| 父のメンタリティ(04/07/31-472) 「いつだって『自分が悪い、自分が悪い』と思えばいいんだよね…」。父が食事の時などにこんなことを言っていた時期がある。私が小学生から中学生のころだったろうか。年齢にして40代の半ばといったところである。とくに宗教心を持っていたわけではない。しかし、ラジオやテレビの「宗教の時間」といったタイトルのものはよく聞いていた。人生の「生き方」のようなものに関心があったのだろう。それに関係して「哲学」なんぞがついたタイトルの番組や本も好きだった。そんな父が「自分が悪い」なんてことを食事で言っていたのである。それに対して、子供の私は「そりゃあ自分が悪いこともあるかもしれないけれど、何でもかんでも自分が悪い訳じゃあない」なんて反論していたと思う。しかし、大人になるにつれて、父の思いが理解できるようになってきた。わが父の仕事の能力は永遠に分からない。しかし、対人関係スキルの方はお世辞にもハイレベルだったとは言えない。これも、彼の仕事の世界を覗いたわけではないから、確信はないけれど…。ともあれ、結果としていわゆる出世もひどく遅かったようだ。F市からN市に転勤が決まったとき、わざわざ上司が父のいない自宅にやってきた。そのときは、遅まきながら昇進したらしかった。上司は母にわざわざ会いに来てくれたのである。「奥さん、吉田さんは力はあるんです。だから新任地では、もっと人と上手につきあうよう奥さんからも言ってください…」。私は高校生だったが、部屋の奥からこの会話を聞いた記憶がある。父は、対人関係がうまくいかなかったり、その結果として出世から取り残されたと感じたときに、「自分が悪い」と言い聞かせていたのだろう。それで気持ちを整理していたに違いない。「そんなことないよ」と反論する息子をどう見ていたのだろうか。いずれにしても、父が取ったこころの整理法は決して前向きのものではない。とてもお勧めメニューとはいかない。しかし、そうしたメンタリティの人が現実にいることを私は知っているのである。 |
| 舗道の値段(04/07/30-471) パリなどでは屋外にテーブルを置いているカフェをよく見かける。ただし、私はパリに行ったことはない。その光景は写真で見ただけのことだ。物の本によると、そうした店では屋外で飲み食いするのが最も高いんだそうな。まず屋内のカウンターでの立ち飲みが最低価格。その次が、やはり屋内のテーブル席で、外のテラスへ行くと高くなるという。あー、やっぱし外の方が絵になるもんな。旅行案内でもよく見る光景だから、観光客も喜ぶんだろう。それにしても、外にテーブルを置いただけで、いかにも金をかけていないように見える。そこが最も高いというんだから、フランス人も足下を見るんだなあ。ついそんな思いになってしまった。ところが、その推測は大間違いだった。パリでは舗道を占有すると、それに税金がかかるのだという。まあ、公道の使用料である。つまりは、客の足下を見ているのではなく、単純に税金を取られるから、その分を上乗せしているのだ。それなら値段に差がつくのも当然のことになる。こうした事情も聞いてみなければ分からない。はじめから思い込むのはじつに危ない。とくに、相手にとって不利なことには気をつけよう。それが外国の文化や習慣の場合は、さらに要注意…。 |
| 対人関係のあり方(04/07/29-470) 私の仕事のうち、「対人関係」は重要なテーマである。そこでいつも、人と人との良好な関係をつくりあげる方法を考えている。大学で開講している「公開講座 リーダーシップ・トレーニング」も、研究を実践に生かすための大切な試みである。ともあれ、対人関係は、コミュニケーションをスムーズに行うために欠かせない。たとえば、あなたが日ごろからうまくいっている人と話をしている場面を思い浮かべてみよう。その相手が、伝えるべきことの80%くらいしか言えていない場合、あなたはどうするか。おそらく、「本当はこんなことを言いたいんだろう」などと考えながら、不足している20%を補うだろう。そして、言い間違いをしても、「ああ、それって○○のことね」と自分で修正しながら聞いてあげる。これが関係がまずいとどうなるか。相手は120%くらい十分な話をしてくれている。それにもかかわらず、あなたは気持ちよく話を聞こうとしない。「ああ、またいつもと同じで、つまらない話だ。あんたの話はいつだって面白くも何ともない…」。こんな気分だから、話の内容も80%、いや50%程度しか受け止めていない。しかも、ちょっとでも間違うと、心の中で叫んでしまう。「えーっ、それっておかしいよ。あんたは、いつだっていい加減なんだ。もう、やってられない…」。いかがでしょうか。仮に同じことを言っても、対人関係のあり方によって、コミュニケーションそのものの質まで変わってくる。そう思われませんか。 |
| 自殺の統計(04/07/28-469) この時期になると警察庁が前年の自殺者数を発表する。今回の数値は34,427人。これまでで最悪である。統計によると1998年に32,863人と、はじめて3万人の大台を越えた。前の年が24,391人だから35%もの増加だった。その時点では大ニュースになったはずだが、はっきりとした記憶はない。それから一度も3万人を切らずにここまできてしまった。このうち男性が72.5%で圧倒的に多い。年齢では50代以上の中高齢者が60%近い。わが国では、昔は青年期の自殺が多く、それが日本の特徴のように言われたこともあった。しかし、その傾向は弱まり、いまでは「健康」「経済」が自殺原因の二本柱になっている。これは明らかに「自殺」と認定された人の数である。このほかにも、行方が分からない人や、事情があって自殺になっていないケースもあるに違いない。少なくとも、この数字は増えることはあっても減ることはない。単純に計算しても1日当たり90人を超えているのである。私自身、こうした現状にはまったく無力で、解決策を提言できるわけではない。しかし、少なくとも「夢」を持つこと、「想像力」を豊かにすることは、自殺を踏みとどまらせる力になると思う。「夢」があれば、先が少しは明るく見えるだろう。それができれば、わずかでも生きる力が湧いてこないか。「想像力」があれば、「自らの命を絶つ」のとは違った解決策が浮かんでこないか…。そうした夢や想像力を身につけるためにも、人との関わりは欠かせない。一人でもいいから、大事な人をつくっておくことだ。 |
| 村の戸籍(04/07/27-468) 吾作の家 爺様 婆様 吾作(45) 女房(40) 子供男(22) 〃女(17)…。これはある村の戸籍である。村は23戸からなり、人口は101人だ。この村、じつは黒澤明監督の作品「七人の侍」で登場する、あの村である。盗賊の略奪に悩まされる村人たちが侍に助けを求めるという物語。雨の中の盗賊と侍、そして村人たちの壮絶な戦いは見ているものにも興奮を引き起こす。それは西部劇の迫力を遙かに超えていた。映画を見れば、村人たちも重要な役割を演じていることはわかる。しかし、それにしても戸籍までつくっていたとは驚いた。まさに黒澤流のリアリティ追求なのだろう。そのイメージに合わせて村人のキャストも考えたに違いない。それが画面をさらに自然なものにしたのだろう。しかし、戸籍を考えて、本物らしくつくるだけでも時間はかかる。「時は金なり」の発想から言えば、金を出す方は「そこまでしなくっても」と思いたくもなる。それをゆずらないのが黒澤だったということか。ともあれ、仕事をするからには徹底する点は見習うべきだと思う。人が気づかない、あるいは表面からは見えないところも手抜きをしない。なんと素晴らしいことだろう。もっとも、こうした頑固者が上司にいると、その部下や調整役は大変だ。そうした人々に、さりげない思いやりや感謝の気持ちを伝えることができるかどうか…。ここでリーダーの評価が分かれることになる。こんなとき、自分だけの手柄にするリーダーは尊敬されない。なお、ここで取り上げた「戸籍」の情報源は、都築政昭「黒澤明と『七人の侍』」(朝日ソノラマ 1999)である。 |
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今どきの高校生(04/07/26-467) |
| 移動体睡眠(04/07/25-466) ほとんど場所を選ばず眠れるたちだ。枕が変わろうとベッドが変わろうと、はたまた布団がひっくり返ろうと…。ところが、動いているものの中では不思議なほど眠れない。バスでも電車でも飛行機でも、そして車を運転しているときも。そんなことだから、運転中に眠気がさすといった体験はきわめて少ない。その理由はよくわからない。家内なんぞは「動いているからこそ、揺りかごタッチでよく眠れるのよ」と言う。もっとも彼女の場合は、動いていないときだってぐっすり寝ているようだ。そこで私も、動いているものの中で眠る練習をはじめた。その成果があってか、このごろは移動中にうつらうつらできるようになった。しかし、それはそれで心配も出てくるからやっかいだ。ときおり、ガンガンいびきをかいて眠りかぶっている人がいる。口はあんぐり開いたまま。しばらくすると、自分のいびきの凄まじさで目を覚ましている。こうなるとやばいかなあと考え込んでしまうのである。先日、福岡へ出かけた帰りのバスでのできごと。朝7時発だったが、私の前の席に若い女性が座った。その女性、ふと気がつくと頭をガラス窓に押し当てた状態になっている。よく見ると眠っているのだ。それにしてもすごい。高速を走るバスの窓ガラスは、小刻みに、そして時には激しく揺れる。それに合わせて女性の頭もびりびりと震えている。それでも目が覚める気配がないから驚いてしまった。いやはや、世の中にはすごい人がいるもんだ…。今日はただそれだけのお話。 |
| マナーの違い(04/07/24-465) 最も近くの国である韓国に行ったことがない。ただし、ソウルで経営研究所を開いている知人はいる。もとは日本の会社の韓国工場で仕事をしていた方だ。その会社の日本人社長を知っていることもあって、お付き合いいただいている。福岡で開催された国際シンポジウムでご一緒したこともある。彼が熊本に来たときは阿蘇にお連れした。その際に、「ぜひともお国をお伺いしますよ」と言っただけで、ソウル行きは実現していない。また、このごろは韓国ブームのようで、テレビ番組も大人気らしい。もっとも私なんぞは、この手のものは日本製でもほとんど見ない。「○○さまー」なんて騒ぐのも私の趣味じゃあない。ただし、食べ物については、韓国料理もなかなかのものだと思う。熊本にもおいしいビビンバを食べさせるお店がある。こちらの方には、家族でときどき出かけている。さて、その韓国での食事のマナーがおもしろい。ご飯の茶碗を持って食べるとマナー違反だという。また、ご飯はスプーンを使って食べるらしい。お箸を使うのはおかずを食べるときなんだそうな。歴史的にも関わりが深く、アメリカ人などには、日本人も韓国人も同じ顔にしか見えないだろう。もちろん、習慣だって区別なんかつくはずもない。しかし、本当はいろいろな点で大いに違っている。文化というのはそんなものなのだ。それをお互いに尊重することから相互理解が始まる。 |
| ありがたメール(04/07/23-464) 拙著「人間理解のグループ・ダイナミックス」をお読みいただいた方からメールを頂戴した。誤植のご指摘である。ご購入の方がおられたら、この機会にご訂正をお願いします。まずは、102ページ3行目の「看護婦」は「看護師」となる。出版の時点では「看護婦」でよかったのだが、数年前から「看護師」が使われるようになった。それまで男性の看護者は「看護士」と呼ばれていた。時代とともにその数も増えてきたので、性別を問わず統一するために「看護師」と呼ばれることになったのである。これに対応して、2003年1月の第3刷の際に「看護師」に変更した「つもり」だった。それに見落としがあったのである。その1行下にも「看護婦」を使っていたが、こちらは修正が済んでいる。近いが故に気づかなかったのだろうか。「はい、ちゃんと訂正したよ」と1カ所だけで満足して、もう一つに目が向かなかったのかもしれない。さらに、同じ102ページの下から3行目に「法定測度」と書いている。これは「法定速度」の誤りだ。103ページの4行目も「法定測度」がある。これはワープロの学習機能が働いた結果だろう。こうして、気づかなければどんどん同じ誤植が自己増殖していくことになる。しかも、このページを含む前後は、「事故」や「ヒヤリハット」について書いている部分である。そんなところで「ミス」が生じるのだから、まことに皮肉な話だ。しかも、原稿ができあがったときには複数の人に見てもらっていたのだけれど…。いやあ、何事も勉強です。ともあれ、ご指摘していただいた「愛読者」の方にはこころからお礼を申し上げた。新たに増刷するようなことがあれば、間違いなく訂正されるはずなのだけれど…。 |
| マニュアル反応の思い出(04/07/22-463) マニュアルについては思い出がある。すでに成人した子どもが小さいころだからずいぶんと前のことだ。あるファミリーレストランでの話。いつものように私だけ早く食べ終わる。そこで、食事にプラスして割引するというコーヒーを頼んだ。そのコ−ヒーを飲み終わっても、子どもたちは食事をつづけている。そこで手持ちぶさたに、ちらりと伝票を見た。その瞬間、私は目をむいてしまった。コーヒーがまともな値段で書かれていたのだ。これは割引きだったはずだ。それが定価のまま請求されていたのである。まあ、目をむくほどのことはないけれど、さっそく店員さんを呼んだ。「ここにコーヒーは割引と書いてあるんだけど、伝票はまともになってるよ」。それを聞いた彼女はじつに落ち着いて答えた。「大変失礼いたしました。すぐに訂正いたします。しばらくお待ちください」。それはそれは、驚くべき落ち着きぶりであった。「あーっ、申し訳ないですう」なんてあわてた様子は微塵もないのである。それだけ教育が徹底していたと評価すべきだったのかもしれない。しかし、そのときに私には、客の文句に対する回答マニュアルがあるに違いないと思った。おそらく彼女は決められた台本通りに反応したのだろう。こんなとき、「ちょっとは熊本なまりなど交えて謝ってよ」なんて期待する方がいけないのかしらね。ともあれ、マニュアルに「こころの付加価値」を…。 |
| マニュアルを越えて(04/07/21-462) マニュアルで頭に浮かぶのは東京ディズニーランドである。とくにスタートしたころは徹底した「マニュアル」化が喧伝されていた。その当時、私は研修などで「マニュアルだけでは心は通じない」と言い続けていた。そんな中で天下のディズニーランドが「マニュアル」を徹底させて大成功というのだから、私の旗色はきわめて悪かったのである。そんなときたっだ。ディズニーランド成功の秘訣を伝える人として引っ張りだこの北村和久氏が行った講演録を見せてもらった。そこには私が大いに自信をつけることが書かれていたのである。その具体的な内容は忘れてしまったが、女性従業員がリピーターを獲得する物語だったと思う。そこで北村氏は「マニュアル」はあくまでベースであり、その上に立って従業員の個性を生かすことの重要性を強調していた。もちろん、ディズニーランドの向こうを張るつもりはない。しかし、とにかくその発想は私が信じてきたものを否定するものではなかったのである。「マニュアル」だけでは「人間味」は出てこない。「マニュアル」を生きたものにするためには「こころ」をプラスする必要がある。対人関係においては「マニュアル」ではなく「こころ」が「付加価値」なのだ。「気持ち」が伴っていなければ、人に「感動」を引き起こすことはできない。もちろん自分自身の「感動」も…。 |
| マニュアルの極致(04/07/20-461) 大手の電器チェーン店に行った。「いらっしゃいませ、こんにちは」。いまや、あちこちで聞く「お迎えことば」である。しかし、この日は少しばかり違和感があった。われわれが店に入ったとき、その店員さんはレジのようなものを扱っていた。そして、その機械にじっと目を向けたまま、「いらっしゃいませ、こんにちは」と発したのである。そのとき、ほんの一瞬たりともこちらを見ることもなかった。口元も微笑みの動きは微塵もない。一緒に行った家内も同じ印象を受けたようだった。数メートル歩いてから、「ちょっと、いまの見た?」と聞いてきた。いやはや、私の「人間ウォッチ病」が家内にまで伝染してしまったようだ。それにしても凄かった。顔はもちろん目すらこちらに向かないのだ。それでも「いらっしゃいませ、こんにちは」だけは言う。まさに究極のマニュアル教育ではないか。仕事仲間でハンバーグを食べようということになった。そこで、一人が代表してハンバーグを買いに出かけた。満面笑顔で「ご注文は」と聞く店員に、「ハンバーグ10個」といった。その途端に「お持ち帰りになりますか、こちらでお食べになりますか」と聞かれたという…。こんな笑い話があった。「そんなことやってるわけないじゃないか」とお店からは叱られそうな話だ。ともあれ、ここでは「台本」だけがあって、「状況」を見ないマニュアルシステムを皮肉っているのである。そこに、「こころ」「気持ち」が加わらなければ、本当の「サービス」とは言えない。そうした機械的な反応だけしていると、そう言ってる本人の「こころ」だって退化していくに違いない。「とにかく言えばいいんでしょ」。こんな気持ちではねえ…。 |
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全体を見通す目(04/07/19-460) |
| プロの凄まじさ(04/07/18-459) その道のプロはとにかく凄まじい。プロ野球オリックスの元選手パンチ佐藤がテレビで話していた。野茂がデビューしたとき、ストンと落ちるフォークボールを打てる選手がいなかった。フォークは真っ直ぐに来るように見えながらバッターの近くで急に落ちる。だから、ストライクのつもりで振ってしまうのである。テレビで見ていても、「なんであんなボールに手を出すんだろう。プロじゃないか」と言いたくなるような三振がある。あれこそがフォークの威力なんだろう。分かっていても打ちたくなる。そんなボールに違いない。これに対して考えられた対策がすごいのだ。直球はボールを握るときに人差し指と中指をくっつけて投げるのだそうな。これに対してフォークは二つの指の間が空くらしい。つまりは、指の隙間に白いボールが見えるというのである。そこで振り上げた手から白い部分が見えたら、一塁のコーチが選手の名前を大声で叫ぶ。打者は、その声を聞いて今度の玉がフォークであることを瞬時に了解する。そして打つのをやめるのである。ルール上、コーチのそうした行動が許されているのかどうかは知らない。しかし、とにかく素人では想像もつかない手だてを考えながらプロ野球の試合が進行しているのである。いやー、じつに奥が深い。もちろん、その凄まじさは野球に限ったことではない。どんな領域でも、その道のプロといわれる人は必ず凄さを感じさせる。それを見たり、聞いたりしながら、「すっごいなあー」と驚く。ただそれだけでも、こころが健康になるような気がする。 |
| ネタのメモ(04/07/17-458) 出張などすると食事は簡単になりがちだ。相手があれば、もうやめろと顰蹙を買うくらいしゃべりまくる。しかし、一人だと話す相手もいない。少しばかり値の張る地元の料理でも、あっという間に食べてしまう。そんなわけで下手をすると全国チェーンの丼ものやカレー屋さんでに行くことになる。ところが先日の東京行きは、少しばかり様子が違った。まずは、午前中の便に乗って2時過ぎにチェックインした。ゆっくりしたいと思ったのである。しかし、外は暑いこともあって出かける気にならない。そこでテレビをぼんやり見ながら昼寝とあいなった。さらに夕食も外に行くのが面倒になってきた。最終的にはホテルにある居酒屋風のお店にしようと決めた。最初に生ビールとお皿を3つ注文した。まあ、30分ももてるかなあと思っていたが、そのうちふと「味な話の素」のネタを思いついた。ところがメモも筆記道具がない。ここで書いておかないと忘れるに決まってる。そこでお店の人に紙と鉛筆を借りた。そして、頭に浮かんだことを書き込んだ。すると、また別のおもしろいネタがひらめいた。そうこうしているうちにビールがなくなった。そこで北海道の焼酎をロックで頼んだ。お皿のつまみも食べていると、さらに新しい材料を思いつく…。こんな具合で、メモが増えていった。これが何とも楽しい時間になっていた。そこで沖縄の焼酎をもう1杯。それに合わせて注文したつまみはほっけ≠セ。これで、お腹も気分も大いに満足した。最後は焼きおにぎりのお茶漬け≠ニいう、あまり聞いたことのないものでおしまい。時計を見ると1時間30分が経過していた。これって、一人で食事をした最長記録だったと思う。まことにごくろうさまでした。 |
| 成果=(見えるもの)×(見えないもの)(04/07/16-457) いまや、「成果主義」がキーワードである。だれだって、組織や集団に所属しているだけでは仕事をしたとは言えない。それぞれの立場に応じて成果を上げることが求められる。管理者にとっては、自分だけが走り回っても仕方がない。部下たちを叱咤激励し、仕事の成果が上がるようにしなければならない。その際に、「成果」はどうしても「目に見えるもの」に偏りがちになる。また、「短期的」なものになる傾向も強い。傍目には目を見張る業績を上げていても、中の従業員はストレスで爆発寸前。こんな状況では、その集団が崩壊するのは時間の問題である。管理職を評価する際には、「見えるもの」と同時に「見えないもの」にも目を向けることが必要だ。もっとも、「見えない」と言ってしまえば、評価のしようがない。もう少し正確には「見えにくいもの」とした方がいいだろう。つまりは、本当に「見えないもの」ではなく、「見ようと」努力すれば「見える」ものである。たとえば、従業員の意欲や満足度などは、その代表だろう。仕事に対する「責任と誇り」も含まれる。いわゆる「成果」は、この両面から評価する必要がある。そう考えると、「成果」=「見えるもの」+「見えないもの」という式が思い浮かぶ。しかし、ここで「足し算」は危険だ。なぜなら、「見えるもの」が突出していれば、それで満足してしまうからだ。「こんなに売り上げが伸びているのに、どこに文句があるのかい?」。これでおしまいになる。成果は「かけ算」で計算しなければならないのだ。「成果」=「見えるもの」×「見えないもの」なのである。どんなに「見えるもの」が華々しくても、「見えないもの」が「ゼロ」であれば、真の「成果」は「ゼロ」になる。そうした状況が続いていくとどうなるか。だれが考えても結論は見えている。「見栄えだけじゃないのよ」。これは個人だけでなく組織にとっても真実である。 |
| 夢で会いましょう(04/07/15-456) 昭和30年代、そして40年代のはじめころまでは続いただろうか。土曜日夜のNHKに「夢で会いましょう」という番組があった。テレビが家庭に入り始めたころ、子どもの私は早寝早起きだった。しかし、土曜日の夜だけは遅くまで起きていて「夢で会いましょう」を見た。それはそれは楽しみだった。レギュラーの中村八大・永六輔が作詞作曲でコンビを組んで名曲も生まれた。「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」などは、その代表である。前者は坂本九が歌って全米のヒットチャートでトップにいったと思う。いわゆる六八九トリオだ。後者はジェリー藤尾が歌ってヒットした。後になっても、JR提供の番組でテーマソングとして採用されていた記憶がある。また、渥美清や E.H.エリックも常連だった。そんなメンバーの一人として坂本スミ子さんがおられた。われわれの年齢の者ならほとんどが知っている人だろう。小柄にもかかわらず、その声量にはすごい迫力があった。また、映画「楢山節考」などで高い評価を得た名優でもある。その坂本さんは、いまは熊本市民だ。その坂本さんと教育関係の全国大会が熊本で開催された際のシンポジウムで同席した。もう3年ほど前のことである。そのとき坂本さんはシンポジストで私は司会を勤めた。現在は聖母幼愛園の園長さんとしてご活躍である。このご縁をきっかけに、教育学部の就職講座にも来ていただいた。まことに控え目ながら、ご自分の考えを述べられる姿に、学生たちは大いに感銘を受けた。身近にこうした方がおられることは、それだけでも楽しいものだ。二部屋程度の宿舎住まい。父は早くから寝入っている。その布団の横の暗い隅っこに置かれたテレビで「夢で会いましょう」をじっと見ていた。小さな音に絞って…。母と私と、そして妹も起きていただろうか。私が中学生のころである。いまでは「夢」のような思い出だ。 |
| 127百万人が食べる(04/07/14-455) 特急電車が停車した。窓からぼんやり線路を挟んだ向こうのホームを眺める。女子高校生がポテトチップらしきものを食べている。ときおり手に付いた塩を取るために両手をパタパタとはたいている。今度は顔ごと上に向けてチップを口に。ちょっとフライ系は抑えた方がよさそうな体型だ。それにしても、幸せそうなのどかな風景である…。もちろん人によって状況は違うから、だれもが好きなものをたらふく食べているとは言わない。しかし今日の日本では、基本的に餓死する人はいないだろう。ということは、1億2700万人がとにもかくにも食べられているのである。これは本当にすごいことではないか。それが米で1日何粒になるかなんて考えていると眠れなくなってしまう…。人類の歴史の大半は飢えとの戦いであった。日本人だって、大多数がまともに食えるようになったのは、ほんのこの前のことなのだ。「毎日、食べられること」に感謝する。われわれは、この原点を忘れてはいけない。しかし人間は、日常の出来事にすぐ「慣れて」しまう。なんでも「当たり前」と思うようになる。それがさらに新しいチャレンジを生み出し、人類を成長させてきたのではある。しかし、「原点に返る」「初心に返る」姿勢だけは忘れないようにしたい。今日もすばらしい朝ごはんが待っている。ありがたや、ありがたや。AM5:39。 |
| カテゴリーV(04/07/13-454) カテゴリーVと聞いても、ほとんどの方は何のことかお分かりにならないだろう。かくいう私とても、ことばを知っているだけで詳しいことは知らない。はっきりしているのは、飛行機の自動着陸装置のレベルを示しているということである。とくに、このカテゴリーVは熊本空港や釧路空港に導入されている。その理由は霧が発生しやすく、欠航が多いという問題に対処するためである。ともあれ、カテゴリーVはかなりのレベルらしく、ロンドンのヒースロー空港並みだと聞いた記憶もある。あの霧のロンドンと同じなのだ。そんなところに何で空港をつくったのかと思うが、ともあれ以前は濃い霧が出ると着陸できず、欠陥空港と呼ばれていた。そのときは、ほとんどの場合、福岡へ回ることになる。それが、カテゴリーVの設置以後は就航率が上がったようだ。もっとも、パイロットがカテゴリーVに対処できる免許を持っている必要があったり、機材そのものがそれに対応しているといった条件が付いているらしい。5月に名古屋で行われた学会の帰りに、一度は着陸しかけたが空港の周りだけ霧が発生していて、途中で飛び上がった。先週の日曜日も、大阪からの便が着陸を試みたが、滑走路が視認できなかったようで、エンジンを吹かして轟音とともに再び上昇した。そのときは、熊本市全体が雲に覆われ、遊覧観光とはいかなかった。パイロットの説明によると、逆方向から進入するということだった。このごろは搭乗効率を上げるためだろうか、熊本便は通路が1本しかない比較的小さな飛行機も使われている。2回ともカテゴリーVに対応していない機材だったのかと推測している。それにしても、1回飛び上がって着陸し直しすれば、随分と燃料代もかかるだろう。まあ余計な心配かもしれないが。どちらの場合も出発時に、着陸できなければ福岡へ行くかもしれないと言われていた。同じ日の宮崎便は関空に戻る可能性ありの放送だった。何で同じ九州の福岡じゃないのかと思った。しかし、考えてみれば宮崎から見れば、福岡よりも関空へ行った方が便数も多く、翌日の動きが楽になるのだろう。「九州なら九州へ」という発想そのものが自己中心的なのだと、あとで思った。 |
| 2つの評価(04/07/12-453) 学生への講義や講演などで、ホームページの押し売り≠つづけている。その甲斐があって、その話をした日はカウンターがいつもより伸びる。「ただいまアクセスカウンター増進中」などといってPRに努めている。おかげで、「毎日%ヌんでますよ」と言ってくださる方もいらっしゃる。まことにありがたい。こうしたお声を聞くと、またまた「やるぞー」という気持ちになる。自分で言うのもどうかと思うが、これぞ小さな「自己実現」体験なのだろうと感じている。そうした中で、「もうそろそろネタが切れませんか」とご心配いただく方も出てきた。これは評価というよりはご質問である。この点については、少なくとも自分自身は何の心配もしていない。私の専門はグループ・ダイナミックスということになっている。集団との関わりを通して人間を理解する≠アとがその目標である。その目標を達成するためには、まずは人間ウォッチング≠ェ基本になる。だから、私は朝から晩まで人間をウォッチング≠オているわけだ。その中には自分も含まれる。その結果、ネタは増えることはあっても減ることはない。そんな感じで今日も書いているのである。もう一つはかなり重い評価だ。それは、「あなた相当に暇ね」という声である。いやー、そう見えるかもしれませんねえ。これについてはムキになって反論はしない。ただ、その気になれば不思議と時間は見つけ出せるものだと実感している。そんなものですよ、時間というのは。ところで最近は、私の方が若干の心配をしている。みなさんお忙しいのに、わざわざ読んでくださる。それにしては、1回分が少し長すぎないか。そんな心配である。「話し出すと止まらない。そのくせ、人の話を聞かない…」。いつも家内に注意されている。 |
| 説得≠ニ納得(04/07/11-452) 拉致被害者の曽我さんは、語り口は訥々としているが含蓄のある発言が多い。インドネシアに出かける前の記者会見では、家族をどう「説得するか」という質問が飛んだ。これに対する回答は「『説得』ということばを使いたくない」だった。その真意を確認したわけではないが、「よくぞおっしゃった」と嬉しくなった。どうも、「説得」ということばには、「こちらが正しい」という傲慢さを感じる。さらに言えば、「相手は間違っている」という認識が前提にある。いまや「生涯学習」の時代だ。若い人の中には、それほど大昔でないころ、「生涯教育」という用語が常識だったことを知らない人も多い。「名は体を表す」という。どこに視点を置くかで人の行動そのものが変わってくる。その意味では、「名は行動を引き起こす」のである。「教育」は「教え育む」という教育者側に立ったことばだ。「いやいやこれは『教えられ育まれる』と読むんですよ」なんて強弁する人はいないだろう。これに対して「学習」は「(自ら)学び、習う」のである。私はこれまで一貫して「説得の心理学」よりも「納得の心理学」が大事だと叫んできた。「えっ、そんな声なんか聞こえていないですって!」。そうですねえ。私って、生まれたときから引っ込み思案なもんですから…。論文にはポツポツと書いているのですがね。ともあれ、教師を対象にした対人関係トレーニングでも、この基本ポリシーを大事にしている。時代が変わったとはいえ、先生方には「子どもたちから評価される」ことに抵抗もある。そんなときに「いまどき子ども評価は常識ですぞ」と迫るだけではうまくいかない。どうにかして「納得して」いただくことがポイントになってくるのである。さてさて、説得≠ニ納得≠フ話は尽きることはない。なにせ私の主要課題の一つだから…。それにしても、またインドネシアで大騒ぎ。静かにしておいてあげましょうよ。静かに…。 |
| 鳥井さんとサントリー(04/07/10-451) 先日、サントリーの前社長鳥井信一郎氏が亡くなられた。このところ、京都旅行に絡んでサントリーの山崎蒸留所も話題にしたばかりだった。そのサントリーだが、名前の由来がおもしろい。命名者はサントリーを創業した鳥井信次郎氏。赤玉ポートワインをヒットさせた。その赤玉は太陽(サン)を象徴していたことから、それを頭につけてサン+鳥井(トリイ)=サントリーにしたという。この話、はじめて聞いたのはもう30年以上前になる。さらに遡って、私が子どものころに聞いた話もある。タイヤのブリヂストンだ。こちらの創業者は石橋正二郎氏である。その名前の石(ストーン)と橋(ブリッジ)を逆さまにしてブリッジ+ストーン=ブリヂストンのできあがりとなる。なんともすばらしい。アメリカにファイアストーンというタイヤの会社がある。これも命名時のヒントになったのかもしれない。アメリカでは、ブリヂストンがそのファイアストーンに資金を出して、ブリヂストン/ファイアストーンという会社になっている。IT関連のエプソンについてはかなり前に雑誌で読んだ記憶がある。EPはElectric Printer の頭文字。Son はセイコー社の子会社ということで息子の SON というわけだ。もっとも、エプソンさんの場合、インターネットを覗いてみたら諸説紛々、私の記憶も保証はしない。ただし、エプソン社の人がそう言っていたと思うので、かなり自信ありなのだが…。また、Panasonic は、社名をナショナルといっていた松下電器がアメリカに製品を輸出しようとしたら、すでに National ブランドが存在していた。そこで Panasonic という名前を創ったのである。これは、私が小学生時代の知識。昭和30年代の半ばころだったろうか。そうなると、その真偽はますます危ないかな…。いずれにしても、名前の由来を知るのは、なかなかおもしろい。 |
| 傘と生き甲斐(04/07/09-450) 先月、NHK宮崎放送局発のニュースを見た。朝の7時台である。山元さんという89歳になる方が傘の修理をボランティアでやっておられるという内容だ。山元さんは退職後に傘の修理をはじめたらしい。その辺りに捨ててある傘を拾ってきては丁寧に修理する。朝のニュースでもあり、その期間は聞き漏らしたが、1日30本ほどをこなして、これまで直した傘が2万本にもなるという。まさに驚異の数字だ。その傘を持って学校に寄付をする光景が映っていた。「急に雨になったときには使ってね」。子どもたちも嬉しそうにお礼を言っている。すばらしいことだ。一人の方の地道な行動が子どもたちを育てているような気がする。ご本人もそれを生き甲斐にされている。これぞ、「小さな親切」が「大きな成果」を生み出している好例である。何の関わりもない私だけれど、山元さんにお礼を言いたくなった。このごろは傘も安くて消耗品になってしまった。だから、傘立てに置いてあるものだって、平気で持っていく。「盗む」なんて意識はなくて、「ちょっと借りる」というレベルになっている。人が困るなんてことは問題にならない。「だって、濡れたら私が困るもん。それに目くじら立てるほど高いもんじゃないじゃん」。これでおしまい…。こうして人の心は確実に退化していく。雨が降りそうなので傘を持って出かけた。部屋で打ち合わせをしていると窓の外で大雨が降り出した。「うーん、思った通りだ。傘を持ってきていてよかったあ」。その帰りがけ、傘立てに置いたはずのものがなくなっていた。大学の構内だっただけに、なおさらガックリした。ここって「良識の府だったよね??」。 |
| サントリーのトリミング効果(04/07/08-449) 電車で京都山崎の近くを通るたびにサントリーの蒸留所が見える。ホームページにも「京都の南西、天王山の麓にある山崎蒸留所。1913年以来の伝統をもつ、日本のウイスキーのふるさとです」とある。そこには、山深い中に、小豆色の煉瓦造りのような建物が静かに立っている。白地に金色の SUNTORY WHISKY の文字盤が目にしみる。さらに、大きなシンボルマークもまぶしく輝いている。それは昭和30年代のころである…。日曜日の夜のテレビ番組に、「サンセット77」という探偵活劇シリーズがあった。そのスタートのカッコいいこと。響き渡る「パンパカパーン」のファンファーレとともに、ハリウッドのワーナーブラザーズのスタジオが空から映し出される。渋い低音でA Warner Brothers Television Prduction≠ニ高らかに宣言する。とにかく痺れたものだ。そのスポンサーがサントリーだった。CMになると、「ルンルン、ルルルルー、ルンルン、ルルルルー…」の音楽に乗って登場するのはたぬき≠ニ呼ばれたオールドである。当時はテレビで見るだけの高級品。というよりもまだ私は未成年だった。そうしたウイスキーが、奥深い山中にある山崎で熟成される…。山崎に行ってみたいなあ。そんな気持ちの高ぶりさえ覚えた。やがて、そのときがやってくる。大学の何年生だったろうか。ともあれ、はじめて電車で山崎あたりを通ったときは、とにかく驚いた。なんと、あの幻想的な建物と同じものあったが、周りは民家だらけ。そう遠くないところに新幹線まで走ってる。あれやこれやの工場みたいなものも並んでるではないか…。まさに、あの写真はその部分だけを切り取ったものであった。それ以来、ここを通るといつもにんまりしながら、あの日のことを思い出す。先日も山崎の近くを通過する際に、たまらず家内に教えてやった。「ここが、あの CM に出てくるサントリーの山崎工場だよ」と。もちろん、イメージと現実の落差の責任を、サントリーさんに求めるのは酷だろう。スタート時には、辺りには何もなかったに違いないのだから。ただし、写真は現実と大いに異なっている可能性があることだけは教訓にしている。それは、トリミング(切り方)次第でどうにでもなる。 |
| 高齢化の時限爆弾(04/07/07-448) このコラムでアメリカが中国を強く意識していることを何回か書いた。そのニュース・ソースは New York Times 紙である。いずれの場合も、文面には「脅威」の色合いがにじんでいた。しかし、5月30日の New York Times は少しばかり印象が違っている。「最大の人口を誇る国の人口危機」。こんな見出しである。そして、「この傾向が続けば、国が豊かになる前に老齢化してしまう可能性がある」という小見出しもつづいている。また一人っ子政策の中で、性別のアンバランスも目立っているらしい。2000年の統計によると、男児と女児の割合は118対100だそうな。一般的には、103から105だというから、かなりの偏りである。そして、男性が多くなることで、「犯罪や社会的混乱が増加し、さらに国が好戦的になり征服の野望が高まる」。こんな予想をする本まで出ているようだ。ここまでくると、男に対する「偏見だ」と文句が出るかもしれない。それに、これまた結局はアメリカが感じる「中国脅威論」ということもできる。しかし、男女比のアンバランスが大きければ、それに伴って何らかの影響が出ることは予想される。そして、中国もいまから10年後には、ベビーブーマーがリタイアするという。そのあたりの事情は日本と同じなのである。そうなると、老人向けの各種のサービスや製品だって大いに需要が高まってくる。産業の空洞化が問題視されるわが国ではあるが、この方面の産業はかなり有望なのだ。あまり、稼ぐことばかり考えるのもどうかとは思うけれど…。 |
| 観光地のPR力(04/07/06-447) 京都は観光の町だけあるなという印象を受けた。その第一は、観光地に行くルートがきわめてわかりやすいことだ。よく知られているところは、ほとんどが市バスだけで行ける。バスの路線図も非常にわかりやすい。今回は、4時間程度で「金閣寺」「竜安寺」「仁和寺」を回った。ほとんどロスタイムなしである。これらの有名なお寺が互いに近くにあることもすぐに分かった。ところで、今月の表紙の写真は熊本県は鹿本町にある「石の風車」である。見た目からもお分かりの通り全部が石でできている。それなのに風が吹くと本当に回るらしい。私たちが行ったときは、ほとんど無風だったので動きは見られなかった。まさか、自分で回すわけにもいかない。ともあれ、日 本一の大きさだという。たまたまその方面へ出かけた際に、家内が「この近くに『石の風車』がある」と言い出した。それはおもしろい。ぜひ行ってみようと鹿本へ車を向けたのである。役場の前にもサンプルのようなものがあったが、本物はどこかいなと探していった。もちろん、「風車」の標識はあった。しかし、「ここで曲がるか」「ここは右か左か」「もっと先かいな」。私は車の中で、この三つくらいのことばを発してしまった。どうも案内が今ひとつなのである。「そりゃあ、あんたが標識をちゃんと読めないからよ」と言われれば、それだけのことではある。しかし、その方向音痴っぽい私たちが、京都では間違いなく3つのお寺に行ったんですよね。もう少しは分かりやすくできると思うなあ…。せっかくおもしろいものがあるのにもったいない。高台から眺める景色もまた絶景ですよ。 |
| ジコ責任(04/07/05-446) 若手の仕事仲間の結婚式に出席した。会場が大阪だったので、家内と京都にも足を伸ばした。あの巨大な京都駅では、空間に延びるエスカレータで11階まで昇った。その実際の姿を文章で表現するのは難しい。とにかく斜面に沿って階段とエスカレータが11階まで続いているのである。もちろん、エスカレータもいくつかの部分に分けられている。しかし、長いところは3階分くらいを一気に昇るすさまじさである。これと同じものは東京の地下鉄などにもある。いつも、上で人がこけたら大惨事だとヒヤヒヤしている。ともあれ、今日の話題はその巨大さに驚いたことではない。なんと、エスカレータに乳母車を乗っけている母親がいたのである。もちろん乳母車の中には赤ん坊がいるのだ。それも、出会ったのが一人や二人でなかったことに驚いてしまった。子どもを巻き込んだ事故がしばしば報道される。悲惨な結果になるものも少なくない。そうした個々の事故には、第三者には分からない事情があるだろう。だから、とやかく言うことはしない。しかし、自分が目の前で見たエスカレータの乳母車については、「やれやれ、事故に繋がれなければいいが」と、余計な心配もしたくなった。少なくとも赤ん坊は抱っこして、車だけをエスカレータに乗せる。もしも折りたたみのものであればたたんでおく。そのくらいのことはしてほしいと思うのである。万に一つでも何かが起きたらどうするのだろう。地震だってあるかもしれない。そうなると、エスカレータの管理者が責任を問われるのだろうか。こんな場合の「事故」の「責任」は、それこそ「自己責任」なんではないか…。なんとも駄洒落で恐縮だが、そんなことも言いたくなる光景だった。 |
| 少人数教育の効果(04/07/04-445) われわれは団塊の世代である。この欄でも繰り返し触れているが、戦後間もなくドーンと子どもたちが生まれた。いま、出生率低下が問題になっているが、あのころの指数はどのくらいだったのだろうか。いずれにしても、いつも1クラスが50台の半ばから60人近くいた。教師が子どもの机を回っていくことを「机間巡視」という。当時は、一列の左右を見ていっても、後ろの壁が突き当たり。教師は元に戻るしかなかった。いわゆる「鮨詰め」状態である。これに対して最近の教室はグーンと余裕を感じる。とくに「少人数」になると、場合によっては教室の半分が空いている。そこで、教師はさまざまな試みができる。たとえば、机の配置にしても、その時間の内容に応じて、小まめに変えられる。いわゆる講義式もあれば、子どもたちがグループを作って向き合う方式もある。半円形に並んで、教師を囲むような形もおもしろい。それがすぐに簡単にできるところがいい。実際に授業を見せていただいた学校でも、こうした利点を強調されていた。少人数化による教育効果はいろいろ考えられるが、机の配置などハード的な工夫がしやすいところも見逃せない。もちろん、いつも新しい試みにチャレンジするという教師の気持ちがなければ、環境は変わらない。いつも強調しているが、「少人数教育」で教師が楽になるわけではない。むしろ教師の日々の努力が求められ、その力量が問われるのである。 |
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| 無私の愛情(04/07/02-443) 世の中には無私の愛情というものがある。母親が子どもに対して注ぐ愛情はその代表だろう。それなのに、最近では児童虐待のニュースを頻繁に見るようになった。また、遊びに熱中して子どもを放置した結果、子どもが熱中症になったり、交通事故で亡くなる「事件」もよく起きる。これも形を変えた虐待である。どの親も、頭のレベルでは子どもを虐待したり、放っておいてはいけないことくらい分かっていると思う。しかし、体がそれについていかないのだろうか。かなり昔のことだが、孤立して育てられた猿の子は、成長した後に子育てがうまくできないという大阪大学の研究があった。いずれにしても、子どもがむずがったりすると、わが子といえども我慢ができない。ついカーッとなってしまう。それが虐待といった形に直結するのである。まるで、ストレスを解決する手段が一つしかないかのように…。ところで、私の身の回りのことでいうと、両親のうち家内の母親だけが元気でいる。私の親たちと家内の父はすでに他界した。その母の孫に対する様子を見ると、これがまさに無私の愛である。ただただかわいくて仕方がない。そんな感じにあふれている。何の見返りも期待しない愛情は、感動さえ覚える。こんな関係がすべての人々の間にあれば争い事も起きないだろう。しかし、そうはいかないから世の中はむずかしい。それにしても、年寄りを大事にするように子どもたちを教育したのは家内である。ありがたいことだと思う。 |
| 大コマーシャル(04/07/01-442) 突然に近鉄バファローズを買収するという会社が現れた。じつは2月下旬には話を持ちかけていたというから「突然」ではないのかもしれない。ともあれ、昨日の朝はNHKの全国ニュースでもこの件を伝えていた。記者会見もあったようだ。もちろん目を通した新聞にも掲載されていた。IT関連の新しい会社のようだが、私自身はまったく知らなかった。おそらく多くの方が私と同じではないかと思う。アプローチを受けた近鉄側はオリックスとの合併を前提としていて、話を断ったらしい。それにしてもこの会社、ものすごいCMをやったことになる。なんたって、ほとんどすべてのメディアがその社名を流したのである。NHKの全国ニュースまでも…。知名度は一気に全国区だ。その効果たるや数億円ものだろう。記憶は定かでないが、巨人戦でCMを流すと、わずか1分で1,000万を超えるという情報もあった。数日前の新聞かインターネットで読んだような気がする。また、新聞の全面広告だって全国版なら1,000万や2,000万はするのではないか。およそ関係ないことだから正確な価格なんぞ知らないけれど。それを同じ日に一斉に社名を流してくれたのだから、これはものすごい。会社としては笑いが止まらないだろう。まあ、世の中は何がどうなるか分からない。それにしても、あの「近鉄」はパリーグで名前を変えなかった唯一の球団である。少なくとも、私が物心ついてからは…。西鉄は西武になり、南海はダイエーになった。ロッテの前身は大毎や東京、日本ハムは東映・日拓、オリックスは阪急だった。とうとう最後の近鉄も消えていくか…。 |