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  30歳の集団力学研究所(10)(1997)
        − オーストラリア思い出の記 −
  

 とうとう研究所は満30を迎えた。もう若いとはいえない立派な大人である。昔の人にくらべると青年期が延びたとはいう。熊本にもゆかりのある夏目漱石が亡くなったのは50歳だったと思う。「坊ちゃん」や「猫」を書いたときではなく、「亡くなった」ときである。本気で比較するつもりはないが、あまり時間が経たないうちにその年齢に達しそうなわたしは思う。「いやいや寿命が延びただけ若返っているんだ。自分は漱石でいうと、まだ30そこそこよ」と。だから研究所もまだまだということなのかもしれない。ところで漱石といえば、松山や熊本はそのゆかりの地としてつとに知られている。しかし、どうも彼はどちらの地もそれほどの好きだったとは思えない節がある。とくに松山などは、「坊ちゃん」に見られるようにほとんど馬鹿にすらされている。その程度は違いそうだが、熊本だって根っから相性のいいところではなかったようだ。これは、「怪談(kwaidan中学生のころ”くわいだん”と呼んで面白がったことがなつかしい)」で有名な小泉八雲の場合も同じで、熊本をそれほど愛していなかったと聞く。しかし、松山も熊本も漱石をやたら表に出したがる。昨年は漱石来熊(これは”らいゆう”と読むそうです。”らいくま”ではありません)100年とかで、市でキャンペーンをするなど大いに売り出している。最初にその地を踏んだという上熊本駅には銅像まで建てられた。わたしなどにいわせれば、「熊本が嫌いだなんていう奴は、さっさとどこでも行ってしまえ」とつい思ったりするのだが、どうなんだろう。熊本に移り住んで18年、いまや博多の「どんたく」を単なるしゃもじの行列といい、「山笠」を朝っぱらからご苦労に、重いもの運んでるだけじゃねーかとののしる一方で、熊本の「おてもやん総踊り」のサンバを楽しみ、「藤崎宮の例大祭」を「リオのカーニバルに負けないほどのリズム感、鳥肌がたつー」と叫ぶわたしである。盆地特有の強烈な夏の暑さ、冬の寒さも、「死ぬわけじゃない」と受け入れたわたし。そんな熊本ファンのわたしからいうと、いくら有名だからといって、「好いてもくれなかった」人間と100年立っても縁が切れないのはどういう心理なのだろうかと、つい思うのである。
 さて、いつものように前書きが長くなった。前回はオーストラリアのパースに滞在中で、「オーストラリア滞在記」と銘打って9回目の原稿を書いた。文末には(9月6日パースにて)と記して終わりにした。この(パースにて)が書きたかったこと、書きたかったこと。「外国から原稿を送るなんてかっこいい!」。ただそれだけのことではあったが、とにかく、そうしたかったのである。そして、その1ヶ月後には、日本に帰ってきた。したがってオーストラリアのことを書くにしても、もう(わが家にて)としか書きようがない。そして、タイトルも「オーストラリア思い出の記」となるわけである。
 さて、パースでの滞在180日、おかげでわたしは風邪一つひかずに、健康で過ごすことができた。この間家内は2回に分けてオーストラリアへやってきた。彼女にとっては初めての海外旅行であった。それがたった一人でシンガポール乗り換えの便でパースまで来たのである。近所の奥さんたちからは、「あなた、すごいね」と驚かれたらしい。わたしは「ヒッチハイクじゃあるまいし、ただ飛行機に乗ってりやいいんだから」などと思っていたが、日本語が通じないところに入国手続きなどもしなければならない。乗り換えだって熊本のバスと同じというわけにはいかない。そんなことを考えると、「うちの嫁さんも結構すごい」とも思うようになった。もっとも、なぜか、それは帰国してからしばらくしてのことだった。
 そのすごい嫁さんではあるが、何と日本に帰るという2日前に急に腹痛を訴えた。6月のことである。しかも時間が悪い。夜中の2時頃だった。国内にいてさえ、こんな時間に病院に行くというのは気がひける。ましてここはオーストラリアである。せめて朝までなんとかならないかと思ったが、どうもかなり調子が悪い。もうこれまでとばかり、傷害保険の会社に電話した。シドニーの番号を回すと、夜中だったせいか日本に転送された。この相手が実に手際のいい人で、パースの救急病院を紹介してくれた。幸い借りていたレンタカーで病院へ出かけることにした。3時を回ったころだったと思う。15分ほど深夜のパース市内を走り、病院に着いた。健康のためと称して万歩計着けて街中を歩いていたおかげで、病院の場所は、保険会社から聞いたときからわかっていた。救急の入り口から入り、毛布をかぶっても寒そうにしている家内を椅子に座らせ、窓口に行った。そこには顔も派手なら、まとっているカーデガンも興奮するほど真っ赤な看護婦さんがいた。
 「急にお腹が痛くなって連れてきました」。わたしは間違いなくそう言ったはずだ。その瞬間である。耳を疑うような反応が、派手な看護婦さんの口から返ってきたのである。ちらりと家内の方を見た彼女曰く。「あなた、あの人の”ともだち?”」。何ということだろう。真夜中に男と女が病院にやってきているというのに、それを「ともだち?」だなんて!!今度はわたしの方が目眩を覚えて、あやうく「わたしも診察してよ」と言いそうになってしまった。よっぽど、どうしてそう思うのかと聞きただしたかったが、なにぶんにも家内は苦しんでいる。「わたしは旦那よ」とだけいって、それ以上この派手な看護婦さんにアプローチするのはやめにした。しかし、この夜のことは、その派手な顔と共にずーっと気がかりなこととして、こころの片隅に残ることになった。しかし、オーストラリアに滞在中にその疑問はみごとに解決したのである。
 それは一度帰国した家内が今度は娘とやってきたときのことである。家族も来ているということを知った学部長が、われわれを食事に誘ってくれた。「照り焼きチキン」と「寿司」がうまいという日本料理の店であった。久しぶりに日本食を楽しんでいたが、1時間ほどして学部長の奥さんの様子がおかしくなった。わたしの見るところではワインの飲み過ぎじゃないかとは思ったが、まあ、とにかく顔色が悪い。それからのことである。先生はホストとしてわれわれと話はしているが、その間も奥さんの背中はさするはほっぺたにキスはするは、とにかく忙しい。お尻までついでにさすったかどうかまでは確認しなかったが、とにかくほとんど抱き抱えんばかりにべったりなのである。「あーこれなんだ」。家内とわたしは思わず目を見合わせた。「なるほど、そうか」。同席していた娘にはわれわれのこの納得した顔の理由はわからなかったに違いない。しかし、ここにこそあの派手な看護婦さんの「ともだち」発言が生まれた秘密があったのだ。病気の妻を椅子に放ったまま、「調子が悪くて連れてきたんですけど」なんて冷たい振る舞いしかしないのは旦那であるはずがないのである。わたしは、毛布で包んだ家内を抱きかかえ、ほっぺたにはキスをしながら、自分も崩れるようにしてあの派手な看護婦さんの前にたどり着かなければならなかったのである。それでこそ初めて二人はめでたく「夫婦」だと認知されたに違いない。実に文化の違いをまざまざと感じた経験であった。外国に行けばこんな例は枚挙にいとまがない。そういえば、西オーストラリア大学の学生たちは、アメリカなどと同じように開放的だった。女子学生の半数とまでは行かないだろうが、まあ、「へそだしルック」が実に多い。まあ、同じへそといってもいろいろあるものだと、感心もした。日本で「へそだしルック」が市民権を得ているのは原宿くらいなものではないだろうか。また、昼時など広い芝の上では多くのカップルが会話を楽しんでいる。会話に飽きたのかどうかはしらないが、もろに抱き合ってキスをしている連中もやたらといる。それらがほとんど自然の一部になって溶け込んでいる感じなのである。大学の側にはスワン川という川があり、パンやお菓子を目当てに鴎がやってくる。その鴎たちですら、抱き合っているカップルに目もくれないのである。あまりにも日常的で関心もないに違いない。そうした光景の中で目を輝かせているのは日本人くらいなものだろう。「そうじゃなくて、あんただけだったのじゃない?」と聞かれたらどう答えようか。そうだったかもしれない。しかし、いずれにしても「ところ変われば品変わる」である。だから、われわれはそうした行動や態度を見ても、「文化が違うから」といって十分に納得してしまう。相手の行動としては、それを認めるのである。
 しかし、しかしである。「文化の違い」は国と国の間だけにあるのだろうか。同じ日本人であっても、われわれ一人一人「違った文化」を背負っているのではないか。そして、文化が違えばそれぞれの行動や態度が違うのもまた当然のことである。しかしながら、同じ日本人同士となるとそうした寛大な気持ちは、あっという間に失せてしまう。自分の基準にあわない行動をする人間がいると、「あいつはおかしい」「とんでもない変人だ」などと言って決め込んでしまう。いじめや差別はそうした視点から生まれる。文化を「背負(しょって)る」とはいうが、文化は本当に背中に背負っているものと違って目には見えない。だから、もともと文化に違いがあると言っても、それをお互いに目で見て確かめることはできないの。見えるのは行動や態度だけである。われわれはそうした表面に現れたものだけを見て人を評価することに馴れすぎてしまったのではないだろうか。(午前5時47分わが家にて 注:「あなたの原稿が出来ないとニュースレターが作れないのよ」と、どこかからいつもの圧力がかかってきた。もう何回も…。このところ忙しくなかなか時間がとれない。しかし、その催促の声はついに夢にまで出てきて目が覚めた。4時前だ。目が冴えてもう眠れないと観念し、そのままワープロに向かった。小さなアパートのこと、隣の部屋で寝ている娘から、「夜中にキーをたたくから、うるさくて眠れなかった」と叱られるかも…)