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35歳の集団力学研究所(12)(2002)
− 風雪に耐えて−
 

 2002年を迎えて、研究所はめでたく35歳になる。1967年(昭和42年)の開所から、よくぞ生き延びてきたものだと思う。もちろん、それは多くの方々のバックアップのおかげである。それにしても、どうしてここまでこれたのだろう。その理由は、ただ一つ。「真面目に研究をしよう」「きちんとやっていれば認めてもらえる」という信念と心意気だったと思う。研究所は、これまで積極的にPR活動をしたことがない。「せっかくいい仕事をしているのに、だれも研究所のことなんか知らないよ」と言われることも多い。「○○なみにやれば、自社ビルだって建つんじゃないの」などと冷やかされもした。そうしたご心配やご忠告には、「ありがたいなー」と感謝しながらも、それでおしまいの繰り返しだったような気がする。研究所は、発足当初から「商売には素人だけど、研究には挑戦的かつ誠意を込めて」をモットーにしてきた。だから、「研究に関してはプロフェッショナルだぞ」という、いささかの自負は持っているつもりだ。
 そんなことだから、世の中に厳しい嵐が吹きすさんだときも、おかげさまで何とか仕事をし続けてきた。例えば、あの1973年に起こった「石油ショック」の時も懐かしく思い出される…。そう思った瞬間にテレビのことが思い浮かんだ。私はテレビが大好きだ。いわゆる「テレビっ子」である。もっとも、それは昔の話で、若者たちに言わせれば「テレビおじさん」に違いない。そして、間もなく「テレビおじいさん」になることが約束されている。ともあれ、われわれが物心ついた頃は放送はラジオだけでテレビなどは周りのどこにもなかった。映像といえば、それは映画に決まっていた。それにつけても、親に連れられて映画にはよく出かけたものだ。小学校のころは行橋市に住んでいたが、そのころ中村錦之助の「羅生門の鬼」といったタイトルの映画を見た記憶がある。その幕間に、菅原都々子の「月がとっても青いからー」という甲高い歌声が聞こえたことが今でも耳に残っている。お隣の高校生のお姉ちゃんは錦之助の大ファンだった。正月恒例の「次郎長シリーズ」で森の石松に扮した錦之助が、讃岐の金比羅神社からの帰りがけに襲われる。ズタズタに切られ、力つきて刀に身を支えながら断末魔の石松…。それを見て映画館で大声で泣いたという噂が駆けめぐった。なんともいい話だ。人のことなど笑っていられない。「風小僧」が危機を救うために、それこそ風のように突っ走る。「早く、早くっ!」。館内は興奮の坩堝となり、無事に間に合ったときには安堵の大拍手…。大体は間に合うに決まってるのだが、それでもみんなの気持ちが間違いなく一緒になれたのだ。そんな状況の中でテレビと呼ばれる「不思議な機械」が登場するのである。もちろん白黒なのだが、それは庶民には手の届かない代物で、大人も子どもも電気屋や街頭で立ち見をした。それがどんなに破格のものであったか。手元の資料で確かめると、その凄まじさがわかる。テレビ放送が1953年に始まってから11年後の1956(昭和31年)の記録によると、日本セメントの大卒初任給が11,800円であった。因みに、焼き鳥1本が10円、株価平均が500円の時代である。そんな経済状態の中で、ナショナルの17インチテレビが、何と定価149,000円なのである。これはもう、「今なら何に当たるのだろうか」などといった比較の問題ではない。とくに、この時代をご存じない世代の方には、とにかく理屈抜きに「信じられない」と言っていただくだけでいい。本当に信じられなかったのだから…。ともあれ、テレビ好きの私だが、このごろは、「プロジェクトX」と「そのとき時代は動いた」がお気に入りだ。今のところ、この2つの番組だけでNHKに受信料を払ってもいいと思っている。とくに、前者はある意味で「懐メロ」番組であり、「根性・闘魂物語」である。あのときこんなに頑張った人たちがいた…。われわれだってこんなことができたのだ…。涙腺の弱い私なんぞは、つい目頭が熱くなる。しかし、ちょっと待てよとも思う。どうも感動が前向きの力にならない気がする。あれは、バブルの頃だったか。「電子立国日本の自叙伝」という番組があった。敗戦から立ち上がった日本が、エレクトロニクスの分野で世界を席巻する物語だ。先人たちの血のにじむ努力と知恵が結集する。積み重ねた苦労が確実に成果となって現れる…。全編が、「それ行け、やれ行け」の雰囲気にあふれていた。ディレクターの相田氏とこのところ朝のニュースを読んでいる三宅アナウンサーの掛け合いもウキウキで、とにかく元気がよかった「プロジェクトX」には、それがない…。2人のアナウンサーとゲストが静かに「あのとき」を振りかえる。「大変でしたね…」。国井アナウンサーが苦労をねぎらうように、優しく語りかける。女性アナウンサーが黙って頷く。遠くを見るようなゲストの目には涙がにじむ。その困難な状況が、運命的な展開が、またぞろ涙腺の弱いわたしの心を揺さぶる。どうも、元気がないんだなー。
 これが時代の空気というものに違いない。どちらも「がんばった物語」なのだが、明るさに差がありすぎるのだ。できることなら、「明日の意欲」につなげて欲しい。それができれば受信料は2倍でも払おうじゃないか…。もちろんこれは冗談である。それができないのが今の日本なのだろうか。
 ここまで書いて、ようやく研究所と石油ショックのことを思い出した。世の中はトイレットペーパに代表される物資不足不安と過激な節約ムードであふれていた。わたしの母は手術で小倉の病院に入院していたが、ティッシュペーパーを手に入れるため、門司のスーパーまで行ったことすらある。とにかく、どこもここも自粛、自粛の大合唱で、中州のネオンも早めに消された。そんなときに、ばっさり切られるのが教育・研修予算である。それは研究所への仕事が失われることにもつながる。しかし、そんな風雪の厳しい折にも、われわれは何とか乗り切ったのである。この時期ですぐに頭に浮かぶのは「ヤマハ発動機」である。ここで、PM調査とトレーニングを実施した。対象は、ヤマハのヨットを販売しているセールスの方々が中心だった。なにせ、販売は実力主義だ。しかも、一艘というのか一艇というのか、ヨットなんぞ子どもの時の絵本でしか見たことのないから分からない。とにかく、やたらと高いことだけは間違いない。数千万は序の口で億単位もあるんだろう。それを右から左へと売るんだから、すごい人たちなのだ。そんな豪傑たちを相手にリーダーシップ・トレーニングをするのだから、こっちも相当の心臓だったに違いない。会場は浜名湖畔のヤマハ・マリーナだった。夏であれば、それこそ豪華なヨットとそれを楽しむ華麗なる人々で賑わう場所である。トレーニングが行われたのは寒い季節だった。石油の残量を気にしながらストーブに手を当てた。何といっても、石油が来なくなるかもしれないという危機感にあふれていた。
 そんな時代の研究所員が石田梅男氏(中村学園大学教授)である。諸先輩の中でもとびっきり元気のいい方だった。われわれにはこの上なく優しくしていただいたが、「Noだと思ったら、とことんNoだ」と石原慎太郎にも負けない迫力があった。その道にかけては口八丁、手八丁の参加者たちを前に一歩も譲らなかった。気の弱いわたしなどは、「殿ーっ。いや石田さーん」と羽交い締めしそうになったことも…。英語が堪能な方であった。中之島にあった日立造船の宿舎でのことだ。同室で寝ていたが、隣のベッドから大きな声が聞こえた。うつろに目を開いたそのとき、さらに声が続いた。それは間違いなく英語だった。さすがに内容は確認できなかったが、英語だったことは確かである。もちろん隣に寝ていたのは石田さんだった。あれから、30年近い年月が流れた。石油ショックという風雪にも負けず頑張っていた研究所の懐かしい思い出である。
 ところで、これまで、高禎介副所長(現久留米信愛女学院大学教授)、関文恭研究員(現九州大学教授)、篠原弘章研究員(現熊本大学教授)にご登場いただいた。どなたも研究所の礎を築かれた功労者である。それにしてもシリーズは12回にもなるのに、今回でようやく4人目…。わたしの時計は、ゆっくりと進んでいるようだ。



 
35歳の集団力学研究所(13)(2002)
− Stop the 日本崩壊≠ニPsycho-nomics−
 


 わが国は真っ暗なトンネルの中で、出口も見つけられずに喘いでいる。誰かと誰かの会話が聞こえてくる…。「ほら、世界地図を見てごらん。ユーラシア大陸の東の端に大きな半島があるだろう。カムチャツカ半島というんだ。その下に、ヒョウタンのようにぶら下がっている島々があるのが分かるかい。この島からできた国はね、20世紀の後半までは、経済大国と呼ばれていたんだって…」。「へー、この島国がね…」。今のままでは、よその国に住む人々の間で、こうした会話が交わされる日は確実にやってくるだろう。もちろん、その「ひょうたん島」はわが国のことである。「ひょっこり、ひょうたん島」は楽しかったけれど、やはり、これではまずいではないか。
 この話を20代の若者たちの会合で話したら、「先生、カムチャツカ半島って…」。なんと、カムチャツカ半島を知らないのだ。ますます、将来への不安が高まって来てしまった。そこで、若者たちのために地図をOHPにすることを思いついた。来年からは国立大学も、独立行政法人化される。何と言っても、「お客様サービス」が第一なのである。そこで、世界地図を広げてみて驚いた。どう見ても、日本列島はカムチャツカ半島にぶら下がってはいないのである。むしろ、わが国をぶら下げているのは「樺太」なのだ。人間の思いこみは恐ろしい。しかし、文頭の部分を読まれたときに、「カムチャツカ半島って間違いじゃないの。それを言うなら樺太でしょう」。そう思われた方がどのくらいおられるだろうか。あの表現で通じた方が、けっこう多いのではないか。われわれは、そうした「事実認識」の上で話をし、それを聞いて納得もしているのである。それは、日常場面でよく見る現象だ。こんな事実を「ファジー」と呼んで、一時はすごいブームになったこともあったことを思い出す。このところ、あまり聞かなくなったが、その後、どうなっているのだろうか。
 ともあれ、いい加減といえばいい加減…。これで話が通じるところが人間のすばらしいところでもある。しかし、その一方で、そうした曖昧さがコミュニケーション・ミスを引き起こすことにもなる。そして、それが事故や災害に結びついていくのである。あー、人間はややこしい…。
 いずれにしても、この「カムチャツカ半島物語」というオリジナルなストーリー(?)を作って授業や講演で話をし始めた。昨年の春頃からだったと思う。「このままでは日本は崩壊してしまう」。みんなでしっかりしましょうというキャンペーンである。ところが、そのうち外側から気になる情報が入り始めた。
 まずは、アメリカからである。UCLAの日本研究者 Morse教授は言う。「客観的に見て、日本は世界貢献という視点から見れば、もはや重要な国ではない」と切り込んできた。それからがすごい。「もしも、日本がこのまま衰退を続けるか、あるいは消えてなくなったとしても(If the country keeps receding, or even disappeared)、世界にマイナスの影響があるなどとは考えられない」。なんと、disapeared≠ニいうんだから、半端じゃない。さすがに言い過ぎたと思ったか、ちゃんと解説付きである。「こんな指摘をするとショックを与えるかもしれない。しかし、それは、ほんの少し前までアメリカを飲み込むほどの勢いだったゴジラのような日本が記憶にあるからに過ぎない…」。これは、2002年8月1日付のNew York Times Weekly 版に掲載された記事である。
 そうこうするうちに、身近のアジアからも厳しい声が聞こえてくる。マレーシアのマハティール首相である。「いい若者が髪を金色に染め、遊びほうけているようだから、日本は何年も不況から脱出できない」。これが彼の評価である。マハティール首相といえば、「ルックイースト政策」でつとに知られている。マレーシアの復興と経済成長のためには、欧米から学ぶ必要はない。わがアジアに立派なモデルがあるではないか。それが日本であり、韓国である。「ルックイースト(東を見習おう)」である。その彼が、今の日本の状況を嘆いているのだ。「日本は欧米の文化を取り入れ、自分たちの文化をことごとく変えようとしている」と批判する。そして、「今でも日本に注目しているが、それは失敗を繰り返さないための『反面教師』としてだ」と手厳しい。「イヤリングをつけ、破れたジーンズを履くような文化に染まれば、君たちも駄目になる」と若者に警告したという(熊本日々新聞2002年10月11日)。
 もちろん、服装だけで全体を語ることはできない。確かに大学にも、様々な学生がいる。茶髪はもちろん、金髪に銀髪、紫髪もあれば、そのミックス版もある。さらには、ツルツルのスキンヘッドだってありの世界だ。さすがに、ここまでくると、髪を染めようにも染める髪がない。しかし、そうした学生たちも、就職試験などになると一変する。リクルートスーツに身を包んで、生まれてこの方、緑の黒髪を護り続けてきましたという風情なのである。わたしは、これを笑って見ているが、妙に若者に対して頼もしさを感じる。彼らも「やるべきときには、きちんとやる」のである。だから、若者に対して、マハティールさんと同じ見解でいるわけではない。
 いずれにしても、国際世間の風は冷たく厳しい。しかし、ここで嘆き悲しんではいられない。このごろ「第二の敗戦」といった言葉を聞く。
やれやれ、またぞろ日本人は「一億総懺悔」なんだろうか。どうも、われわれ日本人は情緒不安定の傾向がある。あのバブルのときは何と言ったか。「もはや海外から学ぶものはない…」。何という傲慢さか。アメリカ人を嗤ったこともあった。「彼らは金曜日になると仕事に手が着かないんだって。週末に遊ぶことばかり考えているからだ。月曜日もひどいそうだ。土日に遊びほうけて疲労困憊なのさ。なかにはドラッグやってる連中もいるらしい…」。こんな話も付け加えられる。「だから、金曜や月曜製のアメリカ車は買わない方がいい。ドアにコーラの瓶が入ってたこともあるって聞いたよ」。何という傲慢・不遜な態度であることか。
 それが一転して「第二の敗戦」とくるから参ってしまう。われわれは、そんなに自信を失うほど、過去に何の知恵も持っていなかったのだろうか。もちろん、そんなことはないのである。
 Mr. Goanは、現在の日本でもっとも有名な外国人の一人である。あの日産を立て直し、今やrevival Planは流行語にすらなっている。そのゴーン氏を報じた新聞に見出しの活字が踊る。「全員参加を演出」「随所にゴーン流運営」(熊本日々新聞1999年10月19日)。昨年は、彼が地方の営業所を回って激励する姿もテレビニュースで流された。あのゴーン氏と握手をした地方の営業スタッフたちは、4,5日は手を洗わなかったかもしれない。まさに感動のシーンだった。やはりゴーンさんは希有の天才的経営者なのだろう。とても素人がケチをつける余地はない。しかし、それでもちょっと待ってよと言いたくなる。だって、「全員参加」「全員参画」は、いつかどこかで聞いたじゃないか…。それは、1970年代の日本ではなかったか。そのころは、組織のトップが第一線の人々とコミュニケーションを図る姿も日常茶飯のことだったではないか。少なくとも、われわれが関わりを持つことができた多くの組織で、それは当たり前のことだったはずだ。たとえば、事故・災害防止の全員参画運動をすすめた三菱重工樺キ崎造船所がそうだった。船を造る現場にトップが出かけて声をかける。体育館のような大きな食堂で、みんなと一緒にジャンボうどんを食べる」。「暑い中で、ご苦労さん。事故に気をつけろや」「○○君、結婚したんだって。仲良くしとけよ。喧嘩したら仕事も危ないぞ」。こんな会話が交わされたに違いない。それが、ごく自然に行われていた。それが日本だったのである。外国から研修に来ていたスタッフに聞かれたことがある。「どうして会社のお偉いさんたちが現場に出ていくのか」。わたしにとっては、質問の意味が分からなくて、問いかけなおしたほどだ。「それって、当たり前じゃないの。どうしてそんなこと聞くの」。その答えは単純そのものだった。「いやー、われわれの国ではお偉いさんは現場の労働者と話を交わすなんてことはないのよ。顔を見るのも年に何回あるかどうかといったところさ。働く場所が違うんだから」。こんな時代の風土や規範はどこでどうなってしまったのか。集団を大切にし人間関係を重視する。これこそは農耕民族である、日本人のDNAに刻み込まれている基本情報であるはずだ。それが、いつどこでどうなったのか…。
 まあ、過去のことは終わったこと。これから先が問題ではある。しかし、とにかく「一億総懺悔」のキャンペーンだけは、そろそろおしましにできないものだろうか。もちろん、このままでまずいことだけは確かだろう。ただちに、Stop the 日本崩壊≠フ運動を始めなければならない。
 今まさに、時代がグループ・ダイナミックスを求めている。われわれはそう確信している。金と物≠フ似非神風が吹きすさぶバブルの時代も、われわれは人間的側面≠フ重要性を訴え続けてきた。そして、こうした暗澹とした時代にこそ、グループ・ダイナミックスが、さらに重要な役割を果たせるのである。もう既存の経済学はわが国を救うことができないのではないか。「国民は1,400兆円もの資産を持っているんだ」と叫んでも、財布の口は閉じたままではないか。消費者心理≠ェ問題だという。そうであれば、もはやEconomicsで対処できないのは当然だろう。今こそ、人のこころ≠組み込んだPsycho-nomics≠立ち上げることが求められている。