その他の号
味な話の素
創刊号 (03/4/29-5/31 1-43)
         

日本語の逆襲
 昨日までは、どうも日本語の旗色が悪かった。しかし、心配はいらない。President Bushもビックリの日本語自慢大会をしよう。その筆頭は「魚」だ。なにせ海に囲まれたわが国は魚の宝庫だ。あるいは「だった」と書かなければならなくなる時代がやってくる。いやこれも「すでにやってきた」と表現すべきか。ともあれ、魚偏の漢字が多いことは寿司屋の湯飲みを見ても分かる。春がついて「鰆」は「さわら」、秋がつくと「鰍(かじか)」だ。冬になると「鮗」。これは「このしろ」になる。その他にもあるわあるわ…。鯖(さば)に鮪(まぐろ)に鰯(いわし)、鯵(あじ)。鮃(ひらめ)に至っては、まさに名は体を表すなんて気がしてくるではないか。ついでにカレイを調べたら、「鰈」だって。漢字の「つくり」の意味は手元に漢和辞典がないので、今ひとつ分からないが、あの蝶のイメージも重なってくる。さらに、鯑は「かずのこ」なんだそうな。いまは高価な品だが、昔はバケツに入れて売るほどだったと親からは聞いていた。それが、漢字ははじめから希「まれ」だったのだろうか。英語では「いか」のことまでcuttlefishなんてfishがついていて、笑ってしまう。「いやー表現力が貧弱だねーっ」なんて言いたくなる。もっとも、漢字でも、本来はほ乳類の鯨(クジラ)は魚偏の仲間じゃあないかといわれるかもしれない。しかし、形はどう見ても魚の親分だわね…。まあ、とにもかくにも、魚の表現なら、日本は世界一だろう。だから、勝ったの負けたのと騒ぐことはないのさ。ここで大事なのは、お互いに独自の歴史があり、文化があるということ。それを認め合うとことの大切さを実感することなのだ。「違いが分かる…」というコーヒーのCMがあった。まさに「違いが分かる」「違いを楽しむ」。それが人生を豊かにする。みんな同じじゃおもしろくない…。(03/5/31-43)


牛とCowの後日談
 さて、なぜ日本語の「牛」は英語の豊富なバリエーションに負けたのか。その説明は簡単である。お互いの生活や文化が歴史的に違っているからだ。日本人がすき焼きを食べはじめたのは明治時代のことだと聞いている。それまで牛といえば、農耕作業か、せいぜい牛車の動力として使われていたに過ぎない。それ以上の幅広い使い方はされていなかったのだと思う。そうなれば、牛という動物をそれほど細かに分類することも見極める必要がないのである。大きければ「親牛」だし、その子どもだから「子牛」でいいではないか。赤い色をしていれば、「赤牛」。じつに単純明快である。これに対して、牛を家畜として、食用として、あるいはバッグやベルトなどの日用品として活用する人々がいる。彼らは、牛の子どもを差し置いて、そのミルクすら略奪する。そんな文化では、雌牛と雄牛の役割は大いに違っているはずだ。子どもの牛だって、さまざまな活用の仕方がある。ある文化圏の人々は「子牛」の肉も食べる。それは、肉も柔らかくとろけるような味だという。それだけでも「子牛」に対してcalfという名前を特別につける意味があるというものだ。そう考えると、こと「牛」に関して日本語がきわめて単純な名付け方しかしない理由も分かる気がする。まさにキーワードは、生活の違い、文化の違いなのである。したがって、特定の語彙が少ないからといって、「勝った、負けた」と騒ぐこともないのである。ただし、こうしたことばの違いがあること自体には興味・関心を持ってほしいと思う。「英語では雌牛はcowで、雄牛がbullだって?それがどうしたの…」。こんな反応では、まことに悲しい。「ヘーッ、おもしろいもんだね」と少しは驚いてもらいたい。とくに、これからの日本を背負ってくれる中学生などにはね…。(03/5/30-42)


牛とCow
 
ここで、クイズにトライ。「男の牛のこと何という?」「雄牛」「イヤー、大正解」。「それじゃあ、女の牛は?」「雌牛でしょ」「うーん、参った参った。そのものズバリ当てられちゃった」「つぎはむずかしいぞ。牛乳を出す牛は分かるか?」「それって、乳牛じゃないの」「何と、また大当たり。あなたひょっとしたら天才じゃないの?」。そういえば、小学校低学年のころを思い出す。わたしは、「牛乳」と「乳牛」の区別がつかなかった。そんな人はいませんか。ともあれ、「すべてを正解されて、もうやけくそだ。最後に一番むずかしい問題を出してやるぞ。阿蘇にいる赤い色をした牛だ。これをどう呼ぶかっ!」「そう力まないでよ。赤牛に決まってるじゃない」「イヤー、冗談抜きで降参するよ。君は正真正銘の天才だ…」。こんな会話は童話の世界でもないだろう。ところで、英語で牛のことを何というか。「cowでしょ」。まあこれはこれで間違いではないけれど、cowは、「雌牛、とくに乳牛」のことだ。牛乳石鹸の箱にもCow Brandと書いてあった記憶がある。「それでは雄牛は?」。その回答はbullなのだ。ヘーッと思った方は辞書を見ていただきたい。これがじつに面白い。家畜としての牛を総称するときはcattle、食肉用のものはsteer、去勢した牛はbullockだって。さらに、荷車用のそれはOXといい、子牛もcalfと呼ぶんだそうな…。もっとも、一般に牛という場合には、牛の性にこだわらずcowを使うことが多いらしい(以上、電子版研究社新和英第4版)。しかし、それにしても何と英語の語彙の豊富さには驚いてしまう。ことばについては、日本だってこだわりがあると思っていたが、これじゃあ、英語に「大負け」ではないか!さあ、この結果をどう考えるか。それは、次のコラムに譲ることにする。何分にも、この記事は早朝に書いている。そこで今朝は時間が厳しくなってきたというわけだ。(03/5/29-41)


過信と自信
 「過信」が失敗に結びつくことはめずらしくない。自分を過大に信ずるという意味を込めれば、過大信ということもできる。こういう人は、自分の力や影響力について疑うことを知らない。また、現実を正確に把握することもできない。そのため、ときには能力以上のことにチャレンジして失敗してしまう。「おれは凄いんだ。おまえたちは相手じゃない」。こんな感じで相手に対する配慮も欠ける。だから、最後には人がついてこなくなる。こんな結果になってしまうと、ご本人も困るだろうと思う。その一方で、自分に自信が持てない人もけっこういる。こういう人には「過小信」のラベルを貼りたくなる。こうした人たちの場合も、人との関係で問題が起きやすい。自分の力を疑いすぎるのである。すべてのことに自信が持てない。しかし、周りから見ると、それなりにうまくやっている。「ダメだ、ダメだ。あー、失敗した」と絶叫していた人が、結果としてはいい成績を取ったりするのである。そうなると、周囲はシラケでしまう。こうした人々に必要なのは、自分をもっと信じることだ。過大信、過小信の人々の対極にあるのが、「自信」を持った人々である。彼らは、自分を客観的に見ることができる。そして、その評価に基づいて、自分が持っている力に信頼を寄せている。また、自分の力について疑うことも知っている。自分に自信を持つとともに、過大にも過小にも自分を評価しない。こうした人々は、他人からの信頼も勝ち取ることができる。よりよく生きていく力の源泉は、まさに自信あってのことだと思う。そこではじめて、自分自身を的確に評価することができる。それが、また対人関係の改善にも役に立つことになる。「過大信」、「過小信」というなら、「適信」と呼ぶべきを持っている人々である。(03/5/28-40)

気になる目線
 テレビで海外や国内で起きた事件などを現場から記者が報告する。そんなとき、目線が気になることがある。その視線、どう見てもカメラに向いていないのである。黒目が右上方向などにあることがはっきり分かる。カメラの上や横に置いている原稿を読んでいるのだ。それが見るものにはっきりと分かるから、目線が不自然になってしまう。こうした場面に出くわすと、「プロなら、そのくらいのこと憶えといてよ」と言いたくなる。それができないのなら、手に原稿を持っていてくれた方がすっきりする。メモを見ながら情報を伝えていることを、はっきりさせればいい。そうしなければ、情報の内容は本物でも、やはり画面が真実でなくなると思う。原稿を見ていながら、そうでないふりをするのは、自分の頭で話しているというかっこうよさを強調したいのだろう。しかし、そこで目線がズレていたら、むしろ滑稽に映ってしまう。番組の目的は「真実を伝える」ことにあるはずだ。もちろん、見栄えがよければ、その方がいいに決まっている。それなら、それでちゃんと憶えてから、カメラの前に立ってほしい。しかも、このごろは生中継だけでなくビデオも多くなってきた。それでも視線がズレるのは、やはり努力不足ではないか。天気予報のときも、画面いっぱいの天気図を、右や左にあるモニターを見ながら解説する。だから、顔の向きと体の向きが合わずに、動きが不自然になる。「どっち向いて話してるの」という感じなのである。まあ、予報士は放送のプロではないから、仕方ないとは思うけれど…。いずれにしても、わたしのようなうるさい「ウォッチャー」がいるから、関係者のみなさんも仕事がやりにくいとは思う。それでも、そこは「プロ意識」を発揮して、さらに精進してもらいたいものだ。内容が真実であることは言うまでもないが、アンチョコを使いながら、「見て見ぬふり」を装うのは、決してカッコいいことではない。(03/5/27-39)

奇跡は求める者にのみ起きる
 昨日の体育大会は、すばらしいの一言に尽きる。「奇跡」は、生徒・保護者・家族・卒業生、そしてわれわれ教員の前で、間違いなく起きた。「奇跡は求める者にのみ起きる」。このタイトルは、どこかで聞いたように思われる方もいるだろう。それは、このホームページの「講演・評論・随想」の中に書いているからである。そこでは、近鉄バッファローズが優勝したときのことを取り上げた。しかし、今回は、それがまさに自分たち自身に起きることになった。「どうせ雨だからダメ」。こんな気持で、はじめから実施を諦めていたら、「天」もわれわれに味方してはくれない。こちらから「求める」からこそ、ものごとは動いていくのである。それが、昨日の体育大会で見事に実現したというわけだ。「降水確率80%、もう止めとこか…」。これでは、奇跡の女神もそっぽを向いたに違いない。ともあれ、終わってみれば、なんと、すべてのプログラムを実施できたのである。正確に言えば、教員が子どもたちと走るリレーの部分だけはカットされた。「あー、残念」というのは真っ赤な嘘である。日頃の運動不足もあって、「少なくとも、おまえは走らずともよろしい。かえって危ない」と、天気の神様がわたしに奇跡を起こしてくださったのだと思う。やはり「求める者(?)」に奇跡は起きたのだ。そのうえ、優勝は同点の赤龍と白虎の2チームで分け合うことになった。これもまた、歴史に残る「奇跡」ではないか。そんな奇跡が起きる中に、自分が存在することができたことを感謝したい。そして、まさに歴史の証人になれた、すべてのみなさま方へのご提案。これからも「求め」つづけていきましょう。(03/5/26-38)
 仕事場にやってきた。いま8時30分である。昨日と同様にプールを見ると雨が落ちている。今日の方が、はるかにたくさん降っているように見えるのは、気のせいだけではないはずだ…。

予報に感謝
 午前4時30分現在、外を見る限り雨は降っていない。附中の2年生以上の生徒たちは知っているはずだが、わたしは「いつものように」この時間に起きた。そして、まずは外の様子をうかがって「ワーッ」と叫びそうになった。何と言っても気象台に感謝である。昨日の予報では深夜から雨が降るはずだった。少なくとも1mm以上の降水確率80%という数値が表示されていたのである。夕刊にも「日曜日はまとまった雨」と表現されていた。当然のことながら、体育大会はどうなることかとドキドキした。数日前からの予報は、じつにスリリングな流れで展開してきた。はじめは40%だったが、気がつくと80%になっていた。まさに、興奮しながらインターネットの予報を見つづけることになる。そんな刺激的なストーリーを提供してくれた予報に感謝しなくてどうする。もっとも、降水確率80%だから、20%は降らないということでもある。ところで、現在の熊本市の地域ピンポイント予報によると、6時から12時までは0mmだ。この部分だけは100%当たって欲しいと願う。それにしても、毎日、どこかでだれかが、その日の天気予報に期待をかけたり、心配したりしているのだ。そうした人々に天気情報を提供する気象台の方々も、また大いに気を使うことだろう。ごくろうさまです。それはともあれ、これまでの経過から推測して、今日はどこかである程度の雨は降るのだろう。しかし、体育大会をするかどうかの意思決定は午前6時である。それまであと1時間と少々。今の状況なら間違いなく決行に違いない。香山先生の顔が目に浮かぶ。そして、子どもたちの顔も…。(03/5/25-37)
 そんな思いで家を出ようとしたら、何と雨が降りはじめた。7時のことである。仕事場には先ほど着いた。自分の部屋から附中のプールが見える。やれやれ、しっかり降ってるのがはっきり分かる。。たしか12時までは0mmだったのに…。そこでインターネットを立ち上げる。おいおい、いつの間にか6時から1mmの雨マークに変わってる。午前5時更新のデータである。3時からは3mmと雨量が増え、明日にかけて、天気はさらに悪くなりそうだ。うーん、参った参った。いまから先生たちのお顔を見に附中へ出かける。いま時計は7時半を示している。今日は「つづき」を書いてしまった。

沈黙と譲り合い
 とくに2人で話をしているときのこと。ネタが切れて、しばし沈黙がつづいたりする。どちらも、何も考えていないような顔をして、けっこう一所懸命にネタを探している。相手の目を直接に見るとおかしいので、上を向いたり、下を向いたりする。そのうち、ちょっとした話のアイディアが浮かんでくる。まあ、お互い似たようなレベルだから、思いつくのも同じような時間がかかる。そこで、同時に「そう言えば…」「ところで…」とかち合うことがある。そんなとき、必ず「あなたからどうぞ」と譲り合う。せっかく思いついた材料なのだから、自分の方が先に言いたくなりそうなものだが、そうでもない。理由は簡単だ。お互いに大したネタを見つけたわけではないのだ。もっとはっきり言うと、単なる時間つなぎのどうでもいい内容であったりする。そんなことなら、かえって黙っていた方がいいと思われるようなことすらある。しかし、人間というのは意外と沈黙に絶えられないもののようである。しかも、これが対面に座っているときにそうなりやすい。2人が横に並んで海を見つめているときなどは、話すテンポもゆっくりになったりする。そこに夕日があれば、「きれいだね」と言っただけで、しばらく沈黙がつづいても、あまり不自然さは感じられない。対面でないことは、それだけ沈黙のプレッシャーを少なくする。そして、沈み行く太陽のような対象があれば、それをじっと見ているだけでいい。そんなときは、ことばがいらないのだ。「ところで、明日は附中の体育大会です。天気予報は雨になっていますが…」(沈黙)(03/5/24-36)

いまここで
 昔々、Tグループと呼ばれる対人関係改善を目指した訓練技法があった。現在でも南山大学では盛んに実施されている。今日はそのグループの内容を詳説する余裕はない。だた、そこで強調されるキーワードである「いまここで(Here and Now)」について考えてみたい。文字通り「いま」「ここで」起こっていることを話題にしようと言うわけだ。「あのとき、あそこで」の出来事は当事者にしか分からない。記憶も薄れてしまう。本当に自分たちのことを理解するには「いま、ここで」を話題にするのが何よりだ。わたしは授業でも、そのこころを生かしたいと思っている。だから、話している途中、頭に浮かんだことをすぐ口に出してしまう。それが時には脱線になったり、唐突であったりもする。そうなると、ちと問題ではあるが、わたしはどうもこれがやめられない。もう4,5年前になるが、琉球大学に集中講義に出かけたことがある。夏の盛りも盛り、8月末だ。話す方は好きだからかまわないが、聞いてくれる学生はたまらない。そう思ったので、「60分くらいの時間が来たら小休止を入れよう」と提案した。学生たちも賛成してくれたのだが、話し出すと止まらない。じつに迷惑で悪い癖だ。ついつい、時間を忘れてしゃべっていた。そうこうしているうちに、一人の学生と目があった。正確に言うと、黒板の右を見ていた黒目が、わたしの視線を察知して、こちらに目を向け直したのである。わたしは知っていた、その方向に時計があることを…。「おー、いま時計を見たな」と叫んだわたしはとっさに時計の方を振り返った。なんと、このとき授業開始から60分が経過しつつあったのである。「いやー、約束だったね。危ない、危ない。さー小休憩」といって授業を止めた。わたしの感触では、これがけっこう受けたようだった。「なかなかおもろい教員だわい」。そんな雰囲気が生まれたのである。これも、わたし流の「いま、ここで」の実践だと考えている。気づいたことはすぐに相手に伝える。とくに褒めるようなことは…。ただし、失言には十分にご注意を…。(03/5/23-35)

降水確率
 今日の降水確率が90%だったとしよう。「やれやれ、かなりひどい雨になりそうだ」などと考えながら、あなたは傘を持って出かけるに違いない。ところが、その日は終日いい天気、雲すら見えないまま日が暮れる。「なんだ、90%などといい加減なこと言って…」。気象台に文句も言いたくなる。その次の日は、確率5%ときた。「昨日の続き。いい天気なんだ」とばかり、手ぶらで出勤する。ところが、昼ころから空は一転して大荒れ。帰りは土砂降りでズブ濡れ。2日連続の「当てはずれ」に、さすがに頭にきて「いい加減にしろ」と怒鳴りたくなる…。しかし、冷静に考えると、降水確率というのは、「1mm以上の雨が降る確率」である。今日と同じような気象条件であれば、1mm以上の雨が降る確率は90%ですよという話なのだ。だから、10%は「まったく降らない」という予報でもある。したがって、「雨が一滴も降らないこともあり得ますよ。その確率は10%ですよ」と宣言していると考えることもできる。その逆に、降水確率5%であれば、同じ環境条件なら、100回に5回は雨が降りますよという予測をしているのである。それは、決して「ほとんど降りません」と言っているのではないのだ。しかも、1mm以上だから、どんと降ってもおかしくない…。どうもパーセントが高いと雨が大量に降ると考えてしまう人もいそうだ。もちろん、日常の生活感覚とまったく合わない予報は、不評を買ってしまう。だから、気象台も「確率は5%といったでしょ。だから『土砂降り』になる確率も5%あるのよ」などと居直ったりはしない。われわれが納得できるように努力していることは大いに伝わってくる。ともあれ、降水確率を、雨量と受け止めている人々も多いのではないか。そこに、予報する側と受け止める立場にずれが生まれてくる。もっとも、これはわたしの降水確率に対する理解の仕方である。分かったような顔をしているが、それが間違っていたら、この話もけっこうし白けるけれど…。ところで、天気予報によると、25日(日曜日)の降水確率は40%である。「体育大会の日」に1mm以上の雨が降るのは100回に40回である。ということは、60回は「降らない」のだ。きっといい体育大会になるに違いない。(03/5/22-35)


いい顔見つけよう
 プロの写真家はさすがだ。附中に行くようになってから、原田写真館さんにお世話になる機会が増えた。できあがったものを見ると、被写体のいい雰囲気がにじみ出ている。しかも、わざとらしくない。まさに、さりげなくといった感じである。「わたしって、こんなにいい感じだっけ…」と、ついほれぼれ(?)してしまう。鏡で顔を見ながら表情をつくっても、そんな表情はなかなかできない。もともと、そんなことしようとすら思わない。しかし、写真を見ると、人はいい感じの瞬間があることがよく分かる。プロは、そのときをうまく「掴まえて」くれる。いや「引き出してくれる」といった方が正確かもしれない。わたしたちも、その技を少しでも学びたいと思う。それがうまくいけば、毎日の生活の中で、相手の「いい顔を引き出す」ことができるに違いない。いい雰囲気が出るのは、それだけ良好な関係ができているからである。また、相手をしっかり見つめ、相手のよさを評価しようという気持ちがあるからだ。それと同時に、わたしたちも自分のいいところを「引き出してもらう」という姿勢で相手との人間関係をつくっていきたい。そうした相互の関係によって、「いい瞬間」がどんどん生まれるだろう。(03/5/21-34)


こころが見える
 相撲の高見盛が人気上昇中だ。制限時間がくると、ものすごい形相で、顔や体をたたく。そのことで、自分を奮い立たせるのである。ご本人は、この上なく真面目にやっているのだが、テレビで見ていると、なぜかユーモラスな顔に映る。そこがまた大いに受ける理由なのだろう。それにしても、とにかく一生懸命さが伝わってくる。こころの状態が外から見えるのである。これを人気取りを計算したパフォーマンスと考える人はいないだろう。「彼はそんな手を使うような人間じゃない」。そう思わせるのは、彼の人柄だろうか。いずれにしても、こころが見える人は、わかりやすくていい。日本人は、喜びやうれしさをストレートに出さないと言われる。とくに、われわれのような古い世代は、そのDNAを受け継いでいるようだ。こころを隠さず、もっともっと外に出してもいいのではないか。もっとも、怒りをそのままぶつけられるのは困るけれど…。(03/5/20-33)

気になる言葉づかい
 SARSに罹っていた台湾の医師が日本へ観光に来て帰った。わが国で明らかになった初めてのケースだ。当然のことながら、どこの放送局も大きく取り上げた。それによると、医師は関西空港から入出国している。USJや天橋立、姫路城から小豆島、四国へも行ったようだ。最終日は大阪城にも出かけた。そうした情報が7時のNHKニュースの中でも伝えられた。その中で、「大阪城の天守閣には、添乗員と共に上()がらなかった」と言っていた。そこで「うん?」と思う。「天守閣は『のぼる(登・昇)』んじゃないだろうか。あれって、上がるのかなー」。まあ、この場合は、どちらでもいいのかもしれない。しかし、ことばのプロが、いい加減な言葉づかいをしたり、間違った表現をして気になることが、けっこうある。藤崎宮例大祭で、予備校生が随兵の装束で行列に加わる。このニュースの際に、「これに参加すると入試に合格するというジンクス≠ェあることから…」。 ジンクスって、もともと悪いことにしか使わないのじゃないのかなー。そこで、念のため英和辞書を引いたら、「日本ではいいことにも使われる」とあった。そう言えば、「三種の神器(しんき)」と読んだ女性アナウンサーもいた。「それも言うなら『じんぎ』でしょ」と思って辞書を見ると、「しんき」とも言うらしい。ああややこしい。しかも、このときはだれかが指摘したのだろう、後で訂正していた。やっぱり一般的には「じんぎ」だよね。こうなると、わたしが、ことばにこだわりすぎなのかしらと思ってしまう。それでも、やっぱり気になるなー、皆さんはことばのプロなんだから…。こんなこともあった。今年の阪神は相当に様子が違うが、少し前のことである。おそらく巨人戦で2連敗後に1勝したときだったにちがいない。「阪神が一矢(いちや)を報いました」ときた。これって、「いっし」なんだよね。この際、局名は挙げないが、こうした明らかな間違いの場合でも、訂正されないことがけっこう多い。新聞と違って、放送は時間の経過に伴って情報が流れていくから、間違いの痕跡がはっきりと残らない。だからこそ、気をつける。それがプロというものだろう。ことばの乱れが気になるこのごろのこと、日本語のためにも、頑張ってもらわねば…。もちろん人間は完璧ではない。プロだって間違うことはある。それならそれで、その場でちゃんと訂正してほしいんだよね。それがあれば、少なくともわたしは納得するタイプなのだ。そうでないと、「周囲の人も日本語が分かってないかも」と誤解されてしまう。それも損だと思いませんか。(03/5/19-32)

グーチョキパーでいこう
 グーチョキパーは三竦(すく)みだ。グーはチョキに強いがパーには負ける。チョキはパーに勝ってもグーには弱い。そして、パーはチョキにはかなわないが、グーには負けない。この単純な遊び、一般的には拳(けん)と呼ばれている。しかし、三竦みのルールは世界でも珍しいのだそうな…。このごろの子どもたちは体力もしっかりしている。明らかに未成年でたばこを吸ってる子どもがいる。「まだ、たばこなんか吸っちゃ駄目じゃないか」と言ってはみたいが、正直なところ怖くてできない。だからみて見ぬふりになる。「弱虫、意気地なし、利己主義!だから、日本は駄目になる…」。どんなに責められても、怖いものは怖い。ところが、わたしのような非力な者でも、「しっかりしろよ。お袋さんだって心配してるぞ」と言える若者もいる。それは、小さいころ家に遊びに来ていた、息子の友だちである。彼にとって、わたしは幼稚園時代から知っている「おじさん」なのだ。そんな相手には、怖い若者もけっこう素直になる。わたしがグーなら、その子はチョキなのである。その他の大多数がパーだから、ほとんどの場合は、言いたいことも抑えてしまう。じつに、情けない大人なのだが、チョキの子に対してだけは、月光仮面のような正義の味方に変身できる。相手は子どもたちに限らない。周りを見れば、そんな関係を持っている者が一人や二人はいるのではないか。だから、日本国中で、そうした相手に対してだけでも、しっかり頑張るのである。それでも、世の中は、少しはよくなるだろう。まあ、できることはちゃんとしようのこころである。さあ、グー・チョキ・パーでいこう。(03/5/18-31)

強い人は強い
 世の中には強い人がいる。体が強い人、力が強い人、意志が強い人、心が強い人…。そのすべての面で強い人もいる。うらやましい限りだ。強い人には余裕が感じられる。わたしたちは、自分の力が優れていることを証明するために、大きな差がある者と比較することはない。大人が、3歳の子どもと走って、「どうだ、わたしは足が速いだろう」などと自慢などしない。むしろ、子どもにわざと負けて、「すごいなー、○○ちゃんって、走るのが速いんだね」と励まし、褒める。なにせ余裕があるのだ。だから、本当に強い人は、自分より弱い人を比較の対象にしない。ましてや、その人を「いじめる」なんてことは、夢にも思わない。そんなことは、格好悪くてやってられない。自分自身が恥ずかしくもなる。だから、強い人は、そんなことはしない。そして、相手の立場を考えて、大いに譲ってあげることに喜びを感じる。また、本当に強い人は、威張ることもない。そんなことしなくっても、周りの人が認めてくれるからである。威張らないと落ち着かない人、人をいじめないと気がすまない者。そんな人は、どこかが弱いに違いない。そうしないと満足できないのだから…。とにかく、「強い人は、やっぱり強い」。そう思いませんか。(03/5/17-30)

 
法律の起源
 法律は人類が地球上に生まれる、はるか昔からあったことは、意外に知られていない。はじめは、ほんの1条からなるものだったが、時間が経つうちに自己増殖を続けていった。そして、人類が出現するころには、かなりの法律が出来上がっていた。それは、ほとんど現在と変わらないものにまで成熟していたのである。だから、われわれが法律に拘束されるのは当然なのだ。なにせ、人類よりも法律の方が歴史が古いのだから…。本当のことを言うと、この話は嘘である。そんなことは、だれが考えても分かっている。人類の祖先たちは、法律のような、自分たちの行動を規制する確たるものは持っていなかった。そのうち、人間が増えてくると、さまざまな問題が起きるようになる。そこで、社会生活をスムーズにするため、お互いが納得できるような規則や法律を作りはじめたのである。したがって、法律は安全・安心な生活を保証する大切な約束事である。そして、それは人々のためにあるのだ。ところが、一度、法律が出来上がってしまうと、それが人々を拘束しはじめる。それどころか、人々を不幸にする事態すら起きてくる。自ら作ったもので、自分たちが縛られるのである。「法律が…」「法律によれば…」。それは、まるで「人類誕生の前から法律があった」と言わんばかりだ。このあたりで、主役は人間であることを、再確認しておきたいものだ。とくに、法律の専門家には人間の側に立った視点を大切にして欲しい。(03/5/16-29)

 
天気の話
 このところ、梅雨のような天気になっている。まだ5月というのに、どうしたことだろうか。今月の25日(日曜日)は附中の体育大会である。その日が雨になると月曜日に順延となる。生徒たちは、その日を目指して練習に余念がない。せっかくだから予定通りにことが進んでほしいと思う。ただし、そこは何と言ってもお天気次第なのである。これだけは、われわれの力で何ともしようがない。名は体を表すという。考えてみると「天気」ということばにも、その実体がにじみ出ている。「天気」は「天の気持・気分」なのである。「天」とは「神様」であって、その気分次第でどうなるか分からないというわけだ。人間は、その気分を何とか読み取ろうと努力している。しかし、それも、今日や明日、せめて1週間程度先のことしか分からない。もちろん、あくまで予測だから、100%当たるわけではない。このごろは、神様も少しは正体を現してきた。しっかり、その顔色を窺っていると、明日くらいまでは、それなりに予想が当たるようになった。しかし、何とも神様のこころは読みづらい。そう言えば、もともと人間のこころを研究する心理学だって似たような状態だ。今の段階では完璧とはとても言えない。それなら、神様のこころは、なおさらのことだろう。そんなことで、「天気」が悪くて思い通りにならなかった場合、人は与えられた事態を受け入れ。「仕方がない。何たってお天気が悪いんだから…」と、けっこう簡単に諦める。(03/5/15-28)

冷たい空気が重い理由(わけ)
 四月のことだったと思う。体育館で行われた集会の際に、大雨が降り出した。天井に当たる雨で声が聞こえなくなるほどの勢いだ。幸い長続きすることもなく、小降りになった。集会後に附中の浦田教諭と立ち話。「すごい雨でしたね」「エー、寒冷前線のせいですよ」「寒冷前線ね」「冷たい空気と暖かい空気がぶつかり合うんです。冷たい空気が重いから、下の方に潜り込む。すると暖かい空気がグーッと上昇するんですね」「なるほど。ところで冷たい空気はどうして重いんでしょうね」「暖かい空気は分子の運動が激しく、同じ容積の中に存在する量が少ないんですよ…」。いやー心から納得してしまった。エネルギーがあって元気がいいと、人だって走り回る。そうなると、人間も6畳の部屋にたくさん入ってはおれない。ところが、寒くてふるえていると、みんな縮こまってじっとしている。そこで同じ部屋でもたくさんの人が入れることになる。大人数が入った部屋の方が重いに決まっている。まさに「なるほどthe World。納得の世界」だった。部屋に入っている人をイメージしただけで飛び上がるほど嬉しくなった。いままで知らなかった自然のメカニズムを知ったのである。「何かが分かること」を楽しみにする。それが、ワクワク人生を送る基本だ。「なーんだ、50も超えて、そんなことも知らなかったの…。ホームページなんかに書いたら恥になるよ。やめといたら」。こんな忠告をされる方がおられるかもしれない。でも、わたしにとっては感動的な体験だったのだから仕方がない。(03/5/14-27)

相互依存のパラドックス
 縄文時代のころ、人々は一望できる程度の集落に住んでいたのだろう。そのときには、お互いに協力し合って生きていること。一人がみんなのために、みんなが一人のために役立っていること。そのことが、しっかり目に見えていたに違いない。お互いになくてはならない、相互に依存していることを実感していただろう。そして、いま21世紀。他人の存在がなければ生きていけないという点では、その程度は比較にならないほど大きくなった。朝、目を覚ます。寝ていたベッドは人が作ったもの。着ている下着もパジャマも買ったものだ。電気をつけるために押したスイッチも電灯も、それを明るくする電気も他人がいなければ用を足さない。そもそも、住んでいる家そのものが、自分で作ったものではない。そして顔を洗うために水道を使う…。こんなことを考えていたら、どれだけ書くスペースがあってもきりがない。ほんの数秒間に行う行為でも、複数の他人から恩恵を受けていることを書かなければならなくなる。ともあれ、外国の人々を含めて、他人なしには1秒でも生きていけない。それがわたしたちの生活である。しかし、それにも拘わらず、「自分たちは独立して自由に生きている」「他人に助けてもらってなどいない」。そんな気持になってはいないか。昔々の生活では、互いがなくてはならない存在であることが目に見えていた。そんな時代には、他人に対する感謝の気持ちも、思いやる気持も強かったに違いない。今日、お互いの依存度が何十億倍にもなったはずなのに、それを感じなくなってしまってはいないか。依存が小さいときは気づいていたのに、天文学的に大きくなると鈍感になってしまう。まさに、「相互依存のパラドックス(逆説)」としか言いようがない。(03/5/13-26)

リーダーシップ・スパイラル
 「デフレ・スパイラル」は、このごろの日本のキーワードになった。スパイラル(spiral)は、螺旋である。景気が悪くものが売れない。そこで商品を何とか買ってもらうために、価格を下げる。そうなると、会社も経営が苦しくなるため、従業員の給与カットやリストラが起きる。収入が落ちたり、最悪の場合なくなったりすれば、さらにものを買うことができなくなる。その結果、世の中のものが、もっと売れなくなる。このように、ぐるぐると螺旋階段を転げ落ちていくように、経済がますます悪くなる。これがデフレスパイラルである。その点で、それは現在の日本を象徴する忌むべきことばになってしまった。しかし、螺旋階段を使えば上に昇っていくこともできる。対人関係の中で、自分がリーダーシップを発揮すると周りの人から評価される。そして、気持ちよくなった人たちは、リーダーのもとでしっかり頑張ろうとする。そうなると、リーダーも、さらに意欲が湧いてきて、リーダーシップに磨きがかかる。それがまた、みんなの気持ちにプラスの影響を与える…。まさに、好循環である。デフレスパイラルは悪循環の象徴で、困ったことである。しかし、リーダーシップ・スパイラルは、まさに「どんどんよくなる法華の太鼓」というわけだ。それを実現するためにも、ふたたび、"Challenge the Chance to Change Yourself!"(03/5/10-22) を心がけようではないか。それにしても、「スパイラル」という1つのことばも、くっつく相手によってプラスにもマイナスにもなる。人もまた同じような気がする…。(03/5/12-25)

やせ我慢のこころ
 子どもが小学生のころ、授業参観に出かけたことがある。校門近くに来たとき、止まっていた車から空き缶がポイと捨てられた。「何と言うことをするのか」。そんな思いで運転席を見たら、明らかに保護者だった。「これじゃー、子どもに公衆道徳なんて言ってられないよなー」。だれでも、こんな光景を見ると、そう思うに違いない。もちろん、この事例はかなりひどい方だろう。しかし、われわれ大人は、「してはいけないこと」をけっこうやっている。「駐車してはいけない」所に車を止める。「捨ててはいけない」場所でも、ついポイッとやってしまう…。それも子どもが見ている前で…。正直なところ、だれもが四六時中そうした誘惑に駆られている。いまは、そんな世の中である。しかし、ちょっと待てよと思う。少しは「やせ我慢」もしてはどうか。「だれもがやっている」から「わたしもする」。そうではなくて、「みんなやってても、わたしはしない」と我慢するのである。たしかに「やせ我慢」だが、それも徹底すれば楽しくなるものだ。わたしは何でもかんでも「やせ我慢」という気持はない。この際は、1つか2つに対象を特化してはどうだろうか。たとえば、「わが家は、ペットボトルのポイ捨ては、太陽が西から出てきてもしないぞーっ」と決意するのである。「それなら空き缶はどうするの」と問われれば、「それはペットボトルじゃないから、みんなが捨ててたら、やっちゃうかもね…」。まあ、これでいいとは言わないけれど、とにかく「ペットボトル」にこだわるのである。それでも、1億2700万人が1、2個の「やせ我慢目標」を実践すれば、全体では大きな効果があるはずだ。そのうち、気持ちがよくなれば目標も自然に増えてくるに違いない。ともあれ、「やせ我慢運動」を全国に広げたいものだ。こんなとき、「小さな親切、大きなお世話」のように冷やかさないでね。(03/5/11-24)

 
車の朝食
 朝、乗ったタクシーが信号で停止中のこと。ふと隣の車を見ると、運転席の女性が何やら取り出してパクパク…。こちらも朝食は取っているので、うらやましく見つめることもない。それでも、ふと食べることに思いが走った。人間は1日に3回の食事をとって24時間の生活をする。トイレにもそれほど頻繁に行くことはない。だから、継続的な仕事ができるわけだ。子どものころメジロを飼っていた。野生のスズメのヒナを育てたこともある。そのときの観察で知っていたこと。それは、鳥類は時間をおかずに糞をするということだ。飛ぶためには体を軽くする必要がある。そこで、時も所も選ばず糞をするんだと聞いた。また、牛はほとんどいつも草を食んでいる。植物にはタンパク質が含まれていない。それなのにどうして牛の体ができるのか。それは、食べたものが腸に入ってから、細菌がタンパク質を作ってくれるらしい。だから、あんな巨体を維持するためには、朝から晩まで食べている必要があるというわけだ。「なるほど!」と納得する。それにしても、時間をかけてようやく出来上がった牛の体を人間はぺろりと平らげてしまう。生育にかかった時間に比べて、食べる時間はまるで一瞬の出来事だ。あーもったいない。非効率な話である。まあ、いずれにしても鳥や牛の行動も、それぞれに合理的な理由あってのことだと思うと、また嬉しくなってきた。「なるほど」「そうか」と頷ける話はいつも面白い。(03/5/10-23)


Cha,Cha,Chaでいこう
 Challenge the Chance to Change Yourself! これは、わたしが気に入っているセンテンスである。「まずは自分自身が変わることに挑戦しよう」。世の中、なかなか自分の思い通りにはいかないものだ。日頃から対人関係で悩んでいる人も少なくない。とりわけ、リーダーシップを発揮することが期待されている人々は、文句の一つや二つは言ってみたくなる。「リーダーがしっかりしなきゃ、組織は動かない」「部下の意欲を引き出すのはリーダーの責任さ」。リーダーたちは、職場でも研修でも、こうして責め立てられる。そうなると、ついついグチもこぼれ出す。「わたしばかりを責めないでよ。いくら努力しても部下たちが変わらないんだから…」。よーく分かるなあ、その気持ち。でもでも、そこはやはりあなたは責任者だ。部下たちよりも確実に給料がいいはず。部下が変わらないことを嘆かずに、「まずは自分が変わってみよう」の気持ちを前面に出してみてはどうだろう。それがリーダーに求められるプロ意識というものである。こうしたことは、上司と部下との関わりに限らない。対人関係は相互の関係である。どちらかが変われば相手も変わるものだ。それなら、「自分から変わる」ことに挑戦しても面白くはないか。それが、Challenge the Chance to Change Yourself! のこころなのである。ここでポイントは、ChangeすることをChanceだと考えることにある。対人関係をよくするために、「いやいやながら」「仕方なく」変わるのではないのだ。自分を変えることを与えられたChanceと受け止めるのである。Cha,Cha,Chaでいこう。そうすれば、道は開けるはずだ。(03/5/10-22)


「お子様ランチ物語」のつづき
 三度目に持ってきたケーキについて、ウエイトレスが説明した。「申し訳ございません。ご準備していたケーキがなくなりましたので…」。そこで、今度はどっしり安定したものを持ってきたというわけだ。「このケーキ、よく倒れるんです」。「それが分かってるのなら、はじめから倒れないものを出しなさいよ。あなただって何度も行ったり来たりじゃ嫌でしょう」。ついついそう思ってしまう。しかし、ここでちょっと待てよと考えた。よく倒れることを知っているのは第一線で働いている彼女たちに他ならない。それなら、「このケーキは、お客様に出すときに倒れやすいんですけど」「できれば他のものと変えていただければ助かるんですが…」。こうした現場の意見を責任者に言えばいいのにと思う。しかし、そこが問題なのだ。それが簡単に言える雰囲気があれば、このケーキを出し始めたときから話題になっていたのではないか。しかし、そうはならなかったのは、どうしてか。「何だって!そりゃあおまえたちの運び方が悪いからじゃないのか!」。「せっかく苦労してメニューを考えたのに、ケチをつけるのか!」。リーダーがこんな反応をするような人間だったらどうだろう。おそらく、真実を語る者はいなくなることだろう。黙っていた方が無難なのある。こうして責任者が現実を知らないままに、現場では「事件」」が繰り返して起こり、解決の手だても取られることなく事態は悪い方に進んでいく。そして、気がついたときには、組織崩壊の危機に直面している。よくある話である。「たかがケーキが倒れたぐらいでこと。そこまで考え過ぎることもないだろうに…」。そんな声も聞こえてきそうだ。まあまあ、そこはご了解いただこう。何せわたしの仕事は「リーダーシップ」なのである。自分の身の回りで起きることを、強引にでもリーダーシップに結びつけたくなる。それが、私の性癖なのである。(03/5/10-21)


お子様ランチ物語
 子どもが小さいころ、ファミリーレストランに出かけたときの思い出…。娘が「お子様ランチ」を注文した。しばらく経って、ウエイトレスが「ランチ」を持ってきた。お皿をテーブルに置いた瞬間のことだ。デザートのケーキがばったりと倒れてしまった。おいしそうなクリームがべっとりと皿についた。。ウエイトレスはそのことに気づいたはずだった。ところが、彼女は何も言わずに立ち去ろうとする。「ちょっと!これってあなたが置いたときに倒れたのよね。せっかくのケーキなのにベッタリじゃないの」。知らんぷりで帰っちゃダメよ。そう言いたかったのである。すると、彼女は「ばれちゃったか」といった顔をしたものの、「すみません。お取り替えします」と案外に殊勝な顔をして応えた。そして、「お子様ランチ」を持ち帰っていった。しばらくして取り替えたケーキが載った「新品」が運ばれてきた。ウエイトレスがそれをテーブルに置いたときである。何と、何と、またしてもケーキがコロンと横になったのである。全員の目と目が合った。その瞬間、ウエイトレスが言い放った。「これって、よく倒れるんですよね!」。イヤー参った参った。これには腹を立てる気にもならず、笑ってしまった。うるさい客と見定めたのか、今度は何も言わないのに「もう一度お持ちします」と、またしてもケーキを持って行ったのである。そして、三度目には別のケーキが皿の上に載っていた。それはそれは鎮座ましますといった風情のどっしり安定したケーキであった。これなら、皿をひっくり返しても倒れっこない。そんなケーキだった…。(03/5/10-20)


Psycho-nomicsのすすめ
 日本経済は相変わらず暗いトンネルの中で佇んでいる。どちらの方向に行っていいのかも分からない。そのうち明るさが見えてくると言い聞かせていたが、どうも話は違うようだ。今では、出口なんてないのじゃないかと悲観的になってくる。まさにお先真っ暗というわけだ。「日本経済は大丈夫、何と言っても1400兆円もの個人資産があるんだから…」。こんな専門家の解説も説得力を失った。「金があったって、使わないじゃんか…」。とくに高齢者に富が集まっていると言うけれど、そのお年寄りがお金を使わない。それはどうしてか。「浪費は悪」「消費は悪」という価値観があるのかもしれない。しかし、何と言っても死ぬまで何があるか分からない。だれも助けてくれそうにない。つまりは将来の不確実さに対する不安である。経済は人の「こころ」を理解しなければ成立しないのだ。もはやeconomicsでは世の中は動かない。そんなときこそ、人のこころを理解する心理学:psychologyが求められている。心理学を組み込んだ経済学、まさにPsycho-nomicsを展開していこうではないか。そう言えば、2002年度のノーベル経済学賞は「意思決定」に関するものだった。もちいろん、詳しいことを知っているわけではない。しかし、そのタイトルから推測するに、それはまさしくPsycho-nomicsであるに違いない…。(03/5/9-19)


こころの退化
 われわれは、自分たちがいつも進化し続けていると考えていたのかもしれない。少なくとも、昔よりも今の方が進んでいる。多くの人がそう思っていたのではないか。ところが、ここに来て、その進化神話も怪しくなってきた。なにせ、株価だって20年前と同じだなんて言ってるのだから…。それにしても、ダーウインが書いた進化論をまともに読んだわけではないが、彼は進化の一方で、「使わないものは退化する」と言っているらしい。いわゆる自然淘汰も、そうした現象の現れなのだろう。「なるほど、使わないものは退化するのかあ」。そう納得すると、われわれ日本人が使わなくなって久しいものがあることに気づく。それは「こころ」であり、「人を思いやる気持ち」である。あの東京オリンピックが開催された1964年は、はるか昔の歴史になってしまった。戦後初めての国際的ビッグイベントである。そこには、海外の人がたくさん来ることが予想された。そこで、彼らに少しでも気持ちよく過ごしてもらおうということで始まったのが「小さな親切運動」だった。ところが、間もなくそれに対する冷やかし文句が全国に広まっていく。曰く、「小さな親切、大きなお世話」。初めて聞いたのがいつのことか、もう記憶にない。しかし、いずれにしても、こんな冷やかしで真面目な行為を笑い始めたころから、日本人の「こころ」は確実に退化していったのではないか。嘘か誠か、猿から進化した人間はシッポがなくなったという。失われたシッポは二度と生えてくることはないだろう。それでは、「退化した『こころ』」はどうか。わたしは、今ならまだ「こころ」の復元は可能ではないかと思う。ただし、みんなが意識して、「こころの退化を元に戻そう運動」を始めることが前提ではあるが…。(03/5/9-18)


日本人の集団自殺再考
 ともあれ、このままではわが国は集団自殺に突っ走っているように見える。ネズミだって、全滅することはないのだろう。何万、何十万というネズミも、湖に突進するうちに適正数に落ち着くに違いない。彼らが、そのことにどうして気づくのか。それはまさに不思議としか言いようのない天の摂理なのだろう。そして、ネズミたちは再びそれなりの安定した生活を送ることになる…。だから、われわれだって心配することはない。いまは天から与えられた集団自殺のときなのだ。希薄な人間関係、思いやりに欠ける社会、犯罪の多発と深刻化。これらはすべて運命的なものなのだ。「放っておけば、そのうちネズミのように人口も1億2000万が6000万くらいになるだろう。そうなれば、『これではまずい。また出直して頑張ろう』となるに決まってる。だから下手にあがくことはないのさ。そうそう、覚醒剤の蔓延だって抑えられっこないよ。それもこれも天命なんだから…」。われわれは、こんな調子で手を拱いていていいのだろうか。何のことはない。それでは、ネズミと同じではないか。わたしはできるだけネズミの悪口を言いたくはない。何せネズミは自分の干支なのだ。しかし、やはり日本人としては、天の摂理なんぞと、現実を放りっぱなしにはしてはおけない。やっぱり集団自殺なんてやめた方がいいに決まってる。あきらめずに、みんなで知恵を出そうではないか。少なくとも、「このままではいけない」。そんな気持ちで現実に立ち向かっていきたいものだ。(03/5/8-17)

日本人の集団自殺
 ふと「パニック」を思い出したのには理由がある。それは、「われわれ日本人がネズミと同じように『集団自殺』に走っているのではないか」。そんな想いにとらわれたからである。ネズミは笹の実を食い尽くし、さらに食料を求めたが、すべてを満たすほどのものは得られなかった。一度は飽食を楽しんだが、その後に新しい飢餓が待っていたのである。そして、飢餓状態に追い込まれたネズミたちは、種として存続するためにこそ、適正な数に戻るまで自らの命を絶とうとするした。まさに。「集団自殺」が現実のものになるのである。これに対して日本人はどうだろう。われわれも「飽食の時代」を楽しんだ。しかし、ネズミのような「飢餓状態」にはないように思える。たしかに景気の低迷は長引いてはいる。しかし、「飢餓」にまでは至っていないじゃないか。そう思われる人もいるだろう。わたしも、日本人について、文字通りの「栄養状態の悪化」を頭に描いているのではない。ここでは、「心の飢餓」「対人関係の飢餓」、そして「夢が満たされない飢餓」といったものを強調したいのだ。いわば「人との関わりに対する飢餓」である。「思いやり」や「触れあい」がなくなり、さらには「夢」まで失った状態。いま、われわれはこうした「飢餓状況」に置かれているのではないか。そして、そのことが人々の気持ちを落ち込ませ、「集団自殺」現象を引き起こしつつある。そんな気がするのである。このところ、インターネットで知らない者同士が自殺するといった現象すら現実化している。この上もなく個別的な死を選択する際に人との「連帯」や「関わり」を求めるのである…。ところで、こんな想いを持ってから、わたしは数十年ぶりに「パニック」を読んでみたくなった。本屋に行くと、新潮文庫の「パニック」を見つけて嬉しくなった。高校生時代を懐かしむように読んでみたが、小説の中には「集団自殺」ということばは書かれていなかった。それは、わたしの思いこみだったのだ。しかし、いずれにしても、地球上の生き物が、何らかの理由で、集団的に自らの個体の調整をすることは珍しくはないと思う。それを人間的な表現で言えば「集団自殺」となるのではないか。少なくとも、わたしの心の世界では{小説「パニック」=「ネズミの集団自殺」}という式は、これからも存在し続けるだろう。(03/5/8-16)

ネズミの集団自殺
 「パニック」という小説がある。開高健が1957年に書いた作品だ。わたしは高校生の時に「新潮日本文学全集」で読んだ。真っ赤な箱に入ったシリーズだったが、もう手元にはない。当時の若手の作品を集めた巻だったと思う。「原民喜」といった名前もかすかに蘇る。いまインターネットで調べたら、その名前があった。それを見ると、収録されていたのは「夏の花」である。ほぼ40年前のことが思い出される。われながら人間の記憶のすごさを実感した。その名前は、前にも後にも、そのときにしか接していないのに…。しかし一方では、先ほどまで持っていた車のキーが見つからない。数分前、顔を洗うとき頭に浮かんだ研究のアイディアが思い出せない…。なんという記憶という能力のアンバランスなことよ。それはともあれ、「パニック」に出会った時、わたしは高校1年生だったと思う。その小説の終末部分のイメージが、いつまでも頭にこびりついて忘れられない。ある村で笹が120年ぶりに実を結ぶ。栄養価の高いその実を食べたネズミが大増殖する。まさにねずみ算である。そして、すべてを食い尽くした彼らは人間をも襲いかねない…。そんなことで村中がパニックになるのである。その対策をめぐってさまざまな利害関係が人々を踊らせる…。そのあたりの記憶はしっかりしていない。問題は最後なのだ。人間たちの思惑とは関わりなく、ネズミは一斉に湖に突っ込んでいく…。当然のことだが、多くが死んでしまうわけだ。「ネズミは増えすぎたときには、自分たちで集団自殺するんだ」。自然の摂理というか、そうしたネズミの習性に「ゾッ」とした思いがした。その部分だけが、いつまでも記憶に残り続けている。作品の評価ができる力などあるはずがなかった。(03/5/7-15)

小は大を兼ねる
 わたしはけっこう小さいことにも喜べる質である。スーパーに行ってトマトが山積みになっているのを見ても、「わー、こんなに食えない」などと思ってしまう。それだけで嬉しくなるのである。その上、「下にある何個かを抜くと崩れてしまうよな」などと考えると、また「クッ、クッ」と笑ってしまいそうになる。こうなると、ほとんど白昼夢、空想の世界だ。このごろは100円ショップが楽しめる。「この湯飲みが100円だなんて、可哀相ーッ」などと叫びたくなってしまう。お目当ての商品を前にして、「買うべきか買わぬべきか」とハムレットのように悩む。そして、さんざん迷った挙げ句の果てに買わずに帰る。このときの「充実感」は言いようがない。「吉田君は不必要なものは買わずに帰るのでした」などと、映画の主人公にでもなった気分なのである。道すがらも笑っている。じつに、つまらないことで喜んでいるのだが、これがなかなか精神衛生にいいのである。こんなとき、「小は大を兼ねる」ことを実感する。ささやかなことで喜べる人は、中くらいのことがあればもっと喜べる。さらに大きなことがあれば、もうこの上もなく嬉しいだろう。「喜び」や「感動」については、「小は大を兼ねる」。これはかなり的を射ているのではないか。(03/5/6-14)

思い込みの恐ろしさ
 寅さんではないが、「雪国はつらいよ」条例を作った町がある。新潟県中里村だ。そう東京書籍の中学公民教科書に書いてあった。子どもたちは、北陸の冬はそれほどつらく、生活も嫌になってしまうんだろうなと思うだろう。ところが、これがとんでもない間違いだった。本当は、「雪国はつらつ」条例なのである。雪と共に生きながら、はつらつとした村を作ろうということで、88年に制定されたものだった。この教科書のシェアは60%で、全国の中学3年生70万人が使っているという。「雪国は、つらいに違いない」という思いこみもあって、チェックに引っかからなかったのだろうか。校正の際にも、「プッ」と笑ったかもしれない。わたしも、あらかじめ決めた方向で文章を書こうと思っていると、「やったー。ぴったりの実例があった」などと飛び上がって喜ぶことがある。自分の都合のいいように読めてしまうのである。そのとき、事実を十分に確認しているとは限らない。だから人間は怖いのである。こうした「思いこみ」が、組織では事故につながり災害をもたらすことになる。子どもが、「汚職事件」を「お食事券」と勘違いする程度であれば笑い話で済む。しかし、プロになるとそうはいかない。世の中、「うまい話には気をつけろ」と言うではないか。だから、「ちょっと面白い話も要注意」なのである。(03/5/5-13)


参加と参画
 「男女共同参画社会」といった言い回しが常識のようになってきた。この場合、「参加」よりも「参画」の方がより積極的な印象を受ける。参加には「枯れ木も山のにぎわい」も含まれるような気がする。それに対して、「参画」は主体的に役割を果たすというニュアンスがある。「画」は「計画」「企画」にも使われるからだ。「画策」ということばもある。こちらは、「陰で画策する」と言ったりして、あまりいい印象はないけれど…。それにしても、このことばは決して新しいものでないことをご存じだろうか。少なくとも、わたしが恩師の三隅二不二先生や先輩たちに連れられて、三菱重工樺キ崎造船所に行っていたころ、組織のキーワードは「参画」だった。それは1960年代の終盤から70年代初期のことである。当時、事故防止を目標に展開されていたのが、「『全員参画』による安全運動の実践」である。ビデオなどといった便利なものはないころで、同名のタイトルをつけたスライドが作られていた。「事故・災害防止」「小集団」「全員参画」…。そこでは、こうしたことばが飛び交っていた。いまから30年以上も前のことである。そんな関わりを持てたことを、わたしは誇りに思う。(03/5/5-12)

供育
 教育は教師と子どもが共に育つという意味で「共育」だと言われる。だれの発案か知らないが、なかなか言い得て妙である。そこで、わたしもこれに乗って、「供育」も提案しよう。「供」には、「捧げる」「差し出す」などの意味がある。また、「もてなし」や「問いに答える」なども含まれる。さらに、「共をする」という義もある。いずれも広辞苑の知識だが、「お互いに、持っているものを出し合う」というニュアンスが感じられる漢字なのだ。しかも、「相手を尊敬している」とい雰囲気もある。ともあれ、教育の真髄は相互作用なのだ。そう考えると、なかなか面白い。「キョウ」と読む漢字はじつにたくさんある。少なくとも「恐育」や「狭育」、そして「脅育」などが問題なのは言うまでもない。(03/5/5-11)


受業
 さすがに一度限りではあるが、試験で「受業」と書いた学生がいた。これには笑ってしまった。けれども、一方では、なかなか面白いではないかと思い直した。「授業」とは何とすごいことばだろう。「授ける」といえば、その主語は神様かそれに次ぐほどの人である。自分を振り返って、教師はそんなに偉いのかな思ってしまう。まあ、昔ならいざ知らず、いまは「授ける」なんておこがましいと言うべきか。そう考えると「受業」もなかなか含蓄がある。何と言っても、主役が学習者である。まさに「自分から進んで受けよう」という積極性、主体性が感じられるではないか。「受業」もまた、「共育」の新しい形だと言えるのかもしれない。(03/5/4-10)


講議
 学生の試験やレポートに「講議」と書かれていることが少なくない。これは一般社会人が書いたレポートや文章でも、ときおり見かける。正しくは「講義」であり、「ぎ」には「言偏」は不要だ。そこで、わたしは授業のはじめに学生に言うことにしている。「どうして『言偏』がいらないか知ってますか」。「うん?」といった顔の学生に続ける。「それは、授業中に喋ってはいけないからなのさ。私語をするなと言うことよ」。「でも、『講』には言偏があるじゃないか」といった顔の学生に付け加える。「こちらの言偏はわたしなのよ。教師も話しをしないでいたら授業にならないでしょ…」。ただし、わたしとしては「講」も面白いなと思っている。つまり、学習者が「話す」のである。キーワードは、「参画」であり、「積極性」である。もちろん、この言偏に「私語」は含まれない。ともあれ、共に育む「共育」の基本が「講」というわけだ。(03/5/4-9)


リーダーシップは他者に対するサービス
 「情けは人のためならず」に続いて、「リーダーシップは他者に対するサービス」と考えたい。リーダーは研修でも、「自分が変われ」「部下の気持ちを分かれ」などと責め立てられる。そこで、ついつい「やれやれ何でもかんでも私の努力が問題なんでしょ。リーダーシップは自己犠牲の精神でいくんでしょ」と投げやりになってしまいがちだ。しかし、リーダーシップを自己犠牲と考えたのでは、長続きはしないだろう。それに、精神衛生上もよろしくない。そこで、「リーダーシップは他者に対するサービス」だと考えてはどうだろうか。それも、自己犠牲のサービスではない。うまくリーダーシップを発揮すれば、「自分もあんなリーダーになりたい」「尊敬できるのは自分のリーダーだ」なんて思われるのだ。それこそ最高の喜びを感じることができる。まさに、自分自身の気分が良くなるのである。(03/5/3-8)


リーダーシップは人のためならず
 「情けは人のためならず」。これを、「人に情けをかけるのは、その人のためにならない。人を甘やかしてはいけない」と考える人もいるんだそうな。本当の意味は、まったくその逆だ。「人に思いやりを持って接しよう。情けをかけておけば、自分にも配慮してもらえる」。他人に親切にしなさいということなのだ。これと、同じことがリーダーシップにもいえると思う。組織人にしても教師にしても、部下や子どもたちのために「自己犠牲」の精神だけでは長続きしない。「あなたのような人に会えてよかった」「あなたのような人になりたい」…。リーダーシップを十分に発揮すれば、こんなことを言われる。まさにリーダー冥利に尽きるというものだ。まさに、自分が気持ちよくなるのである。これこそが、リーダーシップの真髄ではないか。「リーダーシップは他人のためならず」。(03/5/3-7)


乗車定員

 昨年11月のことである。附属の会合で小倉中学校へ出かけた。宿泊は門司港のホテルだった。そこから帰りのこと。JR駅で列車を待っているとき、ちょっとばかり遠くにあった列車の「定員」という文字が目に入った。この「定員」は何を基にして決めているのだろうか。少なくとも座席の数ではないだろう。そうだとすれば、どのくらいまでの人数をを算入するのか。ラッシュアワーや盆暮れの満員列車では「乗車率130%」などといっている。これは「定員」を基礎にしているにちがいない。さてさて一般人が「なるほど」と納得するような基準なのだろうか。また、それは、国内の鉄道会社に共通しているのか。また外国はどうなのだろうか。もし違いがあるとすれば、それが「ゆとり」の意識などの違いとも関わってくるかもしれない。もっと大げさに、「人間として」扱ってくれる最低基準と考えることもできるだろう。これは面白い。(03/5/2-6)


Musical Chairs

 Musical Chairsという英語をご存じだろうか。わたしは、ラジオの英語会話ではじめて聞いて驚いた(01/10/1)。これが何と「いす取りゲーム」のことなのだ。たしかに音楽が流れてはいる。しかし、そんなものゆったり聞いてる者がいるはずもない。それどころころではない。何せ、他人を蹴散らかして、自分が座ることしか考えてないのだから…。まさに「いす取り」よりも「いす盗り」ゲームなのである。すくなくとも、われわれ日本人の感覚ではそうだろう。それに比べて、musical chairs のやさしいことよ。音楽が先にあって、まずはそれを聞くことが大切なのだ。そうした後で、いすにも座ろうということになる。そして、運がよければ座れるだろうし、そうでなければ立ってればいい…。こんな優雅さと余裕が感じられてくるではないか。「あー、われわれはもっとゆとりを持たなくっては…」。こんな話をしたら、友人が笑って言った。「おまえさんも世の中を見る目が甘いね。彼らは、ことばでごまかして、じつは騙し合いの競争してるだけなのよ。何せ狩猟民族なんだぞ」。なるほど、そうも考えられるのか…。しかし、それでは、あまりにも興ざめだ。ここは、やはり「あったかい」解釈の方をとりたいと思う。(03/5/1-5)


「いま」という時間
 わたしたちは「いま」という時間を本当に知ることができるのだろうか。「いま」という時間があるらしいことは分かる。けれども、「いま」と言った瞬間に、それは過去のものとなり、「いま」ではなくなっている。映画は1秒間に24コマで現実を捉える。すると、1/24秒のあの「静止した」1コマ1コマが「いま」だったのだろうか。しかし、高速度撮影で1秒間に何千コマもの映像を撮ることもできる。そうなると、そちらの方が「いま」がたくさんあるということなのだろうか。こう考えると、時間は未来に向かって無限なだけなのではないことが分かる。まさに「いま」そのものが、無限に分割していくことができるのである。そう考えると、何かしら時間がいとおしくなってくる。そんなこと考えて何になるのと言われそうだ。たしかに、「いま」のところ、これが直ちに「味な話の素(ネタ)」になるような気はしない。しかし、私たちの一瞬一瞬の生活も、「無限の時間」から構成されていると思えば、時間に裕福になったような気分にはなるから面白い。(03/4/30-4)

発達段階と子どもの数
 教育実習生がやってくると、時間が許す限り授業を見に行く。中学生は、さすがに成長していて、どの学年も全体として落ち着いている。これに対して、小学校では学年差が大きくて、興味深いことに気づく。当然のことながら、1年生と6年生との間には、きわめて大きな発達差がある。その結果、同じ40人学級であるにもかかわらず、その数が違って見えるのである。もちろん、低学年の方が「たくさん」いるように感じてしまう。一人ひとりの子どもたちが縦横無尽に動き回っているからである。6年生にもなると、きちんと授業を聞く態度ができあがっているから、「少人数」に見えるのである。集団は人数だけが問題ではない。その中で、個々のメンバーがどのように動いているか。そうした視点から人間行動を見る目も必要だ。実習生諸君も、そうした視点を大切になしがら、子どもたちの集団に対応してほしい。ともあれ、教室に行くといろいろな発見がある。何と言っても現場はダイナミックで刺激にあふれている。(03/4/29-3)


沈黙のコミュニケーション
 2002年6月26日(水)のことである。附属中学校の未来創造「和風課」の授業が、木の葉猿の窯元で行われた。美術科の緒方先生に連れられて私も参加した。先方に着くと、一通りの指導を受けて、生徒たちは粘土をこねながら、猿を作っていった。そして、最後に七代目窯元が、全員の目の前で猿を作り始めた。すばらしいプロフェッショナルな技を見せていただいた。粘土からできあがりまで、8分19秒。この間、だれ一人として声を出すものがいなかった。ささやきすら聞こえなかった。制作過程の迫力に息をのんでいたのである。それにしても、これほどの沈黙が続くとは信じられなかった。そして、その「沈黙」に込められた子どもたちの大いなる感動が体に響いてきた。「沈黙」が人の心の状態を、これほど伝えたことはない。「すばらしい」「すごい」「さすが…」。そんな余計なことばはいらない。思わず、鳥肌が立つのを覚えた。まさに、「沈黙は金なり」を体感した一日であった。(03/4/29-2)


行動変容のために
 適度の危機意識:「今のままでいい」では行動は変わりようがない。「これではいけない」。人間には適度の危機意識が求められる。バランスが崩れるからこそ、空腹にもなり食事を摂る行動も生まれる。
 改善できることを信じる:人間行動は努力によって改善できるという信念が必要だ。「どうせ生まれつき」「もともと性格だから…」。これでは変わるものも変わらない。
 変わるのは自分のため:「情けは人のためならず」。人に思いやりある行動を取っておけば、自分にも優しい配慮をしてもらえる。人のために、自己犠牲の精神で自分の行動を変えるなどと思わない方がいい。自分が変わることで、人の態度も変わる。その結果として、自分自身も気持ちよくなる。「行動変容は人のためならず…」。
 使命感:行動を変えるのは、まさに自分に与えられた使命と考えたいものだ。「リーダーシップの改善はわたしの使命」。そんな気持ちが自分を変える、組織を変える。(03/4/29-1)