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  29歳の集団力学研究所(9)(1996)
         − オーストラリア滞在記 −
  

 研究所も29歳になった。来年は30代の大台に突入する。20歳になったときには成人式がある。われわれは大人の仲間入りをしたことに、ある種の不安と気恥ずかしさを感じながらも、将来に大きな夢を描いたものだ。これが30代になると、「もう30歳なのか。あと10年経つと40歳なんだな」などと、当たり前のことを考えながら、「もっとしっかりしなくては」と自分を奮い立たせる。20代にいい仕事をしなかったことに対する後悔も交えながら…。もっともこれは私のことである。その時々に全力を尽くしてきた人であれば、30歳になろうと40歳になろうと何の後悔もためらいもないにちがいない。その点では、集団力学研究所は10代でも20代でも、とにかくその力の限りを出して走ってきた。したがって、30代になるからといって、とくに特別の感情を持つこともないのかもしれない。しかしそれにしても、30年というのは大きな区切りである。それだけでも、「研究所はすごいなー」と改めて感動するのである。
あらためて
 さて、あれやこれやと思い出話を中心にすすめてきたこのシリーズであるが、前々回から「研究所を支えた侍たち」をテーマに、研究所の歴史を飾った諸先輩方を紹介してきた。研究所の侍の数は多く、このテーマはさらに続くことになっている。しかし、ちょっとした事情から、今回は閑話休題、私の個人的な体験報告にさせていただくことにした。その事情というのは、96年の4月から9月までの6ヶ月にわたって、私がオーストラリアで生活することになったことを指している。今では外国の話などめずらしくもないが、それでも半年も住んでみると、それなりにおもしろいことを体験する。現在オーストラリアは9月を迎えている。もちろんオーストラリアでなくても9月であるが、私の滞在も残り少なくなってきた。この原稿がニュースレターになる頃には、私は日本に帰っているはずである。そこで、滞在の締めくくりの一つとして、今回はオーストラリア事情についてお話ししたくなったのである。
 まず私の海外体験の話からはじめよう。日本人のどのくらいが海外に行っているのかは知らないが、海外旅行については私はかなりの晩生である。生まれて初めてパスポートをとったのが93年のことだ。三隅先生を団長とした中国への研究視察団に加えてもらったときのことである。その際は中国科学院をはじめ、いくつかの組織を訪ねながら、主としてわれわれが情報を提供した。この体験は大変に印象深く、海外に出かけることに強い魅力を感じた。そして私は「これからは、年に1度は海外に出かけよう」と勝手に決めたのである。私はどうも粘着質で、いいことも悪いことも、とにかくやりだす止まらない、決めるとそれを実行してしまうところがある。その思いが通じたのか、翌94年にはアメリカに行くチャンスが巡ってきた。それは三隅先生が、アメリカ心理学会のSPSSI (The Society for the Psychological Study of Social Issues )から「レビン賞」を授与されることになり、その大会がロサンゼルスで開かれたからである。このときの様子については、本シリーズの6回目に紹介している。これで、2年連続して海外に出かけたことになった。そして、その年の10月のことである。三隅先生が音頭をとってリーダーシップ・トレーニングに関するセミナーが企画された。それに参加した際に、西オーストラリア大学のRobert Wood教授とディスカッションをする機会を得たのである。Wood教授は引き続いて開催された研究所の国際シンポジウムや日本グループ・ダイナミックスでもSelf-Efficacyを中心にした講演を行った。こうした中で、われわれは、さらにリーダーシップ・トレーニングについての情報交換をすすめることになった。そして、それから1ヶ月ほど経ってからのことであった。Wood教授から「UWA(University of Western Australia)に、Visiting Research Fellowとして6ヶ月ほど来ないか」という誘いの手紙を受け取ったのである。願ってもないチャンスだと考え、基本的にはその誘いに乗ることにした。ただし、こちらでの仕事の予定もあり、95年6月からという話に対して、96年の4月からにしたいという希望を伝えた。そしてその後はこちらの希望通りにすすんでいったのである。したがって96年は間違いなく海外へ行くことが決定した。しかし、それでは95年はどうなるのか。何せ1年に一度は海外へと決めたのである。こうなれば研究とは直接関係なくとも、とにかくどこかへ行かなければと考えはじめた。ところが、日頃の行いがいいのだろうか、96年の1月にシドニーでPM理論に基づくリーダーシップ・トレーニングに関する研究会が開催されることになった。そして、幸い私もそれに参加する機会を得ることができたのである。しかし、それは96年のである。95年の海外行きはどうなったのか。いや心配はいらない、私は間違いなく95年にも海外に出かけたのである。それは、この研究会に参加するために成田を発ったのが年も押し詰まった95年12月31日だったからである。こうして、私は94年以来の「毎年1度は海外へ」の決意を実現しつづけているというわけである。
 さて、前置きの長いのはいつものこと、ようやく本題のオーストラリアへ出かけるところまでたどり着いた。
 私が日本を出たのは4月1日のことである。行き先はオーストラリアの西海岸にあるパースだ。オーストラリアは恐ろしく広い国である。西風に乗って飛んでも、パースから東のシドニーまで4時間もかかる。熊本から行くことも考えると、シンガポール経由を選ぶことにした。正午すぎに福岡を発って、次の日の午前1時にパースへ着いた。深夜というマイナスはあったが、ほぼ12時間で着くというスケジュールは、熊本からパースへ行くコースとしては一番早いようだ。真夜中の空港から街中のホテルへ向かった。優に20Kmはあると思われる距離だったが、料金はなんと23ドルほどで、その安さにまずは感動した。深夜にもかかわらず日本円で2,000円程度というのだからとても信じられなかった。しかもタクシーそのものは日本と同じように新しく、安かろう悪かろうではないのである。そのうえ、ここではメーターが10セント刻みで上がっていく。日本でいえば10円足らずである。日本だと「ここでいいです」というのを1秒でも間違うと90円も上がってしまう。客も運転手も一瞬気まずい雰囲気の中で支払いがすすむ。それを考えると、こちらの方が健康的だ。もっとも、メーターそのものは小刻みにどんどん上がっていくので、タクシーに乗ったら必ずメーターとにらめっこしていないと気が済まない方には、かえって精神衛生上よくないかもしれない。後日シドニーにも出かけることになったが、なんとここではもっと刻みが小さく、5セント単位であった。さて、とにもかくにも無事に目的のPrincess Hotel到着した。外から見ると、いかにもイギリス連邦にあるといった風格のあるホテルである。そんなことを考えながら部屋に入った瞬間である。バスタブのないバスルームが目に飛び込んできた。まさにプールのシャワー室である。なにせUniversity of Western Australiaご推薦のホテルである。バスタブは金がかかるから備えていないなどという、そんなケチなホテルではないはずである。「さっそく来たな…」。これから出会うであろうさまざまなカルチャーショックの始まりを感じた私は、思わずそうつぶやいていた。もっとも、この形式のホテルは生まれてはじめてではなかった。もう10年ほど前になるが、京都で泊まった「関西セミナーハウス」でも、部屋にはシャワーしかなかった。しかしそこは日本の施設らしく、別に大きな風呂があり、日本人である私はどうしてもそこまで出かけて行ったものである…。「やれやれ」と思いながらシャワーを浴びた。その途端に、これから借りることになっている家のことが心配になってきた。「まさか借家までこれじゃないだろうな…」。翌日になって家に案内されたとき、まずはバスタブがあるかどうかを確認したのはいうまでもない。そして、ありがたいことにバスタブはちゃんとあったのである。しかし、しかしである。その私が今どうしているか。滞在5ヶ月を過ぎた現在、私は毎日シャワーをかかるだけでバスタブにお湯を貯めてゆったりとつかるといったことはしていない。もちろん最初はお湯を貯めていた。しかし、こちらのタブは長いけれど底は深くない。したがって貯めたお湯の中に寝そべるようにしてつかることになる。それでも、とにかく湯の中で温まるという価値観を最優先する私はなんとしてでもこのポリシーを貫くつもりでいた。ところが、これにはもう一つ大きな問題があった。こちらではシャワーが基本だから、お湯を沸かすための貯水タンクがさほど大きくなく、バスタブの水がいい線まで行くか行かないところで、水になってしまうのである。その微妙なところをぎりぎりのところで調整し、うまく温かいお湯につかることに成功するたびに、奇妙な喜びすら感じていた。しかし、季節は秋から冬に向かいつつあった。海外生活で最も気をつけなければならないのは病気である。ここで風邪でも引いたら大変だ。折からオーストラリアではインフルエンザが流行していた。とくに、今年の流行は聞いたこともない「南アフリカ○○型」のウイルスなんだそうな。さすが南半球だけあって、「A香港型」だの「ソ連型」などはないのである。それならなおさらのこと、私には免疫もないわけだから細心の注意が必要だ。こうしたことから、徐々にバスタブにつかる習慣から、シャワーに十分かかって体を温める行動に変化していったのである。しかし、慣れてみるとシャワーもなかなかいいものだ。打たせ湯のような効果もあるらしく、体はけっこう温まる。「烏の水浴びみたい」だと馬鹿にするには当たらない。日本人は清潔好きだから風呂も好きだという論法もある。シャワーなんかでは体がきれいになるものかとつい思ってもしまう。しかしこれは、単にその視点が違うだけに過ぎない。要するに、すべては文化や風土、考え方の違いによっているのであり、一方的な価値判断はしないように気をつけた方がいい。まず第一に、彼らのシャワーは日本の「水浴び」ではない。第一、お湯の出方が違う。それはそれは貯めればバスタブの1/3にはなるかというくらいの勢いでお湯を流すのである。決して「ちょろちょろ」ではないのである。日本のわが家のシャワーなんぞは、その勢いも弱く、まるで子どものお遊びのようなものだ。あれだと十分に温まらないし、また体もよく洗えない。そこでシャワでーはあまりきれいにならないだろうと考えてしまうのである。それに、こちらの人々から見れば、日本人は浴槽に貯めた同じ湯に、何人もが入れ替わり立ち替わり入るのである。それこそ、「そんな風呂の一体どこが清潔なんだ」と彼らは叫ぶに違いない。もちろん私は日本人である。もうすぐ帰るわが家では、またゆっくり湯船につかる楽しみを心から味わうつもりである。決してシャワーの方が優れていると主張するつもりは微塵もない。ただ、人間にまつわる多くのことは、一刀両断に正しいとか間違っているといった判断をしない方がいいということを感じるのである。
 とにもかくにも、こうして私のオーストラリアでの生活がはじまった。しかし、すでに予定の紙数を大幅に超えている。これまではすべて4ページで納めてきたのだが、今回は6ページにもなってしまった。もうそろそろ、「あんたの個人的な体験記で大事な紙を無駄使いするな」という声も聞こえてきそうだ。いやそれよりも、いい加減に飽きてこの文章そのものを読んでもらっているのかどうかもあやしいものだ。したがって、今回はここでおしまいにしよう。それにしても、「オーストラリア滞在記」という副題はどうも問題ありだ。なにせ私はまだ深夜のパースのホテルにいるのである。むしろ「オーストラリア到着記」の方がいいのかもしれない。しかし、「到着記」というのも今一つパッとしない。ここはこのままにしておいて、もう少し続きを書くことにしたい。もちろん、それはもう帰国してからのことになる。(9月6日パースにて)