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味な話の素
No.16 2004年8月号(473-503)
 
台風情報(04/08/31-503)
 今年は台風が多い気がする。発生個数そのものは変わらないのかもしれないが、「来るか来ないか」と気をもむことが何度もあった。たまたま私の予定と重なったことが多かったせいかもしれない。昨日も3件の約束事がすべて流れてしまった。そんな中で、深刻な被害を受けた地方も多い。自然には勝てないとつくづく思う。台風は来るのを阻止できない。相手が去っていくまでじっと耐えるだけである。そんなときに、海や山で命を落とす人のニュースが流れたりする。それぞれ個人的な事情があるのかもしれない。しかし、中には警告を無視して出かける無謀な者もいる。その結果として救助に向かう人の命まで脅かしてしまう。ニュースだってそうだ。わざわざ全天候型のカッパを着て、風に煽られながら「必死の形相」で原稿を読んでる。放送側としては「すごいんだぞーっ」という迫力を出したいんだろう。これがエスカレートして、「もっと迫力のある場面」がほしくなる。あるいは、「他局に負けるな」といった競争心が生まれる。そこまで「演出」しなくても台風が怖いことは伝えられないもんかと思う。その上、レポーターが飛ばされたりこけたりすると「NG集」で笑いの「ネタ」にする。あー、いやだ、いやだ、いやになってくる。とにかく「絵になる」ことが最大の眼目になって、「事実を伝える」のは二の次だなんてのは困ります。それにレポーターのみなさん、くれぐれも被害に遭われないよう、ご注意を…。
素人の浅はかさ(04/08/30-502)
 私が関わりを持っている団体で、活動内容を知らせるパンフレットを作ることになった。文面は自分たちで考えるとして、全体のレイアウトは少しでもアピールできるものにしたい。デザインやレイアウトなどと言われると、われわれには、これっぽっちの力もない。さあ、どうするかとなったとき、私にいいアイディアが浮かんだ。私は教育学部で仕事をしている。この学部には、さまざまな専門家がいらっしゃるではないか。とにかく、学校で教える教科はすべてカバーしているのである。文系に理系、実技系、芸術系、さらに保健に関わる領域もある。まさにミニ・ユニバーシティなのだ。「美術の先生にご相談すればいい」。これが私のアイディアだった。とくにわが学部には優秀な先生がおられる。もちろんご本人にお仕事をしていただくのは畏れ多い。そこで、「お手伝いしてくださる学生さんをご紹介いただけませんか」とお願いした。「当たってみます」とのご回答だった。それから1、2週間が経過しただろうか。先生からお電話があった。「学生に当たってはみたのですが、ご依頼となると責任が重くて…。実際、仕事としてお受けした場合、とくに大変なエネルギーを必要とするのです。せっかくのお話に対して申し訳ないのですが…」。それを聞いて、私の方が恐縮した。自分でできないからこそ、その厳しさや大変さに気づかないのである。何とも素人の浅はかさを思い知らされた。プロの奥は深い。
もう一つの提案(04/08/29-501)
 さて、「長ーい文」に対する昨日の修正案は、やや字数が多くなった。そこで、文意をそこなわず原文と同じ字数にするとどうなるか。

 
日系企業が海外で根をおろすにはいくつかの過程が必要なようです。最初は日本と同じやり方でいこうとします。他にいい方法を知らなければ当然でしょう。しかし、そのままでは文化の壁に突き当たります。日本的なものの考え方だけではやっていけないことに気づくのです。そこで、異文化との共存関係を構築するために方向転換することになります。

 いかがでしょうか。これで原文160字と同じになった。やはり6つの文に分けたから、「。」が5つ増えた分だけ文字数は減った。1文あたりの長さは平均26文字である。私は文章の訓練を受けたことはない。これまで、いわゆる我流でものを書いてきた。したがって、私が「文章」について偉そうなことを言うのは気が引ける。ただ、とにかく「長ーい」文章に行き当たると、ついついものを言いたくなる。個人的な日記は別だが、人が読むものを書く場合は「自分だけわかればいい」ではまずいだろう。「読む人」への「気配り」も必要ではないか。そういえば、「気配り」で名を馳せた方の文章で、1文が200字を超えたものを見たことがある…。
私の提案(04/08/28-500)
 昨日の長文問題の続き。1文が160文字のものに、私なりに手を入れさせていただいた。

 
日系企業が海外で根をおろすにはいくつかの過程が必要なようです。最初は日本と同じようなやり方でいこうとします。他にいい方法が分からないのですから、当然でしょう。しかし、それでは文化の壁のようなものに突き当たります。日本的なものの考え方だけではやっていけないことに気づくのです。そこで、異文化との平和な共存関係を構築するために方向転換することになります。

 まずは、6つの文に分けた。全体の文字数は175字で1文あたりの長さは29文字である。読点も入れて15字が増えた。「なあんだ、全体としては長くなったじゃないか」と言われるかもしれない。しかし、読むときの頭の流れの効率も考えると、そのマイナス点はカバーできるのではないか。「いつまで続くんかい」などと余計なことを考えないで済むのである。今日の提案文はできるだけ原文を生かすようにした。そのことも、文字数を増やす原因になった。もう少し手を加えて、あくまで原文の長さに近づく試みを明日やってみよう。
短文主義(04/08/27-499)
 つぎの文章を読んでいただきたい。海外に進出した日本の企業が、異文化の中で根を下ろす過程を書いたものである。

 最初は日本と同じやり方でやろうとして(他にどんなやり方があるのか分からないので当然のことではありますが)文化の壁のようなものに突き当たり、日本的なものの考え方だけではやっていけないことに気づき、異文化との平和な共存関係を構築すべく方向転換していくという過程を経て、日系企業がようやくその国に根をおろすことになるようです。

 ご感想はいかがだろうか。その趣旨は分かるが、何とも長い。この1文で、カッコも入れて160文字が使われている。私としては、著者を個人的に批判するつもりはない。したがって、その原典は明記しないことをお許しいただきたい。とにかく文が長いのである。いつのころからか、私は「1文が長い文章」に抵抗を感じるようになっていた。そして、私自身は「短文主義」でいこうと決めた。正確には「短い文主義」と言うべきだろうか。たとえば、拙著「人間理解のグループ・ダイナミックス」のデータを挙げさせていただこう。この本は99,732文字、3,561文、573段落から構成されている。そして、1文あたりの長さは平均28文字である。本音を言うと、われながら「ちょっと切りすぎ」と思うところもある。しかし、それでも「短い文」にこだわりたいのである…。この話題、もちろん続きます。
30%の打者(04/08/26-498)
 先日の日曜日、オリンピックの野球をテレビで見ていた。予選リーグの最終戦で相手はギリシャだった。4回ごろだったか、アナウンサーがギリシャの好打者について説明をはじめた。「ラジオの番組に出ていたんですが、ここでは30%打つと言ってました」。そこまではよかったが、つぎの一言で「うん?」と思ってしまった。「3割とは言わないんですね…」。「???」。そりゃあそうだわいな。3割5分4厘なんて表現は日本だけでしょうもん。アメリカだって、そんな言い方はしないでしょうよ。まあ、こんなことまで話題にすると、「揚げ足取り」だと言われそうではある。しかし、何たってアナウンサーは「ことばのプロ」ですからね。聞いてるものが首をかしげるような言い回しは避けてほしいもんです。ついでで申し訳ないけど、解説の星野さんも、「ギリシャも一矢(いちや)報いる…」なんて言ってましたね。それって一矢(いっし)ですよね。彼の場合は「ことばのプロ」ではないけれど、やっぱり公的な電波に乗るといやでも聞こえてしまうんです。そう言えば、F系の朝の放送「○○テレビ」を見ていて驚いたことを思い出した。「巨人−阪神戦」のニュースになったとき、「阪神が一矢(いちや)を報いました」とプロのアナウンサーが読んだことがある。その後にも、このことで訂正もコメントもなかった。1994年7月8日のことである。「何でそんな昔のことを、日付まで憶えているのか」ですって? そりゃあ、そのときメモしてたんですよ。講義のネタにしようと思ってですね。当時はインターネットもホームページもございませんでしたけど…。
列車の構造(04/08/25-497)
 先日、博多発熊本行きの特急有明に乗った。熊本県の玉名駅に停車した後、そろそろ発車かなと思ったときだった。子どもたちが3人ほど、走るように私の横を通り過ぎていく。明らかにこの駅で降りようとしていることが分かった。「間に合うかな」と思った途端に列車は動き始める。「きゃーっ、止めてー」といった叫び声が聞こえた。ドアを叩いている音もした。しかし、特急は無情にもスピードを上げていく。子どもたちのように思えたので、ちょっとかわいそうな気がした。しかし、「降りるときくらいはちゃんと緊張しておかなくっちゃあ」と言いたくもあった。交通機関などでは、いつもギリギリで迷惑をかける人がいるからだ。いずれにしても、私が列車を止めることもできない。少し前からトイレに行こうと思っていた。彼らの様子を知りたいという気持ちもあった。そこで、やおらトイレに立った。ドア付近に彼らがいた。居合わせた別の客に訴えている。「前の方に行ったら車掌室があって、行き止まりのようになってた。あわてて反対方向に来たけど間に合わなかった…」。その様子からはじめて有明に乗ったことが伺えた。彼らが降りたのはつぎの上熊本駅だった。その後ろ姿を見たら、母親と3人の子どものような感じがした。私が熊本駅で下車する前のことである。気がつくと、彼女らが話していた方へ足が向いていた。ドアを開けるとすぐ横に車掌室がある。その向こうはまたドアで「グリーン車」と書いてあった。そして、「グリーンの指定券を持たない客は入ってはいけない」と言った意味合いの表現が続いていた。そのドアを開けると、すぐに降り口があった。私は「彼らを責めることはできないな」と思った。車掌さんにも事情を訴えていたが、その声は生かされるのだろうか。それとも、「たまには、こんな客もいる」ですまされるのだろうか。列車や車はカッコいいだけではいけない…。
軍事裁判(04/08/24-496)
 曽我さんの夫であるジェンキンズ氏については軍事裁判が関係してくるようだ。いま、事態は進行中である。その件とは関係ないが、New York Times で軍事裁判所が不公正に見える理由≠ニいう見出しの記事が掲載されたことがある(6/6付)。あのイラクのアブグレーブにおける囚人虐待事件についての記事だった。検察も判事も軍人で構成される裁判では、正義よりも戦略目標などが重視されがちだという。その一例として「えひめ丸」の事故を挙げている。あの事故では日本人9人が亡くなった。その裁判で、潜水艦の船長は懲役10年に値する「怠慢による殺人」の罪を認めなかった。その代わりに、彼はその指揮権を失い、懲戒文書を受け取った。これに俸給50%減額2ヶ月の処分が加えられた。この処分が9人もの命を奪ったことに対して適切かどうかを聞かれた米海軍のトップは、つぎのように答えている。「艦長はその地位を失ったのです。指揮官として20年にもわたって仕事をしてきた者にとって、この処罰はこの上なく厳しいものなのです」。アメリカにも、こうした問題をいわゆる文官に委ねてはどうかという議論もあるらしい。しかし、その壁もまた高いようだ。人を裁く際に、誰がどういった基準で行うのか。それによって、結果はまるで違ったものになる。ジェンキンズ氏の場合も軍事裁判になるようだが、どのような流れになっていくのだろうか。日本とは違って、アメリカには「司法取引」といった裏技もある。
お金になる研究(04/08/23-495)
 先月だったか、NHK「ためしてガッテン」で夏やせの話をしていた。その中で熊本の牛も登場した。牛については夏やせの研究が進んでいるという。それに対して人間の場合は目立った研究がないらしい。それはどうしてか。答えは簡単で、「お金にならないから」だそうな。牛は、夏やせで乳が出なくなると商品にならないから大いに困る。そこで「牛の夏やせ」の研究が行われているのである。まあ、世の中こんなモンなんだ。儲からなければ注目されない。仕方がないといえばそれっきりだけれど、そればっかりでは寂しい気がする。ときには「損得抜き」の仕事やお付き合いをしても罰は当たらないだろう。ところで、この日の「ためしてガッテン」の有用情報のひとつは水にまつわる話だった。「食事中に水を飲むと胃液が薄くなる。だからあまり水を飲むな」。子どものころからそんな話を聞いていた。しかし、事実はそうでもないらしい。ただし、食後の1時間くらいは水を飲まない方がいいという。水が入ると、胃が一時的に消化の仕事をやめてしまうんだそうな。そう言えば、以前は「走るときは水を飲むな」とも言われていた。すぐにバテるからという理由だった。マラソン大会などでも、口内がカラカラの状態で走ったものだ。これもこのごろの常識ではないようだ。水分補給こそが大事だという。身の回りには、この手の「事実」があふれている。「事実」はときとともに変わるものらしい。最初の話題からズレてきちゃった…。
アジアの大国(04/08/22-494)
 
アメリカが中国を警戒しているという New York Times の記事を何回か取り上げた。日本だって中国の躍進に脅威を感じていることは否めない。しかし、世界は広い。はっきり気づいてないが、中国のちょっと先にも大国がある。それはインドだ。人口も10億4千万で中国に次いで多い(国連「人口白書」2002)。この国でハイテク産業が盛んになっていることは、以前から聞いていた。何といっても英語が使える国である。だからソフトウエアの開発などでも、欧米と同じ言語で仕事ができるのである。そう考えるとその強さも理解できる。そうした中で「中国ではなく、インドで収益をあげる企業」といった見出しが New York Times(6/20付)に載った。中国では輸出を前提とした産業が幅をきかせている。そのため、国内ではとても使いっこないような、大きなレンジを作ったりしているんだそうな。これに対してインドでは国、内の需要に応える形で物づくりが進められているという。そんなことから、「インドでは儲けられるが、中国では利益を上げられない」と考える経営者もいるようだ。わたし自身は投資なんぞする身分ではないが、これからは中国の向こうにインドありの視点は必要になってくるはずだ。正直なところ、私自身はこの国の事情についてはほとんど知らない。
「鶏か卵か」論争の決着?(04/08/21-493)
 どちらが最初にこの世に現れたかが分からない場合に、「鶏と卵」論が使われる。たしかに鶏は卵から生まれて成長する。しかし、その卵は鶏が産むのである。鶏の前は卵、その前は鶏、さらにその前は卵という訳である。ちょっと聞くと、それが正しいようにも思える。しかし、本当の専門家にも「どちらが先」なのか分かっていないのだろうか。まあ、私としてはどう考えても鶏が先だと思う。進化の歴史の中で、まずは単細胞の生き物が現れたんだろう。彼らは自分の身を切る細胞分裂で子孫を増やしていく。そのうち複数の細胞から構成された生き物に進化する。そんな流れの中で、自分の分身をつくるノウハウを開発していったに違いない。その回答のひとつが卵だったということだろう。どうでしょう。こんな順番だと思いますよ。だから、「鶏と卵」論争は、「鶏が先」で決着でしょう。防護服に囲まれた卵が忽然として現れたとは考えられませんもの。そりゃあ外に出すから殻があるんで、体内では無防備だと言われますか? それでも、はじめは細胞内に「卵の素」が生まれたんでしょうもん…。「どうでもいいけど、それがどうした」ですって? いや、とくにどうってことはありません。でも、こんなこと考えるって面白いじゃあないですか。朝からワクワクしてくるんですよね。
こころ貧しきコメンテータ(04/08/20-492)
 「オリンピックは見てますか」。タクシーの運転手さんから聞かれた。「まあ、ニュース程度ですね。遅くまで起きたりしてはいません」。私の関心度はそのくらいである。しかし、テレビは連日ホットになっているようだ。そんな中、体操が団体で金を取った。私が子どもから青年期のころは、「体操王国ニッポン」だった。それが徐々に力を落とし、いつの間にか「体操こそお家芸」といった感覚もなくなっていた。なにせ28年ぶりの快挙だそうで、けっこうなことである。朝のワイドショーでも話題は沸騰していた。詳細なメモを取らなかったので、本日はアルファベットで表現するが、多分F局だったと思う。レポーターのM氏が叫ぶ。「(ポーランドの)選手が鉄棒しているときは、『落ちろ、落ちろ』と言っちゃった…」。何と貧しい心根だろう。こんな悲しいことを平気で言うコメンテーターなんて、何なんだ。外国人が聞いたら、その偏狭さにあきれ果てるに違いない。どこかの国のサポーターを笑えたものじゃない。結果として相手が失敗したとき、「これで、こちらが有利になったぞ」といった感慨をもつことはあるだろう。しかし、「落ちろ、落ちろ」だなんて…。100歩、いや100万歩ゆずって、それが彼の「本音」だったとしても、公共の電波で言っていいかどうかくらいは考えてちょうだいよ。100m平泳ぎで2位になった選手の仲間が、北島選手の足の使い方にクレームを付けたらしい。しかし、当の本人や監督は、淡々と「そんなことはない」と答えたという。「自分たちの味方として言ってくれたのだろう」といった雰囲気だったらしい。こんな話を聞くと、「こころ貧しき」発言に、ますます恥ずかしくなってくる。
社会的コスト(04/08/19-491)
 少しばかり前になるが、 選挙の際に学歴詐称で問題になった議員がいる。警察としては、その行為に対して法的な罪に問えるかどうかを決断しなければならなくなった。そこで事実を確認するために、警察官がアメリカに飛んだという。あーあ、またまたけっこうな費用がかかるんだろうな。この種のニュースを聞くと、私なんかすぐそう思ってしまう。なにせ日本は法治国家である。どんなことでも、ちゃんとした手続きを取って事実を明らかにしなければならない。アメリカへの警察官派遣も、そのためである。だから、それは事件の解決に必要なコストなのだ。しかしそれにしても、小さなものも含めて、何かが起きると必ず費用がかかる。犯罪1件当たりの解決のために、一体全体どのくらいのお金がかかっているんだろう。われわれは、自分の財布からお金を出せと言われると、大いに抵抗し文句も言いたくなる。「何でそんなことに金を出さなきゃならないんだ」と大声で叫んでしまったりする。ところが、社会的に負担しているお金には案外と無頓着になってしまう。自分の財布は傷まないからだ。しかし、本当はそのコストがなければ、もっといいサービスを受けられるはずなのだ。あるいは、少しなりとも税金などの負担が少なくなるのである。ああ、それなのに犯罪が起きるとワイドショーなんぞを見ながら、国民のすべてが正義の味方になる。コメンテーターと一緒になってワイのワイのと騒いでおしまい。その間にも、捜査をはじめとして大切なお金が使われているのである。世の中にはいろいろな人がいる。きっとだれかが犯罪にかかる年間の総額を計算しているに違いない。その額を聞くのが怖くありませんか。
性転換とオリンピック(04/08/18-490)
 お久しぶりに、New York Times からの話題(8/01付)。日本の新聞では気づかなかったが、IOC はこの5月に、性転換をした人もオリンピックに参加できるようにしたようだ。ただし、今回の大会には該当者はいないという。ともあれ、今回も薬物使用には極めて厳正に対処している状況の中で大いに議論を呼んでいる。私も性転換については詳しいことは知らない。しかし、たとえば女性≠ナありつづけるために、ホルモンをずっと使う必要があるらしい。そうなると、これは「薬物使用」だという意見が出てくることになる。IOC側のドクターは「彼らを排除するのはフェアじゃない」と言う。これに対して、アメリカ女子プロゴルフ協会の副会長は反論する。「男性は、耐久力とスピード、パワーに依存するスポーツでは、生まれつき有利な立場にある。性転換した人たちは、依然として強い筋肉や生理的な強みを維持している」。因みに、女子プロゴルフ協会では、女性として生まれた者しかメンバーになれないとのこと。もちろん、それにも異議を唱える人がいる。カナダのマウンテンバイク競争のチャンピオンだ。「エストロゲンは、競技力の強化には結びつかない。いまでも私の骨は太いが、筋肉は役に立たない…」。こうした生理学的な観点からの議論に加えて、「本来、自然とは何か。人工的とは何か」という問題も提起されている。そうなると、競技者が日常的に行う「過度」の訓練による筋肉の増強や、体重を規定に合わせるためのダイエットは「自然」なのかという話にまで広がっていく。ああ、ややこしくなってきた。
飲める温泉(04/08/17-489)
 このところまがい物の温泉がニュースになっている。井戸水や水道水を沸かして「温泉」という看板で商売する。なんと、それで「入湯税」まで取っていたところもあるという。まあ、本物の温泉≠ネんだから、「入湯税」は取らざるを得ないだろう。だって、それを取らなければかえって「怪しい」と疑われてしまうかもしれない。ひとつのことをごまかすために、さらにインチキを重ねざるを得ない。何とも苦しいところだ。それにしても、「入湯税」は温泉地の自治体に納められるらしい。そうなると、役場だって「業者が勝手にやってた。井戸だろうと水道だろうと、徴収したお金はいただきまーす」なんて人ごとのように言ってていいもんかしらね。テレビで見てたら、どこかの自治体の担当者が「地元では、(温泉でないところは)分かってます。でも、いろいろあって」なんてコメントしてた。そのおおらかというか、淡々とした態度は見事だった…。それにしても、これが一地域に留まらず、あっちこっちの有名な温泉地で発覚していることが恐ろしい。まさか全国温泉旅館連絡協議会なるものがあって、「井戸水や水道水を使ってても、お互い頬被りしましょう」なんて決議しているはずもない。つまり横の連絡なしに自然発生的にこうした行為が行われているということなのだ。それだけみんなの「良心」のレベルが全国的に低下しているのである。そう考えると、ことは「温泉業者」だけの問題ではなくなってくる。絶え間なく起きる不祥事や事故の発生は、われわれ全体の「心性」がおかしくなっていることを物語っているのではないか。それは日本崩壊′サ象の一部が露呈したに過ぎないのだ。こんな話をしていたら、息子が皮肉なことを言った。「『この温泉飲めます』なんてのも本当に飲める訳だよね、水道水を沸かしただけだったら…」。そりゃあそうじゃ。ついでに「成分:カルキ、塩素ほか 効能:下痢しない」なんて書いたりして。
元首の批判(04/08/16-488)
 もう先月になるかもしれない。お隣のあの国のニュースで「華氏911」が取り上げられているのを見た。「華氏911」は、いま最も話題になっている映画である。今週末から日本でも公開されるようだ。ブッシュ大統領を完膚無きまでに、こき下ろした内容だという。あれだけ前宣伝が効いていると、もう配給会社はいまから「大入り袋」が目にちらついていることだろう。それはそうと、このニュースをかの国に住んでいる人々はどのように受け止めたのだろうか。「やっぱし、そうだった。ブッシュはわれわれを『悪の枢軸』なんて決めつけるとんでもない人間だ。ところが、何のことはない。自分の方がよっぽどひどいじゃないか。とにもかくにも、同じ国の人間が言ってるんだから間違いない…」。国民のほとんどがそんな気持ちなんだろうか。その中に、アメリカでは自国の元首を徹底して批判できる自由があることに気づき、驚いた人がいるか、いないか。そのやり方も皮肉に満ちた手法で元首を茶化しているのである…。ともあれ、私もあれだけ前宣伝されると、つい映画館に足を向けてしまいそうだ。情報やコミュニケーションの在り方は私の仕事の範囲に入っている。だから、その点でも興味は十分にある。おそらく「映像のつなぎ合わせ」の怖さを再認識させられるんだろうと予想している。われわれは、「写真や映画で撮ったものは紛れもない真実」だと思い込みやすい。そこが怖い。いまでは頻繁に取り上げられるあの国の「ニュース」を見れば、「映像の真実」が持つ意味も理解できるだろう。だから、国が流す「真実」だって同じことである。国の方が資金も人材も豊富だから、よりすごい「真実」を創れる可能性が高い。大切なのは「うーん、これって本当かい」という批判的な目である。まあ、「眉唾」精神ということですかね。
奨学金をケチらない(04/08/15-487)
 大学進学率がほぼ
50%に達したことは一昨日のネタにした。そんな中で大学の二極化が進んでいく。それが事実であるかどうかを確認した訳ではないが、かの T大や東京の有名私大に通う学生の親たちは相対的に高収入らしい。なにせ、そこまでの投資が違うというわけだ。そんなことから日本は「階層化」し始めたと指摘する研究者もいる。「お金持ちはさらに有利に、そうでない人々はますます不利に」という図式だ。少なくとも意識だけは「一億総中流」と言われた時代があった。それが壊れていくのだろうか。そんなことを聞くと、奨学金のことが頭に浮かぶ。もうかなり前になるが、オーストラリアで聞いた話。かの国ではほとんどの学生が奨学金をもらっているという。そして卒業後に自分で返すのである。就いた職業によって返済期間も違っている。たとえば、お医者さんのような収入のいい人は短期間で返すことになる。この話の真偽のほどは確認してはいない。しかし、示唆的な話だと思う。日本では親の収入が奨学金を貸与するかどうかの大きな条件になっている。そんなところで制限せずに、「希望する理由のある」学生にはだれにでも奨学金を貸与してはどうか。それもケチな額ではなく、大学生活を送るために必要な額にする。そのかわり、学業の状況などは厳しい審査を行う。もちろん、卒業後の返済についてもちゃんとフォローするのである。そうなれば、「親がかりじゃなくて、自分の力で卒業したんだ」という若者が増えていく。とにかく教育にはお金をかけないと、この国は滅びてしまう。ただし、こうした提案が説得性を持つためには、「借りたものは返す」という基本的心性が日本人に「復活(?)」する必要がある。そして、「逃げ得は許さない」という追っかけ側の迫力も欠かせない。そこまで考えると、「現状ではとても無理か」と思ってしまう。いまの日本では、このあたりが危うい感じがする。そう考えるとちと悲しくなってくる。しかも、奨学金について改善しても、大学入学以前の収入格差の問題が解決することにはならない。あー、ちょっとは面白い提案だと思ったんだけどなあ…。
野球の楽しみ方(04/08/14-486)
 先日、久しぶりに野球を見に行った。もう3年ほど前になるが、家族で福岡ドームに出かけたことがある。このときはくじで当たったバックネット裏にある豪華な部屋付きボックス席で楽しんだ。今回は福岡で用事を済ませたあと、たまたま野球があることを知り、一人で出かけた。西武戦で、相変わらずというかドームはほぼ満員だった。これまた以前、大阪ドームに行ったことがあるが、このときはどこもここも座席の色が鮮やかだった。なにせ、そこいら中で寝っ転がれるのである。いまや話題の近鉄対オリックス戦だった。それはともあれ、一人で行って何を感じたか。「うるさすぎる」の一言である。応援団が騒ぐのはいつの時代も変わらない。平和台の時代にも、大漁旗を持って走り回る熱烈なファンもいた。しかし、それにしてもひいきチームの攻撃中、球場内に絶え間なく響き渡るあの轟音は何とかならんのかいな。あれじゃあ野球を見るというより騒ぎを楽しんでる。そもそも息をのむ真剣勝負のバックアップになんかなっちゃあいない。これって文化なんですかねえ。たった1回のことだけど、サンフランシスコでジャイアンツとブレーブス戦を見に行ったことがある。あのボンズもいたが、いい雰囲気で楽しめた。外野の名手になると打撃音だけで球が飛ぶ方向を読むなんていう。さすがプロだが、こんなに騒がしくってはそれもできまい。それだけプロの技を見逃してることにもなる。まあ、「鳴り物入り」なんてことばがあるお国柄だから、ワイのワイのはあきらめんといかんのでしょうかねえ。なあんか日ごろの欲求不満を吐き出してるみたいな気がしてしまった。「えっ、『そう言うおまえだって、一人だったからそう思ったんだろ。みんなと行けば大騒ぎするくせに』ですって?」。沈黙…。
変わらない、変わらない(04/08/13-485)
 文部科学省の学校基本調査速報によると、昨年度の大学・短大進学率は49.9%だという。男子については50%を超えている。うーん、ここまできたか…。われわれの親たちといえば、そのほとんどが大学に行っていない。戦後10年ほど経過するうちに、少しばかり生活に余裕も出てきた。そんな状況の中で、親たちは自分の子どもを大学に進学させようと思い始めたようだった。まだ私が小学校の低学年のころだ。親戚が一堂に集まった新年会だったか、大人たちの誰かが言った。「ここにいる子どもの何人かは大学に行くんだろうな。その気だったらちゃんと勉強しろよ。日本は貧乏な国だから、アメリカみたいに希望者を全員入学させるわけにはいかんのだから」。これが、わが親族の叔父ちゃんたちが考える大学入試がむずかしい理由だった。それを聞いた私は思った。「だったら日本も早く金持ちになるといいなあ…」。あれから40年以上が経過した。日本はそこそこ「お金持ち」になったが、相変わらず受験戦争は続いている。たしかに入学定員と志願者の数だけは間もなく同じになるという。まさに、「全員入学」ということである。しかし、それは「人気大学」とそうでないところに二極化するだけのこと。むしろ「ブランド」大学は、さらに入学困難になるだろう。「だれでも」とまでは言わないが、ある程度きちんとした意欲のある学生を入れて、進学や卒業をむずかしくする。それが叔父ちゃんたちの言う金持ちアメリカのやり方だった。しかし、この国もそこそこ金持ちになったけれど、父の時代の状況は変わっていない。同世代の半分が大学生という進学率は別にして…。もっとも、そう言う私自身、かの国の大学卒業率なる数値は知らない。
教育いろいろ(04/08/12-484)
 さてさて、学校の先生方に対人関係スキルの向上が求められているという話のつづきである。昨日からの流れをよくするため、原文に若干の修正を加える。
 学校の先生方が教える内容についての知識を持っていることは当然のことです。しかし、それだけで満足してはいけません。先生方には、子どもとの関係の持ち方についてのスキルを身につけることが求められているのです。それは、子どもだけでなく同僚や保護者との関係にも広がる必要があります。「教育」は、教師と子どもたちがともに学ぶ「共育」だと言った人がいます。それもまた、子どもとの関係をつくりあげるスキルを磨くことで実現するのです。対人関係がうまくいっていないと、「共育」どころか、「狭育」や「恐育」、「脅育」、そして「凶育」になってしまいます。これでは、教室の空気がいい色になるはずがありません。その一方で、対人関係スキルの向上によって、さまざまな「きょういく」が生まれます。たとえば、お互いに与え合う「供育」、響き合う「響育」、また、すばらしいことに対しては心から驚く「驚育」も必要でしょう。さらに、相手の行動は自分を映す鏡でもあります。「鏡育」という視点も欠かせませんね。ともあれ、多くの先生方に対人関係スキルを身につけていたたきたいと願っています。しかも、「そのうち」では手遅れになります。「教育」は「今日育」なのです。子どもたちは待ってくれません…。対人関係スキルについては、わたしのホームページでも取り上げていますので、ご覧いただければ幸いです。(熊本県教育委員会「教育くまもと7月号から引用)
 最後には、このホ−ムページまで抜け目なくPRした。それがご縁で「味な話の素」を読んでいただいた方がいらっしゃるかもしれない。こうしたことを考えながら、私としては、いろいろな「きょういく」を実現するために、「対人関係スキル」向上を目指した「トレーニング・プログラム」の開発を進めてきた。おかげさまで、この方式は熊本市教育委員会の「教職10年経験者研修」などに採用していただいている。
教室の空気の色(04/08/11-483)
 ありがたいことに、ときおり原稿を依頼される。特別の事情がない限り、喜んでお引き受けしている。ほとんどが一般向けのものではないから、その読者層は限られる。そこで、このコラムで雑誌等に寄稿したものを再録しようと思う。今日はその最初の試み。熊本県教育委員会が発行している「教育くまもと」の7月号に掲載されたものを取り上げたい。タイトルは「学校における対人関係スキルの向上を目指して」である。
 教室の入り口は、そのほとんどがスライド式になっています。それを少しだけ開けてみます。その瞬間に、教室の中の空気が伝わってきます。とても興味深いことですが、教室によって、その空気の色が違っているのです。あるクラスでは、子どもたちが一人ずつ意見を出し合っています。あらかじめ決められた順番があるのでしょうか、男子が発言すると、少し離れた席に座っていた女子が立って話をします。みんながニコニコしています。先生はご自分の机で、ときおり顔を上げられて笑顔を見せられます。しかし、よく見ると何か別のお仕事をされているご様子です。きっと、急ぎの用件が入ったのでしょうか…。それはともあれ、とてもいい雰囲気が伝わってくるのです。さて、お隣の教室に移動してみましょう。同じように戸を開けてみます。すぐに空気の色の違いに気づきます。こちらでは先生がきちんと授業を進められています。でも、なんとなく子どもたちに落ち着きがないのです。先生も子どもたちの目を見つめていないような感じがします…。教室の基本的な仕様に変わりはありませんし、教科書はまったく同じです。それなのに、どうして教室によって空気の色に違いがでるのでしょうか。わたしは、その要因の一つとして、先生方の対人関係スキルの違いがあると考えています。
 ここまでで全体の2/3くらいになる。このコラムの平均的な分量を超えるので、明日まで持ち越したい。ともあれ、私はリーダーシップや対人関係の重要性を強調する際に、この教室事例をよく取り上げる。環境条件は同じでも集団や組織の雰囲気や風土は違う現実の例として。
アドバイスへの返事(04/08/10-482)
 昨日のつづき。調査は「匿名」としながらも、性別や年齢などの情報を聞けば「記名」と同じことになる。「それではまずいでしょう」と若き研究者にアドバイスした。前回はそんなことをことを書いた。ここではその後半部分を、原文に若干の手を加えながら見て行こう。われわれは、調査をするとなると、ついあれやこれやと「いろんなことを聞こうとします。しかし、その必要性についての仮説がないままに『とにかく聞いておこう』ではまずいのです。『自分の研究は、この点を明確にしないと意味がなくなってしまう。だから、多少の回答におけるゆがみ≠竍抵抗≠ェあっても、聞かざるを得ないのだ』。このくらいの迫力がなければいけません。そして論文では、採用したものはすべて使うべきです。『たくさんの項目について聞いたけれど、ある程度の項目だけで論文は書けた。だから、もう他の項目はいいや…』。これでは、せっかく真剣に回答してくださった方々に対して申し訳ないでしょう。学校で研究者が行っている調査などを見ますと、『教師や子ども、さらには保護者』の事情は配慮せずに、「とんでもない」ことを平気で質問をしているものがあります。『研究のためなら何を聞いてもいい』。これは間違った態度だと思います。しかも、狭い学会内だけで議論しているから、そうした問題にすら気づかない。そんな例を私は知っています。○○さんの場合は、大丈夫だと思いますが、フェースの部分でかなり『詳しい』項目がありましたので、蛇足ながら日頃の私の考えをお伝えしておきます。ともあれ、いい論文が書けますように」。このアドバイスを送ってから1ヶ月近くが経過したが、今日の時点で若き研究者からの返事はない。
調査と回答者のface(04/08/09-481)
 ときおり、われわれが開発した質問項目などを研究で使用させてほしいという依頼がある。それは自分たちの研究が第三者に評価された証だと言える。また研究であれば、公表された項目などは原典を明記することで、自由に使える。これが原則である。それによって、研究が進んでいくことになる。つい先ごろも、大学院生から項目使用の依頼を受けたので、関連する情報を送った。それに対して、「これでいいかどうかチェックしてほしい」旨のメールが届いた。先方が作成した調査票も添付されていた。何と言っても内容はこちらが提供したものだ。項目に対する選択肢も同じである。そんなわけで、とくにコメントすることもなかった。ただしその他の部分で、ちょっと気がかりなところが目についた。それは、項目の前に年齢や性別、所属や勤続年数などの記入欄が設けられていたことだ。これは「フェース・シート」などとも呼ばれる部分で、この種の調査ではごく当たり前に付けられている。しかし、この「フェース」の内容次第で、「調査は『匿名』」と言いながら、じつは記名式と変わらないものになってしまうのである。この場合もその典型的な例だった。なにせ、年齢や性別などを聞いているのだ。職場によっては、それらを組み合わせれば個人が特定される可能性が高くなる。文字通り「顔」が見えてしまう。そこで私としては、こうした問題点を指摘するメールを送った。そのメールの前半に、おおよそ以下のようなことを書いた。「年齢や性別など、回答に際して『抵抗』を感じられるものがありますね。回答者側から見ればこれは限りなく『記名式』調査になっています。この点については、組織の状況など慎重に考慮する必要があります。研究者は『他意はない。純粋に研究だから』と、ほとんど無意識に、あるいは正義感に燃えていろんなことを聞こうとします…」。私自身が十分に気をつけなければいけないと考えていることを書いたのである。ここをしっかり認識していないと、回答そのものが信頼できなくなってしまう。そのことを若き研究者に、しっかり伝えたいと思った。
悠々自適のお殿様(04/08/08-480)
 先月のローカルニュースで
細川護煕さんを見た。熊本で自作の陶器や書の展示会を開いたとのこと。細川氏といえば元総理大臣。外国でマフラー巻いて会談に臨んだり、立って記者会見をしたり、ボールペンで記者を指したりと、さまざまなパフォーマンスで話題を呼んだ。そして、突然という感じで総理を辞めて、60歳になるとさっさと政界を引退した。その後は、神奈川県の湯河原町で焼き物を焼くなど、まさに悠々自適の毎日を送っておられるらしい。その行動にはさまざまな評価があるのだろうが、とにかく「引き際」は群を抜いて鮮烈である。熊本県知事の時代にも、「3期目確定」という状況の中を2期で辞めた。ところで、熊本では「知事は3期」という暗黙の了解らしきものがあるらしい。これって、なかなか面白い。世の中には、4期、5期、はたまた6期、さらにそれ以上なんて居座る人がいる。それを思うと、熊本の「暗黙の了解」は捨てたもんじゃない。アメリカの大統領が2期までというのも、不文律なのである。さて細川さんだが、引退後はブッシュ大統領が来日した際のパーティにも出ないという。何せ元総理だから、その手の招待状が来てもおかしくないのだ。それに行かないというのだからなかなかである。いくら格好よく引っ込んでも、そこは人間。アメリカ大統領のパーティなら、自慢話のネタにもなる。私だったら、ついつい顔を出したくなるだろう。「えっ、『おまえがそんな立場になる訳がない』ですって? そりゃあそうじゃ」。ともあれ、この辺りの徹底ぶりは、やはり格好いいじゃないか。そういえば、私も氏が県知事時代に県の委員をして細川護煕の名前が入った辞令をもらったっけ。あれはどこにいったかなあ。探してみよう…。陰の声「イヤー吉田君。やっぱし、あんたは小者よね」。
多様性のラスト(04/08/07-479)
 「熊大オンエアー」のビデオでは、話題は「生態系の多様性」「景観の多様性」へと展開していく。「生態系」ということばはしばしば耳にする。植物や動物との関係、さらに環境全体との関わりを体系的に考えるとき、「生態系」という用語が使われる。あるものがあるものを食べ、それをまた別のものが食べる…。いわゆる「食物連鎖」も、たくさんの生き物が繋がっているからうまくいく。鎖の一部でも欠けると、せっかくの首飾りだってバラバラになってしまうのである。やはり、キーワードは「多様性」なのだ。そのチェーンをズタズタにしている張本人が人間である。生きていくための限度を超えて「食べる」、「使う」、「捨てる」を繰り返している。それがまずいことを、頭では分かっていながら、行くところまで行き着かないと行動は変わらない。わが身を含めて、何とも情けないと思う…。ともあれ、「熊大オンエアー」の第1回目のビデオは、とても面白かった。それにしても、「多様性」にこだわって4回にもなってしまった。これには、ちょっとした理由がある。それは、私の仕事であるグループ・ダイナミックでも、「多様性」が重要なキーワードだからである。効果的な集団のあり方に関しては、「等質集団」よりも「異質集団」のほうが優れている。つまり「いろんな人」がいた方がいい。これがグループ・ダイナミックスの結論である。同じ考えや体質の者ばかりで構成されている集団は、大きな危機が襲ってくると「絶滅」する可能性が高い。「裸の王様」の国は、思ったことを声に出して言った子どもに助けられた。江戸の昔も、「殿、ご自重を」と叫ぶ家老がいない藩は、そのうちつぶれたに違いない。まさに、「百家争鳴」こそ、組織や集団が成長していく源泉なのである。もちろん、それは「みんなが勝手気まま」ということではない。そこには、基本的ルールやマナーがある。そして、全体を取り仕切るリーダーシップが欠かせない。しかし、とにもかくにも「多様性バンザイ」。
種の多様性(04/08/06-478)
 「集団の多様性」の次は「種の多様性」である。この地球上には、じつに多くの種類の生き物がいる。われわれは霊長類ヒト科の動物だ。最も多いのは昆虫で、すべての動物の3/4以上を占めるらしい。また、海には魚が泳ぎ、空には鳥が飛んでいる。ちょっと苦手な人が多い爬虫類や両生類もいる。もちろん植物だって元気に生きている。そう言えば、子どものころ両生類と爬虫類はどちらが先に地上に現れたか迷ったことがある。しかし、よく考えてみれば、すべての生命が海から生まれたという。そのことを頭に入れておけば、水中と陸上のどちらでも生きる両生類が先だったことはすぐに分かる。そして、ついに海から独立したのが爬虫類ということだ。そんな簡単な筋道を教えてくれただけで、子どもは「目から鱗」となるのである。「とにかく両生類から爬虫類に進化したのよ。暗記しときなさい」。これではまずいのだ…。「なあるほど」という「納得」のプロセスがカットされている。それはともあれ、たくさんの「種」がこの世にいることで、「生き物」が存続していく可能性が高まるのである。これが、「多様性」に焦点を当てた「熊大オンエアー」で一貫して強調されているポイントだと受け止めた。それにしても、「多様性」を通して、今日も興味深い事実に気づく。たとえば、「人間」と「昆虫」との間には越えるに越えられない「種」の壁がある。どう見ても両者は完璧に違って見える。それが「独自性」というものだろう。だから「昆虫」の目には「人間ってみな同じ」だと映るに違いない。しかし、その「人間」の世界に入ってみると、一人として同じ者はいない。徹底した「多様性」が実現されているのである。「みんな同じに見えるが、じつはそれぞれ個性を持っている」。こうした視点で世の中を見ることが大切なのだ。特定の集団全体をひとくくりにして、「彼らはみんな同じだ」と思い込む。そうした見方が「偏見」に繋がっていく。
集団の多様性(04/08/05-477)
 「熊大オンエアー」では、「個の多様性」に続いて「集団の多様性」が語られる。同じ花でも、地域によって違いがある。たとえば、A地方とB地方では、集団として見ると違いがあるという。インドのトラとスマトラのトラは、それぞれの特徴を持っている。動物にしても植物にしても、自分たちが生きる風土に合わせながら生き延びていく。そんなところに、生きるもののたくましさが感じられる。これは人間でいえば、肌や目の色、体の大きさの違いなどとして表れることになるのだろう。その結果そして、行動や考え方も違ってくる。それが「文化」である。世界中でさまざまな文化の花が開いたのも、「集団の多様性」が実現しているからだ。そして、「個体の多様性」の存在理由から推測すると、文化が違うこと自身が、お互いの文化が生き残るための「相互保険」なのである。どこもここも同じ文化しかなければ、ひとつが消滅すれば全部の存続が危うくなるのである。「違いを尊重する」ことが、自分の存在そのものを保障することに繋がっている。とても面白いと思うのは、「多様性」ということばの裏に「独自性」ということばがくっついていることである。つまりは、たくさん「違った」ものがあるのだから、その一つひとつは「独自性」、つまりは「個性」を持っていることになる。そして、その「独自性」をお互いに尊重することによって、自分たちの存在も確かなものになるというわけだ。こうして、われわれは昨日の「個の多様性」とまったく同じ結論に達する。お互いの文化を大切にしましょう。
個の多様性(04/08/04-476)
 数年前に熊本大学の生涯学習教育研究センターでビデオを見た記憶がある。熊大が地元の放送局とつくったシリーズ「熊大オンエアー」という番組だった。いわゆる放送公開講座である。その1回目で「多様性」というキーワードが取り上げられていた。これが私に鮮烈な印象を与えた。そこで、ビデオを借り出して見直してみた。まずは「個の多様性」。われわれ一人ひとりの顔が違うように、まったく同じに見える花もそれぞれが違っているのである。もちろん、人は顔だけでなく体質や性格もまったく同じ者はいない。まさに個性である。私などは「馬」や「牛」の顔を見ても区別がつかない。しかし、彼らの顔も「すべて」違っているのである。その理由は、あらゆる環境の変化や事態に対応しながら生き続けていくためらしい。まあ、正確には遺伝子が生き続けていくということだ。そうだとすると、われわれは遺伝子の存続のために生かされているという訳か? まあ、そこまで考えるとむなしくなるので、その辺りの議論はちょいと置いておこう。ともあれ、何もかもが完全に同じだと、危機に際して全滅する危険性がある。寒さに強い者ばかりだと、このごろの暑さに耐えられず、滅びてしまうかもしれない。その逆もまた真なりなのである。大きいから生き延びられることもあれば、小さい方が有利な場合もあるという訳だ。だから個々人の違いを尊重することは大切なのである。そして、その違いを認めた上で「共に生きていく」ことを考える。それがお互いのためになる。ここが大事なところで、「お互いに違ってるのだから、それぞれが勝手に生きていけばいい」とはならない。なぜなら、「勝手」にやっていたら、どう考えても「お互いのために」なるはずがない。それは「存続」よりも「自滅」に繋がる。
庶民と法律のつづき(04/08/03-475)
 「書斎の窓」の座談会はつづく。専門家は法学文献として明治の文語体の判決文などを読むらしい。それをあえて留学生にも読ませていたという。それでは興味も湧かないので新しい日本の状況を反映したものを選ぶようにしたんだそうな。いやー、庶民から見れば、「そんなこと当たり前でしょ」って言いたくなるんだなあ。「自分たちが考えていた留学生のニーズと現実が違っていた」なんて発言を聞くと、改めて法学者って何をやってるんだろうと頭をかしげてしまう。さらに、法律学は専門分野で独特の言い回しを使うという。そして、それを無視した使い方をしていると、「あの人は法律をきちんと勉強していないのではないか」と推測するらしい。そうだとすると、「素人さんはあっちに行って」ということになるんだろうか。生命科学や分子工学じゃあないんですよね。現実に生きている人の生活に繋がる法律を、自分たちの集団だけに通じることばを使って煙に巻いてはいけません。もう、一般人が裁判にも関わろうという時代なのです。庶民に「なあるほど」と納得してもらえる研究をしてくださいな。人々を幸せにするために法律はある。とにかく素朴にそう信じたいと思います。やたら難解なことばを使って、いつ終わるか不安を覚えるような長文を書き連ねる。それでは、もはや一般からの尊敬は得られませんですよ、はい。
庶民と法律(04/08/02-474)
 「世の中には、人類誕生よりも前から法律があったと勘違いしている人がいる」。こんな嫌みなことを書いたのは、昨年5月16日だった。そのときの気分をまた思い出した。じつは、数ヶ月前から有斐閣のPR誌「書斎の窓」が送られてくるようになった。有斐閣といえば、押しも押されもせぬ法律専門の老舗出版社である。その6月号の座談会はとても興味深いものがあった。ある本を出版する際のエピソード。日本語教育の専門家が参加していた。法律の用語集をつくるときに、大学院生が専門語彙の読み方を知らなかったらしい。それなら読むときはどうするか。手元にあった法学辞典は漢字が見出しになっていたようで、その並びから「読み」を推測していたという。まあ、素人であればだれもが驚く話だ。だって、大学院生が専門用語の「読み」を知らないというのだから。それに対する専門家の回答がまた面白い。「ある意味では、非常に文字に偏った勉強が行われてきたということかもしれませんね」と受ける。そして、本を読むことが勉強で、授業にでなくても試験に受かるところがあるという。そして、「ものによっては、読み方に流派のようなものがあったりします」となる。イヤー、法律って宗教や伝統文化の世界のものじゃあないんですよね。まさか、「読み方」で「わが方が元祖だ」「権威があるんだ」なんて言い合ったりしてはいないでしょうね…。法律は私たち庶民の生活や生き方に重大な影響を与えるものだ。それが、本だけ読んで済むとか、「読み方」に流派があるなんて…。なーんか「庶民は近寄るな」って感じなんだよな。そこに「生身の人間」がいないんだなあ。もちろん、すべての法律用語がそうでないことはちゃんと分かっているつもりですけどね。
悲劇の入力ミス(04/08/01-473)
 入札金額2530万円のところを2530円と入力ミスしてしまった。北海道のサケ・マス孵化場の電気設備工事の入札で、地元の業者が「ゼロ」4つをつけ忘れたらしい。発注側の北海道開発局としては、これが最低価格だったため契約業者に決定したという。しかし、こんな金額ではだれが考えても大赤字に決まってる。そこで業者は仕事にならないからと契約辞退と相成った。これに対して、北海道開発局は「信頼関係を損なう不誠実な行為」ということで、その業者を3ヶ月の指名停止にしたという。ペナルティを課せられたわけである。まあ、それが筋なんだろうが、零細と推測される会社は気の毒なものだ。大体、工事が2000円や3000円でできるわけがない。とにかく安けりゃあそれでいいというわけにはいかないだろう。少なくとも「あまりにも非常識」な金額の場合は、明らかに「間違い」か、そうでなければ「何かがある」と思った方がいい。この前も拉致に絡んでインドネシアから羽田までのチャーター便を全日空とJALが「1円」で入札した。結局はくじ引きで5万円になったらしい。これなんかは航空会社にとっては宣伝費と考えられたのかもしれない。しかし、それは巡り巡って「まとも」な料金を支払う客が負担することになる。ともあれ、大きな会社は「一時的」なマイナスにも十分に耐えられる。我慢くらべをしながら、そのうち弱いものが消えるのを待つ。これではいけないから、独禁法などもできたと習った記憶があるのだけれど…。ともあれ、あまりに常識はずれの金額には「お宅は入力間違いじゃあないですか」くらいは確認してあげてもよさそうな気がする。そうした行為が「アンフェア」あるいは「不法なこと」になるんだろうか。もちろん、ミスだとしても責任は業者にあるから、当該の入札からはずされるのは仕方ないと思うけれど…。新聞で読んだ限りでは、とにかくお気の毒で仕方がない。