| ラジオ体操(04/10/31-564) 青年の家などの施設に行くと、ラジオ体操は朝の定番である。いまでは、そんなときにしかラジオ体操をしなくなった。それでも、まだまだ体が覚えてくれている。あの音楽を聴くと体が動くのである。何と、英語版のラジオ体操まである。海外に進出した日本企業がラジオ体操まで輸出したときに作られたのではないか。子どもの子ころ、夏休み中は休まず体操に行くのも楽しかった。近所のお年寄りやおじさんたちも集まったものだ。もうそんな光景も珍しくなってきた。ラジオ体操と聞くと、ついつい思い出すことがある。わが家が伊万里に住んでいたころのことだ。父と私は毎日ラジオ体操をした。小学校の5年生のころだったと思う。体操が終わると走り出す。もう距離なんぞは思い出さないが、数百メートルはあった。埋め立て地で海に出た先端まで駆けっこをしたのである。突端に着くと深呼吸をして「はっは」の息を整える。そして、また帰りも走った。家には7時ころに帰ったのだと思う。それから母が作った朝ご飯を食べる。キャベツと豆腐の入ったみそ汁が格別においしかった。時間が来ると妹と連れだって学校に行った。平和でのどかな時代である。その当時の父は40代の前半だったはずだ。こどもが一緒に体操をしてくれるのは嬉しかったに違いない。私もまた気持ちよく体操をしていた記憶がある。あれから、もう何十年もの時が経過した。私も、いつの間にか、当時の父の年齢をはるかに追い越した。それでもラジオ体操のかけ声を聞くと体が動き出す。体は記憶力がいい。 |
| 見えにくいコスト(04/10/30-563) 昨日は郵便貯金のことを書いた。1000円の定期を月ごとに継続すると10万円で月100円の利子が付く。ものすごい裏技かもしれないが、手続きにかかる時間を考えると、もっと他のことをした方がいい。これが私の考えであった。それにしても、「ちりも積もれば…」とはよく言ったものだ。このコツコツ派の利子が年間400億円にもなると推定されている。何とも恐ろしい話だ…。さすがに、この手法は今年度限りで無効になるという。それに、このやり方は他にも大きな影響を及ぼすことになる。貯金する側は自分で納得して時間をかけるのだから、まあいいだろう。しかし、その手続きをする郵便局員はどうなるか。もちろん、仕事だから文句など言ってはいけない。だから、正当に手続きがなされれば、きちんと処理するに違いない。ただ、そのために要する時間はどのくらいかかるんだろうか。1000円の口座で年間12円の利子だから、400億円となると、…。うーん、もう天文学的な数になる。それを処理するのだから、とにかくすごい時間がかかっていることは間違いない。その時間も当然のことながら、郵便局員さんの賃金に含まれるのである。それがなければ、他の仕事ができるんだよなあ。ともあれ、自分の財布からお金が出なければ人ごと。そんな気持ちがわれわれの心を支配しがちだ。しかし、じつは見えにくいコストは、これまた信じられないほど膨大なものになるのである。 |
| 時は金なり(04/10/29-562) 郵政民営化が話題になっている。そんな中で、驚くような記事を読んだ。毎日新聞の9月27日付である。郵便貯金は利子が1銭以上で1円未満の場合、1円に切り上げることになっているらしい。そのため、1000円を1ヶ月預けると利子が1円になる。なぜなら、いくら低利子であっても、1ヶ月の利子が1銭を超えるからだ。現在の年利0.02%で計算すると、1000×0.0002÷12=0.0166…になるのである。したがって、10万円を100口に分けて1000円ずつ預けると、毎月100円の利子が付く。これが1年になると1200円になる。なんと、利率1.2%の高利に大変身するのだ。制度が変わって、以前から定期を継続している人しか適用できないが、とにかく「裏技」として知られているらしい。それにしても、毎月100口の定期を預け替える必要がある。そのための時間を考えると月に100円の利子がほんとうに高いと言えるかどうか。少なくとも私にはそんな時間はないなあ。それに要する時間を真面目に働けば100円以上は確実に手に入るだろう。お金にはならなくても、いい本を読んだら、それ以上に豊かになるんではないか。もっと時間を有効に使いたいものだ。そんな話しを家内にしたら、「健康で働けるから、そんな余裕のあることが言えるんじゃないの」と問い返された。うーん、そうなのかなあ…。 |
| リーダーシップとフォロワーシップ(04/10/28-561) 10月に後期がはじまった。授業のはじめには、講義の内容や進め方について自分なりのオリエンテーションをする。その中で学生たちに強調するのは「反応をちょうだい」ということだ。私は「講議」をしたいという。本当は「義」が正しいが、学生もどんどん「発言」してほしいという気持ちを込めたつもりである。「授業」だって「受業」にしたい。授かるのではなくて、「受けるぞーっ」の心意気がほしい。この「講議」と「受業」の話しは、昨年の本欄にも書いた。この精神があれば、教師の問いかけにも「反応」してくれるはずだ。授業は相互作用で成立する。「私ってけっこう単純なんだ。『うん、うん、ちゃんと聞いてますよー」。そんな態度を見せてくれれば、すぐに有頂天になって頑張るのよ」。学生たちに、そんな呼びかけをする。はじめから「面白くもない」なんて顔をされたら、こっちの意欲もしぼんでしまう。基本的には、給料をもらってるのは教員だ。だから、われわれが学生から評価される授業をする必要はある。しかし、授業は学生からのプラス反応があって活性化するのだ。教師側のリーダーシップと学生たちの反応がワンセットになって、授業はさらにダイナミックになっていく。学生たちにもちゃんと反応する「フォロワーシップ」を発揮することが期待されているのである。それが学生にとっても「授業」を面白くしていくんだと思う。だから、オリエンテーションでは、「とにかく教師を乗せろ」なんてことを言っている。こうした事情は、学校の授業に限られたことではない。組織の管理者がしっかりリーダーシップを発揮する。そして、部下たちもそうした働きかけにちゃんと応える。それではじめて組織も元気になる。部下のみなさんも、上司を乗せて望ましいリーダーシップを発揮してもらいましょう。 |
| 甘えの構造(04/10/27-560) 空港で出発時刻が近づくと職員が走り始める。「○○便で△△へご出発の□□さま。当便は間もなく出発いたします。お急ぎ▽△ゲートへおいで下さい」。これを何回と繰り返す。搭乗券には10分前までに搭乗口へ来るようにと書いてある。それでも時間を守らない輩が必ずいる。その一人か二人のために、時間を守った客が待たされる。何とも、甘い対応だと思う。ある空港のレストランでこんな会話を聞いたことがある。「いやー、まだいいよ。チェックインだけしとけば必ず待つんだよ」。航空会社もなめられたものだ。実際のところ待ち時間に限度を設けているのかどうか知らない。しかし、私の経験では、とにかく待つように見える。チェックインさえしておけば。こうした対応が少しずつ世の中を弛緩させていく。「航空会社は厳しいぞ。甘く考えていると、置き去りで飛んじゃうぞ」。こんな話しが交わされるようになれば、みんな時間を大事にするようになるに違いない。「チェックインはしてるのだから…」。そんな気持ちが甘えを生む。待たされた客の中には、親の死に目に会えるかどうかの瀬戸際に立っている人だっているかもしれない。大切な意思決定の会議に遅刻してしまう人もいる可能性はある。とにもかくにも、たくさんの人の時間を奪ってはいけない。わずか5分しか遅れなくっても、250人が乗っていればどうなるか。それだけで延20時間を超えるのだ。物を盗むのは非難されるが、時間を盗んでもあまり問題にされない。それでは困りますよね。 |
| イチロー効果(04/10/26-559) イチローはいろいろな人に勇気を与えてくれた。私もそうだ。自分をイチローと同じ立場だなんて言えば、笑われるに違いない。もともと「味な話の素」はスタート時から笑われることを目的にしてるようなもんだ。だから、細かいことは気にせずに先に進もう。打者から見れば、野球の醍醐味は何と言ってもホームランだろう。その点では、ヒットを打ち続けるのは地味な仕事である。しかも、自分が塁に出ることは大いなる貢献ではあるが、ホームに帰してくれる人がいなければ、その仕事も実を結ばない。野球と同じように、研究の世界でもホームランがあると思う。国際的に認められる研究や、みんなが驚くような理論を打ち立てる。これらは、まさにホームランである。そして、研究界にもそうした重量級の打者が現実にいらっしゃる。しかし、私はといえば、かなり体力が落ちる。腕っ節も貧弱だ。だから、こまめにヒットを打つことを目標にしてきたつもりだ。それも、ほとんど「内野安打」でいい。しかも「ボテボテ」で、球が転がったところがよかっただけ。なあんてやつで十分に満足できるのである。世界中はもちろん、日本中の人から認められるなどと、身の丈に合わないことは考えない。「あなたのおかげで少しはその気になったよ」。そんな声をかけていただくことで生き甲斐を感じるのだ。その点で、私はかなりの幸せ者だと自覚している。イチローの活躍は、こんな私を大いに勇気づけてくれた。来年もしっかり仕事をしてほしいものだ。えっ、「おまえの打率は1割台じゃないか」ですって! 「しーっ」。 |
| 責任を感じてる「かな」(04/10/25-558) このところ、気になる言い回しがある。「かな」である。今回、プロ野球の「裏金問題」で、横浜と阪神も同じ選手に関わっていたことが明らかになった。巨人が問題になったのは8月のことだ。そのときは横浜はスカウトに確認したという。そして今になって、「事実」が分かったようだ。「うーん」と唸ってしまう。そして、すぐに阪神まで出てきた。「やれやれ」である。これも危機管理体制の問題と言える。最終的に表面化するのであれば、どうして8月にそれができなかったのか。このごろの状況を見ていると、ギリギリになって「事実」が明らかになるケースが多い。ここは、原点に帰ることを真剣に考えよう。「正直」は組織における「危機管理」の「基礎」だと思う。ことばは悪いが、「馬鹿正直」という言い回しがある。不祥事をはじめ、組織の様々な問題は、その精神が尊敬されないところで問題が起こっているのではないか。ところで、新聞の記述が正確だとすれば、「裏金問題」で、当事者が気になる発言をしている。「私なりに責任を感じている。金銭について少しルーズだったかなと思う。…、ちょっと引き締めが弱かったのかもしれない。…」(下線は筆者)。いかがでしょうか。私は、この「かな」に違和感を感じる。このごろは、これを使う人がかなり多い。プロ野球への新規加入を宣言した「時の人」の一人も、記者会見で多用していた。「かも」も同じこと。どうも責任を回避してるように聞こえてしまう。そこには、「そうでない可能性もある」というニュアンスが含まれている。この際は、「少しルーズだった」「引き締めが弱かった」と断定すべきだろう。ついでに「少し」もいらないかもしれない。ともあれ、「かな」は何となく、ことを曖昧にしたいという気分が感じられる。組織の責任者であれば、もっと明確な意思表示をしていただきたいものだ。これって、「正当な」要求「かな」と思うんですよね。 |
| ウイルスの嘆き(04/10/24-557) また冬がやってくる。そろそろインフルエンザが心配になりはじめた。先日はホテルの朝食で生卵をご飯にかけた。ふと、「そう言えば、鳥インフルエンザが流行してから生はあまり食べていないなあ」と思った。今年の初めころには、わが国でもパニックを引き起こした。不幸なことに、これに関連して養鶏業者が自殺する事件まで起きてしまった。この冬はそんなことがないようにと祈る気持ちになる。しかし、考えてみると人間はじつに自己中心的ではある。インフルエンザはウィルスであり、この世の生き物である。ある意味では、彼らも「生きる権利」を持っている。しかも、「彼ら」は「意図的」に人間を攻撃しようと考えて行動している訳ではない。人間はそのウイルスに気づくまでずいぶんと苦労した。光学顕微鏡の開発もあって、感染症の犯人が細菌であることは分かった。しかし、ウイルスは病原菌よりも小さな体の持ち主だった。そのウイルスが発見されたのは、1890年代初めのことである。ウィルスは、そんな体で必死に「生きよう」としているのである。「あまり冷たい目で見ないでよ」といった嘆きが聞こえてきそうだ。しかし、人間から見れば自分たちの生命を脅かすとんでもない連中ということになる。相手に「悪意」があるかどうかは問題ではないのだ。自分たちに悪い「結果」をもたらすのは「悪者」なのである。どうにか「共存」できないかと思うが、そうした発想は甘すぎるんだろうか。ともあれ、人間は彼らをどうにかして「絶滅」させようと、あの手この手で攻めまくる。しかし、その努力をあざ笑うかのように、新種が生まれてくる。鳥インフルエンザはその典型例ではないか。こうして、人間とウイルスとの闘いは果てしなく続く。 |
| 贈り物の選択(04/10/23-556) わが家に置いてあった飾り時計を処分した。その時計をどんな表現で伝えたらいいのか分からない。あの、ガラスの円筒形に入った大きな時計である。全体が金色で、あれも振り子なのだろうか、水平にゆっくり回っているのが見える。これで、何となく「ああ、あれだな」とお分かりいただけるだろう。じつは、義父が定年時に贈呈されたものだった。しかし、小さな家に住んでいた義父たちにとって、それを飾るふさわしい場所がなかった。それでも、せっかくの記念品ということで、玄関先に置かれていた。決して落ち着きのいい場所とは言えなかったが、仕方がないという感じだった。義父が亡くなったとき、息子がおじいちゃんの物だからと引き取った。学生のアパートに鎮座することになったのである。そのときは、場違いなおもしろさはあった。しかし、それも息子が就職するとわが家へとやってくることになる。息子の新しいアパートは狭すぎて、置き場所がなくなったのである。わが家とて、時計は至る所にある。そんなこんなで、せっかくの品だと思いながらも、しばらく前にお別れすることになった…。これとまったく同じ状況の時計が、某所に置いてあるのを、わたしは知っている。イヤ、正確に言えば、箱に入ったまま「保管」されているのである。それも明らかに「贈呈」されたものだ。その持ち主が置き場所に困ったことは、容易に推測できる。贈っていただいた方は、その時計に心を込められていただろう。しかし、何せ受ける側の環境が整っていない…。もともと贈り物は、贈る方も受け取る方も悩ませるとことがある。だから、カタログを見てほしいものを選択する「贈り物」のビジネスが成り立っているのも分かるような気がする。 |
| ことば≠ヘ行動(04/10/22-555) ことば≠ニ行動≠ヘ密接不可分の関係にある。少なくとも行動≠ェことば≠謔閧熨Oにあったのだろう。ことばを持たないと思われる動物もさまざまな行動をするからである。生き物たちは、生存していく中で、体の状態に応じて音声を出しはじめたと思われる。怖いことがあればおびえるし、驚けば叫んでしまう。嬉しいときには、「キャッキャ」と思わず声を出すだろう。こうした感情と声の対応は、犬を見ていてもよく分かる。だから、ことば≠たくさん知っているということは、行動≠ノもバラエティがあるということなのだ。不愉快な体験をすると、「切れたーっ」しか知らない者は、すぐにカッとなる。極端な場合、懐からナイフなど出して相手を傷つけてしまう。また、この野郎ーっ≠オか知らなければ、やっぱし相手を脅すような行動に出るに違いない。こんなとき、揉み手、擦り手でニコニコしながらこの野郎ーっ≠ネって言ってたら、そりゃ吉本新喜劇になってしまう。こんなとき、頭をかきながらイヤー、参った、参った≠ニいうことば≠知っている人がいればどうなるか。おそらく、頭にはきているのだろうが、相手に笑顔で対応できるだろう。おい、おい、そりゃあいかんバイ(註 語尾は九州弁です)≠ネんて目を丸くして言えるなら、ナイフなんか出す必要もない。ことば≠たくさん知っていると、それだけ状況に応じた多様な行動≠ェできるのだ。ことば≠知ることは語彙≠増やすだけではなく、行動のレパートリーを増やすことに繋がっているのである。もっとも、この論理でいくとことば≠ェ行動≠生むことになる。この欄のはじめに、ことば≠フ前に行動≠ェあったという関係とは逆になっている。まあ、このあたりは少し頭の整理をしなければなるまい。それはともあれ、自分の感情≠竍行動≠ことば≠ニ対応させて考える習慣は是非とも身につけたいものだ。それによって人生も豊かになる。 |
| お下げしてよろしかったですか(04/10/21-554) 先日、I市のホテルに泊まった。朝ご飯はなかなかのもので、お漬け物などもいろいろ準備してある。その日は時間的にゆっくりできたので、ボチボチ食べていた。そのうちに、納豆や生卵を入れた器が空になっていく。そのときである、ウエイトレスさんがやってきた。「お下げしてよろしかったですか」。ああ、まただ。何も下げていないのに、どうして「よろしかったですか」なんだあ。ホテルはサービスの最先端を走ってるんでしょう。もっとまともに「ことば」の教育をしてちょうだいよ。その後に、また別の女性がやってきた。食後にコーヒーか紅茶を出すらしい。もちろん、私は完全に食べ終わっていた。彼女の声が聞こえる前に、耳がぴーんと立った。「お下げしてよろしいでしょうか」。イヤー、ホッとしましたよ。「うーん、いいねえ。あそこの彼女は『よろしかったですか』なんて言ってたよ。おかしいよね」。まあ、ついついいらんことを言っててしまう。ともあれ少しは気持ちが落ち着いた。それから部屋に戻ってフロントにタクシーを頼んだ。「すみません。タクシーをお願いします」。女性の軽やかな声が聞こえてきた。「すぐにお呼びしてよかったですか」。「………」。 |
| 女性の進出(04/10/20-553) 「味な話の素メモ」に「コンサート会場のトイレ」というのがある。これも書きたい内容をすぐに思い出す。もっとも、つい先日の体験なので忘れようがないのだけれど…。まあとにかく、家内とコンサートに出かけたのである。もっともコンサートといっても、「森進一・森昌子ショー」で、いわば「演歌」である。私が「演歌嗜好傾向」があるので、家内がつきあってくれたという訳だ。「この二人のコンサートなら行ってもいいか」。これが家内の反応だった。演歌好きといっても、私だって頻繁に出かけることはない。これまで1度だけ、大阪で時間があったときに「瀬川瑛子コンサート」に入ったことがあるだけだ。そのときは、まわりが「おばさま」ばっかしで、何とも落ち着かない気分を味わった。これが「演歌」の初体験である。人によって好みはいろいろだ。「演歌」なんて見向きもしない人もいる。しかし、とにかくプロがうまいことだけは間違いない。さてさて、先日のコンサートだが、トータルで2時間ばかりのプログラムの真ん中に休憩が時間がやってきた。緞帳が降り、明かりが点灯する。かなりの観客たちがトイレに向かう。休憩は15分間である。「いまトイレに行くと人が多いだろう」。そんなことを考えながら、しばらく家内と話しをしていた。それから10分近く経ったころ、やおらトイレに出かけた。まだ女性用の前には人が並んでいた。男性の方はといえば、2つしか便器がなかったが、お一人さんしか立っていなかった。並んでいる者もいないので、無事に用を足しはじめた。そのとき、「ジャーッ」と音がした。「大」の方に入っていた人がいたのだ。そこまでは自然の流れ。だったのだが…。何と戸を開けて出てきたのは「おばさま」だった! 今日はこれ以上は何も書きません。ただ、私が逆のことをしたら「とっ捕まる」んだろうなあ…。 |
| ホテルの朝食(04/10/19-552) さて、昨日ご紹介したメモの中から、「東急ホテル 高すぎるといわれる朝食 950(税別) 高松1600円」を話題にしてみよう。もうかなり前に書いたメモであるが、そのときの気持ちはすぐに思い出せる。「ホテルの朝食」が高すぎることを訴えたかったのである。いつのころからか知らないが、とにかくホテルの朝食はやたらと高い。およそ庶民感覚からかけ離れた料金が設定されている。だから、大きな都市の中心街や駅周辺では「朝食」を提供する店もある。みそ汁も付いて500円程度といったところではないか。トーストに卵ならもっと安いところもありそうだ。そんな感じで、どこもリーゾナブルな価格を設定している。そうした状況を東急ホテルは自覚したようだ。松山だったが、エレベータに「高すぎるといわれる朝食」を「950円(税別)」にしたという「お知らせ」が貼ってあった。「うん、うん。いいぞ、いいぞ」とニンマリしたところで、「味な話の素」にいけると思った。そこで、最初に書いたメモができあがったのである。そんな気持ちで翌日は高松のホテルに泊まった。ところがこちらは相変わらずで、軽ーい「洋食」が1600円だった。そこで、前日のメモに「高松 160円」が追加されたのである。ともあれ、「やれやれ」と考え込んでしまった。まあ、ゆったりした観光旅行なんかなら高くてもいいんだろうけど…。もっとも、この朝食が高いのは日本だけではないのかもしれない。オーストラリアのホテルでもすごかったものなあ…。 |
| 「味な話の素」のメモ帳(04/10/18-551) このごろ、「『味な話の素』を読んでますよ。毎日の更新がつづいてますね。それにしても、そろそろネタ切れではないですか」。そんなご質問を受けることがある。いやあ、じつを言うと、そのご心配はまったくご無用である。毎日の生活は変化と刺激に充ち満ちている。そんな状況で、何かを思いついたりウォッチングしたりするとメモをする。それが増えることはあっても減ることはないのである。ただし、メモが簡単すぎて、後になって何をアピールしたかったのかを思い出せないことはある。もちろん印象的なことばかりだから、大抵はメモ書きだけで記憶は蘇る。たとえば、「東急ホテル 高すぎるといわれる朝食 950(税別) 高松1600円」「コンサート会場のトイレ」「森光子 女の一生1700回 森繁久弥 屋根の上のバイオリン弾き 900回 松本幸四郎 『ラ・マンチャの男』 1000回超え」「ゼムクリップとホッチキス」「小研・大研」…。このメモから内容を当てられる方は少ないと思う。何と言っても、私専用のメモなのだ。だから、私には、それを記録したときのイメージが直ちに浮かんでくる。上に挙げた中で私が思い出せないのは、「ゼムクリップとホッチキス」だけである。しかも、「ゼムクリップ」については、すでに書いたことがある。もっとも、話題として取り上げたにもかかわらず、そのメモを消し忘れることがある。そうなると、同じことを繰り返して書いてしまう危険性が出てくる。しかし、そのときの気持ちで書くから、「完全」に同じ内容にはならない。ともあれ、私自身が日々老化していることもあり、そうした記憶落ちはお許し願うほかない。 |
| 日本一小さい県(04/10/17-550) 「社会」の問題。日本で一番小さい県はどこ? ここでは面積のことだと思うが、正解は四国の香川県のようだ。あの瀬戸内海に面した高松が県庁所在地の県である。私がはじめて高松に行ったのは、1970年代に電力会社でリーダーシップ調査を実施したときだったと思う。四国電力さんである。当時は宇高連絡船で瀬戸内海を渡った。岡山県玉野市の宇野港と高松港を結ぶから「宇高連絡船」である。じつに懐かしい。1955年5月、高松港を出た「紫雲丸」が濃霧のため衝突事故を起こした。この事故で修学旅行中の小学生を含めて160人以上が犠牲になる。こうしたことから、「瀬戸大橋」の建設が強く叫ばれることになったのである。そしていまでは、JRも走る2段式の大きな橋が架かっている。1988年4月10日の開通である。その香川県が「日本で一番小さい県」だと知ったのはなぜか。少し前になるが、ANAの機内サービスのコップに、おもしろいコピーが書かれていた。「日本一小さい香川県に日本一うまい『讃岐うどん』がある」。これが、なかなか印象的だったのである。一般に県の面積などは「小さい」より「大きい」方を自慢したくなる。少なくとも、「小さいんだぞーっ」と叫ぶことは控えがちだ。そこを逆手にとって、そのかわり「うどんは香川が日本一」と訴える。いやー、うまいうまい。人に何かをアピールするときのコツを知っている作品だ。かなり前の本欄に書いたが、ボートは「押して引く」から前に進む。人だって、「自慢話」で押すばかりでは嫌がられる…。 |
| ポルノのいま(04/10/16-549) New York Timesによれば、ポルノ映画Deep Throat≠ヘ1970年代のアメリカ社会に強烈な衝撃を与えた。その理由は、この映画がポルノを革命的に変えたからだという。それまで、その種の映画は10分程度の長さで、本屋の裏部屋などで「鑑賞」するものだった。ところが、Deep Throat≠ヘ1時間の筋書きのあるドラマに仕立てられていた。それも、社会風刺や皮肉を含んでいたらしい。そんなことで、男女がカップルで劇場に出かけるようになった。年齢層も若者だけに限られていなかったという。若い人のエネルギー発散や欲求不満のはけ口と考えられていたポルノとは様子が違ってきたわけだ。Deep Throat≠ノまつわるドキュメンタリーを制作したBarbato氏は言う。「ポルノは日陰から、一時的に日向に出てきた。そして、また裏部屋に帰って行った」。最近の「裏部屋」とは、個々の家庭のPCの世界になったことを指している。アメリカでは、こうしたポルノに子どもが晒されることが大問題になった。もちろんその事情は、わが国でも同じである。ところで、人間の精神構造や行動はどのくらいで変わっていくのだろうか。少なくとも現象的には、われわれが子どもの時代と現在では、性に対する認識も行動も激変している。われわれは、昨日と今日の変化には気づかないことが多い。しかし、1ヶ月程度の時間があれば、自然はかなり変わる。日が短くなり、朝夕は肌寒さすら感じる。木の葉も少しばかり色づいている…。精神や行動もそんなところがありはしないか。意識的に対応を考えないと、知らないうちにとんでもない変化が起きている。しかも、気づいたときにはもう取り返しがつかない。最近はそんなことがとくに多くなった気がする…。 |
| ポルノの歴史(04/10/15-548) 映画Deep Throat≠フ長い歴史を振り返る記事が、New York TimesのArts欄で取り上げられた(9月5日)。「ポルノはもはや下劣な秘密ではなく、ビッグビジネスに成長した」という中見出しもついている。英語のthroat≠ヘ「喉」であるが、Deep Throat≠ノなると、かなり意味深のようだ。アメリカのニクソン大統領が民主党本部に盗聴器を仕掛ける事件に関わったとして辞任した。そのときにワシントンポストに情報を提供したニクソン側の人物もDeep Throat≠ニ言うニックネームで呼ばれていた。ともあれ、このことばは翳り≠フイメージを含んでいる。民主党本部があるウォーターゲート・ビルに侵入した5人組が捕まったのは1972年6月17日である。映画のDeep Throat≠1972年に公開されている。そうなると、映画のDeep Throat≠フ方が先に有名≠ノなったのだろうか。ともあれ、この映画はその内容が過激だったため、国内で大論争を引き起こすことになる。当局は、法に触れるばかりでなくアメリカ人のモラルの基礎を破壊するとして、公開を阻止しようとした。そんな騒ぎも影響して、制作費が25,000ドルを下回るという映画が、1973年の全米11位の興行収入を上げることになる。いつの時代も、どこの国でも話題性が高いと人が殺到する。ともあれ、New York Timesがポルノを「ビッグビジネス」として取り上げる時代なのである。 |
| 好かれる性格(04/10/14-547) 人から好かれる性格、嫌われる性格について研究した人がいる。アメリカのアンダーソンは555個の性格特性リストを100人の大学生に提示して、それがどのくらい好かれるか嫌われるかをたずねた。発表されたのは1968年で少々古いが、「好かれる性格」のトップ5は、@誠実な A正直な B分別ある C忠実な D真実さであった。これに対して嫌われるのは、@嘘つき Aほら吹き B卑劣 C残酷 D不正直である。いずれも、なるほどそうだろうと思う。「誠実さ」が評価され、「嘘つき」が敬遠される。こうした点は洋の東西を問わないようだ。ところで、わが国でも同じような研究が行われている(青木, 1971)。それによると、好かれるベスト5は、@親切 A優しい B頑張る C朗らか D明るいと責任感である。そして、嫌われるのは、@二枚舌を使う A他人のせいにする B醜い C人をあざける D人を軽蔑するである。日本人の方が「正義」よりも「情緒」を重視する傾向があると言えるだろうか。なにせ、「頑張る」「責任感」なんてのは「仕事」直結の感じもする。まあ、「ありきたり」の論評だけど。日本人の「二枚舌」はアメリカ人の「嘘つき」と同義に見えるが、何とも「含蓄」のあることばだ。「嘘つき」よりもさらに「卑劣」な雰囲気が漂う。「責任転嫁」や「軽蔑する」などは「他人」との関係が重要な意味を持っている。大統領選の真っ最中で、テレビ討論でのイメージが話題になっている。こうした特性をうまく活用することも考えられているに違いない。小泉さんはどうなんだろうか。 |
| 大事な記録と気力(04/10/13-546) 先週、広島カープの選手が残り3試合を欠場するという記事を見た。監督によると「疲れで打席に立てない」という。それは大変だと心配しながら記事を読んだ。冒頭に、セ・リーグのシーズン最多安打記録まであと3本に迫っていると書かれている。それなら、ますます大変だ。よほど何かがあったんだろう。ご本人だって悔しいに違いない。まさに人様のことではあるが、その気持ちを察した。とにかく、「疲れがあり、打席に立てる状態ではない」らしい。ただし、「タイトル争いで出場せざるを得ない場合は、最終戦に出場する」という。ここを読んで、「あれっ」という気になった。その時点で彼は首位打者だったようだ。だから、そのままいけばタイトルを取る可能性が強いのである。これに、2位の選手が6試合残して追っているという。ご本人も「安打記録よりも首位打者を取りたい」と発言している。「うーん」。どうも議論を呼びそうな感じがするなあ。こんなとき、イチローならどうするかなと、ついつい思ってしまう。記録は大切だと思う。しかも、そのときの細かい事情なんて、後になってみれば誰も問題にしない。もちろん、打者として立派な記録だから、確実に歴代の首位打者リストに残ることになる。個人的にはそのチャンスを逃したくないということだろう。それまでフル出場していたようだ。それやこれやで、ここにきて体力だけでなく気力も萎えてきたのかもしれない。新聞の情報だけだから、詳細は分からない。ただ、できればフル出場を続けて記録を立てた方が格好はいいと思うけれど…。 |
| プレーオフ(04/10/12-545) Play-off:(引き分け・同点試合後の)再試合、延長戦。王座(優勝、一位)決定戦、プレーオフ(電子辞書版「ジーニアス英和辞典」)。プロ野球パ・リーグの定義はどうなるのだろうか。パリーグが大いに沸いたことで、目を通せた範囲ではマスコミも大いに評価していた。その一方で、セリーグの消化試合ぶりを厳しく非難するものもあった。まさに、「プレーオフ」は起死回生の場外ホームランのようだ。しかし本当にそうなんだろうか。「短期的な盛り上がり」に目を奪われて、コツコツ型の「努力」を評価しないことになりはしないか。アメリカの場合はチーム数が多いから地区もたくさんある。その中でほんとうに強いのはどこか分からない。詳しいことは知らないが、対戦相手も違うのではないか。少なくとも日本のように総当たりで対戦数も同じにはなっていないと思う。だからメジャーの場合は、リーグ内の「1位決定戦」の意味合いが強いのではないか。それなら「うん、うん」という気もする。しかし、日本はわずか6チーム。お互いに20試合以上を戦っている。これで3位まで拾おうというのだから、日ごろの戦いって何なのという気がする。たまたま、3位と4位が競っていたので、終盤も大いに盛り上がった。しかし、そこの差が開いていたら、もっとしらけるかもしれない。また、シーズン通算で負け越した3位が出てきたときはどうするんだろうか。そのチームが優勝したりして…。「世の中、何が起こるか分からない」と手放しに喜んでいいのかいな。ともあれ、「地道な努力」、「毎日の積み上げ」が評価される方が私は好きだ。もっと日常的にお客を動員する努力の方が先だろう。チームは消化試合でも、マリナーズは大入りだったよね。えっ、「そんならもっと早く言え」ですって? |
| おいしい水(04/10/11-544) 熊本の自慢は、何と言っても水がおいしいことだ。阿蘇などの大自然のおかげだろうが、地下水が水源になっている。水道局の広報紙によると、1938年に給水を開始してから「渇水による給水制限」がないという。もうこれだけで驚きである。わずか100kmほどしか離れていない福岡市などは、夏になると水不足の不安が出てくる。とくに、1978年なんぞは、何ヶ月も雨が降らず、「福岡大渇水」が歴史に刻まれた。その際も、とにかく雨を待つしかなかった。熊本ではそんな心配がまったくないのである。しかも、熊本の水はとにかくおいしい。水道の蛇口から出てきた水を、そのまま「うまい」と言えるところがどれほどあるだろうか。熊本市の人口は67万人である。この都市規模では、まず並ぶところはないと思う。ありがたや、ありがたや。しかし、これも天然の資源である。地下水は雨が降ればすぐに補給されるものではないようだ。なんと江戸時代の阿蘇の雪解け水が貯まっている層もあるという。これまた自然の凄さにおののいてしまう。わが国では「湯水のように使う」という表現がある。火山国だから、そこここで温泉も出る。とにかく、「水」と「湯」は「タダ」という感覚である。しかし、ふと気がつくと「水」が商品になっているではないか。ひょっとしたら「湯水のように使う」も死語になるかもしれない。しかし、われわれの時代で「おいしい水」を使い果たすようでは、「キリギリス」以下だと笑われるに違いない。子孫が困ったとき、自分たちで責任を取ることはできないのである。ああ、また「キリギリス」が出ちゃった。くどいなあー…。ともあれ、子どもたちに「水を大切にする」教育をすすめなければならない。しかし、その前に大人が模範を示すことが必要だ。そうでなけれは、子どもはついてこない。 |
| イソップ物語のおしまい(04/10/10-543) さすがに、イソップ物語も飽きてこられたでしょう。とうとう1週間の「連載」になってしまいました。とにかく、今日でおしまいにします。 一昨日のこと、私は「人語子」が本当に、本当に、ホントーに「キリギリス」のことをご存じでなかったのだろうかという疑問を思ったと書いた。そして、その立場を考えると「知らない」ではまずいのではないかと指摘した。しかし、その疑問とは別に、ある種の推理物語が頭に浮かんでくる。松本清張の向こうを張る大推理といきたいが、まあ「下種の勘繰り物語」と一笑に付されるかもしれない。それを覚悟で言えば、「『人語子』は、本当はキリギリスを知っていた」という仮説を立ててみたくなるのである。そうであれば、あの文章は大いなる罠ということになる。こう書けば、きっと読者から電話が殺到する。そこで「原典はこうだよ」と諭すのである。こちらの対応によってはカッカする人も出てくるだろう…。「出版社はどこですか」なんて聞いたら、答えられないに決まってる。そこで教訓を一つ、二つ…。うーん。いけない、いけない。まさに下種の勘繰り、小者の邪推じゃあないか。「人語子」は淡々と事実を追いながら文章を綴られたに違いない。ともあれ、「天声人語」は、大学入試でも頻繁に引用されると聞いたことがある。それだけに「うーん」と唸らせる内容にし続けてくださいな。 |
| まだまだ、「キリギリス」を知ってる人はいる(04/10/09-542) いやー、この話はもう6回目になってしまった。ウイークデーだけで終わるつもりだったのに、もう土曜日ではござんせんか。何ともくどいのだが、もう少しお付き合いをお願いします。 「キリギリス」を知ってる人はまだまだいらっしゃる。それを言いたいのである。手元に、朝日新聞が出している「アエラ」の記事をコピーしたものがある。やや古いが、日米構造協議についてのレポートだ(1989年9月19日号)。わが国がアメリカに輸出攻勢を掛け、両国が経済摩擦で揉めていた。いま思えば、懐かしい時代である。その大見出しは「『消費者のため』を掲げて『おたくが悪い』となじり合う」となっている。これに続く小見出しが興味深い。「『生活楽しめ』VS.『貯金に励め』と不毛論争のキリギリスとアリ」なのである。本文の一部を引用してみよう。アメリカ側は「『世界一のお金持ちにになった日本人は、もっともっとアメリカ人のように豊かな生活を楽しみなさい』。後でやってくる『冬』のことは考えないキリギリス生活の勧めである。…」。やっぱり、「キリギリス」なのである。 最近では、8月29日の熊本日日新聞の「新生面」にも、イソップ物語の話題が取り上げられていた。前半には「ありとせみ」と書かれているが、中ごろに「ヨーロッパ、とくに北ヨーロッパでは、セミがいないため『ありときりぎりす』の話になっている」と解説している。 いかがでしょうか。このくらいの知識を持った上で「セミとアリ」を書いていただきたいのです。読者が「セミなんて知らない」と電話をかけてきたからといって、「ああ、原典知らずの一般ピープルめ」なんて馬鹿にしないでほしいのです。とにもかくにも「イソップ物語」にお付き合いいただき、ありがとうございました。明日でおしまいにします。えっ! まだやるの…。 |
| 「キリギリス」を知ってる人もいる(04/10/08-541) さて、「天声人語版イソップ物語」の物語は、なかなか終わらない。これで5回目だ。月曜日の分から読んでいただかないと、今日の内容もつかみにくいはずである。どうぞ、4回分お読み下さい。それはともあれ、あれやこれやと書いてきたが、私には一つだけ疑問が残る。それは、「人語子」が、本当に、本当に、ホントーに、「キリギリスとアリ」物語を知らなかったのだろうかという疑問である。もしそうだとしたら、「人語子」としては、その「不覚」を認めなければなるまい。すでに強調したつもりだけれど、「庶民」の常識を押さえてはじめて「天声人語」が説得力を持つのである。「永田町の常識は世間の非常識」「政治家は庶民感覚に欠ける」。こんな批判的な視点を持ち続けるためには、「庶民感覚」を磨いていなければならない。イソップの原典が「セミ」であることを知っているのはすばらしい。それと同時に、ふつうは「キリギリス」と思い込んでいる人が多いことも知っていてほしい。 やはり「天声人語」を担当した轡田隆史氏の本に興味深い部分がある。それは1年365日の出来事を取り上げた「今日はどんな日?」(朝日文庫)である。その12月28日に次のようなことが書かれている。 ☆ 来年こそアリのごとく : 28歳の柳田国男は明治35年(1902)のこの日、その年の読書日記を『困蟻(苦しむアリ)功程(仕事のはかどり具合)』と命名した。読書内容には、後に民俗学へ進む芽生えもみられるそうだが、イソップのあの、アリとカブトムシを連想させる名前だ。 まずは、みなさんも驚かれたでしょう。な、何と、今度は「カブトムシ」ですもんね。こうなると、もう何でもアリなんですが、この後に注が設けられている。(1)アリが働いているときキリギリスは歌って遊んでるが、冬になると…、式で知られているが、『イソップ萬話集』(岩波文庫)にアリとカブトムシなどの組みあわせもある。 「人語子」で「キリギリス」を知ってる人もいるのである…。 |
| イソップ物語の教訓(04/10/07-540) イソップ物語も今日で4回目になった。前回までのストーリーをご存じない方は月曜日から目を通していただけますか。恐縮でーす。 さて、「天声人語子」は、もともと「セミとアリ」だったイソップの原典が、北欧などへ伝わるうちに「キリギリスとアリ」に化けたことを知る。北欧にはセミがいないからである。その説明は十分に納得できる。ともあれ、「真実」を知らない「一般大衆」から理不尽な攻撃を受けた「人語子」は、教訓を垂れるのである。「原典を勝手に変えるのは人騒がせのもと」。これは「セミ」を「キリギリス」に変えたことを指しているのだろうか。それじゃあ、北欧では子どもたちの本に「セミ」と書いて、脚注でもつけるんでしょうかね。見たこともない生き物はイメージすらできないでしょうに。物語は異文化を伝わるうちに変化するのが当然のこと。そこでまた豊かな話に育っていくんですよねえ。わが国が誇る「桃太郎」の話も東南アジアの物語と共通点があって、それが原典じゃないかとも言われているらしいですよ。東南アジアにはまさか「桃太郎」のような「サムライ」はいないでしょうに。そんなこと言ってたら、法隆寺の柱に見られるエンタシスなども、本来のギリシャやローマ文化のパクリじゃあござんせんか。それが「文化」というものです。いやいや、ひょっとしたら、「人語子」は「セミ」の件ではなくて、「アリがキリギリスに食べ物を分け与える」という「甘ちゃん物語」に変えたことを非難されているのかもしれない。前後のつながりが分からないけれど、そんな物語だって、「明らかに改悪」だと断定していいものかどうか。「アリの信じられない対応に感激したキリギリスは、それからというもの一生をかけて仕事に励んだのでした…」。こんなストーリーだってあっていいでしょうに。それとも、あくまで「怠けると天罰が来るぞーっ」「反省なんてしたって許さないぞーっ」て脅し続ける内容だけがいいのかなあ…。「人語子」はもう一つの教訓として、「独断はものごとを見る目を曇らせる。正解はキリギリス、それ以外はいっさい間違い、という決めつけ方こそ恐ろしい」と書いておられる。でも、「原典を変えるのは人騒がせのもと」「友情美談に変えるのは明らかに改悪」だと「決めつけて」おられませんか。これって「揚げ足取り」なんだろうか…。 |
| おどろきのイソップ物語(04/10/06-539) この「物語」は一昨日からはじまっている。今日はじめての方は、昨日までの2回分をお読みいただきたい。そうでないと話しが繋がらないのです。さて、「天声人語子」は「セミとアリ」と書いたら、「キリギリスとアリ」の間違いだろうと電話がかかってきたことに驚いたようだ。私は、それに驚く「人語子」に驚いてしまうのである。だって、大抵の「庶民」にとってはイソップ物語といえば「キリギリスとアリ」がもっともポピュラーだと思うからだ。だからこそ「何十通も」電話がきて「人語子」を閉口させたのである。それこそ、多くの人々が「キリギリスとアリ」と信じている何よりの証拠である。もちろん原典は「セミとアリ」であることを知っている「知識人」はいるに違いない。しかし、「一般大衆」は「キリギリスとアリ」だと思い込んでいる事実も知っていてこそ、本物の「知識人」ではないか。電話では「ギリシャ版を翻訳した岩波少年文庫」を引き合いに出して回答したようだ。さすが本物志向だと感心するけれど、ご本人が言っている「ギリシャ版」以外のものがあることを推測できなかったのだろうか。そうと思うと、これにも驚いてしまう。まさか、この本に解説なんぞがあって、「各国に伝わるうちに、『キリギリスとアリ』になったところもある」とか「わが国では『キリギリスとアリ』として知られている」なんてことは書いてないでしょうね…。さすがだと思うのは、翻訳者に接触して事実を確認しているところだ。やはり「一般大衆」とは立場が違う。そして他の出版社のものを調べてみることになる。そこで、「人語子」は、この世に「キリギリスとアリ」の物語があることを「はじめて」知るのである。これも、驚きといえば驚きである。「人語子」は、原典主義のすごい環境で成長されたのかもしれない。しかし、原典しか受け付けない環境って問題だと思ってしまう。それに、それまでの環境は置くとして、「天声人語子」ともなれば、「一般大衆」の常識も押さえていてほしいものである。この話題、まだ終われないなあ…。 |
| 数日後のイソップ物語(04/10/05-538) さてさて、昨日のつづき。文庫化された「天声人語」を読んでいて、イソップの「セミとアリ」の話に出くわした。「セミ異変」とタイトルがつけられている。そのとき、私は反射的に「セミじゃなくてキリギリスじゃないの」と思ったのである。もうかなり以前の話である。ところが、その本を読み進めると、驚きの展開が待っていた。今日も、ほとんどが引用部分で占められる。しかも全文でなく抜粋である。その点は気が引けるが、以下の文章をお読みいただきたい。タイトルは「セミの異変・続」となっている。先の記事から3日後の8月13日付である。 東京からセミが消えたと書いたら、たくさんの投書をいただいた。「その通りだ」という投書も多かったが、「家の近所ではやかましいぐらい鳴いている。ぜひききに来て下さい」という投書もかなりあった。 …。驚いたことが一つある。本筋の「セミの声」のことだけではなく、引用したイソップの「セミとアリのことで何十通もの電話がかかってきたことだ。「もしもし、あの、『セミとアリ』の話ですが、あれは『キリギリスとアリ』の間違いですよ」「えっ」「困りますね。間違ったことを書いては」という電話が殺到した。大半が主婦らしい女性の声である。「セミのはずがないでしょう。セミは冬は生きてません」という抗議もあった。「ギリシャ版を翻訳した岩波少年文庫には、『セミとアリ』の話になっています。それを引用しました」「…でも、私が読んだのはキリギリスでした」「どこの出版社の本ですか」「そんなの、覚えてるはずないじゃない。とにかくセミとアリなんて、きいたことないわ」 … いささかうんざりしながら、あとでイソップの訳者河野与一氏にきいてみた。原文はやはりセミだという。たぶん、イソップ萬話が各国に伝わる時、セミになじみのない北欧などでキリギリスに化けたのだろう、というのが河野氏の推定だ。ほかの出版社のイソップものを調べたら、たしかに「キリギリスとアリ」の話があった。しかも、冬、アリは飢えたキリギリスに食物を恵むのを断るどころか、さあ遠慮なくと親切にも分け与える、という甘い友情美談に変わっていた。これは明らかに改悪である。イソップ風に教訓の一、原典を勝手に変えてしまうのは人騒がせのもと。教訓の二、独断はものごとを見る目を曇らせる。正解はキリギリス、それ以外はいっさい間違い、という決めつけ方こそ恐ろしい。 これを読んで、私が驚いてしまった。みなさまはいかがだろうか。私は筆者以上に驚いた自信があるなあ。もうすでに分量が多くなったので、またつづきとなる。すみません。 |
| イソップ物語(04/10/04-537) まずつぎの文章(抜粋)を読んでいただこう。 一筆啓上。あなたの家の周りでは、今年もセミが鳴いていますか。東京ではそれが、さっぱりなのです。ちょっとしたセミ異変です。場所にもよるのでしょうが、わが家の周辺では、あの、夏の盛りをたたえるミンミンゼミ、ニイニイゼミ、それにアブラゼミの大合唱をきくことができません。年配の知人の話では、今年は「かつて経験したことのないほどセミが少ない」そうです。いったい、東京のセミはどこへ消えてしまったのでしょう。井の頭公園へ行ってみました。 … セミの声を失った夏の公園はなにか間の抜けた感じでした。東京だけではなく、横浜でも今年はセミの声があまりきこえないそうです。『イソップ萬話集』に「セミとアリ」の話があります。夏の間、歌ってばかりいたセミは冬になると飢え、働きもののアリのところに食物をねだりに行って断られる、という話です。セミどもは、あるいは歌いすぎ、興じすぎて死に絶えてしまったのでしょうか。… この後も同じくらいの長さの文が続いている。抜粋は筆者に申し訳ないが、このコラムの性格上、お許しいただきたい。この文章は1977年8月10日の「天声人語」(朝日新聞)に書かれたものである。これを読んで何かを感じられないだろうか。少なくとも私は「それってセミじゃなくてキリギリスじゃないの」と首を捻ってしまった。これをネタに考えたいことは5、6回分くらいになる予感がする。今日はプロローグだが、ほとんど人が書いた文章の引用で終わりになる。これは、話の進行上やむを得ないので、ご容赦いただきたい。 |
| 危機対応の評価(04/10/03-536) 今年は台風の当たり年だった。熊本地方に限れば、8月末から3つの台風が通過した。このうち、9月7日の18号は、恐怖を感じるほどのものだったようだ。こんな言い方をするのは、その日の通過中は熊本にいなかったからである。さて、その他の2つについても、「強い台風で警戒が必要と」と言われていた。このため、8月30日に16号が上陸しそうだというので、前日に2件の予定がキャンセルになった。さらに、午後の1件が当日になって中止と決まった。また、先日の21号のときも、前の日に会議が延期された。この2つの台風で、4件の予定が流れたのである。ところが、結果から言うと、この2個の台風は、私の周辺に限ればほとんど影響を与えなかった。つまりは、スケジュールを変更することはなかったのである。じつは、キャンセルしたものの中には、速やかにカバーしなければならないものも含まれていた。したがって、日程の調整には苦労した。こうなると、「あのとき中止などせずに、やっておけばよかった」という気分になりがちだ。しかし、そこが危機管理の正念場だと思う。危機管理は「結果」だけで判断してはいけない。もちろん、「何も起きなかった」ことは喜ぼうではないか。しかし、だからといって「安全策」を取ったことを後悔すべきではないのだ。そんなときは、自分の決定の正しさを信じようではないか。そうでないと、その後に同じような状況に直面したとき、ついつい「危険で冒険的」な選択をすることになる。無事に長生きした後で、「これなら生命保険を掛けなくてよかった」と後悔なんぞしてはいけないのである。それはリスクマネジメントのこころ≠ノ反する。 |
| 人ごとじゃあ困る(04/10/02-535) 関東地方の裁判所内でカネを騙し取る事件があったらしい。罰金を納めに来た人に、「手続きは2階ですから」なんて言って、上に昇ったところで「罰金」を「納付」させたという。ある人は30万円も取られたというから、かなりのものである。「おれおれ詐欺」をはじめ、とにかくこの手の犯罪が多くなった。「おれおれ詐欺」なんて、くどいほど報道されている。それなのに、やっぱし騙される人が絶えない。何とかならないものか。それはそうとして、テレビでは当の裁判所長がインタビューに答えていた。朝の番組で、少しばかり離れたところから見ていたが、とにかく淡々として落ち着いている様子だった。さすがに裁判所長ではある。「裁判所には、不安な気持ちで来られる人もいる。そんな方々を騙すのは、まことに卑劣で…」。このコメントに対する私の感想は、「ちょっと人ごと過ぎるんじゃないの」である。なにせ、自分の職場で犯罪が起きたのだ。しかも、しかも、そこは裁判所だもんね。まずは、「決して起きてはならないことが、起きてはならない場所で起きたことに責任を痛感します。大変申し訳ございません…」。本来は、ここからはじまるんですよね。評論家じゃあ困るんです。ただし、その部分は放送局の編集でカットされたのかもしれない。そうであれば、これは私の言いがかりになる。しかし、それにしても「淡々」だったのよ。人の行為を評価するのがお仕事ではあるんでしょうが…。 |
| タクシーのサービス(04/10/01-534) 附属学校の校門には警備員さんがおられる。あの池田小学校での惨事後に執られた措置である。そして、子どもたちが下校してからは門扉が閉まったままになる。その後に出入りする場合は、一人ひとりがそれを開け閉めする。それが理由なのだろうか、少し前にはこの立派な門扉が動きにくくなってしまった。もう修理は終わったが、門扉も大変だ。とにかく毎日毎日、何回も何回も開け閉めされるのである。だから、設計された耐久回数にあっという間に達したのだろう。一般的な利用と比べると、何十倍も酷使されているのだ。さて、私はけっこう遅くまで仕事していることが多い。そこで帰りはタクシーを呼ぶことにもなる。「もしもし、附属の実践センターですが1台お願いできますか」「毎度ありがとうございます。すぐに参ります」。その昔は、この会話で終わっていた。ところが、いつのころか、新しいやりとりが加わりはじめたのである。「校門は開いてますか」「いやあ、閉まってると思います」「じゃあ、校門まで出ておいてもらえますか…」。自分で言うのは何だけど、これでも私は配慮型人間のつもりだ。何もなければ校門まで出ておこうかとも思う。しかし、はじめから「出といて」と言われると、「門を開けるのもサービスじゃんか」という気持ちになってしまうのだ。「いやあ、荷物が多いんで開けて入ってください」。これに対して、先方から何ともイヤそうな雰囲気が伝わってくるのである。気持ちよーく、「はい、すぐに参ります」と聞けば、荷物があっても出て行く気になるんだけれどね。言い方一つで、人の心は違ってくるものである。こんなことが何回かあると、ついつい会社を変えようかと思ってしまう。 |