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味な話の素
No.4 2003年8月号 (105-135)
 

養護教諭
 学校には養護教諭がいる。しかし、この名称は養護学校の「養護」と同じため、一般には養護学校の教師と思っている人もいる。広辞苑によると「小学校・中学校・高等学校において、児童・生徒の養護をつかさどる教員。教育職員免許法による免許状を必要とする」となっている。これを読んで、「ああ、保健室におられる先生か」と分かる人はどのくらいいるだろうか。ここで「養護」を引いてみる。やはり広辞苑によると「@危険がないように保護して育てること A[教]児童の体質や心身の発達状態に応じて、適当な保護と鍛錬とを加え、その成長・発展を助けること」となる。さらに、養護学校は「心身障害者に適切な教育を施すために設けられた学校。1979年、都道府県に設置義務が課せられた」と解説されている。養護学校設置は20世紀の終わりになって義務化されたのである。これも意外に遅いと思われる方もいるだろう。また「養護施設」もある。これは「児童福祉法に基づき、保護者のいない児童、虐待をうけている児童など養護を要する児童を入所させ、その生活を保障する施設」(大辞林)である。さらに「養護老人ホーム」もある。やはり大辞林によると「老人福祉法に基づき,心身・環境・経済上の理由により,家庭で養護を受けることが困難な高齢者を入所させて,養護する施設。設置主体は地方公共団体および社会福祉法人」となる。とにかく「養護」ということばは、さまざまな組織に使われている。そのこともあって、「養護教諭」は正確に認識されていないようである。因みに研究社の新和英中辞書によると、養護教諭は a school nurse となる。これだと日本でいう「教育的側面」が弱い気がする。なかなかむずかしいものだ。わたしも大学院で養護教育の授業を持っている。担当しているのは「学校保健管理学」である。養護教諭は学校全体の健康の維持・向上にもリーダーシップを発揮することが期待されている。そこで、「組織管理」や「リーダーシップ」も話題となり、わたしも授業を持っているというわけだ。ともあれ、「養護教諭」についてはもう少しPRした方がいいかもしれない。(03/8/31-135)


えっ、うそ!
 嫌な言い回しだ。何かビックリすることがあると、「えっ、うそ!」と絶叫する。もう反射的だ。これだけはやめて欲しい。ひと頃は若い人だけかと思っていたら、そうでもないようだ。わたしと変わらない年代の人間まで「えっ、うそ」を連発している。某月某日、バスに乗っていたときのこと。バスは交差点に差しかかり、そこで大きな道路を直進した。交通センターに行くためには、そこを左折する必要があった。つまり、そのバスは交通センターに行く系統ではなかったのである。最後部に座っていた3人ほどの若い女性集団が慌てたようだった。「えーっ。これって交通センターに行かないの」「そうみたいね。でもとにかく聞いてみてよ」。そこで代表格らしき1人が運転席に向かって行った。「すみません。これ交通センターに行かないんですか」。これに運転手さんは丁寧に答えた。「はい。このバスは第1環状線です。これから上熊本、熊本駅と廻っていきます。交通センターには行きません」。明解な回答だった。これを聞いた件の女性が叫んだ。「えっ、うそ!」……。ほんまやがなー。お嬢さん、これだけ親切に教えてもおて、「えっ、うそ」はなかでしょうが。いやはや、人を疑うことを前提にした嫌な言い回しだ。それならどうずればいいかって?そんなことわたしに言わせないでよ。大きく目を見開いて「えっ、ほんとう?」と叫べばいいじゃないですか。ところで、あの3人の女性だが、まちがいなく熊大生だった。「えっ、うそ!」…。(03/8/30-134)


投影ということ
 心理学では「投影」という言葉が使われる。英語で言うと「プロジェクト(project)」である。スライド・プロジェクターと呼んだりするときは、日常でも使っている。小さなフイルムをレンズで拡大して大きなスクリーン上に映し出す機器である。最近では「プロジェクトX」の方が目立っている。こちらは「企画」「計画」といったニュアンスで今日の話題とはやや違っている。プロジェクターのイメージがピッタリくるが、フィルムを「心」に置き換えたのが「投影」である。たとえば自分があるものを嫌っていたとする。そのこと自身は自分にとって不快なことなので抑圧される。そして、その気持ちを他人が持っているかのように投影するのである。「○○さんは◇◇を嫌ってる。○○さんの態度を見ていれば、そのことがよーく分かる」。こんな調子である。ところで、ここにある受験生がいる。高校の成績は今ひとつで、受験に失敗し予備校に通っている。本人は大学進学を希望している。そして、よくは分からないがその先に大学院というのもあるらしく、これもおもしろそうだ。しかし、それはそうと今の成績では厳しいところばかりである。そして、予備校の進学担当者との面接日がやってきた。「君は大学進学を希望しているが、どうも成績が思わしくないね。本気で大学に行くつもりか」「はい」「うーん、厳しいぞ。今の状態であれば専門学校ということも考えてみないか」「はー。でも専門学校から『大学院』に行けるんですか」「なに!お前は専門学校を馬鹿にしてるのか!」受験生は答えようがなかった。専門学校を低く見たりしているわけではない。ただ、そこから大学院に進めるのかなと思って聞いただけなのだ。それに対して「馬鹿にしてるのか」って、どういうことなんだ。「この人こそが専門学校を軽視しているにちがいない」。受験生はそう思ったという。その推測はおそらく当たっているだろう。まさに心が投影されているのだ。(03/8/29-133)


BSはライオンズがお好き?
 今年のプロ野球も押し詰まってきた。タイガーズはぶっちぎりでマジックを減らしている。熊本には圧倒的にジャイアンツ・ファンが多い。私の周囲にいる同僚や友人などは、その熊本の平均をも越えているような気がする。だから彼らの間では、来年の話で賑わっている。パリーグの方も、ここに来てホークスが抜きでてきた。「星野−王、因縁の対決が再現!」というセンセーショナルな見出しが目に見えている。「見えるようだ」ではなく「見える」のだ。なにせ人を騒がせるのがお好きな方々が多いから…。ところで昨夜はBSで「西武−ダイエ−戦」の終わりの方を見た。松坂を打ち崩したようだから、ダイエーが快勝したと言っていいのだろう。松中のヒーロー・インタビューの途中で時間が来ておしまいになった。そのクロージングで流れる30秒程度のハイライト・シーンが興味深かった。先ずはカブレラのホームラン、つづいて松井のホームラン。それいけやれいけライオンズ。しかもその後がダイエーの斎藤がピッチャー交替を告げられて交替する場面…。終盤しか見ていないので、この3カットの内容は推測ではある。いずれにしても、ここだけ見ると「西武快勝」だ。このハイライトって勝った方を目立たさせるんじゃないのかなあ?まとめるなら「松中のホームラン」でしょう。「井口のヒット」であり、21年ぶりにようやく西武に勝ち越しを決めて喜ぶナインの握手」でしょう。「あれーっ、BSってライオンズ・ファン」なんて思っちゃいました。「ところでお前はどこのファンか」ですって?そりゃー、わたしは福岡出身ですもの。わたしの口から言わせないでよ…。(03/8/28-132)


一言の効果
 ホテルに泊まったときのお話。3泊4日であるが、間に日曜日が挟まっていた。先方の都合らしいが、「日曜日は(お部屋を)変わっていただきます」。ここで(お部屋)と括弧で囲んだのは、わたしはホテルのフロントの女性がそう言ったと受け取ったからである。あとの状況を考えると、彼女はそんな表現はしていないと思われる。しかし、とにかく客としてのわたしはそのように理解した。それが金曜日である。そのことが頭に残っていたので、土曜日の朝になって出かけるときフロントに聞いた。昨夜の女性ではなく、男性に変わっていた。「部屋が変わるのは明日ですかね」。「はいそうでございます」。これで会話はおしまい。そして、いよいよその日の朝がやってくる。ホテルを出る前に荷物をまとめた。何せ部屋を変わるのだから。それを預かってもらおうと思いながらロントで言った。「今日は部屋が変わると聞いたので、この荷物を預かってもらえますか。は○○号室の吉田ですが…」。その瞬間、ちょっとばかり「うん?」と言った表情を見せたフロント氏。すかさず「説明の仕方が悪かったのだと思いますが、部屋が変わるのではなくカードが変わるんです」。なーんだ、そうだったのか。すぐに「あっ、そうなの。じゃあ、荷物を部屋に置いてきますわ」などと答えて、またぞろ8階の部屋に戻った。「なんだ、いい加減な説明してからに」なんて気持ちは微塵もなかった。むしろ、今日も続けて同じ部屋に泊まれることを密かに喜んだ。それってなぜだろう?「そんな風には聞いてないよ。荷物までまとめたのに、いい加減にしてよ」と頭にきてもよさそうなのに…。それは、「説明の仕方が悪かったのだと思いますが」という一言があったからだ。それだけでわたしを「まあいいじゃないか」と言う気持ちにさせたのである。いやあ、人間関係なんておもしろいよね。「ちゃんと言ったはずなのに、こういう客がいるからかなわんぜ」。そんな顔をされると客は怒り出す。どんなことばを選ぶかが、その後を決める。ことばとは大事なものだ。(03/8/27-131)


運転手氏の一家言
 教育心理学会から帰ってきました。そのときのエピソード。会場に行くために大阪駅からタクシーに乗った。「国際会議場までお願いします。キュービック何とかと言うんですかね」。運転手さん、一瞬考えた後に「ああ、分かった。このごろは何でもかんでも『国際』とつけよって。それにわけの分からん英語みたいなん使うんだわな。わしらも困るでー」。うんうんおっしゃるとおりだ。もうそろそろ鹿鳴館主義を卒業したらと思う。「それで何かあるの」「ええ、教育心理学会です」。これにまた、運転手さんが反応。「なんや心理学とかごっつい名前つけてごちゃごちゃ言うて、何が分かるんや。人はそれぞれやで、どんなこと言われても人間は自分で考えたとおりにしますがな。このごろは子どもの犯罪なんかどんどんあるけど、そんなんなくすことできるんかい…」。いやはやごもっとも、ごもっとも。その会場に行くのだから、わたしが関係者であることはお分かりのはず。それでこの発言だから感動する。客に媚びへつらわない。やっぱし大阪はよかばい。「それに、このごろはとくに若い者が我慢できなくなってきたな。あれはぎょうさん車が増えたからやで。車に乗るとみんな我慢ならなくなる。若い女の子も『馬鹿野郎』なんて言いよるわ。それが、車降りると普通のお嬢さんになるんやなー。やっぱし、車は怖いで」。なるほど、なるほど。「偉そうなこと言うようやけど、わたしも早うから車を運転してた。若いころはいつもそんな気になってたわ。だから、よく分かるんですわ…」。そんな話を聞いているうちに会場に着いた。あの運転手さんを唸らせる発表があるかな…。(03/8/26-130)


ブルペン・エース
 ブルペン・エースということばがあるらしい。ブルペンとは球場に設けられたピッチャーの投球練習場である。エースというのは、いわゆるチームで一番の投手である。つまり準備するところでは抜群に力を発揮する。ところが本番になるとまるきし駄目になる。それがブルペン・エースというわけだ。こうしたことは野球の投手だけの話ではない。一般のわれわれでも、練習しているときはうまくいくのに、本番になると失敗してしまうことはしばしば体験する。それはなぜなのだろうか。ここで違うのは状況だけである。「成功しなければならない」「失敗してはいけない」。こうした圧力が心にかかってくる。それだけではない。野球などはいい例だが、自分のボールを打ち返すことだけを考えているバッターが向こう側からこちらを睨んでいる。「よーっしッ、打ったやるぞー。甘い球は見逃さないぞーっ」というわけだ。こんなとき「平常心」が大事だと言われる。そりゃあ、あまりにも当たり前のことだ。しかし状況は平常じゃないのである。まあ、無茶なこと言わんといてや。しかし、考えてみると打者だってチャンスになれば「打たねばならぬ」と緊張しているはずだ。バッティング練習なら何のこともなく打てるボールが見えなくなってしまう。まあ、こうなると誰もがうまくいく解決法などないんだろうと思う。せめて言えることは、日頃からこれでもかというほど練習しておくこと。準備しておくことだろう。そして、どちらかというと「うまくいくぞー。いってるぞー」という気持ちになるといい。まあそんなイメージを心に描くのである。そして、うまくいかなかったときの言い訳なんぞ考えないことにしよう。うまくいかなかったときは、「オー、ノー」と叫ぼうではないか。そして、「こんなこともあるさ」と居直ってはどうだろう。いやはや、今日の提案はあまり評価してもらえないかなー。だって、説得力ある解決策になってないもんね。それにしても人間はおもしろい。誰もが練習時と同じ力を発揮するのであれば、結果はすべてはじめから分かることになる。そのときの状態を見ればいいのだから。そうはいかないからこそ、どうなるかワクワクしながら一挙手一投足を見守る。そこにスポーツのおもしろみがある。人生だって似たようなものだ。(03/8/25-129)


壁に耳あり
 大阪にやって来るときの飛行機の中でのできごと。夏休みの終盤ということで満席だった。通路側に座っていたが、離陸から数分後には隣のお嬢さんがコックリコックリし始めた。その船のこぎ方がすごい。本を読んでいるわたしの横にグラッとくる。もちろん、危機一髪というところで元に戻る。このごろはうっかりしていると「痴漢!」だなんて言われかねない。そうかといって、「あなた危ないでしょ。船こぐのやめてよ」なんて言うわけにもいかないだろう。その向こう隣は同伴の男性のようだった。だからなおさら心配になる。「こら。お前、何してんか」などと誤解されても困るのである。いやー、とにもかくにも、ほとんど目的地に着くまでそれがつづいた。まあ、当方としては淡々と本を読んでいたけれど…。空港に着いてからバスに乗った。何と先ほどの二人が乗り込んできた。しかもご丁寧に同じ列にお座りだ。その前に年配の夫婦が座った。この二人とも楽しそうに話している。どうも四人家族の旅行だったようだ。何分にも近くなので話し声が聞こえてくる。「いやー、よく寝てたな。右に左に揺れまくりやったで」。兄とおぼしき人物が言う。「うん、はじめから終わりまでずっとやった。隣のおっちゃんが怖い人やったらでけんわ。なんか、優しそうな顔してたもんな…」。それって、わたしなのよ。いやーおおきに。優しそうなおっちゃんに見えたんやなー。それにしても、「壁に耳あり、障子に目あり」やで。話題のおっちゃんが隣に座ってるなんて気づいていないのだ。いやいや、こんなこともあるので、お話の内容には十分ご用心下され。えっ「壁に耳あり障子に目あり」って何のことだって?そうか、このごろでは障子もろくにないのか。まあ、お分かりでない方は辞書を引いて勉強してちょうだい。(03/8/24-128)



I Love 大阪
 学会で大阪にいる。大阪はおもろいところだ。わたしは大好きである。初めて来たのはいつだったろうか。もちろん20代であったことは間違いない。そのときは度肝を抜かれた。たまたま難波を通った。いわゆる「ミナミ」という所だろうか。商店街を歩いていると、昼間だというのにビールやお酒を飲んでわいわい話してるのだ。しかも、それが一つの店ではなく、右に左にけっこうある。今となっては、それほど驚かないが、「昼間っぱらから酒飲むなんて何ちゅう町やねん」と目を丸くした。それから御堂筋なるものを見た。いやー、これがまたすごい。御堂筋は高速道路のようだった。とにかく車がフルスピードで飛んでいく。その当時、御堂筋は一方通行じゃなかったと思う。右に左に走りゆく車を見て、これまた度肝を抜かれた。まだまだ都市高速などほとんどない時代だったが、御堂筋は立派にその役割を果たしていた。そして、もう一つ。赤信号で待ってたわたしの横を人がどんどん通り過ぎていく。「車が来んのに、何でぼんやり待ってんの。アホとちゃうか」。みんながこんな顔で見ているような感じがして、こちらが恥ずかしくなってしまった。「大阪の赤信号は『注意して進め』かいな」。とにもかくにも三度目に驚いたわけだ。しかし、まだまだ純情だった。わたしの記憶ではそれでも赤信号を渡れなかったと思う。それにしても大阪はおもろい町やで、ほんま…。(03/8/23-127)


日本崩壊近し?
 またまた、ある日の話ではなくて、今日の話。○時20分の特急に乗ろうと○本駅へ出かけた。自由席だったが10分前について余裕で並んだ。前から2番目だ。時計は20分をまわった。ところが電車は来ない。2分経った。まだ来ない。心で思う。「おいおい、日本の鉄道は世界一正確だったよな。まさか、それがいい加減になったわけじゃないよね。だとすると、もう日本崩壊の前兆じゃないかい」。世界のみなさん笑ってはいけません。日本は鉄道が1分でも遅れたら気にしていいくらいのすごい国なんです。ところがところが、それからも電車は来ない。一番に問題なのは情報がないことだ。その上、信じられないことが起こる。25分になったら、その次の40分発の電車の案内が流れた。一定時間にセットされてるのかもしれないが、なんということだ。前の電車が来てないのに、次の電車の案内なんて…。そしてようやく30分になて流れましたよ。「博多方面の沿線で火災があり、△号は20分ほど遅れます」だって。遅いよ、遅いよ。火事なら仕方ないがな。早く言ってくれればみんな我慢して待つのに、何で今頃なのよ…。そして「その次の□号は大幅に遅れる見通しです」。そう言ったすぐ後の35分頃に、またぞろ次の電車の案内が流れる。「やめろーっ。たった今、大幅に遅れると言ったじゃないか」。そりゃあ、自動的に流れるのかもしれないけれど、なんとかしなきゃあ。そこがサービスなんだよね。それに、「目的方向の博多で火事があってどうして上りが遅れるのよ」。そう思っていたら、電車は博多から来て折り返し運転だった。それも実際に電車が来て分かったことだ。「お客様には大変ご迷惑をおかけします。博多方面の沿線で火事が発生しました。そのため電車が遅れております。お待ちの△号は博多からの電車が折り返しで運転します。ただいまその到着が20分ほど遅れております。まことに申し訳ございませんが、いましばらくお待ち下さい…」。この情報を○時10頃に伝えていれば、ほとんどの客は納得したに違いない。朝の天気予報によると○本地方は36度だったのです。そんなことを考えていたら、ホームの向こうから歩いて来られたその列車の車掌さんが、にっこりして「ご迷惑おかけしまーす」。何と少し前に小学校であったPTAの会合でごいっしょした方だった。いやー、そうなると文句も言いにくくなったしまう。しかし、ここはきちんと書かせていただこう。むしろJRのサービス向上に貢献したとほめていただきたい。だって、あのJRさんがいい加減になったら、もう日本崩壊が本物だと思ってしまうのよ。そのくらい評価してるんだから…。駅名や具体的な時間は、いつものようにぼかさせていただきました(?)。(03/8/22-126)


バス停通過
 またまた、ある日のこと。高速バス「○○号」は△△インターを通過し、下り入り口当たりで停車した。「降りる方がいましたね」と運転手。そう、下車する客がいたのである。しかし、まずはそのまま発車。□□を通過し◇◇でインターを出る。そこで、黒い背広の若者が黙って降りようとする。あの降車予定の客だった。なんとも日本人はおとなしい。「どうしてくれるのよ。あそこで降りるんだったのに…」。このくらいの文句は言いそうなのに、黙って予定外のバス停で降りようとするのである。これに対して運転手は「さっきのバス停に戻ります」と答えた。全体には「済みません。停車しなかったので折り返します」。私の気持ちから言うと、軽く詫びただけだった。あまり大きくない声で。もっとはっきりと客に向かって事情を説明し、謝罪すべきだったと思う。最終的には高速を戻ったために生じたロスタイムは18分だった。案外と早かったのでちょっとばかりホッとした。客の一部は寝ていたので、この「事件」に気づいていない者もいたと思う。ともあれ、△△で1名、□□でリュックのおばあちゃん1名、◇◇で青いシャツの若い女性が1名、◎◎で白髪男性と女性が各1名降りた。残った人を見回すと、わたしの他は、前方に男性2名と女性が5名の計7名。後ろに女性4名と男性6名が座っていた。やはり興味深くて終着駅まで乗り越した。しかし、だれ一人として文句は言わなかった。すべての客が降りたあと、運転手から聞いた話。まずは運転席の停車ランプがついていなかったという。しかし、それは車内アナウンスで「次は△△」とのメッセージを流していなかったからであって、ランプの責任にしてはいけない。もう一つ、最近まで△△は乗車もできたが、今では乗車しないことになった。乗車可なら必ず止まるはずだったという。ついついうっかりしたらしい。おそらく考えごとをしていたのだろう。こんなところからミスが起きるのである。ところで、あの運転手さん、会社にはミスったことを伝えていないだろうな。それにしても日本人はおとなしい…。(03/8/21-125)

対人感受性
 「まだ終わりそうにないな」「いつまでやってんの」「あーくどい…」。そこにいる全員がうんざりしている。それが手に取るように分かる。しかし、この状況はまだしばらく続く気配だ。もっとも、ご本人だけは陶酔した顔をして、ご機嫌そのもの…。ある日のパーティの一幕である。人々の気持ちなど、まるで分かっていない…。結婚披露宴での乾杯のご発声。「僭越ながらご指名でございますので、皆さまご唱和を…。ちょっとその前に…」。それからはじまる長編物語。もうビールが蒸発しそうだ。そしてようやく終わったときの一言が泣かせる。「はなはな簡単ではございますが…」。いい加減にしろーっ。ビールをかけちゃうぞーっ。こうした光景、それほど珍しいことでもない。そんな場で「ご挨拶」する人は気をつけましょう。みんなの表情が読みとれない、相手の気持ちが分からない…。とにもかくにも、「対人感受性」が低いのである。そんな人が世の中には少なくないように思う。リーダーシップは他者に望ましい影響を与えることである。それを実現するには、その場で求められる行動を的確に把握し、行動に移さなければならない。そうした「必要な行動」に気づくのが、「対人感受性」の力である。「そんなことは分かってる。しかし、うんざりしようと退屈だろうと、大事な話はしなきゃならん…」。やれやれ参ってしまう。大事な話なら、退屈させないように工夫してほしいものだ。もっとも、それを一番に気をつけないといけないのは私かもしれない…。(03/8/20-124)


セミの一生
 冷夏とやらで、いつの間にか蝉の声もどこかへ行ってしまった。子どものころ聞いた話。蝉は地中で何年も過ごし、蝉になってからは1週間かそこらであっという間に死んでしまう。何と可哀想な虫だことよ…。実際には蝉の生態はよく分かっていないようだ。しかし、アブラゼミは卵の期間が約300日で幼虫期間が5年という。つまりは6年かけてようやく大人になるというわけだ。また北アメリカには幼虫期が13から17年にもなる蝉がいるらしい。そして多くの蝉が、成虫になってからは、2〜3週間の命である。蝉と並んで取り上げられるのがカゲロウである。カゲロウ目の成虫の口は退化して食物がとれない。そのため寿命は短く数日で死んでしまう。食べ物が食べられないのだから短命なのは当然である。カゲロウの名 Ephemeroptera は「ただ1日の命」という意味のギリシア語から来ているんだそうな(「蝉」「カゲロウ」とも平凡社世界百科事典による)。それだから、「可哀想な」生き物になるのである。しかし、それとて蝉やカゲロウから言わせれば、よけいなお節介かもしれない。地中での長い生活がどうして苦痛だと分かるのか。そりゃー、人間が地中に埋められていたらたまったもんじゃないけれど…。とにもかくにも、人間が自分たちの価値観だけを基準に「可哀想」だの「うらやましい」だのと言っているだけなのである。「口がない」なんて聞くと、なおさらひどそうに考えてしまう。この世に神はいないのかと、カゲロウのために天に文句も言ってみたくなる。しかし、それはそれで自然の摂理なのではないか。われわれは自分の物差し常識で他のものを見る癖がある。蝉やカゲロウだけでなく、他人のことについても…。(03/8/19-123)


昔のまま
 夏休みも取らずバタバタしていたが、さすがに週末は墓参りに出かけた。義父のお墓に出かけた際のこと。いつも墓守をして頂いているお宅にご挨拶に行った。玄関の戸を開けて「こんにちは」と呼びかける。しかし、家の中からは何の反応もない。生憎と留守のようだ。そこで義母は家に上がって行った。ご仏壇にお参りをするのである。こうした状況が起きること自身、なんとすばらしのだろう。人がいないのに玄関は開いている。まずは、これが今の日本では信じがたい。そんな迂闊なことをしてはおれないのが現実だ。その上に、訪問者の方も勝手に上がって用件をすませる。タイミングが悪ければ住居侵入を疑われかねない。そんな世知辛い世の中だ。子どもたちは一様に驚いたようだが、われわれが子どものころは当たり前の光景だった。そう言えば義母に関してこんなこともあった。何度電話しても母が電話に出ない。父を亡くしてひとり暮らしの身だから心配になった。そこで、家内が思うついたのがタクシー会社に電話することだった。もう40年も住み慣れた町だ。タクシー会社といっても2社くらいしかない。その一つに電話すると、義母のこともよく知っていた。そこで事情を話して家まで行ってくれるよう依頼する。まさに二つ返事で引き受けてもらった。運転手さんが玄関を叩いたら母が出てきたそうだ。「あー、娘さんが電話に出らんちゅうて心配しとるよ。すぐ電話してやんなさい」。それだけ言って、料金も取らずに帰っていったという。ただそれだけの話ではある。しかも今ではサービス競争で都市部のタクシー会社もこうした依頼を引き受けてくれるとは聞いている。しかし、それにしても昔からのお付き合いという感じで、お金も取らずに帰る。あー、何というすばらしい関わり。もういまでは単なる無い物ねだりなんだろうか。「ちょっといい話」ではなく、「相当にいい話」だと思いませんか。この件では、後日タクシー会社にはそれなりのお礼はしましたので、念のため…。(03/8/18-122)


訂正とお詫び
 テレビなどを見ていると、ときどき不適切な発言や誤った事実を伝えることがある。人間は完璧ではないから、そうしたこともあり得るだろう。そこで、アナウンサーやキャスターがこれに対応する。そのとき「訂正してお詫びします」と「お詫びして訂正します」のどちらが正しいのだろうかと思うことがある。「訂正してお詫びします」は、まずは間違いに気づいたので「訂正」する。それから「お詫び」もする。この場合は、「間違ったこと」と、その結果として「訂正せざるを得なかったこと」の双方を謝罪しているような感じがする。これが「お詫びして訂正する」となると、まずは「間違ったこと」をお詫びする。その上で訂正するのだから、訂正に対する謝罪の気持は薄くなるのかしらね…。まあ、どうでもいいようなものだけれど、こうしたことまで考えると日本語もなかなかおもしろい。この程度のことならたいしたこともない。しかし、法律や契約などになってくると、このあたりが問題になったりする。しかも、ことばの係り具合などを悪用するものさへ出てくるから油断がならない。やはり日頃から日本語を楽しみながらも考える習慣を持ちたいものだ。ほんの数日前も、ワイドショーで老人の万引きを特集していた。あるコメンテーターが「事情があって(万引きも)致し方ないのかもしれないけど…」といったニュアンスの発言をした。こともあろうに「致し方ないとは何ということを…」と驚いた。すぐに、キャスターが「しかし、万引きは犯罪です」と引き取った。直接的な訂正や謝罪ではなかったが、それに近い感じがした。コメンテーターはことばが勝負である。もう少しことばの持つ意味合に気をつけてくれなくっちゃ。言いたい放題と勘違いされては困るのである。(03/8/17-121)


あー勘違い
 日本語はなかなかおもしろい。勘違いも多いような気がする。あるレポートを読んでいたら「対処療法」と書いてあった。エラーやミスについて言及しているものだったので、ちょっと笑った。これは「対症療法」のはず。それぞれの症状に対応して行う療法ということだ。だから、その症状以外には効果がない。また根元的な解決にはならないという意味合いがある。よくある誤りに「的を得る」もある。弓の「的」は矢を射て当てる。だから「的を射る」のであって「得る」ではない。的を手に入れてもしょうがない訳である。なかなかおもしろい。「時期尚早」もおもしろい。何かを行うには早すぎると言うこと。「尚(なお)早い」ということだからよく分かる。ところが、ときおり「そうしょう」と聞くことがある。言っている人の気持ちは分かるからどうでもいいのだけれど、まあここは「尚早」である。ついでに、これを書くために広辞苑電子版(セイコー電子工業)をチェックして驚いた。「じきしょうそう」で見ると「時期尚早」だった。ところが、「尚早」で引くと、例示は「時季−」となっていた。同じ辞書で違う漢字表現というのもどうしたものか。あとは、「侃々諤々(かんかんがくがく)」「喧々囂々(けんけんごうごう)」。前者は「遠慮なく論議すること」で、後者は「たくさんの人が口々に騒ぎ立てること」という(両者とも同広辞苑)。ほとんど違う意識もなく両者を使っていることが多くはないか。しかも「かんかん・ごうごう」「けんけん・がくがく」なんても言っていないか。あー、日本語はおもしろい。不思議の泉だ。(03/8/16-120)


テレビが欲しい
 私が子どものころ、もっとも欲しかったのはテレビだった。まずは庶民の手に入る代物ではなかった。1956年(昭和31年)の日本セメントの大卒初任給が11,800円であった。その同じ年の雑誌「キング」新年号に「家庭電化読本」という付録がついている。それによると、14インチのテレビが109,000円、17インチで168,000円である。もちろん白黒だ。今の大卒初任給は10倍以上にはなっているだろう。すると、テレビが150万程度になるだろうか。しかも、今と違って冷蔵庫はおろか洗濯機も扇風機すらない時代である。テレビなんて買いたくても買えない品物の代表だった。だから、テレビがある友人の家には日参した。はじめは友達と見ているのだが、そのうちにお父さんも帰ってくる。さらに夕食が始まる。それでも見たい番組があれば、そのまま居座ることもあった。家族がご飯を食べている側で、膝小僧を抱えた子どもがテレビを見ている。こんな光景が全国のあちこちで見られたはずである。そのためか、朝日の天声人語には、そんな状態に困り果てた人の投書が載っている。「テレビなんて買うんじゃなかった」というのである。さもありなん。テレビを見ているよその子に「帰れ」なんて言えば鬼とののしられる。あー、プライバシーも何もあったものじゃない。そんな時代であった。とにかくテレビが欲しかった。しかも、当時はせいぜい2〜3局程度しか映らなかった。私は小学校の高学年時は佐賀県の伊万里に住んでいた。当時の伊万里では佐賀県の放送局は見ることができなかった。天にも届くばかりの高いアンテナを立てて、佐世保の放送を受信していたのである。NHK長崎とNBC長崎放送の2局だけだったと思う。しかし、それにしても佐賀から長崎県の放送を見るのだ。いま絶好調の「ハナワくん」ではないけれど、当時の佐賀にはテレビ局がなかった!!もちろん誤解しないでくださいね。こういう私も佐賀は大好きなんですから、念のため…。こうした中で、子どもだけでなく大人だって欲しくてたまらなかったのがテレビだった。しかし、同時にどう考えても買えない、買ってもらえないことも分かっていた。「いつかは家にもテレビが…」。そんな夢をもって大人は働き、子どもたちはその実現を待ち続けていた。(03/8/15-119)



プロの車間距離
 先日、高速道路で12台もの車が絡んだ追突事故が起きた。不幸にしてバスの運転手さんが2人亡くなられた。ご冥福をお祈りする。しかし、同時に「なぜ、どうして」という気持がわき起こってくる。事故は乗用車がスリップして、追い越し車線にはみ出したことがきっかけのようだ。だから、最初の後続車は避けきれなかったのだろう。当然のことながら、車は急ブレーキをかけたが、その後ろのトラックや乗用車、バスが止まれず次々と衝突した。どうしてそんなことが起きるのか。理由は簡単である。車間距離を取っていないからだ。そのむかし自動車免許を取ったとき、時速100kmの時は100mの距離を取れと習った。これはある程度の余裕を持った数値なのだと思う。したがって、それだけの距離さえ取っていれば、少なくとも第1番目以外の事故は起きなかったはずだ。車間距離を取るのは車を前に動かすことができる人間ならだれでもできることだ。それがなぜできないのか。「どうせ大丈夫」「事故なんか起きっこない」。そんな非科学的な思い込みが事故のもとになる。自殺志願者でない限り、自分から「死ぬつもり」で運転している者などいるわけがない。しかし、それでいて、例えば今年6月末までの事故死者は1日平均19.3人である(警察庁)。このうち追突がどのくらいかは知らないが、とにかく当たり前のことをしていないために起きる事故はものすごい数になるだろう。少なくとも「プロの運転手」が「仕事」でハンドルを握るときは、頑なまでの愚直さで基本を守って欲しい。私的に運転するときまでそうしろとは言わない。しかし、仕事には「リールを守る」ことも含まれていると自覚すべきである。ほとんど基本を守らないのに、事故を起こさず定年を迎える人もいるだろう。少なくとも数値的には圧倒的にそうした人の方が多いかもしれない。それにもかかわらずである。それにもかかわらず愚直さを通す。それがプロだと思う。その愚直さ加減を自慢すべきであって、ルール無視でも無事にすんだなんて自慢話しが幅をきかせるようでは、どのみち日本は危うくなる。(03/8/14-118)


すぐ忘れる
 今日は朝クシーを使った。その中で「味な話しの素」のネタが浮かんだ。「これはおもしろい」と思わずにやりとした。ところが、仕事場に着いたときには、それをすっかり忘れてしまっていた。メモにする必要も感じないほど「インパクトのあるネタ」だったのに…。思いついたことだけが「記憶」に残っているのである。「いやー、これこそ老化だな」とつくづく思う。その一方で、ずいぶん前のことは昨日のことのよう憶えてえている。たとえば、1964年10月10日である。この日は土曜日であったが、「真面目な」高校生の私が初めて授業をさぼった。その日は「東京オリンピック」の開会式。数年前まで10月10日が体育の日だったが、これは開会式を記念して設定されたのだった。ともあれ、私はその日に発売になる東京オリンピックの記念切手を買いたかったのである。首尾よく手に入れたら、すぐに「真面目」な吉田君が声をかけてきた。「おい、遅刻でもいいから授業には行けよ」。その内なる声に促されて学校へ向かった。おそらく15分くらいの遅刻だったと思う。その時の授業は英語で担当は吉永先生だった。「すみません。ちょっとうっかりしていて遅れました…」。このくらいの言い訳で許していただいたと思う。なにせ、日頃は「真面目な」吉田君だったから。もっとも、あまり「真面目」を繰り返すとだれも信じてくれないかな。ともあれ、こうした40年近い昔のことすら憶えているのに、ほんの数分前にタクシーで浮かんだアイディアをきれいさっぱり忘れている。でも、このことが大切なんだと思う。それまで記憶は何の問題もなかったのに、ある日から突然に物忘れがはじまる。そんなことになったら、生きていけなくなるだろう。少しずつ物忘れの経験が増えていく。その中で、「あー、年を取ったせいかなー」と自分に言い聞かせる。それが人生の終わりを迎える準備なのだろう。ちょっとお盆らしいお話になったかな。私自身はお盆も関係なしでお仕事場におりますけれどね。ともあれ、ありがたや、ありがたや…。(03/8/13-117)


社会的コストと教育
 とにかく教育の成果で犯罪が1件でもなくなれば、それだけ社会的コストは少なくなる。猟奇的な事件などが起きようものなら、もう大変だ。ワイドショーが走り、視聴者が興奮する。「イヤーひどいなー」「信じられないわ」。人ごとだから騒ぐだけですんでしまう。しかし、そんなに他人ごとではないのだ。その一つひとつの事件が起きるたびに、社会的なコストがかかり始めるのである。コストと言っても、自分の財布から直接にお金を払うわけではない。しかし、コストを購うのは税金である。事件がなければ、福祉をはじめ、もっと有効に活用されるはずのお金である。オーム事件の教祖の裁判でも、254回の公判を終えた時点で国選弁護人の費用が4億500万円だという(03/5/2 毎日新聞)。あの世田谷の事件も、まだ犯人は捕まっていない。あれは2001年12月のことだった。それ以来、多くの警察官が必死に捜査しているに違いない。しかし、ここでもまた大いなるコストが問題になる。そのなかの1件でもなくなれば…。いずれにしても、コストがかからないと言うことは、結果としては「金になる」ことなのである。人間は何といっても若いころの教育が大切だ。教育の力で犯罪をなくそうではないか。「いまの教育には、とても期待できない」。そんな嘆かわしいことを言わないでいただきたい。教育に期待しない国なんていずれ滅びるに決まってる。本当に期待できないと思うなら、期待に応えられるように「投資」してはどうか。これだけの経済発展を遂げたのも、要するに教育の成果である。反対運動も押し切って学校制度を確立した明治政府の決断が実を結んだのだ。とにかく「教育は金になる」んです。(03/8/12-116)


教育は金にならない?
 「教育は金にならない。だから文部科学省も予算の獲得が思うようにならないんだ。これに対して国土交通省や農水省などはすごいんだから…」。予算の実態はよく知らないけれど、こんなことを言う人がいる。実態から見るとそうなのかもしれない。「米百俵」の故事を引用した人もいたけれど、その後のフォローはあまり感じられないから…。それにしても「金にならない」とはどういう意味だろうか。学校は物をつくるところではない。したがって、物を売って商売することもない。だから、金が入ってこない。その意味ではたしかに「金にならない」。しかし、だれがそんなチマチマした物の見方をしているんだろう。学校は人を育てることを目的にしている。人が育たなければ社会組織そのものが動かないのだ。それどころか最近は犯罪も多発し国民の不安も高まっている。教育という行為を通して、犯罪の1件でもなくすことができればどうなるか。とくに、このごろは毎日のように殺人事件のニュースを聞く。事件で亡くなられた方の損害は計り知れない。また、その損害額などを考えるのも不謹慎である。しかし、とにかく事件が起これば、まずは膨大な人数の警察官が動員される。すぐに捕まればいいが、解決が長引けばそれだけコストは増加していく。幸い犯人が捕まったとしよう。今度は裁判費用が必要になってくる。もちろん、それと並行して拘置所の経費もかかってくる。死刑に関わることであれば最高裁まで行く可能性もある。そして、刑が確定すれば、今度は刑務所の維持費が問題になる…。とにかくすごい社会的コストがかかるのである。長くなりそうなので、明日に繋げよう。(03/8/11-115)


故障中の時計
 久しぶりに某月某日の話。JRに乗るために駅へ向かった。たとえば2時04分の列車に乗ることにしていると考えていただきたい。道路を挟んで駅の向かい側にきたときだ。ふと駅の時計を見て驚愕した。な、なんと15分になっているではないか。ぞっとして、自分の時計を見た。私の時計の方が間違ってるんじゃないか。そう思ったほどである。しかし気を取り直して駅の時計をよく見ると11時15分だった。時計は止まっていたのである。そこでまたまた私は動き出す。駅員さんに「いやー、冷えましたよ。時計を見て。乗り遅れたかと思っちゃった」と声をかけた。その答えはこうである。「横に故障って書いてあるでしょう」。けんもほろろというか、看板に気がつかない方がアホだと言わんばかり。あるいは、「またまた、けちつけおってから。よく見てものをいえよ」。そんな感じに取れたのである。どうして、「申し訳ございません。横に故障の看板を付けているのですが、お気づきになりませんでしたか」。どうしてこういう言い方ができないのだろうか。「それなら時計にカバーすべきだよね。そうしたらだれもびっくりしないだろうに」。これが私の反論だった。確かに戻ってみると時計の横に赤字で「故障中」という看板があった。気のせいか台風のせいか、その文字も薄れている。そこでもう一押し、同じことを言った。「時計にカバーすればいいのに」「それがあそこはわれわれでは届かないんですよ」。「そうかなー、その横に看板は置けたのにねー」。こんな皮肉も言いたくなる。その上、「時計屋さんが来ないんで」と今度は人のせいにする。「いったいいつからなの」の問いには「1週間ぐらい前」との答えが返ってきた。ここまで来ると、その真偽さへ疑ってくる。「もう2週間くらい経ってんじゃないの」。そんなことも言いたくなってくる。ドンドン信頼感が薄れてくるのである。お客はいろんな視点から見てんですよ。お気をつけ遊ばせ。それにしても、自分たちは看板もつけているのに、それに気づかないのは、客が悪い。こんな発想でいる限り、本当のサービスは期待できませんよ。客は時計の長針に目を注ぐのである。それから短針に目が移る。時刻を気にしている人の行動はそんなものである。駅の時計はそうした意味を持っているのだ。普通の時計とは違うのですよ。自分たちの規準だけでなく、他者の見方を大切にする。とくにお客様の視点に立つこと。その重要さをお忘れなく。(03/8/10-114)


肖像権
 昨日のこと、ニュースで台風の中を歩く人たちの様子を写していた。いつもよく見る光景である。強風の中、傘をさして歩いている人。風はあっても一時的に雨がやんだときなのか、にこやかに話しながら歩く人もいる。まあ、事実を伝えるニュースだから仕方ないのかもしれないが、こうした人たちの肖像権はどうなってるんだろうか。ニュースに写ったりすることを喜ぶ人も少なくない。しかし、それは本人も承知の上でのことが多い。その点では町中を歩いていて本人は気づかないままに写されるような場合はどうだろう。別に悪いことをしているわけではないから目くじら立てることもなかろうか。しかし、ひょっとしたら事情があって、遠くの町で生活している人がいるかもしれない。写真を撮られることが嫌いな人もいるだろう。繁華街の通り全体を写すような場合は人の顔も小さくて個人が特定されることもない。しかし、昨日のニュースなど見ていると大写しなのである。公道を歩いているからにはプライバシーも保証されないのだろうか。肖像権などは主張できないのだろうか。少なくとも私は、自分が知らないうちに歩いてるところなど写されるのはいやだな。もちろん、故あって熊本の地に住んでいるわけではないけれど…。そんな気持でいたら、今日は海外へ出かける人たちのニュースが目についた。成田のベンチで口をあんぐり開けて寝こけている人が写っていた。疲れ果てた様子だがとても見られたものではない。本人だって、そんな姿を撮られるなんていやだろうに。(03/8/9-113)


思いのままの天国?
 煉瓦造りの塀にサーチライトが照らされている。1人の男がその塀をよじ登っていく。どう見ても脱獄だ。もう少しでそれを乗り越えると思ったと瞬間に銃声が聞こえ、男は壁の下に落ちる。それからどのくらいの時間が経ったのだろうか。何と幸運なのだろう。男は目を覚ますのである。その後、彼の人生は一変する。すべてが自分の思い通りになるのである。競馬に競輪はもちろん、ギャンブルは何でも必ず大当たり。これと思った女性は逃さない。というよりも向こうから近づいてくる。飲みたい酒は飲み放題。お金も名声も独り占めである。しばらくの間は笑いが止まらなかった。そりゃー、そうに違いない。しかし、のこの順風満帆男にも悩みが生まれてくる。だって、何でもかんでも思い通りなのだ。ときには負けて悔しい気持にもなってみたい。思い起こせば、昔は失敗だらけだった…。いやー何と贅沢な悩みであることよ。しかし、そんな男の気持ちなどだれにも分からない。彼は徹底的に強運なのである。いくら失敗を願っても、やっぱりうまくいってしまうのだ。そのあまりのひどさに、ついに男は叫ぶのである。「もういい加減にしてくれーッ。もう天国は懲り懲りだ。どうせ悪いことして刑務所に行ってたんだ。いっそのこと地獄にやってくれーッ」。そこに神のような声が聞こえてくる。「お前は何を勘違いしているんだ。お前がいるそこが地獄なんだぞ…」。このストーリー、今から40年ほど前に見た「未知の世界」(?)というアメリカ製テレビ番組の内容である。まだ中学生だったと思う。それが伝えるメッセージの強烈だったこと。そのため、私は未だに忘れることができないでいる…。(03/8/8-112)


上弦の月、下弦の月
 ちょっと恥ずかしい思い出がある。「下弦の月」「上弦の月」を勉強したのはいつ頃のことだったろうか。わたしはこれをどう憶えていたか。もちろん受験のためにである。輝く月の部分が「下にある」ときは、「その反対」の「上弦の月」だ。だから、月の部分が「上側」にあるから、同じように「その反対」の「下弦の月」になる。つまりは、月が上にあるか下にあるかだけで、その反対で「上」「下」が分かると考えていた。それにしても、どうして下の月が上で、上が下なのか。そのあたりは、ずーっと疑問だった。もちろん、理由がお分かりの方には何の疑問もなかったはずだ。ぞのキーは言うまでもなく「弦」である。これはあの弓の弦を指しているのだ。だから月を弓に見立てれば、白い月が下にあるときこそ弦は上で張っている。弦が上にあれば「上弦」に決まってる。その逆だから「下弦の月」も当然のことになる。じつに分かりやすい呼び名なのである。そのことに気づいたのは大人になってからだった。しかも、かなりの大人になってから…。そのとき、私は「理屈をちゃんと教えてくれれば何の悩みもなかったのに」と昔の先生の顔を思い出しながら文句を言っていた。それこそ丸暗記、点数さえ取れば理屈は二の次といった時代である。これでは、本当の知識にはなるはずもない。物事の因果関係・関わり・理屈・歴史など、「なあるほど」と思わせ感動させる事実を伝えることだ。そうすれば、子どもならず、大人だってやる気を起こすに違いない。もっとも、「上弦・下弦の月」については、その話を先生がされたとき、私が居眠りしていなかったと断言はできないけれど…。(03/8/7-111)


相対性ということ
 アインシュタインが唱えた「相対性理論」はとても有名である。そのことだけなら知っている人が多い。もちろん具体的な内容など理解しようとも思わない。素人の理解を超えたもの、それがこの理論の特徴なんだろう。しかし、「時間が相対的」であることは誰もが知っている。それは日常的な体験だからだ。面白いことをしているときには時間が走り去るように経っていく。これとは反対に退屈な作業をさせられているときなどは、なかなか時間は進まない。「授業なんてその典型だ」などと言われると、それを仕事としている者としては、ぎょっとしてしまう。私は一つのことに集中できないところがある。だから本にしても、いつも5冊程度は並行して読んでいる。うちで読むものも、机で、トイレでと分けられる。仕事場でも2冊ほどはいつも手の届くところにおいてある。これに加えて、「信号待ち」用ものものある。文字通り運転中に信号に引っかかると読む本である。これが大変なのだ。大きな交差点でも、あっという間に時間がきてしまうのである。黄色信号で突っ込めないとそれから赤になる。次に青になるまでの長いこと長いこと。多くの人がそんな気分になっていると思う。ところが、本を常備していると「いやになるほど」短いからおもしろい。ここでも、「時間の相対性」が見えるのである。そのむかし、私が大学生のころだ。いっこうにおもしろくない授業があった。そのときは、先生が言っていることを英語に翻訳していた。なーんて書くと、私の語学力を誤解する人が出てくるかもしれない。ご心配いりません。翻訳と言っても、でたらめに英語の単語を探しながら繋げていただけのことである。それでも、「おもしろっくもないなー」なんて考えている時よりも時間は走っていった。若い時代の思い出である。気持次第で、時間は長くも短くもなるということだ。しかし、いくら長生きしたいからといって、おもしろくもない退屈な時間を過ごすのでは、人生の意味がない。楽しくワクワクしながらあっという間の時間を深く楽しみたいものだ。生活の充実感は「長さ×深さ」で表される。どんなに長くても薄っぺらに過ごしていては、短かいが深さのある生活から生まれる充実感は味わえない。(03/8/6-110)


ネギ族
 とにかくネギの好きな一族がいた。みそ汁はもちろん、納豆はネギだらけ。ソーメンやざるそばだって、つゆにネギがドカッと使えなければブーイング。このごろ中年を過ぎたその一族の主には、ちょっとした悩みがある。空き始めた歯にネギがはさまるからである。ちゃんと歯を磨いておかないと、緑の歯なんてしゃれにもならない。大いに気をつけなければならない。ところで、最近はネギをいれたどんぶりを置いているうどん屋も少なくなった。しかし、そうした店に行けば、ネギ族はそのどんぶり1杯分のネギを当然のように使う。いやーそれですむほうが珍しいだろう。店主が、怪しい客だと目をつけて、どんぶりを追加しなければ仕方がない。その辺は気の小さいネギ族である。「すみません。ネギの追加を…」なんて声を出して請求するのには抵抗を感じる性分なのである。もちろん店員が気づいて付け足してくれれば死ぬほど嬉しがる。こうして、ネギの海にうどんが浮かんでいる状況が出来上がる。ネギ族に言わせると、これがとにかくうまいらしいのである。ただし、ここでネギ族のためにはっきりさせておかねばならない。ネギをうどんに好きなだけかけるのはいい。しかし、食べ終わった後を見ると、どんぶりには汁とともにネギがわんさと浮かんでいる。これでは単に遊んだだけではないか。ネギ族はこんなことをする連中を許さない。それは邪道である。そう憤るのもよく分かる。ネギ族が食った後にはうどんが残っていることがあってもネギはどこにも見えないのである。まさにネギ族の面目躍如といった感がある。じつは、そのネギ族の正体はわが家のメンバーから構成されている。とにかくネギはおいしい…んですよ。(03/8/5-109)


ほめちぎり大作戦
 対人関係の研修やトレーニングでは、グループ・ワークを導入する。多くの場合、その成果について発表することが多い。そこまでは一般的な流れである。そうした発表に、お互いの成果をほめる試みを導入した。題して「ほめちぎり大作戦」である。対人関係トレーニングは、わたしのライフワークのつもりであり、いつも何か新しいものを入れようと考える。学生相手のトレーニングを行っていたとき、ちょっとばかり時間に余裕ができた。そこで思いついたのが、この「大作戦」のアイディアだった。もうかなり前のことだが、これが、なかなかおもしろいのである。自分たちの分析結果をうまく表現しアピールすることには一生懸命になる。そのエネルギーを「他人が行った」成果にも当てはめるのである。自分たちの分析を十分に行っていればいるほど、「ほめちぎり」も質の高いものになる。自他の違いについても、また共通点についても見えているからである。自分たちを正しく評価するためにも、他者についてもキチンと評価する。この作業が大いに大切なのである。もちろん、本音で言うと「ほめようがないもの」もある。しかし、そんなときでも文字の美しさや発表時の明るさなどを取り上げて「ほめちぎる」のだ。考えてみれば、人はだれでもどこかにいい点を持っている。それを見つけてちゃんと評価する、ほめてあげる。これが対人関係をスムーズにする重要なポイントである。この発想は、数年前に附属中学校の研究でも生かしてもらったことがある。そのときも、生徒たちの間に、なかなかいい雰囲気が生まれたような気がした。(03/8/4-108)


夢と想像力
 このごろは大抵のものが手に入る。我慢しなくてよくなった。だから耐えるという経験も少なくなった。そこで、我慢しなければならない事態が起きるとすぐに爆発する。これは大人も子どもも同じことだろう。教師の不祥事なども頭の痛い問題だ。これだって、「我慢ならなくなって」とんでもないことをしてしまう…。耐えること、我慢することでがきないのは、「夢」の喪失とも関わりがあるような気がする。すべてがすぐに思うようにはならなければ、「いつかは実現しよう」という気持になる。そのときに必要なのが「夢」を持つことだ。「夢」があれば、それが現実のものになるまでは、ちょっとしたことなど我慢する。だから、夢を持っていれば一時的な不満にも耐えられるというわけだ。そして、もう一つ大事なのが「想像力」だろう。自分のことをしっかりと意識し、その行動がどのような結果になるかを想像できる力が欲しい。「こんなことしたら、とんでもないことになる」「相手を傷つける」「自分が困る…」。そんな思いがあれば、それが歯止めになるだろう。お互い、「夢」を持ち、「想像力」を育みましょう。ところで「想像力」に欠かせないのは「創造力」である。目の前にないことを「想像」するのは、まさに「創造」そのものではないか。そして、思いをつくる「想造」も、それまでになかったようなイメージを心の中につくる「創像」もおもしろい。ここまでくるとことばの遊びではあるが、ことばで遊ぶことができるのは人間だけである。「小人閑居して不善を為す」。まあ、暇なときはことばででも遊んでいれば、不善までには至らないだろう。少なくとも罪はない。(03/8/3-107)


冷静なインタビュー
 先月の27日、プロ野球のダイエー対オリックス戦はすごかった。得点は26対7の19点もの差。ダイエーのヒットは32本、オリックスだって13本という大乱戦だった。ダイエーの打席は55である。9人で割ると1人当たり6回にもなる。ダイエーはホームチームだから9回裏の攻撃はなかった。これらの記録が8回の攻撃分なのだ。とにかくすごい。ついついBSを終わりまで見る羽目になった。気分散漫なところがあるわたしにとって、野球中継を最後まで見るのは珍しいのである。とにもかくにもみんなが打ちまくりだった。一体だれがヒーローといっていいか分からない。そんな中で、7打数6安打の城島がインタビューの対象に選ばれた。ホームランも2本、いずれも3ラン、打点は7というのだから順当な選択だった。その城島の対応がすばらしかった。こんなとき、インタビュアーはとにかく景気のいい話を引き出したがる。しかし、城島はそれに乗らず冷静そのものだった。「打者は1打席1打席を大切に考えています。ですから、ベンチで『いけいけどんどん』なんてことはありませんでした…」「ヒットだって、何試合も打てないことがあります。打てるときにはキチンと打っておきたいですね。もっとも1試合で6安打はできすぎですがね…」。じつに淡々としていて立派だった。ほんのこの前まで別府大附属の高校生という気がしていた。ところが、彼もすでに9年目だそうな。それにしてもすばらしい対応だったと思う。自分たちの状況を冷静に分析し、誘いに乗って踏み外しの発言をしない。その態度には見習うべきものがあった。ところで、8月に入った昨日のこと、ダイエーはまたオリックスを相手にど派手な試合をしたようだ。今度は29対1だって…。昨日はだれがインタビューに答えたのだろうか。(03/8/2-106)


暗幕の反射反応
 講演ではOHPを多用する。わたしがスイッチを入れる操作をしただけで、主催者の方が暗幕やカーテンを閉めに走る。それはほとんど反射的である。、とてもおもしろいと思う。むかし映画やスライドを見るときは暗くする必要があった。映画やスライドは16ミリや36ミリ程度のフイルムを使う。これを大画面に映写するにはレンズを使いながら、かなりの距離をとらねばならない。光の明るさは距離の二乗に反比例する。スクリーンまでの距離が2倍になれば1/4、4倍になれば1/16というわけである。だから周囲を真っ暗にしなければ映像は見えないのだ。それに比べるとOHPはフィルムが大きい。トランスペアレンシー(TP)などと呼んでいるが、要するに透明フィルムである。これがとにかくやたらと大きいのである。A4版であれば、およそ21cm×30cmもある。その面積は36×24ミリと比べれば70倍以上にもなる。その結果としてスクリーンとの距離も近くなる。だから、映画やスライドとは比較にならないほど画面は明るいのである。「周りが明るくても映せます。暗くなくても見えますよ」。これがOHPのセールスポイントなのだ。ところが、はじめに言ったように多くの人が反射的に会場を暗くしようとする。わたしはその度に、ほほえましく思い出すのである。映画やスライドを見て楽しんだ、あの子ども時代を…。そして、3回に1回くらいはこの話をする。若い方が動いたときには、「ひょっとしたら、わたしと同じ世代ではないですか」などと付け加える。ちょっとばかり会場に笑いが起きて、話がしやすくなる。(03/8/1-105)