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36歳の集団力学研究所(14)(2003)
− 三隅先生の思い出−
 

 2002年5月31日、三隅二不二先生が逝かれた。集団力学研究所名誉所長であり大阪大学名誉教授。九州大学時代に、わが国で初めて「集団力学」講座を開設。さらに、集団力学研究所を設立し、奈良大学・久留米大学教授として教育研究に携わり、筑紫女学園大学長としても活躍。そして、1994年には世界の社会心理学者が憧れるKurt Lewin賞を受賞。先生の経歴と業績を挙げていけば、まだまだ終わることはない。これ以上は、多くの方々の回想記や追悼文に譲りたい。ここでは、あくまで「35歳の集団力学研究所」シリーズとして、先生の思い出をお伝えしようと思う。したがって、その内容はいつものように軽いタッチになることをお許しいただきたい。あるいは、お亡くなりになった先生には失礼があるかもしれない。しかし、集団力学研究所発足時からご指導いただいた不肖の教え子が見た先生像を語るのも、それなりの意味はあるだろう。

 上記の文章は2年前に先生が亡くなられたときに書いたものである。そのため研究所も「35」歳になっている。しかし、内容があまりにも軽すぎるというお声もあったので掲載を中止した。そして、わたしとしては「重い」とまではいかないものの、それなりに「おとなしい」文章を書かせていただいた。当然のことながら先生へ寄せられるみなさま方の追悼文はいずれも重厚なものばかりであった…。あれからもう2年が経過する。もう少し先生の生のお姿についてお伝えしてもいいのではないか。それは、かなり軽いものである。しかし、少なくとも戦後生まれのわれわれが見た三隅先生のイメージを残してもいいだろう。そんな気持ちになってきたのである。そこで、今回はその原稿を、ほとんど手を入れないままに掲載したいと思う。

 このシリーズの7回目(1995年)に、はじめて「研究所を支えた侍たち」というサブタイトルを付けた。そして、研究所に関わった人々について、その人となりを私の独断と偏見の目を通して書いた。これが一部の方から、「なかなか面白い。楽しみにしている」と評価していただいた。それに気をよくして、私の見た人物群像をシリーズ物にして書き綴ってきた。もっとも、その途中で脱線も多く、人物エピソードが取り込まれていない回もけっこう多いけれど…。それはとにかく、「侍シリーズ」第1回目には、高禎助元副所長(現久留米信愛女学院短期大学教授)について語り、その末尾に、私はつぎのように書いた。
 ここですでに予定の紙数に達してしまった。「侍たち」というからには、せめてお二人は紹介しなければタイトルに偽りありとなるのだが…。いうまでもなく研究所を支えてきた侍たちの数は多い。これからしばらくは同じタイトルで「研究所の侍群像」をつづけたい。ただし、「自分のことは勝手に書くな」と言われる方は、できるだけ速やかにお知らせいただきたい。ところで、このシリーズでは三隅先生にご登場願うことはない。なぜなら三隅先生は「侍」ではなく「お殿様」だからである。

 三隅先生が私の「雑文」を読まれていたかどうかは分からない。しかし、このシリーズは、とにかく軽いタッチで書き進めることをモットーにしていた。そんな調子で三隅先生を語るのには、さすがに抵抗を感じていたのである。もちろん今でも、先生は「侍」ではなく「殿様」かもしれない。しかし、すでに天国に召された「殿様」である。したがって、直接しかられる畏れもなくなった。もう、どんなエピソードをご紹介しても、先生はお許し下さるだろう。
 それにしても、最初にお会いしてから35年もの長期にわたってご指導いただいた。したがって、思い出も数限りなくある。とくに、われわれは戦後生まれとしては初めての直弟子であった。先生が、いわゆる世代間のギャップを感じられはじめた学生たちだったに違いない。なにせ、私自身が先生のお嬢さんと同じ学年なのである。三隅先生が、それはそれは恐ろしい方だったという話は、先輩方から何度となく聞かされた。しかし、私たちにとっては、先生は噂≠ルどのことはないように思われた。われわれが傍若無人で、不遜な人間だったのかもしれない。しかし、先生も「やれやれ彼らは自分の子どもと同じ年なのか」といった感情を持たれていたに違いない。事実、そうしたニュアンスのことを、先生が感慨深げに語られるのを聞いたことがある。
 さて、そんな関係が出来上がりつつあったある日のことである。そのころ研究所は川端町の西銀博多ビル≠ノあった。現在の博多座≠ナある。いつものように原稿を書かれていた先生が、私に声を掛けられた。調査データの整理をしているときだったと記憶している。「吉田君、昭和43年は西暦で何年になる?」 論文では西暦を使うために、こんな質問をされたのである。「それは1968年です」。私は即座に答えた。その瞬間である。まさに絶叫といってもいいような驚きの声が聞こえた。「えっ!吉田君。手帳も見ないでどうしてすぐに分かるの!」。これには、私も先生に負けないほど驚いた。「いやあ、昭和の年に25を足せば西暦になるんですけど…」。先生の興奮はまだ続いていた。「そんな計算のからくりを、君はどうして知ってるのっ!」。「そんなこと、誰でも知ってますけど…」。そう言いたくなったが、それは抑えて、「はあ、まあ以前から知ってまして」と答えにならないような返事でその場をごまかした。それにしても先生の驚きようは尋常ではなかった。しかしこのとき、私は何となくいい気分に浸っていた。とにもかくにも、「君って、すごいね」とほめられたのである。そのとき以来、私は驚くことの大切さをいつも思い出す。リーダーシップの重要な要素として、「ほめる」ことを挙げる人は多い。そのための一番の技術は「驚くこと」。三隅先生は、そのことを教えてくださったのではないかと思う。あるいは、先生の天真爛漫ともいうべき純粋さに、私の方が驚かされたのかもしれない。とにかく自分が知らないことを知っている人間がいれば、無条件に驚き賞賛する。相手がどんなに若くても、どんな立場であっても、それは関係ないのだ。こうした態度こそが人を育てる大きな力となるのではないか。その当時、私は二十歳を過ぎたばかりだったと思う。それは遙か彼方の出来事になってしまった。それでも、「驚くことはほめることなり」の教訓は未だに私の心に残っている。
 もっとも、それからお付き合いいただくうちに、先生の純粋さに疑いを持つ(?)ようなことも体験し始めた。
 これもまた、ある日の研究所から始まる物語である。
「今から新日鐵に講演に行って来るから…」。さすがに大物である。なにせ新日鐵である。行くところが違う。そんな気持ちで先生を送り出したのは何時だっただろうか。それからしばらくして、研究所の電話が鳴った。先生からだ。「あの三隅だけどね。いま枝光にいるんだけど…」。当時の国鉄枝光は新日鐵への最寄りの駅だったと思う。電話は続く。「僕は新日鐵にどうやって行ったらいいの…」。そんなこと言われても、われわれに分かるわけがない。ともあれ、電話を切って新日鐵に連絡を取った。その結果、講演の日が違っていたことが判明したのである。おそらく、駅前にお迎えが来ることになっていたのだろう。それがいないものだから、三隅先生は困り果てて研究所に電話されたに違いない。ともあれ、こうなると、さしもの三隅先生といえども打つ手はない。「そうか。それじゃあ、今から帰るよ」。それで電話は切れた。それからがまた大変だった。数時間経っても先生は帰ってこられないのである。枝光といえば、当時の鈍行を使っても1時間30分もあれば福岡に着くはずである。そうこうしているうちに陽も落ちて街も暗くなってくる。さすがに心配し始めたちょうどそのとき、三隅先生はようやく研究所に姿を現されたのである。「どうしたんですか先生!みんな心配してたんですよ」。「いやー、そうかね。汽車に乗ったら直方の方に行ってね…」。なんと、鹿児島線で博多に向かうのではなく、直方・飯塚へ下り、鳥栖近くの原田経由で帰ってこられたという。インターネットで調べると、枝光・博多間は58.2q。これに対して先生の経路をたどると97.6qにもなる。これでは日も暮れるはずだ。いつものように、先生の頭の中は研究のことでいっぱいだったのだろう。研究のこと以外は何も目に入らない。これが先生の行動を支える基本原理であった…。三隅先生については、こんなエピソードに満ちあふれている。しかも、地元でこんなちょんぼ≠される先生が、何度となく行かれた海外からは、予定通りに帰ってこられる。周りのものはいつも信じられないような顔をしていたものだ。ともあれ、今となっては、どれもが楽しい思い出ではある。
 
 日本経済もほんの少しばかり明るさが見え始めた。しかし、この10年以上はお先真っ暗な状況だった。人心すら荒れてきたように思えた。そんなこともあってか、2年前には「このままじゃまずい」と言った文章を挟んで、最後にこんな形で原稿をまとめていた。本欄のNo13と重複する部分があるが、それをそのまま挙げて今回はおしまいとしたい。

 「いまこそ、グループ・ダイナミックスが求められている」。そんな三隅先生の声が聞こえてくるようだ。金と物≠フ似非神風が吹きすさぶバブルの時代も、先生を旗頭に、われわれは人間的側面≠フ重要性を訴え続けてきた。そして、こうした暗澹とした時代にこそ、グループ・ダイナミックスが、さらに重要な役割を果たせるのである。もう既存の経済学は我が国を救うことができないのではないか。「国民は1,400兆円もの資産を持っているんだ」と叫んでも、財布の口は閉じたままだ。消費者心理≠ェ問題だという。そうであれば、もはやEconomicsで対処できないのは当然だろう。いまこそ、人のこころ≠組み込んだPsycho-nomics≠立ち上げることが求められているのではないか。
それは、恩師である三隅先生のご遺志を継ぐことにもなるはずである。


 
36歳の集団力学研究所(15)(2003)
− おもしろ先輩記 −
 

 もともと研究所の歴史とそれにまつわる侍たちを語り継ぐのがこのシリーズの目的だった。しかし、まだまだ取り上げていない方々は数多い。そこで久しぶりに人物物語に帰ってみよう。
 まずは、研究所発足から間もないころの人々の中に橋口捷久氏がおられる。彼は専任の研究所員としては最短の2ヶ月の在職だ。正確には昭和47年(1973年)の4月〜5月までの勤務だった。その後は九大の助手に転出された。それから三隅先生について行かれる形で阪大の助手をされたと思う。さらに鹿児島女子大学から奈良大学へと異動された。その前後の順はわたしも分からなくなるほどである。それこそ、どこかの政治家だと年金の切り替えを「悪意ではなく」忘れてしまうところだ。そして、最終的には福岡県立大学へと転出されることになる。いまでは県立大学の学長さんである。まあ、ご苦労も多いとは思うが組織の運営にグループ・ダイナミックスの知恵を生かして大いに頑張っていただきたい。本来はとても優しい方であるが、同時に正義感が強く、許せないことは許せないという信条をお持ちの方である。九大の助手の時代はいろいろとお世話になった。ずーっと後からこのシリーズに登場する杉万氏と3人でよく飲んだ。まあ、飲ませていただいたという方が正確だろう。とくに、杉万氏とわたしがいつも飲んでるもんだから、「あいつらやり過ぎ」とばかり監視されていた時代もあった。橋口さんが助手のころである。そうなると、その網をくぐるのが面白くなる。杉万氏は天神方面、わたしは香椎方面に自宅があった。まるで正反対の方向だ。そこで二人は「失礼しまーす」と声をかけて研究室を出る。もちろんそこには橋口氏がいた。わたしは貝塚からUターンする。杉万氏は何食わぬ顔で天神方面へ向かうのである。まあ、落ち合う場所は川端あたり。中州まで歩いて5分の距離である。「しめしめ」とばかり2人はいつもの「もみの木」へと歩く。そこまでは完璧だった。いや、「もみの木」のドアを開けるまでは完璧だった。ところが、その向こう側に何と橋口さんがいたのである。その日に限って未払い分を払いに来たんだという。あれだけうまくいっていたのに、土壇場でアウトということになった。その日はそれからどうなったのか、もう記憶がない。しかし、とにかくわれわれが帰ったような顔をして、本当はそうでなかったことはばれてしまったのであった。
 ところで、「もみの木」にもお世話になった。もとももとは板付ベースの米兵などが出入りしていた高級バーだったらしい。その後に西日本新聞社におられた井下謙次郎さんたちの行きつけになったという。そのご縁なのか、三隅先生も出入りされるようになった。だから、はじめのうちは学生なんぞが顔を出すようなところではなかったようだ。そのうち、少なくとも九大の関文恭先生が院生として行かれるようになる。わたしはその関先輩に連れられていったのが始まりである。そうして、次第に学生も出入りするようになったのである。菅さんという英語の上手なマスターがおられた。また、愛称「タマちゃん」という優しいバーテンダーもおられた。昭和40年代の懐かしい思い出である。それから、あのバブル前の騒ぎが始まる。いわゆる地上げブームの中で「もみの木」もあえなくなくなってしまった。それと前後するようにわたしも鹿児島の地へ移ることになった。その後はと西中洲の方に店を開いたとお聞きした。実際に2回ほど行ってみたが、それっきりで今日に至っている。あれはやはり青春時代だったのだ。いろいろな方にごめいわくをおかけしたが、それだけにいまでも忘れられない思い出になっている。
 ところで、昭和40年代には、このほかにも多彩な人物が研究所と関わりをもたれた。すでに1度お名前だけは出したが、研究所ができるかできないかの時代に出合ったのは武田忠輔先生である。とても優しい方で、何かの調査をご担当されたときご一緒させていただいた記憶がある。その後は間もなく福岡大学に講師としてご異動になったと思う。それからはほとんどお会いしなくなった。福大の方でご熱心にお仕事をされていると聞いたことはあるけれど。
 また、もともとは文学部のご出身だったと思うが、井上努さんもいらっしゃった。こちらは、絵に描いたような文学青年といった風貌であった。とても真面目で仕事もきちんとされる。そんな感じの方であった。やはり、研究所発足の当初に調査の仕事か何かでお手伝いしたことがある。井上さんは、その後は郷里にお帰りになったと聞いた。わたしたちのような20歳前後の若者にとっては、かなり年上の先輩であった。あまりお話などはしなかったように思う。そのうち、お会いすることがなくなった。
 いわゆる研究所から月給をもらう専任としては、すでにこの欄で紹介した関文恭氏(現九州大学教授)と篠原弘章氏(現熊本大学教授)のお二人が嚆矢である。したがって、武田氏や井上氏はその前の時期にかかわっておられたということになるんだろう。そして、篠原さんは、1年か2年後に中村学園大学へ移られた。その後に現在の熊本大学へと職場を変えられて現在に至っておられる。関さんは、それから少し研究所で仕事をされたが、九州大学に新設された医療技術短期大学部に就職された。それからはそこで一筋に教育・研究に携わられることになる。大学の改革などもあって、医療技術短期大学部は九州大学医学部保健学科に改組された。関先生は今年度でご定年だと聞いている。改めて光陰矢のごとしを実感する。
 さて、このほかに昭和40年代に、はじめに挙げた橋口さんが2ヶ月ほど専任として研究所で過ごされた。その後に専任となられたのが井上祥治氏である。現職は岡山大学教授であるが、もうかなり以前に移られたので、正確な時期はご本人に聞かなければ分からない。それにしても、井上さんもかなり個性豊かな方ではあった。周りからは「祥ちゃん、祥ちゃん」と呼ばれておられた。もちろん、われわれは後輩だから「井上さん」だったけれど。まだ独身で飲みにも出かけた。本来はきまじめな方であったが、アルコールが入ると議論沸騰という感じになった。まあ、世の中はご縁というものがある。たまたま結婚の時期はわたしの方が先になった。そのときは「お前、独身連盟を裏切ったな」と言われてしまった。もちろん、笑いながらですので、ご心配なく。それから井上さんは岡山大学とご縁ができてお移りになられた。その後はほとんどお会いしなくなった。日本グループ・ダイナミックス学会で数回だけお見かけした。しかし、あれから少なくとも25年以上は経過している。
 昭和40年代では、石田梅男氏(現中村学園大学教授)がおられる。石田さんについてはすでにこの欄でご紹介した。
さて、研究所群像としてはご出講の方々を忘れるわけにはいかない。わたしが記憶している第1号は九電からお見えだった野口さんである。大変に申し訳ないがお名前の方は思い出せないでいる。もちろん、わたし自身が駆け出しのぺーぺーだったから、どういう経緯で研究所に来られたのかは知る由もない。ただ人生の先輩、企業人の先輩として仕事の合間にお話を聞かせていただいたことは憶えている。もっとも、その内容までは記憶していない。それだけ時間がたったということである。考えてみれば、団塊世代のわたしが50代も半ばである。野口さんを含めて、どの先輩たちよりもいまのわたしの方が年配になっている。しかも、かなり大幅に年上である。昔のことを思うと、あの頃の先輩たちは、だれもが貫禄があり、落ち着いておられたような気がする。まあ、気持ちの問題かもしれないが。もちろん、わたし自身はこれ以上に背伸びをしても身長が伸びないことは十分に知っている。めでたし、めでたし。