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味な話の素
No.7 2003年11月号 (197-226)
 

母の死(03/11/30-226)
 母は
47歳で亡くなった。病院で胃ガンと診断され手術を受けた。1973年夏のことである。手術から1週間後に風船のようにお腹がふくらんだ。縫合不全だとかで、また手術をすることになった。それから母の胸の傷はなかなか閉じないのである。飲んだお茶もしみ出てくるような状態がつづいた。お医者さんに聞くと「食べないから肉が付かない」と言われた。そして、「食べるためには運動が必要だ」とも…。そこで母をベッドから降ろして肩を支えながら歩かせた。自宅で父や妹と食事をするとき、いやがる母のことを「お母さんは甘えている」と悪口を言った。その後も経過は悪く、食べさせた米粒が胸の傷口から出てきていた。そんな状態のまま、母は1029日に息を引き取った。「もう疲れてしまったよーっ」と叫ぶように…。死亡診断書には「肺炎」と書かれ「脳転移を疑う」と追記されていた。しかし、父はそれがどうしても納得できなかった。そして、最終的には死亡診断書には「胃ガン」と書かれることになる。それからかなりの時間が経過したころである。最初の原因が何であれ、死亡診断書には最終的な死因を書くらしいことを知った。しかし、あのとき、父の申し出に対して、お医者さんはほとんど一言もなく死亡診断書を修正された。このことは何かを物語っている…。九州北部のK市にある病院でのできごとだ。その年は第四次中東戦争でオイルショックが起こった。ちり紙やティシュペーパーがスーパーや薬局から消えていった。わざわざ電車に乗ってそれらを買い求めに行ったことも思い出す。母が亡くなった後に、医師の兄を持つ友人が言った。「手術して間もないころ、あなたのお母さんの状態と病院のことを兄に話した。それを聞いた兄は、『駄目かもしれないなー』って呟いた。そのときは、あなたに話せなかったけど…」。あれから今年で30年、時代と環境は変わった。現在、わたしは医療事故を防止する研究にも関わっている。安全な病院の実現にわたしの力が少しでも役立てば、母は喜ぶに違いない。もちろん老後を一緒に過ごせなかったことを嘆いていた父も…。

確かなことを求める(03/11/29-225)
 岩波講座「思考」をもとに推論についてけっこう考えてきた。これまでは、いわゆる演繹的推論に関わるものであった。この講座は帰納的推論のバイアスにも触れている。ここに、
【E】【F】【4】【7】枚のカードがある。「もしカードの片面に書いてある文字が母音であれば、もう一方の面に書いてある数字は偶数である」とする。このルールが正しいことを証明するにはどうしたらいいか。もちろんできる限り少ないカードをめくることが条件である。正解は【E】と【7】である。その理由は考えていただきたいが、実験をすると【7】を選択する被験者がほとんどいなかったという。もし【7】の裏が「母音」であれば、前提が間違っていることになる。これはルールに対する「反証」を行う行為である。われわれは、物事を確かめることに力を注ぐが、そうでないことを証明する方は苦手なようである。「やっぱりそうじゃないか」と言える事実を探すのは得意なんだ。こうした傾向から生じる誤りを「確証バイアス」というのだそうな。これも「ちょっと待てよ」という気持ちが重要なことを示している。やはり、「逆転の発想」ということができるだろう。この本では、これから「科学」についても話が展開していく。これがまた、なかなかおもしろいのである。

燃料節約?(03/11/28-224)
 熊本に来たころのこと。東京や大阪から帰るときの飛行機は大分方面から飛んできて有明海に向かう。そして、雲仙普賢岳を見ながらグーンと旋回する。それから熊本の市街地を眺めながらゆっくりと着陸するのである。それはそれは楽しい時間であった。左側に座ると大江にあるわがアパートも見えた。それをビデオで撮ったこともある。そう言えば、いまでは離着陸時にビデオは使えなくなった。「すべての電子機器のご使用はご遠慮下さい」なんてセリフが機内に流れる。やれやれ、何でもかんでも禁止なんだ。それはそうと、いつのころからか普賢岳を見ることがほとんどなくなった。大分から阿蘇に侵入するところまでは変わらない。しかし、飛行機は有明海に進まないのである。熊本市街地に入る前にかなりの角度で左に旋回する。それこそグーンとである。そしてそのまま熊本空港に着陸する。これは私の思い過ごしではないと思う。熊本のみなさんどうでしょうか。関係者の方いかがですか。私の推測だと、これはおそらく燃料節約ではないか。飛行機の燃費なんぞ知りようもないけれど、明らかにかなりの節約になっているに違いない。いまやそういう時代なんですよね。もちろん安全はすべての基本。よろしくお願いしますね。
がんばらなくっちゃ(03/11/27-223)
 東京に出張すると本屋を覗く。大学生のころは神田に出かけて感動もした。神保町の岩波書店「信山社」にも行った。そのカバーが掛かった岩波新書が本棚に座っている。市井三郎「歴史の進歩とは何か」、牧英正「人身売買」なんぞがそこで買った本だ。また新宿の紀伊国屋書店や東京駅近くの八重洲ブックセンターなどにもけっこう行く。もっとも、このごろは福岡や熊本でもそれなりに大きな本屋さんができてきた。その点は、一般書については東京でなければという感じはしなくなってきたのも事実だ。しかし、心理学の専門書などになると、やはり東京は魅力がある。少し前にも紀伊国屋へ行った。いやはや、心理学は圧倒的に「臨床ブーム」である。一瞬、「社会心理系はなくなったのかい」と目を疑った。少し違う棚に置いてあったのでホッとしたが、それにしても寂しいな。恥ずかしながら、ささやかなわが著書も小さな顔をして本に挟まれていた。がんばれと声をかけておいた。それにしても、大学も「臨床心理士」養成で大にぎわいだ。そして、教育の場でも「臨床心理士」に対する期待は大きい。もちろん、こうした専門家が必要なことは否定しない。しかし、同時に先生方の対人関係スキルの改善・向上にもっともっと力を入れるべきではないでしょうかね。そのために、リーダーシップや対人感受性のトレーニングをお勧めしたい。子どもに対するだけでなく、保護者や同僚との関わり方を身につけていくのである。心ある先生方は、そのことを強く望んでおられる。そうです。ここで我田引水。こうした点では、私たちのグループダイナミックスは大いに役立つんですよ。がんばるぞーっ。
ことば(03/11/26-222)
 ことばは人間を動物と比べて優位な生き物にした最大の要因だと思う。イルカを代表に、動物にもことばがあるとは言うが、人間のそれとは比較にならない。道具を使うのが人間の特徴だともされている。しかし、その道具を開発するときも、人間はことばで考える。だから試行錯誤だけでなく創意工夫ができるのだ。チンパンジーも道具を使うという研究もあるが、その質は段違いである。まさに、人間を人間たらしめているのはことばだと言っても過言ではないだろう。そして人はことばによって互いに理解を深める。「ことばは人間理解最強の道具」なのである。先日、大学の授業で黒板にこう書いた。授業後、学生に書いてもらったミニレポート。「先生がこう書かれたときは『分かってないなー』と思いました。ほんの少し前に友だちからひどいことを言われて傷ついていたからです」。なるほど、なるほど。「人間理解最強の道具」と書いてから、私は続けた。「しかし、私たちはことばで人を傷つけることもありますね。また、ことばで嘘もつきます。だから、『ことばは人間誤解最悪の凶器』でもあるのです」。学生のミニレポートは言う。「しかし、先生がすぐに『人間誤解最悪の凶器』と書かれたので、『うん、まさにそうなんだ』と思いました」。あーよかった。学生は最終的には私のセリフを受け入れてくれたんだ。他の学生たちからも、「このフレーズが気に入った」という声を聞いた。嬉しいことである。これを思いついたのは数年前で、ときおり話のネタにはしてきた。しかし、レポートまでとったのは初めてのこと。学生にほめられてかなりいい気分になった。もう一度。「ことばは人間理解最強の道具。そして、ことばは人間誤解最悪の凶器」。
価値感(03/11/25-221)
 先日、美術館に行った。[神と人とファラオ」と題したウイーン美術史美術館の展覧会である。その入り口の「ごあいさつ」の文中に「…すべての価値感が危うくなっている現代の私たちに…」。おやおや、これは「価値『観』」ですよね。ちゃんと校正はされているはずなのに。こんなことがあるのだ。複数で確認していてもエラーは起こる。まるで悪魔にとりつかれたように…。そう言えば、ある新聞で弁護士さんを紹介する記事にもミスがあった。「『意義あり!』。弁護士といえば…」。歯切れのいい文章ではじまって、弁護士の話に移っていく。しかし、その冒頭が「意義あり」。これは明らかに「異議あり」である。弁護士が相手の意見を「意義あり」と認めては裁判にならない。この記事も書いた記者の人以外に確認した人がいると思う。それでも、プロの世界でこうしたことが起こる。本当に恐いものだ。数年前の話。JRの特急が停車すべき駅を通過してしまった。そのミスを伝える記事に通過駅が「灰犬塚」となっていた。これは「羽犬塚」の間違いである。いやはや、灰にまみれては犬の塚もかわいそうである。これは「はいぬづか」と入力すべきところを「はいいぬづか」と「い」が重なってしまったのだろう。ワープロ変換の恐ろしさである。もっとも記事には灰犬塚が4回も出てくるから、本当にそう思い込んでいたのかもしれない。それにしても、「ミス」を伝える記事が「ミス」っているのだから皮肉ではあった。おそらく関係された方は心が冷えたことだろう。とにかく恐ーい話ですね。もう一つ、宮崎の高千穂をレポートするテレビ番組で、「長い歴史をもとに、今日(きょう)まで…」といった表現で伝統をたたえていた。これも、「こんにち」と呼んだ方がいいんじゃないかなと思う。お互いに日本語を大切にしましょう。なんとも文句の多い私ではございますが、耳の痛いことも聞いて下さいな。これからに生かしましょう。
リクエスト(03/11/24-220)
 おかげさまで味な話の素を呼んで下さる方が増えた。大学での授業は言うまでもなく、お話をするチャンスがあるとホームページの宣伝をやっている。 附中の保護者のみなさんにもPRした。つい先頃は、高校時代の同窓生のメールリストにまで書き込んだ。そんなことで、1日あたり50件程度は確実になった。ありがたや、ありがたや。そのおかげというか、ついには「こんなことを『味な話の素』に載せて」というご依頼まで来るようになった。いやー、本物になってきたなー。ある看護士さんからのメールである。「ところで先生、頼みがあります。今年は、ヤンキースのリーグチャンピオン決定シリーズのレッドソックス戦で、あのガッツポーズをしたゴジラこと松井選手の一場面…。あれを見て、先生の格言?を思い出しました。『奇跡は求めるものだけに起きる…』そう思いません? 実はこの話題を例の『味な話しの素』で掲載してほしいのです。どうかよろしくお願いします。無理なこといってすみません。それでは失礼します」。そうですね。松井選手はキャラもよくて、本当に頑張りましたよね。初めてのニューヨークデビューが満塁ホームランときた。やはり恵まれた星のもとに生まれた人なんだとは思います。しかし、その影には努力ありのはずです。そして、「求める」からそうした巡り合わせに遭遇するということなんですね。そして、感情をあまり表に出さない彼が飛び上がってホームインしたのも珍しい光景でした。それも、「求めた」からなのですよね。ともあれ、ネタのご提案、ありがとうございます。味な話の素も一人前になったのかもしれません。
主語にとらわれる(03/11/23-219)
 岩波講座「思考」からの話題。「ある芸術家は養蜂家である。すべての養蜂家は化学者である」。この前提からどんな結論が得られるか。ほとんどの人が「ある芸術家は化学者である」と言うだろう。もちろんそれは正解である。しかし、それだけか…。ちょっと考えると、「ある化学者は芸術家である」も正しい結論だと分かる。この場合「化学者」は文章の主語として登場していない。いわば黒子の役割である。だから、そこに焦点を当てることに気づきにくいのだ。日常の場面でも「目立つ」ものや事柄については、さまざまな思いを巡らす。しかし、やや受け身的な人やパット目立たないものは見落としやすい。しかし、見過ごされがちな人や物の中に輝くものを発見することも大切だ。そうした力を持つことは人生の充実にとって欠かせないだろう。「主客転倒」「逆立ちの発想」。いずれも、ものの見方を変えてみる。立場を変えて見るのである。教室の中だって、いつも主役が決まっていると、同じようなことしか起こらない。それではおもしろくない。ときには脇役が主役になるような状況をつくってみよう。そのことで教室の雰囲気も変わるに違いない。そのためには個々人の力を引き出す必要がある。そこが教師の腕の見せどころか。もちろん、わたしは口で言うだけのこと。実際に行うことはなかなかむずかしい。
自然渋滞(03/11/22-218)
 朝夕は道路に車があふれる。わずか1Kmでも20分かかることもある。そんなとき、ラジオをつけると交通情報が流れてくる。「○○線の△△交差点付近は自然渋滞です」なんだって。「おいおい」と思ってしまう。これってかなりおかしいと思いませんか。広辞苑を引くと「自然」は「天然のままで人為の加わらないさま」となっている。車そのものが人間がつくった物である。自然とは対極にあるのではないか。その車を運転しているのも人間だ。その上、車が動いてるのだって人間がせっせと舗装した道路なんじゃないか。あれもこれも人間がつくった上で引き起こしてるのに「自然」というのはいかがなものかいな。どう考えてもあれは「人工渋滞」でしょう。「自然」と言われると「仕方ないか」とあきらめてしまう。「だれの責任でもないよ」という雰囲気にしてるんだよね。それってだれかが責任逃れしてるんじゃないのかなー。交通渋滞を「自然」だなんて言ってたら、「自然」が怒るに違いない。「人間が勝手にやってるのに、それを自然のせいにするな」ってね。「モノは言い様」。それはそうかもしれないけれど、ことばでごまかしてはいけませんよね。
PTAとカレー(03/11/21-217)
 先日、県PTAの大会があった。私も分科会のシンポジウムに参加させていただいた。そのタイトルは「PTAは必要か」だった。これをディベート形式でやろうというわけだ。議論は攻める方がやりやすい。何でも言える。それに対して防御側は苦労する。まあ、世の中は大体そうなっている。このときも、「不要論」の方は本音を出しきった。もちろん、演台に上った全員が「必要派」だから役割演技をしているわけだ。しかし、それにしても迫力があった。「本当はPTAを否定してるんじゃないの」と疑いたくなるほどの迫真の演技である。その中に、私の大好きなカレーが話題になった。母親:「○○ちゃん、今日はカレーだからね」。子ども:「えーっ、今日もPTAの役員会なの…」。(会場笑い)会合のためにカレーで手抜きというわけだ。話しはつづく。子ども:「○○ちゃんちはいいよね。カレーだもん。家なんていつもドン兵衛なんだから」。(さらに笑い)「それでも今日はちょっといいかもね。だって肉うどんだもの…」。会場の笑いは最高潮に達したことは言うまでもない。それこそ夕食を手抜きし家族を犠牲にしてPTA活動をしている姿が浮かんでくる。いまや日本崩壊が心配になってきた時代。子どもをちゃんと育てるためにも、PTA活動の活性化は欠かせないのだ。あれやこれやと問題はある。しかし、だから「やーめた」ではいただけない。どうしたら問題を克服できるか。それを考えることが必要なのである。そうでなければ、近いうちに日本は崩壊してしまう。
貯まるクリップ(03/11/20-216)
 私はいま身辺整理をしている。とにかく放っておくとモノが増える。とくに紙の類が際限なくたまっていくのである。コンピュータが出始めのころはペーパーレス社会がやってくると言われていた。しかし、実際にコンピュータの時代になってみると、紙は減るどころか増えている。ワープロを打っても、ディスプレイだけでは誤字や脱字を見落としやすい。それが、プリントアウトして読むと間違いに気づくのである。その理由はよく分からないが、とにかくプリントアウトするから紙がやたらと増えていく。もちろん無駄遣いは悪だと思いこんでいる世代だから、ほとんどは使用済み用紙の裏を使う。ところが、その紙がどんどんたまっていくのだ。ある程度までは不要になった紙をためている。しかし、その紙すら置き場がなくなってしまう。それほどのすさまじさなのである。ともあれ、こうした状態に何とか対処しようと必死の毎日である。めでたく定年を迎えるとき、仕事場には何もなくなっている…。これが私の理想なのである。だからこそ、早めに身辺整理をはじめたというわけだ。あと10年しかない。ところで、いつの間にかたまるモノの代表はクリップだろう。いわゆるジェムクリップといわれるものだ。何かにつけて書類などについている。ご用済みでも捨てるわけにはいかない。いつもピカピカの新品ではないか。だから、はずしたら引き出しに入れておく。そして、そのクリップがどんどん増えていくのである。机の中で勝手に増殖してるんじゃないかと思うほどだ。そこで何とか減らそうと焦りに焦る。その解決策として、こちらから送る書類にもどんどんクリップをつける。しかし、1セットに10本もつけるわけにはいかない。そんな努力もむなしく、クリップ君は相変わらず増えつづけていく。ひょっとしたら、みなさんも私と同じ気持ちでいらっしゃるんじゃないでしょうね。とにかく人に回せとばかり、やたらとクリップを使ってたりして…。どなたか、クリップのうまい減らし方をご存じないですか。
 おかげさまで本日10,000件のアクセスを達成しました。

推論と危機管理(03/11/19-215)

 さて本日も岩波講座「思考」から。われわれは、「そんな感じがする」という「雰囲気効果」で事態を判断する。しかし、同じ事象を「雰囲気効果」以外で説明できることもあるという。その例として挙げられている例。「ある三つ葉の植物は有毒である わたしの庭のある植物は三つ葉である ∴わたしの庭のある植物は有毒である」。これは推論としては誤りであるが、「正しい」と判断されることが多いらしい。これは、「そんなこともあるか」という常識的な雰囲気効果で説明可能だ。しかし、「結論が正しい確率が少しでもあれば妥当だと判断しておこう」と考えることもできる。とくに毒が絡んでいるようなときには、「安全第一」なのである。本当は判断が間違っているかもしれない。しかし、「『万が一』でもそうなると取り返しがつかない」。こんなときには、その判断を正しいものとして行動したくなる。とくに時間が切迫した危機的な状況では、そうした判断の方が安全なのだ。いずれにしても、危機的状況で、瞬時にさまざまな判断を間違いなく行うには、日ごろから思考と行動の訓練をしておくことだ。また、危機的状況では体が動くことが求められる。だから、頭だけでなく筋肉も考えるようにしておこう。もともと生物は海の単細胞から始まった。大脳がない時代もちゃんと生きてきたのである。そのときは「細胞」レベルで考えていた。大脳がここまで発達した結果、「考えるのは脳だ」などと思い込みすぎていないか。「筋肉」「一つひとつの細胞」も考えているんだ。そう「考える」とまた楽しくなってくる。
「ボレーボール」と「靴磨きクリーム」(03/11/18-214)
 みなさん「ボレーボール」はお好きですか。「エッ、そんなもの知らない」だって?それはおかしい。日本人ならだれだって知ってるはすだ。このところ、毎日のように放送もしてることだし。私と同じ世代の方なら「東洋の魔女」と聞いただけで分かるだろう。「それならバレーボールじゃない」。そのとおり、まさに正解。日本では「バレーボール」といってるものだ。それではテニスでは「バレー」をしたことがありますか。またまた変なことを言い出したなだって?そうです。テニスは「バレー」でなく「ボレー」だ。しかし、そこがおもしろい。その原語を調べると、volleyは打ち返すという意味である。だからテニスでボールを「エイッ」と打ち返すので「ボレー」というのである。そしてバレーボールだって同じことなのだ。球を打ち返すからvolley-ballなのである。発音的には「ヴォリボール」に近いのだろう。いやー、やっぱしおもしろいわな。同じことばなのに「バレー」と言ったり「ボレー」と呼んだりで…。それに、優雅なバレエもある。これはフランス語のballetである。そりゃあそうだわ。あのサーブとアタックの「バレーボール」と踊りの「バレエ」が同じわけがない。それはそうと「シュークリーム」もおもしろい。これって英語圏の人から、靴磨きのクリームと間違えられるって聞きいた。これは英語でcream puff、もともとはフランス語でchou la cremeっていうんだそうな。puffは「ふわっとふくれたもの」、chouは「キャベツ」のようである。「シュー」はフランス語の発音がもとになっているに違いない。puffは分かるが、chouの方は私の解釈が間違っているかもしれない。しかし考えてみるとシュークリームってキャベツに似てはいますがね…。このあたり、詳しい方はいらっしゃいませんか。
授業に出なくてすむ大学(03/11/17-213)
 新聞を見ていたらこんな記事があった。一般の人を紹介する欄である。その日は女子大学生が取り上げられていた。とにかく内容が凄いのだ。「大学年生です。卒業に必要な単位は取り終え、後期は授業に出ず、○○○でアルバイトに励んでいます。将来は自分で○○○を開くのが夢なので、今はその勉強中。卒業旅行には友達と△△島に行ってエステを楽しみたいです」。「うーん」と唸ってしまう。社会に出て役立つための勉強なんだろうが、こんなんでいいのかいなと思うのである。授業に出ないですむ大学って何なんだろうか。ちょっぴり堅いお話をさせていただこう。もともと大学の単位は大学設置基準で決められている。それによると、学生は時間の授業に前後時間の予習と復習をすることになっている。これで時間だ。それを15回繰り返すことで45時間になる。この45時間で単位というわけだ。つまり1単位を取得するために週間の労働時間にあたる勉強が必要なのである。同じ年代の若者たちが働いているとき、大学生だってそれに負けないくらい勉強しろ。少なくとも新制大学は、そうしたストーリーでスタートしたのである。基本的には卒業のために年間で124単位は必要だ。これを4年で割ると、年あたり31単位になる。だから、少なくとも年間31週の平日は必死に勉強して、ようやく卒業の最低基準をパスするのである。もちろん、実態はわれわれが学生のころだって、この建前どおりではなかった。だから、いまの若者だけに厳しい要求をするつもりはない。しかし、それにしてもである。学期間まったく授業に出ないですむ大学って何なんだろう。私はやっぱり考え込んでしまうのである…。
推論の落とし穴(03/11/16-212)
 岩波講座「思考」では、人間が犯す推論の誤りやゆがみについて解説している。まずは、「演繹的推論のバイアス(落とし穴)」。すべてのAはBである(前提) すべてのBはCである(前提) ∴(ゆえに)すべてのAはCである(結論) これは定言三段論法というんだそうな。この場合はA、B、Cに何が入っても、前提が正しければ結論も常に正しい。ここで、「すべての人間は豚である すべての豚は電話である ∴すべての人間は電話である」も「推論の仕方自体」は間違ってないとされる。結論がばからしいのは、前提が誤っているからである。なるほど。この場合は、前提がおかしいことはすぐに分かる。しかし、われわれは前提の誤りに気づかずに議論を進めることが大いにありそうだ。そのことが意見を主張する側、反論する側の双方に気づかれていない。そんなこともある。また、結論が常識と一致する場合は、その内容を正しいと考えてしまう傾向もあるという。たとえば、「ある学生は男性である ある男性は自転車に乗る ゆえに、ある学生は自転車に乗る」は正しいか。これは正しいことも、そうでないこともある。しかし、「ある学生は自転車に乗る」ことは常識的にあり得ることだ。そこで、こうした結論は何気なく受け入れてしまう。これに対して「どの学生も自転車に乗らない」と言われたらどうだろう。そんなことは、常識では考えられない。したがって、その誤りはすぐに分かるのである。こうした推論が陥りやすい傾向を「雰囲気効果」とも呼ぶらしい。何となくそんな気がする「雰囲気」があるということだろう。ともあれ、「常識」と一致するからといって思考を停止してはいけない。ここでヒューリスティックということばが登場する。これは発見的な方法、経験則に基づくといった意味を持っている。人間は論理よりも、自分の経験をもとに推論する傾向があるというわけだ。しかも現実には、それでうまくいくことが多い。最近はさまざまな組織で信じられないミスや事故が起きている。こうしたできごとの裏でも仕事の過程と結果についての誤った判断や推論がなされているのではないか。常識的に考えて行動することが効率的であり、確率的にも間違うことが少ない。しかし、それはいつも正しいとは限らないのだ。私たちは何としても、この事実を押さえておく必要がある。子どもたちにもそうした推論のあり方を知ってもらいたいものだ。これからの社会を支えていく人たちなのだから。
命拾い(03/11/15-211)
 文化の違いは相当なものだ。アメリカで48人もの女性を殺害した犯人が罪を認める変わりに終身刑を言い渡された。いわゆる「司法取引」と呼ばれる制度の適用である。それをあるワイドショーで米紙USA TODAYも引用しながら伝えていた。見出しは Green River Killer gets life だった。これをキャスターは「命を得たと言うことですが…」と説明していた。うーん、それじゃあ直訳、初心者の英語だよな。せめて「命拾い」とか「九死に一生を得た」くらいの訳をしてもいいんじゃないかなあ。それじゃあ柔らかすぎるなら「死を免れる」ではどうだろう。ともあれ、インターネットでUSA TODAYを見た。それによると、Most victims' families supported the decision to forgo the death penalty in order to learn what happened to their loved ones. この部分はとても重要だ。被害者たちの遺族は事実を知るために「司法取引」を認めているのである。しかも most だから、少なくとも過半数以上の人々がそれを支持したはずだ。これに対して日本のある新聞は「司法取引で死刑を免れることについて、遺族ばかりか刑事訴訟法の専門家からも『不公平だ』との批判が出ている」と伝えている。遺族もその多くが「取引を認めた」というUSA TODAYとはニュアンスに違いがある。いかにも日本人が納得できるような内容になっているのである。われわれは情報を複眼の視点で吟味することが重要なのだ。ところで、日本語で「取引」というとかなり聞こえが悪い。しかしアメリカでは真実を明らかにするために有効な方法だと考えられているようだ。そう言えば、飛行機事故などの場合でも日米の対応は違っている。わが国では個人的な責任にウエイトが置かれがちである。これに対してアメリカでは免責してでも原因を追及する傾向が強い。もちろんそうした条件を与えたからといって、すべての人が真実を語るとは限らない。あー人間はややこしい…。
「ありがとう」が子どもを育てる(03/11/14-210)
 中学生や高校生が高齢者の悪口を言っている。「せっかく席を譲ったのに、『私はまだ元気なんだ。年寄り扱いするな』だって。カチンときちゃった。もう年寄りに席なんか譲るのやーめた」。この手の話はけっこう聞く。なんとも残念なことだと思う。ご年配のみなさん、お元気な方も子どもの好意をちゃんと受け止めましょうよ。そんなことで子どもの心を潰さないようにしようではありませんか。「ありがとう」の一言が子どもを気持ちよくさせるのです。感謝することで人は育っていくのです。たとえ元気であっても、他のお年寄りで座ることが必要な方もおられるのです。それなのに、心ない一言で、席を譲る気持ちを失った若者が、また一人増えるかもしれません。ついでながら先に降りるときにはお礼も言いましょう。また子どもが先の場合でも見られる限りはちゃんと見ておきましょう。こちらを振り向くかもしれません。また、バスを降りた後でちらりと目を向ける可能性もあります。あくまで感謝の気持ちを伝える姿勢でチャンスを待っておきましょう。繰り返しますが、これは個人の体力の問題ではないのです。子どもたちは家庭や学校だけで育つのではありません。社会のみんなで育てるのです。


洞察ということ(03/11/13-209)
 洞察とは英語ではinsight という。まさに「視野(sight)」に「入ってくる(in)」、「見えるようになる」ということだ。教育の場でも「気づき」ということばがある。「あっ、そうじゃないか」とひらめくのも「洞察」に近いかと思う。いつもの岩波講座「思考」によれば、人間の問題解決行動を「洞察」で説明しようとしたのはゲシュタルト学派と呼ばれる心理学者たちだった。それまでは、ネズミやハトなどを使って迷路学習などをさせて、問題解決の過程を研究していた。いわゆる「試行錯誤」の積み重ねから問題も解決されるというわけだ。しかし、チンパンジーなどは餌が届かないところにあると、じっと考えているような行動をする。そして、はっとひらめいたような感じで道具を使ったりするのである。この研究で有名なのはケーラーという研究者だ。その著書は「類人猿の知恵試験」(岩波書店)というタイトルで翻訳されている。先人の発明物語などを読んでも、夢の中で気づいたとか、散歩しているときにピンときたといったことが多い。こんなのは試行錯誤というよりも「ハッとひらめくのである」。ただし、ここで大切なのは、鼻風船をふくらませながら寝こけていても洞察の女神は現れないということだ。自分が探求するものを日ごろから考えつづける。それに必要な知識や情報を求めつづけていることが欠かせない。漫然としていて洞察ができるなら、世の中は発明品であふれるだろう。知識は洞察の基礎である。学習なくして知識は身に付かないから、洞察も得られない。そして、智恵は洞察の結果ともいえる。かくして、知識は洞察を通して智恵になる。それは人類の智恵にまで育てられることもある。ああ、すばらしきかな洞察さんよ。教育の場でも子どもたちに「あっ、そうか、そうなんだ」体験をできるだけ多くさせたいものだ。「知識が生きる」ことを知れば、またさらに知識を増やしたくなる。人間はそうしてここまできたのである。
カレー万歳(03/11/12-208)
 子どものころからカレーが大好きだ。中学生から高校生のころ、福岡の香椎に住んでいた。休みの日は天神や中州にも出かけた。天神はいまでも商業地だが、そのころはデパートなどに出かけた。その際に地下にある西鉄名店街で「ナイルのカレー」を食べた。これが本当においしかった。中州といえば全国にも知られた歓楽街だ。そんなところに中学生が行ってたなんて聞くと「おいおい」と思われる方もいるだろう。しかし、当時の中州は昼と夜の顔が大いに違っていた。そのころは映画全盛の時代だ。昼間の中州も映画館が元気だった。だから中学生が中州に行ったって、少しもおかしくはないのである。また那珂川沿いには老舗の玉屋デパートがあった。いまでは考えられないが、その屋上は動物園だった。また、何階だったか忘れたが玉屋ホールなるものまであった。そこでも割安の映画があり、ここにもかなり通った。「007危機一発」を見たのもこのホールだ。ここで「一髪」でなく「一発」となっているのは、原文のママなので、念のため…。その主題歌はFrom Russia with Love。ああ、カレーから話題がそれてしまいそう…。閑話休題、中州のメインロード、電停前にも「湖月」というカレー屋さんがあった。ここもまた私の行きつけで2階に上がって市内電車を見ながらカレーを食べる。その味は格別だった。そして学生時代にも何度となく通った。そして大人になってからも…。いつのころからか博多駅にも「ナイル」ができた。博多駅に行くと最近まで気がついたら足が向いていた。しかし、もう中州の「湖月」はない。そして天神の「ナイル」もなくなった。さらに、少し前に博多駅の店を覗いたら、大ショックだった。あの懐かしきオリジナルカレーがメニューから消えていた。それを見て、私は入るのを止めた。ああ、時間は流れていく。カレー万歳。


無意識の教育(03/11/11-207)
 知り合いの女性の自宅に電話する。すぐに相手が出る。「ああ、○○さん。吉田だけど…」。その途端に相手が応える。「あっ、吉田先生。娘がいつもお世話になります。少々お持ち下さい」。しまった。ご本人だと思ったらお母さんだった…。どなただって、1度や2度はこんな経験をされたことがあるでしょう。すごいよね。確かに親子だから声帯や喉のあたりの構造は遺伝的に似ていることは分かる。しかし、言い回しの調子や抑揚まで同じってことがあるだろうか。それは日常的な関わりによる影響なのだ。このように、私たちは気づかないうちに子どもたちを教育しているのである。しかも、それを本人たちは案外と気づかない。他人が見れば吹き出すほど似ていても…。この点はじつにおもしろいと同時に恐くもある。もちろん「電話の対応」は目に見える一例に過ぎない。また、その影響は親と子どもの間だけで起きることではない。お互いに関わりを持つことで人は大きな影響を受けている。教育は意識的な働きかけだけで行われるのではない。意識しないまま他人に影響を与え、相手もまた知らず知らず影響される。それが対人関係なのだ。そのことをいつも忘れないようにしておきたい。
「パンツ入れ」(03/11/10-206)
 英語が日本語化するとおもしろい。男性の下着はデカパンと読んでいた。このごろはトランクスというようだ。たしかにボクシングの選手がはくのもトランクスといっている。カッコいい?体にピッタシしたものはブリーフという。英語ではbriefsと複数形になっている。briefには、「短時間の;簡潔な」という意味と並んで「(衣服が)短い」といった意味もある。複数になっているのはズボンのtrousersなどと類似している。右足と左足の二本があるからだろうか。この点では英語は数に厳密だ。ハサミはscissors、靴はshoesである。アメリカ映画だったか、靴磨きの少年をshoeshine boyと呼んでいた。まあ靴磨き屋さんが右か左の靴しか磨かないなんてことはありえない。しかし、確かに同時に2足を磨くこともないわね。ともあれ、ことばはおもしろい。ところで、私がはじめて「ブリーフケース」ということばを聞いたときは、「パンツ入れ」かと思った。しかし本物を見るとなかなか格好いいケースである。どう見てもパンツを入れて持ち歩く鞄ではなさそうだ。英和辞典ではbriefcaseは「書類鞄」となっている。briefの項に入っているから、これと関連したことばではあるはずだ。しかし、briefには直接「書類」の訳はない。ただし、インターネットで調べたら、 a case with a handle; for carrying papers or files or books となっていた。しかも、語源としてはbriefに文書や書類の意味があるようだ。これで少なくともパンツ入れでないことだけは分かった。家にいてアメリカの辞書まで見ることができる。何と幸せなことだろう。

無料の特急券(03/11/09-205)
 鹿児島に行ったときのこと。往復切符を買った。窓口の方がにっこり笑う。「お客様、この切符は『無料』で指定が取れます。どうなさいますか。「すっごいなー。指定席がタダなんだ」。そうなるとせこい私は即座に「いります」と叫んでいた。しかし、ちょっと待てよ。無料って聞いたけど、それってちょっと怪しいなあ。だって、もともと指定料も組み込んで料金を決めてるんじゃないのかいな。それにしても、ものは言い様なんだと思う。指定席が只だと聞くと、それだけで嬉しくなっちゃう…。もっとも、指定をとっておいて隣に相性の悪そうな人がいたらどうするか。すぐに自由席に行っちゃう。こんな人も多いのではないか。まあ客もいい加減なものですたい。そんなこと考えながらふと切符を見ると「ピーク期」は500円いるんだそうな。もっとも、その期間は盆正月だけだから、ほとんどは追加はいらないようだけど…。ともあれ「無料」と言う言い回しはなかなかのものだ。それから1時間ほど経っただろうか。何やら小さな駅に止まった。何だろうと思ったら、「信号待ちです」だって。そのうち上りの列車が入ってきた。なんだ、これって「信号待ち」というよりも「離合まち」じゃんか。駅だけが複線になってるので、そこで上下を調整するというわけだ。でも、一般人としての私は電車の「信号待ち」は事故や何かが起きたときだと思っている。しかし、この場合は、はじめから計算に入れられた「待ち時間」なんだ。それも「ただいま信号待ちです」という表現になるわけですな。やっぱしものは言い方次第ということですね。
家族連れ(03/11/08-204)
 先日、博多からの帰りにグリーン車に乗ってみた。私の前方に2つのシートを向かい合わせにして座っている家族がいた。私から斜め前に小さな2人の女の子が見える。その顔の様子から双子だと思った。背中の一部が見えるのは母親である。その隣は見えないので、だれが座っているのかは、すぐには分からなかった。そのうちトイレに立った。それで、そこに座っていたのはお兄ちゃんだということが分かった。母親と3人の子どもたちだと思われた。それにしても双子の女の子たちは楽しそうに話していた。しかも、それが騒がしくないのである。このパターンだと大抵はキャッキャの大騒ぎになる。傍若無人に、そこいらを走り回ることもある。いつもは自家用車を使うことが多く、そこではやりたい放題。だから公共の場であってもセーブすることを知らない。こうした例が多いのである。「静かに」なんて叱ると、「怒られるから止めなさい」とくる。なんじゃい。怒られないなら何をやってもいいんかい…。それがグリーン車の中で静かに時間が進んでいくのだから感心してしまったのだ。まあ、「こんな小さな子どもたちにグリーン車の味を覚えさせていいんかいな」なんて気持ちもあった。しかし、とにかく楽しそうなのに限度を超えないというところはすごいと思った。やはり日ごろの教育なんだろうか。その日はやや疲れ気味だった。少しばかり眠気のする頭でそのほほえましさを楽しんでいた。
鼻くそ関係(03/11/07-203)
 人との関わりの強さは何で測るか。いつも仲良しでほほえましい関係。喧嘩など夢にもしない関わり…。これだけではいけないと多くの人が言う。本当に相手のことを思うなら、お互いに厳しいことでも指摘する。そんな関係が必要だと…。そうなんだよな。しかし、私なんぞはどうもそのあたりは強くないなあ。人にはそうあれと言ってる割には…。もちろん、そうかといって自分が人間的に優しいとなどと言うつもりはない。やはりことを穏便にすませようとするところがあるだけの話だ。まあ、もめるのが嫌いだと言えばそれだけのこと。ただ、真の関わりの程度を知るには別の方法もあるのではないか。たとえば、相手の「鼻くそ」を指摘できる関係であるかどうか。何を言ってるのかお分かりにならない方がいるかもしれない。いやいや文字通り「鼻くそ」の話なのだ。あなたは友人が「鼻くそ」をくっつけていたら、「ちょっと、あんた鼻くそがついてるよ」と教えてあげられるかどうかである。これって、かんたんに言えそうなでなかなか言えないんだよね。それが家族であれば「おい、鼻くそ」なんて指さして言えるのに…。そのほか、ズボンのチャックが開いているとかスカートがほころんでいるとか。これなどは異性間ではほとんど指摘できないだろう。そんなとき、異性の友だちがいれば、「あんた言ってあげなさいよ」くらいのアドバイスはするけれど…。ともあれ、言いにくいことを言える関係はいい関係なのだ。それにしても日本語はおもしろい。「目くそ鼻くそを笑う」なんて、それこそ笑える。
Gold Fingerの大作戦(03/11/06-202)
 007ジェームス・ボンドは何作目になるのだろうか。私が高校生のころにスタートした映画である。第1作は原題{Dr. No」で日本では「007は殺しの番号」だったと思う。とにかくすごいアクション映画だった。少なくとも4、5作目までは全部見たはずだ。そのなかでも鮮烈に記憶しているのが「007Gold Finger」である。悪役Gold Fingerは世界中の金をわがものにしようと企む。そして世界中の金を集めているアメリカの連邦準備局(?)を襲う。そこにはワンサと金の延べ棒が保管されている。そこを襲撃して大量の金を持ち去ろうというわけだ。しかしちょっと待って欲しい。金はすごく重くて、水の19.3倍もある。1リットル瓶で19.3Kgなのだ。それを持ち去ることなんてできるんだろうか。そこがこの映画のすごいところなのである。正解は、金に放射能を浴びせるのだ。そうなると、その金はすべて使えなくなる。その結果、Gold Fingerが持っている金の価値が急騰するというわけ。その構想には高校生ながら感心してしまった。全体の価値を失うことによって自分の持っているものの価値を高める…。まさに物事の価値は相対的なのである。本当にすごいアイディアであった。もちろん、そんなことが実際にあってはいけないけれどね。
「考える人間」万歳(03/11/05-201)
 またまた、岩波講座「思考」の話題。第1章の始めに、思考は「人工知能」の研究としても展開されてきたことなどが書かれている。当初は「人間が問題を解決する過程をコンピュータでシミュレートする試みで、認知科学誕生の契機となった」のだそうな。しかし、それも順調に発展してきたとは言えないらしい。その「最大の原因は、思考活動の複雑さ」だという。そりゃあそうだろう。宇宙の誕生から生物が生まれ、われわれ人間になるまで何億年、何十億年経っているかは知らない。しかし、それほど気の遠くなる「時間」と「経験」の蓄積の上にできあがった脳である。「そう簡単に俺のメカニズムが分かってたまるかよ」。そんな脳の嗤い声が聞こえてくる。そして「そうした事情から、現在の認知科学においては、思考の働きを全体として説明できるような総合理論は、まだ出現するに至っていない」というのが結論である。「考えること」は「考えて」もなかなかはっきりしないものなんだな。まあ、それもいいかなと思う。なぜって、人の思考過程がすっかり分かってしまうと一体どうなるんだろう。対人関係も何もあったものじゃなくなってしまう。「おいおい、あんた専門は心理学なんだろ。人間の思考過程が分かると困るって、そんなこと言っていいの」。まあ、あまり堅いこと聞かないでね…。ともあれ私が生きている間はそんな心配はしなくていいようです。考える人間万歳。
「したこと」よりも「されたこと」(03/11/04-200)
 すでに50代も半ばを過ぎて昔が懐かしくなった。そこで高校のホームページなどを見ていたら、19回卒のメール・サークルを見つけた。新制高校で昭和39年入学、42年卒業が19回卒である。さっそく入会したところ、2000年6月からスタートして5000件近くにもなっていた。少し様子を見ていたが、何かうずうずしてきてメールを送信した。すると、それに対する返事が入ってきた。やはり嬉しいものである。その中に1年生のときに同級だったF君からのものがある。「英語のABCの 『C』 を『シー』と発音していた僕の発音を、英語の得意な貴君が『「シー』ではなく『シー』と『スィー』の中間であると実演をまじえて教えてくれたことを懐かしく思い起こしています…」。これを見て私は仰天してしまった。そんなことをしたなんてまるで記憶にないからである。たしかに、このごろ記憶力が急速に低下している。そのことは自覚しているつもりだ。しかし、それはつい先ほどのできごとが中心で、古ーい過去については昨日のことのように覚えている。それが老化というものである。それはともあれ、人間というものは「したこと」は忘れても「されたこと」は忘れないようだ。このことは大きな意味を持っている。F君の場合は私にとってもいい例だし、F君だって懐かしく思い出してくれている。しかし、それが相手を傷つけるようなときはどうなるか。「した側」は時間とともに忘れていく。だが「された方」はいつまでも記憶にとどめているのである。こうした心のメカニズムについては意識しておいた方がいい。
裸の王様シンドローム(03/11/03-199)
 「裸の王様」はあまりにも有名である。いんちき仕立屋が、愚か者には見えないという服を王様のためにつくる。本当は何もないので、誰の目にも見えない。しかし、「愚か者」と思われては大変とばかり、みんなが「素晴らしい」と褒めちぎる。そんな中で純朴な子どもが「王様は裸だ」と指摘する。そこで大人たちは大恥をかいてしまう。そんな物語だった。自己保身のために、集団から疎外されないために、われわれはつい本当の気持ちを抑えてしまう。人間の本性をついたなかなか厳しい作品だ。とかく人は周りの力に屈して流される。嫌なことを言う者は遠ざけたくもなる。こうして権力者の周囲には「No」と言える人がいなくなる。その結果、「けっこう毛だらけ猫灰だらけ」とばかり、プラス情報だけしか聞こえなくなる。だから、自分にとってマイナスになるようなことを言う人が一人もいなくなったら、権力者は気をつけた方がいい。そのときは自分たちが「裸の王様」シンドロームに罹っていると考えることだ。ところが、分かっちゃいるけど止められない」のが人間である。「引き際が大事」と言われる。われわれもそのとおりだと思う。しかし、その立場になると、若いころの気持ちなど忘れてしまう。その点では、アメリカの大統領が2期8年までと決めているのは賢明なことである。アメリカ憲法では大統領の任期は4年となっているだけだ。しかし、初代大統領ワシントンが、1796年に「大統領の3選は民主主義の発展に適当でない」という理由で引退した。この引き際の素晴らしさよ。その後、大統領は2期で交代する慣例が生まれたのである。まさに、「裸の王様」シンドロームを放逐した好例である。私たちも「裸の王様」シンドロームには気をつけましょう。この病気は自覚症状がないので、ご注意を…。
飛行機物語(03/11/02-198)
 今どきの中学生は飛行機で修学旅行に出かける。私が子どものころは一生に一度でも乗れるだろうかと思っていた。先週この欄でそんなことを書いた。ところで私はいつはじめて飛行機に乗ったか。それは大学3年生のときである。私は進学するつもりでいたので採用試験を受ける気持ちはなかった。友だちはいくつもの会社を訪問していた。それはご同慶の至り、けっこうなことだ。ところが東京に出かけて2〜3社を訪問すると、それぞれの会社から「旅費」を稼ぐのである。当時の就職はそれほど売り手市場だったわけだ。まあ、景気もよかった。いまでは信じられない時代ではあった。それでも私は誘惑に負けない気持ちでいた。ところがある日のこと友人が私にささやいた。「A社は福岡で一次試験に通ると飛行機で東京に行かせてくれるんだって」。これで私の気持ちはぐらついた。とにかく飛行機に乗りたくて仕方がなかったのである。そこで私もA社を受けることになったのである。そして何と幸運にも一時にパスする。嬉しかったこと嬉しかったこと。そして生まれて初めて飛行機に乗ったのである。快晴の飛行機日和で初めてのフライトというのに富士山が眼下に見えた。その次に飛行機に乗るのはずいぶん後のことである。とにかく飛行機は超大金持ちの足だったのだから。しかし、それからは大の飛行機好きになり、乗るたびにメモをしている。それによると先週の修学旅行は414回目のフライトだった。それはそうと、東京の本社では面接があった。私は正直に「進学した場合は合格しても辞退します」と伝えておいた。そんな厚かましいことを言ったのだが、採用の通知をいただいた。卒業する3月まで「来る気持ちになったらいつでもどうぞ」と暖かいお誘いを受けた。同じ学部を卒業した先輩からも「いい会社だよ」という手紙ももらった。大学院に合格したとき、すぐにお断りの手紙を書いた。この会社のことはいつまでも忘れない。あれから30数年が経過した。その会社は厳しい経済情勢の中、数年前になくなった。同期として就職していった他学部の友人はどうしているだろうか。
偉くなった看護師さん?(03/11/01-197)
 看護婦さんが看護師と呼ばれるようになった。昨年の春からだったと思う。これを知って「看護婦さんは偉くなったのよ」という人がいた。つまりは「師」になったからだ。「師」は「先生」というわけである。しかし、看護師さんとしては「偉くなったのね」なんて皮肉っぽく言われるとお困りに違いない。「そんなこと言われても」といった気持ちになってしまうでしょう。この命名にはちゃんとした歴史があるんですよね。もともと「看護婦」は女性であることが常識だった。まさに「婦」は女性そのものを指す。しかし時代とともに看護に携わる男性も出はじめた。その割合は知らないが、いまでは相当の数になるだろう。それに伴って、男性については「看護士」という表現が使われるようになった。「○○士」と「士」を付けた資格を取らせる商法を「さむらい商法」などと言う。まさに「士」は「侍」であり、「男」を指すことばなのだ。そんなことから、かなり長い間、「看護婦(士)」などと言った表現が使われてきた。そのうち統一的な名称にしようという機運が盛り上がったのだと思う。私も看護系の研究論文を書くこともあるが、その中で「看護婦(士)」と何度も書いていた。じつに、文章の流れが悪いのである。そこで出されたのが「看護師」だった。その経過から、「士」は使えなかったのである。だから、なにも看護に関わる人たちが「自分たちは偉いんだぞーっ」とふんぞり返ったわけではないのだ。そのあたりの経緯を知っておかないと、看護士さんたちも立つ瀬がないわいな。それに、「師」には「その道の専門家」という意味もある。それならば、「看護婦(士)」が「看護士」になっても、少しもおかしくはない。まさに看護の専門家なのだから…。ところで最近では、「士」が男性に限定されなくなってきた。「弁護士」「税理士」「公認会計士」などなど。いずれもはじめは「男」しかならないものと考えられていたのだろう。いまでは、どの分野でも女性がいる。時代がことばの意味を変えていく。そうそう、このごろ流行の「臨床心理士」などは、女性の割合が極めて高いのではないか…。