとも、「任せる」といっても、松下氏の考えを十分に配慮することが必要で、何でもいいと言うことではなかった。これが、立石氏の評価である。しかし、それはともかく、「任せる」というキーワードを使ったこと自身、相当に早かったのではないか。「任せる」ことを組織の課題として考えるのも、なかなかおもしろそうだ。何を、いつ、だれに、どこまで、どのように、「任せる」か。さらに、どうして任せるのか、その理由もしっかりしている方がいい。「任せ方」によって、組織の将来が左右されることは間違いない。しかし、世の中には、「任せる」ことができないトップがけっこういる。最終的には、「引き際」を誤る人も少なくない。表面的に任せたように見えながら、裏から工作する。その典型がいわゆる「院政」だが、これも未練がましい。
カラスの思いやり(05/03/26-711)
 関西へ出かけたときのこと。朝のラッシュ時にタクシーに乗った。少しばかり渋滞した中をゆっくりと走る。ふと前方を見ると、道路上に黒いものが目に入った。タクシーが近づいたとき、それが車に轢かれた黒い鳥の死骸であることが分かった。二車線ある道路の歩道側にある道の上である。タクシーはセンター側を走っていたので、左横を見る状態になった。もう、ほとんど原形をとどめていない。その無惨な姿の主は、色と大きさからカラスだと推測された。「ああ、かわいそうに…」。そう思った瞬間である。歩道の上にもう一羽のカラスがいることに気づいた。そのカラスが、車が空いた隙に、道路へ飛んできた。そして、カラスは死骸を口で咬んで歩道の方へ寄せようとしたのである。まさに必死になってやっている。私は、何かしら胸が熱くなるのを覚えた。車の流れが少しばかり途絶えたところを見計らって、仲間を助けようとしている。私にはそう見えた。それは、「友人」か、「恋人」か、はたまた「配偶者」なのか。嘴だけで死骸を運ぶのはひどく難しそうだった。タクシーの窓から振り返りながら見続けた。そのうち、車は先へ進んでいった。だから、その後の経過は知らない…。こうした光景が私の記憶に刻まれたのはどうしてか。いまや、私たちから、こうした基本的な「思いやり」のこころが失われている。私が、そんな不安を感じているからかもしれない…。
世の中を変える(05/03/25-710)
 学会のシンポジウムに参加したところ、登壇者に新聞社の人がいた。その発言の中で、「仕事を通して、世の中を変える」といった表現があった。それを聞いて、「それはそうなんだろう」と思った。そして、それをかなり重い発言だとも感じた。マスコミに携わる人々は、情報をただ伝えるのではなく、「世の中を変える」ことを大切に考えているのである。世の中にある情報を流すだけではないのだ。右か左か上か下か、はたまた中心から周辺へかは別にして、ある地点から別の地点へ世の中を「移動」させようとしているのである。ここで「世の中」の定義を考えはじめると、これまた複雑な議論になりかねない。ともあれ、その中に「世論」が含まれることは間違いないだろう。いずれにしても、「世の中を変える」ということは、「価値観」を伴う行為である。ただデタラメに行き先を決めるのではない。そこには、一定の方向に向いた力がかかっている。当然のことながら、選択され、伝えられる情報は特定の価値を持っているのである。完全に「中立的」な情報などというものはないのだ。もちろん、ここでマスコミの仕事が問題だというつもりはない。マスコミは、「世の中を変える」という動機を持って、さまざまな情報が提供している。その事実を認識した上で、受け手であるわれわれ一人ひとりが情報の吟味をしなければならない。それを強調したいだけのことである。
鬼畜が怒る(05/03/24-709)
 北九州で7人もの人を監禁した上に殺してしまったとして、男女2人の被告に求刑があった。今月の初めである。報道によると、衰弱していた被害者を虐待してなぶり殺しにしたという。その動機は異常な金銭欲だとされている。検察側は、男の方が事件全体の首謀者だとしているが、本人は極度に小心なのだそうな。これに対して女性の方は、思考停止型で割り切りが速く、男の指示に忠実に従ったと指摘する。そして、犯罪史上比べるものがないほど刑事責任は重いとして死刑を求刑した。その中に、「鬼畜の所業」という文言がある。「鬼畜」、文字通り「鬼と畜生」である。冷酷無比の鬼か、獣の仕業ということだ。「畜」には「やしなう」という意味がある。なるほど、家でやしなうから家畜なのである。そうなると、「畜生」を「けだもの」全体に当てはめるのは間違いかもしれない。いずれにしても、「鬼畜」ということばは、「人でなし」という激しい攻撃的な意味を持っている。あの戦争中には「鬼畜米英」というスローガンが使われていた。アメリカやイギリスは鬼畜というわけである。しかし、ちょっと待てよと思う。とにかく残虐無比のひどい事件である。これを「鬼畜の所業」などと言ってると、「鬼畜」が怒るのではないか。「われわれ鬼畜の方がまだ道理を弁えているぞ」。こんな文句が聞こえてきそうだ。それはこの事件に限らない。このごろ頻発する殺人事件などを見ていると、どれもこれも「鬼畜があきれる」所業ばかりではないか。鬼畜の方がよほど真面目に生きている。
めまいじゃなかった(05/03/23-708)
 神戸で開かれた学会で、20日の午前中に発表した。会場では司会を引き受けたため、前の席に座っていた。参加者たちと対面になる位置である。そのため、発表者が使うパワーポイントの画面を振り返るような姿勢で見ることになる。体勢としては、やや不自然な状態である。そんな姿勢でスクリーンを見ていたら、何かしらめまいのようなものを感じた。「あれっ、おかしいな」。もうけっこうな年である。めまいですめばいいが、このまま気分でも悪くなると困るぞ。心の中に、小さな不安がよぎった。そこで、まともな姿勢に戻して、横にいる時間係の学生を見た。彼はにっこり笑った。「揺れてますね」。なあんだ、めまいではなくて地震だったのである。そんなわけで、すぐに現実に戻った。そして、12時には私の役割も無事に終わるのである。部屋から出ると、「福岡で地震があったらしい」と誰かが言った。震度6だの7だのという。素人なりに相当のものだという感じがした。それから少しずつ情報が入り始めた。福岡市の沖合を震源地にした大きな地震であった。「福岡は有史以来、天変地異は起きたことがない」。高校生のときだったか、そんな話を聞いたことがある。しかし、それは完全な思いこみであった。おそらく福岡市民のほとんどがそう思ったのではないか。「これまでなかった」から「これからも起きない」。それは単なる希望的観測にすぎないことを知るべきだ。組織の事故もまた同じ。
Net-Work(05/03/22-707)
 網の目を張るのがネットワークである。放送のネットワークなどはその典型だ。市民が自由に結びついて運動を広げていくようなものをネットワーキングと呼んだりもする。このnetwork≠ニいうことばは、なかなかおもしろい。一般的には「結びつける」ところに重点が置かれている感じがするからである。しかし、よく見ると Network=Net+Work なのである。だから、ただ単純に要素を網の目に結びつけるだけでは意味がない。それを構成する個々の要素が「働く(work)」いてこそネットワークなのである。しかし世の中を見ると、ネットはあっても機能していない事例も多いのではないか。とにかく結びつけることだけに気を取られ、それがうまく働くための工夫は二の次になる。それでは、Net そのものが work しない。まさに、「形」だけ「網の目状」になっていても、それは「ネットワーク」とは呼べないのである。だから、情報が「上から下」、「中心から周辺」に一方的に流れるような場合も、network≠ニは言えないだろう。いわゆるフィードバック回路が働かないからだ。「おーい」と呼べば「おーい」と応える。そんな「山びこ反応」が必要なのである。いや待てよ、「おーい」に「おーい」だけでは work していないか。「わかったよー」とか「それはまずいよー」なんて反応がいるんだよね。
問題を「隠す」こと(05/03/21-706)
 JAL さんのトラブルには「1人のときじゃない」という共通点があった。われわれは、何かが起きたとき、その原因を「個人の問題」にして片づけたくなる。その考えでいけば、問題を起こした人間だけを処分することで、一件落着である。最悪の場合には、個人を葬り去ってしまうことにもなる。しかし、組織に生きている者、とくに責任ある立場の人間であるならば、トラブルを「組織の問題」として捉える力が求められる。先日の東武鉄道における踏切での事故にしても、「1人の職員」だけの問題でないことははっきりしている。あのとき、踏切には複数の職員がいたという。逮捕された係員も、「『開かずの踏切』を少しでも開けたい」という気持ちが働いたと語っているようだ。その発言に嘘がないことは、部外者の私たちにもよくわかる。そもそも、「開かず状態」を少しでも解消するために「手動」にしていたという。そのあたりの危うさは、関係者のだれもが認識していたのではないか。そうであれば、「1人」だけを責めても問題の解決にはならない。それは、「組織の問題」そのものなのである。ところで、JAL さんの場合、とくに「安全装置解除ミス」と「整備ミス放置」の2件は、空飛ぶ飛行機や整備場の中で起きている。いわば密室の中でのトラブルである。機内に客がいたとしても、安全装置のセット忘れなど素人は気づかない。今回は、そうした状況で発生したミスが明らかにされた。その経緯はわからない。しかし、事実が伝えられたこと自身は大事なことだと思う。この種のことは、とかく「隠されやすい」からである。そうなると、「安全を脅かす悪魔」は、さらに奥深く「隠れ」てしまう。他人の目から「隠す」つもりが、自分の目からも問題を「隠す」ことになる。われわれは、案外とこの皮肉な事実に気づいていない。
1人じゃない(05/03/20-705)
 昨日、JAL さんのトラブルを取り上げた。表に現れた問題だけを見ると、全部が違っているように見える。それは、「管制官の許可を得ない離陸」であり、「管制官の指示の取り違え」、「脱出装置の操作忘れ」「整備ミスの放置」である。しかし、この4件には明らかな共通点がある。それは、トラブル現場にいたのが1人ではなかったということである。機長に直接の責任があると思われる2件については、その横に副操縦士がいたはずだ。素人は、この2人が一心同体で動いていると信じている。離陸などに関わる重要な指示や情報について、「1人だけ」が聞いているとは思えない。そんなマニュアルにはなっていないはずだ。そうだとすると、2人とも「許可なし」で離陸に踏み切ったことになる。少なくとも、結果としてはそうなってしまった。ソウルでも2人が聞き違いをしたということなのか。脱出装置の場合はもっとすごい。機体の大きさで乗務員の数は決まるようだが、少なくとも4、5人はいたはずだ。そのうちの1人もセットし忘れに気づかないというのは、宝くじの当選並みの確率だと思う。操縦席にだって装置の作動に関するお知らせ灯くらいはあるのではないか。最後の整備ミスについては、仕事が複数の人間によるものかどうかは知らない。しかし、個々の部分の整備は1人でするにしても、全体のチェックを行う者がいないとは考えられない。このように、今回のトラブルは「1人じゃなかった」という点で明らかに共通しているのである。
風邪は万病の元(05/03/19-704)
 今年のインフルエンザは峠を越したという。私はもう何年も予防注射をていない。そんな中で、先月の中旬ころから2週間ばかり、けっこう咳き込むことがあった。遠方に出かける予定もあったので、少しばかり心配していたが、とくに支障は起きなかった。このまま行けば、今度もインフルエンザからは逃げ切ることができそうだ。それはめでたいが、軽い咳だからといって馬鹿にしてはいけない。それに、「風邪は万病のもと」なのだ。その点で、このところ咳き込んでいる JAL のことを心配している。1月22日には、新千歳空港で管制官の許可なしで日航機が離陸のための滑走を開始したらしい。その2km先には全日空機がいた。管制官が気づいて難を逃れたが、そのことを公式に報告していなかったという。また、今月11日には、ソウルの仁川国際空港で、成田に向かう日航機が、管制官の指示を聞き間違え無許可で滑走路に進入している。さらに、羽田発札幌行きの日航機で、客室乗務員が非常用脱出装置を作動しない状態のまま飛んでいた。乗務員のだれも気づかなかったという。その他にも、貨物機の整備ミスを1か月ほど放置していたことが明らかになっている。いずれも事故には結びついていない。しかし、これは組織が咳をしているのだと思う。軽く見ていると、大風邪をひいてしまう。現象的に見れば、この4件に共通するものはない。そこで、「不都合なことがたまたま重なっただけだ」と思いたくもなる。しかし、ひょっとしたら組織という体そのものが疲労しているのかもしれない。こんなときは、自分たちに都合のいい解釈をしない方がいい。まさに、 Feel-Unsafe= ちょっとおかしいのじゃないかと疑うこころ≠ェ必要なのである。咳を馬鹿にしてはいけない…。
人を育てる(05/03/18-703)
 松下幸之助氏の名言がある。「松下電器は何を作っているのかと尋ねれれたら、人を作っているところだと答え、しかる後に電気製品も作っておりますと答えていただきたい」(立石泰則「ソニーと松下」)。何とも感動的なことばである。それも松下氏が言うからであって、私なんぞが似たような発言をすれば、「カッコつけるんじゃないよ」と笑い飛ばされるだろう。それにしても、その仕事観というか、哲学というか、「うーん」とうならせる。「何でもいいのよ、儲かりさえすれば…」といった生き様、価値観とは対極にある。「冗談じゃない。そんな悠長なこと言ってたら競争に負けちまう」なんて声も聞こえてきそうだ。しかし、人を育ててこそ価値ある製品ができるのである。仕事に対する責任や誇りを持てる人を作る。長期的にはそのほうが組織にとってもプラスになるはずである。わが国は、モノづくりに成功して、その製品を輸出することで生きてきた。その勢いは「集中豪雨的」などと呼ばれて、諸外国と貿易摩擦を起こすほどだった。その日本も、経営に関する手法などになると、すぐに輸入≠ノ頼ろうとする。成果主義だの何だのと…。今では、「年功序列」や「終身雇用」は「悪役」に成り果てた。少しでも調子が悪いと、自信を喪失し、外に頼ろうとする。悪い癖だ。もっと、われわれが持っている組織経営のノウハウを輸出するくらいの気概があってもいいのではないか。
親の顔(05/03/17-702)
 バス・センターでのお話。高速バスの出発口に人が並んでいたので、私も列に加わった。前から15番目くらいだった。すぐに、親子連れがやってきて、私の後に着いた。子どもといっても、すでに大人である。もう順番は確保したといった感じで、並んだ途端に娘がいなくなった。トイレに行ったようだった。それから少し経ってから彼女が目に入った。こちらの列に来るのではなく、やおら喫煙用の「檻」の方へ歩いていく。その瞬間である、母親が「みんな並んでるんだから、早く来なさい」と呼びかけた。ささやきに近かったので、ジェスチャーと言うべきかもしれない。とにかく、母親は常識的な反応をしたのである。娘はそれに気づいたようだったが、母親を無視するかのようにたばこに火をつけた。そして、たばこを吸い終えてから列に戻ってきた。そのときは、後方にまた10人ばかりの人が並んでいた。横に来た娘に母親が言う。「人が並んでるでしょ。早く戻ってこなくっちゃあ」。娘が答える。「うっせーなー」。こりゃあ答えじゃあないわ。子どもが何かをしでかすと、「親の顔が見たい」という。私の目の前には、その親の顔が見えている。どう見ても、常識的な発想と行動をする親の顔である。その親にして、この子の行動なのだ。理不尽なことなら、親の言うことを聞かなくても仕方ないだろう。しかし、まともなことさえ子どもが無視している。しかも、思春期も越えた成人の子が…。いやー、世の中どこかおかしい。「お母さんの言ってることが正しいじゃないか」。喉の奥まで出かかったが、やっぱし止めた。私自身がトラブルを嫌う「小市民」であることを自覚した。
エレベータ工事の不安(05/03/16-701)
 あるビルでエレベータの工事が行われていた。設置されていた4基をすべて新しいものにする。すでに30年ほど経過しているため、総入れ替えなのだ。これまで、このエレベータの動きには泣かされてきた。ほとんどが同じ動きをするのである。だから、乗り損なうと悲惨な目に遭う。ほかのエレベータも同じように上っていく。あるいは下っていく。そして、かなりの時間が経過してから目の前にエレベータが現れる。それに乗って前を見ると、向かい側のエレベータも扉が開いて利用者を待っている…。どうもランダムに動いているとは思えない。何かしらの計算≠した上でコントロールされているように見える。その裏で30年前のコンピュータが働いているのかもしれない。しかし乗る側から見ると、その目論見は完璧に失敗しているのだ。そんなことで、今回の工事には大いなる期待をしていた。まだ、2基しか完成していないので、動きはよく分からない。ただ、その2基を見て、はやくも別の不安が襲ってきた。新品には階の表示≠ェないのである。ただ、上か下のマークだけあって、「ピン」とか「ポン」といった音がして上下どちらか行きのランプは点灯する。しかし、その箱が今どの階にいるのかが、待っている者には分からないのである。これはかなりのストレスになる。どのくらい待てばいいのか、見当もつかない。それどころか、目の前のエレベータが上がっているのか下ってきているのかも分からない。こんな大物商品のことだ。本格的に動き出すまで、素人には気づかない深ーい訳があるのかもしれない。しかし、私の不安は募るばかり。これって、やっぱし私がせっかちなんでしょうか…。
親と子ども(05/03/15-700)
 親が子どもを思う気持ちは何よりも強い。また、そうでなければならない。ところが、このごろは親が子どもを手にかける事件が多い。これまでにも、生活苦などを理由にした心中は、時代を問わず起きてきた。不幸なことである。しかし、今やそれだけではない。あろうことか、子どもに保険をかけて殺すという事件まで起きるようになった。こうした事態を前にして、他人事のように「信じられない」と嘆くばかりではすまされない。それは日本社会全体が崩壊する兆しのような気がする。それにしても、一代で王国を築いた親は、その財産や地位を子どもに譲りたくなるものだ。とくに、会社組織などではそうした事例に事欠かない。あれだけ革命的な精神で世界のソニーを創り上げた盛田昭夫氏も子息をソニー系の会社に入れている。ダイエーの中内さんもそうだった。そんな中で例外中の例外といえるのが本田宗一郎氏である。会社には身内をまったく入れない。それが本田氏の確固たる信念だった。その点で本田氏の評価は高い。その本田氏が人生でひとつだけ後悔したことがあるという。それは、自分の会社に「ホンダ」という名前を付けたことだ…。いやー、泣きたくなるほど格好いい。それを聞いた途端に、わたしも本田宗一郎ファンになった。ところが2年ほど前のこと、ある事件に関連して、本田氏の長男がF1レースに関係した会社のトップであることを知った。その会社はホンダそのものではない。しかし、その内容を見るとホンダとはかなり強い関係を持っていたようだ。そのことを知ったからといって、私のホンダ氏に対する「すごい人」という気持ちが失われたわけではない。しかし、「うーん、あの本田氏をもってしても」という驚きがあったことは事実である。親と子どもの関係は、まだまだ研究する余地が無限に残されている。
プロの発言(05/03/14-699)
 「ライブドア vs. フジテレビ」の第1回戦は、ライブドア側が勝った。「なんとか予約権」なるものを発行してはダメということである。いつもテレビを見ているわけではないが、前日に「どちらかといえば、ライブドア側に分があるのではないか」といった専門家がいた。しかし、それ以外は「地裁の判断が注目される」なんて発言ばかりだった。どこを見ても、専門家が「どちらか分からない」と言っていた。「今後の経済を左右する新しい判断が行われる」という人もいた。とにかく「分からん」ということだ。ところが、地裁の仮処分が出た後にテレビを見ていたら、「専門家の間では、この方向での結論が出るということで一致していた」と宣う人が現れた。れっきとしたプロである。そんならそうと、決定が出る前に言っといてよ…。それに続いて、異議申し立て後の高裁ではどうなるかと聞かれた。これに対して、「いやー、分からん」ですって。そんな答えでよければ、私と同じですたい。またぞろ、高裁の判断が出た後に、「じつを言うと、専門家の間では…」じゃあないんでしょうね…。「なあんだ、これじゃあ素人と変わらんじゃないか。プロならもっとはっきり言わなくっちゃあ」。思わず、こんな文句をテレビに向かって言ってしまった。それを横で聞いた家内が笑った。「心理学だって、素人でも分かるようなことしか言ってないじゃないの」。「……」。
ソニー・スピリット(05/03/13-698)
 ソニーの出井伸之会長が降板することになった。後任はソニーアメリカのハワード・ストリンガー氏である。sソニーのトップに外国人がなるのは初めてのことだという。この点について出井氏は、「グローバルカンパニーのソニーで外国人がトップになっても違和感がない」と語ったという。もちろんそうなんだろう。しかし、それが説得力を持つのは、会社の調子がいいときの話だと思う。業績がややこしくなってきてからの交代では、やっぱし発言に迫力がない。それに、国内で跡を継げる人を育ててこなかったのではないかという疑問も残る。なんとなく、ソニー・スピリットに翳りが出てきた感じだ。ブラウン管にこだわって、薄型で出遅れたことがダメージになったといわれている。しかし、その前にも予兆はあった。シャープがビデオカメラに液晶モニターを付けた製品を開発した。そのときソニーは、「あんなものが売れるわけがない」と冷笑していたという。そのこともあってか、液晶の開発に後れを取ってしまう。もともと、小型ビデオの開発はソニーのお家芸だったはずだ。ソニーのβマックスはホームビデオでVHSと戦って敗れた。その巻き返しと位置づけていたのが8ミリビデオである。そのビデオで、シャープにアイディアを先行されてしまったのだ。とかく、自分が強いと自信を持っているところが、そのまま弱点に転化しがちである。「自分が一番」と思っているから、「これでいい」と現状を肯定してしまう。その上に、他人がしたことが「つまらなく」見えるのである。われわれは、成長すればするほど、自分のことは見えなくなるようだ。危ない、危ない…。
花飾りと自意識過剰(05/03/12-697)
 講演などに行くと、胸に花飾りを付けさせられることがある。これが、けっこう恥ずかしい。もう、50も半ばのおっさん≠ノなったのではあるが、いまだに気恥ずかしい。じつをいうと、花飾りまでいかない小さなリボンでも同じ感情が湧く。何やら人と違うということが気になるのだ。「あんたのことなんか、だれも見ちゃあいない」なんて言われそうだけれど…。それに、とりあえずは社会的な慣習だから、飾りを付けていても、その場ではとくに違和感を持って見る人はいないとは思う。しかし、とにかくそれでも気になる。まあ、自意識過剰≠ネんだろうか。花飾りといえば、松下幸之助氏の物語を思い出す(立石泰則「ソニーと松下」)。松下電器は1964年に、戦後はじめて減収減益の危機に陥った。これに対応するために、7月に松下製品の販売会社や代理店の社長と懇談会が開催された。熱海のニューフジヤホテルを会場にしたため、「熱海会談」と呼ばれている。その開始前のこと、松下氏が烈火のごとく怒ったという。それは、松下側の役員の花飾りが、販売店や代理店の人々のものよりも大きかったからである。「いったいだれが、松下の製品を売ってくれていると思っているんだ!」。その剣幕はすごかったらしい。早速、花飾りは集まった社長たちと同じ大きさのものに替えられた。人間は、気づかないうちに自分の気持ちが出てしまう。意図的でもないし、いわんや悪意なんてあるはずがない。しかし、このときの役員たちは自分たちがより大きな花飾り≠付けていても違和感を感じなかった。むしろ当然だと考えていたのかもしれない。ある種の優越意識があったのではないか。そこを松下氏は突いたのである。花飾りひとつとっても、こころの状態を表す象徴的な意味があるのだ。やっぱり、花飾りに抵抗感を感じるのは、それほど自意識過剰≠ナもないんだよね。
もっと早く(05/03/11-696)
 世の中は「フジテレビ vs. ライブドア」「コクドの堤義明氏」のネタであふれている。前者は関係者がインタビューに答えるから、絵になる記事になる。堤氏については、過去の行状に遡って検証が進められている。経済界の大物が失脚した先例には、ダイエーがある。しかし、こちらは一代で築いた中内氏の王国が崩壊する物語であった。また、渦中の人物が逮捕されるといった事件が起きたわけではない。これに対して、堤氏の場合は、父親の代にまでメスが入られれる。その情報量の多さから推測すると、マスコミ各社は、かなり前から情報収集をしていたようだ。プロだから当然だろう。ただ、その中には50年近く前から胡散臭いことが行われていたという内容も含まれている。株の名義替えなどは、その典型である。こうした情報は、今回の逮捕後に初めて明らかになったのだろうか。どうもそんな感じがしない。もう「ずーっと前」から分かっていた気配がある。それなら、その時期にどうして問題として取り上げられなかったのだろうか。パワーがあるときには、「触らぬ神に祟りなし」だったのか。まことに素朴な疑問が湧いてくるのである。そして、捕まってしまってからは、「悪行」が洪水のようにあふれ出てくる…。こうした傾向が強いのがとても気になる。問題の指摘がもっと早ければ、傷が小さなところで解決できたのではないか。最後の局面では自殺者まで出てしまった。後追いで叩くよりも、先駆けで問題提起をして欲しいものだ。もっとも、きわめて巧妙な方法を使っていたので、気づいてはいたが手が出せなかったという。しかし、素人から見ると、そうした説明は今ひとつ説得力に欠けてるんだよなあ…。
何でもありの公式(05/03/10-695)
 昨日は、「教師力」=(「専門力」×「人間力」)/「子どもの数」という式を提案した。文字通り「教師」にかかわる式である。しかし、ここからグループ・ダイナミックスの幅広い力が発揮される。じつは、この式はほかの集団にも十分に適用できるのである。まずは、「教師力」を「リーダーシップ力」や「対人関係力」と読み替える。そして、分子の「子どもの数」を「部下の数」にする。これで、あらゆる組織の上司と部下に当てはめることができる。また、「患者の数」に直せば、患者に対する看護師の影響力になる。その一部分を替えるだけで、どんな集団にも適用可能な式になる。調子いいと言えば調子いい。何でもありということである。もちろん、対象が広がるにつれて曖昧さも増えてくる。だから、個々の集団や個人の「リーダーシップ」を考える際には、「専門力」や「人間力」の具体的な内容を検討することが必要にになってくる。それはそうなのだが、まずは、多くの集団に適用できる基本的な見方を発見すること。それが、「集団とのかかわりを通して人間を理解する」グループ・ダイナミックスには欠かせない仕事なのである。私自身は、そうした発想で、いつも人間ウォッチングをすすめているつもりだ。
教師力と子どもの数(05/03/09-694)
 先生方にお話しするとき、「教師力」の大切さを強調する。その「教師力」は「専門力」に裏打ちされていることが欠かせない。いつも、自分の知識やスキルを磨いていく必要があるのだ。しかし、それだけでは、「教師力」は発揮できない。それに加えて、教師には「人間力」という大事な力が求められるのである。いやいや、「それに加えて」は正しくない。この両者は足し算ではなく、かけ算なのだ。「教師力」=「専門力」×「人間力」。先生方には、この式を念頭に置いて仕事をしていただきたい。そして、「人間力」の改善・向上については、私が仕事にしているグループ・ダイナミックスもお役に立つと信じている…。ここまでの内容は、過去にも書いたことがある。私としては、その趣旨はご理解いただけると思っていた。しかし、教師が対応する子どもの数も考えるべきではないか。こんな発想が浮かんだ。そこで、新たに「子どもの数」を式に取り入れることにした。「教師力」=(「専門力」×「人間力」)/「子どもの数」。これが新しい式だ。いかがだろうか。これで、ほかの条件が同じであれば、「子どもの数」が多いほど、「教師力」は低下する。それだけ、教師が影響力を発揮することが難しくなるのである。こうなると、やはり、「子どもの数」は少ない方がいい…。うーん、そう単純に考えられては、この式を提案する意味がなくなってしまう。ここで、分子の「人間力」をお忘れにならないでいただきたい。これが「0」になったら、「子どもの数」とは無関係に「教師力」は「ゼロ」になるのだ。それどころか、恐ろしいことに、「教師力」は「−」の値だって取り得るのである。そうなると、むしろ「子どもの数」が少ないほど「教師力」は大きなマイナスになってしまうではありませんか…。
ここに何があった…(05/03/08-693)
 街のあちこちで新しい建築が進んでいる。その昔は、市街地の建物といえば、ほとんどが企業などのビルだった。しかし、最近の工事現場には、「分譲」や「賃貸」といった看板が掛かっていることが多い。ほとんどがマンションなのである。マンションを提供する側も、「建て続ける」ことで資金を調達し、生き残りをかけているのではないか。素人が見てもそんな気がしてくる。こうした状況を見ると、民需の大切さが分かる。そんな中で、ガソリンスタンドが閉鎖され、その跡地にマンションが建つケースも少なくない。ガソリンスタンドの競争は激烈なようで、あちらこちらでスタンドがなくなっている。また、パチンコ店の閉鎖も目につくようになった。一時は、やや大きめのビルが建っていると、それがパチンコ店だったというケースが多々あった。郊外ではどうか知らないが、少なくとも市街地のパチンコ店は減少しているのではないか。こうした現象にも時代の変化を感じる。それはともあれ、ビルが建設中だったり、建ってしまったときに、それ以前に何があったかが分からなくなる。何度もそこを通っていたはずなのに、思い出せないことが多い。家内がタクシーに乗ったとき、前に何があったか分からない場所があって、運転手さんに聞いたらしい。「いやー、分からんですなあ」。これが運転手さんの答えだったという。街中を走るプロだってこんな感じなのだ。それが、時々刻々と変化する環境に適応する人間の能力というものか。そう言えば聞こえがいいけれど、要するに忘れやすいってことだよね。とくに、自分に直接関係ないことは、「見てても、見てない」んです。うーん、忘れる以前に見てもいないんだ。そうそう、あの2大マスコミの論争も、もはや記憶の彼方に消えてしまったようですね。
分からんことだらけ(05/03/07-692)
 昔は近所に、こわーいおじさんがいた。おばさんだっていた。悪いことをすると、どこの子だろうとこっぴどく叱る。真っ赤な顔をしたり、首に青筋を立てたりもした。そんなおじさんが、「人を殺したらいかんのじゃー」なんて叫べば、それでおしまい。そんな時代があった。今では、懐かしい光景である。何かというと、「それって、どうして? ちゃんと説明してよ」となる。あっちもこっちも、「論理や理屈」が大手を振って歩いている。しかし、世の中には、「とにかく分からんこと」「説明できんこと」はいくらでもある。昨日も、「今、自分がここにいること」なんて、論理的に説明なんぞできないと書いた。そんな調子で挙げていったら、際限がない。「どうして宇宙があるのよ」「何で原子があるのよ」。こんなことを論理的に説明できる人がいるのかいな。なにも、宇宙の起源まで戻ることもない、邪馬台国がどこにあったのかさえ、歴史の「事実」にもかかわらず、十分に説明できていない。いやいや、分からないことでよければ、毎日だって起こっている。第一、自分が「寝ついた瞬間」が分かる人なんていない。「あっ、自分はいま寝たんだ」と言える人がいますか。そのときは、まだ「寝ていない」んですよね。まあ、とにかく分からんことだらけですよね。「もっと『論理的』な議論をしろ」ですって…。このあたりでおしまいにしておきますか。
理屈じゃないのよ(05/03/06-691)
 フランスの国旗は「青・白・赤」の縦縞である。これは、「自由・平等・博愛」を象徴しているという。英語では、freedom∞equality∞brotherhood≠ナある。brotherhood≠ヘ「兄弟」だから、sisterhood≠ヘどうするという人がいるかもしれない…。ともあれ、これらはいずれも追求すべき理想として掲げられているのだろう。フランスでも、この3つが完璧に実現しているとは考えられない。いつも求め続けるもの。それが「自由」なのだと思う。少し前になるが、少年の殺人が問題化したころ話題になったことがある。「子どもから、『どうして人を殺してはいけないか』と問われたら、論理的に答えるのに困難を感じてしまう」。こんなことをマジで論評する、いわゆる識者がいた。それを聞いたとき、何と愚かなことをいう人かとあきれてしまった。世の中は何をしてもいいというわけではない。「他人が死にたくないという自由」を侵す「自由」はない。ただそれだけのことなのだ。いやあ、これで立派な理屈じゃないですか。それに、世の中は「論理や理屈」で説明できないことはいくらでもあるんです。そもそも「私が今ここにいる」必然性を論理的に説明できる人っているんでしょうか。そのために、地球の成り立ちから話をはじめますか。そうなると、どうして宇宙が生まれたかも論理的に説明せんといかんですなあ…。ああ、きりがない。とにかく「人を殺したらいかんのよ」。
自由の相対性(05/03/05-690)
 「世の中には『絶対』はない」と思った方がいい。とくに人間にかかわることは、他人という存在を無視して考えることはできない。自分の意思で、自分がしたいことをする。だれからも強制されたりコントロールされることがない。それが自由ということだろう。「自由」は、個人の成長にとってきわめて重要な条件である。だから、「自由」は最大限に尊重されなければならない。しかし、それはあくまで「相対的」なものであり、「絶対的自由」などあるわけがない。われわれは自由を「何でもあり」と勘違いしがちである。そこには、「他人の自由」を阻害しないという前提があるのだ。例えばレストランで食事中に携帯電話をかける。ご本人にとっては、まことに自由で便利なことである。しかし、まわりの席に座っている人は静かに食事を楽しみたいと願っている。こうした人たちには、「他人の電話を聞かないで食事をする」という「自由」があるはずだ。それを強制的に聞かされるのは、「自由の侵害」なのである。自分の自由を実現することが、他人の自由を損なっている。そうなると、それは「自由」な行動ではなく「勝手」な振る舞いになる。その意味で「自由」はあくまで相対的なものである。しかし、現実にはこれがなかなかうまくいかない。人と人との「自由」が対立し矛盾し争いごとになる。そうではあるけれど、とにかく「自分の自由」を考えるとき、いつも「他人の自由」を念頭に置く姿勢を大事にしたいものだ。
自由の不自由さ(05/03/04-689)
 卒論のときは、リーダーシップについて書くことを決めていた。しかも、そのタイプを測定する尺度もできていたので、それほどの悩みはなかった。ところがその後、大学院に進学してから「自由」がもっている壁にぶつかった。簡単に言うと、「研究テーマは自分で考えなさい。何をやってもあなたの『自由』なんだよ」というわけである。そう言われたとたんに、何をやっていいのか分からなくなる。自分がいままで「自由」にやってきたと思っていたことが大いなる誤解であることに気づくのである。それは、「この中にいろいろ入っているけど、あなたの好きなものを『自由』に取っていいよ」という制限付きの「自由」だったのである。ちょうど孫悟空がお釈迦様の手のひらの上で「自由」に飛び回っていると勘違いしていたのと同じである。そんなことで、テーマの選択には大いに頭を悩ませた。「何でもいいって大変なんだなあ。自由を実現するのはむずかしいものなんだ」。通学に利用していた西鉄の市内電車の中で、こんなことを考えながら街の風景が流れるのを見ていた。いつも狙っていた連接車のお気に入りの席だったかもしれない…。こうした状況で行き詰まると、つい「自由」を放棄したくなる。「何でもいいから、何かテーマをくれーっ」と叫んでしまう。これを「自由の不自由さ」と言うのは、ちょっと無理もあるが、もう昨日からこのタイトルにしたので、このままにしとこう。ともあれ、こんなことで、人間は自由から逃げ出したくなるのである。
「自由の不自由さ」のはじまり(05/03/03-688)
 自由は、人間にとって最も重要な価値だということは、だれにも異論はないだろう。しかし、その自由を実現するのは、それほど簡単ではない。今から、何十年も前に、大学で修士論文を書いたころを思い出す。まずは、卒業論文のことから思い出がはじまる。卒論のタイトルは、「リーダーシップ・タイプの恒常性に関する継時的研究」だった。職場の監督者には、リーダーシップが安定した人と変わりやすい人がいるのではないか。その違いを明らかにしようという研究である。もちろん、研究といっても学生の書いたものだから、稚拙なものである。ともあれ、リーダーシップが変わりにくい人は「等質」という意味合いを込めてhomogeneous type≠ニ命名した。これに変わりやすい方をheterogeneous type≠ニして、両者を「ホモタイプ」「ヘテロタイプ」と呼ぶことにした。何にでもおもしろがる青年期である、この「ホモタイプ」がやたらに受けた。「吉田はホモ≠フ研究をしている」と先輩も含めてみんなが嬉しがったのである。私自身も、そんな冷やかしを大いに楽しんだ。データは久留米にあるブリヂストンタイヤで取らせていただいた。福岡の天神から西鉄電車で久留米に通った。工場の中もご案内いただくなど、未熟な若年者にもかかわらず、一般の方にはできない体験をさせていただいたわけだ。それができたのは、バックに恩師の三隅二不二先生がおられたからである。もちろん、そのことは私も十二分、いやそれよりはるかに重く認識していた…。じつは、「自由の不自由さ」を書こうと思ったのだが、前置きが長くなった。いつものことである。本題は、明日に続けよう。
丸暗記学習(05/03/02-687)
 「詰め込み教育」は評判が悪い。そこで、「ゆとり教育」が生まれてきた。しかし、その「ゆとり」も大いなる勘違いがあるのではないか。そんな話を先月の終わりころに書いた。ともあれ、日本人は「揺れすぎ」だと思う。バブルの時期には「もはや外国に学ぶものはない」などと傲慢不遜な態度を取る。ところが、経済がちょっと転けると「第二の敗戦」だ。またぞろ、「一億層懺悔」と言わんばかりの風潮である。「いい加減にしろーっ」と叫びたくなる。世の中は、白か黒かを完璧に決められるほど単純ではない。教育についても、ひたすら詰め込むことがまずいのは当然である。しかし、子どもたちが分からないからという理由だけで排除するのはいかがなものか。大事なことなら、どうしたら理解させることができるかを考えるべきで、安易に捨ててはいけない。「詰め込み教育」に絡んで「丸暗記学習」も評判が悪い。しかし、まずは丸暗記しないとまずいことがいくらでもある。「あいうえお、かきくけこ…」なんて、理屈で理解するものじゃあない。「どうして、A、B、C、…なんですか」などと聞くより、とにもかくにも丸暗記することが必要なのだ。算数の「九九」なんぞもその典型ではないか。もう理屈なんて二の次、とにかく「二二が四、二三が六…」なのである。先月、梶山千里九大学長の講演を聴いた。その中でも、「理系には丸暗記しないとまずいことがあるんですよ」という発言があった。入試など、短期的目標を達成すれば忘れてしまう。そんなものを、あれもこれも暗記しろと強要するのがまずいというだけのことである。
感動の風圧(05/03/01-686)
 公的な施設のトイレはきれいになってきた。何といってもトイレが汚いと気分が悪くなる。トイレの美しさは、国の文化程度を示していると思う。そのトイレだが、このごろは「自動」で手洗いの水が出るところが増えた。そこで、ついつい手を出して水が出るのを待つ。ところが、何の反応もない。「あっ、自動じゃないんだ」と気づくというわけだ。傍から見ていると、滑稽な光景になる。自動ドアの場合も似たようなことが起きる。ドアの前で立って開くのを待つ。しかし、ドアはウンともスンとも言わないのである。「あっ、自動じゃないんだ」。まあ、だれもがこんな経験をしたことがあるだろう。とにかく便利といえば便利なんだけれど、人間が受け身的になってしまう。その手を洗ったら、今度は風圧で手を渇かす道具が設置されているトイレが増えてきた。このごろは、その風圧に感動している。ずっと以前から同じメカニズムのものはあった。しかし、その風圧がとろいのである。手を突っ込んでいても風がチョロチョロなので、手についた水が切れない。そこで、イライラして、途中で手を引っ込めるのである。そのころ外国に行ったら、同じようなものがあった。もちろん迷わず試してみた。それはそれはすごいパワーだった。電圧が違ったのだろうが、大いに感動した。そして、日本製のひ弱さにあらためてがっくりしたものだ。あれからどのくらい経つだろうか。わが国の製品もたくましくなってきた。三菱製のものは「ジェットタオル」と名付けられているが、その名に恥じない風圧である。これだけで手が渇いてハンカチがいらない。電圧は変わっていないように見える。きっと大いなるノウハウが隠されているのだろう。完璧に渇かそうとして、30秒くらい粘っているだろうか。いまのところ、後ろに人が立って待つという状況はない。だれかが使ってたら、あきらめてハンカチですませるという感じだ。しかし、私はあの風圧の快感がたまらない。だから、人が使っていても待つことにしている…。