その他の号

味な話の素
No.2 2003年6月号 (44-73)
 

部活のすばらしさ
 異年齢集団の大切さを考えると、学校における部活の重要性がクローズアップされる。部活は教育の一環として行われるもので、われわれの子ども時代にもあった。その意味では、わたし流の「わざわざ運動」には当たらない。そこでは異なる年齢の子どもたちが、一つの目標のもとに集まっている。指導する教師と共に目標に向かって努力する姿は、見ていて気持ちがいい。時間があれば運動場や体育館にぶらりと出かける。すると、みんなが大声で「こんにちはーっ」と挨拶してくれる。とても楽しい時間だ。さて、先週の土曜日から中体連がはじまった。生憎と激しい雨になったが、わたしはサッカーの試合を応援に行った。附中の生徒たちは、ずぶ濡れになりながら全力で闘った。結果としては、PKで1点を取られ、勝つことができなかった。最後まで気を抜かずにゴールを目指したが、時間が来てしまったのである。勝敗が決した瞬間、子どもたちが涙を見せた。わたしは、その光景を見て、心から感動していた。あの元気で明るい21世紀の子どもたちが泣いている。1人の母親が言った。「子どもが泣くのをはじめてみました…」。とくに3年生にとっては「これでおしまい」という気持もわき上がってくるのだろう。彼らが後輩たちに言っている。「これからは、おまえたちが頑張ってくれ」と…。まさに、異年齢集団だけに生まれる先輩・後輩の関わりである。彼らは、この体験と気持を宝物にしながら成長していくことだろう。ともあれ、異年齢の子どもたちがふれあうチャンスをもっともっと増やしていければと思う。その際、目標を共有していることがとくに大切だ。もちろん、部活はスポーツ系のものだけではない。いわゆる文化系の場合も、異年齢間のはたらきかけ合いによって、子どもたちが成長していくことに変わりはない。
 ところで、本日1年1組と2組で「授業」をする。いわゆる「押し売り授業キャラバン」の仕上げだ。これで、今年の卒業生を含めて4学年×4クラス=16回の授業になる。子どもたちの反応がよく、じつに気分よく授業をさせてもらっている。できるだけ早く第2ラウンドを回りたい。(03/6/30-73)


異質を大事にする
 閉じこもり社会は等質の人間から構成される。そのもっとも極端な例が家族である。家族はすべてが完結している。家族のメンバー同士は、お互いに等質そのものだから。また、携帯電話の普及も「閉じこもり化」を強めている。雑踏の中を歩きながら携帯で話をする。周りには大勢の人間がいるにも拘わらず、ご当人にとっては、存在しているのは電話の相手だけである。その意味では、周囲の多くの人間たちは、単なる歩行に邪魔な障害物に過ぎない。まさに異質なものたちの排除である。このごろは、子どもたちも似たような友人とだけ付き合うようになっていないか。学習塾に通うときも、やっぱり似たもの同士だろう。その点、昔は悪ガキどもは異年齢集団から構成されていた。上級生の親分がいて、下級生の子分がいる。そこには、それなりの仁義もあった。「仁義」なんて言うと身震いする人がいるかもしれない。そんな方には、「常識的な約束事」とでも考えていただければいい。もちろん、以前も喧嘩やいじめはあった。しかし、やり過ぎるときには、「おい、いい加減にしとけ」と親分が止めたものだ。今では、こうした異年齢の付き合いの機会が極端に少なくなったと思う。そもそも人間の顔や体型、資質が1人1人違うのも、人類が種として生き延びるためのノウハウなんだそうな。大きければいいというものでもない。それなら恐竜だって絶滅することもなかったはずだ。もちろん、小さいものが消えて無くなるものでもない。そうだとすれば、ゴキブリが今でもわれわれを悩ませることもないだろう。どんな過酷な条件があっても、異質であれば誰かが生きていける。それが異質性の異質性たる所以だったのだ。やっぱり異質性を大事にする社会を取り戻さねばならないのではないか。(03/6/29-72)


閉じこもり社会
 先月3日(No26)で「相互依存のパラドックス」について書いた。朝から晩まで、そして眠っているときでさえ人のお世話になっているのに、それに気づかない。「自分は自分の力だけ生きている」と勘違いしている。だから、何でもかんでも自分の力で解決できると思いこむ。その上、プライバシーは大事にしたい。そうした結果、われわれは家庭に閉じこもりがちになる。他人からの干渉を徹底的に排除しようとする。ところで、わたしが子どものころは、だれにも見つからないような場所に「基地」を造ったものだ。そこは、1人が潜り込んだだけでも身動きできないような狭いところが多かった。それでも、だれにも気づかれないこと自身が楽しくワクワクしたものだ。草や木で入り口を隠すのである。そして、人が通り過ぎる気配を感じながら「クックッ」と笑いを抑えたこともある。精神分析のフロイトではないが、まるで「子宮」に戻ったような気持だったかもしれない。そこにいて奇妙な安心感があったことを憶えている。それはそれで、子どもの成長に必要な体験かもしれない。しかし、そうした「基地ごっこ」が社会全体に広がってはまずいのではないか。マイカーが常識だから、家族で移動するときも、プライベート空間はそのままである。わいわい騒いでも、お互い家族だから怒られもしない。しかし、そのモードがそのまま公共空間に持ち込まれてしまうから悲惨だ。バスや電車の中でも大騒ぎ。車内はまるで運動会といった様相を呈する。それでも、子どもは放りっぱなしという状況もめずらしくない。まさに、「閉じこもり、基地ごっこ社会」のために「社会性」が喪失しているのである。またまた、思い出してしまう。人とのふれあいを「わざわざ」体験する運動が必要なことを。(03/6/28-71)


NK細胞物語
 NK細胞について初めて聞いたのは、附属中学校で「メンタルヘルス」の時間に参加したときだった。昨年のことである。Natural Killer の頭文字をとってNK細胞と呼ぶ。「自然の殺し屋」なんて訳すと、おだやかではない。しかし、じつはこの細胞、われわれにとって欠かせない助っ人なのだそうな。いわゆるガンなど、人間に敵対するものを食いつぶしてくれる細胞だという。それなら、どんどん増殖して欲しいと思う。しかし、世の中、そんなに都合よくは行かない。それでは、どうしたらNK細胞を増やすことができるか。その回答は、「笑う」ことなのだという。そのメカニズムまで解明されているのかどうかは知らない。しかし、とにかく笑えばいいのだそうな。それも吉本興業がらみで実験が行われたと聞くと、それこそ笑ってしまう。そう言えば、「笑う門には福来たる」という。それに、住民全員がどれだけ笑えるかを競う、町か村のニュースもときおり見たりする。いずれにしても、昔の人は凄いなと感心してしまう。21世紀になってようやく分かった生理的な事実を、わたしたちの祖先は、ずっと前から気づいていたのである。「そんなこと言っても、俺は根暗だっ」と文句を言いたい人もいるだろう。いえいえご心配はいらないのです。心底から笑えなくっても、顔だけで笑っていてもいいんだって。それなら、だれでも、すぐにできるではないか。笑う顔をするだけでいいのだから…。笑顔の筋肉というのがあって、それと心が対応しているのだろう。おかしいときには筋肉が反応する。そして、笑う筋肉が先に動くと、笑う心のメカニズムが反応しはじめる。きっとこんな関係があるに違いない。もちろん、心から笑える人の方がNK細胞の増殖率はいいんだろう。ともあれ、、根暗のみなさんも、とにかく「わっ」と笑ってみませんか…。(03/6/27-70)


衣食足り過ぎて礼節を…
 人間は生きねばならぬ。そのために、まず求めるのは食べること、飲むことだ。睡眠だって欠かせない。それらが充足されていないと、存在そのものが危機に瀕する。だから、まずは「生理的欲求」を満たすことに、すべてのエネルギーが費やされる。それらが、ある程度まで充足されると、つぎは「安全と安定」を求める。さらに、そのあとには「所属と愛情への欲求」がつづく。そして、その上に「自尊欲求」があり、最高位には「自己実現欲求」がくる。これがマズロー(1908-70)の「欲求五段階説」である。したがって、人は飯が食えないと、犯罪すら犯すこともある。あの、姉の子どもたちのためにパンを盗んだジャン・バルジャンのように…。その正しさは「衣食足りて礼節を知る」という成句として東洋でも認められている。この場合「食」だけでなく「衣」も加わる。つまりは、生活が豊かになることで、はじめて礼儀をわきまえ、節度ある行動をとるというわけだ。やはり豊かさは「善」なのだ。そうは思いながらも、「衣食が足りた」はずの、このごろの様子をみるとどうだろう。「礼節」ということばなんて、もはや「死語」化しているのではないか。その理由は分かるような気がする。それは「衣食が足り過ぎて」いるのである。腹一杯に食えるは、好きな服も着られるはの大満足なのだ。というよりも、もう欲しいものすら見つからないこの時代。だから、購買意欲が落ちて景気が回復しないと言われるほどだ。こんな状況の中では、道徳も礼節もなくったって生きていけるわい…。かくして、いまや「衣食足り過ぎて礼節を忘る」の悲惨な時代と相成ったわけだ。「礼節」どころか「思いやり」も「優しさ」も、およそ人間らしい気持がことごとく忘れ去られてしまった。もちろん、人のことばかり責めてはいけない。わたし自身がその健忘症に陥っているのではないか。大いに反省…。(03/6/26-69)


21世紀の井戸端会議
 「浮世風呂」や「浮世床」の話から思い出したものがある。それは「井戸端会議」だ。「井戸」そのものが、若い人には死語になってしまったかもしれない。各家庭に水道がなかった時代に、共同の施設として「井戸」が掘られた。その井戸を中心に主婦たちが水汲みや洗濯のために集まってくる。そして、井戸の周りで会話の花を咲かせる。洗濯をしながら、真実あり、いい加減なうわさ話ありの時間を楽しんだのである。あるいは、冬の冷たい水に耐えながら洗濯をするとき、井戸端会議は、その辛さを忘れる助けになったかもしれない…。わたしは小学校の前半を福岡県の行橋市で過ごした。当時はなかなかの住宅難だった。おそらく母が引いたのだと思うが、抽選で新築の市営住宅が当たった。その住宅には2軒に1つの割合で井戸があった。そのあたりに、近所のおばさんたちが集まっていた記憶がある。いまでは、のんびりした時代の懐かしい思い出だ。ところで、そんな井戸もいつの間にかなくなってしまった。そこで、主婦たちはどこに行ったのか。その一つが学校の授業参観ではないかと思う。教室の廊下に集まったお母さん方は、授業などそっちののけで、現代版「井戸端会議」をはじめるのである。いや正確には「教室端会議」というべきか。耳をそばだてるまでもなく聞こえてくるのは、授業とは関係のない話だ。これで、子どもたちに「先生のお話はちゃんと聞きなさい」なんて言っても、迫力はありゃしない。先生方だって、保護者が来られるというので、いつもより張り切って授業の準備もしているというのに…。こんな姿を見ていると、「お母さんたちは授業には関心がないのか」と思ってしまう。そして、「きっと授業後の懇談会にこそ出たいのに違いない」と確信するのである。ところが、実際にはその時間になると、みなさん忍者のごとく消えてしまう。とくに新学期スタート時はすごい。まさに蜘蛛の子を散らす勢いだ。なにせ、そんなところにぼんやりと残っていたら役員なんてさせられる…。この恐怖感はものすごいらしく、あっという間に人が見えなくなるのである。ちょっと皮肉がきつくなったかもしれない。いずれにしても、もっともっと学校に関心を持って欲しい。できる限りでいいから、役割も担って欲しい。わたしとしては、そんな気持になるのである。
 ここでは、「お母さん方」と書いたが、もちろん授業参観には男性の保護者も来られる。ただし、その数は圧倒的に、圧倒的に少ない。なお、授業参観の模様は、いまわたしが関わっている学校のことではございませーんので、念のため…。(03/6/25-68)


わざわざ運動(とうとう終わり)
 銭湯でおじさんがボールの話をしてから、どのくらい経ったころだろうか。やっぱりいつものお風呂に悪ガキどもが入っていたときのこと。あのおじさんが風呂場に入ってきたのである。われわれを見つけると、破顔一笑。「おーい。やっと会ったな。あのとき約束してた硬球を、ずっと前から持って来てたんだぞ」。そうだったのだ。あの怖ーいおじさんが、わたしたちのためにボールを持って来ていたのだ。たしかに、いまから考えれば、それは皮も破れた使いふるしの硬球だった。それでも、珍しそうにのぞき込む子どもたちに、おじさんは思いがけないことを言うのである。「欲しいか。欲しいならやるぞ」。結果は言うまでもない。夢のような心地で、硬球をもらった。そのときの気持ちを十分に覚えているわけではない。しかし、とにかく「人は見かけじゃない。怖そうなおじさんだって、子どもには優しい人もいるんだ…」。そんな感動に浸ったに違いない。まさに、銭湯での人間教育である。銭湯だけでも、次から次へとこうした体験の連続だった。江戸時代に式亭三馬は「浮世風呂」という滑稽本を書いた。庶民の集まる銭湯での人々の会話が生き生きと描かれているらしい。そこは社交場であり、また教育の場であった。同じことは、「浮世床」である「床屋さん」でも起こっていた。そうした、場がそこここにあったのである…。そこで、わたしはしみじみ思う。昔は、放っておいても、世間の人について、たくさんのことを学ぶことができた。それに対して、いまはどうだろうか。お互いに関わることを面倒だといって避ける。付き合うにしても自分と波長が合う人とだけ…。だから、やっぱり必要なのだ。「対人関係」についても「わざわざ運動」が。それにしても、「わざわざ運動」がつづきすぎた。もうここいらでおしまいにしよう。読んでくださったみなさんに感謝。(03/6/24-67)


わざわざ運動(さすがに終わりに近い)
 まだ銭湯の話がつづいている。「あなた、お父さんの方に行きなさい」との宣告を受けて、男の子は晴れてひとり前になった。そこで勇んで、親父と同じ男湯へと向かうことになる。そして、そこでは、まためくるめくような新しい世界が広がるのである。まずは、とにかく、いろんなおじさんがいる。堂々と胸を張って風呂場を歩き回る人。背を丸めながら、とにかく隠すべきものを必死で隠す人。太ったおじさんもいれば、痩せたおじいさんもいる。真っ黒に日焼けした人も青白い人もいる。そうそう、遠山の金さんがビビれて逃げ出しそうな、体中にすっごい絵を描いたおじさんもいた。とにかく、風呂場は裸の付き合いの場所だ。まさに、世の中の縮図であった。そして、大きな浴槽の中と周囲で、さまざまなコミュニケーションが飛び交うのである。それを子どもたちはじっと観察していた。ときには固唾を呑みながら…。強い人とそうでない人との関わり合い。こどばの丁寧な人もいれば、乱暴な人もいた。いつの日だっただろうか。子どもたちがわいわいと騒いでいたときだった。あの金さんがビビれるおじさんが入ってきたのである。その途端にわれわれは口を閉じて静まりかえった。そんな子どもたちに、おじさんが声をかける。「おい、おまえたち。野球は好きか」「はいっ」「そうか、それで野球で使ってる本物のボールを見たことがあるか」「いえっ。ありません」。この時点で、子どもたちは相当に緊張していた。そんなわれわれに、「よーし、そんならおじさんが持ってきろう」。そのとき、おじさんは意外に優しい顔をして言ったのである。しかし、わたしたちが、そのことばをそれほど信じていた記憶はない…。(03/6/23-66)


わざわざ運動(もうちょっとつづく)
 ところで、「お風呂屋さん」は単なるふれあいの場だけではなかった。いまから考えると、いわゆる性教育だって意図しないうちに行われていたと言っていい。そのころは、男女を問わず、小さな子どもは、なぜか母親が連れて入るのだった。わたしもそうした習わし通り、銭湯には母と行った。そして、男の子たちは、さまざまな女性が入っている銭湯で、見るべきものはぬかりなく見ていたのである。おばあちゃんになると、おっぱいがどうなるこうなるということも知っていた。もちろん、母親が病気にでもなれば父親が子供を連れて風呂へ行く。当然のことながら、女の子を連れて行くこともある。そんなときは、女の子たちもしっかり男どもの観察をしていたに違いない。そして、いつのころか、男の子は母親から宣告されるときがやってくる。「道雄!あなた明日からお父さんの方へ行きなさいっ!」。そのときの母の目がどんなだったか記憶にない。とにもかくにも、母はわたしを男風呂へ行かせた方がいいと判断したのである。何を根拠にそう思ったか。いまでは、それを確かめる手だてはないけれど…。あー懐かしやあの子どものころ。男風呂と女風呂を、キャッキャ言いながら出入りしていたあのころ…。こんな思い出に浸りながら、わたしは確信するのだ。あのころの銭湯は、確かに性教育の役割を担っていたことを。(03/6/22-65)


わざわざ運動(それでもつづく)
 世の中に「ありがとう」「おかげさまで」「助かりました」が飛び交っていたころは、対人関係づくりの場は、そこここに満ちあふれていた。たとえば銭湯はどうだろうか。すでに若い人々には、「銭湯」ということばそのものが理解できなくなっているかもしれない。一方では、ギャルに人気の温泉地もあって、阿蘇の黒川温泉など、その筆頭である。一泊でもすればけっこうなお値段だ。それでも満室というから、すごいもんだ。銭湯とはそんなものではない。むしろ「お風呂屋さん」といった方が、その雰囲気がにじみ出る。早い話が、大多数の日本人が自分の家など持たなかった時代である。当然のことながら、借家住まいになるのだが、そこに風呂などついているわけもなかった。まれに風呂付きの家があれば、驚きものだった。いわば「内湯」である。そして、近所の人にも一声かかることがあった。「家のお風呂に入りに来られませんか」。お風呂へのお誘いである。これを「もらい湯」という。もちろんお隣から「お湯」を頂戴するのではない。お風呂に入れさせてもらうのである。いまでも泊まりがけで遊びに行けば、友人宅でお風呂に入ることはある。しかし、この時代は、それが近所づきあいの中で日常的に起きていたのである。とにかく自前でお風呂を持っている家がほとんどなかった。それだけのことである。こうした環境だから、一般人は「銭湯」へ出かけることになる。ウイークデーは夕方以降になるが、日曜日などは、お昼から出かける人もいる。明るいうちからさっぱりとして、湯を楽しむ。こんな情景は、いまの温泉の雰囲気と似ていたかもしれない。この銭湯が人間関係づくりの場として大いな役割を果たしていたのである。「わざわざふれあい」など考えなくても…(03/6/21-64)


わざわざ運動(まだまだつづく)
 これまでの復習をしよう。昔は栄養も悪い上に車など便利な交通手段もなかった。だから、特別に意識しないうちに運動をしていたのだ。ところが、飽食にマイカー通勤と、楽々生活の時代がやってきた。その結果、栄養過多になるは運動は不足するはで、やれ肥満だの成人病だのと大騒ぎ。そうした問題を解決するために、「わざわざ運動」の大合唱となった…。そんな状況の中で、今度は人と人とのお付き合いに目を転じてみる。その昔、経済的に豊かでなかったころは、物が足りなくなるなんて日常茶飯事だった。そこで頼りになるのはご近所のみなさんというわけだ。もちろん、それもお互いさまのこと。お隣が困ったときは、今度はわが家が助っ人になる。だから、そのころは、いつもどこでも「ありがとう」の声が飛び交っていた。「おかげさまで」だって、日常用語だった。ところが、ところがこのごろはどうだろう。高度経済成長を達成し、懐は大いに豊かになった。それにつれて、人のお世話になる可能性がグーンと減ってきた。買いだめしておけば、物が足りなくなることもない。お金がなくったって、カードがあるじゃんか…。だから、わたしの母のように、味噌がなくなって絶叫することもないのである。さすがに、コンビニに走り、カードで味噌を買う人もいないだろうけれど…。こうして、「ありがとう」も「おかげさま」と言い出す必要もチャンスもなくなった。そこでわたしは考える。これは身体の運動不足と同じことではないか。対人関係も、それを鍛える場が不足している。そこで対人関係にも「わざわざ運動」が必要なのだ…。ようやく、このシリーズでわたしが訴えたいところまでやってきた。しかし、それにしても「わざわざ運動」と言い始めて、すでに5回目である。もうそろそろ終わってもいいんじゃないの?いやー、とんでもない。くどいようですが、この話、「まだまだつづく」のです。(03/6/20-63)


わざわざ運動(まだつづく)
 これは、わたしが少年時代の思い出。父の給料日は16日だったが、数日前になると母が台所で絶叫することがあった。「ワーッ、味噌がないっ!」「醤油が足りないーっ!」「お米がーっ…」。お若い人たちは言うかもしれない。「そんなもん、ちゃんと買っておけばいいのに…」。いやいや勘違いはしないでね。わたしの母がぼんやりさんで、味噌や醤油を買い忘れていたわけではない。日本人全体が、それほど裕福ではなかったのである。わたしの父は公務員だった。だから、少なくとも生活に困るような給与ではなかったと思う。それでも、母が主婦として毎日のやり繰りに苦労していたのだ。だから、少しばかり足りないものがあっても、「何とか給料日までは」と頑張ったに違いない。それでは、絶叫した母はどうしたか。あっという間に隣に駆け込み、「すみませーん。ちょっとお味噌を貸してちょうだーいっ!」。こんな調子で、当座の危機を乗り越えるのであった。もちろん、その逆の場合もある。隣のおばさんだって余裕なんてありゃしない。こうして、「いつもニコニコ助け合い」のご近所づきあいが展開されていたのだ。そして、めでたく給料日。はれて味噌や醤油を買い込むことになる。そして、お隣のおばさんにもお返しをしなければならない。その際には、しゃもじの一へら分くらいは利子を付けて返したかもしれない。「ありがとう。とても助かった!」という感謝の気持ちを込めて…。こうして、その昔、みんなが裕福でなかった。そして、いつもモノが足りなかった。それだからこそ、「助け合い」が日常茶飯事だった。「お互いさま」が当たり前だったのである。そこには、いつも「感謝」の気持がついてきた。(03/6/19-62)


わざわざ運動(さらにつづく)
 栄養も不十分で、マイカーなんて,そんな気の利いたことばもない。そんな時代は、毎日がウォーキングで成り立っていたのである。だから、あえて運動などする必要もなかった。ところが、そのうち食べることに悩みがなくなり始め、しまいには「飽食の時代」と呼ばれる状況にまで至ってしまう。グルメなんて聞いたこともないようなことばが日常用語になる。そして、テレビはどのチャンネルを見ても、国内外の「食べ歩き」番組で大にぎわい…。その結果は、「食べ過ぎ」「肥満」「生活習慣病」ときて、「運動不足」が問題とされる。そこで、「国民総運動」の大合唱と相成るのである。しかも、運動するにも理論が必要なようだ。歩くのだって、ぼんやり歩いていてはいけないらしい。効率よく脂肪を燃やす「正しい歩き方」があるんだそうな。もちろんジョギングも同じ理屈である。なにせ、アメリカのクリントン大統領など、海外へ行っても気軽にジョギング。まさに庶民的な人柄を彷彿とさせるのだ。それは、計算されたPRかもしれないけれど…。一緒に走るSPもお役目とはいえ、ご苦労さまさまである。まあ、いずれにしても、結果として、われわれは健康を保つために「わざわざ運動」をしなければならなくなったのである…。ここで、ようやく「わざわざ運動」物語の本題に入るところまできた。じつは、これからが本当にお話ししたかったことなのである。しかし、すでに本日は予定の分量を書いてしまった。また明日お会いしましょう。台風6号はどうかな。(03/6/18-61)


わざわざ運動物語(つづき)
 戦後まもなくは食糧難の時代であった。国民の頭は、その日の食料を得ることで占められていた。しばらくして状況が落ち着いても、十分な栄養が得られたわけではない。しかも、多くの人々の通勤手段は徒歩や自転車であった。東京などの都会では公共交通機関も活躍したのだろう。しかし、とにかく自分の車を持っている庶民など皆無であった。自転車にしても、「新車」はめずらしかったはずだ。少なくとも、わたしの父は長い間「中古車」で通した。この父、いわゆる、「女房泣かせ」であった。母は、そこそこの収入で、何とか毎日をやりくりしていた。そんな中で、父は突然ビックリするような買い物をするのである。その代表は「新品の外国製空気入れ」だろう。なにせ、使っているのは中古のおんぼろ自転車だ。これにピカピカの空気入れである。それは、ミスマッチそのものだった。その「暴挙」に驚き嘆く母に、父はばつが悪そうに、ぼそりと言った。「これは自動車のタイヤにも空気を入れられるんだぞ」。どこのだれが車を持っているというのか…。ともあれ、こんな時代だから、日本人はみんなやせこけていた。まずは栄養を十分に摂っていないのである。その上、通勤や通学、そして買い物には、それなりの運動が必要だった。こどもたちも、裏山や畑や田んぼで、走り回って遊んでいた。そういえば、公園なんてものも、身近にあった記憶はない。(03/6/17-60)


わざわざ運動
 狭い部屋でリモコンをせっせと使う日本人。ほんの何歩か動くのさえ厭うのである。その一方では、運動不足解消などといいながら、ジョギングやウォーキングに励む…。せっかく運動している方々からは怒られるだろうが、まあ「わざわざ」運動してるわけだ。なかでも、エアロビなんて、すごいなと思う。一般的に「見る方」と「見られる方」はどちらが恥ずかしいか。まあ、どう考えても「見られる立場」にちがいない。しかし、わたしに言わせれば、この世の中に一つだけ例外がある。それがエアロビだ。レオタードなんていう体にピッチリの水着のようなものを着て、足を上げたり、飛び回ったり…。しかも、外からお見通しのガラスの部屋で…。やっぱし、「見る方が恥ずかしい」。「そんなら見るな」と言われるかしら。もっとも、エアロビクスとは、その名前から想像できるように空気と関係あるらしい。いわゆる有酸素運動で脂肪を燃やすなど、ちゃんとした理論に基づいているのだろう。そんな理屈はあるにしても、わたしに言わせればとにかく「「わざわざ」なのだ。だって、その昔は意識的に運動などしなくったって、日常の生活がすべて運動に満ちあふれていた…。この「わざわざ運動」の話は、かなり長くつづくことになっている。そこで、本日はここでおしまい。ところで、レオタードは19世紀のフランス人軽業師の名前に由来しているんだそうな。(03/6/16-59)


狭い部屋のせっかち人生
 もう7年も前のことになる。オーストラリアで半年ほど生活した。住まいは、先方の大学に探してもらった。それなりの1軒屋で、広いリビングにはテレビが置かれていた。いわゆる"fully furnished"ということで家具付きだったのである。そのテレビ、外見はそれほど古くはなかったが、日本では懐かしい丸いスイッチを回してチャンネルを切り替える方式だった。あの、「カチン、カチン」と回転させるやつである。若い人には説明しても分かってもらえない代物だ。そのテレビを、数メートル離れたソファーにゆったり腰をかけて見る。他の番組を見たくなれば、やおらテレビまで行って、チャンネルを変える。こうして、元「テレビっ子」で、今でもバリバリの現役「テレビおじさん」は、オーストラリアの番組を楽しんだのであった…。そして、半年の滞在期間を終えて、熊本へ帰ってきた。自宅のドアを開けた途端、玄関の先に「リビング」が見えた。しかし、その先には、すぐに壁が立ちふさがっていた。それほど、わが自宅が狭く見えたのである。そして、わが家のテレビの上にはリモコンが鎮座ましましていた。なんという滑稽なことよ。ちょっと手を伸ばせばチャンネルは変えられる。そんな狭い部屋でリモコンを使ってる日本人…。たとえ数歩ではあるが、テレビに近づいて行って操作するオーストラリア人…。その奇妙な対比に、「プッ」と吹き出してしまった。なんとも、せっかちな日本人であることよ。とにもかくにも、「効率優先」。これが、われわれの走ってきた道だった。「そろそろ考え直してもいいんじゃない?」。つくづくそう思ったものだ。しかし、わたしなんぞは、日本人の中でも典型的な「せっかち」。買い物でも食事でも、人が2人以上も並んでいたら、もう他を探す。だから、海外かぶれの新鮮な感慨も、いつの間にやらどこかに吹っ飛んでいった。いま気づくと、またぞろ、目の前のテレビをリモコンで操作している自分がいる。ときどき、どれがどのリモコンか分からなくなりながら…。もう、彼の地もリモコンだらけになってるのだろうか…。(03/6/15-58)


ものは言い様
 ホルモン:内分泌腺など特定の組織または器官から分泌され、体液と共に体内を循環し、特定の組織にきわめて微量で一定の変化を与える物質の総称…(広辞苑)。「このごろ体がきつい。やっぱしホルモン不足なんだ。今夜あたりはホルモン料理でも食べにいこう…」。それがいい。きっと疲労回復のホルモンが体内にわき出てくるに違いない。広辞苑には「ホルモン焼き」も載っている。「豚の臓物を小さく切って串焼きにしたもの」なんだそうな。「なるほど、とくに豚の臓物がホルモン分泌に効果ありなんだ」。ますます赤提灯が恋しくなる。まあ、われわれの「ホルモン」のイメージはこんなところか。しかし、「ホルモン料理」命名のいきさつを聞くと、思わず吹き出してしまう。じつは、あの敗戦間もないころのこと。どこを見ても、まともな食い物がなかった時代だ。そんなとき、関西に知恵者(?)がいた。そのおっちゃん、肉のうちでも捨てるしかなかった内臓なんぞを、食い物にすることを思いついた。関西では、「捨てる」ことを「ほる」という。これは、「放る」が訛ったものだろうが、いずれにしても「いらんもん」である。それを食い物にしたというのだ。いやはや、そのたくましさには感動を覚えてしまう。「不景気」「リストラ」「デフレ」…。まさに沈滞ムードの中で、気持だけでも明るくいこうじゃないか。「捨てるもん」だって「ホルモン」と聞けば元気になってくる。ことばで自分をごまかしても仕方ないが、笑える話は、やっぱり楽しい。(03/6/14-57)

聞いてみるとおもしろい
 この二日ほどは夜になって、「味な話の素」を書いた。今日はまた朝に戻っている。もう少しで5時というところ。やはり朝の方が落ち着く。夜はどうも眠気がして遠くを見ながらキーボードを叩くようになってしまう。ところで、少しばかり反省していることがある。それは、ここで書いている文章量がいつの間にか増えてしまったことだ。「無理をせずぼちぼち」という気持で、最初に目標としたのは、「7、8行〜10行程度」であった。実際に表示される場合は、コンピュータによって変わってくるようだが、わたしの原稿では、ここまでで、すでに5行目が終わってしまった。「創刊号」を見ていただくとお分かりになるが、4月末のスタート時のものが、目安にした長さであった。自分は好きで書いているから何ということもない。しかし、せっかく読んでいただく方には、長すぎると気持がそがれるだろう。ここで、初心に返って分量を調整しようと思う。そんなことで、「聞いてみるとおもしろい」という話を書こうと思ったが、もう9行目にもなってしまったので、本日は反省のみにしておこう。
 とまあ、これでやめると「なんじゃこりゃ」と叱られそうなので、やはり1つだけ。昨日ちょっとした理由があって個人タクシーに電話をすることがあった。個人タクシーにも、いくつかの組合がある。そう言えば、車の上に載っているシンボルに違ったものがある。「手を広げたハト」のように見えるもの。はっきり「提灯にちがいない」と思えるものもある。もう一つ「二つの手を組んだ」ような円形のような形もある。最後のマークについて、ある人が「カタツムリ」と言うのを聞いた。「なるほど、そうだったのか。それにしてもタクシーでカタツムリね。ゆっくり、でも安全にかな」。こんなことを思いながら、別件で協会に電話したのである。ものはついで、用件を終えたあとにマークについて聞いてみた。先方の女性によると、これは「車輪」のマークなんだそうな。「えっ、あれって車輪?」と思ってしまった。お忙しそうな雰囲気だったので、それ以上に詳しいことは聞かなかった。「うーん、車輪なのかあ…」。聞いてみるとおもしろい?ここで、もう9行、合計18行になっちゃった。(03/6/13-56)

広用紙物語のつづき
 じつは、「模造紙」の由来は広辞苑に載っている。「わが国の局紙を、オーストリアで亜硫酸パルプを使って『模造』したもの」とある。ここで局紙とは印刷「局」の紙を意味するのだそうな。昔の大蔵省印刷局の紙ということだから、その代表は紙幣である。「三椏(みつまた)を主原料として漉いた優良紙。厚手でつやがあり、淡黄褐色、質は堅牢」と、広辞苑は説明する。「なるほど、本来はわが国が誇るべき和紙を『模造』したから『模造紙』か」と感心するのはまだ早い。オーストラリアの紙が何で日本にあるのか。広辞苑は、さらにつづける。「…模造したものをさらにわが国で模して造った用紙」とくる。そして、「なめらかでつやがあり強靱。雑誌の表紙・事務用品・各種包装紙などに使用」とまとめている。ということは、和紙に「模造」を二乗したものが、わが国の「模造紙」だったのだ。「模造品の模造品」なのだ。いやー、かなり賢くなりました。それにしても、この解説を読むと、あの「広い」用紙のことを「模造紙」というのではなさそうだ。いわゆる西洋紙こそ、「模造紙」なのではないか。あの幅広用紙はその原版の大きさのもだろうか。いわゆるA4やB5のもとになるA0とかB0といった原紙ではないか…。それならそれで納得するが、それにも拘わらず、原版だけを模造紙と呼ぶのはなぜだろうか。ひょっとしたら、われわれが「西洋紙」と思いこんでいる紙を、すべて「模造紙」と呼んでいる地方もあるのかしら…。ともあれ、紙一つとっても、いろいろあるもんだ。だから人生はおもしろい。
 そう言えば、紙にまつわる笑える思い出がある。その昔、「馬糞紙(ばふんし)」というすごい名前の紙もあった。あの馬の糞の紙というわけだ。たしかに、藁みたいなものが見え、色もあれそのものであった。それにしても、いくら似ているからといって「馬糞紙」とは、また思い切って言ったもんだ。まあ、ものがない時代。紙だって十分に手に入らなかった。そんな中での居直りだったのか、それとも、ひょっとしたら、最高のジョークだったのか…。本当のところは分からない。さすが広辞苑、「馬糞紙」も載っているが、そのあたりの歴史には触れていない。ただ、子供心に本物と紙の違いが二つあることは知っていた。それは、馬糞紙からは、決して「湯気(ゆげ)」が立たなかったこと。そして、あの「臭い」もしなかったことである…。(03/6/12-55)


広用紙物語
 「広用紙」と聞いて、それが何であるかがすぐにお分かりの方はどのくらいおられるか。それでは、「模造紙」は?わたしが熊本にやってきた20数年前のこと。先生たちが「広用紙」「広用紙」と言っている。いったい何のことだろうと思っていると、それはまさに広くて白い用紙だった。「なんだ、それって模造紙じゃないの…」。そうなのだ。少なくともわたしが「模造紙」と信じていたものを先生たちは「広用紙」と呼んでいるのだった。しかも、1人や2人ではなかった。ほとんどの先生たちが、そう言うのである。「広い紙だから広用紙か。それはそれで分かるけど、何とも当たり前の話、笑っちゃうぜ」。こんな気持でいたわたしだが、いつの間にか「広用紙」ということばの響きになれてしまった。今では、ほとんど違和感なしに「広用紙」と言っている。あるとき、関西出身の同僚が熊本に来た。わたしが「広用紙」と言ったときのこと。彼女は、あの20年以上も前のわたしと同じような顔をしたのである。「なんじゃ、そりゃ???」というわけだ。それが、「模造紙」であることを説明すると、驚くとともに、やっぱりに笑ってしまうのであった。その印象は心に残ったはずである。今でも、「熊本では、模造紙を広用紙というんやで」。こんな感じで、愉快そうに話をしているのである。これをご本人も読むはずだから、関西弁の雰囲気が伝わらないようだったら、もっといい表現法を教えてや。しかし、「『広いから広用紙じゃあ当たり前』なんて言ってるが、それじゃあ何で『模造紙』なんかい!」。熊本人からは、こんな反論が返ってきそうだ。しかし、その答えは意外に簡単に見つかるのである。それについては、明日の話題にとっておこう。
 だから、突然に話は変わる。本日、アクセスカウンタが2000件を超えた。ここまで来るのに本当に苦労した。自宅で毎日マウスをクリックしつづけた成果が現れたのだ。多いときは200回くらい自己増殖させた。あのときは人差し指が痙攣したっけな…。もちろん、これは「ジョーク」ですよ。実際は、みなさまのおかげで、けっこう早くこの数値に達することができたのだ。毎朝カウンターを見ると、また更新したくなってくるのである。今日はめずらしく、夜になってこれを書いている。(03/6/11-54)

けんもほろろ
 数年前のこと。公開講座「リーダーシップ・トレーニング」を受講した方からあるお勧めを受けた。「わたしは人吉に住んでいます。こうした講座に出るものけっこうな時間がかかります。同じようなものを熊本市以外でもできないものでしょうか。幸い、人吉には中小企業大学校というものがあります。こうしたところとジョイントされると助かりますが…」。とてもありがたいお話であった。そこで、さっそく中小企業大学校にお電話をかけた。「初めまして、わたしは熊本大学で『公開講座』を…」。その内容をお伝えしたのである。ところが、先方のお答えは、まさに「けんもほろろ」であった。その内容は、かなり刺激的なものだった。「いやー、お話のような組織や人材育成の件は、学園大学の先生方にお願いしてますから…」。熊本大学の人間としては、がっくりせざるを得なかった。そう言えば、当方には経済学部や経営学部はない。この分野では、学園大学の先生方がすごく業績を上げられていることを改めて知らされたのである。たしかに学園大は、PRというかアピールの方も着々と展開されている。その上、こちらの所属は教育学部である。部外の方から見れば、学校教育だけしか関わりがないと思い込んでおられるのだろう。組織は、学校だろうと企業だろうと、はたまた医療の世界であっても、人間から構成されているものだ。そこには共通点、普遍性がある。それを探るのが、われわれの仕事なのである。教育で活かせることは企業でも役立てることができる。また、その逆も真実なのである。しかし、何分にも、当方が引っ込み思案(?)で、控えめ人生(?)を送っているから、そんなことをご存じの方は皆無に近い…。しかし、しかし、これからはPR の時代である。組織の安全やリーダーシップを仕事にしている人間はここにもいますよーっ。(03/6/10-53)

鹿児島の戦略
 「戦略」と「戦術」。文字通り、戦争に関わることばである。戦略の方が全体の見通しを含めた大きな意味合いを持っているようだ。そうした戦略に基づいて、個々の戦術が採用される。「最終的に相手を負かすために、まずはどういう考え方で攻めるか」。これは戦略に当たるだろう。そして、「まずは、この場所を、こうした武器を使って、この部隊で攻撃しよう」。これが戦術なのだろう。正直なところ、わたしは両者の正確な区別は分からない。そのくらい平和な時代に生きていることを喜んでいいのかもしれない。もっとも、組織について勉強しているつもりだから、「よく知らない」などと居直ってはまずいのかとも思うけれど…。こんなことを考えたのには理由がある。いま、鹿児島から八代間に新幹線が建設されている。フル規格である。新幹線を引くことについては全国的なレベルで賛否両論がある。それについての議論はちょいと置いといて、なぜ「鹿児島−八代間」なのか。東京から大阪、岡山、そして博多へとつながってきた新幹線である。ごく自然に考えると、それなら次は「博多−熊本」そして、その後に鹿児島ということになる。ところが、そうはならなかった。それは「鹿児島」の大戦略なのである。熊本まで繋がると、「ここでちょっと一息」となる可能性がある。新幹線が博多まで来たのは1975年だった。あれからすでに四半世紀が経過している。熊本で一息つかれたのでは、鹿児島までの展望は開けなくなる。そこで、「まずは、鹿児島を起点にする」。これが大戦略として進められたのである。だから、その時点では、終点は水俣でも八代でもよかったのではないか。もちろん、できるだけ長い距離のほうがいいに決まっている。しかし、どこまでにするかは、経費などを踏まえて、説得できるところで妥協する。こうした細かい具体的なことは「戦術」に当たるのだろう。ともあれ、この動きを推し進めたのは鹿児島の人々であったはずだ。これこそ大いなる「戦略」ではないか。九州の南端、鹿児島のパワーのすごさには、敬服してしまう。さて、さて、「戦略」と「戦術」の考え方、これでいいのかしら…。(03/6/9-52 tokyo)

ステレオタイプ
 おとといの「新聞植字工」のつづき…。修学旅行で新聞社に行ったとき、最も印象的だったのは、輪転機にはめられた薄い金属でできたような原版だった。輪転機にくっついていたためか、そこいらに置いてあったものは、丸くたわんでいたような記憶がある。そのとき聞いた説明の記憶では、まず鉛の活字で原稿を組み上げる。それを、厚手の紙のようなものに押しつける。すると、活字が凸だから、凹型に文字の部分がへこんだ紙型が出来上がる。そのときは、文字は左右が逆転しているので、まともに読める状態である。その紙型に、さらに金属のようなものを流し込んでいく。すると、再び左右が反転した、しかも凸型の文字になった1枚の版になる。これを輪転機に巻き付ければ、あとはどんどん印刷されるというわけである。ここでおもしろいのは、もともとの活字は、紙版を作る最初の工程で使われるだけだということ。そのため、消耗は少ないから活字は何度も使える。しかも、最後の金属様のものは、新聞が刷り上がれば、お役ご免となる。「なるほど!」。このとき、わたしは間違いなく感動していたはずだ。その後、心理学を学ぶようになって、「ステレオタイプ(stereotype)」ということばに出会った。「型にはまったものの見方」といった意味で、「偏見」などとともに取り上げられる。こうしたニュアンスで初めて使ったのはジャーナリストのリップマン(Lippmann, W.)である。学生時代にstereotypeを英和辞書で引いてみた。そこに「鉛版」と書かれていたのを見て、「なあるほど。そうなのかーっ」と一瞬にして納得した。そのとき、わたしの頭の中には、あの小学校時代の思い出が、鮮烈に蘇っていたのである。まさに「型にはめられた」というイメージがぴったりだと思った。当時の日本人にとって「ステレオ」といえば音響機器しか思い浮かばなかったはずだ。だから、駆け出しのころは、授業で「ステレオタイプ」を取り上げるときには、必ず新聞社の話を入れた。懐かしい思いでの一つである。いまは、その"stereotype"そのものが、新聞社でも使われていないのだろう。(03/6/8-51)

オラーイ、オラーイ
 「オーイ、オーイ…」。今朝8時半ごろ品川のプリンスホテル前で、観光バスのガイドが大型バスを誘導していた。「オーライ」ではなく「オラーイ」と聞こえるのがおもしろい。このことば、英語の"all right"が語源のはずだ。「こちら、バックしても大丈夫ですよ」という呼びかけである。それを言っているご本人は、その語源を知ってるのだろうかと考えた。いつの間にか、「日本語」になって、もともとの意味は思いもよらない。ことばについては、そんなことがよくある。そういえば、「ドンマイ」も、もともとは" don't mind"、「気にするな」ということだ。たしかに、「ドンマイ」と聞こえる。「ドント・マインド」じゃないものね。あの「ミシン」だって、"sewing machine"である。「縫い物機械」のうち「マシーン」が「ミシン」に聞こえたのだ。「ワイシャツ」も"white shirt"から転じたと言うから、これまたおもしろい。「博多どんたく」も、オランダ語の「日曜日」""zondag"から来ているという。「半ドン」もしかりである。ただし、週休二日制の定着で、昼から休みの土曜日を意味する「半ドン」は死語になりつつある。ともあれ、ことばのもとを探るのは楽しい作業である。それにしても、どれをとっても、説明されないと分からないほど、日本語として定着している。まさに、ことばは生き物だと思う。生活に必要であれば、外国語からも影響を受けて、どんどん生まれてきた。それも正確な発音など、あまり気にせずにである。そして、それがまた変化していく…。ことばとはそんなものなのだろう。だから、このごろ、若い人の「ことばの乱れ」が気になるのは、単に年をとったせいかもしれない。しかし、それでもことばを大事にして欲しい。そんな気持も強いのだけれど…。(03/6/7-50)

失われる植字
 「植字」。字を植える。本当にそんな感じだった。それは、活字を原稿通りに一つ一つ選び出し、並べていく作業だ。まさに「活字」を「植える」ということばがぴったりの仕事であった。小学生のころ、佐賀県の伊万里から修学旅行で北九州に行った。小倉城では北九州博覧会が開催されていたことを思い出す。そして、見学コースに朝日新聞社が入っていた。そこで見たのが植字工程だった。あの膨大な記事のすべてが、一つ一つの文字選びから出来上がっている。それはそれは、子供心にも気が遠くなる作業だった。その仕事をする人は「植字工」と呼ばれていたが、まさに縁の下の力持ち、名人芸そのものであった。当時の活字は鉛を使っていた。そのために、植字工の人々は鉛中毒という職業病に悩まされているということも聞いた記憶がある。それにしても、新聞のすべてが、植字によって成り立っていたのだ。しかも、毎日の発行時間に間に合わせなければならない。その上、新聞は時々刻々と版が変わっていく。それに伴って、記事が差し替えられたり、内容が変更されたりする。それにも対応していたわけだから、名人芸と言うよりは神業だったのかもしれない。その仕事も、今ではなくなってしまった。そして「植字」や「植字工」ということばも死語として失われていく…。今ではだれもがキーボードをたたくだけで文章が出来上がる。まさに、ディスプレイ上のバーチャルな「植字」である。そのかわり、新聞でも、笑ってしまうような「変換ミス」を見つけることがある。こうしたワープロ特有のミスは、植字工時代にはありえなかった。もちろん、活字の選択ミスは当然あったわけだけれど…。ともあれ、いまやIT時代である。わたし自身が、こうして伝えたいことを十二分に書いて自己満足している。その意味では、すばらしい時代に活きているに違いない。しかし、昔の人々の仕事にも大いに敬意を払いたい。気の遠くなる仕事を淡々と進めていた、その心持ちを大切にしたい。(03/6/6-49)

活きる力を失う活字
 コンピュータは世界の歴史に大きな変化をもたらした。なかでも、ワープロの登場は衝撃的で、それによって活字が駆逐されつつある。あるいは、ほとんど駆逐されてしまった。あのグーテンベルクの活字印刷の大発明が、ここに来てその終焉を迎えたのである。その発明は、15世紀のことであり、少なくとも20世紀まで、それは人類に計り知れない影響を与えつづけてきた。ここでふと思う。どうして「活字」といのだろうか。これが、またなかなかおもしろい。それは、同じ一つの文字型を何度も使うことに由来しているらしい。今では「活字」といっても、本物を見たこともない子どもの方が多いだろう。昔は、街のそこここに小さな印刷屋さんがあったものだ。その中に、小さな金属製の活字がぎっしり詰まった棚が置いてあった。もちろん、どれも見える文字は印鑑やゴム印と同じように左右が逆になっていた。それを見るだけで、わたしはゾクソクした。鏡に映ったような文字が、紙の上ではまともな字になって現れる。そう考えると、活字はなにか魔法の力を持った道具のように思えたのだ。ともあれ、その一つ一つの文字を組み合わせて、文章を作っていく。そして印刷が終われば、またバラバラにして、もとの棚に戻される。しばらく休憩しているうちに、次の仕事がやってくる。すると、またその活字は別の文章の一部になって働くのである。文字通り、1個の「字」が何回も生き返ってお役に立つのであった。「活字」とは、何というすばらしい表現だろう。さすがに、何度も使われると隅っこが欠けてきたりしながら、くたびれてくる。最後は、一生の役目を終えてさようならということになる。鉛でできた活字にインクを付け、それを紙に押しつける。だから、心もち紙がくぼんでいるように見えた。それが、子供心に「本物の印刷」という思いを起こさせた。その点、現在のプリンタの印字はのっぺりと紙にくっついている。なんか、「活きて」いないんだよな。もちろん、時代の変化を受け入れているから、文句はないけれど。イヤー、立派に文句言ってるじゃないの…。(03/6/5-48)

 
どこも始まり、どこも終わり
 世界のうちで日本は新年を早く迎える方だ。元日の日の出を見ているとき、ニューヨークなんて、まだ前の日の夕方である。時差13時間なり。ホノルルに至っては18時間もの時差があり、まだ前年12月31日の昼ご飯どきになる。それほどわが国は日の出が早いのである。これより先に来るのは、ニュージーランドで、ウエリントンやオークランドは3時間+の時差がある。夏時間があれば、もう1時間ほどは先行するのだろう。さらに、オーストラリアのシドニーも1時間早い。しかし考えてみると日の出なんて、地球のどこかで「いつも」起きているはずである。なにせ太陽が見えはじめるときが「日の出」なのだから。それなら、日本より東にある国の方が、新しい日を迎えるのが早いはずだ。実際、ウエリントンやシドニーはそうなっている。それでは、もっと東にあるホノルルは、サンフランシスコは、ニューヨークは、ロンドンは、パリは…。そう言っているうちに、また自分の国にやってくる。こうなるとどこが始まりで、どこが終わりなのか分からなくなる。球形というのは、すばらしい物語を作ってくれる。ぐるぐる周りで、また元に戻るのである。そこで、「えい、やっ」と決められたのが、ロンドンのグリニッジを「始まり」にするということだった。まあ、その当時の大英帝国の力である。その日がいつ始まるのかも、世界のパワー関係で決まったのである。あとから生まれてきた人たちは、「ああ、そうなの」と決まったことを受け入れるしかない。まあ、どこも「うちが世の中の始まり」くらいに思っておけばいいか…。もっとも、それが唯我独尊、自己中心の独善に繋がっては困る。しかし、世の中はとかくに「相対的」だというくらいの認識は持っていてもいいだろう。昨日、北緯33度の隣人たちを考えていて、ふと思い浮かんだ物語である。(03/6/4-47)

北緯33度の隣人たち
 九州自動車道を福岡方面に向かう。玉名パーキングエリアの少し前に、ちょっと目を引く大きな看板がある。それを見ると、このあたりが「北緯33度」であることが分かる。その位置を示す文字の下に都市の名前が二つ書いてある。東に行くと「ダラス」、西は「バクダッド」である。もちろん、看板はあっという間に消え去っていく。しかし、こころにはある種の感慨がしばらく残ることになる。「そうか、あと何時間かすると、同じ所をバクダッド市民も通過するんだ。夜の星だって、同じような角度で見るんだろうな…」。そう思うと、急に親近感が湧いてくるから不思議だ。まるでお隣さんである。そして、「ダラス」の人々についても…。テキサス州の「ダラス」は、われわれ世代の日本人には忘れることのできない都市である。1963年11月23日(日本時間)、遊説中の若きケネディ大統領が、この町で銃撃され命を失った。その衝撃は中学生だったわたしの記憶に鮮烈に残っている。まるで昨日のことのように…。そのダラスの人々も、やはり同じ夜空を見るにちがいない。「地球は丸いんだから、当たり前のこと。それがどうした」。そう言われれば、ただそれだけのこと。しかし、それでも、みんなが身近に感じられてくるではないか。そうだ、われわれは隣人なのだ。それにも拘わらず、相変わらず争いはつづく…。(03/6/3-46)


「わたしが」「わたしが」…
 全国チェーンのトンカツ屋さんで昼食をとっていたときのこと。3人の中年女性が支払いで揉めだした。「わたしが払う」「いーっや、わたしが払う…」。こうした光景はよく見るが、大体すぐに決着がつくものだ。ところが、このときはかなり激しく突っ張り合いがつづくのである。「そんなに払いたいのなら、こちらの分もよろしく」。こんなこと言って、わたしの伝票をおばさんたちに出したらおもしろいだろうな…。そんなことを頭の中で考えて笑ってしまった。最終的には、その中の一人が支払うことで合意したようだった。まあ、わが国ではごく普通に見かける情景だ。そのときの当事者たちは、どんな気持でいるのだろうか。少なくとも、「わたしが一番の金持ちだから、あなたたちにおごってあげたのよ…」。こんな物語でないことは確かだ。むしろ、「わたしは、みなさんのおかげで、ここにいるのです。ですから、そのお礼の気持ちも込めて、わたしに払わせてください」。そうなのだ。「払ってやる」のではなく「払わせてください」というニュアンスの方が強い。ここが日本人のおもしろい対人関係なのだ。いつも相手との関係では、自分を一段低い所に置いて関わりを持とうとする。そちらの方が、対で勝負するよりも無難なのだろう。互いに譲り合えば、まあどこかで妥協の道もある。ところが、それを互いが譲らないと突っ張り合いになってしまう。こうなると、どちらかが降りなければならないから、ちょっと格好悪い。少し前、タクシーの支払いで刃傷沙汰になったという記事が載っていた。「俺が払う」「いーやっ、ここは俺だ」と揉めたあげくに、一方が相手を刺したのだという。金額は900円程度だったというが、ここまでくると笑い事ではすませなくなる。(03/6/2-45)


まだまだ日本語の逆襲
 
5月の最終日の昨日は、「日本語自慢大会」をはじめたつもりだった。「大会」と言うからには、魚だけで終わるわけにはいかない。そんなことでは、President Bush に笑われてしまう。例えば水に恵まれたわが国では、「水」と「湯」を漢字で区別する。water と hot water ではないのだ。漢字は同じものを使うけれど、「白湯(さゆ)」ともいうし、「お冷や」といった表現もある。何といっても「湯水(ゆみず)のように使える」水や湯の豊富なお国柄である。「日本人は水と安全はタダだと思っている」。そんなことを言う人もいた。わたしなど、「水」はもちろん、「お茶」なんて、タダの代表だと思っていた。いまから思うと20年以上さかのぼるのだろうか。「お茶」が商品として自動販売機に並んだとき、どう考えても、そのボタンを押す気にはならなかった。体によかろうが悪かろうが、その横にあるジュースやコーラを選んだものだ。何せ、もともとタダのものを金を出して買うことはない…。それがいつの間にか、500mlのペットボトルを持っている自分がいる。水だって同じことだった。いや、お茶以上に対価を払って手に入れるものではなかった。それもこれも、今や昔の物語。ついでに安全だって、もう「神話」だと言われはじめて久しくなった…。いつの間にか、日本語自慢話のつもりが、思い出話になってしまった。この他にも、日本では「雨」の表現もすごく豊富だと聞いたことがある。米などの名前もたくさんあるんだそうな。そりゃー、そうだろう。しかし、そんなこと言い出したらきりがない。ことばは生活と共にあるものだから、当然なのだ。イヌイットは何十種類もの雪の名前を持っていると聞いたことがある。だから、ことばで「勝った、負けた」などといっても意味はない。相手が「知らない」「区別できない」といって笑っても仕方がないのだ。なるほど文化が違うんだと気づくことが大事なのである。また、相手の語彙の豊富さをうらやましがることもない。それが必要な生活を送っているのかと感心すればいい。ともあれ、この世には、「自分たちに見えるものが見えない人たち」「自分たちに見えないものが見える人たち」がいる。そのことに気づき、それを大切にすることだ。(03/6/1-44)