| お世話になりました(04/12/31-625) 今年も最後の日を迎えました。この1年間、「味な話の素」にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。おかげさまで毎日せっせと更新できました。昨年の4月スタートですから、1月1日から12月31日までの日付が揃ったのは今年が初めてのことになります。カウンターも35,000件を超えました。1万件目はお寺のご住職の奥様でした。2万件目は、毎日アクセスして下さる民間企業の方でした。そして、3万件目は熊本県内にある中学校の先生でした。さて、さて4万件目はどなたになるのでしょうか…。カウンタの数値を見るたびに、ますますやる気の高まりを感じています。ネタが思い浮かぶと、ワープロに2行ばかりのメモを書きます。それがけっこう貯まっています。そのメモを見ていると、これに利子まで付いてくるんです。そんなわけで、「ネタ切れするんではないか」と、ご心配いただく必要はございません。(だれも心配なんかしていないですって! あっ、そうか…) ともあれ、元気が第一、健康が第一、これからも書き続けていきたいと思います。みなさま方のご愛読を心からお願い申し上げます。
|
| 「ことばと態度」のつもりが…(04/12/30-624) このごろの学校ではいろいろな英語が使われている。TT、ALT、GT、などなど。TT は、Team Teaching 、 ALT は、Assistant Language Teacher、 GT は、Guest Teacher である。Team Teaching のオリジナルは1950年代のアメリカにあるようだ。しかし、いまわが国で TT と言えば、「2人以上」の教師が同じ生徒集団に役割を分担しながら指導するものである。とくに、1人の教師が、理解不足と思われる子どもたちを個別に指導をするなどは典型的なものだ。「2人以上」とはなっているが、私が見せていただいたほとんどの授業が2人だった。TT の効果については研究も行われている。私の立場からは、2人の教師の関係に目が向く。それは、「人間関係」そのものであったり、経験や年齢もある。同じ大学出身の先輩・後輩といった状況だってあり得るだろう。ともあれ、「関係」はいろいろである。また、「子どもとの関わり」も教師間に違いがあるはずだ。これは当然のことだが、それが TT の効果にどんな影響を与えるのか。ここで「まったく同じように対応する」なんて回答が出るはずがない。それなら、先生方はロボットになってしまう。2人の個性や特性、子どもとの関係をどう生かすか。これが大きなポイントになる…。まずいなあ。TT の話だけでここまで来てしまった。本当は、「ことばと態度」について書くつもりだったのだ。まあ、末永く続ける「味な話の素」です。焦らずに行きましょう。タイトルも、言い訳つきに直しました。 |
| 中吊り広告(04/12/29-623) 東京の地下鉄に乗っていたら興味ある広告に目がとまった。ある週刊誌の中吊りで、北野武氏が芸大教授になった話題を取り挙げている。そこに、「講議」という文字があるのに気がついた。もちろん、これは「講義」が正しい。「議」のように言偏はつかない。学生だけでなく、一般の方でも「講議」と思い込んでいる人が少なくない。ただし、私自身は「講議」もおもしろいと思っている。教師がしゃべるだけでなく、みんなが参加して勉強しようという意味合いを込めてのことである。その趣旨の話は、すでに本欄でも触れたことがある。さて、この週刊誌も、何やら意味があって「講議」としたのかもしれない。そうだとすれば、理由を知りたいものだ。そんなことを考えながら熊本に帰って、問題の週刊誌を立ち読みした。しかし、そこには「講義」はあったが、「講議」なんてどこにも書かれていなかった。そうなると、あの中吊り広告は大チョンボだったのか。それとも私の見誤り? いやいや、たしかに「講議」だったと思うんだけどなあ。まあ、それにしても世の中はネタにあふれている。だから人生はやめられなくなってくる。手元にある「味な話の素」のためのメモは増えるばかりだ。あー、困っちゃった。 |
| 新幹線のスピード(04/12/28-622) 熊本に住んでいると新幹線に乗る機会はほとんどない。年間に数回というところだろうか。広島までなら新幹線しかないが、それ以上は飛行機になる。新八代-鹿児島中央駅は開通したが、まだ1度しか乗っていない。それも出水までである。そんな状況の中で、久しぶりに新幹線を利用する機会があった。のぞみ≠セったが、東京から品川に止まる。さらに横浜も停車して、つぎは名古屋を目指す。横浜までは、それほどのスピード感はなかった。しかし、その後はグングンとスピードを上げていった。架線を張っている電柱が次々に飛んでいく。初めて新幹線に乗ったとき、電柱の速さに驚いたことを思い出していた。そして、同時にその音と揺れを体感しながら怖くなってきた。「地べたをこんなに速く走っていいのかしら」。そんな疑問がポット浮かんだのである。しかし、それもしばらくのことだった。気がつくと、いつの間にか慣れている自分がいた。恐るべきは人間の適応性だ。多くのことが慣れることによって意識されなくなる。そして、そんなときに事故やミスを誘発する悪魔が忍び寄ってくるのである。「天災は忘れた頃にやってくる」。寺田寅彦が言ったとされている。けだし、名言である。しかし、慣れなければ何ごともスムーズにいかないのも事実だ。人間はそこが難しい。 |
| 好感度の源泉(04/12/27-621) アメリカの社会心理学の実験。大学生を対象にして、ラジオのクイズ番組のテープを聴かせる。その出場者に対する視聴者の好意度がポイントである。実験であるから、出場者の特性があらかじめ操作されている。その一つは秀才条件である。番組の出場者はスポーツ万能で成績も優秀、そしてクイズも90%以上の正解率を誇る。もう一つは平凡条件で、スポーツ普通なら成績も平凡というわけだ。そんなことで、クイズの正答率も30%であった。しかし、こうした異なる条件の出場者に対する好感度を大学生に聞いたところ、それほどの差は認められなかった。これで終われば、何の発見もないのだが、この後でテープには出場者がスーツにコーヒーをこぼす場面がつづくのである。それを聴いてから改めて大学生たちに印象を尋ねてみた。すると、秀才条件で好感度が上昇し、平凡条件では好意度が低下したのである。ものすごい人がドジを踏むと安心感が増すのだろうか。案外と身近に感じられるのかもしれない。ところが、もともと身近な人が失敗すると「アホかいな」となるのである。「俺なんかあんな失敗はしない」などと思えてくるのだろう。すごい人は、失敗してもプラスになるというわけだ。なんともうらやましい限りである。 |
| G.M. vs. Toyota(04/12/26-620) お久しぶりにNew York Timesの話題。10月31日号の記事だから少しばかり古いが、トヨタの躍進ぶりが取り上げられた。このところ、New York Timesの経済欄は中国と相場が決まっていた。まさに、日本企業をプラス評価した久しぶりの記事である。その後、世界の自動車販売台数の数値が出たり、トヨタの戦略も明らかにされたりした。そして、トヨタがG.M. を猛追していることも報道されている。その先駆け的な記事である。株のことはよく分からないが、とにかくトヨタの方がG.M. よりも収益性がいいらしい。また、G.M. は会社にとって大きな負担になる年金問題を抱えているが、トヨタにはそれがないというアナリストもいる。多くの投資家がトヨタの方を選んでいるという。もちろん、長期的にはG.M.の力を信じる人もいるようだが、さてさてどうなるか。今後は、まさに中国市場での闘いが厳しくなっていくに違いない。こうした記事が出るときは、「賞賛」する一方で、アメリカ国民に「警戒」を呼びかけているのだと思う。この数年間、中国に関する記事を読みながら、そんなことが分かったような気がする。 |
| 中国の良心(04/12/25-619) 中国のメーカーが、「HONGDA」のロゴをつけた二輪車を製造し販売していたらしい。「HONDA」じゃなくて「HONGDA」なんですよね。思わず吹き出したくなるような名前ではある。しかも、この会社は中国の二輪車メーカーとしては大手だという。これに日本のホンダが商標権侵害だとして訴えた。その結果、中国はホンダの訴えを、ほぼ全面的に認めたのだそうな。ロゴの使用差し止めと1,850万円の損害賠償を認めたという。それにしても、こんなところで訴えを退けては中国の評価が落ちるところだった。昨日は自分の裁判所に対して損害賠償を払えという判決を出した裁判官のことを取り上げた。外からは、どうしても「身内には甘くなる」と見られるものだ。そんな状況で「さすが」と思わせるのは容易ではない。しかし、いまや中国は世界経済を左右する大国だ。原油の消費量は日本を抜いてアメリカに次ぐ第2位である。ビールの消費量に至っては世界のトップに躍り出た。今回の件は、社名の一部が「HONGDA」と表現できるから問題ないと主張していたらしい。そんな事情があったにしても、自分の力を信じて、先発有名メーカーと紛らわしい名前は使わない。それくらいの意地がなくてはね。ともあれ、中国も小賢しいことを考えるような立場ではなくなっているはずだ。まあ、このニュースを聞いて、少しばかりホッとしましたよ。もっとも、控訴する可能性もあるらしい。まずは「公平」なイメージでアピールし、その次で「逆転」なんてことはないと思うのだけれど…。 |
| 自分を裁く(04/12/24-618) 一昨日、ラジオで聞いたニュース。関西地方の裁判所支部で、ある判決があった。視覚に障害のある方が裁判所内でこけて怪我をした。裁判所に障害者の事故を防ぐ手だてが施されていなかったとして、その責任を追及する裁判を起こした。訴えられたのは裁判所であり、結果として国である。トラブルがあって損害賠償を請求する事例は珍しくない。しかし、被告が裁判所である。しかも原告が怪我をした当の裁判所なのだ。そこに所属する裁判官が、この係争を処理する。まさに身内というか、考えてみれば自分自身を裁くようなものである。結論は裁判所の不備を認めて、国に100万円の賠償をするよう求めたという。裁判所はすべての人々が出入りする機関である。そのことを踏まえて、施設も整備しなければならない。これが判決の理由である。すでに、裁判所では点字ブロックなどを設置したという。それにしても、自分で自分を裁くという事象そのものが希な現象だ。裁判所そのものが訴えられることが珍しいからである。そんなときに、客観的に淡々と判決文を創り上げる裁判官の気持ちはどんなもんだろうか。基本的には事務的な問題だが、判事たちも日常的に仕事をしている場所である。「自分に責任はない」と逃げるわけにもいかない。もっとも、時代的には対応不足を認めざるを得ない事例ではあった。その意味では、大きな悩みはなかったかもしれないが…。これって、控訴はないんだろうなあ。 |
| 人間ドック物語(04/12/23-617) いつも通り朝方に更新したつもりでしたが転送できていませんでした(14時10分) 人間ドックに行ってきた。母が47歳の若さでなく亡くなったこともあって、36歳のときから「通って」いる。今年で21回目だった。どうして36歳からなのか。それにはちゃんとした背景がある。35歳以上になると共済組合から補助が出るからだ。私が行きはじめたときは1万円ほど自己負担をしていた。今年は2万6千円である。その当時は希望者も少なかったが、いまは大にぎわいの感がする。けっこうなことである。そんな中で、「ドックには絶対に行かない」と言う先輩がいる。その先輩とはじめてドックが話題になったときのことを憶えている。「私はドックには行かない。絶対に行かない」「どうしてですか」「だって、『あれがあるだろう、あれが…』」。先輩の顔の雰囲気から、その心はすぐに分かった。あの直腸診というやつである。お医者さんが肛門から指を突っ込んで、異常がないかどうかを触診する。まあ、聞いただけでビビれるような内容ではある。しかも、もうひとりドックに行っている先輩がいて、「今度は女医さんだった」なあんて言うものだから、その先輩はなおさらドック拒否症になったわけである。そんな話しの中で、私としては軽い冗談を言った。「エー、そうなんですか。ボクなんか、あれがあるのでドックに行ってるんですけどね…」。先輩は大いに笑い、それに私は大満足した。しかし、冗談も考えて言わなければならない。その内容だけが一人歩きすることが少なくないからだ。それからというもの、私はある「特殊な趣味」を持った人間ではないかと疑われることになった…。まあ、このあたりも冗談っぽく読んではいただきたいのですが…。いまでは、進化して指ではなく大腸ファイバーに変わっている。あの苦い体験(?)に懲りて、「ファイバー好き」であることは公言しないことにしている??? |
| さっそくバスで…(04/12/22-616) 羽田空港の第2ターミナルがオープンした。月初めの報道系番組を見ていたら、「これでバスによる移動が大幅に減る」と言っていた。これまでも、地方空港を「優先的」にバスにしていたのだろう。熊本便はバス移動が多かった。ボーディングブリッジを使う方がずっと楽であることは言うまでもない。そんなことで、報道番組の情報を信じて東京に行った。ところが、ところがである。何とのっけからバスである。「みなさまをバスでお連れします」だって。なあーんだ、変わってないじゃないの。バスじゃなくっていいのよ…。さて、用件をすませて再び羽田に行った。電光掲示板には熊本行きの搭乗口が100番台でキラめいている。やれやれ。この大台はバスと決まっている。何のことはない。帰りもピカピカのバス通勤と言うことになった。新しいターミナルは、これまでの終点の先にモノレールの駅ができるほどのところに建てられた。それはそれはデカかった。だからバス利用は大幅に減ったと推測される。しかし、その当たりくじが熊本には回ってこなかったようだ。やっぱりボーディングブリッジは、客の多い幹線を優先しているわけよね。それにしても、あの番組情報は大いに期待をふくらませてくれたのだけれど…。 |
| 時代と漢字(04/12/21-615) 時代とともにことばは変わる。ときには違和感を感じてしまうこともある。「全然いい」なんてのもその代表だ。「全然」は後に否定の文を伴うことになっているからである。しかし、このごろは当然のように使われている。あの広辞苑にも、「俗な用法で、肯定的にも使う」となっている。だから、素人が文句を言っても迫力はない。漢字については、以前にはなかった読み方が生まれたりする。たとえば「録る」などは時代の産物である。これは明らかに「録画」が日常化して生まれた読み方である。もともと写真や映画を「撮る」と表現していた。撮影ということばからきたものだと思われる。そんな中で、ビデオが生まれた。それによって、「録画する」ということばが使われるようになった。すでにテープレコーダーがあり、これは「録音」である。もともとは「音を記録する」から「録音」なのだ。その延長線で、画面を記録するから「録画」というわけである。このままだと「録画する」だけで十分だった。しかし、「ビデオ」ということばに対応する必要が出てきた。これに、「ビデオする」というと若干の違和感がある。そうなると「ビデオを撮る」となってもよさそうである。しかし、そこでちょっとおもしろい方向へ展開した。写真や映画は主体的に人間が撮る。これに対してビデオは機械が「撮る」のである。そうなると、「撮る」はちとおかしい。そこで誰かが「録る」と当てたのだと推測される。イヤー、なかなかおもしろい。わたしの手元にある広辞苑や漢字辞典には「録る」はない。しかし、ワープロにはちゃんと「録る」が準備されている。さすがに、時代を追いかけるワープロではある。この手の「新読み」も増えるのだろう。 |
| 学力と楽力(04/12/20-614) おやおや。OECDの調査で高校生の学力が心配だというニュースが流れたのは、今月はじめだったか。それに追い打ちをかけるように、今度は小中学生の数学や理科もメタメタだったというニュースだ。いわゆる「ゆとり」教育の見直し論争に発展しそうな気配になってきた。たしかに受験だけを目的にした「詰め込み」がまずいことは間違いない。目標を達成した途端に忘れてしまうなんてものは「生きる力」に結びつかない。もっとも世の中は広いもので、そうした無駄に見えることだって、後々の人生に役に立つという人もいる。また、「詰め込み」といっても、生活に最低限の知識は教えなければならないという考え方もある。「だからこそ、日本人の識字率が高いのだ」。私が「詰め込み」を話題にしたとき、こんな意見を言った学生がいた。「詰め込み」に対する捉え方の違いも感じるが、なるほどと思った。いずれにしても、「詰め込み」の反対が「楽をする」ことだと考えてはいけない。野球少年が練習に没頭するように、理科や数学に夢中になる子がいてもいい。人間は一生懸命になれば、苦労だって厭わないものだ。脳みそが痺れるほど考えた末に正解を発見したときの快感は表現のしようがない。それは「苦しみ」と「楽しさ」が共存する不思議な心の世界である。「楽は苦の種、苦は楽の種」。あー、こんなことを自分に言い聞かせながら勉強していたころが懐かしい…。ともあれ、子どもたちに、興味があることをどんどんさせたいものだ。そうした中で、「学力」だけでなく、学ぶことを楽しむ「楽力」が身についていくのである。 |
| Skin-Deep Beauty(04/12/19-613) もうかなり昔の話になる。大杉正明氏がNHKのラジオ英会話を担当していたころである。正確には覚えていないが、skin-deep beauty≠ニいう言い回しが記憶に残っている。文字通り、皮膚の厚さだけの美しさということ。容貌がよくても、それは「皮一枚」のことに過ぎない。表面的なことに左右されてはいけないという教訓である。その、skin-deep という英語がなかなかいい。いかにも「薄っぺら」「表面的」というニュアンスが伝わってくる。われわれは、うわべや見栄えのよさに惑わされて、本当に大事なことを見逃していることが多いものだ。何と言っても、人間は中身なんだよね。心なんですよね。皮の下にある温かさ、優しさが大切なのである。そして、何よりも明るい方がいいなあ。もちろん、どうしてもキャッキャとはしゃげない人もいる。なかなか明るく振る舞えない人だっている。人間の世の中は、いろんな人から構成されているのである。だから、一方的に「明るく、明るく」と要求しまくるのはやめた方がいい。ただ、少しでも未来に夢を持って、楽しい気分で生活していきたいとは思う。そうした内面的な安定感が、結果として表面的な美しさを創り上げていく。そんなことも大いにあり得るのではないか。きっとそうだ。 |
| 鳴り物入り追放(04/12/18-612) 今年のプロ野球は話題に事欠かなかった。その中でも、近鉄とオリックスの合併は最大のものだろう。シーズン中にそれを発表するあたり、経営者の野球に対する神経は相当なものだ。プロの選手が真剣に仕事をしている真っ最中のことである。「たかが野球選手」といった本音が聞こえてくるようだった。ライブドアと楽天の参入に際しても、かなり突っ込んだ面接が行われた。しかし、自分の球団をうまく経営できない人たちが、新規の人たちを品定めすること自身、相当な皮肉である。「あなた大丈夫なの」と聞きたいのはどちらの方でしょうかねえ。それにしても、楽天はどうなるか。東北人の気概の見せどころだけれど、楽天は「鳴り物入り」を抑えようと決めたようだ。じつに素晴らしいことである。福岡ドームに行って、そのうるささに閉口したことは、この欄でも触れた。球場に騒ぎに来ているとしか思えない人々が多すぎる。欲求不満のはけ口として必要な人もいるのだろう。それにしても「過ぎ」ているのである。ゴルフについてはまったくの素人だが、選手が打つ前はシーンとしている。そして、ボールが飛んだ後にどよめきと拍手が起きる。そうでなくっちゃあ。プロの技を見て、それに対価を払うのである。九州場所でも、朝青龍が勝ったのに座布団を投げる。番狂わせでも何でもないのだ。見ていると、前の席の女性に座布団が当たったりしていた。横綱のマナーが問題視されるが、客のマナーも相当に悪い。スポーツを楽しむ資格のない人たちだ。子どもたちは、そんな大人を見ながら育っていく。 |
| 習慣的「指差呼唱」(04/12/17-611) 「スイッチ、ヨシ」「ドア閉メ、ヨシ」「イノチヅナ、ヨシ」。確認する対象を指で差しながら声を出す。いわゆる指差呼唱である。そのアイディアは国鉄で生まれた。それは安全確保に効果的な方法として、高い評価を受けている。「指を差すし」「声を出す」ことは意識的な動作である。職場の安全が脅かされるのは、いろいろな動作や作業に「慣れ」ることによっている。無意識化しているのである。それを意識化するという考え方は理にかなっている。そんなことから、いまでは多くの組織に導入されている。しかし、その意識化したはずの「指差呼唱」にも無意識化の圧力が加えられる。ある職場を見せてもらったときのこと。朝のミーティング後の現場チェックで、全員が指差呼唱していた。これがすごかった。たしかに指を差し、声を出してはいる。しかし、それが何ともダラダラのいい加減に見えるのである。その雰囲気を文章で伝えることは至難の業だ。とにかく迫力が感じられない。ただただ、機械的にやっているとしか見えないのである。まさに「慣れ」ることの怖さを感じた。もはや「指差呼唱」が「習慣化」しているのである。「慣れ」がなければスムーズに仕事はできない。しかし、その「慣れ」が悪さをする。まことに人間は因果な動物だ。 |
| 都市の顔(04/12/16-610) 熊本市は人口67万人、九州では福岡、北九州に次ぐ第3の都市である。しかし、JR熊本駅をはじめて降りた人は、その寂しさに驚くのではないか。この私自身が熊本に来たとき、いささかビックリしたことを憶えている。いわゆる中心街は、それなりの都市的な風貌を備えているのだが…。今でこそ、ホテルなどがボチボチ立ちはじめたが、とにかく県庁所在地の風情ではない。まあ、人口30万人くらいの感じだろうか。新幹線が来るというので、都市開発事業も本格化してきた。今後は、少しずつ変わっていくのだろうか。改札口を出てすぐのタクシー乗り場も工夫がほしい。左右に2台分あるが、いわゆるフォーク並びになっていないので、どちらに並ぶか迷ってしまう。人が少ない方に並ぶと、「おまえ、ズルするな」といった冷たい目で見られる。われわれは慣れているからいいが、はじめて来た人は段取りが悪いと思うに違いない。この欄でも、北陸のT駅でちょっとイヤな体験をして、その都市のイメージが悪くなったことを書いた。ささいなことが全体の印象を壊してしまう。ましてや玄関口である駅での出来事の影響は大きい。しっかりしましょうよ。 |
| 訂正スピード(04/12/15-609) 先週のことである、テレビ朝日系のワイドショーでカーター元アメリカ大統領の名前が出る部分があった。ところが、画面に映ったのはフォード元大統領の顔である。その間違いには瞬間的に気づいた。おやおやとは思ったが、まあすぐに訂正するだろう。そんな気持ちでいたが、その後も、何もなかったように話しが続いていった。番組にはジャーナリストの鳥越氏も出ていた。あの彼が、ビデオの取り違えに気づかないはずがない。そう確信するのだが、とにかく一言もないのである。何とも気になってテレビを消さずにいた。結論から言うと、番組の終わりがけの9時50分ころに、司会者が訂正した。最初に取り違えの画面が出てから1時間以上が経過していた。この種のネタを取り上げるときはいつも書くのだが、視聴者は番組の最後まで見ているとは限らない。朝方はとくにそうだ。だから、できる限り早めに訂正することが大切なのである。それに、あんなに遅い訂正だと、視聴者からの指摘ではじめて気づいたのではないかと勘ぐられる。第一線級のジャーナリストが同席しているのである。元大統領の顔を識別することくらい朝飯前に違いない。放送のプロとしては、映像の取り違えは決して小さなミスとは言えない。ともあれ、ミスは可能な限りスピーディに公表し、対応すること。それが「組織安全」をたしかなものにする基本である。危機管理は、初期対応が結果を左右する。やり方によっては信頼を高めることすらある。 |
| 情報を読む(04/12/14-608) 理解力低下の記事を読んだとき、「あれっ」と思った。14位である日本の上に並んでいる国の名前である。「フィンランド、韓国、カナダ、オーストラリア、リヒテンシュタイン、ニュージーランド、アイルランド、スエーデン、オランダ、香港、ベルギー、ノルウエー、スイス」だ。ここには、アメリカもイギリスもドイツもフランスも入っていない。イタリアもそうだ。デンマークやスペインはどこに行ったのか。じつは、そのすべてが日本よりも下位にいるのだ。たとえばフランスが17位で、アメリカとデンマークが続いている。ドイツは21位なのである。イギリスは調査手続き上の理由でデータに入っていなかった。詳細は、文部科学省のホームページをご覧になることをお勧めしたい。URLは、http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/04120101.htm である。それでどうしたと言われそうだが、フランスやドイツなどは、どんな反応をしているのか知りたいと思う。再度確認しておくが、わが国の子どもたちの読解力については大いに心配している。このままでは、さらに深刻な事態になりかねない。そうではあるが、とにかくセンセーショナルな部分だけで一喜一憂するのは考えものだと言いたいのである。地元の熊本日日新聞は「読解力」以外の観点も入れて、アメリカ・フランス・ドイツの結果を図示していた。そのため、日本も「科学的応用力」や「問題解決能力」では、まあまあであることが分かった。こうした複数の情報を提供することはきわめて重要である。そして、受け手も複眼の視点を持つことが求められている。 |
| 読解力ダウン(04/12/13-607) 先週、OECDが実施した学力到達度調査の結果が報道された。「日本 読解力14位」(毎日)「日本は数学6位、読解力14位に転落」(朝日)「読解力14位に急低下、数学的応用力は6位」(読売)。とくに読解力ダウンが強調されていた。たしかに、大学生の語彙の少なさに不安を感じることもある。また、若者を中心に新聞を読まない人も増加している。そんなことで、読解力の低下は何とかしなければと思う。ただし、情報は受け止めるときにしっかり吟味することも必要だ。読解力の順位を見ると、「フィンランド、韓国、カナダ、オーストラリア、リヒテンシュタイン、ニュージーランド、アイルランド、スエーデン、オランダ、香港、ベルギー、ノルウエー、スイス」と続き、ようやく「日本」がやってくる。今回の調査対象は15歳である。わが国では高校1年生に当たる。まずは、各国の高校進学率はどうなっているんだろうかと思う。日本の場合は97.3%(H15年度)である。そこから対象を無作為に抽出したとすれば、とにかく15歳の代表になる。もし、進学率が70%の国があったとすれば、その中から対象者が選ばれることになる。さらに進学率が低いところがあれば、どうなるか。エリートとまでは言えないにしても、ある程度の学力を持った子どもたちが多いと考えられる。そこから対象を選べば、いきおい点数は高くなるだろう。OECDのホームページを見ると、学校に行っている子どもたちに調査したようだ。そうなると、データを見る前に進学率をチェックする必要がある。もともと違うレベルの対象者を比較するのでは実態を知ることはできないことになる。また、統計的にはスエーデンより上の国と意味のある差が認められたという。そうなると、9位のオランダと並んでいるとも言える。9位と14位では受ける印象が違ってくるではないか。 |
| 瞬間芸(04/12/12-606) 12年ぶりに九州場所に行った。当時は若貴時代の全盛期。曙もいれば武蔵丸もいた。もちろん小錦も忘れてはいけない。初日だったが、貴乃花は小錦と対戦して、あえなく吹っ飛ばされた。それにしても、あのときは清水の舞台から飛び降りるほどの料金だった。知り合いがプレミア付きでよければ、チケットが手に入るよと言ってくれたのだ。それでも、家族には一度だけでいいから本物の相撲を見せたかった。そんな気持ちで、私としてもかなりの無理をしたのである。今回も初日だったが、料金はまともだった。息子が独立したので、枡席に家内の母を呼んだ。大いに喜んでもらった。私なりの親孝行である。それにしても、後ろの方の空席が目についた。まさに隔世の感がした。ところで、相撲は瞬間芸だと思う。あっという間に勝負が決まる。だから世界で本当に力持ちは相撲取りではないと思う。しかし、そんなことはどうでもいい。あの土俵の中で、定められたルールの下に勝負を決するのである。ほんのちょっとした呼吸の違いが勝ち負けに影響する。ある意味では、相撲はスポーツを越えた芸術だと思う。小さな人間だって大男に勝つことが可能なのだ。だから相撲はおもしろい。土俵がなくて、手をついてはいけないというルールもなければ、いつだって曙が勝つに決まってる。工夫なんてしようがない。相撲は極めて日本的な芸術なのだ。相撲は瞬間芸だからこそおもしろい。 |
| セルフ・サービスマン(04/12/11-605) 最近はセルフ・サービスのガソリンスタンドが増えてきた。7年ほど前にオーストラリアに行ったとき、初めてセルフの給油を体験した。あのときは、とっかかりからスタンドの係員に助けを求めた。レンタカーの給油口を開ける方法を知らなかったからである。そのころ日本で乗っていた自分の車は、キーを使って給油口のカバーを開けていたのだ。おそらく、オーストラリアのサービスマンは呆れたのではないか。ガソリンの入れ方そのものは、他人の見よう見まねで何とか満タンにした。内心は爆発でもしないかとドキドキだった。そうした貴重な経験のおかげで、日本でセルフが解禁された後、何回かセルフで入れるときもスムーズにいった。つい先日のこと、セルフと気づかずにスタンドに入った。給油機のあたりに制服を着た若者がいた。いつものように、「レギュラー満タン」と言おうと思ったが、車の前に立ったままこちらへ来ない。おかしいなと思いつつ、ふと横を見るとセルフっぽい。仕方なく降りてみると、カードの差し込み口やらテンキーなんぞが見える。「この手ははじめてだなあ。面倒くさそう」と躊躇する。その日は、取り扱い方を読んでいるほど時間的な余裕はなかった。そこで、前に立っている彼に聞いた。「これってセルフ?」。にっこり笑って「そうです」と応えてくれた。しかし、それだけで一歩も動かない。説明しようという雰囲気もないのである。私は即座に「あっそう。じゃあいいや」と言って運転席に戻り車をスタートさせた。あのお店、お客を一人失ったと思う。彼は何のために立っていたのだろうか。セルフだから客の手助けをしてはいけないと決まっているのかしら。ガソリンは自分で入れるけれど、最初の手続きが分からんわけですよ。「お手伝いしましょうか」と言ってくれれば、40リッターは入れたのに…。あのあたりはよく通る。「あそこは感じがよかったから」「親切に教えてくれたから…」。こんな体験がお客さんをつかむんですよね。 |
| モラル崩壊(04/12/10-604) 村上春樹「アンダーグラウンド」は、地下鉄サリン事件に関係した人々に対するインタビューをまとめたものである。700ページを超える大作だ。その中に、地下鉄職員の話が出てくる。「オウムみたいな人間たちが出てこざるを得なかった社会的風土というものを、私は既に知っていたんです」「それはモラルの問題です」「たとえば私たちがちりとりとほうきを持って駅の掃除をしていると、今掃き終えたところにひょいとタバコやごみを捨てる人がいるんです…」。この話、目に見えるような気がするだけに怖いと思う。喫煙率は急激に低下している。しかし、いまだに自動車の窓からタバコをポイ捨てする人間がいる。それは「してはいけない」などと教える以前の問題である。しかも、それを咎めるとくってかかられる。最悪の場合には殴られたり、刺されたりして事件になってしまう。だから、体力に自身のない一般人は、つい見て見ぬふりをする。それがまた快感になるのかもしれない。だから、行動は変わらない。それどころか、その種の行為はますますエスカレートする。まさに悪循環である。こうした問題に絶対的な解決策はない。子どものころから「正義はかっこいい」ことを教え続けることも、その一つだろう。もちろん、大人が範を示さなければ、正義も迫力がない。 |
| 初心にかえる(04/12/09-603) 「初心にかえれ」と言われる。慣用句としては「初心忘るべからず」だろうか。もともとは能楽から生まれたものだという。いずれにしても、そうした言い回しがあるのは、初心にかえることが難しいからである。あるいは、初心は忘れやすいからである。私は鹿児島にある短大から熊本大学にやってきた。もう25年前のことだ。そのときから研究室という名の付いた個室を与えられた。考えてみれば恐ろしいほどすごいことである。世の中に、個室を持って仕事をしている人がどのくらいいるだろう。例のプロ野球参入で話題になったあの社長は個室を持っていないという。まあ、この人の場合はそういう主義だから、それでいい。とにかく私としては、恵まれた環境で仕事ができることに感謝している。そして、初めて部屋に入ったときの気持ちを懐かしく思い出す。それにしても、あれから長い時間が経過していった。いつの間にか研究室があるのを当然と思っていないか。自分の境遇を当たり前だと考えていないか。「しっかりがんばるぞ」と奮い立ったことを忘れていないか…。年齢とともに記憶力も鈍くなってきた。しかし、初心はいつまでも忘れてはいけない。年を取っても、昔のことは憶えているものだから。 |
| チカンの看板(04/12/08-602) 関東地方のW市に行ったときの話し。目的地に近いバス停で降りて歩く。道路に沿って金網に囲まれた広大な土地がある。まだ木々が残っている。以前は雑木林だったことを想像させる。近くには国の施設が3つほど建っている。いずれもかなり大きい。おそらくこの雑木林の土地も国有地だろう。その金網に看板が立っていた。「チカン追放パトロール中 変な男を見たらすぐに110番」と書かれている。私は思わず笑ってしまった。やっぱり、「チカン」といえば男なんだ。もうはじめから決めつけられているわけである。この際、「変な人」ではいけないのだろうか。たしかに痴漢の「漢」はもともと男という意味がある。好漢も悪漢も無頼漢もみんな男なのだ。まあ、昔から痴漢は男と相場は決まっていたということですね。それにしても、電車やバスで痴漢が出るのも、ラッシュがすごいからだ。東京や大阪などの都会に行くたびに、住んでる人は大変だろうと思う。それに比べて、私の仕事部屋からは公立中学校が見える。そこからはブラスバンドの演奏が流れてくる。北側の会議室に行くと、目の前は附属中学校だ。こちらはコーラスの歌声である。じつにゆったりとした気分になる。まことに幸せなり。もっとも、このごろは学校近辺に「変な男」が出没するという話も聞いた。困ったことだ。 |
| 腹を抱える(04/12/07-601) 「お腹を抱えて笑う」という。おかしくてたまらないときは、そんな感じになる。これを英語ではbelly laugh≠ニいうことを知って笑ってしまった。bellyは「腹」のことである。西アジアあたりで、臍を出した女性が腹部や腰を捻らせて踊るのがbelly dance≠ナある。これも「お腹」そのものに関係している。それはともあれ、おかしいときには、洋の東西を問わずお腹で笑うということである。そこが気に入った。腹の底から笑うと健康にもいい。笑うとNK(Natural Killer)細胞が増えるという研究があることは、この欄でも取り上げた。NK細胞は細菌やガン細胞を攻撃してくれる正義の味方である。子どものころは、お腹を抱えて笑ったことが多い気がする。あまりにおかしくて、笑いが止まらないのである。それで、お腹の筋肉が痙攣するほどだった。そんな笑いが世の中から減ってしまっていないか。テレビでも、人をいじめる、恥をかかせる。わざとイヤなことをさせる。そんなことで笑いを取ってどうする。とても健康な笑いとはいえない。心の底からお腹を抱えて笑ってはいない。人を貶めて笑うことの卑屈さよ。そんなことで優越を感じる悲しさよ。そんな笑いしか見ていないから本物の笑いを忘れてしまう。困ったことである。 |
| 忘れ物(04/12/06-600) 授業が終わって帰ろうとしたら、女子学生が教室に入ってきた。明らかに何かを探そうとしている。「どうしたの」と聞くと「忘れ物です」という。200人近くの受講者がいるので、その顔は憶えていない。前方の席あたりを見回す彼女と少しばかりことばを交わした。「何を忘れたの」「傘です」「いま忘れたの」「いいえ昨日です」。その答えを聞いて感動してしまった。今どき、忘れた傘を探しに来る若者がいるのである。巷にはモノがあふれ、傘なんぞ忘れても、「また買えばいい」。そんな世の中に、昨日忘れた傘を探しに来る学生がいるのである。私は思わず、「えらいねー。モノを大切にするんだね」と声をかけた。こんな学生に出会うと、親御さんの教育がしっかりしていたのだろうと嬉しくなる。そんな気持ちになりながら、私は行橋小学校のころを思い出した。床屋さんからの帰り道、雑誌の付録を忘れたことに気づいた。おそらく冬場だったに違いない。すでに周りは真っ暗だった。そんな中で、誰もいない川の土手を、「ちゃんとあるように」と祈りながら走った。3年生の私はおそらくべそをかいていたかもしれない。息せき切って床屋さんに入った。すぐにその本があるのを確認したときの嬉しさは、今も忘れられない…。モノがないから大事にした。当たり前のことだ。だから、モノがあればいい加減にする? そんな理屈は成り立たつはずがない。女子大生を見ながら、懐かしい思い出に浸っていた。ところが、2日ほど前、私自身がタクシーに傘を忘れてしまった。乗ったタクシー会社をはっきり記憶していないので、早々に諦めた…。 |
| イメージの違い(04/12/05-599) 黒澤明監督の長女、和子氏が書いた本は興味深く読んだ。「回想 黒澤明」(中公新書)である。「黒澤明といえば、(中略)180センチを超える大男で、何かといえばすぐ怒鳴る、頑固一徹の独裁者。けれども、そうしたイメージは、父の本当の姿と少し違っている…」。こんな「まえがき」ではじまる本には、その思いやりや優しさなどが、生のことばを引用しながら語られる。たしかに、人間の内面はなかなか分かるものではない。ましてや、仕事を一緒にしたこともない第三者にとってはなおさらである。ただし、本の中にはこんな部分もある。「『乱』のような過酷な仕事だと、心身ともにすり減らしてしまって、宿屋の自室から何日も出てこないこともあり、スタッフを困らせた…」。いやはや、やっぱり独裁者ではある。周りは本当に困ったに違いない。そのためにお詫びに走ったり、予算とのにらめっこに胃が痛くなった者もいるのではないか。普通の人間がそんなことしたら、「はい、それまでよ」である。組織から放り出されるかもしれない。揚げ足を取るようだが、著者が言うように、家族から見ればイメージが「少し」違っているとは思う。しかし、頑固一徹で怒鳴っていたことも事実なのだろう。それに、男親は娘に弱い。じつに弱い。その娘の父に対する認知だから、これもまた一つの見方なのである…。しかし、いずれにしても面白い本だった。 |
| 隣の芝(04/12/04-598) 昨日、「隣の芝は青い」という表現を使った。会話の中で、ときおり出てくる表現だが、原典は英語なのである。The grass is always greener on the other side of the fence≠ナある。たしかに、わが国には庭に芝生など植える習慣はなかった。だから、隣の芝と比較するチャンスもないわけだ。しかし、私はこの表現を何の疑いもなく日本語だと思っていた。それでは、わが日本語ではどう言うか。正解は「隣の花は赤い」である。その発想はまったく同じだ。たしかに、花ならわが国にも昔からあった。その美しさの表現として最高に強烈なのは「赤」だろう。この情報は「広辞苑」(電子版)に依っている。ついでに、「成語林」(旺文社)では、Our neighbour's ground yields better corn than ours≠ェ挙げられている。こちらは「穀物」だから、食べることに直結していて迫力がある。隣と「食うか、食われるか」の勝負をしている感じが滲み出ている。日本語では、「隣の糂だ味噌」というのもあるらしい。「ジンダ」の「だ」はPCでは表示できなかった。「米偏」に「太」をプラスした漢字である。いわゆる「糠味噌」のことだそうな。こうなると、英語の翻訳である「芝」の方が「味噌」よりも意味が分かりやすい。われわれの生活様式の変化が慣用句の理解にまで影響している。 |
| 監督の仕事(04/12/03-597) 映画監督の仕事は「監督」すること。当たり前のことだけれど、実際の仕事は私のイメージよりもかなり範囲が広いものだった。「回想 黒澤明」(中公新書)によると、「脚本は出来上がったといっても、映画はお金がかかる。プロデューサーとともにそちこちの映画会社や企業、果ては世界各国をめぐり歩いて、資金を調達しなければならない」という。著者の黒澤和子氏は黒澤監督の娘さんである。私などは、監督と聞くと、カメラを横にして、「よーいスタート」と叫んでいればいいのかと思っていた。ときには雷を落としたりして…。しかし、それは大間違いだったようだ。「隣の芝は青い」ではないが、人のことはよく見える。表面しか見ないからだ。それで羨ましがったり、ひがんだり、その裏返しで誹謗・中傷に繋がることだってある。やれやれ…。それはともあれ、監督は自分の作りたい映画のために金集めもしなければならないとなると大変だ。人の財布からお金を出してもらうのは難しい。しかも、その映画が当たるとは限らない。そんなこともあって、「完成保障の保険」まであるのだそうな。監督というのは、素人には知られない悩みや心配を山と抱えながら映画を作っているということである。しかし、それだけに、完成したときの喜びも大きいに違いない。もっとも、真面目に仕事をしていれば、どんな人でも苦労と喜びが重なっているはずだ。苦労や苦心がなければ、喜びも生まれない。えっ、「お前さんなんか、苦労なんて、これっぽっちもしてないだろう」ですって! 「…」。 |
| ホッとするカップル(04/12/02-596) 阿蘇までドライブしたときのお話。瀬の本高原にある「八菜家」で食事をした。ここは以前に家内と立ち寄ったことがあった。その後、テレビでも紹介されたという。娘が行ったことがないので、休みのに日に出かけた機会に足を伸ばしたのである。テレビの効果なのか、昼を少し過ぎていたのに、待ちができるほどの大盛況だった。待っている間は、お土産などを見て回る。そこへ若いカップルが入ってきた。まあ、現代風というか、女性はジーパンから臍出しルック。男性も色つきの髪だ。まさに「いまの若けえモンは」と嘆きたくなる典型である。そのうち、われわれの順番がきて店の中に入った。ほんの少し後に彼らも入ってきて、近くの席に座った。私たちの方が注文した食事が早くきた。そのうち、彼らのテーブルにも食事が運ばれてくる。そのときである。女性が手を合わせて「いただきます」と声を出した。いやー、いいじゃないか。人は見かけで決めちゃあいかんぜよね。食事をしているとき、近くにいた老人が席を立った。それから少しよろめいて、若者たちのテーブルに手をついた。少したどたどしい歩き方である。「すみません」。一緒にいた女性が謝ると、カップルはにっこり笑って「いいですよ」応えた。いやー、ますます気に入った。いい感じである。それからまた時間が経っていく。女性が食べきれなかったお皿を、男性が「片づけ」ていた。いい雰囲気だねえ。食事は、われわれと同じタイミングで終わった。彼らの支払いは「割り勘」だった。じつにほほえましく、ホッとした。こんな場面に出会うのはいいですねえ。 |
| 立花さん、お元気?(04/12/01-595) 何の脈絡もなく、ふと立花隆氏のことが頭に浮かんだ。理由は分からない。デビューは「田中角栄研究」だと思うが、その後も「宇宙」から「臨死」などなどまで、まあ何でもかんでも考えまくる人のようだった。2,3年前だろうか、熊本空港で連れと一緒に缶ビールを飲んでいるのを見かけたことがある。お腹も出ていて、お世辞にも健康そうには見えなかった。まあ、そんなこと余計なお世話ですけど…。ところで、辰巳渚という女性が、2000年に「捨てる技術」という本を出した。とにかくため込んで動きの取れない現代人に、徹底して「捨て」まくることを勧めたものである。これに対して立花さんがマジで反論していたのが興味深かった。彼としては、とくに書籍を捨てるなんて言語道断だったようだ。その「真剣さ」がおかしくもあった。なにせ、彼は専用の書庫まで建てることのできる人だ。その立花さんが「本を捨てるな」と言っても迫力がないこと甚だしい。庶民感覚じゃあないんだ。主婦の視点に立てていないのである。だれだって、あんな立派な書庫があって、整理する人まで雇えるなら、本を「捨てる」なんて夢にも思いませんものね。あの勝負は立花氏が「マジ」であった分、辰巳さんの勝ちと言うのが私の評価だった。それにしても、このところ立花さんを見かけなくなったような気がする。たまたま、私がその機会がないだけなのかしら。何の脈絡もなく、ふと彼のことが頭に浮かんだ…。 |