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情熱の開拓者、三隅二不二先生(追悼特集 2002)
 

 いつか、その日が来ることは承知していました。それは2002年5月31日になりました。「巨星、墜つですね…」。三隅先生のご逝去をお知らせしたとき、大先輩は、ほとんど反射的におっしゃいました。ご年齢の近い方々にとっても、先生のお仕事ぶりは強烈な影響を与えつづけていたのでした。
 わたしが、先生のお名前を知ったのは、新聞記事をとおしてのことです。昭和39年、西日本新聞で「大学群像」というシリーズが始まりました。西日本の大学を取り上げ、そこで活躍している先生方の研究を紹介するものでした。ハワイの海岸を背にした先生の写真が掲載されています。「三隅教授は昨年、この新しいP・M型の理論をひっさげて、ハーバード大学に客員教授として講義をしてきた…」。まだまだ海外旅行が庶民の手の届かないところにあった時代です。当時30代後半と思われる先生の写真も、記事の内容をバックにして、誇らしげに見えます。「文化系の中では最も若い教授。まだ腹の出る年ではないが、最近だいぶ太ってきた。学問の円熟のあらわれなら幸いである…」。このときすでに、前途洋々の研究者として評価されておられたのです。
 それにしても、研究一筋の先生でした。国内ではもちろん、海外に出かけられても、頭の中はいつも研究のことでいっぱいでした。何度か海外にご一緒させていただきましたが、観光などにはほとんど関心をお持ちでないご様子で、ホテルで原稿書きに精を出されていました。私たちも、そうした先生のお姿から多くの刺激を受けたのです。
 新聞記事には、こんなことも書いてあります。「はじめは小・中学校の学級集団の運営について実験をしていましたが、いまでは組織体、とくに企業内の集団の分析を経営者から求められることが多くなりました」。ここには、「教育」から「産業組織体」へ研究が転換する兆しが伺われます。まさに時代は1960年代の半ば、オリンピックなどに象徴される、わが国の国際社会への復帰と戦後の奇跡といわれた経済成長が順調に進んでいる時代のことでした。グループ・ダイナミックスに対する期待が、産業界でも高まって来たのです。こうした、順風満帆に見えた三隅先生のお仕事ですが、その前に大きな壁が現れます。全国の大学を席巻した、あの学園紛争の波が九州大学にも押し寄せてきたのです。そして、「産学協同」は、諸悪の根元と責め立てられます。九州大学における「集団力学講座」は、その代表的なものの一つになってしまったのです。しかし、そうした状況にあっても、先生は悠然としておられました。「社会から求められることは、万難を排して実践する」。これが、先生の強い信念だったのです。まさに、グループ・ダイナミックスの創始者レビンが提唱した、アクション・リサーチの精神でした。こうした騒然とした状況の中で、満を持したように、集団力学研究所が設立されたのです。それは1967年のことでした。私は九大新聞で、研究所の設立を伝える記事を読んだことを鮮明に記憶しています。写真入りの記事の中で、先生は研究所設立の意義を情熱をこめて、そして誇らしげに宣言しておられました。
 発足当初は天神の生産性九州地方本部をお借りした形でしたが、間もなくお向かいの長銀ビルに独立した部屋を確保することができました。部屋は決して広くはありませんでしたが、「研究」はしっかりと進められました。いまでは「長銀」もなくなってしまいました。まさに隔世の感があります。もちろん、先生の頭の中は研究のことでいっぱいでした。この当時の恒例行事に「ゴールデンセミナー」といわれるものがありました。あの5月のゴールデンウイークに「勉強会」をされるのです。長銀ビルから電車通りを見ると、博多どんたくの囃しが行き過ぎます。花電車も走ります。そうした町の喧噪を文字通り下に見過ごしながらの勉強会でした。「こんなときこそ勉強、勉強…」。まさに、先生は勉強をすることで、はしゃいでおられるようでした。そんなときの先生のうれしそうなお顔は忘れられません。
 そのうち、さらに広いスペースを確保するチャンスが訪れました。川端の西日本銀行博多支店の2階を借りることができたのです。その当時、三隅先生監訳になる、Cartwright & Zander:Group Dynamics第二版の翻訳が出ました。全体で1003ページからなる2巻本ですが。これをテキストに勉強会を進めたことも、懐かしい思い出です。毎週1回の勉強会の中で、新しい研究のアイディアも、あふれるように生まれてきました。ときおり、先生は居眠りをされているように見えることがありました。ところが、私たちがディスカッションを始めると、「どうしてそんなことが言えるの…」「君は、これをどう考えるの…」と矢継ぎ早に質問されたり、意見を述べられるのです。いつどこから矢が飛んでくるのか分からない緊張感が漂っていました。まさに冷や汗ものでしたが、それが先生の教育法だったのです。
 そして、1978年には現在の西日本新聞会館に3回目の移転をすることになります。ここで特筆すべきは、国際シンポジウムをスタートさせられたことです。今でこそ、「国際」と名の付く催しは珍しくもありません。しかし、その当時としては、きわめて先進的な試みでした。しかも、やってくる人々が内外を問わず大物ばかりでした。「Japan as No1」の著者エズラ・ボーゲル(Ezra F. Vogel)などもその一人でしょう。そうした人々と、私たちのような若者が福岡の地で話すことができるのです。それは、それは、願ってもないすばらしい機会でした。そのシンポジウムも、今年で20回目を迎えます…。
 先生の思い出を語り続けていると終わりがこないような気がします。そろそろ筆を置かなければなりません。先生が蒔かれた種は確実に苗木になり、大きな木に育ちました。そして、私たちは、その立派な木を、さらに大きく育てていくつもりです。「原点の教育に帰りたいね…」。先生はこんなこともおっしゃっていました。いま、教育界では多くの問題を抱えています。その問題解決に集団力学が大いに役立つことも認知され始めました。私たちの手で、先生の「原点」に帰る夢も実現したいと思います。
 先生、本当にありがとうございました。